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永井陽子(ながい・ようこ)ぽこぽこと真昼の木魚終日をやはらかなからたちの棘へ降る雨ここはアヴィニョンの橋にあらねど♩♩♩曇り日のした百合もて通る曇天にかつこかつこと鳴る羯鼓かつこたれにか逢はむたれにか逢はむ篠懸が纏ふすずかけいろの翳くぐりぬけチェロその他を運ぶ月の光を気管支に溜めねむりゐるただやはらかな楽器のやうに丈たかき斥候ものみのやうな貌かほをして fフォルテが杉に凭れてゐるぞ歌集『ふしぎな楽器』(昭和61年・1986)
2024年11月16日
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佐佐木定綱(ささき・さだつな)道端に捨てられている中華鍋日ごと場所替えある日消え去る自らのまわりに円を描くごと死んだ魚は机を濡らすYouTubeで知らないブルース聞きながら煮込めば歌う細切れの豚いったい告白以降の愛とはなんだよかすかな呼吸を聴いてる湖のようなベッドを抜け出せば君のもとまでさざ波が立ついつもより陽気な声を出すときはぼくはなんだかさみしくなる伸びきったまま戻らない電灯のひも思いきり引きちぎる夜おまえは生きているうち一度でも空を見たかと問う鶏肉にぼくの持つバケツに落ちた月を食いめだかの腹はふくらんでゆく歌集『月を食う』(令和元年・2019)
2024年11月15日
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佐佐木定綱(ささき・さだつな)ぼくの持つバケツに落ちた月を食いめだかの腹はふくらんでゆく歌集『月を食う』(令和元年・2019)* 現代短歌(とりわけ近年の作品)には著作権がありますので、安易には引用できません。ご承知置き願います。
2024年10月23日
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工藤吉生(くどう・よしお)十七の春に自分の一生に嫌気がさして二十年経つ歌集『世界で一番すばらしい俺』(令和2年・2020)
2024年10月22日
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小島ゆかり秋霊はひそと来てをり晨あしたひらく冷蔵庫の卵のかげに時かけて林檎一個を剥きをはり生きのたましひのあらはとなれり夕闇のショウペンハウエルそつと来て幼子のひかる膝を冒せりぶだう食はむ夜の深宇宙ふたり子の四つぶのまなこ瞬きまたたく夜のたたみ月明りして二人子はほのじろき舌見せ合ひ遊ぶ註ショウペンハウエル(ショーペンハウアー): 生は苦であるという仏教的厭世観・悲観主義を標榜したドイツの哲学者。特に近代日本の知識層には人気が高く、大きな影響力があった。ほぼ同時代の、学者として好敵手だったニーチェの、ポジティヴ一辺倒の生の哲学・超人思想としばしば対比される。
2024年10月19日
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斎藤史(さいとう・ふみ)人を瞬かすほどの歌無く秋の来て痩吾亦紅やせわれもこう それでも咲くかするすると夕闇くだり見て居れば他人の老はなめらかに来るとどこほる生のひととせ忘ぼうじたる古歌の下句の〈命ともがな〉婚姻色の魚うをらきほひてさかのぼる 物語のたのしきはそのあたりまで氷頭ひづ食はめば歯に砕けつつ溶けやらぬ 忘れず壮年死の男一匹銅あかがねの色を鎧よろひて蝉の殻あれど脆しもろし わが頼める平和
2024年10月19日
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永井祐(ながい・ゆう)月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたねパチンコ屋の上にある月 とおくとおく とおくとおくとおく海鳴り
2024年09月16日
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土岐善麿(とき・ぜんまろ)あなたは勝つものと思つてゐましたかと 老いたる妻のさびしげにいふ歌集『夏草』(昭和21年・1946)
2024年08月15日
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俵万智(たわら・まち)「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987)Because you told me"Yes, that tasted pretty good"July the Sixthshall be from this day forwardSalad Anniversary英訳 ジャック・スタム Jack Stamm【俵万智さん自註】 サラダがおいしかったというような、ささやかなことが記念日になる。それが恋というものだし、それを記念日として刻印してくれるものが、自分にとっての短歌だ。(角川「短歌」2009年7月号)註今では国語の教科書にも載っている現代短歌の記念碑的名歌。この一首によって、7月6日は、いわば「短歌記念日」にもなったと私は思う。きわめて技巧的に組み立てられた作品である。表向きの社交辞令的公式解題というべき上記の「自註」はそれなりに諒として、著書『短歌をよむ』(岩波新書)で自白しているところによると、手帳に書きとめた初稿は、「カレー味のからあげ君がおいしいと言った記念日六月七日」だったという。「サラダ」も「七月六日」も、影も形もなかった。そこから、「からあげ記念日」なども含め、文字として残っているだけで8パターンもの推敲案の苦闘を経て、発表された形になったという。日付の改稿についても、季節感に配慮しつつ、七夕の7月7日では恋の歌には即つきすぎとして斥けるなど、周到な創作過程であることが分かる。これほど苦心の彫琢ではないにしても、短歌実作者であれば、まず例外なく着想から推敲・脱稿に至るまで、呻吟しながらこれに近いようなことはけっこうやっている(そこがまた楽しからずや、ではある)ので、こちらの勝手な一方通行ながら、共感と惻隠の情を禁じえない。作者は口を噤んでいるが、おそらく実際には7月4日がアメリカ合衆国の(イギリス植民地からの)「独立記念日(インディペンデンス・デイ)」であることも踏まえているのだろう(筆者くまんパパ説)。この解釈が成り立つとすれば、作者が独立したのは、それまで庇護してくれた「両親」からだろうか。「これゆえに、人はその父母を離れて偶つまと契りを結び合う」という旧約聖書・創世記のアダムとエヴァ(イヴ)説話の結語エピローグが想起される。そうだとすると、この歌は若い女性が親元から離れて世の荒波に身を投じつつ、自由な生き方と恋愛の海に出帆する宣言であり、それとなく悲壮な覚悟さえ織り込まれていると読めそうだ。そんなこんなにもかかわらず、一見してそうした技巧を全く感じさせない軽やかで自然な表現にまで持っていった手際の妙。この一首を表題作とするデビュー歌集を引っ提げ登場した、作歌当時芳紀二十歳そこそこだったひとりの女の子のたくらみが、1300年の歴史を誇る短歌の可能性を大きく拓き、作者は短歌中興の祖(ネット的な表現でいえば「神」)となった歴史的傑作。・・・ ちなみに、自分のことはどうでもいいんだけど、ついでに書いちゃえば、私もこの歌集に影響され自作を始めた一人である。思春期の頃から詩や短歌・俳句は大好きで、かなりの詩歌を読んでいたが、非常に難しいものと感じていて、自分で詠んでみたい気も十分にあったが、とてもじゃないがハードルは高すぎると感じていた。が、この歌集に深く感動するとともに、「あ、こんな(一見)ゆるい口語体のライトな表現でもいいんだ」と啓蒙され、やがて自分でも作歌の真似ごとをしはじめ、仲のいい同級生の男女の親友たちにワープロでこしらえた粗末な「歌集」を贈って絶賛を得たのが、私の実作者としての出発点である。近ごろでは、謙遜抜きで言ってしまえば、ご覧の通りまずまずセミプロフェッショナル的な立ち位置にまで到達できているのかなと思う。・・・俵さんには、生涯足を向けて寝られない* 2014年7月6日の記事に加筆修正して再掲。
2024年07月06日
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真中朋久(まなか・ともひさ)ひとのはなし聞いてゐないとなじられて父と息子とひと括りなる子がこゑに読むをし聞けばかな多きわが恋歌の下書きなりきゑのころを見るたびに摘むをみなごの父なれば手にゑのころ五本あわただしく移る季節は窓のそとつながつたまますこし眠つた歌集『エウラキオン』(平成16年・2004)註2首目:字が読めるようになった幼子が、たどたどしい声で何か朗読しているのを何気なく聞いていたら、それは私が書きかけた、ほぼ仮名文字の恋歌の草稿だった。・・・うわわ恥ずかしい、おいおい ^^;ゑのころ:エノコログサ。通称「猫じゃらし」。をみなご:女の子。おなご。娘。
2024年06月19日
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小池光(こいけ・ひかる)廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり歌集『廃駅』(昭和57年・1982)
2024年06月16日
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紀野恵(きの・めぐみ)この度も除目沙汰じもくざた無くほころびてあさぎざくらは裏庭に生おふ註「除目(じもく)」は、もと公式の目録(記録文書)から除いたり登録したりすることで、平安時代の官僚の人事異動(昇進または音沙汰なし、場合によっては降格・左遷なども)をいう。毎年春秋の二回あった。僕が大好きな今年の大河ドラマ『光る君へ』でも、なかなか出世できなかった下級貴族・藤原為時(まひろ・紫式部の父)たちにまつわるワードとしてたびたび登場している。現代のサラリーマンにとっても、人事は切実な一大関心事である。浅葱桜は、一重の花弁に緑の萼(がく)が目立って、あまり美しくないといわれる桜の品種。
2024年06月16日
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遠山勝雄(とおやま・かつお)いつの日もとなりに同じ寝息ある幸ひ満ちていつまでふたり対岸に日傘を振れる妻見えてわれも手をふりペダル踏み込む妻とゆく手をとるほどの若さなく手をひくほどの老いにもあらず病む妻に茶を注ぐわれの手の少しぶれて笑み合ふ秋陽のなか添ひ遂げむ君と過ごしし春かぞふそれでももつと知りたき女ひとよ紅梅の色ます弥生わが孫の秘めたる恋も春雪のなかひとり行くこぶし満開の山の道忘れたきこと忘れるために晩秋の水霜あびし辛子菜を野うさぎとわれ朝あさ分け合ふ海神にわが村かくす防潮堤浦のすて船ひとつただよふ震災の海に育ちし岩牡蠣をひたすらむける陽のかぎるまで第一歌集『銀のちろり』(令和6年・2024)
2024年06月16日
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高瀬一誌(たかせ・かずし)広軌から狭軌にかわる昂奮が山形新幹線「つばさ」にはある歌集『火ダルマ』(平成14年・2002)註鉄道ファンなら、なるほどとニュアンスがよく分かる一首である。私も軽い「鉄ヲタ」だが、車両にはほとんど興味がなく、路線と軌道(レール)の構造などに特化した変態マニアである作者の表現意図とは違うだろうけれども勝手に敷衍すると、イギリス植民地規格であった(新橋-横浜以来の)日本のほとんどの在来線狭軌から、新幹線によってやっと広軌(世界的にはフツーの標準規格)になった。西洋に追いつき追い越せだったこの国の必死の近代化の道程の一つの象徴ともいえよう。今はその変化を楽しめるほどに、この国も先進国になった。・・・なんてことを思ったりする。
2024年06月15日
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永井祐(ながい・ゆう)君といて色んなテレビが面白い ゆっくり坂を上から下へ第一歌集『日本の中でたのしく暮らす』(平成24年・2012)君といると今まで興味がなかったテレビ番組さえ色づいて面白く見えるよ。君とふたりでゆっくり坂道を下って行こうか。註三十一文字(みそひともじ)の制約もあって、一読してなんか舌足らずな歌だと思っていたが、紙背を透かしてよく読めば、ほとんどプロポーズに近いぐらいの、それなりにたおやかな恋歌だった。一見、肩の力が抜けたナチュラル感が、作者らしい。
2024年06月15日
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原田彩加(はらだ・さいか)スプーンを水切りかごに投げる音ひびき続ける夜のファミレススカートがくらげみたいに膨らんで水の匂いの地下鉄が来る行列がなくなり水が腐っても撤去されない黄色いボート嫌わずにいてくれたことありがとう首都高速のきれいなループ透けながら眼前に立つ木蓮のいいえ謝る必要はないさりげなく花の記憶を分け合って路線図のごと別れていくか好きだったひとを忘れて新緑の世界ようやく胸に迫りぬ岡山発南風5号ふるさとの空の青さが近づいてくる雨粒の滴る森のやわらかく俯いているアカキツネガサ第一歌集『黄色いボート』(平成28年・2016)
2024年06月11日
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小島ゆかり(こじま・ゆかり)藍青らんじやうの天そらのふかみに昨夜よべ切りし爪の形の月浮かびをり第一歌集『水陽炎』(昭和62年・1987)註きのうの宵、ふと空を見たら、すごく綺麗な細い月が出ていた。この秀歌の的確すぎる表現を知ってからは、こういう月を見ると、切った爪にしか見えなくなっている。おそろしい。佳人である若い頃の作者が足の爪を切っているさまを妄想させて、なにげにエロい一首でもある。・・・あ、足とはどこにも書いてないか。すいません 「夕べ」ならぬ「昨夜よべ」なんて言葉はこの歌で初めて知ったが、確かに存在し、源氏物語に用例があるとかいう。
2024年06月09日
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梅内美華子(うめない・みかこ)ティーバッグのもめんの糸を引き上げてこそばゆくなるゆうぐれの耳乳房当たらぬように抜け来し雑踏の振り返りたれば秋のまたたきみつばちが君の肉体を飛ぶような半音階を上がるくちづけわが首に咬みつくように哭く君をおどろきながら幹になりゆく重ねたる体の間に生るる音 象が啼いたと君がつぶやく夜半の道君ひとりする物思い知らざれば照るわれは若月みかづき截るごとにキャベツ泣くゆえ太るときもいかに泣きしと思う夕ぐれスピンクスのわれが投げにし言葉の輪からんと君の首に落ちたり歌集『若月祭』(平成11年・1999)註女性ならではの鋭敏な身体感覚が横溢している、現代短歌の名作歌集。男の身体でも詠んで詠めないことはないかもしれないが、このように優美な感じにはならないだろう。截る:「きる」と読むのだろう。截断(せつだん)する。話は変わるが、伝統的で優雅ではあるが書くのも読むのも難しい旧(歴史的)仮名遣い(例・ゆふぐれ)を用いるか、分かりやすい新(現行)仮名遣い(例・ゆうぐれ)を選ぶかという、短歌実作者であれば必ず直面する、それなりに重大な岐路・選択・決断がある。そう遠くない昔(俵万智以前)は、一流の歌人は旧仮名というイメージも、確かにあった。個人的には、梅内さんが(格調高い文語体でありつつ)新仮名遣いを採っているのを見て、これが決め手になり、私も途中で旧仮名から新仮名に変更した覚えがある。今となってみると、新仮名にして良かったと思っている。読者に媚びるわけではないが、読んで分かりやすいということも大事だと思う。梅内さんは、いわば一種の師範であり、恩人である。
2024年06月09日
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香川ヒサ(かがわ・ひさ)神はしも人を創りき神をしも創りしといふ人を創りき人はしも神を創りき人をしも創りしといふ神を創りき太陽が昇りはじめてこの街のガラスしづかに透明となるどのやうに馬鹿なことでもすでにもう誰かが言つたり書いたりしてるどのやうに語つてみても納得をさせるためには沈黙が要る洪水の以前も以後も世界には未来がありぬいたしかたなくひとひらの雲が塔からはなれゆき世界がばらば らになり始むたとへもし世界が滅んでしまつてもそれも世界の出来事である一冊の未だ書かれざる本のためかくもあまたの書物はあめり歌集『ファブリカ』(平成8年・1996)
2024年06月08日
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俵万智(たわら・まち)いつもより一分早く駅に着く 一分君のこと考える第一歌集『サラダ記念日』(昭和62年・1987)
2024年06月07日
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竹内亮(たけうち・りょう)自転車の荷台に雀一羽立ち草の匂いがながれていったキッチンで知らない歌を口ずさみ君は螺旋のパスタを茹でるジーンズの裾に運ばれついてきたあの日の砂を床に落として線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く水色のジャージで歩く女子たちのみな丸顔になっている国川べりに止めた個人タクシーのサイドミラーに映る青空旧市街を何も話さず歩きたい足音のよい道を選んで海水の透明な水射すひかり大きな鳥が陸を離れる終電の一駅ごとに目を開けてまた眠りゆく黒髪静か第一歌集『タルト・タタンと炭酸水』(平成27年・2015)
2024年06月07日
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吉川宏志(よしかわ・ひろし)画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ第一歌集『青蟬』(平成7年・1995)
2024年06月07日
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横山未来子(よこやま・みきこ)ゆたかなる弾力もちて一塊の青葉は風を圧しかへしたり第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(平成10年・1998)
2024年06月07日
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井辻朱美(いつじ・あけみ)水球にただよう子エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった歌集『吟遊詩人』(平成3年・1991)註水球:ここでは地球のこと。スポーツ種目ではない。
2024年06月05日
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小島ゆかり風に飛ぶ帽子よここで待つことを伝へてよ杳とほき少女のわれになにかあやふき感覚は来ぬ岩かげを声なき蝶のもつれつつ飛ぶわが髪より生れしならずやなまぬるき風を起こして黒揚羽とぶ若宮年魚麻呂わかみやのあゆまろといふ人の名をおもへばたのし春の早雲はやくも蟬はみな小さき金の仏にてせんせんせんせん読経のこゑす炎昼のわあんゆうんと歪ゆがみつつ樹木は蟬の声に膨らむ午後のかぜ瀞とろにしづみて夏ふかしあなひそかわれに魚の影あるくれなゐは不穏なるいろ花にあり火にあり女のくちびるにありその髪の濡羽色なるをみなにて抱けばほのあかき喉見ゆシーア族難民ゆゑにパキスタン国境に来て棒で打たるる秋のショールに肩つつまれて何をどう言ふともわれは難民ならず会議室の窓にひろがる鰯雲 ギリシャ以前に多数決なしみづからが釣りたる魚を食む子らは眼しづかに骨まで食べぬ石川原、草川原あり 蜻蛉せいれいのにほひにみちて秋の陽は照る玉のごと白湯さゆやはらかし生くる身のもやもやふかい冬のあさあけ弾丸の速さに雲へ飛び込みし冬の鳥あり のちしろき風椿さく下土黒しこの朝は霜の神殿ひそやかに建つ今しがた落ちし椿を感じつつ落ちぬ椿のぢつと咲きをり走り来て赤信号で止まるとき時間だけ先に行つてしまへり歳晩の鍋を囲みて男らは雄弁なれど猫舌であるみかんひとつころがり落ちてゆふやみにとほいわたしの声が聞こえる歌集『憂春』(平成17年・2005)
2024年06月01日
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〇 千年以上親しまれてきた「短歌」が令和の今ブーム 俵万智さん「SNSと相性がいい」〔東海テレビ(名古屋) ニュースONE〕
2024年05月02日
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加藤千恵(かとう・ちえ)幸せにならなきゃだめだ 誰一人残すことなく省くことなくまっピンクのカバンを持って走ってる 楽しい方があたしの道だ ついてない びっくりするほどついてない ほんとにあるの? あたしにあした目の前の世界は鮮やかに変わるわずかに足を踏み出したならバレたっていいと思った嘘をついてまで会いたい人がいたからあの頃のあなたは今もここにいてわたしを動かし続けている歌集『ハッピーアイスクリーム』(平成13年・2001)
2024年05月02日
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小池光(こいけ・ひかる)フィレンツェの衰弱とともにこの地上去りし光を春といはむか歌集『廃駅』(昭和57年・1982)註いはむか:現代語「言おうか」に相当する古語的な言い回し。 サンドロ・ボッティチェッリ 春(プリマヴェーラ) 1482年頃イタリア・フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵* 画像クリックで拡大ポップアップ。
2024年04月03日
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前登志夫(まえ・としお)さくら咲くゆふべとなれりやまなみにをみなのあはれながくたなびくさくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへりふるくにのゆふべを匂ふ山桜わが殺あやめたるもののしづけさ歌集『青童子』(平成9年・2007)
2024年04月01日
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小池光歌集 サーベルと燕 全576首 こいけ・ひかる 現代短歌の巨匠 価格:3,300円(税込、送料別) (2024/3/22時点)楽天で購入はかなごとおもひてをれば秋晴れに今朝は秩父のやまなみは見ゆ京橋区と日本橋区と合はさりて味気なき名の中央区成りぬ中央区といふは東京駅のひがしより春のうららの隅田川までをいふいにしへの貴人のごとく白鷺一羽田植ゑをはりし田中をあゆむぬくもりはいまだのこりてなきがらの母の額にわれは手を当つ母が耕す鍬に小石のあたるおとかちりかちりと忘れざらめや明治より四代生きて生き尽くせし母よと思もへばかなしみはなし真言宗の父子おやこの僧がこゑあはせ経よむときの夏のすずしも泥棒に入はいられたることいちどもなく七十年過ぐ 泥棒よ来よありのままなる現実を歌によむことのむつかしわれは希ねがへど父の日にむすめがおくりくれたりし夏掛け布団の肌ざはりかなひとつづつたまごの中に鰐がゐて鰐のたまごといふはおそろし駅階段一段とばしに駆けあがり空に消えたり女子高生はヴァイオリンのケース背に負ひ乗りきたりにほへる少女をとめ春の電車にわが進む路はゆきあたりばつたりにしてときにイヌフグリの花などが咲く歌はおろか文学に縁なきふたりのむすめ父の日にパジャマ買つてくれたり歌つくるは魚釣るごとし虚空よりをどる一尾の鯉を釣り上ぐ雀宮すずめのみやに降りゐし雨は宇都宮に来しときあがる悲しきまでに宇都宮の宮の橋よりながめたる川の流れはおもひをさそふなにか一言いはないと済まぬ性格といふものありてわれは好まずカソリックより別れし東方教会にヨーロッパを憎むこころあらずや万葉集に「恋我」と書かれし古河こがのまちしづかに梅を咲かせてゐたり五十一年ぶりにすがたをあらはせる革共同清水丈夫八十三歳松林のなかにひともと辛夷の木しろく花つけ春は来向きむかふ日露の役えきたたかひたりし祖父おほちちが出征に携へしサーベルぞこれ開け放つ窓より二羽のつばくらめ家に入り来つ吉兆ならむ歌集『サーベルと燕』(令和4年・2022)
2024年03月23日
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佐藤りえ食べ終えたお皿持ち去られた後の泣きそうに広いテーブルを見て一人でも生きられるけどトーストにおそろしいほど塗るマーガリン青空の天辺にある美しい南京錠の鍵をください春の河なまあたたかき光満ち占いなんて当たらないよねヘッドホン外した時の静寂にどこか似ている恋の終わりは歌集『フラジャイル』(平成15年・2003)* 歌集タイトル「フラジャイル」は、宅配便・航空便などの表示でおなじみの「ワレモノ」のこと。脆いこわれものは、「心」を的確に言い当てた隠喩(メタファー)である。上掲5首は、若い作者の失恋をリリカル(抒情的)に歌って、ヴィヴィッドな(生き生きした)表現になっている。* 現代短歌には著作権がありますので、引用には限度があります。(この程度であれば大丈夫と思います。)
2024年03月17日
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岡野大嗣 サイレンと犀 Silent Sigh(新鋭短歌シリーズ 16)価格:1,870円(税込、送料無料) (2024/3/15時点) 楽天で購入 岡野大嗣(おかの・だいじ)ラッセンの絵の質感の夕焼けにイオンモールが同化してゆく骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日生年と没年結ぶハイフンは短い誰のものも等しく生きるべき命がそこにあることを示して浮かぶ夜光腕章マーガレットとマーガレットに似た白い花をあるだけ全部くださいぎりぎりの夕陽がとどく二段階右折待ちする僕の胸までかなしみを遠く離れて見つめたら意外といける光景だったそうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出てゆく瞬間がすきともだちはみんな雑巾ぼくだけが父の肌着で窓を拭いてる歌集『サイレンと犀』(平成26年・2014)* しいて言えば、「ただごと歌」(≒ 日常的なリアリズム)の系譜に連なっているのだろうが、おかしみを帯びた汲めども尽きぬ味わいの歌風の話術の妙は、天才的と言えるだろう。こういう感じは、やっぱり関西人持ち前のものなのかなとも、ちょっと思っている。・・・俵万智さまの次の次ぐらいに、ものすごく敬愛している。
2024年03月15日
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奥村晃作(おくむら・こうさく)不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす撮影の少女は乳をきつく締め布から乳の一部はみ出る一回のオシッコに甕一杯の水流す水洗便所恐ろし結局は傘は傘にて傘以上の傘はいまだに発明されず運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり歌集『鴇色の足』(昭和63年・1988)
2024年03月15日
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奥村晃作(おくむら・こうさく)最前線に出された者がわけもなく殺しあうのが戦争である結局は一人ぼっちのボクだから顔ぶら下げてそのままに行け歌集『ピシリと決まる』(平成13年・2001)
2024年03月08日
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山崎方代(やまざき・ほうだい)たんぽぽを掘りとってきて正月の小屋にこもりて眼をほそめいる机の上に風呂敷包みが置いてある 風呂敷包みに過ぎなかったよ母の名は山崎けさのと申します日の暮方の今日の思いよ戦争が終ったときに馬よりも劣っておると思い知りたりおもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり歌集『迦葉』(昭和60年・1985)
2024年02月28日
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高野公彦(たかの・きみひこ)早寝して子はみづからの歳月を生き始めをり夜の霞草歌集『天泣』(平成8年・1996)註うわ~、沁みる。巨匠・高野さんもこういう歌を詠んでいたのか。筆者の娘も、はや大学生。今年成人式を迎えた。万感あまりにも胸に迫りすぎ、このモチーフでは一首たりとも詠めていない。まもなく、というかすでにときどき、こういう夜が現われて来ている。遠からず巣立って行ってしまうのだろうか 娘が選んできた若者を認めてやる心の準備が、ぼちぼち必要だろうか。「おとうしゃん、おかし、とうもころし」なんて言ってた頃が懐かしい。・・・おっと、これは歌のネタに使えるか。
2024年02月28日
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永田和宏(ながた・かずひろ)歌の下手な歌人はいいが歌の読めぬ歌人は悪 と、言いて降壇歌集『日和』(平成21年・2009)註「(歌の)詠めぬ」ではなく「読めぬ」である。自分の短歌が下手な分には大した罪はなく、まあいいけれども、人さま(特に後進)の歌をちゃんと読めない、読まない、読もうともしない(で批評・批判する)のは悪だと言っている。なるほど、まことにごもっとも。言われてみれば、狭量な人にしばしばありがちな言動である。これは短歌以外のさまざまな事柄にも拡張・適用できそうな指摘だ。講演会で、実際にこういう趣旨のことを語ったという現代短歌の大御所による、ユーモラスではあるが、けっこう手厳しい「メッセージ・ソング」である。耳が痛い歌人も少なくないのではないか。
2024年02月28日
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横山未来子(よこやま・みきこ)ひとはかつてわが身めぐりを指さして全てのものを名づけたりけり第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(平成10年・1998)人は原始、自分の周辺のものを指さして、全てのものを名づけていったんだなあ。旧約聖書のアダムとエヴァ(イヴ)の神話、および現下の科学的認識をも踏まえた主知的な理屈の歌ともいえるが、その理屈のスケールが幽遠茫漠で、そこにまぎれもなく詩がある。俳句形式がほぼ完全に拒否・排除する「理」を、短歌はかなり許容する。その好例と言えよう。
2024年02月28日
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小池光(こいけ・ひかる)猫の毛のぼろぼろとなりしものぞ行き路地のおくにてカラオケきこゆそこに出てゐるごはんをたべよといふこゑすゆふべの闇のふかき奥よりむせかへるばかり赤子のにほふ抱き重巡摩耶へきみかへりけむ歌集『草の庭』(平成7年・1995)
2024年02月27日
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紀野恵(きの・めぐみ)晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな第一歌集『さやと戦げる玉の緒の』(昭和59年・1984)冬の終わりの東海道はほのかに薄明かりして海に寄り添っているのだろう。帰ろう。註作者の代表作で、現代短歌の傑作。女性版塚本邦雄ともいうべき難解晦渋な歌が多い(そこが魅力でもある)作者にしては、割と分かりやすい一首といえよう。かへらな:「新古典派」とまで称えられた作者の教養・歌風から見て、現代の関西弁の「帰らな(あかん)」ではないだろう。「な」は「~しよう」。活用語(この場合は動詞「帰る」)の未然形に接続して、話者の意志を示す上古語終助詞。万葉集に頻出する。おそらく、奈良時代当時の口語だったのだろう。平安時代以降は「む」に取って代わられた。 東海道 富士山付近 / 薩埵峠(静岡県清水市)付近ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大
2024年02月26日
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斎藤茂吉(さいとう・もきち)最上川逆白波さかしらなみのたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも昭和21年(1946)作歌集『白き山』(昭和24年・1949)
2024年02月24日
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穂村弘(ほむら・ひろし)体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
2024年02月06日
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産経歌壇 今年の6首伊藤一彦選車に乗り行く当てもなくハンドルを切りて走れば友の墓に着く大阪・堺市 鈴木武雄「アカシアの雨がやむとき」が包み込む棺の叔父と泣いてる叔母を大阪・羽曳野市 西村真千子秒速で届くLINEよりバイク音とコトリと音する郵便が好き静岡・下田市 倉内野梨子シュレッダーの紙屑すべて湘南の釜揚げシラスならばいいのに神奈川・横浜市 杉本ありさピンポーンが鳴って「わたし」という人が来た鍵を忘れたと妻が大阪・高槻市 東谷直司サイバーテロ警戒と政府「妻婆さいばあは確かに怖い」と父は言うなり群馬・前橋市 西村晃小島ゆかり選おテイさん吾を呼ぶ声がふと声が聞こえてきそうな長き秋の夜石川・中能登町 神前貞万緑に白髪を染めるやう妻は帽子を脱いで風を呼び込む兵庫・明石市 小田慶喜黄砂にて霞める瀬戸の島々はけものの眠るごとく静けし岡山・玉野市 古川一郎春来れば春に匂いのあることを思い出させてこの春はゆく奈良市 河野久恵寺うらに羽虫ながれて右ひだり風のかたちであってまたなくて東京・渋谷 朝倉修鉢植えの防寒用の新聞にプーチンの名のあるを除外す秋田市 小林純子産経新聞 12月28日付〔坂本野原 寸評〕近年は産経新聞しか読んでいないので、これだけご紹介しておく。選者のお二人は、いずれも歌壇の重鎮。とりわけ小島さんは、お嬢さんのなおさんも歌人として第一線で活躍しておられる。五七五七七という定型韻律を持った、たったの31音(三十一文字みそひともじ)で、おまけに1300年にも及ぶ分厚い歴史の中で発想の前例・類例がないか(パクりになってないか)にも注意する必要のある、短歌という唯一無二の詩形。考えてみれば、僕らはけっこうめんどくさいことをやってるわけだ。・・・興味がない人から見れば、ヲタクの変態趣味としか思えないであろう そんな中で、皆さん(多少字余り破調になったりしながらも)黒光りするような重厚・清冽な詩のきらめきや、くすりと笑わせる軽妙洒脱な機知の閃きで自ら楽しみ、読者を楽しませてくれる。とても勉強になる。特段言いたいこともないのだが、ひとつ言えるとすれば、短歌という国民文学が滅びることは絶対にないなという確信である。
2023年12月30日
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岡野大嗣(おかの・だいじ)母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように脳みそがあってよかった電源がなくても好きな曲を鳴らせる大丈夫なのは知ってる 話半分に聞くから打ち明けてみて
2023年11月26日
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永井祐(ながい・ゆう)月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたねパチンコ屋の上にある月 とおくとおく とおくとおくとおく海鳴り
2023年09月27日
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水原紫苑(みずはら・しおん)まつぶさに眺めてかなし月こそは全またき裸身と思ひいたりぬ第一歌集『びあんか』(昭和64年・1989) 月 オルドリン宇宙飛行士 アポロ11号ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2023年09月26日
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木下龍也 鈴木晴香歌集『荻窪メリーゴーランド』より 数首「いつか海辺に住みたい」に「ね」を添えてふたりの夢をひとつ増やしたぼくの肩を頭置き場にしてきみは斜めの夜をご覧ください参列者めいたぼくらが砂浜で見上げる月は喪主めいている脱がすときわずかに腰をベッドから浮かせてくれるやさしさが好き交わっているのにもっとほしくてポニーテールをしっかりつかむ本棚に村上がまた増えてゆく「コインロッカー・ベイビーズ」のほう映画のよう 最前列で観ることは初めてだから目は開けたまま* 本文の書体(ゴシック体と明朝体)は原文のまま。
2023年09月20日
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坪野哲久(つぼの・てっきゅう)このくにのことばをにくみまたあいすおぼろめかしくこのしめれるを歌集『碧巌』(昭和46年・1971)この国の言葉を憎み、また愛している。曖昧で思わせぶりな、このじっとりと湿った言葉を。
2023年09月16日
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塚本邦雄(つかもと・くにお)歌はずば言葉ほろびむみじか夜の光に神の紺のおもかげ歌集『閑雅空間』(昭和62年・1977)歌わなければ、言葉は滅びるであろう。夏のあとさき、短い夜のほのめきにラピスラズリの神のおもかげ。
2023年09月15日
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永井祐(ながい・ゆう)パーマでもかけないとやってらんないよみたいなものもありますよ 1円第一歌集『日本の中で楽しく暮らす』(平成24年・2012)パーマでもかけてちったあシャレのめしてないとやってらんないっすよみたいな感じもありますよ。ポケットに1円。僕の価値も1円。註一読、これはたぶん石川啄木だなと睨んだ。しかもその代表作といえる二首「はたらけど/はたらけど猶なほわが生活くらし楽にならざり/ぢつと手を見る」や「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」(第一歌集『一握の砂』明治43年・1910)あたりである。作者がこれらの名歌の高度なパスティーシュを意図したのかどうかは、知らないしさほど問題ではない。短歌は、発表されると同時に作者の手を離れ一人立ちする。読者である私にとっては、この歌の紙背に啄木が透けて見えることがリアルにほかならないだけである。明治の啄木青年は、赤貧洗うがごとき境涯にあって、自己憐憫や自慰・自愛的な感情で「ぢつと手を見」たり「花を買ひ来て妻としたし」んだりしたのだろうが、裕福ではないにしろ赤貧は洗ってないであろう平成の祐青年は、自嘲・諧謔的な感情で上掲のごとく言ったりするわけだ。どちらも程度の差はあれ多少の芝居っ気が入っていると思われる。最近はカメラもデジタルになってしまって、写真フィルムも富士フイルムの社名に残るぐらいになってしまったが、まだなんとか通用するであろう割と適切と思われる比喩としていえば、この歌は啄木というネガティブ(陰画、否定的)に対するポジティブ(陽画、肯定的)である。あるいは、永井祐という高次関数(ファンクション)を通して変換(デコード)された啄木である、ともいえるだろうか。この変換方式が合わないと「文字化け」して見えることは、パソコンをいじっている者ならよく知っている現象である。作者をめぐる毀誉褒貶には、一部にこうしたいわば「文字化け」めいた現象が起こっているのではないかと憶測しているところである。日本映画史上の最高傑作の一つとして名高い黒澤明監督『七人の侍』で、侍のリーダー勘兵衛(志村喬)が諄々と名台詞を言う。橋本忍ほか脚本。うろ覚え「明日はいくさという夜にはな、城の中でもこういうことがたくさん起きる。人間、明日の命も知れんとなると、ちょっと浮ついたことでもせにゃ息苦しくてかなわんのだ。若い者の気持ちにもなってやれ。無理もないのだ。」も思い出した。
2023年09月14日
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