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心から祈り続けております。お心安く、幸あれと。
November 30, 2011
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「若冲」です。画像は二ヶ月程、現在四歳で、大袈裟に申しますと「反逆児」でしょうか。兎に角やんちゃで、暴れん坊です。特技はプロレス。仔猫の時分には気の良い先輩猫「甚五郎」と仲良く取っ組み合いをしていたのですが、長ずるに従って荒っぽさが徐々にエスカレート、挙句に甚五郎の首の毛を噛み切る様になり、「下克上」を避ける為、飼い主である先生によって現在は、引き離されて暮らしています。握り拳を差し出すと、頭を擦り付け、愛嬌もあり、可愛いのですが、同じ粗相を繰り返すなど、甚五郎、栖鳳の様にお行儀が良いとは言えません。鳴き声は低くしわがれており、先生曰く「ウシガエルの様だね」との事。特に夕方、ゲージの中で、お腹が空いたのか、大声で鳴き喚きますので、近所である、大磯の蓮池の辺に立っているような気分になり、作業の集中の妨げになると云いますか、余りの声の響きの悪さに、筆を持ちながらつい吹き出してしまいます(苦笑)。
November 22, 2011
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「栖鳳」です。去勢手術の後、太りまして、特に下半身が大きいのです。腹這いになるとまるでツチノコ・・。甚五郎と違い、偉そうと言いますか、物怖じせず、お客さんが来てもにゃあにゃあ鳴いて、ゲージから出ることを要求し、お目通りの後、気に入らないと威嚇します。威風堂々、怖いもの無しの大先生です。特技は、「お入り」と言うと、こちらを見ながらさも忙しげに、絨毯の爪とぎで爪を研ぐこと。当然その手には乗りませんけれど(苦笑)。悪癖は、煙草好き(?)なこと。うっかりテーブルの上に灰皿を放置していると、いつの間にか床で転がして遊んでいます。今や灰皿は、全部蓋付きに。でも、香合や香炉(和室で灰皿にしています)位の蓋ですと、上手にずらして、煙草を確保。目が離せません(煙草好きは、画家の先生だから?)。仔猫時代に、床の間に飾っていた鍋島の皿を割り、「栴檀は双葉より芳し」なのか中々の目利きで、マリを泣かせました(涙)。後に家族間で「鍋島猫騒動」と呼ばれています(笑)。別名は勿論「先生」です。
November 19, 2011
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「春叢」です。川原で保護して三日ほど。この頃は歩き回るなど、元気でした。獣医師と先生の助力もあり、助かると信じていました。でも、少しでも離れれば、着いて来るなど、片時も離れず、今思いますと、やはり具合が悪かったのでしょう。自力で食事が取れないので、スポイトでミルクを流し込んだり、丸めた仔猫用の餌を少しづつ、与えていましたが・・。残念ながら、この様な小さな写真しかありません。先生が描いて下さった「春叢」です。カメラが古いのか、腕が悪いのか(汗)、写りが不鮮明ですが、覆面模様は少し非対称で、でも可愛い顔をしていました。
November 18, 2011
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「甚五郎」です。引き取って一ヶ月程。恐らく月齢二ヶ月。現在七歳と半年です。特技は水遊びで、水道の水を前足で触ろうとします。苦手なのは香箱。足が太く短めな所為か、組んでも直ぐに弾かれた様に飛び出します(笑)。おっとりとして余り鳴かないと言うか、鳴くのも苦手の様です。室内飼いの為なのか、人見知りが酷く、先生とマリにしか懐いていません。でも、甘えるのが苦手らしく、抱っこが嫌いで、用事があるときは、前足でとんとんと叩きます。脱走の名人。別名「殿」。
November 17, 2011
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ある友人がおりました。ネットで知り合った方で、直接お目に掛かったのは三度程です。重大な、生命に係わる問題を抱えていらっしゃるのに、その方の目は澄んでいて、言葉は明るく、思惟深く、力強かった。メールでのやり取りは、夜毎、機会を得るごと、思い出す限り、決して浅からずと今も認識致しております。けれど、私が個人的な事情で惑乱して、塞ぎこんで居る間に、この世から旅立ってしまわれました。それを知ったのは数ヶ月後で、思い出すのが辛い程、後悔どころか、自責の念に苛まれ、その方がお仕事ととして係わっていらっしゃった、企業のコマーシャルをテレビで見る度暗く沈み、その所以をご存知の、私の先生は、何も仰いませんでした。今も何も申せません、何も語る権利は私は持っておりません。でも、その大切な友人から受けた印象や言葉、表情は、今も脳裏に焼きついております。この数年は、思い出さない日を数える事が難しい位でした。でも、今は、お知り合いになれて良かったのですよねと、やっと申し上げることが出来る様になったのでは、と思っております。お葬式にも伺えず、亡くなられた事も知らず、それでもその方でしたら、許して下さるのではと、思いたいのかもしれません。でも、彼だったら・・。許して下さるでしょうか?図々しい様で申し上げにくいのですが、ずっとお友達でいて下さいね。忘れ得ぬ、大切な友へ。覚書として。
November 14, 2011
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日本画の先生に引き取られた、黒と白の尾長の仔猫は、先生に拠って「若冲」と名付けられました。でも、どうしてこれ程黒白の雄ばかり集まるのでしょう。初代である「甚五郎」から始まり、夭折した「春叢」、「栖鳳」「若冲」と、模様と色の配分の違いはあれ、皆判で押した様で、確かに先生もマリも被毛のコントラストの美しさと、賢いと聞く黒白の猫は元々好きでしたが、ボランティアさんから意図的に引き取った「栖鳳」でさえ、当初の予定の猫(顔は春叢に似ていましたが、灰色がかった虎と白の斑猫でした)と違い、縁があると言わざるを得ません。猫は求めるのでは無く、出会う存在である事を、あれ程飼いたかった時代を踏まえ、マリは確信致します。さて、黒白組の新顔「若冲」は、先生の大好きな江戸時代の画家、「伊東若冲」の名前に由来しますが、先輩達との大きな違いは、顔の模様は八分けでも、覆面でもなく、非対称な、片側だけ黒い眼帯猫で、音からして、若冲という名は片目のジャック(ブラックジャック?)を連想させ、相応しい名の様です。その上、未だに去勢手術を施してない所為か、すらりとして体付きは恰好良いのですが、もう四年も経ちますのに、相変わらずやんちゃで落ち着き無く、粗相ばかりして、どうやら余り賢くありません。先生は猫達を可愛がっておいでですが、甘い訳でなくきちんと「躾」もされていて、悪戯など言うことを聞かない場合は、「母猫」の様に首の後ろをきゅっと?んで、お仕置きをされますが、恭順を示す甚五郎と違い、?むなどの反抗を試みる若冲には多少梃子摺っておられる様で、「臆病なんだろうね」と性格の違いに苦笑されていらっしゃいました。マリも、健康に育ちさえすれば勿論容赦はありません。息子同様スパルタ式で、悪戯をした際は恐ろしい勢いで追い立て、ゲージに入るまでは決して手を緩めません。それを見た息子は、幼い頃を思い出したようで、震え上がっていましたが、ゲージは猫のセイフティゾーンですので、決して手出しは致しません。その所為か、「お入り」と言いますと素直に飛び込み、寝床で香箱を作って安心しております。マリの拾い子になって半年は、静かに寝入る姿に不安を感じ、つい寝息を確かめては、ほっとするという事を繰り返しておりましたが、病気は一度もせず(勿論室内飼いですので、怪我の心配は殆どありません)すくすくと、肥満では無いかと思う位、大きく丈夫に育ちまして、「親孝行」振りに感謝するばかりです。春叢を亡くした際、悲嘆に暮れ、もっと写真を撮っておいたらと嘆くマリの為に、先生は春叢の肖像画を描いて下さいました。最早冷たい骸となった可哀そうな猫の子の表情は、画伯の手に拠って繊細に描写され、正面を向いたその両目は、母であるマリを最期に見上げた時と同様開かれ、優しく笑っている様です。その肖像画は今も厨房の壁にあり、何時もマリを見ています。あの時、青みがかった両目を見詰めた時、錯覚でも妄想でもマリの耳には確かに「お母さん」という声が聞こえました。幼い頃、本当は孤独だったマリは一人きりの家の中で、母猫みいの「拾い子」となり愛情を注がれ、慰めを貰ったのでした。今は春叢の死という悲しい出来事を含め、縁有って次々と猫達の親となったマリに、「拾い子」達は綺麗な姿、可愛らしい仕草と済んだ瞳、信頼の証である寛いだ姿を示し、やはり愛と慰めを与えくれているのです。そう、あれ程の「猫嫌い」だった夫は、今やすっかり、栖鳳を可愛がるようになりまして、毎朝スリッカーブラシで、栖鳳の背中や腹を綺麗にしてくれる程の愛情の注ぎようで、立派に「父猫」の役割を果たしております。
November 11, 2011
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その「猫」は、三毛猫のみいの様に突然我が家にやって来ました。栖鳳が「拾い子」として、身近に馴染んでから、約一年後の事、息子が家に居ましたので、恐らく休日の午前中だったと思われます。マリが何時も通り庭の様子を見ようと玄関先に立って居た所、門扉の辺りで、息子の声が致しました。「母さん、猫、猫!」。何事かと玄関の扉を開けると、半分開いた門扉の直ぐ傍で小さな黒白の猫が、此方に向かわんばかりの姿勢で、身を揉んでおりました。この「椿荘」は幹線道路では無いにしても、車の交通量の多い、広めの道に面しておりますので、此の儘放っておきますと、車との接触の可能性もあり、咄嗟に息子に、猫を追い立てて、門扉を閉める様に命じましたが、息子が追い立てる必要もなく、汚れて痩せた仔猫が、マリの居る玄関のポーチに向かって突進して来まして、其の儘家の玄関のたたきでにゃあにゃあ鳴き始めました。余程お腹が空いていたのでしょう、様子を見ながら与える、ミルクや缶詰、ドライフードを、あっと言う間に平らげ、それでも物足りなさそうに落ち着き無く動き回り、兎に角捕まえて入浴させ、先輩である栖鳳にお目通りです。我が「栖鳳」先生は、「甚五郎」と同じく黒白の、牛柄の猫で、額は八分け、黒く縁取られた大きな目に、尻尾の少々曲がった、それでも中々の美猫で、連れて来た時こそ神妙で、餌の食べ方もはしたなく、野良猫であることを彷彿とさせておりました。でも体格は大きく立派に育ち、落ち着くに従って、命名の所為なのか、威風堂々辺りを払うと言った風で、「拾い子」の俤は微塵も無く、寧ろ妙な威圧感を帯びる様になりまして、今や隣の母家の黒芝犬「ジロ」にさえ、尻尾を足の間に入れさせる程「立派」に成りました。当然の如く、新入りに対して早速「しゃあしゃあ」と、誰何と服従を求めますが、風来坊の仔猫は意に介さず、「先生」の鎮座するゲージの周りを、興味深そうに長い尻尾を立てながらぐるぐる周り、先生の面目を潰した挙句、手が付けられない程激怒させ、騒ぎに気付きやって来た夫に、これ以上は無理、との強制退去命令まで受けてしまう事に。「大先生」と、「大王様」の決然とした拒絶に合い困り果て、マリはまたもや、お優しい日本画の先生に助けを請い、一先ず次の飼い主が見つかるまでの保護をお願い致しました。幾つかの里親話が有りながら結局全て反古になり、最終的には先生がまたもや拾い主と為って下さいまして、その際、困惑と言いましょうか、もはや諦めの表情を浮かべておいででした。只、何かの機会に、この「椿荘」の、美術骨董の話題になり、少々自慢げに、この家は住居と言うより、コレクションルームなのかもしれませんと申し上げましたら、その時空かさず「では、僕の家は君の『ペットルーム』だね」と笑いながら仰いまして、マリからはぐうの音も出ませんでした。
November 10, 2011
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マリは長じて結婚し、海外赴任を命ぜられ先にイギリスに渡った夫を、乳飲み子を抱えつつ追って渡英しその後五年の間、彼の地で家族と共に生活致しました。成長しつつある息子を眺め、自身の経験上、動物を身近に置いてやりたいと考え、夫と相談致しましたが、犬好きの上、大の猫嫌いの夫は、待ちに待ったマリの、猫を飼うと言う提案には勿論大反対で、「得体が知れない」とか「目が気持ち悪い」などと悪態を付かれまして、物別れに終わり結局何も飼わず、彼の地を後に致しました。その後は、インコや金魚などを飼育し、「猫」からかなり離れた存在との暮らしを送り、猫への偏重した思いを忘れておりましたが、或る時再び「猫」との邂逅を得たのです。帰国後、ある音楽系の社会人サークルを切っ掛けとし、生涯の師と仰ぐ日本画の先生と知遇を得る事になったのですが、共通の知人であるカフェ(専らバーでしたが)のマダムのお嬢さんがとある仔猫を保護し、その後の扱いに困っていた場に遭遇致しました。それが後の先生の「甚五郎」で、本当はマリが引き取りたかったのですが、それ迄の夫の反応を知悉していた身の上でしたので諦め、姿が可愛いだの、モチーフとして恰好だのと捲くし立てまして、躊躇する先生を説得し、終にその仔猫を引き取る決意に持ち込むことが出来たのでした。元々先生は大の猫好きで、可愛がっていたショートヘアを失った後は、他所の猫を構う位で落ち着いておいでだったのですが、マリの口車に乗り(?)いざ飼ってしまうと、やはり可愛い様で、結石による血尿が出れば、五キロ以上ある愛猫を抱えて獣医師の所に走り、部屋を滅茶苦茶にされても、一通り叱るだけで、傍で見ていても微笑ましい程の構い様で、マリもほっとと言いますか、ほくそ笑んでおりました。確かに器量が良く、勿論賢く、気品が有ると言っても言い過ぎでは無く、所謂「玉猫」と言うのでしょう、白黒の八分けで、全体的に白い被毛ですが、腰の辺りに「鞍掛け」と呼ばれる大きな斑があり、大人しく鷹揚で、先生とマリに拠って「殿」との異名が付けられました。飼い主である先生が、当然「お母さん」ですが、押し付けた手前、多少の咎のあるマリは、機会有る事に差し入れをしていた所為か、先生は甚五郎に「ほら、お父さんがご飯を持ってきたよ」と仰るのです。本来猫の雄は、子育てを致しませんけれど、その点について、マリは異存無く、共同責任の確認か、他愛のない皮肉と受け止め、「父猫」として頑張る事に致しました。ですが、それだけでは終わらず、無慈悲なマリは、もう一匹、先生に「拾い子」を要求したのでした。
November 7, 2011
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三毛猫の「みい」はその後凡そ三年間、マリ達家族と共におりました。二度ほど其々三匹づつ綺麗な子供達を生み、穏やかに暮らしていましたが、突然見舞われた事件によって、二度目の仔猫達と共に、マリから引き離されてしまいました。それは、父が家族を捨て、預貯金を全て抱えて、あろうことか女性と出奔してしまったという、信じ難い出来事で、残された母は呆然としながらも、次に起こるであろう災厄を考え、家屋を整理し家財を売り払い妹夫婦を頼って、茨城県の東海村に夜逃げ同然に引っ越す事にしたのでした。父母は日頃から諍いが絶えず、それでも父の、家族への愛情を疑った事は無かったマリも姉も、当然激しい衝撃を受けました。父は愉快で教養も有り、音楽好きの趣味人で、愛すべき人物でしたが、お坊ちゃん育ちの上、猫に丸ごとのローストチキンを与えるなど、突飛なところがありましたので、子供のマリは内心、仕方が無いと思っていた様で、父に関しては何処か諦めていた風があり、足手纏いの子供として、先に叔母夫婦の所に送られ、母と姉、そして「みい」と子供達を一心に待っておりました。でも、僅かな荷物と共に東海村に遣って来た、母と姉の傍らに「みい」も仔猫達もおらず、愕然とするマリの問いかけに、「捨ててきた」と答える母の言葉に耳を疑い、激しく詰りましたが、母の、涙ぐみ、悄然とした姿に次第に言葉は勢いを失いました。その失意と絶望は、今でも想像に難くなく、きっと飼い猫どころではなかったのでしょう、大事にしていた嫁入り道具の一つであった享保雛でさえ、家の袋戸棚に忘れて来てしまう程の狼狽振りでしたので、母を哀れむと同時に、もう一人の母とも言い得る「みい」の行方を思うと、胸が張り裂けそうになり、泣きながら今から探しに行くと騒いで、大人達を困らせたのですが、遠く離れた地では、探しに行きたくとも、子供の身の上では不可能で、涙に咽びながら、何処かで、再び「拾い子」となった「みい」とその子供達の幸運を、祈る事しか出来ませんでした。さて、その半年後、父はほぼ無一文で、東海村の草深い山の端の陋屋で暮らす、母や姉、マリの所に、野良猫の様に、しかし嬉々として帰って来ました。女性に裏切られたのか失望したのか、父は既に鬼籍に入っておりますので、今では確かめる由はありませんが、改悛の情を示し懇願する父を、泣き濡れて過ごしていた母は渋々、「拾い子」として受け入れる事となり、一家は再び都市部へと戻ることになりました。それから後、父は家族の信頼を取り戻す為か、より一層仕事に打ち込み、建築会社を立ち上げ、新しい家も構える様に為りまして、母の機嫌も幾らか直ったようで、スピッツ犬を新たに飼い始めました。マリは断然猫を飼いたかったのですが、母は無慈悲にも、「金目銀目だったら」とか「みいちゃんだったら」などと、はぐらかしたり無理難題を言って、聞く耳を持ちませんでした。父母の事情で、そうなったにも関わらず、身勝手な親を恨みましたが、内心父母は、優しく可愛らしかった「みい」の放棄が、心の罪、咎になっていたのでしょう、以来実家では決して猫を身近に置くことはありませんでした。
November 6, 2011
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マリと「猫」の縁は深からず浅からず、でした。父母は、元々動物好きで、物心付いた辺りから、文鳥や金魚、栗鼠、犬、猫など、身の回りに欠く事なくその存在は有り、ごく当たり前の様に接しておりましたので、夫々分け隔て無く好み、特に猫に偏るということは無く、寧ろ「猫」は少し怖い存在で、五歳頃、狩猟が趣味だった父に連れられて行った、狩猟仲間の住む田舎屋の庭先で、子鼠を玩ぶ茶色の猫に肌が粟立つ恐怖を覚え、少々苦手に為った程でした。或る晩、家族と共に夕食のテーブルを囲んでいた時、ベランダの窓を何かが擦る音が聞こえ、猫の鳴く声がし、母が不審に思って開けますと、一匹の三毛猫が飛び込んで来ました。迷い猫なのでしょう。首輪など無く、でも綺麗にしていて人懐こく、突然の来客に母が喜んで、鰹のフレークの饗応をし、それが気に入ったのかその後何度も訪れ、とうとう家の猫に成りました。その三毛は当然の如く雌で(雄は遺伝上、三毛にはいないと言われています)、歯並びから、見た目より年の往った猫で或ることが伺え、器量良しの上に、気立てが良く鷹揚で、母に言わせますと、「きっとお年寄りに飼われていたのでしょうね」とのこと。確かにお行儀も良く(悪戯も、粗相もしません)賢いので、すっかり家族の人気者になり、父も猫の為に、ローストチキンを買って来る始末でした。特に姉とマリは、「みいちゃん」と名付けられたその猫の虜で、どちらが優先的に遊ぶか争い、どちらが一緒に床に入るかじゃんけんで決め、負ければそれこそ泣き寝入りですが、みいはお利口でしたので、姉妹の一方が寝入ると、負けた側の布団の中にするりと入り、二人の熟睡を見届けた後、自分の寝床で安心した様に丸くなる姿を、母は見ていたそうです。当時、母は外出勝ちで、姉も学年がかなり離れておりましたので、小学校から一人で帰り留守番をすることが多く、その際、三毛猫は何時も一緒でした。マリが、家に近づきますと、決まって細く開けた二階の窓から、身軽な動作で飛び出し迎えに来て、その後は見回りにも行かず、お人形遊びや、お絵かきをするマリの傍に居て、家人が帰って来ると、やっと外に出て行くなど、まるで子守をしている様でした。何かの本で、飼い主と犬は主従関係で、猫は親子だと読んだことがありましたけれど、恐らく三毛猫は、特にマリを我が子と思っていたのでしょう。実際、?まれたり引っかかれたりすることは殆どありませんでしたし、珍しく「引っかかれた」と泣きながら訴えると、余程酷い事をしたのでしょうと、逆に母に叱られるのでした。マリにとって、それまでは少々怖い存在だった「猫」は優しい母親の様で、子供心に、思いも拠らない知恵を持ち、美しい被毛と昼夜で変わるビー玉の眼をした、最も好ましい、不思議な生き物と映るように為ったのです。
November 5, 2011
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マリは数年前、早朝の散歩時に、川岸の土手の草むらで、一匹の子供の猫を拾いました。左の目は完全に塞がれ、黒白の被毛は汚れて、何処か辛いのか、哀しそうな声で泣き続け、家に連れて帰ってミルクを遣っても余り飲まず、日に二度三度と獣医師の下に通いましたけれど、容態は好転しませんでした。それでもすっかり懐いてくれて、片時も離れようとしないので、家事をする際は始終肩の上に乗せ、夜は抱えて眠りました。が、一週間の後、閉じられた片目がパッチリと開き、薄青い綺麗な瞳を見せてくれた直後、亡くなりました。ウイルス性の肺炎でした。その時分を思い出しますと、今でも胸の奥が絞られる様で辛いのですけれど、正に喪失感に悩み、悲しみ、己を責め苦しんで、自分自身で狼狽する程で、その結果、次に起こした行動は、ボランティアで猫を保護している団体から、猫を引き取ることでした。当初は一匹でも助けたい、と云うよりは、失った猫の子供の俤を、ネット上で捜し求め、それは一種憑り付かれた様に、唯サイトを彷徨って居ただけなのですが、幾足りかのサイトを眺める内に、思い付いた事は、再び猫の子を手元に置こうということでした。夫は、本来は猫が大の苦手で、川岸で見つけた子猫でさえ、保護することに最初は反対でしたけれど、その猫を失いすっかり意気阻喪し、柄にも無くとんだ愁嘆場を見せつけ、見る影も無いマリを気遣かったのか呆れたのか、引き取ることを了承してくれたのでした。早速横浜のボランティアさんと連絡を取付け、翌日の内に連れて帰り、今足元のゲージでぐっすり眠っているのが、現在の愛猫「栖鳳」です。先の仔猫は、マリが大好きな名画「黒き猫」の作者である菱田春草先生に肖り、また、見出したのが正に春の草むらでしたので「春叢」と名付けましたが、春草先生の早逝が何かしらの縁を結んだのか、夭折してしまいましたので、今回は験を担ぐ意味も込めて(それ程、神経質に為っておりました)、京都画壇の重鎮で、名画「班猫」の作者である竹内栖鳳先生のお名前を戴くことと致しました。作品は勿論素晴らしく、春草先生同様、その作品は重要文化財であるのですが、何よりも重要だったのは、栖鳳先生が長命だったことにあったことは確かでした。
November 5, 2011
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文化の日の今日は、本当は日本画の先生の助手のお仕事だったのですが、生憎先生の体調がお悪く、急なお休みとなりました。元々余りお丈夫でなく、持病の腸捻転に加え、頚椎のヘルニア(日本画家の職業病だそうです)が分かりまして、この一年治療されていたのですが、病状は一進一退で、少し無理をされると直ぐに痛みが戻ってしまわれるのです。昨日は、現在製作中の「不動明王像(ブロンズ像に彩色を施しております)」の台座の岩の資料を集めるために、重いカメラ一式を背負って、茅ヶ崎の高砂緑地を、長時間歩き回りましたので、それが今回の体調を崩した原因かもしれません。とは申しましても、元々朗らかで、精神的にお強い方ですので、連絡を下さった時分のお声は明るく、「心配ないから」とのお言葉に、マリも取りあえず安心致しまして、折角の休日を無為には過ごしたくなく、これからの予定を考える事に。空模様は今一つ冴えませんが、お洗濯を済ませ遅い朝食の後に、息子が神田の古本市で見つけ、マリにくれた内田百間の著作「実説草平記(実は「間」及び「草」の字体は違います。楽天ブログでは、弾かれてしまいました)~昭和二十六年の初版本」に目を通します。久し振りに旧字に触れ、大脳皮質に鞭打ちながら(苦笑)、思い掛けなく、久し振りに目にした百鬼園先生の卓抜な文章と、壮健で執筆していたであろう当時の息吹を垣間見た様で嬉しく、読み耽っていた所に、夫の登場です。二年前の日記で「・・自宅で仕事をする様になりまして以来、食への関心が高まったのか、ここ二年程、毎朝自分の朝食は自ら作るようになりまして、マリは少しばかり楽になり・・」と書きましたけれど、マリが厳しい「お仕事」を辞め、家に居る時間が長くなりましたら、以前の習慣(我侭?)が戻りまして、朝食どころか、いつの間にかお昼間のお散歩のお弁当(果物入りのヨーグルトです)まで、作らされるようになりまして、すっかり元の木阿弥なのです。多少むっとしながらも読書は中断、昼食の用意を済ませ、再び読書に戻ろうと致しましたけれど、集中力は胡散霧消し、諦めてこの「椿荘」の庭へと出掛けます。十一月の陽気にしては暖かく、薄雲が懸かりながらも時折陽射しが樹木を照らし、穏やかな午後です。この日記の由来である、庭の椿達(種類だけでも二十種以上あります)も、蕾を膨らませ、来る時を待って枝のあちらこちらで慎ましく目を伏せ、まるで出待ちの俳優の様に微かな緊張感と高揚感さえ感じられます。一足先に花を開かせ始めた山茶花は、若い乙女達の群舞でしょうか。息子は、大学祭で今夜も遅く、今日のお夕飯は夫と二人なので、手を抜こうと思えば出来るのですが、以前あれ程楽しみだったバンド活動も現在は控え、「今の楽しみは、夕食だけ」と聊か情けない事を言う様になった夫の為に、歩いて往復一時間程の大手スーパーに向かいます。お散歩は、マリに取りまして欠かせない日課で、少なくとも毎日三十分以上は歩く様にしております。お夕飯の献立に必要なものを数点求め(ハンドキャリーなので、限りがあるのです)、見慣れた風景を眺めながら帰宅し、勿論一服。この「悪癖」は直りません(苦笑)。さて、今日のディナーのメニューはと申しますと、前菜は「蛸のマリネ、セビーチェ風(自家製ハバネロを使用)」「パスタのクアトロ・フォルマッジ」メインは「挽肉のピカタ巻き揚げ」です。無為には過ごしませんでしたけれど、折角の思い掛けないお休みは、やはり慌しく、何かをせずには居られない、相変わらずのマリでした。
November 3, 2011
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