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風の吹かない夏の夜は泣きたいのを懸命にこらえてるようで、空にはみかん飴そっくりの月が浮かんでいる。
角の取れた柔らかな月に照らされて、いつもはお喋りな蝉たちも今夜は慰める言葉を失っているようだ。
俺は公園のベンチに腰を掛ける。
仕事帰りの疲れた心が両足のリズムを奪い、部屋にたどり着くには今日一日の後悔が重すぎる。
空を柔らかに染めるみかん色はただ何も言わずに微笑んでいる。
いつもは口笛でごまかしてしまえば何とかなるのだけれど、歌詞を忘れてしまった夜には歩みを止めて俺は公園の一部になるのだ。
俺は錆びついたブランコで。
俺は風を映す鉄棒で。
俺は動きを止めた銀杏の木で。
今夜もそんな一日で、俺はポケットからタバコを取り出して口にくわえる。
泣きたい夜の代わりに額の汗が頬を伝って涙みたいだ。
自分が何かに悲しんでいるみたいで気になるが、それを拭うのも億劫になっている。
「そろそろ、いい加減、風が吹いても良さそうなもんだね。」
制止した夏の夜が話しかけてくる。
俺は答える代わりにタバコに火をつける。
タバコが湿ってるようで嫌になるが、ガスライターの炎が嘘みたいに青く美しく涼しげで少しだけ救われる。
青は救済の色だ。
俺の汗にはお構いなしに夏の夜は俺を見下ろし話し続ける。
「風が吹けば雨が・・・・」
その時、何かに名前を呼ばれたような気がして振り返った。
ふと隣を見ると犬が居た。
犬はベンチの横に初めから居たような顔をして俺を見ている。
ブルドックと何かを掛け合わせたような風体は一見こわおもてなのだが、よく見れば愛嬌のある顔をしている。
首輪をしているところを見ると、大方どこからか逃げ出して来たのか、または飼い主が繋ぎそこねたのか。
俺と目が合うとトコトコと歩いてきて当然のように俺の隣に飛び乗ってきた。
そして、もう一度俺を見て舌を出しながらその場にしゃがんだ。
まるで、昔からの知り合いのように俺たちは蒸し風呂のような公園で黙ってベンチに座っている。
それは、夏の夜の世慣れた話なんかよりよっぽど素敵に思えた。
汗と一緒にタバコの煙を吐き出しながら俺は彼に話しかける。
「今夜は暑いね。あんまり暑くて飛び出してきたのかい?」
彼は何も答えない。ただベンチにしゃがみ込んでいる。
「俺はね、花屋さんなんだよ。あんまりそうは見られないけれど。」
構わずに俺は話し続ける。自分のありったけのことを構わず話し続ける。
みかん色した夜空は相変わらずに優しげに俺と彼を包んでいる。
汗が滲んで目に入るのもお構いなしに俺は彼に話し続ける。
彼は何も答えない。でも、決して居心地は悪くなさそうだ。
ひとしきり話し終えて、俺は言葉をなくしてしまう。
所詮は30分で語り尽くしてしまう人生なのだ。
いくぶん自虐的に笑って、俺は4本目のタバコに火を付ける。
風のない夏の夜、蒸し風呂の空にみかん飴のお月様。
砂場には忘れ去られた三輪車、片方だけの子供の靴。
人の気配の消えた公園は、昼間の思い出でだけで生きている。
全てが動きを止めてしまった夜の公園のベンチには取り残された二つの影が街灯に揺れている。
額から吹き出し続ける汗だけが、ひそかに脈打つ彼の背中だけが、埋没する時間をわずかに動かしていた。
・・・今夜は中々出口が見つけられない・・・
そう思った瞬間、ペタンと寝ていた彼の耳が立ち上がり彼の両目が空を見上げた。
俺もつられて彼の見ている方を見上げる。
しばらくして、銀杏の葉がかすかに揺れて風が駆け抜けた。
少し乱暴な風は熱と一緒に何かを運び去ってくれた。
彼は俺を見て何か言いたげで。
俺も彼を見て何か言いたくて。
でも何も言えなくて。
ちょうどタバコも吸い終えて、俺はベンチから立ち上がる。
彼もベンチを降りて、俺の足下に立っている。
そして二人で並んで歩く。
公園の出口で俺は彼に話しかける。
「俺はたまにあそこにいるから。」
彼は俺を見ている。
「それから君の名前を考えたんだ。”ブサイク”でいいかい?」
俺が笑うと、ブサイクは初めてワンと吠えた。
それが嬉しいのか、怒っているのか分からないけれど。
そして、俺は真っ直ぐに、彼は右に曲がっていった。
一度吹いた風は、今度は優しく吹き続け俺の背中を柔らかく押し続ける。
みかん色したお月様は相変わらずに俺を包み込み、なぜ人が友達を作りたがるのか、少しだけ分かったような気がした。