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人間関係のスタートは、挨拶をすることから始まる。しかし、これが結構、簡単なようで難しい。私はどうも、脳の認知細胞が少ないか、あるいは回路が一本足りないようで、人の顔を正しく覚えることできず、名前と顔がなかなか一致しないのだ。顔の認識能力に問題があるとわかったのはつい最近だ。モンタージュ記憶ゲームのようなものがこのパソコンについていて、それをやってみると私のレペルはとんでもなく低かった(他のゲームは、そこそこの点数を取れるのに)。その時初めて、今まで記憶力や覚える気のなさによると思っていた「顔と名前が一致しない」原因が理解できた。この弱点によって、今まで随分恥や失敗を重ねたものだ。「あ、Aさんだ」と思って話をしていて、途中で違う人だとわかった時のバツの悪さ・・。町で人に呼び止められて、それが誰だかわからずに冷や汗をかいたりなどは、日常茶飯事である。体験的に、私は三回以上しっかりと会話しなければ、その人と出会ったときに「どこの誰か」を思い出せない。だから、町を歩く時はいつも緊張してしまう。誰かと目が合って会釈などされてしまうと、頭の中はチカチカと火花が散る。いつも、「私は名前と顔を覚えることがとても苦手な欠陥人下だ」と公言しているので、数回しか会ってないと思う人には、素直に「ごめんなさい、どちら様でしたか?」と聞いたり「○○さんでしたよね」と確認したりできるが、確実に何度も会話していると感じる人に対しては、あまりにも失礼な気がして聞けないこともある。そのようなときに、会話の中でさりげなく情報を探り、次第に的をしぼってゆくテクニックは、経験を積んで身に付けてきた。結局名前を思い出すことができなくても、別れてからアドレス帳や名簿ファイルで確認することが出来るし、そのような作業をした人のことはさすがに覚えることができる。そうはいっても、次第に私も年を重ねてきて、記憶力そのものも低下してきた。その結果として、緊張しながら人と挨拶することが面倒になってきたのである。そこで次の知恵である。一つは、できるだけボーッとして人と目を合わさないように歩く。それでも誰かと会って、特に挨拶までしなくても良いと感じる人には、「とりあえず笑顔」で会釈し、相手が声をかけてくるより早く、サーッと身をかわしてしまう。今までは、できるだけ多くの人と良好な人間関係を作っておこうと努力していたが、「もういいや」という気分になってきてしまった。複数の地域活動を円滑に進めたいという欲がないわけではないが、無理せずに出来る範囲でボチボチやろうと思っている。とにかく、面倒な人間関係に巻き込まれるのだけはゴメンだ。嫌われたっていいや、というように思えるようになってきたのは、私が年をとったという証なのかもしれない。まあ、とりあえず笑顔戦術で、ボチボチいこうと思う。
2003年09月22日
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久しぶりに義兄夫婦が遊びに来た。長男(30歳)の結婚が決まったという、おめでたいお土産付だった。以前からこの長男のことについて心配していたので、「ワー、よかったですねえ。おめでとうございます!」と言うと、義姉はちょっと曇り顔で、「それがねえ、手離しでおめでたくもないのよ・・」と言う。咄嗟に私の脳裏には、いくつかの「おめでたくないバージョン」がチカチカ点滅した。「その気もなかったのに、出来ちゃった結婚」「お嫁さんが子連れ」「とんでもない(親子ほどの)姉さん女房」「身内にヤバイ人がいる」などなど。しかし、よく話を聞けばそのどれでもなく、私からみたら「親の理想の結婚ではない」ということだけ。内心(なーんだ)と思いつつ、「本人が好きで、相手もそれで良いと言ってくれて、二人が幸せなら何も言うことないじゃないですか」と言うしかなかった。ところが、次の言葉で私は一瞬絶句し、そっちの方がよほど問題ではないかと思ってしまった。「だってねえ、こっちが全部お金を出すのだから、少しは私達の希望も言っていいと思わない?」「えっ、結婚費用を全部親が出すんですか?」「だって、息子には貯金もないし(今まで、親と同居してたにもかかわらず?)、人並み(ってどんな程度?)のことするには、こっちがお金を負担しなくちゃ出来ないでしょ」私達は、息子夫婦が結婚する時には「自分達で出来る範囲で結婚しなさい」と言い渡した。もちろん、親だから相談には乗るし、親としてのご祝儀も出したけれど、それ以上は一銭も出してはいない。だから、結婚費用の収支も私達は知らないのだ。結婚はゴールではない。その時からシビアな二人の生活が始まるのだから、二人の愛情が強い時だからこそ、一緒に色々相談して「自分達らしい、身の丈に合った結婚式」をした方がよいと思っていたのだ。もちろん、親としての夢や希望がないわけではなかった。でも、それは「親の希望」であり、それを押し付けるのはご法度と、「金も口も出さない」ようにしたのだ。世間では、最近は親丸抱えの結婚式があると聞いてもいたが、まさかこんな身近にそのタイプがあったとは・・。本来なら、義兄家族のことなのだし、それぞれの価値判断ですべきだとは思うのだが、私にとっても可愛い甥のことでもある。甥の今後のためにもと、つい口出しをせずにはいられなかった。そして、息子夫婦の結婚式の経緯とか、私達の金銭的なけじめのつけかたなどを、参考までにという形で話した。そんなことは、今まで義兄夫婦とは話していなかったので、義姉は「へーっ、式の費用を負担しなかったの? 全然知らなかった。そんな方法もあるんだ」などと、本当にビックリした顔をされて、私はその反応にビックリしていた。もっとビックリしたこともあるのだけれど、もう書かないことにしよう。とにかく、親というものは本当に欲張りで、必要以上におせっかいになるものだと痛感した。人のことはよくわかるけれど、自分のことはわかりにくいものだ。偉そうに言ってる私だって、やっぱり欲張りでおせっかいなのかもしれない。気をつけなくちゃ・・。
2003年08月19日
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「また会う日まで」池澤 夏樹 著 /朝日新聞出版 海軍軍人、天文学者、クリスチャンとして、明治から戦後までを生きた秋吉利雄。この三つの資質はどのように混じり合い、競い合ったのか。著者の祖母の兄である大伯父を主人公にした伝記と日本の近代史を融合した超弩級の歴史小説。『静かな大地』『ワカタケル』につづく史伝小説で、円熟した作家の新たな代表作が誕生した。朝日新聞大好評連載小説の書籍化。〇長編小説の冒頭は印象的な場面からはじまる。主人公の秋吉利雄は病におかされ、死を前にして自らの生涯を思い返す。息子と一緒に行った球場で驟雨に打たれながら、自分の生きてきた道筋はどのようなものだったのか、改めて考える。天文学者として自分の手がつむぎだした計算結果が飛行機や軍艦を導き、人の上に爆弾や砲弾を降らせた。海軍の軍人であることは、クリスチャンとしての第六戒「汝、殺すなかれ」にあきらかにそむいたのだ。戦争に加担してきたことを悔いる。*長崎の熱心なクリスチャンの家庭で育った秋吉利雄は、難関の海軍兵学校に入学、優秀な成績で卒業した。その後、海軍大学校を経て東大で天文学を学び、海軍の水路部に入った。幼なじみのチヨと結婚したが、10年共に暮らしたチヨは長女の病気を世話するうちに感染して他界した。妻を失った利雄は職務に専念する。1934年、日本統治下のローソップ島へ、国内外の研究者を率いて皆既日食観測に向かい、大きな成果をあげた。島を離れる時に交流をふかめた島民がうたってくれた賛美歌「また会う日まで」が思いおこされる。この日にこそ私は帰りたい。アメリカへ留学経験もあるヨ子(ルビ・よね)と再婚し、養子にむかえた亡き妹の次男、チヨの遺した長女も交えて新たな生活がはじまった。 1937年、天皇陛下が水路部に行幸されることになり、天文・潮汐を掌理する部門を率いる立場からご説明を申し上げた。水路部で日本近海の調査業務にかかわったが、1941年、山本五十六大将によばれ、真珠湾の精密な潮汐表を求められた。 アメリカとの戦争がついに始まる。ミッドウェー海戦では、海軍兵学校の同期、加来止男(ルビ・かくとめお)が空母「飛龍」の艦長として戦死した。この年、養子にした甥の文彦が17歳で天に召された。ついに学徒出陣がはじまり、戦況は悪化したため、水路部は分散疎開がすすみ、東京郊外の立教高等女学校に水路部の井の頭分室を設置した。ここで生徒の協力を得て、天測暦が作られた。築地では信仰の仲間でもある聖路加の日野原重明医師とすれちがって、長い立ち話をした。1944年、甥の福永武彦が山下澄と結婚して、その後、夏樹が生まれた。 1945年3月10日の東京大空襲により、築地の水路部も被災したので、かねて準備していた岡山の笠岡に家族とともに疎開した。戦争が終わって、一家は東京に戻ったが、公職追放で次の職場はなく、軍人恩給も停止された。妻のヨ子はGHQの仕事を得て活躍するようになった。兵学校の同期のMとなじみの居酒屋で、あの戦争を振り返る。そして娘の洋子が父の秋吉利雄の最期を記す。病床の父は聖歌の「主よ、みもとに」を歌って欲しいと言った。父が亡くなったあと、洋子と4人の弟妹の歩みが記され、水路部の部下によるお墓まいり、そして作者からのことばで「また会う日まで」は終わりをむかえる。〇目次から終わりの思い 海軍兵学校へ 練習艦隊 第七戒 海から陸へ、星界へ 三つの光、一つの闇 チヨよ、チヨよ ローソップ島 ベターハーフ 潜水艦とスカーレット・オハラ 緒戦とその先 戦争の日常 立教高等女学校 笠岡へ 終戦/敗戦 希望と失意 主よ、みもとに コーダ 新聞の書評で読み、面白そうだと図書館で予約して借りた本。図書館で手に取り、あまりの分厚さにビックリ。少し忙しい時期だったので、期間中には読めないかと思いつつ、それでも最後まで目を通したくて、終盤は久しぶりの飛ばし読み。著者の池澤夏樹は、福永武彦息子であり、この作品は父方の大叔父が主人公である。私が興味を持ったのは、主人公の秋吉利雄が、敬虔なクリスチャンであり、天文学者で海軍軍人だったということであった。科学者で信徒で軍人ということが、一人の人間の中でどう折り合いをつけるのかを、どのように描くのかが私の主たる関心だった。しかし、読み進めると秋吉利雄を取り巻く環境は予想以上に複雑であり、かつ戦前から戦後までの諸々の日本の社会環境が書き込まれているので、理解しながら読み進めるのには時間がかかった。さらに、もう一つのサブテーマのように、登場する女性たちの生きざまもまた多様であった。戦争をはさんだあの時代は、誰にとっても時代と生き方の折り合いをつけるのは大変だっただろうと思うと、そちらの方も興味深かった。しかし、何せ時間が足りず、後半はただあらすじを辿ったのみである。ただ、様々な場面で、信仰を持つ人はこのように考えるのかと思うことは多々あった。信仰を持たない私には、「そうなのか…」と思うしかないのだが、信仰という芯がある人は強いなとも思うし、少し羨ましくも思う。今、これを書こうとしてネット検索をしたら、下記の池澤さんの記事を見つけた。参考までにコピーしておこう。池澤夏樹が3作目の歴史小説「また会う日まで」で描いた大伯父の3つの顔 現在と重なる日本の戦中史 作家・池澤夏樹さん(77)が、自身3作目となる歴史小説『また会う日まで』(朝日新聞出版)を刊行した。主人公は、父方の祖母の兄(大伯父)にあたる秋吉利雄。明治から戦後までを生きた秋吉の生涯を通して、日本の戦中戦後史が描かれている。(飯田樹与)◆ただの「親族の一人」だったはずが… 主人公・秋吉は、天測や海図製作などを担当する「水路部」に属する海軍軍人で航海術に業績を残した天文学者、敬虔けいけんなキリスト教徒という三つの顔を持っていた希有けうな人物だ。 「親族の一人」という程度の認識だった池澤さんは、秋吉の三男が残した秋吉に関する資料を譲り受け、大伯父の三つの顔に興味を引かれたという。「信者と軍人では十戒の『汝なんじ、殺すなかれ』に反することになる。非常に悩んだんじゃないか。三つの人格にどう折り合いを付けたのだろう」 折々に自問する秋吉の姿がリアルだが、残された資料には日記はないという。中学校の卒業生総代として読み上げた答辞、練習艦寄港地から送った絵はがき、日本統治下のローソップ島で皆既日食観測を指揮した際の隊員の手記などが保管されており、聖書と合わせて作中に多く引用され、確かに生きていた人なのだと、ぬくもりを感じさせる。特に印象的だったのは、前妻・チヨが亡くなるシーン。親族や教会関係者に宛てたと思われる文章は、報告文のように淡々としている。が、秋吉の深い悲しみがじわりとにじむ。池澤さんは秋吉の人柄を、「冷静に伝えようとしながら気持ちがあふれる文章が書ける。やっぱり魅力的な人物だったのでは」と話す。◆軍部、メディア、国民…今と重なる 秋吉の妹で池澤さんの祖母にあたるトヨ、前妻・チヨ、後妻・ヨ子ね…。夫に付き従うのが当たり前という、当時の女性像とは大きく懸け離れた女性たちが登場する。終戦後の公職追放で職を失った秋吉に代わり、米国に留学経験のあるヨ子は連合国軍総司令部(GHQ)に雇われ、家族を支える。〈うちは奥方といっても奥にはいない。家内といっても家の内にはいない。むしろ家外と呼ぶべきものだ〉という秋吉のせりふに、ニヤッとしてしまう。「女性が生き生きとしている話を書きたかった」と池澤さんは語るが、背景にはそうした女性がいた一方で、伯母や母親のように性別を理由に不遇な目に遭った女性の存在もあるという。「(彼女たちの)リベンジをしているんだ」 軍艦や飛行機が位置を把握するための暦の作製にあたった秋吉は、泥沼化する戦争の中を歩んだ。「歴史というのは、時間がたたないと正確な図が見えてこない。今、私たちが共有する戦争の像を書きたい」。 そこで池澤さんは語り手として秋吉の海軍兵学校同期「M」を創作した。不都合な事実を隠した軍部、国民をあおるメディア、熱狂する国民—無謀な戦争に突き進んだ裏側を説いた。 80年ほど前の出来事だが、どこか今と重なって見えるのが恐ろしい。 「政府はウソをつくし、文書を焼くし、メディアはあおるし。大衆はころころ(意見が)変わる。戦争中と同じことをしているなと思いますよ」と苦笑いする池澤さん。世界全体で見ても、不穏さが増している。「結果としてみると、現実にある意味、こんなに近い小説は書いたことないかもしれないね」この文章を読み、海軍兵学校同期の「M」という人物は架空の人だとわかった。実は、きっとモデルがいるのだろうと思っていたのだ。しかし、きっとМのような人もいたのではないだろうか。「政府はウソをつくし、文書を焼くし、メディアはあおるし。大衆はころころ(意見が)変わる。」という池澤氏の言葉に、心から共感する。
2023年06月06日
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中学校を卒業してから、もう35年以上にもなる。私は田舎の中学校を卒業したのだが、その同期会がS市のホテルで開催された。遠くは関西や東京からの参加者もあり、会場では様々な再会ドラマが繰り広げられた。当時の少年少女も、今では50代。当時の先生達も出席してくださったが、並んでみると「誰が生徒で先生か?」である。先生よりも貫禄があったりする人も、何人もいる。中学卒業以来初めて会う人の中には、どうしてもかつての顔と現在の顔が重ならず、全くの別人のように感じる人もいる。つくづく、「人間は変化する存在である」と、哲学者のようにつぶやきたくなる。かといえば、一瞬にして50代の顔が中学時代の顔に変化してしまう人もいる。たしかにその顔にはシワもシミもあり、白髪混じりになってはいるのだが、話し方や笑い方、そのしぐさまでが「昔とおんなじ!」と思う人もいて、そのような人には「変わらないねー、若いねー」と叫んでしまう。となると、前言を撤回して「人間の本質は変わらないものである」といいたくなってしまう。私は卒業した地元に住んでいるので、いつも幹事役をやることになり、クラス会や同期会のたぐいには出席率100パーセントなのだが、みんなと思い出話をしながらいつも感じることがある。それは、「記憶は事実とは違うのかもしれない」ということである。同じように体験したはずのことでも、人によって印象や状況がずれていることが多い。「あの時、○○君はこう言ったね」「いや、それを言ったのは△△だよ」「あの日は吹雪だった」「いや、その日は台風で臨時休校だった」などなど、なんでこのように違って記憶してるんだろうと首を傾げてしまうことがある。何かの本で「記憶は嘘をつく」というのがあったと思うが、確かに「嘘」とまでは言わなくても、人の記憶はかなりあやしい。それでも、色々な人たちの思い出をすり合わせていると、思いがけない再発見をすることもある。あるいは、新たな感動が引き起こされることもある。当時は子どもだったからわからなかった様々な人間模様や心理も理解できるのは、年を重ねて経験を積み、苦労や痛みを乗り越えてきたからこそであり、思い出話の中にも新しい意味を発見できることもある。それにしても、このようなことを感じることが出来たのも、このような場があってこそ。そして、その思い出話の中に、かつての恩師達がいてくれてこそ。同期会に出席できるということは、身心共に会場に足を運べる程度に健康であって、その程度の経済力もあり、外泊できるような家庭環境にあるということだ。次回の同期会がいつになるのかわからないが、また元気に思い出話や近況報告に花を咲かせたいと願う。みんなが、それまで元気にいて欲しい。
2003年09月14日
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テレビや新聞を見ると、気が重くなることばっかり・・。そのせいか、どうも気持ちが明るくなれない。誰かの気持ちを逆なでするようなことを言っても、「失言でした」と言えばお咎めなしの人たちに、政治をまかせている国の私達。飢えで死ぬことなどないのに、なぜか多い自殺者。物質的には豊かでも、心がすさんでいるように見える若者達・・。心が楽しくなるための手っ取り早い方法は、自分以外の誰かが喜ぶことをすること。でも、それも時には「おせっかい」となってしまうこともある。そういえば先日、ある人が「ボランティアは、結局はおせっかいだから」と言っていたっけ。私はその時、反論せずにはいられなかった。「おせっかいだけで終わってしまうことは、ボランティアとは言えないのでは? お互いに嬉しさを共有できなくちゃ」なんて、偉そうに・・・。今の私は、自分の心が喜ぶことを求めて、おせっかいをしてしまいそうだ。
2003年07月12日
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最近、ある人にとても嫌われてしまったようだ。別に、好かれようとも思ってないが、色々なところで顔を合わせる人だから、あまり苦手意識は持ちたくないと思っているのだが・・。私から見れば「ある日突然」突っかかってこられるようになり、その瞬間、何故なのか見当がつかなかった。しかし、日頃の私の言動が、その人にとっては歯向かっているように感じたのかもしれない。私は、人と争うことがとても苦手だから、自分の信念に反すること以外は、相手に合わせていることが多い。しかし、「これは譲れない」と思ったり、「ちょっとまずいぞ」とおもう時には、出来るだけ誰にでも納得できるような筋道で、一所懸命意見を言うことにしている。それが、多少頑張りすぎた時があったのかもしれない。今まで私は、一歩外に出たら、かなり人間関係には気を使っていた積りなのだが、まだまだ甘かったようだ。一度ギクシャクした関係を修復するエネルギーは、かなりのものだ。これからその作業をしなければならないかと思うと、ついため息が出てしまう私である。まだまだ、修行が必要なようだ・・。
2003年07月17日
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とてもよい天気だったので、午後からドライブがてらA町にハスカップを摘みに行く。留守番兼会計を担当しているおじいさんが、「今日は沢山お客さんが来たから、いいのないかもしれんよ」と、申し訳なさそうに言ったけど、せっかく来たのだからと摘み始めた。夫と二人で約一時間、二人で2kgが摘めた。籠を持って計測に行くと、おじいさんが安心したような笑顔で言った。「あー、けっこういいのが沢山あったねー。良かった良かった」良いハスカップをお客さんに提供したいという、農業人の笑顔だった。しかし、今年は一kgが1300円になっていた。以前はもっと安かったような・・・。でも、農作物は毎年何もしないでいてよい実をつけてはくれない。収穫までの、町の人には見えない世話がなくては、特に北国ではなりたたないのが農業。「また来てくださいね」というおじいさんの笑顔を、来年も見たいと思った。
2003年07月06日
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父の後輩であり親友でもあった方の葬儀に参列。その人のことも書きたいのだけど、とても懐かしい人に再会したので覚書。またいつ会えるかどうかわからないので。彼女は、私が仕事で高校生のボランティア活動に関わっていたころ、高校のボランティア部員として出会った。元気いっぱいの女の子で、リーダータイプではなかったけれど、みんなの雰囲気をなごませるような明るい子だった。葬儀場で出棺をまつためのロビーでみかけ、一目でその子だとわかったけれど、なにしろ25年ほども経っているのでそれなりの年齢には見えた。風の噂で、シングルマザーとして仕事と子育てに頑張っているようなことを随分前に聞いたような気がしたが、正確な記憶ではないのでそれには触れず声をかけようと思った。「〇〇ちゃんでしょ? 久しぶりだねえ」「あっ、みらいさん!? お久しぶりです」「あなたの高校卒業以来かなあ。元気にしてた?」次の言葉に、私は一瞬戸惑った。「私、元気に見えますか?」昔の彼女のイメージは、もっと天真爛漫に「元気、元気!」というような気がしたので、これは随分苦労してきたのかな…と思いつつ、何とか明るく返そうと思った。「こうやって、〇〇さんの葬儀に来てくれたのだから、元気なんだろうと思って…」故人は長年特養の理事をしていて、彼女はその職員として働いていることはこれも風の噂で聞いていたのだ。「お世話になった人だから…」と言いつつ、彼女は意を決したように今の状況を話してくれた。離婚を期に故郷に戻り、特養に勤めるようになり、その一人息子も最近入籍したこと。でも、色々と嫌なことや辛いことが多かったので、できれば別の仕事をしたいと考えていること。短時間だったけれど、そんなことまで話してくれた。「そうかー、その仕事もなかなか大変だろうね。あの頃、ボランティア活動をしていた子たちが、みんな福祉の道を志したから、その後の福祉の状況を考えた時、みんな苦労していないかと心配してたんだよ」と話す。そして、「自分でこれ以上は無理と思ったら、別の道も探ったらいいよ。お子さんをちゃんと自立させたんだから、これからは自分のために頑張ってもいいんだよ」と。すると、「実は、私運転が好きだから、バスの運転手になってみたいんです」という。「いいんじゃない! バスの運転手が不足しているってことだし、あの仕事もそれだけに大変なのだろうけれど、やってみたいなら頑張ってみなよ。とにかく、まだまだチャレンジするには十分の若さがあるんだから、やりたいことは手をつけたほうがいい。やらないで後悔するより、やってみて頑張って、それでもダメな時もあるけど自分なりに後悔しないで済むよ」そして、私自身がその繰り返しだったんだよと話す。「えー、みらいさんもそうだったんですか?」と目を丸くしていた。その表情は、高校生の頃の表情に重なった。それ以上の話をする時間はなかったが、彼女が自分のためにチャレンジする気持ちになってほしいと思いつつ別れた。
2019年11月12日
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北海道はまた感染拡大状態になり、次の週から市内の公共施設が閉館となるようなので、 いつも印刷作業をするところも閉鎖されるかもしれないと、急遽この日に作業をする。 今はどこでも、マスクをしなければ人が集まる場所には行けない。 私はマスクは息苦しい感じがして嫌いなのだが、今の状況では仕方がない。 仲間と二人で作業して午前中には終わったので、久しぶりにランチでもしようということになった。 少しドライブをして、N町の畑の中にあるファームレストランへ。 ここは結構人気があるようで、通常なら土曜日などは混雑しているらしいが、 この日はすんなりと入店できた。 ここは札幌からも来る客が多いそうだが、さすがに今は来ていないようだ。 テーブルも間隔を広くとっているので、おしゃべりしてもあまり周りに気を使わなくていい。 ということで、ゆったり二時間半ほどランチとおしゃべりを楽しんだ。 お互いに色々と忙しい日々なので、久々の友人との語らいはとてもリフレッシュできた。
2020年04月18日
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親友が多い65歳以上は7.8% 前回調査から大幅減、24年白書5/28(火) KYODO 政府が近く閣議決定する24年版「高齢社会白書」の原案が判明した。内閣府の調査で、親友が「たくさんいる」と答えた65歳以上高齢者が18年度の24.7%から23年度は7.8%へ大幅に減少したことを盛り込む。1人暮らしの高齢者が今後増加すると見込まれる中、「望まない孤独・孤立に陥らないようにする対策の推進が必要だ」と指摘している。関係者が28日、明らかにした。 内閣府の調査は23年10~11月、全国の65歳以上の男女2677人の回答を集計。前回18年度調査の結果と比較した。 「親しい友人・仲間がいるか」との質問に対し「たくさんいる」「普通にいる」「少しいる」などの回答を選んでもらった。「普通にいる」は18年度の47.5%から23年度は39.0%に減少したのに対し「少しいる」は21.5%から36.0%に増加した。他は「ほとんどいない」「全くいない」などの回答だった。 人と話す頻度について「毎日話す」との回答は90.2%から72.5%に減った。1人暮らしの人ほど、人と話す頻度が少ない傾向もあった。何をもって親友とするかどうかは意見が分かれるだろうが、親しくしている知り合いが減少しているのは寂しいことだと思う。多分、コロナ禍が続いたことで人との付き合いが希薄になったのだろうとは想像するし、能登の地震などの自然災害や本人の家庭の事情などで、住み慣れた土地を離れることが多かったのも要因かも。幸いなことに現在の私は、親しい友人が何人もいてありがたいことだと思う。ただ、一人で過ごすことも嫌いではないし、時々ブログでも書いているが一番の親友は本なのかもしれないので、目が見えさえすれば友には不自由しないだろう。私のようなタイプの人間は人と話す機会が減ってもさほど寂しくはないかもしれないから、幸不幸は人それぞれなのは言うまでもない。それでも、「望まない孤独・孤立に陥らないようにする」ことは大切だ。ただ、それは本人の努力なしでは公的な対策で何とかなるものでもない。人との付き合いを減らしたくないと思う人は、足腰が丈夫なうちに自分の居場所になりそうなところを探してほしいと思う。新しい場所に足を運ぶのは私なら億劫だし勇気も必要だが、自分にとって必要だと思うならこれからの人生を豊かに過ごすためにチャレンジしましょう。まずは、その場所に行って様子を見ながら、笑顔の多い人に声をかけ、差しさわりのない程度の自己紹介から。注意しなくてはならないのは、いくら自分が自慢できる経歴があろうとそれをひけらかさないこと。せいぜい、「〇〇歳まで働いていたけど、リタイアしてから新しいことにチャレンジしたいと思って」とか、「趣味は〇〇です。同じ趣味の人がいたら話したいなと思って」程度がいいかも。親しくなってきたら色々話してもいいけれど、私の経験では前職を自慢げに言う人は嫌われがちですよ。女性なら、夫や子どもや孫の自慢は、よほどなんでも話せるようになってからの方が無難です。まあ、私くらいの年齢になったらそのくらいのことはわかっているとは思いますけど。
2024年05月29日
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友人が、沖縄などの旅行の写真を持って遊びに来た。彼女はもう少しで50代に突入。独身で、最近リストラもどきで退職し、その退職金であちこちと旅行してきたと言う。結婚の意志が無いわけではなかったけれど、縁が無かったのかずーっと独身。「あーあ、これから仕事を探すってもなかなか難しいし、誰かいい人がいたら結婚して食べさせてもらいたいなーあなたはいいねえ、生活の心配ないもの」と、冗談とも本気とも言えない口調で笑う。「まあ、そりゃあそうだけど・・・。でも、本気で結婚したいのなら、もっと違う行動してると思うよ。結局は、一人で自由に生きる方が合ってるんじゃない?」昔馴染みだから、辛口に言い返す。人生は、トランプ・ゲームのようだと、時々思う。生まれてくる時に、神様からそれぞれカードを貰って、「これで何とかやりくりして、元気に生きなさい」と言われてきたのではないかと。人によっては、何枚もジョーカーを持って生まれたように思う時もあるけれど、それがある時、突然ラッキーカードになったりもする。能力や美貌に恵まれて生まれたからと言って、それが必ずしも、幸せが約束されているカードとも言えない。だからこそ人生は面白いし、最後まで結果もわからない。結婚することも幸せならば、一人で生きるのも幸せかもしれない。それぞれが、今、手に持っているカードを上手に活用して、できるだけ楽しく、充実した毎日を過ごしたいものだと思う。
2003年07月31日
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私は、なぜかわからないけれど小さい頃から人や社会の役に立つ人になりたいと思っていた。その延長線上に福祉の仕事があり、仕事をすることが役立つ人間の証明のように思い込んでいた。しかし、自分の望む自分の理想と、現実の自分にはいつも乖離があり、そのことにずっと悩んでいたように思う。それでも何とか自分としては中途半端であっても仕事もしたし、仕事をやめたあとも地域活動やボランティア活動で、多少なりとも誰かの役に立ちたいと思ってきた。そう思っているせいか、いつもどこからかお呼びがかかり、嫌でないことは引き受け、気が乗らない時は「頑張ってください」なんて言葉で胡麻化してきた。そんなこんなでいつのまにか70代に入り、ほとんどリタイア気分で過ごしているのだが、それでも時々、以前の関わりの中で協力したりすることがある。ほとんどが自分自身の積極的行動ではないのだが、そんなことでも喜ばれると嬉しいものだ。SNSというツールは、良くも悪くも多くの人が利用しているようだ。SNSとは、Social Networking Service (ソーシャルネットワーキングサービス)で、今のところ私は、ラインとFacebookを利用している。ラインは親しい友人と家族間での連絡のため。Facebookは最初は息子たちの情報が結構Facebook上でやりとりされているようなので、それを見るため登録した。自分自身はそれを使って情報公開するつもりはなかったので、長期間「見るだけ」だった。顔写真なども登録しなくてはならないと知り、自分の顔を出すのはイヤだったので、飼い猫の写真で試したらOKになり、私は猫ちゃんである。最近、結構Facebookで私が気になった情報などをアップしている。さらに、そのような記事には「いいねボタン」を押す。これだけでも、ささやかに誰かの応援になるような気がして自己満足だ。これだったら、今のようにブログを書けなくなってもできると思うと心強い。さらに、クラウドファウンディングなどへの協力も簡単にできる。一昔前でネットが使えない時代は、どこかに寄付しようと思ったら地元の共同募金会で情報を得たり、銀行や郵便局で振り込んだりと面倒だった。その点でも、本当に便利になった。しかし、便利と危険は裏表。詐欺被害に遭わないように気を付けなきゃね。
2023年01月29日
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昨日は久しぶりに息子たちの畑で、冬を迎える作業の手伝い。息子たちは秋の剪定作業。私は番線に絡みついた蔓の除去と、番線とぶどうの木を結び付けていた紐の切断。夫は私が蔓をはずした列の、番線下ろしである。体力はさほど必要ではないけれど、一日中剪定ばさみを使っていたので、両方の手の親指と人差し指が赤く腫れた。でも、とても暖かく晴れて風もなかったので、上着を脱ぐほどの天気だった。もっと手伝いに行ってやりたいけれど、私達もそれなりに用事があるので、今週はあと一回くらい行けるかな…。
2024年11月12日
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昨日は、北海道大学で開催された「子ども達の生きづらさを考える~社会的養護にある子ども達は今」という講演会(かな?)に参加してきた。講師は三人で、北大教授・田中康雄氏(児童精神医学)、村瀬嘉代子氏(大正大学人間学部教授 臨床心理学)、高橋一正氏(自立援助ホーム ふくろうの家 ホーム長)で、この講演会は、函館に北海道で初めて開所した養護施設出身の若者達の自立を支援する「ふくろうの家」を応援するために開かれたそうである。私自身は、そのような内実は全く知らず、知人に誘われてテーマに惹かれて仕事を休んで参加した。三人の中でも、私は特に村瀬嘉代子氏の人柄に感銘を受けた。日本の臨床心理学の世界ではとても有名な方のようだが、私は「お名前だけは聞いたことがある」だけで、その著書読んだことがない。だが、穏やかな話しぶりの中に、長年カウンセリングなどの臨床実践を通して人間を深く見つめてきた人ならではの、人間に対する深い洞察力や信頼感、強い信念と包容力などが渾然一体となり、まさに「人徳」というか「人間としての品格」を感じさせてくださる人であった。お話を聞きながら、「こんな方がいらっしゃるんだ・・」と感動した。そして、今までこの方のことを知らなかったことがとても損をしたような気にさえなってしまった。お話の内容は、現代の児童養護施設に生活する児童たちの現状や課題、苦しみそれを大人たちはどのように支えてゆけるのだろうという視点でのものであったが、現在私の仕事にも重なり合うことが多く、とても考えさせられた。様々な事情で心に深い傷を負い、自己肯定感が持ちにくくなっている人たち。それは同時に、そのままの自分を愛し支えてくれる人間関係の乏しさにもつながる。ともすれば私達は、目に見えるマイナス要因ばかりを数えて暗澹たる思いになるのだが、村瀬先生のお話は「それでも、このようなことを大切にしたら大丈夫」というメッセージに満ちていた。とても大切なこととして、「日々の積み重ね、何気ない行為にこもる意味」「↑それを通して形成される見えないつながり」「食事、乾いた暖かい布団、病気の時の看病、さりげない声かけ、よく聴いてくれること」とレジュメには書かれている。つまり、「市井の一人の民としての、思いやりのある自然な言動」の大切さを説いている。そして、様々な課題を持つ人たちに向き合う時には、自分自身の人間観や価値観が問われているのだとも。いつも感じていたり考えていることと重なり合うことも多く、私にとっては「それでいいのよ」と肯定していただいたようで本当にありがたいお話だった。ともすれば、現実の厳しさや重さの中で、自分の考えていること、願っていることが理想論というか「机上の空論」かもしれないと不安に思うことがある。願いや信念、祈りを胸に秘めつつ、現実の「今」にどのように向かうのか、それが今の私に問われていることなのだろう。また機会があれば、村瀬先生のお話を聞きたいと思う。【村瀬嘉代子氏プロフィール】大正大学人間学部教授、臨床心理士1959年 奈良女子大学文学部卒業、家庭裁判所調査官(補)1962年 カリフォルニア大学バークレイ校留学1965年 大正大学カウンセリング研究所教授1993年 大正大学人間学部教授 おもな研究業績(著作・論文)『心理療法の基本-日常臨床のために 』共著(金剛出版、2000) 『柔らかなこころ、静かな想い-心理臨床を支えるもの-』(創元社、2000) 『児童虐待への心理学的アプローチ』(エデュケーション、2000) 『子どもと家族への統合的心理療法』(金剛出版、2001) 『子どもの福祉とこころ』監修(新曜社、2002) 「「生の意味」が問われるときに」(『大正大学クンセリング研究所紀要』26号、2003) 『統合的心理療法の考え方』(金剛出版、2003) 『心理療法とは何か』(金剛出版、2004) 『カール・ロジャーズ』共編著(日本評論社、2004) 『すべてをこころの糧に』共編著(金剛出版、2004) 「聴覚障害者への統合的アプローチ」(日本評論社、2005)
2007年06月23日
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昨日はトランプショックで気分が悪かった。アメリカには、強化ガラスの天井があるらしい。【解説】トランプ氏当選確実で何が変わるのか? ~アメリカの“トップ交代”がヨーロッパと中東にもたらすもの11/7(木)そして今朝は、この地にも初雪が!とうとう冬になってしまった
2024年11月07日
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久しぶりにBOOKOFFに行って、絵本を買ってきた。ひょっとしたら以前に書いているかもしれないけど、ままいいや。ざわつく心を落ち着かせたいときに、絵本を手に取ってみませんか。「きみのそばに いるよ」作・絵: いぬいさえこ【内容紹介】『きみのことが だいすき』の著者が贈る、あなたの心にそっと寄り添うメッセージ絵本小さなどうぶつたちが暮らす森では、夜になると、どこからか話し声が聞こえてきます。だれかに会いたくなって、やさしい声が聞きたくなって……月明かりの下でおしゃべりを始めるどうぶつたち。「きみが いてくれたから、今日は いい日だったよ。」「ぼくはね、うまくいっても、きみが すき。うまくいかなくても、きみが すき。」心細いとき、あなたの心にそっと寄り添ってくれる、温かい絵とメッセージがつまった絵本です。新月から三日月、満月になり欠けていくまで、約30日の月の満ち欠けの移ろいも楽しめます。小学校高学年から。「でんでんむしのかなしみ」作: 新美 南吉 絵: かみや しん【内容紹介】話題の作品 渾身の絵本化!美智子皇后がIBBY世界大会でのビデオ講演で「何度となく、思いがけない時に私の記憶によみがえってきた」作品として触れられた新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を初め、心にしみる作品を、絵本にしました。 ■収録作品〈詩〉一年生詩集の序・でんでんむしのかなしみ・里の春、山の春・木の祭り・でんでんむし新美南吉の作品は、全部を読んでいるわけではないがどれもいい。まだ29歳で亡くなっているんですね。彼が年を重ねてからの作品も読みたかった。
2024年11月07日
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昨日、俳優の三浦春馬さんが自宅で自死したというニュースが流れ、とても驚いた。とても爽やかな好青年という印象で、私が彼を知ったのは「女城主直虎」の時からだった。あまり若い人向けの映画やドラマを見ないのでその後の活躍はよく知らないのだが、今回のことで流れた情報では、仕事は複数の予定や現在進行形のものがあり、仕事のし過ぎくらいの状況のようだった。積み重なってきた疲労が、心身のバランスを失うことになっていたのだろうか。子役のころから芸能界で仕事をしてきたから、「本音と建て前」を常に行きつ戻りつしてきたのかも。それを続けていると、自分を見失ってしまうことも多いのではないか。それでもきっと、プロとして仕事はキチンとやり、求められる「明るく爽やか」なイメージを崩さないよう頑張っていたのではないか。だからきっと、周囲の人たちは「どうして!?」と驚き、これから色々な憶測が流れるのではないだろうか。私も、これからも有望な才能あふれる人が亡くなったことはとても残念で悔しい。しかし、自死する人のほとんどは、ずっと人には気付かないような葛藤の時期が長く続き、何かのきっかけか、あるいは決意の末かはわからないが、自分なりの必然の行為なのだろうと思う。しかしそれはほとんどの場合、「うつ病、あるいは鬱状態」の症状としての決意と行動だと思う。 春先から、新型コロナウイルスで自粛生活が続いている。さらに、九州地方を中心とした豪雨災害で多くの人が亡くなり、今現在も苦しい状況の中を生きている人がいる。感受性が強く、社会や周囲の暗いニュースに人一倍心を痛めたり共感しやすい人は、その気分を必要以上に自分に取り込んでしまう傾向がある。ひょっとすると、三浦さんもそのようなタイプの人だったのかもしれないと思う。自分に厳しく人にやさしいタイプの人は、何かにつけて「まだまだ自分はダメだ」と思いがちだ。未来に対しても、明るい要素を見つけにくく、希望を抱くことが難しい傾向がある。そのような人は、実は現在はとても多いような気がする。 自分の自信を見失いがちで、今現在苦しい状況にある人は、三浦さんの死を自分に置き換えて考えてしまうのではないかと気がかりだ。 「あの才能あふれる三浦春馬さんが死んだのだ。自分が生きていてもいいのだろうか」「あの人でさえ希望を見いだせなかったから死んだのだ。自分が希望を見つけられるはずがない」「あの人に比べたら、自分はゴミのようなものだ。社会のお荷物だ」 そんな思いが心をよぎってしまわないかととても気がかりだ。そんな思いが心をよぎること自体が、すでに「鬱状態」であることの証拠です。明らかに、平常心を失っていることの証明です。 今、三浦さんのご家族や友人、仕事仲間の人たちがどれほどの衝撃を受けているかを想像してみてください。「そんな辛い状況だったことに、自分はなぜ気付けなかったのだろう」「あの時、自分がもっと彼の悩みを聞いてあげていたなら…」もしも家族であれば、その苦しみは想像以上です。そして、その苦しみはずっと長く続きます。一人の死は、周囲の多くの人の心を想像以上に傷つけるし、その傷はきっと完全に癒えることはないでしょう。 もしも、あちらの世界に行った方が家族や社会のためになると感じていたら、それは間違っています。そう感じてしまうことは仕方がないですが、その間違いにどうぞ気付いてください。 きっと三浦春馬さんは、今頃頭を掻きむしって後悔しているはずです。「自分はこれほど家族や仲間を嘆かせることなんて、想像していなかった」と。「できることなら、今すぐ生き返ってみんなに謝りたい」と思っているかもしれません。死んでから後悔しても、それは遅いのです。 「死んでしまいたい」という気持ちがよぎったら、「自分は鬱状態かもしれない」と思ってみてください。「うつ状態だから消えたくなるのだ。これは症状なのだ」と考えて、できれば心療内科とかカウンセリングのドアを叩いてみてください。今なら、「オンライン診療」や「オンラインカウンセリング」があるかもしれません。ただし、もし受診して医師やカウンセラーと話をして、もっと落ち込む気分になるようなら、それはあなたと相性が悪いのです。ですから、その医師やカウンセラーの言葉が絶対だと思わないでください。 先日、「カウンセリングを受けると落ち込む」という人の話を聞きました。なんだか自分が責められているような気がするというのです。そんな時は、迷わずにそのカウンセラーに見切りをつけましょう。 ちょっと話が飛びましたが、どうぞ三浦さんの死に影響を受けて、「自分なんか生きていても意味がない」なんて思わないでください。間違って死を選ばないでください。あなたが亡くなってしまったら、悲しみ傷つく人はあなたが想像するよりずっと沢山いますから。だから辛くても、何とか気持ちを切り替えて、今日と明日は生きてください。あなたが好きな人たちを、悲しませるような選択はしないでください。
2020年07月19日
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教諭、生徒を「ピロリ菌」 恵庭の中学 緊急説明会で謝罪02/22 05:00 北海道新聞 【恵庭】恵庭市立中学校の50代の男性教諭が、担任する男子生徒を「ピロリ菌」と呼ぶなど不適切な言動をしていたことが21日、分かった。学校は同日、全校の保護者向けに緊急の説明会を開き、校長とこの男性教諭が陳謝した。 学校によると男性教諭は1月下旬、クラスごとにビデオ撮影をする際、男子生徒に詳細を伝えず、1人だけ教室に置き去りにした。またこの生徒を「ピロリ菌」「ピロちゃん」と呼んだり、輪ゴムを飛ばして他の複数の生徒の体に当てたりするなど、不適切な言動があったという。 今月1日に外部から通報を受け、学校が同学年の全生徒や男性教諭に聞き取り調査して把握した。男性教諭は「軽い気持ちでやっていた」と行為を認め、3日に校長と男子生徒宅を訪れて謝罪。学校は市教委に事実関係を報告したが、いじめや体罰があったとは認めていない。男性教諭は平常通り勤務している。 校長は北海道新聞の取材に「軽はずみな言動で子供の心を傷つけ、非常に申し訳ない。今後このようなことがないようにしたい」と話している。これを「いじめ」ではなく「軽はずみな言動」で済ませている学校や教育委員会に、強い怒りを覚える。このような教師の言動が放置されてききたことはいじめの温床に近く、これは氷山の一角のように感じる。このようなことが対人恐怖や不登校などにつながるのだ。この機会に、しっかりと教育現場の検証をしてほしい。この教師に何のおとがめもないとしたら、それを生徒たちはどう感じるのであろうか。謝るだけなら猿でもできる。しっかりと教育者としての姿勢を正してほしいし、教育委員会として強い態度このようなことが起きないような対策をしてほしい。「いじめ防止対策推進法」は、児童生徒によるいじめを対象としているようだが、昨今は「教師によるいじめ」のニュースも珍しくはない。文科省も道教委も、このようなことがニュースになったらしっかり対処してほしい。このようなことがニュースになることは、ほとんど氷山の一角なのだから。いじめ防止対策推進法のあらまし(平成25年6月28日付け官報)
2019年02月22日
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何年かぶりに、30代からの友人と共通の友人の三人で会う。彼女からのラインのお誘いメールのようなものがお正月に届き、それに返事をしたのが再会のきっかけ。彼女がスマホに替えて、操作の過程でそのようなことになったらしく、瓢箪から駒のような感じでつながったということは、会ってからわかった。彼女とのことを以前に書いているはずだと思ったが、みつからない。詳しく書く時間がないのではしょるが、彼女とは以前勤めていた仕事を辞めて在宅していた頃、産休の補助として短期で元の職場で働くことになった時出会った。私はその仕事を挫折してやめたので、本当は短期間でもその職場には行きたくなかった。挫折した時のことの記事はこれ。「心身障害児の療育指導員をやめる」その時、おそるおそるビクビクと、それでも無理に笑顔を作りながらかつて関わっていたお母さん達や子ども達と時間を過ごした後、彼女が言ってくれた言葉を忘れることが出来ない。「みらい先生は、いい指導をしていたんだなって思いました。先生を迎えるお母さんたちや子ども達の笑顔が本当にいいな…って」私は想像していなかったその言葉に、とても驚きながら本当に嬉しくありがたかった。その言葉が本当かどうかはわからないけれど、そう言ってくれた彼女の言葉は私の心に光を与えてくれたのだ。それがきっかけで彼女とはその後も仕事がらみで付き合うようになったのだが、個人的に親しい友人というほどでもない。それなのに、今回彼女は会うなり、「ありがとう…、会いたかった―」と涙ぐむ。彼女も会わない間にお母さまの介護問題など色々あって、誰かとそんな思いを話したいと思っていたようだ。出会った頃はお互いに30代だったが、あれから40年近い年月が経っている。もう一人の彼女とも、もう30年近い付き合いだ。人生は生きてみなければわからないし、年を取ってからの価値観が近い友人は本当にありがたいとつくづく思う一日だった。
2022年01月11日
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加藤多一さんの児童書に一時期はまったけれど、しばらく手にしていなかった。亡くなられたのは昨年(2023年)だったのだな。懐かしくなって、読んでいなかった本を三冊借りてみた。「子っこヤギのむこうに」《あらすじ・内容》「わたし、だっこしてもいいの」生まれてはじめて子っこヤギをだかせてもらえる。マユはうれしさで胸がいっぱい。ふぶきのなか、農家へいそいだ。冬休みのある一日、マユは一ぴきの子っこヤギのいのちをとおして、生きもののあり方、いのちの尊さを知る。「エカシの森と子馬のポンコ」《書籍の内容》子っこ馬のポンコが行く。ここで、ポンコはほんとうに自由だ。すきなところへ、すきなように歩いていく。でもある日、川の水の声も、風の声もいつもと違う。それがおとなになるっていうこと?森の長老の木・エカシ、ここにいるのに体はどこにでもあるというカメムシたちが、ポンコにおとなになることを教えてくれる。──加藤多一が北海道の森で暮らす子馬のポンコの成長を、やさしくあたたかなまなざしで描く。「オオカミの声が聞こえる」「助けて!マウコ」 誰か呼んでいる・・・ひとりの女性が自分のなかのアイヌスピリットを呼び覚ます。北の地を離れ都会で暮らしていたアイヌの女性マウコは、あるとき自分のアイヌとしての自分を取り戻し、生きていく道を探すために北海道に戻る。図書館や博物館を巡っているうちに、100年以上も前に絶滅したエゾオオカミの剥製から見つめられ、何かのメッセージを感じて、行動に移すのだが・・・。加藤さんがそれぞれの作品で伝えたかったことはよくわかる。というより、伝えたいことが前面に出すぎている感じもする。それでも、年を重ねても自分の生き方と、現代の問題への危機感を強く持って、それを作品に紡ぎ続けた意欲と意志は凄いなと思う。児童書の形をとってはいるが、現代の大人達へのメッセージが強いのかもしれない。
2024年11月04日
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「海の沈黙」を夫を誘って苫小牧の映画館で観てきた。Story世紀の贋作事件の鍵は、若き日に消息を絶った天才画家と遠い昔の恋人世界的な画家、田村修三の展覧会で大事件が起きた。展示作品のひとつが贋作だとわかったのだ。連日、報道が加熱する中、北海道で全身に刺青の入った女の死体が発見される。このふたつの事件の間に浮かび上がった男。それは、かつて新進気鋭の天才画家と呼ばれるも、ある事件を機に人々の前から姿を消した津山竜次だった。かつての竜次の恋人で、現在は田村の妻・安奈は北海道へ向かう。もう会うことはないと思っていた竜次と安奈は小樽で再会を果たす。しかし、病は竜次の身体を蝕んでいた。残り少ない時間の中で彼は何を描くのか?何を思うのか?彼が秘めていた想いとは?この映画を観たいと思ったのは、倉本聰さんが長年にわたって構想してきたテーマをどうしても描きたかったと映画化したものだそうだ。それをテレビなどで知り、彼のドラマや映画で感動してきたものとしては、やはり見たいと思ったからだ。映画を観る時に夫を誘うことはあまりないのだが、ロケが夫の育った小樽と言うことで誘うと、「小樽」に惹かれて乗ってきた。さてその感想はといえば、想像以上に良かった。「美とは何か」ということは私にはよくわかっていないと思うのだが、それはとても個人的な主観に基づいていると思っている。主観や美意識は人それぞれだと思うが、多くの人が感動し美しいと思った時に普遍性があると言われ、それに価値が付いていくような気がする。この映画では「贋作」を通して、美術品に価値が付き、権威が付き、ものすごい金銭的な評価に至ることへのアンチテーゼともいえる。この映画のテーマはそれだけではない。やはり人それぞれの生き方や人生、環境に振り回されながらも生きる人間の軸や支えになっている人間同士の愛情というのだろうか。それは、男女の愛、家族への愛、同志への愛、かつての友への愛など、人間が生きる上で欠かすことのできない愛の意味だろう。それを表現する俳優たちも素晴らしかった。本木雅弘や小泉今日子の若い頃から知っている身としては、本当にいい俳優になったなあと感慨深い。中井貴一も「ビルマの竪琴」から注目したような気がするが、この映画でも脇役ながらすごい存在感。このような心を抉るような映画を制作してくれたすべての人に感謝したい。主人公が描く絵にはとても感動したので、誰が描いたのだろうと調べたら、高田啓介さんという画家だった。この人の作品を機会があればもっと見たいなと思った。倉本聰さん映画「海の沈黙」彩る絵画を監修 二戸の高田啓介さん高田啓介 三陸の海この映画では「贋作」が一つのテーマであるが、それでつい連想するのが「お宝鑑定団」という番組だ。この番組は興味本位でよく見るのだが、時折「出さなきゃ良かったのに」と思うことがある。長年、家宝のようにして大切にしていたものとか、大切な人から譲り受けたものとか、どうして出すんだろうなと。それで「偽物」と鑑定されたら、その後それはどのようになっていくのかと心配する。いいじゃないの、自分が生きている間はご先祖様の言い分を信じたって。大切な人が大切なものとして譲ってくれたものなら、大切にしていけばいいのにと。我が家にはそれほどの価値のあるものはないけれど、実家で長年保存していたものは気になってはいた。茶器や食器類、掛け軸類は処分したけれど、福井から曾祖父が持ってきたと言われる昔の文書類は、勝手に紙類として処分するのは気が引けて、地元の郷土資料館に持ち込んだ。私達は昔の文書は読めないので、価値ある書類かどうかもわからないので、分別して処分してほしいと。古文書が読める人なら簡単に仕分けできるだろうが、残念ながら地元の学芸員では無理だったようで、北海道文書館に持ち込んだらしい。結果は知らせると言われたが、まだその報告はない。私達としては、結果はどうあれ子孫である私達のせめてもの責任は果たしたとそれで満足である。
2024年11月27日
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