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かなり前ですが、NHKの「課外授業ようこそ先輩」で、マジシャンのマギー司郎さんが出ているのを見ました。 この番組は、著名人が自分の母校、小学校で、子ども達に一番伝えたいことを授業にして語るというような番組です。 最近、ノートにマギーさんのことが書いてあるのを見つけたので、書いてみます。 マギーさんは、子ども達に語りかけます。 「だめな所を見せても長い人生のうちには、全然マイナスじゃないの。 だめな自分をみんなに見せることですごく強くなれるっていうことは あるのよね。 マギーさんが、けっこういい例かもわかんないね。 マギー司郎っていう人間は、すごくね、内気だったの。 人前でもしゃべることも出来なかったし、もう勉強大嫌いでね。 一番だめなやつだったのよ。 マジックをやってね、生活しているんだけど、下手なのよね。 でも「下手だ」って言えなかった時期がね、20年ぐらいあったの。 「僕は下手です」って言えるようになってから、生活できるように なっているのよね。 だから、そういう点も少し考えてみてくれる。 そして、今までこれは、今まで隠していて言えなかった部分だけど、 これをきっかけに、ちょっと言ってみようかなって、それも思い出し ながらね、 みんな言えない事ってあるよね。言えないことあるよっていう子、 ちょっと手をあげてみてくれる? でも、僕みたいにね、全然何の問題もないよ、だめな所見せても、 笑ってくれるかもしれないよ」 マギーさんは、マジシャンになって10年は、全く受けずに 悩んでいたそうです。 「私も大変なの」って言ったら受けて、お客さんに笑ってもらえました。 弱さをさらけ出しているうちに、弱さが気にならなくなってきたのです。 他のマジシャンから「下手だ」と言われて、気にし続けた自分。 そう言えないことがコンプレックスだったといいます。 でも、言っても、なんともないことに気づいたのです。 マジックをしながらマギーさんは言います。 「でもね、50才過ぎてこれやるのって結構つらいのよ」 「あんまり上手そうな手品師じゃないよね、鮮やかさがないって 自分でも分かるもん」 子ども達も、だめな自分を語り始めます。 ある男の子が言います。「嫌なことあると八つ当たりしちゃう」 マギーさんはこう答えます。 「これって大半の人そうなんだよ。だけど、それは ほとんどの人は気づかないんだよ。マギーさんだってそうだと思うよ。 これに気づいただけでもすごいと思うよ。何で分かったの?」 今度は女の子が言います。 「算数、国語、運動が苦手です」 マギーさんは言います。 「これ、マギーさんと一緒じゃん。だから、これでいいんじゃないの。 算数も国語も運動も全部苦手です。でも、これからやる手品は、 算数も国語も運動も何も必要ありません。必要ないでしょ?」 この後、子ども達は、自分で考えた手品を、隣のクラスの子ども達の前で 発表します。 子ども達は、緊張して手が震えたり、言い忘れたりしながらも、最後まで やりとげました。 失敗した子ども達にも、マギーさんはあたたかく声をかけます。 「うまくいったよ、うん大丈夫」 「今日一番良かったのはどきどきしながらやってくれたじゃない。 間違えた子もいたよ、セリフ忘れちゃった子もいたよ。 みんな精一杯やってくれたもんね。だからすごくうれしかった」 最後に子ども達が授業の感想を言っていたのですが、ある女の子が こう言いました。 「勉強が出来なくても、生きれるし、運動が下手でも生きれるし、 どんな人でも生きてるということを学びました。」 女の子の言葉が、胸に響きました。 マギー司郎さんのあたたかい語り口に、 ほっとしました。 誰しも、人生という舞台で一生懸命やっている。 それだけでも十分なんだよ。 大失敗したり、もうだめだと思うことがあっても、 生きていけるんだよ。 どんなにだめなところがあったって、どんな人であれ、 生きていけるんだよ。心配しなくたっていいんだよ。 今のまんまで、大丈夫だよ。、 そう言われたようで、うれしくなりました。 仕事や学校、家庭でうまくやれているとき、人と楽しく 過ごせているとき、健康で、頑張れているとき、そんな 言葉は必要ないと思います。 また、そんな甘い考えでは生きていけないんじゃないか、 無責任じゃないか、と思われる方も多いのではないかと 思います。 でも、こうした言葉を心の引き出しにしまっておいて、 自力で何とも出来ないときや、元気のないときに 思い出してみるのもいいんじゃないかと思うのです。******************************人にやさしく自分にもやさしく。難しく生きずに「易しく」生きるのが私のモットーです。人の人生、最後は死ぬと分かっているなら、楽に生きていきたいですよね。 マギー司郎(マジシャン)
August 20, 2015
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何気なく、本棚を見ていたら、「良くしようとするのはやめたほうがいい」(村田由夫 著)という本の題名が、目に付きました。 この本は、私が、燃え尽きやうつで苦しんでいた頃、買った本です。 私は当時、人と接する仕事をしていたので、目の前の人を、「良くしよう」と必死になっていました。 人と接する仕事であれ、子育てや介護、看病であれ、家族で問題を持った人を抱えたときであれ、他人や状況を変えようとして、自分のエネルギーを注ぎ込み、一生懸命になればなるほど、燃え尽きの危険性は高くなります。 良くしようと努力するのが何が悪い?と怒られそうですが、「変えよう」とすることは、現状やその人、または自分を否定していることの裏返しなのです。 前に、私の親が「あなたのために言ってるのよ」と私を変えようとしていたことを書きました。 けれども、私も、自分に対してはもちろんのこと、他の人に対して同じようにしていました。 口には出しませんでしたが、本当には、人を信じていませんでした。 その人を信じていないので、いつも心配でたまりませんでした。 ありのままの相手を受け容れようと頭では思っていましたが、心の底では、「こうすればいいのに」「ああすればいいのに」と不満を感じていました。 多分そうした気持ちは相手に伝わり、相手を傷つけていたと思います。 相手を大切に扱うということは、相手を信じて、相手に敬意をもって接することではないかと思います。 それが、どんなに、自分より年が下であろうと、その人がどんなに苦しそうで助けを必要としているように見えても、一見問題を持っているように見えたり、弱いように見えても、その人には、自分で何とかする力があり、「そのままでいる自由」があるのです。 人を変える権利はないのです。 変えようとされた人は、「今のあなたではだめだ」と否定されたと感じるだけです。 大切なのは、その人を自由にさせてあげることではないかと思っています。 回復するのもしないのも、変わるのも変わらないのも、つらい考え方をするものしないのも、その人の自由であり、その人が選ぶことなのです。 外から不幸そうに見えても、その人が本当に不幸かどうかは分かりません。そもそも、その人の生き方をどうこう言う権利は、誰にもないのです。 どんな生き方をしようと、生きるのをあきらめないで生き続けている以上、誰もが平等に価値があると思うのです。 もちろん、つらそうにしている人のそばにいるのは、つらいことです。 何とか助けたい、でも助けることができない。 相手を助けられないと、自分のかかわり方が悪いのかと、自分を責めたり、変わらない相手を責めるようになります。 でも、自分のつらさを何とかすることはできます。 自分が気分が良くなること、自分の好きなこと、リラックスすること、自分を大切に扱うことはできます。 ほかの人は助けられなくても、自分で自分を助けることはできるのです。 そして、その人を信じて、その人の選んだことを尊重して、その人の人間性に敬意を払って、付き合う。 こちらが心配になるような行動をする人に対しても、情報は伝えるけれど、それ以上何もしないで、自分の心のケアに専念すること、そのことが大事だと考えています。 言うのは簡単ですが、本当にそうするのは難しいことです。 今、自分がそうしたつらい人と常時、接する状況にいないのに、言うのは気がひけますが、私自身、家族とのかかわりの中でも、心配になったり、つらくなったりすることがあります。 そんな時、自分に言い聞かせます。 あの人には、自分で解決する力があるのだ、と。 私には何もできないのだ、と。 あの人にはあの人のありようがあって、それは私とは違うのだ、と。 自分を心の底から信じれるようになれば、どんな人のことも信じられるようになるような気がします。 いつか、そうなりたいなあと思っています。*********************************************************************理解すべき重要なことは、まず第一に「物理的な存在としての君の目からどんな風に見えたとしても、全ては本当にうまくいっている」ということだ。「サラとソロモン」エスター&ジェリー・ヒックス著 ナチュラルスピリット より
December 10, 2005
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この頃ブログを更新できなかったのは、親知らずを抜いた後の、痛みがひどくなり、気力がなくなっていたからでした。 抜いて、三日目ぐらいまでは、一週間ぐらいは痛むだろうけど、そうだとしても、日に日に楽になるだろうと思っていました。 それが、一週間近くたつのに、朝は痛みで早く目が覚めて、何かおなかに入れて痛み止めを飲み、その後も一日中痛み止めを飲んでいないと(飲んでいても)、すごく痛む状態が続いています。 時間がたてば必ず治る・・・・とは知っていても、先週は家事以外はほとんど何もできず、すっかり、気持ちがめいってしまいました。 ブログに嫌なことがあったときは、ハッピーを探しに行こうなどと書いていましたが、外に出る元気もないので、音楽を聴いたり、本を読むともなしに読んでじっとしているのが精一杯でした。 私の母親は歯が悪くて、長年、歯の痛みや義歯の不具合に悩んでいたのですが、歯や歯ぐきが痛いっていうことの「意味」を初めて知ったような気がしました。 痛みというのは、本当に個人的なものです。 歯医者さんに「もっと腫れている人もいますよ」と言われても、痛いのです。 痛みに対して、自分に何もできることはなく、早く日にちが過ぎていくのを願いながら、日々じっとして待っているだけしかできません。 私は、心の傷、心の痛みについて、思いを寄せました。 体にしても、心にしても、痛いという「意味」は頭で知っていても、体験しないと、その「本当の意味」を理解することはできまないのだと思い知らされました。 体験を通して「意味」を理解するのです。 だから、「うつ」という言葉も、それぞれも人に、その人が落ち込んだときの自分の経験からこういうものだろうというイメージがあるように思います。 この間、週刊誌で雅子さんに関する記事を読みました。 皇太子様がかわいそうというニュアンスで書かれていました。 皇太子様は、「雅子の存在自体に感謝しています。」という言葉を言われるなど素晴らしい方ですが、それでも雅子様の心の苦しみは、言葉に言い尽くせないものだと察します。 私も雅子様の気持ちは分かりませんが、分からないなりに、何年にもわたり体の激痛が消えないぐらい苦しいと思っています。 私は、体の一部分の痛みがたった一週間続いただけで参ってるわけです。 けれども、心の悩みが空っぽであることに気づきました。 前は、心の苦しみによって、今回と同じように一日中苦しく、薬なしでは何もできなかったのです。 そして、薬を飲んでも、楽しいことが何もできなかったことを思い出しました。 とにかく、一日を過ごすだけで精一杯だったことを。 苦しみに対して、自分が無力だったことを。 苦しみは通り過ぎると、記憶が薄れてきます。 そして、今苦しんでいる人に共感しにくくなります。 今回のことで、いろんなことを考えることができました。 これぐらいでこんなに痛いなら、手術したり、大けがした人はどんなに痛いだろうか・・・・・・・。 長年、痛み止めを飲みながら、または、心の痛み止めを飲みながら生活しなければいけない人、どんなにつらいだろうなあ・・・・。 ルイーズ・ヘイという人は、体のトラブルは心の問題が創り出したものだとしています。 「歯」というのは、「決意」を象徴していて、「親知らず」は、「しっかりした基盤をつくるための心の余裕を与えないこと」が、原因として考えられるとしています。 「なんとかしなきゃ」というあせりを完全に手放し、人生を信頼しゆだねていくことが求められているのかも知れません。 こんなにいろんなことに気づかせてくれた、親知らずくん。 もうしばらく親知らずくんの存在を感じていられそうです。 でも、コラージュ講座の日までには、治ってね。****************************************************** わたしにとって、痛みはどんなものであっても罪悪感のしるしである。 罪悪感は常に罰を探し求め、罰は痛みを生む。 慢性の痛みは慢性化した罪悪感から生じる。 ルイーズ・L・ヘイ著 すべてがうまくいく「やすらぎ」の言葉より
March 5, 2007
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