1
久しぶりにTさんIさんと一緒に映画とランチを楽しんだ。Tさんが昨年秋頃から体調がすぐれず、やっと少し元気になってきたので行くことができた。三人のうちでは私が一番年上なのだが、多分体力では私が一番若いかもしれない。映画は「デュオ 1/2のピアニスト」で、選んだ理由は上映時間だったのだが、実話を元にしたものだとIさんが教えてくれた。私は実話ものが好きなのでダブルで楽しみだった。【作品紹介】本作品は、実在する双子の天才ピアニスト、プレネ姉妹の数奇な運命と人生をモデルに『コーダ あいのうた』『エール!』『ふたりのマエストロ』をプロデュースしたフィリップ・ルスレによる実話をもとにした新たな感動のドラマとなります。日本でも来演経験のある天才ピアニストの双子に降りかかったのはピアノが弾けなくなってしまう難病でした。絶望の淵に立たされた、2人は成し遂げなければならない夢を掴むため、唯一無二の演奏方法を生み出します。主演の双子にはNetflixドラマシリーズ「エミリー、パリへ行く」の人気キャラクターを演じるカミーユ・ラザと、映画初出演のメラニー・ロベール。監督は、短編“216mois”で2014 SXSW 審査員大賞にノミネート経験のある、フレデリック・ポティエとヴァランタン・ポティエが、親子監督として長編デビューを飾ります。ピアニストであれヴァイオリニストであれ、音楽で身を立てたり著名になるには幼い頃から大変な努力が必要だろう。本人はもとより、支える家族もそのために様々なことを我慢したり時には犠牲も必要だろう。それなのに、思いもよらぬ病でその夢をあきらめなくてはならない時、どれほどの絶望感を乗り越えなくてはならないことだろう。それでも、彼女たちは「ピアニスト」という夢を諦めず、二人で補い合う演奏方法を見つけていった。映画のエンドロールで、モデルになった二人の写真が流れた。二人で演奏活動を続けたようだ。とても良い映画だったし、その後の久しぶりのランチも楽しかった。
2025年03月05日
閲覧総数 23
2
ネット記事をウロウロしていて、「ほれこみ」という言葉を知った。何の記事で知ったかというと、これ。ここに書かれている小林麻耶さんのことについては、私はあまり関心を持っていなかったのだが、「ほれこみ」が精神分析で使われる言葉(専門用語?)ということを知ることが出来た。この記事によると(前略)「麻耶さんはいま、精神分析で“ほれこみ”と呼ぶ状態にあると思われます。ほれこみと洗脳はニアリーイコール。相手への批判力を失い、過大評価する。実力以上に評価して欠点が見えなくなっているといえますね」 ほれこみが強くなるように、ほれこませる側が誘導できるという。「その状態を強化するために、夫が相談相手や依存先を制限しているとするなら、それはある種の“常套手段”です。たとえば新興宗教では、教団だけを頼りにさせるため『家族と縁を切りなさい』『友達とのかかわりを断ちなさい』と、人間関係をシャットアウトさせるのです。 (中略) 「視野狭窄から抜け出すためには、できるだけいろんな人と出会って、話を聞くことが大切です。ただ、それができない状態になっていますよね。経済的に行き詰まれば、ようやく目が覚めるのではないでしょうか。これまで多くの例を見てきましたが、洗脳されている人は、そこまでいかないと気がつかないことが多いです」(前出・片田さん)うーん、なるほど。ほれこむと洗脳状態に近くなるのか…。と次に連想するのは、某皇族のお嬢様。またまたネットで検索する私。すると、一番最初に出てきたのがこれ。この記事も、前記の片田珠美さん(精神科医)が言っているようだ。以下、記事の一部抜粋 まず、眞子さまは「ほれこみ」の状態と考えられる。「ほれこみ」とは、フロイトによれば対象の過大評価である。しばしば恋愛対象を理想化して、欠点が見えなくなる。「あばたもえくぼ」という言葉があるが、まさにその状態だろう(「集団心理学と自我の分析」)。「ほれこみ」の状態に陥ると、場合によっては無批判になり、相手に従属するようになる。その点では催眠術と似ている。恋愛の場合は恋愛対象、催眠術の場合は催眠術師に従属するわけである。 こういう状態に陥りやすいのは世間知らずで純真な人だが、眞子さまはその典型のように私の目には映る。正真正銘の“深窓の令嬢”であるうえ、純真な心を持ち続けていたいというお気持ちが強いからだ。 こうした「ほれこみ」の状態に拍車をかけているのが、「Pity is akin to love」の心理ではないか。この言葉は、直訳すると「あわれみは恋の始まり」だが、夏目漱石が『三四郎』の中で引用し、「可哀想だたほれたってことよ」と俗っぽく訳して、有名になった。 この心理が眞子さまの一途な恋心に少なからず混じっている可能性が高い。日本一の名家で何不自由なくお育ちになった眞子さまだからこそ、不遇な境遇で育った小室さんへのあわれみが強く、それを恋心と混同しておられるように見受けられる。しかも、この種の恋心は、小室さんへのバッシングが激しくなるほど強まる。これはやっかいだ。このほれ込み状態を解くには、どうしたらいいんだろうと思いながら続きを読むと…小室圭さんは<例外者> 2年間結婚を延期したのは、いずれ小室家の側から結婚の辞退を申し出るのではないかという思惑が宮内庁と秋篠宮ご夫妻にあったからかもしれない。だが、その可能性は今後もきわめて低いと私は思う。なぜかというと、小室さんが<例外者>だからである。<例外者>とは、フロイトによれば自分には例外的な特権を要求する権利があるという思いが確信にまで強まっているタイプである(「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」)。<例外者>は、自分には責任のないことで「もう十分に苦しんできたし、不自由な思いをしてきた」と思っている。そのため、「不公正に不利益をこうむったのだから、自分には特権が与えられてしかるべきだ」と考え、これまで苦労してきた分、今後の人生において損害賠償を要求する権利があると思い込む。 何を「不公正」と感じるかは人それぞれである。容姿に恵まれなかった、貧困家庭に生まれた、親に愛されなかった、虐待を受けた……など、本人が不利益をこうむったと感じ、運命を恨む権利があると考えれば、それが自分は<例外者>だという思い込みにつながりやすい。私はフロイトを全面的に支持しているわけではないが、こう書かれると、妙に納得してしまう。うーん、言葉がない。
2020年12月03日
閲覧総数 4705
3
天気が良かったので、夫が起きるなりまた「ピョン採りに行くぞ!」。先日採ってきたピョンは、実家などに分けたり茹でたりして、おひたしや炒め物などでかなり食べてしまっていた。夫は、息子たちにも食べさせたいし、二日ほど経っているのでもう少し成長しているから採りごろだという。考えてみれば、このように早朝から山菜採りに行くことが出来るのもあと何回かかもと思うと、少し億劫だったけれど付き合うことにした。行ってみれば、いつもの駐車場には先日より多くの自動車が駐車している。みんな考えることは一緒なのかもしれない。山菜はなんでもそうだと思うが、群生しているところにはたくさんあるが、100メートルも離れたら何もないものだ。みんなそれぞれ、自分たちの知っている山菜畑があるので、沢山の車が並んでいても、いつもの私たちの「ピョン畑」には私達だけ。先日よりずっと採りやすくなったピョンが、私たちに「よく来たね。待ってたよ」とばかりにピョンピョンと並んでいる。一時間ほども採ればビニール袋一杯になり、そろそろ帰ろうかと思っていたら奥の方から男性四人組(青年)が大きなごみ袋をそれぞれ手に持ちやってきた。半透明の袋だったので、何を採ってきたかはすぐわかった。「ワーッ、すごいですね! 行者にんにく?!」彼らは満面の笑顔で、「そうですよ!」。近くにあるのかと聞いたら、「もう少し先の崖っぷち」と教えてくれた。一瞬、少し分けてほしいなと思ったけれど、あの量は多分売るために採ってきたのだろうと遠慮した。先にも書いたように、山菜取りの場所はそれぞれ「自分たちの秘密基地」のことが多い。だから、「少し行った先の崖っぷち」と言っても、私たちがちょっと行って採れるものではないはず。私達も以前は厚真の山に行者にんにく採りに行ったものだけど、道路から20分も山に分け入った場所で、かつては自由に山に入れたけれど、ある時期から入れなくなってしまいそれ以来採りに行ったことはない。というわけで、沢山のピョンが採れたことで満足して、今回は少し足を延ばして支笏湖までドライブ。私は若い頃から支笏湖が大好きである。中学生の頃には、ポロピナイキャンプ場に連絡船を利用して学年行事としてキャンプに行った。多分、そのあたりが支笏湖との出会いだったと思うが、この湖は自然環境が守られているので、その透明感や周囲の景観も50年前とあまり変化していない。その後、ポロピナイから札幌に通じる道路も開通し、今では船を使うのは「観光周遊」のためだけになったし、支笏湖畔もポロピナイ湖畔もモーラップあたりも、駐車場やトイレ・売店などは整備されているが、過剰に観光地化されていないのが嬉しい。子どもたちが高校生の頃までは、よくポロピナイや美笛でキャンプもした。当時はまだキャンプ場としてあまり整備されていなかったような気がする。また、用がなくても支笏湖に会うためにだけでもここに来た。私が死んだらこの湖に骨のひとかけらでも沈めてほしいものだが、夫は「環境汚染だ!」なんて言っている。私は汚染物質か?!少し波はあったけれど、相変わらず美しい支笏湖ブルーだ。もう少し雪が残っていたら、もっと樽前山や風不死岳が美しいのだけれど、(左が樽前、右は風不死岳」恵庭岳。写真の下部で透明感が少し感じられるでしょうか。恵庭岳のふもとの左端に豆粒のように白く見える建物が、丸駒温泉。
2019年05月02日
閲覧総数 716
4
下記の報道を知った時には驚いた。確かに、皇室のありかたという日本独自の問題について勧告されたのは、私も少し面白くない。だが、多くの国民が皇位継承を男系男子に限るとしているのは非合理的だしおかしいと思っているのに、政府が何もしないということに苛立ってはいるので、これを機にもっと真剣に考えてもらいたいのに、こんな対応しかできないことは腹が立つ、日本政府が国連女性差別撤廃委を任意拠出金の使途から除外 皇室典範の改正勧告への対抗措置1/29(水) 1/29(水) 女性差別の撤廃を目指す国連の委員会が、日本政府に皇室典範を改正するよう勧告したことをめぐり、外務省は国連に支払っている拠出金の使途からこの委員会を除外すると発表しました。この問題は、国連の女性差別撤廃委員会が去年10月、皇室典範について「皇位継承における男女平等を保証するよう改正すべき」として日本側に勧告を出したものです。日本政府は「皇位継承資格が男系男子に限定されることは女子に対する差別に該当しない」と抗議し、委員会側に最終見解の削除を求めてきましたが応じなかったとして、外務省はきょう、対抗措置を行うと明らかにしました。北村俊博 外務報道官「国連人権高等弁務官事務所に対して、用途を特定して毎年拠出しております任意拠出金。その使途から女子差別撤廃委員会を除外する」外務省は、女性差別撤廃委員会の事務を担う国連の組織に支払っている任意拠出金の使途から委員会を除外するとしていて、おととい委員会側に伝達したとしています。日本がこうした措置は取るのは異例で、今年度に予定されてた委員の訪日プログラムについても実施を見合わせるということです。この任意拠出金はこれまで委員会の活動には使われていなかったということですが、抗議の意思を明確に示すため、今回の措置に踏み切ったとしています。そんな時に下記の呼びかけがあったので、ここに紹介したいと思う。拠出金の使途からCEDAWを除外!? #日本政府は女性差別撤廃委員会CEDAWに真摯に向き合ってください! #人権を守る日本へ
2025年02月04日
閲覧総数 79
5
このところ、夜中に目覚めることが多い。これは今に始まったわけではないのだが、1~2時間眠ったところで目が覚める。昨夜もそのような感じで、午前一時頃に目が覚めてしまった。それで、眠くなるまで・・と、図書館から借りていた本を読んだ。最初は、「触れもせで 向田邦子との二十年」久世光彦/著これは読んでいたら引き込まれてしまって、いよいよ目がパッチリしてしまう予感。途中でやめて、「教室の悪魔-見えない「いじめ」を解決するために」山脇由貴子/著。これもまた、睡眠薬代わりになるどころか、現代のイジメの複雑さや陰湿さに、胸苦しくなってきてしまった。そうこうしているうちに、時計を見たら午前三時半。こりゃマズイ、今日は会合があるので朝から出かけなくてはなららないと、慌てて本を置いて枕もとのスタンドを消し、少しざわついてしまった心を静めるために、仰臥して静かに深呼吸を繰り返していた。・・と、暗闇の中に何かの気配が・・。ひょっとして、別室の夫が私が起きている気配に起きてきたのか・・と思ったが、足音などは聞こえず、その気配は私の足元にやってきた。「あ・・、これは・・」と目を開けようとすると、目が開かない。その瞬間に、「金縛りだ・・」と気付いた。以前は、結構頻繁に起きていた時期があったけれど、この数年はとんとご無沙汰だったので、久しぶりだな・・と思ったのだが、それは今までとは違った。今までは、足元や枕元を何かがウロウロする感じだったが、今朝のそれは、ちょっと様子を伺った後でガバッと胸元にまたがり、顔をグーッと近づけてくる感じ。それは、男性に襲われているような(そんな体験はないが)感じで、金縛りで初めて恐怖を感じた。必死に顔をそむけ、夫に助けを求めようと声を出そうとするが、当然ながらそれは無理。そんな私の抵抗に腹を立てたかのように、次は私の両手が押さえつけられ、次の瞬間、私の体ごと引っ張り込もうとするような力がかかったような気がした。・・と、突然自分の体が別の場所にワープして、私は「藁布団」というか、「藁のベッド」のような場所に仰臥させられていた。目は開いていないはずなのだが、なぜか部屋の様子がわかる。見たこともない部屋で、薄暗く日本家屋ではないような感じ。部屋の隅で、一人の女性がかがみこんで何か作業をしている。私の傍らには、私を襲いそこに連れてきた何者かが見張っている感じであるが、それが何者かはまったくわからない。部屋の中は妙に静かで危険を感じる雰囲気ではなかったが、私はとても強い恐怖感を感じていて、ここからはどうしても逃げなくてはならないと思っていた。大声を上げたい、起き上がりたい、逃げなくては大変なことになると思い、私は必死にもがいていた。どのくらいの時間だったのか、ほんの少しの時間だったのか、急に周囲のそれまで見えていたものが見えなくなったような気がした時、身動きとれず呼吸も苦しかったのが、急に息ができるようになった。その瞬間、私は自分の布団の中にいた。恐る恐る目を開け、手足を動かし、金縛りから解放されたことにホッとした。あれは、何だったんだろう。やっぱり、夫が言うように「夢を見ていた」のだろうか。金縛りであったことは間違いないのだが、あの気配や、私がみていた部屋はどこの光景だったのだろう。自分でも、どうにも理解に苦しむ。そうそう、金縛りから解放された後は、全身がぐったりと疲れていた。時間を確かめればよかったけれど、解放された安堵感と疲れとで、その後まもなく眠ったようだ。久しぶりに疲れた夜だった。
2007年01月26日
閲覧総数 30
6
今日は、毎月一度の「〇〇の会」の例会の日。不登校(登校拒否)や引きこもりの子どもを持つ親を中心にした、話し合いの会である。今日も11人が集まってきて、それぞれの出入りはあったけれど、10時から3時半までずーっとあれやこれやとおしゃべり。子どもの元気がなくなり、学校へ行かなくなって慌てない親は(例外はあるだろうが)、ほとんどいない。なにしろ、ある年齢になったら学校へ行くということが、常識というか信念のようになっているのが日本人だし、全国で14万人近い小中学生が学校に行かなく(行けなく)なっていても、それが少数派であることに違いはない。今日の話しの中で、夫婦のあり方についての話題が多かった。日本では、子育ては母親の仕事という考えが、男女共に当たり前のことのようになっている。(そして男は仕事である)だから、子どもが不登校になった時に、母親は自分が何とかしなければと必死になる。しかし、母親一人で頑張れば頑張るほど母子間の葛藤が強くなり、葛藤が強くなりすぎると歯車もかみ合わなくなる。いよいよ困った母親は、もう一人の親である夫に、やっとSOSのサインを出すのだが・・・。ここで妻に真剣に向き合ってくれる夫は、残念なことにそれほど多くはないようだ。さて、夫がキチンと向き合ってくれない時、妻はどうするか。今日の話で、本当に様々な夫婦があるものだと思った。ケンカしたり泣いたりわめいたりして、夫を否応なく巻き込んでしまうタイプ。わかってくれない夫とのストレスの方が強くなって、自分の体調を崩す人。夫との戦いは諦め、ひたすら自分が子どもとの良い関係を築くことで、家庭の平和を維持しようとする人。夫が苦しむことを案じて、やはり自分が頑張ろうとする人。夫婦それぞれの性格や能力によって、10の夫婦があれば10通りのパターンになるようだ。どれが良い悪いではない。それぞれが最善と思うことを必死に頑張っている。少なくても、このような会に集まり、何かヒントを得たいと行動する人は、例外なく頑張りやさんばかりだ。ある人は、夫の暴力などにも耐え続けた結果が、子どもに悪影響を与えたのだと医師に指摘され、「私は夫と子どものためと思って頑張った年月は何だったのだろう」と慟哭した。その悲しみや悔しさを思う時、誰もが言葉を失った。子どもを傷つけようとしてがんばる親はいない。結果から過去を責めることは、何の意味もない。その人は、我慢できる力を持っていたのだ。自分の痛みに耐えて、夫や子供のことを思う力があったのだ。あり過ぎたからといって、どうして彼女を責められるだろう。また、「自分が弱いから、夫や子どもに迷惑をかける」と涙する人がいた。その人は、ストレスが身体に出やすい体質なのだ。風邪をひきやすいからといって、「あんたはどうしてそんなに風邪をひくのだ。もっと強くなれ」と言ったって、強くなりたいと誰よりも思っているのは本人なのだ。誰でも、自分の体験しない痛みに対しては、実に実に鈍感なもので、共感はできないかもしれない。しかし、本人が「痛い、苦しい」と訴えたなら、「痛いのだな。苦しいのだな」という理解くらいはできるのではないか。そして、痛くないようにするには、自分は何ができるのかを考えるくらいはできるのではないか。「やればできる」という言葉は、他人に向かって言うものではない。自分に向かって言う時に、はじめて効力を発することが多いからだ。自分自身に問うてみて、「やってもできないだろう」と感じることよりも、「やったらできるかもしれないこと」にエネルギーを使いたい。夫婦が苦しみも悩みも共有し、コミュニケーションを密にして、共に子どもの問題に取り組むのは確かに理想ではあるが、夫婦の個性によってそれが難しいことも多い。無理して理想に向かうのではなく、少しでもストレスを軽減するために、お互いに何ならできるのかを探したい。少なくても多くの妻は、それをしようとしている。夫達には、せめて妻が痛い顔をしていたら、「どうしたの?何か手伝うかい?」くらいは言ってあげて欲しい。実際に手伝えなかったとしても、妻は夫が自分を気にかけていてくれると感じただけで、肩の荷物がとても軽くなるのだから。ちなみに私達夫婦は、できるだけ争いを避けたい気質の持ち主同士。だから、夫婦喧嘩はしたことがない。だからといって、お互いに葛藤がないわけではもちろんない。しかし、ある意味で似たもの同士だから、お互いの葛藤や痛みや不満に、それなりに気づく。(気付くように、サインはだしているから)そして、それぞれのストレスは、相手にぶつけずに他のことで解消しようとする。落ち着いたなら、何もなかったようにテレビや新聞のニュースや、我が子の話題などでボソボソと会話してチャンチャン。というわけで、私達はとても会話の少ない夫婦だけれど、何も言わずにシーンとしていてもホッとするというのが、夫婦ならではだと思っている(他人とであれば、沈黙が怖くてしゃべり続ける私なのだが)
2003年08月29日
閲覧総数 39
7
義兄の13回忌のため、朝から出かけた。法事が執り行われるお寺は、丘の上にある。お寺というのはどこもそうなのかもしれないけれど、とにかく寒い。最近は、厚手のタイツのうえにジーパンやパンツを身につけているので、久しぶりのスカートと(厚手のではあるが)ストッキングでは、足元がスースーして風邪をひきそうだった。義兄は、50代前半に消化器系の難病にかかり、入退院を繰り返して、最後の一年半は点滴で命をつないで力尽きて逝った。その闘病生活は、見ていても本当に辛かった。何が可哀想だと言って、口から食事ができないことが一番に気の毒だった。入院し点滴で栄養補給をされていたのだけれど、食事時には当然食べ物の匂いが流れてくるし、隣のベッドでは食事をとる姿も見える。「あー、ラーメンの汁でもいいから飲みたいナー」と、冗談めかして言った言葉が忘れられない。本人はまだ若いから、辛抱して必ず元気になって見せると強い意志で闘病していたのだが、とうとう憧れのラーメンのつゆすら口に含むことも出来ずに、苦痛の中で死んでいった。その時のことを思い出すと、今でもこみ上げてくるものがある。当時、私の息子達は高校生だった。幼い頃からこの叔父さんにとても可愛がられていた息子達は、いつも私達と一緒にお見舞いに行った。「元気になったら、パットゴルフ(子どもも楽しめるゴルフに似たゲーム。最近は見かけない)に行こうな」と、ベッドの上でいつも約束していた。次男が修学旅行で、京都から「般若心教」の巻物入りの、お守りのようなお土産を買ってきたのだが、苦しくなるといつもそれをブツブツと読んでいたそうだ。元気な頃には、普通の日本人的な宗教心だけの人で、特定の宗教に帰依している人ではなかったのだが、辛くなった時には、そのようなものにもすがりたくなったのであろう。「これ唱えていると、何だか元気になるような気がするんだ」と、弱弱しい笑顔を見せてくれたのは最後のころだったかと思う。手術をしても体力が落ちていたので傷口がふさがらず、最後の一ヶ月は点滴や膿排出の管、排尿の管エトセトラ・・。身体に何本ものチューブが絡みついた状態で、お見舞いに行ってその姿を見るのも辛かった。家族は、これ以上治療しても回復は無理だとはわかっていても、そのチューブのたった一つでもはずすことが、即「死」につながると思えば、どうしても「楽にしてあげて」とは言えなかった。その当時はまだ二十代だった長男も、今では40代のおじさんになって、法事を取り仕切っていた。私にしてみれば、つい昨日のことのように思うその日が、もう13年も前のことになったことに、正直驚いている。葬儀の日、学生服姿で涙を流しながらお棺をかついだ息子も、もう二人の子の親になっているのだ。まだまだ生きたかった人の分だけ、命を与えられているものは大切に日々を暮らしたいものだ。「法事」は、あの世から生きているものへのメッセージを受け取るための時間なのかもしれない。
2004年04月24日
閲覧総数 10
8
昨日の日記では、子ども時代の「空想癖」について少し触れた。そこで思い出したのが、「悪夢」の記憶。(日記リンクしているK-nanaさんの日記にも刺激された)私は、毎日のように夢を見ている。30代くらいまでは、その夢を目が覚めても覚えていることが多かった。いつの頃からか、目覚めても夢の内容を忘れるようになったのは、年齢による記憶力低下のせいなのか、別の生理的変化なのか・・。いずれにせよ、私はあまり楽しい夢を見ないほうなので、忘れてしまってもちっとも淋しくはない。さて、幼い頃、繰り返し見る悪夢が二つあった。一つは、太くて長~い縄を背負って、暗闇の中を必死に歩いている夢。肩に食い込むような縄の重さに耐えかねて、それを投げ捨てようとしてもどうにもならない。後ろを振り返ると、長い縄の先は暗闇の中に続いている。私は仕方なく、またそれを背負って必死に一歩一歩歩こうとしているのだ。この夢は、かなり幼い頃から小学生くらいまでの間、よく見ていたように思う。目覚めた時は、「あー、疲れた!」という感じだったように思う。しかし、あまりにも昔のことなので、正確ではないかもしれない。それでも、夢の光景だけは、今でも思い出せる。年齢を重ねるうちに次第に見なくなったのだが、大人になっても忘れた頃に時々見て、夢の中で「あ、これはあの夢だ」と思いながらも、やっぱり縄を下ろすことはできなかった。もう一つは、「焼け跡をさまよい死体処理をする夢」である。こんな夢を、小学生の頃から20代までしょっちゅう見ていた。いつも同じ夢であり、さらにとてもイヤな夢なので、これもはっきりと覚えている。「輪廻転生」という言葉を知ってから、私の前世は戦争で死んだに違いないと思ったりもした。この夢の内容は、最初は、(多分戦争による)焼け跡の、まだ煙がくすぶる中を歩いている光景から始まる。時々、道端に転がっている死体を踏んでしまって、その「グニャッ」とした感触に、「腐ったトマトを踏んだ感じだな」と思う。(我家は農家だったので、病気などで腐って落ちたトマトが捨てられていて、 それを踏み潰す感触と似ていたのだ)焼け跡特有なのか、あるいは亡くなった人の腐臭なのか、嫌な臭いまでも感じていた。やがて私は、他の人たちと力をあわせて、死体を始末する作業をしていた。しかし、「気持ち悪い」などとは全く感じず、早くしないと死体がどんどん腐っていくと、とても焦っているのだ。この日記ではちょっと書けないようなこともしたりする。断っておくが、あくまでも「しなくてはならない」という思いでの行為なのだ。気持ち悪いとは思ってはいないが、夢の中の気分は最悪である。そんな気分の時に、夕焼けを見るのだ。それは本当に美しい夕焼けで、「こんな時にも、夕焼けがこんなに美しいなんて・・」と思っている。たいてい、そのあたりで目が覚める。この夢を見たときの目覚めは、いつも最悪であった。寝汗をかき、寝起きとは思えない疲れにグッタリしているのが常だった。体調が悪いから悪夢をみるという感じではなく、悪夢をみるから体調も悪くなるという感じだった。子どもの私が、なぜあんな夢をみていたのか、今でも不思議だ。しかし、この夢も30代くらいまでに見なくなったような気がする。先日の「東京大空襲」の日、テレビの映像を見ていて、この夢を思い出した。しかし私の夢には、爆撃に逃げ回っているような夢はない。そんな夢なら、もっともっと怖かっただろう。ましてや、夢ではなくて現実にその体験をした人たちの思いはいかばかりであったか。悪夢のような現実を生きている人達が、世界にはたくさんいる。戦争体験者がいなくなってしまった日本の未来が、とても心配である。
2005年03月12日
閲覧総数 14
9
所要のために千歳に行ったので、ついでに近くの道の駅「サーモンパーク千歳」に行き、食事と買い物をしてきた。この道の駅がリニューアルオープンしてから、一度行ってみたいと思っていたのだ。11時過ぎに着いたのだが、観光バスが並んでいた。隣接する「サケのふるさと千歳水族館」のための駐車場でもあるからだろう。道の駅に入ると、以前よりも野菜などの直売品やお土産売り場も広くなったような気もする。まずは、ざっと店内を巡り様子を見て、混まないうちに食事をしようと一緒に行った次男と夫が「サーモンキング」で食べたいと店内に入ると、予約の団体客がもう少しで来るので、食事提供まで時間がかかるかもしれないとのことで別の店へ。迷ったが、親子丼とザンギのみせで、それぞれ別の親子丼を食べる。その後、野菜などや道産食材などのお店で気になるものを色々と購入。その一つの「いくら醤油」コーナーのところに、少量のご飯にいくら醤油をかけたものを試食提供していたので口にすると、「えっ、イクラご飯だ!」とびっくりの味わい。少し高かったけれど、卵かけごはんにこの醬油をたらしたら美味しいだろうと思い切って購入。というわけで、夕ご飯はちょうど平飼いの卵があったので食べてみた。私はあまり卵がけご飯を好きな方ではないのだが、これは美味しかった。今、製造元のサイトを見たら、色々なアレンジができそう。いいものを見つけた気がする。きっと、本州へのお土産に持って行ったら喜ばれることだろう。
2025年01月22日
閲覧総数 45
10
実は三日ほど前から、右の乳房が腫れて痛くなってきた。昨日あたりからしこりになって痛みが続くので、今日は覚悟して病院に行った。乳房だから「婦人科」かと思い、近くの産婦人科クリニックに電話をすると、「それは外科です」と言われ、やはり近くのクリニックに行くことにした。「近くの医院」にこだわったのは、私は自動車の運転をしないので、自転車で通院できる範囲の病院にしたかったのだ。私は元来健康なので、自分の病気で通院することはほとんどない。一週間ほど前の「腹痛」が、本当に久しぶりの病院だったのに、二週続けて病院にかかる事になるとは・・。「内科・外科」が中心のクリニックのせいか、行ってみると高齢の方がズラーリ。私など、まだまだ若い部類になりそうだと思いながら、待合室で週刊誌を読んで三十分。自己診断では、多分「乳腺症」だろうと思っていたが、腫れからしこりになっていったので、ひょっとすると化膿してるかも・・とは懸念していた。実は、今回腫れた場所は、次男を出産した時に「乳腺炎」で化膿して切開し、その後そこに「しこり」ができて、十年ほど前にそれが少し大きくなった時に乳癌検診でひっかかり、「念のため切除しましょう」と言われて手術した場所である。この時の手術が悲惨であった。私は麻酔が効きにくいのか、あるいはすぐに効果がなくなるのか、手術の途中で麻酔が切れてきたようなのである。最初は痛くなかったのに、だんだん痛みを感じ始めたので、「先生、痛くなってきました」と言ったのに、「麻酔しているから大丈夫」とメスをグサリ。その時の痛さと言ったら・・、思い出したくもない。私は「ギャッ!」と医師の手を振り払うように飛び上がってしまった。その反応に、医師は「オイオイ、ホントかよ・・」と言ったのだ。(思い出すだけでムカつく)その後、追加の麻酔をして手術は続行されたが、その時の恐怖は今も忘れられない。だから今回も、レントゲンやエコーなどの検査のあと医師が、「多分、以前の手術の糸が残っていて、それが化膿したのでしょう。切開して膿をだしますね」と言った時には、以前の手術のことを思い出して、ガクッときた。そして正直に、「実は・・」と以前の手術途中に麻酔が切れて恐怖の体験をしたことを話した。「大丈夫ですよ。今回はすぐに終わりますから」と言われても、私の不安は治まらない。その様子をみて、医師は「じゃあ、サービスで少し多めに麻酔しときましょう」ですって。そのサービスのおかげか、麻酔注射をする時のチクッ!チクッ!という痛みだけだったのだが、それでも私はその数分間、汗が出るほど緊張してしまった。「もう終わりましたよ」といわれてホッとした時、私は一つの質問をした。「前の手術で、中に糸が残るってどういうことですか?」。以前の手術も、傷口は1.5センチほどで、中で縫い合わせるほどのものではないのにと思ったのだ。しかし、その程度の傷でも、傷口を綺麗にするためなどで、中も縫うのだという。そして、大抵は内部で解けてしまうらしいが、人によっては残っていたり、ひょっこり出てきたりすることもあるとか・・。へ~、知らなかった。私はてっきり、あの「オイオイ、ホントかよ」と言った医師が、不手際で糸くずを残したのかと疑ってしまった。というわけで、あとは傷が治るのを楽しみに待つばかり。それにしても、同じ場所を三度も切るなんて・・。もう、これっきりにしたいものだ。
2004年07月01日
閲覧総数 25
11
私はギョッとするというより、絶望的な気持ちになった。《兵庫知事疑惑》「ひどい。こんなにギョッとしたのは」兵庫県関係者の衝撃的な証言が…亡くなったX氏を追い込んだ7人の脅迫者2/25(火) 6:12 文春オンラインひどい。こんなにギョッとする見出しは久しぶりだ。『維新2県議、立花氏に情報 兵庫知事疑惑、中傷の原因に』(毎日新聞)「信じがたい実態」と書いた社説 中傷された人たちは自殺した。斎藤元彦兵庫知事の疑惑を内部告発した西播磨県民局長と、疑惑を追及した県議である。中傷される原因にもなった「情報」の受け渡しに、日本維新の会所属の県議2人が関与していたのだ。増山誠氏と岸口実氏である。「信じがたい実態」と書いたのはこちらの社説だ。《選挙を自らのよりどころとするはずの議員が、公正な選挙を傷つける行為を重ねてきた人物に対し、議会のルールを破ってデータを提供する。斎藤元彦知事への告発問題に揺れる兵庫県で、信じがたい実態が明らかになった。》(朝日新聞社説)「公正な選挙を傷つける行為を重ねてきた人物」とは立花孝志氏のことだ。増山氏は告発内容の調査を担う県議会百条委員会の録音データを立花氏に渡していた。百条委副委員長だった岸口氏は知事選期間中に立花氏と会い、委員だった竹内英明県議を「(告発問題の)黒幕」呼ばわりする紙を渡した。立花氏がそれぞれ発信して拡散させたのだ。中傷された竹内氏は県議を辞職し、1月に死亡。自殺とみられる。 では維新県議が立花氏に提供した録音データには何があったのか。読売新聞を見てみよう。《証人尋問に応じた片山安孝前副知事が、告発者の男性職員(昨年7月に死亡)の私的情報について発言しようとし、奥谷謙一委員長が制して一時中断する場面が含まれていた。》 この百条委(昨年10月)が非公開だったのは11月の知事選に影響が出ないようにしたからだ。選挙後に録画を公開する方針だった。 しかし立花氏は知事選期間中、音声データをSNSで公開。《SNS上では、「(百条委は)都合の悪い部分を隠している」などの投稿が相次いだ。》 大事なことを付け加えると、公開された告発者の私的情報は真偽不明なものだった。週刊文春が“公用PC”の中身を報じなかった「3つの理由」 週刊文春は告発者X氏の“公用PC”の中身を報じなかった「 3つの理由 」として、(1)申入書の存在(2)公用PCの中身がX氏による告発の内容とは無関係だから(3)公用PCの中身について真実かどうか見極めるのが困難 と昨年12月に説明している。(1)の申入書だが、X氏は生前、代理人弁護士を通じて百条委の委員長宛にプライバシー権の保護を申し入れていたという。それなのに……。兵庫県関係者の衝撃的な証言 X氏が亡くなったあと兵庫県関係者は衝撃的な証言をしている。「この申入書を出した時点で、X氏は自分のプライバシー情報が流出していることを知って精神的に不安定になっていた。結果的にX氏は動揺の中で自死を選んでしまった」 X氏は「死をもって抗議する」という文言を遺していた。 しかし片山前副知事はそのあとの百条委員会(10月)でX氏のパソコンの中身についてわざわざ口にしたのだ。プライベートや真偽不明の内容に委員長の奥谷県議が制止した。このやりとりを「隠し録り」した録音データが立花氏の手元に渡り、立花氏は拡散させた。斎藤氏の再選に影響を与えたと考えられている。 そして今回、「情報」を提供したのが維新の県議だと明らかになったのである。朝日新聞は「信じがたい実態が明らかになった」(同前)と書いたが、報道をよく読んでいれば昨年7月に週刊文春が伝えていたことを思い出す人も多いはず。次の記事だ。『兵庫県知事・斎藤元彦(46)パワハラ告発 元局長を自死に追い込んだ「7人の脅迫者」』 (2024/07/17) そもそもX氏が告発したのは斎藤知事だけではない。片山副知事、県職員の総務部長、産業労働部長、若者・Z世代応援等調整担当理事の4人への言及があった。 怪文書として握りつぶされかけたX氏の告発文書が新聞報道などによって息を吹き返したのは昨年4月以降。すると、総務部長が大きなカバンを持ち歩くようになった。中には文書が入っており、X氏に関する極めてプライベートな内容だった。県職員らに中身を見せて回っていたという。(後略)正直なところ、「維新の会」は北海道民とはあまり関りがなかったので、強い関心や期待は抱いてはいなかった。しかし、ニュースなどを見ていたらあまり良い印象は持つことができなかったのだが、今回のことで絶望的な気持ちになり、期待どころか嫌悪感を抱いている。「維新」なんて言葉を軽々しく使ってほしくはない。
2025年02月25日
閲覧総数 70
12
北海道美唄市の工場で、手榴弾処理中の事故で一人が死亡というニュースを聞き、本当にびっくりした。自衛隊では、そのような処理作業を民間に委託しているのか?処理を含めた仕事ができるのが自衛隊だと思い込んでいたので、「どうなってるんだ!」というのが正直な気持ちである。記録のために、記事をコピーしておく。手りゅう弾爆発、1人死亡 美唄の工場、陸自委託で解体中 2005/03/21 23:37 【美唄】二十一日午後二時五十分ごろ、美唄市光珠内五四九、北海道日本油脂(服部勝英社長)の工場内で、解体処理中だった陸上自衛隊の手りゅう弾が爆発した。作業していた同市峰延町峰樺一区、作業員古賀秀樹さん(52)と同市西四北四、同社社員池上孝さん(58)の二人が直撃を受け、美唄市立病院に運ばれたが、古賀さんは出血多量で死亡し、池上さんは頭部と右足に軽傷。美唄署は爆発が起きた原因などを調べる一方、業務上過失致死傷の疑いもあるとして二十二日に実況見分する。 同社などによると、事故があったのは直径三メートル、深さ三・三メートルほどの水中廃棄場と呼ばれる水槽。二人は午前八時から金属ワイヤにつり下げた手りゅう弾を四個ずつ水中で爆発させる作業を手動で行っていた。爆発時には水中にワイヤが入っていない状態で、何らかの原因で空気中で爆発したとみられる。 同社はダイナマイトや凍結防止剤などを製造。一九九九年から爆発物処理も請け負い、対人地雷の処理は行っていたが、手りゅう弾の爆発処理業務は二月に初めて陸自補給統制本部(東京)から受注、すでに数千個を処理したという。 同社の淡中(たんなか)満常務は記者会見で「安全処理はきちんと行っていて、通常では爆発しない」と話した。また「大変な事故を起こし、大切な従業員を失ってしまった。ご家族に何と申し上げていいか」と深々と頭を下げた。手りゅう弾の処理は始めたばかりだが、対人地雷の処理の実績があるだけに「なぜ起きたのか分からない」(担当者)という。 死亡した古賀さんは昨年十月に同社子会社の日峰産業(美唄)から出向、二月から処理作業に携わっていた。古賀さんの親類は「家族思いの人で、長女が一月に初孫を出産し、喜んでいた。昨日、里帰りの孫を風呂に入れ、『今日は早く帰る』と言って出勤したのに」と悲しみに沈んだ。 工場周辺には民家が点在し、水田などをはさみ一キロ足らずの距離に中学校もある。付近の住民の一人は「手りゅう弾を処理していたとは知らなかった。きちんと原因を究明してほしい」と話していた。このような仕事をしている委託会社は、全国にどのくらいあるのだろう。周辺の人たちは、このような仕事をしている会社であることを知らなかったようだ。私達は、知らずにとても危険な場所に住んでいるのかもしれない。同じ日、防衛大学校の卒業式があったようだが、今年の卒業生は325人で、実際の任官者数は過去最少の303人とのこと。中途退学者も過去最高の132人だそうである。いつも思うのだけど、全額国費で勉強しさらに衣食住に加えて学生手当てまで支給される防衛大学校生は、自衛官にならない場合、または退学した場合、それまでに使われた国費(学費や学生手当てなど)を返還するのだろうか。ご存知の方には、教えていただきたい。
2005年03月21日
閲覧総数 1776
13
朝の慌ただしい時間に電話が鳴った。それは、関西に住む中学の同級生で、左のページ「Mとの思い出」のMさんからだった。彼女が朝っぱらから電話をくれるなんてと思いつつ、「あら、お久しぶり。何かあった?」と聞くと・・。「えっと・・ね、一応知らせておこうかと思って・・」(ン? このような出だしの話というと、 前から癌とやらで入退院していたというお母さんがもしかして・・)と思うまもなく「私、癌になっちゃったよ。あと二週間で手術だって」。その声は、妙にハイテンションで、こちらは一瞬何と答えてよいのか絶句。それでも、何とか気を取り直して「いつわかったの? 前から調子悪かったの?」などと聞き始めたとたん・・。話の途中で「あ、ちょっとゴメン、またかけ直すから!」とプチッと切れた。どうしたのかと思いつつしばし電話をジッと見つめる。何と、出勤途中に携帯電話からかけていたようで、パトカーが前方から来るのを見て、慌てて電話を切ったらしい。彼女の職業は看護士で、現在はどのような職場なのかはっきりわからないが、以前の話だと高齢者が多くて看取ることの多い病院のように聞いていた。自分でちょっとおかしいと思って検査を受けたら、想像通りの子宮ガンだったという。少し進行していて、転移の可能性が高いらしい。そんな話を、ほとんど一方的に話し続け、私は相槌や少しの質問などをするだけ。ひょっとすると、ハイテンションなのは内心のショックの表れなのかもしれない。しかし彼女自身は、「大丈夫、思った以上に私って冷静だよ」なんて言う。彼女は昔から、人一倍の負けず嫌いだ。それだけに、気の弱さを人に見せられないという面がある。「怖いよー」という代わりに、「もし死んじゃってから、どうして早く知らせなかったのと怒られてもイヤだからさ」なんて言っている。私がそんなことで怒るわけがないのをわかってるくせに・・。と思いつつも、私の口は内心とは裏腹なことを言っている。「そうだよー。それよりも、何かあったりしたほうが怒るからね。 その冷静さと元気なら、絶対に大丈夫。 ぜーんぶ悪いところ取っちゃって、元気になってよね」一日中、彼女のことが頭から離れなかった。多分、手術して少しの間は闘病生活になるだろうけれど、また現役復帰するに違いない。その闘病体験を、看護士の仕事に生かすに違いない。彼女は人一倍の負けず嫌いだから、病気にだって絶対に負けないに違いない。そんなことを、知らず知らずに思っている私がいる。彼女との40数年の付き合いのことと重ねあわせ、とても複雑な気持ちがしている。
2008年06月26日
閲覧総数 9
14
連休だというのに、まず夫が職場から「風邪」を頂戴してきた。金曜日に、実家のビニールハウスの片付けや、もろもろの作業を手伝ったことで、「いまいち」まで回復していた私の腰痛が、またぶりかえす。というわけで、昨日から夫は風邪で寝込み、私は腰痛でモゾモゾ状態。今日はついに、私にまで風邪ウィルスが取り付いたような・・。ふー、何とか今日が最悪状態で終わりますように・・
2006年11月05日
閲覧総数 7
15
昨日は、某団体の親睦研修(のようなもの)があったのだが、会食をしている頃から何となく気持ちが悪くなってきた。帰宅すると、腹痛と吐き気が襲ってきた。「食あたりか?」とも思ったが、それとも違うような気が・・。三度ほど吐いて、これで楽になるかと思ったけれど、全然好転しない。やがて熱も上がってきた。痛みの強さから、ひょっとすると盲腸ではないかと不安になってきて、夕方になって我慢できずに病院に駆け込む。医師の説明では、盲腸などではなさそうで、単純な腸炎らしい。風邪でこのようになることも多いという。そういえば、この数日やけに蒸し暑い日が続き、身体を冷やしてしまったきらいがある。点滴が終了して、吐き気はおさまったが腹痛は続いていた。「もし、明日になっても痛みが治まらなければ、必ず受診してください」と言われ、薬を貰って帰宅。さすがの私も、昨日ばかりはPCをチェックする気力もなかった。そして昨夜は、鈍い腹痛と発熱による体のだるさや痛みでうつらうつらと眠ったのか眠らないのか・・。それでも明け方には随分楽になり、今朝はおかゆを食べて元気が出てきた。それでも、まだ体が何となくだるく、頭痛も残っている。久しぶりに「絶不調」を味わっている。【追記】このまま回復して欲しいと願いながら、午前中はゴロゴロしていた。じっとしていると痛みはないのだが、昨日の「激痛」の後遺症なのか、動いたり身体をねじると鈍い痛みがある。薬も一日分しか貰っていなかったので、念のために病院に行く。それにしても、○○病院は時間がかかる。待っているだけで、調子の悪い人には苦痛だと思う。病院に自分の治療のために来たのは、約2年ぶり。昨夜は時間外診療だったのですぐに受付や診察をしてもらったが、今日は受付→問診→診察までで一時間、会計の後調剤薬局で薬を貰い会計をすませるまで三十分以上。その後少し買い物をして帰宅したら、4時過ぎになっていた。(^。^;) フウ、疲れた・・。とにかく、明日一日で完治するぞ! 金曜日には休めない会があるので。
2004年06月23日
閲覧総数 16
16
五街道雲助一門会を夫と二人で聴いてきた。五街道雲助という落語家については、申し訳ないけれどこの一門会の北海道新聞の広告を見るまで知らなかった。調べたら人間国宝ではないか!ということでチケットを購入して聴きに行った次第。この一門の名前が面白い。五街道雲助、桃月庵白酒、隅田川馬石、蜃気楼龍玉と、とても個性的な名前ばかり。一門と言ったら「林家」とか「桂」など、一門の人であることがわかるような仕組みかと勘違いしていた。未だに知らないことは沢山あるな。ともあれ、久しぶりの落語は楽しかった。このようなことがあると、また聴きに行きたいと思ってしまう。夫と二人で札幌に出たのも本当に久しぶりだった。
2025年03月02日
閲覧総数 4
17
北海道近代美術館で開催されている、「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」に、Tさんと一緒に行く。もう開催も終盤なのでさほど混んでいないだろうと思ったが、受付には長蛇の列でビックリ。しかし、Tさんは障がい者手帳を持っているので、その手帳を見た美術館の人が「こちらへどうぞ」と案内してくれて、私も付き添いとして列に並ばずに会場に入ることが出来た。しばらく美術館に来ていなかったので忘れていたけれど、障がい者手帳はこのような時には役に立つ。彼女は目に見える障害ではないので、きっと並んでいた人たちは「どうしてあの二人は優先的に入れるの?」と怪訝に思ったことだろう。それはともかく、今回の障壁画には本当に感動しかない。人が多かったので、ゆっくりと堪能と言うわけにはいかなかったが、東山魁夷が10年の年月をかけて構想してからスケッチを重ねて完成したそのプロセスもわかり、本当に素晴らしい展覧会であった。東山魁夷も90歳まで生きて描き続けていたんですね。日本画家って長寿のイメージがあります。
2019年07月23日
閲覧総数 56
18
最近は「押し活」なんて言葉があるようだが、好きな作家を応援するのも押し活に入るんだろうか。それはともあれ、まったくタイプの違う二人の道産子作家、私は好きです。共に北海道に生まれ育ち、ただ同郷であるという共通点への親近感なのかわからないけど、これからもどのような作品を書いてくれるのかと楽しみにしています。物語で結ばれた熊のリアル 直木賞を受賞して 河﨑秋子 北海道新聞 数年前の夏の午後のことだ。私は別海町の実家周辺を歩いていた。道東にしては珍しく暑く、風のない日だったと記憶している。進行方向の、橋を挟んで二百メートルほど先の道路を、黒い生き物が四本足で横断していた。 大きく、そして全体のフォルムがシュッとしていた。胴も足も長い。 私は最初、犬かな、と思った。昔よりは少なくなったとはいえ、道東の農村部では時折野犬が出ることもあるし、(腹立たしいことだが)誰かが飼いきれなくなった犬を密(ひそ)かに置き去りにしていくこともある。 そういえば、あの黒い動物は以前飼っていたピレネー犬ぐらいの大きさだ。そうだ、あの子が真っ黒な毛並みだったらあんな感じかもしれない。あまりの大きさに遊びに来た友人から「熊ー!」と逃げられていたことだし…と考えて、ようやく気付いた。 あれ犬じゃない。熊だ。夏で食物が足らず、痩せている熊だ。 理解した途端、比喩ではなく全身から嫌な汗が出た。実際に野生の熊を見たのは初めてだった。 この地域に熊がいることは頭では分かっているはずだった。三毛別(さんけべつ)事件や福岡大学ワンダーフォーゲル部事件をはじめとした、開拓期などの熊被害について文献を調べてもいた。それらによって自分の中に作り上げていた熊のイメージは恐ろしく、獰猛(どうもう)なものだ。知識と想像から引用された恐怖に、私の筋肉は強張(こわば)った。 しかし、当の熊はというと、私の焦りどころか存在にも気付かず、悠々と道路を渡り終えて道路脇の藪(やぶ)に消えていった。大きな川が流れている地域なので、川沿いに移動していたのだろう。 熊は私の恐れなどにかかわらず、彼らの生き方を貫いていた。個体差の大きな生き物だから、好んで人間や家畜を襲う熊もいるが、多くは人間がいることなどさほど気に掛けずに彼らの営みを続けている。それは何百年前から大きく変わることはない。当たり前のことだが、人間が作ったアスファルトの道を悠然と横切る熊の姿を見ながら、私は彼らの『普通の生活』を垣間見ていた。 その後、私は熊に遭遇していない。牧草ロールのテープを破られたり、家族がトラクターに乗っている時に目撃したというので、家の周りに熊が生息していることに変わりはないのだろう。大きな被害がないまま、距離を保てるのは良いことだ。 今回、明治を舞台に、猟師が出てくる物語を書いて直木賞をいただくことになった。主人公の猟師は熊と戦い、その命を奪う。その理由は稼ぎのためであったり己の存在意義のためであったりするが、それを書いた私自身は熊と戦った経験がない。作中の描写の要素になったのは、実際の猟師さんたちが書かれた手記や私の山歩きの僅(わず)かな経験によるものだ。あくまでフィクションである。 そして、それでいいと思っている。 現実と空想を混ぜて物語と為す。それこそ最も人の心に届きやすい道だと私は思い定めて小説を書いてきた。実際の熊は作中よりも穏やかだったり怖かったりするだろう。しかし架空の物語を読まれた方の頭の中には、その人なりの熊の恐ろしさが刻まれる。あるいは、それは尊さでさえあるかもしれない。 それでいいのだ。少なくとも、書いた側の私は、そうあって欲しいと思っている。 大きな賞を機に、拙著は多くの人に読んで頂けているそうだ。物語を通してそれぞれに結ばれた熊の姿と恐ろしさ。実体を持たないからこそその人のリアルな熊の像を、機会があれば聞いて回りたいとさえ思っている。 <略歴>かわさき・あきこ 1979年、根室管内別海町生まれ。北海学園大経済学部卒。2012年「東陬遺事(とうすういじ)」で北海道新聞文学賞(創作・評論部門)。14年「颶風(ぐふう)の王」で三浦綾子文学賞を受賞し単行本デビューした。19年「肉弾」で大藪春彦賞、20年「土に贖(あがな)う」で新田次郎文学賞。21年「絞め殺しの樹」が直木賞候補、2回目の候補作「ともぐい」で第170回直木賞を受賞。<桜木紫乃 居酒屋さくらぎ>いち原作者の矜持 北海道新聞 ありがたいことにときどき、映像化のお話をいただく。浮かんでは消え、消えては浮かぶ泡に似て、実現にこぎ着けるのはわずか。そのわずかの実現も、さまざまな事情で完成までに時間を要する。 ひとかどの大人が集まって、自分の専門分野で責任を持って仕事をするわけだから、譲れないところ飲み込むところはさまざま。 おおよそ生活者の想像できる金額を遙(はる)かに超えた制作費用を聞いて、尻込みしてしまい黙り込んだこともある。 十年以上も前のこと、映像化にあたりラストシーンを大幅に変更したいとの申し入れがあった。 原作は、過去の過ちをひっそりと償い続ける老いた弁護士が、出会う人との関わりによって心解け、心のみ一歩踏み出すという内容だった。 小説のラストは、別れた息子の結婚式の招待を断るのだが、映像化するにあたってはそこを大きく変えて、結婚式に向かうことにしたい、という。理由は「映画館を出たお客さんが、少し視線を上に向けられるように」。 映画は映画人が作るもの、小説家は小説を書くのが仕事と割り切っているので「どうぞ新しい物語として自由に羽ばたかせてください」と応えた。本気で「小説はただのきっかけでいい」と思っていたし、いまもその思いは変わらない。 しかし主演の俳優さんとご飯を食べた際に言われた言葉が、なぜか今も胸でくすぶり続ける。彼曰(いわ)く「もっと自分の書いたものを大切に、最後まで責任を持ったほうがいい」。 責任を取れないことには口を出さないと決めているし、映画は映画とも思っているのも確か。当時のわたしには、口を出さぬことが原作者として出来る最大の応援だった。 いい大人が何十人何百人と関わってくる世界だ。その名を賭けて好きに作ってもらったことに悔いはない。現場はとても和やかな印象だった。 興行成績はふるわなかったが、今もときどきテレビで二次使用され人の目に触れていることを思えばありがたい限りだ。 あれからずいぶん時間が経(た)った。自分なりに全力で小説を書き続けてきた。時が経つほどに、当時俳優氏が言ったひとことの重みが増してくる。 映像が全国津々浦々を相手にどんな作られ方をしようとも、北海道に生まれ育った私が書いた小説のラストは変わらない。はっきり言って、どんなに情にほだされようとも、息子の結婚式に向かうことはないのだ。なぜなら、捨てた過去を惜しんだりしないのが、北海道人の無意識下にある「矜持(きょうじ)」と、物語を書いた私がそこばかりは譲れないからだ。 胸を張って明日の自分とつき合うために、そう易々(やすやす)と「内地の価値観」に取り込まれたりはしないのである。 血縁を担保にせず、情を垂れ流しもせずにやってきた人間の責任の取り方もある。 答えを出し終わった物語が別の表現方法でどう変更されても、そうそう心が揺らぐことはない。映像は映像で楽しんでもらえればいいのだから。 しかし、だ。もしもラストを書く前に逆の結末を提示されたらどうだったか。私という人間、あるいは生き方を解(わか)ってもらうために、自分はどう構え、どう差し違えようとしたろうか。思いは尽きず。
2024年02月16日
閲覧総数 44
19
「藍を継ぐ海 」伊与原新/著なんとかウミガメの卵を孵化させ、自力で育てようとする徳島の中学生の女の子。老いた父親のために隕石を拾った場所を偽る北海道の身重の女性。山口の島で、萩焼に絶妙な色味を出すという伝説の土を探す元カメラマンの男――。人間の生をはるかに超える時の流れを見据えた、科学だけが気づかせてくれる大切な未来。きらめく全五篇。直木賞を受賞したという記事を見て、面白そうだと購入した。期待にたがわずとても面白かった。作者の伊与原新さんは、地球惑星科学を専攻した科学者でもある。医師で作家は何人も知っているが、彼のような科学者で作家の人はどのくらいいるのかな。いずれにせよ、科学者の視点での地質(萩焼の土)、二ホンオオカミ、原爆、隕石、ウミガメの物語は、どれもとても新鮮で面白かった。伊与原新さんの作品は初めて読んだと思うが、もっと読んでみたいと思う。
2025年02月27日
閲覧総数 29