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出版業界でメシを食う方法(その五)昭和30年代から40年代にかけて実用書の出版社が次々と出来ました。その多くが理工学書専門出版社で編集を経験した創業者によるものです。理工学書の図表などビジュアルに紙面を構成する編集技術が実用書に活かされたのです。私が働いていた会社の先輩が創業した実用書出版社も数多くありました。行政改革前夜特に土木は親方日の丸です。官庁の発注工事がほとんどです。それまではお役所回りをして、工事誌などを請け負うだけでいい稼ぎでした。詳しくは書けませんが、官庁の推薦文一枚で売上げは十倍にもなります。あるとき国鉄の内部資料を本にしたことがあります。工事指針解説です。本が出来上がる寸前になって著者を誰にするかという話題になりました。「○○総裁の息子さんがいいんじゃない。そろそろ著作ぐらいもたせないと」それまで私は、著者ってのは書いた人と思っていました。「売れるよー。業者は争って買うよ。登録業者には俺がすべて連絡しとくよ」確かに売れました。信じられないぐらい。注文のない業者には「おたく、もううちの仕事は止めるの?」と電話が入ります。ちょうど引越しの最中なので段ボール箱5個分なんて注文までありました。本の注文を冊数でなくてダンボール箱の数で受けたのはこのときぐらいです。調子のいい私は、ちょっとやり過ぎだとは思いながらも流れに乗っていました。行政改革の波そのような土木や建築の工学書や資格試験の受験参考書を作っていた頃です。土光さんという経団連の会長が中心となって行政改革が進められました。国鉄の民営化をはじめ、さまざまなうねりが出版社にも影響を及ぼしました。仕事は半減なんてものではありません。壊滅状態です。年商は大幅ダウンです。私は他人事で「当り前だよ。今までがおかしかったんだ」とうそぶいていました。でもそればかりも言っておれません。次の仕事を探さないと。そこで実用書です。今までの編集技術の応用です。さまざま提案しました。どうせなら楽しいもののほうがいいだろうと趣味の本に走りました。自分の欲しい本の企画書を書くのですから、こんなに楽なことはありません。私の課は、資格試験の受験参考書と趣味の本の編集部になってしまいました。釣りをやってみたいなと思えば釣りの本です。やりたい放題です。企画調査名目で遊び歩きました。常務を巻き込んで温泉巡りもしました。印税が払えないそこそこの著者を見つけるものですから、売上げも伸びてきました。ところが印税支払いが追いつかないのです。どんどん貯まり始めました。官庁や大学の先生たちは印税が遅れてもまずクレームを付けてきません。本を出すことで学者としての箔がついたり出世できるのです。「いやー、出してもらったことだけで十分だよ」と言ってくれます。ところが趣味の本は、著作を唯一の収入源にしている人も少なくありません。電話が架かってきます。「どうなってんの? 払って下さいよ」経理に言ってくれ、会社に言ってくれと言っても当然納得しません。「ボクはキミから頼まれたから書いたんだよ」と言われてしまいます。そのような著者と会社の板ばさみ状態が続いていたときのことです。志賀高原にスキーに行きました。ご招待を受けたのです。私が始めた出版スキー祭典の10周年記念のイベントでした。毎月「第一回」をやろうよ話がまた10年前に遡ります。出版の青年組織の議長をやっていた時です。労働組合の暗い雰囲気に反発していました。「楽しいことやろうよ。そのための組織だろ」これが私の口ぐせでした。「歴史は今から始まるんだよ」なんて調子に乗って言っていました。「第一回スケート祭典」「第一回歌声祭典」「第一回キャンプ祭典」……。「第一回」と銘打って次々とイベントを仕掛けました。「ゴルフ祭典」も企画したのですが、「お前、何考えてんだ」でポシャンです。「スキー祭典」も「けが人が出たらどうする」など中執会議で激論でした。「死人が出たら、あんた責任が取れるか」とまで言われました。確かにその頃は、まだスキーはブルジュアの遊びと見られていたのです。労働組合とは関係のないものと思われていたのです。押し切りました。それもスキー場を貸し切ってしまったのです。将来の独立のきっかけになるなんて思ってもいなかった竜王小丸山スキー場。小さなスキー場です。丸ごと借りてしまったのです。夜行バスを何台も仕立てて乗り込みました。こんなイベントは前代未聞です。町長さんまで挨拶に見えられました。リフトだって貸切です。初心者が多かったのでスキー教室は満員です。当時はナイター設備はありません。それでも夜もリフトを動かしました。リフト乗り場にたいまつをワンサカ用意しました。そこそこ滑れる人はたいまつを持って滑走です。滑れない人はふもとのロッジからお酒を呑みながらの見学です。ご近所の農家で杵と臼を借りてきて、餅つき大会もやりました。あとで、スキー場が監督官庁から厳重注意を受けたと聞きました。夜中にリフトを動かしたことがばれてしまったのです。このようなイベント(事件かな)をやった十年後のことです。ちょっと長くなって来たので残りは明日にしますね。
Jan 12, 2005
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出版業界でメシを食う方法(その二十二)昨日の続きで、過去に書いた文章の抜粋を掲載します。これもまた読んで欲しいような読んでもらいたくないようなことなので、小さな文字でこっそりと掲載です。保険の契約書でも旅行や賃貸契約書でも、あまりじっくり読んでもらいたくない事項は小さな文字で印刷されているでしょう? あれと同じです。さらっと読んで忘れてください。倒産、そしてラストチャンス私にとっては、自分の出版社の二度の不渡りによる銀行取引き停止が、ある意味で、自分を取り戻すチャンスとなった。不渡りの原因は取引き先の倒産による連鎖であり、債権者の方たちからは私が不渡りを出して迷惑をかけたにもかかわらず同情の言葉さえもらった。しかし私は、自社の倒産の原因を、取引き先の倒産による連鎖倒産だなどと思ってはいない。事実そうではなかった。またそのように自分を誤魔化してしまえば、債権者の人たちに対しても無責任であり、自分に対しても甘過ぎる。本当の倒産の原因は、無謀にも事業拡大に突っ走り、日本型ともいえる借入れ金依存型経営に陥ったことにある。その必然の結果として、借入れ金も膨らみ、資金繰りに追われる日々を迎え、当然のごとく信用不安のある取引き先にも販路を広げて、これまた当然のように回収不能に陥ったに過ぎない。もう一つ恥を忍んで告白すると、その後一年ほどで、私の経営していたもう一つの会社も倒産させてしまった。一刻も早く本体である出版社を立て直したいと焦ったのが原因である。事業継続のための糧として商品仕入れに子会社を使い、この程度ならいいだろうと甘さを残したまま事業を続けた結果である。商品仕入れのための買掛け金も、借金と何ら変わりがない。周りの債権者が同情的だったことに甘えた結果が、再び倒産を招く原因となった。当時の関係者の叱責を覚悟の上で告白すると、金持ちは金を貸さない。安定した企業ほど不安定な企業と付き合わないのだ。『類は類を呼ぶ』のたとえどおり、青息吐息で事業再建に努力していた私に、再び仕事で協力してくれた企業は、小さなところが多かった。力がないのに無理をして協力してくれるものだから、その会社の資金繰りも悪化する。せめて手形でもあれば助かるのだがと泣き付かれれば、その原因が自分だけに断れなくなる。焦るものだから、仕事のほうも失敗続きだった。弱り目に祟り目で、ジタバタと喘いでいると、うろんな人物も寄ってくる。この時期の失敗談だけで本一冊にもなりそうだ。親切すぎるサギ師たち焦りは禁物と言うけれど、私が経営する出版社の倒産からもう一つの子会社の倒産までのほぼ一年間の失敗を思い出すと、自分でも「なんであの時?」と思うようなことを次々としでかしている。精神的にも完全に不安定になっていたのだろう。予想もしていなかった差押えが入って、入金がすべてストップするなどのアクシデントもあったのだが、それ以上に失敗が相次いだ。「大変ですね。でも社長なら立ち直れるよ。及ばずながら協力させて頂きますよ」と、近寄ってきた人たちがいる。「社長は企画力と営業力があるんだから、商品は私が引っ張ってきますよ」。前述のA理工の紹介が多かった。A理工の元社長から、「迷惑をかけた穴埋めに」とビデオ業者を次々と紹介された。あまり売れそうもない商品だ、とは思うもののほかに売る商品を仕入れる力もない。徐々に彼らからの仕入れ商品が増えてきた。そのうちに、「こんどの商品は売れセンだよ。でも手形でも切ってもらわないと仕入れがきつい」と言い始めた。「不渡りを出したのだから、そんなの無いよ」と言っても、「本体の会社は無理でも、俺の方で子会社の当座が開設できるようにしてあげるよ。すぐ手形帳も出させるから」と手際が良い。倒産した会社の関連会社が、それも代表者が同じで、一年も経っていないのに、そんなこと出来るのかと思っているうちに、H信用金庫から電話がかかってきた。「ご用意してありますので、必要書類を持って来てください」。キツネにつままれたような気分だが、商品仕入れのためにはやむを得ないだろうと当座を開設した。最初に引っかかったのは、P社というところだった。私の事務所へ来る時は、いかにも高そうな紀ノ国屋の包装紙に包まれた大粒のイチゴを持って現われた。「いやあ、皆さんご苦労様です。頑張りましょうね」。ニコニコしながらみんなに挨拶していたのだが、何度かの取引きの後、仕入れ代金の内金として渡した百九十万円の手形を持ったまま消えてしまった。自宅を突き止め、東大和というところまで尋ねて行ったのだが、奥さんが、むずかる赤ん坊を抱いて現われた。「またうちの人が何かやったのでしょうか。毎日、街金の人が尋ねて来るものだから、あの人、家に寄りつかないんです。一日に一度は電話はかかってくるのですが」赤ん坊の泣き声を背に、立ち去るしかなかった。奥さんには「いえ、近くへ来たものですから、居るかなと思って立ち寄っただけです」としか言いようがなかった。次に引っかかった件は、本当に腹立たしかった。売上げ伝票を見ていて気がついたのだが、スキー関係の二点のビデオの返品が異常に多い。出版流通ルートでは委託販売が基本なので返品は避けられないのだが、それにしても余りにも多すぎる。返品率が六百パーセントにもなっている。いくら何でもそんな馬鹿げたことが起こるわけがない。五百本ほどしか出荷していないのに三千本近い返品が返ってきたのだ。倉庫へ出向いて商品をチェックすると、ビデオジャケットの色がわずかに違う。海賊版だった。手立てをつくして販売していたところを付き止めた。全国でも一、二を争う大手のコンビニエンスストアで売られていたのだ。コンビニエンスストアの本部へ出向き、抗議と事情徴収をおこなったのだが、「うちは雑貨の卸問屋から仕入れたので一切責任がない。契約書もこのように整っている」次に卸問屋へ訪ねて行くと、コンビニエンスストアと同じような答えが返ってきた。しかし、そこで見せられた契約書の署名を見てショックを受けた。なんと私の会社の倒産の原因となった、前述のA理工の元社長の名前がそこにあったのだ。本人に連絡すると、「アレ、ばれた? ゴメン、金が無くってサア。でも儲かったら、社長のところへ版権使用料をもっていこうと思ってたんだ」。あっけらかんとしたものだ。返品の分はほかの売上げと相殺されるので、結局一千万円近い損害を被ってしまった。「損害の分だけでも穴埋めしてくれ」と言い続けたが、いまだにそのままになっている。ほかにも金額はそれほど大きくはないのだが、情けなくなるほど引っかかった。そのような『サギ師たち』に共通していることだが、最初はダマす気はない。あるいは、自分は相手のために良かれと思って仕事を紹介しているのだと、まず自分に言い聞かせてから話を振ってくる。誰しも「ダマそう」として寄ってくる人間には、態度にそれとはなしに表れるので、警戒心が働く。生まれつきのサギ師、天才的なサギ師は、自分をダマしてから近寄ってくる。その上で、最後になってからドンデン返しとなる。「ゴメン。仕方なかったんだ」という言い訳を何度聞かされたことか。「ダマすなら、アブク銭を持っている相手から取れよ」と言いたくもなるが、ハゲタカと同じで、弱っている人間の匂いを嗅ぎ付けて寄ってくる。ダマし盗られた分を取り返そうとすると、また引っかかる。焦って、心に隙間を作ることほど危険なことはない。今では、取り返すことを考えるより、彼らには近づかないようにしている。わざわざエサを、キツネの口の近くまで持っていくこともないだろう。
Jan 30, 2005
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