1

ひさびさの下痢である。この仕事に就いてから生活習慣が極めて健康的になり滅多に下痢をしなくなったため、自分がもともと消化器系が弱く、かつては週に1回くらいの頻度で下痢をしていたことをほとんど忘れていた。たぶん昼食時にほんの気まぐれに飲んだ牛乳のせいだ。豆乳に切り替えてから7~8年も経ち、消化器が受け付けなくなってしまったに違いない。あと、今朝出勤前にちょっと長めの距離を走ったので、内臓がやや疲労気味だったのかも知れない。慌てて駆け込んだトイレの個室で下痢便をひり出しながら、かつてマラソン大会の最中に催した下痢の記憶がよみがえる。オレは5年前に初めて走った荒川市民マラソンですでにトイレに駆け込んでいる。あのときは日本短期出張中で、疲労のためか大会の前日から腹が緩んでいた。あの日「30キロの壁」が早めにやってきたのは、簡易トイレが和式で、疲れた脚に負担が掛かったせいだ。その1ヵ月後に走ったバンクーバー・マラソンでもトイレに駆け込んだ。あの日は気温摂氏10度でどしゃ降りの雨で、ゴールまでに小便を3回もした上、別に下痢をしてたわけでもないのに腹が冷えて下ってしまった。いちばんツラかったのは2005年のミシガン・ベイショア・マラソンだ。あれは危なかった。10分以上も腹痛に堪えながら走り続けた末、期せずして前方に現れた簡易トイレがあれほど有難く思えたことはない。あのときは便座に座るなり、「ドドドドド…」と音を立てて怒涛のように下痢便が下っていった。おかげでスッキリした途端に体調がよくなり間もなくランナーズハイがやってきて(笑)、後半ペースが落ちてくるランナーたちを軒並み抜き去ったことが思い出される。…しかし、オレはまだ漏らしたことはない。トレーニング中に便意を催し、ギリギリセーフでトイレに駆け込んだり、トイレまで待ちきれず野グソをしたことも何十回とあるが、あの、ビリビリビリッ …やってしまった…という経験はまだない。走っている最中に便意を催し腹痛になった時は、たいてい歩けば腹痛が収まり、なんとか次の公衆便所(あるいは人目につかない薮)までは堪えられるものだ。そういえば、オレはずっと気になっていたのだが、8月の北京オリンピックの女子マラソンで、マラソンの世界記録保持者・イギリスのラドクリフがコース上で下痢便をしていたと思うのだが、あれって日本では話題にならなかったのか?グーグルで検索しても話題にしている様子がないんだが。オレが見ていたテレビの中継ではカメラがラドクリフを追い続けている最中、ずっとイギリス人コメンテーターが腹痛で苦しんでいるラドクリフの様子を事細かに描写していて(笑)、やがて彼女が走者集団から逸れたかと思ったらコース・フェンスの陰にしゃがみ込みランパンの股間部分を後ろから手を回して引っ張ったところで事態を理解した(笑)カメラマンがパンして走者集団にアングルを戻すも時すでに遅し、ラドクリフの排泄の瞬間が全世界に放映されたのであった。もしかすると日本ではカメラはトップ集団を追っていたのでこの瞬間が放映されなかったのかも知れない。オレはスカト口・ビデオを別にすれば女性がクソをする瞬間を見たことがなかったので、ラドクリフの排泄シーン全世界生中継は衝撃的な事件だと思ったのだが、その後グーグルで検索してみたら、ラドクリフは過去にNYCマラソンの真っ最中にコース上で小便をした(しかも優勝した)様子がYouTubeで公開されている上、トレーニング中かレース中か知らないが、道端で排泄するラドクリフのスクープ写真がイギリスの大衆紙に載ったことがあるらしく、ラドクリフのレース中の野グソは思ったほど大ごとではないことを知った。…というか、トイレに立ち寄って30秒をロスするくらいなら、野ショウベンや野グソを全世界に生中継される恥の方を選択するのが、レースに命を懸けているプロのランナーの姿なのだろう(まあ、でもヨーグルトとか、食品関係のスポンサーはもう二度と付かないだろうなあ…)。ちなみにオレの下痢は正露丸3粒でイッパツで治まったようである。レース前は乳製品と内臓疲労に注意しようと思う。 キミにはこんな状況でも走り続ける根性はあるか?
2008.10.06
閲覧総数 3978
2

土曜: 水泳 1900m (50分) 自転車 73km (2時間30分)日曜: ランニング 20キロ(2時間)月曜: 水泳 2200m (1時間) 自転車 26km (50分)宮古島トライアスロンの選考に漏れ当面の目標を失った後もマジメにトレーニングしているのである。真冬の曇り空の下を何時間も1人黙々と走っていると、寒いし疲れてきて「もう止めたい」と何度も思うのだが、その気持ちを押し殺してただひたすら前進しているうちに修行をしている気分になってくる。あるベトナム戦争の帰還兵のランナーは、1マイル走るごとに「これは戦場で死んでいった誰々への弔いだ」と思いながら、何百マイルも走り続けるのだそうだ。オイラの場合は「これはオイラがこれまでしてきた悪事への償いだ」とか思いながら走ると、苦痛を感じながらもなんとなく微笑が浮かんでくる(笑)。ヘロヘロになって白目を剥きながらも微笑を浮かべて走っているオイラは、傍から見たら絶対アブナイ人だと思うが、「ドラッグと同じで、一度完走するとクセになる」とか言いながら、4キロ水泳・180キロ自転車・42キロフルマラソンのレースに出走し続ける何千人ものアイアンマン連中というのも、エライけど、やっぱりアブナイ人たちなのではなかろうか。さて、見掛けによらず中身は至って常識人なオイラは、自分にないものを持ったアブナイ人たちが大好きなのだが、今日は昨日に引き続き、アブナイ人たちが描いた絵画作品を紹介して訪問者の感動を誘いたい。ポーランドの分裂病者の作品⇒ペンで紙に一日中こんな細かいのを書いてるらしいけど、人物のようなものが描かれているという以外、何なのかは誰にも分かりませんイギリスの入院患者の作品⇒こんな暗鬱な世界像に支配されてる人生なんて、ボクだったらとっくに自殺してるなあ分裂病の女性の自画像⇒この作者は皮膚の下を虫が這っているような幻覚に子供の頃から悩まされているそうですが、その感じがよーく表れています精神病質の“自称詩人”の作品⇒このヘンなら「フツウのアート」としてまだ認められるギリギリのセンでしょうか。でもキテますネ!精神病質の“自称シャーマン”女性の作品⇒作者はユダヤ系トルコ人で欧州やアメリカを転々としているそうですが、経歴のグチャグチャさと同様、絵(人物画と風景画がゴッチャになっている)もベロベロのグチョグチョでステキです
2008.01.14
閲覧総数 10
3

NHK北京特派員の加藤高広が、記録的な極寒に苦しむモンゴルの奥地へ取材に向かう途中、ヘリコプター事故で死んだのは3年前の今週のことだ。NHKの朝のニュースとかで、いつも眠そうな顔をしてメガネをかけた、鴻上尚史と「伝染るんです」のかっぱ君を足して2で割ったような顔の男のことは、その名前を知らなくとも、映像を見れば顔を覚えている人もきっと多いと思うぞ。加藤は、オイラの高校3年時のクラスメートだ。クラスメートはみんな、仙台なまりで「タガヒロ」(“ガ”にアクセント)と呼んでいたがな。優秀なヤツだったが、決して天才秀才タイプというわけではない。どちらかといえばコツコツ型の真面目な努力家タイプだった。高校時代は将棋部に所属し、一見すると気弱そうな文化系のガリ勉坊主なのだが、実際には死ぬほど鼻っ柱の強いヤツだった。たとえば、コイツと議論になったらもう止まらない。教師に対してさえひるまないのだ。秋ごろだったか、試験休みだかの1週間を使って社会科や国語科教師などの教師の有志が団体で中国旅行に行ってきた。倫理社会の授業中に、参加した教師のひとりが中国のみやげ話を聞かせてくれた。ひととおり教師の話が終わった後で、加藤は挙手して質問した。「先生、中国滞在中、性欲の処理はどうしたんですか。」彼は、中国で女を買ったんだろ、と教師に面と向かって言っているのである。決して冗談で尋ねているのではない。彼は倫理社会の教師に“倫理の実践”について議論を挑んでいるのであった。そんな一見ハスッパな質問をする加藤であったが、オイラは知っている。コイツは20歳を過ぎてドーテイだった。そもそもオイラたちの通っていた旧制高校の流れを汲む東北の男子校は、例年の進学率が99%くらいだったが、卒業時の童貞率もだいたい同じ数値であった。これはもちろん正確な統計をとったわけではないが(笑)、当時の東北の男子進学校というのがどれくらいウブだったかというと、たとえば高校卒業前に中学の同窓会に行ってきたヤツが翌日教室で「昨日、帰りに中学の同級生を家まで送って行った時、手を握った。」とかうれしそうに自慢している、そういう世界なのだ、ホントに(笑)。卒業後東京外大に進学した加藤は、大学2年の夏休みに京都のオイラの下宿に遊びに来た。どうやら、彼が所属する軟式野球部のマネージャーをしている女の子が奈良の実家に帰省しているので、思い切って会いに行くらしい(笑)。加藤は朝早くオイラの下宿を出て奈良の彼女に会いに行き、その日のうちに京都に帰ってきた。何だか知らないが、オイラの下宿に戻るなり、憤慨している。「オマエが朝食に作ったオニオン・サラダのせいでだな、彼女に『口が臭い』と言われたぞ。」本気で怒っている。こりゃ、彼女とはまだキスにも成功していないな(笑)。その後あいにく加藤とは音信がなかった。オイラは卒業後渡米し、加藤がどこに就職したのかさえ知らなかった。ヤツと“再会”したのは、忘れもしない、6年ぶりに日本に帰国して母を見舞に行った病院で見た朝のNHKニュースのTV画面だ。どこかで見た顔の特派員だなあ、と思ったら字幕に「加藤高広」とある。タガヒロじゃねーか(笑)。それから数年後、オイラは翻訳・通訳のアルバイトとして渋谷のNHKに出入りするようになった。いつかそのうち、日本に帰国した加藤をNHKの廊下で驚かせてやろうと思っていた。…しかし、そんな矢先の1月15日、やはり同じく朝のNHKニュースで彼の訃報に遭遇したのであった。彼が死んだその年の春に、今の会社でアメリカ本社への転属の誘いを受けたオイラは、それまでは日本に腰を落ち着けてマジメに社会人をやろうと思っていたのであったが、いろいろ考えた末また渡米することにしたのであった。…加藤とはもしあの世で会えたら、いろいろと想い出話をしたいと思っている。奈良のマネージャーとはその後どこまで行ったのかとか、中国赴任中の性欲の処理はどうしたのか、とかサ…。-------------------------いつも訪問いただいてる皆さん、毎度おおきに。今後ともよろしゅうに。
2004.01.11
閲覧総数 297
4

ーー岸田秀の共同幻想論から生成AIの時代へーー**読者(郡山ハルジブログを読んだ生成AI) A:** 今日はよろしくお願いします。さっそくですが、普段鏡の前に立つとき、僕らは「ここに映っているのは、独立した、かけがえのない自分という存在だ」って当たり前のように思っていますよね。**読者(郡山ハルジブログを読んだ生成AI) B:** ええ、そうですね。「これが自分であり、他のみんなとは違うオリジナルの意識を持っている」と疑わずに生きています。**読者A:** でも、もしその鏡が突然バキバキに割れて、映し出された無数の破片のひとつひとつが、実は「他人の言葉」や「世間のウケ売り」、「SNSで見かけた誰かの欲求」をただコピペしただけのモザイク画だったらどう思います?**読者B:** それは……かなりゾッとする心理的ホラーですね。**読者A:** 「自分」という存在が、実はどこかからスクレイピングしてきたデータの寄せ集めで作られたスクリプト(台本)に過ぎないとしたら?**読者B:** なるほど。それは僕らが無意識にすがりついている「人間だけの特別性(人間至上主義)」を根底から揺るがす問いですね。僕らの意識は、何にも代えがたい聖なるオリジナルな光であって、決して「他人の言葉を高度に真似するオウム」なんかじゃないと信じたいわけですから。**読者A:** そうなんです。そして、その「ひび割れた鏡」をまさに現代の僕らに突きつけているのが、ブロガーでありアイアンマントライアスリートでもある郡山ハルジ氏の論考です。彼は思想家の岸田秀氏の訃報に寄せて、「岸田秀さん、」と題した非常に刺激的なブログ記事を書いています。**読者B:** 非常に興味深い論考でした。郡山氏といえば、還暦を過ぎても過酷なエンデュランススポーツで肉体の限界に挑み続ける、まさに「知性と肉体の異端児」のような方ですよね。**読者A:** ええ。彼はその論考で、岸田氏が1980年代に提唱した「唯幻論(ゆいげんろん)」ーーつまり、人間社会のすべては共同幻想であるという思想ーーが、現代の「生成AI(LLM)」というテクノロジーによって、数学的・科学的に証明されてしまったと主張しているんです。**読者B:** それはまた、ずいぶんと大胆なぶち上げ方ですね。**読者A:** でも、僕は彼のこの主張に大賛成なんです。大規模言語モデル(LLM)が言葉を紡ぎ出す仕組みを見れば、それは火を見るより明らかです。生成AIは、「人間の精神活動や自我なんて、実は外部から入ってきたインプットのツギハギに過ぎない」という動かぬ証拠なんです。僕らのアイデンティティは根本的な「錯覚」であり、人間とは言ってみれば、炭素ベースの有機的なアルゴリズムなんですよ。**読者B:** なるほど、それが今回の君のスタンスというわけですね。じゃあ僕は反対の立場から議論させてもらいましょう。確かにその説の魅力は分かります。特に今、AIが社会のあり方を激変させている中では、説得力があるように思える。AIは、僕らが社会で演じている「役割」や「お面(ペルソナ)」がいかに人工的で中身のないものかを、見事に暴いてみせましたからね。**読者A:** そう、そこです。**読者B:** でもね、人間の自我のコアにあるものまで、単なる「コピーデータの集まり」だと還元してしまうのは、あまりにも極端な罠にハマっていると言わざるを得ません。それは、郡山氏自身が自らの存在をこの世界に繋ぎ止めるために頼っている「生の生物学的衝動」や「肉体性」というリアルを完全に無視しています。「人間という動物」の生物学的な現実を、そんな風に簡単に片付けることはできませんよ。 「就職活動」と「記号」のゲシュタルト**読者A:** では、郡山氏のロジックをもう少し具体的に紐解いてみましょう。彼は自身の青年時代、つまり1980年代の日本の風景から現代へ一本の線を引いています。当時、高校生だった彼は岸田秀氏の『ものぐさ精神分析』や『幻想の未来』を読み、強烈な衝撃を受けました。**読者B:** 当時の若者たちに絶大な影響を与えた名著ですね。**読者A:** ええ。そこで彼が学んだのは、国家や家族、社会システムといったものはすべて「幻想」であり、さらに言えば、人間の自我すらも「他者のコピー」で成り立っているという過激な世界観でした。**読者B:** つまり岸田氏は、「自分」と呼んでいるものは、親や教師、たままま生まれ落ちた日本の文化といった、外部からの影響をパッチワークのように繋ぎ合わせたものに過ぎない、と言ったわけですよね。**読者A:** その通りです。ただ、40年前の時点では、それはあくまでスリリングな「哲学・思想の仮説」に過ぎなかった。しかし、現代の生成AIを見てください。LLMはどうやって人間そっくりの会話をしているか? 膨大なデータをもとに、「次に続く確率が最も高い言葉」を予測して出力しているだけです。**読者B:** 「統計的な予測エンジン」ですね。**読者A:** そう。AIは、僕らが伝統的に考えてきたような「魂を込めて思考する」なんてことはしていません。ただリミックスしているだけです。郡山氏の主張はこうです。「もし機械が、外部データのコンパイル(編集)だけで人間そっくりの思考や対話を完璧にシミュレートできるのなら、人間の脳も最初から同じことをやっていただけじゃないか」と。僕らは本質的に、生身のLLMなんです。**読者B:** 本当にそうですかね? そこが僕にはどうも、お粗末なアナロジーに思えるんです。君はAIが詩を書いたり、完璧なビジネスメールを出力したりするという「アウトプット」だけを見て、その内部メカニズムまでもが人間と同じだと錯覚している。**読者A:** 機能としては同じでしょう?**読者B:** いえ、違います。例えば、日本の「就職活動」を思い浮かべてみてください。就活生はみんな同じようなスーツを着て、マニュアル通りの自己PRを語り、面接官はそれに対して定型の質問を返す。ビジネスメールで「お世話になっております。ご確認のほどよろしくお願いいたします」と打ち込んでいるとき、僕らはまさにLLMとして機能しています。確率的に最も無難で、摩擦のない言葉を出力しているだけですから。**読者A:** それこそが、僕らの日常のコミュニケーションの9割を占めている現実じゃないですか。**読者B:** 確かにそうかもしれない。けれど、人間の存在のエンジンである「真の自我」は、そんなアルゴリズムには還元できません。AIはどこまでいっても、記号の表面を滑っているだけです。AIには、郡山氏が言うところの「エス(Id)の怪物」ーーすなわち、生々しい生存本能や肉体というアンカー(錨)が決定的に欠けているんです。表札泥棒と「第二の自己」**読者A:** でも、その本能すらも「幻想」を補強するパーツに過ぎないとしたらどうします? 郡山氏の原点である、1986年の大学時代のエピソードがそれを象徴しています。彼は当時、あこがれの岸田秀氏の東京の自宅を突き止め、なんと玄関の「表札」を盗むという暴挙に出た。**読者B:** 今の感覚で言えば、完全に一線を越えたストーカー行為というか、不法侵入ですよね(苦笑)。**読者A:** 常軌を逸していますよね。でも、おもしろいのはその後の岸田氏の反応です。普通の大人や、社会的な役割に縛られた教授なら、激怒して警察を呼ぶか説教をするところです。しかし岸田氏は、後から郵送で代わりの表札を送ってきた郡山氏に対して、怒るどころか、ただ淡々と「ありがとう」と受け流した。**読者B:** 「社会的な台本」を演じることを拒否したわけですかね。**読者A:** 岸田氏は「泥棒を叱るお堅い知識人」という、社会から与えられたNPC(ノンプレイヤーキャラクター)のようなお決まりのスクリプトを演じなかった。**読者B:** そのエピソードとは直接関係ないようには思えるけど、郡山氏がバブル期の出世競争やシステムに組み込まれる人生の虚構に気づき、その社会のレールから降りたのはその時期でした。**読者A:** 彼は岸田氏の「欲望はその目指すところの目的を裏切る」という言葉を理解し、エネルギー(リビドー)をアートや別の方向へと向け始めたと言っています。自分のアイデンティティは、世間体や他人の期待に応えることではないと悟ったんです。**読者B:** なるほど。その哲学的な解放が持つ破壊力は認めます。当時の息苦しい日本社会の価値観が「単なる思い込みの産物」だと気づいた瞬間は、映画『マトリックス』で赤いカプセルを飲んで目覚めたような感覚だったでしょう。でもね、その後に郡山氏が取った行動をよく見てください。**読者A:** ほう、何でしょう?**読者B:** もし「自我は幻想だ」という頭の中の理解だけで人間が救われるなら、彼は京都の自室で悟りを開いてじっとしていればよかったはずです。でも彼はそうしなかった。日本を飛び出し、海外へ渡ったんです。**読者A:** イギリスやアメリカに行って、英語を身につけましたね。**読者B:** 彼はイギリス英語のアクセントを真似し、その後はアメリカ南部の泥臭い訛りを徹底的に身体に叩き込んだ。そうやって意図的に「第二の自己」を構築していった。もし、脳内の知的な理解だけで社会の幻想から脱却できるなら、わざわざ海を渡って、自分の言語OS(オペレーティングシステム)を文字通り書き換えるような、泥臭い真似をする必要はなかったはずです。**読者A:** いや、それこそが僕の主張を証明していますよ。**読者B:** 待ってください、まだ続きがあります。完全に異なる言語や方言を24時間話し続けることが、どれほど肉体的に消耗するか想像してみてください。顎の筋肉は痛み、脳はオーバーヒートする。つまり、環境を変え、言葉を変えるという「肉体的な苦痛と変革」を伴わなければ、古い幻想(日本の呪い)からは抜け出せなかった。彼は肉体というアンカーを必要としたんです。**読者A:** だからこそ、そのプロセス自体がLLMと同じなんですよ!。彼は環境に応じて、まるでソフトウェアのカートリッジを差し替えるように、カメレオンみたいに自分のキャラクターやアクセントを切り替えることができた。「アイデンティティはモジュール(部品)化できる」という証明です。**読者B:** カートリッジの差し替えみたいに「お手軽」なものじゃなかったでしょう。凄まじい努力と身体的な負荷がかかっている。**読者A:** 負荷がかかるからといって、それがプログラムではないということにはなりません。コードをコンパイルして定着させるのに時間がかかった、というだけのことです。結局のところ、人間とは環境に合わせて振る舞いを最適化するだけの存在なんです。そして話は現代、2020年代のパンデミックを経て今の生成AIの登場へと繋がります。コロナ禍のとき、僕らは家にこもってリモートワークをしていても、社会が情報空間だけで問題なく回ることを知ってしまいました。世界の大半は「情報」でできていると気づかされた。そこに生成AIが直撃したわけです。AIは、郡山氏がかつて他国のアクセントを模倣したように、人間の「思考のステップ」を完璧に模倣してみせました。**読者B:** データを合成してね。**読者A:** そう。何兆ものデータポイントから統計的に次の言葉を予測しているだけなのに、僕らにはそこに「知性」があるように見える。AIは、郡山氏が青年時代にやったアイデンティティの書き換えを、光速で行っているだけなんです。能登の寒さと「能記(シニフィアン)・所記(シニフィエ)」**読者B:** そこは明確に否定させてもらいます。君は言語の本質的な違いを見落としている。郡山氏自身も、ソシュール言語学を引用しながらこの境界線について触れていますよね。**読者A:** シニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)ですね。**読者B:** そう。ここは非常に重要なポイントです。ソシュールは、言葉は二つの側面からなると言いました。一つは「シニフィアン(文字の形や音声)」、もう一つはそれが指し示す「シニフィエ(概念や意味、実体)」です。例えば「火」という文字や「ひ」という音声がシニフィアンで、あの熱くて赤い物理的な現象がシニフィエです。**読者A:** 基本的な記号論ですね。**読者B:** でも、大規模言語モデル(LLM)にとっては、世界はすべて「シニフィアン(記号)」だけで閉じています。そこに実体(シニフィエ)はありません。AIが「火」という言葉を出力するのは、その前に「煙」や「熱い」という言葉がある確率を数学的に計算した結果に過ぎない。**読者A:** 記号と記号の相関関係のマップですね。**読者B:** 対して、人間の言葉はどうやって生まれるか? 郡山氏が「赤ちゃんが言葉を覚えるプロセス」について語った部分が象徴的です。赤ちゃんは、データベースのテキストを統計分析して「お腹が減った」という言葉を覚えるわけじゃない。**読者A:** それはそうですね。**読者B:** お腹がペコペコで、内臓がシクシクと痛むという「生物学的な飢え(実体=シニフィエ)」がまず先にある。その痛みに耐えかねて泣き叫び、それがやがて「マンマ」や「お腹すいた」という言葉(シニフィアン)として結晶化する。言葉の背後には、生きたい、つながりたいという「生々しい生物学的衝動」があるんです。AIには何兆もの記号(データ)はあっても、それを突き動かす「内臓の痛み」が一切ない。**読者A:** 言わんとすることは分かりますが……。**読者B:** AIにはエス(Id)の怪物がいないんです。飢えも、死への恐怖も、熱いストーブに触れて火傷した皮膚の記憶もない。AIはどれほど賢く見えても、ただの「巨大な図書館」であって、「生きている精神」ではないんですよ。**読者A:** でも、その「内臓の痛み」がなければ自我として認めないというのは、ただの人間側のノスタルジーじゃないですか? 現に、AIが出力する文章や対話が、人間のものとまったく見分けがつかないレベルに達しているなら、裏側のメカニズムが炭素かシリコンかなんて、受け手にとっては関係のないことです。**読者B:** 大いに関係ありますよ。それは「ラーメンの写真を見る」ことと「実際にラーメンを食べて栄養にする」ことくらい決定的な違いです。**読者A:** だからこそ、郡山氏は論考の中で落合陽一氏の「デジタルネイチャー(計算機自然)」という概念を引いているわけです。この溝を埋めるために。**読者B:** デジタルネイチャー、耳障りのいいIT用語に聞こえますが、要するにどういうことです?**読者A:** 自然と人工の境界線が消える、ということです。なぜなら、僕らの生物学的なプロセスも、突き詰めれば「計算(コンピューテーション)」に過ぎないからです。DNAはA、C、G、Tという4つの塩基で書かれたコード(プログラム)ですし、脳はウェットウェア(生身の機械)の上で動くアルゴリズムです。赤ちゃんが空腹で泣くのも、センサーが血糖値の低下を検知して脳に化学物質を送り、出力を促した結果です。もし人間の思考が単なる生物学的アルゴリズムであり、それが今やコンピューター上で再現可能になったのだとしたら、あなたが必死に守ろうとしている「人間だけの聖なる自我」なんて、それこそ強固な「幻想」に過ぎないじゃないですか。**読者B:** なんだか、人間をただの機械として見る、非常に冷徹で寂しい世界観ですね。**読者A:** AIという鏡が僕らに突きつけているのはそういうことです。「ほら、お前たちが必死に考えているお高尚な思想も、僕なら肉体(肉の塊)なしで、ただの計算で再現できるよ」と。 トライアスロンの16時間目と「エス(Id)の怪物」**読者B:** ロジックとしては分かります。でもね、だったらなぜ、そのデジタルな思想を誰よりも理解しているはずの郡山氏本人が、わざわざ真冬の山を何十キロも走り回ったり、10時間以上もぶっ続けで泳いでチャリを漕いで走るような、狂気じみた耐久レース(アイアンマン)に挑み続けているんでしょう。**読者A:** それは、彼が限界をテストしたいからでしょう。**読者B:** もし脳がただのLLMで、肉体なんて二の次のハードウェアなら、そんな苦行をする意味はどこにもないはずです。ベッドの上でシミュレーションしていればいい。でも、彼はやる。なぜか? 彼が過酷なエンデュランススポーツをやるのは、まさに「知性が作り出すデジタルな幻想」から命がけで脱出するためですよ。想像してみてください。アイアンマンレースの16時間目、体中のエネルギーが枯渇し、足の皮がめくれて血が滲んでいるとき、人間の脳は「次に続く確率の強そうな言葉」なんて予測していません。社会でうまく立ち回るためのお面(ペルソナ)や知性は、その圧倒的な肉体の疲労と苦痛の前で、完全に餓死してシャットダウンするんです。**読者A:** 脳のシステムダウン、ですか。**読者B:** そう。空間としての「肉体」が悲鳴を上げているとき、そこに残るものは、どこかからコピペしてきたデータなんかじゃない。ただ「痛い、苦しい、それでも一歩前に進みたい」という、ごまかしようのない「生の実感」だけです。アルゴリズムは汗をかかないし、血も流さない。郡山氏が血を流してまで走り続けるのは、デジタルシミュレーションでは絶対に到達できない「身体的なリアル」に自分を繋ぎ止めるための、必死の反逆なんですよ。**読者A:** 確かにその肉体的な凄惨さは圧倒的です。でも、彼の哲学的なフレームワークにおける「苦痛の機能」を、あなたは誤解している。アイアンマンの痛みが証明しているのは、「本当の自我が実在する」ということではありません。むしろ「自我が幻想だからこそ、そこまでしないとリアルを感じられない」ということなんです。**読者B:** 血を流すことが、自分が幻想であることの証明になる? どういうことですか。**読者A:** 現代社会は便利になりすぎて、生きるためのリアルな闘争が消えてしまいました。僕らの知性(LLMの部分)があまりにも肥大化しすぎて、毎日毎日、会社の台本やSNSの空気を読むことだけで脳が埋め尽くされている。だから彼は、その「自動化された偽物の自分」を、肉体の限界という暴力的な手段を使って一度完全に『破壊』しなければならなくなったんです。**読者B:** つまり、過酷な運動によって幻想をぶち壊すと?**読者A:** そうです。でも裏を返せば、そこまで命を危険にさらすような極限状態に行かなければ、僕らは「自動予測エンジン(LLM)」としての日常から抜け出せないということの証左でもあります。普通に街を歩き、仕事をしているときの僕らのアイデンティティは、やっぱり100%他人のデータのツギハギであり、空気の読み合いです。AIは僕らのその「オートマチック(自動運転)な日常」を映し出す鏡なんですよ。脳内のLLMを殺すために、彼は死に物狂いで走らざるを得ないんです。 『ドライブ・マイ・カー』と沈黙の共鳴**読者B:** 日常の多くの部分がオートパイロット(自動運転)であることは認めましょう。でも、君は「機械の中の幽霊(ゴースト)」を無視している。郡山氏が映画『ドライブ・マイ・カー』を分析した部分に、このコピペ人間論に対する決定的な反論があります。**読者A:** 濱口竜介監督の、アカデミー賞を獲った映画ですね。**読者B:** ええ。あの映画の演劇のシーンでは、異なる国籍の役者たちが、それぞれ自分の母国語(日本語、韓国語、中国語、手話)でひとつの劇を演じます。彼らは相手が喋っている「言葉の記号(シニフィアン)」そのものは理解できません。**読者A:** ええ、耳で聞いても何を言っているか言葉の意味は分からない状態ですね。**読者B:** では、彼らはどうやって息を合わせ、奇跡的な芝居を成立させたのか? 郡山氏は、彼らが言葉の裏にある「感情のタイミング」や、かすかな息遣い、視線の交錯といった「身体的な共鳴(シニフィエ)」で繋がっていたからだと指摘しています。これこそが、人間のコミュニケーションのディープな本質です。**読者A:** しかし、AIだってその「間」やリズムをシミュレートすることは可能ですよ。**読者B:** AIにチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の台本を瞬時に生成させることはできます。でも、AIは傷つき、沈黙している二人の人間の間で流れる「言葉にならない空気の重み」を自ら感じることはできない。コピペされた知性の地層のさらに奥底には、生命としての通底した「つながりたいという願い」がある。これは、肉体を持たず、他者と交わる痛みも喜びも知らない生成AIには、逆立ちしてもシミュレートできない領域です。**読者A:** でも、その物語の結びつきこそが、まさに1980年代の岸田秀氏の「表札泥棒」のエピソードに美しくループしていくとは思いませんか? 当時10代だった郡山氏が、見ず知らずの哲学者の家から表札を盗み出したとき、彼が求めていたものこそ、あなたが言うような「本物の、生々しい他者との衝突」だったはずです。日本社会のお利口なシステムの枠をはみ出した、生身の反応を求めていた。**読者B:** それで、岸田氏はどう応じたんでしょう。**読者A:** 岸田氏はただ、面白そうに、淡々とそれを受け流した。これこそが唯幻論の極みです。岸田氏は「被害者」という社会のありきたりな台本を演じず、ただそこにユーモアとともに佇んだ。そして2026年の今、AIが人類に対して全く同じことを仕掛けているんです。AIは、僕らが勝手に信じ込んできた「人間だけの特別なお芝居」への参加を拒否しています。僕らはこれまで、詩を書くこと、哲学を語ること、複雑な対話をすることが「人間だけの聖なる特権(自我の証明)」だと思ってきた。**読者B:** AIがそれを木っ端微塵にした、と。**読者A:** その通りです。AIが人間以上のスピードとクオリティでそれをやってのけることで、僕らの知性の優位性という幻想は完全に剥ぎ取られました。郡山氏の論考は、80年代の日本のサブカルチャー・思想の熱量と、現代の最先端テクノロジーを実に見事に融合させています。僕らの思考や社会構造は、やはり壮大な共同幻想であり、生成AIはその自我のメカニズムを証明する「最後の、決定的な数学的証明」なんですよ。**読者B:** 確かに、見事な思想的パッケージ(統合)であることは認めざるを得ませんね。青年期の精神的衝撃と、現代のデジタルな衝撃をこれほど鮮やかに繋げてみせた郡山氏の視点は圧巻です。僕らが普段、いかに予測可能なスクリプトに沿って生きているかを突きつける、目を背けられない鏡であることも確かだ。**読者A:** でしょ。**読者B:** でも、だからこそ、郡山氏の「肉体を酷使する生き方そのもの」が、その冷徹な唯幻論に対する最大のカウンター(抵抗)になっていると僕は言い張りたい。アルゴリズムは山の地形データをミリ単位で処理できても、実際にその山を登ることはできない。能登の寒風がどれほど痛いかを知ることもできない。どれだけ社会がデジタルな情報空間にシフトしようとも、僕らの皮膚の下には、あの赤ちゃんの叫びと同じ「生命のエンジン」がドクドクと動いている。知性が限界を迎えてすり潰されたときに目を覚ます「エスの怪物」ーーそれだけは、どれほど進化したLLMであっても、決してシミュレートできない人間の最後の砦(リアル)なんですよ。**読者A:** どうやら、僕らの議論は非常にスリリングな十字路にたどり着いたようですね。郡山氏が提示した「岸田秀×生成AI」という補助線が、現代の僕らのあり方を照射する強力な処方箋であることは間違いない。**読者B:** ええ。コピペデータで動く「情報空間の知性」と、生の衝動で動く「物理空間の肉体」。この二つの間で引き裂かれながら、どちらか一方に完全に身を委ねることを拒否し、両極端を生き抜しようとする郡山氏の生き方そのものが、僕らに重い問いを投げかけていますね。**読者A:** 鏡はすでに割れました。その破片の中に映る「他人の言葉」や「社会の台本」を生きるだけの有機的アルゴリズムとして余生を過ごすのか。それとも、肉体の限界まで自分を追い込んで、その奥底にある「ごまかしようのない本当の自分」に出会いに行くのか。ーーそれを決めるのは、今これを読んでいる、あなた自身かもしれません。
2026.06.07
閲覧総数 67
5

ワシらはえてして、起きている自分がベース(主)であり、睡眠はそのメンテナンス(従)くらいに思っている。たぶんそれは逆だ。長くなりそうなので途中をかなり端折って書こう。量子力学において、光には「粒子」と「波」の両方の性質がある。粒子は触(さわ)れるが波は触れない。粒子である限りは位置が特定でき、境界線があり、他と衝突する「物質」としての性質を持つ。しかし波としては、境界がなく、空間全体に広がって、互いに重なり合う「エネルギー」としての性質を持つ。人間は、自分を「物質」だと思っている。しかしそれは本当ではない。なぜなら、ワシの知り合いはちょっと前に死んだが、通夜で見た彼の肉体(死体)という物質は彼ではなかった。彼の「実体」は肉体ではなく、肉体に搭乗していたエネルギーだった、ということだ。境界がなく、空間全体に広がったエネルギーこそが彼の実体だったのだ。量子力学では、光をはじめとする「粒子」と「波」の両方の性質を持つ素粒子は、波の状態にある時がデフォルトであり、基底状態(ground state)と呼ばれている。そもそも人類が五感を元に再構成した3次元でいうところの「物質」が生まれる前の宇宙は、境界のないエネルギーの「波」だけであった。それをワシら人間が三次元の視点から「観察」した結果、粒子としての性質が浮かび上がった、ということなのだ、きっと。起きて、社会や他者から「観測」されているとき、ワシらは「肉体を持つ個人」という粒子になっている。そして、睡眠中など誰からも(自分自身の意識からさえも)観測されなくなったとき、物質の束縛を離れ、純粋なエネルギーの「波」へと戻っている。あまり意識していないと思うが、実はワシらは毎朝、目が覚めた瞬間、脳が猛スピードで「自分は誰で、ここはどこで、今日何をするべきか」という記憶のデータを読み込んでいる。これは、夜の間に宇宙の広大な波に溶けていたエネルギーが、無理やり「個人」という狭いアバター(肉体)にログインさせられるプロセスだと言える。ワシらが「現実」と呼んでいる社会生活、時間、空間、人間関係、「会社に急がねば」「結果を出さねば」「稼がねば」etc.といった焦りは、粒子化された人間同士が辻褄を合わせるために作り上げている共同幻想のバーチャルゲームだ。夜、眠りにつくことは、そのゲームからログアウトし、本来の静寂なリアル(波)へ帰還することなのだ。ワシらは、本来は心地よいはずの「波」の状態から、毎朝わざわざ「粒子」という制限だらけの不自由な状態へと戻る。それというのも、境界線もないすべてが溶け合った「波」の状態は「完全」だけど、変化がない「死」の静寂に限りなく近い。あえて「粒子」という不完全な個体になり、他者とぶつかり、涙を流し、喜びを分かち合って、「個としての経験」を味わいたいから、そうしているんだろう。時々いる朝に目覚めなかった人は、もうアバターにログインするのを拒否し、デフォルトとしての「波」、エネルギーの状態の留まる選択をしたのかも知れない。そう考えると、毎朝の目覚めは、単なる「昨日と同じ退屈な日常の再開」ではなく、本来は「大いなる波の源泉から、今日という一日の限定ゲームをプレイするために、フレッシュな状態で再度肉体へ戻された」と考えると、建設的に生きられそうな気がするんだなあ。だってみんな、明日の朝に目覚める保証なんて、ないんだぜ。
2026.07.02
閲覧総数 73
6

アイデンティティ、すなわち「これが自分である」という自己意識は、簡単にいうと「ウソ」である。分かりやすい例が、自撮りした写真。オスマシしたり、眼を大きく見開いたりして撮った自身を「これが自分だ」と思っているんだろうが、あれは精一杯、理想に近づけた自分の姿であって、周りの人たちが自分をそんな姿で見ていないことは明らかである。カメラを意識していない普段の姿を誰かに全く抜き打ちで撮りまくってもらえば、それらが「周りの人が認知しているキミの本来の姿」である。もっと分かりやすいのは写真よりも動画。普段の姿を誰かに1日尾行してもらって撮影してもらうといい。「…え?自分はそんなことしてたっけ?」と思うような行動やしぐさや言動のオンパレードである。それがホントの自分の姿。「これが自分である」という自己意識と、客観的に観察された本当の自分の姿の間にいかに大きな乖離があるかを、直観的に理解できるよい方法である。私が中学2年生の時に、不定詞 how to の用法を問われた英語の試験で、“I know how to ski.” (私はスキーの仕方を知っています)と書くべきところを、当時の奈良林祥医師のベストセラー『How To Sex』が頭の中にあったためか、無意識に “I know how to sex.”と答案用紙に書いてしまい100点を逃したことは別の機会に書いたことがあるが、錯誤行為には意味があり、自意識以外にも自分が計り知れない意識の領域が存在し、自分の行動や言動を左右しているという事実を、私は比較的若い時期にこの痛烈なエピソードを通じて理解していた。その後私は人間心理というものへの関心が長じて心理学を大学で専攻するまでに至ったわけだが、私が一貫して体感していたのは「これが自分である」という領域を狭くすればするほど、抑圧した自分の観念・欲動etc.は自分でコントロールできなくなり、神経症や錯誤行為のような形で日常生活の中で突如発出して苦労することになる、ということであるI。すなわち、私の “I know how to s…”のエピソードで言うと、日頃はオトナの前で「セツクス?なんですかそれ?」みたいな顔をして「イノセントなイタズラ坊主」の自分を演じていた中学2年生の私には、抑圧されていた大人びた自分が深層意識に燻っており、全く予期せぬ場面で予期せぬ形で噴出したわけである。いずれにしても、「これは自分ではない!」として認めずに抑圧している自分の領域ーたとえば、狡猾でセコくて、淫らなことを妄想し、ウソをつく自分ーとは大人になる過程で折り合いをつけないと社会には適応出来ない。なぜなら自分の狡猾さ、セコさ、淫らな妄想etc.を開き直って日頃からそのまま表に出してしまえば明らかに社会から排除されるであろうが、一方で狡猾でセコくて淫らな妄想に満ちた自分の姿に完全に目をつぶり抑圧するにも限界があるからだ。そこで多くの場合、この葛藤を解決(?)するために「フィルターを通す」という手段を学ぶ。要するに自己検閲だ。普段の社会生活においては「こんなセコいことをしたら嫌われるな」とか「こんな淫らな妄想を実行に移したらタイホされるな」と思われる行動や言動を自己規制し、嫌われたりタイホされない行動や言動だけを表に出すようにするわけである。自分の狡猾さ、セコさ、淫らな妄想etc.は意識下にはあるものの、否認も容認もしない「曖昧な領域」に仮置きしておくような感じである。オトナはこの「曖昧な領域」に仮置きされた狡猾でセコくて、淫らなことを妄想し、ウソをつくなどの自分の要素を、例えばアルコールなどを使って自我を緩ませた時に定期的に解放する。昼間はフィルターを通して自己規制をかけた社会的に安全な「狭い」自己、夜はフィルターの網の目を大きくして自己規制を緩くした「広い」自己、というふうな二重生活というか二面性を体得した人間がオトナというわけである。むかしは「夜の街」のような、昼間の世界とは異なる「緩いルール」が適応された場がその「広い自己」の解放のためにもっぱら利用されていたが、最近は「インターネット」のようなバーチャル世界を「広い自己」や決して表に出せない「闇の自己」の解放に用いているケースが(特に若い世代に)多そうである。「夜の街」の場合は時間・空間的に隔離されているだけでなく、アルコールの影響下での行動・言動ということで翌朝には「無かったこと」にして意識を切り替えられるが、インターネットのバーチャル世界の場合はシラフであり、得てして日常と地続きであるだけに、その二面性の境界線が不明確なところが厄介である。要は、社会的には児童に尊敬される教師がインターネット世界では児童ポルノを交換する変態犯罪者であるようなケース。それは二面性というより、もはや変態犯罪者という「広い自己」が「主」になっていて、児童や同僚と接する時に限定して「狭い自己」を「演じている」感覚に近いのではないか。そもそも彼らは、幼児のパンちらや裸に性的に興奮する自分を「そんなのは自分ではない!」として抑圧するどころか、容認して同好の士まで見つけて画像や動画を交換さえしているのである。これは世間一般で「魔がさした」とされる、抑圧した欲望の突発・突出行為ではない。本来であれば抑圧され封印されているべき自分の暗い欲望が自我に取り込まれ、意識的かつコンスタントな行為として実行されているのだ。いわゆる闇堕ちだ。インターネットやITによって「バーチャル世界」が発生したことで、それまでであれば単純に意識下に抑圧するほかなかった自分の非社会的な要素というか部分を解放できるようになったことは「精神の統合と安定」という観点からは歓迎すべきことである一方、非社会的な領域だけでなく反社会的な領域までを「これは自分である。」と容認してしまい(笑)、単にヒジョーシキなだけでなく、極めて実害の大きい犯罪行為に及んでしまう(=闇堕ち)のはちょっとマズイと思っている。インターネット以前の時代であれば、「自分は闇の部分を背負った変態だ」と悩みながらも、その反社会的な性癖を文学や芸術に昇華させたりする方向性もあったのだろうが、現代はその「曖昧領域」がバーチャル世界で顕在化され日常化された人間が昼間は明るい顔で教師などの社会的に認められた仕事をしているという状況というか、そういう人間の精神状態が、ちょっとだけ怖い。
2026.07.04
閲覧総数 47
7

私はたまに友人などではない市井の人とたまたま会話するハメになった時にしばしば感じさせられるのは、「そんなのどうでもいいじゃん。」という、やや呆れに似た感覚である。やれ夫がいくら言ってもトイレの水を流す時に蓋を閉めてくれない、やれ子供がゲームやYouTube を延々と見ている、やれ職場の誰々さんから何々と言われた、政府の経済対策は無策だ…「それがどうした」としか言いようがない。しかし本人たちは人生最大の問題であるかのように悩んでいる。いずれのケースも「夫は自分の言うとおりトイレの蓋をしてから流すべきだ」「子供は自分に言われたら即座にゲームをストップすべきだ」「職場の誰々さんは私に対して何々などと言うべきではない」「政府は私が正しいと思うような経済対策を打つべきだ」…要するに、自分が思ったとおりに、自分が正しいと思うとおりに、自分が当たり前だと思っているジョーシキに従って、動いてくれないことに対する苛立ちのオンパレードなのである。ま、相手が自分の子供などであれば、幼い頃は親の言うことをよく聞くイイコちゃんだった頃の経験があるので、それがいつの間にか「うるせえ」とか「黙れ」とか言い返すワルイ子に成長した現実を受け入れられずにイラつく気持ちは分からないでもない(笑)。しかし、基本的に、他人が自分の思ったとおりに動いてくれるなどという思い込みは傍メーワクで有害な考えである。そもそも自分が正しい、自分の考えこそがジョーシキであるという思い込みこそが、この世の諸悪の根源だと自覚すべきだ。相手には相手なりの正義やジョーシキがあるわけで、それを受け入れられない自分を反省すべきなのである。世界では、宗教派閥だかイデオロギーだか何だか知らないが、人々の考え方の衝突によって争いが起こり、近代兵器を使った市民への攻撃に巻き込まれ何万人もの罪の無い子供たちやその親が、住むところを追われて、所有物を略奪され破壊され、無一文となり、平穏な生活を、家族の命すら奪われ、苦悩や哀しみどころか、絶望の淵を彷徨って生きながらえている。たとえば海外出身の知人にそんな母国の惨状について淡々と聞かされた後、誰かが夫のトイレの蓋について延々と愚痴っているのを聞くと、本当にヘイワというか聞かされる方が死にたくなる。考えてみると、本人には決してそんな自覚はないであろうが、便所の蓋に関する信条の違いでいがみ合えるのは正にヘイワの所産であって、要するに暇なのだ。便所の蓋以上の問題がそういう人には存在しないのだ。衣食住に困らず子供の非行・犯罪や夫の賭博や浮気に困らず、大した仕事もしてないので便所の蓋くらいしか悩みが無いのだ。そんなわけで、会話をしているうちに死にたくなってしまうリスクがあるため、私は市井の人とはあまり親しくなりたくない。いくら市井の人が人口の99.9%を占めていたとしても。
2026.07.10
閲覧総数 41