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1988年3月27日にアメリカのWWEがニュージャージー州トランプ・プラザで開催した年間最大の興行が「レッスルマニア4」である。本大会は空位となっていたWWE世界ヘビー級王座の決定トーナメントが行われた。王者ハルク・ホーガンを倒したアンドレ・ザ・ジャイアントは直後にテッド・デビアスにベルトを売却し翌週にデビアスは王座を剥奪された。この経緯からWWE世界王座は空位となった。トーナメント1回戦はテッド・デビアスvsジム・ドゥガンドン・ムラコvsディノ・ブラボーグレッグ・バレンタインvsリッキー・スティムボートランディ・サベージvsブッチ・リードワンマン・ギャングvsバンバン・ビガロジェイク・ロバーツvsリック・ルード2回戦にコマを進めたのはデビアス、ムラコ、バレンタイン、サベージ、ギャングでロバーツとルードは引き分けで脱落。続くトーナメント2回戦は特別シードのハルク・ホーガンvsアンドレ・ザ・ジャイアントで前回の「レッスルマニア3」で因縁のある二人はここでも壮絶なバトルを繰り広げ試合は両者リングアウトの引き分けで決勝に進めず。テッド・デビアスvsドン・ムラコランディ・サベージvsグレッグ・バレンタインではデビアス、サベージが準決勝へ進出し準決勝ではランディ・サベージvsワンマン・ギャングデビアスは特別シードの二人が脱落した為決勝へ自動的に進出している。サベージはギャングを下したがスタミナ切れでダウン寸前だった。決勝戦はランディ・サベージvsテッド・デビアスでサベージの体力の限界にホーガンが救助に来た。最後はサベージが必殺のジャンピングエルボーで空位となっていたWWE世界ヘビー級王座を獲得した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【発送までにお時間がかかる場合がございます】▲【ゆうメール2個まで200円】FC ファミコンソフト ホット・ビィ WWFレッスルマニアチャレンジアクションゲーム ファミリーコンピュータカセット 動作確認済み 本体のみ【中古】【箱説なし】【代引き不可】【RCP】05P19Dec15
2016.01.21
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プロレスリング・ノアが満を持して独自の王座を作った。グローバル・オナード・クラウン2001年に創設されたフラッグシップタイトルでタイトル管理委員長にはジョー樋口が就任。2001年4月に初代王者決定トーナメントを開催。方舟の象徴となるGHCヘビー級ベルトはその名の通り地球を中心に王冠、荒波、一角獣があしらわれ、このベルトを巻く者がその名に相応しくある為に誇り高い王者であるとの思いが込められている。参加選手は三沢光晴、田上明、ベイダー、秋山準、高山善廣、大森隆男、小川良成、斉藤彰俊、スコーピオ、井上雅央、本田多聞、泉田純、志賀賢太郎、力皇猛、池田大輔、森嶋猛の計16選手。このタイトル争奪戦に全日本プロレス中継を終了させた日本テレビが専属でテレビ中継を行うというノアにとって完全バックアップ体制に繋がった。これは日本テレビが新番組を編成する4月改編期に合わせてノアが王座決定戦を計画し日本テレビも全日本からノアへ中継をスライドする形をうまく取る時期を見たという見解が正しい。そして2001年4月15日 有明コロシアムで初代GHCヘビー級王座決定トーナメント決勝戦時間無制限1本勝負で試合の決着はフォール、ギブアップ、KO、TKO、レフェリーストップ、リングアウト、試合放棄、反則で決まる。いずれの場合も挑戦者が勝利した場合は王座が移動し引き分けは時間切れのみ。両者リングアウト、両者KO、両者反則、無効試合で終了した場合は即日再試合を行う。決勝のリングに立ったのは三沢光晴と高山善廣両者の戦いは流血戦にまでおよび最後はエメラルド・フロウジョンで高山を沈め三沢が初代王者となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村リクエストマッチ ノア頂上対決 特集 王者:三沢光晴VS挑戦者:小橋建太 GHCヘビー級選手権試合 2003年3月1日 東京・日本武道館
2016.01.14
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遂にこの時が来た。新日本プロレスの橋本真也が理想の団体ZERO-ONEを旗揚げした。「破壊なくして創造はなし、 悪しき古きが滅せねば誕生もなし、 時代を開く勇者たれ」橋本真也は2000年4月、小川に敗れて引退したがファンの強い慰留もあり同年8月に撤回。復帰後の橋本は他団体との対抗戦に意欲を燃やし新日本が全日本との交流を進めていたのに対し橋本が三沢の新団体・ノアとの対抗戦を望み新日本プロレス上層部との対立を招いた。その後、橋本の完全独立宣言と共に大谷晋二郎、高岩竜一、営業部の中村祥之が新日本プロレスを退団しプロレスリングZERO-ONEを設立するに至った。そして伝説の旗揚げ戦・2001年3月2日メインイベントはプロレス界の常識を超える凄まじいものとなった。橋本が新日本の永田裕志とタッグを組みノアの三沢光晴&秋山準組と対決。この初顔合わせはプロレスファンの注目はもちろんゲスト解説を務めた武藤敬司ら現役の多団体のレスラー達の注目までも集めた。試合は19分10秒で三沢が片エビ固めで橋本からフォールを奪うがゴングが鳴った後も橋本は秋山を攻め続けた為ノア勢とZERO-ONE勢の乱闘に発展。そこに観戦に訪れていた小川直也が登場し「だらしねぇ試合してんじゃねぇコノヤロー!」と橋本に絶叫し更に初遭遇となる三沢にも「三沢! 受けてもらおうじゃねぇか! 勝負を!」と怒鳴った為、三沢が激怒し小川に殴りかかった。さらに橋本陣営に付いていた藤田和之までもがリング上で「誰が一番強いか決めりゃいいんだ!」と絶叫し複雑な対立構図が完成しファンを大いに驚かせた。しかしマイクアピールを嫌がる王道スタイルの三沢は「お前らのな、思うとおりにはさせねぇよ絶対!」とリングを降りる。その後、橋本が「三沢! 思うとおりにするから憶えておけ!」とまとめた。結局ZERO-ONEとノア、小川、藤田との対立構図はこの一夜のみの出来事であったがその後、ノア勢が新日本に参戦するなどこの試合を契機に団体間の垣根は急速に低くなりプロレス界の交流が活発になった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【DVD/新品/格闘技/SORA】【RCP】さらば破壊王 橋本真也 <追悼版> 【DVD】
2016.01.07
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遂に、この時がやってきた。全日本・四天王vs新日本・三銃士プロレス界でタブーとされていた全日本と新日本とのトップレスラー同士の対決はジャイアント馬場の死、全日本分裂、プロレスリングノアの旗揚げという自由空間の中から実現したものである。全日本vs新日本の交流戦が行われている中新日本を脱退した橋本真也がノアを旗揚げした三沢光晴と対戦を要望した。2001年1月13日 大阪府立体育館セミ・ファイナルで、それは実現した。三沢光晴&小川良成vs橋本真也&アレクサンダー大塚二人の関係は橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして全日本プロレス・三沢光晴とのミスターIWGP vs ミスター三冠対決を望んでおり池上本願寺で行われる豆撒きで出会っている事から親交はそれなりにホットなムードであった。試合は橋本真也が入場すると橋本コールが起こり三沢光晴が入場すれば、それを凌ぐ三沢コールで試合前からファンは興奮のるつぼと化した。ゴング開始と当時に橋本組は挑発的な態度で三沢を責め立て、追い打ちをかけてくる。橋本の闘魂流ケンカスタイルで翻弄したが三沢は相手のペースに飲み込まれない王道流自己スタイルで保守的なレエスリングを見せる。最初からヒートアップさせる橋本に対しじっくりプロレスを組み立てる三沢が橋本のペースを崩すのに成功している。最後は三沢が大塚をタイガー・ドライバーであっさり仕留めてしまったがその直後、橋本は「三沢!次はシングルだな!待ってろよ!」とマイクで挑発する新日本流アピールでファンを興奮させマイクアピールを嫌う全日本スタイルの三沢が「橋本!次あんのかお前この野郎!」と三沢が初めてマイクで挑発した。これには場内もどよめきと歓声が起こり両者の対決はZERO-ONE旗揚げに持ち越された。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【DVD/新品/格闘技/SORA】【RCP】さらば破壊王 橋本真也 <追悼版> 【DVD】
2015.12.23
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崩壊危機により企業的にも窮地に立たされた全日本プロレスだが、新日本の助けもありなんとか復興の目途が立った。そんな中、全日本は底力をみせた。ジャイアント馬場・三周忌追悼興行として2001年1月28日、東京ドーム大会を開催した。今大会は馬場の三周忌だけではなく長年、全日本で活躍したスタン・ハンセンの引退セレモニーもあり、新日本のトップレスラーや全日本出身の懐かしいOBレスラーが参戦した。注目したのはミル・マスカラスが15年ぶりに全日本に参戦し懐かしの「スカイ・ハイ」が会場に鳴り響いた。Uインターの垣原賢人とリングスの長井満也が藤原組の大塚、ヨネとUWF遺伝子対決が実現しカート・ヘニング、バリー・ウインダムの懐かしい常連外人の再登場。そして全日ジュニアの頂点・渕正信と新日ジュニアの頂点・獣神サンダーライガーの遅すぎた頂上対決も実現した。第7試合、馬場三回忌追悼特別試合テリー・ファンク&大仁田厚vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ジャイアント・キマラ大仁田の入場時に全日時代に使われた旧テーマ曲から「ワイルドシンク」に切り替わるというオールドファンには堪らない演出で大仁田はマイクで「俺は馬場さんのいる全日本プロレスに帰ってまいりました」と叫んだ。そしてスタン・ハンセン引退セレモニーハンセンは「日本のファンに強いスタン・ハンセンのイメージを持ってもらったまま引退したかった」という理由で長年酷使してきたボロボロの肉体を日本のファンに見せたくない為、引退試合はやらなかった。このハンセンの引退に日本テレビも中継を行い過去の試合の様子がオーロラビジョンに映し出された。そして新日本プロレスの頂点である武藤敬司の全日本初登場。対戦相手はリングネームを変更したマウナケア・モスマンこと太陽ケアケアは低空ドロップキックで膝をねらわれドラゴンスクリューから足4の字というパターンで武藤に軽くあしらわれてしまった。メインイベントは天龍源一郎&馳浩vs川田利明&佐々木健介であり当初、メインイベントは天龍が川田との三冠選手権をアピールしていたが10月に決定戦で二人の対決が実現していた為三冠戦は取りやめとなっておりその代り天龍&川田vs長州&佐々木という史上最強の師弟コンビ対決も浮上したが全日本=長州のトラブルがこの時点でまだ尾を引いており実現不可となった。試合は川田と健介の合体技なども登場し最後は川田が馳をパワーボムで沈めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】日は、また昇る。 男の引き際と、闘うべきとき THE SUN ALSO RISES. TIME TO MOVE ON, TIME TO FIGHT.【電子書籍】[ スタン・ハンセン ]
2015.12.17
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WWE春の祭典・レッスルマニアその第3弾が1987年3月29日にミシガン州のシルバードームで開催された。観客動員数は9万3173人で世界のインドア・スポーツのイベントにおける過去最高の観客動員数であった。今大会の注目カードは2試合ありまず、インターコンチネンタル王座戦ランディ・サベージvsリッキー・スティムボートこの試合はメイン戦と並ぶ盛り上がりをみせ後にWWEから発売されたレッスルマニアXXのDVD特典に収録されておりWWEのスーパースター達が選ぶレッスルマニア名勝負トップ10において4位にランクインしプロレスリング・イラストレーテッドやレスリング・オブザーバーの両紙においても87年の年間最高試合に選出されている。そしてメインイベントのWWE王座戦ハルク・ホーガンvsアンドレ・ザ・ジャイアントこの2人の激突は新日本プロレスマットで実現しており1982年のIWGP争奪戦、大阪大会でスーパーヘビー級の戦いを繰り広げている。アンドレはアメリカでは絶対のベビーフェイスであったが1987年、WWEでは長らく盟友だったハルク・ホーガンを裏切りヒールに転向した。ボビー・ヒーナンをマネージャーに従えコスチュームも黒のワンショルダーに変更する。そしてWWE世界ヘビー級王座を賭けホーガンと「世紀の対決」が行われた。この試合でホーガンがアンドレをボディスラムで投げたシーンはアメリカプロレス史上屈指の名シーンとなり最後はホーガンがギロチンドロップからアンドレにフォール勝ちホーガンの超人神話が誕生すると同時にアンドレの不敗最強伝説が崩れ去った瞬間でもあった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【送料無料】【WrestleMania XXX 記念グッズ】【春秋シーズン】WWE レッスルマニア30 コンフィー・パーカー
2015.12.10
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全日本を離脱し会社作りに成功した第3のメジャー団体・プロレスリングノア旗揚げから他団体レスラーをマットに上げ強力外国人を招き、旗揚げから直ぐに軌道に乗せる事に成功した三沢光晴はノア初の大会場ビックイベント「GREAT VOYAGE」を開催した。このビックイベントの最大の目玉は新日本プロレスを脱退した破壊王・橋本真也の参戦である。新日本のメインレスラーかつ闘魂三銃士として全日本の四天王と並ぶマット界の超大物がノアマット参戦という事はファンだけでなくマスコミも「あり得ないものの実現」に度肝を抜かれた。橋本の対戦相手は中堅からメインイベンターに伸し上がってきた大森隆男。「爆勝宣言」が流れ、橋本コールが起こりノーフィアーの大森が入場した。試合は橋本の袈裟打ちチョップと大森のエルボースマッシュの攻防からスタートし橋本がキックの連発で完全にペースを掴む。大森も負けずにアックスボンバーで責めるが橋本がキックを畳み掛けると垂直落下式DDT一発で大森を仕留めた。橋本は「三沢出てこい」とマイクアピールし日本マット界の頂点対決を促した。そして全日本からノアのマットを選んだベイダーが因縁の三沢光晴とシングルで対戦。ベイダーはチャンピオンカーニバルで三沢に左腕を骨折させられているため復讐という形で三沢戦に望んだ。しかしうまく噛み合わなかったせいか三沢のエルボーのラッシュでベイダーは敗北する。そしてメインイベントの小橋建太vs秋山準は全日時代に小橋のユニットである「バーニング」を解散させ、小橋を甚振る秋山に小橋が怒りを露わにした。過去に起こった全ての舌戦があった為か危険技の応酬が目立ち、30分を超える死闘の末小橋は超危険技・バーニングハンマーを出し秋山を完全KOした。20世紀最後の格闘芸術と呼ばれた試合であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【楽天ブックスならいつでも送料無料】PRO-WRESTLING NOAH GREAT VOYAGE'09 in TOKYO&OSAKA ~Mitsuharu Misawa,always in our hearts~ 三沢光晴追悼大会 [ 森嶋猛 ]
2015.12.03
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2001年、全日本崩壊の危機を救った天龍に続き全日本を脱退したOBたちが参戦した。新日本に引き抜かれたレスラーでジャンボ鶴田のライバルとして韓国から来たタイガー戸口ことキム・ドク、三沢光晴と一緒に海外武者修行にでた越中詩郎SWSに移籍した冬木弘道、北原光騎、折原昌夫、高木功、更にはFMW旗揚げの為に脱退したターザン後藤らが帰ってきた。そんな中、ノア移籍に伴い小橋建太が保持していた三冠ヘビー級王座が空位になっていた為、全日本プロレス最大のシリーズであるジャイアントシリーズにて王座決定戦が行われた。参加選手は川田利明、天龍源一郎、越中詩郎、スタン・ハンセン、マイクバートン、新崎人生、スティーブ・ウィリアムス、ジョニー・スミス試合はトーナメント方式で行われ第1回戦は越中詩郎vsジョニー・スミス川田利明vsスティーブ・ウィリアムス新崎人生vsスタン・ハンセン天龍源一郎vsマイクバートンと日本人対外人の全日本らしい組み合わせで準決勝は天龍源一郎vsスタン・ハンセンでこれは天龍がSWS移籍時の全日本ラスト試合でジャンボ鶴田の保持する三冠王座に挑戦したがハンセンの乱入で不完全燃焼で敗北した因縁のある対決でありもうひとつの準決勝は川田利明vs越中詩郎で若手時代に同じ釜の飯を食った二人が出世して15年ぶりに再会を果たし、越中は新日本代表としてこのトーナメントに参加している。そして決勝の日本武道館大会川田利明vs天龍源一郎の師弟対決が実現した。試合前、天龍は川田に対し「俺のクローン人間にこの俺が負けるはずがない」と挑発し川田は師匠である天龍節に翻弄された。試合は天龍が全日本で初めて披露するノーザンライトボムで川田を下し第26代・三冠ヘビー級王者に輝いた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村天龍源一郎 引退記念特別号 下巻
2015.11.26
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WWE秋の感謝祭として開催されるサバイバーシリーズの第2回大会はベビーフェイス軍とヒール軍によるエリミネーション・マッチ大会である。1988年11月24日オハイオ州で行われたサバイバーシリーズ'88は因縁の軍団抗争であり第1試合はアルティメット・ウォリアー&ブルータス・ビーフケーキ&ブルー・ブレイザー(オーエン・ハート)&ジム・ブランゼル&サム・ヒューストン vs ホンキー・トンク・マン&ロン・バス&ダニー・デイビス(元レフリー)&グレッグ・バレンタイン&バッド・ニュース・ブラウンこの試合はインターコンチ王座をめぐってウォリアー、ビーフケーキ、ホンキートンク、ロン・バスが抗争しており、乱闘が続く中、最後はウォリアーが生き残りに成功した。第2試合はタッグチームサバイバーとして正統派タッグチームのパワーズ・オブ・ペイン&ザ・ロッカーズ&ブリティッシュ・ブルドッグス&ハート・ファウンデーション&ヤング・スタリオンズ vsヒール派ダッグチームのデモリッション&ブレーン・バスターズ&ボルシェビックス&ファビュラス・ルージョーズ&ザ・コンキスタドールズの20人によるエリミネーションマッチとなった。試合は中々決着がつかず、60分近い試合となり途中、デモリッションとマネージャーのミスター・フジが仲間割れをしてしまい逆に生き残ったパワーズ・オブ・ペインがフジに救いの手を差し伸べ、デモリッションは正統派へパワーズ・オブ・ペインはヒールへと転向する。第3試合はアンドレ・ザ・ジャイアントとジェイク・ロバーツが抗争しあう中、それぞれが軍団を作り、対決するというものでアンドレ・ザ・ジャイアント&リック・ルード&ディノ・ブラボー&ミスター・パーフェクト&ハーリー・レイスのヒーナンファミリーに対するはジム・ドゥガン&ジェイク・ロバーツ&スコット・ケーシー&ケン・パテラ&ティト・サンタナ試合はファミリー軍団の連携が良かったせいかミスター・パーフェクト、ディノ・ブラボーが生存に成功している。第4試合はハルク・ホーガン&ランディ・サベージ&ハーキュリーズ&ココ・B・ウェア&ヒルビリー・ジム vs アキーム&ビッグ・ボスマン&テッド・デビアス&ハク&レッド・ルースターでありタッグマッチとして抗争をしていたホーガン&サベージのメガパワーズとアキーム&ボスマンのツイン・タワーズにメガパワーズに執着していたデビアスが加わった。試合は世界王者であったサベージが集中攻撃をくらってしまいほとんどサベージひとりが試合を運び最後は元気一杯のホーガンがハクを倒しメガパワーズの勝利となったが試合後、ホーガンがサベージの女性マネジャーエリザベスとスキンシップを取ってしまいひとり頑張ったサベージが無視された為、サベージが確執を持つようになった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村WWE サバイバーシリーズ2007/WWE【後払いOK】【1000円以上送料無料】
2015.11.19
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日本プロレスのクーデターにより馬場と猪木は分かち合い猪木は新日本プロレスを旗揚げし馬場全日本プロレスを旗揚げしお互い牙城を築き守り続けた。長い間、馬場と猪木は企業戦争を経て背中を向け合い、団体間は鉄の壁が生じていた。1990年、猪木が新日本社長の座を降り半撤退状態の時、新日本東京ドーム大会において直前にリック・フレアーが来日をキャンセル大会の開催自体が危ぶまれたが馬場は「坂口の社長就任祝い」という事で全日本プロレスはジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、タイガーマスク、スタン・ハンセンの5選手が新日本へ参戦し新日本もクラッシャー・バンバン・ビガロの全日本レンタルという友好関係が芽生えた。しかし国境を越えた団体対抗戦には発展せず馬場は1999年、死去。更に三沢ら多勢の離脱により全日本は崩壊危機を迎えた。これに反応したのが当時、新日本社長だった藤波辰爾であり、同じメジャー団体と老舗である全日本を救う為に協力を決定した。新日本プロレスG1 CLIMAX大会においてスーツ姿でリングに上がった渕正信は「30年の長い間、全日本と新日本との間には厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいない!」と歴史に残るマイクアピールを行い新日本プロレス現場責任者の長州力と固い握手を交わし蝶野正洋が激怒して被っていた帽子を投げつけたが渕は余裕綽々の態度を崩さず、格負けしない振る舞いを見せ付けた。会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こりサマーアクションシリーズ2の日本武道館大会で新日本のメインイベンター蝶野正洋が直々に全日本マットに初登場した。そして今度は川田が新日本プロレスの東京ドーム大会に登場し当時のIWGP王者の佐々木健介と対戦。馬場と猪木の代理戦争として注目を集めた試合で川田は元子から贈られたガウンを羽織って健介から勝利を収めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス】srv5024 新日本VS全日本前面抗争 VOL.2 2001.1.4 東京ドーム 【VHS】【中古】【ビデオです】
2015.11.12
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大激震が起こった三沢光晴ら大勢の全日本プロレス離脱であったが三沢はプロレスリング・ノアを旗揚げした。当初、三沢の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが全日本から5人の取締役が三沢に追随して退任、社内から三沢の行動に同調する者が続出し全日本を退団してノアに参加するレスラーは練習生を含めて26人にのぼった。三沢は予想より多くの選手がノアの参加を表明した為三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約しさらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料にあてた程である。そんな人望の強い三沢光晴が掲げたテーマ「自由と信念」「自分の行動に責任を取る」それは全日本でやれなかった事を新団体・ノアで実行するというものだった。ノアの新しいビジネスとは・・・全日本時代から三沢の参謀だった仲田龍は松田聖子のコンサートを見に行った際、スモークやカクテルライト、レーザー光線を使った華やかな演出を見て「これを全日本でも出来ないだろうか」と会社に企画書を提出したが、あっさり却下されこの経緯から全日本で出来なかったド派手な演出がノアマットで実現した。また三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」というルールを排し若手であっても大技を使える自由と先輩レスラーの持ち技を使う事も許した。海外への進出も全日本時代からWWE副社長のジョニー・エースとは旧知の間柄であり現役のWWE選手がノアに上がれるように働きかると壮大なスケールのプランも掲げ大森隆男、森嶋猛、KENTA、潮崎豪がWWEに参戦している。そして、ジュニアヘビー級戦線の活性化中堅レスラーの扱いも充実し選手会興行による面白いプロレスや女子レスラーの参戦など新しい試みは大成功となり「思いついた事はすべてやる」という発想は机の上で思いついた催し物より現場でパッとひらめいた有効なアイディアに匹敵し選手個人個人の才能を伸ばす事になった。また経営者・三沢を損得勘定で動かない人間であり休養中の給料保障、年間の最低保障を定め所属レスラーを金銭面でバックアップする事に留意した。全日本プロレスの社長時代には会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。その全日本プロレス離脱の際、売り興行に出場し愛媛国際貿易センターで行われた試合では観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「ファンは大切だけど、その人の思い込みに何でオレが従わなければいけないんだ。オレの人生をその人が保証してくれるのか」と怒りを露わにしたほど信念を揶揄させるのを嫌っていた。そして構えたノアの事務所もディファ有明設立の際会場内のシステムアイディアを仲田龍が出しそのコネによりディファ事務所棟に事務所を構えディスコ棟3階の貸しスタジオはノアの道場にサウンドコロシアム棟の開き部屋は事務所に改装されこの事からディファはプロレス界でNOAHの聖地とも呼ばれている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【中古】 NOAHを創った男 三沢光晴の参謀 /仲田龍,本多誠【共著】 【中古】afb
2015.11.05
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2000年6月の選手大量離脱により全日本は崩壊の危機に直面してしまった。川田利明、渕正信の二人しかいない状態で2000サマー・アクション・シリーズを開催し7月2日・後楽園ホールにて馬場元子社長はファンの前で今回の騒動について語った。「一時は全日本の看板を下ろそうと思った」「川田選手、外人選手の熱望により団体を維持」だが、この後に馬場元子社長は「みなさんに紹介したい選手がいます 天龍源一郎選手です」会場は度肝を抜かれた状態で大声援を送った。ジャイアント馬場は全日を辞めていった日本人選手は二度と全日本マットに上げなく最期まで天龍を許さなかったのだが今回の第2次分裂騒動で第1次分裂の渦中にいた天龍が見事、復帰を果たしたのだ。天龍は第2次分裂に馬場元子に電話で「もし協力が出来る事があれば・・・」と参戦を申し出たのであった。しかし、来日が決まっていた常連外人のジョニー・エースが突然、全日離脱し米国メジャー団体・WCWの幹部へ転向した。また全日本はプロモーターに金額を決めて興行を売り渡す「売り興行」を決めた離脱者の三沢に社会的責任という事で三沢ら離脱派の参戦を要請した。そして7月23日・日本武道館少ない全日本の日本人選手を補うため各団体に全日本参戦募集を掛け、全日本で実績のある新崎人生、藤原喜明、奥村茂雄が名乗りを上げたのは良いのだが他は無名のインディー団体の選手が参加し選手権を中心とした豪華な日本武道館大会は一気にインディームードになってしまった。しかしメインイベントの川田利明&天龍源一郎vsハンセン&モスマンは天龍とハンセンの再会から幕を開け全日本らしいメインイベントに相応しい大激戦のもと、最後は川田がモスマンをパワーボムで仕留めている。試合後、川田は師匠の天龍に「自分が着ていたレボリューションのTシャツを返しに来た」と語った。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村俺だけの王道 川田利明自伝
2015.10.29
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三沢光晴・全日本社長が辞任。この報道にプロレス界は激震が走った。問題となったのは新しいスタイルの全日本を目指した三沢光晴と馬場“王道”スタイルの伝統保持を貫こうとした馬場元子の方向性の大きな食い違いであり三沢は「今までとは違う新しい風を吹き入れる」と抱負を語ったものの、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営する事が出来なかった。元子は三沢に馬場の運営方針を100%受け継ぐ事を求め新たな試みを行う事は一切禁じられた。馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続き三沢は元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」と忠告しそれをきっかけに三沢は元子と対立を深めていった。三沢は経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本プロレスに対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になりこうした環境が「オレのやろうとする事が尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ更に全日本らしくないと非難されるなら俺の方から身を引く」と全日本プロレス退団を決意した。2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任。これを受けて6月13日、三沢は定例役員会において取締役退任を申し出た。これをもって三沢は全日本プロレスを退団する事になり三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。一方、全日本プロレスへの残留を表明した選手は川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩の4人だけであった。この時、川田は「離脱するという話を三沢や田上から聞いていない」と語り「全日本の看板を捨て切れなかった」と残留の理由を語っている。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し所持していた全日本プロレス株も手放しメジャー団体・全日本プロレスが暴落した瞬間でもあった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス】DVD未発売・廃盤srv5681 全日本プロレス中継 メモリアルファイトコレクション 第10代 三冠王者 三沢光晴 激闘V7 第二章 【VHS】【中古】【ビデオです】
2015.10.22
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2000年5月13日、ジャンボ鶴田・永眠この訃報を受け各方面で大々的に報道され追悼番組「さようならジャンボ鶴田」が放送された。馬場、猪木に夢中になっていたプロレスファンの前にひとりの男がプロレスに就職した。ジャンボ鶴田は全日本プロレスに入団表明し入団後はテキサスのザ・ファンクスのもとへ行きスタン・ハンセンやボブ・バックランドと修行する。特にハンセンとは気が合ったようで鶴田が日本から持ち込んだインスタントラーメンを分け合って食べる程の仲だった。ドリー・ファンク・シニアは鶴田を見て「この男はレスラーになるための下地はとっくに出来ている。あとは経験を積むだけだ」と評した。帰国後はUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破りタイトルを獲得するがあと一歩でNWA世界タイトルを取り逃がす歯がゆい試合を続けたため「善戦マン」と呼ばれていた。このとき鶴田は「自分が40代になった時、同世代は出世していくが、自分は怪物になるぞ」と大出世を心に誓っていた。そして1983年4月、若手レスラーの登竜門と言われたルー・テーズ杯の特別レフェリーとして再度全日に登場したテーズから「お前のバックドロップは駄目だ小さく円を描いてヘソで投げろ」と本格的なマンツーマン特訓でバックドロップを伝授される。日本プロレス界の至宝インターナショナル王座をブルーザー・ブロディから奪取し1984年には日本人として初めてAWA世界王座を獲得、念願の世界奪取を達成した。1988年6月には谷津嘉章との五輪コンビでインタータッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一初代世界タッグ王者に就いたがインター・PWF・UNの三冠を統一するべくハンセンと戦ったが両者リングアウトとなりファンから鶴田にまさかの「帰れ」コールが起きてしまい善戦マンに逆戻りしてしまった。背水の陣で挑んだ三冠統一戦でハンセンを破り初代・三冠ヘビー級王座に輝き鶴田は「誰の挑戦でも受けてやる」とアピール。日本人対決では長州力と、1985年11月4日に大阪でシングルマッチを行い結果は60分フルタイムドローで終わったがファンは鶴田の優勢勝ちと誰もが見ていた。鶴田は「僕の作戦勝ちでしょ、自身の周りを長州が動き回るようにファイトする事を意識し自分が格上のレスラーであると印象付けられる善戦マンと呼ばれた時代に先輩レスラーから盗み取った技術であった」と語っている。天龍源一郎とのシングル戦では鶴田の放ったパワーボムが後頭部に直撃、失神させてしまうというアクシデントを起こし新世代の三沢光晴との三冠ヘビー級戦で鶴田がバックドロップで三沢から完璧な3カウントを奪い、控室ではマスコミに「世界最強といわれるハルク・ホーガンと負けてもいいから思いっきり闘いたい」と語った。全てがうまくいったと思っていた矢先、B型肝炎を発症し期入院を余儀なくされ鶴田は引退を決意した。そして鶴田は肝臓移植を受ける事を決断し海外での脳死肝移植に望みを賭けた。2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日に死去した。ジャンボ鶴田・無言の帰国。迎えに来たのは三沢光晴ただひとり墓碑には「人生はチャレンジだ!!」と刻まれている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村日本スポーツ出版社 ◎ 竹内宏介 (編集) 初版発行日 1999【中古】週刊ゴング 1999年3月24日緊急増刊号 ジャンボ鶴田引退記念号 ありがとうジャンボ
2015.10.15
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同期、それは切磋琢磨しながら己を進化させるライバルでもありよき友でもある。昭和時代、プロレス界ではジャイアント馬場、アントニオ猪木という同期がタッグを組みながら切磋琢磨しその後、分かち合い全日本プロレス、新日本プロレスと団体を旗揚げし長い間、壁を作りながら企業戦争を行っていた。そして平成時代、馬場と猪木と同じ境遇で同期として全日本に入団したのが秋山準と大森隆男である。秋山は馬場からスカウトされ全日本へ入団しジャンボ鶴田二世として期待され1992年9月17日、後楽園ホールのセミファイナルで小橋健太戦でデビューすると'92世界最強タッグ決定リーグ戦には病気療養中の鶴田の代役として出場した。一方の大森隆男はアニマル浜口ジムで身体を鍛えた後、全日本に入団するが、なかなか芽が出ず人の良すぎる性格もあり伸び悩み、秋山よりスタートが遅れ、苦しい日々が続いた。二人はタッグを組みアジアタッグ王座を獲得し12回防衛という歴代2位の記録を作り平成版・馬場、猪木とファンに支持されたが先に出世したのは秋山であり三沢光晴と組み、川田利明&田上明の保持する世界タッグに挑戦、秋山は川田からフォール勝ちし世界のベルトを自ら奪取したのと同時に四天王超えを果たし、メインイベンターへ昇り詰めた。大森は完全に秋山より遅れてしまったがスタン・ハンセンからパートナーとして指名され馬場がビンス・マクマホンから選手貸し出しの依頼を受けて1996年、WWEのロイヤルランブルに参戦し徐々に力を付けていった。秋山は小橋らとバーニングを結成し全日本にAK時代を到来させたが大森も負けてはおらず、それまで誰も使わなかったハルク・ホーガンのアックスボンバーを必殺技とし上昇の切っ掛けを掴み高山善廣とノーフィアーを結成した。大森は三沢、川田、田上と四天王超えを果たしアジアタッグと世界タッグを同時に保持するという史上初の快挙を成し遂げ日本武道館ではメインイベントで秋山準とシングルマッチを行った。最後は秋山に敗れた大森だが秋山は「もう一度、ここで勝負」と約束しマスコミには「大森人気おかげでメインになった」と大森を絶賛していたが2000チャンピオン・カーニバルのトーナメント第1回戦で大森はその1か月前シングルで三沢超えを果たし優勝候補に上げられていた秋山と対戦。入場時を襲いわずか7秒で下すという伝説的勝利を挙げ準決勝でもスティーブ・ウィリアムスにアックスボンバーで奇襲し激怒したウィリアムスの激しい場外戦も切り抜けアックスボンバーで沈め決勝進出を果たし日本武道館のメインのシングル戦に挑む。決勝では小橋健太に敗れ準優勝に終わるが三沢率いる「新生全日本」の象徴となる活躍を見せた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【特典付プロレスTシャツ発売中】大森隆男 デビュー20周年記念Tシャツ
2015.10.08
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大仁田引退後、FMWは大転機を迎える。それまで知名度もなかったハヤブサをエースとした新生FMWがスタートする。「大仁田がいなければ3か月で潰れる」というような声をよそにハヤブサを中心に工藤めぐみ、田中将斗、松永光弘、金村キンタロー、ザ・グラジエーターらの若い力がリングに活力を蘇らせ大仁田時代のスタイルとは異なるハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。1996年5月5日にはハヤブサ&田中vsテリー・ファンク&ポーゴをメインに川崎球場でのビッグマッチを成功させ1997年9月28日には川崎球場で当時、全日本に所属していた小橋が出陣しインディー団体にメジャー団体の全日本が上がるという快挙を成し遂げている。またWARを離脱した冬木弘道、邪道、外道が参戦し金村、雁之助らとチーム・ノーリスペクトを結成しFMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍団となった。日本に進出を図ったディレクTVがコンテンツのひとつとして3億円でFMWと契約しテレビ放映を手にしたFMWは最大のインディ団体と言われるようになる。契約を結んだFMWはグレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。よりアクの強いエンターテイメント路線を狙いドッグフードマッチやおばけ屋敷マッチ更にはブリーフブラザースの存在などこれまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開した。さらにAV男優のチョコボール向井や演歌歌手の谷本知美などプロレス経験のない素人までが試合に参加し、話題と反発を呼んだ。特にH (エイチ) と偽ハヤブサが乱闘を起こし一般人はおろか週刊プロレス記者の杉作J太郎までも巻き込まれ警備員に制止される羽目になった。しかし1999年11月23日に横浜アリーナで行われた10周年記念大会はショーン・マイケルズ、レイヴェンなどの大物レスラーを招聘し試合内容としてはこの上ない最高の試合になった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村キングオブプロレスリング 第4弾 C ハヤブサ/お楽しみはこれからだ!(レスラー) BT04-056
2015.10.01
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全日本プロレスに黒い台風の目が現れた。その名もノー・フィアー'98世界最強タッグ決定リーグ戦で必殺技・アックスボンバーで上昇の切っ掛けを掴んだ大森隆男と王道プロレスに馴染めないでいたUインターの高山善廣が全日サイドの意向でタッグを結成して出場。双方の伸び悩みの種だった粗さが良い方に回転し始め大森と高山は上を目指すという共通の目的があった事で意気投合し1999年5月の東京ドーム大会で大森、高山はチーム名「NO FEAR」を発表した。ふっ切れたように派手なアピールを繰り返しこの頃から威勢のいい言動が目立つ様になり様々な展開を作り出す新日本プロレスならまだしもファイト重視の全日本のリングにおいてテレビカメラに向かって傲岸不遜な態度で自らをアピールし異彩を放った。代名詞「いくぞ、ノーフィアー!!」は日本テレビ側も数字を呼べる要員として大いに歓迎されたという。リング上でも破天荒な闘いぶりが若者を中心に多くのファンの共感を呼び川田利明&田上明からフォールを奪い四天王越えを果たしハヤブサ&新崎人生から他団体に流出したアジアタッグ王座を獲得したのに続きジョニー・エース&バート・ガン組をも破り世界タッグ選手権王座も獲得。全日本プロレスが管理するタッグのベルトを同時に保持するという史上初の快挙を演じた。小橋率いるバーニングとの軍団抗争は激しさを増し、6人タッグで小橋を集中的に叩きのめした二人は日本武道館で小橋&秋山の保持する世界タッグに急遽、挑戦させろと言い放ち三沢がGoサインを出した。このタイトルマッチは小橋がブチ切れてしまいレフリーや秋山の仲裁も聞かず感情的な小橋を引っ張り出す事になった。2000年にはチャンピオン・カーニバルのトーナメント第1回戦で、その1か月前にシングルで三沢超えを果たし優勝候補に上げられていた秋山と大森が対戦し入場時を襲い、わずか7秒で下すという伝説的勝利を挙げる。大森は準決勝でもスティーブ・ウィリアムスが試合前のロープチェックをしているときにアックスボンバーで奇襲。激怒したウィリアムスの激しい場外戦も切り抜けアックスボンバーで沈め決勝進出を果たし日本武道館のメインのシングル戦に挑む。決勝では小橋健太に敗れ準優勝に終わりさらに1ヶ月後に新潟で高山が三冠王座に挑戦。チャンピオンの小橋を攻めるに攻めたが最後は剛腕ラリアットでマットに沈んだ。ノーフィアーは三沢率いる「新生全日本」の象徴となる活躍を見せた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村NoFear[ノーフィア]メンズTシャツ
2015.09.24
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ジャイアント馬場・死後、全日本プロレスはジャンボ鶴田、百田光雄、三沢光晴とトロイカ体制を取っていたが鶴田の引退と全日本撤退に伴い社長を三沢光晴とした。この三沢体制に他団体は刺激を受けファンやマスコミは今後の動向に注目したが裏で全日本を牛耳っている馬場元子の動向を考慮して、全日本に新しい風を最低1年は吹かさないとしていた。しかし全日本にそれまでない新しいスタイルを誕生しており他団体・Uインター(キングダム)から高山善廣、垣原賢人を入団させマイクでの挑発をしなかった全日本に高山善廣は堂々とマイクで小橋建太らを挑発した。そして毎年恒例のファン感謝デーをそれまで全日本サイドが決めていたファンが喜びそうなカードを組んでいたが三沢の提案により、ファンにレスラーを抽選で試合カードを決めさせるというアイディアでファンを喜ばした。また、日本武道館で必ず行われる三冠選手権を地方で行うとし、逆に地方で行われていた夢のカードを武道館で実現させており9月のサマーアクションシリーズ2では夢のシングル5大決戦が組まれ試合カードの順番をファン投票で一番多かったカードをメインに持ってくるというファンを第一に考えたものとなっている。春の祭典、チャンピオンカーニバルはそれまでの総当たりリーグ戦にはしなくトーナメント方式という一発勝負での決着戦を取っており三冠戦は新潟で中堅からトップに躍り出た高山善廣に挑戦させるなど今までにない全日本を目指していた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村急逝した三沢光晴の名勝負集!全日本プロレス時代から今年6月4日の後楽園ホールまで約50試合を厳選、全日本プロレス時代の試合は、ほとんどが初DVD化!PRO-WRESTLING NOAH 三沢光晴 DVD-BOX
2015.09.17
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1999年、馬場が死去した直後にもうひとつの激震がプロレス界に走った。ジャンボ鶴田・引退馬場亡き後、鶴田、百田光男、三沢光晴の3人体制で全日本を立て直す事になっていたがこの頃の鶴田は全日本と疎遠になっておりプロレス界から手を引く事を決意した。馬場と共に全日本を引っ張ってきた鶴田は1999年2月20日、引退・全日本取締役辞任会見をキャピトル東急ホテルで行いこの引退記者会見では「全盛期に前田日明と戦ってみたかった。藤波君が度々対戦要求を出してきたが実際の交渉は一切なかった」とコメントした。この鶴田の言葉を聞いた前田日明は「名前を出してくれただけでも光栄です」とマスコミのインタビューに答えた。1999年3月6日、日本武道館にて引退セレモニーが行われ研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇としてオレゴン州ポートランド州立大学に赴任する事を明らかにした。鶴田はセレモニーにて「馬場選手の逝去ともあり時期の延期も考えましたが、生前に馬場選手から人生はチャレンジだ!チャンスは掴め!の言葉を信じ今日の決断となりました。全日本プロレスには三沢、川田、小橋と有望な選手がいます。長い間、本当にジャンボ鶴田、全日本プロレスを御声援下さいましてファンの皆様、ありがとうございました。これからも全日本プロレスに熱き御指導と御支援を切に切に宜しくお願いします」と言葉を残し最後はファンの前で「オー!!」を連発した。そして鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが鶴田サイドと馬場元子との間には既に距離があり見送りに行けない空気を振り切って来ておりこれが鶴田と三沢の最後の対面となったがその際、鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺は三沢くんの味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【中古】 ジャンボ鶴田 第二のゴング /黒瀬悦成(著者) 【中古】afb
2015.09.10
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「自分が毎日戦っているのは自分、敵なんていない」「体力の続く限りは自分との戦い」生涯現役を貫いたジャイアント馬場、永眠。1999年2月2日、密葬その翌日に行われた池上本願寺ではジャイアント馬場が恒例としていた行事、節分の豆撒きを悲しみの中、三沢光晴、田上明など馬場の弟子たちがファンの前に元気な姿を見せる事が大事だと考え参加した。その後、三沢たちは池上本願寺に眠るある人物の墓に行った。その人の名は、力道山三沢はプロレスの父・力道山に「馬場社長がそちらに行きましたので よろしくお願いします」と報告し、プロレスの灯を絶やさない事を誓った。2月13日、後楽園ホール大会会場入口には馬場が愛用だった椅子を置きファンの入場をいつもグッズ売り場で見ていた馬場の変わらぬ対応を再現した。そして2100人という観客動員数を集め「馬場さん、夢と感動をありがとうございました」「俺たちは忘れない世界の16文、馬場さんありがとう」というファンからのメッセージが込められた横断幕があった。悲しみを堪え、馬場の遺志を継いだ全日本のレスラーたちは、この日、ワンナイト6人タッグトーナメントを開催した。そして迎えたエキサイトシリーズでは三冠王座決定戦が行われ、最強外国人ベイダーの手中に収められてしまった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】経営者とは稲盛和夫とその門下生たち【電子書籍】
2015.09.03
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ひとりの不滅のヒーローがこの世を去った・・・1999年1月31日、ジャイアント馬場・死去この訃報により全日本プロレス中継は急遽、特別番組として追悼番組「ジャイアント馬場追悼~ありがとう16文」を放送した。1938年、新潟県三条市み生まれた馬場は1955年1月に読売ジャイアンツに投手として入団。ジャイアンツから横浜ベイスターズに移籍したが宿舎の風呂場で転倒、身体ごとガラス戸に突っ込み左肘に17針を縫う外傷を受傷、プロ野球を断念した。1960年、力道山に日本プロレスへの入門を直訴。同年9月30日、台東体育館にてデビューを飾り1961年、渡米武者修行としてアメリカに遠征。リングネームはショーヘイ・ビッグ・ババWWEではババ・ザ・ジャイアントと名乗りNWA世界、WWE世界、WWA世界と当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。力道山死後の1965年、日本の至宝インターナショナル王座を獲得しNWAの大物レスラー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、WWAの大物、ザ・デストロイヤー、ボボ・ブラジル、AWAの大物、ディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー、WWEの大物、ブルーノ・サンマルチノらと死闘を繰り広げた。そして馬場は生涯のライバル・アントニオ猪木とタッグを組み、BI砲の名で世界4大タッグタイトルインタータッグ王座を手中にし、ブルーザー&クラッシャー、ザ・ファンクスら超大物タッグチーム相手に防衛を果たしてきた。しかし1972年、猪木は新日本プロレスを馬場は全日本プロレス旗揚げと理想を求め、BI砲は2度と復活しないだろうと誰もが思ったが1979年8月26日、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦にてアントニオ猪木と一夜限りのBI砲復活を果たした。馬場は全日本旗揚げ後はNWA世界王座を3度奪取し限界説を否定したスタン・ハンセンとの試合、全日本初の団体対抗戦、大木金太郎戦など数々の熱戦を経て、3000試合連続出場を突破した。タイトル戦線から退いた後はラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し悪役商会との抗争を開始、明るく楽しいプロレスを展開し還暦試合では「60歳と言えば年寄りだなと思っていたがいざ、試合をしてみると、なんだ、まだやれるじゃないか」と発言した。生涯現役を貫いた馬場は1998年12月5日までリングに上がり続けた。そんな馬場の、もうひとつの大きな仕事が後継者の育成で渡米遠征から帰国した若手のジャンボ鶴田とタッグを組みファンクスの持つインタータッグ王座に挑み天龍源一郎から日本人による初フォール負けを喫し三沢vs小橋戦では解説席にいた馬場がその試合内容に感動し泣いたというエピソードもあった。そしてこの特別番組のラスト仲田龍が泣きながらの「赤コーナー、300ポンド、ジャイアント馬場」とコールを行なった。ジャイアント馬場は私に取ってファンの夢を与え続けた偉大なる人、社会でのマナーや会社での考え方などもっとも尊敬する人物でありました。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村SJムックジャイアント馬場甦る16文キック DVD付きマガジン 第1巻/馬場元子【後払いOK】【2500円以上送料無料】
2015.08.27
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全日本プロレス初進出の東京ドーム大会1998年5月1日「showdown at the egg」その第7試合は垣原賢人&高山善廣vsゲーリー・オブライト&スティ-ブ・ウィリアムスこの中でUWF出身のレスラーが3人で全日本の純潔なレスラーはウィリアムスだけという全日本vsUWFというカードとなった。試合は15分8秒、ウィリアムスが得意の殺人バックドロップからフォール勝ちを収めこの試合を機にWWE入りを果たす事になった。そして第8試合、御大・ジャイアント馬場にみちのくプロレスの新崎人生が「全日本は私にとって天竺」「お釈迦様の説法を聞きたい」と対戦を要望。ジャイアント馬場&ハヤブサ(FMW)&志賀賢太郎vs泉田純&新崎人生(みちのくプロレス)&ジャイアント・キマラが実現新崎は得意技でありる「拝み渡り」をジャイアント馬場に仕掛けたが逆に取られ脳天チョップでかわされてしまい「お釈迦さまには通用しない」となった。最後は馬場の孫弟子であるハヤブサが20分19秒泉田純をファイアーバード・スプラッシュで勝利。第9試合は秋山準vs馳浩という専修大学レスリング部先輩後輩対決で秋山のエクスプロイダーと馳の裏投げという一大攻防戦が繰り広げられ、最後は新技・リストクラッチ式エクスプロイダーで26分35秒、秋山が勝利を収めている。そしてファンが注目したセミファイナルジョニー・エース&小橋健太vsベイダー&スタン・ハンセンWWEより来日したベイダーは猪木、藤波、橋本慎也、高田伸彦らを粉砕したレスラーであり全日本の頂上外人レスラーのハンセンとタッグを組むという夢のコンビで全日マット初見山となる。一方の小橋健太は新しい対戦相手の登場に闘志むき出しでベイダーに挑んだ。試合開始前から小橋はベイダーを指名し体を張った攻防線が続いた。最後は小橋が22分12秒、首固めでハンセンから勝利し今大会のベストバウトとなった。全日本・東京ドーム大会メインイベント三冠ヘビー級選手権試合・時間無制限1本勝負王者:三沢光晴vs挑戦者:川田利明全日本で数々の名勝負を繰り広げた三沢と川田は、足利工業大学附属高等学校の先輩後輩で仲であり、川田は高校の頃から三沢の背中を見て追いかけていた。そんな二人が東京ドームという大舞台で決戦の火ぶたを切った。試合は全日本らしいハイスパートレスリングでお互い中々フォールを許さなかったが28分5秒、パワーボムからのフォールで川田が勝利し第18代王者となった。最後に川田は「ドームで勝ててうれしい」とファンにアピールし、全日本川田時代到来を予感させる試合となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村似顔絵用人気背景!他にも200種類以上ありますよ♪似顔絵用背景 ~野球場 東京ドーム(横version)~ ※ご注意:当店似顔絵のオプション商品です。背景単体ではご注文いただけません!
2015.08.20
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ジャイアント馬場が動き出した。鎖国時代で敷居の高い全日本プロレスが東京ドームに進出した。1998年5月1日「showdown at the egg」この大会に当たって全日本は出場者とカード変更をかなりしたうえで開催している。最初に発表されたのは田上明vs北尾光覇北尾は横綱、田上は十両という相撲界出身同士の対決が組まれたが小橋のカード変更によりシングルマッチからタッグマッチへ変更されこれを北尾が不服とみて見合わせてきた。そして小橋建太はモスマンと組んでFMWのグラジエーター、保坂秀樹とタッグマッチが決定していたがファンが「保坂秀樹って誰?」と認知度が低かった為、変更となった。この時、全日本と業務提携を望んでいた米国のWWEが外人選手を送り込むと約束し馬場はトップレスラーのベイダー獲得を実現させた。こうした紆余曲折を経て東京ドーム大会が開催された。その内容は全日本vs外国を含む他団体であり純潔な全日本レスラー同士の対決は4試合のみとなっている。第1試合、浅子覚vs金丸義信浅子ドライバーから6分26秒、フォール勝ち第2試合、マウナケア・モスマンvs池田大輔(バトラーツ)ハワイアン・クラッシャーで10分50秒、モスマンの勝ち第3試合、百田光雄&ラッシャー木村&ジャンボ鶴田vs菊地毅&永源遥&渕正伸ジャーマン・スープレックスに来たところを切り返しサムソンクラッチで10分42秒、百田組の勝利第4試合、奥村茂雄&本田多聞vsザ・ヘッドハンターズフリー選手となった奥村と全日本の本田という国境を越えたタッグチームにW★ING、IWA、FMWと他団体で日本常連外人だったザ・ヘッドハンターズとの対決が実現。第5試合、邪道&外道(冬木軍)vsジョニー・スミス&ウルフ・ホークフィールド全日本で実績を作った他団体の邪道&外道が全日常連外人のウルフ&スミスという対抗戦。邪道、外道が善戦するも最後はスミス式リバースDDTから12分31秒、体固めでスミスが勝利している。第6試合、井上雅央&大森隆男&田上明vs保坂秀樹&黒田哲広&ザ・グラジエーター(FMW)小橋との対決が実現不可能となりビックチャンスを逃がしたグラジエーターだったがここで全日本四天王のひとり田上明との対決が実現した。グラジエーターはリングインすると田上を指さし大戦を要望する。これはグラジ自身がどれだけ自分がメジャー団体のトップに渡り合えるか試すには良い相手であったからだ。四天王の田上相手に巨体から繰り出すノータッチトペを見せるが田上も負けず大技で応戦し“田上火山”が爆発した。しかし最後は大森がダイビング・ニードロップから17分43秒、保坂から片エビ固めで勝利している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村オムニバス「小橋建太 FINAL BURNING-The Complete Theme Song Collection-」
2015.08.13
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ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは他団体との交流戦により戦国時代になった。古くは大木金太郎の大韓プロレス、ラッシャー木村の国際プロレスと対抗戦を行いプロレス低迷期には新日本プロレスと交流戦を果たしている。1996年のUインターとの交流を皮切りに藤原組の藤原喜明、ドン荒川が参戦、小橋建太を追い求めFMWからハヤブサが参戦した。そして1997年、全日本で勉強したいとの一念で参加した格闘探偵団バトラーツの池田大輔と小野武志池田はジャイアント馬場と組み“新BI砲”を名乗り小野武志は馬場に直訴し参戦が決定し小川良成、菊池毅らと対戦した。Uインターからは高山善廣、佐野友飛、中野龍雄、垣原賢人らが参戦した。高山と垣原は共に川田利明をターゲットに対戦を繰り広げ、垣原に関しては馬場から「打撃だけでなく見せるプロレスを・・・」とUWF系が酷評される結果となった。FMWからは中川浩二、金村キンタロー、黒田哲広、保坂秀樹が馬場の愛弟子・大仁田厚の推薦で参戦。中川浩二は全日本の渕正信らに「基礎が大変出来ている」と好評価を受け逆に保坂は全日本の東京ドーム大会でセミファイナルに小橋との対戦が内定していたが全日本ファンから「保坂って誰?」と知らない発言されてしまい降格されるという経緯がある。みちのくプロレスからはザ・グレート・サスケ新崎人生、四代目タイガーマスクスペル・デルフィン、愚乱浪花、星川尚浩が参加。全日本との扉を開いたのはデルフィンであり当時の世界ジュニア王者の小川良成とタイトルマッチを熱望していたが実現ならず、馬場がみちのく勢で評価したのは愚乱浪花で「カニくん」と呼んで可愛がっていた。新崎人生は参戦にあたり、会場外に設けられているグッズ売り場にいたジャイアント馬場に拝むだけで直訴した。馬場は「何も言わないのが良い」と参戦前から大評価し、いきなりトップレスラーの秋山準と対戦させた。そして数多くあるインディー団体の中で“インディーの中のインディー”超・どインディー団体のレッスル夢ファクトリーが参戦。インディーの中のインディーがメジャー団体に上り詰め三沢、川田の足利高校の後輩である神風と小坪弘良が前代未聞の参戦を果たした。また冬木弘道の冬木プロモーションから邪道&外道が参加し“王道”馬場に挑戦した。馬場は全日本を辞めていった選手は二度と全日本マットに上げなかったがその弟子はリングに上げており師匠の事で弟子が巻き添えになる事はマット界ではよくあるが馬場は師匠の事とは別だと割り切っていた。また新東京プロレスからフリーになったばかりの奥村茂雄が全日本に参戦を果たし試合前の練習で、基礎が出来ている奥村に馬場は「誰に基礎を習った」と質問し奥村は「カブキさんです」と答え元・全日本のレスラーから基礎を学んだ事に大変喜びを感じていたという。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村小橋伝承マッチ 王者:三沢光晴&小川良成VS挑戦者:大森隆男&高山善廣 GHCタッグ選手権試合 2001年12月9日 東京・有明コロシアム
2015.07.30
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自身の創作やビジネスを大成功させる為に頭の固い日本より自由の国アメリカに進出して腕を磨いて大成した日本人が多くなってきた。女子プロレス界にもアメリカで大成功しトップを取ったレスラーがいた。ジャンピング・ボム、立野記代である。1981年、全日本女子プロレス入団しアイドルレスラーとして女子プロレス界の松田聖子ちゃんと呼ばれていた。1982年8月10日、福島市体育館で長与千種の保持する全日本ジュニア王座に挑戦し強引な押さえ込みでベルトを奪取した。1986年1月、長与千種の膝負傷で返上となったクラッシュギャルズのWWWA世界タッグ王座を山崎五紀とのコンビでブル中野、コンドル斉藤と争い新王者になった。この時を機にコンビ名をジャンピング・ボム・エンジェルスと銘打つ。これほどの美女ペアは全女かつてなく特に立野はグラビアなどに引っ張りだこだった。更にアメリカのWWEにも進出し1987年のビッグイベント「サバイバーシリーズ」でザ・グラマー・ガールズの男子マネージャージミーハート相手にドロップキックをお見舞いし男性を倒すヤマトナデシコにファンは魅了され「ジャンピング・ボム」が大熱唱された。この時を機にメインエベンターに抜擢され1988年1月の第1回ロイヤルランブルではWWE世界女子タッグ王座を奪取。聖地マディソン・スクエア・ガーデンのリングも上がり大出世した。CBSソニーより「CHANCE×3」「青春のエンブレム」「星屑のダンス天国」の3枚のシングルとアルバム「ファーストフライト」をリリースし学園ドラマ「夏・体験物語2」にレギュラー出演した。しかし1991年に引退し全女が経営していたカラオケボックスの店長をしていたが1992年のLLPW旗揚げに参加と共に現役復帰。2010年7月に所属していたLLPWを「会社として機能していない」という理由で退団。さらに病を患った事を理由に10月に行われる自主興行で引退する事が発表された。2010年10月10日、「立野記代30周年&現役引退興行ファイナルネックブリーカー」を開催し立野記代は完全に燃え尽きた。アメリカンドリームを掴みアイドルとしてもレスラーとしても成功した立野記代は今でもファンの心に残っている偉大なレスラーである。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 【中古】BBM/レギュラー/レギュラーカード/BBM’2001 プロレスカード 280 [レギュラー] : 立野記代【P19Jul15】【画】
2015.07.23
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偉ければ、下の言い分を聞かずに白を黒にできる存在で親同様、選ぶ事が不可能なのが会社の上司。会社には派閥が多数存在するがそんな自己中心的な上司に喧嘩を売ったのが“ストーンコールド”スティーブ・オースチンである。彼は1989年にテキサスでデビュー。1992年には新日本プロレスに初来日し武藤敬司、蝶野正洋らと対戦した。WCW、ECWを経てWWEに入団。石のように冷めたくなるオースチンの感情をそのまま出す事が出来る“ストーンコールド”としてWWEマットに上がった。スキンヘッドにし、缶ビールをリング上で飲み、相手に中指を立て、連続殺人犯をモチーフとした凶暴で手をつけられないキャラクターは単なるヒールレスラーではなく邪魔をする者は誰でも叩きのめすというキャラクターであり人気が出た。1996年にはキング・オブ・ザ・リングに優勝し決勝の相手ジェイク・ロバーツをバカにして発した「オースチン伝3章16節」というフレーズが大ヒット。1997年にはブレット・ハートと抗争しロイヤルランブルでの優勝も成し遂げる。1998年、WWE世界ヘビー級王座を初戴冠したのを機に社長のビンス・マクマホンと抗争を繰り広げる。このオースチンとビンスとの抗争は視聴者が権威や人気に太刀打ちできない実生活の鬱憤を晴らす最高のストーリーとして大ブームを巻き起こしオースチンが毎週登場するプロレス中継「RAW」はアメリカケーブルTVで最高視聴率を叩き出し会社経営者のビンズと課長、部長という役員のジェリーブリスコ、パットパターソンと平社員オースチンがアウトローに挑む光景は新しいファンを増やす事になった。1999年のビンス・マクマホン、シェイン・マクマホン、ザ・ロックらの会社体制側の「コーポレーション」との抗争では製氷車、ビール配送車でリングに登場したりザ・ロックのリムジンを破壊するなどして人気を博した。特に、ビール配送車でリングに登場したシーンは2003年に行われた「RAW10周年特番」でファンが選ぶ10年間の名シーン第一位に輝いている。また何か言葉を発する時に遮って連呼する「What?(はぁ?)」「ストーン・コールドかく語りきよ」「hell yeah!」「Don't trust anybody(誰も信用するな)」は彼がこの言葉を発すれば会場中が大合唱するほど流行語となっている。この時期、WWEは全日本のジャイアント馬場と親密な関係を持っていた為、ストーンコールドとして全日本プロレスへの来日が期待されていたが首の負傷悪化により長期欠場となってしまい「オレはここでオレのプロレス人生のドアを閉める。夕陽に向かって歩いて行くんだ」と事実上の引退への道を歩く事なってしまった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【オースチンの "What" 超定番Tシャツ!】WWE ストーンコールド・スティーブ・オースチン What Tシャツ
2015.07.16
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追うものから追われる立場へ・・・超世代軍の一人として当時のトップレスラーだったジャンボ鶴田、スタン・ハンセンを目標に日夜戦い続けた小橋建太そして新ユニットGETを結成して三沢光晴、川田利明といった先輩レスラー打倒を目標とし遂には全日本の最高峰・三冠ヘビー級王者になった。最強を求め、努力を惜しまず先輩たちの背中を追い求め上へ上へと挑戦し続けた小橋建太だったがいつしか追われる立場になっていた。小橋の後輩・秋山準が全日本に入団。しかも秋山のデビュー戦の相手を小橋が務め後輩に胸を貸す日がやってきた。1992年9月17日、後楽園ホールにて秋山デビュー戦は飾られ、敗れた秋山は「何が何だかわりませんでしたけど小橋さんと戦えて光栄です」と答えた。その後、秋山は小橋を追い求めるべく小橋の保持する三冠王座に挑戦しまた小橋と一緒にバーニングを結成した。しかし小橋を追い求めるものは全日本だけではなく他団体にまで及んだ。インディー団体・FMWから次世代のエースハヤブサが小橋建太に挑戦を表明した。それを受けて大仁田厚がかつての師匠ジャイアント馬場に直談判し馬場はかつての愛弟子である大仁田の頼みを邪険に扱う事なくハヤブサの全日参戦を承諾。小橋も「自分に注目してくれただけでも光栄」と謙虚にその心意気を受け止めた。そしてハヤブサは馬場同席で全日参戦発表の記者会見まで馬場のお膝元であるキャピトル東急ホテルで開かれるという高待遇を受けた。その際にハヤブサは「いきなり小橋選手と戦えるわけではない、物事には順番がある。全日本で1から勉強させて頂きたい」と謙虚な答えに馬場は感動し「'97チャンピオン・カーニバル」より全日にスポット参戦を果たした。全日本マットで新崎人生とタッグを結成し4度目の参戦で遂に追い求めた小橋と対戦。舞台は格闘技最大の会場・日本武道館小橋建太&志賀賢太郎組と対決し追い続けた小橋を体感した。このハヤブサの心意気に小橋はFMWの川崎球場大会という初めての他団体出場を決意した。人間は成長すると・・・下から意識される存在へと移り変わるものである。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村GREAT VOYAGE 2011 in OSAKA 2011年7月23日 大阪・大阪府立体育会館 第9試合 小橋建太&潮崎豪VS秋山準&齋藤彰俊 メインイベント 小橋建太復帰戦 60分1本勝負
2015.07.09
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少年時代、ウルトラマンに熱中し宇宙恐竜ゼットンにウルトラマンが倒されたのを見て、その仇を討つために格闘技の世界に入った男がいた。格闘王・前田日明1977年に新日本プロレスに入団し将来のエース候補として渡英しクイックキック・リーとして活躍。ヨーロッパヘビー級王座を獲得した。帰国後は長身を生かしたスープレックスとフライングニールキックなどで人気レスラーとなったが1984年に第1次・UWFの旗揚げに参加。試合は月に一度と言う“競技志向”の佐山と会社の経営難で試合を増やそうとする“興行志向”の前田が対立し同団体は解散。1985年、業務提携という形で新日本に復帰。新日本サイドの不可解なマッチメイクでアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦またUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで前田がサソリ固めをかけていた長州力の背後から顔面をキックし、長州に右前頭洞底骨折、全治1か月の重傷を負わせた事で新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。1988年、再び前田は新生UWFを旗揚げするが前田とフロントとの確執により解散。1991年、理想の格闘団体・リングスを設立バーリトゥードに近いKOKルールを採用しクリス・ドールマン、ディック・フライ、ヴォルク・ハンらと死闘を繰り広げた。しかし1999年2月21日、前田日明は引退する。相手は人類最強の男として知られたアレクサンダー・カレリンロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意義は大きく試合は5分2ラウンド制の特別試合で前田は大技を食らわないよう攻撃のチャンスを待ったが超人的なスープレックスであるカレリンズ・リフトを2回受けてしまい最後は判定負けを喫した。前田は最後に引退試合の相手にカレリンに対し「自分にとってのゼットンはカレリン ゼットン(カレリン)に倒された ウルトラマン(前田)の敵討を誰かが 志してくれれば・・・」と語っていた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★サマーセール[DVD] 前田日明デビュー35周年記念DVD-BOX
2015.07.02
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日本の政党には「与党」「野党」「ハト派」「タカ派」など派閥がある。会社、学校の友人でも自身の考えや意見の食い違いで発生する「いがみ合い」と「イデオロギー闘争」がある・・・1990年後半、米国マット界にも善悪を明暗した派閥的なユニットが誕生した。その名も「nWo(ニュー・ワールド・オーダー)」米国メジャー団体・WCWはWWEから来たスコット・ホール、ケビン・ナッシュを「WWEの侵略者」として悪党扱いにした。WCW正規軍のスティング&レックス・ルガー&ランディ・サベージと対戦したスコット・ホールとケビン・ナッシュだったが、混沌とし始めた試合中にハルク・ホーガンが登場。WCW正規軍を助けるのかと思いきやリングインするなりサベージに必殺技のレッグドロップを放ちWWE侵略軍に加勢。ホーガンは「これがニュー・ワールド・オーダー新世界の秩序だ。お前たち観客に媚びるのは止めた。お前たちはゴミだ!」とマイクアピール。翌日より黒と白をテーマカラーとした「nWo」が結成された。メンバーの係わる試合には必ず乱入し倒した相手の背中に黒のスプレーで「nWo」と書くなど数々の暴挙を行う。1996年8月10日にはハルク・ホーガンがザ・ジャイアントを下してWCW王座を強奪、ベルトにもスプレーで「nWo」の文字を書いた。眼を付けた選手に対してはTシャツを渡して勧誘し数々の斬新なコンセプトでヒールでありながら非常に高い人気を誇った。その後、ランディ・サベージ、ザ・ジャイアントやWCW副社長であるエリック・ビショフ、スコット・ノートン、スコット・スタイナー、バフ・バグウェル、ザ・ディサイプル、コナン、nWoスティング、NBA選手のデニス・ロッドマンまでもが加わり更に新日本プロレスの蝶野正洋、武藤敬司(グレート・ムタ)天山広吉、小島聡、ヒロ斉藤が参加しプロレス界の一大ムーブメントとなった。1998年にnWo結成当初から続くホーガンと正規軍スティングの直接対決でスティングがベルト奪取した事により対立ストーリーが終了する。その後はホーガンとナッシュが不仲となりナッシュはコナンはnWoを脱退しその後はレックス・ルガーが加入。スティング、ランディ・サベージ等メンバーも増員しnWoウルフパックという赤と黒を基調にしたnWoが分裂誕生した。残ったメンバーはホーガンを中心としたnWoハリウッドとなりスコット・スタイナー等の新規メンバーも加入した。このnWoはプロレス界だけでなく芸能界にも影響がありくりぃむしちゅーの上田、有田がnWoをモデルにした「bAd」なる芸人ヒール軍団を結成し江頭2:50がナンチャン・ワールド・お笑いすなわちnWoを結成している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【プロレス/格闘技】WCW NWO White Logo Tシャツ 【あす楽対応】【あす楽_土曜営業】【あす楽_日曜営業】
2015.06.25
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1990年代後半経済的不景気となった米国企業プロレス界にもその波は包まれておりWWE、WCW、ECWの米国団体は円高ドル安で、まだ経済が良かった日本と業務提携を果たす為、努力を惜しまなかった。まず世界最大組織・NWAがテレビ局に買収され新たに生まれたWCWは、既に全日本とのパイプがなくなった事で新たに新日本プロレスと業務提携を結ぶ事にした。当初はNWA世界戦、NWA世界王座決定戦、そしてメインイベンターを来日させ新日本とのパイプは良好に見えたがWCWが衰弱すると新日本との提携金額を高額にしたり、その割にはメイン級レスラーの来日を惜しむようになった。米国WCWマットは日本出張でメインレスラーが居なくなっては困るという事でまだ見ぬ強豪のゴールドバーグの来日を怪我という理由でストップさせてしまい新日本との関係を悪化させてしまった。米国ハードコア路線のECWはデスマッチで有名となった大仁田のFMWとハードコア提携を狙ったがお互いの方向性と遠征、来日とレスラーレンタルの循環がうまく行かず会社同士は険悪ムードもあったがなんとか実現している。そして米国最大の大企業・WWEはSWS、WAR、FMWと業務提携してきたがWWEに似合う提携料金が果たせず大物外人レスラーによる連続来日は不可能としてきた。日本進出を大きく狙っていたWWEは1994年に「マニアツアー」として単独興行を行ったが失敗に終わりパートナーとなる日本の団体を探していた。そんな時、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが東京ドーム進出というビックプランがある事を知り馬場が「WWEに見合う提携料金を払える余裕は会社的にもかなりある」という発言、そして「若い連中(三沢、小橋)らの為に動いてやるか!」という発言を週刊ゴングの竹内氏を通して知ったWWEは対等に渡り合える団体が全日本プロレスと確信した。WWE社長のビンズ・マクマホンは早急に幹部クラスを全日本に出張させ更に全日本も常連外人だったジョニー・エース(WWE副社長ジョン・ロウリネイティス)をWWEマットに出場させ関係を良好にしている。しかし選手へのギャラに関して厳しい馬場は長年、全日本で貢献しているスタン・ハンセンのギャラを上回るWWE選手へのギャラは払えぬと主張した。その結果、WWEと全日本とのラインはなかなか思うように進まないように見えたが全日本はWWEの所属選手だったベイダー、ブラックジャックス、マイク・バートン、ロードウォリアースというメイン級レスラーを獲得し全日本からはスティーブ・ウィリアムス、大森隆男と所属選手を派遣しておりこと大森に関してはWWEの4大イベント「ロイヤルランブル」に参加させている。しかし慎重派の馬場はWWEの都合の良い業務提携に気を許す事はなかった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 資本・業務提携の実務/太田洋/森本大介/石川智也【後払いOK】【1000円以上送料無料】
2015.06.18
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史上初の女性によるハードコア・レスリングそれが邪道姫・工藤めぐみである。工藤めぐみは高校1年の1986年、全日本女子プロレスに入門しKAORU戦でデビュー。同期にはアジャ・コング、バイソン木村、コンバット豊田、Cooga、前田薫(KAORU)らがいた。怪我も多く分けあって全女を退団しその後、保育士の助手に転身したが1990年3月10日のFMW後楽園ホール大会に全女時代同期だったコンバット豊田、天田麗文と共に乱入という形で現役復帰しFMW女子プロレスを活性化させた。工藤は1996年5月5日、コンバット豊田相手に女性として史上初の有刺鉄線デスマッチを行い更にロープの代用としての有刺鉄線を感電させそこに爆薬を装着した電流爆破デスマッチであった。女性レスラーとしては前代未聞であったデスマッチを皮切りにハードコアの舞台に飛び込み大仁田の引退後はその代わりとなるように新生FMWの屋台骨を支え「邪道姫」の通称で呼ばれた。アイドルレスラーという存在であったが工藤は「華=スター」より「燃える=ストロング」という試合内容に重点を置き、工藤はこの王道学を貫き通したものを常に求めていた。そして1997年4月29日 横浜アリーナ工藤はシャーク土屋との電流爆破マッチを最後に現役を引退する事になった。この試合はFMW、最初で最後の女子としてメインイベントを飾るカードとなった。試合は有刺鉄線ロープの電流爆破に2度工藤が餌食となるが、今度は土屋が場外の有刺鉄線+爆弾の上に落下する。ダメージ的には工藤が不利であるにも関わらず場外の有刺鉄線+爆弾の上に土屋がパワーボムから工藤を放り込み爆破。土屋はここから追い打ちをかけるように凶器鎖鎌で工藤の額を切り裂き更に土屋は火炎噴射攻撃を工藤の後姿に浴びせ予想外に髪に火が移り大惨事となる。ダメージが大きかった工藤であったが土屋と縺れるように二人ともロープで爆破、そのまま共倒れで工藤が21分47秒土屋をフォール、ふたり共ぴくりとも動かない感動の幕切れであった。「プロレスを通していろんな事を学びました プロレスを通していろんな人たちと出会いました 今まで本当にありがとうございました」自分がやりたい事に対し完全燃焼を求めた工藤は最後に会場のファンへのメッセージをマイクで語りリングを去って行った。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村工藤めぐみ写真集 Still dream / 清水清太郎 / 【中古】afb
2015.06.11
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1980年代後半から1990年代前半にかけて屈強な肉体から超合金戦士の異名を持つWWEのスーパースターがアルティメット・ウォリアーである。ウォリアーは1985年にミッドサウス地区にてスティングと組みブレード・ランナーズを結成し1987年、WWEに入団。アルティメット・ウォリアーと改名し前座試合でプロレスの経験を積む。そのプロレスのファイトスタイルは入場ゲートから全力疾走しロープを掴んで上下にブルブルと揺らす。試合はディンゴ・ボンバー、ショルダー・ブロックなど力押し一辺倒で最後はリフトアップ・スラムから背中へのボディ・プレス通称:アルティメット・スプラッシュでフォール。レスリング技術の評価は低いもののわずか数分で試合を決着させており1988年8月29日 サマースラム88にてホンキー・トンク・マンからIC王座を奪取。一躍、セミクラスの人気レスラーとなり1989年4月2日、レッスルマニア5にてリック・ルードに王座を奪われるが8月のサマースラム89で奪還。ライバル、リック・ルードとはWWE名勝負数え歌と評されている。1990年に入るとハルク・ホーガンと真の王者を争う事となりレッスルマニア6ではWWE世界王座とIC王座のダブルタイトルマッチという世界一決定戦に勝利し2冠王者となる。そして“まだ見ぬ強豪”として日米レスリングサミットで初来日を果たしWWE世界戦でテッド・デビアスの挑戦を受けた。1991年のロイヤルランブル91でサージェント・スローターに敗戦し王座転落。王座転落後はジ・アンダーテイカーと抗争するが8月に金銭トラブルでWWEから解雇される。1992年、ホーガン戦線離脱によりWWEに復帰しパパ・シャンゴやキマラといった怪奇系レスラーとの抗争やNWA世界王者だったリック・フレアーとの試合ランディ・サベージとタッグを組みアルティメット・マニアックスを結成するも11月に再び解雇となる。その後、WWE出身のレスラーが集うWWS、NWCとインディ団体に参戦するが1996年 WWEに電撃復帰を果たしてハンター・ハースト・ヘルムスリーに勝利。復帰後はオーエン・ハートやベイダーと抗争を展開するが会長であるビンス・マクマホンと対立して退団した。1998年、WCWと契約を交わし入団。リングを占拠するnWoに壊滅宣言し旧友であるスティングとタッグを組んでホーガン&ブレット・ハートと対戦した。1999年にWCWを離脱し一時期は公の場に姿を見せなかったが政治団体に所属して講演活動を行い2014年、WWE殿堂入りを果たし「アルティメット・ウォリアーを作ったのはファンの皆だ」と感謝の気持ちを表したが翌日の夕刻、動脈硬化症に伴う心臓発作で亡くなった。前日に元気な姿を見せながらも妻と娘2人を遺しての突然の死は大きな衝撃を与えWWEの要職・スーパースター等が各種メディアで弔意を表すと共にその功績を讃えた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村送料無料!!送料無料!! WWE-R29 Uウォリアー パーカー reversal WWE LEGEND SERIES アルティメット・ウォリアー 予約・2015/5/入荷予定
2015.06.04
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戦国時代を迎えたWARは総合格闘技のUWFインターとの団体対抗戦を開始した。この頃のUインターは最強格闘技路線から日本プロレス史上最大の対抗戦となった新日本プロレスとの全面戦争へと団体対抗戦の枠を日遂げていた時期でありジャイアント馬場も高田延彦に「今後、全日と交流ができる可能性は?」「困った事があったら連絡しなさい」の言葉により全日本プロレスvsUインターが開始された。同時に創立5周年としてUインターは天龍率いるWARにも接触し1996年9月11日 東京・神宮球場において天龍源一郎vs高田延彦が実現した。試合は19分30秒、脇固めで高田が勝利したがこの結果に納得がいかないのが天龍源一郎。高田との完全決着をつけるべく1996年12月13日 両国国技館において2度目の天龍源一郎vs高田延彦が実現。試合は高田のサブミッションが中心であったが途中、コーナーで縺れかかっている高田に天龍がラリアットを仕掛けたが偶然にも天龍の足が高田の急所に当たってしまう。高田は天龍の偶然に起こった反則に怒り反則高田にしては珍しく場外乱闘を繰り広げイス攻撃を仕掛けようとした。その後、試合は一気にエスカレートし高田のハイキックと天龍のグーパンチが応戦し最後は19分27秒、パワーボムで天龍が勝利。年末におけるプロレス最後の試合は壮絶な名試合となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【DVD】Mr.プロレス 天龍源一郎怒の章
2015.05.28
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御大・ジャイアント馬場がいよいよ動いた!天龍源一郎を初め、大量選手が離脱した1990年以来、三沢光晴、川田利明らプロレス四天王の育成に馬場は若手中心に他団体との接触を断ち切り全日本を盛り上げていた。しかし、海外プロレス団体との提携も断ち全日所属レスラー同士の対決、日本を拠点としている常連外人レスラーとマンネリが続いてしまい、全日本はファンに飽きられてしまった。また三沢、川田らが同じカードでの対戦と発言の不自由さを感じてしまい雑誌インタビューにて現状の不満を語ってしまうほど、息が詰まっていた。この頃のプロレス界はインディーを含めたプロレス他団体ブームであり団体対抗戦が主流であった為、全日若手陣は自由に戦いの場を広げていたレスラー達を羨ましいと思い新たなる戦いに刺激を求めていた。「翼がほしい・・・」ある全日所属レスラーのこの言葉にジャイアント馬場は重い腰を上げた!馬場は一番信頼している新聞記者を捕まえ「高田(Uインター)の所なら良いよ」と、全日本の他団体対抗戦における開国を宣言した。石橋を叩いてもなかなか渡らない馬場のこの発言にプロレスマット界は激震が走り敷居の高い全日本は一気に激戦化となる。その第1弾が1996年9月11日のUインター:神宮球場にて馬場は全日本四天王のひとり川田利明を派遣し、高山善廣との激突が実現した。その開戦の幕開けに大仁田のFMW、サスケ欠場中に留守を預かったスペル・デルフィンが率いたみちのくプロレス、バチバチ格闘路線のバトラーツ、冬木プロモーションの邪道・外道、最弱インディー団体のレッスル夢ファクトリー、更には全米を制覇したアメリカのWWEが反応した。この反応に馬場は辞めていった日本人選手は二度と全日本マットに上げなかったが冬木弘道の弟子である邪道・外道や大仁田厚の弟子に当たるハヤブサをリングに上げWWEに関しては日本との提携団体としてどこの団体よりも資金面で対等に渡り合える全日本との交渉へ再び乗り込んできた。ここから全日本は一気に戦国時代へ登り詰める。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村金融鎖国 米金融バブル崩壊と日本の針路-【電子書籍】
2015.05.21
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ベースボールマガジン社が放った「夢の懸け橋」にあやかってハードコア路線の団体・IWAジャパンは1995年8月20日、川崎球場にて「悪夢の懸け橋」を開催した。今大会の目玉は史上初となるワンナイト・デスマッチ・トーナメントで出場選手は“テキサスブロンコ”テリー・ファンク、“インドの狂える虎”タイガー・ジェットシン、“殺人鬼”レザー・フェイス、“ハードコア”カクタス・ジャック、“人間魚雷”テリー・ゴディ、“鬼神道”ミスター雁之助、“デスマッチの鬼”中牧昭二、“血みどろブラザーズ”小野浩志が参加。トーナメントは球場の1塁側、3塁側に各リングが設けられ、第1回戦・1塁側リングではスクランブル・バンクハウス画鋲デスマッチテリー・ゴディvsカクタス・ジャック中牧昭二vs小野浩志が行われた。同じく第1回戦・3塁側ではボブワイヤーボード・チェーンデスマッチタイガー・ジェットシンvsミスター雁之助テリー・ファンクvsレザー・フェイス第2回戦・1塁側は五寸釘・有刺鉄線・四面地獄デスマッチカクタス・ジャックvs中牧昭二第2回戦・3塁側はボブワイヤーボードグラスウインドクラッシュデスマッチテリー・ファンクvsタイガー・ジェットシンそしてトーナメント決勝はピッチャーマウンドに設けられている中央リングでノーロープスクランブルハウス有刺鉄線爆破ボードウイズアタイムボムデスマッチテリーファンクvsカクタス・ジャック最後はカクタス・ジャックが優勝を決めハードコア新世代に名乗りを上げた。その他の試合で注目したのがNWA世界ヘビー級選手権ダン・スバーンvsターザン後藤であり後藤の師匠であるジャイアント馬場が巻いた歴史あるベルトに挑戦したが総合格闘家であるスバーンにチョークスリーパーでKO負けしてしまった。ジプシージョーの引退セレモニーもありWWE、IWAの超大物プロモーターであるビクター・キニョネスと全日本プロレスの興業プロモーターである浅野起州により大物レスラーブッキングに成功し今大会の時点で1年後の1996年に川崎球場大会開催を決定しファンにアナウンスしたがキニョネスの撤退と真FMW軍、さらにエースの中牧昭二離脱により川崎球場大会は立ち消えとなった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村★レビュー割引5%OFF★NEW!地球にやさしい!企業や団体イベントでも人気上昇中!エコウィンドブレーカー/プリントスター Printstar#00252-ECW 無地
2015.05.14
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新日本プロレス、FMWなどの団体対抗戦で数々の勝利を勝ち取ってきた天龍源一郎の団体・WARビック会場での大型カードで常に満員というメジャー団体に一番近いインディー系のプロレス団体であった。そんなWARマットが団体内外で大波乱を迎えてしまった。まず1994年は石川敬士が団体の運営方針を巡って天龍と対立し相撲軍団を率いて天龍に対戦要求した。駒沢オリンピック公園体育館で覆面レスラー・嵐(大黒坊弁慶)と天龍源一郎のシングルマッチが実現。10月には盟友の 阿修羅・原が引退。長崎県で天龍源一郎vs阿修羅・原の特別試合が実現し12月には天龍源一郎vs北尾光司の年末大一番があったが天龍の骨折というアクシデントで北尾が勝利するという不完全燃焼試合となってしまった。1995年になると天龍のリベンジマッチとしてWWEマニアツアーで因縁を残したグレート・コキーナ(ヨコズナ)と再戦。7月には同じリベンジとして天龍源一郎 vs 北尾光司が実現し天龍が浴びせ蹴り、延髄蹴りと繰り出し最後は巨漢の北尾をパワーボムで投げ飛ばし見事、リベンジを果たす。12月には女子プロレスから神取忍が参戦し天龍&Uドラゴンvs冬木弘道&神取忍という馬場の王道イズムを受け継ぐ正道・天龍にとってあり得ない対戦が実現してしまった。1996年になると大仁田のライバルであったミスター・ポーゴが新たなるライバルを求めて天龍源一郎を周到に狙い、そして総合格闘系のUインターと団体対抗戦が実現し天龍源一郎は中野龍雄、安生洋二、佐野友飛と対決。9月のUインター大会・神宮球場で天龍源一郎vs高田延彦が実現するも高田の勝利により天龍はリベンジとして12月のWAR・両国国技館大会で天龍は高田延彦と再戦し、パワーボムで勝利している。1997年は新天地を求めてきたターザン後藤と天龍源一郎は因縁の抗争を繰り広げ藤原組の組長・藤原喜明とシングルマッチを実現させまさに戦国時代の中で天龍は生き抜いたハードな時期であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015.05.08
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女子プロレスブームが頂点に達した。FMW女子部の乱入が契機となって生まれた女子プロレス団体対抗戦は川崎市体育館、両国国技館、横浜アリーナと年々大きくなり遂に1993年11月20、東京ドームに進出し「憧夢超女大戦」が実現した。最大の目玉は北斗晶の引退と優勝賞金1千万円のV★TOPWOMANトーナメント、浜口京子と山本美憂のアマレス公開試合、FMWvsJWPの初遭遇対決、WWE女子世界選手権という全23試合であった。観衆は4万2500人の満員で中でも注目したのが第14試合からのV★TOP WOMANで全日本女子代表が北斗晶、アジャ・コング、堀田祐美子、豊田真奈美、井上京子JWP代表がダイナマイト・関西FMW代表がコンバット豊田LLPW代表がイーグル沢井という顔ぶれ。日本選手権トーナメント1回戦はコンバット豊田vs堀田祐美子北斗晶vsイーグル沢井アジャ・コングvs豊田真奈美ダイナマイト・関西vs井上京子日本選手権トーナメント準決勝戦は北斗晶vsコンバット豊田アジャ・コングvsダイナマイト・関西そして日本選手権トーナメント決勝戦は北斗晶vsアジャ・コング北斗は燃え尽きて敗北して引退と言う気持ちで試合に臨んだがアジャが引退を受け入れられない状態で試合途中で涙を流してしまう。最後は北斗が不完全燃焼で勝利を収めてしまい「レスラーとして死ねなかった」とつぶやき試合後北斗は「これで引退する」と一礼しアジャから渡された赤いベルトを花道に置きそのままリングを去るという後味の悪い結末となってしまった。その他の試合で注目したいのはFMWのアイドルレスラー工藤めぐみがJWPのアイドル、福岡晶とコンビを組み対戦者にJWPのアイドル、キューティー鈴木と全日本女子のアイドル、井上貴子が組むFMW、JWP初遭遇のタッグマッチが実現。しかし工藤めぐみはこの試合にまったく興味が無くJWPのアイドルレスラーに対し「何も生まれてこない」相手と思い、一方のキューティ鈴木もFMWに関心が無く工藤めぐみという存在にピンとこない。逆にアイドルという点で井上貴子は感心し工藤めぐみと初タッグというのに福岡晶は興味を示していた。工藤めぐみ、キューティー鈴木、井上貴子は共に同い年の同級生対決で話題を呼んだがキューティー鈴木と工藤めぐみの持っている方向性とスタイルの食い違いが目立ちピュアハートと邪道の対決は噛み合わぬ試合となってしまった。今大会は予定より試合開始がどんどん遅れ終演が24時を過ぎ、終電に間に合わない客が続出、客を終電までに帰す為の機転や柔軟性は見られず不手際な進行を続け、多くの怒りを買い女子プロレスブームの終焉へ繋がる興行となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【楽天ブックスならいつでも送料無料】BIG EGG WRESTLING UNIVERSE ~憧夢超女大戦~ '94・11・20 東京ドーム [ 北斗晶 ]
2015.04.30
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1984年、テレビ東京で放映されていた「世界のプロレス」で取り上げられている数多くの外人レスラーの中でファンの度肝を抜き、また指示が多かったのがホーク&アニマルのザ・ロードウォリアーズである。映画「マッドマックス」の暴走族風の出で立ちで顔にペイントを施しモヒカン刈り、巨大な棘の付いたアメリカンフットボールのプロテクターをコスチュームにサードロープの下から滑り込むようにリングインしコールも受けずにそのまま暴れ回る。アウトローそのものであるウォリアーズは試合は常に秒殺勝利で、そのインパクトと存在感から圧倒的な人気を獲得するようになった。アメリカプロレス中継で日本でも話題となり当然、ウォリアーズの獲得に全日本と新日本が動いた。世界3大メジャーのAWAで世界タッグ王者ともあり当時、業務提携していた全日本が獲得に成功。1985年3月の「激闘! エキサイティング・ウォーズ」に待望の初来日しアニマル浜口&キラー・カーンをあっと言う間に片付けてしまうという衝撃的なデビューを飾る。以降、「暴走戦士」「超怪力暴走族」の異名でマネージャーのポール・エラリングに伴い全日マットを主戦場とし、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章らを相手に激闘を展開。当時としては珍しい「秒殺」といえる程の短時間で勝負を決めたり、劣勢に追い込まれそうになると勝敗を度外視して暴走しやりたい放題でリングを後にする事もあった。アメリカでのスケジュールが多忙だった為、世界最強タッグ決定リーグ戦には一度も登場していない。その後、1990年7月には新日本プロレスに参戦し1991年3月、SWSの参戦には東京ドームでハルク・ホーガン&天龍源一郎と対戦しておりジャイアント馬場の追悼大会となった1999年5月の全日本東京ドーム大会で全日復帰、アニマルの弟ジョニー・エースと組んで6人タッグマッチに出場し、小橋健太&秋山準&ハクシー組を破った。尚、ロードウォリアーズはNWA、AWA、WWE、インターナショナルと世界4大タッグ王座に就くという前代未聞の偉業を成し遂げている。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【楽天ブックスならいつでも送料無料】WWE ロード・ウォリアーズ [ ロード・ウォリアーズ ]
2015.04.23
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全日本プロレス、新日本プロレス、ノア夏のシリーズと言えば「サマーアクションシリーズ」「G1クライマックス」「Summer Navig」そして米国メジャー団体・WWEの夏の大一番が「サマースラム」である。その記念すべき第1回大会が1988年、ニューヨークのMSGで行われた。その試合カードは昭和プロレスにおける全日本常連外人vs新日本常連外人の図式で昭和ファンにはたまらないカードである。ブリティッシュ・ブルドッグスvsファビュラス・ルージョーズバッドニュース・アレン vs ケン・パテラリック・ルード vs ジャンクヤード・ドッグパワーズ・オブ・ペインvsザ・ボルシェビックスWWEインターコンチネンタル王座戦王者はホンキー・トンク・マンであり当初の挑戦者はホーガンの弟分であるブルータス・ビーフケーキであったが負傷により挑戦者が急遽変更となった。その相手こそ新進気鋭のレスラーアルティメット・ウォリアーであり入場と当時にトンク・マンを攻めまくりわずか10秒たらずでファール勝ちウォリアーが第13代インターコンチ王座となる。尚、ホンキー・トンク・マンは全日本プロレスでブルーザー・ブロディに16秒で敗北している。ディノ・ブラボーvs ドン・ムラコWWEタッグ王座戦デモリッションvsハート・ファウンデーションビッグ・ボスマンvsココ・B・ウェアジェイク・ロバーツ vs ハーキュリーズ全日本常連外人はダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ニコライ・ボルコフ、ホンキー・トンク・マン、ビッグ・ボスマン、ハーキュリーズ新日本常連外人はバッドニュース・アレン、ケン・パテラ、ディノ・ブラボー、ドン・ムラコ、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントでメインイベントはWWE世界王者のランディ・サベージにハルク・ホーガンが組んだザ・メガ・パワーズに100万ドル男に変身したテッド・デビアスにアンドレ・ザ・ジャイアントが組んだザ・メガ・バックスという因縁の対決が実現。これはレッスルマニア3から続くホーガンとアンドレの因縁とWWE世界王座を争ったサベージとデビアスの勝負をタッグで実現したもの。最後はマネージャーのミス・エリザベスが試合中、ホーガン組が不利になった時に突然スカートを脱ぎパンツ姿に!試合中断となるかとおもいきやホーガンとサベージが戦線復帰し動揺したデビアスを叩きのめし勝利を収めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【RCP】【送料無料】WWE サマースラム2009/プロレス[DVD]【返品種別A】
2015.04.16
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1995年5月5日、大仁田厚引退一年前の川崎球場大会で天龍源一郎に敗北し大仁田は引退を宣言する。引退試合は1995年5月5日と決定し一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち大仁田の試合が見納めになると思ったファンは各会場に集まった。しかし大仁田厚の引退試合の相手だったターザン後藤が大会一週間前にに突然退団を発表。ミスター雁之助、市原昭仁を率いてFMWを離脱した。あまりの異常事態により大仁田とファン、マスコミ、FMWも大混乱に陥る。問題なのは大仁田の引退試合の相手東京プロレスの石川敬士が大仁田厚の引退試合相手への名乗りを挙げ一旦は決定するも後に大仁田の直弟子であるハヤブサが直訴した。引退試合調印式でハヤブサは石川に「大仁田さんから、まだ何も教えてもらってないんです」「お願いです。俺に戦わせて下さい」土下座のハヤブサの心情を理解した石川は対戦権を譲渡した。かくして大仁田厚の引退試合の相手は愛弟子のハヤブサに決定した。世界ブラスナックル選手権試合ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破時限爆弾デスマッチ試合は大仁田が有利な試合運びを見せたが5分経過し、二人は有刺鉄線に突入し電流爆破を受けてしまう。更に12分が経過した所で時限爆弾のスイッチが入る。刻々と迫る時限爆弾の爆破にハヤブサは焦り見せてしまい、爆破1秒前で有刺鉄線へ飛び込み電流爆破の餌食になってしまったと同時に時限爆弾の大爆破に塗れてしまった。しばらく大仁田とハヤブサは倒れていたがハヤブサが攻撃を掛け、4メートルほどある金網の上からムーンサルトプレスを狙ったが誤爆。続いて大仁田がサンダーファイヤーパワーボム2連発で18分11秒、引退を勝利で収めた。試合後、大仁田はファンにマイクで「おまえら、一生に1度でいいから自分の好きな事を胸一杯やってみろ」と伝えた。救急車で運ばれる大仁田にファンは見守りながら「大仁田、ありがとう」と叫んだ。これが大仁田厚、2度目の引退試合であった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 【NINTENDO DS】いつでもどこでも大仁田厚の政治クイズ 楽しみながら政治を学べるクイズ!
2015.04.09
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日本武道館、幕張メッセ、横浜アリーナとビック会場での興業を打ち出しメジャー団体に一番近かったWAR。天龍源一郎は旗揚げ2周年興業として1994年7月17日、両国国技館において「革命陽上‘94」 6人タッグトーナメントを開催した。今大会はWARだけでなく大仁田厚の「FMW」を筆頭に「みちのくプロレス」「NOW」「武輝道場」「藤原組」「新格闘プロレス」更にメキシコから「EMLL」アメリカから「WWE」がトーナメントに参加するというプロレス史上最高の9団体が集結した。5月のシングル初対決から2ヶ月後、再びWARトに登場した大仁田厚が天龍源一郎と驚異の合体を果たし迫力と興奮のワンナイトトーナメントであった。試合は全て30分1本勝負で行われトーナメント1回戦は“理不尽大王”冬木弘道&邪道&外道の3人が「みちのくプロレス」の新崎人生「WWE」のジョン・テンタ「WAR」の阿修羅原の3人と激突。同じくトーナメント1回戦石川敬士&北原光騎&維新力のWAR純潔トリオが「武輝道場」の北尾光司&小林昭男&望月成晃と激突トーナメント1回戦「新格闘プロレス」青柳政司と「NOW」ケンドー・ナガサキ「WAR」嵐の団体を越えたタッグチームがアニマル浜口、平井伸和の「WAR」コンビにU系「藤原組」舟木勝一という他団体が入り交ざっての対決。更にトーナメント1回戦、天龍源一郎と「FMW」の大仁田厚「WWE」のクラッシャー・バンバン・ビガロの最強トリオがウォーロード、クリス・ジェリコと「EMLL」のバンビーロ・カサノバが激突した。 トーナメント準決勝は阿修羅原&テンタ&新崎vs石川&北原&維新力11分14秒、片エビ固めで阿修羅組の勝利もう一方のトーナメント準決勝はマニア注目の天龍&大仁田&ビガロvs青柳&ナガサキ&嵐という因縁試合。FMW旗揚げ戦で大仁田と青柳館長はシングルマッチで勝負してから抗争しており今大会が5年後の再会となった。 そしてトーナメント決勝は時間無制限1本勝負天龍&大仁田&ビガロvs阿修羅原&テンタ&新崎最後は天龍がエビ固めで阿修羅原を下し天龍組が見事、優勝を果たした。この日、大仁田はFMWの興業もありダブルヘッダーでの登場で更に圧巻だったのは試合後、握手を求めた大仁田に新崎人生は大仁田に拝むというプロ根性を見せた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【DVD】天龍源一郎魂の章怒りの軍団抗争史
2015.04.02
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1995年4月2日、ベースボール・マガジン社主催のオールスター戦「夢の懸け橋」が東京ドームで行われた。メジャー・インディー・U系・女子プロレスから全13団体が参加し「各団体の純潔メンバーでのカードを提供する」といったコンセプトでの興業であった。全13団体の選手が一堂に会す豪華さと当時他団体と交流を断っていた全日本プロレスが他団体と同じ興行に参加するといったプレミア性が重なり会場には6万人の観衆が詰めかけた。試合は全て30分1本勝負で行われ第1試合、JWP女子プロレス「プロレスの神様ありがとう」8人タッグマッチ ダイナマイト関西&福岡晶&キャンディー奥津&能智房代vsデビル雅美&尾崎魔弓&キューティー鈴木&矢樹広弓第2試合、LLPW「レディース・アルティメット・ファイト」 神取忍vsハーレー斉藤第3試、全日本女子プロレス「全女GREATEST4★プレミアム」 アジャ・コング&井上京子vsブリザードYuki&豊田真奈美第4試合、剛軍団「エイリアン・デスマッチ」 剛竜馬vs宇宙魔神シルバーX 第5試合、IWA JAPAN「バーブワイヤーボード・スーパースクランブル・バンクハウス6人タッグデスマッチ」 中牧昭二&テリー・ファンク&レザーフェイス vsカクタス・ジャック&ヘッドハンターA、B第6試合、パンクラス「シングルマッチ」 鈴木みのるvsクリストファー・デヴィーバー第7試合、藤原組「藤原組ライバル対決」 藤原喜明&石川雄規vsドン荒川&カール・グレコ 第8試合、みちのくプロレス「みちのく・ザ・ベスト'95」 スペル・デルフィン&愚乱浪花&タカみちのくvs グレートサスケ&SATO&獅龍第9試合、リングス「クリス・ドールマン日本引退試合」 前田日明vsクリス・ドールマン第10試合、UWFインターナショナル「スペシャル・シックスメン・バウト」 高田延彦&垣原賢人&ビリー・スコットvsゲーリー・オブライト&山崎一夫&ジーン・ライディック第11試合、FMW「忍邪憧夢絵巻~究極邪道対決・最終章」 ノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチ グレート・ニタvsポーゴ大王第12試合、全日本プロレス「4・2ドーム特別試合」 三沢光晴&小橋健太&スタン・ハンセンvs川田利明&田上明&ジョニー・エース第13試合、新日本プロレス「NEW JAPAN CLIMAX」 橋本真也vs蝶野正洋試合の他には大木金太郎の引退セレモニーも行われた。なお、天龍源一郎のWARは、以前から同日同時刻に東京ドームと隣接する後楽園ホールでの興行を行う事が決定していた為、「夢の懸け橋」への参加要請を拒否。自らの興行を決行し、こちらも超満員の観客を集めた。週刊ゴングは「反・夢の懸け橋」を謳って同大会をバックアップし、反ターザン山本の急先鋒とされた長州力の出場も相まって、さながら反週プロ大会の様相を呈していたという。このように「夢の懸け橋」の成功は反動として週刊プロレスへの大きな反発を生んだ。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村東京ドームキャラメルプリンケーキ【P27Mar15】
2015.03.26
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世界最大の米国プロレス団体・WWEが春の祭典として興業する「レッスルマニア」1985年の成功により1986年4月7日にその第2弾として「レッスルマニア2」を開催。本大会はニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスの3大都市で同時開催するというスケールの大きい大会となった。まず、ニューヨークのナッソー・コロシアムでインターコンチネンタル選手権ランディ・サベージvsジョージ・スティールボクシングマッチとして俳優のミスター・Tと毒舌男のロディ・パイパーとの一騎打ちが実現。シカゴのローズモント・ホライゾンではWWE女子王座戦、ファビュラス・ムーラvsベルベット・マッキンタイヤープロレスvsアメフトの異種バトルロイヤルアメリカンフットボール選手がリングに上がるという初の試みのバトルロイヤル戦であるが優勝は“大巨人”アンドレ・ザ・ジャイアントWWEタッグ王座では全日本に移籍したダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスにブルータス・ビーフケーキ&グレッグ・バレンタインが実現。ブリティッシュ・ブルドックスのセコンドにはロック歌手のオジーン・オズボーンが付いた。そしてロサンゼルスのメモリアル・スポーツ・アリーナで日本でお馴染みのザ・ファンクスがティト・サンタナ&ジャンクヤード・ドッグと対戦。今大会のメインイベントはケージ・マッチ形式によるWWE世界王座戦、“超人”ハルク・ホーガンに“巨鯨”“悪のマシュマロマン”ことキングコング・バンディが挑戦するビックマッチが実現。入場者数は合計すると40,085人の観衆を集め今大会も大成功となった。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【5000円以上で送料無料】【VHSです】レッスルマニア2 超人ホーガン金網デスマッチ・究極のバトルロワイヤル戦争 [字幕]|中古ビデオ [K]【中古】
2015.03.19
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全日本プロレス・馬場一家を表現すれば長男はジャンボ鶴田であり次男は天龍源一郎という構造になるがでは三男は?自称:不良息子として全日本を出て行った大仁田厚である。この次男と三男は全日本時代での対戦はないが全日本を退団し、自立した時に対戦している。天龍率いるWARと大仁田率いるFMWの団体対抗戦にて二人は再会している。1994年3月2日 両国国技館におけるWAR興業タッグマッチ60分1本勝負天龍源一郎&阿修羅原vs大仁田厚&ターザン後藤WARとFMWのトップ対決が実現し試合はかつての王道スタイルで進んでいたが天龍が場外でビール瓶に入っている水を呑んでいた際後藤の椅子攻撃でビール瓶が頭に直撃し大打撃を受けてしまい、最後は大仁田がサンダーファイヤーパワーボムで天龍から勝利。大仁田は敵地・WARでのぼり旗を掲げ「天龍が男ならFMW興業に単身で来い」とマイクでアピールした。一方の天龍は場外での椅子攻撃というトラブルと馬場、猪木に勝利した天龍にとって格下の大仁田に納得がいかない敗北ともあって1994年5月5日のFMW・川崎球場大会に出場。王道“馬場”の遺伝子を受け継ぐ“正道”天龍と“邪道”大仁田のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチが実現。試合は天龍が逆水平チョップを5連発叩きこみ大仁田が有刺鉄線にぶつかり爆破。天龍は攻撃の手を休める事なく顔面蹴りで追い撃ちその後、ラリアットを狙うが大仁田がかわし天龍は有刺鉄線に突進し爆破を受けてしまう。大仁田はサンダーファイヤーパワーボムを決めるが天龍からフォールは奪えず今度は大仁田が天龍に突っ込むがそのまま金網に叩きつけられ大仁田2度目の爆破。天龍はパワーボムを連発し、更に大仁田を金網に投げ飛ばし爆破させ大ダメージを追わせる。最後は天龍のパワーボムで大仁田をフォール。天龍が敵地で勝利を飾った。一方、敗北した大仁田は引退を宣言した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 ★【送料無料】DVD/スポーツ/プロレス名勝負シリーズ vol.2 天龍 vs 大仁田 初対決!/SPD-1422
2015.03.12
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観客がレスラーに対して非難を表すブーイング。その代表的な伝説のレスラーがマッチョバディ、 理不尽大王こと冬木弘道である。冬木は国際プロレスを経て全日本プロレス入り、天龍源一郎の付き人を務めながら三沢光晴、川田利明、越中詩郎、ターザン後藤と同じ若手レスラーとして前座を務める。1984年に海外初遠征し、帰国後は天龍同盟に参加。川田利明とのコンビ「フットルース」を結成。しかし川田が天龍とタッグを組む機会が多くなり冬木が次第に孤立していく様になった。伸び悩み孤立した冬木が選んだ道は全日本を離脱し新たなる戦地である新団体SWSへの移籍であり、ここで天龍と共にREVOLUTIONの一員として行動を共にする。ここでプロレスファンは冬木に反感を持ち「アッアッアッアー」という奇声と技を出す前の地団駄に対してムカつきを覚えいつしかブーイングを掛けるようになった。SWSが崩壊すると、そのまま天龍のWARに移籍正統派のファイトを続けていたがファンの「今頃、川田は日本武道館で三冠戦だぞ」というかつてのパートナーで比較される野次を受けヒール扱いを受け続ける冬木は一大決心をする。理不尽大王を自称し天龍に出来もしない事を要求、リングネームの読みを「こうどう」に変えリング上でコントを披露するなど愛嬌のあるヒールとしてのイメージを定着させ大ブレイクし邪道、外道とのトリオで活躍した。1996年にWARを離脱し冬木軍プロモーションを設立FMWでミスター雁之助、金村キンタローらとチーム・ノー・リスペクトを結成しリング内外で団体を牛耳るパフォーマンスは新世代のヒールスタイルであった。2001年、古巣である全日本プロレスで川田利明と再会し、シングルで対戦するも敗北。2002年に自ら主催する団体としてWEWを設立した。 2002年4月7日、プロレスリング・ノアで15年ぶりに三沢光晴とシングル戦を行い正統派のプロレスでも改めて高い技術を見せて冬木健在を誇示した。だが、その2日後、冬木は大腸癌を理由に引退を表明。その一報と病状を聞いた三沢は冬木のためにディファ有明を緊急で確保し、冬木の引退興行を開催する事を発表。ノアの全面協力を受けて冬木はリングで引退試合を行った。この引退試合は新日本の永田裕志、邪道&外道、さらには天龍までもが参加し試合開始前の冬木弘道コール後、無数の紙テープが飛んだ。その後、WEWではプロデューサーとして活躍したがガンは肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、がん性腹膜炎のため死去した。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村モンスター・ペアレント猛語録 理不尽なクレームをいなす一言89-【電子書籍】
2015.02.26
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1992年、第3次女子プロレスブームが起こった。それは他団体ブームによって激化したプロレス団体対抗戦である。事の発端はFMW女子部のレスラーシャーク土屋&クラッシャー前泊が突如、全日本女子プロレスのWWWA世界タッグ王者であった山田敏代&豊田真奈美組に宣戦布告した事が団体対抗戦の切っ掛けになったのだ。ここで「まった」を掛けたのがFMW女子のトップレスラー工藤めぐみであり若手の土屋と前泊よりトップレスラーが出陣するのが常識と考えた。1992年9月19日に横浜スタジアムで行われたFMW3周年記念興行「邪道」にてブル中野&北斗晶vs工藤めぐみ&コンバット豊田の全日本女子プロレスと団体対抗戦を行いこれを機にFMWと全日本女子プロレスが抗争を開始し全日本女子、FMW、JWP、LLPWの全団体を巻き込んだ対抗戦時代の火蓋を切った。そして1993年4月2日 横浜アリーナでは全日本女子プロレス 夢のオールスター戦が開催され北斗晶vs神取忍の壮絶なファイトやセミファイナル中に夜中12時を超え終電をなくして帰れなくなったファンが新横浜駅で夜明かしするなど伝説的な興行となった。この対抗戦で互いの看板タイトルの争奪戦が行われJWPのダイナマイト・関西・尾崎魔弓組が全女のWWWA世界タッグ王座、キャンディー奥津が全女の全日本ジュニア王座を奪取し全女の下田美馬・三田英津子組がJWP認定タッグ王座を奪取している。。1995年8月30日には関西がアジャ・コングを破ってWWWA世界シングル王座に就いている。この対抗戦は人気を博し、後に長与千種の復帰に繋がりまた団体を超えたチームも多く組まれ熱狂的なファンを得る事に成功している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【定価より20%OFF】★DVD/スポーツ/JWP激闘史 団体対抗戦3 女子プロレス戦国時代編/SPD-4113
2015.02.12
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“風雲昇り龍”天龍源一郎が偉業を成し遂げた。日本プロレス界の超大物レスラージャイアント馬場とアントニオ猪木の2大巨頭に勝利した。1989年11月29日、世界最強タッグ決定リーグ戦にてスタン・ハンセンと組んで出場した天龍は札幌中島体育センターで馬場&ラッシャー木村と対決。タッグ対決ながら馬場からパワーボムで日本人では初めてピンフォールを奪った。馬場はデビューの頃を除いて日本人選手からフォール負けするのは初めてであった。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていた事を意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言した。そして全日本を脱退した天龍は新日本との対抗戦で1994年1月4日東京ドーム大会においてアントニオ猪木とシングルマッチで対戦した。猪木のチョークスリーパーで失神に追い込まれるも天龍は王道スタイルで猪木を追い詰め最後はパワーボムでピンフォール勝ちを収めこれにより天龍は伝説のBI砲からピンフォール勝ちした唯一の日本人レスラーと呼ばれた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村アントニオ猪木&ジャイアント馬場!!【タイガーマスク】ファイティングコレクション PART4 全6種セット
2015.01.29
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1993年、全日本は超世代軍を中心とした新しいスタイルのプロレスを展開した。それまで日本人vs外国人の図式がメインだった全日本であったが、WWEとの交流を断り大物外国人レスラーの招聘が困難になった結果日本人同士による対戦を主体とした。そして三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明がハイスパートレスリングと激しいプロレスを展開し更に危険度の高い技を次々と繰り出すスタイルは先鋭化し続け、戦いは四天王プロレスへ発展した。四天王プロレスの特徴として30分を越す試合時間、カウント2.9連続の攻防、ハードヒットする打撃、脳天直下式または高角度式の投げ技の多用、そうした大技を食らっても意識朦朧ながらすぐさま立ち上がり、相手に一撃食らわせてからダブルKO状態となる。すなわち凶器攻撃、流血、リングアウト、反則、ギブアップによる決着のないピンフォールによってのみ決着するスタイルは従来のプロレス手法を覆すものであり三沢、川田戦などはテレビ解説をしていた馬場に「高度すぎて俺には解説できない」と言わしめるほどだった。日本武道館を初めとする首都圏でのビッグマッチは毎回のように超満員の観客が詰め掛け年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取り彼らの活躍やファイトスタイルは話題を呼んだ。中でも日本武道館における三冠ヘビー級王座の争奪戦第17回チャンピオン・カーニバルでの史上初の巴戦での優勝決定戦。世界最強タッグ決定リーグ戦では三沢光晴&小橋健太組が史上初の3連覇を成し遂げスーパーファイトはプロレスファンから熱狂的な支持を集めた。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村俺だけの王道 川田利明自伝/川田利明 【後払いOK】【2500円以上送料無料】
2015.01.22
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ビューティペア、クラッシュギャルズと女子プロレス界では華やかなタッグチームが主流となっていた。90年代において一時期ではあったが華やかで強く人気のあったタッグチームが井上京子&井上貴子のW井上である。共に同期入団である二人だったが井上京子はヒール、井上貴子はアイドルという違う道を歩んでいる。しかしヒールユニットである獄門党を事実上解散しシングルプレイヤーとして売り出し中の井上京子とベビーフェイスとして君臨していた井上貴子が同じ苗字と言う事でタッグを組んだ。彼女らのチームワーク、ファイトスタイルは明るく楽しくをモットーとしたエンターテイメント性重視な試合内容とベテランに裏打ちされた堅実な試合運びは対抗戦時代でブームを迎えた90年代の女子プロレスを代表するタッグチームとなった。二人の連携必殺技にコーナーに背を向けた京子が相手をカナディアンバックブリーカーで担ぎ上げコーナー最上段に登った貴子が持ち上げられた相手の喉を右手で鷲掴みにする。そして貴子がリングへジャンプすると同時に京子が相手を豪快にマットに叩きつける「デンジャラスジャッキー」がある。1994年10月9日、川崎市体育館の「レッスル・マリンピアード'94」では山田&豊田組のWWWA世界タッグ王座に挑戦しみごと勝利を収め第99代WWWAタッグ王座を初戴冠した。しかし第99代王者となった彼女らは「私らが幾ら防衛しても100代王者にはならないんだよ!」と王座を返上。1995年3月21日、大阪城ホールで開かれた「大阪美神王国SUCCESS」では第100代タッグ王座のトーナメント戦で王座決定戦に挑み豊田真奈美&ブリザードYuki(長谷川咲恵)組を下し記念すべき第100代WWWAタッグ王者になった。現在は全女を退団し活動は一時休止したがフリーランスになり現在は組まれたら組むと言う形でちょくちょく復活している。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 【中古】女性アイドル写真集 井上貴子写真集 MAKE LOVE【画】
2015.01.15
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新日本プロレスの越中詩郎が率いる平成維震軍がWARの天龍源一郎を引っ張り出す為対抗戦を仕掛けた事を契機に天龍らWAR勢は新日本プロレスに参戦。天龍は数々の死闘を繰り広げる事となりまず両国国技館のタッグマッチで木村健吾を失神KOした天龍は長州力を呼び出しここまでやってきた事に対し「おまえが出てこい」とアピール。アントニオ猪木の仲介で1993年1月4日「FANTASTIC STORY in 闘強導夢」で6年ぶりのシングル対決が実現し18分14秒、パワーボムで天龍源一郎が勝利。5月3日「WRESTRING DONTAKU IN FUKUOKA DOME」ではタッグマッチで猪木、藤波と対決し更に6月17日 日本武道館で行われたWAR1周年興行「革命陽上」では闘魂三銃士の橋本真也とのシングルマッチ。天龍の首を周到に狙う橋本にとってこのシングルマッチは天下を取る大一番であったが18分23秒、パワーボムで天龍源一郎が勝利これにより新日本は次々と刺客を送り9月12日 幕張メッセイベントホールでは闘魂三銃士の蝶野正洋9月23日 横浜アリーナでは馳浩12月15日 両国国技館では俺たち世代のひとり藤波辰爾とシングル戦更に1996年10月11日 大阪府立体育会館でザ・グレート・ムタと対決しいずれも勝利を収めている。全てシングルマッチで破った天龍は団体対抗戦に強いレスラーとして名を馳せ特に「俺たち世代」の鶴田、長州、藤波と3人すべてシングルで戦い闘魂三銃士もすべてシングルで戦い勝利するという前人未到の偉業を成し遂げミスタープロレスの異名を取った。残る強敵は、あの男のみ・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村【定価より20%OFF】★DVD/スポーツ/プロレス名勝負シリーズ vol.3 天龍&石川 vs 長州&橋本/SPD-1423
2015.01.08
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