経堂界隈

経堂界隈

September 2, 2009
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カテゴリ: 経堂町小史
今年の9月1日は、関東大震災(大正12年=1923年)から86年である。

***

 1923年9月1日,土曜日。前夜からの風雨が収まって陽射しも出はじめ,まもなく正午になろうとしていた。11時58分32秒。神奈川県西部から相模湾,さらには千葉県の房総半島の先端にかけての地下で断層が動きはじめた。関東地震のはじまりである。
 東京中心部が揺れはじめたのは11時58分44秒ごろ。昼食時の火の使用と重なって,倒れた家屋から各地で出火し,東京と横浜は大火災に見舞われることになる。
 大火災の拡大は,当日の気象状況にも原因があった。図1に示すように,能登半島近くに弱い台風があり,地震発生時刻には関東地方でも相当の強風が吹いていたのである。

toku01-01.jpg

(一部略)延焼区域だが,地震発生1時間後の午後1時には隅田川の両岸に点在する程度であった。ところが時間の経過とともに火勢は拡大していき,翌日午前3時には東京の下町の大部分が炎に呑み込まれていた。
 こうした火災被害については,じつは関東地震の以前から警鐘が鳴らされていた。当時,東京帝国大学地震学教室の大森房吉教授と今村明恒助教授のふたりは,東京で地震が起こればあまり強い揺れでなくとも,水道管が破壊されて消火活動の大きな障害となり,大火災が発生する危険性を警告していたのである。
 ふたりは長年にわたって当局に対策を迫ってきたが,具体的な対処のないままに関東地震を迎え,警告が的中する結果となった。火災が完全に鎮火したのは,地震発生から丸二日経った9月3日午前10時ごろといわれる。地震と火災をあわせた犠牲者は,旧・東京市15区だけでも6万6,000人に達した。

鹿島ホームページ「特集:関東大震災を知る」より



この地震、東京の被害ばかりが、大きく今に伝わるが、それは、この地震が、知られる限りにおいて、史上最大の死者(105,000人、従来は142,800人)を伴う日本最悪の自然災害であり、その人的被害の過半の70千人余が東京に集中していたことによる。震度からみると、その大きさは、より震源に近い神奈川、及び南房総において東京を上回り、埼玉県南部がそれに次いでいる。

toku02-03.gif

関東大震災において、被害の規模が大きく、しかも、被害の範囲が、静岡から千葉、埼玉までの広範囲に及んだ背景は、
この地震が、単一のものではなく、
11時58分に始まった本震が、ふたつの大きな断層の滑りが短時間に連続した「双子地震(最初の大きな断層の滑りが神奈川県の小田原の直下で発生し,約10~15秒後に三浦半島の直下で2度目の大きな滑りが起こったと考えられる)」であり、
それに引き続いて、
12時1分に、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.2
12時3分に、山梨県東部を震源とするマグニチュード7.3
それぞれの余震が連続して発生する、
広範囲、複合的な構成のものであったことによる。
したがって、関東大震災の揺れは3回であったと伝わっている。
(以上鹿島HPによる)

tokyo-1.jpg



むろん、これは、東京を襲う地震全てに当てはまるものでは毛頭ない。

蘆花公園の主、徳富蘆花の「みみずのたはごと」は、関東大震災関係のことを次のように書いている。

九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道筋(すじ)には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転(ころ)んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途(かえり)に立寄って、廊下の壁の大破(たいは)を片づけたり、地蔵様を抱(だ)き起したりしてくれました。後(あと)は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株(かぶ)立ちの山楓(やまもみじ)の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の(かしわ)の木に提灯(ちょうちん)つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者(りさいしゃ)です。九月一日、二日、三日と三宵に渉(わた)り、庭の大椎(おおしい)を黒(くろ)く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦(こが)す猛火の焔(ほのお)は私共の心魂(しんこん)を悸(おのの)かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷(いた)めます。関心する人人の安否を確(たしか)むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃(ふ)を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然(そう)です。世界戦に日本は手(た)ずさわるとは云う条(じょう)、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱(くげん)を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処(どこ)の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝(つ)かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭(むち)は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲(こ)らしめざる子あらんや」と云う筆法(ひっぽう)から云えば、災禍(さいか)の受け様(よう)にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥(おびただ)しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇(まっくら)に逆上(ぎゃくじょう)します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞(はず)かしい事です。

***

「千歳村は幸に大した損害はありませんでした、甲州街道筋(すじ)には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが」とあることからも、千歳烏山から八幡山駅にかけての甲州街道沿道(京王沿線)では、多少震度が大きかったことがうかがえるかもしれない。


小田急線の南側にある千歳郵便局の千歳は、千歳村の千歳であり、40年ほど前まで、この郵便局は船橋5丁目、赤堤通りの手前のところにあった。
経堂小学校の道を隔てた反対側はもう、千歳村なのだ。

関東大震災における一大汚点は、朝鮮人虐殺である。
申し訳ないことである。

1910年の日韓併合以来、朝鮮半島内外における反日独立運動は根強く、1919年3月1日を期して始められた三・一独立運動は、朝鮮半島全土に広がり、 200万人以上が参加、7500人を越す死亡者、15000人を越す負傷者を出して終わった。
当時、日本は列国中最大の兵力をもって、ロシア革命への干渉戦争であるシベリア出兵を行っているが、当時の日本では、共産主義者による赤色革命、テロが現実味を帯びた脅威として語られ、軍隊、警察においても、継続して警戒が喚起されていた。
一方、朝鮮独立運動においても、一部反日勢力は、すでにロシアのコミンテルンとの接触を始めており、日本国内においても、共産主義者、朝鮮人への警戒が、警察から自警団へと、十分な説明もなく、伝達され、一般市民の間に、いわれなき、朝鮮人への違和感、警戒感が醸成されていた。
そのような土壌のある中で、関東大震災が発生。
軍隊、警察、自警団が朝鮮人を拘束、一部を殺害する事態に至った。
警察関係の一部には、朝鮮人保護にあたった記録もあり、官憲側が意図的、組織的に朝鮮人を殺戮したわけではない。

無論、不名誉であり、徳義に欠けることでもある故、烏山において事件が積極的に語られることもないが、蘆花が著作で言及していることなどから、かの地において、朝鮮人が殺されたことは、事実であろう。
経堂の属していた世田谷町でも、世田谷町事件と呼ばれる震災時の事件が記録されている。
朝鮮人暴動という流言飛語が、朝鮮人虐殺までに至る発端は、「目黒の火薬庫が爆破された」
「銃器・兇器を携(たずさ)えた鮮人約二百名、玉川二子(ふたご)の渡しを渡って市内にむかって進行中との流言あり」なる、渋谷署、世田谷署、中野署からの報告があって、多摩川の対岸「高津」の半鐘を聞いた世田谷警察署長が、署員を出動させたところにある。
世田谷は実はこの騒ぎの渦中にあったのだ。

隣村の上北沢(現在の桜上水)には、朝鮮人への警戒喚起の連絡に基づき、「大南」に張り番を設けた記録がある。大南とは、ライオンズガーデン世田谷経堂、つまり、緑中からの道が、赤堤通りを超えて、経堂から来るすずらん通りにつきあたるあたりのことで、旧上北沢本村が瀧坂道に接する場所である。

十分な説明もなく(立場上、日韓併合は韓国王室からの申し入れを天皇が受け入れるという形式をとっており、反日運動を発生させるがごとき、無理やり併合したとは言えぬところ)、警戒感を喚起することは、朝鮮人に対する言われなき、不信、恐怖をあおることにつながり、今日いまだ彼我間に残る、不信、不和の原因を為す。
言われなき警戒感は、やがて、嫌悪感、不信感、恐怖感を助長し、自警団によるリンチにつながっていった。
韓国併合は、日本から見れば、ロシアの南下志向との間に緩衝地帯を設けんと企図するもの、国家防衛策の一環である。我が国の併合により、朝鮮半島に国家社会のインフラが整備されたのも事実である。
しかし、彼らから見れば、我らに先立つ文明国家を、我らが、我らが必要により蹂躙したこともまた、事実であり、傷つけられた誇りへの代償を求める心は世代を超えて続く。

関東大震災における朝鮮人被害は、「独立新聞」によれば6,415人。吉野作造によれば、2,711人、内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。
警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。

関東大震災における朝鮮人虐殺に対する日本政府の公式謝罪は行われていない。
朝鮮人のみならず、震災の記憶ももはや薄れた。
しかし、大阪朝日にして下に見るごとき、誤報の羅列。
言論の自由なきことは、人々を疑心暗鬼に追い込む。

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Last updated  September 4, 2009 08:59:45 AM
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