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2006/04/18
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カテゴリ: まじめな教育論
2002年に文部科学省本省から、文化庁文化部長に「左遷」されていた、ゆとり教育の推進役・寺脇研氏が、4月から大臣官房広報調整官に就任するらしい。


退職予定だった寺脇氏は、小坂憲次文科相から慰留されたという。
知名度抜群の寺脇氏を退職させて、在野に放ち活発な言論活動させるのを恐れての引き留めなのか、実際のところはよくわからない。

ところで、ゆとり教育の「罪」は、降格という形で寺脇氏が全てかぶることになった。
これって、何から何までおかしくないか?

どうしてこれまで一官僚・一個人に過ぎぬ男が、大事な大事な国の教育行政を振り回してきたのか。
官僚にしては、寺脇氏の影響力は大きすぎやしなかったか?

ここ数年の「ゆとり教育」騒動は、一官僚にすぎぬ寺脇氏の独断に振り回され、寺脇氏個人の奇抜なアイディアが文科省全体の意見とされ、学校・塾を問わず日本国のあらゆる教育機関を引きずり回したような印象を与えてきた。


本来なら、国民の代表者である政治家が教育の大計を練るべきであり、一官僚の寺脇氏の手に委ねられるものではない。

教育行政の指針は本来、国民のコンセンサスを得た政治家が立案し、実行し、失敗し、責任を取るのが当然の姿である。
「ゆとり教育」は寺脇氏個人が立案し、実行し、失敗し、責任を取ったというイメージが強い。
われわれは寺脇氏に、教育改革を委託したわけではないのである。寺脇氏は政治家でも国会議員でもない。

行政は政治家が主導して行われるべきものであり、官僚が表面に出てはならない。政治家の指示によって、官僚が動くのが本来の形である。
政治家は行政機関の「脳」であり、官僚は「身体」であるべきだ。

ところが、一連の「ゆとり教育」騒動には、政治家の匂いがしない。
利権の絡む建設行政には細かいところまで口出しする政治家が、文部行政には無関心すぎる。教育行政は官僚に丸投げされているかのようだ。

教育に関しては、政治家が「脳死」状態になって、官僚の「身体」が勝手に動いている印象が強い。
お父さんがお母さんに子供の教育を任せっきりにしまうように、政治家は官僚に教育行政を一任しているみたいだ。

もし、巷で言われているように「ゆとり教育」が寺脇氏の独断で行われてきたのなら、今回の「ゆとり教育」騒動は、一人の官僚が国に強烈な影響を与えた、稀有な一例である。

政治家が脳死状態になり、官僚に権力を振るわせてしまえば、亡国の危機に陥ることは歴史が証明している。

ところで、日本の政治家の教育に対する無関心とは逆に、イギリスのブレア首相は「Education! Education! Education!」をスローガンに、教育を国家の最重要課題と位置づけ、積極的に教育改革を推し進めてきた。

ブレア首相は公立校の充実を計り、また金持ちの私立校の子しか進学できなかったオックスフォードやケンブリッジ大学に、公立校から一定枠進学できるシステムを作った。

ブレア首相は、極左政策を堅持し政権から遠ざかっていた労働党を、中道左派にシフトすることで政権を得た。労働党の支持層のターゲットを、ブルーカラーから中流家庭に移した。
一見、長い間労働党を支持してきた、貧困層のブルーカラーに対する裏切り行為のようだ。


かつてはブルーカラーが成り上がるためには、ロックやアートやスポーツしか道がなかった。だが、ブレア首相は、ブルーカラーが教育でも出世できる環境を整えようとしてきた。
ブルーカラーが貧乏から脱却するためには、教育こそが最高の道筋だと主張し続けている。

逆に、日本の内閣はどうだろうか?

首相にとって教育改革は、自分の手柄にならない。即効性が強い改革が優先される。

たとえば、ある内閣が教育改革を実行したとする。ところが改革の成功・失敗がわかるのは、改革実行から長い時間が経過してからだ。
一内閣が教育改革に取り組んでも、結果が出るのは早くて5年、長くて20年先のことだ。

10年も20年もの長期政権を保障されている内閣なら、結果がロングスパンで現われる教育改革に積極的に取り組めるが、基本的に任期が短い日本の内閣では、教育改革の重要性がわかっていながら教育改革は後に追いやられ、首相のパフォーマンスが生かされる政策や、短期間で結果の出やすい緊急の懸案事項が優先される。

せっかちな小泉首相が、ロングスパンでしか結果が出せず、成功しても自分の手柄にならない教育改革に興味を持たないのは当然の帰結だ。
国民の支持を得る政策の開発に神経を尖らす小泉氏が、持ち前の嗅覚で「教育では票にならない」という結論を出すのは正しい。

イギリスのブレア首相が教育を国家改革の最大の懸案事項として取り組めたのは、イギリスでは上流下流の二極分化が今の日本と比べ物にならないくらい激しくなり、退廃的な気分が社会に蔓延し切羽詰った状況になったからだろう。

小手先の改革ではもはや手の施しようがない。国家の根幹を長期間で改革する必要に迫られた。
イギリスでは教育改革を推進し、子供に学力をつけ、50年先の国家の大計を子供に託したのである。

教育改革とは、実はどうしようもなくなった国の改革を子供に「丸投げ」することなのである。
国家は国債という借金を子供に残す。でも、しっかりした教育を施すことで、借金を返済する知恵も同時に与える、というわけだ。

日本もあと5年くらい後に、1970年代後半パンク音楽が流行した時代のイギリスのような淀んだ社会が現われてはじめて、政治家は腰を据えて教育改革に真剣に取り組み始めるのかもしれない。





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Last updated  2006/04/18 06:24:25 PM
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