1942
年 12
月に秋丸機関は解散し、その研究機能は
総力戦研究所
に移管された
[16]
。(ウィキ)
秋丸機関のことは知っていましたが、その後進の総力戦研究所については知りませんでした。
秋丸機関 (あきまるきかん)とは、 ノモンハン事件 後の 1939 年 9 月に、 総力戦 を経済面から研究するために [1] 、 日本 の 陸軍省 経理局内に設立された研究組織 [2] [3] 。正式名称は「 陸軍省戦争経済研究班 」 [2] 。対外的名称は「陸軍省主計課別班」 [2] [3] 。
少し前に流行った べっぱん
ですね。
軍隊は、別班好き?
秋丸機関は
仮想敵国
および同盟国の経済戦力を詳細に分析して最弱点を把握するとともに
[1]
[2]
、日本の経済戦力の持久度を見極め、攻防の策を講じるために、ブレーンとして
経済学者
を集め、そのほかに各省の少壮
官僚
、
満鉄調査部
の精鋭分子をはじめ各界のトップレベルの知能を集大成し、英米班(主査・
有沢広巳
)、独伊班(主査・
武村忠雄
)、日本班(主査・
中山伊知郎
)、ソ連班(主査・宮川実)、南方班(主査・
名和田政一
)、国際政治班(主査・
蠟山政道
)を立ち上げた
[2]
[4]
。
各班 15
名から 26
名ぐらいで総勢百数十名から二百名程度の組織で、 有沢広巳が実質上の研究リーダー
であった。
潤沢な予算(臨時軍事費特別会計)を使って、各国の軍事・政治・法律・経済・社会・文化・思想・科学技術等に関する内外の図書、雑誌、資料、約 9000
点を収集し、それらを整理・分析して、各国経済抗戦力判断に関する「抗戦力判断資料」、個別の経済戦事情調査の「経研資料調」、外国書和訳の「経研資料訳」などの資料を作成した。
近年「独逸経済抗戦力調査」
[5]
、「英米合作經濟抗戰力調査(其一)」、「英米合作經濟抗戰力調査(其二)」
[6]
などの報告書が見つかり、他にも多くの資料が現存している
[7]
。
秋丸次朗は回想で「説明の内容は、対英米戦の場合 経済戦力の比は、二十対一程度と判断
するが、開戦後二ヶ年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以降はわが経済戦力は下降を辿り、彼は上昇し始めるので、彼我戦力の格差が大となり、持久戦には堪え難い、といった結論であった。すでに開戦不可避と考えている軍部にとっては、都合の悪い結論であり、消極的和平論には耳を貸す様子もなく、大勢は無謀な戦争へと傾斜した」と述べている
[25]
。
(ウィキ)
1942年までには、経済力の差が 20対1
というのは、日本の指導層に広く認識されていたのでしょう。
山本五十六が近衛首相に語った一節です。
「それは是非やれと言われれば初め半年や 1
年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、 2
年 3
年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」1940年9月 (近衛日記
読売新聞からです。
開戦直前にも「消された報告書」秋丸機関とは : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
「秋丸機関」は、ヨーロッパでナチス・ドイツと英仏が交戦していた昭和14年(1939年)9月に陸軍内部に設けられた「経済謀略機関」だ。第二次世界大戦に参戦すれば日本の命運をかけた総力戦になるが、日本の国力でどこまで戦えるか。関東軍参謀部付として旧満州国で産業振興にあたっていた秋丸次朗(1898~1992)が東京に呼び戻され、ひそかに研究機関を創設したためこの名がついた。
秋丸は主要大学の統計・経済学者や、中央省庁や南満州鉄道調査部から精鋭を集め、政治、経済はもちろん、社会、文化から思想に至るまで、内外の書藉や賓料を収集・分析した。英米班、独伊班、日本班などの班に分かれて、それぞれ経済的な戦力や敵国となった場合の弱点を徹底的に研究した。
全体のリーダーは、英米班の中心だった東京大学教授の統計学者、 有沢広巳
(1896~1988)が務めた。有沢は マルクス経済学者
で、このころ、治安維持法違反容疑で検挙されて起訴保釈中(東大は休職中)の身だったが、「科学的で客観的な調査研究」を目指した秋丸に抜擢されている。
報告書は軍事機密でも何でもなく、報告直後に焼却を命じる意味もなかった。現に報告害の「英米」「独逸」の謄写版は複数残っている。どうやらこれまでの通説は、経済「謀略」機関として創設された秋丸機関の秘密裏のイメージに引っ張られすぎていたようなのだ。
牧野さんは、報告書が「国策に反する」とされたのは、「国力で比較すれば英米には勝てない」という点ではなく、「強いて活路を見出すなら南進だ」という部分ではないか、と見ている。
報告書がまとめられた当時、陸軍内ではドイツと呼応してソ連と戦うべきとする「 北進論
」と、資源を確保するためにまず南方に進出すべきとする「 南進論
」が対立していた。
陸軍の参謀本部は北進論を唱え、秋丸が所属する陸軍省、特に軍務局は南進論を主張していた。秋丸機関の「独逸」報告書は秋丸の立場上、北進論を否定し、南進論の支持をにじませた内容となっていた。
北進論の参謀本部はだから異議を唱えたのだ、というのが牧野さんの説だが、そうだとすれば報告書が出た時には明確な「国策」はまだなかったのだから、報告会での発言は意見の表明に過ぎないことになる。現にこの数か月後、日本は早期の対ソ開戦を見送って南進路線を選択している。
牧野さんは『 経済学者たちの日米開戦
』の中で、秋丸機関報告書の意義について「 『対英米開戦』の回避に役立ったとは残念ながら言えないが、日本がより悲惨な状況になったことは間違いない『対英米ソ開戦』の回避には役に立ったのかもしれない
」と記している。
確かにそうだが、組織の力学に流されて「英米と戦っても勝ち目はない」ことを結論の主眼にできなかったのも事実だろう。報告書は、陸軍内では戦争は止められなかったという「組織の限界」も示している。
秋丸機関には、戦後名を成した研究者もいました。
マルクス経済学者を登用したところが、とりわけ興味深いです。
日本の経済力では、英米に加えて対ソ戦は無理というのはもっともでしょう。
学問的には対英米戦も無理ですが、組織の力学に逆らえず研究の成果を生かせませんでした。