レーゼクライス合宿 0
全29件 (29件中 1-29件目)
1
今日はkamiesu先生の真似して、「24-twenty four-」のお話。ネタバレありなので、まだ見ていない人は絶対に読まないように。また「24」に興味がない人は何のことかわからないので(私も生徒達に「エヴァ」や「ドラゴンボール」の話をされた時は、ついていけなくて往生した)読まない方がいいと思う。「24」の第5シリーズのレンタルが開始された。DVDは全部で12本あるが、3本ずつ小分けしてレンタルされる。チョコチョコ出すなよ。もどかしいぜ。だからレンタルで見るのはやめて、11月にDVD-BOXが発売されるので、買って一気に見ようかと思ったが、でもやっぱり気になって借りない訳にはいかず、3本まとめて一気に見てしまった。いやあ、最初から飛ばしてますね。第1話のテンションの高いこと高いこと。主要人物のうち2人が殺され、1人が重傷。のっけからとんでもないショックを受けた。たとえるなら、「サザエさん」を見ていたら波平さんが射殺され、ワカメちゃんが爆死し、マスオさんが重傷になり治療室に運ばれたら、視聴者は驚くでしょ?「ドラえもん」でジャイアンが射殺、静香ちゃんが・・・(しつこいので以下同文)もちろん「サザエさん」「ドラえもん」は予定調和の平和な世界だけど、「24」は波乱万丈のスパイアクションなので、死がつき物なのは重々承知なのだが、だからといっていくら「24」といえども殺しちゃいけない、死んだら視聴者が悲しむ登場人物はいるでしょうに。「24」は登場人物にたっぷり感情移入させといて突然殺す。趣味悪いよ。あと役者が上手い。役者の層が厚い。NYやロスのレストランのウェイターやウェイトレスの感じは非常に良いらしい。なぜならNYではブロードウェイの、ロスではハリウッドの役者の卵達が生活費を目当てにアルバイトしているというのだ。俳優の卵達は感じのいい人間を演じる訓練のために精一杯笑顔を振りまくという。そんな厚い層の中から選ばれた俳優達が「24」には登場する。日本のドラマでミスキャストが多いのは俳優の層が薄いためで(どうして来年の大河ではGacktが上杉謙信なの?)、「24」にはミスキャストがほとんどない。キャラも演技力もきわめて高い。パウエル大統領は理想の大統領像だ。アメリカ初の黒人大統領が現実になるとしたら、おそらくこんな感じの人だろう。またブッシュを髣髴させるアホ大統領ローガンを演じる役者さんは上手い。ピンチになると必ずアホみたいに口を半開きにする。どんなにローガンが平和主義的な理想を述べても、口を開けるというたった1つの行為で彼が信頼性に欠ける人物であることを表現している。パウエルは民主党、ローガンは共和党だろう。アメリカの映画界やマスコミには民主党支持者が多いというが、「24」の製作者も民主党支持者だろう。あと「24」には「変な女」が次から次へと出てくる。変な女の代表と言えばもちろんパウエル大統領夫人シェリーだろう。シェリーはとっても変。顔も変だし性格はもっと変。身体が絶えず前屈みでクネクネしていて、指の使い方がとっても怪しい。彼女が登場すると必ず波乱が起きる。ところが、どうしようもない女なのに何故か憎めない。シェリーが身体をクネクネさせ唇を突き出し怪しい熱弁を振るっている時の、夫パウエル大統領の苦虫を噛み潰したような怖い仏頂面がいい。「8時だょ!全員集合!」で志村けんが「東村山音頭」を歌っている時のいかりや長介の気難しい顔に似ている。あとCTU ロス支局の部屋が素晴らしい。支局長の部屋が2階でガラス張りになっていて、1階の部下の仕事が俯瞰できる。東京証券取引所みたいな感じの部屋だ。私が塾を建てるとしたら、CTUみたいなレイアウトにしようと思う。塾長室が2階で、ガラス張りで1階の各教室の授業風景が丸見え。格好いい。ただ塾の校舎を建てるのは金がかかるので、せめてCTUの電話の音だけでも真似したい。CTUの「ププッ・ピ・ドゥー(マリリンモンローではない)」という電話の呼び出し音が鳴る電話機、どこかに売ってないだろうか?携帯の着信音なら探せばどこかにありそうだ。また電話なら、トニー・アルメイダの「アルメイダ?」という無表情な電話の取り方が格好いい。(気が向いたら続く)
2006/09/09
歴史好きになるにはNHK大河ドラマを見ればいいとよく言われる。しかし実際の大河ドラマは、たとえば今年だったら山内一豊と周辺人物のことしかやらない。一年通して見ても、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代には詳しくなるだろうが、あとの時代が抜けてしまう。だから「功名が辻」を1年間たっぷり見ても、藤原道長や足利義満や明治天皇のことはわからないままだ。だったら歴代大河ドラマの総集編ばかり集中的に、子供に見せるのも手だ。たとえば歴史上のメイン人物なら・・・平将門「風と雲と虹と」加藤剛藤原清衡「炎立つ」村上弘明源義経「義経」滝沢秀明源頼朝「草燃える」石坂浩二北条時宗「北条時宗」和泉元彌( ̄w ̄)ぷっ足利尊氏「太平記」真田広之日野富子「花の乱」三田佳子(足利義政は市川団十郎)武田信玄「武田信玄」中井貴一織田信長「信長」緒形直人豊臣秀吉「秀吉」竹中直人徳川家康「徳川家康」滝田栄徳川秀忠「葵・徳川三代」西田敏行春日局「春日局」大原麗子(徳川家光は江口洋介)徳川吉宗「八代将軍吉宗」西田敏行徳川慶喜「徳川慶喜」本木雅弘西郷隆盛「翔ぶが如く」西田敏行(何でもできちゃう局長西田敏行。今年は徳川家康)原始古代及び明治以降が弱いのが難点だが、これだけ見れば歴史好きになるかも。明治以降は「獅子の時代」や「春の波濤」があるが、「獅子の時代」の主人公は架空の人物だし、「春の波濤」は川上貞奴という女優の生涯なので、受験勉強にはあまり使えない。日露戦争を大河ドラマ化して欲しい。「明治天皇と日露大戦争」でも見せようか。「坂の上の雲」が大河ドラマになれば一番いいのだけど。あと大村益次郎の「花神」、呂宋助左衛門の「黄金の日々」、伊達政宗の「独眼竜政宗」、前田利家の「利家とまつ」、忠臣蔵の「峠の群像」「元禄繚乱」あたりを適宜見せてもいい。
2006/07/05
「冬のソナタ」が放映されていた頃、誰か大人に会えば必ずヨン様の話になった。塾の三者面談のとき子供を差し置いてお母さんとヨン様話で盛り上がったこともある。「冬のソナタ」のCDをお母さんに貸したこともあった。お母さん方は私が「冬のソナタ」を見ているタイプには見えないらしく、私が冬ソナについて熱く語ると、結構意外そうな顔をしていらっしゃった。それにしてもヨン様フィーバーは凄かった。30代40代50代女性の狂乱ぶりには圧倒された。成田空港やホテルニューオータニの騒乱ぶりも凄かったが、釜山のロッテホテルでヨン様の写真展があり、それを目当てに海を渡って韓国までヨン様を追っかけた人たちもいたのだ。ヨン様写真展の初日は、ヨン様が自ら登場することもあって、500人の日本人が詰め掛けたという。そのうち100人はヨン様の登場を待つために、ホテル前に徹夜したらしい。ヨン様は午後1時半に現れると、写真展のテープカットをした後、500人の女性全員に笑顔を振りまきながら全員に対して丁寧にサインをしたという。ヨン様出血大サービスである。韓国に渡ったヨン様ファンは賢かった。成田ではちょこっとしかヨン様を拝むことはできなかったが、釜山に行けば一緒に写真を撮ってもらい、サインまでしてもらえたのだから。暇と金と家族の了解がなければできないことだけど。とにかく500人もヨン様目当てに日本人が海を渡るなんて驚いてしまった。また、テレビでヨン様の追っかけに夢中の、50代主婦のドキュメントをやっていたこともあった。そのヨン様追っかけ主婦の旦那さんは、妻のヨン様に対する入れ込み振りに眉をひそめているかといえば、どうやらそうではないらしい。旦那にとってもヨン様の存在は嬉しかったのだという。なぜならヨン様効果で、50代主婦の更年期障害が解消されたらしいのだ。ヨン様のフェロモンでその主婦は、再び女に戻れたのだという。旦那もヨン様のおかげで楽しいSEXができて万々歳らしいのだ。とにかく一連のヨン様騒ぎは、私のような「冬ソナ」にはまった人間には、狂乱ぶりをある程度理解しようと思えば理解できないこともないのだが、ドラマを見ていない人にはバカ騒ぎにしか見えなかっただろうに。ヨン様フィーバーは、どこまでがヨン様の容貌によるもので、どこまでが「冬のソナタ」のドラマ自体の魅力によるものなのか境界線は明確ではないが、恐らく2つの要素の相乗効果だったのだろう。「冬ソナ」の主演がヨン様じゃなかったら、ドラマが熱狂的に受け入れられることはなかっただろうし、またヨン様も「冬ソナ」に出演していなかったら異常フィーバーに巻き込まれることもなかったに違いない。ヨン様もそろそろ、チェ・ジウみたいに日本のドラマに出ないかな。
2006/06/16
塾から帰って「渡る世間は鬼ばかり」を見たら、「おかくら」では京唄子がゴジラのように猛烈に吼え、植草克秀が酔って大声でわめき散らし、村田雄浩もベロンベロンになっている。営業終了後とはいえ、何という秩序のない店か。身内の図々しさには呆れてものが言えぬ。それから、宇津井健=岡倉大吉の調理の腕に疑いあり!どうして宇津井健は、割烹の主人のクセに、いつも擂鉢でゴマをすったり、和え物をしたり、オタマで味見をしたり、包丁を研いだり、軽作業しかやらないのだろうか。また、仕事に気合が入っていない。前回なんか宇津井健は、泉ピン子の身の上話を聞きながら竹の箸を削っていたのだが、5分間に1本しか削らなかった。効率の悪いことはなはだしい。追い回し役の山田雅人も、身の上話を立ち聞きしながら、1枚の皿を3分もかけて拭いていた。よその店だったら、いつクビになってもおかしくない怠慢仕事だ。それに、宇津井健が魚をさばく姿を見たことがない。これは前任者の藤岡琢也にも言えることだ。最近話の筋よりも、宇津井健の手元ばかりが気になる。
2006/05/18
「渡る世間は鬼ばかり」の和食屋「おかくら」は、いったい商売が成り立っているのだろうか?客にとって、あんなに居心地の悪い店はなかろうに。まず、カウンター席がいつも身内で固められている。しかも、うるさい。声のでかい藤田朋子、愚痴の多い泉ピン子、しゃべり倒す中田喜子、陰気な長山藍子、ハキハキした声が耳障りの植草克秀・・・それだけならまだ耐えれるが、そこへ超深刻な顔でお詫びに来る角野卓造や、関西弁ババアの京唄子が加わったら最悪である。ふつうの職業意識を持つ板前なら、身内が来ても「今仕事だから後にしてくれないか」と追い返すだろうし、泉ピン子達身内の側も、相談事があるなら営業時間を外して「おかくら」を訪れるだろうに。営業時間中に身内の相談事に没頭する岡倉大吉、営業時間中にズカズカ職場にやって来て騒ぐ身内。どちらもどっち。どんなんやまったく。それにしても一般客は身内がベタベタ居座る環境で、バクバク飯なんかよく食えると思う。耐えているのか、無神経なのか。それに、「おかくら」は一般客のおしゃべりが一切聞こえない。身内がカウンターで賑やかに騒いでる後ろで、一般客は刑務所で囚人が食っているかのように、黙々と静かに食べている。頑固なラーメン屋みたいに「お食事中は静粛に願います」と店のどこかに張り紙でもしているのか。それならあの身内のしゃべりは何だ!とにかく変な店だ。2chやZAGATみたいなグルメガイドではケチョンケチョンに書かれるだろう。
2006/05/11
時々「クサイ」とは知りながら、人情味のある、ヒューマン系の映画が無性に見たくなる時がある。「寅さん」の山田洋次監督作品「家族」がいい。昭和40年代、ちょうど大阪で万博が開催されていた頃、九州の炭鉱で生活していた貧しい家族が炭鉱の斜陽化で故郷を追われ、新天地を求めて北海道の開拓村に移住するロードムービーだ。日本版「怒りの葡萄」とでもいおうか。炭鉱で職にあぶれた貧しい家族が、高度成長期の繁栄の前に取り残される。しかし貧しいがゆえに家族が結束しいたわりあう姿がいじましい。悲惨な映画だが見た後は爽やかなものが残る。また、昭和40年前半の古い日本の風景がふんだんに見ることができ、ノスタルジーをそそる。たとえば私の隣町福山駅は、いまは新幹線の近代的な高架駅だが、映画では古めかしい地平ホームで登場する。それからやはり「幸せの黄色いハンカチ」は山田監督の最高傑作だと思う。刑務所出所後の高倉健が、久々に刑務所生活から解放され、刑務所前の食堂でうまそうに、ほんとにうまそうに醤油ラーメンをすするシーンは見ものだ。黒澤明監督のヒューマン物なら、「生きる」がいい。私は黒澤明が大好きだ。映画作家で一番尊敬している人である。「生きる」は市役所に勤めるただ仕事場に来て座っているだけの、やる気のない初老の小役人志村喬が、ガンで余命6か月と診断される。しかしその宣告をきっかけに主人公は豹変し、死ぬまでの短い期間、生まれ変わったかのように仕事に没頭する。人生最後の時間に、自分の生命力を燃焼させる潔さ、格好よさがストレートに伝わってくる。僕は高校2~3年生の頃強い自殺願望があったのだが、その愚かな自殺願望を時間をかけてじっくりと癒してくれ、「どうせ生まれたからには、何か残して死ななきゃね!」と思わせてくれた映画だ。役人役の志村喬の目が、死人の目から狂気の目、そして死ぬ前には純粋な目に変わる。ドラマ「僕の生きる道」が好きな人は、絶対に見て欲しい。古い映画なので少し冗長の感はあり、また白黒映像なので見始めの3分間は違和感があるだろうが、猛烈に「泣ける」映画だ。「七人の侍」と並ぶ黒澤監督の2大傑作というのが、世間の定評である。どうやら「生きる」は、ハリウッドでリメイクされるらしい。あと「赤ひげ」もいい。僕が高校時代夢中で愛読した山本周五郎の原作。貧しい病人を無料で診察するために設立された小石川養生所のボス「赤ひげ」三船敏郎は、ぶっきらぼうで唯我独尊、若い医師たちには「問答無用」と自分の意志を押し通す頑固な男。しかし悪を憎み、貧しさを生み出す愚かな政治を憎むまっすぐな人で、根は非常に優しい。その赤ひげ率いる小石川養生所へ、長崎でオランダ医学を学んだ若きエリート医師加山雄三がやって来る。加山雄三は幕府の御典医として働きたかったのだが、なぜだか貧乏臭く、傲慢なボス赤ひげのいる小石川養生所に配属され、最初のうちは大いに腐る。病院には貧しく汚らしい患者ばかりだし、それに上司である赤ひげの頭ごなしの命令が嫌でたまらない。しかし小石川養生所の患者達の貧しい中でも尊厳を失わない気高い心や、養生所で働く同僚たちのやさしさ、そして三船敏郎の赤ひげの人格的な凄さに触れ、加山雄三は、だんだん小石川養生所で働くことが好きになる。一人の青年が変わってゆく「教育映画」としても面白い。赤ひげ役の三船敏郎は頑固オヤジの雰囲気をたたえ、また若き日の加山雄三も青二才の若造医師を好演。心が乾いた時に「家族」「幸せの黄色いハンカチ」「生きる」「赤ひげ」はお勧めします。
2006/04/21
ところで、どうして「渡る世間は鬼ばかり」を見る時、僕達は泉ピン子に肩入れするのだろうか?だって、バラエティ番組に出演する泉ピン子を見るがいい。バラエティの泉ピン子は、自分は話術があって、話が面白い芸能界の大物という自意識プンプン。服はシャネル一本槍。こんな下品で嫌味なオバサンはあまりいない。しかし「渡る世間は鬼ばかり」で幸楽の白い上っ張りを着て、赤木春恵や沢田雅美や中島唱子のイジメにじっと耐えている泉ピン子の姿を見ると、視聴者は「泉ピン子かわいそう」と、泉ピン子に感情移入する。バラエティのふてぶてしい泉ピン子の姿を、しばし完全に忘れてしまう。「渡る世間は鬼ばかり」の視聴者で、赤木春恵や沢田雅美や中島唱子の味方をしながら見ている人は、果たしているのだろうか?「赤木春恵、もっと泉ピン子をいじめたらんかい!」「沢田雅美、泉ピン子をイビリ倒して、幸楽から追い出したらんかい!」そうブラウン管の前で叫んでいる人は、あまりいないと思う。とにかく僕達が「渡る世間は鬼ばかり」で泉ピン子の味方をするのは、泉ピン子の演技力と、橋田壽賀子のシナリオの魔術の相互作用に他ならぬ。だって本当の泉ピン子は、どう見たってイジメっ子キャラでしょ?「渡る世間は鬼ばかり」で突然、泉ピン子がバラエティ番組で見せるような、ふてぶてしいババアキャラの本性を出して、赤木春恵や沢田雅美に逆襲したら、ドラマはK-1並に面白くなる。TBSの「春の大感謝祭」みたいな番組で、「渡る世間は鬼ばかり」の出演者が出ているが、「渡る世間は鬼ばかり」チームで一人大きな声でしゃべり倒しているのは泉ピン子で、横でイジメ役の赤木春恵は高そうなピンクの縁無し眼鏡なんかかけて、淑女然と上品そうに無口なまま微笑を湛えている。傲慢っぽい泉ピン子がイジメられる嫁役で、上品な婦人である赤木春恵が鬼姑役。ドラマの嘘の世界は、だからこそ面白い。ところで、「渡る世間は鬼ばかり」の石坂浩二のナレーターは、今回も絶好調である。下品極まりないドラマの格調を、石坂浩二のナレーターが一気に高めている。
2006/04/15
久しぶりに「渡る世間は鬼ばかり」を見た。岡倉大吉役が、藤岡琢也から宇津井健に交代するというので、非常に興味があった。TBSドラマ界において、水戸黄門役が東野英治郎から西村晃に変わって以来の、大幅キャスティング変更である。宇津井健は、岡倉大吉役を70年続けているかのような、見事なハマリ具合である。「おかくら」カウンターでの板前姿がよく似合う。宇津井健はあまり器用な役者ではない。ロボットのような動きの演技をする人だ。でも人情味や熱意、温かさを十二分に醸し出すいい役者だ。私は「赤い疑惑」や「赤い運命」の頃から宇津井健のファンだ。ドロドロした大映ドラマ「赤シリーズ」の中で、宇津井健だけがまともな人間を演じていた。かつての大映ドラマでは、周囲は三国連太郎とか前田吟とか石立鉄男とか、変人奇人狂人大集合の役者陣の中で、宇津井健だけが唯一感情移入できる人だった。老齢になって、宇津井健は視聴者に安心感を与える役作りに磨きをかけている。泉ピン子が「とうさん」と呼んでも、全く違和感が無い。たとえばもし岡倉大吉役に宇津井健ではなく、田中邦衛が抜擢されていたら、超絶な違和感を覚えていただろう。それから、知らない間にえなりかずきが東大生になっていた。驚き。小さい時からラーメンや餃子を運んでいて、また家庭内は嫁姑小姑の壮絶な争いで明け暮れていたのに、ちゃんと隠れて勉強していたんだ。えなりかずき、立派な男だ。でも、えなりかずきは顔も服装も、古典的な東大生のイメージにぴったりだ。セーターの襟元から、白いシャツがカチッと覗いている、真面目君的着こなしなんか、えなりかずきしかできやしない。あと、赤木春恵が降板すると聞いて、じゃあ「幸楽」で泉ピン子をいじめる役は誰になるのか、中島唱子の聖子ちゃん単独では泉ピン子をいじめるのは役不足だと思って見たら、何と沢田雅美が復活していた。沢田雅美は橋田壽賀子だか石井ふく子に睨まれ、干されていると聞いていた。ドラマでもアメリカで喫茶店やっているという設定になっていたが、まさかの再登板である。沢田雅美が醸し出す不快感のオーラは凄い。ブラウン管の厚い壁を越えて不快感が伝わってくる。私も見ていて、時々気分が悪くなる。あんな女が家にいたら、家でヘビを買っているのと同じだ。赤木春恵がいなくなって、さすがに橋田壽賀子も石井ふく子も確執を水に流して、沢田雅美に声をかけたのだろう。沢田雅美の久子が幸楽にいて、泉ピン子をネチネチいじめたら、ドラマが締まる。イジメ役はリーサル=ウエポン沢田雅美しかいない。沢田雅美の再登板は、非常に喜ばしい。
2006/04/14
映画は、強い意志で他国の文化にコミットしようとしなくても、他国の文化を安易に受け身で、楽しみながら知ることができるメディアである。たとえば映画で、生のアメリカに接する機会のいかに多いことか。映画ファンは警視庁のパトカーと同じくらい、ロス市警のパトカーを見慣れている。映画がなければ、日本のアメリカに対する理解ははるかに貧弱なものになったであろう。ハリウッドという名の、アメリカ合衆国文化部の大宣伝部隊は、玉石混交のフィルムを日本に撒き散らす。「タイタニック」や「アルマゲドン」など、いかにもハリウッドの定番といった映画を大金かけて製作すると思えば、「パルプ・フィクション」や「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のような、大変化球も投げる。「ミリオンダラー・ベイビー」みたいなシリアスな作品も作る。アメリカ映画は懐が深い。映画に関しては、日本はアメリカからの超輸入超過である。逆に、日本映画はアメリカにどんな影響を与えたか?日本人の思想・文化・風俗、アメリカにきちんと伝えているか?アメリカ人が映画というメディアによって日本を理解しようとしても、日本映画はホラーとゴジラ以外アメリカではメジャーになり得ない。その結果アメリカ人の日本に対する無理解が加速される。アメリカ映画における日本の風俗が、いかに奇妙に描かれていることか。「007」のボンドが化けた日本人の姿のおかしいこと!最近の映画も然り。「パール・ハーバー」の東京大空襲で焼かれる女の人たちのファッションは、花魁芸者の姿だ。「さゆり」の芸者に至っては、中国人が演じている。日本人監督で有名なのは、未だに黒澤・小津(ヨーロッパに行くと溝口・今村・大島も有名だが)である。フィラデルフィアのレンタルビデオ店では、日本映画はこの2人の作家のものが大部分だった。(その他なぜか伊丹十三の「タンポポ」があった)現存の作家になると、評価されるのは北野武が作る、大学映研の卒業制作のような映像ばかり。たしかに北野氏の映画の既存の映画とのズレ方、表現技術の拙さを力技で押し切るところ、また画面の言い知れぬ緊張感と無気味さは凄いものだが、日本映画の「主流」ではない。日本映画は、娯楽作が軒並み壊滅状態である。ハリウッドに比べて、韓国と比べてさえ、格落ちの感がぬぐえない。悪い例に出して恐縮だが「ホワイト・アウト」はひどかった。「ホワイト・アウト」みたいな雪山映画の成功は、映像で寒さをいかに表現するか、雪の恐怖と美しさをいかに画面に焼き付けるか、にかかっている。ところがこの映画、ただ猛烈な吹雪の前にカメラを据えているだけで、体を刺す痛みを伴う寒さが伝わってこない。寒さを表現する細かいディテールの積み上げがない。黒澤明はモノクロ時代、豪雨の迫力を出すため、水に墨汁を混ぜ、消防車のホースから降り注いだそうである。ビリー・ワイルダーは「麗しのサブリナ」で、まだクーラーの普及していない時代、扇風機の前に氷柱を置いて室内の暑さを表現していた。こういう一目でわかる「映画的」な工夫、ディテールが欲しい。細かい映像のディテールを考えるのは楽しいはずなのだが。恐らく、国立の映画学校が整備され、きちんと指導さえしておけば、「ホワイト・アウト」ような、ただ単に雪の前ににカメラを据えただけの撮影をするような失敗はしないであろう。きちんとした表現技法のテキストがあり、たとえば暑い時や寒い時の表現はどうするのか、映像表現の基礎が書かれたしっかりしたテキストを完備すれば、「ホワイト・アウト」のような間違いは起こりえないだろう。表現する者にとっても、教科書以上の個性を打ち出すために、めざすハードルは高くなり、そこから斬新な表現が生まれる。日本映画の場合、伝統の踏襲すらできずに、映像表現技術のイロハまで作家の「個性」に委ねられている。その結果技術的に未熟な作品が出来上がる。映画は外国人に日本を理解してもらえる格好のプロパガンダだ。伝統を大切に学んでほしい。
2006/03/19
日本の道路や施設で映画を撮影するのは、大きな制約がある。撮影現場を確保するのは大変だ。天下の公道で堂々と撮影できるのは、強い政治家(慎太郎)をバックに持つ石原軍団のドラマや映画ばかりだ。(「西部警察」や「誘拐」を見よ)鉄道会社にしても、撮影に協力してくれるところは少ない。小田急や京王は結構協力的らしい。だから映画の主人公は小田急や京王沿線が多い。ハリウッドのあるロサンゼルス市やカリフォルニア州政府が、映画撮影に非常に協力的なのとは対照的だ。高層ビルが火災にあっても、バスがジャックされロスの街中を走り回っても、ロスの地底で火山が爆発しても、宇宙人が襲ってきても、ターミネーターがやってきても大丈夫!ロス市はきちんと撮影に協力してくれる。知事自身がターミネーターだし。また金銭面でも、先進国で日本ほど映画撮影に冷たい国家は珍しい。北朝鮮やナチスみたいに、あんまり国が先導して映画作りを行うのも無気味だが、日本はあまりにも映画に冷たすぎる。日本の映画人は、全部「自腹」で映画を撮っている。国がお金を出すことはない。日本政府は第二国立劇場を建てたり、田舎にコンサートホールを作ったり、ハードには金を必要以上にたっぷりと注ぎ込む。しかし、映画ソフトに対する資金援助はほとんどしない。確かに国が資金を出すようになると、国が脚本や演出に口を挟み、「国策映画」が増える危険性はある。しかし、もう少し理解を示してもいいような気がする。とにかく、映画は異常に金を喰う。日本の映画監督は他の仕事で金を集めて、映画に注ぎ込む。北野武や三谷幸喜はTVで、市川準や大林宣彦はCM撮影で稼いだ金を映画に投入する。観客動員を集め儲かったとしても、税金でがっぽり取られる。だから映画の儲けを、次回作に注ぎ込もうとしても難しいる。高い税金のおかげで、また一から資金集めをしなければならない。おそらく映画で純粋に財を成した人は、宮崎駿ぐらいではなかろうか?国は資金提供なんてしなくていいから、税制面でもう少し映画に気を使ってくれたらいいと思う。日本の銀行も、映画に対する融資は冷たい。アメリカの銀行は、どんなに無名な人間でも、面白い脚本を持っていくと、お金を貸してくれるのだそうだ。担保は日本のように土地ではなく、脚本ということになる。「ゴーストバスターズ」という映画は、NYにマシュマロマンが現れるというアイディア1本で、銀行が金を融資したという。とにかく、日本では政府も企業も映画に冷たい。というわけで、まともな生活をしようとする人は、映画界には飛び込んでこない。映画を志す人は「世捨て人」になることを覚悟しなければならない。どんどん映画界は、才能が枯渇してゆく。小泉首相は芸術に理解がある人だから、在任中に何とかしてほしい。
2006/03/18
みのもんた、私は結構好きである。たしかに、みのもんたの顔はひどい。醜悪と言っていいくらいだ。また決して紳士的なナイスミドルではない。お下劣セクハラ親父に近い。猥雑な話も好きだ。朝、目を覚ましテレビをつけると、テンションの高いみのもんたがしゃべっている。なんだか朝から焼肉ホルモン食っているみたいに胃がもたれる。しかし、司会者みのもんたの話の流れに一旦のってしまったら、視聴者は抜け出せなくなる。みのもんたの司会は流暢で、視聴者を飽きさせない。軽く時間を流す話術は秀でている。たしかに彼の語りに鋭い知性は感じられない。松本人志や北野武や太田光や島田紳助のような、「こいつ頭いいな」と感じられる瞬間は、みのもんたの話の中にはない。政治に対する意見も斬新なものではない。誰もが口にできるレベルのものだ。だからこそ、みのもんたの司会は安心感がある。驚きはないが、退屈はさせない。司会者が鋭すぎたり、話の内容が斬新過ぎると、濃すぎて視聴者は離れてゆくものだ。みのもんたは顔は濃いが、話は薄い。また、みのもんたは笑顔は条件付きで「素晴らしい」。たしかにみのもんたの笑顔は不細工だ。でも、「クイズ・ミリオネア」で、緊張している解答者に向かって、みのもんたが「正解!」という時、視聴者はみのもんたの笑顔に安堵し、ほっとするだろう。無意識に視聴者は、みのもんたの笑顔に酔いしれている。ただし、笑顔の一瞬間だけ、みのもんたの笑顔を引き伸ばして額縁に入れて見てしまえば、あんな醜い顔はない。たとえば外国人に、「これは日本で一番有名な人気司会者です」とみのもんたの笑顔の写真を見せれば、日本人の品性なり美的感覚が疑われる。しかしクイズの挑戦者が1000万円を目指す苦労の過程の中だと、みのもんたの笑顔が天使の微笑みに思えてしまう。番組の演出が、みのもんたの笑顔を生かしているわけだ。みのもんたの流暢な退屈させない司会術やしゃべり方は、彼の醜い顔を忘却させる。みのもんたの顔が嫌いな視聴者も、10秒に1回くらい「みのもんたは変な顔」と意識しながらテレビを見ているわけではない。彼の話術は顔のハンディをカバーしている。ところで、みのもんたは、昔はどこにでもいる司会者の一人だった。プロ野球ニュースの土日の司会とか、好プレイ珍プレーのナレーターをやっていた時代は、その他大勢の当たりさわりのない司会者にすぎなかった。しかし「おもいっきりテレビ」の生電話コーナーからみのもんたは変貌した。卑屈で媚びた感じの司会者から、傲慢不遜な司会者に変身した。みのもんたは電話で身上相談してくるおばさんを、怒鳴り上げながら説教した。テレビの視聴者は半ば緊張し、半ば腹を立てながら、怖い物見たさでみのもんたの司会っぷりを眺めた。みのもんたの態度が大きくなったことで、毀誉褒貶は激しくなり、「みのもんた嫌い」が増えた。しかしみのもんたが出演する番組の視聴率は上がった。みのもんたの押しの強さと、視聴者に媚びない態度を、多くの主婦は支持した。「笑っていいとも」の一人勝ちだった平日正午の時間帯で、みのもんたは視聴率で勝利を収めた。みのもんたは自分の話術の流暢さに気付いていた。しかし同時に「薄い」話しかできないことも、十分自覚していた。このままでは頭が切れる個性の強い他の司会者と戦えない。テレビで感情を露出し、怒りをぶつけ始めたのも、テレビ界でのし上がってゆくための、バクチ的処世術だったのかもしれない。さて、みのもんたの成功例を、塾の講師に当てはめてみよう。ただ愛想よく流暢な授業をしても、それだけでは生徒に聞き流される、イージーリスニングみたいな授業にしかならない。生徒の心をつかむには、時折感情をむき出しにすることも大切だ。生徒の心をつかむには様々な方法があるだろうが、みのもんた的態度の大きさ、押しの強さでアピールするのも、一つの手段だ。講師がほどよく感情的になれば、授業のスパイスになる。私も若い時は生徒を怒らない教師だった。怖くない先生だった。当然保護者や生徒のウケはイマイチだった。私が生徒を叱れなかったのは、私が優しい人間だからではない。叱る度胸がなかったのと、自分が生徒の前でいい人であり続けたかったのと、授業に自信がなかったからにすぎない。しかし私が成長するに従って、生徒を叱る度胸が生まれ、授業に自信ができ、生徒を叱れるようになった。子供は私の授業を聞けば、絶対に生徒の将来に役に立つ。そんな確信が生まれてから、私は生徒を平気で叱れるようになった。生徒を叱り始めてから、私の教師としての評価は大幅に高まった。私は講師として、「みのもんた的進化」を遂げたのである。もちろん、怒鳴り上げることで、私の元を離れた生徒も数多い。怠ける人間には容赦なく罵声を浴びせた。しかし、私が残って欲しい、私が尊敬する生徒は、誰一人として私の元を立ち去らなかった。私に子供を託してくれる父母の方が増えた。みのもんたみたいに感情をぶつけることで、私も一人前になれた(かな?)さて、うちの塾生には、別の意味でみのもんた的な生徒がいる。「部屋の中に女性がいます」という文章を英作文すると、女性をladyでもwomanでもなく、girlと英訳しやがった。女性の年齢は12歳か34歳か71歳かわからない。それをgirlとするのはいかがなものか?みのもんたが50代60代の年配の主婦に、「お嬢さん」とリップサービスしているのと、同じような気持ち悪さを覚えた。
2006/03/02
吉岡秀隆と内田有紀の離婚話を聞いていたら、山田洋次のことを思い出した。私は山田洋次のファンだ。「寅さん」シリーズは大好き。「寅さん」のブログを作ろうと考えたこともあるほどだ。また最近の時代劇シリーズ、真田広之「たそがれ清兵衛」、永瀬正敏「隠し剣、鬼の爪」は素晴らしい。山田洋次は、古めかしい人情を表に出す映画を作る人だが、現代劇ではそれが古めかしく、クサくなりがちになって、時折「こんなやさしい人いねえよ」と突っ込みたくなるのだが、時代劇だと山田洋次的な人情話は、不自然ではなく受け入れられる。山田洋次が撮る時代劇を見ると、この人の資質は現代劇ではなく時代劇にあるのではないか、そんな気がする。山田洋次的な、ちょっとべたっとした人情話は、現代劇では違和感を抱く人が多いが、江戸時代を背景に描いたらピタッとはまる。山田洋次の脚本は、古典落語に似ている。山田洋次の現代劇は、古典落語の世界を現代に置き換えたものだといってもいい。山田洋次は古典落語の世界を、強引に現代に押し込んだ。この試みは「冒険」と言いかえてもいいだろう。ただ、現代人の身体に、古典落語的な人格を嵌め込む試みは、若い人からは「古めかしい映画」と映った。逆に山田洋次が撮る時代劇は、モダンな感じがするのだ。また、山田洋次の演出は、藤沢周平の原作とはベストマッチだ。藤沢周平の清冽さと、山田洋次の隠れた激情が、映画を豊かなものにしている。藤沢周平の最高傑作「蝉しぐれ」も山田洋次で映画化して欲しかった。山田洋次の新作時代劇は来年公開されるらしい。主演はキムタク。今から楽しみである。さて、山田洋次の作品の中でも、「幸福の黄色いハンカチ」は日本映画の最高傑作のひとつだと思っている。「幸福の黄色いハンカチ」は、山田洋次の現代劇の中で最も人情味が濃密で、クサい映画なのだろうが、ここまで濃厚に描かれると凄みが出て、大名作になる。「幸福の黄色いハンカチ」という映画のストーリーを手短に紹介する。高倉健が妻である倍賞千恵子を守るために、止むを得ず殺人を犯す。そして刑務所に入る。高倉健は入所中、倍賞千恵子に「俺を許して迎えてくれるなら、家に黄色いハンカチを1枚かざしておいてくれ」と手紙を出す。高倉健は出所する。(出所した直後、高倉健は食堂でカツ丼と醤油ラーメンを食べるが、この食い方のうまそうなこと!)出所したのはいいが、しかし、家に帰る勇気がない。こわい。妻の倍賞千恵子が自分を迎え入れてくれるか不安で仕方がない。高倉健は結局、家には帰らないことにした。そんな時、桃井かおりと武田鉄矢が演じる、車で旅行中の若いカップルに出会う。(1978年の映画だから、桃井かおりも武田鉄矢も若い)最初は桃井かおりも武田鉄矢も、高倉健が殺人犯で出所したてだという事実を知らない。しかし、刑務所にいたので免許を更新していない高倉健が、たまたま自動車を運転していたとき、悪しくも検問に引っかかってしまい、警察に呼ばれ、若い2人に高倉健に殺人の前科があることがばれてしまう。(この検問のお巡りさんの役が渥美清。この人が警察官のおかげで、場がなごむ)桃井かおりと武田鉄矢は、高倉健が殺人犯だったという事実を知り恐れるが、高倉健から殺人に至るまでの、やむをえぬ悲しい事情を聞いて、逆に高倉健を後押しする。2人は絶対、再会しなければならない。そして若い2人に背中を押される形で、高倉健は家に帰り妻に会う度胸ができる。夕張の炭鉱にある家に帰る途中、高倉健は緊張して、何度も引き返そうとする。でも家に着いた。3人は恐る恐る家を見上げる。家では倍賞千恵子が洗濯物を乾かしていて、その上には黄色いハンカチが、1枚どころか、何百枚もはためいていた。というストーリーだ。さて、倍賞千恵子が黄色いハンカチを家の外に何百枚もはためかせるのは、ただ単にお疲れさま、お帰りなさい、という意味だけではない。高倉健の犯した殺人の罪も、また殺人を犯したことで生じた「穢れた」部分も、すべて赦すという、確固たる意思表示だ。高倉健は出所した。しかし倍賞千恵子が自分の穢れた部分まですべて受け入れてくれるか、心配でたまらなかった。自分は悪いことをしてしまった。そんな穢れた自分は妻の前に再び現れる資格があるのだろうか。高倉健は迷いに迷っただろう。だから、高倉健は出所した後、真っ直ぐに倍賞千恵子の元には帰らなかった。でも倍賞千恵子は圧倒的な愛情で、高倉健の穢れた部分も全部ひっくるめて迎え入れた。その象徴が黄色いハンカチに他ならない。愛する人の穢れた部分も包み込む巨大な愛情を表現しているからこそ、「幸福の黄色いハンカチ」は名作なのだ。そういえばイラク派兵の時、再び日本に帰ってきた自衛隊員を、黄色いハンカチで迎えよう、という議論があった。「幸福の黄色いハンカチ」のストーリーを、イラク派兵に置き換えてみると・・・「自衛隊員の皆さんはイラクへ行きます。もしかしたら私たち日本人を守るために、人命を奪うという事態も起こるかもしれない。自衛隊員の手は血で汚れ、心は殺人の罪の呵責で乱れるかもしれない。でも私たちは自衛隊員が犯した「殺人」という罪も赦します。黄色いハンカチを掲げることは、その意思表示です。」ということになるのだろうか。黄色いハンカチを掲げて自衛隊員を迎えようとする側は、「殺人の罪を赦す」というニュアンスで、この運動を推進していたのだろうか?黄色いハンカチが赦す罪は、自衛隊員の「殺人」だけなのか、それとも日本政府のイラク派兵という罪をも赦すものなのか?また、公的機関が先頭に立って黄色いハンカチで自衛隊員を迎えるのは、馬鹿げていることは明白だ。人殺しの罪を赦すかどうかは、個人レベルの問題で、国家レベルの問題ではないはずだ。
2005/12/22
無教養な私が、レヴィ=ストロースを知った時は衝撃的だった。音韻論と親族システムから二項対立の法則を発見し、それをあらゆる社会制度に当てはめる議論の進め方は壮絶だ。言語学から比較文化論を経て、その成果を全ての学問に広める軽やか過ぎる思考の離れ業に、何て頭のいい人なんだろうと思った。私は以前から、「科学」とは自然科学のことであり、社会科学が果たして「科学」の名にふさわしいのか訝しく思っていた。自然科学はサイエンスだが、社会科学をサイエンスとは呼ばない。経済学はともかく、政治学に「科学」という術語を使うのには違和感を感じる。宗教団体の名称に「科学」の語を使うのと同等に怪しいと考えていた。ところがレヴィ=ストロースの議論の進め方はまさしく科学の名にふさわしいものだ。音素は二者択一の組み合わせでカタログ化され、親族システムの疎遠度には法則があるという発見には驚嘆した。親族システムの法則とは、複雑で解きほぐしにくい親族の人間関係も、実は無意識がもたらした「一般的な、隠された法則」があり、人間が社会構造を作り出したのではなく、社会構造が人間関係を決定する、ということなのだ。う~ん、もっとわかりやすく説明できればいいのに・・・努力してみよう。レヴィ=ストロースの卓越した理論の例を挙げると、親族システムにおいて「夫・妻と親しければ、兄弟姉妹とは疎遠」「夫・妻と疎遠ならば、兄弟姉妹と親しい」つまり1人の人間が、夫・妻と、兄弟姉妹の両方と親しく付き合うことはあり得ない、というわけだ。夫と親しければ、兄貴とは仲が悪くなるか付き合いが薄くなり、仲良し姉妹はそれぞれの夫と離婚寸前ということである。レヴィ=ストロースは世界中の民族の家族の疎遠関係を調べ上げて、この法則を導き出したらしい。かつて話題をさらった花田家の喧嘩にも、レヴィ=ストロースの説が当てはまるわけで、「貴乃花は河野景子と親しいが、若乃花とは疎遠」「若乃花は美恵子夫人と親しいが、貴乃花とは疎遠」まさにレヴィ=ストロースの説を鮮やかに証明している。若貴兄弟の喧嘩は意外でも何でもなくて、あらかじめ決定された社会構造の中であがいているに過ぎない、ということになる。構造主義の枠の存在が鮮やかに眼に見えるようだ。またもう一つ、レヴィ=ストロースによると、「父と親しければ、母方の叔父とは疎遠」「父と疎遠なら、母方の叔父とは親しい」内田樹氏の例を引用すると、「男はつらいよ」で「満男は母さくら(倍賞千恵子)の兄・叔父の寅さん(渥美清)とは親しいが、父の博(前田吟)とはギクシャクしている」というわけだ。花田家の喧嘩のきっかけは遺産相続だが、相続が有利になるには、父二子山親方と生前仲が良かったのが若乃花・貴乃花どちらなのか、それが重要なキーポイントになる。貴乃花は自分が、生前の二子山親方と信頼関係で結ばれていたことを主張していたが、二子山親方が死んだ今となっては、死人に口なしで二子山親方の意志を聞く事はできない。そこで、レヴィ=ストロースの説が生きてくる。もし、貴乃花の母方の叔父がいるなら、つまり母憲子さんの兄弟が存在するなら、その人と貴乃花の仲を調べれば、貴乃花と二子山親方の仲が良かったのか悪かったのか判別できる。「貴乃花が母憲子の兄弟と親しければ、父二子山親方とは疎遠」「貴乃花が母憲子の兄弟と疎遠なら、父二子山親方とは親しい」これは若乃花にも同時に言えることだ。お母さんの憲子さんの兄弟である叔父の動向を、ワイドショーはクローズアップして欲しかった。叔父が「貴乃花はダメだ、人でなしだ」と発言すれば、貴乃花と二子山親方は自動的に疎遠ということになる。なぜなら、20世紀後半の思想界を席巻した、構造主義の立役者レヴィ=ストロースが決めたことだから。レヴィ=ストロースの構造主義のイロハをかじっただけでも、ワイドショーの見方は大きく変わってくる。
2005/12/19
今日は島根県の温泉津温泉の旅館で一人のんびりする予定だったが、広島県も島根県も大雪で、バスが運休。泣く泣くキャンセル。旅館で読むために、本をたくさん用意していたのに残念無念。ところで、最近松下の石油温風機回収のテレビCMが気になる。私はよほど目立つCMでなければ、CMを意識しない人間なのだが、松下の石油温風機回収のCMだけは、どんなに仕事や本に集中していても、流れるとふと画面を振り返ってしまう。あんな静かな怖い調子を秘めたCMは珍しい。注意を呼びかける女性の声は、NHKの加賀美アナを20歳ぐらい若くして、体重を15kgほど落としたような風貌を持っていそうな感じだ。民放の雰囲気とは違う、真剣味のある声である。またCMに無音も珍しい。TVの音の洪水の中で音が突然途切れ、無音になった瞬間「何かあったのか」とドキリとする。臨時ニュースみたいだ。戦争でも始まるのかと思う。無音状態で突然大きな音が流れるのも驚くが(チャイコフスキーの「悲愴」や、ハイドンの「驚愕」のように)、騒然とした音の洪水が一気に途切れ、急に無音状態になるのも、同じくらいびっくりする。ところで、こんな特別な場合のCMだけではなく、普通のCMも音楽を流さず無音にし、NHK的な声の女性を起用したら、視聴者の注意をもっと引くだろうに。それとも民法のCMには、「音楽をやかましく流さなければならない」という自主規制でもあるのか。
2005/12/18
あの「浪速のモーツァルト」キダタローだが、7~8年前に「浪速のモーツァルト、キダタロー大全集」とかいう名前の2枚組のCDが発売されていた。おそらくもう廃盤になっただろう。「プロポーズ大作戦」「ラブ・アタック」などの有名どころから、「相性診断!あなたと私はピッタンコ」などの少しばかりマイナーな番組のテーマソングや、「有馬兵衛の向陽閣」「かに道楽」などのCMソングまで、幅広くキダタローの作品が網羅された貴重なCDだった。買っとけば良かったと後悔している。キダタロー自ら「探偵、ナイトスクープ」でこのCDを宣伝していた頃は「誰が買うんか、こんなん。買う奴あほや」と正直馬鹿にしていたが、キダタローの偉大な特異性がわかるにつれ、今一番欲しいアイテムの一つになっている。そうえいば「ラブアタック」は親に止められながらこっそり見ていた。この番組で、京都産業大学というのは一体何ちゅう大学なんだ!と衝撃を受けたのを覚えているし、上岡龍太郎という人は、なぜこんなくだらない番組なのに、真剣に目に怒りをためながら一生懸命司会を務めているのか、不思議でたまらなかった。キダタローが紡ぎだすメロディーには、独特の哀愁がある。いいじゃん、と思う。それにしても、キダタロー氏の自虐的なカツラ、何とかならないだろうか。
2005/11/20
普通の人は、デブなんかみんな一緒だと無意識のうちに思っている。その証拠にデブの私は、私とは全然似ていない他のデブと、「よく似ているね」と言われてしまう。私が似ていると言われたことがある有名人を列挙すると・・・林家こぶ平秋元康小泉首相の飯島秘書官ドカベントトロムック私は確かに坊主頭のデブだが、このラインナップは、私としては心外なものばかり。誰も私とは似ていない。デブじゃない人間が、デブなんかどうせみな同じだと思っているかがよくわかる。私がおかしいと思うのは、大河ドラマをはじめとする、時代劇における西郷隆盛のキャスティングである。西郷隆盛は体重110キロ、身長180メートルと、当時の小さかった日本人の中では、異様なほどの巨体の持ち主である。あまりにも巨大すぎて馬には乗れず、偉くなってからは駕籠で移動したという。まさにデブ中のデブだ。南国系の浅黒い肌と、巨大な目を持ち、そしてその目は吸い込まれそうな空虚感と、子供のような無邪気さをあわせ持つ。正義感と過激性と純朴さという、相いれない正反対の性格をどれも高いレベルで兼ね備え、西郷に接した人はその複雑な人間性に酔いしれた。そして西郷の薫陶を受けた若い武士たちは、西郷のためなら命を捨てることを厭わなかったという。要するに、西郷隆盛はただのデブではない。容貌魁偉でカリスマ性に富んだ、すごいデブなのだ。しかし幕末ものの映画やTVを見ると、そこらのデブ俳優にカツラをかぶせて、着物を着せて薩摩弁をしゃべらせれば西郷隆盛という、非常に安易なキャスティングが横行している。デブ俳優なら必ず一度は西郷隆盛役を経験するか、プロデューサーから打診されていることだろう。西郷はデブという記号でしか語られてはいないのだ。この文章を書くために、過去の幕末時代劇で、誰が西郷隆盛を演じたか調査してみた。すると、バリエーションに富んだデブ俳優が西郷隆盛を演じている。西田敏行・渡辺徹・小倉久寛・梅宮辰夫・・・何と桜金造や高木ブーや江夏豊やミッキー吉野まで西郷を演じているのである。中には片岡千恵蔵や里見浩太朗や赤井英和みたいに、中肉中背の俳優に詰め物をしてデブに見せかけて誤魔化している場合もある。目が大きいというだけで西川きよしが西郷役を演じたこともある。最高に笑えたのは、何とあの石立鉄男が西郷隆盛をやっていたという事実である!何を根拠に、どういう意図で石立鉄男が西郷隆盛なのか?石立鉄男は石立鉄男しか演じられないというのは、皆さんよくご存知のはずだ。かくし芸大会でもこんなアバンギャルドなキャスティングはしない。石立鉄男に詰め物をして太らせると、どんな体型になるのか?あのもじゃもじゃ頭はどう誤魔化したのか?「坂本はん、おいどんと力を合わせ、幕府を倒すでごわす」という台詞を、あの甲高い声でどんな風に語ったのか?石立鉄男の演じる西郷隆盛を見てみたい有名人の中で西郷隆盛を演じて違和感が無いのは、おそらく武蔵丸だけであろう。
2005/11/13
僕は、幼稚園の頃から小学校1年生ぐらいまで、和田アキ子の大ファンだった。今も結構好きだ。レコードはすべて持っていた。「古い日記」(♪あのころは~はっ の歌)「天使になれない」「どしゃ降りの雨の中で」など、歌謡曲の王道を行く名曲ぞろい。いつも父親にねだって、和田アキ子グッズを買ってもらいました。一度、和田アキ子のコンサートを見に行ったことがある。おそらく1975年頃。僕が小学校1年生の時だった。そして父親は、和田アキ子の楽屋まで僕を連れて行ってくれた。和田アキ子は、とてつもなくいい人だった。第一印象は、大きく化粧の異常に濃い人、というものだ(コンサートのメイクだから仕方ないけど)「え、私のファンなの。うれしい!」といって、大きな手で僕の頭をなでてくれました(頭をつかまれた、というのが正確な表現だけど)笑顔の素敵な人だった。満面の笑顔で、僕を見つめてくれた。僕が持っていった10枚ほどのレコードすべてにサインをしてくれました。そして僕が無邪気に、「もっともっとちょうだい」と言うと、「いいよ、いいよ、どんどんしてあげる」と、傍らの色紙を5枚くらい持ち出し、さらさらと嬉しそうにサインをしてくれた。僕は和田アキ子を、それまでの100倍好きになった。
2005/10/06
金八先生の最新シリーズをビデオで見た。まだ無名だった頃の上戸彩が、性同一性障害の少女を演じるやつ。感想は? う~ん、ひどい。いくつか問題点を列記してみよう。●まず第1に武田鉄矢が疲れている。若さが消えてパワフルじゃないし、かといって年齢相応の枯れた魅力を醸し出してはいない。こんなんじゃあ「生徒に絶大な人気がある坂本金八」ではなく、「銭のために渋々演技してる武田鉄矢」にしか見えない。まるで、晩年の寅さんみたい。そんな、くたびれた武田鉄矢に対して、中3生の男の子が3人が「先生~」「金八先生~」と泣きながら抱きついているシーンがあった。1人は首に、1人は胸に、もう1人は腰に。中学生の男子が、オッサン中年教師に抱きつくなんてあり得ない。抱きつくことに現実味を与えるには、強烈にドラマティックな展開を脚本の段階で作り上げるか、或いは「ああ、この人なら抱きつきたいな」と万人が納得するフェロモンを武田鉄矢が発散しているかのどちらかでしかない。この場合どちらの条件も満たしていないので、脚本家や演出家の意に反して、奇々怪々でグロテスクなシーンになってしまうのだ。●第2に、生徒たちの演技がおかしい。特に授業風景。実際の授業では、先生に当てられたら、生徒は一瞬答えるのに躊躇するはずだ。普通の中学の授業風景だったら、先生「徒然草書いたの誰かな、村上っ」 生徒、突然当てられて緊張し、咳を2回して立ち上がる。 椅子が床とこすれあう音が教室に響く。そしてぼそりと・・生徒「吉田兼好」といった感じじゃないかな。ところが桜中学3年B組では、金八先生に指名されると、生徒は待っていましたとばかり応答する。金八「徒然草書いたの誰だあ~みつよし~答えてみろ」 生徒、0.5秒で待ってましたとばかり立ち上がり、元気に答える生徒「吉田兼好(ケンコウ)」 さらに後ろを振り向き、友達に向かって生徒「オレは健康(ケンコウ)っ」金八「こらあ~みつよし~ よけいな事はいわな~い」これはどう見たって自然な中学生の演技ではなく、劇団所属の目立ちたがりの子役である。教師に突然指名された生徒が、こんなにポンポン即興で答えられるわけがないのだ。こんな授業は、あまりにもウソ臭いと毎日現場にいる私は思う。TBSのスタッフは教育現場での地道な取材をやっているのだろうか。ドラマを豊かに表現するには、客の目を意識しながら、少々オーバーにリアルな嘘をつくことも、時には大切なのはわかる。しかし間近で毎日子供と接している私のような職業の者には、3年B組の授業風景は脚色の度が過ぎているように映る。ちなみに、私が学園物で感心したのは「さよなら、小津先生」というドラマ。田村正和が銀行をクビになって、高校教師をやるという設定である。無関心と無気力が支配する、工業高校の授業の雰囲気の演出は、繊細で素晴らしかった。 さすが君塚良一。●第3に、テーマが重過ぎる。性同一性障害や白血病という重いテーマで視聴者の気を引きたいのはわかるが、細部がきちんと描かれていないため、テーマが重い分絵空事にしか見えない。現実離れ感を狙って、興味本位で性同一性障害や白血病を持ち出すのは、これらの病気で悩む患者さんに失礼だ。個人の絶対的な不幸は、容易に他人を介在させない。それを友情とか師弟愛でくるんでしまうから、可笑しなことになる。どうせ重病を扱うなら、戦争直後イタリアで流行った「自転車泥棒」みたいな極度にリアリズムを追及した映画を真似て、徹底して残酷な現実をあぶり出すか、逆に開き直って大映ドラマのように超絵空事として描くか、どちらか両極端な表現方法しか説得力を持たないだろう。●第4にキャスティング。金八先生の同僚の先生に魅力がない。昔は倍賞美津子とか名取裕子とか財津一郎とか、名も実も兼ね備えた素晴らしい俳優が職員室に揃っていた。赤木春恵の校長も貫禄があった。ところがいまや、桜中学の職員室は無名の俳優ばかりで、しかも演技力に非常に難がある。オーバーアクションの度が過ぎる。予算不足なのだろうがどうせ無名の俳優を雇うならキャスティングはもっと慎重にすべきだし、また演出でもっと俳優の拙さは隠せるはずだ。その点、キムタク主演の「HERO」の脇役陣は、「あるよ」の居酒屋のマスターに代表されるように、通行人に至るまでリアリティーがあった。私は中学生・高校生の頃、実は「金八先生」のドラマが大好きだった。第1シリーズと第2シリーズは素晴らしかった。でも最新作はこの体たらくである。残念だった。私は金八先生を見て先生になろうと思った人間ではない。金八先生からは、職業を選択する際も、教育現場で働く今でも、ほとんど影響は受けていないと思う。ただ、純粋にドラマとして非常に面白かった。金八先生から影響を受けたといえば、ただ1点のみ。2年前私の塾に、学ラン姿で塾に来る、背が高くて少々突っ張っているように見える男子中学3年生コンビがいたのだが、彼らをいつもくっつけて一番後ろに座らせたことぐらいである。2人背の高い学生服が後ろに並ぶと、教室のすわりが妙にいいのだ。一度彼らのうちの1人に、いつもなぜコンビで一番後ろの席なのか、その理由を尋ねられたことがある。男子コンビ「何で俺ら、いつも2人一緒で後ろなん」私「加藤勝と沖田浩之だからだ」男子コンビ「???」 さて、金八先生の最新作に大いに失望した私は、口直しに金八先生の第1シリーズ・第2シリーズを見ることにした。第1シリーズはたのきんトリオや三原順子が出演し、鶴見辰吾が杉田かおるに15で子供を産ませるやつ、第2シリーズはあの加藤勝こと直江喜一が出演し、最終回で中島みゆきの「世情」がかかるやつである。第1シリーズも第2シリーズも15年ぶりぐらいに見る。私が小学生の時のリアルタイムと、あと大学生のとき再放送で見たかな。今回が3回目。過去2回見て、どちらもすごく感動した。ただ、あまりにも最新シリーズがひどかったため、私の今の少々肥えた目で見たら、第1シリーズも第2シリーズもどうせつまらないだろうと、相当覚悟をしていた。私は金八先生に思い入れがあったので、私の大人の目が、思い出を潰してしまうことを恐れた。向田邦子の「父の詫び状」の一節。「思い出はあまりムキになって確かめない方がいい。何十年もかかって、懐かしさと期待で大きくふくらませた風船を、自分の手でパチンと割ってしまうのは勿体ないのではないか。」見た。結論。いやあ凄かった。教師になった今、小学生や大学生の時にはわからなかったことが理解できる。昔見たより遥かに心が燃えた。もう武田鉄矢が凄いのなんの。あれは中学講師を超えている。演技を超えた一世一代のパフォーマンスである。まるでティーンエイジャーを洗脳する教祖である。教育家でなく宗教家である。あんな人に洗脳されたらさぞ快感だろう。若き日の武田鉄矢の凄みがわかった。まだキャリア的にも中途半端な位置にある俳優武田鉄矢の、這い上がろうとする鮮烈な野心と、金八という男に熱い魂を注ぎ込んだ小山内美江子のストーリー性に富んだ脚本が、幸福な相乗作用をおこして坂本金八という稀有なキャラクターを生み出した。旬の俳優と情熱あふれる脚本の邂逅。もう、金八先生の説教するときの目がイッテる。あの目で、あの声で、あの髪型で説教されたら、誰も反論できない。誰も言い返せない。あと1mmで笑いに突入するスレスレの狂気が、見るものをを酔わせる。「子供は腐ったみかんじゃないんです!」武田鉄矢がわめく。散々パロディーにされたこのシーンで不覚にも私は涙が出た。もうたまらん。俺が中学生だったら、金八っさんに抱きつくぜ。若い金八先生の、狂的な目だけでも見たいという方は、ビデオ屋へ行って第1シリーズのパッケージをご覧下さい。とにかくすごいですから。
2005/08/24
僕の父と母は夫婦喧嘩がとても大好きだった。つまらないことで喧嘩が絶えず、子供の僕はいつ喧嘩が起こるか恐怖に震え、胸がふさがれる思いだった。喧嘩のネタはそこら中に転がっている。たとえば僕の成績が下がった時。父は成績表を見ても、その場では怒らない。黙って飲みに行く。で、夜中の3時ごろ帰って来る。父は酒乱だった。外から大声が聞こえてくる。玄関を開け、廊下を走る物騒な音が聞こえ、それから風呂場に行く。父は洗面器にバスタブのお湯を汲む。それから母の寝室に直行する。そして眠っている母の顔に洗面器で湯をかける。父は大声で怒鳴る。「お前がしっかりしないから、成績が下がった。伊勢乞食、出て行け!」母の髪は風呂上がりのように濡れている。布団も濡れている。母の顔は、まだ状況を把握できないらしく、夢遊病者みたいに目が宙に浮いている。父は絶対に僕を怒らない。どうしてなのか、今でも理由がよくわからないの。代わりに母とバトルが続く。さて、そのあとは修羅場。母が逆ギレして父を追いかける。父は怖くなって窓ガラスを突き破って外に逃げる。ガラスの割れる強烈な轟音。外の公衆電話から父が「殺される」と警察を呼ぶ。お巡りさんが2人来る。半狂乱の父が「この女を逮捕しろ」とお巡りさんにすがる。母は泣きながら、「この人を警察に連れていってくれないと私たちが殺されます」しかしお巡りさんは「民事不介入ですから」と言いながら迷う。酒乱の父をもてあまし、「絶対警察に父を連れて行ってください」と懇願する私と母。結局お巡りさんは父を「一晩警察に寝かせます」と連れて行ってくれる。おかげで僕たち家族は、警察官と顔見知り。父が死に母が一人になり、夫婦喧嘩がなくなって、僕は心の底から安堵している。そして、父と母は芸能人の好みも違い、お互い好きな芸能人をけなしあっていた。家にTVは1台しかなく、父と母は芸能人をネタによく喧嘩していた好きな歌手は父は北島三郎 母は鳥羽一郎父は美空ひばり 母は都はるみ父は小林旭 母は渡哲也父は香田晋 母は新沼謙治父は渥美二郎 母は森進一「小林旭なんて、太ってみっともないじゃない」「渡哲也なんか、チンピラだろう。だからお前はバカなんだ」「北島三郎、顔が不潔っぽいわ」「鳥羽一郎はヤクザみたいな顔じゃないか。趣味が悪い」そんなどうしようもなく下らない会話を、いい歳をした親同士が笑顔もなく真面目にTVの前で繰り広げているのを見て、僕は情けないという感情より先に、「ああ、喧嘩がひどくならなければいいな」という恐怖感が先にたって、何とか話題が変わるように気を遣った。父と母が揃って歌番組を見ていると、僕は緊張感で胸が痛くなった。しかし、そんな父と母でも珍しく仲良くなる瞬間があった。それは石原裕次郎がドラマや歌番組に登場する時だ。父も母も、青春時代から裕ちゃんの大ファンだったそうだ。石原裕次郎がTVに出る時だけ、2人は楽しげに青春時代の思い出を語り合った。「裕ちゃんまた太ったわね、健康大丈夫かしら」「裕ちゃんは飲むからな。相変わらず派手で太いネクタイしてるね」いつもは仲の悪い父母が、裕次郎の前では仲良し夫婦だった。だから僕にとって裕ちゃんは、家庭に平和をもたらす、神様のような有り難いお方だった。当然裕次郎の兄貴の慎太郎も、夫婦揃って贔屓にしていた。さて最近母は、こんな夢をみたといって自慢している。「すごい夢見たのよ。パーティーに行ったらね、裕次郎と慎太郎の兄弟が、両側から私の腕を組んで、エスコートしてくれている夢。右に裕ちゃん、左に慎太郎。いいでしょ? うふふ」あまりのバカバカしさに、僕は大笑いした。
2005/07/31
私のHPには「アクセス解析」という機能がついていて、googleやyahooでどんな言葉を検索したらこのHPにたどりつくかわかるようになっている。私の日記は話題があちこちに飛ぶので、検索語もバリエーション豊かで、さまざまな方が訪れて下さる。その中で一番面白かった検索語が、なんと「ヨン様のどこがいいの」である。ただの「ヨン様」ではない。「ヨン様のどこがいいの」なのだ。「ヨン様のどこがいいの」といった、インターネットで検索する語にしては少々長い語句でググって、私のHPに訪ねてこられた方がいるのだ。これには驚いた。確かに昔の私の日記を見ると「ヨン様のどこがいいの? スマイリー・キクチそっくりじゃない」という記述がある。「ヨン様のどこがいいの」なんて書くほうも書くほうだが、調べるほうも調べるほうである。私も試しに「ヨン様のどこがいいの」でググってみた。驚いたことに、なんと「ヨン様のどこがいいの」で264件もの検索結果が出てきたのだ。HPの文章に「ヨン様のどこがいいの」と書いている人間が日本には264人もいるのだ。もちろん私もその中の一人である。いやあ、「冬のソナタ」ブームの凄さがわかる。そこで私も調子に乗って、ヨン様関係の少々長めの語句をgoogleで検索してみた。結構変なのもあるんだなあ。右の黒文字は検索件数である。「ヨン様命」で検索すると、605件「ヨン様大好き」4160件「ヨン様すてき」116件「ヨン様かっこいい」736件「ヨン様かわいい」95件 「ヨン様愛してる」50件「いとしのヨン様」7件「ヨン様に嫉妬」71件「夢に出てきたヨン様」17件「ヨン様なしでは生きられない」2件「ヨン様に会いたい」479件「ヨン様に抱かれたい」43件「ヨン様と結婚したい」305件「ヨン様のうんこなら食える」2件「ヨン様とチュー」1件「ヨン様とセックスしたい」4件「ヨン様とsexしたい」348件「ヨン様は整形」13件「ヨン様の良さがわからない」21件「ヨン様に似ている橋下徹」4件「ヨン様は変な顔」2件「ヨン様きもい」63件「ヨン様よりベッカム様」8件「ベッカム様よりヨン様」11件(ヨン様の勝ち)「ヨン様キャー」18件「ヨン様にぞっこん」21件「ヨン様にうっとり」34件「ヨン様にメロメロ」136件「ヨン様にクラクラ」6件「ラブラブヨン様」2件お暇な方は「ヨン様」を主語にいろいろ文章を作ってググってみれば面白いかもしれない。「ヨン様のどこがいいの」で検索された方、日記のネタを提供していただいて有難う。
2005/07/05
ヨン様ブームの頃、いろんな人から、「ヨン様のどこがいいの? スマイリー・キクチそっくりじゃない」という声をよく聞いた。どうやらヨン様は、ちやほやされる理由が分からない人物のようだ。確かにその気持ちもわかる。写真でちらっと見たヨン様の第1印象はそこらの坊ちゃん顔の大学生みたいだ。ヨン様は誰もが納得するようなモテ顔ではない。ヨン様については、「冬のソナタ」を見ている人はヨン様を絶賛し、逆に見ていない人は「あれのどこがいいの」とヨン様をけなす傾向がある。ヨン様の容姿評価は完全に割れているのだ。要するにヨン様の魅力は「冬のソナタ」というドラマとワンセットなのだろう。ヨン様の容姿は「冬のソナタ」の秀逸なストーリーがあるからこそ生きるのかもしれない。そういうわけであるからして、「冬のソナタ」を見ていない人の大部分は、「なんでこいつが」とヨン様の人気に懐疑的なのだ。だからといってヨン様がフェロモンを発散していない、ありふれた普通の兄ちゃんかというとそうでもないのだろう。ヨン様のような童臭をふんだんに残した顔の2枚目は日本の芸能界にはあまりいない。日本のタレントオーディションだったら書類選考で落とされてしまうかもしれない。でもそんな芸能人臭くないところがヨン様の良いとこなのだ。ヨン様の顔は、日本の芸能人のちゃらちゃらした雰囲気に抵抗がある女性たちのツボに思いっきりはまったのだ。また、ヨン様は知性的でインテリな容貌なので、それが男性の知性に魅力を感じる女性から受け入れられたのだと思う。女性の皆さんは「冬のソナタ」を見て、自分の初恋の日々を思い出す。初恋の相手は芸能人ではなく、身近などこにでもいそうな男の子であったはずだ。ヨン様の身近な親しみやすい風貌は、自分の初恋の相手を投影しやすいのかもしれない。また日本の20年前ぐらいの町並みをふんだん残している韓国の風景が、初恋の記憶を引き出すのに役立っているのだろう。そういえば、「ヨン様のどこがいいの?スマイリーキクチそっくり」と言ってたのに、冬ソナにはまって「ヨン様は素晴らしい、やっぱり人が言うだけのことはある」と宗旨替えした人がいた。じゃあ彼女にとっては、スマイリーキクチが冬ソナの主演でも良かったのだろうか・・・?
2005/06/15
「~サマ」という呼び名がふさわしいのはヨン様&杉様に止めをさすが、「~様」と呼ばれているスターは思ったよりたくさんいる。レオナルド・ディカプリオは「レオ様」、ベッカムは「ベッカム様」、橋本龍太郎は「龍さま」などなど。あの名優市川雷蔵が死後「雷様」と呼ばれていたなんて知らなかった。(「雷様」の呼び方がわからん。「ライ様」なのか「カミナリ様」なのか)歌舞伎界にも「サマ男」がいる。たとえば一昨年「宮本武蔵」を演じていた市川新之助改メ市川海老蔵。「おーいお茶」のボウズの人だ。海老蔵の祖父の11代団十郎はまだ海老蔵と呼ばれていた若い頃「海老様」と呼ばれていたそうだ。それにちなんで11代目の隔世遺伝と言われるほど顔が似ている現海老蔵も、歌舞伎ファンから「海老様」と呼ばれているらしい。歌舞伎界は世襲なのだが、梨園に嫁いだ女性は、格好いいイケメンで客から溜息が出るような美男を産まなければならない義務がある。容姿はどうでもいい皇室(失礼)と違ってそのあたりはシビアだ。男の子の顔の美醜によって、歌舞伎界は一家の一世代分の運命が決まるのだ。成田屋の家系は武蔵の現海老蔵がハンサムでひと安心だが、もし林家こぶ平=林家正蔵みたいな顔の男の子が産まれていたらどうなったであろう。こぶ平があのルックスと体型で「海老様」と呼ばれなきゃならないなんて悪夢である。成田屋はこぶ平の顔のせいで衰退の一途をたどるだろう。こぶ平、じゃなかった海老蔵は、「宮本武蔵」の主役なんてとてもじゃないができない。落語家だったらこぶ平の顔はいいが、歌舞伎役者の家に生まれていたら自分自身も歌舞伎ファンも共に不幸だ。同じ世襲でも歌舞伎役者と落語家では後継者に求められる顔がまるで違うわけだ。逆に林家三平の息子の顔が現海老蔵みたいな顔だったら、これはまた違った意味でたいへんだ。笑点を見ればわかる通り落語家のルックスはひどい。あの大喜利のメンバーの中で楽太郎が一番ハンサム(元アイドル山田君を含めても)なんだから、その醜さたるや相当な物である。演歌の世界でも最近は若いハンサムな歌手が登場しているのに、落語界で美男を探すことはとっても難しい。だからこぶ平が海老様みたいなイケメンの顔をしていたら、周囲の醜男と比べられて大いに浮いてしまう。たとえば海老蔵が正蔵を継いで、三平一門の林家ペーと林家こん平を助さん格さんみたいに従えている所を想像してしてほしい。海老蔵は「怪物ランドのプリンスだい!」といった趣になるだろう。だから落語界のイケメンはトイレの100ワット電球みたいに無駄なのである。世襲もなかなかたいへんそうだ。
2005/06/11
私は昭和43年生まれ。3歳ぐらいの頃から歌番組が大好きだった。今でも鮮明に当時の歌番組の映像を覚えている。3歳の時に見たテレビの内容を覚えているのは私の記憶力がいいからではなく、当時テレビで歌っていたのは化け物みたいな強烈な個性を持つ歌手ばかりだったからだ。忘れようと思っても忘れられない。アイシャドーが濃すぎて「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌う時真っ黒な涙を流す和田アキ子「ドゥルビドゥビドゥビドゥビドゥバー、ア~ン、ア~ン」の青江三奈 ホクロが妖艶なちあきなおみ歌詞も声も雰囲気も目つきも全部暗い藤圭子整形で顔が七色変化する弘田三枝子今見ると「何でこの人が主役のドラマが視聴率40%なの?」と訝しく思ってしまう水前寺清子ユニセックス的な風貌が独特で不気味な佐良直美 やたら気合が入っているが、借金を抱えるたびテレビで泣いている畠山みどり 陰気な顔と声で「さそり座の女」を歌う闇の帝王美川憲一アソコがついているのかないのかわからない、お父さんが人間国宝でラサール出身のピーターゲテモノで奇抜で色気プンプンでワイルドな山本リンダ「夜のヒットスタジオ」でなぜか大泣きしていた、目の陥没したいしだあゆみずん胴でタヌキみたいなメイクの坂本スミ子そんな白粉の匂いが漂う、湿度の異常に高い歌手たちの姿は、網膜に画面焼けしたみたいに強く残っているしかし、よくもまあ変な人ばかり揃ったものだ。今のタレントはそこら辺にいるお兄ちゃんお姉ちゃんだが、昭和40年代のスターは素性が怪しく人生裏街道まっしぐらという感じで、「芸能界」とか「流行歌」とか「キャバレー」といった言葉がよく似合っていた。今は子供が芸能界に入りたいといっても反対する親はかなり減ってきているが、昭和50年代以前には子供が芸能界に入りたいというと、「勘当」とか言って強く反対する親が多かった。そりゃあ「15,16,17と、私の人生暗かった」と不気味に歌う藤圭子の姿を見て、娘を同じ世界に入れたいと思う親はどうかしている。そんな異常で異様な歌手たちが集う「夜のヒットスタジオ」や「ロッテ歌のアルバム」はまるで見世物小屋だった。彼女たちこそまさに河原芸人の正統的な後継者だ。化け物歌手たちの中で、芸能界にどこか染まってなさそうな素人クサイ純情さを残していたのは小柳ルミ子と天地真理だった。この2人はジャングルに咲く可憐な2輪の花といった感じで、化け物小屋の芸能界には似つかわしくなかった。しかし今では2人とも、芸能界の怪しく退廃な部分が一番染み付いてしまった。小柳ルミ子はジャングルの中でたくましく成長し、若い男を食う妖怪熱帯植物に変身した。天地真理に至っては言葉も出ない。逆に20代で死んでもおかしくないような、暗澹たるムードを醸し出していた藤圭子が、娘の成功で蘇ったのは皮肉なことだ。宇多田ヒカルと藤圭子はポジとネガのような関係で、宇多田ヒカルを見ると、「あの暗い藤圭子の娘がこんなに性格が明るく、成功したなんて」と妙に安心してしまうのである。
2005/06/03
僕の塾は島にある。島といっても本土からフェリーで5分ぐらいで、橋で本土と結ばれている。だから離れ小島というわけじゃない。でもふだんは静かな島で、僕を含めた島民たちは、日常をのんびりぼんやり暮らしている。ところが最近、少しだけ賑やかになってきた。3月ぐらいから、うちの塾の近くで、20代前半くらいの坊主頭の若い男の集団をよく見る。着ているものは普通の若者らしいのだが、坊主なのでヤクザか右翼かB系か高校野球の少年に見える。そして同時に、40代50代の小汚いオッサン達もよく見かけるようになった。髪は白髪の長髪で、ヒゲを蓄えている人もいる。少しホームレスぽくって、どう見ても普通のサラリーマンではない。「3日間風呂に入っていない筑紫哲也」や「バックパックで世界放浪中の上條恒彦」みたいなオッサンたちだ。若い坊主頭たちは、4~5人の集団で連れ添って歩いている。そして小汚いオッサン達に出会うと、帽子をかぶっている子は帽子を取って礼儀正しく「お疲れ様です」と挨拶している。若い坊主頭の集団が、小汚いオッサン達に爽やかに挨拶している姿は、なんだかとても違和感がある。オッサン達はどうみても野球部やサッカー部の監督みたいな体育会系ではないし、ましてやヤクザには見えない。閑静な島にいきなり現れた彼らは、いったいどんな人なのか僕は興味を持った。どうやら若い坊主頭の男たちは、「男たちの大和」という映画のエキストラらしい。坊主頭の兄ちゃんたちは、海軍の兵隊さんを演じるために坊主にしているのだ。そして小汚いオッサン達は、映画の撮影や照明のスタッフの方々である。うちの塾から歩いて3分ぐらいの場所に、閉鎖した造船所の跡地があるのだが、そこで「男たちの大和」の撮影をやっているのだ。「男たちの大和」は、大和沈没で若い命を散らしていった男たちの生き様を描く映画らしい。造船所のドックには、戦艦大和の全長190mもの広大なセットが、約6億円をかけ原寸大で再現されているという。オープンセットのある撮影現場の造船所は、もちろん立ち入りが禁止されているが、好奇心旺盛な僕は、造船所から海を隔てた山にロープウェイで登って、展望台にある100円で3分しか見ることができない望遠鏡で、撮影現場をのぞいてみた。望遠鏡から眺める造船所には鈍く輝くネズミ色した巨大な戦艦大和がドカンと鎮座し、甲板では100人近いエキストラが海軍の制服に身を包み整列している。荘厳な光景である。もちろん望遠鏡からは、俳優の顔は識別できない。でも遥か彼方の山から望遠鏡で戦艦を眺めていると、なんだかアメリカのスパイになったような気がする。映画の撮影を覗くぐらいだったら、別に罪にはならないだろうが、これがもし戦時中だったら、望遠鏡で海軍工廠をのぞく私の行為は、軍事スパイで、検挙され拷問されても文句は言えない。そうそう、この映画には反町隆史と中村獅童が出演しているらしい。でも望遠鏡は反町や中村獅童の顔を識別できる性能はない。でも反町隆史と中村獅童を街のあちこちで見かける人は結構いて、今日行きつけのラーメン屋さんに行ったら、そこのおばさんが、「反町隆史は3回、中村獅童は2回来たのよ。サイン頼んだけど断られちゃった」とはしゃいでいた。僕は正直言って、反町隆史と中村獅童なんかはどうでもいいのだが(だったら望遠鏡で覗いたりするなよな)、もしこの2人の奥さんが、旦那の撮影の慰問に我が島にやって来る事態を想像すると、胸がときめく。反町隆史の奥さんですよ!中村獅童の奥さんですよ!日本のTVドラマを背負って立つ、2大女優ではありませんか!それに「男たちの大和」には、鈴木京香も出演しているらしい。もしも、反町隆史の奥さんと中村獅童の奥さんと鈴木京香の3人が勢揃いしたら、3人を島に監禁して、電波もジャックして僕がスゲえドラマ作って、TVドラマ界に革命を起こすのに、と思う。
2005/06/01
何故ユジンはヨン様の死体を見ないで、ヨン様が死んだと確信してしまったのか?私の見解を述べておこう。恋人が難病か事故でこの世を去り、片割れがこの世に置いてきぼりにされるというストーリーの本やドラマは、日本では10年に1度くらいブームになりやすい。私はそんな筋立ての本やドラマを「喪失モノ」と呼んでいる。たとえば、かつて一世を風靡した吉永小百合・浜田光夫のコンビの「愛と死を見つめて」は典型的な喪失モノである私の記憶にある、最初の喪失モノは、「赤い疑惑」である。「赤い疑惑」は私が小学校低学年の頃のドラマで、山口百恵が白血病に冒され死に、恋人の三浦友和と父親の宇津井健が取り残されるというストーリーだ。「赤い疑惑」「赤い運命」「赤い衝撃」「赤い絆」といった一連の「赤シリーズ」が山口百恵の人気に火をつけたことは間違いない。山口百恵がインパクトの強いドラマに恵まれたことが、歌だけでしか勝負できなかった桜田淳子や森昌子と比べて、時代の寵児になった大きな原因である。「赤い疑惑」は中国でも「血疑」という題名で1984年に放映され、山口百恵は中国で人気沸騰し、天安門事件前には、準国賓待遇で中国に招聘される計画まで持ち上がったらしい。また小説の世界でも、喪失モノは大ブレイクしやすい。日本の喪失モノの傑作である村上春樹の「ノルウェイの森」は15年前に300万部を売った。「ノルウェイの森」のストーリーを軽く紹介すると、主人公は高校時代から直子という女性が好きなのだが、しかし直子は主人公の友人のキズキ君と恋人同士である。しかしキズキ君は高校時代に自殺してしまう。直子はキズキ君の不在に耐えられず、徐々に心の病に冒されてしまう。直子の心はずっと死んだキズキ君にあって、主人公を友人の目でしか見ていない。主人公から見れば自分が死ぬほど愛しているのに、全く自分を愛してくれない女性が狂っていく。しかも最後には主人公を残して直子は自殺する。主人公は片思いの女性の愛を最後まで獲得することができないし、死別までしてしまう。なんともやりきれない話だ。小説最大の売り上げを記録した「ノルウェイの森」を抜き去ったのは、セカチューこと「世界の中心で、愛をさけぶ」である。この本も高校生の主人公の恋人が白血病で死ぬ話である。日本で売れた小説のベスト1&ベスト2が喪失モノということになる。とにかく「赤い疑惑」も「ノルウェイの森」も「世界の中心で、愛をさけぶ」も、大事な人が病気や自殺で自分の前から消える話である。死んだ人は帰ってこない。恋人の喪失に対して、残された者がどう傷を癒してゆくか、そんな過程が読者や視聴者の共感と涙をそそる。そして「冬のソナタ」も古典的な喪失モノである。しかし「冬ソナ」と「赤い疑惑」「ノルウェイの森」「世界の中心で、愛をさけぶ」の筋書きには、決定的な違いがある。決定的な違い、それは「冬ソナ」が死んでしまったはずの最愛の人が、実は記憶喪失になりながらも生きていたという、とんでもない筋書きであるという点だ。確かに、そんなご都合主義はありえない。しかし残された者にとっては、死んだはずの人が生きていたなんて、気が狂いたくなるほど最高に幸せな状況だ。戦争で息子を亡くしたと諦めていた母親のもとに息子が帰ってくる。いなくなって2ヶ月経ち生存を絶望視していた猫が朝起きてみれば布団の中で丸くなって寝ている。そんな夢のような状況が「冬ソナ」では現実となる。死んだはずの最愛の人が生きている! しかも生きていたのは王子様みたいなヨン様!とにかく「冬ソナ」はあり得ない願望を実現させれくれる夢物語である。しかし夢物語ではあるが、脚本の細部はリアルかつ巧妙に書かれている。冬ソナは20話完結だが、高校時代のヨン様は第2話で死ぬ。そして第3話から話は10年後に飛ぶ。第2話のラストでヨン様を失い傷心のユジン(チェ=ジウ)は、第3話では幼なじみのサンヒョクと幸せそうに結婚の準備をしている。10年の月日にはいろんな葛藤があったに違いないが、ユジンは長い年月をかけヨン様の死を受け入れて心に平静を取り戻している。しかしユジンは結婚式の打ち合わせに向かう途中、雪の中死んだはずのヨン様そっくりの男性に出会う。その人は高校時代のヨン様と姿形は微妙に違う。黒い髪は茶髪になり、眼鏡をかけている。しかしその面差しは10年前に死ぬほど愛したヨン様に紛れもない。他人であることはありえないほど似ている。彼の出現によって、癒されたはずの心の傷は、また再びビリビリ大きな傷口を開けることになる。10年前に死んだはずのヨン様と、街で偶然会ったヨン様の決定的違いは、あのトレードマークになった笑顔である。10年前のヨン様は出生の秘密を抱えた暗い青年で滅多に笑顔を見せなかった。しかし再び会ったヨン様は笑顔を盛んに振りまいている。だから、ユジンにとって今のヨン様が笑顔を振りまけば振りまくほど、昔のヨン様との違いに苛立つ。昔私が愛したヨン様はこんなに笑う人ではなかった。あなたは本当はチュンサンなの? チュンサンならどうして私を思い出してくれないの? テレビの視聴者を釘付けにするヨン様スマイルは、ユジンにっては疑いを深める役割しか果たさない。ヨン様が笑えば笑うほどユジンは不機嫌になる。この脚本のうまみ!確かに死んだはずの恋人が、実は記憶喪失になって生きていたという筋書きは、相当に強引な荒技である。第2話でヨン様が死んだ時、ユジンは死体を確認せずにヨン様の死を受け入れた。ここが「冬ソナ」の最大の脚本の弱みといわれる部分である。日本のドラマの脚本には絶対に見られない粗さである。しかし私はこの粗い筋立ての裏には、1950年6月に始まった朝鮮戦争という背景が潜んでいると思う。朝鮮戦争は朝鮮半島全土で地上戦が行なわれ、最後にはアメリカと中国人民解放軍の直接対決になった。朝鮮戦争では、北朝鮮250万人、韓国100万人、米国人5万4000人、中国軍人100万人が死んだ。南北朝鮮の合計死者数が355万人というから、太平洋戦争での日本人死亡者221万人をはるかに上回っている。朝鮮半島はシベリアの寒波がもろに直撃するため冬の寒さが厳しく、家は煉瓦でできているが、砲火の激しさから煉瓦の家はことごとく破壊され、もとの赤土に還るくらいの凄まじい戦争だった。そんな戦争の惨禍のあと朝鮮半島には2つの国ができ、国の真ん中の38度線にいきなり鉄のシャッターが下りて、朝鮮国内には離散家族が大量に生まれた。肉親が生きているか死んでいるかわからない。もしかしたら北にいるかもしれない。ただ死んだと諦めなければ心の整理がつかない。とにかく朝鮮の人々は、死体を見ることなしに、肉親や恋人の死を受け入れなければならない混乱状態に置かれた。冬ソナでヨン様が死んでも死体を確認しないという粗い筋書きは、朝鮮戦争で愛するもの同士が離散した悲劇を想像させる。
2005/05/21
昨日「塾ドラマと講師のルックス」で、塾と学校の先生の配役を書いたら、塾の先生が格好良すぎて、学校の先生がしょぼいとのご指摘を受けた。そこで、学校の先生が一気に格好良くなる、学園ドラマ最強のラインナップを考えてみた。ベストメンバーはこうだ!武田鉄矢 「3年B組金八先生」 中村雅俊 「ゆうひが丘の総理大臣」村野武範 「飛び出せ!青春」水谷豊 「熱中時代」山下真司 「スクール★ウォーズ」田原俊彦 「教師びんびん物語」斉藤由貴 「はいすくーる落書」仲間由紀恵 「ごくせん」反町隆史 「GTO」いやあ、このメンバーは熱い! TVの学園ドラマで一世を風靡した熱血教師が、塾の先生に対抗するため同じ学校の職員室に一堂に会す。パワフルなエネルギーが全開するだろう。また予備軍として「アリよさらば」の矢沢永吉、「伝説の教師」の松本人志、「ヤンキー母校に帰る」の竹野内豊、「ライオン先生」の竹中直人、最近では「夜回り先生」を演じた寺尾聡なんかが加われば、学校教師軍は超豪華メンバーになる。まるで学園ドラマの「大甲子園」みたいだ。教室では水谷豊がフィーバーし、グラウンドではラグビー部顧問の山下真司と悪ガキ松村雄基が大立ち回りを演じ、海岸では村野武範と穂積ぺぺと頭師佳孝と剛たつひとと石橋正次が夕陽に向かって叫ぶ。彼らスター熱血教師が揃えば、学校の治安は劇的に向上するだろう。たとえば1人の生徒が悪さをしたとする。職員室に呼ばれる。手ぐすね引いて待っているのは武田鉄矢と中村雅俊と村野武範と水谷豊と山下真司と田原俊彦と斉藤由貴と仲間由紀恵と反町隆史。9人の熱血教師がたった1人の生徒を囲んで、いっせいに説教をする。金八は理屈をこね回し、中村雅俊は髪振り乱し、GTOはキツイ目で睨みつけ、村野武範は拳固を作りながら叫び、水谷豊は「あ~のさあ」と素っ頓狂な声を出し、山下真司は「おまえわあ」と泣き出し、トシちゃんは狂的な笑い声を上げ、斎藤由貴は金切り声を上げ、ごくせん仲間由紀恵は極道譲りの啖呵をきる。熱い説教の集団リンチで、悪さをする生徒はいなくなるだろう。それから全員が出演しなくても、「金八対熱中時代」「GTOvsごくせん」という対決モノも、「ゴジラVSキングコング」「座頭市と用心棒」「アリ×猪木」みたいな異種格闘技みたいでウケる。TV局の枠を超えて年末特番にでもしたらどうかしらん。そんなわけで、彼らが若さに満ちあふれた全盛期のままでドラマに出演したら、空前最強のメンバーになり、塾講師の出る幕はなくなる。ただ武田鉄矢も中村雅俊も村野武範も山下真司も田原俊彦も今では歳を取りすぎて精彩がない。中村雅俊や村野武範なんかは現場よりも管理職が似合うし、山下真司なんかは現に「ライオン先生」で嫌な教頭役をやっていた。老化した彼らには昔のカリスマ性はない。また高視聴率を上げたスター教師を集めた学校にも弱点がある。ドラマで一世を風靡した学校教師は、金八やGTOみたいな熱血教師だけではない。「高校教師」の真田広之&藤木直人みたいな淫らな奴もいるのだ。彼らがやらかした不祥事のせいで、せっかくの豪華メンバー勢揃いの学校もマスコミの餌食になる。塾の勝ち!
2005/05/14
私は去年、塾の地位向上を目的に、塾講師を主人公にしたシナリオを書こうとしたが、忙しくて挫折してしまった。私の企みは「塾の先生モノ」という新しいジャンルをテレビドラマ界に創り出し、「刑事モノ」「学校の先生モノ」につづく定番にしようという壮大な(?)ものだった。「塾の先生」が子供の理想の職業NO.1になるように、視聴者を洗脳するドラマを作りたかった。脱サラしたサラリーマンも、新卒の優秀な大学生も、奥なる知性をもてあましている専業主婦も、「塾講師になってみよう!」と思わせるドラマのシナリオを作ってみたかった。しかし塾業界の内部にどっぷり浸かった私のような人間には気がつきにくいのだが、塾を嫌っている人は結構多い。いまだに塾というものは講師が鉢巻しめて竹刀持って怒鳴りながら教えていると思っている人もいるに違いない。戸塚ヨットスクールと塾を混同している人もいるはずだ。題材が塾というだけで視聴者は嫌悪感を抱き、視聴率は取れないだろう。また塾講師は、世の中を斜に構えて見ているアウトロー的なイメージがある。確かにそのイメージは私に関する限り正しい。たしかに塾講師に変人は多いが、変態の巣窟である学校教師よりましであろう。変人は人を楽しませるが、変態は子供を傷つける。塾を学校より「カッコイイ」ものだと視聴者に印象付けるためには、どうしても塾講師にはルックスのいい俳優を選んでみたい。たとえば塾講師役・・・織田裕二・妻夫木聡・唐沢寿明・柳葉敏郎・渡辺謙・香取慎吾・江口洋介・オダギリジョー・藤木直人・伊藤英明・長瀬智也・氷川きよし・鈴木京香・深津絵里・小雪・松たか子・田中麗奈・常盤貴子・松雪泰子・竹内結子・矢田亜希子・国仲涼子・松嶋菜々子・黒木瞳・滝田栄・長塚京三・渡瀬恒彦・菅原文太・ユースケ=サンタマリア・・・学校教師役・・・江頭・きたろう・宅八郎・近藤芳正(名優)・小日向文世(こちらも名優)・つぶやきシロー・寺門ジモン・鈴木ヒロミツ・ジェリー藤尾・車だん吉・岡本信人・小松政夫・蝦子能収・北尾光司・手鏡の植草教授・田代まさし・片桐はいり・渡部絵美・十勝花子・山田邦子・中島唱子・・・窪塚洋介なんかデビュー当時は塾にいただきたい人材だったが、今では学校のM教師がよく似合う。小学校の教室で大勢の生徒を前にして自殺しそうだ。さて、塾ドラマのストーリーは、学校で痛めつけられ窮屈な思いをして心を病んだ女子生徒が、塾に通いはじめて学問の面白さを知り、伸び伸びと自分の才能を生かせるようになるというもの。男の塾講師と女子生徒は恋に落ちそうになるが、塾講師は大人の分別で決して恋愛感情を表に出さないという超ベタベタストーリー。女子生徒役には映画「世界の中心で、愛をさけぶ」の長澤まさみがいいかもしれない。講師のルックスとは関係ないが、漫才コンビにも塾講師と学校教師にわかれてもらう。ビートたけしは塾講師、ビートきよしは学校教師。島田紳助は塾講師、松本竜介は学校教師。ダウンタウンは両方とも塾講師。爆笑問題も同じ。これだけ意図的な配役を企めば、塾講師のイメージアップは必至だろう。それにしても、やはり美男美女の塾講師は魅力的だ。シナリオでいろいろ試行錯誤しながら気がついたのは、講師のルックスは想像以上に大事だということだ。醜男愚女の講師だと絵にならない。子供は格好いい講師を求める。少々教え方が拙くとも、先生の容姿を眺めるだけで塾に通う足取りも軽くなるというものだ。大手のはやっている塾では、大学生アルバイト採用は意図的にルックスを重視しているのではないだろうか?大手塾では、進学クラスには力量あるベテラン講師を配置して、進学実績にかかわらない子供のクラスには若くて格好いい先生を配す。最近では塾選びの主導権は親から子供に移りつつあるのだから、教え方が上手だが格好悪い講師よりも、少々教え方は拙くても飛び切りルックスのいい講師のほうが営業的には望ましい。中途半端にしか教え方が上手くない中堅教師はプライドも給料も高いので、経営者にとっては邪魔な存在であるから、若くてカッコイイ大学生をとっかえひっかえ使い捨てた方がどれだけ得策かもしれぬ。講師をホステスやホストと同じ感覚で雇うのは、「教育産業」の手法としては正しい方法だ。塾を接客業と割り切って考えている経営者は強い。しかし、どんなにカッコいい先生でもあまりに話下手だったらさすがに飽きる。ルックスだけでしゃべれない男の講師は、生意気盛りの男子生徒から総スカンを食う。あくまで塾講師は「講師」という名で呼ばれている以上、話のうまさが塾講師の命である。昨今はお笑いブームでもあることだし、ルックスはそこそこでも、笑いの取れる話芸のしっかりした講師の方が絶対にいいだろう。最近の子供はTVで若くて話のうまい芸人に接しまくっているので、講師の話芸についてはシビアな目で見ているのだ。よし、青木さやかと長井秀和ダブル主演で塾講師ドラマを作ろうか(色気ねえ~)
2005/05/13
講師の容姿は塾の繁栄につながる。そして、容姿とルックスの良い講師は、塾の営業面のみならず、子供の学力向上にも大いに貢献するのだ。教師は外見よりも中身だというのは、確かにもっともな理屈だが、カッコイイ先生だと、子供の勉強に対するやる気が変わってくるのは当然のことだ。そして、美男美女の先生が個別、しかも1対1で教えてくれたら、子供の学習効果はかなり上がるのではなかろうか。私が生徒だったら、家庭教師や個別指導の先生は、賢い田嶋陽子よりも美しい常盤貴子を選ぶし、常盤貴子の方がきっと私の成績も上がるだろう。美男美女に対する性的欲求は、金銭感覚を失わせる。水商売の世界の値段は天井知らず。中村うさぎではないが、ホストクラブでは自分のお目当てホストの営業成績を上げるために、客は1本100万円もするシャンパンを抜くのだそうだ。ホストに貢ぎまくって、1ヶ月に500万円もの借金を作った中村うさぎのことを思えば、1ヶ月たかだか2~3万の金をカッコイイ塾講師に払うのは安い買い物ではないか。(ホンマかいな(笑))カッコイイ先生は、存在だけで子供をやる気にする。懇切丁寧に教える必要なんか全くないのだ。たとえば、キムタクが家庭教師の先生だったらこんな感じになるだろう。女の子 「先生、この理科の電流の問題教えて?」キムタク「(ぱっとみて)こんなの自分で解けよ。」女の子 「・・・・・・」キムタク「(参考書を渡して)オレより本のほうが賢いに決まってるだろ。読めよ」女の子戸惑う。女の子 「先生、教えてよ・・・(涙)」キムタク「ば~か。甘えんなよ。」女の子を放り出して、カー雑誌を読み始めるキムタク。途方にくれて、参考書を漠然と読みまわす女の子キムタク「(見かねて)しけた面してんじゃねえよ。電流って何の法則だっけ?」女の子 「え~っと、オームの法則。」キムタク「だろ? だったらオームの法則のとこ、調べればいいじゃん。」女の子 「どうやって?」キムタク「(少々呆れて)本の最後に索引ってあるだろ? ほらほら、オームってのってんじゃん。」女の子 「(オームを見つけて)わ~、この本、超便利ぃ。」キムタク「お前、索引も知らなかったのかよ。バカじゃない?」 女の子、オームの法則の箇所を見てもわからないキムタク「わかんねえのかよ」女の子 「うん・・・」キムタク、ノートに大きく公式を写して、問題の解説をする。キムタク「ちょっとやってみろよ」女の子 「うん。」女の子、解ける女の子 「できた!できた!」キムタク「(初めて笑う)な、公式にあてはめるだけだろ? やりゃできるじゃん」女の子 「うん!」キムタク「(類題を示して)これもやってみろよ」女の子 「やるやる!」キムタク「10題あるから、2問解けたらほめてやる。じゃオレ、散歩してくるわ。やっとけよ。」30分後、キムタク戻る。直ちに答え合わせ。キムタク「4勝6敗。はい、ごほうび。」革ジャンのポケットからウーロン茶と緑茶を取り出すキムタクキムタク「どっちがいい」女の子 「(嬉しそうに)どっちでもいい。」キムタク「遠慮するなよ。じゃあ、俺ウーロン茶もらうぜ。」2人でお茶を飲みながら女の子 「先生、お茶ありがとね。」キムタク「おまえ、ちゃんと礼言えるじゃんか。」女の子 「うん。それから・・・先生・・・勉強わかるようにしてくれて、ありがとね。」キムタク「ば~っか、オレは何もやってねえよ。偉いのはお前だろ。」女の子、誉められて嬉しい。恥じらいで言葉が出ず次は発熱の問題キムタク「次はジュールの法則だろ?」女の子 「うん、今度はちょっと自分でやってみる。先生本読んでていいよ。」キムタク「もうお前自分で出来るよな。来週から俺もう来ないぜ。」女の子 「だめ。いて。」この間、キムタクが授業らしきものをしたのは、ほんのごく短時間。カッコイイ先生は必要最低限のエネルギーで、最大限の効果を上げることができる。
2005/04/24
僕は3ヶ月に1回は大阪へ遊びに行き、大阪へ行ったら必ずNGKに立ち寄る。自分の授業での笑いの研究のためだ。僕は20才まで人前でギャグが言えない人間だった。しかし大学生になって塾のアルバイトを始めて、塾の講師のくせに笑いが取れないのは致命傷だと思った。周りの学生講師が軽快に生徒たちを笑わせているのを見て悔しくて悔しくて、なんとか自分も笑いを取れる講師になろうと決意した。笑いを学ぶなら大阪、大阪の笑いの頂点は吉本、じゃあ吉本の漫才を見て学べばいいと、そんな短絡的な発想から僕の吉本通いが始まった。僕は大学が東京で地元が広島県なので、帰省の途中に大阪に寄ったのだ。NGKによく出演するのは、漫才師ならオール阪神・巨人、トミーズ、今いくよくるよ、大助・花子、Wヤング、落語なら桂文珍、月亭八方、桂きん枝といった面々である。彼らはTVとは違って劇場では下ネタを連発する。真面目で正統派の阪神・巨人でさえ下ネタの応酬であり、そこがまたおかしい。タイガースネタばかりで軽薄だと思っていた八方さんが意外と味のある人情話をしたり、桂きん枝が齢を取っていてもやんちゃなままだったり、お芝居を含めて楽しい3時間をすごすことができる。ところで、ここ数年吉本の漫才師の中で断トツで一番面白いのが、実はB&Bなのである。B&Bなんて大昔の人だと思っていたけど、まあとにかく凄いのだ。21世紀になってB&Bに笑わせてもらうなんて思ってもみなかった。島田洋七は天才である。15分の漫才の中に笑いを何個仕込んでいるのか見当がつかない。洋七がギャグをとばす。僕は大笑いする。しかしその笑いが終わらないうちに洋七はさらに高性能のギャグをかます。僕は前のギャグの笑いが引っ込まないうちにまた笑わなければならない。腹がよじれ涙がちょちょぎれ、そのうちおかしくておかしくてどうしていいかわからなくなる。なにしろ隣の洋八さんですら、うなずくことすら放棄して客と一緒に笑っている。もうとにかくB&Bはパワフルでスピード感抜群で凄いのだ。麻薬のような笑いでトリップさせてくれる。一度NGKに行く機会があったら、ぜひぜひB&Bをご覧になってください。B&Bが漫才ブームを先頭切って走ったのはダテじゃあなかったのだ。と、僕がいくらB&Bをすすめても誰も見に行かないだろうな。B&Bが面白いなんて誰も信じないだろうから。僕だって今のB&Bの凄さを知らなくて、人から「B&Bが面白いぞ、すげえぞ」と強く勧められても、「こいつあほか」と鼻でせせら笑うだけだろうし。ところで、今のB&Bに匹敵するぐらい面白い漫才を、笑いの質は全く違うのだが。僕は大学生の頃に見たことがある。むかし心斎橋2丁目劇場という若手専門の小さな漫才小屋があって、若い芸人が芸を競っていた。若い芸人への人気はものすごく、2丁目劇場にはお目当ての芸人を求めて若い女性のファンがたくさん来ていた。僕みたいなむさくるしい大学生は場違いだった。若手芸人はたくさんいたが、若い女の子から異常なくらい人気があって、しかも実力抜群の若い1組の漫才コンビがいた。20代前半なのに妙なカリスマ性があった。他の若手芸人たちは客に媚びていたのに、そのカリスマ2人組だけはやたら威張っていた。しかし威張っている分だけ実力があった。テレビで見るどんな芸人よりも、その2人組の若い漫才師は面白かった。新しかった。島田洋七的ジェットコースターのような軽快な喋りではない。むしろ漫才の最中に不自然な間があく。しかしそのぎこちない間がかつて経験したことのないような笑いを生み出す。類型が見つからない、とにかく新しい笑いだった。坊ちゃん顔の突っ込み役は言葉が悪く偉そうなのに憎めず、ボケ役の方は仏頂面で感じが悪そうなあんちゃんなのに、笑うと無類の人の良さを見せた。そしてボケ役の知性に凄みを感じた。もちろんその若手コンビとはダウンタウンのことである。
2005/04/08
全29件 (29件中 1-29件目)
1