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国連安保理首脳級会合、「核なき世界」目指し決議採択国連安全保障理事会は24日、核軍縮と拡散防止に関する首脳級会合を開き、米国が提出した、「核兵器なき世界」を目指す決議を全会一致で採択した。決議は「核兵器なき世界」に向けて「核軍縮分野でのいっそうの努力」を呼び掛け、すべての国に核不拡散防止条約(NPT)への加盟を促した。ただ、イランや北朝鮮の名指しは避けた。会合では議長を務めたオバマ米大統領が、「この会合を開いたのは、すべての国と民族の安全を脅かす核兵器の使用と拡散について、首脳レベルで対応するためだ。」と表明。向こう1年が、核軍縮と拡散防止に向けた取り組みの成功を左右する極めて重要な年になると強調した。(2009年9月24日・ロイター)日本は核廃絶に向けて先頭に立つ~鳩山首相国連安全保障理事会は現地時間24日、アメリカ・ニューヨークで、核不拡散と核軍縮に関する首脳級の会合を開き、「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択した。鳩山首相は演説で、「日本は核廃絶に向けて先頭に立たなければなりません」などと述べた。鳩山首相、「日本は核兵器による攻撃を受けた唯一の国家です。しかし、我々は核軍拡の連鎖を断ち切る道を選びました。それこそが唯一の被爆国として、我が国が果たすべき道義的責任と信じるからです。近隣国家が核開発を進めるたびに、『日本の核保有』を疑う声が出るといいますが、しかし、それは被爆国としての責任を果たすため、核を持たないのだという我々の強い意志を理解していないからです。私は今日、日本が非核三原則を堅持することをあらためて誓います。世界は核拡散の脅威にさらされています。北朝鮮やイランの核問題、テロ組織による核物質や技術入手の可能性など、核不拡散の取り組みが重大な局面を迎えているというのが厳しい現実です。だからこそ、日本は核廃絶に向けて先頭に立たなければなりません。今年4月に(アメリカの)オバマ大統領が『核兵器のない世界』の構想を示したことは、世界の人々を勇気づけました。今こそ我々は行動しなければなりません。」(2009年9月25日・日テレNEWS23)「核兵器のない世界」「核兵器なき世界」「核なき世界」・・・何て心地良いフレーズなんでしょう。残念ながら今までの世界情勢からは、そう簡単には信じられない選択肢ですよね。もちろん本気で現実化して行くのは、困難と挫折を伴う茨の道のり・・・。でも少なくともその第一歩の【決める】が、嘘みたいに始まってしまったのかもしれません。ニュースを見ていて、オバマ大統領の是非に答えて挙手する各国の首脳達に鳥肌が立ちました。日本は唯一の被爆国・・・という鳩山首相のスピーチも心に響くものがありました。アメリカと日本、原爆を落とした国と落とされた国・・・。バラックとユッキー(このネーミングは本人のご希望なのだそう)は、過去のロンとヤスやジョージとジュンとはちょっとばかり次元の違うお二人なのかな。疑い深くて不信感の塊である私でも、全ては可能と想い続けるパワーが実現化を呼び込む事は解っているんです。マス・メディアの大好きな叩く&攻撃する、これって良いヴィジョンの場合にはオトクではないですよね。どんなプロセスを経ようとも真に平和で自由な世界がマニフェストするならば・・・やっぱりしつこく【イマジン&ドリーム・オン】。
2009.09.26
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Ying & Yang / 陰陽↑今にもクル~ンと右回りに回転して、マーブル模様になりそうな図形ですよね。さらに回転して行けばグレーに・・・っっとこの白と黒は絵の具ではなくって光と闇。光と闇では圧倒的に光の方が強いので、光の量が増えてさらに輝いて波動が上昇するんです。闇とは本当は・・・単に光の不在に過ぎないんですね。【ケヴァ・アドヴァイタ(絶対一元論)】はヴェーダの真髄、簡単に言っちゃうと【ワンネス】の事です。[ケヴァ]は絶対、[ア]は否定接頭語、[ドヴァイタ]は二元論。このワンネス、つまり大いなる全て、又は宇宙そのものをインドでは【ブラフマン】、中国では↑の陰陽図の【太極】、日本では【天之御中主神】(?)などと表現したりします。北極があれば南極があるように、プラスとマイナス、白と黒、明と暗、昼と夜、善と悪、光と闇、ポジティブとネガティブ・・・この地球の特性と言えば【2極性】。当たり前ですけど誰でも光に満ちたポジティブな体験は大好き、でも漆黒の闇のようなネガティブな体験は嫌なものですよね。昔の私は不愉快なのは嫌な出来事や嫌いな他人様や物であって、↑の陰陽図で言えば黒い部分が居心地が悪いのだと思い込んでいました。だから現実を何とかしなくっちゃみたいな・・・。でも実は不快に感じているのは分けている事、↑の白黒を境界している分離の線の存在、つまり判断して、押しやって、受け入れられないでいる葛藤に消耗している事に気がつきました。起きている事はいつも中立、出来事には良いも悪いもないんです。たとえどんな事が起きたとしても、見ていて穏やかでないのは私達のマインドに過ぎません。自分にとって良い事は受け入れやすく、悪い事は必死で切り離そうと抵抗します。でも自分の中が1つに統合されていれば気持良い、バラバラに分離していれば疲れる、ただそれだけの事なんですね。過去は私。その人(それ)は私。(私には)嘘みたいに効果的なこのマントラを、凹んだ時にちょっと言ってみます。マヤの偉大なお言葉、【インラケチ(あなたはもう一人の私である)】と似ていますね。【言霊】を使って、分離した出来事や他人様や物と一体化してみる・・・この簡単さが絶妙で、不思議に展開が起きるんですよ。光の中で光は見えない、でも闇の中で光は輝いて見えます。ネガティブを歓迎するつもりはありませんが、闇の中で発見する、闇の中でこそ培えるクオリティーってあるんですよね。強さや忍耐力ですとか、思いやりや共感性ですとか・・・。私達ってもしかしたら自分自身を強化して、キャパシティーを拡大するためにここに居るのかも・・・。独りでは自分の事が良くわからないので、たくさんの人間に分かれて、様々な人種による多様な文化を創造して、国境線を引いて分離して、闘って戦争までしている状態を体験しに来ているのかもしれません。宇宙の意図的な分離、プランされた2極性・・・。さらに調和した、もっと力強い、豊かな豊かな【1】に再統合するためのグレイト・エクスペリメント。お話は飛びますが、今晩は黒一色の朔(新月)でございます。スーパー・カワイイ(?)↓はインド初の月探査機・チャンドラヤーン1(月の乗り物という意味です)、ただ今無事に(!)月の軌道を周回中。(なんちゃって、じゃないですよ。)
2009.08.20
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ラーフ & ケートゥ コロナにプロミネンスにダイアモンド・リング、真昼間なのに水星や金星やシリウス・・・日本の陸地では46年ぶりの皆既日食は、超ビューティフルな天体ショーでしたね。しかも【七夕&満月】と【日食&新月】が同月に重なるのは21世紀では【2009年の7月】だけ、おまけに22日はマヤ暦のツォルキンが1周するKIN260の日でもあったんですよ。インドの神話では、日食や月食が起こる月の昇交点が【ラーフ】(Rahu)、降交点が【ケートゥ】(Ketu)と呼ばれ、この2人の擬人化されたアスラ(魔族)によって食が起こると考えらていました。(ケートゥが彗星や流星である場合もあります。)≪交点≫とは白道(月が地球を回る軌道)と黄道(地球が太陽を回る軌道)が交差するポイントの事、この付近を太陽や月が通る時に食現象が起こります。↓ラーフ&ケートゥの神話↓インド版の天地創造である乳海攪拌の後、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手に渡りました。神々は集まってアムリタを飲みましたが、神に化けて混ざっていたラーフ(アスラ)もアムリタを口にしてしまいました。それに気づいたスーリヤ(太陽神)とチャンドラ(月神)は、ヴィシュヌ神に知らせます。ヴィシュヌ神はその4本腕の1つの手指でいつも回転させている、チャクラ(円盤状の武器)を投げてラーフの首を切断しましたが、首は不死になってしまいます。天に昇ったラーフの首は告げ口された事を怨んで、太陽と月を飲み込んで日食や月食を起こす悪星になりました。一方で切断されたラーフの胴体も天に昇り、ケートゥという凶兆の星になりました。胴体のないラーフが太陽と月を飲み込んでも、すぐに太陽と月が現れてしまうので日食や月食が起こるようになったのです。古代インドの【ナヴァグラハ】(9つの惑星の意味・九曜占星術の事)では、スーリヤ(太陽)、チャンドラ又はソーマ(月)、マンガラ(火星)、ブッダ(水星)、ブリハスパティ(木星)、シュクラ(金星)、シャニ(土星)の≪七曜≫(つまり1週間ですよね)に、このラーフとケートゥを加えます。そしてそれぞれの神々は、自分の名前のついた曜日を守護していると考えられています。凶兆とされているシャニ(土星)やラーフやケートゥも、南インドなどでは逆に厄除け的に手厚く信仰されていたりもするんですよ。ナヴァグラハは古代中国において【宿曜経】として翻訳され、ラーフは羅候星、ケートゥは計斗星と漢訳されました。この中国経由の≪九曜≫(又は曜日の概念)を日本に輸入したのは弘法大師空海さま、ですから真言密教では節分時などに星供養を行っている寺院もありますよね。ラーフは仏陀の息子の名前のラーフラ(Rahula)、漢訳では羅候羅(らごら)としても用いられました。ラーフラは転じて≪障害をなすもの≫の意味とされ、一説では≪出家の障害になる者≫が生まれたので仏陀が息子にこの名前をつけたとされています。一方古代インド語ではラーフは【ナーガ】(竜)の≪頭≫、ケートゥはその≪尻尾≫という意味もありました。そしてシャカ族のトーテムがナーガであった事から、ラーフラは古代インドの言い回しで【竜の頭】であるとも考えられ、≪ナーガの頭になる者≫が生まれたのを歓喜した仏陀がこう名づけたという説もあるんです。この説の根拠としては、古来インドでは一族に跡継ぎがなければ出家する事が出来ないので、出家を願っていた仏陀にとって息子の誕生は又とない吉報である事や、仏陀の父の浄飯王もこの命名を喜んでいる事などが挙げられています。本当の所はどうだったのか・・・いずれにせよ仏陀は出家し、ラーフラもその十大弟子の一人に、後には十六羅漢の一人にも数えられていますよね。日本では熱狂と大興奮で迎えられた今回の≪日食≫、でもよりによって事もあろうに聖地ヴァラナシでも≪皆既≫だったんでスーリヤ!!何せ食は凶兆と考えられているインド、沐浴シーンで有名なガンジス川のガート付近には太陽の復活を祈る群集が押し寄せて大パニック、死傷者さえも出たとか出ないとか・・・。それでも太陽が再び現れて輝き出した時のインド人達の表情は、この上なく幸せそうに見えました。安堵したのか、終わり良ければ全て良し、一種のカタルシス効果もあったかも・・・。ラーフラの誕生だって、皆既日食だって、≪起きている事はいつも中立≫、本当は良いも悪いもない、吉兆も凶兆も一時のマーヤー(幻想)、でもそれを捉える人々の≪心・意識≫で全ては変わって来ますよね。
2009.07.24
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シロダーラ / アーユルヴェーダ恵みの梅雨のおかげさまで、スッキリしない毎日が続いています。ちょこっと心身が重たく感じる時には、とっても気持の良~いシロダーラ。アーユルヴェーダの中ではアヴィアンガ(全身のオイル・マッサージ)と共に、最も知られているトリートメントかもしれませんね。サンスクリット語で【アーユル】は≪生命≫とか≪生気≫、【ヴェーダ】は≪科学≫とか≪知識≫という意味です。同じく【シロ】は≪頭≫で【ダーラ】は≪流れ≫、こちらは見たまんまですよね。この≪生命の科学≫は南インドのケーララ州の、スパイスやハーブがてんこ盛りのジャングル地帯で生まれました。その後インド中に広まり、今では世界中でこの≪生気の知識≫が実践されていますよね。アーユルヴェーダのドクターは、脈診と問診(いくつかの質問)だけで個々の患者への治療法を決定します。昔々とある北インドのヨーガ施設で、それまでの旅の疲れ(世にも過酷な仏跡巡り~)とひどい風邪の症状でパニックになっていた事がありました。そこに突然現れたのがどこかで噂を聞きつけた、ゴットゥムさんという若いアーユルヴェーダのドクター。ご親切にも私の脈を取っただけで即、ドロドロとしたクリーム色の薬草スープを作って来てくれました。そのスープを飲んで(超おいしかった~)ぐっすりと熟睡、翌朝にはもう嘘みたいに完全治癒していました。ゴットゥムさんを日本風に発音すればゴータマさん、偶然にもあのシッダルタさま(仏陀)と同名のドクターだったのでした。(合掌)シロダーラは別名【脳のマッサージ】とも呼ばれ、脳の深~い部分までリラックスさせてくれます。オイルを垂らす眉間の第3の目(アジナ・チャクラ)の奥には、快感物質であるエンドルフィンやドーパミンやメラトニンなどを分泌する脳下垂体と松果体があるからなんですよ。額の一番敏感なその部分に一定量&一定温(体温より1度高いくらいの温度)のオイルを垂らし続ける事によって、一種の瞑想状態がもたらされます。身体は眠っているのに意識は在る、その意識がゆらゆらと行きつ戻りつし、もう自分がどこにいるのかさえわからなくなる、シロダーラ中に涙を流される方もいらっしゃるとか・・・。とてつもなく心地良いのでほとんどの方が眠ってしまうのですが、頑固な方や緊張や不安の強い方などは中々深い感覚を体験する事が難しいようですね。それでも何回か施術を受けているうちに身体や心が柔らかくなって、深い感覚を体験出来るようになって行きます。 中枢神経を深くリラックスさせるシロダーラは、【心の治療法】とも言われています。インドでは精神的なリラクゼーションを必要としている人、不眠症、不安、鬱、神経症などの精神疾患、皮膚疾患、白髪、脱毛、円形脱毛症、頭皮の痒みなどのトラブル、パーキンソン病、麻痺の兆候(脳から指令が上手く伝達されていない)、高血圧、脳卒中の後遺症、過度の精神疲労などの治療としてシロダーラが行われています。毎日が非常に忙しい、頭脳を酷使する、パソコンをよく使う、ストレスが大きい、たくさんの悩みを抱えている、頭痛がひどい、夜眠れない・・・そんな方や、アルツハイマー、脳梗塞などの脳疾患をお持ちの方、リュウマチで苦しんでいらっしゃる方などには特にお勧めだそうですよ。極楽気分のシロダーラ、チャンスがありましたら是非1度お試しあれ~。
2009.07.05
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エアー・ジョグつまり地下足袋・・・登山後の泥だらけでごめんなさいませ・・・しかもエアー!!このスーパー・スグレモノ、ご存知でした?!今一押しのマイ・ブーム、超おススメのアイテムでございます。(山伏さん達もご愛用、各地のお祭りでも大活躍。)最近ではミュールなどにも採用されていますが、ほぼ毎日が素足にサンダルのインドでは親指をくるんでポイントするのが伝統的なデザイン。足の親指をベルト状の部分にスライドさせるアレや、鼻緒の付いたタイプがインドのチャッパル(サンダル)のフツーです。これが身体的にも中々グッドでして、両足の親指に力が入ると重心がちゃんと中央に来ます。全身の中心線がしっかり通るので、背筋もスッと伸びやすい。足裏のウェイトが内側だとそこの大半が土踏まず、接地面積が少ないので疲れにくいのですよ。点で支える無圧構造・・・みたいなものですね。そもそもの伝統文化がヘルシーな日本国、草履(ぞうり)に草鞋(わらじ)に下駄(げた)に雪駄(せった)などと種類も豊富。そして地下足袋は・・・もちろん≪つま先チョキ≫でございます。地下足袋体験後の私はスニーカーからの脱却を決意、安価(¥3~4000くらい)ですしウォーキングにも最高っそう決めた途端に何とあのナ○キ社が、≪つま先チョキ≫のスニーカー(諸外国では通称Ninja)を出している事を発見してしまいました。さらにル・コッ○・スポルティーフ社に至っては、京都のメーカーとのコラボしておしゃれ~なデザイン地下足袋まで展開中。密かにじわじわ~とグローバル化しつつある地下足袋・・・日本のメーカーによる和柄のデザイン地下足袋もカワイイ・・・黒の地下足袋で決めれば気分はもう忍者。先日などは≪つま先チョキ≫のロング・ブーツ(ヌメ皮)を履いた、若い女性まで目撃いたしました。おしゃれ~ではない王道タイプの地下足袋は、街の作業用品屋さんで購入する事が出来ます。新緑が美しい5月の中旬、お初の地下足袋を履いて奈良県の大峯山系にある【弥山】に登って参りました。近畿最高峰の八経ヶ岳(1915m)、そのすぐお隣のピークが弥山(1895m)です。(低目が嬉しい関西の山々・・・。)山頂に祀られているのは弥山大明神、麓の天河弁財天の奥宮ですのでインドならばサラスヴァティー女神さまですね。弥山はそれにつながる【熊野古道】などと共に、2004年に世界遺産にも登録された【大峯奥駈道】の一山。大峯奥駈けといえば歴史的にも修験道のメッカ、以前は遠い神秘的な世界のように感じていました。世界遺産登録名 【紀伊山地の霊場と参詣道】(Sacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range)【巡礼の道】が世界遺産だなんて、時空を超えたエネルギー的なアイディアですよね。伝説には役行者小角さま、弘法大師空海さまなどなど、法螺貝の音の似合う深山幽谷、今でも大峯山上ヶ岳だけが守り続ける女人禁制の掟。(山中には古めかしい女人結界門・・・。)それでも世界遺産効果なのか最近では登山者が急増中らしく、奥駈け修行も段々と身近な存在になりつつあるようです。登りは禊の雨で寒さや悪路にエネルギーを奪われちょっとキツかったけれど、下山後には心身ともにスッキリと清浄爽快な気分でした。地下足袋を履いていると登りでも小走り気味、下りは安心して地面や岩上に着地出来ます。何も登山靴のように足首をガチガチに固めなくても、≪つま先チョキ≫ならば大丈夫である事も体感&実感済み。ガードするよりもバランスの方がより効果的、これって深いですよね。身体のダイナミックス(力学)・・・興味深いです。メイド・イン・ジャパンの誇る地下足袋、今後はヒマラヤ巡礼なども絶対にこれっ
2009.05.30
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伊勢山大神宮 / 横浜WBCで決勝タイムリーを放ったイチローの試合後のコメント。 「やあ、もう苦しい所から始まって、苦しいが辛いになって、心が痛んで、最終的に笑顔になった。日本のファンの人たちに笑顔が届けられて最高です。」 試合後ドジャースタジアムを大きな日の丸を持って1周。 「気持ち良かったですねえ。ほぼ、行きかけました。日本の全ての方に感謝したい。」 10回の決勝タイムリーについて。 「僕は持ってますね。【神が降りて来た】という感じ。日本中のみんなが注目しているだろうと思って、自分の中で実況して、普段は結果が出ないんだけど、それで結果が出て、壁を越えたと思います。」(by 日刊スポーツ)日本中が歓喜と感動の渦、もちろん私も大興奮いたしました。皆が1つになるのってホント~に楽しい、何故なら私達は元々1つなのですから。でもそれって意外と電光石火、案外とっても簡単だったりもするんですね。バラバラに分かれて分離し続けているのは、挙句の果てに戦争なんかもしちゃったりして・・・。気の遠くなるほど長~い年月の間習慣化しているこの状態の方が、実は物凄~い力を使ってかなりの努力をしているような気がしますよ。数々の感動のドラマの末の優勝でした。これはニューエイジなどでは再三言われているように、日本という国の存在が世界へアピールすべき時代の背景を現象化した出来事なのかもしれませんね。ここ1番っていう時には神様が降りて来てしまう清清しい【日本力】、皆が突然1億総日の魂となれてしまう調和力、イチロー(【1】)という名前の象徴的な意味・・・。全ての日本人の意識があの瞬間に1つになり、そのパワフルな光が物質界という固い壁を破って結晶化しました。この良い気分は即、株価にも影響があったようですね。がんばれ日本。見えない所に物事の本質は存在し、見える所はその現象に他ならないのですから。祓い給え、清め給え、神ながら、守り給え、幸え給え。このシンプルにして美しい言霊の国。WBCという禊によって古くて新しい日本が【国生み】アゲイン、そこんとこにフォーカスしているとそんなサインがあちこちでチラホラ・・・。野球選手ってマジで【侍】の転生者が多いのだとか、刀とバットってちょっと似たものがありますでしょ?!なおこのお話は・・・信じなくてもOKです。(笑)(横浜の桜木町にある伊勢山大神宮の御祭神は天照大神。)
2009.03.26
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ゴームク / ヒマラヤアイス・ブルー(氷河の水色)という言葉を発すると、自分の命を癒す効果があるそうですよ。(ハワイの癒しの手法 ≪ホ・オポノポノ≫ by イハレアカラ・ヒュー・レン博士)ゴームクはガンジス川の今の源泉の1つである聖地で、【牛の口】という意味です。↑写真の少し窪んだあたりから氷河の氷塊が音を立てて崩れ、牛の口のような裂け目から一つの整えられた流れとなってほとばしり出ています。氷河ゆえにいつも流動的な源泉は、昔はガンゴートリという少し下流のガンガー女神を祀る聖地にありました。ゴームクは標高4255m、ガンゴートリは3140m、ガンジス川は富士山+数100mの高度からリシケーシ、ハリドワール、バラナスィーなどの聖地をトランジット、約2500kmの距離を流れてベンガル湾に注ぎ込んでいます。たとえそれがどんなに冷たい氷河の水の中であろうとも、聖なるガンジス川では沐浴して身を清めるのがインド人。そしてガンガー巡礼には欠かせないクンブ(壺)に川の水を入れて、故郷に持ち帰るのが彼らの習慣です。ガンガー女神はこのガンジス川の化身で、最高神の1人のシヴァ神の側室のひとり。元々は地球に生を受けた女神ではなく、天界を流れる【天の川】でした。川の流れで先祖の灰を清めたいと願う人間の王に応じた神々が、彼女に頼んで地上に降臨してもらったのです。ガンガー降下の際の激しい流れを一時的に受け止める役を、先ほどのシヴァが担いました。するとガンガーは、「いくらシヴァだって、そう簡単に受け止められてたまらないわ~。」と彼の頭に向かって一気に!降下して行きます。ガンガーに侮られていることに気づいたシヴァは、川を頭で受け止めたばかりか一時的に髪の毛の中に封印しました。もちろんそれでは王様の願いは叶いませんから、ガンガーは解放されました。それでシヴァの絵は、髪の毛からガンジス河が流れているような描かれ方をしているのです。天の川で身を清め、天の川を壺に入れてお持ち帰り、そう思うとちょっと楽しいですよね。川の神様としては他にもヤムナー、サラスヴァティ、ナルマダなどがありますが、いずれも女神です。でも大地母神であるチャンディーやドゥルガーとはかなり性質が違い、泥臭さがほとんどありません。地球生まれの大地母神が時に醜悪で恐ろしいイメージがあるのに対して、宇宙より降臨した川の女神は人々を包み込むように優しく健康的なイメージを持っています。大地母神を祀る時の人々は闇にまぎれ人目を避けるように祈りを捧げるのに対し、川の女神に捧げる祈りは大家族による巡礼という華やかな形が一般的です。サドゥー達が守る聖なる秘境のゴームク、ガンガーは上流に行くに従ってキラキラと光が溢れて来るようです。ガンゴートリまで来ると頭が軽~くなって意識が飛びそう・・・この輝く光の中では暗く重たいネガティブな思考を保ち続ける事がとても難しい感じです。白雪を冠したヒマラヤ山脈はひたすら美しく、ただ眺めているだけでもう幸せ。心が透明になり命が蘇える、アイス・ブルー(氷河の水色)は見ていても癒されるんですね。
2009.02.12
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月面から見た地球1度は見てみたい地球の出、そして夜空に輝く地球・・・。地球ってきれいな、かわいい惑星ですよね。例えヴァーチャルでもこのくらいズームを引いて見ていると、何だかやさしい気持ちになって来ます。オバマ氏が【アメリカの素朴な夢】と信じているのは、「夜、子供達を寝かしつけながら、彼らが衣食足りて、危機から守られている事を実感できる事。」である。だから、メキシコに工場が移転して失業した労働者が病気の子供の薬代に困っている事に同情する、イラク戦争で息子を失った家族の生計を心配する・・・そして「失業者には職を、ホームレスには宿を、我々はそれを実現する。」と訴える。そのやさしさは、若い頃にシカゴのスラムの貧困と闘った地域活動の経験が培ったものなのかもしれない。(from 朝日新聞)人の痛みを感じ、理解出来るたなら、そしてそこから考え、発言し、行動出来るたなら、もしも皆がそうだったなら、そこはまるでこの世の極楽?!天国?!やさしさ、思いやり、慈悲、愛・・・同じ内容の言葉はいくつもありますよね。日本でも今年のNHKの大河ドラマの主人公の直江兼続が、兜に【愛】という文字を掲げているのもきっと偶然ではないのでしょう。オバマ氏の緊急景気対策は、2年間で300万人の雇用創出を目指し、保健医療やエネルギー、教育への投資を優先的に実施する内容。代替エネルギーの生産の倍増、連邦政府庁舎や住宅のエネルギー効率改善、医療記録の電子化、学校施設の改善、ブロードバンド通信網の拡充、科学技術分野への投資が盛り込まれている。(from CNNニュース) 米国のサブプライム問題に端を発する世界同時株安、100年に1度と言われる世界規模の大不況、その結果が今の深刻な日本の派遣切り・・・。何か問題が生じた時には、起きている状況よりもその本質を検証してみる事が有効な場合もありますよね。金融危機・・・株式などの投資で利益を生み出しているのは実は数字の世界、具体的には実体の無い世界のように思えたりもします。では人間が超具体的に実感を持って携われる世界の1つは・・・農業!輸入が途絶えたら一瞬で危機に瀕するほど食料自給率の低い日本、今ここに多大な創意工夫と【大量の人材】を注ぐ将来的なメリットはきっと計り知れない事でしょう。自動車産業の派遣切り・・・日本に限らず、アメリカのビッグ・スリー(GM、フォード、クライスラー社)も大変な事になっているようです。ではこの問題が加速させようとしている未来への変化とは多分・・・エネルギー転換!ハイブリッド、電気自動車、窒素バッテリー、又は水だけで動くですって?!例えば1例を挙げればエリーカ、もしもこんな自動車が大量生産&ロー・コストになって行ったなら・・・。そしてエネルギー転換のためには、【大量の雇用】だって創造可能ですよね。「21世紀の日本はエコ先進国になる。」、という話をよく聞きます。何故なら古来自然と調和して生きて来た日本人の感性が、エコロジーとマッチしているからなのだそうです。もしも2009年に地球環境にも人間にもやさしい、新しい産業やビジネスやお仕事がたくさん生まれて来る日本に【CHANGE(変革)】出来たなら・・・。皆様にとって素晴しい1年になりますように、からお祈り申し上げます。
2009.01.09
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マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とてつもなく取り込んでおりまして(大変だったぁ~~~)、長期にわたって意識が全く違う所に行っていたにも関わらず、いきなりブログに舞い戻ってしまうくらい興奮してしまいました。過去のU.S.A.に住んだ事のある者ならば、夢ではないかしら?と疑ってしまいたくなるようなCHANGE(変革)、初のアフリカ系アメリカ人合衆国大統領の誕生!それはネット上でバラック・フセイン・オバマ・ジュニア氏に小額の献金をした人々、普段は行かない選挙に出向いて一票を投じた人々によってもたらされたものなのかもしれません。「本当の人間の価値は、全てが上手くいって満足している時ではなく、試練に立ち向かい、困難と戦っている時にわかるものだ。」(by マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師)CHANGE(変革)の本番はこれから・・・U.S.A.も地球も・・・Yes ! We can change, or ?1964年にノーベル平和賞を受賞した公民権運動の指導者、故キング牧師の有名なスピーチをもう1度聞いてみたくなりました → YouTube↓長過ぎますので・・・もしも気が向きましたら・・・お暇な時にでもどうぞ~。【 I have a dream (私には夢がある) 】 by マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師on 1963年8月28日 at リンカーン記念堂に向かうワシントン大行進にて(↓スピーチ全文)私は、我が国の歴史の中で、自由のための最大のデモンストレーションとしてに歴史に残る集会に、今日、皆さんと共に参加できて幸福です。今から100年前に、我々が今日立こうしてその像の下に立っている偉大なるアメリカ人(=リンカーン大統領)が、奴隷解放宣言に署名しました。この重要な宣言は、燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万もの黒人奴隷達にとって、希望を示す大きな光でした。それは奴隷制度のもとでの長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでした。しかし、あれから100年たった今、黒人が、未だに自由ではないのです。100年たった今、黒人達の生活は、人種隔離の手かせと人種差別の足かせに縛られています。100年たった今、黒人達は物質的繁栄の広大な海の中で、貧困という孤島に暮らしているのです。100年たった今、黒人達は、いまだにアメリカ社会の片隅で苦しんでいて、自分達の国の中で島流しにされているのです。私達は、この恥ずべき状態を広く世に訴えるために、今日この場に集まりました。ある意味で、私達は、小切手を現金に換えるために、私達の国の首都に来たのです。私達の共和国の建設者が、憲法と独立宣言のすばらしい言葉を書いた時、彼らはあらゆるアメリカ人が継承者となる約束手形に署名したのです。 この手形は「生命、自由および幸福追求」の「譲ることのできない権利」が全ての人(そうです白人と同様に黒人も)に保証されるだろうという約束でした。有色人種の市民に関する限り、アメリカがこの約束手形の履行をおこたっている事は、今日明白です。この神聖な義務を守る代わりに、アメリカは黒人達に不渡り小切手(「残高不足」とマークされて戻った小切手)を与えているのです。しかし、私達は、正義の銀行が破産していると思うことを拒否します。私達は、この国家の機会の大きな金庫が残高不足になっていると信じることを拒否します。したがって、私たちはこの小切手(我々に自由という富と正義の保証要求に応じて与えてくれる小切手)を現金にするために来たのです。我々は、又、アメリカに今の激しい緊急性を思い出させるために、この神聖な場所に来ました。今は、クーリングオフの贅沢に係わったり、漸進主義という精神安定剤を飲んでいる時ではないのです。今こそ、民主主義の約束を実現する時です。今こそ、隔離され暗く荒涼とした谷から人種平等の太陽に照らされている道に上ってゆく時です。今こそ、私たちの国を、人種差別の泥沼から、兄弟愛の硬い岩へと持ち上げる時なのです。今こそ、神の子の全てのために正義を真実にする時です。国家が現在の緊急性を見落とす事は致命的でしょう。自由と平等のさわやかな秋になるまで、黒人の正当な不満によるこの蒸し暑い夏は終わらないでしょう。1963年は終わりではなく、始まりなのです。国家が今まで通りの事をするなら、黒人はうっぷん晴らしをしなければならなくて、現状維持を願っている人々は嫌な思いをするでしょう。黒人に公民権が与えられるまで、休息も平静もアメリカにはあり得ないでしょう。正義の明るい日が出て来るまで、反乱の嵐は我が国の基礎を揺るがし続ける事になるでしょう。しかし、正義の殿堂にいたる情熱的な入り口に立つ仲間に言わなければならない事があります。我々の公正を得る過程で、我々は悪い行為を犯してはなりません。自由への乾きを、恨みと憎悪のカップから飲むことで満たそうととしてはなりません。我々は尊厳と規律の高い次元で我々の闘いを永遠に実行しなければなりません。我々の創造的な抗議が物理的な暴力に陥るのを許してはなりません。 何度も繰り返します、私たちは魂の力で物理的な力と対決するという厳然とした高みに上らなければなりません。黒人社会をのみ込んだ素晴らしい新しい闘志が、全ての白人の人々に対する不信に至る必要はありません、なぜならば、白人の兄弟の多くは、今日ここに彼らが存在することで明らかなように、彼らの運命が我々の運命に結びつけられると理解するようになったのです。そして、彼らの自由が我々の自由と密接不可分に結びついていると理解するようになりました。我々は、単独で歩く事は出来ません。そして、歩く時、私達は前進し続ける誓いをしなければなりません。我々は引き返す事が出来ません。「あなた方は何時になったら納得するのでしょうか?」と公民権運動に献身する人に尋ねる人々がいます。黒人が警察の残虐行為による言葉に表せない恐怖の犠牲者である限り、我々は決して満足する事が出来ません。私達の旅の疲れで重くなった身体が、高速道路のモーテルと都市のホテルに宿泊する事が出来ない限り、私達は、決して満足することが出来ません。私達は、黒人の基本的な移動性がより小さなゲットーからより大きなゲットーに移るだけである限り満足することが出来ない。私達の子供が彼らの個性を取り除かれて、「白人専用」の標識によって彼らの尊厳を失わされる限り、私達は決して満足することが出来ません。ミシシッピーの黒人が投票することが出来ない限り、ニューヨークの黒人が投票する何もないと信じている限り、私たちは決して満足することが出来ません。いいえ、いいえ、我々は満足していません、そして、「正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強力な流れになる」まで満足しないでしょう。 (アモス書5-24)私はあなた方の何人かが、ここに来るために大変な試練と苦難を経た事に無頓着ではありません。あなた方の何人かは、狭い刑務所の独房から出て来たばかりです。あなた方の何人かは、自由を求めながら迫害の嵐に見舞われ警察の残虐行為の暴風によろめくままにされている地域から来ました。あなたは創造的な苦しみのベテランでした。不当な苦しみこそ救われるべきであるという信念で働き続けて下さい。戻ろうミシシッピーへ、戻ろうアラバマへ、戻ろうサウスカロライナへ、戻ろうジョージアへ、戻ろうルイジアナへ、戻ろう私たちの北部の都市のスラムとゲットーに、何とかして、この状況を変える事が出来る、変わる事を知っていて。絶望の谷を転げ回るのをやめましょう。わが友よ。われわれは今日も明日も困難に直面しているが、それでもなお私には夢があると言いたい。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢なのだ。私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、「我々は全ての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させる事だ。 (アメリカ独立宣言)私には夢がある。ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルに着く日が来るという夢が。私には夢がある。今、差別と抑圧の熱がうずまくミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わり得る日が来るという夢が。私には夢がある。それは、いつの日か、私の四人の幼い子ども達が、肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住んでいるようになる事だ。今日、私には夢がある!私には夢がある、いつの日かこのアラバマでも、目下のところ悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られ、州知事が「(連邦政府の)干渉排除」や「(連邦法の実施の)拒否」を唱えているアラバマ州においてさえ、将来いつの日か、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと手に手を取って兄弟姉妹として歩ける日が来る夢が。今日、私には夢がある!私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。「そして神の栄光が現れ、全ての人々が共にその栄光を見るだろう。」〈イザヤ書40:4-、5〉これが私達の希望なのだ。この信念をもって、私は南部へ戻って行く。この信念によってこそ、絶望の山からも希望の石を切り出すことが出来るのだ。この信念によってこそ、私達は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することが出来るのだ。この信念によって、自由がいつか来るのだということを信じながら、私達は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、共に自由のために立ち上がることが出来るのだ。そしてその日が来れば、その日が来れば神の子はみな押しなべて、新しい意味をこめて「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。全ての山々から、自由よ鳴り響け」と歌えるのだ。(「アメリカ(我が祖国My country 'tis of thee)」・・・国民的愛唱歌)真にアメリカが偉大な国となるためには、これを実現しなければならないのです。だから、自由の鐘を鳴らそう、ニューハンプシャーの偉大ないただきから。自由の鐘を鳴らそう、ニューヨークの悠々しき山々からも。自由の鐘を鳴らそう、ペンシルヴァニアにそそり立つアレゲニーの山からも。自由の鐘を鳴らそう、雪を頂くコロラドのロッキー山脈からも。自由の鐘を鳴らそう、カリフォルニアのなだらかな山々からも。それだけではない、自由の鐘を鳴らそう、ジョージアのストーンマウンテンからも、自由の鐘を鳴らそう、テネシーのルックアウトマウンテンからも。自由の鐘を鳴らそう、ミシシッピーのすべての丘やほんの小さな塚からも、全ての山々から、自由よ鳴り響け。そうすれば、私達が自由の鐘を鳴り響かせば、全ての村、全ての集落から、全ての州、全ての街から、自由の鐘を鳴らせば、全ての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も非ユダヤ人も、プロテスタントもカトリックも、全ての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。「ついに自由だ、ついに自由になれた。全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。
2008.11.06
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ラサのポタラ宮(↑【ポタラ】の名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名【ポタラカ】に由来する。)まず最初に、暴動や地震や災害などで亡くなられた方達のご冥福を心からお祈りいたします。そして今現在も困難な状況下で苦しんでいらっしゃる方達にも、大いなる光や無条件の愛が共にありますように。暴動発生で【!】、サイクロンで【!!】、そして大地震で【!!!】●▲■●▲■●▲■ (真っ黒な暗闇・・・。)暗闇とは浄化、暗闇は大きく飛躍するためのエネルギー、暗闇は光へのゲート・ウェイ、心のの深層ではピンチはチャンスと感じてはいるのですが、毎日大量に流されるメディアのニュースを見る度に痛くって、辛くって、悲しくなって来てしまいます。政治的、社会的な強度な圧力によって人々が苦しんでいるような地域付近で、大規模な自然災害が起きたというシンクロニシティー。ガイアさま(地球)は体表でのネガティブなエネルギーの噴出に耐えられなくなって来たので、身体を大きく揺すって、深呼吸をして、バランスを取りたくなってしまったのかもしれませんね。地球上には60億もの多種多様な人々が存在しているのにも関わらず、制限に満ちた考え方を一方的に押し付けようとする、そしてそれに従わない人々を強引に力で押さえつけようとするようなやり方。ダライ・ラマ法王さまのお言葉をお借りすれば【悪いというよりも古過ぎる】、もう21世紀も2008年だというのに随分遅れた発想ですよね。日本語の自由(Free)は漢字で、【自らを由(よし)とする】と書きます。人間が他者を力で押さえつけようとする所まで行ってしまう時は、自分が自分を全くOK(由)とは感じられない、先の見えない危機的な状況なのではないでしょうか。内実は不安や恐怖で戦々恐々としている、満ち足りていない、だからこそ誰かを抑圧したり、攻撃して行かざる得なくなっている状態なのかもしれません。↓偶然見かけたフライヤーに、この【慈悲の冥想】というのが載っていました。私は幸せでありますように私の悩み苦しみがなくなりますように私の願い事が叶えられますように私に悟りの光があらわれますように私の親しい人々が幸せでありますように私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように私の親しい人々の願い事が叶えられますように私の親しい人々に悟りの光があらわれますように生きとし生けるものが幸せでありますように生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように生きとし生けるものが願い事が叶えられますように生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように私の嫌いな人々も幸せでありますように私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように私の嫌いな人々にも悟りの光があらわれますように私を嫌っている人々も幸せでありますように私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように私を嫌っている人々にも悟りの光があらわれますように生きとし生けるものが幸せでありますようにby アルボム・レ・スマナサーラ長老スリランカのテーラワーダ仏教(上座部仏教・小乗仏教)の僧侶(ミャンマーもテーラワーダ仏教の国。)【敵に塩を送る】ではありませんが、意外にも前の3つよりもむしろ後ろの2つのパラグラフによって、他ならぬ自分自身の心が自由(Free)になり、解放(Free)され始めます。他人様を嫌って、判断して、責めているような時には心の中が分離している、自分とその方達を確実に分けて、切り離して、全く別の存在として見ようと努力をしています。それとは逆にとっても気持ちが良くて心地良い時、平和や幸せを感じている時には全てとつながれている、心が1つに統合されている、つまりワンネス。心のメカニズムって実はとってもシンプルでもある、あまりにもシンプル過ぎてついついシンプルである事自体を忘れてしまうのですけれど。【自分自身→親しい人々→生きとし生けるもの→嫌いな人々→嫌われている人々】、この順番はとってもさり気ないけれど絶妙です。祈ったりイメージ(冥想)したりする事しか出来ないなんて、私達ってそんなにも無力な存在?でもそんな私達には、祈ったりイメージしたりする力があるんですよね!チベット問題に関してもっとお知りになりたい方は良かったらこちらをどうぞ。
2008.05.21
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ヴリクシャ・アーサナ / 通称・スコルピオンようこそ、いらっしゃいませ♪ 何気にワン・クリック、ありがとうございます♪全くもってど~でも良いコダワリなのですが、このヴェーダなサクブンはアルファベットのキーワードで3つずつ、その全てをインド語系で書いてみたかったのですよ。ですがインドでは何故かハヒフヘホを【H】で表記するので【F】で始まる言葉が見つからない、というわけでここはフレキシブルに英語で・・・。インドの連邦公用語である【ヒンディー語】以外のインド憲法に明記されている言葉には、アッサム語、ベンガル語、ボド語、ドグリ語、グジャラート語、カンナダ語、カシミール語、コーンカニー語、マイティリー語、マラヤーラム語、マニプリ語、マラーティー語、ネパール語、オリヤー語、パンジャーブ語、サンスクリット語、サンタル語、シンディー語、タミル語、テルグ語、ウルドゥー語の22言語があります。↑読むだに混乱して来ますが多分実際に使われている言葉はもっとあり、多くの州や連邦直轄地域では植民地時代の名残から【英語】も公用語の1つになっているのですよ。アーサナを(ヨーガのポーズ)続けていれば、誰でもだんだんと身体がフレキシブルになって行きますが、その柔軟性の進行の仕方がちょっとおもしろいのです。毎日少しずつ柔らかくなるというよりは、長~い間同じような状態が続いた後にある日突然ビュ~ンと曲がる時がある、1・2・3・4・5・6・7・じゃなくて、1・2・3・3・3・3・70みたいな感じです。そしてこの画期的な70の後も70・70・70・70と永遠に続くんじゃないかと思って諦めていると、忘れた頃に突然77になったりとカウントは決して一定ではないように思えるのですよね。映画のフィルムの1コマ1コマにはちょっとずつ違うモーションが焼き付けられていて、それをスピーディに流しますとスクリーンにはなめらかな動きとなって映し出されます。ところがある時点でいきなり1000コマくらいジャンプするような急激な展開があったとしても、人間ってあたかもまるでず~っとそうだったように受け入れてしまうフレキシブルさも持ち合わせていたりします。「猫って凄~い♪」といつも思うのですが、時々ブロック塀に開いているあの規制の穴を、電光石火のスピードで通り抜けちゃったりとかしますでしょ。どう見てもあの穴より猫の胴体の方が太そうに見えるのですが、通り抜ける時にその部分だけ秒単位、ミリ単位で細くして行っているような感じです。抱き上げてみても、猫の身体って実にいろいろなサイズや形体になれるんですよね。0.000000001、10の-9乗、10億分の1を【ナノ】という単位で表します。0.1はデシ、0.01はセンチ、0.001はミリ、0.000001はマイクロ、そしてナノよりも小さい0.000000000001が又々かわいらしくってピコ。21世紀には3つのテクノロジーが急成長する、そしてその3つのテクノロジーが融合する事でさらに新たなテクノロジーが生まれて進化して行くとなど言われています。それらは遺伝学(Genetics)、ナノテクノロジー(Nanotechnology)、そしてロボット工学(Robotics)、この3つのテクノロジーの飛躍的な進化をそれぞれの頭文字をとって【GNR革命】と呼ぶそうです。もしもどこかにナノ・スケールの工場が存在するとしたら・・・。例えばそこで巨大な製品を製造していたとしても、初めのうちは小さ過ぎるので人間の視覚には何も起こっていないのと同じように見えるでしょう。そして肉眼でも見えるくらいの大きさまで出来上がった来た時、それはまるで突然空中から降って沸いたように感じられるかもしれませんよね。(話、見えますでしょうか?)たくさんの水が冷やされて6角形の結晶を作り、充分な量の【雪印】が完成した瞬間に突然空から雪が降って来るように、現象が肉眼に見える時は急激でも、極微の世界のナノ・ワールドではせっせと進行していた結晶化。実はこのナノ工場、ナノ・ワールドに当たるものが私達の潜在意識で、結晶化しているのは私達の意識や想念そのもの、つまりイメージや言葉の波動なのではないかな~と思うのですよ。インドのヨーガの師がアーサナはイメージすると進化が加速する、端的にはもうすでに出来ている人を見るのがベストだと教えてくれました。くりかえして行う事はもちろんですが、見て、イメージして、さりげなく自分に【逆すり込み】。そして潜在意識において結晶化が飽和状態に達した時に、イメージが突然リアリティにシフトしたように感じられるのではないでしょうか。これって何もアーサナに限らない、全ての現実についても言えるような気がするのですよ。たとえ今現在の世の中に様々な問題が山積していたとしても、一定数の集合意識が同意すればある日突然【101匹めの猿】現象が起きるのかもしれません。問題そのものは解決しなくてもベストなタイミングで状況そのものを超越してしまう、たとえどんなに道路が渋滞していたってヘリコプターで飛んで行ってしまえば「そんなの関係な~い♪」みたいな・・・。【ナノ】ですよ。
2008.02.24
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小っちゃいけれど増えるんです♪冬場の北国では当たり前の雪景色、でもこちらではめずらしい白銀色の節分会になりました。白いものは場を浄化するそうですが、凄~く寒いけれどとっても清清しい雰囲気です。とっても長~い間、ブログをお休みしてしまいました。親愛なる皆様はご自身による毎日の手作りの現実、エンジョイしていらっしゃいますか?今頃何を・・・と思われるでしょうが、ワクワク♪の2008年が明けました。昨年中はどうもありがとうございました、そして今年もどうぞよろしくお願いいたします。地球上の生きとし生けるものが全て、平和で幸せで豊かな宇宙の本質と共にありますように。皆様の満ち足りて充実した楽しい毎日をお祈りしております。風水などでもそのような考え方をすると聞いた事があるのですが、新年1月は旧年と新年のエネルギーが入り混じって変化しながらシフトして行く時。そしていつも立春の前日である節分くらいからやっと、本格的な新年の流れが始まるような気がしています。ケルト文化でもこの立春、立夏、立秋、立冬と時期を同じくする2月、5月、8月、11月にはお祭りをするようなのですが、身体宇宙的には何となく納得が行ってしまいます。後はやはり24節気のパーツの春分、夏至、秋分、冬至でしょうか。目に見えて太陽やその日照時間の変化を感じられるこれらの日々、個人的には毎年いつも勝手に盛り上がっています。古来日本では季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための節分会の儀式。今日降り積もっている雪はまさに心機一転のリフレッシュ、有名人ならぬ空や宇宙からの浄化と祝福の真っ白でフワフワ♪の豆まき(笑)のように感じました。一風変わった節分会の豆まきマントラ(?)。成田山新勝寺(千葉県成田市)「福は内」のみ : 統合を目指す密教、2極性の分離は存在しないのかしらん?蔵王寺(奈良県吉野町「福は内、鬼も内」 : 修験道って懐が深ぁい・・・。鬼王神社(東京都新宿区)「福は内、鬼も内」、鬼恋節分祭(群馬県藤岡市)「福は内、鬼は内」 : 何しろ名前に【鬼】がついちゃってますものね~。鬼鎮神社(埼玉県嵐山町)「福は内、鬼は内、悪魔は外」 : ビミョ~な分類ですよね(笑)。アルファベットのキーワードによるヴェーダなサクブン、次回からは再びこちらの方にカムバックしたいと思いますので良かったら又どうぞよろしく、読んで下さってどうもありがとうございます♪
2008.02.03
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ストーンヘンジ / ウィルトシャー昨日は冬至、明日はクリスマス・イブ、そしてもうすぐ2008年。こうしていつも当たり前のように使っていますが、実はこの【時間】の存在を証明出来た人は今までに1人もいないのだそうですよ。昨日は冬至を過ごすのにふさわしい!?縄文遺跡、東京の端っこにある小っちゃなストーン・サークルを訪れてみました。花崗岩、緑泥石、火山岩・・・エトセトラ、どこから持ち寄って来たのか様々な種類の岩石が狭い土地に集められ、立石を含む環状列石が構成されています。やり方次第では多様性の集合ってとってもパワフル、地球上の人種や文化だってそんな風になれるのかもしれない?!な~んてね。お天気が悪かったので未確認でしたが、日没時間には真西から少しずれた方向に見える山頂に沈む夕日が列石をメジャーにして観測出来るのだそうです。鉱物によるパワー・ストーン効果で右脳の閃きが高まり、何故か日本国内では必ずストーン・サークルとセットで存在する立ち寄った温泉の中でとある過去の体験を思い出しました。元々温泉好き、しかも個人的には天然温泉や沸かした海洋深層水では心身オーラの強力なデトックス&チャージが出来ると感じているので、意図的にもよく入浴しているのです。数年前に心身がアンバランスになった時にその事を実感して以来なのですが、当時のきっかけはどこかからの【天然温泉⇔海洋深層水】という強力なインスピレーションをキャッチしたから。ちょっと鶏か卵か、又はSF的な話になりますが、そのインスピレーションのソースはもしかしたら今の私だったのではないかしらとチラッと思いました。4次元以上の世界では直線的な時間の前後関係がなくなり、波動の違いとして認識される放射状の時間を体験し始めるなどと言われています。ならばバランスを求めていた過去の私は当然、類似する温泉がバランスをもたらすと思っている未来=現在の私の波動とはつながりやすいですよね。とても懐かしい場所に行った時に、フッと意識が過去のそこに居た自分と融合してしまうように。チベット密教には最も難解と言われる、カーラ・チャクラ(カーラ=時、チャクラ=輪)という教えがあります。(ですので私、もちろん理解出来てはいませんよ。)時輪、時の輪。過去と未来が波動でリンクする時間は永遠の今、縄文時代のタイム・キーパーには、春分、夏至、秋分、冬至という放射状のベクトルがあるだけです。過去のちょっとシビアになっていた頃の自分に優しく語りかけてみる、「大丈夫。」未来の今よりもっと力強い自分からの暖かいエールを受け取ってみる、「楽しい。」時々そんなコミュニケーションをしてみるのも、興味深いかもしれませんね。今このブログを読んで下さった親愛なる皆様には感謝を込めて、「ありがとうございます&ハッピー・メリー・クリスマス♪」
2007.12.23
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南極大陸の2ショット♪↑この後姿にはいろいろなセリフをつける事が出来そう、何だかとっても人間的な風情を感じさせるペンギンさん達ですよね。雑事が重なり再び更新が滞ってしまいましたが、crick!どうもありがとうございます♪今年もあっという間にあと40日あまり、カバラ占い(数秘術)では来年は1の年(2008 → 2+0+0+8=10 → 1+0=1)、今までの9年間の流れが完了して全てがリセットされ、今後9年間続く新しいサイクルが始まる年なのだそうですよ。カバラのアイディアを採用するかどうかは別として、再スタートというのは気持が良いものですよね。もしも無限の可能性があるならば、思い描く事が全て体験出来るのなら、皆様はご自分のどんな【Brand New Cycle】をプランなさいますか?誰もが忙しくなるこれからの毎日、時にはイメージしながらワクワクしてみるのも良い気分転換になるかもしれませんね。このイメージ+ワクワク、想像以上にパワフルですよ♪
2007.11.14
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チベット風のご挨拶♪こんな例え話を聞いたんです。『砂浜に何千と打ち上げられているヒトデを、海に返してあげようとする老人がいました。 それを見た少年が、「そんなを事しても砂浜に打ち上げられた全部のヒトデを海に返すことは無理だし、海に帰したヒトデも結局は打ち上げられるかもしれないから、おじいさんのやっている事は無意味でしょう?」と言ったところ、 老人は、「確かにそうかもしれないが、私がこうやって拾い上げて海に返してあげているヒトデにとっては、意味のある事だよ。」と言いました。』どこにフォーカスするかで、見えて来る世界が全く違ってしまう事ってよくありますよね。もしかしたら起きている事は全て完全に中立で、そこにはどんな意味付けも可能なのかもしれません。幸せの青い鳥のお話にもあるように、幸せ(満ち足りた感覚)とはなるものではなくて気づくもの。そんな気づきのコペルニクス的な展開(天動説→地動説、目からウロコとも言います)は、きっとどの瞬間にも存在しているのでしょうね。たまには短く、読んで下さってどうもありがとうございます♪
2007.10.11
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ガイア女神地球の総人口よりもその数が多いHPやブログの中から、今ここにいらして下さってどうもありがとうございます♪ (^人^)1年間に放出される太陽エネルギーが水素爆弾なら100発に相当するという噂もある最近・・・残暑お見舞い申し上げます。 m(_ _)m宇宙飛行士さん達は写真では地球の美しさは絶対に伝わらないと言います。他にも彼らがよくおっしゃるのは「宇宙空間から見た地球には国境線がなかった。」あまりにも当然の事なのですが、いつも国境線が引かれた地図を眺め続け、北朝鮮が、中国が、インドが、パキスタンが、アフガニスタンが、イランが、イラクが(←全部つながっていますでしょ?)・・・とメディアなどが違いを見て分けて語っているのを繰り返し摺り込まれているうちに、思わず意識の中にもくっきりと【線】が入っていたりしますよね。宇宙飛行士さん達のコメントが興味深いのでいくつか引用させて頂くと:宇宙から地球を見ていると、この地球に生まれて死んでいった人々、現在生きている人々、これから生まれてくる人々を思う。そして自分はその無数の人間のひとりであると改めて思う。次に考えるのは、私達の存在は何かという事であり、短い生を精一杯楽しみ、かつ十分に他と分かち合って生きるにはどうしたらよいか、という事である。ロドルホ・ネリ・ベーラ飛行士(メキシコ)宇宙を飛行していると、飛行士のものの考え方や感じ方はすっかり変わってしまう。宇宙から太陽や星や地球を眺めていると、生命の不思議に打たれる。そして、いっそう生命をいとおしみ、他人に対してはより優しく忍耐強くなる。少なくとも、私の場合はそうだった。ボリス・ヴォリノフ飛行士(旧ソ連)見下ろすと、大河がゆるやかに蛇行し、ひとつの国から別の国へとどまることなく流れていた。又、巨大な森林地帯が国境をいくつも越えて広がっていた。大洋が異なる大陸の岸を洗うのも見た。二つの言葉が頭に浮かんだ。「共有」と「相互依存」だ。私達は1つの世界なのだ。ジョン・デヴィド・バートゥ宇宙飛行士(アメリカ)世の中に対して、自分の存在を証明してやろうなどと思わなくなり、自分のエネルギーを外に向けるより、内に向けるようになった。家庭、家族、自分の内的精神状態とか、そういうものを第一義的に考えるようになった。ドン・アイズリ宇宙飛行士(アメリカ)絵画を見る時でも、鼻がぶつかるくらいの距離から見ようとしたら、何も見えない。巨大なパターンであればあるほど、より遠くから見ないとパターンが見えてこない。私が宇宙に出るようになってやっと見えるようになったパターンがあったという事だ。ジェリー・カー宇宙飛行士(アメリカ)宇宙に行くと、こう考える。ここにこそ宇宙がある。宇宙では、文明を持つ人間が、古代からのさまざまな圧力から解き放たれる。そして、自由に学び成長する機会を与えられる。幼児の心のように、宇宙はいまだ、恐れや憎しみや貪欲や偏見で、汚されていない。ジョン・グレン・ジュニア宇宙飛行士(アメリカ)嬉しかったのは、宇宙には調和があり、目的があり、創造の力があることを感じた時だ。悲しかったのは、人間がそれを知りながら、それに反対する行為をしているのに気づいた時だ。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。エドガー・ミッチェル宇宙飛行士(アメリカ)地球の表面にへばりついている人間は、結局、平面的にしか物事が見えていない。平面的に見ている限り、平面的な相違点がやたらに目につく。・・・しかしその違いと見えるすべてのものが、宇宙から見ると、全く目に入らない。マイナーな違いなんだよ。宇宙からは、マイナーなものは見えず、本質が見える。表面的な違いはみんな消し飛んで同じものに見える。相違は現象で、本質は同一性である。人間も、種族、民族は違うかもしれないが、同じホモ・サピエンスに属するものではないかと感じる。対立、抗争というのは、すべて何らかの違いを前提としたもので、同じものの間には争いがないはずだ。同じだという認識が足りないから争いが起こる。ドン・アイズリ宇宙飛行士(アメリカ)宇宙から地球を見た者にとって、またこれから見る何百、何千という人々にとって、その体験はものの見方を根底から変えてしまうものだ。この世界で私たちの分かち合うものは、分け隔てるものよりはるかに大きな価値がある。ドナルド・ウィリアムズ飛行士(アメリカ)宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ。地球の美しさは、そこに、そこだけに、生命があることから来るのだろう。ジム・アーウィン宇宙飛行士(アメリカ)人間という種に対する義務感を強く感じた。・・・この体験の価値は、人類に対して持ち帰って伝えるべき価値だ。・・人間はガイアの中で生きている生物であることを自覚して生きていかなければならない。ガイアにとって人間は何ものでもないが、人間はガイアなしでは生きられない。ラッセル・シュワイカート宇宙飛行士(アメリカ)実験中は窓から離れているように、と言われていた。ドロップ・ダイナミック・モジュールで忙しかった私は、飛行の最後の日まで外を見るひまがなかった。はじめて窓の外を見た私は、圧倒されてしまった。中国の話に、若い女の子をいじめるために送られた男達がその女の子の美しさに打たれ、その子を傷つけるどころか彼女の護衛になってしまったという話がある。宇宙からはじめて地球を見て、私も同じように感じる。この地球を愛し、大切にせずにはいられない。テイラー・ワン宇宙飛行士(中国/アメリカ)彼らの発言からは個人差や個々のお国柄があまり感じられず、誰もが意識の最も深い同じ部分を振動させて話しているような気がします。宇宙飛行士さん達の言っている事は時々ヴェーダの言葉のようにも聞こえるんですよ。ヴェーダでは「自分自身の本質は宇宙そのものである」と言うのですが、もしかしたら人間は自分の内側に飛んでいっても、地球の外側に飛んでいっても同じ事を感じるのかもしれませんね。ご近所の月や火星を金星の写真を見ただけでも、地球がどんなにきれいで魅力的な星なのか容易に想像つきます。人類初の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンの有名な「地球は青かった」は、正確には「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」なのだという話もあるのです。中に住んでいると巨大過ぎて意識出来にくいし時には破壊的で強烈な一面もある偉大な母なる地球様も、外から見た途端に何としてでも守ってあげたくなる可憐な美女に変身してしまう所がおもしろいですよね。地球の美しさの理由は多分星全体の約70%を占めている海、そして私達の身体の約70%を構成している水の存在。この快適な水の惑星に住んでいるなんて超ラッキー、ガイア(地球)様には心からの愛と感謝を♪微力ですがせめて、エアコンは必ず28度以上に設定し、いつもエコ・バッグとマイ・お箸を持ち歩き、なるべく公共の交通機関を使い、出来るだけ中性洗剤は使わないように、海や山からはゴミを持ち帰るようにいたします。
2007.08.27
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シヴァ神エーカンバレーシュバラ、又はエーカンバラナータは星の数ほどある「再創造のための破壊神」のシヴァ神様の別名の1つ、でも私がこの名前を見たのは南インドのタミル・ナードゥ州の州都チェンナイ(旧マドラス)から南西77kmの距離にあるカンチープラムだけだったと記憶しています。エガーターラーという非アーリア系のチェンナイの守護女神がいるのですが、タミル語感から察するにこの方とも何らかの関係性があるのかもしれません。この女神様もチベット密教風のターラーという語尾がミステリアスですよね。そんな非アーリア系のドラヴィダ文化がインドで最も濃いタミル・ナードゥ州に位置するカンチープラムは、ヒンドゥー教の7大ティールタ(聖地)の1つ、南インドのヴァラナシ(ベナレス)とも言われる重要な場所。7大聖地とは、1・アヨーディヤ、2・ウッジャイン、3・ハリドワ-ル、4・マトゥラー、5・ヴァラナシ、6・カンチープラム、7・ドゥワールカ、そして7ヶ所の中でも南インドにあるのはカンチ-プラムだけです。4C頃に開かれたカンチープラムはパッラヴァ朝の首都として栄え、続く9C頃からのチョーラ朝でも隆盛を保った古都。高さが100mにも及ぶゴープラム(切石を積み重ねたドラヴィダ様式建築の尖塔)が建ち並び、敷地面積もこの町最大のエーカンバレーシュバラ寺院の内奥に祀られている巨大なリンガは、南インドの5大リンガの1つを形成しています。寺院の内庭には樹齢3500年のマンゴーのご神木があったのですが、残念ながら2005年の大雨で無残にも倒れてしまいました。この寺院の壁面には涅槃仏や結跏趺坐で坐る仏陀のレリーフがあり、元々は仏教寺院だったのではないかと言う学者さんもいらっしゃるように、カンチープラムはタミルでは13Cに衰え、17Cには滅んでしまった古代の仏教の中心地の1つでもありました。中国に禅をもたらしたと言われるボーディダルマ(赤いダルマさんのモデルでもある菩提達磨)、大日経とともに密教の2大経典を成す金剛頂経をやはり中国に伝えたヴァジュラボーディ(真言八祖の第3祖の金剛智)など、日本とも縁の深い仏教僧達の出身地説もあるようです。花嫁衣裳にはカンチ-・サリーか、ヴァラナシ・サリーか、ダッカ・サリーを着るのが若いインド女性の夢とよく言われるようにカンチ-プラムは絹織物の名産地。そのハンドルーム(手織り)の伝統はパッラヴァ朝にまで遡り、金や銀の糸で模様を施した高級な美しいシルク・サリーは南インドの保守的なバラモン女性などからも愛好され続けています。【海のシルクロード】はもう1つの壮大なネットワーク・システム、シンガポールには現在も多くのタミル人が住んでいますがそこから日本までは海上を船で進めばあともう一息です。(海のシルクロードつながりで良かったらこちらもどうぞ~。)タミル語はインドのタミル・ナードゥ州だけの言語ではなく、スリランカやシンガポールでも公用語の1つ。「日本語=タミル語起源説」の大野晋さんによれば、「コメ、ナヘ、アゼ、タンボ、カネ、タカラ、オル、ハタ、マツル、ハカ、アハレ、サビ」などの何百という単語にその類縁性が認められるそうですよ。大野晋さんのお説をほんの少しご紹介:<日本に来たのはタミル語という言葉だけではなく、米、金属、機織りなどもともにやって来ました。この文明複合体は当時としては圧倒的なパワーを持っていた、今のインターネットなどと同じような猛烈なテクノロジー。ですから日本人達はそれについていって消化したいと考え、ものの単語や文章をはじめ「係り結び」も「五七五七七」も覚えて全てがそこへ巻き込まれいたのが朝鮮半島からの文明が流入する以前の弥生時代の事でした。「カミ、モノ、ハラエ」などの古い祭祀は用語も内容も、何故か古代日本語と古代タミル語ではほとんど同じなのです。>インダス文明を築いたインドの原住民のドラビタ族の仲間であるタミル人は、BC1500年頃にアーリア人の侵入を受けてインド南部へと追いやられました。アーリア人の築いた文明はその言語のサンスクリット語に象徴されるように圧倒的に優秀なものだったので、それに対抗する事は困難を極めたようです。タミル語はその起源をインダス文明に遡り、さらにメソポタミア文明へと遡ることが出来ます。そこに大野晋さんの説を加味すると、日本語の起源は遠くシュメー人の文明まで遡れる事になり海と陸のシルクロードが微妙に交差し始めますよね。ウラル・アルタイ語族に所属し、中国語の漢字を使い、「ハナッカラ」の「ハナ」は韓国語で「1」の意味、そんな日本語の起源についてはタミル語説の他にも諸説が存在しています。シュメール語説、ヘブライ語説、アラビア語説、マオリ語説、ポリネシア語説などなど、よく考えてみると意味不明の「チャント」「キチント」などは韓国語、「ソイヤ、ソイヤ」や「ワッショイ」などはアラビア語、「エッサホイサッサ」などはヘブライ語がそれらのルーツなどの興味深いお話の数々。人間も国境も言葉も常に変化し続けている生き物なので真実の所は不明ですが、いくつかの類似語があるとちょっとそんな気にもなって来ます。意識を拡げて心を柔軟にして、音から導かれるイマジネーションを遊んでみるのもおもしろいかもしれませんね。インダス文明にその起源を持つとも言われ、ヨーガのグル(師)の中のグルでもある最もポピュラーなエーカンバレーシュバラ=シヴァ神様も、BC1000~BC500に成立したリグ・ヴェーダでは暴風雨の神格化である荒ぶるルドラ神様(咆哮を上げる者という意味)の別名として以外にもマイナーに登場。後には仏教にも取り入れられ、 不動明王 、 降三世明王 、大黒天、伊舎那天、大自在天などにもなりました。シヴァ神様は名前も姿も変化も神話もゴシップ・ネタもやたらと多い中々のプレイボーイ、これは多分元々の南インドの地元神をヒンドゥー化する際に都合の良いキャラだったからなのでしょう。上の図像はシッダ・アーサナ(半跏趺坐)もクールな、深~い瞑想状態のヨーギ(ヨーガの修行者)・ヴァージョンです。
2007.08.13
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コチのシナゴーグ急速に近代的な大都市に変貌しつつあるエルナークラムは南インドのケララ州のコチ(旧コーチン)の玄関口、有名なバックウォーター(水路)もここから南下して行きます。Hot, hotter, hottest. という気候の表現しかないと言われる南インドのケララのモンスーンは、まるでバケツをひっくり返したような凄まじい雨と止んだ後の強烈な太陽熱で地球温暖化現象のはるか以前からスーパー温室効果。日本では梅雨と表現されるモンスーンはご存知の通り雨季の事、その語源はアラビア語のモウスィムで季節という意味なのだそうですよ。大陸は暖まりやすく冷えやすく、海洋は暖まりにくく冷えにくい。そのため夏季には大陸上の空気の方が暖かくなり上昇気流を生じてそれを補うために海洋から大陸へ季節風が吹き、逆に冬季には海洋の方が暖かくなるので大陸から海洋へ季節風が吹きます。モンスーンの季節風が海側から吹くと湿った空気が内陸にもたらされて強い雨期になり、逆に大陸側から吹き込むと乾燥した空気がもたらされるために乾期になります。この働きでモンスーンは乾季と雨季のある気候を形成し、全体としては湿潤な気候をもたらすためにその影響下の地域は稲作の好適地となるのです。インドから紅海沿岸にかけての地域では、古代からモンスーンの季節風を利用した海上貿易が行われていました。古代ローマの時代になるとそれが【ヒッパルコスの風】としてローマ帝国でも知られるようになり、【海のシルクロード】の発展にも寄与しました。(海のシルクロードつながりで良かったらこちらもどうぞ~。)夏季にアラビア沿岸からこのヒッパルコスの風に乗って帆船で出帆すれば誰でもあっという間にインド西海岸に到着、冬季には逆風の追い風を受けて難なく帰還も出来るという何とも楽ちんで便利な航海航路。http://plaza.rakuten.co.jp/laxmi1320/diary/200708130000/古代からの貿易港の1つに南西インドのケララ州に位置するマラバール海岸、通称ペッパー・コースト(胡椒海岸)があります。アフリカ西海岸のアイボリー・コースト(象牙海岸)のように、多種多様なスパイスの原産地でもあるケララの胡椒がマラバールの港から出荷されたのでこの名前がつきました。その昔ケララ・ペッパーと言えば肉の長期保存を可能にしその味覚向上にも貢献、ヨーロッパ人の食生活を豊かに変貌させた金銀のように珍重される宝物だったのです。コロンブス出帆の目的も実はインドの胡椒、最初に辿り着いた大西洋の島々をインドと勘違いしたのでそこは西インド諸島という名前で世界中に知られるようになりました。マラバール海岸の主要都市にコチがあり、この町は大まかにはアラビア海に突き出た半島部分に位置するフオート・コーチンとマッタンチェリー、空港や観光局のある人工の島のウィリンドン島、内陸の都市機能を司っているエルナークラムの4つの地域に分類されます。コチは暑くて埃っぽいインドの乾燥地帯からの旅人達を、エキゾティックな歴史的風土と強い湿気を含んだ海風が優しく癒してくれる港町。外洋に面した半島部分には聖フランシス教会(ポルトガル人によって建てられた教会、コチで永眠したヴァスコ・ダ・ガマの遺体も埋葬されていたが後にポルトガルに持ち帰られたので今はその墓石を残すのみ)、ダッチ・パレス(元々はポルトガル人がコーチン王のために建てた宮殿、後にこの地を支配していたオランダ人が総督の館として使用した)、チャイニーズ・フィッシング・ネット(ユニークな形体と構造の漁の仕掛け網)などなど。ヴァスコ・ダ・ガマが交易所を設けた事によってコチはインドで最初のヨーロッパのセットゥルメントになり、ポルトガル→オランダ→イギリスと支配者が変わっても絶えずその影響を受け続けました。ユニークなのはポルトガルでの迫害を逃れてやって来たユダヤ人達が建てたシナゴーグ(ユダヤ教会)、彼らの多くはイスラエルの建国と同時にパレスチナへ帰還したそうですが未だに数家族がその周辺に居住しているのです。このジュ-・タウンと呼ばれる一角は今も南インドの香辛料貿易を一手に担っている地帯、辺り一帯にはいつもスパイスの香りが立ち込めています。地元の生活に溶け込んでいる色白のユダヤ人達、ブルーの絵柄の中国製タイルが一面に貼られた床、たくさん吊り下げられているベルギー製シャンデリア、渋くも美しいシナゴーグの内部は遠い昔の歴史を感じさせてくれる貴重な生きた遺産です。この付近は有名な骨董街なのでボルネオ沖の海底から発見されたベトナム製陶器な~んていう海のシルクロード感覚満載の掘り出し物の宝庫、そんな玉石混交の小さなアンティーク・ショップが立ち並ぶちょっとエキサイティングな場所。昔も今も地球中は国境のない海洋でつながっている、古代からの筋金入りの港町は懐が深くで受容性も高い、そういった住民達の感性が旅人気分を居心地良く快適に包んでくれるのです。インドにおいては珍しくキリスト教が盛んなケララ州は、良い意味でのヒンドゥー教のカースト制度から自由な風土。以前から数字的には最も貧しい場所の1つだったわりには農業の必要もなく常時供給可能な(つまりどこにでも勝手に鈴なりに生っていて食べ放題の)ココナッツやバナナのおかげで飢える心配が全くないせいなのか学校教育がくまなく浸透、生き生きとリラックスした妙に人懐っこい人々が印象的なのどかな場所でした。そしていつの間やらインドでは唯一の識字率100%の州、先進国並みの医療設備が整い幼児死亡率はインドで最も低く平均寿命は最も高い、インドで最も生活水準が高くて進んでいる社会に発展を遂げていたのです。穏やかで素朴なケララはインドで1番美しくて清潔な州という事が最近では諸外国人にも発覚、それに加えてスパイスやハーブの宝庫でもあるジャングル地帯の植物から生まれたアーユル・ヴェーダのメッカと来ているのです。長~い歴史の中で裏付けられた深~い自然医療に対する意識や知識には当然多くのツーリストが殺到、でも先祖代々地元民のお墨付きのベスト・プレイスだけは何故か昔のまんま~。今でもケララの各地では制服を着て学校に通う子供達の目はキラキラ、利発で元気いっぱいなその微笑ましい姿を見ているとこちらまで楽しい気分になって来ます。子供達を大切にしている土地柄って健全で暖かい、それって愛や心の豊かさの基本形ですよね。驚いた事にはケララのキリスト教は日本のように16Cの大航海時代以後に、聖フランシスコ・ザビエルなどのカトリックのイエズス会の宣教師によってもたらされたヨーロッパ経由の新しいクリスチャ二ティーではないのでした。イエス・キリストの直弟子の使徒トマス様(聖トーマス)、インドではサン・トメとか又は単にトメとも呼ばれていますが、イタリアのミラノのサンタ・マリア・デレ・グラッツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ作の【最後の晩餐】のイエス様の向かって右横にもバッチリと描かれている12使徒の1人がお伝えになった由緒正しい本家本元のイエス様の教えがルーツ。コチからバックウォーターを約50km南下したコッタヤムの近くには、やはり古拙漂う美しい中東のシリア風教会なんていうのもあるのですよ。チェンナイ(旧マドラス)で亡くなった使徒トマス様の墓所の上にはサン・トメ聖堂が建てられ、教会内の小さな博物館には彼の手の骨のかけらや彼を射抜いたという鏃などが展示されています。ちなみに日本からインドに戻った聖フランシスコ・ザビエルも再び中国を目指す途上で他界、死後何年も腐敗する事がなかったと言われるその遺体はマラバールよりも北部に位置するインド南西海岸のゴアのボン・ジェスー教会に安置された銀の棺の中に埋葬されています。あまり知られてはいませんがイタリアのローマにあるジェスー教会の奥の間にはひっそりと、その後ヨーロッパに帰還した聖フランシスコ・ザビエルの片腕だけがクールなデコレーションを施されてと飾られています。何故かイタリア人は偉大な聖職者の遺体をカッコ良く装飾して陳列してしまうのが大好き、そして遺体がパーツしか残っていない場合にはそのクリエイティヴィティ-にはさらに拍車がかかるみたいなのです。ちょっと不謹慎なのですが芸術的でスタイリッシュで妙に陽気なこの手の展示を数限りなく見続けていると、ホラーな恐怖感を通り越して何となく笑えて来てしまうから不思議ですよね。
2007.07.27
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もうちょっと真っ直ぐにね♪エーク・ドォ・ティンはヒンディー語の【1・2・3】、古代インドのデーヴァナーガリ(神の言葉、サンスクリット語)ではエーカム・ドヴェ・トゥリー二と言います。アーサナ、又はアサンとも言われるヨーガのポーズはラージャ・ヨーガのアシュタンガ(8つの枝、8段階)の3番目。(ラージャ・ヨーガについては良かったらこちらを読んでみて下さいね。)【↓】はベリー・ビギナー様にはご参考になるかもしれない?アーサナに関する【1・2・3】、マイ・ホーム・メイドのトリムルティ(三位一体)です。1・力を抜く(リラックス)2・血行を良くする(循環)3・バランスを取る(シンメトリー)普段はあまり使わないメジャーな筋肉の後ろにひっそりと隠れているインナーマッスル(遅筋)や、関節の靭帯や腱などを突然伸ばして鍛えて行くためにはちょっとばかりの時間を「かけます」よね。(「かかります」とは言わない所がポイント、そんな神秘的なお話は又いつか~。)是非とも最初の1回で「出来ない~」「身体が硬い~」と感動して驚かないで下さいませ。ローマ・・・じゃなくてアーサナは一日にしては成らず、されど全ての道はローマへ続く・・・というよりは自分自身がローマで道そのものなのですから。アーサナはダンスや器械体操のようなパフォーマンスではないので、出来るとか出来ないにはそれほど意味がないと思うんですよ。たとえ形が未完成でも充分に効果がありますし、続けて行けば誰でももれなく身体は柔軟になりますし、究極的には10人いれば10個の完成ポーズがあるとも言われます。もしも他人様が気になって比較を始めましたら(左脳の思考→→→)、目を閉じて意識の矢印を思いっきり内側に向けてご自分の身体の中を感じるようにしてみて下さいね(→→→右脳の感覚)。きっとさらに多くの気づきやギフトを実感される事でしょう。そして痛みを感じたら深呼吸、痛い時には緊張して必ず呼吸が止まっているか浅く速くなっています。痛い部分が伸びているな~と思いながら、そこに呼吸を入れて行くようなつもりで深く長~く吐いてみて下さい。慣れて行くうちにストレッチする痛みが気持良く感じられるようになって来るから不思議ですよね。アーサナには長い歴史の中で無数の種類ヴァリエーションが成立し、それらの心身双方への効果には絶大なものがあります。(それらの詳細については一般的にもよく解説されているのでここでは省略します。)でもポーズ中の肉体に起きている出来事はわりとシンプルなメカニズムのような気がするんですよ。1・力を抜くあの七転八倒の全てはこのためにある。「力を抜いてリラックス」とか言われましても、人間ってそう簡単には脱力出来るものではありませんよね。なのでまずは逆に力を入れまくる、そしてその物理的な反作用を狙うわけです。最近では流れるようにポーズを取って行くやり方もあるようですが、オーソドックスな方法ではアーサナとアーサナの間には必ずシャヴァ・アーサナ(死体のポーズ、つまり大の字になって寝る)をはさんで1度身体を緩ませます。この時に両手両足を中空に突き上げて全身で思いっきり力んでから、バッタ~ンと床に落とすようにするとより力が抜けやすいかと思います。このシャヴァ・アーサナのシャヴァという言葉は、「娑婆に戻ったら・・・」という時のシャバのルーツでもあるんですよ。2・血行を良くするこれも又反作用の原理。アーサナをキープしているうちに身体の曲げた部分などから一旦血液が逃げて行きますよね。この時には是非とも深呼吸をお忘れなく、デトックス効果が倍増しますよ。そしてポーズを解いた時には血が勢い良く逆流、新鮮な血流から身体の各所に酸素や養分が供給されるという効果があるのです。普段縮こまっていて循環が滞ったままの身体のパーツにも、そして毛細血管の先端の隅々にまで・・・。3・バランスを取る右に曲げたら必ず左にも曲げる、前屈したら後ろに反る、立って坐って、仰向けと腹ばいと横にも寝て、サルヴァンガ・アーサナ(肩立ちのポーズ)をしたらシルシ・アーサナ(逆立ちのポーズ)も行う・・・などなど。必ずポーズは全身をシンメトリーにまんべんなく動かすようにして行いますよね。普段の生活やスポーツなどでもどちらかというと片寄った身体の使い方をしがち、そのアンバランスを様々な形のポーズに取る事によって矯正して行けるのです。背骨から脳天を抜けて真っ直ぐ上空の宇宙へ、そして同じ線上を大地の下の地球の中心にも、この縦方向の正中線と丹田(おへその10cmくらい下)が交差する所がちょうど身体の中心くらいに当たります。この正中線を意識的にイメージしながら、丹田に重心を置いてアーサナを行うようにするとバランスが取りやすくなりますよ。ここだけの話ですがこの身体正中線と重心丹田のイメージを時々思い出ようにするとちょっと便利。姿勢が良くなって無駄の少ないきれいな動きになりますし、肩の余計な力が抜けるのでリラックスしていられます。他人様や環境の影響を受け過ぎている時にも、このイメージをする事によって瞬時に自分の中心に戻る事も出来るんですよ。居心地が悪くなったらこっそり【+】をイメージをしながら深呼吸、もしも惹かれましたらお試しあれ。
2007.07.08
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音速を超えた時空に現れる飛行機雲ここにいらして下さってどうもありがとうございます♪ (^ -)お忙しいのに読んで下さってとっても嬉しいです♪ \^0^/ 全てのコミュケーションに心から感謝しています♪ m(_ _)m皆様が幸運なヴァイブレーションとともにありますように♪ ^^vD×3つだけ書いた所であっけなくブレイク・・・だって今日は夏至の日なんですもん♪(祝)(笑)(関係ない) 太陽活動も世の中も自分も加速的に激変して行っている感じですよね。全ての現象はアニッティア(一過性)、ニッティア(不変的)なのは普遍的な真理のみです。今まで生きて来て変わらなかった事はたった1つだけ、全ては変化するという事くらいかな。(笑)だから何がどうなっても大丈夫♪ 明けない夜はないのです。人生は静止している絵画というよりは流れている映像のようなのに、どうして私達は頑なにがんばり過ぎてしまったり、何かに固執してみたりするのでしょうね。「流れる水は美しい」、これはどこかで見かけたお言葉なのですが本当にそう・・・。あるがままのありのままに、時には手を離して流れに身を任せてみる。力を抜いてリラックスしてみる、ゆったりとくつろいで自分に優しくするのを許してみる。そうして初めて自分が本当は何を望んでいるのかが感じられて来るのかもしれませんね。そういうのを「 Recreation」と言いますでしょ、re-creation、つまり「再創造する」。何かで読んだのですがもう亡くなられた方達にお聞きしてみると(笑)、「もっと仕事をすれば良かった」と後悔している方は1人もいないんだそうですよ。逆に「もっと人を愛せば良かった」という方ばかりなんだそうです。仕事はアニッティア(一過性)のカテゴリーに属していて、愛はニッティア(不変的)で普遍的な真理だからなのでしょうか。仕事を通していろいろな人を愛して行くというのもあるかな。亡くなってから後悔しないように・・・まだ生きているうちに人々を愛そうと思います♪愛や無邪気さやワクワクの象徴のようなイルカでさえも怒る事があるらしいんですよ。でもそれはほんの一瞬で、何かがあった→キュイ-ン!!!(怒りの波動を発散)でもうお終い。(笑)小っちゃな子供達やダライラマ様(そんな印象を受けました)と同じで、そのシンプルさがとても清清しいですよね。ある時ダライラマ様はご自分の講演会に野球帽をかぶって出ていらっしゃいました。もう何十年も前に他界された世界的にも有名なインド人のヨーギ(ヨーガの修行者)様も、西洋人のインタビューを受ける時にはよくお決まりのドーティ(布衣)ではないフロック・コートを着て現れたのだそうです。どちらもご自分の「ホーリーマン」という役柄を離れて話したい、相手の「ホーリーマンってこ~んな感じ」という強い先入観を打ち壊したいという事なのだと思います。他人様が期待する自分像を演じるなんて退屈な話です。「ホーリーマン」がコスプレを止めた時によりクリアに見えて来たのものは・・・そのホーリーなヴァイブレーション(高周波数の微細な振動、高い波動)そのものでした。私達は時々自分というペルソナを演じ過ぎて窮屈になっていたりしますよね。演じていると疲れるし、不機嫌になるし、ストレスがたまるし、キレやすくなるし、体調まで悪くなって来ます。本当の自分自身と一致している事ってとても大切、サインは毎瞬いつも身体に来ています。一致していると気分が高揚して全てがスムーズに運ぶ、ズレていれば居心地が悪くて何もかもがメチャクチャになる。(深呼吸する→気持良くする→本当の自分自身を選択する→瞬時に流れが変わり始めます。)あるのはこの2つの流れだけ、現実ってとてつもなくシンプルにもなり得るみたいなんですよ。個々の意識には実は性格なんてないのだそうです。私ってこういう人なの、、うふ。。これもオリジナルな創造性の一部分、その時その場で選択しているキャラ、本当は無限の可能性が存在している。まだ柔軟性を失う前の思い込みの少ない小っちゃな子供達ってコロコロ変わりますよね。それはきっとアニッティア(一過性)な無限の可能性を自分自身に許し、真理の波動そのものを生きているからなのかもしれません。
2007.06.22
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メディテーション♪ディヤ-ナ(ディヤーンとも言います)はメディテーション(瞑想)の事です。≪インド≫ディヤ-ナ(ディヤーン)→≪中国≫ズィエン→スィエン→シャンなどのどれか【?】(現代北京語ではチャン、ですよね?)→≪日本≫ゼン(禅)。中国語がわからない上に地域や時代の違いによっても発音が複雑なので・・・昔々の中国語の部分は【?】です。ディヤ-ナは古代に「ダルマさんが転んだ♪」で日本の子供達にも大人気、赤いダルマのモデルでもあるインド人のボーディダルマ(達磨大師)によって中国にもたらされ、遣唐使だった最澄(伝教大師)が中国で学んだ止観として来日、鎌倉時代の臨済宗や曹洞宗の成立以後に一般的に禅と呼ばれるようになったとも言われています。張りぼてのダルマさんは濃~いインド顔、瞑想して坐ったまま寝ない時期もあったそうなので転ばない事のシンボル、少林寺の開祖、少林拳の始祖という伝説もおありになる方ですよね。でも奈良時代には来日していたらしいインド人を模した石彫を、奈良県の飛鳥市でも見た事があるので真実の所は不明です。ラージャ・ヨーガの究極の目的はディヤ-ナ(瞑想)。最もよく知られているヨーガのアーサナ(ポーズ)は、インドの歴史的には本来長時間坐るための気力と体力を養うための準備段階として考案されたものなのだそうです。ですからアシュタンガ(8段階)を省略して、いきなり瞑想に突入するタイプのヨーガもあるんですよ。(ラージャ・ヨーガやアシュタンガに関しては、良かったらこちらを読んでみて下さいね。)↓瞑想法のほんの1例はこんな感じ。肩の力を抜いて背骨を真っ直ぐにして坐り、目を閉じてゆっくりと深~い腹式呼吸をしながら意識を外界から内側に向け知的なタイプの方は眉間に、情感的なタイプの方はハートの所に集中します。そして1つ前の【D】のダーラナ(集中)でも書きましたように、何かマントラ(好きな良い言葉)を心の中で繰り返しながらまずは20分間くらいから始めてみます。言葉が?ならば呼吸を数えてもかまわないですし、もっと続けられそうなら40分でも、60分でも、永遠にでもどうぞ・・・。最初のうちは効果のほどがピンとは来なくても、取り合えず始める前よりはスッキリとリフレッシュしているのが感じられると思います。それは何故かといえば【脳波】が遅くなってゆる~いビッグ・ウェーブを描き始めたから。γ波(ガンマ波)・・・・・30Hz(ヘルツ)以上・・・・・興奮、怒り、恐怖β波(ベータ波)・・・・・14~30Hz(ヘルツ)・・・・・ストレス、緊張、理性、思考、活動、不安α波(アルファ波)・・・・・8~13Hz(ヘルツ)・・・・・リラックス、くつろぎ、沈着、安静、愉快、好調θ波(シータ波)・・・・・・4~7Hz(ヘルツ)・・・・・・深い安心感、眠りに落ちる時、ぼんやり、無意識δ波(デルタ波)・・・・・・1~3Hz(ヘルツ)・・・・・・熟睡中人間って実は簡単、脳波で波動でその集合体でいろいろなナミナミのコンビネーションで出来ているみたいなのです。(物理学の場の量子論では全ての事象がそうであると言いますよね。)ところが複雑で尖んがったギザギザ・ウェーブを作るのも又実に簡単。試しにちょっとムカつく事を思い出して興奮してみて下さいな、なんちゃって。心が肉体レベルに翻訳されたのが呼吸であり、心よりもさらに微細な意識が脳波として現象化するようです。ゆったりとした深呼吸をするだけでも気分は向上しますが、さらにマントラなどに集中して意識を内側に固定して行くと、ガンマ波やベータ波だった脳波がだんだんとアルファ波に移行して行きます。そしてこのアルファ波状態ぐらいからディヤ-ナと呼ばれる状態が始まります。ガンマ波・・・・・高密度の凝固ベータ波・・・・・固体アルファ波・・・・液体シータ波・・・・・気体デルタ波・・・・・素粒子(クォーク)↑これはあくまで私の感じているイメージを表現してみたもの。何でアルファ波が液体なのかというと油汚れなどを洗剤に浸しておくとオイルが浮き上がって来るように、瞑想中にはそれまで自分の潜在意識の中に凝固させていた波動が溶け出して浮上して来るからなのです。この場合に起きている事を嫌って抵抗するなどのリアクションに走ると再び固まって潜在意識に逆戻り、冷静に客観的に忍耐強く観察し続けていれば自然に確実に浄化されて行きます。何故ならそれらはただの波動で、単なるややこしくて複雑なナミナミに過ぎないから。波動の溶解時には、まるで身体内で化学変化でも起きているような衝撃さえ感じる事があります。(要するに嫌~なとてつもなく居心地が悪い感覚ですね。)でも粗雑な波動が微細な波動に分解されると、どういうわけかクリエイティブな方向に使えるエネルギーに大変身してしまうから不思議です。特に坐って瞑想しなくてもきれいな自然の中などの波動の清浄な場所に行くと、気持ちが良くなってアルファ波が出て来ますよね。この脳波になると閃きの右脳が全開状態になり、全てがつながっている宇宙的な統一場とも同調し始め直感も鋭くなって来ます。そしてこの宇宙的な統一場からは生命エネルギー(プラーナ)もチャージ出来るみたいなんですよ。
2007.05.31
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コンセントレーション♪ダーラナとは集中する事、ヨーガのメディテーション(瞑想)はまずはここから始めます。サンスクリット語で【dha】は「しっかりとつかむ、固定」という意味。日本の仏教の陀羅尼(だらに)という言葉もこのダーラナから来ているようです。集中すると心身がスッキリとして気分も良くなって来るんですよ。インドでヨーガには4つのタイプがあると教わりました。全てのヨーガの修行は基本的にはこの4つの個別差のあるミックスなのではないかと思います。1・ラージャ・ヨーガ(王道のヨーガ、心身のコントロールのヨーガ)2・バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)3・ニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)4・カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)最もよく知られる「ポーズと呼吸法」を含む1番目のラージャ・ヨーガには、【アシュタンガ(8つの枝)】と呼ばれる8つの段階があるそうです。(パッタビ・ジョイスさんもご自身の教えるヨーガにアシュタンガ・ヨーガという名前をつけていらっしゃいますが、ここで書いているのは伝統的で一般的な概念の方です。)1・ヤーマ (5つの倫理的抑制)2・ニヤーマ (5つの倫理的戒律)3・アーサナ (直訳すると「座法」、様々な姿勢やポーズを取る事)4・プラーナヤーマ (多種類の呼吸法、呼吸をコントロールする事)5・プラティヤハーラ (感覚のコントロール、感覚を対象から切り離して心を内観的にする事)6・ダーラナ (集中)7・ディヤーナ (瞑想)8・サマーディ (三昧、時空や因果関係を超越した至福感を得られる超意識状態)ヨーガでは集中するためにマントラ(真言)という言葉のツールを使います。禅では数息観といって呼吸を数えたりもしますよね。放っておくと左脳の思考は勝手にあちこち飛び回り、仕事のスケジュールを確認しながら地球を一周し宇宙の果てからの帰還直後に近所のスーパーで野菜を買ってたりもしますので、何とかしてこの無限の行動力を阻止しようと試みるわけです。心の中でマントラを繰り返していると思考が固定されて旅立ちにくくなりますよね。能動的な左脳の思考をしっかりとつかんでいるうちに、だんだんと受容的な右脳が活性化して気持良くなって来るようです。(この辺のメカニズムについては次に書くつもりのディヤーナで少しトライしてみますね。)真言は不思議なり (しんごんなふしぎなり)観誦すれば無明を除く。 (かんじゅすればむみょうをのぞく。)一字に千理を含み (いちじにせんりをふくみ)即身に法如を證す (そくしんにほうにょをしょうす)行々として円寂に至り (ぎょうぎょうとしてえんじゃくにいたり)去々として原初に入る (こことしてげんそにいる)三界は客舎の如し (さんがいはかくしゃのごとし)一心は是本居なり (いっしんなこれほんこなり)(『般若心経秘鍵』 by 弘法大師空海)難解なので私も理解出来ていませんが・・・ちらっと読んでこのシンプルな美しい文章を感じてみて下さいな。「アブラムシソコノケ」というマントラでも効果のあったお婆様もいらっしゃるそうですが、集中するという意味においては多分どんな言葉を使ってもOKなんだと思います。空海様の上記の文章の続くのは、「問う陀羅尼は是如来の秘密語なり。 (とうだらにはこれにょらいのひみつごなり。)」どうせ選ぶのなら波動の高いマントラの方が言霊的にもパワフルそうですよね。
2007.05.11
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バングラデシュの国旗ダッカはインドのお隣の国のバングラデシュの首都。この国旗のデザインはどこかの国のと似ていますよね?それは何故かといえば真似したから、実はとても親日国らしいのです。昔々美術の国際展に出品するためにダッカにご招待して頂いた事がありました。当時はまだ行った事がなかったインドに行きたい気持が募っていたちょうどその矢先に、何故かタイミング良くもこのお話が舞い込んだのです。感謝しつつもちょっと角度がズレてるなと思っていた私に、お友達の1人がこう言ってくれました。「元英領インドでバーラットの一部の東ベンガル州に行けるから良かったね♪」(インドの本名でもあるバーラットについてはこちらをご参考になさってみて下さいね。)バングラとはベンガルの事でデーシュは国、つまりベンガル人の国という意味のバングラデッシュ。元々のベンガル州都のコルカタ(カルカッタ)は、現在はインド領の西ベンガル州都になっています。西ベンガルのコルカタ(ベンガル語)はヒンディー語ではカーリーガ-ト、文字通り名前にカーリー女神様を冠していますよね。東ベンガルのダッカの語源もダクシネーシュヴァリー女神(ベンガル語ではダケスヴァーリー)、隠された女神という意味ですがやはりカーリーの別名の1つ。どういうわけかベンガル人はあの恐~い!カーリー女神様が大好きみたいなのです。(カーリー様がどのように恐ろしくもスバラシイお方なのか、きっと【K】の所で書きたくなりますのでどうぞよろしくね。)インド独立運動の中枢を担ったベンガル人達は、インド国内ではそのプライドの高さでも有名です。機内から初めてダッカの町を見下ろした時には心底ビックリ!しました。だって一面の泥だらけ、眼下には茶色い泥しか見えない、飛行機はそのドロドロの泥の中に突っ込んで行くような感じで土埃の中に着陸。ちょうど雨季後という時期でもありましたが、そもそもバングラデシュという国自体がガンジス(ベンガルではパドマ)、ブラフマプトラ(ジャムナ)、メグナという3つの川のデルタ地帯に位置している土壌だからなのです。毎年雨季にはサイクロンにも襲われるのでしばしばそれらの川は氾濫してしまいます。中々生きていくのには過酷な条件の土地である上に、インドとパキスタンから2重に独立した混乱が長期に渡って収まらない状況の中で繰り返されるクーデター。事実上の建国には思ったよりも長~い時間がかかるようでした。確かその頃は世界一貧しい国の1つに数えられていたと思うのですが、驚いた事には町がきれいでゴミ1つ落ちていなかったのです。小さな子供達がジュート製の大きな袋を担いで歩いていて、ゴミというゴミを焚きつけにするために拾って行ってしまうから。完璧に自動的に必然的にリサイクルされていました。そんなエネルギッシュな子供達や、たとえ5、6、7、8人乗せてても平気で力強く漕いで突っ走るサイクル・リキシャ・ドライバー達などに、チープな同情心などを感じるヒマもなく完全に圧倒されてしまいました。だってみんな元気でとても生き生きとして、眼なんてキラキラと輝いちゃってるんですもの。まだまだこれから全てを創造して行くという雰囲気のせいか、町中には不思議な活気が満ち溢れていたのです。このエネルギーは何?彼らよりもはるかにお金持ちで豊かで幸せなはずの日本人よりも欧米人よりも、この人達の方が百万倍もエネルギーがあるのはどうして?それが私の価値観がリセットされた瞬間でした。もしかしたら物質性と精神性は反比例する性質があるのかもしれない?全然食べなければもちろん動けませんが、あまりに食べ過ぎても動きたくなくなりますよね。あるものに支配されるのではなく、ないものを嘆くのでもなく、あんな状態やこんな物を創造しようとするヴィジョン。エネルギーって多分そこから出て来るものなんですね。インドでの噂通りにプライドの高いベンガル人の国バングラデシュでは、年齢や性別やステイタスの上下を問わない多くの誇り高くて感動的な人達に出会いました。クールでパワフルだった彼らに心からの尊敬と感謝を♪後日その上流に魅せられてしまう私の場合、このガンガー(ガンジス川)河口の強烈な磁場を一番最初に体験出来て良かったな・・・。
2007.04.24
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ノー・プロブレム♪ABC×3つずつ=9つ書いたのでここでちょっとアルファベットをひと休み。インドでは9という数字、完成とか1つのサイクルの完了を意味します。な~んてね。(^ -)ちらっと一瞬でも目にして下さった方も、ちゃんと最後まで読んでくださった方も(感謝♪)。星の数ほどあるブログの中から、偶然にもここに来て下さって【ありがとうございます。】 m(_ _)m皆様がもっともっとお幸せになられますように♪インド人は「ノー・プロブレム♪(問題ない。)」ってよく言います。そして結果的には大問題に発展したりする事も多々あるのですが、何の根拠もなく自信のある人の割合が断然に!多い。十中八九大丈夫なのに、ちょっとぐらいは心配してみたりする多くの日本人とは正反対です。もちろんインド人でも日本人でも、例外的な方も少なからずいらっしゃいますけれど。大体「ノー・プロブレム♪」なんていう脳天気な発言には根拠がないものです。つまりあまり考えてないわけ、そして考えてないから不安や恐怖も出て来ない。これって結構スバラシイんじゃないでしょうか?例えば普段でも全てが上手く行っているとても良い状態の時って、あまり考えてなかったりしますよね。ただ波に乗って、流れて、転がって行ってる。きわどい状況に直面しても、知らないうち解決していたりもします。又はとてもリラックスして、気分が良くて、楽しんでいる状態の時。この場合もあまり考えないで、ただひたすらその気持の良さを喜んで感じています。このような時に天啓的なひらめきや直感って降って来るものですよね。考えないっていうのは実はかなり建設的な行為かもしれない?「ヨーガ・チッター・ヴリッティ・ニローダ・ハー」パタンジャリのヨーガ・スートラのとてもとても有名な第2節です。正訳すると難しくて解りにくくなるので思い切って意訳しますと、「ヨーガとは考えない事。」つまり無念無想状態、日本や中国の禅では「止観」と言ったりもします。お気楽にあまり考え過ぎない~というレベルを超えて、本当に全く何にも考えない(何にも思わない)のは非常に難しいのです。っていうかはっきり言って不可能、絶対に無理、全然出来ません!でも実はこの出来ない事をしようとするプロセスの方に鍵があるみたいなんですよね。この話は又いつか~♪
2007.04.12
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チャンディガールのセクレタリアートチャンディガールは北インドのパンジャブ州とハルヤナ州の州都、そして首都デリーなどと同じでどの州からも独立した連邦直がい領でもあります。インドでは政治的、歴史的、地理的、宗教的にビミョ~な場所が連邦直がい領になってるみたいなんですよね。そんな複雑な3つの顔を持つ近代都市チャンディガール。パンジャブはちょうどヒンドゥーとイスラムの中間のような感じのシーク教徒の多い州、北方にはシークの大聖地&総本山ゴールデン・テンプルのあるアムリツァールもあります。頭にターバンを巻いているインド人男性は全員シーク教徒、他の宗教の人達はこれをしません。戒律で髭と髪の毛を切らないのでターバンでまとめているのです。チャンディガールはスイス生まれでフランスで活躍した建築家のルコルビジェ(本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレ)による計画都市、彼自身が市の郊外にあるチャンディー女神寺院(黒い女神、シヴァ神の妻パールヴァティの変化)にインスピレーションを受けた事からこの町の名がつきました。チャンディはパールヴァティの暗黒面を体現し、魔物を退治する強くて恐ろしい女神様です。1947年のインドとパキスタンの分離独立後、元パンジャブ州都のラホールがパキスタン領に併合されたために急きょ造営されたインド側の州都です。つまりインドが隣国になったパキスタンに対抗して、当時の首相のネルー達が世界にも類を見ない斬新で芸術的なヨーロッパ風の計画都市を建設してみましたというわけ。今では都市そのものが目玉の観光地になっています。でも東西に飛び地をしながら独立したパキスタンも負けてはいません。現在はバングラデシュの首都である元東パキスタンのダッカに、ロシア生まれのアメリカ人建築家でモダニズムの巨匠のルイ・カーンによる国会議事堂を建設したのです。その後の西パキスタンとの内戦や印パ戦争を経て1971年に独立したバングラデシュは、このメモリアルでアトラクティブな建造物をそのロケーションゆえに手に入れました。伝統的なデザインが当たり前のインドの各地の中にあって、チャンディガールは日光江戸村などのちょうど逆の雰囲気。モダンな町のセットの中に、今も日常生活がコスプレのミスマッチなインド人達が暮らしているようにも見えます。見学者にとっては興味深い町ですが、インド人にとっては暮らしやすいのかどうか?でも建築観光で経済的にも潤っているので文句はなさそうですが。スーパー・モダン・シティーの中をサイクル・リキシャ(自転車の人力車)が走り、ドーティ(腰布)姿で自転車を漕いでいるリキシャ・ドライバーがケータイ電話をかけている不条理。数字のセクター番号で整然と区分けされたアドレスに右脳的なインド人達はかえって混乱、しばしば迷子になって拉致が開かない事もあるようでした。どちらを見ても同じような風景というのは逆に覚えにくいものですよね。ルコルビジェは都市機能を人間の身体と考え、各ブロックには必ず学校や病院や生活必需品の店などがある便利な構成に設計しました。町の心臓部に相当する場所には巨大な広場とショッピング・センター。そして人間の頭部に当たる町の上方には、都市の頭脳である国会や行政機関や裁判所や大学などが置かれています。市議会議事堂の議事室の内壁には抽象的な人体の内臓のレリーフが飾られ、都市にとっての議会の役割を表現しているそうです。議長席の真上には白いドーティ(腰布)&サンダル履きのマハトマ・ガンディーの等身大の写真が、議会席を見下ろしていました。セクレタリアート(各州の役所)は2つの入り口がビルのちょうど逆方向にあり、2州の行政機能が建物内でも2分されていますが食堂だけは共有スペース。裁判所はマンションのように合理的に各部屋が配置され、裁判の場所と進行状況が一発でわかるサイン・ボードも置かれています。その辺りを植民地時代の名残のイギリス風の黒マントの衣装を着た、中身はインド人の裁判官などが多数ウロウロしているのが見ていて楽しい感じ。ユニークなアイディアが具現化されたチャンディガールは、まるで都市自体がルコルビジェ&インド独立の志士達のコラボレーション・アートのようです。町全体が視覚的にも機能的にも1つの作品だなんて、おもしろいコンセプトですよね。
2007.03.31
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ラクシュミ女神チャンチャラーは山のようにあるラクシュミ女神の別名の1つです。(チャラチャラじゃないですよ。)ラクシュミは愛、美、幸運、繁栄(精神的な豊かさ&物質的な豊かさ)の女神様で、インドでは男性が富む所にはラクシュミが住むとされています。蓮の花の中に住み4本ある手の2本で蓮の花を持ち残りの2本の手の平から、又は持っている瓶などからお金や宝石が噴出しているラクシュミがよく絵に描かれています。ヒンドゥー創世神話でラクシュミは、神の食物を作るために乳海攪拌した時に生まれました。ヴィシュヌ神と結婚した世界の母、永遠、不滅の存在であるラクシュミ女神。2人は夫唱婦随の鏡のような理想的なカップルです。ヴィシュヌが普遍であるならラクシュミは偏在します。ヴィシュヌが内容であればラクシュミは言葉、ヴィシュヌが策略家であればラクシュミは慎重、悟性的であれば知的、正義であれば献身的です。ラクシュミが大地であればヴィシュヌが支え、神、動物、人間のどの場合でもヴィシュヌが男性であればラクシュミは女性になります。ラクシュミはヒンドゥー教ばかりでなく、ジャイナ教、仏教でも一般的な女神様。仏教では吉祥天女と呼ばれ、財神である毘沙門天(クベーラ)の左脇侍や妃にされる場合もあります。吉祥天女は右手に施無畏印を結び、左手に如意宝珠、又は蓮の花を持っている所はラクシュミ女神と同じですよね。ラクシュミの別名は、シュリー、パドマ、カマラ、ダーラニ、シーター、ラダ-、ルクミニ、アダ・マヤ、ナーラヤニ、アランヤ・シャスティ、ハリプリヤー、パドマーラヤ、ジャラデイジャ、ローカマーター・・・、まだまだあるかもしれません。全て愛、美、幸運、繁栄、それに加えて結婚、子宝などの、幸せのヴァリエーションから派生した意味の名前ですが、たった1つ困ってしまうのはチャンチャラー(変わりやすい、気まぐれ)という名前の時。ラクシュミは幸運の女神、つまり幸運の女神は気が変わりやすいという事でしょうか。でももっと恐ろしいのは姉のアラクシュミという女神様です。否定接頭語のアがついてますから正反対の不運、不幸をもたらす醜くて感じの悪~い女神様。インドではラクシュミとアラクシュミは実は表裏一体と言われて、元々は1人の女神だったようです。でも人間の当然の心理としては出来れば幸運だけを願いたい・・・、というわけでありとあらゆる不幸を一身に背負い忌み嫌われて疎まれるアラクシュミお姉様が誕生したのでした。でも幸運も不幸も結局は個人の判断や価値観に左右される相対的な世界。転んだ時には(アンラッキー)、この際地面に落ちている拾えるものは何でも拾って(学べる事はきちんと学んで)、又立ち上がって歩き出せば良いだけの事ですよね。めでたく再生復活した後で振り返ってみると、地面にはけっこう宝物が落ちていたりするものです(ラッキー)。アラクシュミとラクシュミってやっぱり一心同体?災い転じて福となる、陰きわまれば陽に転ず。良いにつけ悪いにつけアニッティヤ(変化する)が森羅万象の摂理で宇宙の真理、そして変化は必ず自分にとっての進化にする事が可能なんだと思います。(何回もの落ち込んで凹んだ経験と、何回もの調子に乗ってはしゃぎ過ぎた経験から。)ちなみにラクシュミとラッキーの語源は、インド・ヨーロッパ語族ですから同じなのだそうですよ。
2007.03.23
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7つのチャクラチャクラとは輪、車輪、円盤の意味で、ヨーガではとても重要な要素です。心と体をつないでいるエネルギーの回路。目に見えない無数の情報が絶え間なく飛び交っている、体内のインターネット回線みたいなものでしょうか。チャクラは円錐形の輪が回転するようなヴァイブレーションを発しています。色、音、音階、数字、言葉、記号、図像、などの様々な方法で表現されていますが、その実体はただの波動です。人体上に7つあるチャクラは背骨にそって縦方向にまっすぐ並び、身体の前後にその円錐形の輪を開いています。このエネルギー・センターは、肉体的においてはホルモンなどの内分泌器官に対応しています。1、ムーラダーラ・チャクラ / 脊椎の基底部 / 副腎と対応 / 腎臓と脊椎の機能を支配 / 赤色 2、スヴァジスターナ・チャクラ / 女性は卵巣、男性は睾丸 / 性腺に対応 / 生殖器の機能を支配 / オレンジ色 3、マニプーラ・チャクラ / 太陽神経叢 / 膵臓に対応 / 肝臓、脾臓、胃、胆嚢、神経系統の一部の機能を支配 / 黄色4、アナーハタ・チャクラ / 胸 / 胸腺 に対応 / 心臓、血液、循環器の機能を支配 / 緑色5、ヴィシュッダ・チャクラ / 喉 /甲状腺に対応 / 肺、声帯、気管支、新陳代謝の機能を支配 / 青色6、アジナー・チャクラ / 眉間、第3の眼 / 脳下垂体に対応 / 脳の下部、神経系統、耳、鼻、左目の機能を支配 / 藍色7、サハスラーラ・チャクラ / 頭頂 / 松果腺と対応 / 脳の上部、右目の機能を支配 / 紫色、白色昔々に見たチャクラの夢。時々夢の中でもう一度夢を見る事があって、そういう時はちゃんと2回目が覚めます。普段のはかない感じの夢とは違って妙にリアルで、目が覚めてからも決してその内容を忘れません。そんな深い深い夢の中で、自分のチャクラを下から順番に通過して行くという体験をしました。夢の中のチャクラはよく絵に描かれているような色鮮やかな花びらの形をしていて、時々花びらの一枚にちょこっと神様の頭などもくっついています。下から6つ目までの通過はスムーズだったのに、7つ目を出る時の衝撃はかなりのものでした。頭頂のチャクラには1000弁の花びらがあると表現されますが、本当にやたらと密度が濃かったのです。脳天を出た直後に自分の声がこう言うのを聞きました。「まだまだ上があるんだわ。」その後しばらくして偶然に、人体の上方にもさらに5つのチャクラがあると書かれている本を目にしました。8番目は頭頂の30cmくらい上にあり、天使の輪っかとは実はこのチャクラの事なのだそうです。9番目のは地球の地軸の上方にある地球のチャクラと同じもので、10番目は太陽系のチャクラ、11番目は私達のいる天の川銀河のチャクラ、そして12番目はどこかこの宇宙の中心にあるチャクラ。日頃は気にも留めていませんが惑星も恒星も銀河も宇宙も、活動しながら生きている同じ運命共同生命体ですものね。夢の中でも地面から背骨を通って頭頂に抜けてヒラヒラと軽快に上昇して行き、どこかの究極の一点までつながっている白っぽい金銀色の光のコイルを見たような気がしました。本を読んでから時々その光のコイルを思い出して、ラインをイメージしながら上下にゆっくりと深呼吸。2、3回で心身がスッと軽くなり、アッという間に気持が良くなるから不思議です。
2007.03.20
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カンチープラムのブラーフミン日本語ではバラモン(婆羅門)と言います。江戸時代の士農工商のインド版、4階級の最高位がブラーフミン。普通はカースト制度(4姓)と呼ばれていますが本来はヴァルナ&ジャーティという名前で、世襲的な職業を持った同族内で結婚するための機能を果たしていました。1、ブラーフミン(司祭、僧侶、教師、行政官)2、クシャトリア(王族、戦士)3、ヴァイシャ(企業家、商人)4、シュードラ(農民、職人)紀元前13世紀頃にインドに侵入したアーリア人が自分達を最高位の司祭・僧侶階級に置いて、先住民のドラヴィダ人を支配したのがカーストの起源だったようです。元々支配目的で作られたカースト制度は、もちろん!ヒンドゥーの宇宙観には反するものです。アンタッチャブル(不可蝕賎民)などというあんまりな名前をつけられたカースト外(使用人)の多くは、当然!仏教などに改宗してしまいますよね。今のブラーフミンはどんな仕事にも就きますが、元々はヴェーダの知識に精通した学者やプージャリ、つまりヒンドゥー寺院のプージャ(儀式)などをする役割の人達でした。ブラーフミンの家に生まれた男の子は、小さな頃からヴェーダなどの聖典を全て丸暗記させられます。(今はしない場合も多いようです)日本でも先祖代々のお寺に生まれた家庭を持つ僧侶を婆羅門(バラモン)、自分の意思で出家した妻帯しない僧侶は沙門(インドの出家僧のサンニャーシンとやはり最初の音が似ています)という風に区別する古い言い方があるようですが、お寺の子が小さい時からお経を覚えさせられたりする所も同じですよね。今でも寺院に行くと上半身は裸で白いドーティ(腰布)だけを身につけ、左肩から白い紐をたすきがけにしたブラーミン達が働いています。この白い紐はヤジノパヴィタ(聖紐)と呼ばれ、男の子は聖なる紐を受ける儀式を終えてからヴェーダを学び始めるそうです。この聖紐が右肩脱装(右肩を布で覆わない)のアジアの仏教僧衣になり、日本に来てお坊さんの袈裟になりました。(仏陀ご自身は元王子様だからクシャトリア出身です)ダライラマ14世法皇などのチベット僧侶が極寒の真冬でも右肩を露出し、誰もがみんな10分に1回くらいは濃い赤衣を左肩に掛け直したりしているのが印象的です。もちろん滑り落ちて来るからでしょうけど髪の毛を掻きあげる仕草などと同じように、何となく落ち着いたり和んだりという気分転換にもなっているのかも。聖紐は3筋のより糸から出来ていて、人間の心の状態を決める3つのグナ(性質)を象徴しています。1、サットヴァ(純粋さ、光と幸福感をもたらすもの、知恵と啓示など)2、ラジャス(活動、情熱や渇望や悲しみや苦しみなどの激しい執着へと導いていくもの)3,タマス(怠惰、無知、暗闇など)このより糸はブラフマー・ムディという結び方をされ、アハンカーラ(自我、有限の個性)とアートマン(真我、実存する永遠の魂)を結びつける決意を示しているのだそうです。インドではよくお守りとして、手首にお寺で買った紐を結んだりします。日本でも縁を結ぶ、結びの一番、注連縄、水引などなど。紐を結ぶと決まる、閉まる、締まる、絞まる?結ぶという行為には決意を示したり結界を作ったりと、スピリチュアルな意味が込められているみたいですね。
2007.03.19
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クリシュナ神とアルジュナ"Don't worry, be happy."あの難解なバガヴァッド・ギーターはこれを表現していると言う人がいました。半分ジョークで、半分はマジ。肩の力が抜けて元気が出て来る良い言葉だなと思います。「心配しないでクリシュナ神について行けば大丈夫!」この場合のクリシュナとは自分の外側にいる神様ではなく、アートマン(魂、真我)、人間の心の深層に存在する高次元の自己(英語ではセルフと翻訳される)、自分の内面にある神のような本質の部分を指しています。今風に言えばハイヤーセルフですよね。ヨーガの聖典でもあるバガヴァッド・ギーターは、バーラタ族の戦争物語を使って人間の精神的な修行の世界を表現しています。クライマックスの最終第18章の最後で、馬車(戦車)の御者に扮したクリシュナ神が大叙事詩マハ-バーラタの中の同族間戦争クルクーシェトラの闘いが始まる直前に、親戚のカウラヴァ族に弓を引くのを躊躇するパンダヴァ族のアルジュナに向かってこう言います。 心のすべてを私に与えよ 私に帰依せよ 私を祭れ 私を崇拝せよ そうすれば汝は私のもとにくる これは汝を深く愛する私の約束である すべての義務を放棄して 私のもとに身を寄せよ もう悲しむ事はない 汝をすべての罪から解放しようクリシュナ神がアートマン(魂、真我)の比喩であるなら、アルジュナの属するパンダヴァ族は高次元のマナス(心、マインド)、敵対するカウラヴァ族は低次元のマナス(心)、馬車は人間の肉体、五頭の馬は人間の五感、戦争とはダルマ(人生の義務、それは真理を学び意識を進化させて行く事というのがヒンドゥーの伝統的な考え方。)自分自身の高い本質を信じて、行為の結果を期待しないで行動して行けば覚醒する、解脱する、悟る、エトセトラ。自分の高次元の自己と一体化して生きれば、真の意味で自由になり幸せにもなれますよという事らしいです。敵が自分の低次元の心なのだとすれば、闘いを渋るアルジュナの気持もよくわかりますよね。バガヴァッド・ギーターは別名奉仕のヨーガ、活動のヨーガを解説していると言われます。奉仕といっても別に狭い意味でのボランティアを指すのではなく、行為とその結果を直接的に結びつけないという意味のようです。アートマン(ハイヤーセルフ)からのサインは、純粋に直感的なひらめき(右脳)を通してやって来ます。天啓的なひらめきはいつもシャープでタイミングが絶妙、ヴァイブレーションが上がって気持が良いですよね。得られる結果を期待しながら何かをするのではなく(これは左脳である頭脳の働き、思考は真我ではなく自我のテリトリーなんだそうですよ)、本当に心惹かれる事、ワクワクする事をひたすら行動に移して行けば、思いもかけないスケールの大きなギフト(恩恵)を受け取るようになる。頭を使って考えいてても自分の過去の経験の範疇を超えられませんが、ひらめきには限界がなくて無限の可能性を秘めているようです。何か新しいものを発明した人がよく、一生懸命やっていたらある日突然ひらめいたとか言いますよね。ヨーガでは全知全能で偏在するアートマン(ハイヤーセルフ)などと表現します。どうも人間の心の深層には、全ての人々や宇宙全体とつながっている秘密のアクセスがあるみたいですよ。
2007.03.16
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バーラット・マーター寺院 / ヴァラナシインドの本名はバーラットです。英語ではジャパンだけど、日本語ではニッポンみたいなものですね。そしてインドという音は、ヒンドゥーの英語なまりなのです。ガンガー(ガンジス川)のほとりにあるヒンドゥー教の最も重要な聖地ヴァラナシ(ベナレスの事、これも英語なまり)には、インドという国そのものを御神体にしている寺院があります。祀られているご本尊がヒンドゥーの神様ではなく、インドの地図であるというユニークなお寺。寺院の床に広がる巨大な大理石で出来たインド地図には、ヒマラヤ山脈やガンガーなどが立体的に描かれています。この寺院はインド独立の父、マハトマ・ガンディーによって1932年に建てられました。つまり独立の15年前です。インドの独立と国民の団結を目指した人々の願いが、この地図には込められているのでしょうね。寺院の名前のバーラット・マーターは、母なるインドという意味です。ヒンドゥー寺院はヒンドゥー教徒しか奥の院まで入れてくれない所も多く、時には異教徒や外人は入り口で門前払いされる事も。特にヴァラナシのようなバリバリの聖地では、入場するためのハードルがいっそう高かったりします。外陣や外側から覗き込んでいるとお寺のガードマンに怒られたり、それでも懲りずに眺め続けていると立ち去るまでしつこくストーカーされたり。ヒンドゥー教徒とはヒンドゥーとして生まれて来た人の事、つまり親がヒンドゥーでなければならず異教徒や外国人がヒンドゥー教徒になる道は開かれていません。この点に関しては誰もがモスレムになれるイスラム教の方が、太っ腹で心が広いとも言えます。ヒンドゥー教は信仰をする宗教というよりは民族的な文化や慣習みたいなもので、日本の神道とちょっと似ているのかもしれませんね。でも嬉しい事にこのバーラット・マーター寺院は、誰でもみんな奥の奥まで入れるオープン・マインドなお寺なのです。バーラタ族の国がバーラット。世界の3大叙事詩のひとつとされる『マハーバーラタ』(偉大なるバーラタ族の物語)は、インドの2大叙事詩の『ラーマヤナ』とともにヒンドゥー教の聖典の中でも重視されています。デーヴァナーガリ(神の言葉)、つまりサンスクリット語で書かれた古代インドの宗教的、哲学的、神話的なこの叙事詩は、全18巻、10万詩節、20万行を超えるといわれ、何と聖書の4倍もの長さ。普通は一冊の本として発行されている最も重要なヨガ聖典のひとつの『バガヴァッド・ギーター』も、実は『マハ-バーラタ』中の1章を構成するほんの一部に過ぎないのです。マハーバーラタの中にはインドラの雷という核兵器のようなものや、ヴィーマナという宇宙船みたいなものも登場します。編纂が成立したのが紀元4、5世紀、紀元前3000年頃の超古代を舞台にした物語なのに不思議ですよね。
2007.03.11
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マハトマ・ガンディーアヒンサとは非暴力という意味、仏教では不殺生と翻訳されています。インド独立運動のピーク時に、マハトマ・ガンディーがそのスリムな身体が衰弱しきって死に至る寸前までの断食を何度も行い、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の内戦状態に抵抗した事は有名です。ガンディーは、断食を政治的な武器として使いました。彼は自分の非暴力&不服従の思想にサッティヤグラハ(真理の把握)という名前をつけ、後のアメリカのマーティン・ルーサー・キングJr.やチベットのダライラマ14世などが、ガンディーの平和主義に影響を受けたと語っています。1947年8月にインドは長い間のイギリスの植民地支配から独立しましたが、翌1948年1月30日にガンディーは首都のデリーで、ヒンドゥー原理主義者の銃弾に倒れて亡くなりました。ガンディー自身はヒンドゥー教徒ですが、英領インドの一部だった現在のパキスタンとの統合独立を最後まで訴え、イスラム教徒にも理解と協力を示していた事が同胞からの強い反感を買ったようです。「もし死ぬ時に(ヒンドゥーの)神の言葉を口にしなかったら、私の事(信仰)を疑っても構わない。」と生前に言っていたガンディーは、撃たれた瞬間に「ヘ~ラ~ム!(おお神よ!)」(アッラ~ではなかった)と呟いたそうです。南インドのタミル・ナドゥ州の、その又南部にあるマドゥライという町のガンディー博物館に、彼が撃たれた時に身にまとっていた白い布が展示されています。一面の血痕が今ではとても淡いピンクに退色したその素朴な綿布が、小さな特別室のガラスケースの中で静かに過去の歴史を物語っています。他の部屋には眼鏡やサンダルなどのごく質素な日常的遺品とともに、糸を紡ぐ道具や白い綿布などが飾られていました。ガンディーが自ら糸車を回して、糸を紡いでいる写真は有名です。イギリス留学中や南アフリカで弁護士をしていた頃のガンディーは欧米式のスーツを着ていましたが、独立運動に身を投じてからはインドの伝統的な衣装の白いドーティ(一枚の布)しか身にまとわず、しかもその布を自分自身で手作りしていました。これはイギリスの機械繊維産業の従属的な立場になった当時のインドにおいて、独自の繊維生産や精神を復興させるデモンストレーションだったのです。チャルカと呼ばれるインドの糸車の一種は、チャクラ(車輪や円の意味、ヨガでは人体の背骨に沿った7ヶ所に目に見えないエネルギーの輪が回っているとされ、それらの場所は医学的なホルモンの分泌腺に対応している)とその語源が近い事から、インド独立運動の象徴になりました。仏教でも初転法輪のように教えを説く事を法輪を回すと言ったりしますが、チャルカ(チャクラ?)は今でもインド国旗の中央で回っています。モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(本名)に、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖ラビンドラナート・タゴールはマハトマ(マハーは偉大なる、アートマンは魂)という尊称を送り、独立初代首相のジャワハルラル・ネルーを含むインド国民はバプー(お父さん)という愛称で呼びました。ガンディーの生まれた西インドのグジャラート州にはマウント・アブ-というジャイナ教の聖地があり、インドでは少数派に属するジャイナ教徒の多くいる地方です。極端なアヒンサ(断食をして死に至る事は理想的な不殺生の行為)、徹底したシンプル・ライフ(裸で、又は白いドーティだけを身にまとって生活する人もいる)などのジャイナ教の教えは、ヒンドゥー教徒であるガンディーにも影響を与えたと言われています。残念ながらアヒンサは、ヒンサ(暴力や殺生、アは否定接頭語)されてしまうケースが多いようです。でも結果としてその人物の影響力はよりパワフルになり、無限に傾倒する人々が増え続けて行く事実も歴史が証明しています。ガンディーやキング牧師はもちろん、イエス・キリストやジョン・レノンなどの場合もそうですよね。
2007.03.10
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アイヤッパ神あまり聞き慣れないアイヤッパという名前の神様。南インドのケララ州では盛んに信仰されていますが、他の所では完全に無視されています。そういう神様が時々いるのは何故かといえば、どうもある時にマーケッティングによる神様達の合併吸収やリストラなどが行われたらしいからなのです。紀元前のアーリア人のインド侵入とともにブラフマイズム(バラモン教)が成立し、ヴェーダの神々といわれる自然神が人々に信仰されていました。アグニ(火)、ヴァ-ユ(風)、インドラ(雷)、ルドラ(暴風)、スーリヤ(太陽)とか、もっと古い神々にはディアウス(天)、プリティヴィー(地)など。紀元後には宗教のヒンドゥー化が進み、神様もプラーナの神々といわれるブラフマー(創造)、ヴィシュヌ(維持)、シヴァ(再創造のための破壊)の三位一体神などが中心になって行きました。合併吸収されたのはルドラ→シヴァ(暴風→破壊)、スーリヤ→ヴィシュヌ(太陽→維持)。リストラされたかわいそうな神様達はアスラやナーガやガルーダなどで、お気の毒にも悪魔や魔物に格下げされてしまいました。マーケッティングはヨーロッパでも起きていて、農耕文化的な大地への地母神信仰は聖母マリア信仰に、冬至のお祭りがイエス・キリストのお誕生日のクリスマスに変化したみたいなのです。身についた習慣を強引に変えるよりは、元々あるものをスライドさせる方が簡単で取り込みやすいですものね。アイヤッパは元々はケララの村などで信仰されていた神様らしく、それがあろう事にもシヴァ(男性神)とヴィシュヌ(男性神)の息子になるというユニークな展開に。アイヤッパの別名はハリハラプトラ、ハリ(ヴィシュヌの別名)とハラ(シヴァの別名)のプトラ(息子)です。アイヤッパにまつわる神話は複数あるのですが、共通しているのはモヒニ(美女の意味)という女神に化身したヴィシュヌの美しさにシヴァが魅了されてしまい、2人から出来た子供がアイヤッパであるという部分です。シヴァには他にも2人の息子がいて、そのうちの1人は象の顔をした人気者のガネーシャ。その兄のスブラマンニャには他に5つの別名があり、その1つのムルガンもやはり南インドのタミル・ナドゥ州の地元神だったようです。彼はめでたくシヴァの息子に納まりましたが、運が悪かったのはアリャハルというやはり南タミルの大きな町マドゥライの神様。妻のミーナクシがスンダレシュヴァラ(シヴァの別名)の奥様の1人としてサバイバルしたために、今では元妻の兄という切ない存在にされてしまいました。別名、化身、変化、これがインドの神様の得意技ですが、つまりは多数の民族が入り乱れた移動や興亡があった結果のインド的な落とし方なのかな?と思います。今のヨーロッパは完全にキリスト化されていますが(イタリアなどはおびただしい数の聖人という形で多神教を温存している?)、インドはカレーの中に溶け込んでいる何種類ものスパイスのように、渾然一体として複雑に絡み合った文化を長い歴史の中で創造し続けているようです。
2007.03.06
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デリーのモスク / ジャマ-・マスジット ヴェーダでインドと言ったわりにはのっけからイスラムのお話ですが、これが結構いるんですよね~モスレム(イスラム教徒)の方達。人口の10何%くらい?そして多くの町にはモスクが。アザ-ンとは礼拝を呼びかける祈りの声、早朝などにモスクの尖塔から聞こえて来る「アッラ~、アクバ~ル・・・♪」というあれ。間違ってモスクの近くに滞在などしてしまおうものなら、アッラ~♪で早起き出来る事は間違いないですから。イスラムの戒律では、1日5回もメッカの方角を向いて礼拝しなければいけないらしいけど、はてさてモスレムの方達はそんなしち面倒臭い事を本当に毎日やっているんでしょうか?などとつい疑いの目を向けてしまいますが、私が見た限りでは結構やってるんですね~これが。1回のお祈りは5分とか10分でも良いらしく、一日がスッキリと気分良く過ごせるツールにもなってるんだそうです。ちょっとした瞑想みたいなもの?インドで印象的なのは、ありとあらゆる宗教(つまり文化や哲学)が渾然一体として、それなりに共栄共存している事です。最近でこそカシミールのインドとパキスタン国境付近の紛争が激化している影響で、他の場所でもイスラムvsヒンドゥーの小競り合いが起きていますが、以前はそんな事も少なくてもっと平和だったような気がします。インドでは、どの町にも必ず一軒はある神様グッズ屋。それこそ八百万(やおよろず)の3倍と言われるヒンズー教の神々に加えて、イスラム教は偶像崇拝禁止だからグッズが少ないけれどもコーランを開く台座みたいなものがあったりして、仏教、ジャイナ教、シーク教、キリスト教、パルスィー(ペルシャ)と呼ばれるゾロアスター教(拝火教)などの、神様や聖人達などが店中所狭しとてんこ盛り状態です。神様はアイドル的な存在だし、ちょっとくらい数や種類が増えたって誰も気にしない、周りの人が何を信仰してようが別に気にも留めない、いたって大らかな宗教観の国なんですね。マハトマ・ガンディーが、亡くなるまでこだわっていたという印パの統合独立。もし印パが同じ国だったとしたら、今のカシミール紛争は多分存在しなかったんじゃないでしょうか?たまにはちょっとした摩擦や葛藤が起きたとしても、インドの他の場所のようにそれなりに上手に住み分けて調和しながら生活し、そんなにはぶつからずにやって行けたのかもしれません。日本も歴史的には大らかな宗教観の国民性で、本質的には八百万の神々的発想の多神教的な文化です。キリスト教以前のヨーロッパだって多神教的だったし、古代は世界中がそんな感じで、実はその方がごく自然な信仰や宗教のあり方なのかもしれません。宇宙の太陽や月や星、大地や山や海や河川、自然現象や天変地異、豊作や大猟や大漁、自分達の力を超えた存在や事象に対して畏敬の念を持ち、祈り願う事って多分人間の素直な感情なんだと思います。一神教ってひょっとしたら、核兵器よりも破壊的な発明だった?歴史的にも、そして今日この頃だって結構そうですよね。そして現在も戦火の絶えない、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の神様が同一神っていうのが何とも・・・、よっぽど血気盛んな怒りっぽい神様なんでしょうね?ガチンコ対決を避けるためにはファジーな曖昧さも大切だし、あまり突き詰めないで時には流す事も必要ですよね。いい加減って悪くない時もある、いい加減なのが本当は良い加減なのかもしれません。
2007.03.05
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