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京都在住の先輩から、匂袋が届く。 深い香りのなか、時が止まるよう……。 そして、静寂が、たちのぼる……。 こころのなかのあせりが、すうっと消えていく。 なんて「いいもの」いただいたことだろう。 この匂袋が納められた茶封筒のなかには、A4サイズのカードケース(硬質塩化ビニール製)が1枚、芯として入っていた。匂袋がよれたり、もみくちゃにならぬように、との配慮である。 芯なら厚紙にもできようけれども、それをカードケースにするという心くばりに、はっとさせられる。 このカードケース、何に使おう。 机まわりの、台所の、あらゆる棚のなかの、書類を思いめぐらしていく。 折角のカードケースを、何かとくべつなことに用いたい。 ええと。ええと。 そこへ、とつ然。 叫ぶ、声。「ねえ、誰かー。アタシの○ンツ、持ってきてー」 女の割合が多いせいだろうか(男1人、女4人と1匹)、うちはこのように、あけっぴろげに、はしたない。 入浴しようと、子どものひとりが3階の自分の部屋から、1階の浴室へとおりていったのだ。そうして、着替えと下着を持っておりるのに、○ンツだけ忘れたものとみえる。めずらしいことではない。 もう、仕方ないなあ。 しぶしぶ目当てのモノを持っていってやりながら、○ンツだけは脱衣室の隅に置くことにしようか、と思う。 棚の下段の端っこに、布製のかごに入れて○ンツを置いてみる。 これはよさそう。 でも、このままでは、どうもつつしみがない。 洗濯機の「取り扱い説明書」をフタのかわりに、のせてみる。 どうも味気ない。 臨時、という感じ。 ああ、そうだ。 先輩が匂袋といっしょに送ってくれたカードケースを、フタにしよう! ほら、こんなふうに……。 カードケースに、1枚障子紙をはさみ、その上に、レースのコースターを入れてみました。これで、フタのつもり。この下に○ンツがかくれています。 フタの裏面には、洗濯機の「取り扱い説明書」がはさんであります。この洗濯機、うちにやって来たばかりで、ときどき「どうするんだっけ……」と見なければなりません。ここにはさんでおくのは、いい具合です。
2008/01/29
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東京に、雪が降った。 降ったとなると、その分量はどうでも、子どもたちはうかれ、跳ねる。 そうは積もるまいと思ったけれど、それでも、家家の屋根、車の走らない路地、原っぱは、その日のうちは雪の白をまとったままでいた。 「かまくら作ったんだよー」 学校から帰るなり「遊んでくるー」と叫んで飛びだしていった末の子どもが、夕方戻ってきて、うれしそうに言う。「そうでしょうとも」 泥だらけの上着の背中を、風呂場まで押して行きながら、思い浮かべる。 ほとんど泥でできている、小さなかたまり。子どもたちはそれを「かまくら」と呼んではばからないのだろう。 泥の子どもの洋服を洗濯機に入れ、ついでにからだも洗ってやりながら、「この冬は、ちゃんと寒くなって、よかったよね。ちょっと安心した」 と思わずつぶやく。「でも、この寒さは、チキュウオンダンカをカンワさせないらしいよ」 と、子どもがおしえる。 えー。 かすかな「安心」が消し飛んで、思いきりがっかりする。 ローマは1日にしてならず、地球温暖化も1日にして解決しないのだ。 そりゃそうだよね。 短絡に走らず、まずは、この寒さの前に跪(ひざまず)こう。 四季のめぐりのある国に生まれ育ったおかげで、どれほど想いを耕され、暮らし方を学ばせてもらったことだろう。 まずは、ありがたがらなければ。 そうそう、ことしが明けてすぐ、こんなことがあった。 古い友人との再会。「久しぶりだね」「元気そうじゃないか」 痒(かゆ)いようで、幾分痛いような感覚がよみがえる。 旧友とは、しもやけのことなんである。 右足の中の指が、赤く、ぷくっと腫れている。 しもやけと旧交をあたためるなど、呑気なものだと自分をわらいながら、それでもやはり、うれしいのだ。 このくらいの状態を友と呼ぶ呑気さを、持ったっていいじゃないの……と、思っている。 袖無しの袢纏(はんてん)です——この呼び名が正しいのかどうか。これは、90歳をいくつか越している、夫の伯母手作りの宝ものです。あったかいんです、とっても。これを羽織ってはたらくと、事がうまく運ぶような気がします。袖がないから動きやすく、机の仕事、水仕事、土仕事、なんにでも向いています。 うちに1つしかない、湯たんぽです。その日の夜、湯を注ぎながら、「きょうはどこへいくかい?」と、湯たんぽと相談。いちばんくたびれているひと、風邪をひきかけているひと、しょんぼりしているひと、そういうひとの足もとに行くのです。翌朝、湯たんぽのなかの、まだあったかい湯で顔を洗うたのしみといったら……。
2008/01/25
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ほうぼうからの要求に、ときどき、辟易(へきえき)とする。即座に、ひとつひとつ、ていねいにこたえられれば、それはいいのにちがいないが、そうもいかない。 ほかにも、しなければいけないことが、あるんだもの。 約束には、それとなく順番というのが、あるんだもの。 きょうは、そういう気分じゃ、ないんだもの……。 家のなかの話である。 要求はもちろん、家の者の口からも告げられる。 しかし、多くは、口など持たぬものたちが……。「アタシヲ、アラッテチョウダイ」 ——レースのカーテン嬢。「ナントカ、シテクダサイ」 ——いちご(黒猫の)がむしった廊下の壁紙氏。「ツギノカイオキ、タノムヨ」 ——シャンプーとコンディショナーのコンビ。「オラ、ノド、カワイタダ」 ——サボテンじいさん。 わたしは、そんな要求に耳をかたむけ、少し芝居がかった顔つきで、言う。「はい、ただいま」「お待ちください」というのより、「はい、ただいま」という言い方が好きだ。 その昔、友だちと喫茶店で喋くりながら、「アタシたちが、ウエートレスだったら……」という空想の遊びをした。 あのとき、「はい、ただいま、と言うようにしようね」と、友だちと誓い合った。以来、喫茶店のウエートレスにはなれないままだが、「はい、ただいま」だけは、いろんな場面でつかいながら、なんというかな、悦に入っている。「こんなときは、どう言う?」 と、友だち。 いきなり、テーブルの上の砂糖壺のなかの砂糖を、附属のスプーンでかき混ぜはじめる。(えー。それ、けっこう、むずかしいね)。「お客様、何か、お探しですか? って言うのはどお?」「……いいね。それでいこう」 さて。 いま、わたしには、申しわけないなあと思い、そう思いながらも見て見ぬふりをしている相手というのが、いる。仕事部屋のワードローブ上段が定位置の、アイロンのかごである。 ここには、アイロンをかける必要のある布たちがいる。 それから、繕(つくろ)ったり、何かに変化させたりする必要のあるモノたちも、ここが居場所だ。 ちょっと立て込むと、すぐ、このかごがいっぱいになる。 このかごのなかのモノたちの抱える問題を解決するのが、面倒だというわけでは、ない。こういうモノたちと向きあう時間さえつくれれば、それは、「至福」と呼んでさしつかえないひとときとなろう……。 だからさ、言ってるじゃない。「はーい、ただいま」 「アイロンかご」。20年以上も前、籐を編む友人がつくって、プレゼントしてくれたものです。丈夫だし、なにより年とともに、少しずつ風合いを変えていくところに、色気さえ感じます。いま、ここで「そろそろ、片をつけておくれよう」と、ときどき、細い声で訴えているのは、長女と二女共有の浴衣です。ほつれがあるんです。ちょっと縫えばすむことなんですが、もう、5か月もここに……。もうひとつは、先週からの新人、末の子どものタイツです。どこかにひっかけて、穴、あけたんです。これも、繕わなくちゃ。 アイロンとアイロン台は、誰でもすぐに使えるように、「共有の棚」(いつかお話しした、子どもと共有の下着、くつした、Tシャツの棚のなかに置いています)。小物のアイロンかけのときは、「アイロンかご」の底にスタン・バイの、この布を使います。焦げ跡さえあるバスタオルなんですが、20年来の相棒。
2008/01/22
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床に蒲団を敷いて寝るのが、どうやらわたしは好きらしい。 いちばん好きなのは、寝室という、とってもプライベートな空間が昼間はたたまれて消えてしまうところかな。 子どもたちは3人とも、それぞれにふさわしい、それぞれらしいベッドで寝ているのに、そして、それがうらやましくなって、ときどき、子どものベッドにもぐりこんで昼寝することもあるのに、わたしはゆるぎなく敷き蒲団派だ。 子どもたちのベッドは、すごくいい(高価で立派という意味では、ない)。 そういえば、3人ともベッドではあるけれど、マットレスで寝ている者はいないな。木製で、寝台がすのこになっていて、そこに蒲団を敷いて寝ているところが、共通している。子どもたちも、部分的には、蒲団派なのかもしれない。 長女のは、変わったところのない素朴なベッド。彼女の性格をあらわしているような……。 二女のは、あるときとつ然、ふたつ折りになる。 彼女が洋裁をするとき——とくに裁断をするようなとき——、床面積を広げたいときに、敷きも掛けも蒲団はそのまま、まんなかを持ち上げてふたつ折りにするのだ。わたしが選んだというのに、ベッドがふたつ折りになっているのを見るたび、「ひゃー、すごい、すごい」と、手を打って驚く。 そして末の子どものベッド。うちに遊びにやってきてくれるひとの半分が、このベッドを見て「いいね、これ、ほしいかも」と言う。 まず、ベッドの下が3段ずつ2列のひきだしになっている。ひきだし部分はタテ半分だけで、もう半分は、空きスペースになっていて、ここに、季節外の寝具と、泊まってゆく友だち用の寝具2組をしまわせてもらっている。この収納力が、人気の由縁らしい。末の子どもの部屋にだけ作りつけのワードローブがなく、小さな観音開きの押し入れ(仏壇などを納めるのによいような)がひとつあるきりなので、ベッド下のひきだしには、彼女の下着類、ブラウス、Tシャツ、半ズボン、デニムが仕舞ってある。 さて、わたしと夫。 わたしたちにも、寝室専用の部屋は、ない。 わたしの仕事部屋に、蒲団を敷いて寝ている。 夜になるとたちまち寝てしまい、朝、けっこう早く起きても、まずは家の仕事を片づけるので、なんら困ることは、ない。ここは洋間で、木の床の上に蒲団を敷くことになる。 蒲団を敷く。 蒲団を上げる。 これが、めんどうではないか、と言うと、そうでもない。「蒲団、敷いておくれよー」 と、夫に向かって猫なで声をだすこともある。 そういえば、敷くのより、上げるほうが、わたしは好きだ。 さあ、ここからが、きょうのトピック。 蒲団は、敷きも掛けも、くるくる巻いて仕舞う。 どちらもふたり用のサイズなので、まずタテにふたつ折りにし、下からきっちり巻くのである。 いまよりずっと狭い家に住んでいたとき、押し入れのすみっこにやっとの思いでつくった蒲団用のスペースをみつめながら、ここに蒲団をしまうには……ふとんを、おしぼりみたいに巻いて仕舞うしかないわね……と思いついた。そのときから、ずーっとこうしている。 こんな蒲団のたたみ方を見たら、わたしたちの先代、先先代のひとたちは目を丸くするのにちがいない。 でも、これ、なかなかいいんだ。 仕事部屋の、わたしのワードローブには、洋服のほかにも、マンガの本や自分の本が置いてあるので、蒲団を三つ折りにして仕舞うことはむずかしい。 で、くるくると巻いて……、仕舞う。 これを真似しようと思ってくれるひとがいたら、うれしいなあ。ま、いてもいなくても、わたしはこれからも巻くんだけど。 これが、わたしの部屋の「くるくる蒲団」です。 くるくる蒲団に、布を1枚かけておきます。これで、寝具というプライバシーは、消滅。 子どもを代表して、末の子どものベッドを。ベッドの上の3つのクッションは、昨年のクリスマスに、サンタクロースが持ってきてくれたのです。
2008/01/18
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3人の子どもたちは皆、0歳から保育園に通い、そういうこともあって、わたしは20数年前から、持ちものの名前つけがくせになっている。 布のオムツにも名前をつけた。 肌着にも、小さなTシャツにも。 ズボンにも。 帽子や手袋にも。 ハンカチーフにも。 遠足に持たせる弁当箱や水筒にも。 みかんにも。 バナナにも。 名前つけは、ひと様の持ちものと自分のとを区別するためにするんだと思う。団体生活をする場合には、ひとたび名前のないモノを落せば、すぐに自分のものではなくなり、「落としもの」になってしまう。 名前つけが習慣になってきたある日。 自分の気持ちのなかにある名前つけが、持ちものに名前をつけて無事モノの持ち主を決めるため、なんてことを超えていることに気づく。 名前をつけるときに、モノに何かを宿らせるような心持ちになっている。「えいっ」(とは声に出さないまでも……)と、何かを念じる。 いろんな事故に遭いませんように。 たのしいことがありますように。 元気で過せますように。 というようなのが混ざった願いを名前にこめる、と言ったらいいだろうか。お守り、といったら言い過ぎだろうか。 しかし、存分に名前つけの腕が(?)ふるえるのも、子どもが小学生のうちだ。 上ふたりの子どもが中学生になったとき、「わたしたちのパン○○や、ブラ○○にまで、名前つけする必要ある?」 と、詰め寄られたことがある。 た、たしかに、それは不要かもしれない……と言う。 そう言いながらも、お守りをくっつけたい心持ちが、ついネームペンを手に握らせる。 さすがにこのごろは、パン○○や、ブラ○○の名前つけはがまんしているが、右と左の合印でもあるんだからさ、と言いわけしながら、家じゅうのくつしたには、いまだに名前をつけている。 ところで。 いま、小学4年の末の子どもは成長さかんで、ちょっと着たり履いたりした洋服や靴が、あっという間に小さくなってしまう。おさがりに大いに助けられた経験から、好きでそろえたモノは、わたしたちも、もらってもらうことにしている。 好きだった洋服に、白いまんまの名前テープをアイロンで貼りつけて、わたす。 これも、お守りのつもり。 伝わっていてもいなくても、そうせずにはいられない。 ことにおさがりの場合は、そこに新しい使い手の名前が書きこまれるとき、モノは新しい暮らしをはじめる覚悟を決めるのではないかな。 布製の名前つけ用のテープ。細めの幅、太めの幅のを持っています。文房具に名前をつけるときは見出し用のシール(インデックス)を2つに切ったものに書いて、貼りつけます(上からセロハンテープでとめる)。 黒いくつした、白いくつしたなど、大人用子ども用、紳士用婦人用の区別がつきにくいでしょう? その上、同じ日に何足も洗濯することもあり、「どれとどれで1足なのー?」と、こんがらがります。左右を合わせるためにも、合印をつけておきます。合印は☆と☆、★と★、□と□、○と○など。 わたしが家にいられない日のおやつに、バナナ王子に登場してもらうことがあります。最近、実力があって容姿のいい男の子を「〜王子」と呼ぶようですが、バナナ王子は、古顔です。なかなかハンサムでしょう?もちろん実力もあります。 右端は、みかん姫。子どもの弁当の「食後」に持たせるみかんには、いつもマジックで、顔を描きます。冬休み明け、学童クラブの保護者会に行ったとき、壁に、たくさんの、ひからびたみかんの顔が貼りつけてあるのを見たときは驚きました。ちょっとした人気者だったんだそうです、みかんたち。中学2年くらいになると、「お母さん、みかんに顔は描かないでねっ!」と、釘を刺されます。でも、時を隔てると、また描いてもよくなります。いまは、大学生の二女の弁当には、みかん姫ほか、にこにこみかん、鬼みかん、イケメンみかんなど、いろいろ添えて持たせています。
2008/01/15
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今朝。 いつものように、朝ごはんの仕度をしながら弁当をふたつこしらえる。 なぜか昨日、心づもりしてこしらえておいたおかずや、刻んで袋に入れておいた野菜のことを思い浮かべる前に……、あわてた。 大あわてで、0から働く。「あわてる」仕組みというのは、おもしろい。と、つくづく思う。 一度あわてると、「あわて」をひとめぐりしないうちは、止まらない。途中で、「待てよ、」とか「そういえば、」というような合の手が入れられれば大事(おおごと)にならずにすむのだが……。 どうしたわけか、わたしはあわてる自分がちょっと好きだ。 全身であわてている自分は、あまりにもばからしくて、笑える。どこかでお腹をかかえて笑いながら、もうこうなったら、最後まできっちりあわてなさい、と励ますような気持ちになっている。 今朝だって、台所に入るなりあわて、あわてながらうかれていた。「あわて」は、いきなり始まり、いきなりおわる。「あわて」が去ったとき、「あ、冷蔵庫にこんなものが……」と、昨日こしらえておいた肉団子と、ほうれんそうを茹でたもの、それに、洗って刻み、袋に入れておいたレタス、水菜、にんじんをみつける。 あはは。 わたしに「あわて」は付きものなので、いまや、あわてないようにしようなどとは露も思わず、これを道連れに生きていこうと思うわけなのだ。 わたしが「あわて」を片腕に、片づけのためにもっともエネルギーをつかうのは、仕事部屋に入る前と、外出前、寝る前である。 仕事を終えたとき(この場合の仕事は、書いたり描いたり読んだり、の仕事)。 帰宅したとき。 目覚めたとき。 その3場面で、自分をがっかりさせては、まずい。 そのがっかりは、いろんなところに、じわじわっと芳(かんば)しくない影響を及ぼすからだ。 だから必死で、例の「あわて」の手も借りて、仕事前、外出前、寝る前の家を片づけに片づける——といったって、わたしの気が済むレベルで、だけど——。 仕事を終えたとき。 帰宅したとき。 目覚めたとき。 これらは、こざっぱりとした家に一歩を踏みだしたい瞬間だ。 仕事部屋から出て……、外出先から帰宅して……、眠りの国からもどって……、家が片づいていれば、たとえお茶1杯飲むゆとりがなくても、すっとつぎの作業にとりかかれる。 あわてたければ、あわてて、つぎの作業に。 夜、余裕があるときは、あと片づけをしながら野菜のせん切りをして、袋に入れ、冷蔵庫に入れておきます。これ、翌日の朝ごはんを助けます。サラダに。スープに。炒めものに。こういう助っ人は重宝だけど、忘れちゃってはねえ……。ため息。
2008/01/11
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あけましておめでとうございます。 ことしも、よろしくお願い申し上げます。 佳い年にしましょう、ね。 元旦。 晴れわたった日。 ことしも高尾山に登る。 22年前に亡くなった義妹形見の登山靴を履いてゆく。彼女の清らかさ、やさしさが足もとからのぼってくるようだ。 京王線・高尾山口駅には、ひとであふれていた。 山に登るのに、ひとまみれ、というのは芳(かんば)しくはないが、この日ばかりは、正月に高尾山に詣でようという同志のように思えて、さほど気にならない。登りは、薬王院有喜寺(やくおういん・ゆうきじ)の参道を行く。 昼ごろ、頂上到着。「ヤッホー」と叫んでいると、向こうで、夫が「高尾山」という銘柄のカップ酒を手にぴょんぴょん跳ねている。「なに、跳ねてるの?」「すごい熱燗なんだよ、あち、あちち」「それは、なあに?」 夫が持っている、パンのようなせんべいのような四角いもの。「みそパンだよ。なつかしくて、つい」 子どもらとともに、ちょっぴり齧る。素朴な味。昔食べた甘食に、ほんのり味噌を加えたような。甘食よりも少少かため。 こういう味、高尾山山頂で元旦に食べた味噌パン、きっと忘れないだろうな。なんてことない素朴な、この時代には、素朴過ぎるといってもいいようなものだけど……。ごたごたしないで、素朴をめざそう、と思いつく。 よし、これ、2008年のめあて。 帰り道は、ひとを避けて、4号路というつり橋のあるコースをひっそり歩く。幼なじみにも合った。霜柱。 小学4年の末娘に、「さて。これはなんでしょう」 と尋ねてみる。「えーと。えーと。霜やけじゃなくって、えーと」 とか言ってる。そりゃ、仕方ないのかもしれない。町なかに、いま、霜柱は見ないもの。「し・も・ば・し・ら」とおしえながら、霜柱の端っこをざくりと踏む。子どもみたいに。こんなにうつくしいものを、つい踏んじゃうわたしは……えーと、えーと。 山道には、落ち葉がいっぱい。 わたしは、これが好きなのだ。落ち葉のかさなりを見ると、安心する。虫たちが落ち葉の下で、ぬくぬくと冬を越すのが見えるようで。 町なかでは、葉が落ちると、すぐと人びとが箒(ほうき)を持ってあらわれ、掃いて、ゴミの袋に詰めて立ち去る。落ち葉は、町ではゴミなのだ。アスファルトの上の落ち葉は、ゴミ……。(でも、それじゃ、虫たちは、どこで眠ればいいの? 虫はいなくていいっていうの? 虫はいなくていいっていうの?) 落ち葉が似合う町ってのは、ないのかなあ。 リフト山頂駅から、リフトに乗る。 高尾山のリフト(2人乗り)はたのしい。長いし、高いところを行くので、ちょっとスリルもある。 すがすがしい元旦の山登りだった。 大事な靴を拭いて、茶がら(ティッシュペーパーに包んで)を入れて、しまう。 高尾山の登山道わきの、落ち葉。好きです、この佇まい。「焚くほどは風のもてくる落葉かな」という小林一茶の句があります。かまどの炊きつけにするくらいの落ち葉は、風がはこんできてくれる……。そんな暮らしから、ひとが遠くなってしまったので、落ち葉も行き暮れて、困っているということです。少しずつ、落ち葉に、近づきたいと希う、きょうこのごろ。
2008/01/07
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