レーゼクライス合宿 0
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アメリカ映画は今、自然でさり気ない、アクターズ・スタジオ的演技が主流になっている。いかに観客が俳優に自分の姿を重ね合わせられるか、いかに観客が物語に集中し、映画的「ウソ」の世界に沈没するか、そのために映画俳優は、自分を殺さなければならない。下手な演技は、観客をわれに返らせ、現実の世界に引き戻す。アメリカ映画界の男優は、ハリソン・フォードとか、トム・ハンクスとか、マッド・デイモン、ケビン・スペイシーとか、決して美男ではないが、自然な演技ができる役者が主役を張っている。かつて映画の主役は美男美女と相場が決まっていた。ゲイリー・クーパーやイングリッド・バーグマンが全盛期のハリウッドに、ラッセル・クロウやレニー・ゼルウィガーが乗り込んでも、「おまえみたいなブサイク、何しに来たの?」と相手にされないだろう。いまやアメリカ映画界では、オーバーアクションはもとより、素晴らしすぎるルックスすら、物語の進行の邪魔として敬遠される傾向がある。アメリカに限らず日本の映画界ドラマ界も、美女はとにかく、絵に描いたような美男が主演の座から、少しずつ遠のきつつある。だからこそ、草なぎ君がドラマの主役として、もてはやされるのだろう。ただ視聴者が、そんな業界の美男美女敬遠志向を歓迎しているとは限らない。だからこそ、古典的なハンサムを惜しげもなくテレビドラマに投入してくる、韓流ドラマがブームになった。年配の女性は、美男に飢えていたのだ。さて、「自分を殺す、さり気ない演技」と聞いて、退屈な演技を想像される方も多いだろうが、決してそうではない。自分を殺す、さり気ない演技の大成功例は、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドの演技である。貫禄たっぷりで、愛情と残酷さを同時に高いレベルで兼ね備えているマフィアのドンを、マーロン・ブランドは決して大きな声を張り上げたりせず、キレたりもせず、観客が聞き取れるギリギリの、ささやくような声で演じている。演技のさり気なさがマフィアのドンのリアルな実体感を醸し出し、自分を殺せば殺すほどマーロン・ブランドの無気味な狂気が際立つ。超ハイレベルな演技だ。実は、キムタクのつぶやくような演技も、実はマーロン・ブランドの「自分を殺す、さり気ない演技」の延長線上にある。ところで、塾講師のDVDはどうだろうか?オーバーアクションの講義が嫌われるからといって、逆に自分を殺しに殺して、授業を淡々と進めたら、ショボイDVDしかできない。塾講師のDVDを買ってみたら、学校で日常やってるような普通の授業が映っている。それなら世の講師は「これだったら俺でも私でもできる、金返せ!」と憤慨するし、子供は「学校と同じジャン」と落胆する。DVDを売り物にするなら、ある程度のケレン味は必要だ。自分をアピールしすぎて演劇的なナルシストに堕ちてはならぬ。また逆に淡々としすぎて平凡な商品として成り立たぬものを売ってはならぬ。そこらあたりのバランスが難しい。ところで、最近私が見た、最高の教育映像がある。これは昭和35年前の物価と、現在の物価を比較した、社会科の講義を収録したものである。Ryoさんに紹介していただいた。講師の魅力、ユーモアや語り口、すべてにおいて私の趣味に合っている。演技もさり気ないし、自分を殺している。でも十分おかしい。私が授業DVDを作るなら、こういう路線のものを作りたい(無理だけど)授業をDVDにするなら、これくらいの才気を見せたい。
2006/03/28
いじめの復讐の鉄則は、等価交換である。言われたら言い返す、蹴られたら蹴る、殴られたら殴る。いじめられっ子は、いじめっ子から得た苦痛と同じ痛みを返してやればばいい。ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」という復讐法で有名だが、同時にハンムラビ法典は、刑罰の等価交換を示している。目を潰されたら、相手の目を潰す以上の復讐はしない。自分が加えられた危害と、犯人が受ける刑罰は等価でなければならない。ハンムラビ法典は被害を超える痛みを与える復讐を禁じている。ハンムラビ法典が「目には命を、歯にも命を」という法ではないことに注意して欲しい。だから、ハンムラビ法典に照らし合わせるなら、いじめられっ子がナイフでいじめっ子を刺し殺害したら、それは明らかに過剰な復讐で、等価交換の原則に大いに反する。もし誰かにいじめられた子が学校に爆弾を投げ、死者が多数出たら、それは1対10万ぐらいの巨額の暴利で復讐したことになる。さて、少年事件が発生すれば必ず、子供の「想像力の欠如」を指摘する声が必ずあがる。もし、爆弾を教室に投げたり、ナイフで同級生を突き刺したりしたら、同級生は死んで自分は少年院に入れられ、一生日陰者の暮らしをしなければならない。事件後には100%、そんな事態が招来するという想像力を加害者が持っていれば、人殺しなんかする必要はない、と多くの人は考える。しかし、大多数の少年事件は、「想像力の欠如」が原因では決してなく、逆に加害者の「あふれんばかりの強い想像力」が引き起こす。いじめられっ子たちは爆弾を投げナイフで人を突き刺したら、いったいどんな騒動になるか、自分が今後どんな人生を送らざるを得ないか、認識しすぎるほど認識していた。しかしプライドの高いいじめられっ子にとって、自分の将来が破滅する恐怖よりも、いじめの首謀者に対する怒りのほうが遥かに強い。百回殺しても飽き足らぬほど憎い奴の身体が爆弾やナイフで痛みを感じ、子供のように泣き叫びながら、「いじめてごめんなさい、許して、おかあさ~ん、痛いよお」と血と涙で身体がグショグショになりながら死んでゆく至高の瞬間の到来を夢見て、いじめられっ子は犯行に及ぶ。自分の長い人生が破滅することより、憎い奴を殺す甘美な一瞬を選ぶ。想像力の欠如なんてとんでもない。加害者は想像力に陶酔する。そんな加害者達は、事件後、絶対に反省の色を見せない。当然だ。もし殺人が完遂できたら、加害者は達成感に狂喜する。逆に殺人が未遂に終わったら、いじめっ子が生き残ることを激しく後悔するはずだ。何で殺せなかったのか?犯行前はいじめっ子として学校で自分に屈辱を与え、犯行後は生き残った被害者として自分の人生の重荷となる。お前なんかのために、オレは刑務所にいるんだぞ! 二重の意味で自分を束縛するウザイ奴だ。無差別的な復讐は断じて良くない。だが、学校でいじめられる子の恨みは、いじめの首謀者個人に対するものだけでは決してない。その怨念は、教室という「空間」に対しても向けられる。いじめに加担し、いじめられる自分を冷笑し無視するクラスメイトが作り出す、教室という「空間」を破壊したい。怨恨がいじめの首謀者に対してだけなら、いじめられっ子は凶器に刃物を使う。しかし教室という「空間」もろとも破滅させたい「いじめられっ子」は、凶器に爆弾を選ぶ。
2006/03/27
TOMA先生の「塾の進化」というテーマが面白いので、少々感想を述べさせていただきます。私は結構ビジネス書を読む。ビジネス書には、「IT産業は進化する」「居酒屋は進化する」「コンビニは進化する」「ラーメン屋は進化する」という具合に、「進化」というキーワードが、うんざりするほど見受けられる。そんな「BOOK OFF」で100円捨て売りされてるようなビジネス書を読んだ塾の経営者が、「塾は進化する」と格好つけて書きたがるのも、わかるような気がする。決まって最後には「進化しない塾は生きてはいけない」と、誰に向けられているのかわからないメッセージで締めるところも、ビジネス書の真似だ。日本中の塾がぶったまげるような試みの具体例を書いて、「おおお、この塾はスゲエなあ、10年先の塾はこんな感じなんだ。見習いたいなあ、進化してるなあ!」と、ガツンとかましてくれるのなら、説得力がある。しかし、ただ「塾は進化しなければならない」と漠然と、死んだ手垢のついた言葉で書かれているだけでは、説教臭いだけで説得力はない。「塾は進化しなければならない」と言っている人がもしいるなら、「進化」という手垢のついた言葉を使用している時点で、既存の言葉にしがみつき、人を説得する言葉の開発に「進化」がないことを暴露している。「進化」という言葉の安易な使用は、使った人間が「退化」していることを皮肉にも表している。そもそも、大企業の事例が書かれたビジネス書の教訓を、そのまま小さな個人塾に応用するには無理がある。ユダヤ人と大富豪とか、ドラッカーとかMBAとか、読んでいて確かに面白く、夢をかき立てられるところはあるが、それを直接生のまま個人塾の経営に落とし込むのは、アンバランスな印象を受ける。塾を拡大して、支店を出して一部上場を目指すのなら、ビジネス書は大きな糧になるだろう。ただ、私がやっているような小さな個人塾は違う。たとえばうちは、カウンター10席と、テーブルが2席程度の、小さな寿司屋みたいな塾だ。小さな寿司屋がお客に満足してもらうために一番やるべきことは、美味い寿司を作ることである。それ以外には考えられない。美味い寿司を作るためには、あちこち美味い寿司を食べて研究を重ね、自分の技量を上げることが肝心だ。個人塾が生徒に満足してもらうには、万巻の書に接し、旅をして見聞を深め、音楽や映画で感性を磨き、話し方の研究をし、黙々と教材を作り、手間をかけてテストをこしらえ、粛々と毎日の授業を手を抜くことなく進めていくことだ。日々の仕事こそが、塾講師の「進化」をもたらす。それ以外に「進化」の道はない。資本主義社会は確かに弱肉強食の社会である。「勝ち組」の人から見れば、われわれ零細塾の講師は、犬畜生以下かもしれない。しかし犬畜生から言わせてもらえば、自分の「お金儲けしたい」という私利私欲を、ビジネス書の洗練された言葉でカムフラージュして正当化する人間には、強い嫌悪感を覚える。また、世の中で大成功を収めている一流の起業家、たとえば松下幸之助氏や、稲盛和夫氏なんかは、文章を読んでいて、私利私欲を超越した、どこか淡々とした印象を受ける。「進化しない塾はつぶれる」と言ってる人がいたとするなら、もう少し深い思索で、物事を考えて欲しい気がする。
2006/03/27
子供に対する体罰は是か非か? 盛んに議論されてきた話題である。よく考えたら、教育の場においてのみ、体罰という暴力が「是か非か」と議論されるのは、不思議なことだ。暴力は絶対的に悪い、というのが世間の共通認識だ。でもどうして教育の場では、体罰容認=暴力OKという論者が現れるのか?だって、「企業で上司が部下に暴力を振るうのは是か非か?」 「老人ホームで管理人が痴呆のお年寄りを殴るのは是か非か?」「家庭で夫が妻に暴力を振るうのは是か非か?」そんな議論は聞いたことがない。誰もが「非」と答える命題だから、議論になりはしない。「アントニオ猪木がファンにビンタを喰らわせていいか?」 「浜ちゃんがタレントをはたいてもいいか?」という命題なら、「まあ、いいんじゃないの」と肯定派のほうが多いような気がするが。冗談はともかく、「学校や塾で先生が子供に体罰を振るうのは是か非か?」という命題になると、たちまち議論が沸騰する。不思議なことだ。歴史の叡智は、この世から暴力を消し去ることを選んだ。暴力を振るって罰せられないのは、戦争という地球上で一番巨大な暴力と、子供の喧嘩という地球上で一番小さな暴力だけである。国家の争いと、子供の争いだけが、暴力という最終手段を選ぶ。そのほかの暴力は穢れたものとして、地球上から抹消された。暴力を振るう者は罰せられる。では、教師が生徒に振るう暴力は、アリかナシか?言うまでもなく、ナシである。体罰はなぜ駄目か?体罰が、子供の命を奪うからである。体罰とは、子供の身体に触れることである。身体に触れるということは、相手の身体を支配することである。身体の支配の行き着く先は、相手の肉体を抹消することである。体罰は子供の「肉体」に手をかけることだ。それは殺しの第一歩だ。だから体罰は非である。ところで、学校をはじめとして、警察や軍隊や刑務所のような、強者が弱者を「支配」する機関は、暴力の温床になりやすい。警察も軍隊も刑務所も学校も、警察官・上官・看守・教師という強者が、容疑者・兵隊・囚人・生徒という弱者を管理する機関である。閉塞的な上下関係が生まれやすい機関であるから、体罰が起こりやすい。学校は、社会の規範的な人物を製造するところだ。学校とは、生まれながらの餓鬼、すなわち放任しておいたら反社会的な大人になりうる子供に、大人の価値観を強制する場所である。学校は反社会的な人間を作らない場所であり、警察・刑務所は反社会的になってしまった人間を矯正する場所である。そういう意味で、学校と警察・刑務所は、同質の意味を持つ。しかし、警察・刑務所・軍隊と、学校の間には、絶対的な大きな違いがある。それは、警察・刑務所・軍隊が、人間の「死」を扱う機関なのに対して、学校は人間の「生」を育む機関だということだ。警察・刑務所には、他人の肉体を損傷あるいは抹消した人間がやって来る。彼らは罰として身体を拘束され、労役に服すことを強制され、首を吊られる。死刑は究極の体罰だ。警察・刑務所は、人間の肉体が生々しく官憲や刑務官から支配される、「死」の匂いがプンプンする場所である。軍隊に至っては警察・刑務所とは比較にならないくらい死臭が漂う場所だ。軍隊とは集団で、相手国の国民の肉体を地上から奪い去り、自らの肉体を消し去る場である。上官は兵隊を軍靴で足蹴にし、ビンタを張り、訓練された兵隊は殺人マシンと化し、相手国の兵隊住民を殺し、自分も殺される。軍隊は人間の肉体が屠殺所のように粗末に扱われるところだ。軍隊は人間の「死」で成り立っている組織である。教育の場で、刑務所や軍隊のような、肉体が直接支配される状況は避けねばならない。教育機関では体罰という死臭を漂わせてはならない。繰り返すが、暴力の行き着く先は「死」に他ならぬ。ただいきなり宗旨替えして恐縮だが、私はスキンシップ的体罰は「いいんじゃないか」と思う。むしろ生徒と教師の関係を深める。逆に「体罰は絶対に良くない、教育者の風上にも置けない!」と、体罰を根本から批難する人に対して、私はなぜだか懐疑の目を向けてしまう。体罰に対して、アレルギー的に目くじらを立てる人は「言葉で子供を説き伏せましょう。子供は話せばわかる」と言う。確かにその通り。でも、言葉の力は時に、暴力よりも恐ろしい力を振るうことがある。たとえば、私は生徒から、頭のキレる人間だとよく言われる。10代の青少年から見ると、37歳の私は経験も知識も20年分先を進んでいるわけだから。頭がキレる人間に見えるのは、当然のことだろう。ただ、私が他の大人と違う所があるとすれば、心の中に放射能のような、沸々としたものを誰よりも抱えているところだろう。私は原子力発電所みたいな人間だ。心の放射能は厚いコンクリートで十重二十重に厳重にブロックしている。そんな頭のキレる教師が、子供の前でキレて、言いたいことを全部さらけ出して、放射能を撒き散らしたらどうなるか?特に私は怒ると頭の回転が急速に速くなり、チャーリー=パーカーのアドリブのように、相手に暴言妄言を流暢に長時間浴びせかける。ビンタ一発の方が、子供のダメージははるかに少ないでしょ?体罰は悪くて、言葉は良いというステロタイプな判断は、言葉の力を過小評価している。言葉の暴力は人を殺す。私は言葉で人を殺せると思っている。寸鉄人を刺す言葉は、相手の身体を蝕む。教師の屈辱的な暴言で、子供の胸は震え、心拍数が増え、胃壁を血で濡らす。怒りで動悸が高まり、目の前が真っ白になるだろう。文章は、相手の鼻面にパンチを食らわせる以上の効果がある。特に塾講師は、話し言葉を飯の種にしている人間だ。毎日毎日4時間5時間、講師生活で延べ1000時間10000時間、生徒の前で話し続けている。だから講師の言葉は普通の大人より鋭く重い。塾講師は「言葉の有段者」だ。剣の達人が素人に剣を本気で振るうのはルール違反であるのと同じように、言葉が売り物の講師が、子供相手に「本気の言葉」を発してはならない。子供のハートを歪めてしまう。体罰は恐ろしい。でも「ペンは剣より強し」とはよく言ったもので、時には言葉の暴力の方が恐ろしい。言葉の暴力は、子供の「肉体」を蝕む。
2006/03/24
開成・灘が東大合格者を大きく減らしたのは既報の通り。開成は21人減、灘は33人減と、前期合格者数で、大きく合格者を減らした。減少の大きな原因は、難関高校の教師の「怠慢」にあると私は思う。私が開成中学・高校に通っていた時、学校で宿題を出されたことは、ほとんどなかった。「暗記」の宿題にいたっては、数えるほどしかなかった。今の開成が、どういう指導法を取っているのかわからないが、開成の先生は、子供を放任し過ぎるように思う。もっと、宿題"homework"を出したらいいのに、と思ってしまう。おそらく開成の先生方は、「あなたは生徒を放任していますね?」と聞かれたら、「生徒の自主性に任せています」と答えるだろう。しかし生徒の自主性に任せることと、生徒を無責任に放任することは、紙一重の差である。地方公立高校の躍進で、開成の教師が生徒を放任していても東大合格者数がトップ安泰だった時代に、黄信号が燈っている。確かに開成の生徒の自主性は凄い。あの激しい運動会を見たら一目瞭然だ。教師の指導なしで、どこの高校よりも感動的で男くさい運動会をやり遂げる。開成の生徒は、単なるガリ勉ではなく、遊ぶ時には思いっきり遊び、勉強する時には瞬時にスイッチが切り替わり、別人格のように真面目になる。開成高校の教師は、そんな生徒の潜在能力の高さ、自主性の素晴らしさに胡坐をかいてきた。もしかしたら教師の中には、東大合格者数の多さを自分の能力の高さと勘違いした人も多かろう。開成の先生には、学究肌の人が多い。今はどうか知らないが、ガツガツ勉強して成り上がった人は少なかったように思える。そんな頭の切れるのんびりした先生と、誰から干渉されなくても自主的に勉強できる生徒は、非常に相性が合っていた。開成の先生がもし荒れる工業高校へ行ったら、狼の檻の中に投げ込まれた子猫ちゃんみたいにイジめられるだろうし、また逆に開成の生徒を戸塚宏みたいなスパルタン体育教師が教えたら、これまた大いなるミスマッチだ。実は開成高校の生徒も先生も、東大へ行くことに極度にガツガツした態度を取ることに対して、「恥じらい」の気持ちを持っている。また、東大合格者数で自分の学校が語られることを、どこか嫌っている部分がある。今回の東大合格者数の減少にも、「私は東大合格者数の多少で自分を語られたくない」と、淡々と構えている先生が多いような気がする。確かに、開成の先生の、生徒の自主性に任せるノンビリした態度は、本来の学校=schoolのイメージに近い。"school"という英単語は、もともと古代ギリシャ語の"skhole"が語源だ。"skhole"とは、「個人が自由に主体的に使える時間」という意味だ。要するに「暇な時間」ということである。古代ギリシャでは、人間の営みは、"work"つまり生計を立てるために働く行動と、"schola"働かない時間の活動のふたつに分けられていた。意外なことに "skhole"は"work"の対義語なのである。ギリシャ人は働いていない"skhole"な時間を、学ぶことに費やしていた。このような背景から、"skhole"という言葉は、暇人たちが集まって学び、知識を増やすという意味を持つようになり、"school"という言葉が生まれた。立身出世のためにガリガリ勉強するのが"work"、知的好奇心の赴くままに学問を楽しむのが"school"ということになろうか。補習や再テストを繰り返し、先生が機関車のように生徒を牽引することで東大合格者数を上げる公立高校が"work"なら、開成はまさしく"school"である。"school"である開成に、強制的な"homework"は相容れないのだろう。ところで、中高一貫制の難関校の生徒は、高校受験が免除される。高校受験がない。同世代の大部分の生徒が高校受験で忙殺されている時、遊びやゲームやスポーツや読書や映画や音楽やデートに夢中なのだ。もちろん、勉強している子は、きちんと勉強しているけど。高校受験のない難関校の生徒が、中3・高1の時期に、遊び呆けていないでもっと勉強すれば凄いことになるんじゃないかと思われるかもしれないが、実は違う。彼らは15歳~16歳にかけての暇な時間を利用して、知らないうちに教養を貯め込み、涵養しているのである。そんな"schole"的な、高校受験という「俗世」と接触しない暇な時間が、彼ら15歳~16歳の頭脳をレベルアップする。難関中高の生徒は、遊んでいる時も暇な時も、世の中の森羅万象から学ぶ癖が抜けてはいない。どんな状況でも、頭の中はグルグル回転し続けている。「さあ、やるぞ!」と机に向かわなくても、通学途中の自転車の帰り道も、寝転がって音楽を聴いている時間も、一人旅の道すがらも、ゲームにエキサイティングしている時も、贔屓の野球チームをテレビ観戦している時も、昼休みに友人とバスケに興じている時も、鼻くそをほじくっている時も、どんなときも常に、頭脳は吸収している。知的好奇心の塊の人間にとっては、気合を入れて勉強しなくても、起きている時間が全て勉強時間になる。脳味噌は常に学びのモード、目に映る全てのことが教材だ。暇な時間が涵養した力は、彼らの国語力に最も現れる。彼らは無意識のうちに脳内に国語力の菌を培養し、他の科目に影響を与える。いざ彼らが受験勉強を始めた時、国語力は強さを大いに発揮する。国語力とは人の話を聞く力、誤解や誤読を最小限にとどめながら、本から知識を得る力である。強い国語力は、まるで吸引力の強い掃除機のように、受験の知識を吸収する原動力になる。そのうえ、暇な環境から作られた豊かな教養は、突然変異の「閃き」をもたらす。難関校の難問を解くためには、「閃き」がとってもとっても大事だ。もちろん教材にかじりついている時間が長ければ長いほど、学力は上がる。しかし、難問を閃くには、暇な時間が生み出した知識教養の土壌が絶対に必要だ。単純な物理的な知識の積み重ねだけで難問は解けない。複雑で化学的な知識の変容が求められる。「閃き」を生み出し、頭に化学変化を起こす暇な時間を作るには、教師が過大な宿題を鬼ノックのように浴びせる環境は、かえって逆効果なのかもしれない、と思う。ついでに言うと、独創的な「閃き」を生み出す知性は、暇な時間を保障してくれる、静かな環境が生み出す。それは欧米の大学の立地を見れば明らかだ。イギリスのオックスフォードにせよ、ケンブリッジにせよ、ロンドンから電車で1時間ぐらい離れた、閑静な田園都市にある。大学の立地は、都会からつかず離れずの、静かな環境が理想的だ。田舎過ぎても駄目だ。都会の刺激臭がほんのり漂っているぐらいの田舎がいい。日本でも、無数の大学がある京都には、街を少し離れると西田幾多郎が思索の場所に使った「哲学の道」のような閑静な散策場所がある。京都の町が凄いのは、都会の中に忽然と田舎が現われるところだ。さて、開成の先生が生徒の自主性を重んじ、勉強に対して口うるさく指示しないのも、暇な時間を生徒に与えることが、学問的「閃き」を生み出す土壌になるという経験則があるからだろう。私はその考えは、間違っていないと思う。ただ、改善の余地はある。一つの方策として、週3時間ぐらい授業時間を「暗記の時間」に当てたらどうか?科目問わず、あらゆる勉強に必要な暗記事項を、「強制的に」生徒に暗記させる。ゲーム感覚でやってもいいだろう。暗記は開成の生徒にとって、得意中の得意な分野だ。もともと記憶力は抜群の生徒達である。腰を据えて暗記にかかれば、とてつもない効果が現われる。誰にも負けやしない。教養の涵養は、生徒の自主性に任せればいい。しかし暗記の時間をちょっとでも設けて、涵養した土地に種蒔きするのも悪くないだろう。週3回ぐらいの暗記時間では、彼らの貴重な「暇な時間」を妨害し、「閃き」を生み出す涵養された土壌を、砂漠化させることはないだろう。適度の暗記の強制は、「閃き」を生み出す力をアップする。(つづく)
2006/03/23
うちの中学生は、社会科の用語は必ず漢字で書いてもらう。中学校には、定期試験の答案をひらがなで書いてもOKのところもあるが、高校に進学したら漢字じゃないと汎用性がきかないので、私は漢字以外は許さない。もちろんアメリカを亜米利加、オランダを和蘭陀、オーストラリアを豪太刺利と書けなんて無理は言ったりはしないけど。イギリスを英吉利、ポルトガルを葡萄牙なんて格好つけて書いたら×になってしまう。去年の中3の途中入塾してきた女の子に、私が作った「歴史一問一答 500題」をやらせてみると、歴史用語を漢字とひらがなを、巧みに混ぜて書いていた。「井伊直弼」を「井伊直すけ」、「墾田永年私財法」を「こん田永年私ざい法」、「運慶・快慶」を「運けい・快けい」と、画数の多い難しそうな漢字をひらがなで誤魔化して書いていた。ピーマンやニンジンが嫌いな子供が、巧みに避けて食べるような感じだ。まだ「井伊直すけ」「こん田永年私ざい法」「運けい・快けい」ならいい。解読可能だ。しかし「本おりのり長」は困る。一瞬では拝読できない。「本居宣長」を我々が一瞬で「もとおりのりなが」と読めるのは、「居」「宣」という2字の印象が強いからであり、その2文字ともひらがなに直されてしまったら、少々手間取る。中途半端にひらがなが混じった人名や熟語は読みにくい。我々日本人がいかに漢字の絵文字性に依存し、文字を一種の映像として捉えているかがわかる。本来漢字であるはずの部分が、不純なひらがなに変わっていると、文字を絵文字として一瞬のうちに頭脳に焼き付けることができない。その上、パソコンで「本居宣長」なら一発で出るが、「本おりのり長」をパソコンで打つのは非常に面倒くさい。「本」「おりのり」「長」と分割して打たねばならぬ。その子は他にも、「織田信長」を「お田信長」、「聖徳太子」を「しょうとく太子」、「近松門左衛門」を「近松門左えもん」、「吉田茂」を「吉田しげる」と書いていた。「お田信長」はいかにも弱そうだし、「しょうとく太子」は明太子の親戚みたいだし、「近松門左えもん」はドラえもんの関係者みたいだし、「吉田しげる」は吉田しげる・梶原しげる・松崎しげる・克美しげる四兄弟の長男みたいだ。あと歴史用語ではないが、小学生の作文はひらがなベースの文章に、漢字が無秩序に混入していて、とっても読みにくい。ある小学生の作文に「百円きん一」とあったので、生徒の前で朗読するとき、間違って私は「ひゃくえんきんいち」と読んでしまった。「均」が「きん」に変わっただけで、たちまち文章が読みにくくなる。以下の作文は、私が作った「漢字とひらがながランダムに混じった、小学生が書きそうな読みにくい作文」の例である。ね、読みにくいでしょ?ぼくの1ばんのたから物は家ぞくです。そのり由は、家ぞくがいると、じ分でできないことがあったら、相だんにのってくれるからです。てん国のおじいちゃんとおばあちゃんもたからです。家族には健こうでいてほしいです。2ばん目のたから物は、友だちのしゃ真と手がみです。てん校してしまったけれど、手がみを読むと、友だちと一しょにべん強やうん動をしたことや、え顔を思い出します。友だちのしゃ真と手がみは、つくえのひき出しに、大じにしまってあります。
2006/03/21
私は25歳ぐらいまで、異常に東大コンプレックスが強かった。私が東京を離れ、地方に隠居生活しているのも、東大のある東京から去りたかった、と無意識に思っていたんじゃないかと、今にしてみたら思う。やっぱり小学6年生の頃から東大を意識して夢破れると、コンプレックスが強くなるのも無理はない、のかな?東大コンプレックスが強い私は、25歳まで、地下鉄丸の内線と京王井の頭線に乗れなかった。理由は、丸の内線には本郷三丁目、京王井の頭線には駒場東大前駅があるからだ。どちらの駅も東大キャンパスの最寄り駅だ。丸の内線でも、御茶ノ水から新宿・荻窪方面なら平気で乗れた。しかし御茶ノ水駅から池袋へ向かうラインには、どうしても行けなかった。「本郷」という文字を見ただけで、胸が萎縮しそうになった。京王井の頭線は全く駄目だった。1回大学生の時乗ってみたが、井の頭線に乗っている若者が、みんな東大生のような気がして、この場から消え入りたいような恥辱的な心境になった。それ以後は渋谷から吉祥寺に行く用事があっても、わざわざ山手線で新宿まで行って、そこから中央線快速に乗り換える、遠回りの道を選んだ。TVに東大卒の人間が出たら、すかさずチャンネルを変え、目を逸らした。香川照之・加藤登紀子・桝添要一・草野仁・黒田あゆみ・・・・小説家に関しては、東大卒かどうかはあまり気にならなかった。というか、日本の文学史から東大卒の作家を除いてしまったら、誰もいなくなってしまう。夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介・三島由紀夫・太宰治・川端康成・志賀直哉・谷崎潤一郎・・・彼らはみな東大卒だ。ただ、明治時代の東大の光景が痛いほど出てくる「三四郎」は、正視できなかった。サンデー毎日の「東大合格者名」が掲載される時期になると、「東大」の赤い大きな文字が目に付かないように、書店の雑誌売り場を避けた。25歳ぐらいまで、私は情けないくらい権威に弱かった。よく人は官僚支配を批判するが、私は官僚に選ばれる人間の優秀さと、人に祝福されて学生時代を過ごしてきた人間独特の、ガツガツしない人柄の良さを肌身で知っていたから、「日本の官僚は無能だ」と嘘をつくことは、死んでもできなかった。そう言った瞬間私は、無能なくせに嫉妬心の強い男であることがばれてしまうと思った。昔、貴乃花が横綱になってはじめて、明治神宮で土俵入りを披露した時、先日亡くなった父親の二子山親方が、澄ました顔だが感無量の面持ちをしていた。息子が綱を張って、さぞ嬉しかっただろう。二子山親方は、内臓疾患もあって、結局大関止まりで現役生活を終えた。しかし、自分が果たせなかった横綱になる夢を息子がかなえた。自分ができなかった横綱土俵入りを、息子が堂々と披露している。私も「二子山親方みたいになりたい」と思った。教え子を自分の手で東大に合格させたいと思った。貴乃花親子は、その後はいろいろゴタゴタがあり、二子山親方は必ずしも世間的には幸福な死に方はしなかったが、息子が土俵入りした瞬間を見ただけでも、私なら「この世に生まれて良かった」と、幸福の余韻を残して死ねるだろう。
2006/03/20
近所のある塾から、うちの塾に転塾した子は定期試験の点数が下がる。転塾したての頃は、5教科450点の子が380点ぐらいに減る。それは近所の塾が、定期試験の過去問を集めて、解かせているからだ。私は絶対に定期試験の過去問は解かせない。というか過去問を汚物扱いする。南の海の音がする先生のブログを拝見して、過去問を解かせることを、私以上に強い意思で拒絶する先生が存在することに心を打たれた。われわれ塾の仕事は、中学高校大学入試で、合格点を取らせることである。入学試験には同じ傾向の問題は出るが、全く同じ問題は出ない。日常的に定期試験の過去問を解かせて、実力以上の点数を取らせることに、何の意義があるのか、さっぱり理解できない。南の海の音がする先生が仰るとおり、定期試験の過去問を解かせることは、カンニング以外の何者でもない。卑劣な行為だ。真の学力をつける行為ではない。そんな勉強法を取って、中学生時代に定期試験で実力以上の点数を出していた子は、高校に入って自分本来の力に気付き、愕然とするのではないか?また、テストを使い回しする学校教師は、いったい、どういうつもりなのか?テストを作る手間を惜しんでいるのか?自分の手抜きが、塾側に悪用されている事実に気付いているのか?学校の先生は毎回テストを作り変えなければならないし、塾は過去問を解かせるという行為を止めなければならない。そんな当たり前のことができていない。学校教師の手抜きと、塾講師の破廉恥さが作り上げた通知表の評価で、内申点という公式文書が作られ、高校入試の判断基準になる。これでは真面目に勉強して来た子がかわいそうだ。即刻、改善していただきたい。なお、南の海の音がする先生のこの日記、学校教師批判で、これだ見事な切り口のものに、私はあまり出会ったことがない。
2006/03/18
私は個性的だとよく言われる。人嫌いだし、感情の起伏は激しいし、言葉もきつい。おそらく、一緒にいて疲れる人間だと思う。私を嫌う人間は、個性が強いというオブラートに包んだ言い方ではなくて、変人だとか偏屈だとか傲慢だとか、悪意のこもった言葉で中傷してくる。ところでここ数年、子供の個性を尊重しましょう、個性的な人間に育てましょうと巷では言われている。文部科学省や地方自治体の教育委員会でも、「個性」をスローガンに掲げているところが多い。個性的な人間とは、私のような人間に他ならぬ。一歩間違えると変人偏屈な大人のことだ。周囲に毒を撒き散らす変な奴のことだ。文部科学省は、私のような「個性的な」大人を役所ぐるみ、学校ぐるみで育てたいのか。日本の教育行政が教育機関で育てたい理想の人間とは、私のような男なのか?お役所から子供の目標にふさわしい理想の人物像にされ、非常に光栄なことである。日本中の大人が全員、私みたいな狷介な個人塾経営者になればよい。冗談はさておき、真に個性的な人間は、就職が決まって髪を切っても、制服に身を固めても、黙っていても、個性のオーラがにじみ出る。自分の個性から逃げ出すことはできない。真に個性的な人間とは、個性が皮膚の毛穴から常に湧き出し、粘液を出し独特のにおいを放つ。そんな人間は不幸だ。強い個性は凡人から距離を置かれ、凡人の仲間の輪に上手く溶け込むことができない。個性的であるということは。言い方を変えれば、他人と違うということだ。「どうして僕は普通じゃないの?」自分の個性に羞恥心を抱く。自分の個性を呪う。ところが、真に個性的な人間の寂寞感など想像もつかない平凡人たちは、ときおり個性的な人間に憧れ、よせばいいのに、個性的な人間を演じたがる。平凡な人間が奇抜な髪型や服装で身を固め、刹那的な奇矯な言動で個性的な人間を演じても、すぐに見破られてしまう。平凡人は、個性的な人物を演じても、イミテーションの個性に疲れたら、平凡さの安住の地へいつでも帰ることができる。しかし真に個性的な人間はそうはいかない。個性的な人間にとって、個性とは運命共同体で、帰る場所などどこにもない。平凡人の「個性」は髪型を変え服装を変え言動を変えたら消え去る。しかし真に個性的な人間の個性は、頬のホクロのように、死ぬまで消えやしない。個性が弱い人間なら、学校教育というやすりで研磨されることで棘がなくなる。中途半端な個性が消え、子供が成長していく上で平凡さを身に付けることは、意外と思われるかもしれないが、実は幸福なことだ。でも真の個性は、学校教育ごときで棘は消えない。縛られることでますます棘を尖らせてゆく。そんな棘だらけの個性は不幸だ。棘があるから自分を防御できる。しかし反面棘があるから人が恐れて寄って来ない。そして最も恐ろしいのは、個性の99%は「社会」や「世間」で必要とされていないことだ。「社会」や「世間」で必要とされる個性は、実は「ゼニ」になる個性だけなのである。イソップ物語の、アリとキリギリスの挿話がある。私はこの話を、アリは平凡だから幸福で、キリギリスは中途半端に個性的だから不幸のどん底に落ちる話だと解釈している。キリギリスは怠け者では決して無い。キリギリスはヴァイオリンの腕がある。ヴァイオリンという楽器は、3歳4歳から英才教育を施さないと弾けない。キリギリスはヴァイオリンのため、幼少時から努力を続けてきたのだろうう。ヴァイオリンの腕は、キリギリスの個性だ。キリギリスの不幸は遊んでいたことではない。ヴァイオリンの腕で銭儲けできなかったことだ。キリギリスは個性的ではあったけど、その個性が金を産むほど個性が輝いていなかった。圧倒的ではなかった。それがキリギリスを死に至らしめた。キリギリスが、他人に喝采されるハイフェッツやオイストラフのような猛烈な腕のヴァイオリニストだったら、キリギリスは野垂れ死ぬことはなかったろう。孤独な個性的な人間は、孤独な者同士の過酷な競争が待っている。ヴァイオリンでゼニ儲けできる人間は限られている。皮肉なことに、個性的な人間同士の競争を審査するのは、実は平凡人である。大衆という名の平凡人の集団である。平凡人は残酷に、「こいつは上手い」「アイツは下手だ」とゴミを分別するかのように、個性的な人間を審査する。平凡人のアリは、キリギリスのヴァイオリンの腕が大したことなかったから、キリギリスを見放し、キリギリスの死体を食べた。もしアリがキリギリスの腕に、ゼニ儲けができる価値があると判断したら、キリギリスを使って一攫千金を狙っただろう。キリギリスのヴァイオリンは、平凡人アリの審査で、落第点を与えられたのだ。結論。子供に個性を求めてはならぬ。個性は絶対的に人を不幸にする。
2006/03/17
「ドラゴン桜」を読んで、一番影響を受けたのはたぶん、高校生自身ではない。むしろ高校の先生のほうが、「ドラゴン桜」という漫画に素直に感化されたんじゃないか、と思う。たとえばもし、私が地方の公立高校の教師だったら、絶対に「ドラゴン桜」の影響を受ける。間違いない。阿部寛が乗り移ったような、東大一直線教師になるだろう。 というのも、私は小さい頃から青春ドラマが好きだった。「飛び出せ!青春」の村野武範みたいな熱血教師を格好いいと思った。教師になって、クソ生意気だが骨のある、剛たつひとや石橋正次みたいな思春期の若者と喧嘩し、仲直りをして共に涙を流すシチュエーションに憧れた。また私はスポーツができないくせに、スポ根マンガが大好きだった。「あしたのジョー」や「巨人の星」や「スラムダンク」や「やったろうじゃん」や「はじめの一歩」や「MAJOR」は大好きな漫画である。だから、私がもし高校教師になったら、クラブの鬼顧問になりたい気持ちを人一倍持つだろう。高校生をビシビシ鍛えてやりたい。しかし残念ながら私は運動神経が鈍い。特に球技はからきし駄目だ。野球部の顧問をやってノックをやろうと思っても、バットに球が当たらない。ノックバットで空振りする顧問に野球を教える資格はない。サッカーになるともっと駄目だ。小学生のとき、友人達とサッカーをする時は、いつもキーパーだった。私達が子供の頃はキーパーに対する大きな誤解があって、肥満児がキーパーをやるケースが多かった。表面積が広いから、ボールが当たる確率が高いと思われていたのだろうか?また、私は太っているから、柔道や相撲や合気道の顧問ならできると思われるかもしれない。しかし悲しいことに、私は格闘技の経験がないただのデブだ。私が格闘技系の顧問なんかやったらぜすと艦長先生のような格闘技の専門家で、高校に対して厳しい目をお持ちの塾の先生から「あの高校の柔道部は、格闘技のイロハも知らない巨大ミジンコデブが顧問をやっている。どうしようもない」と舌鋒鋭く非難されるだろう。そんな情けない私には運動部の顧問はできない。だから、ただ淡々と授業をやって家に帰る、生き甲斐を持てない高校教師になっていただろう。そんな閉塞された高校教師の私を、「ドラゴン桜」は変えた。(つづく)
2006/03/16
「ドラゴン桜」を読んだのは、地方の公立高校の優等生達だけではない。難関高校の生徒も同じように読んでいる。むしろ、東大が身近な存在である難関高校の方が、「ドラゴン桜」を読んだ生徒の割合は高いだろう。教室内でも絶対話題になっているはずだ。「ドラゴン桜」が、勉強ができる高校生の東大熱を煽ったと仮定するなら、地方の公立高校生だけではなく、開成や灘やラサールの高校生の東大熱をも高めたことになる。しかし、そうはならなかった。理由は何故なのか?首都圏や京阪神の難関高校の生徒は、東大の「限界」を知っている。首都圏や京阪神なら、身近には東大生や京大生の先輩や親戚がいて、東大に入っても人が羨望するような絶対的幸福や金銭を手にしているわけではないことを、肌身で感じている。東大生は、他の大学を出た人間より、1.5倍くらいの「いい生活」しかしていない。1.5倍という数字では、若者は満足しない。結局、頑張って東大に入っても、いずれはビジネスマンや技術者として、組織に属さなければならない。おまけに組織内での出世競争・生存競争は激しい。たとえ財務省に入省しても、事務次官や主計局長になれるのは、同期で1人いるかいないかで、あとは競争から脱落する。また組織での競争は、学生時代のわかりやすい偏差値という基準で勝負が決まるのではない。会社組織では、若者には得体の知れない基準が勝者と敗者を決める。その基準がよくわからない。不気味だ。おまけに組織では、自分の生殺与奪の権利を、組織の上司に握られる。首にナイフを当てられたような状況で仕事をしなければならない。ところが医学部だと、大学病院や総合病院を退職する事態になっても、開業医として生きてゆける。組織からはみ出しても、満ち足りた生活が保障される職業は、高校生が想像する限り医者しかない。そんな現実を知っているからこそ、難関高校の生徒達は、「ドラゴン桜」の東大ファンタジーには酔わなかった。医学部という堅実な道を選んだ。しかし、医学部志向が強まったとはいえ、灘や開成の合格者数の減少ぶりは半端ではない。おそらく、灘や開成では合格者が減っただけではなく、不合格者が大幅に増えていると推測される。昨年までなら余裕で東大に合格した高校生が、不合格になっている。それはなぜか?(つづく)
2006/03/16
首都圏や京阪神の難関高校の生徒にとって、東大は現実的な目標だ。難関高校の教室では、東大という言葉が「お前どこ受けるの?」「文2」「ふ~ん、オレ理1」という具合に、ごく日常的に語られている。 むしろ開成や灘は、東大か医学部に合格しないと、「親の期待を裏切った、人生の落伍者」扱いされ、世間のさらし者になるような気がする。被害妄想かもしれないけど・・・ ところが地方の高校生は逆に、勉強ができる子でも「東大受ける」なんて周囲に言いふらすと、変人扱いされるか、冗談だと受け止められる場合が多かった。 東京に住んでいる人には意外なことだろうけど、地方には東京に行ったことがない高校生が結構いる。地方の高校生にとっては、東京という街ですら未知の世界なのに、ましてや最高学府の東大なんて、現実的にイメージできない。 東大に対してリアルなイメージをもてないから、模試の偏差値で「東大B判定」とか出ても、「本当にオレ、東大に合格する可能性あるのか?」と疑ってしまっていた。 都会の高校生がハーバードやオックスフォードに現実感が無いのと同じくらい、地方の高校生は東大に対してリアルな実感が沸かなかったのかもしれない。 また、開成の東大合格者数が180人、自分の高校が4年に1人という数字を聞くと、学力を持つ地方の高校生でも、東大に対して怖気づいてしまう。田舎の宝くじ売り場は、1等賞が4年に1回しか出ないから当選は無理で、1年に180本も当たりが出る東京の開成売り場で買ったら3億円は当たりやすい、そう考えているのと全く同じことだ。 とにかく、難関高校には東大へ集団で乗り込む列車が用意されている。難関高校の生徒にとって、最も自然な進路は東大なのだ。ところが、地方の公立高校の優等生にとっては、東大は孤剣を携えて単身で乗り込むところだった。東大は孤独な戦いを余儀なくされる、異常で特別な場所だった。そんな状況を「ドラゴン桜」は変えた。(つづく)
2006/03/15
サンデー毎日の最新号を見ると、開成や灘の東大合格者数の激減が著しい。いくら医学部志向が強まっているとはいえ、地滑り的な減少だ。いったい、どうなっちゃてるの?主な首都圏・京阪神の難関高校の東大前期合格者の数を、昨年と今年で比べてみると、大幅減の高校は開成 152→131(-21)灘 95→62(-33)駒場東邦 61→42(-19)聖光学院 48→35(-13)桐蔭学園 35→22(-13)渋谷教育学園幕張 32→22(-10)浦和県立 21→11(-10)洛南 39→27(-12)横ばいの高校は麻布 78→74(-4)桜蔭 54→58(+4)海城 52→45(-7)桐朋 27→30(+3)栄光学園 55→60(+5)巣鴨 35→29(-6)逆に、地方の公立高校が、軒並み合格者数を伸ばしている。岡崎(愛知)23→32(+9)一宮(愛知)16→28(+12)富山中部(富山)12→27(+15)金沢泉丘(石川)4→20(+16)岐阜(岐阜)12→20(+8)いったいこれは、どうしたことか?下剋上なのか、政治より早く地方の時代が到来したのか?巷で言われているように、「ドラゴン桜」効果で地方の高校生が燃えたのか?開成や灘が、内部崩壊を起こしたのか?(つづく)
2006/03/15
難関校に「あわよくば受かりたい」というスタンスでは、絶対に合格できない。「なにがなんでも、絶対合格する」という執念がないと、合格は難しい。それから難関校合格に、塾の助けは絶対必要だ。全身全霊をかけて子供を教えてくれる高い指導力を持つ塾講師と、子供の能力とやる気が一体になって、死に物狂いで受験に向かっていってはじめて、難関校合格は現実のものになる。さて難しいのは、子供と一体になってくれる先生探し、塾探しだ。難関校合格には大手塾がいいのか、それとも中小塾・個人塾がいいのか。「塾閥」という観点から言えば、大手塾にこしたことはない。しかし学力をあげるだけなら果たしてどうなのか?本音を書く。ネームバリューのある大手塾では、難関校を受験する力のある生徒以外の指導は、疎かになってしまう場合が多い。もちろん、大手塾が良心的じゃない、悪徳だという意味ではない。実は、豊富な知識と優れた指導力を持つ塾講師は、そんなにこの業界には存在しない。ましてや理系講師は、都市圏ならともかく、田舎では慢性的な人材不足だ。そんな数少ないエース講師を、超難関高を受験する子供がいるクラスに重点的に配置するのは、経営上当然のことだ。また多くの講師たちは、本音では超難関校を受験するクラスを教えたがっている。勉強が苦手な子のクラスは、当然のみ込みが悪く、講師の言ったことに対する反応が悪いわけで、またクラブ活動とかスポーツクラブとかで塾を休みがちで、教える側が一生懸命やっても肩透かしを食らわされてしまう。村上春樹的に言えば、授業をやっていて砂漠に水を撒くような虚しさを感じてしまう。さらに、勉強が苦手な子のクラスでは、親から感謝されることが少ない。感謝の言葉よりも理不尽な苦情が多い。親のやるべき事と、塾のやるべきことの境界線がわからない人が、勉強が苦手な子の親の中には多い。逆に難関校を受験する子供のクラスは授業の反応もよく、笑い声も絶えない。できる子は良く笑う。講師とすれば、何か自分が一流芸人になったような、心地よい感触を授業で得ることができる。また塾の講師は学生時代勉強ができた人が多いから、自分と同類の勉強ができる子は、価値観が似通っていて共感しやすい。講師と生徒で、同じ「文化」を共有できる難関校を受験する子供のクラスを担当すると、父母の方は講師を大袈裟に誉めてくださる。やはり子供を「できる子」にするためには、誉め上手な親にならければならないということだろう。誉め上手のお母さんは、子供どころか塾の講師まで誉め言葉をかけてくださる。「先生のおかげです」の一言が、親と子供と講師の強い信頼関係につながる。そんなこんなで、大手塾の塾講師は、無意識のうちに勉強ができる子のクラスを教えたがる。どうしても立場の弱い新米講師が、勉強が苦手な子のクラスに入ることが多い。塾の側に立って考えてみて欲しい。大手塾の経営者で、難関校に合格できる力を持つ生徒以外は、「お金を運ぶ道具」と割り切って考えている人は、少なからずいることだろう。大手塾でやっていくには、入塾時点である程度の学力が必要なのは事実だ。ではどんな塾を選べばいいか?中小塾・個人塾の先生ならどうか。中小塾・個人塾には、難関校に、放っておいても合格する力量のある子供はほとんど来ない。だから子供の学力を、万策尽くして伸ばさなければならない。中小塾・個人塾は、子供の成績を伸ばしてナンボの世界。だから死に物狂いで成績を上げる。自分の全知全能、全人格をかけて学力を伸ばそうとする。私に言わせれば、「大手塾はできる子を集める塾。個人塾はできる子に育てる塾」である。個人塾・中小塾の塾長は、大手塾の講師と違って切羽詰り方が違う。何年も子供を預かってもし不合格になったら、それは中小塾・個人塾なら塾長の責任だ。難関校に手が届くか届かないか、そんな子供にとっては、引っ張り上げてくれる強烈な指導力を持つ人が必要だ。子供を伸ばすのは、大手塾の原辰徳みたいな自主性に任せる講師じゃなく、中小塾・個人塾の星野仙一みたいな、強いリーダーシップを持つ、百戦錬磨の塾長なのだ。今岡や赤星や矢野なんかは、星野監督と出会っていなければ普通の選手で終わっていただろう。彼らは星野が引っ張り上げた選手だ。星野がいなければ、今の彼らの栄光はなかった。逆に松井や高橋由伸や松坂あたりは、どんな指導者のもとでも一流選手になれただろう。イチローに至っては、2軍時代には首脳陣に打法で文句をつけられ、監督コーチを敵に回して伸びた選手である。もし本気で難関校を目指すのであれば、大手塾の中の一員として埋もれるのは決していいことじゃない。たとえば、こんなカリスマの権化のような個人塾の星野仙一みたいな先生を探すべきだ。また退職されたが、大手塾にも当然素晴らしい指導力を持った、大手塾の星野仙一がいらっしゃる。
2006/03/15
ところで、店員が顧客に対して1対1の「個別」対応を取る業種は、行く姿を他人に見られたら非常にマズイ業種が多い。サラ金・カツラ屋・美容整形外科・風俗営業なんかがそうだ。カツラ会社の薄毛相談も、美容整形も、もちろん風俗も、店員と顧客は1対1の対応だ。サラ金の貸付審査にいたっては、「むじんくん」「ひとりででき太」とやらで、店員すらいない。とにかく、金がない、髪がない、顔がブサイク、モテナイから金払ってSEXしたい、そんな人間の奥底のドロドロした劣等感に根ざした欲望を受け止め癒す必要悪的な業種は、個別対応以外には考えられない。これら裏稼業的な業種が、病院みたいな待合室に集団で客を放り込んで、顧客同士が顔を合なければならない恥ずかしい状況を作ることは、絶対に絶対に避けなければならない。たとえばサラ金の審査が「むじんくん」ではなく集団対応だったら、とんでもないことになる。ある主婦が金策に困ってサラ金の審査に行ったら、殺風景なタバコ臭い待合室に、10人ぐらい先客が座っている。スキンヘッドのB系の薄ひげ生やした若者や、くたびれた生気のない淀んだ空気を放つ中年男や、シャネルのシャツ・ドルガバのデニム・プラダのバックに身を包んだブランド大好き姉ちゃんが、物憂げに待合室で審査を待っている。「こいつらとは一緒にされたくない」と、侘しい気持ちになるだろう。しかも悪いことに、待合室には口が軽いことで有名な近所のオバサンがいた。オバサンは「まあ、こんなところで会うなんて」とにこやかに近づいてきて、世間話を押し付ける。そのスピーカーオバサンは、自分がサラ金で金を借りている事実を棚に上げて、「あそこの奥さん、どうもサラ金で借金してるみたいですよ」と近所に言いふらす。そんな状況に陥ったら最悪だ。顧客の秘密を大事にしないサラ金は潰れてしまう。カツラもそうだ。ハゲを隠すため思い切り決断して、ア○ランスやアー○ネーチャーに緊張の面持ちで行ってみたら、待合室に10人くらい薄毛の男が勢ぞろいして、「週刊ポスト」や「ゴルゴ13」を粛々と読んでいる。自分もそんなハゲチョビン集団の1人だ。同類の人間が勢揃いしている場の雰囲気に呑まれて、気分が悪くなる。そのうち診断室から「32番の方、お待たせしましたあ」と甲高い声がかかる。そんなプライバシーを守らないカツラ屋には、誰も2度と行かないだろう。美容整形もそうだ。特に芸能人は、整形外科で一般人に目撃されただけで噂になる。秘密を守れない整形外科は最悪だ。もし、待合室を一般人と芸能人一緒にして、顔面整形の秘密がすぐにバレてしまうような整形外科はヒドイ。2ヶ月に一回ぐらいは手術にやってくる、大●愛のような上顧客の芸能人に逃げられてしまうだろう。風俗もそうだ。(以下同文)2階がサラ金、3階がカツラ屋、4階が美容整形、5階が風俗という雑居ビルのエレベーターに乗る人達の、人生模様は過酷だ。さて、私は集団指導と個別指導について、過去に何度も書いてきた。どんな講師が集団向きで、どんな講師が個別向きかという考察はこちら補習でヒーローを作り上げる方策はこちら個別指導に対する懐疑はこちらもしキムタクが個別講師・家庭教師だったら、生徒はどんな反応を取るかという話はこちらをご参照ください。
2006/03/14
個別指導が、なぜ、はやるか?それは、学ぶことを「恥」だと思っている人間のニーズを上手くつかんだからだろうと、私は考える。劣等感を持つ人間は、学ぶ姿を見られるのを恥ずかしがるし、競争を極度に嫌悪する。集団塾に通うと、学校以上の競争を強いられる。ある程度の規模の塾なら学力別クラス分けがあるし、模試の順位もシビアに出る。だから勉強が苦手な子供は集団塾を避ける傾向がある。勉強が苦手な子を持つ親も、集団塾に「疑い」を持っている。集団塾で自分の子が「できない奴」とレッテルを貼られる屈辱の事態が訪れるのではないかとの、疑いを抱いている。親戚のB君が上のクラスなのに自分の子は下のクラスになるのではないか?近所の感じの悪い奥さんの子供C君は大手塾のエースなのに、自分の子が入塾しても大勢の中のうちの一人になってしまうのではないか?そんな状況は絶対に避けたい。プライドにこだわる親は、集団塾に子供を通わせない。でも、もし集団塾じゃなくて個別指導塾だったら、競争にさらされることなく、恥をかくことなく、コソコソ秘密裏に塾通いをさせることができるのではないか。そんな心理が個別塾を流行らせたのではないだろうか?勉強が苦手な子にとっておそらく、集団塾より個別塾の方が居心地のいい環境だ。塾に通って伸びるかという視点よりも、自分達のプライドを傷つけない居心地の良さという視点から塾選びをすると、必然的に集団塾ではなく個別塾という選択になる。そういえば、大人が通う英会話教室も、個別が主流を占めている。私はあまり英会話が得意ではない。英会話のできる人にコンプレックスを抱いている。劣等感がある。もし私が英会話を上達させるために英会話学校に通うとすると、たぶん、集団指導より個別指導を選ぶだろう。私より英会話が上手な人間と一緒のクラスだと、どうしても威圧され気が引けてしまう。流暢に英会話ができる人間が、ネイティブの講師と私を差し置いて授業中jokeを交わしていたりすると、私の劣等感はmaxに達するだろう。英会話が上手な人の姿を見たくない、競争なく自分のペースでやりたい、わからないところは「誰にも見られずに」質問したい・・・とにかく、恥をかく状況には絶対に遭遇したくない。だから英会話を習うなら、集団より個別を私は選ぶ。勉強ができない子供も、英会話ができない大人も、劣等感が強ければ強いほど、知識を習得している姿を見られたくない、競争して無知をさらして笑われたくない、勉強ができないくせに勉強することは恥でしかない、わからないところを人に聞くのはみっともない、そう考えている。勉強が苦手な子ほど、つまらないプライドに縛られて、教師になかなか質問してくれないことは、教師の方なら実感しているだろう。そんな、勉強することや、人に聞くことを「恥」だと考える心理を持つ人間、誰にも知られないようコソコソ秘かに勉強したい人間を、個別指導塾がうまく引き寄せているのかもしれない。また、世の中には想像以上に「人嫌い」が増えている。他人と接触する機会を、できる限り減らしたい子供が多くなっている。昼は学校で、人にまみれてウンザリしているのに、夜も集団塾で同じように大勢の人間と接触しなければならない。こんな状況に対して、心理的に負担がかかる子供は、おそらくたくさんいるだろう。個別は「人嫌い」のニーズを叶えてくれる学習形態だ。個別指導塾は個室が用意されていたり、ブースで区切られている。個室やブースは、人嫌いの子供が他人との接触を断絶するための心地よいシェルターであり、それと同時に、学んでいる恥ずかしい姿を他人に見せないための遮断装置でもある。
2006/03/13
私が塾講師として、新人だった頃の経験を語らせてもらう。思い出すのも汚らわしいほど、大変だった。私は中学・高校時代、先生を厳しく批評するのが好きな、非常に生意気で大人ぶった生徒だった。「この人は凄い」と憧れた先生の授業は、一言一句聞き逃さなかった。ファンになって「どこまでもついていきます」という熱い気持で心が震えた。しかし「こいつは駄目だな」と私が勝手に評価した教師の授業は、寝たり読書の時間にあてたり、進級に必要な日数を満たすだけ出席して、あとはさぼって「ぴあ」を片手に、文芸座や並木座や大井武蔵野館といった映画館をハシゴした。とにかく私の心の中には、教師に対する確固とした評価基準があり、その基準は確かに青臭かったけども、青臭い分だけ誠実で排他的なものだった。自分は教師に対する審美眼があると思い込み、そんな審美眼に酔っていた。そして、授業が面白くない先生を「馬鹿教師」と決め付けていた。私は決してそんな気持ちを顔には出さない方だ。「お前の授業はつまらない。お前からは何も学ぶことはない」と本人の前で言う度胸もないし、非常識でもなかった。しかし有能な先生に対する尊敬と、無能な教師に対する軽蔑は、心の中に確固としてあった。おそらくどんな方でも多かれ少なかれ、学生時代にはそんな経験をお持ちでしょう。でも私の場合その度合いが強かったような気がする。そんな偉そうな人間が教壇に立つとどうなるか。もはやそれは、地獄の責め苦だ。教壇に立つ人に対して向けていた厳しい目が、攻守が変わって、今度は自分自身に向けられる。子供の純粋な目から、未熟で丸裸になった私の方向へ、鋭い批評の矢が放たれる。自分は「馬鹿教師」と思われている。そんな被害妄想に苦しんだ。教壇に立って始めて、大勢の子供を相手に授業することが、どれだけ大変で畏れ多いことか、身に沁みてわかった。講師歴が浅い人間にとって、授業時間は砂漠を逍遥するみたいに、永遠で長い時間に感じる。授業時間が50分ならTVドラマ1話分、90分なら短い映画1本分の長さ。そんな長い長い時間を、自分の話す言葉だけで埋めなければならない。途方にくれてしまう。徹夜で予習をしても上手く話せない。私はどもりで、話下手だ。私の目は黒板の方ばかり見て、生徒の方を向く余裕なんかない。沈黙を言葉で埋めようとしてもがき苦しむ。言葉は早口になってしどろもどろ。私の話す言葉は宙に舞うだけで、生徒には全く届いていない。教壇と生徒の間には厚い壁ができる。ノートを取らない中3の男の子の不気味な沈黙、中学校2年生の女の子の薄ら笑い、授業中サルの群れみたいに騒ぎ立てる中1クラス、「先生の授業つまんない。××先生のほうがいい。」と無邪気に寸鉄人を刺すような言葉を放つ小学6年生。解決策を見出せずに、おろおろする無能な自分。ああ、ひどい授業。自分が生徒だったら、自分の授業をどう批評するか。恐ろしくて思考停止になる。ついこの間まで、尾崎豊の「つまらない授業飛び出して、盗んだバイクで走り出す」みたいな歌詞に共感していた自分が、いつの間にかつまらない授業をやる側になってしまった運命の怖さ。思い出すだけで嫌になる。
2006/03/13
教師は、オーケストラの指揮者に似ている。指揮者は指揮台で跳ね上がり、顔に喜怒哀楽をあざといぐらいに浮かべ、髪の毛から汗のしずくをたらしながら熱い指揮を繰り広げているのに、オケからは冷めたやる気のない無機質な音しか出ないことがある。逆に、指揮者はただ指揮台にいるだけで、ろくに指揮棒も動かしていないのに、オケは艶やかな、適度の狂気をはらんだスリリングな熱い音楽を奏でることもある。教師はどうすればいいのかわからない。自分の熱意が伝わらない、自分の思想が伝わらない。それならば、指揮者として他人を相手に無駄な格闘をするよりも、自分自身を痛めつけ、ピアノなりバイオリンなり、独奏楽器の技を磨いた方が、どれだけましか。自分自身だけが向上することは意外とたやすい。しかし、他人を向上させることは、途方もなく難しいことである。
2006/03/10
今日は、公立高校入試の試験日2日目。うちは朝日新聞を購読しているが、コンビニで読売・毎日・産経・中国の各新聞を買い込んで、第1日目の問題と講評を読み比べる。こんなに新聞をじっくり読む日はあまりない。問題を見ながら、「ここは何度も何度もしつこく演習したから大丈夫。できるじゃろう」「ここの部分、授業で触れたけど、子供の脳味噌に定着するくらい繰り返さなかったな。彼らは解けただろうか? もう一押しすればよかった」「こんな問題出るなんて、予想もしてなかった。アチャー」「この問題は難しくて、B君やCさんは閃かなかったろうな」と一喜一憂している。今年の広島県、数学が難しい。公立高校の問題といっても侮れない。中学生の数学力を正確に調査しようとする意図を感じる良問だ。良問という事は同時に難問である。公立の数学の問題を相撲にたとえれば、「はっけよい、のこった」で無難に相手のまわしを取って、そのまま寄り切って勝てる問題ではない。問題にぶつかった瞬間、突然張り手を食らわされるような問題なのだ。張り手さえしのいでくれれば、あとはまわしを取って相手を土俵下に投げ飛ばしてしまえばいいのだが、張り手に惑わされて、頭の中が真っ白になって思考停止に陥ってしまう。こりゃあ数学で差がつくぜ、と思った。数学が苦手な3人の子の名前がちらつく。14日の発表まで私も子供も眠れない夜を過ごすだろう。ところで、私は受験の見送りなんて、ほとんどしたことがない。大手塾の講師だった時も、教室長に「行って下さい」と言われても「行きません」と頑なに拒否したし、独立してからも行った回数は3~4回ぐらいだ。私が受験生だったら、受験の日の朝、塾の先生が立っていたら絶対に嫌だ。妙なプレッシャーがかかる。試験の直前は1人がいい。自分が嫌がることは人にはしない。だから私は行かない。また、試験会場にいる、トレンチコートを着た同業者や学校教師の群れと遭遇するのは嫌だ。ただ、心配になってコソコソ試験会場まで行くことは度々ある。昨日も今日も行った。誰からも見られないような死角から、塾の生徒が校門に入ってゆくのを陰で見送る。まるでベンチのバットケースの奥に隠れて采配を振るっていた、カープの古葉監督みたいだ。もちろん私は生徒に声なんかかけないので、私がいることなど生徒は気付かない。時々保護者の方や生徒に見つかる場合もあるが、「たまたま通りがかっただけです」「用事のついでに来ただけだ」と無愛想にその場を去る。裏稼業の人間なんだから、表に出ることは極力慎めというのが、私の「美学」である。
2006/03/08
凄い投稿に出会った。kamiesu先生の万里の長城の問題は面白い。面白すぎる。このkamiesu先生の問題を面白いと感じた子は社会が好きな子だし、この問題が解けた子は社会の知識がある子だ。社会科という科目が好きか嫌いか、得意か不得意かを決める、踏み絵のような問題だ。私も万里の長城へ行ったことがあるが、わざわざ足を運んでおきながら、何故この問題を思いつかなかったのか、悔しくてしょうがない。何しに俺は中国まで行ったのか? ちくしょう。悔しい!ところで、合格するのがそれほど難しくない高校の社会の問題は、知識を生の形で問う。暗記していれば解ける問題がほとんどだ。子供の頭は暗記機械みたいなもので、記憶したことをそのまま物理的に吐き出してしまえば合格点がもらえる。記述問題にしても、「米の自由化の問題点を答えなさい」「高齢化社会の問題点を答えなさい」「PL法とは何か、説明しなさい」という公立高校で頻出の問題は、生徒は耳にたこができるくらい学校や塾の授業で取り上げられている。「あなたの考えを述べなさい」という発問形式になっていても、実際は暗記したことをそのまま書けばいい。記述式すら暗記問題なのだ。ところが難関高の問題は違う。記憶したことを知識としてストックするだけでは不十分で、複数の知識を重ねて化学変化を起こし窯変させる能力がなければ、絶対に解けない。頭の中に電気が走り、一瞬の「閃き」がないと解けない。しかも閃くためには、圧倒的な社会の知識がなければならない。kamiesu先生の万里の長城の問題だって、秦や明が何故万里の長城を建造したかを、知識としてストックしておかなければならない。公立高校だったら「秦や明はどうして万里の長城を建造したのですか?」という発問をするだろう。しかし難関高だったら「この万里の長城の写真で、秦や明はどちら側か書きなさい。またあなたがそう考えた理由も述べなさい」という出題の仕方をする。難関高の出題者は、受験生に圧倒的な知識材料だけでなく、それを自在に料理する能力を求めているのだ。こういう「閃き」を求める難関高の問題は、社会科の教師や社会のできる子にとっては楽しい問題だ。問題を"enjoy"できる。解いた後に「思いついたぜ、ヤッター」と快感が走る。ただ、社会科が嫌いな子、そんな子はkamiesu先生のご指摘のように女子が多いのだが、社会の問題に好奇心や興味を示さない。「万里の長城、どちらが秦でどちらがモンゴルかなんて、そんなことどうでもいいじゃん? 何が面白いの?」と思ってしまう子は、今の教育現場にはごまんといる。「万里の長城って、どこにあるの? 北海道? それとも朝鮮?」と言う子だっているかもしれない。そんな子に、いかにしてこの問題をenjoyしてもらうかが、教師の腕になる。私の授業は、果たしてenjoyさせることができているだろうか?社会を面白いと感じない子に、楽しんでもらえる講義ができているか?社会を楽しいという感性を育てているか?kamiesu先生の万里の長城の問題は、いろんなことを私に反省させてくれた。
2006/03/07
塾や学校で、有名講師の授業DVDを流すことが、なかなかできないのは何故か?(この項こちらの続き)まず、著作権の問題がどうなっているのか、法律関係に疎い素人の私にはわからない。たとえば全国的に有名なA先生という方がいて、彼は中学校の理科のエキスパートだ。塾には文系の先生しかいない。理科だけ手薄なのでA先生の市販DVDを教室で流す。塾の広告には「カリスマ講師、A先生の授業のDVDで成績UP」と書く。そんなある日A先生の弁護士から、「私のDVDを営利目的で使用しました。訴えるぞ!」との怖い怖い内容証明郵便が届く。証拠物件はデカデカと「カリスマ講師、A先生の授業のDVDで成績UP」と記された広告。逃げ場のない冷厳とした法律用語が羅列された書面に、小便を漏らしそうになる。こういうケースを想定するから、DVDを安易に塾で流したりはできない。さて、本来なら授業DVDを大量に購入してくれそうな機関といえば、学校だろう。学校で人気講師のDVDを購入して、授業中に流せばいい。画面から熱気と知性がほとばしる有能な講師の授業に、子供は目から鱗が落ちるに違いない。ただ塾の授業を公教育で流すのに、抵抗がある学校関係者は多い。塾と学校はなんだかんだいって、依然敵対関係にある。また、優れた講師のDVDを担当の教え子の前で流すのは、学校教師のプライドを傷つける。たとえば高校の日本史の時間に、教室のDVDでは有名なスター講師が、まるでその時代に連れ去られるかのような、臨場感のある素晴らしい講義をしている。自分より遥かに知識も話術もカリスマ性も上の講師の講義を、いつもは自分の授業で眠っている生徒が、固唾を呑んで見入っている。その間じっと、することなく手持ち無沙汰にDVDプレイヤーのリモコンをいじくる高校教師は、屈辱感を覚えないだろうか?プライドの高い高校の先生は、そんな状況を甘んじて受けるか?塾の講師でも同じことである。自分より能力知力ともに上の講師のDVDを、好んで教え子の前で流すだろうか?嫉妬心が先に立たないだろうか?教え子がDVDを見た後に、「世の中には凄い教え方をする先生がいるんだなあ」と自分以外の教師が褒められたら、心が乱れない講師はいない。自分の授業力の鍛錬不足を棚に上げて、カリスマ講師にジェラシーを感じてしまう。個人塾の経営者でも、よその塾から実力のある講師を呼んだり、優れた講師のDVDを流したりできるのは、よほど「あいつとは互角か、俺の方が上だ」と自分の腕に絶対的自信がある人か、または生徒のために少しでも良いものを見せてやりたいという、自分のちっぽけなプライドよりも子供が大事な、生徒を死ぬほど愛している良心的な親心を持った人に限られる。大部分の学校教師や塾講師は、優れたカリスマスター講師の力で、自分の肥大したプライドを傷つけられたくないと考えている。
2006/03/06
演劇と映画には大きな違いがある。(こちらを参照)当たり前だが、演劇はどんなに面白くなくても、観客は途中で抜け出すことはできない。役者が一生懸命演じているのに、芝居を途中で抜け出すには相当太い神経がいる。観客の途中退出は、派手なブーイングよりもはるかに役者にはこたえる。役者に喧嘩を売るのと同じことである。授業も演劇と同じだ。授業がつまらないからといって生徒が途中で抜け出すことはあまりにも挑発的だし、尾崎豊的な反抗心が必要で、教師と生徒間に激しい火花が散る。逆に、映画はつまらなかったら途中でサッサと帰ることができる。ましてや家で映画のDVDを見る時は、面白くなかったら簡単にスイッチを切れる。つまり、演劇やナマの授業は、役者や講師という「与える側」が、観客や生徒という「受ける側」を呪縛する。「強制力」が働く。映画館のように自由に出入りしたり、DVDのように気ままにスイッチを切ったりできない。芝居小屋や教室という場は、役者や講師といった強制力に支配された密室空間なのだ。それを乱すことはなかなかできない。そんな強制力が子供の学力を伸ばす。強制力というと語弊があるが、演劇的な呪縛要素、簡単に言えば「人と人の直接的なふれあい」がないと、子供に勉強を教えることはできない。インターネット塾やDVDがイマイチ広がらないのも、そんなところに理由があるのだろう。授業DVDを家で見るとき、そこに強制力はない。家で授業DVDを見ている生徒が、眠いからといってDVDを消そうとすると、画面の中の講師が「なまけるなっ!」と怒鳴ったり、或いはリモコンのスイッチをOFFにすると高圧電流が流れる技術が開発されない限り、家庭で授業DVDが圧倒的に普及することはないだろう。授業DVDを、家庭に普及させるのは難しい。優秀な大学受験生や高校生なら、他人から強制力なんて働かされなくとも、自分に甘えずDVDだけで自主的に勉強ができるだろう。しかし大部分の生徒は、そうではない。では、学校や塾ではどうなのか?学校や塾では、もっと優秀な講師のDVDが導入されてもいいのではないか?
2006/03/06
授業DVDは、今のままで世の中に広まるか?私の答えは”NO”だ。今日は前回の話の続きを・・・学校や塾で日常的に行われている授業が「演劇」なら、DVDは「映画」に例えることができよう。生の授業が脇に追いやられ、DVD授業が主流になることは、演劇から映画へ、ローテクからハイテクへ、時代の趨勢の変化を意味する。映画は百数十年前エジソンによって発明され、その後映像技術が開発改良されるやいなや、リュミエール兄弟などの功績によって急激に発展した。映画というメディアは、技術の誕生と、大衆への普及の間のタイムスパンが非常に短かった。人々は映画が街に現れると、飛びつくように映画館に通った。逆に演劇は映画の隆盛の前に、マイナーなメディアに成り下がってしまった。街には芝居小屋に代わって、映画館があふれた。映画と演劇の対決は、映画の圧倒的な勝利に終わった。ハイテクがローテクに勝ったのである。ところが授業DVDは、製作する技術も、配信する方法もとっくに開発されているはずなのに、DVD化された優れた授業が市場に圧倒的に広まったという例は聞いたことがない。もちろん映画は老若男女が観るもので、学生が対象の授業DVDとは一概に比較することはできない。しかし、優れた先生の授業が、もっと教育機関の津々浦々に広まってもいいと思う。授業に限れば、いまだ芝居小屋が全盛を誇り、映画館は広まらない。ナマの授業というローテクが、教育界では幅を利かせている。それは何故か?現在の状況は、今後優れた講師のDVD授業が一般化されるまでの、長いタイムスパンの一時期なのか?それともDVD授業は、今のように生の授業の補完的役割のまま終わってしまうのか?
2006/03/06
中学校の内申点の評価が混乱している。だが評価基準の混乱大いに結構。混乱すればするほど高校側は中学校の評価など無視する。もっと混乱せよ。絶対評価とか相対評価とか、今のような中学校の評価基準の迷走状態では、「中学校の評価は信頼できん」と、塾講師以上に高校側も大いに困っているはずだ。「A中は絶対評価点数のみで判断」「B中は相対評価主観入り」「C中は1学期絶対評価、2学期相対評価」などなど。注文が異常に複雑なラーメン屋の如き(細麺バリ固トッピングチャーシュウ油濃くスープしょっぱめ煮卵半熟一丁!)中学校のバラバラで曖昧で複雑な評価をまともに受け取っていたら、高校の現場は混乱する。高校側は試験問題の精度を高めたり、面接・作文を重視したり、独自の基準を整備するのに神経を回す。評価の曖昧さは、中学校の権威を失墜させる。そういえば、小学校の通知表の評価なんて、完全に形骸化している。「よくできる」「できる」「がんばろう」といった小学校の評価は、試行錯誤しているうちにみんなわけがわからなくなって、誰も重きを置かなくなってしまった。中学受験する子で、小学校の通知表など気にする子はあまりいないだろう。中学校の評価で一番問題なのは、英語・数学などの学力評価に、授業態度や提出物などの評価を入れ込むことだと、私は思う。例えば本来なら10段階評価で、テストの点数だけなら英語10・数学9・国語10・理科9・社会10ぐらいの点数は叩きだせる学力の高い子がいるとする。しかしもし、その子が時間にルーズ、提出物を出さない、授業態度が悪い、ふてぶてしい・・・そういう子供は全ての科目で点数を減らされ、英語6・数学6・国語7・理科5・社会7といった、低い点数しかゲットできない。本人の自業自得とはいえ、これではちょっとかわいそうでしょう。事情を知らない人がこの点数を見ると、この子は普通の学力しかないと思ってしまう。この子がずぼらで、思春期特有の生意気さを持っているといった、点数の裏にある行間の意味は読み取れない。定期試験のテストが簡単すぎる場合、評価基準はもっと曖昧になる。相対評価では特に、定期テストが簡単すぎた場合には、ほとんどの子が良い点を取ってしまい、真の学力が見えてこない。平均点が65点ぐらいの真っ当な学力がわかるテストで、A君は100点、Bさんは70点ぐらいの点数を取れるとする。そうなると10点満点の相対評価では、A君は当然10点、Bさんは7点ぐらいになるだろう。これなら誰もが評価に納得する。ところが愚かな教師が平均点90点ぐらいの簡単なテストを作ると、学力の高いA君がケアレスミスで5点を失い95点、真面目だが定期試験の簡単なテストでしか点数が取れないBさんが98点。相対評価の内申点にすると、A君7点、Bさん10点になってしまう。これでA君が「ずぼら」な性格だと、教師の心象を悪くしA君は5点しか取れない。学力が高いA君は5点、そうじゃないBさんは10点。こういう得体の知れない評価が日常茶飯事なのだそれでA君は中3の11月ぐらいの懇談会で学校の教師から「お前の通知表の点数では進学校は無理だ」とか言われ、A君もお母さんも自信を無くし、レベルの高い高校を受験することをためらうという結果につながる。エリートを育てる難関私立とは違って、公立中学が無難で従順な中産階級の育成を目標にしている以上、この評価方法は理にかなっているとは言えるのだが、それにしてはいたたまれない。学力評価は、テストの点数しか基準にしないで欲しい。性格なり授業態度なりの評価は、学力評価とは全く別個に行う。学力評価には余分なものを一切入れ込まない。こういう態度で一貫していただきたい。問題がある子がいたとすれば、高校へ送る内申書には、「問題児」と記されたでっかい赤いハンコを押し、横には細々と嫌味ったらしいコメントが書けばいい。高校側は面接なり作文なりでその真偽を確かめる。中学校の教師は、子供が言うことを聞かなかったら、でかいハンコを振り回して「逆らったらこのハンコ内申書に押すわよ」と脅しをきかせばいい。
2006/03/04
塾の先生がDVDを作るケースが多い。ブームかも知れぬ。俺もやろうかしらん。ただ、俺が出演するDVDを作ったら、怪しさこの上ないものができること請け合い。だから絶対にやらない。俺のキャラをニューミュージック界の歌手に喩えると、松山千春の過激性、長渕剛の反体制性、井上陽水の変態性、小田和正の陰気性、さだまさしの女々しさ、中島みゆきの躁鬱性など、各歌手の嫌なところばかり全部持ち合わせている。怪しい教祖の布教ビデオみたいで、見る人はドン引きするだろう。だから監修はする。演出はする。でも出演は絶対にしない。もしDVDを撮影したとしても、授業を商品として発売する以上、ライバルは市販のDVD全てだ。「ハウルの動く城」「ハリーポッター」「踊る大捜査線」などの映画やアニメやドラマのDVD、SMAPやサザンや浜崎あゆみやモー娘のライブDVD、ダウンタウンやM-1のお笑いDVD、K-1やPRIDEの格闘技DVD、これら全てが私のライバルになる。金と才能を惜しげもなく注ぎ込んだこれらのDVDに、私みたいな汚いオッサンがホワイトボードの前で講義するDVDが、同じ土俵で勝負できるわけもない。トトロやキムタクや魔裟斗や桑田佳祐や松本人志やアンパンマン相手に勝てるわけがない。DVDを作ったとしても、授業のDVDを自分で買って見るのは、ごく少数の真面目な学生だけだ。普通の学生はまず買わない。うちの近所の大手塾はDVD授業を売り物にしているが、わざわざ塾に生徒を呼んで、授業のDVDを見せている。家庭にはDVDのハードがあり、気軽にいつでも見れるはずなのに、塾に通ってDVDを見るのだ。やはり授業のDVDは、強制力を働かせないと大部分の生徒は見ないのだろうか。ところで、教師の授業姿を映したDVDは、絶対にナルシストの匂いを撒き散らしてはならない。講義している講師が、俺の話は華麗だろう、俺の知識は凄いだろう、俺は個性的だろう、俺の教え方は上手いだろう、俺は格好いいだろう、俺はこれから世に出る野心的な男だぞ、そんな雰囲気が少しでも出ていると、視聴者は嫌悪感をおぼえる。講師が過剰に自分をアピールすればするほど、観る人はドン引きする。生徒の方に向かって講義するのではなく、うっとりと自分の姿を鏡を見ているような、自己耽美的な気色悪い映像に仕上がったら悲惨なことになる。そんな、講師がビデオカメラを鏡と勘違いして出演しているDVDは痛々しい。いい歳したオッサンが鏡の前であれこれポーズとっている姿を見て、格好いいと思う人はいない。噴飯ものである。(つづく)
2006/03/04
私は早稲田大学の出身である。OBの私が言うのは気が引けるが、早稲田というのは「ビミョー」な大学だ。「在野精神」をことさら主張するくせに、実際は体制(古めかしい言葉だけど)に組み込まれている。また、私学の雄として、慶応と並んで私立の最難関とされているが、実際には東大の後塵を拝しているわけで、東大と早稲田両方合格した人が早稲田に進学することはまずない。反体制的在野精神を気取ったかと思えば大手企業や公務員に人材を送り込んだり、私学最難関大学として威張る反面で東大の前で小さくなったり、なんとも立場が「ビミョー」にあれこれ変化する。ところで、私は開成高校から早稲田へ行ったが、「開成なのに、何で東大じゃなくて早稲田なんですか?」「キミ、開成の落ちこぼれ?」なんてズバリ聞いてくる不届き奴がいる。開成高校は400人卒業生を毎年出すが、そのうち160人ぐらいが東大に合格する。最近では東大に合格する学力を持ちながら地方の国立医学部を受験するケースが増えているから、200人くらいが東大の学力を持っているといっていい。残り200人が「開成の落ちこぼれ」ということになる。私もその一人だ。確かに開成の落ちこぼれと言われて腹が立つが、事実なのだから仕方がない。そう言われても仕方がないくらい、とにかく開成には凄い奴がたくさんいる。私の高校2年・3年でいっしょのクラスだった同級生に、N君という男がいる。彼は頭脳明晰で、しかも強引なくらい押しが強く、胆力があり若年ながら恰幅の良さを感じた。リーダーとしてのオーラをぷんぷん周囲に撒き散らしていた。まるで石橋貴明を知能指数180にしたような男だった。当然の如く彼は文1に合格し、大蔵省に入省した。そして昨年37歳で財務省を辞めた。彼は衆議院選挙に立候補し、小選挙区では僅差で負けたが、比例で復活当選した。いまや彼は小泉チルドレンの1人である。2世でも3世でもなく、普通の家庭の生まれなのに、37歳にして衆議院議員だ。彼は高校生時代から、将来大成功を収めそうなオーラを漂わせていた。こんな凄い男が同じ教室で勉強しているのだから、「おまえは開成の落ちこぼれ」と言われても、腹が立つより先に「おっしゃるとおりです」と納得するほうが早い。だから、早稲田の人間が、バリバリに頭の切れる東大生の中で這い上がってゆくには、頭の中身では太刀打ちできない。竹刀は真剣には勝てぬ。どうすれば早稲田は東大に拮抗できるのか?私のように在野にいて、僻みっぽくあれこれ好き勝手な意見をブログで書きまくるような男が、早稲田大学に対する世間のイメージに近いかもしれない。大隈重信の建学精神を、私のような男が体現しているのかもしれない。言葉で体制を打つ。確かにマスコミや広告業界では、私みたいなアクが強い男が幅を利かせている。でも企業や役所や銀行で働く早稲田OBは、紳士的で人間関係を上手く保つことに秀でた人間が多い。というか、そうでなければ組織の中でやってはゆけない。組織で成功する早稲田人は、[いい人」が多い。たとえば、早稲田出身の総理大臣は調整型の政治家が多い。竹下登・海部俊樹・小渕恵三・森喜朗。知性よりも人間関係重視型の政治家だ。彼ら頭の切れる政治家や官僚を統率するのに、鋭い知性ではなく、謙虚過ぎるくらい謙虚に気を使い、トップの座に就いた。「ちょっとこいつらバカっぽいな」と言われながら、頂点の座に就いた。「バカっぽい」と周囲に思わせることも、出世の秘訣なのだろうか?とにかく、在野の早稲田人はアクの強さで世間を生き抜き、体制内の早稲田人は慎重さ謙虚さで這い上がる。早稲田は落ちこぼれかもしれないが、面白い大学だ。
2006/03/04
1年間に日本人が3万人自殺している・・・らしい。一日100人弱のペースである。3万人の自殺者がいるということは、自殺願望者は10倍の30万人くらいは日本に存在するのだろう。生き続けても嫌なことばかりで、行き場のない現世よりも死後の「無」の世界のほうがましだ。生きることと死ぬことを天秤にかけ、死の方が適していると判断した人間が自死を選択する。さて、自分の命を消そうか消すまいか迷っている天涯孤独な不遇の人間にとっては、自分ひとりが破滅するより、他人も道連れにして破滅した方が都合がいいのではなかろうか?現状の社会に大混乱がおき、リセットしたい願望に囚われるのではなかろうか?ホリエモンは留置所で、ひとり乱世を望んで、もう一度人生やり直したいと思っているに違いない。自殺を志す者には、戦争や天災は願ってもない絶好の機会だ。戦争や天災は、自分を自殺まで追い込んだ状況をリセットし、人生を一からやり直すチャンスである。死の恐怖は想像できないから異様に怖い、しかし戦争や天災の恐怖ならある程度想像できる。しかも乱世に乗じて、成り上がることすら夢ではない。都会の片隅のアパートで、若者が眠剤を数百錠服用して死のうとする瞬間、大地震が起きる。家が倒れ火が燃え盛る。地震が起こるまで死ぬことなんか思いもつかなかった幸福な人々の身体が炎に包まれ、黒焦げ死体になって路上に放置されている。死にたかった自分が生き延び、死にたくなかった他人が死ぬ。また、高層ビルから飛び降り自殺をしようとする瞬間、若者の携帯メールの画面には、「尖閣諸島の魚釣島付近で、中国海軍の軍艦が海上自衛隊の巡視船を攻撃、中国政府は日本政府に宣戦布告しました」という画面がうつる。おそらく、若者は狂喜するだろう。チャンスだよ。死ななくていいよ。日本を救うのは俺だけだよ。エヴァンゲリオンに乗れるのは俺だけだよ。戦争は一種の集団自殺である。自分ひとりで死ぬより皆で死にたい。死ぬのは俺だけじゃないんだぜ。どうせ死ぬなら孤独な死じゃなく、日本国民みんなで騒然とした狂乱死を選んだ方が素敵じゃないか。戦争は当然リスキーで、死と隣り合わせの危険が満ちていることはいうまでもない。しかし自殺願望者が多くなり、「リセット」を望む人間が増え、厭世的な空気が広がると、戦争を待望する声が高まる。戦争の方が自殺よりましさ。戦争とは不幸ではなく、ある種の人にとっては幸福への足がかりであることを、われわれは認識しなければならない。反戦論者は、いま自分が幸福だから戦争反対を主張できる。しかし逆に不幸な人間には、戦争は自分の人生をリセットする最高の舞台だ。
2006/03/01
集団授業がいいのか、自立学習・個別指導がいいのか、私もかなり悩んだ時期があった。ある時は集団授業に心が動き、またある時は自立学習に軸が傾いて、一方の極から反対の極へと、指導形態が大きく動いた時期が、私の塾にもあった。 集団授業は、やっていて爽快だ。私はそんなに話がうまい方じゃない。しかし教室内のたくさんの生徒が一斉に、私が語る知識を吸収している様は、語る側からすれば快感だ。授業は、まるで池で泳ぐ腹をすかした大量の鯉に、餌をばらまく気分に似ている。ひょいと池に餌を放つと、鯉は喧嘩しながら飛びついて来る。水しぶきの轟音が庭に響く。 授業では、当然子供は鯉みたいに盛大な音は立てない。私が話している間、教室は静寂を保っている。しかし、微動だにせず私に向いている澄んだ目は、子供が飢えた鯉みたいに私の話にかぶりついている、何よりの証拠だ。私みたいな話しベタな人間の話でも、子供は真面目に聞いてくれる。 講師が集団を統率する力に酔いしれるためには、集団授業は願ってもない装置なのかもしれない。ところが、池の鯉の中には餌にありつけない者もいるように、明らかに授業中、私の話が理解できていない子もいる。どんなにこちらが「今日は快調だ!」と充実感を覚える授業をしても、何人かは授業の輪から阻害されている。 特に数学・算数では、1回の授業で生徒が同じ満足感を得ることなどありえない。下に合わせば上が退屈する、上に合わせば下が取り残される。 結局、自分は話がうまくて統率力があるなと思う瞬間があったとしても、それは自己満足に過ぎないと最終的には気づく。 実は勉強が苦手な子に合わせて万人受けする授業をするのは、ある程度経験を積めば簡単なことだ。難しい分野を噛み砕き、面白おかしく脚色して話せば、勉強ができる子も苦手な子も、楽しく授業を聞くことができる。大事なところを、さも雑談であるかのように見せかけて講義する。この方法だったら誰もが授業を楽しめる。 勉強が苦手な子はそれでいいでしょう。力がつき、しかも楽しい授業を聞くことができる。しかし勉強が得意な子にとって、上から下まで全員が満足するような「明るく楽しくわかりやすい」授業が、真の学力がつく授業かといえば、絶対にそうじゃない。勉強が得意な子は、そんな授業じゃあ、話の面白さには満足するが、学力は到底つかない。 勉強が得意な子をさらにパワーアップさせるには、彼らの力を100とすれば、難度が120ぐらいの授業をしてやらなければならない。勉強が得意な子は、難問を与えて、少々突き放してやらないと絶対に伸びない。 勉強が得意な子にとって、ぬるま湯的な環境は禁物だ。イチローや松井や野茂だって、メジャーに挑戦したから力が伸びた。 問題の難度を上げ、また子供だからといって妥協することなく話のレベルを上げて大人扱いすることで、勉強が得意な子は自分の足りない部分を意識し、謙虚になる。 また、勉強ができる子にとって難しいことは面白く、突き放されて喰らいつくことは快感で、その喜びが学力をアップさせる。 それに勉強が得意な子は、子供に妥協せずハイレベルな話をする講師に敬意を持つ。自分の目線にまで降りてくる講師には親近感は抱くけど、師と仰ぎたいとは絶対に思わない。 真の酒好きが、喉が焼けるようなアルコール度数の強いスピリッツを好んで飲むように、勉強が得意な子は心のどこかで、甘口よりも辛口を志向する。だから勉強ができる子にとって、授業は知的刺激を与える辛口のものじゃなければ絶対に駄目だ。 しかし、勉強ができる子向きの刺激的な授業をやってしまったら、勉強が苦手な子が授業中どうなるか、結果はわかりきったことだ。
2006/02/28
個人塾をやって外界と遮断されてると、どうしても「お山の大将」やら「井の中の蛙」になってしまいがちだ。変人で偏屈なオヤジになってしまう。1人で塾をやっていると、押さえつけてくる経営者はいない、手本になってくれる先輩講師はいない、競争相手の同年代講師はいない、着実に力をつけて追い越そうとする若い講師もいない、とにかく周囲には生身で私に刺激を与えてくれる大人がいないわけで、まさに自分の力を過信して勘違いする環境なのですね。甘えていたら、その勘違いはとどまる所を知らずにどんどん肥大化してゆく。しかし小さいながら塾をやっていると、子供の前では一応大将にならなければならないし、大海なんて知らないくせに、世間のことをわかったふりして子供に語らなければならない。自分の能力や知識がしょぼいものだとわかっていても、自分をさらけ出さなければならない。羞恥心で胸が張り裂けそうになるときがある。ところで、僕は結構大手塾に憧れている。通用しないのはわかっているが、2~3回ぐらいは大手進学塾の教壇に立ちたいという願望を持っている。大手塾はレストランでいえば、フランス料理のグランメゾンみたいな感じだろうか。シェフの号令の下、若い料理人たちがお互いに競いながら絶妙のチームワークで、見栄えが芸術的かつ、超絶的美味の一皿を作り上げる。逆に僕がやってる個人塾は街の洋食屋で、朝から晩までカレーを煮込んだり、牡蠣フライを揚げたり、キャベツを刻んだりしている。結構僕も自分の仕事に誇りを持っているが、でも大手塾という華やかな晴れ舞台を踏んでみたい気持ちは誤魔化せない。まあ、僕にとっては組織は居心地が悪いし、また僕がいると組織のほうもキクシャクするだろうから、喧嘩して1週間持たないだろうけど。
2006/02/28
教師は子供に対して、あらゆる事柄を意味も教えず、ただひたすら丸暗記させる潔さがいる。「読書百遍、意自ずから通ず」的な割り切りも、教師には必要だ。意味など教えるな! ひたすら丸暗記させてしまえ!英語の単語は言うに及ばず、社会の歴史人名でも丸暗記が大事だ。英語の単語と同じように、歴史人名も機械的な丸暗記でかまわない。歴史人名を、電話帳に掲載されている人名と同じような、意味がない「記号」と割り切って暗記させることを躊躇してはならない。教科書に出てくる歴史上の人物が何故凄いのか、なんで教科書に載る価値がある人物なのか、いちいち説明していたらきりがない。太閤秀吉や源義経やコロンブスの偉大さなら子供にもわかるかもしれないが、本居宣長や世阿弥やダンテの価値を子供に理解してもらうには、子供の側にある程度、教養の積み重ねがなければならない。本居宣長や世阿弥の斬新さが理解できる教養は、とても10代で身につく種類のものではない。小学生・中学生は「本居宣長・古事記伝・国学」と暗記すればそれでいいのだ。松井秀喜やキムタクや宮崎駿の凄さなら、子供は体感的にわかる。しかし本居宣長や世阿弥の魅力は、「大人の世界」でしか理解できない。子供の頭に植え込む種は、黒かったり茶色かったり形もさまざまで、将来どんな草が生え、花が咲くかわからない。種が種の姿をしている時は、そこに意味などない。しかし、本居宣長という種でも、世阿弥という種でも、どんな種でもいい、将来そこからどんな芽が出て、どんな木が育ち、どんな花が咲くかわからなけど、ただひたすら教師は子供の頭に種を蒔き続ける根気と、「強制力」を施すことが大事だ。教科書の事柄すべて、森羅万象、子供に理解させることは無理だ。私の好きな佐野元春の「SOMEDAY」という曲に、こんな歌詞がある♪窓辺にもたれ 夢の 1つ1つを 消してゆくのはつらいけど 若すぎて なんだかわからなかったことが リアルに感じてしまう この頃さ子供が「リアル」に本居宣長の凄みを感じるまで、たくさんたくさん、種を蒔き続けよう。
2006/02/26
暗記の「強制」は、かつて「詰め込み教育」といって批判された。確かに「詰め込み」という言葉には、強制的にトウモロコシを口に詰め込まれるガチョウや鴨のフォアグラみたいな、恐ろしい響きがある。今から30年ぐらい前に、松本清張原作・野村芳太郎監督の「鬼畜」という映画があった。主人公の緒形拳は、気が弱くて貧しい印刷工。緒形拳は貧しいくせに本妻に隠れて愛人を作る。愛人は3人の子供を作るが、緒形拳が金に困って生活費を愛人に渡さないので、愛人は緒形拳に子供3人を押し付けて逃げてしまう。残された子供3人は、やむ終えず父親の緒形拳が引き取ることになるが、本妻は血のつながらない愛人の子供をいたぶる。そんなストーリーだ。愛人は小川真由美、本妻は岩下志麻が演じるが、イジメ役の岩下志麻の演技は壮絶だった。物語は酷暑の夏に設定されていて、家は貧しくてクーラーがなく、岩下志麻は安物の服を着て、いつも神経質にうちわをバタバタあおいでいる。岩下志麻は眉毛が薄く、般若のような面相で愛人の子をいじめる。ある日、女の子が不貞腐れて食事をしない。それに激怒した岩下志麻は、おひつの米を手でつかみ、女の子の口に「食え! 食え!」と、阿修羅のような顔で米を詰め込んだ。女の子は泣きわめく。私は「詰め込み」という言葉を聞くと、この「鬼畜」という映画の岩下志麻の行動を思い出すのである。とにかく「詰め込み」というコピーは良くない。もっとオシャレな抵抗のない呼び方はないだろうか?「種蒔き」教育というのはどうか?「詰め込み」だと限度を超えたら子供は吐き出してしまうが、「種蒔き」だと吐き出す心配はない。でもなんか、ダスキンみたいだ。
2006/02/26
最近教育界では、素読とか暗唱とか丸暗記とか、古くからの「単純」な学習法が見直され、復活しつつある。これら「単純」な学習法は、戦前の小学校・中学校では抵抗なく行われてきた。ところが、これらオールド・ファッションな学習法、特に暗記の「強制」は、戦後長い間脇に追いやられ、ないがしろにされてきた。暗記の「強制」という古来の勉強法が邪険にされてきたのは、さまざまな理由があると思う。タイムスパンを戦後に限って考えれば、その理由の第1は「刷り込み」教育に対するアレルギー。戦前の小学校で、教育勅語を「無理やり暗記」させたことが、太平洋戦争の敗北につながったと考えている人が、教育界には多い。だから日教組の台頭もあって、「強制的」な暗記に対するアレルギーを持つ教員が現場の主流になった。第2は子供を「生き生きと、個性的に」育てようという気分の蔓延。子供は生来、かけがえのない個性を持っている、生き生きと自由に育てなければならない、という気分が戦後の教育界を支配した。暗記の強制は、戦後の民主的な気分とは真っ向から対立する勉強法である。良心的な教師ほど、子供が生まれながらに持っている自然さを、暗記の強制が「穢す」恐れを抱いた。タイムスパンをもっと広げて考察すると、中国的な丸暗記勉強法の「敗北」こそが、暗記を忌避する最大の原因だろう。中国では、幼少のうちから四書五経を子供に諳んじさせた。内容の理解よりも暗記を優先させた。科挙は記憶力勝負の試験だった。そんな、記憶力の優劣を基準に中国全土から選抜された秀才が王朝を支配した結果、中国は西洋に負けた。古来の価値観に縛られ続けた中国の官僚組織は、西洋の侵攻を食い止められず、中国の半植民地化を許した。西洋ではルネサンス期以降、修道院での教義中心の黴臭い学問芸術が批判され、自由な学問芸術がそれに取って代わった。ダビンチ・ガリレオ・ダンテ・ミケランジェロなどの大天才が、自由な時代の気分の土壌から輩出した。因循姑息で旧弊な学問にこだわる中国が、自由闊達で自主性を重んじた西洋に、芸術の「格」でも、科学技術や武力においても負けた。暗記力のみに囚われた学問は、時代の趨勢に対処できない、堅苦しい脳味噌を作るものと見なされた。日本の教育も、そんな世界情勢を横目で見て、江戸時代の「中国的」な学問から、西洋的な「実学」へと、明治以降シフトしていった。とにかくここ数百年の学問の歴史の大流は、大人の用意したものをただ暗記させる方向から、子供の自主性に任せアイディアの閃きを待つ方向へ流れている。学問は、儒学やカトリックが縛り付ける暗記の暗闇から、人間性に重きを置いた独創性の光明に向かって解き放たれた。その流れ自体は、私は間違っていないように思う。しかしそんな流れが戦後の教育界の大潮流になった反動か、「学力低下」が叫ばれるようになり、その反動ゆえか学校でも塾でも、暗記とか素読というオールドファッションな勉強法が復権しつつある。勉強法の保守回帰だ。でもね、素読とか暗記とか、「単純」な誰でも教えられそうなことって、塾でやっていいの?手抜きじゃない?保護者の方も塾講師も、心のどこかでそう考えている。高いお金を払ってるのに、塾で素読とか暗唱とか丸暗記とか「単純」な作業をやらせることは、保護者の方には抵抗があるに違いない。学校でもできるじゃない、そんなこと。塾では「単純」なことよりも、学校の先生が説明に60分かかるところをたった5分で理解させる魔術のような講義をしてほしい、受験合格の秘儀を教えてほしい、勉強にメロメロになるような媚薬を与えてほしいというのが、もしかしたら保護者の方の本音ではあるまいか。また、われわれ塾や予備校の講師の側にしてみても、「学力を伸ばすには、素読と丸暗記が一番」と堂々と言い放つことは、凄く抵抗がある。塾や予備校の講師のウリは「華麗な講義」だった。わかりやすく楽しい講義をする講師はスターになり、参考書を著しサテラインで全国に授業が配信され、億に届く収入を得た。塾を選ぶ側の親や子供も、授業の「わかりやすさ」「楽しさ」を基準にして講師の力量を判断する傾向が強かった。塾や予備校の講師も、授業の「わかりやすさ」を目指して、自己研鑽してきた。外科医が手術の腕で、野球選手がヒットを打つ技術でメシを食っているなら、塾講師は「わかりやすい」講義でメシを食っている。塾講師のレーゾンデーテルは講義の腕に他ならない。そんな塾講師が素読と丸暗記の重要性を強調することは、塾講師のレーゾンデーテルを自ら否定することにつながってしまうのではないか?「わかりやすさ」を追求すべき講師が、素読と丸暗記といった「単純」な作業に学力向上の救いを見出すことは、自らの敗北を認め、逃げに走っているのではないか?暗記を強制するだけなら、ヤクザ体育会系の怖いオッサン連れて来て講師やらせれば一番いいんじゃないか?塾講師は、こんな心の声と戦っている「暗記や素読なんて、誰にでもできそうなことをやるなよな。それって負けじゃない?」「どうせおまえが「わかりやすい」講義ができないんだから、暗記とか素読とか言ってんだろうが」「子供の学力が伸びないのは、お前の「わかりやすさ」が足りないのだ。」塾講師が強制的な丸暗記や、素読が大事だと言い放つとき、そこには罪の意識なり、恥じらいを感じざるを得ないのだ。ところが、強制的な丸暗記なくして、「わかりやすさ」だけを追求した授業をやってしまえば、授業が空回りし、講師が話す言葉が空を舞っているような体験を、最近数多くの先生がしていらっしゃるはずだ。中3なのにセンター試験の問題で160点も取るようなハイレベルな学力を持つ生徒を大手塾で教えていらっしゃるkamiesu先生や、トップレベルの「わかりやすい」授業を塾でされていることが文面からわかるぜすと艦長先生ですら、暗記の重要性を強調されている。腕の立つ先生ほど、「暗記が大事」と声を大にして論じていらっしゃるのは、いったいなぜか?塾の授業の「わかりやすさ」は、苛烈な競争のおかげで昔よりも格段に上がっているはずなのに、どうして「わかりやすさ」のレベルアップに反比例して、学力低下が叫ばれなければならないのか?やっぱり、学校の「ゆとり教育」のせい?
2006/02/25
二極化が進んで、負け組とか下流社会が日本にも誕生するらしい。所得に余裕のない人が増えると、教育費にも当然しわ寄せがいく。大人になって芽が出て花が咲くだろう種子を、子供時代に撒くチャンスを貧しさが潰す。そんな時代は本当に到来しつつあるのか?そういえば最近、「家が貧しいから進学できない」 と、耳にするケースが多い。果たしてそれは本当か?そこまで日本は貧しいのか?私には「貧しさ」が、本人の努力不足と怠惰の言い訳になっているようにしか聞こえない。貧乏が、有為な人材の進学を阻害するところまで、今の日本が堕ちているようには見えない。貧しさに負けた、世間に負けたは自己正当化に過ぎぬ。極端な例で恐縮だが、路上で牛糞にまみれて生活しているインドの不可触民が、マハラジャになる金を稼ぐには、途方も無くマジカルな錬金術的方法しかない。だが、日本の大学や専門学校に通う金は、アルバイトをすれば十分稼げる範囲の額だ。私もそうだったし、友人や教え子の中にも、そんな苦学生がいた。「貧しいから進学できない」は、言い訳に過ぎない。金取り虫の塾だって、才能を眠らせることはしない。やる気はあるのに、家に事情があり塾に通う余裕がない子は、大手塾なら奨学金制度はあるし、個人塾でも事情を聞けば、何とかするのが当然だ。私は金の亡者かつ冷血人間なので、報酬のない仕事は決してしないが、私みたいな例外を除き、大部分の良心的な先生は、意気に感じて、何らかの手段を取るだろう。学力とは、大人になって世間に向けぶっ放つ弾薬であり、戦いの兵糧米であり、芽を出し花咲かせるための種子である。弾薬庫と食糧蔵は、若いうちに満タンにしておかねばならぬ。学力をつけるのに迷いはいらない。堂々とつければいい。学び場を去る理由を、貧乏のせいにしてはならない。
2006/02/19
あちこちで猫を探している。早く自分の飼い猫が欲しい。寺や神社の境内、ネットの里親募集、ペットショップ、路地の片隅など、いろんな場所を探しているが、私の「ポン太・ピノ子」になるべきカワイイ子猫は、いまだに見つからない。子猫は今あまりいないし、いたとしても大きすぎたり、目がキツかったり、元気がなかったり、人嫌いで逃げまくられたりで、ルックスが良く可愛げがある子猫はなかなかいない。知らず知らずのうちに、この猫は可愛い、あの猫は可愛くないと、可愛げを基準に、猫を「選別」している。さて教師諸君よ、我々は猫と同じように、生徒を可愛い子、可愛くない子と勝手に「選別」していないか?生徒を平等に可愛がる教師が「良い教師」とされている。どんな過激な学園ドラマの教師でも、生徒を不平等に扱ったりしない。生徒を平等に扱うことは、良い教師の「鉄則」で、エコ贔屓はタブーになっている。しかし、人間には可愛らしいものを求め、憎たらしいものを生理的に嫌う本能がある。生徒を平等に扱うのは難しい。たとえば授業中当てたら「チッ」と舌打ちし、( ゚д゚)ハア? と生意気で陰険な表情をし、ガンを飛ばすような性格に問題のある女の子を、あなたは愛せるか。kamiesu先生の東大寺学園高校に合格した男の子みたいな素晴らしい子と、( ゚д゚)ハア?女の双方に、平等に同じ愛を注げるか?それにはある種の「修行」が必要だ。そこへ話が「性的」なものが絡まると、話が非常にややこしくなる。子供に性的関心を抱く不届き教師がいる。猥褻行為で逮捕される教師は、実は在職中には異常に面倒見の良い先生だったりする。面倒見がいいのは子供を性的に愛していたからに他ならぬ。自己犠牲のカタマリでストイックなイメージの教師が、実は性に溺れた破廉恥な人間だったケースはよくある。もし教師が1人の子にある種の性欲を感じ、メロメロになってしまったら、教室の秩序は一気に壊れる。たとえば小学校4年生の担任の、チェ・ジウことユジン先生がいる。ユジン先生は美しく、生徒の人気者だ。どの子にも精一杯の愛を注いでいた。そんな平和な教室に、髪がサラサラで少し茶色ががって長く、知的な目をして、唇の少し厚い少年ヨン君が転校してきた。メガネはまだ低学年なので、かけていない。ユジン先生は恋に落ちた。ヨン君もユジン先生を慕った。ユジン先生はヨン君への愛で頭がいっぱいになる。授業中もヨン君に意識が集中している。家でもヨン君のことを想像するだけで、胸が苦しい。そこへある日、ヨン君が「先生、僕悩んでるんだけど、聞いてくれる」とユジン先生に話しかけた。ユジン先生が「何?」と優しく尋ねると、ヨン君は、「僕ね、視力が落ちて、メガネをかけなければならなくなったんだ。恥ずかしいです。先生、僕のメガネ姿が似合うかどうか、見てくれる?」ユジン先生が「いいわよ」と言った瞬間、ヨン君はメガネケースから真新しいメガネをかけて、ユジン先生の前で恥ずかしそうにキラリと微笑みかけた。ユジン先生はヨン君のメガネ姿にウットリし、気絶しそうになる。頭の中に「冬ソナ」のテーマソングが流れる。こんな状態になったら、教室はグチャグチャだ。不平等の嵐だ。ヨン君と同じようにユジン先生を慕っているサンヒョク君は「先生最近おかしいよ」と心を痛め、意地悪でおませなチェリンちゃんは「先生とヨン君できてる」とからかう。どの生徒に対しても、わけへだてなく平等に接するのは難しいが、絶対に平等に接しなければならないのが、われわれ教師の使命である。
2006/02/16
ここ数年、広島の原爆資料館の入場者数が減少していると、新聞に書いてあった。おそらく子供の数の減少と、修学旅行の行き先の多様化が、原爆資料館の人気低下につながったと思われる。最近の修学旅行は、沖縄が人気だもんね。また、TDLやUSJなど、スリルを体感できる遊園地に人気が集中している。家では視覚的なゲームはできるのだから、外ではスリルを疑似体験したいという気持ちはわかる。またゲームセンターにしても、体感系のゲームが人気を集めている。そんな傾向に便乗して、社会という教科の学習には、アトラクション的な体感系の要素を取り入れると面白いだろう。たとえば、韓国の植民地時代に独立運動をした人たちが収容された西大門刑務所跡は、いま歴史館になっている。ここでは「日帝時代」の拷問が体験できる。かつて独立運動家が受けたのと同じ拷問を、子供達がお化け屋敷感覚でキャーキャーいいながら受ける。こんな体感を子供の時にしてしまったら、日本への恨みは子孫代々、確実に受け継がれてゆくだろう。子供時代に「体感」したことは、生涯忘れない。日本の博物館や歴史館の大部分はそうだが、原爆資料館も視覚的要素のみに囚われ、「体感」の要素が欠けていて、それが魅力不足につながって入場者数の減少につながったのかもしれない。だが、原爆を「体感」するにはどうすればいいだろう。もちろん、太陽の表面温度と等しい6000度もある原爆の熱をそのまま子供に浴びせるというわけにはいかないので、何か擬似的ないい方法はないだろうか。ともかく、教育現場に「体感」の要素を取り入れる必要性を痛切に感じている。私は塾で、日本一周合宿をやりたい。合宿というより、修学旅行のエンターテイメント化という性格が強いだろう。日本の津々浦々を回り、子供達に強烈でわかり易い社会体験を得させるのが目的だ。交通手段はメインがバス、その他鉄道、時には船・徒歩など適宜使う。宿泊はできるだけ安い公共施設を充てる。時には豪華な体験もコースは以下の通り鹿児島の豚を飼っている畜産農家で糞にまみれた農業体験宮崎のバブルの塔シーガイアで豪壮な一泊長崎の廃鉱になった軍艦島見物熊本の水俣で患者の体験談を聞く大分湯布院でのんびり温泉療養福岡ドームで野球見物愛媛のしまなみ海道徒歩体験香川で讃岐うどんづくり高知の黒潮で魚釣り体験山口で瀬戸内海の無人島生活島根医大で附属病院見学兵庫の芦屋で豪邸を一日借り切っての生活次の日は大阪のあいりん地区の日雇い労働者の実情見学京都奈良での歴史授業つきの古寺探索琵琶湖でバス釣り和歌山で製材所見学三重で老人ホーム訪問し介護の現実に迫る福井で原子力発電所見学石川金沢で伝統工業友禅織or九谷焼実習富山黒部峡谷で露天風呂長野で田中康夫知事のガラス張り執務室を訪ねる富士山の頂上制覇山梨でぶどう狩り千葉でディズニーランド東京で永田町や兜町や六本木ヒルズ訪問川崎で小さい町工場と臨海部の大工場の比較見学茨城の筑波大学で大学見学新潟のアデランス工場見学山形で江戸時代の農民の生活体験・粟やひえを食う宮城の気仙沼で漁業体験岩手盛岡でわんこそば大食い大会青森下北半島でイタコ北海道富良野塾でグループごとに分かれて演劇大会バスの中では常にご当地ソングで盛り上がる。遊び・福祉・農業・漁業・工業・公害・政治・文化・医療・歴史など、日本の実情をくまなく体験する。そして世の中には恵まれている人、恵まれていない人の間に厳しい格差があることを、肝に焼き付けてもらい、子供の将来の職業の選択肢を豊かにする。これだけ行けば、地理が強くなるぞ。歴史の体感授業にはタイムマシンが必要だからドラえもんの助けが必要だが、地理なら何とかなりそうだ。
2006/02/15
勉強の世界では、偏差値やら数値評価の弊害がよく叫ばれるが、どうなのだろうか?日本人が数値評価を嫌うのは、「ナンバーワンよりオンリーワン」という曲が巷で流行しているのを見てもわかる。数値評価は子供を破壊するのか? ナンバーワンになれと強制するのは、子供の性格を歪めるのか?勉強以外のことに限れば、子供は基本的に数値評価が好きだ。子供の周りには、子どもを数値評価するモノがあふれている。スポーツは勉強よりもはるかに白黒がハッキリした数値評価だし、将棋や囲碁もそうだ。カラオケですら点数が出る。テレビゲーム機に至っては数値評価の権化だ。残酷なくらい厳然たる数値評価を、子供は楽しんでいる。スポーツやゲームに、わかりにくい主観的な評価は許されない。スコアは冷厳なくらい客観的でなければならない。最近中学校や小学校で流行っている、「生きる力」とか「真なる豊かさ」といった、曖昧でわけのわからん評価をスポーツやゲームに適用することは許されない。たとえばサッカーの試合で「東中対西中戦は、スコアは東中が2対1で多かったけど、『生きる力』は西中のほうが優勢でした。だからこの試合、西中の勝ち!」と連盟のお偉いさんに勝ち負け決められたら、生徒はやる気をなくす。またテレビゲームで、一生懸命コントローラーで魔術のような指さばきを見せ、心地良い達成感を覚え、「よしハイスコアを叩き出したぞ」と思ったら、画面には点数が出ないで「君のプレイには『真なる豊かさ』を感じました。よくできました。○マル」という言葉だけがシラーと新幹線の電光掲示ニュースみたいに流れたら、プレステぶん投げたくなる。どうして勉強だけが、数値評価、駄目なのだろうか。
2006/02/14
最近、みかみ先生のブログが緊迫している。みかみ先生は山口県の方だが、東京に進出されるという。一気に頂上作戦だ。ふつう、地方の塾講師が、いきなり東京に進出すると聞いたら、誰もが無謀だと考えるのだろうが、みかみ先生の場合はそんなことはない。失敗の匂いが、全くしないのである。1人の男のサクセスストーリーの途中経過を、現在進行形で魅せつけられている感じがする。みかみ先生のブログは、教育界のスターの演劇空間と化している。みかみ先生は今、、東京の物件をどこにするか迷っていらっしゃる。新宿か池袋か代々木か渋谷か?私のような読者も、一緒になって勝手に悩む。「渋谷はやばいかな。飲み屋の周辺だと遊び塾だと思われてしまうな。みかみ先生の塾は東京で一番HOTな異空間だ。異空間への道筋に飲み屋街はふさわしくない。」「むしろそれなら閑静な住宅地の一角のほうが、隠れ家的雰囲気でいい。でもみかみ先生に隠れ家は似合わないな。」「代々木や池袋なら無難だな。東京の予備校街だもんな。不動産屋さんも塾関係には慣れているだろうし。」「俺が生徒だったら、新宿の綺麗なオフィスビルがいいな。だって通うの格好いいじゃん。池袋や代々木で、同世代の高校生・予備校生とゾロゾロ同じような服装して塾に通うより。パリッとしたスーツを着た社会人の人たちと同じビルで勉強できるなんて、自分が偉くなったような気がするもんな。」「確かに、新宿の綺麗なビルは塾としては場違いだけど、逆に言えば斬新ということになる。新宿には都庁があるからなのか、お城のイメージがある。でも新宿のビル、家賃が高そうだな。」「あと、みかみ先生の塾って、夏や冬に長期講習とかあった場合、『ヒキョーな化学』を読んでみかみ先生に憧れた地方の高校生や浪人生が、わざわざ上京してホテルに泊まりながら通うイメージがある。」「また、みかみ先生はビジネス書を出版される。化学の授業のほかにビジネスセミナーの需要も高まるだろう。そんなケースを想定した場合、どこが立地としてふさわしいか?」和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」ではないけど、みかみ先生には「♪あなたには希望の匂いがする」のである。街は今、眠りの中、あの鐘を、鳴らすのはあなた
2006/02/11
教育書を読んでいると、子供に対して感情をぶつけて「怒る」ことはよくないから、理性的に諭すように「叱れ」と書いてある本が多い。これって、本当だろうか?私の経験則から言えば、感情を思い切りぶつけたほうが、問題の解決につながるケースのほうが多い。「怒る」が本音爆発なら、「叱る」は演技だ。子供は大人の演技を簡単に見抜く。教師が演じる下手な芝居を冷ややかに見つめる。たとえば、教育書に「子供を怒ってはいけません。叱りましょう」と書いてある。真面目な若い先生はこれを真に受け、実践しようとする。でも、真面目な若い先生は、「怒る」演技と「叱る」演技を使い分けることなんて、できるのだろうか?さらに教育書には、「子供を叱るときは理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせましょう。「怒り」の感情は生の姿で出してはいけません。理性をもって「叱る」演技をしましょう」と続けて書いてある。私は一応俳優経験者だが、「理性を90%土台にして、10%の感情のスパイスを効かせて叱る」などという器用な演技など絶対にできない。そんな数学的で精緻な演技ができるのは、日本では山崎努とか緒形拳とか一部の俳優だけである。真面目な若い先生に複雑な演技を求めてはならぬ。あと、よく教育書には「子供に注意するときは、『ほめる:叱る』の比は、9:1にしましょう。9ほめて1叱るのが、丁度いいバランスです」などと書いてある。それって、難しくないか?わざわざ「黒田君は今9回ほめました、次は1回叱る番です」と教師が数えるのか? 何故そんな面倒くさい演技をしなければならんのか?良いところが全然ない子供をほめるのは、ただの嘘つきである。子供の側からしても、根拠がないのに一方的にほめられたら屈辱だろうし、また嘘のほめ言葉で調子に乗ってもらったら困る。ほめたくないのに人をほめると、奇妙なことになる。たとえば、小学校の先生は子供に、終わりのHRで「みんな、友達の良い点を書きましょう」と紙を渡すことがある。先生が配った紙には、「黒田君、高橋君、嶋さん、新井さん」と名前が羅列してあり、渡された子供は、黒田君・・・頼りになる、高橋君・・・怒ると怖い、嶋さん・・・努力家、新井君・・・ひょうきん、とほめ言葉を書いてゆく。先生は紙を回収し、集計して子供に渡す。「勉強ができる」「話がおもしろい」「本読みがじょうず」「ドッジボールがうまい」と書かれた子は嬉しいだろう。でもほめる所があまり見つからなくて、「給食を食べるのがはやい」「消しゴムがカワイイ」「鼻にほくろがある」「学校のトイレによく行く」「家が金持ち」などと、無理して捻り出したようなビミョーなほめ言葉を羅列されたら、馬鹿にされてるように感じるだろう。だから、私は意識して子どもをほめない。心にもないほめ言葉をかけて、誤爆して傷つけたら子供がかわいそうだ。もし子供が、私からほめられたと感じたならば、それは私が子供の前で客観的な評価を口走っただけであって、演技してイヤイヤ無理してほめたわけではない。結論。ほめる所などないのに、子供をほめてはならない。白々しい演技のほめ言葉を、子供はあっさり見破る。また、ほめ言葉のインフレは良くない。なぜなら日常的にほめていたら、子供が本当にほめられるような事をした時、本心からほめることができないからだ。さて、教師は生徒に対して、自分に自信があったら怒れるはずである。たとえば授業中に生徒が話を聞いていない。そこで教師が「自分の話を聞いた方が、この子は得をして賢くなる。将来の糧になる」と圧倒的な自信があったなら、教師は「聞け!」と一喝できる。自分の話の中身に自信がないのに「聞け!」と怒鳴り上げることはできない。また教師は、子供を怒ってしまうと、子供に嫌われてしまうんじゃないかという怖れを抱く。たとえば、生徒とは今までうまくやってきた。仲がいい。でも生徒と馴れ合いの関係になっているのも事実だ。そんな生徒が今教師たる自分の前で甘え、怒らねばならぬ行動をしている。どうしよう、怒ったら嫌われる。「いい先生」でなくなってしまう。子供と自分の関係に、ひびが入るのではないか? でも私なら、子供に嫌われてもいいじゃん、と思う。教師にとって、自分が好かれることと、生徒が立派な人間になることと、どっちが大事か?子供のことを本気で心配すれば、自分が嫌われるかどうかなんて些細な問題ではないか。自分の体面より生徒の将来が大事なら、子供が規範から外れ、怠惰な行為をしていた時、ガツンと言えばいいじゃないか。怒れないのは、生徒より自分の方がかわいいからである。「いい先生」なんて言われたら、教師としては敗北だ。生徒の方も、怒鳴られて「イヤな先生だな」と一時は思ったとしても、賢明な子なら、いずれは自分を誰が一番大事に思っているか、動物的本能でわかるはずである。子供は、誰についていったら自分が向上するか、得をするか絶対にわかるはずである。理性的に叱れ、感情的に怒るな、と言う。でも、「感情」という言葉は、「彼女の演奏には感情がこもっている」「彼の作文は感情性が豊かだ」という具合に使えば、プラスの意味になる。「感情性」はプラスの意味だが、「感情的」はマイナスの意味だ。だったら「感情性」をもって怒ればいいではないか。「感情」の「感」は「感じやすい」、「情」は「情け深い」という意味に他ならない。「感情的」になれるのは、感じやすく情け深い人間だからである。感情的になって、自分の思いを生徒にぶつけてもいいじゃないか。真に「感じやすく」「情け深い」人間は、激怒して錯乱しても、出てくる言葉は人の心を打つ。感情的になった人が吐く言葉はゲロのような暴言とは限らない。子供の感情を昂ぶらせる金言になることだってあるのだ。感情的に腹から声を出せ。「叱る」という小手先の声では、子供の心は動かせない。
2006/02/09
2月3日午後1時、開成中学の合格発表だ。私立中学の合格発表が相次いでいる。中学受験に落ちた時、親はどんな気持ちになるのか? 子はどんな気持ちになるのか?合格発表に直接足を運んで、自分の受験番号がない時、5分間ぐらいは意識が真っ白になり朦朧とする。記憶が飛ぶ。合格した子が横ではしゃいでる声も聞こえず、落ちた子が泣いている姿も見えず、幽体離脱したみたいに、ぼんやりとした気持ちになる。つらい経験だ。たとえば私にもし、小学6年生の受験生の男の子がいて、志望校に不合格になったら、どんな気持ちになるだろう?私は東京の都心部で働いているビジネスマン。合格発表は仕事で行けない。しかし妻からのメールで、息子の不合格を知る。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※「やっぱりだめだったか。あいつよく頑張ったのに、だめだったか・・・志望校を1ランク下げておけばよかったのかな。志望校の選択を間違ったかも。やっぱりP中は、身分不相応だったか・・・あいつの頭は、堅実だがキレがないんじゃないかと、オレは思う。国語では親のオレが感心するほど、情意を尽くした答案を書くが、算数の難問になると、出題者の作戦通り簡単にひねられてしまう。本番でそんな弱点が出たのか?アイツ素直なんだよ。性格が素直すぎる。だからかわいい。そもそも中学受験して良かったのか? なんだかまわりの雰囲気に飲み込まれて、小4から塾に通い、知らない間に受験することになっていた。もし受験していなかったら、あの子は不合格になって傷つくこともなかったのではないか?塾の先生は、とてもよく頑張って下さった。でも他の塾だったら合格しただろうか? 塾は子供に合っていたのか?いや、不合格を塾のせいにするのはやめよう。悪い結果が出たとき、他人に責任を負わせるのはよくない。自分の力が至らなかったと謙虚にならなければ。息子にも結果を他人のせいにしない男になってもらいたい。そっちのほうが自分が成長するし、なにより爽やかだ。でも、オレ自身はあの子の受験に対して、ベストを尽くしただろうか?オレは父親が受験に熱狂するのは、健全じゃないと考えていた。親が子よりも受験に燃えて、親の熱が子供を焼き尽くし、子供が受験後に燃え尽き症候群にかかる。それは嫌だった。でも、オレがもっと前面に出るべきだったのだろうか? 一生懸命さが他の受験生の父親に比べて足りなかったのか? 勉強をもっと教えてやればよかったのか? 受験のことは全部塾に任せてきた。母親に任せてきた。それは正しかったのか?オレの受験に対する控えめな態度が、あの子の不合格につながってしまったのか? オレはもっと出しゃばるべきだったのか?いや、オレの考えは間違っていない。受験には落ちたが、あの子は健全に育っている。いい子だ。あいつは1週間ぐらい落ち込むだろうが、あいつは立ち直る。絶対立ち直る。そのあとは少し遊ばせてやろう。1ヶ月ぐらいはゲーム漬けになっても、叱らずにいよう。小学校卒業祝いに何か買ってやろう。中学受験の経験は、あの子の人生にプラスになるのだろうか?不合格で劣等感を抱いてしまうことはないのだろうか?今日、オレがあいつの前でどんな言葉をかけるか、どんな表情をするか、どんな態度を取るか、一生あいつの脳味噌の中に残るんだろうな。オレはどうすればいいんだ? 一世一代の名芝居を打つか?いやいや、オレの姿があいつにどう映るか、そんなことを考えちゃいかん。あいつの気持ちが優先だ。あいつがどう傷を癒すか、どう不合格を糧にするか、うまく親なら誘導してやらなけりゃ。オレの頭の中はいま、さまざまな考えが渦巻いている。オレが考えていることが脳から滲み出して、あいつに筒抜けになってしまわないだろうか? そんなことになったらあの子を傷つけてしまう。あいつは受験勉強するようになって無口になったが、とっても繊細で賢い子だから、オレの気持ちを隅から隅まで読み取ってしまうだろう?いや、考えすぎだ。まだあれも子供だし。ああ、あいつに会うのは緊張するな。子供に会うのに緊張するなんて初めてだ。あいつはもっと緊張してるんだろうな。今日は酒でも飲んでいくか。いや、酔っ払って帰ったら、あの子は嫌がる。とにかく自然体でいこう。自然体でいこう。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※そしてそのころ息子は・・・午後2時ごろ、職員室に呼ばれて、校長先生から「頑張ったのにアカンかったな。残念だ」と不合格を知らされた。学校の廊下を。重い足取りで教室に帰る。「ああ、悔しいよ。悔しいよ。どうして・・・・・屈辱だな。みんなぼくのこと、バカだと思うだろうな。泣くよ。泣きそうだ。でも泣きながら教室へ行くのは嫌だ。男の恥だよ。泣き虫のバカなんて最低だ。教室には行きたくないなあ。このまま家に帰りたい。拓也とか雄一はデリカシーないから、「ねえ、お前合格した? き・か・せ・て」って、目を輝かせて聞くんだろうなあ。いいなあ、中学受験してない奴は。気楽で。浩次の奴、Q中合格しているのかなあ。まあ、ぼくもあいつも同じ塾でお互い頑張ってきたから、あいつには合格してもらいたいけど・・・・・いや、それはぼくの本心じゃない。ウソだ。偽善者だな僕は。正直言っちゃうよ。浩次が合格したら嫌だ。嬉しいもんか。ぼくって嫌な奴だな。浩次が合格したら、拓也とか雄一は、「浩次の方が頭いいんだ」とか言って、もうぼくのところには「宿題見せてくれ」なんて頼みに来なくなるんだろうな。拓也や雄一に宿題写させるのは悪いことだけど、悪い気はしなかった。これからはQ中合格した浩次のところに「宿題見せて~」なんて行くんだろうな。ああ、教室に行くのも嫌だけど、家に帰るのはもっと嫌だな。母さんはどんな顔して僕を迎えるのかな。母さんは合格発表見に行ってるから、僕が落ちたこと、もう知ってるよ。電話でもしようかな。いや、やめておこう。恥ずかしい。ああ、家に帰るの嫌だな。誰にも会いたくない。どこか旅に出たいな。でもお金ないし。貯金通帳には多分国内旅行へ1週間行けるくらいのお金はあるはず。新幹線で大阪行きたいな。飛行機で札幌行きたいな。旅行に行くのは少し怖いから、ゲーセンで一生過ごしたい。すべてを忘れたい。記憶喪失にでもならないかな。ぼく知らん振りしてたけど、母さんがブログやってるの知ってるよ。話題はぼくの受験のことばかり。母さんぼくに秘密にしてたけど、履歴が残ってるんだもん。わかるさ。パソコン初心者は脇が甘いね。もっと隠せよな。ぼくはときどき、母さんのブログをこっそり見る。怖いですよ、自分のことがたっぷり書かれたブログ見るのは。母さん、模試でぼくが初めて合格圏内の判定をもらったとき、「これは途中経過にしかすぎません。本番が大事です。今後きちんと気を引き締めるようにします」とさも冷静なふりして書いてあったけど、その日、食事の支度のとき、「♪前田君なんてうちにはいない~BANG!BANG!BANG!」と嬉しそうに鼻歌を歌っていたの聞いたよ。そういえば試験前日のブログには「明日は入試。とうとうこの日がやってきました。試験に勝つとの願いをこめて、今日の夜はトンカツを作りたいけど、そんなことしたらコアラに『勝て!勝て!』とプレッシャーをかけてしまいます。だからトンカツと同じぐらい力がつく、ステーキにします」なんて書いてある。ちゃんとぼくに気を使ってくれているんだ。ちなみに「コアラ君」とはぼくのこと。母さんはブログでぼくをコアラと呼んでいる。何でオレがコアラなの? 鼻がでかいからかな? とにかく恥ずかしいからコアラはやめてほしい。あと正確にいうと、試験前日のメニューはステーキじゃなくデミグラスハンバーグだった。ブログ読んでる人にさりげなく見栄を張るのはやめてくれよな。母さんは泣かないだろうか。たぶんカラッと迎えてくれるだろう。でも母さん、今日のブログに何て書くのかな。ぼくは母さんのブログ、今後絶対に読まない。こわくてよめないよ。でも母さん、ぼくが落ちちゃったから、ブログやめてしまうのかな・・・父さんはぼくに何と声をかけてくるかな。緊張する。興味ないふりしてるけど、父さん、ぼくの受験に一生懸命なのはビンビン伝わってきたよ。まさか酔って家に帰ってこないだろうな。酔って夫婦喧嘩するのは嫌だな。「あの子が落ちたのはお前のせいだ」「いや、あなたのせいよ」そんな喧嘩したら、オレは家を出る。まあ父さんも母さんもぼくに気をつかって喧嘩なんかしないだろうけど、いきなり父さんがぼくと母さんを呼んで、「ここにすわりなさい」と家族会議を始めたらつらいぜ。やだよそんなの。ぼくは落ちた自分の姿を、父さん母さんに見せたくない。恥ずかしい。みっともない。昨日までのぼくは試験に落ちてなかったきれいなぼくだ。でも今はちがう。ぼくは試験に落ちた自分の情けない姿を、父さん母さんの前でさらさなければならない。父さん母さんは今までどおりに、ぼくを愛してくれるだろうか?これまでは、中学に合格することを期待され過ぎて嫌だったけど、これからは逆に期待されないのかと思うと少し淋しい。だったら最初から期待するなよ。ぼくは家に帰ったら泣くだろうか? 泣くのはいやだ。ぼくが泣いたら、父さん母さんは一生懸命ぼくをなぐさめてくれるだろう。たくさんの言葉を使って。でもそんななぐさめの言葉の中に、ぼくを傷つける言葉が入っていたらいやだな。今のぼくには言葉はいらない。ただ黙ってそっとしておいてほしい。もしぼくが泣けば、ぼくの前で父さんも母さんも話しかけてくる。それはいやだ。それにぼくが泣いたら、母さんも泣くだろう。母さんの涙を見るのはいやだ。父さんも泣いたりして。親子三人で泣くなんて最悪だ。格好悪いよ。あは・・・・・※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※息子は生まれてから12年しかたっていない小さい脳味噌で、精一杯のことを考える。結局、親も子も頭の中は渦巻いているが、子供「落ちちゃった!」父親「残念だったな!」という、単純な会話で終わるだろう。
2006/02/03
教師は、生徒を絶対に信用してはならぬ。といっても、生徒が教師を裏切るとか、生徒に対して常に疑心暗鬼を持ち続けろとか、そんな深い陰険な意味ではなくて、生徒の記憶力を信用してはならぬ、という意味である。たとえば授業がとってもうまくいく。教師も生徒も「いい授業だった」と充実感を抱き、教師は満足して頭から湯気が出そうになり、生徒は素晴らしいミュージシャンのライブを聞いた後のような高揚感に包まれる。しかしせっかくの授業内容を、生徒は1週間後には少し忘れている。1ヵ月後には完全に忘れている。1年後には記憶の彼方だ。教師はせっかく生徒の頭にインプットした知識を、定着させる作業を怠ってはならない。たった1回教えただけでは、知識はタンポポの綿帽子みたいに四散してしまう。1週間後には復習を、1ヵ月後にはさらに復習をと、同じ単元を3~4回反復しなければならない。もちろん塾では学校より先取り学習しているわけだから、2~3ヵ月後には塾でやったことが学校の授業で繰り返し教えられるし、また塾でも春夏冬の講習会で復習の機会がある。ただ、教える側が、教えたことは生徒は忘れるものだという意識を常に持っているだけで、生徒の学力の伸び方は相当に違ってくる。復習のやり方は、宿題でもいいし、テストでもいいし、授業の最初の10分ぐらい使ってダイジェストで教えてもいい。とにかく反復が大事。料理人の腕が素人を凌駕しているのは、毎日毎日繰り返し厨房で料理しているからである。ベテラン教師の知識が圧倒で、教え方が上手いのは、毎年毎年同じ単元を子供に教え続けているからである。料理人も教師にも言えることは、反復こそがスーパープロフェッショナルへの王道、ということである。とにかくも、人間の記憶力は信用してはならない。
2006/02/02
昨年の今頃、地元の駅へ電車に乗りに行ったら、いつもなら改札口の駅員は年配の方が多いのに、その日に限って若い。駅の雰囲気が違う。また、駅員たちは若いうえに初々しい。童顔といおうか紅顔といおうか、駅員の制服が板についていない。しかも改札口に立っている若い駅員のうちの1人は、どこかで見た顔だ。誰だ?よく見ると、うちの塾生、中2のM君だった。意外なところで会ってビックリした。M君は学校の職場体験で、駅員をやっていたのだ。私が無言で笑いかけると、M君も照れて笑顔を返した。着始めの制服は、人間を初々しく見せる。黄色いランドセルを背負った小学1年生、真新しく身体にフィットしていないブカブカの学ランかセーラー服かブレザーを着た中学1年生、私服で学校に通うのが初体験の大学1年生、安物だが清潔感あるスーツに身を包んだ新入社員、看護着を身に付けた少女のような看護婦さん・・・逆に、デカイ身体でランドセル背負った小学6年生、学ランの尻の部分がテカった高校3年生、薄ひげを生やした大学4年生はオッサンくさい。それはともかく、M君の駅員姿は、初々しく凛々しかった。よく考えてみれば、江戸時代以前の日本では、子どもは労働力だった。みんな働いていた。江戸時代の子どもは、武士階級はともかく、農民も商人も工人も、みな6歳7歳から働いた。貴重な労働力の一員だった。しかし、明治になって学校ができて、子どもは10歳~11歳になるまで働かなくていいことになった。その後、義務教育の年齢はどんどん上がり、働き始めなければならない年齢は上がっていった。今では30歳になっても働かないニートという種族までいる。毎日が職場の渦中にいる江戸時代の子どもから見れば、職場体験などというものは、到底理解できないだろう。彼らの目から見れば、現代の子供はみな、働かないニートに見える。ところで、職場体験には、広島菜を漬ける仕事、スーパーのレジ、観光客へのビラ配りなど、いろんな種類の仕事がある。職場体験の感想を聞くと、みな結構楽しそうである。ただ、どうせ職場体験をやるなら、もっと刺激的な体験を子どもにして欲しい。職業の良い面だけでなく、同時に悪い面とか、仕事の苦しみを経験すべきだ。たとえば職場体験で、学校の先生をやらせてみればいい。言う事聞かないガキ相手に授業をし、テストを作り採点し、部活の顧問になって夜遅くまで残業し、親からのクレームを受け、不登校の子の家を訪問し、組合活動の人間関係で揉まれ・・・・・子供は教師の苦労の一端が理解できるだろう。警察官になって、拳銃持って凶悪犯のアジトに強行突破というのも刺激的だ。検察官はどうか? いきなり検察庁へ行って「ホリエモンに自白を強要して来い」と上司に命令されたら途方にくれる。政治家はどうか? 政治家は国民の生活を預かる重要な仕事だ。でも杉村クンとか見てると、子供にも政治家はできそうな感じがする。飛びきり責任の重い緊急性の高い仕事を、中学生にいきなり任せるのもいい。たとえば寿司屋。職場体験に行ったら、親方がいきなりどこかへ消えてしまう。カウンターには口うるさそうなオッサンの客が10人くらい、「早く握ってくれ」とばかりに、エサを待つツバメの雛のようにに待っている。ネタ箱には、鯵とかサヨリとかイカとか赤貝が、捌かれもせず海から引き上げたままの姿で丸ままドスンと置いてある。捌き方がわからない。どうしよう。中学生は途方にくれる。パイロットはどうか? 機長と副機長はパラシュートで機外へ逃げ出し、乗客500名の運命が一手に任される。うまく着陸しなければ乗客の命も自分の命も失われる。操縦桿を持つ手が震える。救急病棟はもっと大変だ。緊迫性が異様に高い。中学生は突如、交通事故で瀕死の患者の執刀医を任せられ、薬品と内臓の匂いが漂う戦場みたいな手術室でメスを握らされ、横では「私の夫を助けてください、お願いします」と患者の奥さんが狂乱し、「脈拍落ちています」と看護婦が金切り声を出し、心臓を手づかみにしながらマッサージをし・・・・修羅場だ。職場体験でとんでもない重責を負わされたら、中学生の職業観・人生観は変わるだろう。ただ他人の人生は破壊されるけど。学力と知識と経験がないと、仕事ができないという厳然たる事実を、是非職場体験で子供に知ってもらいたい。ふだんの勉強の大切さも、わかろうというものだ。
2006/02/01
私は応用クラスに関しては、彼らを鍛えるため、授業を「復習型」から「予習型」に変えた。普通だったら、たとえば英語で不定詞をやるときは、名詞的用法・副詞的用法・形容詞的用法と、きちんと授業で単元の説明を丁寧にしてから、授業中に演習させて宿題を出す。当然宿題は、塾でやった内容の復習だけになる。習ってないことは出ない私はやり方を大胆に変えた。いきなり「不定詞」なんて全く知らない生徒に「来週、不定詞のテストをやるから、テキストで勉強して来て下さい。P84からP98。自学自習!」と宣告した。「不定詞」という言葉の意味すら知らない生徒は、誰の助けも借りず不定詞を一から自学自習しなければならない。草創期の四谷大塚が理想とした予習中心の学習法だ。四谷大塚のテキストは今でも名前が「予習シリーズ」である。1週間、中2生に、不定詞を「予習」してもらう。そして、テストは英作文。「切手を集めることは僕の趣味だ」「私は先生になりたい」「トムはその知らせを聞いて喜んだ」「僕はテニスをするため、公園に行った」「何か冷たい飲み物をください」という、「This is不定詞」みたいな、不定詞の匂いがプンプンする不定詞の典型的な問題を出した。これらの問題は、不定詞を知っていると反射的に即答できるeasyなものだが、不定詞を知らないと手も足も出ない。しかも不定詞という単元は難しく、自学自習で理解できる子はなかなかいない。また講師の側から見ても教えるのが難しい単元だ。逆に言えば講師の腕の見せ所である。
2006/01/31
センター試験が終わった。自己採点の結果も出て、受験生は志望校の選択に頭を悩ましていることだろう。センター試験の点数で、受験生は自分の学力の全国レベルを、否応なく点数で突きつけられる。逃げ場がない。結果が思わしくなく、悩んでいる受験生もいるだろう。センターの結果が悪いと、胃が錐でブスブス突き刺され、胃壁から血が滴るようなダメージを受け、精神的な圧迫感から不眠症にかかり、睡眠薬の助けを借りたくなる。革命パルチザン時代の毛沢東は、激しい権力闘争のストレスと、いつ逮捕処刑されるかわからない恐怖で、不眠症にかかり眠れぬ夜を送っていたのだが、睡眠薬を服用してから熟睡できるようになったという。毛沢東はのちに、睡眠薬を発明した人はマルクスと同じぐらい尊敬すると語ったらしい。試験の結果が悪いと、毛沢東と同じような精神状態に陥る。センターの結果が悪いと、自分が思っていたほど、自分は大した存在ではないことに気づく。自己評価の高さに点数が冷や水を浴びせる。センター試験の点数は、「自分の身の程を知れ」という残酷なメッセージに他ならぬ。センターを受験した若者は、同世代の若者が学歴社会から脱落するのを横目に、勉強すれば何かいいことがあると信じて、勉強を続けてきた。子供のときから「夢」を持ち勉強を続けてきた。しかしその結果が思わしくないとき、夢は潰える。18歳で初めて、学歴社会からの脱落感を味わう。いや、脱落感という大げさなものではなく、自分の存在がカースト的社会序列の棚に、そっと静かにファイリングされるような気分になる。勉強から脱落した同級生達が、かつて味わった無力感を、同級生達より少し年齢を経た頃に知る、ということだ。友人は勝者、自分は敗者。敗者はまるで、春の雪解け時に公園のど真ん中に放置され人目に晒された、溶けて黒ずんだ雪だるまになった気になる。センターの点数は、「行きたい大学」から「行ける大学」への志望校変更を余儀なくし、また将来の職業も「なりたい職業」から「なれる職業」へ強引に変える。センターで得点が取れない受験生は医者や弁護士にはなれぬ。知識がない医者は患者を殺すし、無能な弁護士は依頼人を不幸にする。職業とは自分が決めるのではない。90%他人が決めるものだ。センター試験の点数は、自分の力に対する若者の過信を諌める。さて、今後どうするか?結果が悪ければ私立大学がある。私立は親に負担をかけると嘆いている受験生は、自分で稼ぐようになったら300倍親孝行すればいい。正月・盆・GWは必ず実家に帰り孫の姿を見せ、時々思い出したように温泉旅行や海外旅行に連れて行ってやればいい。どうしても国立がよくて、妥協したくなければ、あと1年待てばいい。センター試験は確かに一発勝負。だが1年後がある。2年後がある。浪人を厭ってはならぬ。予備校行く金がなければ宅浪すればいい。本屋には素晴しい参考書があふれている。センター試験が一発勝負といえども、スポーツの世界にはもっと激しい一発勝負がある。たとえばオリンピックの陸上100m走競技。決勝は4年に1回、しかも10秒弱で勝負が決まる。4年待ってたった10秒。転んでしまったらあと4年待たなければならない。チャンスなんか腐るほどある。センターなど人生の第3次選考ぐらいにすぎない。その後歳を経るにつれ、第4次選考・第5次選考と、選考が待ち続けている。37歳の私は今、第23次選考ぐらいだろうか。とにかく、センター試験は最終選考ではない。人生の重大な岐路ではあるが、決して最終選考ではない。
2006/01/26
新中1の英語の授業。たいていの中学校ではアルファベットから始まる。中1の4月時点で、もうすでに子供の英語の学力は大きな差がある。上は帰国子女から、下はローマ字すら書けない子まで、また上はnativeとjokeを交わせる子から、下はアルファベットが書けない冗談にならない子まで、レベルはさまざまだ。学校の先生は、授業がとてもやりにくいだろう。ところで、一番手に負えないのは、小学校で中途半端に英語をかじった子だ。中学校行ったら英語が始まるので親が心配になって、小学校5年生あたりから、心配だからちょっと英語でも習わせておこうかと英語教室に通い始める子が、一番タチが悪い。小学校で英語教室に通った子が、中1の終わりごろから成績が奈落の底に落ち、ピンチに陥るケースが意外と多いのだ。小学校で英語をやっていた子は、中1の1学期くらいまでは、中学校の英語の授業は異常に退屈だ。小学校時代に習った、簡単な内容しか授業でやらないからである。当然アルファベットは熟知しているから、アルファベットの授業は硬筆習字みたいに退屈だ。単語も100個ぐらいは頭にストックしているので、努力しなくてもテストでいい点を取れる。1学期の中間テストでは当然100点を取る。そんな環境で、子供は英語をなめてしまう。何の苦労も努力もしなくても、英語はできると錯覚する。しかし、英語をなめている子を横目に、履修内容はどんどん難しくなっていく。知識のストックが空になっても、なまじ「英語は得意」という過剰な意識があるので、危機を感じないまま過ぎていく。whoとwhoseの使い分けができなくても、過去形の不規則変化の暗記が疎かになっても、現在進行形を習い始めるてbe動詞と一般動詞がグチャグチャになっても、自分の陥った罠には気づかない。気づいたときには、英語の成績は壊滅状態になっている。学校の定期試験の得点の推移は、1学期中間 100点1学期期末 95点2学期中間 82点2学期期末 64点3学期学年末 47点という具合に、見る見るうちに下がる。親はせっかく英語を小学校のうちから早取り学習して、子供にアドバンテージを与えようと英語教室や英会話教室に通わせたのに、そんな気持ちが徒になってしまうケースのいかに多いことか。逆に、中1になったばかりの時点で、小学校時代英語を習っていない中学受験組は、英語で結構苦しむ。dogをbogと書いたり、motherをmatherと平気で書いたりして、小6までは華麗に算数の難問を解いていた姿はどうしたのかと思うほど、笑っちゃうくらい英語に戸惑う。ところが彼らは、中学受験で勉強のノウハウを知悉しているから、すぐに英語の勉強のコツをつかむ。3~4ヶ月も経てば、小学校で英語を習っていた子を、ウサギとカメのようにあっさり抜き去る。教訓。小学校で英語を始めても、英語が得意になるとは限らない。小学校から英語をやるのなら、中途半端にはやるな。中学校へ行っても英語教室には通い続けるのがいい。さらにもう1つ。中学受験は幼いうちに勉強のやり方とか姿勢を子供に叩き込む、絶好の機会である。中学受験の経験は、どんな仕事にも学問にも、将来応用が利く。
2006/01/18
センター試験に対しては、言いたいことが多すぎる。私の教え子を含めて、たくさんの受験生たちがセンターを目標にして必死に頑張っているので、あまり高みの見物的に非難はしたくないのだが・・・中学校や小学校では、「ゆとり」だの個性の尊重だの、学習指導要綱がダッチロールの如くコロコロ変化するが、センター試験が小中高の最終的なゴール、教科学習の集大成だという現状は、いまのところ微動だにしない。ゴールだけが「ピシッ」と決まっているのに、文部科学省がそこに至るまでの過程を朝令暮改でいじくることは、多くの人に不信感を与えている。それにしても、日本の教育の最終的な評価基準がセンター試験の点数だという事実、いかがなものだろうか?小学校・中学校・高等学校の学力評価はあまりにもわかりづらい。業者テストが排除されている限り、高校3年生になるまで学生の勉強面での評価は、学校ごとの極めて狭い範囲だけで行われる。それに結果が公表されたりされなかったりで、自分の学力の数値評価が知らされないケースも多い。おまけに絶対評価と相対評価、2つの評価基準が並立している。また評価は各教師の主観によって決定されることがしばしばある。母数が大きい予備校の模試でも受験しない限り、自分の学力が全国でどのくらいの位置にあるのかわからない。またどこの予備校の模試の判定が一番信憑性を持っているのか、このあたりの判断も受験生を迷わす。それに比べて、点数で学力を輪切りにするセンター試験という評価基準の、いかにわかりやすいことか。全国で数十万人もの学生が受験するし、母数も大きい。わかりやす過ぎて怖いぐらいだ。センター試験で、自分の学力が18歳にして生まれて始めて、国家に数値化されて認定される。国が全国規模で行う、最初にして1回限り(浪人生を除いて)の学力評価である。甲子園は人生で5回チャンスがあるが、センター試験はたった1回しかない。否が応でもセンター試験の神秘性と権威は高まる。スッパリ点数化されたわかり易い評価。しかも受験回数は1回限り。小中高時代の曖昧模糊な建前だらけの評価は、センター試験によって一挙に本音の評価へと変わる。この「わかりやすさ」が曲者だ。しかし・・・文部官僚がセンター試験改廃の最終的な決定権を握っている以上、センター試験は絶対無くならないだろう。センター試験は官僚支配を正当化する道具なのだ、とも言える。700点以上の得点をゲットして、東大に合格した人間が官僚になる。官僚は大衆を見下し、逆に500点しか取れないものは、750点の官僚に羨望・劣等感・嫉妬など入り混じった複雑な感情を抱く。少し話は逸れるが、大抵の人間は政治家に対して、劣等感なんぞ抱いていない。なぜなら二世議員が多い昨今、多くの国民は、国会議員と自分を隔てているのは血縁だけだと思っているからだ。「多くの国会議員は、父親や祖父が国会議員だったから今の地位にある。」「彼らは能力的に優れている人間ではない。」「あいつらは元来、世間知らずのぼんぼんだ。」そして本来なら尊敬されるべき、父祖に政治家をもたない叩き上げの国会議員達にしても、国民は彼らが裸一貫から国会議員まで上り詰めるには、人品骨格よりも、悪事に手を染める図太さのほうが必要だとわかっているので、叩き上げ議員の大部分は、二世議員よりタチが悪いこと気がついている。ところが官僚は、センター試験で一度は同じ土俵に上がって、数値で自分が負けている人間たちである。確かに官僚には複雑な感情は抱いているが、かつてセンター試験という国家が大々的に実施した「公平な」テストで敵わなかった相手である。そんなわけで政治家支配よりも、官僚支配のほうが公平なのではないかという意識を、「一般大衆」はどこかで持っている。一種の「負け犬根性」が、学歴社会の勝者である官僚支配を正当化する。センター試験はすべての同年代の学生が、機会均等に正当に実施されたテストなので、逃げ場がないのだ。官僚の側も、自分たちが日本の大学受験生の大多数が受験する「正当で公平な」試験の勝者であることをたっぷり意識しているから、自分たちの特権を安心して享受することができる。センター試験がある限り、大学の縦割り評価は改善の兆しを見せず、志望大学を専攻や教授の研究内容で決めるという、何度も何度も何度も何度も語られてきた理想は叶うことはない。
2006/01/14
僕が開成中学に合格したのは、1981年、ちょうど今から四半世紀前、25年前のことである。当時の公立中学校は荒れていて、不良はみんな「なめ猫」みたいな格好をしていた。だからおとなしい内向的な小学生の僕は、「公立中学へは行きたくないな」と思っていた。小5の冬だったか、うちに広島の中学受験塾から、入塾テストのDMが来た。僕はどうしてだか理由はわからないが、その入塾テストを受けることになった。僕の街から広島までは、新幹線で40分。在来線で1時間20分かかる。同じ県内でも広島はなかなか行ける町ではない。たぶん僕が入塾テストを受けたのは、おそらく広島へ遊びに行って、親に切手か、超合金か、鉄道模型を買ってもらうのが目的だったのだろう。テストを受けて、2日後くらいに電話があった。僕は4教科400点満点で、360点だったらしい。広島校の入塾テスト史上最高点だといわれた。そういうわけで、広島の塾に、日曜日週1回だけ通うことになった。行きは新幹線で、帰りは在来線で帰った。受験した中学は開成と広島学院とラ・サール。全部合格した。僕の第一志望はラ・サールだった。鹿児島という街は僕には魅力的で、西郷や大久保みたいに薩摩を起点に世の中へ打って出ようと、子供心に考えていた。桜島は男の子の野心をかき立てる火山だ。開成は記念受験のつもりだったが、合格した。謙遜でもなんでもなく、合格するとは思わなかった。まさか合格するとは思わなかったし、合格しても行く気はなかったので、過去問は前日に、店内がカレーくさい新宿の紀伊国屋書店で入手し(声の教育社のオレンジ色のやつ)、宿泊先の京王プラザホテルの部屋で解いた。過去問を前日にやって御三家に合格するなんて、今考えると牧歌的な時代だった。僕はラ・サールに行きたかったが、父親が開成を薦め、紆余曲折ののち開成中学へ通うようになった。僕がなぜ開成に合格したのか。それは記憶力が良かったからだと思う。15歳くらいまで、僕は電話番号を一度聞いたら覚えたし、メモという物を必要としなかった。友人がある日僕に電話番号を教えてくれた。僕はメモも取らず「わかったよ」と言った。友人は「ちゃんとメモしてくれよ」と少し怒っていた。僕は「ちゃんと記憶したから大丈夫だよ」と答えた。それくらい僕の記憶力は良かった。また、日本の県名・県庁所在地名は、幼稚園の年中組の時には完全に漢字で書けたし、世界の国名も小学校1年生のときには全部言えた。親戚のおじさんおばさん達と冠婚葬祭の折に会うと、幼い僕にクイズを出した。「栃木県の県庁所在地はどこ?」「インドの首都は?」僕は生意気に、スラスラと答えた。親戚の人たちは「賢い子だね」と言ってくれた。あと僕は好奇心が強かった。疑問点があると答えを知りたくてしょうがなかった。とにかく、わからないことがあると大人に質問し、本で調べた。一休さんに出てくる「どちて坊や」みたいな子供だった、と思う。僕は社会が大好きだったので、百科事典の地理・日本歴史・政治経済の分冊は、小学校低学年の頃から装丁が剥がれ手垢がつくまで、貪るように読んだ。物理とか化学は、難しそうなので全く手をつけなかったけど。(今日の文章、自慢っぽく見えたらお許しください。いつか今日の100倍、自分の情けないところ、駄目なところも書きますのでね・・・・)
2006/01/13
最近、個人塾の先生のブログを見ていると、いかに塾をビジネスとして成功させるか、という視点のものが多い。多店舗展開して塾を巨大化させるのは、「男の夢」なのかもしれない。さて、この業界で一瞬の間に巨大化した教育機関といえば、やはり公文式だろう。37歳の私が小学生の時、公文は瞬く間に全国展開し、日本全国津々浦々に公文の教室ができた。公文式こそが、われわれ塾業界人の「アメリカンドリーム」の一例である。私は1978年、小4のとき公文に通い始めた。この頃私の友人たちがたくさん、公文に通い始めるようになった。私が通った公文の教室は歯医者の奥さんがやっていた。1回プリントを溜めて(100枚くらい)、それが先生に見つかってしまい叱られた痛い記憶があるが、それを除いては小6まで楽しく通っていた。最近では、公文は計算力だけを伸ばし、数学の応用力はつかないという批判が多いが、私が小学生の頃は、公文の評価は絶対的だった。だって、公文に行ってた友達は、みんな計算が速くなったんだもの。勉強があまり冴えなかったやつが、突然計算が速くなっている。勉強ができる人間に変身している。「どうして速いの?」と聞くと、「公文に行っているから」と答える。公文に通っている子が、猛烈なスピードと正確さで計算プリントを解く。まさにそれは「公文マジック」だった。やはり、計算力がぐいぐい伸びる姿を目の当たりにすると、「自分も公文に行きたい」と思うようになる。公文の凄いところは、計算力の伸びが誰の目にも一目瞭然でわかり、周りの子供に対して、体感的に公文の凄みを体感させるところである。公文のプリントで鍛えた、曲芸師のような圧倒的な計算力で、同級生を威圧する。子供に体感的に凄みをわからせるという点では、公文式はスポーツと良く似ている。校舎の窓を割るような、どでかいホームランをかっ飛ばす同級生の凄みは、子供にはわかりやすい。公文の計算力の凄みはそれに似ている。計算力は子供にもわかりやすいスポーツ的な凄みである。親の側からしても、計算力というものは目に見えて上達するので、公文は費用効果が高いと感じるだろう。たとえば、中学卒業して相撲部屋に入門した息子がいるとする。入門前はブヨブヨの水デブの肥満体だった息子が、半年たって実家に帰省したら、筋肉質の力士らしい身体に変身している。身体の成長が目に見えてわかる。ビジュアルが成長を示している。そんな時親は、「相撲部屋でたくましくなったなあ!」と思う。同様にして公文も、2ヶ月3ヶ月継続してプリントをこなしていくうちに、計算力の成長が目に見えてわかる。「公文に行って計算が速くなったなあ、公文に行かせて良かったなあ、お金を払ってよかったなあ」と親は思うだろう。実をいうと、勉強の凄みというものは、子供にはわかりにくいものだ。偏差値が高い子がいても、それは数値の凄みであり、体感的な凄みではない。また、中学受験で灘や東大寺学園に合格した同級生がいても、中学受験に無縁の子には、その偉さは体感的には理解できない。灘や東大寺学園という「名前」には凄みを感じるが、それは大人の世界の、わかりにくい凄みだ。そんな、凄みがわかりにくい、という感覚は、ノーベル賞に似ている。ノーベル賞を受賞した学者に対して、誰もがノーベル賞の権威でその学者が偉い人だということがわかるが、その学者の業績がどれだけ斬新なものかは、大抵の人には理解不可能だ。漠然と凄いとわかるが、凄みの内容は理解できない。いずれにせよ、自分とは無縁だ、オレには無理だ、と思う。逆に公文は、計算というわかりやすい、身近な尺度で凄みを表す。中間子理論でもニュートン算でもない。計算という身近な尺度で凄みを示すから、公文で鍛えた同級生には凄みを感じても、それと同時に「計算なら自分にもできそうだ」と思わせてしまう。だからこそ、私と同世代の子供が公文に飛びついたのだ。そんな公文の廉価版が「百ます計算」ということになるのだろうか。とにかく公文は、計算力の向上というわかりやすい凄みを全国の小学校にアピールし、また誰にでも計算が速くなると思わせる作戦で、ダムの決壊時の水の如き勢いで、全国に教室数を増やしていった。ここで教訓。学校で「あの塾に通っている子すげえ」と思わせるには、合格実績も勿論大事だが、あの塾に通っている子は計算が速くなったとか、日本の県名と県庁所在地を全部言えるとか、目に見えて、しかも誰にでもできそうな凄みを撒き散らすことが大事だ。世界に200ある国の国名・首都名を、塾生が全部暗記している塾が近くにあれば、やはり親は「その塾に子供を通わせたい」と、少しは思うことだろう。受験塾のように、学力を総合的に伸ばすのは複雑で難しい。ところが基礎学力をつけること、たとえば計算力を上げたり、漢字を暗記させたりするのは、システムさえ整っていれば意外と簡単にできるのかもしれない。公文は計算力に特化した学力向上システムを確立し、学力の一部分、しかも一番伸ばすのが簡単な部分だけを、飛躍的に誰の目にもわかるように、「ケレン味」を感じさせるほど伸ばすことで、事業を成功させた。蔭山英男は「百ます計算」で、公立小学校の教員でありながら、多額の印税を得た。基礎学力を上げるアイディアは大衆を動かし、アイディアを広めた組織や個人は巨富を得る。
2006/01/12
塾内で殺人事件を起こした「京進」の社長は、1年間無給で働く、という処分を自ら出した。「甘いぞ! 甘すぎるぞ!」 と私なら思う。どうしたものだろうか?管理が行き届かないほど、多教室展開をした弊害については、また述べる機会があるだろう。さて、12月18日の産経新聞を見ると、こんな記事があった。以下抜粋。全国塾協が採用指針 現職講師も経歴確認 犯罪歴念頭、倫理面の基準強化 京都府宇治市の学習塾「京進宇治神明校」で、小学六年の女児が大学生の塾講師に刺殺された事件を受け、この塾が加盟する業界最大手の団体「全国学習塾協会」(石井正純会長、社団法人)は十八日、都内で臨時理事会を開いた。 理事会では講師の採用時に犯罪歴も念頭に置いた過去の経歴調査を求める指針(倫理綱領)をまとめた。協会では今後の採用だけでなく、現職講師の経歴確認も求めている。十九日に経済産業省に提出する。 指針では、講師採用にあたって「雇用の形態、契約内容にかかわらず教職員の履歴および現状確認を行う」と明記。京都の事件で問題になった犯罪歴などの調査を促したほか、グループ面接方式の採用試験を促すことで採用希望者の本当の姿を引き出すような試験方法を提示し、人格・倫理面の基準を強化する内容を盛り込んだ。採用希望者と現職講師に指針を誓約させることも記述した。 協会には学習塾八百三十社が加盟、五十万人の児童、生徒がこの傘下の塾で学んでいる。 ◇ 塾講師による教室内での女児殺害事件の衝撃の大きさは、発生から九日で指針策定という素早い対応につながり、講師の質向上を目指す動きとなった。実態が不透明な業界での信頼回復へ向けた危機感の表れといえる。 指針は強制力を伴わない欠点があるが、全国学習塾協会では未加盟の全国の塾にも活用を呼びかける。指針に同意した塾をホームページで保護者らに公表することで、安全性を認定する。 今回の事件では逮捕された塾講師が過去の逮捕歴と停学歴を塾側に隠して採用されていたことも判明した。個人情報保護の流れが強まり、「犯歴は学校も警察も教えてくれない。履歴書や面談でうそをつかれたら確認しようがない」(宮城県の進学塾関係者)との問題点もある。「周辺住民に聞くとか可能な範囲でやるしかない」(協会の理事)というのが現状で、経歴調査にはなお困難さがつきまとう。 塾講師は教員と違い免許制がないため、採用基準は業界全体としてはピンからキリまでの状況だ。保護者が塾の役割として最重視するのは学力向上。採用時に性格検査や心理学を導入した適性検査を実施しているところもあるが、人格面のチェックはおろそかにされがちな側面があった。 塾はいまや「準学校」。次世代を担う子供を長時間預かる以上、公的な側面が強く、個々の講師は公務員に準じた倫理が求められる。業界全体が一丸となって取り組むには結局、個々の塾が危機感を共有できるかどうかがカギを握る。正直言って、この記事を読んで強い疑問を持った。憤慨したと言ってもよい。私は個人塾を10年やっているが、同業者とはほとんど付き合わずに、山椒魚のように引きこもって商売しているせいか、「全国学習塾協会」という組織の存在は知らなかった。どうやら大手・中堅塾が加入している団体らしい。経済産業省うんぬんと書いてあるところを見ると、圧力団体の一種なのだろうか?「全国学習塾協会」に参加するには、正会員で入会金30000円、年会費36000円が必要だという。この「全国学習塾協会」のHPを見ると、かの京進も会員として名を連ねている。事件が発生して1ヶ月経過した2006年1月11日現在でも、「全国学習塾協会」の会員名簿には、京進の名がある。今回の不祥事の責任を取って、協会を脱会したという記述は無い。おかしいぞ。まず最初に「全国学習塾協会」がやるべきことは、不祥事を犯した会員の京進に対して、何らかのペナルティを課すことではないのか。塾業界内部で自浄作用を働かせるなら、京進に対して譴責とか退会処分とか、厳しい措置をとる必要があるだろう。そして、京進に厳しい処分を下した上で、「全国学習塾協会」に加盟していない塾に対して、安全性を呼びかけるべきだ。私の塾ももちろん「全国学習塾協会」に加盟はしてはいないが、殺人事件を犯した塾が会員として名を連ね、しかもその塾に対して何のペナルティを課していない団体から、「うちに来れば安全性を保障できるぞ」と呼びかけられても、全く説得力がない。「全国学習塾協会」に賛同した塾は安全、賛同しない塾は危険というのは、間違ってはいないか?私の塾は小さな個人塾だが、生徒の安全には細心の注意を払い、気を配ってきた。今回の「全国学習塾協会」の呼びかけは、非加盟の塾に対して失礼極まりない行為だ。「全国学習塾協会」の行為を政治に喩えてみれば、自民党の議員が収賄で事件を起こし、自民党から逮捕者が出た。逮捕された議員は自民党に籍を置いたままである。そんな、逮捕者を処分できない自民党が零細政党に対して、『自民党に来れば清廉潔白な政治ができるから、自民党に入党しなさい』と言ってるのと同じことである。再考を促したい。
2006/01/11
私は中学3年から高校時代にかけて、勉強を全くしなかった。高校時代は学校へ行かず、昼は映画館、夜は球場でカープの応援、という生活だった。東京で相撲がある時は、土俵から遠い椅子席で相撲を見ていた。千代の富士の全盛期だった。まとまった金が入ると旅に出た。とにかく、俺は映画監督になるのだから、学校の勉強など糞食らえ! というスタンスだった。浪人中の7月から、さすがに現実逃避に飽きたのと、映画監督になるには大学生になるのが手っ取り早いという打算的な考えもあり、勉強を始めた。勉強を始めた直後、7月か8月かに、おそるおそる河合塾の全統模試を受けた。それまで私は学校の実力テストとか、予備校の模試とかある日は、学校を休んでいたので、生涯初の大学受験関係の模試受験だった。数学や理科を今から1から始めるのは難しいと考え、私立文系で攻めた。受験科目は英語・国語・日本史。模試受験は怖かった。はじめて大学受験という現実に向き合うのだ。中2の頃から勉強というものを一切していない。どんな結果が出るのか。まるで3~4年もの間、冷蔵庫に放り込まれ置き去りにされた生卵の殻を割るような恐怖だった。どれだけ自分の学力は腐っているのだろうか?結果は・・・英語は偏差値55くらいだった。目標大学の偏差値が70を超えていたので、赤信号が灯ってはいたのだが、英語に関しては偏差値35くらいは覚悟していたので、思ったよりずっと良かった、というのが正直な感想だった。偏差値15くらいなら、何とか駆け上がってみせるぜ、という根拠の無い自信もあった。日本史は偏差値73。学校の勉強も受験勉強も全くしなかったが、ふだんから私は陰気くさい戦記物や戦国物の本を貪り読んでいたし、戦国時代や幕末や昭和初期を舞台にしたシナリオを書いていた。シナリオを書くために小難しい史料にも接していた。だから試験問題はクイズみたいで簡単だった。問題は国語だった。模試を受ける前、国語には自信があった。金が無いときは映画館に行かずに、図書館に篭って蓮實重彦の映画評や、柄谷行人の文学評論を読んでいた。難しい文章の読解には自信があった。また勉強していなくても、国語はできるという幻想に縛られてもいた。しかし、返却された国語の偏差値は48だった。特に現代文が悪かった。絶望的に。模試の結果が悪かった理由を、予備校の人気講師が書いた本を参考にしながら、自分なりに分析してみた。分析してわかったのだが、私には悪い癖があった。評論でも随筆でも、自分の方向にねじ曲げて読む癖だ。脳内にテキストを取り込むとき、テキストの内容をそのまま受け入れればいいのに、私の脳内には妙な酵素があって、その酵素がテキストの内容を、筆者の考えとは似ても似つかぬ、自分独自の方向に変質させるのだ。だから、記述問題は大の苦手だった。記述問題になると、私は解答用紙に自分の意見をぶちまけた。当然不正解になる。模範解答を見ると、私の主観的で虚飾に満ちた「作文」と違って、面白くも無い無味乾燥な文章だ。私の文章のほうが面白い。模範解答を読むたびに私は「こんなんでいいの?」と納得がいかなかった。しかし国語は「自分の言いたいこと」を主張する科目ではない。「相手の言いたいこと」を読み込む科目だ。表現力より読解力が求められる。そんな初歩的なことにも気づかなかった。カウンセリングで、カウンセラーは患者さんから相談を受けたとき、自分の意見を述べてはならないそうだ。患者さんの台詞をカウンセラーが繰り返すのが、一番良い対処法らしい。「わたし毎日深夜2時ごろ、死んだ父親の幻覚を見るんですよ」「深夜2時ごろ、亡くなったお父さんの姿をご覧になるのですね?」「ええ」という具合に。国語という科目も同じ。筆者の書いた内容の奴隷にならなければ、国語の問題は解けない。国語の問題に接するとき、われわれは「話し上手」ではなく、「聞き上手」にならねばならないのだ。
2005/12/29
ファミレスへ行くと「いらっしゃいませ、こんにちは。」「ご注文、何になさいますか。」「ご注文確認させていただきます。」「ご注文以上でよろしっかたでしょうか?」と、相も変わらずマニュアル花盛りである。何度も新聞で雑誌でTVで本で、口うるさいオヤジ・オバサンにマニュアルは批判されているのに、そんな批判などなかったかのように、儀式のように粛々とマニュアルどおりの言葉が若い店員の口から繰り返される。オジサン・オバサンがマニュアルを批判するメディアなど、若い人たちは読まないのだろうか?ところで若い店員たちは、どうしてこんなにマニュアルに従順なのだろう? どうしてこんなに素直なの?私だったら絶対マニュアル漬けのバイトはやらぬ。何で人が書いた台詞を、繰り返さねばならないのか。マニュアルは一種のシナリオだ。映画やドラマのシナリオは、1人の俳優しか演じないのが普通だが、接客マニュアルは、たった1冊で何千何万の人間の一挙一動を思いのままに操る、巨大な影響力をもつシナリオだ。マニュアルの台詞が、全国津々浦々で同時多発的に語られる。1冊のマニュアルによって、全国で何千何万の若者の言葉や振る舞いが支配される。でも、精巧なマニュアルのおかげで、大手のFC店、たとえばマクドナルドやモスバーガーなどでは、店員の態度で不愉快な思いをしたことはまずない。感動的なサービスを受けることはできないが、サービスの平均値は高いことは確かだ。感じが悪く、仕事に対するやる気が無い商店街の小さな店のオジサン・オバサンよりはずっといい。ところで、FC店の経営者が精緻なマニュアルをこしらえるのは、若者に対する不信感がある。若いアルバイトの接客技術を経営者が全然信じていないから、接客マニュアルができる。マニュアルは内面が育っていない若者の外面だけを取り繕う。アルバイトに対する不信感が強ければ強いほど、経営者はマニュアルを練り上げ、内容を細かくする。マニュアルが存在するのは、若者に対してだけの不信感ではない。接客マニュアルは、20そこらになって自分では客あしらいひとつロクにできない若者に育て上げた、親や教育機関に対する軽蔑の証なのだとも思う。マニュアルは、若いアルバイト店員性悪説と、教育機関への不信がつくりあげた魔物である。
2005/12/28
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