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またまた浮世絵ネタ!サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん。北斎大好き少年が登場した回の拡大版です。おりしも、新1000円札の裏面は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」なのね。表は北里柴三郎。◇中学3年生の目黒龍一郎くんが、海外に流出した北斎の作品を見るために、オランダのライデン博物館と、イギリスの大英博物館を訪ねてました。オランダやイギリスは、かつてのヘゲモニー国家ですよね。その植民地主義時代の博物学的な蒐集力を物語る。https://t.co/c1qJ3BElJe pic.twitter.com/Po9VOjCvaQ— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 16, 2024 ◇シーボルトや林忠正が、浮世絵を海外に流出させたことで、ジャポニズムの潮流が生まれただけでなく、作品が失われずに保管されることにもなった。ジャポニズムの影響は絶大で、東欧のチェコやルーマニアでも、北斎の作品をデザインした切手が発行されてる。https://t.co/d9yzmalvPP pic.twitter.com/MHiYXg8RCd— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 16, 2024 ◇龍一郎くんは、いつも筆を持ち歩いて墨絵を書いてます。母親は書道家だそうです。きっと遺伝+英才教育なのだな。【最新記事】葛飾北斎に憧れる14歳は、生後8カ月から筆に墨をつけていた。「なぜ?」と聞かれたときに母が選んだ答え方は https://t.co/6Y25ztsWFT人気番組に出演し、「葛飾北斎博士ちゃん」として知られる中学3年生の目黒龍一郎さん。好きなことの極め方を、母親の史さんと本人に聞きました。— OTEMOTO |オ・テモト (@otemoto_media) April 22, 2024◇晩年の北斎は、朝起きると獅子図を描いてたのだけど、龍一郎くんも、毎日欠かさず龍図を描いたりしてるらしい。名前が龍一郎だけに!辰年だし。◇龍一郎くんが街角で墨絵を書いてると、通行人が話しかけてきて北斎の話題で盛り上がる。オランダはフランドル美術の歴史もあり、一般市民の絵画への造詣が深いようです。イギリスでも、建物の壁面に「グレートウェーヴ」が描かれてたり。https://t.co/zfNs1wMwbO pic.twitter.com/JAVYVNfpTi— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 16, 2024 ◇オークション会社のサザビーズでは、後期に刷られた「グレートウェーヴ」が登場。わたしも一目見て、波の飛沫が通常のバージョンと違うのは分かった。背景のボカシの入れ方が違うのですね。◇晩年の作品は、本当に北斎の作品なのか、応為を含む弟子たちの作品なのか判然としない。前期の刷りと後期の刷り。 https://t.co/u1WBetNTVv pic.twitter.com/ulkRhBiEIh— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) July 16, 2024海渡る北斎 「波の伊八」と19世紀末のインフルエンサー林忠正 [ 神山典士 ] 楽天で購入
2024.07.19
NHKの日曜美術館。「若冲 よみがえる幻の傑作〜12万の升目に込めた祈り」を見ました。◇伊藤若冲の「釈迦十六羅漢図屏風」は、縦横に方眼紙みたいな線を引いてから、その枠内に色を置いていく《枡目描き》の作品。彼独自の技法だそうです。西洋の点描画も、もともとデジタルっぽい表現だと思うけど、若冲の升目描きは、それ以上にデジタルな発想の表現です。12万もの升目を塗っていくクレイジーな作業。それを江戸時代の人間が手描きでやっていた。精神科医の華園力なら、自閉スペクトラムの反復作業と言うでしょうが、▶ 伊藤若冲とアンリ・ルソーの自閉スペクトラム。美術史家の山下裕二は、これを「写経のような作業」だと言ってました。◇しかし、この屏風は大阪の空襲で焼失してます。今回の番組では、小さな白黒写真をもとに、それを"現代のデジタル技術"で復元したのですね。その結果わかったのは、「釈迦十六羅漢図」&「樹花鳥獣図」という、同時期に描かれた2つの升目描きの屏風が、それより前に相国寺へ寄進された、「釈迦三尊像」&「動植綵絵」のセットに相当する、…のではないかってこと。つまり、相国寺において、中央の「釈迦三尊像」と、左右の「動植綵絵」が配置されたように、どこかの黄檗おうばく宗の寺院でも、中央の「釈迦十六羅漢図」と、左右の「樹花鳥獣図」が配置されただろう、…ってことですね。◇3年前にドラマ「ライジング若冲」を見たとき、わたしが思ったのは、若冲の絵が「神の世界なのか仏の世界なのか分からない」…ということでした。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202101060000/この場合の「神と仏」は、神道と仏教のことではなく、道教と禅宗のことです。「釈迦三尊」は仏(禅宗)の世界だけれど、「動植綵絵」は神(道教)の世界に見えたのよね。しかし、今回の番組を見て、黄檗宗のことを調べてみたら、だいぶ分かってきた気がする!◇Wikipediaによると、黄檗宗は、臨済宗から独立した禅宗の一派。そして、禅宗そのものが、もともと道教と関係が深いってことらしい。https://ja.wikipedia.org/wiki/禅宗中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。その意味では神仏が習合(?)した世界なのね。◇当時の芸術サロンの中心人物だった売茶翁も、やはり黄檗宗の僧侶でした。売茶翁が、形式化してしまった禅僧の茶道を批判して、《茶本来の精神》に立ち返ろうとした姿勢は、臨済宗から派生した黄檗宗が、《臨済正宗》を名乗ったことに通じるのかもしれない。◇はたして、「釈迦十六羅漢図」&「樹花鳥獣図」の屏風セットが、どこの寺院に飾られていたかは分かりませんが、黄檗宗の本山といえば、京都の宇治にある黄檗山萬福寺。そして若冲と縁が深いのは伏見にある石峰寺です、https://ja.wikipedia.org/wiki/石峰寺石峰寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、安永年間(1772年 - 1781年)から天明年間(1781年 - 1789年)にかけて絵師の伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職密山修大と協力して制作した「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。当時は千体以上あったが、現在四百数十体が残っている。また観音堂の格天井には若冲が天井画を描いたが、観音堂は幕末の安政6年(1859年)以前に破却され、天井画は寺外に流出。現在は信行寺(左京区)や義仲寺(大津市)が所蔵している。若冲は寛政2年(1791年)に石峯寺門前に草庵を設けて隠棲していたが、寛政12年(1800年)9月10日、85歳の生涯をその草庵で閉じ、同寺に葬られた。当寺には若冲の墓があり、平成12年から毎年9月10日に若冲忌を営んでいる。伊藤若冲 鳥獣花木図屏風 [ 山下 裕二 ]価格:3,520円(税込、送料無料) (2024/7/15時点) 楽天で購入
2024.07.18
先日は、ドラマ「広重ぶるう」を放送してましたが、NHKは、あべのハルカスの美術展にあわせて、広重の番組をまとめて放送してるのね。今回の「歴史探偵」では、おもに東海道五十三次のことを取り上げて、さらに、4年前の「浮世絵ミステリー」の再放送では、おもに江戸百景のことを取り上げてました。あべのハルカス美術館開館10周年記念展覧会「広重 ―摺(すり)の極―」会期:7/6(土)~9/1(日)知っているようで、見たことない👀広重の作品をご堪能ください❗️#広重展決定版 #広重展 #広重 #あべのハルカス美術館 #Hiroshige pic.twitter.com/VR2Mj9Ityh— 【公式】「広重 -摺の極-」 (@hiroshige2024) July 5, 2024◇2つの番組を見ましたが、先日のドラマとくらべても、広重のイメージに大きな矛盾はなかったです。やはり、市井の人々のユーモラスな姿を描いて、絵のなかに共感性のある物語を作ってました。ただし、名所絵は、たんに写生するだけが目的じゃなく、いわば旅行ガイドでもあるので、いろんなデフォルメや演出や編集はしてたっぽい。本人いわく、寫真をなして、これに筆意を加うる時はすなわち画なり(写実描写に、筆者の意図を加えてこそ絵になるのだ)…ってことのようです。◇たとえば、ひとつの画面のなかに、その土地の風物を無理やり収めるべく、現実にはありえない構図をつくったりしてる。これは一種の映像編集ですね。先日のドラマでは、ありえない構図で「神奈川沖波裏」を描いた北斎に、広重がツッコミを入れるシーンがありましたけど、それと同じことを広重もやっていた。ほかにも、雪の降らない土地に雪を降らせるとか、風景はそっちのけでグルメ情報にフォーカスするとか、そういう演出をやってます。◇広重の『東海道五十三次』は、旅行ガイドであり、疑似旅行メディアでもあった。実際に東海道を往復したら、その旅賃は現在の金額で30万円くらいだったらしいけど、浮世絵を買えば1枚500円くらい。全55図をコンプリートしたら3万円くらい。つまり、3万円の浮世絵で、30万円分の旅行気分を味わえたのですね。◇晩年の『名所江戸百景』では、幕府の取り締まりをかいくぐるために、さまざまな暗示的な表現も駆使してたようです。ちょっとダヴィンチコードみたいな話。たとえば、吉原の風俗や、幕府の軍事にかんする情報や、地震の被害などを描くことは禁じられたのですね。でも、見る人が見れば分かるような描き方をしてる。ある意味では、謎解きそのものがエンターテインメントになってて、いまでいうなら「ネタ探し」の楽しみだったのかも。◇幕府の取り締まりが厳しかったのは、当時の江戸にとって激動の時代だったからでもある。先日のドラマでは、あまりくわしく描かれませんでしたが、広重が『名所江戸百景』を制作した晩年期は、いろんなドラマになりそうな要素が多い。1835年(天保6)天保の大飢饉が激化。1841年(天保12)天保の改革がはじまる。1849年(嘉永2) 葛飾北斎が享年89で死去。1853年(嘉永6)黒船が来航。品川台場(お台場)を築造。1855年(安政2)安政の大地震。1856年(安政3)広重が『名所江戸百景』の制作を開始。1858年(安政5)安政コレラが流行。広重が享年62で死去。梶よう子の原作は読んでませんが、ドラマ「広重ぶるう」は続編が出来そうな気もします。◇とくにドラマティックだったのは、御殿山のエピソード。幕府は、黒船の再来航に備え、お台場(砲台)を建設するために、御殿山の土を削って海を埋め立てたのですね。以下は「浮世絵ミステリー」のナレーションです。この御殿山の土取りは、広重に強い衝撃を与えます。江戸百を描いた晩年には《名所絵の巨匠》と評された広重。じつはかなり遅咲きの絵師でした。デビューは16歳。火消しの仕事を続けながら、美人画や役者絵を手掛けますが、20代はまったく泣かず飛ばず。転機が訪れたのは35才。『東都名所』という江戸の名所を描いた10枚シリーズを発表。それがちょっとしたヒットとなります。このなかで広重が取り上げたのが《御殿山の桜》でした。広重は、この名所絵という新しいジャンルに自分の道を見出します。そして火消しの仕事を離れ、画業1本で生きることを決めたのです。(浮世絵ミステリー「東京前夜〜広重の暗号〜」)御殿山に桜が植えられたのは4代将軍家綱のころ。御殿山の桜は、広重が絵師として出世するきっかけであり、広重が世間にひろめた新しい名所であり、武士も町人もともに楽しめる天下泰平の象徴だった。そんな思い入れのある場所が、無惨にも軍事砲台を築造するために削られたのです。幕末の御殿山を描いた広重の作品。荒々しい崖がむき出しですが、これは外国船を防衛するための砲台、お台場を建設する際に御殿山が削られた跡。地形図でも不自然に台地が削られたような箇所(赤い丸のあたり)が確認できます。6/1より太田記念美術館で開催の「江戸の凸凹」で展示。 pic.twitter.com/bESKulhzFJ— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) May 24, 2019「御殿山」の土を削って「お台場」を作った。土を運ぶ日雇い労働も苛酷であり、その築造費用は不況にあえぐ庶民を苦しめたらしい。フジテレビのあるお台場って、そういう場所なのね。◇もうひとつのドラマティックなエピソードは、やっぱり安政の大地震です。広重の『名所江戸百景』は、震災の半年後に制作がはじまってるけど、火消しだった広重は、地震で発生した江戸各地の火災被害に、とくに心を痛めたようです。この被害に、広重は人一倍の思いを抱いていました。じつは広重は下級武士。27才で家督を譲るまで火消しの任務に当たっていたのです。生まれは、江戸城近くの八代洲の武家地にある火消し屋敷。わずか13才で両親を亡くし、定火消し同心として家族を養うことになります。定火消し同心は、武家地で火事が起きたとき現場にいち早く駆けつける最前線の指揮官です。22才のときには、小川町の火事で活躍し評価されるほど真摯に火事と戦っていました。安政の大地震でも火災は30カ所以上で発生し、とくに大きな被害を出したのが四方蔵一帯でした。火消しだった広重にとって、ここは外せない場所だったのです。(浮世絵ミステリー「東京前夜〜広重の暗号〜」)なお、先日のドラマを見ていても、広重の住む地区と北斎の住む地区は違う気がしたけど、やはり「武家地の火消し屋敷」ってのがあったんですね。◇広重の『名所江戸百景』は、ひとつには、震災からの復興を願って、被災前の江戸の姿を再現するのが目的だった。でも、それと同時に、複雑な水運網に支えられた江戸の経済システムを、絵で視覚化することも意識してたっぽい。その証拠に、ウォーターフロントを描いた絵が多いし、埼玉の川口とか、千葉の浦安とか、江戸の外側の風景まで『名所江戸百景』に含まれてる。◇江戸の水運を描いた絵のなかで、わたしの目に留まったのは「中川口」の絵です。中川と小名木川の合流点が描かれてる。小名木川は、もともと家康がつくった運河であり、千葉の行徳塩田から旧利根川を経て、江戸までを繋いだ「塩の道」なのですね。そして、中川と小名木川の合流点には船番所があった。船の通行を取り締まる関所です。浮世絵の時間です!歌川広重「名所江戸百景」夏の部『61. 中川口』見どころ解説:水平の流れが中川、手前の流れが小名木川、奥への流れが新川3つの流れが集まる中川口と左下に船番所乗合舟の航路だけでなく輸送路としても栄え多くの舟が行きかった#美術 #芸術 #歌川広重 #日本 #教養 pic.twitter.com/ECYwB93zmW— - Arcadia Rose - 「 K 」☆書籍発売中 (@K48729436) January 29, 2020わたしがこれを見てピンと来たのは、去年のドラマ「何曜日に生まれたの」のこと。野島伸司がテレ朝で書いたナンウマ!飯豊まりえの演じる主人公は、習志野市から江東区に引っ越した設定でしたが、スカイツリーの見える「江東新橋」から、旧中川をすこし北上した西岸のマンションに住んでた。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202308200000/そこは、広重が描いた「中川船番所」のすぐ近くなのよね。◇あのドラマのなかに、東京の川や千葉の海がよく出てきたのは、広重が水運に注目した発想と似てる気がします。荒川から分岐する旧中川の「船番所」から、墨田川のほうへ直線で東西につなぐ運河が小名木川。旧中川を北上すると「江東新橋」がある。ナンウマの主人公は、習志野市谷津から江東区に引っ越した設定。スカイツリーのすぐ近くです。その中間にかつての行徳塩田がある…。
2024.07.18
時代劇「広重ぶるう」を見ました。製作はNHK&松竹。脚本は「くるり」の吉澤智子。主演夫婦が阿部サダヲ&優香で、版元の竹内孫八を演じたのは高嶋政伸。今年3月に放送した110分のBSドラマを、総合では全3回に分けたようです。◇長塚京三が、7年前の「眩」に続いて北斎を演じてました。あのときは、やや迫力に欠けたのだけど、今回はギラギラした北斎の狂気を感じさせていた。娘の応為(お栄)を演じたのは、あおいちゃんではなく、中島ひろ子。ちょっと下品な雰囲気が、より応為の実像に近かったかもしれません。◇葛飾北斎はクレイジーな天才だった。歌川国貞はビジネスに徹した美人画の職人だった。それに対して、歌川広重は平凡な良識人だった…という設定です。本来は火消を生業とする下級武士で、最初は副業として絵を描いてたらしい。年下の叔父に家督を譲ってから専業の絵師になった。凡庸な下級武士の男が、出来すぎた武家育ちの奥さんや、有能なプロデューサーとなる版元の力を借りて、名所絵の揃物「東海道五十三次」で成功を収める。…善良なおしどり夫婦の物語だから、松竹のホームドラマには最適な題材だったのね。ただ、松竹の芸風なのか知りませんが、カメラがいちいちズームを使うのがところどころ目障りでした。◇妻の加代はこう言います。主人は、大袈裟に女の人を描いたり、あり得ない姿勢の格好のよい役者を描くことができないんです…一方、版元の竹内孫八は次のように皮肉ります。甘くて馬鹿正直な、つまらねえ御亭主をもってお可哀想に。つましく暮らす、つまらぬお人ゆえ描ける絵もございましょう。絵を買う者も、つましく暮らす、つまらぬ民でございますれば。いうならば、広重の作品は、「凡人の凡人による凡人のための名所絵」ってこと。きわだった美女や役者のブロマイドじゃなく、平凡な市井の人々の平凡な姿を、美しい名所絵のなかに織り込んだわけですね。後世に「広重ブルー」と称賛される色彩も、広重自身の手腕というよりは、有能な刷り師職人の技にゆだねた結果のようでした。◇なお、北斎の「富嶽三十六景」も、広重の「東海道五十三次」も名所絵ですが、竹内孫八の話によれば、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が世に出てから、伊勢だ富士山だって神仏に手を合わせると言い訳つけりゃあ、誰でも旅に出られるようになった。…という背景があったらしい。関所の取り締まりが緩和されたのでしょうね。◇ところで、広重一家は、慎ましい暮らしを強いられていたとはいえ、いちおうは武士の身分なので、売れっ子の北斎父娘よりマシな家に住んでました。北斎父娘は、掘っ立て小屋みたいな汚い家に、たくさんの弟子たちと共同生活してましたね。まあ、北斎の場合は引っ越し魔だったので、たんに定住志向がなかっただけかもしれませんが。◇ちなみに、広重の未完の遺作「名所江戸百景」は、安政の大地震からの復興を祈念した作品だったっぽい。広重ぶるう [ 梶 よう子 ]価格:2,310円(税込、送料無料) (2024/7/8時点) 楽天で購入 くらべてわかる 北斎vs広重 [ 内藤正人 ]価格:1,980円(税込、送料無料) (2024/7/8時点) 楽天で購入 北斎と広重 冨嶽三十六景への挑戦 [ 小山周子、岩崎 茜[東京都江戸東京博物館] ]価格:2,750円(税込、送料無料) (2024/7/8時点) 楽天で購入
2024.07.07
NHKの日曜美術館「美を見つめ、美を届ける」を見ました。第1週は、辻惟雄『奇想の系譜』。第2週は、高階秀爾『名画を見る眼』。どちらも1960年代末~70年代初めに書かれた美術史の著作。◇辻惟雄は、伊藤若冲とアンリ・ルソーに《奇想》の共通性を見出してて、さらに華園力という精神科医は、若冲の絵を「自閉スペクトラム特性」の観点で語ってました。自閉症スペクトラムは細かいところに注目して全体を見ないっていう特徴があります。これを「細部への焦点化」というんですけども、全体を俯瞰するように総合的に見るんじゃなくて、細かいところだけに焦点を当てて集中するという見方をすることがあります。若冲も、やはりそういう特性を持っていたのではないか。たとえば「南天雄鶏図」というのがあります。主題は鶏でしょうけれど、背景の南天と同じ密度やエネルギーをもって強調されているので、背景と主題の差があまりないんですね。南天の実にしても一つ一つがかなり細かく描き分けられていて、中には実の一つが熟しすぎて、ちょっと黄色いところが出ている。そういうところまで描き分けてるんですね。そういう「細部への焦点化」というのがはっきりと見られます。もう1つは「反復繰り返し」と言いまして、驚異的な集中力をもって同じことを繰り返していく、というのも特徴なんですね。そういうのが若冲の作品の中に垣間見られるということが言えます。この説明を聞いて、若冲とルソーの秘密が分かったというより、「アストリッドとラファエル」の描写に合点がいきましたwなるほど自閉症スペクトラムって、そういうことなのね。伊藤若冲『動植綵絵 南天雄鶏図』江戸時代(18世紀) 皇居三の丸尚蔵館皇居三の丸尚蔵館にて「皇居三の丸尚蔵館 開館記念展 皇室のみやび―受け継ぐ美―」が開催されます。2023年11月3日(金・祝)~2024年6月23日(日) pic.twitter.com/QHfsc0539A— 美術ファン@世界の名画 (@bijutsufan) October 10, 2023華園力は、「伊藤若冲:創造性の地下水脈としての自閉スペクトラム特性」という論文を2019年に発表して、若冲の絵画表現に《特定の発達特性をもつ人との共通性》を指摘し、以降、《認知特性とアート表現の関わり》を研究してるとのこと。以下の論文もあるようです。アート表現に認められる自閉スペクトラム特性─創造性の源泉として─自閉スペクトラムがヴィジュアルアートの表現に及ぼす影響を、その行動表現型や認知表現型の特徴との関連から分析した。伊藤若冲を主とした自閉スペクトラム特性の強いアーティストたちの作品を取り上げ、そこにみられる特有の表現を、細部への焦点化、多重視点、表情認知の弱さ、反復繰り返しという4つの徴標から読み解き、背景にある認知特性や神経基盤について推考した。さらに、ヴィジュアルアートにおける創造性に自閉スペクトラム特性がどのように関与しているのかを考察した。https://arcmedium.co.jp/products/detail.php?product_id=2862◇一方、高階秀爾は次のように書いてます。絵画の歴史には、時に奇蹟としか言いようのない不思議が起こることがある。様式の発展とか時代の動きなどというものとはまったく無関係に、思いがけない傑作が、まるで別の星の世界から突然やってきたかのように、われわれの目の前に出現する場合がある。印象派以前と以後の様式の断絶は、エキゾチズムの影響(具体的にはパリ万博の影響)ですよね。同じことは音楽の印象派にもいえる。日本の北斎らが、西欧近代の影響を受けて遠近法を取り入れたのとは裏腹に、西欧の印象派の人たちは、遠近法を否定して、二次元表現の可能性を追求しはじめた。平面で三次元世界を再現する西欧絵画の伝統を放棄した。これは東欧やアジアやアフリカの影響ですよね。あくまで非西欧世界の絵画は、平面芸術=デザインの可能性を追求してきたわけだから。◇しかし、辻惟雄が言うところの「奇想」や、高階秀爾が言うところの「奇蹟」は、印象派が西欧美術の伝統を破ったこととは意味合いが違う。若冲やルソーの特徴は、むしろ異常なまでに微視的なリアリズムであって、アジアの伝統的な様式美をも、印象派の潮流をも逸脱するような偏執症的な過激さです。The Sleeping Gypsy https://t.co/mYjeLUSpDQ pic.twitter.com/LW9KIj8cIT— Henri Rousseau (@artrousseau) February 9, 2024 The Dream https://t.co/bRn83FNLo1 pic.twitter.com/Nq9LhTmoXi— Henri Rousseau (@artrousseau) April 10, 2024◇なお、第1週の対談では、曽我蕭白の「群仙図屏風」が取り上げられ、さらに画狂老人・北斎漫画の関連で、「狂(アナーキー)」と「漫」についても触れられたのだけど、そのテーマが第2週で掘り下げられなかったのは残念。重要文化財《群仙図屏風》1764年 文化庁蔵今日の蕭白研究はこの作品から始まったと言っても過言ではない!さらには、近世美術史のバイブル・辻惟雄著『奇想の系譜』の原点ともなった蕭白の代表作。何としてでもご覧ください!#蕭白#群仙図屏風#江戸絵画#奇想#愛知県美術館#前期展示 pic.twitter.com/O3JEWwzfbc— 曽我蕭白展 公式 (@shohaku2021) October 9, 2021
2024.06.10
NHK「歴史探偵」の北斎特集を見ました。これといって新しい情報はなかったけど、久保田一洋の話のあと、長野・小布施の「穀平味噌」に残っている、応為が小山岩治郎に宛てたという手紙が紹介されました。そこに描かれている手の指の形が、いかにも応為らしい特徴的なタッチでした。
2021.04.28
NHK「皇室が守り続けた“いのちの美”」を見ました。伊藤若冲と円山応挙のことが取り上げられていました。正月時代劇の「ライジング若冲」を見たとき、中川大志の演じた円山応挙は、ただ"語り部"として登場しているだけかと思ったけど、あらためて考えてみると、あれって応挙の物語として見ることもできますね。◇円山応挙は、農家の出でありながら、若くして狩野派に学び、やがては天皇の御所造営に食い込むまでになり、現在につづく「円山派」の基礎を築きました。 かなりの出世を果たした「やり手」です。しかし、彼の経歴のなかでいちばん重要なのは、狩野派に学んだ後、絵師のとして大成するまでの、独自の修行と幅広い交遊の期間なのですよね。まさに、あのドラマでは、その時期の応挙の姿を描いていました。彼は、狩野派の保守性に飽き足らず、当時の町人文化に交わって庶民的な画風を吸収し、その一方、西洋玩具屋に働いては、異国の近代文明にも接し、いわゆる「眼鏡絵」を作ったりしながら、遠近画法や写実画法にも取り組みました。京都に生きた応挙は、江戸の北斎より二回りほど年上ですが、やはり西洋近代の息吹を浴びていたと思います。応挙が売茶翁のオープンカフェに出入りしてたのも事実で、「蓬莱山図」「竹林七賢図」など道教っぽい作品も多いし、仙嶺だの、洛陽仙人だのと名乗ったりもしている。大典顕常が応挙の絵を誉めることもあったようです。ちなみに、若冲のパトロンは大典顕常でしたが、応挙には円満院祐常や三井家のような大パトロンがつきました。◇円山応挙や伊藤若冲は、それまでの伝統的な様式美が覆い隠していたものを、近代的な写実主義によって剥ぎ取ってしまったわけですが、応挙の場合は、若冲ほどには過激ではありません。若冲の写実性は、ある種のポルノグラフィに近いところがあります。世俗的な欲動と、近代的な力動にまかせて、ちょっとグロテスクなものまでが露わになっている。下品で、暴力的で、悪趣味。かりに狩野派が、能のわびさびであるならば、若冲の絵は、歌舞伎のどぎつさにも似ています。◇これに対して、円山応挙の場合は、伝統から革新までの技法に学んだ集大成的な様式によって、 パトロンの需要と、時代の要請に、わりと穏当なかたちで順応したのかなと思う。若冲が内的衝動の人だったとすれば、応挙はあくなき技法の探究者だった、ともいえます。ドラマでも、そのように描かれていました。名前を変えるたびに技法も変えていたのではないでしょうか。
2021.02.13
NHKの「ライジング若冲 天才かく覚醒せり」を見ました。2017年の「眩~北斎の娘」のときは、朝井まかての原作があったけれど、今回のドラマに原作はなく、源孝志の作・演出ってことです。空から舞い降りてくる「黒い雁」を、赤や緑のハート模様の「白い鳳凰」が受け入れる対幅に重ねて、若冲と大典とのBL風の物語を描き出す、という趣向でした。◇そのボーイズラブの真偽はともかく、売茶翁の営む茶店(オープンカフェ)が、若冲や大典だけでなく、円山応挙や池大雅らも集うような「芸術サロン」だった、という事実はかなり興味深いものだし、今後、国内外で、この上方の芸術サロンの存在に関心が高まって、江戸時代の芸術についての研究が、さらに進んでいくことになるかもしれませんよね。◇ただ、今回のドラマは、ボーイズラブ以外の部分については、さほど踏み込んだ歴史的解釈はしておらず、わりと無難に史実をまとめただけ、という感じもします。彼らの交流が、どんなふうに影響し合い、それぞれの人生や作品に何をもたらしたのか。その部分の突っ込みには、ちょっと甘さを感じました。とくに疑問を感じたのは、「仏」と「神」が混在していたことです。つまり、仏教と道教との関係が曖昧でした。◇大典は、みずからが禅の境地を得るために、若冲に対して「仏を描いてほしい」と懇願します。しかし、若冲が生き物の姿に見出したものは「神気」でした。これは同じものでしょうか?鳥や蛙、魚や虫には表情がないから、喜怒哀楽もない、と人間は勝手に思ってる。しかし生き物である以上、欲も愛もある。それを外界に「気」として放ってる。この発想は、あきらかに道教的です。いわゆる神仙思想、あるいは老荘思想です。そもそも「若冲」の名の由来にもなった"大盈は冲しきが若きも 其の用は窮まらず"というのも、老子の言葉でした。◇このドラマは、禅僧である大典との関係を軸にしながら、最後に「釈迦三尊」を中心に据えた「動植綵絵」を、相国寺に寄進するところまでを描いています。その結果、おもに仏教(禅)とのかかわりが、クローズアップされているようにも見えます。しかし、若冲の絵の本質は、仏教ではなく、むしろ道教のほうに近い気がします。ちなみに「動植綵絵」は、明治の廃仏毀釈のときに皇室へ移り、寺には「釈迦三尊図」だけが残ったようですが、そもそも「釈迦三尊図」というのは、若冲の大作を寺に置くための建前として、「動植綵絵」に添えられただけのものにすぎない、という気がしないでもありません。作品のメインは、じつは「釈迦三尊図」ではなく、あくまで「動植綵絵」のほうではないでしょうか?そして、それは、仏教的な「理知」の世界ではなく、道教的な「生命」の世界だと思うのです。◇売茶翁は、それこそ道教の仙人みたいな恰好をしていましたが、まさに彼の煎茶こそが、老荘思想の精神を如実に示していましたし、それは同時に、茶の湯(=禅)に対する批判でもありました。売茶翁は、若冲の「動植綵絵」を目にしたとき、「あんたの絵の腕はもはや神の領域や」と言いました。しかし、同時に、「こういう絵は仏のためにこそ描かれるべきや」とも言いました。ここでも「神」と「仏」が混在しています。これらは同じことなのでしょうか?それとも、彼らは神仏の融合を目指していたのでしょうか?
2021.01.06
2年前にNHKが放送した「眩(くらら)~北斎の娘~」について、当時はわたしも熱狂的にいろいろとフォローしたし、結果的に、国内外で高い評価を得て、葛飾応為という絵師の再評価に一役買ったけれど、一部には、あのドラマに対して、「ちょっと物足りない」という厳しめの評価もあったようです。じつをいうと、わたし自身、そう感じていた面がなくはない。それは、長塚京三の配役についてです。病床から立ち直ってなお絵を描きつづけようとする北斎の、異様なまでの「業」というか「執念」のようなものを表現するには、長塚京三という役者は、ちょっと品がよすぎるというか、格好よくてスマートすぎる気がした。あのドラマには、医者の役で麿赤兒が出演していたのですが、もしも麿赤兒が北斎役を演じていたら、もっとドロドロとした絵師の凄みを表現できただろうと思います。あるいは、長塚京三よりも、息子の長塚圭史のほうが、より北斎のイメージに近かったかもしれません。逆に、長塚京三を起用するならば、北斎役ではなく、ツンデレな馬琴役のほうがハマったかもしれない。あのドラマでは、野田秀樹が滝沢馬琴を演じていましたが、ちょっとキャラクターとして分かりにくかったのです。むしろ長塚京三のほうが、キャラクターが明解だった気がする。いずれにしても、これはキャスティングに起因する問題だったのですよね。◇話は変わりますが、あのドラマには、じつは編集でカットされていたシーンがありました。特集番組の中でチラッと映っていたのですが、善次郎(松田龍平)が絵を描いているシーンが、本編に出てこなかったのですね。おそらく、そのシーンでは、「お栄の才能に及ばない」と悟っていく善次郎の姿が、もうすこし詳細に描かれていたのだろうと思います。わたしは、そのシーンも含めた長尺のディレクターズカット版を見てみたいのですが、去年発売されたブルーレイでも、とくに再編集はされていないようです。
2019.08.11
二週連続で放送されたNHKの日曜美術館「シリーズ北斎」。1週目は、永田生慈氏の仕事と、六本木での「新・北斎展」を紹介。2週目は、滝沢馬琴と組んだ読本挿絵の世界を掘り下げていました。◇1週目で大きく取り上げられていたのは、最晩年の対幅「雨中虎図 & 雲龍図」と、同じく最晩年の大作「弘法大師修法図」なんだけど、どっちも応為っぽいよねえ(笑)。「向日葵図」も「西瓜図」に似て、やっぱり応為っぽい。こんどの宮本亜門の舞台「画狂人北斎」にも、いちおう応為(お栄)は登場するわけだけど、あえて応為の代筆の謎には触れなかったようです。しかし、やはり晩年の北斎の作品を語るときには、弟子の存在については触れるべきではないかと思います。晩年の作品に「北斎の生きざま」まで見てとったあげく、あとになって「やっぱり弟子の作品でした」なんてことになったら、赤っ恥だしねえ。そもそも脳出血で倒れた90近い老人に描ける絵か?って疑問は消えない。またぞろ欧米の研究の後追いにならないよう気をつけてほしいものです。◇今回のシリーズ企画で興味深かったのは、むしろ2週目の「読本挿絵」の回でした。「椿説弓張月」の存在が知れたことは、今回の大きな収穫!北斎が、滝沢馬琴のファンタジーをとおして画力を高めていったさまは、いわば現代のミュージシャンが、映画のサントラ制作をとおして音楽の幅を広げていくのに近い。そこには、北斎特有の「波頭」の表現が「龍の鈎爪」に姿を変えていく現場もある。それから、番組では「動的エネルギーの具現化」と言われていたけれど、「波」や「雲」や「風」がフラクタルな円の表現に収斂する現場もある。その後の「北斎漫画」などの絵手本も、一見すると多様な画題に取り組んでいるようだけど、やはり、すべての事物を大小の円の組み合わせで描いてるし、むしろ多様な事物のなかに「共通の本質」を見出していたというほうが正しい。◇北斎は、あらゆる事物を「円」で描くのであって、けっして「直線」では描きません。たぶん、そこが応為との最大の違いだと思います。北斎が「直線」を用いるのは、あくまで背景として空間(奥行き)の表現をするときだけです。読本挿絵のなかでは、爆発的な閃光が放射状の直線で描かれていましたが、これも一種の空間的な表現(あるいは非日常性の強調)だといえます。ところが、応為の筆と疑われる作品では、しばしば事物そのものが「直線」で描かれてしまう。そして「直線」が前面に出ることによって、画面全体は、やや平板になってしまう。まさに「弘法大師修法図」なんかは、そういうふうに見えます。さらにいうならば、北斎の描く人物は、下半身に踏んばりと躍動があるけれど、応為の描く人物は、やや下半身が棒立ちのように見えるんですね。
2019.02.20
ひきつづき北斎関連の番組がいろいろと放送されてます。NHKの「北斎“宇宙”を描く」は、富嶽三十六景から小布施の上町祭屋台までの「波」を追究した内容。BS11の「北斎ミステリー」は、キャサリン・ゴヴィエ、久保田一洋、さらに小布施北斎館の安村敏信と目下、応為研究の最前線にいる3人が登場して、現時点での最新の成果を報告するといった内容でした。◇キャサリン・ゴヴィエは「雪中虎図」を応為の作と考えているらしい。北斎には「雪中虎図」「雨中虎図」「月見虎図」の3つの虎図があって、一見したところ、「月見虎図」のみ画風が違っています。わたしは、このうち「雪中虎図」「雨中虎図」が応為の作じゃないかと思っています。「雪中虎図」を見ると、虎の肢体に生き生きとした動きはあるものの、北斎に特有の、画面全体にみなぎるような躍動は感じない。構図としてはスタティックな印象です。虎の絵なのに、荒々しさや獰猛な野蛮さはなく、むしろピースフルな雰囲気を感じさせます。微笑むような柔らかな顔つき、そして、毛皮のモフモフとした温かさと優しさ、モダンで洒落た色使いには、西洋画法の影響や、女性的な感覚があるように思えてならない。この虎の毛皮の不思議な紋様には写実性がなく、ほとんどファンタスティックともいえる意匠で描かれていて、面白いことに「西瓜図」で描かれている西瓜の断面の模様にも似ています。現実から飛翔していくような、この虎の幻想的なモチーフはどこから生まれたのでしょうか。優雅に宙を泳いでいる虎は、ある意味で龍の化身のようにも見えます。◇北斎が描く「波」の、まるで龍の鈎爪を連ねたようなフォルムも、やはり、たんなる写実によっては描くことのできないものです。NHKの番組で語られていたとおり、さながら高速カメラでとらえたような、あるいは微細なフラクタル構造を解析したかのような、写実を超えた真実。それは、表現を突き詰めた結果として、必然的に生まれてくるフォルムなのかもしれません。◇さて、久保田一洋は「富士越龍図」が応為の作との自説を唱えています。全体の構図が「夜桜美人図」に重なる、というのがその理由です。しかし、わたし自身はといえば、これはさすがに北斎の筆だろうと思っています。無駄のない見事な構図でありながら、画面全体がひとつの動きを作り出している。これは、いかにも北斎らしい絵の躍動だと思います。天へ昇っていく龍を描く線にも、ひとつも迷いがない。「夜桜美人図」のほうは、たしかに画面の構成は「富士越龍図」に似ているけれど、全体としてはスタティックな印象を与える。同じことは、岩松院本堂の「八方睨み鳳凰図」にもいえる。これは高井鴻山の筆ではないかとも考えられています。東町祭屋台の「鳳凰図」に構成は似ているけれど、画面全体の印象がスタティックで、まったく動きをもっていない。◇本来の北斎の筆なら、画面全体が迷いなく一つの動きを見せてくるような躍動があります。その極みと思えるのが、上町祭屋台の「男浪/女浪図」です。前へ押し出てくるような男浪。奥へと引きずり込むような女浪。NHKの番組で述べられていたように、これは「宇宙」を具現化したものであり、その宇宙の全体が、迷いなく、ひとつの動きをもっています。◇この「男浪/女浪」の縁絵には、さまざまな動植物が描かれています。地球上の森羅万象が「男浪/女浪」の宇宙を取り囲んでいる。博物学的な関心をもって、細密な輪郭と色彩で描かれています。こちらは、おそらく応為の筆だろうと考えられています。「男浪/女浪」は、いわば北斎父娘の合作による究極の傑作。このような抽象的な画題を天井に施すという発想には、キリスト教のステンドグラスや、仏教の曼陀羅にも通じるような、ある種の哲学、思想性と宗教性を感じずにはいられません。◇最後に、葛飾応為の画風のことを、あらためて検討してみたいと思います。久保田一洋は、その著書の中で、女性の「手指」や「ほつれ髪」の表現のほかに、「直線」の表現が応為の特徴であると繰り返し述べています。北斎自身も、西洋の遠近画法に取り組んだ際には「直線」を多用したはずですが、それはあくまで一つの立体構造を浮かび上がらせるためであって、たんに被写体の直線的な形状を機械的に写実するためではありません。しかし、その後の「北斎作」とされた絵の中には、画面全体の躍動をかえって阻害するかのような、まるで定規で引いたかのような「直線」の表現が見られます。これは、たしかに、あまり北斎らしいとは思えません。かたや娘の応為の場合には、むしろスタティックな「直線」の描写によってこそ、彼女らしい見事な表現の高みへ結実したという面があります。いうまでもなく、それは「吉原格子先図」のことです。そこでは、光の放射や、陰影の対比を表現するために、精密に組み立てられた格子の「直線」が積極的に用いられています。直線的でスタティックな構図の中でこそ、光の動きが躍動する。光の本質が、直線の遮断によってこそ捕らえられる。まさに応為は、究極の光の表現を「直線」によって獲得したといえます。◇わたしが考える応為の画風とは以下のようなものです。・スタティックな画面構成。・定規で引いたような直線の表現。・端正で細密な輪郭。・西洋的でモダンな色彩。・抑制されたエロス。・華奢な立ち姿。・鮮烈な陰影。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.12.15
杉浦日向子の漫画において、お栄は父のことを「テツゾー」と呼び捨てていますが、朝井まかての小説では「親父どの」と呼んでいます。ここでの「親父」というのは、”父”の意味ではなく、いわば”親方”というような意味です。お栄が幼いころ、北斎工房に出入りしていた弟子たちは、親方である北斎のことを「親父どの」と呼んでいました。幼い日のお栄もまた、彼らと同じ視点から、北斎のことを「お父っつぁん」ではなく「親父どの」と呼ぶようになった。つまり、幼いころに、みずから絵筆を握ることを要求したお栄は、すでに北斎のことも「絵師」として見ていた、というわけです。そのときから、お栄の中には、絵師である北斎に対する尊敬と、彼の娘であることへの誇りが生まれ、同時に、絵師としての理想に届かない自身の苦悩にも脅かされるようになる。これが、朝井まかてが仕立てた、お栄の人物造形です。◇杉浦日向子の漫画は、「江戸」という世界を描くことには成功していますが、北斎や応為の描いた絵の世界を、漫画という手法で再現することは目的としていません。かりにそれを目指した面があったとしても、杉浦は、みずからの漫画家としての技量に不安をもっていたようだし、実際、それに成功しているとは言いがたい。そもそも、杉浦にかぎらず、北斎の絵がもっている傑出した躍動感を、漫画や映像という手法で再現するのは至難の業であり、ほとんど不可能に近いといっても間違いじゃないと思います。しかしながら、朝井まかての作品では、小説という手法によって、すくなくとも、娘・応為の浮世絵の世界に迫ろうとはしています。さらに、それを原作としたNHKのドラマは、応為の絵の色彩と陰影の世界を、見事な映像表現によって再現しえていると思います。◇別の面からみると、杉浦日向子と、朝井まかてのあいだには、浮世絵そのものに対する考え方の違いもあったかもしれません。おそらく、杉浦日向子は、浮世絵というものを、文字どおり、浮世の「商売」と見なしており、それに対して、朝井まかては、浮世絵を限りなく「芸術」に近いものに見たてようとしている。たしかに、江戸時代の浮世絵というのは、あくまでも職人の生業にすぎないものであり、西洋的な意味での「芸術」ではなかったかもしれません。しかしながら、朝井まかては、幕末から近代に向かう時代を生きた葛飾応為の中に、日本における「芸術」という概念の萌芽を見ようとしたのではないでしょうか。そのことが、杉浦の漫画と、朝井の小説との、描こうとする世界の違いとなって表れたように思います。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.10.28
文芸評論家の加藤弘一は、杉浦日向子の「百日紅」について、お栄のおぼこぶりもひっかかるが、善次郎がまるっきりウブというのもげせねぇ。後の渓斎英泉、女郎屋までひらいた男だよ。だまかすなといいたいね。との批判を書いています。杉浦日向子の漫画において、お栄は、じゃりン子チエみたいに、父の北斎を「テツゾー」と呼び捨て、まるで現代の父娘のように対等に振舞っているのですが、そのような娘としての態度のなかにも、いわば女性性を拒んだままの「おぼこぶり」が見て取れるのかもしれません。事実、杉浦日向子は、お栄の絵に色気がなかったのは性的に未成熟だったため、と解釈していたようで、物語は、ある面で、お栄の女性としての成長譚になっています。◇杉浦日向子の作品において、お栄や善次郎が未成熟に描かれているのは、ある意味で当然です。なぜなら、彼らの年齢設定が若いからです。文化11年といえば、北斎がようやく「北斎漫画」を描き始めたばかりのころ。つまり、彼が独自の画風を確立するより前の時期であり、23才に設定されているお栄や善次郎にいたっては、人としても、絵師としても、まだまだ未熟だった時期です。おそらく、杉浦日向子の作品の目的は、彼らの画業を探求することでもなければ、北斎父娘の歴史的な実像に迫ることでもありませんでした。むしろ、杉浦の主眼は、絵師としての地位を確立する以前の彼らの姿をとおして、「江戸」という世界の諸相をファンタジックに描くことだったと思われます。一説によれば、昭和の現代を生きる女性としての杉浦自身の姿を、お栄にむけて投影することを意図していたのではないか、とも言われます。◇一方、朝井まかての小説は、お栄が南沢等明に嫁いだあとから話が始まります。つまり、お栄はすでに、物語の最初から、性的に成熟しています。それにもかかわらず、お栄の絵には「色気がない」と言われる。なぜなら、それは一貫して変わらないお栄の画風だからでしょう。実際、葛飾応為の絵には、ある時点から色気が生まれたというような形跡もないし、むしろ生涯にわたって色気とは無縁の絵師だったのであって、彼女自身の性的な成熟とは無関係に思えます。◇朝井まかての小説のはじまりは、北斎が「北斎漫画」によって独自の境地に達し、ついに「富嶽三十六景」を出版しようとする前夜の時期でもあります。その物語は、やがて「春夜美人図」や「三曲合奏図」を経て、葛飾応為が最後に到達する「吉原格子先之図」へと向かっていきます。北斎父娘の関係性も、彼らの画業の歴史も、そうした作品群をもとにして想像されています。もちろん、最新の研究成果も踏まえられているので、時代考証における説得力でも、朝井の小説のほうが上回っています。そこらへんが、朝井の小説と、杉浦の漫画との大きな違いです。◇朝井まかての小説と、それを原作としたNHKのドラマにおいて、非常に成功していたと思われる点があります。それは、葛飾応為の「絵」の世界を、言語や映像という方法で再現しえている、ということです。これについては次回に書きます。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.10.21
杉浦日向子の漫画「百日紅」を読んでみた。北斎父娘や渓斎英泉らを描いた作品としては、それ以前に上村一夫の「狂人関係」などもあったのだけれど、その後の諸作品にあたえた影響という意味でも、やはり杉浦漫画が土台になっている部分は大きいようです。杉浦漫画の印象が強いために、ここにこそ北斎父娘の実像が描かれていると、信じてしまう人もいるみたい。でも、幽霊がたくさん出てくるかどうかにかかわらず、杉浦日向子の漫画がさまざまな虚構性をはらんでいるのも事実です。◇朝井まかては、北斎と応為との関係は、杉浦日向子さんの『百日紅』でも読んではいましたが、いい具合に記憶が薄れていて、イメージに引っ張られることなく消化できていました。と述べています。わたしは、朝井が「眩(くらら)」を書くうえで、このことが功を奏したと思う。というのも、杉浦漫画については、その虚構性が、従来から色々と論じられていたからです。たとえば文芸評論家の加藤弘一による批判などがあります。加藤は、まず次のように書いています。文化十一年(1814)北斎五十五歳のころのはなしと巻頭にあるが、それならお栄は三十すぎの大年増のはず。一説によれば、後添えにいった先を出された三十五の出戻り。それが一回りもサバを読んで善次郎と同じ二十三とはおかしいや。この加藤の批判にならって、漫画評論家の永山薫も、杉浦漫画では「年齢設定が虚構」だと述べています。ただし、この批判自体は、ちょっと疑わしい。葛飾応為は、生没年がいまだ不祥なのですが、一説には「安政4年(1857年)に家を出て、67才で没した」といわれています。となると、生まれは1790年ごろで、渓斎英泉(1791-1848)とは、ほぼ同い年。おそらく杉浦日向子は、そのように理解して年齢設定をしたはずです。ところが、久保田一洋の『北斎娘・応為栄女集』を読むと、北斎が後妻(応為の母)を娶った時期に鑑みれば、応為の生まれは、1800年頃だろうとのこと。だとすれば、文化十一年(1814)時点での応為の年齢は、加藤のいう「三十すぎの大年増」どころか、13~14才の少女だったことになり、杉浦日向子の年齢設定は、むしろ逆の意味で「虚構」だったといえる。他方、朝井まかての小説では、応為の生まれを1797年ごろとしており、渓斎英泉は、応為より7歳年上の兄弟子と設定されています。おそらく史実に照らすなら、朝井まかての設定が、いちばん真実に近い。◇しかし、もっと重要なのは、加藤弘一のもうひとつの批判のほうです。お栄のおぼこぶりもひっかかるが、善次郎がまるっきりウブというのもげせねぇ。後の淫斎英泉、女郎屋までひらいた男だよ。だまかすなといいたいね。お栄が「おぼこ」で、善次郎が「まるっきりウブ」。これに対する加藤の批判は、それなりに妥当という気がします。しかし、それが杉浦漫画を特徴づけている部分と言ってもいいし、朝井まかてとの大きな相違も、そこにあります。なぜ、杉浦日向子は、お栄を「おぼこ」に、善次郎を「まるっきりウブ」に描いたのか。これについては、次回以降に書きたいと思います。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.10.16
昨日の続き。日テレが2010年に放送した、葛飾応為のドキュメンタリー番組を見ていて、はじめて知ったことは、他にもあります。◇ひとつは、灯篭の光に浮かび上がる「夜桜美人図」に描かれた、夜空のこと。上空の闇のなかに、ブルーやピンクの絵具で「点々」が散りばめられています。これは、明るさの等級ごとに描き分けた星の表現なのかもしれないし、あるいは、荒俣宏が言うように、灯篭の明かりを浴びた桜吹雪の表現なのかもしれない。もし星を描いてるのだとすれば、これは、かなり西洋的で斬新な表現だということです。たしかに日本の文学作品や絵画作品では、月を題材にすることはとても多いのに、星を題材にするというのは、かなり少ない。桜の花びらや雪の舞う情景は好きなのに、星々が散りばめられた夜空には関心が薄いように思う。昔の日本列島なら、さぞ夜空に満天の星々が輝いていたでしょうに、なぜ日本人は、星をあまり美的対象と感じなかったのか、考えてみると、ちょっと不思議です。沖縄の民謡「てぃんさぐぬ花」では、歌詞のなかに「天の群れ星」というのが出てくるけど、星を愛でるというのは、もしかして南国的な発想なのかなあ?ちなみに「夜桜美人図」に描かれた女性のモデルは、俳人の秋色女だそうです。◇一方、「三曲合奏図」という作品では、3人の女性が一堂に会して音楽を奏でていますが、現実には居合わせるはずのない身分違いの女性たちとのこと。久保田一洋の「北斎娘・応為栄女集」を読むと、こういう画題は、とくに応為だけに独自のものではないようですが、応為の描いたモダンな女性像を見ていると、女性たちがその身分から解放されることになる来るべき近代が、ひそかに予感されているようにも見えます。事実、北斎が亡くなって4年後、日本は開国し、近代化への道を進んでいきます。◇久保田一洋による「北斎娘・応為栄女集」は図書館から借りてきたんだけど、これを読んでいると、北斎と応為の画風の違いというものが、なんとなく分かってきます。応為の絵は、やはり筆の運びが端正で、女性の姿かたちなどは、とてもモダンで上品で垢ぬけている。鶴田一郎のグラフィックアートみたいに見えることもある。しかし、その一方、全体の構図の大胆さや、事物の躍動感には欠けます。踊っている女性でさえ棒立ちになっているような感じで、生き生きとした躍動感にはほど遠い感じ。静物画、あるいは静止画のようなんですね。構築的ではあるけど、生成的ではありません。そういう意味でも、応為の絵は、西洋画的なのかもしれない。他方、父の北斎の絵のほうは、あらゆるものが今にも動き出しそうで、88歳の最晩年に描き捨てた沢山の獅子図を見ても、その異様なまでの躍動感はまったく失われてない。そこが、応為と北斎の大きな違い。逆にいえば、絵を躍動させる父・北斎の才能というものが、世界的に見てもかなり異質なものだ、ということなんだけど。北斎作品とされているものの中には、かなり応為の仕事が混じっているらしいのですが、両者の筆の特徴を理解すると、なんとなく見分けがついてくるような気もします。◇追記。10月9日にNHKが放送した「北斎“宇宙”を描く」を見ていたら、北斎は、ぶんまわし(コンパス)を用いた大小の円を組み合わせることで、森羅万象の動的な構造をフラクタル的に表現していたのだと思いました。これに対して、娘の応為は、久保田一洋もくりかえし指摘しているように、まるで定規で引いたような直線を多用して、しばしば立体的な空間性を表現しようとしています。やはり、このあたりに、父と娘の特徴の違いがあるようです。※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.28
ドラマを見て以降、葛飾応為に関連するものを漁ってるんだけど、かなり面白かったのは、荒俣宏と高嶋礼子が応為の足跡を追ったドキュメンタリー。2010年に日テレの系列で放送された番組です。Youtubeでぜんぶ見ちゃいました。もともと北斎と応為については、いろいろと謎も多いらしいけど、この日テレの番組を見て、とくに興味を引いたのは、信州・小布施のことです。◇当時の幕府が天保の改革を断行し、文化・芸能に対する取り締まりを強めるようになると、北斎父娘は、江戸を逃れ、高井鴻山に招かれて信州の小布施へ赴きます。しかし、それは、たんに自由な創作に専念するというより、もうすこし別の側面もあったのかもしれない。◇時代は幕末の動乱にさしかかるころ。世の中は開国か攘夷かではげしく揺れていました。じつは、信州の小布施というのは、革新的な思想をもった知識人や文化人が、ひそかに活動する拠点だったというのです。北斎を小布施に招いた高井鴻山という豪商は、活文禅師という地元の文人に学び、佐久間象山や久坂玄瑞らとも交流していた人物。北斎父娘も、そうした時代の動きと無関係だったわけじゃない。もともと北斎は、長崎出身の西洋画家だった川原慶賀を通じて、シーボルトなどのオランダ人たちと接触し、ベロ藍(プルシアンブルー)などの輸入絵具を取り寄せては、積極的に西洋画に取り組んでいました。最初にベロ藍を使用したのは渓斎英泉(善次郎)ですが、最終的には、葛飾北斎の代表作である「神奈川沖浪裏」において、この青い絵具が使われることになります。このような海外との文化的・経済的な交流は、鎖国時代の日本にあっては非常に危険をともなうもので、事実、川原慶賀は、シーボルト事件のときに処分を受けています。葛飾北斎というのは、今でこそ「日本文化の代表」のように思われているけど、実際は、当時の日本の文化的伝統に批判的だった人で、流派の壁をぶち壊したあげく、最後には西洋画法を取り入れた。とりわけ娘のお栄は、西洋画からの影響を強く受けていて、遠近や陰影の技法だけじゃなく、西洋の動植物を絵のモチーフとして取り入れたり、あろうことか、禁教キリシタンの天使(エンゼル)まで描いたりしてる。小布施では、北斎父娘がお寺の天井画を施したのですが、それじたいキリシタン文化を模してるようにも思える。狩野博幸の「江戸絵画の不都合な真実」によれば、当時の幕府は、キリシタンどころか富士講の信仰も禁じていて、それにもかかわらず、北斎の「富嶽三十六景」というのは、富士講信者の需要を見込んで出版されたものだったようです。そのような北斎父娘だったわけですから、きっと自由な創作を阻害しようとする幕府の支配にさえ、批判的な視点をもっていたに違いありません。そのように考えてみると、彼らにとっての信州・小布施という場所が、やや政治的な意味合いをも帯びてくるように思えるのです。お栄は、北斎が没したあとも小布施の人々と交流を続け、その後、小布施へ行くと言ったまま消息を絶ったともいうのですが、それもまた謎めいた話です。追記:吉永仁郎の戯曲「夏の盛りの蝉のように」では、北斎と渡辺崋山の関係も描かれているようですが、実際のところ、両者に交流があったのかはよく分かりません。http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1573.html※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.27
今回のドラマ「眩くらら~北斎の娘~」を見るまで、お栄(葛飾応為)のことをまったく知らなかったのですが、ネットで調べてみたら、これまでにも、いろんな媒体で何度も取り上げられてるんですね。最初期のものとしては、三国連太郎と岡田茉莉子による1970年のMBSドラマがあります。脚本は「眠狂四郎」シリーズでも知られる直木賞作家の星川清司。第25回芸術祭優秀賞と1972年のイタリア賞グランプリを受賞してる。その後、さまざまな戯曲や漫画や小説などの題材になってます。◇2007年の美術展あたりをきっかけに、西洋画法が北斎作品に与えた影響が指摘されるようになり、そのなかで娘・応為の役割がいっそう注目されることになったようです。今回のドラマも、こうした経緯を意識して作られているものと思いますし、カンヌでの上映というのも、近年の北斎研究の展開をふまえてのことだと思います。◇ドラマを見ていて疑問だったのが、お栄と善次郎(渓斎英泉)の恋愛というのが、はたしてフィクションなのか史実なのかという点だったんだけど、この2人の関係に軸を置くという物語の作法は、おそらく杉浦日向子の「百日紅」あたりから始まったのではないでしょうか。◇ちなみに、お栄の役は、これまで田中裕子、吉田羊、杏なども演じています。今回、宮崎あおいちゃんは、お栄を演じるにあたって、北斎やお栄の作品を鑑賞しにロンドンを訪ねていましたが、2年前にアニメ作品でお栄の声を演じた杏ちゃんも、もともと浮世絵が好きだったこともあり、けっこう熱心に葛飾応為のことを勉強してたみたいです。ちなみに、杏ちゃんの解説を聞いて、お栄がみずからの画号にした「応為」の由来というのは、父・北斎の「おーい」という呼びかけに「応える為」なんだな、と理解できました。◇以下は、応為を扱ったおもな作品と関連事項についての年表。1966美術本「艶本研究 お栄と英泉」林美一(林美一 江戸艶本集成「溪齋英泉・葛飾応為」)1970MBSドラマ「わが父北斎」星川清司(北斎:三国連太郎、阿栄:岡田茉莉子)1973戯曲「北斎漫画」矢代静一1977漫画「狂人関係」上村一夫1981映画「北斎漫画」新藤兼人(北斎:緒形拳、お栄:田中裕子)1983漫画「百日紅さるすべり」杉浦日向子1984小説「応為坦坦録」山本昌代1986漫画「北斎の娘お栄 奇女が奔放に描く心の世界 一筆描きの恋」いくざわのぶこ1990戯曲「夏の盛りの蝉のように」吉永仁郎1998米LIFE誌の企画「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に唯一の日本人として北斎が選出。2001小説「北斎の娘」塩川治子2007美術展「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」江戸東京博物館2010日本テレビ系「おんな北斎 天才浮世絵師は二人いた!」荒俣宏/高嶋礼子(北斎:荒俣宏、お栄:吉田羊)2012漫画「お栄と鉄蔵 応為・北斎大江戸草子」トミイ大塚2013ユネスコの世界遺産に「富士山 - 信仰の対象と芸術の源泉」が登録。2014小説「ゴーストブラッシュ(北斎と応為)」キャサリン・ゴヴィエ2015アニメ映画「百日紅さるすべり」原恵一(お栄:杏、北斎:松重豊、善次郎:濱田岳)2015美術解説本「北斎娘・応為栄女集」久保田一洋2016小説「眩くらら」朝井まかて2016テレビ東京系「美の巨人たち:北斎父娘特集」小林薫/蒼井優2016戯曲「燦々」長田育恵2017美術展「北斎-富士を超えて-」あべのハルカス美術館「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」上野国立西洋美術館「北斎 - 大波の彼方へ」ロンドン大英博物館2017漫画「北斎のむすめ。」松阪 2017小説「北斎まんだら」梶よう子小説「北斎夢枕草紙 娘お栄との最晩年」三日木人2017NHKドラマ「眩〜北斎の娘〜」(北斎:長塚京三、お栄:宮﨑あおい、善次郎:松田龍平)BS11「北斎ミステリー~幕末美術秘話 もう一人の北斎を追え~」(久保田一洋/キャサリン・ゴヴィエ/安村敏信/内田恭子)2019戯曲「画狂人 北斎」宮本亜門(北斎:升毅、お栄:黒谷友香、高井鴻山:玉城裕規)2019美術展「新・北斎展 HOKUSAI UPDATED」森アーツセンターギャラリー2020美術展「鴻山と北斎・応為―小布施に吹いた江戸の風―」髙井鴻山記念館2021映画「HOKUSAI」河原れん/橋本一(北斎:柳楽優弥/田中泯、お栄:河原れん)美術展「北斎―万物絵本大全図」大英博物館※現在、音楽惑星さんのサイトにお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。
2017.09.26
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