30話 【Feel Trapped!】


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30話 (歴) 【Feel Trapped!】



【01】

ドライの長たる青柳チーフがPOSルームに顔を出したのは、今まさに開店しようとしている10時ちょうどだった。
部屋には私しかいない。青柳チーフは「千早さん、申し訳ない」と詫びながら何種類ものパンを渡すと、
「メーカー側の在庫過多で、急に引き取ることになった。108円で登録してくれないか」
と依頼をしてきた。
この部屋にきた商品たちには幾つかの通過儀礼を迎えて貰わなければならない。バーコードを読み取り、商品登録されているかどうか。
その情報は正しいのか。そうでなければ訂正作業を。もし登録されていなければ値段の入力も必須となる。
備え付けのテストレジで試すと、8種類のパンは無情にも『登録無し』という結果。レジはピーという甲高い異常音を発した。
「全滅か」
アラーム音を沈黙させるため、レジのクリアボタンを素早く押すと、青柳チーフは残念そうに言った。
「どれも見たことのないパンですものね」
値段だけの登録ならばものの1分と経たずに終わるけれど、1からの登録となるとそうはいかない。
青柳チーフには次の仕事が待っている。この場に数分も留まっていられない事情があるのだ。
「青柳チーフはお客さまのお出迎えがありますよね? どうぞそちらを優先してください。パンは、入力してから売り場に返しに行きますから」
「すまない。そうして貰えると助かる」
フットワークの軽い青柳チーフは退室し、あっという間に廊下を横切って行った。
幸い、開店時間ぎりぎりの駆け込み登録はこのパンだけ。他の従業員からの依頼もないので、3分ほどで作業は終わった。
8個のパンを作業用かごに入れ、パン売り場へと赴く。
在庫過多という話は大袈裟でもないようで、件のパンは、売り場の一等地に並べられていた。
これだけでも結構目立っているのに、同じ商品たちが入っているケースがパートの手によって何十箱と牽引されるところだった。
山のように積んでしまうと下の商品が重み潰れてしまうので、載せ切れなかった分はああしてバックヤードへ戻しておくのだろう。
店内の在庫が減ったら随時補充する、といった具合で。
私が手に持っているパン――各1個ずつ――ぐらいならば、山に加えても平気だろう。パンを置き終え、POSルームへ戻ろうとしたそのとき、
「もし、お嬢さん」
年配の女性らしき声が背後から聞こえた。くるりと反転し、ほんのわずか頭を下げ、「いらっしゃいませ、お客さま」と応じる。
頭には形の綺麗な帽子をかぶり、首にはパールのネックレス。服装、カバン、靴はどれも身綺麗で、上流階級のご婦人に見受けられた。
違和感を覚えたのは目元だった。何かを探るような、涼やかな、一点を注視するような目は、まるで私という人物像を暴くかのようだ。
勿論気のせいに違いない。でもなぜか胸騒ぎに似た動揺なようなものは静まってくれないのである。
「以前来たときと、少しばかり陳列が変わってしまったみたいですね。フルーツグラノーラが見付からなくて」
「畏まりました。フルーツグラノーラでございますね」
このわずかな復唱の時間を使い、頭のなかに店内図を展開させる。
本社のお膝元、ユナイソン・ネオナゴヤ店。その敷地面積は他の支店を遥かに凌駕する。
シリアルを扱う担当者を思い浮かべる。志貴さんだ。受け持ちは7番~12番通路。シリアルの品種は23番。だから――8番通路の下段だ!
「ご案内いたします。こちらです」
思いのほか簡単に割り出せた。迷うことなくお客さまを売り場まで案内することが出来たので、私は胸を撫で下ろす。
「すみませんねぇ。あともう1つだけ……ジャムはどこかしら?」
これも大丈夫。なぜならシリアルとジャムは向かい合わせの棚に配置されているから。
堂々と「こちらになります」と言い切って御案内することが出来るのは、従業員として正しい姿であり、今回は運がよかった。
「ありがとう、お嬢さん。じゃなかった、えぇとお名前は……」
私の胸プレートにある名前を見て、御年配の婦人は一瞬間を置く。
「千早……。あなた、千早さんと仰るの?」
「え? あ、はい」
「あぁ、ごめんなさいね、驚かせてしまって。知人に同じ苗字の方がいるから、びっくりしてしまったの。ありがとう、千早さん」
「いえ……。あの、他はよろしかったでしょうか?」
「えぇ、大丈夫。電車で来たので多くは持てないの。今日はこれぐらいに……」
何故かお客様はそこで言葉を切ると、私の背後を覗き込むように通路の奥へと顔を向ける。
「おや、あの子……」
知り合いでもいたのだろうかとお客さまの視線を辿ると、その先には不破さんがいた。
「犬君!」
通過しかけたところを下の名前で呼ばれ、不破さんは一瞬だけ驚いてみせたものの――笑みを浮かべながら近付いてくる。
「いらっしゃいませ、お客さま」
先ほど一瞬だけ覗かせた冷えた目は、単なる私の見間違いか、はたまた幻か。あれ? と首を傾げていると、
「他人のふりをするんじゃありません。白々しい」
「……」
このやり取りだけでも、2人は顔見知りの関係にあり、不破さんは災難にあったかのような立場にあるのだと分かる。
「しかし僕は仕事中ですので。どうぞごゆっくりご覧くださいませ。では」
15度に頭を下げた。微かに聞こえたチッという音は、ひょっとして不破さんが漏らした舌打ちだろうか。敢えて聞かなかったことにする。
「お待ちなさい。ねぇ犬君、千早さんって……こちらの方なのでしょう?」
その言葉を聞いた不破さんが顔を上げ、ハッとしたように私を見た。――え? 『こちらの方』って私のこと……?
「……このところ、あなたが静かだったので、てっきり諦めたものだとばかり思ってましたよ――トジ」
何故か不破さんは悔しそうな顔をしていた。秘匿していたものが露見し、狼狽えた風にも見える。
「おやおや、私は諦めてなどいませんよ。それにね犬君、私は喜んでいるのです」
トジさんは心底嬉しそうに私を見る。何が何だか分からない。取り敢えず、どうやら私は何かに選ばれたみたい……?
「あの……?」
問い掛けた私の背中をポンと軽く押したのは不破さんで。これは間違いなく『何も言うな』という指示なのだろう。大人しく口を閉ざした。
トジさんはそんな私を見ると、「今どき珍しい、艶やかな黒髪じゃないか。瑞々しく白い肌といい、美しいねぇ。丁寧な案内も完璧だよ」
ほくほくと御満悦そうに笑みを浮かべている。かと思えば「犬君、近い内にうちへ寄りなさい」と、有無を言わせない迫力を醸し出すのだった。
「善処します」
「やれやれ、こう言っても来ないんだから……。千早さん、案内をありがとう。また手伝ってくださる?」
「はい、もちろんです。お待ちしております」
頭を下げると、トジさんは小さく頷いて、レジへと向かった。不破さんを見ると、沈痛な面持ちで私を見返していた。
「……ごめん、歴さん。お昼に時間貰えるかな?」
「はい」
「何時から休憩? 合わせるよ」
「12時半です」
「分かった。歴さんが行きたいお店にしよう。じゃあまた後で」
不破さんはボディブローを食らったかのように、すっかり意気消沈してしまっていた。
それでも『しっかりしなければ』と思ったのだろう。両頬をパチンパチンと軽く両手で叩いて喝を入れ、仕事に戻って行った。
腕時計を見れば既に10時半に近い。私も慌ててPOSルームへと引き返した。


【02】

不破さんは「私の行きたいお店」と言ってくれたけれど、真っ先に浮かんだのは、あまり人の出入りがないようなところだった。特に従業員の。
これは私の予想に過ぎないけれど、不破さんが私をお昼に誘ったのは、トジさんとのやり取りを説明するためだと思うから。
きっと込み入った話になる。用心は、するに越したことはない。
そして迎えた12時半。遅番の芙蓉先輩と透子先輩にひとこと声を掛けてPOSルームを出ると、不破さんがドアの向こうで待ってくれていた。
不破さんと2人きりで食べるのは初めてではない。
なにせ従業員は休憩時間が不規則なので、時間が重なった者同士で「やぁ、隣いい?」とか「一緒に食べない?」となる頻度が多いのだ。
もちろんローテーションさえ上手く回れば、気の合った者同士が時間を合わせて食事をすることも可能だ。
だから今回私が不破さんと2人きりでランチをしていたとしても、周囲には『たまたま』『休憩時間が重なっただけ』という風に映るだろう。
ただ、これには欠点もある。他のひとが「俺も混ぜて」「私も一緒に」となると、あちゃー……となる。今日だけは阻止しなければ。
「行きたい店はあるかな?」
「はい。ネルフォーでお願いします」
「本当にそこでいいの?」
訊き返されたのには理由がある。数ヶ月以内に撤退するだろうと噂されている、ネオナゴヤ店のテナントワースト1位の飲食店だからだ。
平塚さんも「あそこは微妙だよな」と評するほどで、そんなネルフォーの内情を知っているからこそ、不破さんは僅かに眉根を寄せたのだった。
「せっかく食べに行くんだから、なにもネルフォーじゃなくても……」
と言い掛けた不破さんは、「あぁ」、と腑に落ちたかのように言った。
「ごめん、気を遣わせたかな。歴さんのことだから、ひとを寄せ付けまいとしてネルフォーを提案してくれたんでしょう」
さすがに鋭い。
「歴さんは優しいなぁ。でも今日はアッソ・ラータンにしようか」
「! だ、駄目ですっ!」
アッソ・ラータンとは、ネルフォーとは真逆の、高いゆえに客足が少ないフレンチのお店だ。ランチがないため、ここを選ぶ従業員はほとんどいない。
「確かにひとはいないと思いますけど、そんな高いとこ、私払えな……」
「支払いは気にしなくていいから。僕が誘ったんだし、店を決めたのも僕だし」
不破さんの決意は固いらしく、既に足はアッソ・ラータンのある方へと進み始めていた。


【03】

店内は……当たり前だけど静かだった。一般客が2組いるだけだった。もちろん従業員は1人としていない。私たちは一番隅の奥まったところに座った。
おどおどとメニューを見る私を安心させるように、不破さんは微笑みながら「ちゃんと1品料理だってあるから大丈夫」と教えてくれる。
不破さんの言う通り、コースのページとア・ラ・カルトのページ、さらに1品料理専用のページも用意されていた。
「……リーズナブルなメニューもあったんですね。意外でした」
「僕は、歴さんが知らなかった方が意外だな。凪さんと来たりして、食べ慣れてると思ってたから」
「兄はそうかも知れませんけど……。こんな敷居の高いお店、私はおいそれと来れやしません」
「……」
「私、何か変なこと言いました?」
「いや。僕が抱いてたイメージと違うなと思って」
「どういうことでしょう?」
「歴さんのお祖父さんは現CEOですよね? 鬼無里三姉妹も本部で活躍中……。失礼ですけど、かなりの豪邸じゃないですか?」
「え……っと」
「言いにくいですよね、すみません。でも、タクシーで『千早御殿まで』と言えば通じると伺いましたが」
「そんな大仰なこと、一体どなたが吹聴なさって……」
「僕はトジから聞きました」
「トジさん……さっきのお客さまですね?」
不破さんの目が、きょとんと丸くなる。その身体がくの字に折れた。
「はははっ……。歴さん、彼女はトジという名前じゃありませんよ」
「違うんですか? 不破さんが呼んでらしたので、てっきり……」
「こう書くんです」
こういうお店ではマナー違反だろうけれど、ひとがいないことを理由にスマホを取り出すと画面に表示させる。
【刀自】 - Wikipedia
刀自(とじ)とは、日本古語では戸主(とぬし)の事をいう。
日本古代において、家(戸口)は女性が主で、男性はその女性のもとを訪れる妻問婚が一般的であった。
転じて、家事一般をとりしきる主婦のことを家刀自とも言った。
女性の戸主を指す刀自は、男性の主を指したという刀禰の対語にあたる。
「刀自……女性の戸主……」
「本名、不破初子。僕の祖母です」
「そうだったんですか」
そうなると、さっきのやり取りを鑑みるに、あまり仲はよくないのだろうか……と穿ってしまって、あたふたと頭を振った。
「歴さん、先ほどは祖母が失礼しました」
深々と頭を下げる不破さんに、私はおたおたと「やめてください」と慌てた。
「ですが何か、私を選ぼうとしてるような気配は感じましたけど……」
「……あれですか……」
はぁぁ……と重い溜息をつくと、何から話しましょうかと言って、暫く押し黙る。
その間に料理がきた。私が頼んだ欧風カレーと、不破さんが頼んだキッシュとオムライス。本当に美味しそうだ。
「食べながら聞いて下さいね。えぇと、そもそも……刀自が余命宣告を受けました。もってあと半年だそうで。話はそこから始まります」
「えっ」
そんな大切な話を食べながら聞き流せとは、不破さんも酷なことを言うものだ。
「『やり残したことを清算したい。でなければ死ぬに死にきれない』。
刀自はそう言って、僕の父に、『当主としてどうあるべきか』を詳しくレクチャーしだしたんです。そして父の代になった。
父が刀自から当主の座を譲り受けたことをきっかけに、とうとう刀自も残りの余生を送ることにしたのだなと、皆一様、そう思っていたんです。
ところが――そうじゃなかった。祖母はまだ力を持っている。当主の座を退いて尚、彼女は刀自のままなんです……」
げんなりした様子で不破さんは続けた。
「父が当主になったばかりの頃、僕は、祖母が隠居したと思って素で喜んでました。
相当躾や作法などに厳しかったですからね。これでやっと恐怖政治から解放されたんだーって、浮かれていました。
でもそうじゃなかった。矛先は今度、『次期当主』である孫たち……つまり僕と、弟の貴君(あてき)に向かってきたんです。
ところで、恥ずかしい話になるけど、僕たち兄弟は名付けから進学・就職にいたるまで、ずっと刀自の敷いた道を歩んできました。
いや……、その道を歩まざるを得なかった。それほどまでに、刀自の命令は絶対だった。母の意見なんて通ったこともないぐらいで。
そのレールは、ついに嫁選びにまで及ぼうとしていた」
「嫁選び!?」
首をたてに振ることで、不破さんは私の質問に肯定してみせた。
「当然、刀自は僕たちの就職先を調べ上げている。
ユナイソンCEOと会う機会があり、鬼無里三姉妹の存在を知るや、縁談を見繕った――と、ここまでが不破家の事情です」
「お祖父さまと……?」
「どうやら知り合いらしいんだ。祖母はまぁ……刀自と呼ばれているだけあって、そこそこの人脈はあるみたいで」
そう言えば、芙蓉先輩からだっただろうか、風の噂で聞いたことがある。
わんちゃんは、いいとこ出のお坊ちゃまなのよね~。資産家の土地持ちって話よ――、と。
上流階級同士のコミュニティ。名古屋と岐阜なんて知れた距離だ。それに年輪が違う。2人が知り合いだとしてもおかしくはない。
そうか、だからか。さっき私の名札を見て驚いていたのは。千早という名前を見て、祖父の為葉を思い出したのだろう。
「どうやら鬼無里三姉妹から快い返事を貰えなかったらしくてね。僕はホッとしていたんだけど、まさか歴さんの方に目を付けるとは思わなかった」
大誤算だとばかりに溜息を吐く。
「あの……。刀自さんは、どこまで本気なんでしょう?」
たった1度会っただけ。しかも、接客という形で応対しただけだ。
店員が顧客に対して丁重に持て成すのは至極当然のことで、特に改まって何かをしたわけでもない。ごくごく普通の応対だったはず。
それなのに、刀自にとって一大イベントである『孫の嫁選び』に私を選んでしまえるものなのだろうか。
不破さんは私をちらと見ると、
「昔話をすると、刀自は、歴さんの祖父を好いていた時期があったらしいよ」
「えっ!? そんなに前から交流があったんですか? 世間は狭いですね……」
「僕もビックリ。刀自は親が決めたひとと結婚させられた。まぁ、僕の祖父だけどね。だから千早CEO……為葉さんのことは、諦めざるを得なかった。
その後も交流は続いたけれど、こういう形で為葉さんと関われる……話す機会があるというのは、刀自には嬉しいことなのかもしれない。
為葉さんの血縁者なら贔屓目にみても孫の結婚相手に不自由しない。それどころか、過分な話だよね。
鬼無里三姉妹には色好い返事をいただけなかったけど、その代わりに見付かった歴さんは、刀自からしたら絶好の嫁候補に違いない」
「そんな話が……」
「やっぱり凪さんから一切聞いてないみたいだね」
私を気遣っているのか、言いにくそうに告げる不破さんの言葉に、私はサッと青褪めた。
せっかく姫丸さんから、兄の動向に気を付けるよう言われていたのに。
嫌がらせをするなら柾さんや麻生さんだとばかり思い込み、肝心の自分にはまったく気を配っていなかった。
兄はとっくに何かしらの手を打っていたのだ――!
「あの……ど、どういうことです? 何故ここで兄の名前が? 一体、兄はどんな話を……」
尋ねる声が上擦る。それでも不破さんから視線を逸らせなかった。
「刀自曰く、凪さんは孫なだけあって、為葉さんにそっくりなんだそうで」
「……? ま、待って下さい! 兄は、既に刀自さんと面識があるんですか!?」
「えぇ。かつて恋焦がれていた相手――為葉さんに似た孫の凪さんから、『では私の妹はどうですか?』と言われたら、その気になっちゃいますよね」
な、な……っ……。
嘘でしょう!?
「う、嘘って仰ってください、不破さん!」
「僕も嘘だと言いたいところですが……。どうやらCEOと刀自によれば……いや、厳密に言えば凪さんだな――あなたは既に僕の恋人なのだそうです」
「……っ! ……!!」
思わず大声で叫びたい気分だった。でも声にもならず、言葉も浮かばず、結局何も出て来ない。
一体どうしてこんなことになってしまったのか。
縁談を白紙に戻した鬼無里三姉妹を恨むのは筋違いだし、刀自さんの『希望』を否定する権利も、気も、私にはない。
誰が歪ませたかというと、明らかに兄である。柾さんと麻生さんに対する嫌がらせが目的なのは明白なのだから。
けれど、ことは兄を責めるだけで修正できなくなってしまっているのが腹立たしいし、そして難題だ。
何としてでも刀自さんに、私と不破さんが付き合っていないことをお伝えしなければ。


2014.05.01
2020.01.24 改稿


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