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●船場狂い●伝統と格式の商家がひしめく大阪・船場。久女(くめ)は幼い頃から船場の富商にあこがれ、その一員になるため異常な執念を燃やして生きてきた。娘の結婚を契機にようやく船場商人へとのし上がるが、時はすでに戦後。時代は船場の町を大きく変容させていた。船場を舞台にした山崎豊子の名短編。 船場は、東西を東横堀川、西横堀川、南北を土佐堀川、長堀川に囲まれた島のような街。川一つ越せば、まったく違う世界になる。 船場には多くの仕来りがある。●船場では、気温の寒暖に関わらす、四月一日から男女ともに袷(あわせ)になり、外出には必ず袷長襦袢と袷羽織を着用する。六月一日から単衣(ひとえ)になり、菖蒲節句から帷子(かたびら)、麻長襦袢、ろ羽織、 浴衣は六月15日から、七月一日から薄物、しゃの羽織、九月から単衣、十月から袷という更衣のしきたりがある。●・・・土佐堀川の向こうの子供だけ変わった名称で呼ばれることであった。男の子は、ぼんぼん。兄弟が沢山ある場合は、兄ぼん、中ぼん、小ぼんなどと云われていた。女の子は、嬢(いと)さん。これも姉妹の多い時は、嬢(とう)はん、中嬢(いと)はん、妹嬢(こい)さんという風に呼ばれた。夏祭になると、このぼんぼんや嬢(とう)はんの中からだけ、難波神社のお稚児さんが選ばれた。主人は、旦那(だん)さん、奥さんは、御寮人(ごりょうん)さん、女隠居は、御家(おえ)はんと呼ばれる。 江戸時代の船場の北に位置する天満の呉服屋の物語■あきない世伝金と銀■では、以下のように書かれている。●眼下を流れる大川は、天満組と*(船場)北組*とを明確に分かつ。同じ大坂でありながら何かと爪弾きにされる天満組にとって、大川に架かる橋には、強い思い入れがあった。 久女(くめ)は、船場に憧れて、船場の外にいながら船場のように暮らした。●船場に住んでいないのに、船場の子女が行く女学校に行く。●更衣も船場のとおりにした。●結婚して子どもが生まれたら、「ぼんぼん」、「嬢(いと)はん」、「妹嬢(こい)さん」と呼ばせた。手代にも、番頭は助、手代は七、丁稚は吉と付けて呼び、女中もお梅どん、お竹どん、とどん付けにした。●食事も箱膳を使った。●娘を船場に嫁にやった。船場というブランドに憧れた女商人を描いた短編ながら、面白い作品だった。■暖簾■■花のれん■■船場狂い■持参金■遺留品■しぶちん■エッセイ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.08.19
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■ポーの一族 春の夢■【内容情報】(出版社より)名作「ポーの一族」40年ぶりの新作続編! 不朽の名作「ポーの一族」から40年。ついに新作の続編がコミックスに!!永遠の時を生きるバンパネラ(吸血鬼)であるエドガーとアランは、1940年代戦火のヨーロッパ、イギリス郊外でナチスドイツから逃れてきたドイツ人姉弟と出逢う・・・そしてその出逢いが新たな運命の歯車をまわすーーー■これまでのあらすじ■1744年、森の奥に捨てられた幼いエドガーとメリーベルは、老ハンナ・ポーに拾われて育てられるが、老ハンナとポー家の一族の人々は吸血鬼「バンパネラ」であった。11歳のときに一族の秘密を知ったエドガーは、成人後に一族に加わることを約束させられ、その代わりにメリーベルを巻き添えにしないよう彼女を遠くの町に養女に出させる。 1754年、エドガーが14歳のとき、成人までに一族の手から逃れようと画策した結果、正体を村人に見破られた老ハンナは胸に杭を打たれて消滅する。しかし彼女の連れ合いで一族の最も濃い血をもつ大老(キング)ポーは、いやがるエドガーを無理やり一族に加え、エドガーは永遠に少年のままとなってしまう。 3年後、13歳になったメリーベルはバンパネラのエドガーと再会し、自ら一族に加わることを望む。それから2人は一族のポーツネル男爵とその妻シーラを養父母として100年以上の時を過ごすが、1879年、4人の正体を知った医師によりメリーベルとシーラが消滅させられ、ポーツネル男爵もその後を追って消滅してしまう。 最愛の妹を失ったエドガーは絶望と悲しみに沈む中、新たにアラン・トワイライトを一族に加え、以後2人で100年近くの時を過ごすことになる。しかし1976年、2人にも永遠の別れの時が訪れる。 「ポーの一族」再び現る。 出版不況が吹き飛んだかのような話を聞いた。小学館の少女漫画誌「フラワーズ」7月号が各地の書店で売り切れた。通常部数より多い5万部を用意したが足りず、増刷分もすぐ完売したという。▼萩尾望都(もと)さんの漫画「ポーの一族」の40年ぶりの続編が載ったからである。思春期に愛読したファンが書展へ走ったらしい。(2016.7.1日朝日新聞「天声人語」)このように、40年ぶりの続編は話題になり、本屋で売り切りが続いた。1972年に発表され、1976年まで続いた「ポーの一族」。当時、大人気だったが私が読んだのは、1990年代のはじめ頃。1976年にエドガーもアランも死んだと思っていたが2016年に復活。40年前の作品が余りにも好きだったので、今まで読むことができなかった。今回、やっと手に入れ読んだ。1976年までのストーリーの中で、謎だったところが沢山分かった。 1940年代のイギリスの島に現れたエドガーとアラン。ちょっと、絵が違う。特に、アランの顔が違う。「春の夢」の中には、いろんな新しいバンパネラが登場する。★ファルカ1925年パリ万博で出会った。レオパード柄のスカーフをまいた「女装」のバンパネラ。ファルカは、空間を移動できる。(どらえもんの「どこでもドア」的な)★クロエ9世紀頃!(平安時代だ!!!)、村が疫病に襲われて生き残ったクロエは、老(ろう)ハンナによって一族に加えられた。(老ハンナは8世紀頃、大老(キング)ポーによって、一族に加えられた。)★オットマー家オットマーの男子は45~46歳頃に、眠れない病になる。死ぬとき、本当に死ぬか、バンパイアになって生きるかと決めることが出来る。ポーの一族とは別の一族。★ブランカ大けがをファルカによって一命を取り止め、ファルカの手で一族に加わる。「ポーの一族」は、とても有名なので、パロディがある。そのひとつが、「ペーの一族」。■『ペーの一族』の■主人公・林家ペーがエドガーの姿で描かれている。 著者は、「ストーリーは基本『ポーの一族』と一緒」で、「林家ペーが落語家だっていうことを最近の人は知らないじゃないですか。それというのは彼が、自分は林家一門っていうことを隠して生きているからだ...みたいなことだと思うんですよね。」ということから巻き起こるドラマだと、萩尾との対談で説明している。 作品中、林家三平に「ペー、テレビに映ってない!!」と怒鳴られ「テレビに映りたかったら、つねにこん平の後ろに回りこめ!」と言われたペーが、エドガーの姿で「笑っているふり...面白がっているふり...それくらいできるよ」とつぶやいたり、グレンスミスに模された人物が「...林家一門...」と愕然とするバックに「林家 林家 林家の一門」と記されている場面などが描かれている。 読みたい!!!((´∀`))ケラケラ■ポーの一族年表■■原案「ポーの一族」のドラマを見た。■■萩尾望都 少女漫画界の偉大なる母■■「ポーの一族」の誌的な言葉■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.08.12
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●「暖簾」●たった35銭を握りしめ、15歳の八田吾平が、淡路島から大阪に出てきたのは、明治29年の三月。一介の丁稚から叩きあげ、苦労の末築いた店も長子も戦争で奪われ、ふりだしに戻った吾平の跡を継いだのは次男孝平であった。孝平は、大学出のインテリ商人と笑われながら、徹底して商業モラルを守り、戦後の動乱期から高度成長期まで、独自の才覚で乗り越え、遂には本店の再興を成し遂げる。親子二代“のれん”に全力を傾ける不屈の気骨と大阪商人の姿を描く作者の処女作。 江戸時代、北前船が北海道から、昆布を積み大坂に持ってきた。だから昆布は大阪=上方でよく食べられたという。そんな昆布を商う船場商人の物語だ。 作者の山崎豊子は、船場の出身。実家は老舗昆布屋の小倉屋山本。「暖簾」は、生家の昆布屋をモデルに書いたもので山崎のデビュー作。以来、「花のれん」、「女系家族」、「ぼんち」など船場ものを書いた。初期の作品は船場など大阪の風俗に密着した小説が多い。その頂点が足袋問屋の息子の放蕩・成長を通して商魂たくましく生き抜く大阪商人の典型を描いた『ぼんち』であり、市川雷蔵主演により映画化された。「花のれん」は、NHKの朝ドラになになった。「女系家族」も何回も映画化ドラマ化された。●読書メモ●●船場の商家の習いで、給金はなく、小遣いとして月々貰う五銭はもちろん、二、三十銭の盆、正月の祝儀(ぽち)、祭りのひねり紙・・・。●酢は『三勘』の酢で漬け・・・。*「ミツカン」って「三勘」と書くのか・・・。●火元の丸喜の主人は、紋付羽織に袴をつけ、足元は裸足のままで「火出しておわびの申しようもござりまへん、どうぞこの通りで・・・」類焼した隣の近所へ土下座に廻った。これが火出しの作法であった・●「昔から大阪の昆布、江戸の海苔いうやないか、東京人は、ああ昆布か、あれは安いもので江戸っ子の食うもんではない思てる。・・・」「そら確かに前はそうやった、そやけど、戦争を境にして変わってきてる・・・・配給された昆布食べてみたら割にうまい、おかげで戦後は江戸っ子にもなかなか昆布好きがいはるというあんばいや」●「お母はん、酢昆布買うて欲しいわ」嬢はんいこう注文されると、幸平は流行の服着てハイヒールをはいてても、大阪の生粋の娘はチュウインガムの代わりに酢昆布をしがんでくれはると、手放しで喜んだ。*■みをつくし料理帖■で、「なにか大坂らしい食べ物を・・・」と言われて澪は、とろろ昆布を作った。同じく■みをつくし料理帖■で出汁出汁をとるのは、江戸はカツオ、上方は、昆布とあり、澪は、両方のいい所を生かそうと、いろいろ工夫する。■暖簾■花のれん■■船場狂い■持参金■遺留品■しぶちん■エッセイ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.08.11
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■利休とその妻たち(下)■長い時を経て千宗易とおりきは夫婦の契りを交わした。おりきはキリシタンに帰依し、信仰に生きることを決意する。信長から秀吉へと、天下の武将に仕えながら、茶人としての生き方に悩む宗易。いつしか宗易は名声と引き換えに権力者の争いに巻き込まれていく…。武力がすべての戦国の世に、命を賭けて茶の湯に生きた千利休と、限りない愛で利休を支えた妻おりきを描く歴史長編。 利休をめぐる人々は、時代の超一流の人々だ。■戦国武将★織田信長。故に利休は安土に住んでいた。★豊臣秀吉。織田信長の死後、利休は豊臣秀吉に仕える。★武将・三好長慶信長より先に天下をとった武将。利休の妻は、三好長吉の妹で名は「お稲」。★松永久秀:三好長慶の家臣。(NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、吉田鋼太郎が熱演!)妻、お稲は、死ぬまで松永久秀を恨んでいた。また、お稲死後、再婚したおりきは、たいそうな美人だったので松永久秀は、自分のもとに来るように、おりきに言う。おりきが言うことを聞かないとおりきの屋敷に火を放つ。★その他、多くの大名が利休の茶の弟子だった。●読書メモ●利休がはじめて、おりきに会ったのは、おりきがまだ17歳の時だった。おりきの夫の死後、利休とおりきは愛人関係にあり、子どもも2人出来たが、二人ともひ弱で小さい頃に亡くなった。クリスチャンだった、おりきは、子ども2人が弱かったり早く死んだりしたのは、一夫一婦制という神の教えを背いたからだと信じた。●先妻お稲の死後、正妻として向かい入れられた時は、おりきは46歳に、利休は57歳になっていた。●おりきは、魚を入れる魚籠(びく)を風雅といい、以来、利休は目から鱗が落ちたようになった。魚籠は、花入れに使われてるが、このように本来以外の目的で使うことを■見立てという■。●秀吉は、正妻・北政所と淀君の他に幾人もの側室がいた。★姫路どの丸顔の笑顔の愛らしい女で、信包(のぶかね)の娘。★三の丸どの信長の娘で人形のように整った、表情の乏しい女。★加賀の局前田利家の娘。雪の精のように色が白かった。★松の丸どの京極家出身の陽気な女。★備前どの浮田直家の未亡人で、憂いを帯びた表情が男たちの目を惹(ひ)いた。★三条の局立ち居振る舞いのしとやかな女で、蒲生氏郷(がもううじさと)の妹。こうしてみると、側室といいながら、人質としての要素もあったのではという。 ●利休の弟子、山上宗二は、秀吉によって惨殺された。(鼻と耳がそがれ、首を斬られた。) ●大雪の日、突然、秀吉が利休の家に来た。大雪の日だから利休が慌てるだろうと、突然の訪問だった。しかし利休は、まったく慌てず、庭の飛び石の上の、さん俵を次々おこした。飛び石の上の、大雪だというのに乾いていた。茶の湯の道具でも、少し歪んだものがいいと言われるように、利休の隙の無さは、本当によかったのか・・・。整い過ぎたものの欠点を利休は誰よりもよく知っていたのに・・・。作者は三浦綾子。彼女はクリスチャンだったからか、理想の妻、おりきと娘、おぎんを熱心なクリスチャンとして描いている。■利休ととの妻たち(上)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)堺の豪商千宗易は茶の湯の達人として知られていた。その妻お稲は、武将三好長慶の妹であることを誇り、茶道に打ち込む夫を軽蔑していた。そんなある日、宗易は名高い能楽師である畏友・宮王太夫の妻おりきに出逢い、激しく心を奪われてしまう。互いに想いを胸に秘めながら、二人は運命の嵐に翻弄されていく…。茶聖千利休とおりきとの波乱に満ちた半生を描く感動の歴史ロマン。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.07.20
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■あきない世傳金と銀(八):瀑布編■●内容紹介●遠目には無地、近づけば小さな紋様が浮かび上がる「小紋染め」。裃に用いられ、武士のものとされてきた小紋染めを、何とかして町人のものにしたい―そう願い、幸たちは町人向けの小紋染めを手掛けるようになった。思いは通じ、江戸っ子たちの支持を集めて、五鈴屋は順調に商いを育てていく。だが「禍福は糾える縄の如し」、思いがけない禍が江戸の街を、そして幸たちを襲う。足掛け三年の「女名前」の猶予期限が迫る中、五鈴屋の主従は、この難局をどう乗り越えるのか。話題沸騰の大人気シリーズ第八弾!! コロナ騒ぎが起こる前に図書館にリクエストしていた本が、やっと届いた。私の後ろにも待っている人がいるから、なるべく早くといわれたが、今回も、面白かった。今年2月に東京に行ってきたので、場所にも思い入れがわく。また、■みをつくし料理帖■や■着物始末暦■を読んでいたので、それぞれの店の位置関係が分かる。●読書メモ● ◎は私のつぶやき。●世智弁勘定高いこと。けちなさま。◎「世知辛い」というのもここからきた言葉だろうか?●(呉服仲間)近年一大消費地として急激に成長した江戸と、商都として古くから栄えていた大坂とでは、仲間の結束の固さにも随分と隔たりがある。大坂の仲間は仕来りを大事にし、商家の婚姻や縁組、相続など店の行く末に関わることの全てについて、仲間全員の承認を要する。だが江戸ではそうしたこともなく、極めてさっぱりしていた。(大いに略)例えば大坂の天満組呉服仲間は、縁組や相続、家屋の売買といった大きなことから、花見の宴の相談や持ち回りの掃除のような細かいことまで、いちいち仲間全員で決めていた。江戸の呉服仲間はそこまでの結びつきを求めない。◎幸が五鈴屋の長男の後妻になる時にも、ここで詮議された。承知の印は、出席者それぞれが、扇を広げること。承知度が大きいほど、扇を大きく広げる。●てんやぁ、ところぉてんところぉてん、てんやぁ何処からか心太売りの良い声がしている。●けれども、麻は冬には寒すぎる。その点、木綿は格段に温かく、手入れも楽だ。「綿は暖かい土地でないと、よう育たへん。せやさかい、北の国も者にとっては、木綿は憧れの織物なんですよ」●三十畳ほどの表座敷には、鯛を抱え、釣竿を手にした大きな恵比寿像の段飾り、蜜柑に餅、睨み鯛、珊瑚や翡翠細工の置き物、金襴の反物、中身が入っているか否か定かではないが、千両箱が積み上げられている。(略)町人の男たちも、珍しく裃の礼装姿であった。(恵比寿講)●鉢植えぇ 寄せ植えよぅ福寿草ぉ 白梅ぇ 室咲きの白梅よぅ迎春用の鉢植えを前後に担い、花売りが伸びやかな声を上げている。小さな鉢にぎゅっと詰められた黄白の花々に、掛け取りに追われるひとびとが、ふと緩んだ眼差しを向けた。●御物師(おもし)というのは、裁縫を専(もっぱ)らとする女の奉公人を指す。針妙(しんみょう)ともいうが、もとは、公家や武家など身分の高い家に仕える者を御物師(おもし)と呼んだ。●江戸の庶民、ことに女に人気のある商いに「端切れ屋」「古裂(こぎれ)屋」と呼ばれるものがある。仕立て直し等で出た端切れの類を、見え易いように広げて、丸い輪っかに挟む。天秤棒の前後に、その輪っかを吊り下げれば、風が吹く度に輪っかが回って何種類もの端切れが風に踊る。なんとも風情のある光景で、つい足を止めて見入る人が多い。好みの端切れは、手柄にしたり継に用いたり、あるいは、手拭い代わりにしたり、と使い道は幾らでもあった。■あきない世傳金と銀■■あきない世傳金と銀(2)■■あきない世傳金と銀(3)■■あきない世傳金と銀(4)■■あきない世傳金と銀(5)■■あきない世傳金と銀(6)■■あきない世傳金と銀(7)■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.07.04
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■千利休とその妻たち(上)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)堺の豪商千宗易は茶の湯の達人として知られていた。その妻お稲は、武将三好長慶の妹であることを誇り、茶道に打ち込む夫を軽蔑していた。そんなある日、宗易は名高い能楽師である畏友・宮王太夫の妻おりきに出逢い、激しく心を奪われてしまう。互いに想いを胸に秘めながら、二人は運命の嵐に翻弄されていく…。茶聖千利休とおりきとの波乱に満ちた半生を描く感動の歴史ロマン。 ◎読書メモ◎利休は、人生のほとんどを「宗易」と名乗っている。広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。この小説も、「宗易」という名前で語られる。■妻たち■というタイトルの理由。千利休は、二十歳の時、最初の妻を娶っています。戦国最初の天下人とも呼ばれる武将・三好長慶の妹で、名は「お稲」とされています。第二夫人、おりきは、前妻、お稲と違い、茶の湯に精通し、利休にとっては、よき補佐役、理解者であったようです。おりきには、前夫との間に男の子が一人おり、この子を連れて利休と再婚しました。さらに、利休には、正式な妻以外の女性との間にもうけた子どももいたようで、千利休には、6人の男子と6人の女子がいたとされる説もあります。 ●正妻「お稲」と「おりき」を主に描いているが、他にも多くの女がいた。「お稲」は、武将・三好長慶の腹違いの妹。堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となり、財を成したと推測されている。その三好氏を追いやったのが、三好氏の家来だった松永久秀。■大河ドラマ・麒麟が来る■で■吉田鋼太郎■が演じている。その松永久秀は、おりきに思いを寄せ、かなわぬとなると、おりきの家に火をつける。とあるが、このあたり、本当のことなんだろうか?松永久秀は、狂気じみたところがあるのは知っていたが・・・。明智光秀(長谷川博己)が堺に銃を求めていくシーンでは、松永久秀も重要な役で出ている。●堺の建て倒れ*江戸時代に、「京都の着だおれ、大阪の食いだおれ、堺の建てだおれ」ということわざがあった「正徳3年(1713年)刊の浮世草子(『商人職人懐日記』)に、『京は着て果、大坂は喰て果、堺は家で果る』という諺が引かれている」●昔(利休よりずーっと前の時代)の茶室は、二階の桟敷に設けられた。四方を開けはなし、眺望を楽しみながら賑やかに茶会を催した。当時は、茶の湯といわず「茶寄合」といった。十種類の茶を次々と点てそれを飲んで銘柄を当てて遊んだ。●第二夫人、りきがキリスト教の信者になるというところは、三浦綾子らしい。●生涯●和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は、納屋衆(倉庫業)。塩魚を独占的に扱う商人(座)ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされる(利休が切腹時に書いた遺産分け状の冒頭に「問の事、泉国ある程の分。同佐野問、塩魚座賃銀百両也」とある)。 17歳より茶の湯を習う。19歳で父を失い、それと前後して祖父も失う。祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残る(不審庵蔵『緑苔墨跡』)。当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていた。 「利休とその妻たち(上)」は、利休(宗易)28歳から50代後半までの物語。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.07.03
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■結び布(ぎれ) 着物始末暦(十)完■呉服太物問屋の若旦那・綾太郎は悩んでいた。商売敵とはいえ、三百年続いた京の呉服問屋・井筒屋の暖簾をこのまま消してよいものかと。悩んだ末に相談に行った本両替商・後藤屋の大旦那からまさかの条件を突き付けられた綾太郎は、決着をつけるため、着物始末屋の余一とともに井筒屋へと向かった。一方、一膳飯屋の看板娘・お糸は十五のときから一途に思いを寄せていた余一と結ばれ、これから生まれてくる我が子の幸せを願い、ひと針ひと針、愛情を込めておしめを縫っていた──。市井の人情や温かさを描いた感動の大人気シリーズ、堂々の完結!! 全十巻の物語をやっと読み終えた。3月のはじめに6巻まで借りていたのだが、3月途中から5月中旬まで図書館閉鎖というハプニングがあった。●読書メモ●●山同心 おまけに暮れ六ツ(午後六時)になると山同心に追い出されるため、夜桜見物もできなかった。◎江戸幕府成立時、徳川家直参の足軽を全て同心としたため、忍者を祖先とする伊賀同心、甲賀同心、鉄砲組の百人組、郷士の八王子千人同心等、様々な同心職ができた。「山同心」で検索したが見つけることができなかった。文字どおり「山」に関係する同心だろうと思う。また、大阪市には、「同心」という地名があるが、江戸時代の同心の屋敷があった場所だ。また近くに、「与力町」もある。●布団は値が張るため、貧乏人は買い替えどころか綿の打ち直しもめったにしない。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦(二)■■夢かさね 着物始末暦(三)■■雪とけ柳 着物始末暦(四)■■なみだ縮緬 着物始末暦(五)■■錦の松 着物始末暦(六)■■なでしこ日和 着物始末暦(七)■■異国の花 着物始末暦(八)■■白に染まる 着物始末暦(九)■■結び布(ぎれ)着物始末暦(十)完■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.23
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■白に染まる 着物始末暦(九)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)晴れて夫婦となった着物始末屋の余一と、一膳飯屋の看板娘・お糸。しかし互いに忙しく、夢にまで見た夫婦の暮らしはすれ違いが続き、お糸はひとり思い悩んでいた。一方、大隅屋の若旦那・綾太郎は、朝っぱらからうんざりしていた。西海天女と呼ばれている唐橋花魁が吉原で着る最後の打掛を大隅屋で作ったことが江戸中の噂となり、それを一目見ようと、客が押しかけてきたからだ。唐橋に恨みをもつ札差の澤田屋や、京の老舗呉屋問屋、井筒屋江戸店の店主・愁介がつけ狙う中、唐橋の最後の花魁道中は無事に終わるのか!?待望のシリーズ第九弾!!●読書メモ● ◎私の付け足し。●節季候(せきぞろ)(略)赤い布で顔を覆った節季候(せきぞろ)の二人組が通り過ぎる。だが、四つ竹をにぎやかに打つ鳴らし「せきぞろ、せきぞろ」と張り上げる声ですら・・・(略)◎年が押しつまったころにくる門付け芸人。笠の上に羊歯の葉をさし、赤い布で顔を覆って「せきぞろ、めでたい」などと叫びながら年越しの銭を乞うた。割竹で胸をたたいたので胸叩とも呼ばれた。乞食のようなもので、凶作の時代に多く出たという。●権現様が江戸城に入られた日を祝い、吉原の女郎は八朔に白無垢姿で客を取る。●せっかちな江戸っ子は、とかく人より早く何かをしたがる。風呂は一番風呂、料理は初物をありがたがり、芝居は初日に見に行って、人気役者が着ていた着物を誰よりも早く真似したがる。●御歯黒溝(おはぐろどぶ)◎《遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところからという》江戸新吉原遊郭を囲むみぞ。遊女の逃亡を防ぐために設けたもの。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦(二)■■夢かさね 着物始末暦(三)■■雪とけ柳 着物始末暦(四)■■なみだ縮緬 着物始末暦(五)■■錦の松 着物始末暦(六)■■なでしこ日和 着物始末暦(七)■■異国の花 着物始末暦(八)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.17
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■異国の花 着物始末暦八■内容(「BOOK」データベースより)柳原の土手で古着屋を営む六助は、朝からそわそわしていた。なぜなら今日は、昔からの古馴染みで、着物始末の職人・余一と、一膳飯屋の看板娘・お糸の、待ちに待った祝言の日だからだ。めでたい日ではあるが、己の事に無頓着な余一が支度に手を抜きやしないかと心配な六助は、身支度を整え余一の元へ向かった。そんな折、京の老舗呉服問屋、井筒屋江戸店の店主・愁介が、「余一に関わる大事な話がある」と六助の前に現れた。いったい愁介は何を企んでいるのか―。話題沸騰の大人気シリーズ第八弾!! ストーリーの運びが上手いなと思う。こんなことが起きるのかと、次々に事件が・・・。そして、それを余一が片付ける・・・。だから、次々と読んでしまう。●読書メモ● ◎私のメモ。●(略)金糸の三重襷(みえだすき)の帯を前で結んでいる。 ◎江戸時代、結婚前は、後ろ結び、結婚すると前結びだった。吉原では、「今宵の客の一夜妻」として帯を前で結ぶのだ。■あきない世伝金と銀■も主人公・幸は、結婚してからは、前帯だ。●「わっちが最後に着る打掛を大隅屋で誂えたいんざます。」◎「・・・ざます」は、江戸後期、主として、江戸吉原で用いられた遊里語。「ざんす」の音変化とも、または、「でござります」の音変化ともいう。●吉原では初めての登楼を「初回」、二度目を「裏を返す」といい三度目でようやく「馴染み」となって花魁と床を共にできる。(略)「おまえは知らないだろうが、初回で振られるのは女郎の恥、裏で振られるのは客の恥とされている。」●恵比寿講は、商家にとって欠かすことのできない行事である。 10月の理由は、神々がみな出雲に行ってしまわれる中、唯一残ってくださった恵比寿様に商売繁盛と家内安全を祈願する。鯛や飯などをお供えして、親戚や奉公人、出入りの職人も招いて夜通し騒いで過ごすため、この日を楽しみにしている者は多い。◎恵比寿講・江戸と大坂の違い。江戸・・・10月20日 大坂1月10日江戸・・・熊手に飾りをつける。大坂・・・笹竹に飾りをつける。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦(二)■■夢かさね 着物始末暦(三)■■雪とけ柳 着物始末暦(四)■■なみだ縮緬 着物始末暦(五)■■錦の松 着物始末暦(六)■■なでしこ日和 着物始末暦(七)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.15
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■なでしこ日和 着物始末暦 7■着物の始末をする職人・余一は、ついに一膳飯屋の看板娘・お糸と夫婦になることを決めた。長年の思いが実り、喜んで父に伝えにいったお糸だったが「やつと一緒になるなら、おめぇとは親子の縁を切る」と頭ごなしに反対されてしまう。なぜ父はふたりの仲を認めてくれないのか? 母の形見である撫子色のきものを着て、祝言を挙げたかったのにと、困惑するお糸の前に、意を決した様子で、風呂敷包みを腕に抱えた余一が現れた。余一が手にしているものとは? 果たしてふたりの仲は認めてもらえるのか!? 話題沸騰の大人気シリーズ第七弾!!●読書メモ● ◎は私のメモ。●結城紬は洗い張りを繰り返すことで色がより鮮やかになり、着心地もよくなる。そのために新しいうちは寝間着にしたり、奉公人に着せる旦那もいるという。●とにかく女は「京で流行(はやり)のとか「京で作られた」という言葉に弱い。(略)はるかなる時の流れにさらされて磨きのかかった美や技は、負けず嫌いの江戸っ子ですら黙らせてしまうものがある。◎今も「京風」という言い方がある。また「小京都」などの言い方も、京都が一番という思いのあらわれだ。●宝尽くしの柄。*欲しいものが手に入る「打ち出の小槌」、*身を隠す「隠れ蓑」や隠れ笠」、*「宝(ほう)やく」は蔵を開ける鍵のことで、*宝巻(ほうかん)はお経が書かれたものだ。他には「丁子(ちょうじ)」に「分銅(ぶんどう)」、「金嚢(きんのう)」に「宝珠」が数限りなく描かれている。●妄想劇場・配役発表!!●★始末屋・余一着物の染み抜き、洗いや染めとなんでもこなす着物の始末屋・余一は、職人としての腕もよく、若くて男前なのだが、人と深く関わろうとしない。そんな余一役に、■清原翔人(カート)、■さんが、決定!!関係者は、「余一が歩いてきた!!と思った」と言っている人も(私。)なお、あだ名は、アプリ君と言います。★千吉女装をして、当時の「ゲイ」の人や、金持ちマダムに貢がせる。その美しさで人を惑わせる。そんな千吉役には、三浦春馬!!以外にない。しかも、三浦春馬は、ミュージカル・「キンキーブーツ」でドラッグ・クイーンの役!!■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦(二)■■夢かさね 着物始末暦(三)■■雪とけ柳 着物始末暦(四)■■なみだ縮緬 着物始末暦(五)■■錦の松 着物始末暦(六)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.12
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■下級武士の田舎暮らし日記■下級武士の日記から読み解く、江戸時代中期の村の暮らし。【内容情報】(出版社より)度重なる洪水に、武士たちはどのように対処したのか。田畑を荒らす猪の対策に、農民は銃を持てるのか。武士と百姓は一つの村の中でどのような関係にあったのか。伊達藩御鳥見役(鷹狩の世話役)として農村で暮らした下級武士が40年以上にわたって記した貴重な記録を解説する。 【目次】(「BOOK」データベースより)小鳥・落鳥といえども捕るべからず/屋形様の狩/権現森、山追/武家諸法度(幕府法令)/飯米麦の通行許可証/預御林、巡見衆宿泊所用材を伐採/未検地の知行への課税/江戸上屋敷類焼「難儀たるべし」/杉苗一〇〇〇本植林/鳥の捕獲を禁ずる〔ほか〕●読書メモ● ◎は私のつぶやきや調べたこと。●村の人別帳に登録された家数は109軒で、その内訳は本百姓75軒、水呑百姓28軒、借家6軒です。*■本百姓(ほんびゃくしょう)■とは、主に江戸時代の日本において、領主(藩政府や徳川幕府など)に対して年貢などを貢納し、村落共同体の正規の一員と認められていた者。 17世紀世紀後半(寛文・延宝年間)を境として、その性格に差が見られるようになる。 *■水呑百姓■水呑百姓(みずのみびゃくしょう)は、貧しくて水しか呑めないような百姓を指す、江戸時代の貧農の呼称。主に江戸時代の年貢の賦課基準となる石高を持たず、田地を持てない農民を指す。水呑み百姓は田畑を所有していないため、年貢などの義務が無く、代わりに村の構成員とは認められておらず、発言権も付与されない低い身分となっていた。親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男や三男、本百姓から転落した者などもおり、江戸時代の農村の貧農層を形成していた。 *借家:水呑と共に、本百姓に隷属した関係。●山追(やまおい)=狩り藩主の狩りは一種の軍事演習で江戸時代初期にはしばしば行われた。ところが生類憐みの令(1687年発令)により狩りは中断された。平和な時代が長く続き・・・。このあと、狩は藩主の野外レクリエーションになった。●肝入(きもいり)*江戸時代、名主・庄屋の異名。村の代表は村肝入である。村肝入は百姓身分で、百姓の代表であるとともに郡奉行・大肝入の下で働く下級役員でもある。◎思い出したのが、■熊本民謡「おてもやん」 ■♪・・・村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝入り(きもいり)どん(村の役付きさんや火消しの頭や仲人さん)あん人たちのおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい(いろんな世話役がいらっしゃるので、あとはうまくとりなしてくれるでしょう)●遠島は宮城県牡鹿郡の半島部分(牡鹿半島)を指す。◎「遠島」という地名にもしやと思って調べてみたら、■陸と島が繋がった陸繋島(りくけいとう)■だった。●田畑を荒らす猪の対策。毎年、4月1日から7月末までと期限をきって空砲願いを出していた。●洪水による堤防の決壊。村人たちで治すのが基本。損壊場所が大きくて自分たちでは直せない場合、上に訴状を出す。●暇証文、矢嶋家中のふたりの解雇。一 矢嶋喜太夫家中の者、清五郎二七歳。この度家中を永代暇(いとま)になりました。このものは切支丹ならびに*御金山定判持ち*では御座いません。よって暇証文、件の如し。 矢嶋喜太夫一 矢嶋喜太夫家中の者、十平 二五歳。(略)矢嶋家から(清五郎と十平という)二人の若者が解雇された。一人は他家に引き取られ、もう一人、十平は引き取りてがない。十平は、生家があれば生家に戻り、「暇証文」を村肝入に提出して村の人別に入れてもらうことになる。引き取り手がないからといって、やけになって暇証文を廃棄したりしたはならない。暇証文は身分証明書なので、紛失すると「無宿人(浮浪者)」になってしまう。*御金山定判持ち*刺青を入れられて金山で働く前科者。●仙台藩は常陸(ひたち)・近江(おうみ)・下総(しもふさ)にも領地があった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.04
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■錦の松 着物始末暦6■【内容情報】(「BOOK」データベースより)一膳飯屋の看板娘・お糸は悩んでいた。長年、自分が想いを寄せている着物の始末を生業とする職人・余一にはきっぱりと振られてしまった一方で、浅草田原町にある紙問屋の若旦那・礼治郎からは嫁にきてほしいと言われたからだ。想い人を忘れることが出来ず、悶心とした毎日を過ごすお糸の姿をみて、長屋に住む達平が強引にお糸を余一のもとに連れて行った。余一はそこで自分の壮絶な過去を打ち明け、お糸とは夫婦になれない理由を告げる…。果たして二人の恋の行方は!?話題沸騰の大人気シリーズ、待望の大六弾!!【目次】(「BOOK」データベースより)赤い闇/なかぬ蛍/錦の松/糸の先●読書メモ●●呉服太物*■絹織物に対して■綿織物や麻織物を太物と称した。 絹の着物、すなわち本義としての呉服があり、その繊維と比較して太い木綿を主として、麻や楮を太物と呼んだ。 江戸時代からの呉服商の看板に「呉服 太物商」の表記が見られる。●六つのひょうたん柄で、これは「むひょう」、すなわち「無病」の語呂合わせである。●『江戸で唯一、ひとくい大ざる』という見世物小屋。蝋燭の「火」と「杭」と「大笊」の語呂合わせ。●勘当帳■ 江戸時代、親が子を勘当したことを■記載する公儀の帳簿。勘当を公式に行なうためには、武士は管轄の奉行に願い出、町人は、勘当申立人である親が、町中五人組に申し出、五人組その他町役人と同道で町奉行所に出頭して、これに登録することが必要であった。勘当取消しも同様の手続きをした。記録しないものは内証勘当という。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦(二)■■夢かさね 着物始末暦(三)■■雪とけ柳 着物始末暦(四)■■なみだ縮緬 着物始末暦(五)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.03
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■なみだ縮緬 着物始末暦5■【内容情報】(「BOOK」データベースより)「おれはお糸ちゃんの思いには応えられねぇ」突然余一に拒絶され言葉を失うお糸。悲しみの中、雨にうたれ熱を出し、気を失ってしまったお糸を助けたのはいったい誰なのか!?そんな折、以前、千吉と同じ陰間茶屋で働いていたという女形役者の大事な衣装が盗まれるという事件が起こる。困った六助は余一に相談をするが、疑惑をかけられた千吉は行方知れず、同じ衣装を用意するにも刻がない。果たして余一はこの問題をいかに始末するのかー話題沸騰の大好評シリーズ第五弾!【目次】(「BOOK」データベースより)神の衣/吉原桜/なみだ縮緬/未だ来らず●読書メモ●●日本橋から吉原までは舟を使うことが多い。山谷堀(さんやぼり)まで猪牙舟(ちょきぶね)で行き、そこから駕籠で大門へ。(略)「『江戸っ子の生まれ損ない 猪牙に酔い』なんて川柳もあったっけ」*猪牙舟・猪牙船(ちょきぶね)は、猪の牙のように、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟。江戸市中の河川で使われたが、浅草山谷にあった吉原遊廓に通う遊客がよく使ったため山谷舟とも呼ばれた。長さが約30尺、幅4尺6寸と細長く、また船底をしぼってあるため左右に揺れやすい。そのため櫓でこぐ際の推進力が十分に発揮されて速度が速く、狭い河川でも動きやすかった。 語源は、明暦年間に押送船の船頭・長吉が考案した「長吉船」という名前に、形が猪の牙に似ていることとをかけて猪牙と書くようになったという説と、小早いことをチョロ・チョキということからつけられたとする説の2つがある。 ●(略)慣れていない田舎侍(あさぎうら)が川に落ち、(略) 浅葱裏(あさぎうら)は、緑がかった薄い藍色(浅葱色)の木綿を使用した着物の裏地のことである。江戸時代に国表から江戸表に参勤した野暮な田舎侍や下級武士を揶揄して浅葱裏と言った。 ●吉原では最初の登楼を「初会」と言い、二回目を「裏を返す」と言う。続けて三度通えば「馴染み」となり、吉原で公認の仲になるのだ。●打掛ののふきのところ■ふきとは■袷の着物や綿入れの袖口や裾の部分で、裏地を表に折り返して、表から少し見えるように仕立てた部分。ふき返しともいいます。表地の端の傷みや汚れを防ぐためや、おもりの役割などを担っていました。かつては、ふきに綿を入れる「ふき綿仕立て」がありました。ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで、裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも、ふっくらと柔らかな美しいラインが出て、重厚な感じや着物の豪華さを引き立てます。このため、武家や富裕な商家の女性に好まれていました。ふきの分量は流行で変化もあり、江戸時代中期には1寸以上の幅や厚みを持つものもあったといいます。時代が下ると庶民にも広がり、明治~昭和初期にはふき綿入りの晴れ着も一般的になりましたが、現在は花嫁衣裳や舞台衣装などに残るのみです。●月代(さかやき)を野郎帽子で隠している。江戸時代、野郎歌舞伎の女形の役者が、前髪をそったあとを隠すために置き手拭(てぬぐ)いをしたのが変化し、帽子のようになったもの。多く紫縮緬(ちりめん)などで作った。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦2■■夢かさね 着物始末暦3■■雪とけ柳 着物始末暦4■★妄想劇場★千吉女装をして、当時の「ゲイ」の人や、金持ちマダムに貢がせる。その美しさで人を惑わせる。そんな千吉役には、三浦春馬!!以外にない。しかも、三浦春馬は、ミュージカル・「キンキーブーツ」でドラッグ・クイーンの役!!★始末屋・余一着物の染み抜き、洗いや染めとなんでもこなす着物の始末屋・余一は、職人としての腕もよく、若くて男前なのだが、人と深く関わろうとしない。そんな余一役に、■清原翔人(カート)、■さんが、決定!!関係者は、「余一が歩いてきた!!と思った」と言っている人も(私。)なお、あだ名は、アプリ君と言います。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.27
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■泥の河■『泥の河』戦後間もない大阪の中之島を下って流れる土佐堀川の橋のたもとにあるしがない食堂の子の信雄とその対岸に停泊している船宿の子のきっちゃんのはかなく短い交流を描いた物語だ。濁ったヘドロの埃様の臭気が立ち昇って来る川縁。少し年上のお姉ちゃんへの憧憬と、大人の女性への興味。臭いと匂いは混然一体となり、読者を陶然とさせる。 映画で見た■泥の河■の原作がこの小説。水上生活者、荷馬車、屑鉄に値打ちを見出す少年、そして泥の河・・・と昭和30年代初めの大阪が描かれている。しかしこの数年後に日本の経済は大きく変わり、生活もがらりと変わる。水上生活者はいなくなり、荷馬車はトラックにかわる。大阪で過ごした者でなくても、この頃の時代の変化は分かり、それゆえ、ここで描かれている物語が郷愁を誘うのだ。●メモ● ◎私のメモ◎●湊橋のたもとから細い道が落ちていた。そてはかつてそこになかったもので、舟に住む少年の一家が作ったに違いなかった。◎この頃はまだ、土佐堀川の岸辺は、土で出来ていたのだと思う。◎最後少年が舟を追いかける場面に心が締め付けられた。1977年太宰治賞を受賞した小説。■湊橋 (土佐堀川)■湊橋(みなとばし)は、大阪市北区中之島6丁目と大阪市西区土佐堀3丁目を結ぶ、土佐堀川(旧淀川)に架かる新なにわ筋の橋。昭和15年に架け替えられた際、橋の位置は、上船津橋と直線でつながるように決められた。「泥の河」の冒頭。堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋がかかっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である。藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろ渡っている。「泥の河」の石碑。湊橋の南詰めには作家、宮本輝のデビュー作、「泥の河」の一節が刻まれている石碑がある。かつて橋のたもとには宮本の父親が営んでいた中華料理店があり、宮本も9歳まで同地で過ごした。 「泥の河」はその時の体験を元に書かれたもので、物語の中には「湊橋」の地名も登場する。■「泥の河記念碑建立■■泥の河■■「泥の河」の舞台・湊橋■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.19
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■女系家族(下)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)長女藤代は踊りの師匠の梅村を相談相手にして、遺産相続を自分に有利にしようと画策する。それまでの慎ましやかだった性格からは想像できないきつい態度にでる次女の千寿。そこに番頭の思惑と、妾文乃が妊娠していた事実がからまって泥沼の様相を深めてゆく。だが、嘉蔵が生前周到に準備していた「胎児の事前認知」という驚天動地の方法によって金の亡者たちの野望に断が下される。■女系家族(にょけいかぞく)(上)■●読書メモ●●戦前は長子相続ということが法律で決まっていて、その家の棟木(むなぎ)の上から竈下(かまどした)の灰まで相続できるけど、長子以外は、竈の灰の一握りしか相続でけへんことになってたのやさかい・・・(略)。●「・・・略。ただ、幼(ちいさ)い時から、女が権力と財力を握っている家に育ち、そうしたものの力が男を支配している姿を見てきたさかい、無意識のうちに私の心の中にも、そうすることが当たり前のような考えがあって、あるが上にも財力を持ちたがるのかもしれまへんわ」◎あるが上にもなぜ遺産を求めるのかという問に、長女・藤代の答。●宇一の胸の中で、荷解きの縄を爪で解かず、鋏で切ったのを、「お前らの爪は無料(ただ)で生えるけど、荷造りの縄は無料(ただ)で売ってへん」と口汚く罵られながら、師走の風の中で、血が滲んだ爪先で荷解きをさせられた丁稚時代の苦しさと・・・(略)。◎番頭の宇一は、丁稚時代の長年の怨念のような気持から、主家の財産をちょろまかすことを正当化。●・・・大川沿いのかき船「末広」で会う約束をしたのだった。堂島中町から樋之上(ひのうえ)町に出、天神橋を渡って南詰めで車を降り、・・・(略)■天神橋■(☝天神橋南詰)橋詰の石段をとんとんと下りると、昔ながらの面影を残している古びたかき船が岸に繋がれている。●大阪の街中で、そんなすっきりした気分と風情を味わえるところいいましたら、川べりのかき船座敷ということになりますけど、こんな処(ところ)も追々埋め立てられて、大阪の川筋の風情が失(の)うなって行くようでおます。◎「女系家族」は昭和34(1959)年の設定。長堀川の埋め立て開始が1960年(昭和35年):西横堀川交点より上流の埋め立てが開始される。■長堀川■1962年(昭和37年) 埋立。■西横堀川■「女系家族」の後、急速に大阪の街の景色が変わった。●丸髷に腰巻のような赤いたっつけ袴をはき、子供を膝に抱えた種貸し人形が・・・(略)。◎たっつけ袴(裁着袴)とは、ズボン状に股が割れていて活動しやすく、膝下部分に脚絆(きゃはん)を縫い付けてあるような形状になっていて、立ち振る舞いが軽快なのが特徴です。 たっつけ袴は、主に武士が用いていましたが、活動しやすく歩行に便利なところから、きこりや猟師、職人や踊りの役者など民間にも広まりました。■たっつけ袴■■住吉大社■●宇一は、渓流の岩場で洗濯物を足で踏みつけている女の姿をもの珍しげに眺め・・・(略)。■奥津温泉 名物「足踏み洗濯」■■足踏み洗濯は、■その昔、住民がクマやオオカミから身を守るため、見張りしやすいよう立って洗濯したのが始まりとされている風習。昭和55年、地元で保存会を発足し、温泉客用に実演を続けている。●わての若い頃には、、亡くなりはった姉さんと二人、両親や御祖母さんに連れられ、秋は嵯峨野のお月見と高雄の紅葉狩り、春は吉野の桜見などと、四季の楽しみごとを催し、それが老舗の矢島家らしいたしなみでおましたさかい、・・・(略)。◎■細雪■にも四姉妹と次女の夫・娘とで京都に花見に行くシーンがある。●納戸色◎■納戸色■藍染めの一つで、緑色を帯びた青色。江戸城内の、納戸の垂れ幕やふろしきに用いられた。●ねそ■「ねそ」■は近世の関西地方で「のろま」をいう語) ふだんはのろまで鈍重な人間に限って、思いも寄らぬ大事件を引き起こすことをいう。◎長女・藤代が次女・千寿に「『ねそ』が『こそ』する」と言う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.16
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■雪とけ柳 着物始末暦4■【内容情報】(「BOOK」データベースより)「井筒屋で配られている引き札を、五枚集めたら高価な絹のしごきが貰えるぞ!」「どうやら井筒屋は、配ったしごきの色で美人番付をしているらしいぞ!!」正月早々、江戸の町では開店したばかりの老舗呉服問屋、井筒屋江戸店の噂で持ちきりだ。しかし、巷を賑わす話の裏には、実は隠された陰謀があった…。井筒屋の真の“狙い”とはいったい何なのか!?着物の始末屋・余一が、一膳飯屋のお糸と共にその真相に迫るがー。着物の汚れも、市井の悩みも綺麗に始末する!!大人気シリーズ、待望の第四弾!!【目次】(「BOOK」データベースより)禁色/歳月の実/雪とけ柳/絹の毒●読書メモ●●四枚肩(しまいがた)三人一組(一人は交替要員)で担ぐ場合を三枚肩(さんまいがた)、四人一組(一つの駕籠を四人同時に担ぐか、二人で担いで残りは交替要員)で担ぐものを四枚肩(しまいがた)と呼んだ。さらに八人で交替に担ぐものは、八枚肩(はちまいがた)、あるいは八人肩(はちにんがた)と呼ばれた。 ●如月(きさらぎ)とは「生更木(きさらぎ)」、つまり「木が生えてくる」という意味らしい。もっとも、余一は「寒くてきものを重ねるから『着更着』と言い張るが。■如月■●・・・(略)「おきやあがれ」とそっぽを向いた。◎江戸言葉。相手の言動を強く打ち消すのに用いる語。やめてくれ。いいかげんにしろ。よせやい。『放って措け(措いてくれ)』といった意味。●蝙蝠柄(こうもりがら)■文様になったのは中国の影響が大きいと思われます。■吉祥を表す文字と発音や意味が同じものを大事にする中国では、蝠と福は同義語です。福を呼ぶものとして、蝙蝠の絵柄は今でも陶磁器等にみられます。日本でも江戸後期、七代目市川団十郎が家紋にしたり染め柄にしたりして大流行し、浴衣、絣、小紋などの意匠にされました。現代ではあまり用いられない文様ですが、忌み柄ではありません。 この他、古典的な柄の名前が沢山出てくる。毎回、本の最後に、柄の説明があるので面白い。●妄想劇場・配役発表!!●★始末屋・余一着物の染み抜き、洗いや染めとなんでもこなす着物の始末屋・余一は、職人としての腕もよく、若くて男前なのだが、人と深く関わろうとしない。そんな余一役に、■清原翔人(カート)、■さんが、決定!!関係者は、「余一が歩いてきた!!と思った」と言っている人も(私。)なお、あだ名は、アプリ君と言います。■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦2■■夢かさね 着物始末暦3■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.13
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■女系家族(にょけいかぞく)(上)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)大阪・船場の老舗矢島家は代々跡継ぎ娘に養子婿をとる女系の家筋。その四代目嘉蔵が亡くなって、出もどりの長女藤代、養子婿をむかえた次女千寿、料理教室にかよう三女雛子をはじめ親戚一同の前で、番頭の宇市が遺言書を読み上げる。そこには莫大な遺産の配分方法ばかりでなく、嘉蔵の隠し女の事まで認められていた。…遺産相続争いを通し人間のエゴと欲望を赤裸々に抉る長編小説。■花のれん■【著者情報】(「BOOK」データベースより)山崎豊子(ヤマサキトヨコ)1924(大正13)年、大阪市生れ。京都女子大国文科卒。毎日新聞社学芸部に勤務。当時、学芸部副部長であった井上靖のもとで記者としての訓練を受ける。勤務のかたわら小説を書きはじめ、’57(昭和32)年『暖簾』を刊行。翌年、『花のれん』により直木賞を受賞。新聞社を退社して作家生活に入る。’63年より連載をはじめた『白い巨塔』は鋭い社会性で話題を呼んだ。『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』の戦争3部作の後、大作『沈まぬ太陽』を発表。’91(平成3)年、菊池寛賞受賞。 初期の山崎作品には、船場を舞台にしたものが多い。それもそのはず、彼女は、船場に代々続く老舗のお嬢さん(とうはん)。生家の昆布屋をモデルに、親子二代の船場商人を主人公とした『暖簾』を刊行して作家デビュー。この作品の時代は昭和30年代。しかし、もっと前のような気がするくらい、使われる言葉や着物、しきたりが古めかしい。 ●読書メモ●●忌髷(きまげ)古めかしい黒元結いの忌髷(葬儀及び忌中に結う髪型)に結い上げ・・・(略)。●白無垢縮緬の喪服を脱いで、黒の喪服に着替えた。白無垢は、葬儀の、黒の喪服は葬儀の後の精進揚の供養膳のたを勤めるため・・・。●大阪格子*■大阪格子は■主に商店の帳場と奥の間との境に用いられ、どっしりと重量感があって老舗にふさわしい建具である。●矢島家では昔から、一番上の姉が大嬢(おおいと)さん、中が中嬢(なかいと)さん、一番末が小嬢(こい)さんと呼び慣わす習慣があった・・・(略)。●大阪・伏見町、高麗橋は、大阪の名の通った骨董商が多い所。●老舗の遺産分けのお道具調べの時には、(骨董商は)紋付で・・・(略)。●ねそ■「ねそ」■は近世の関西地方で「のろま」をいう語) ふだんはのろまで鈍重な人間に限って、思いも寄らぬ大事件を引き起こすことをいう。●妾の本宅伺い。*草履は許されず、下駄ばき。*妾は本宅の仏壇を拝めない。*本宅伺いには羽織は許されず、羽織ってきても、店先で脱いで入る。*本宅伺いのお為は、桐箱入りの絹一匹と定まっていた。 (■お為とは■お盆を使わずに出すお為は、下目のものに遣わす駄賃替わりの意味。*妾の本宅伺いの出しものは、お番茶一杯に限られていた。●しし(小便)◎■おしっこ■「お」+「し」+「っこ」「お」は接頭語の御を意味し、美化語の表現である。「し」は、小便を表わす江戸時代の女性言葉「しし」あるいは「しーしー」に由来するとされている。「っこ」は、接尾語の「こ」で、何かをする、行為を表わすもの。「かけっこ」「にらめっこ」などと同様である。しし、しーしーが転じて「しっこ」となり、それに「お」が冠されて「おしっこ」になったと見られる。◎昭和30年代なのに、登場人物の普段着は着物。家にいる時も、遺産の山の確認に行くときも、着物に草履。仕出し屋で弁当を作らせて雅な五段重に入れて、車で行く。■「細雪」■と時代は同じだが、「細雪」は、モダンな阪神間を舞台にしている分、明るく軽い感じで「女系家族」の方が重々しい。◎タイトル「女系家族」は、「にょけい」のルビが振ってある。■山崎さんの船場貴族■かつて栄華を誇った船場豪商のえげつない女系家族とすさまじいの相続争いを筆者らしい緻密な構成で展開。一気に読めます。船場貴族の世界をよくぞここまで、いやはやすごい作家だなあと脱帽です。彼女が知り尽くした「えげつない」世界をここまで緻密にコミカルに、小気味よい皮肉を交えて描けるのは彼女ならでは。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.11
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■夢かさね 着物始末暦3■【内容情報】(「BOOK」データベースより)柳原の床店で、六助はいつものように古着を扱っていた。そこへ見るからに様子のおかしい男が、風呂敷を抱えてやって来た。経験上関わらないと決めた六助だったが、隣店の長吉がその男に話しかけてしまう。男は女ものの藍染めの袷を、いくらでもいいから引き取って欲しいというのだ。傷みもなく真新しい袷、そして落ち着きのない男の様子からして、何か後ろ暗い事情があるはずと睨んだ六助。袷の出所を問い詰めると、男は踵を返して駆けだした。残された袷の持ち主を探るべく六助は、着物始末屋・余一の元に向かったがー(「菊とうさぎ」より)。話題沸騰のシリーズ、待望の第三弾!! 【目次】(「BOOK」データベースより)菊とうさぎ/星花火/面影のいろ/夢かさね●読書メモ●●古着の下がった竹馬を担いで往来を行き来・・・。■見世を持たない古着屋さんもいて■、この商人は「竹馬古着屋」と呼ばれました。竹で作った四つ足のハンガーラック(?)を、天秤棒の前後に一つずつ付けています。その竹で出来たハンガーラック様の展示器具が、四つ足で馬の様に見えるのが、「竹馬古着屋」の呼び名の由来です。竹馬古着屋さんは、前後それぞれのハンガーラックに古着や、古着を解いて、襟(えり)や裡(うら)の部分だけにした端切れなどを、ぶら下げて、町内をり、商いをします。落語に登場する様な、貧乏長屋の連中でも、お金がある時は、古着一着を丸ごと買いますし、お金があまりない時は、端切れを購入して、現在着ている着物の破れや穴に継ぎをして、補修します。 天保頃(1830~44)までは、江戸だけにある商売で、京阪にはなかったのですが、天保以降は、京阪にもごく少数ですが、この商売を行う人が出てきました。 ●「上方者(ぜえろく)の仕事かよ。」江戸っ子が上方(かみがた)の人をけなしていったことば。上方贅六という。もともと人をののしって毛才六(けざいろく)(青二才(あおにさい)ということがあり、その才六が江戸っ子ことばでゼエロクとなり、擬人化されたといわれる。才六はばか、あほう、つまらぬ者の意。1811年(文化8)に刊行された『客者評判記』には、「上方の才六めらと倶一(ぐいち)にされちゃアお蔭(かげ)がねへ」などとある。関西が長い文化の伝統をもっているのに対して、江戸は新興都市であったから、コンプレックスの裏返しの心理とみることができよう。贅はよけいなものの意であり、六も宿六(やどろく)、甚六(じんろく)などのように、あまり役にたたない者に対して、卑しむ気持ちを表現したことばである。[井之口章次]◎「ろくでなし」という言葉がある。●「うさぎ柄」。うさぎは前にしか進まないので縁起がいいとか、月のお使いだから「ツキを呼ぶ」とか言われている。●若旦那のお仕着せは、紺の上田縞。●噂によると越後屋には八百名近い奉公人がいるらしい。そこへ大勢の客が詰めかけ、思い思いのことを言う。その騒ぎたるや凄まじく「駿河町 畳の上の 人通り」と川柳にも詠まれるほどだ。●大隅屋の当主は代々「孫兵衛」を名乗ることになっている。それは初代への敬意というより、「この身代は先祖からの預かりものだ」と肝に銘じているためだったのか。●大店(おおだな)の主人の妻を「御新造(ごしんぞ)」というのは「迎えるために屋敷を新築するから」だそうで・・・(略)■しのぶ梅 着物始末暦■■藍の糸 着物始末暦2■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.04.02
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■藍の糸 着物始末暦2■【内容情報】(「BOOK」データベースより)呉服太物問屋の若旦那・綾太郎は、着物の染み抜きなどをなんでもこなす着物始末屋・余一のもとへ打掛の始末を頼んだ。毛嫌いする余一を困らせようと、生地が弱りすり切れた打掛を渡したのだが、その仕上がりは非の打ちどころのない出来栄えだった。余一に対して、何としても一泡吹かせたいと願う綾太郎。そんなある日、彼は古着屋の六助を伴い、余一に想いを寄せるお糸の飯屋を訪れた。血の気が多い職人や人足などの男達を前に、てきぱきと働くお糸を見て、綾太郎は彼女に惹かれはじめるがー(「藍の糸」より)。大好評、連作短篇時代小説。待望の第二弾!! 【目次】(「BOOK」データベースより)藍の糸/魂結び/表と裏/恋接ぎ【著者情報】(「BOOK」データベースより)中島要(ナカジマカナメ)早稲田大学教育学部卒業。2008年、「素見(ひやかし)」で第二回小説宝石新人賞を受賞。若き町医者を描いた初長編『刀圭』でデビュー。受賞作を含む短編集『ひやかし』を刊行(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ■「着物始末暦 しのぶ梅」■に続く、シリーズ第二弾。●読書メモ●●一口に「藍染」と言っても、染める回数と時間によって色合いは異なる。甕覗(かめのぞき)、水浅葱、納戸(なんど)、縹(はなだ)、紺・・・名前が変わるに従って、色がだんだん濃く青くなる。●藍染は染めれば染めるほど、色が濃く、生地が丈夫になる。だから仕事で使うには紺がいいのだ(略)。「藍染は切り傷の血止めになるし、まむし除けや虫よけにもなる。丈夫な上に火にも強いから火消しの袢纏も藍染だが、どれも決まって紺色だ。」●「八百善の料理切手」八百膳は江戸で指折りの料亭で、そこの料理切手はかさばらない進物としてお武家や大店の主人に人気がある。●風流人が多く住む根岸は江戸のはずれに位置している。■根岸の里(現・台東区根岸)は■江戸時代、ウグイス初啼きの名所であり、自然の趣き豊かな地として多くの風流人が別荘を建てて住んでいたそうです。■根岸の里は■「江戸名所図会」には「呉竹の根岸の里は上野の山陰にして幽趣あるが故にや。都下の遊人多くはここに隠棲す」とあり、画人として有名な酒井抱一は文化6年(1809)から下根岸の雨華庵に住んだ。「山茶花や根岸は同じ垣つづき」の句があり、根岸紅と称する山茶花があった。天保6年(1835)には文人だけでも30名を超えたという。だが、天保12年(1841)1月5日の火事で縦四町、横七町が焼亡した。その後天保改革で武士・町人の百姓地居住が禁止され、一時は原野のように寂れたという。●百徳きもの「子供の無事な成長を祈って、他所(よそ)の家から端切れをもらってきものを作るんでさ。百軒から集めるんで百徳とか、百接(ひゃくつなぎ)とかいうらしい。」◎百接ぎ,百徳着物,百所きもの,百軒衣装◎などと地方によってさまざまに呼ばれています。 これは,『百軒からもらい集めた布で着物を縫って,子供が丈夫に育つのを祈る。』『子宝に恵まれますように願ってお寺に奉納する。』と言い,布が貴重であった時代の着物と結びついた信仰によるものです。 昔は,布が高価でしたから,「小豆三粒ほど包める布は捨てるな」と戒めあって,誰もがいとおしむように小さな布片をも捨てずに,大切に残しておきました。長寿の人,徳のある年寄りの人,健康な人,親切な親戚の家々などから小裂をもらい受け,その方の徳が授かりますように,たくさんの幸せに巡り合うことができますようにと祈り,幼子の幸福を着物に託しました。端裂には人知の及ばない力が宿ると信じ,村の子供の誰もを慈しみ,子を思う気持ちを一つの着物に”寄せ”あわせたのでした。 ●背守り(略)人の顔には目があるから前を見ることができるが、あいにく背中には目がついてねぇ。代わりに背縫いの目が見守ってくれるのさ」しかし、地さな子供の着るものには肝心の背縫いがない。そこで必要のない縫い目を「背守り」として入れるのだ(略)。■背守り練習帳■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.30
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●しのぶ梅 着物始末暦●【内容情報】(「BOOK」データベースより)着物の染み抜き、洗いや染めとなんでもこなす着物の始末屋・余一は、職人としての腕もよく、若くて男前なのだが、人と深く関わろうとしない。一方、余一の古馴染みで、柳原土手の古着屋・六助は、難ありの客ばかりを連れてくる。余一の腕を認めながら、敵対心を燃やす呉服太物問屋の若旦那・綾太郎。朴念仁の余一に片思いをしている一膳飯屋の看板娘・お糸など…。市井の人々が抱える悩みを着物にまつわる思いと共に、余一が綺麗に始末する!!人情味溢れる筆致で描く、連作短篇時代小説。 大好きな■高田郁さんのお薦め!■だそうだ。【目次】(「BOOK」データベースより)めぐり咲き/散り松葉/しのぶ梅/誰が袖の四編からなっている物語。そのすべてに古着が関わっている。「きもの」をキーワードに、こんなに奥深いストーリーが展開されるとは、驚き。いろいろな、いわゆる「職人もの」は読みましたが、この手のジャンルは斬新です。 江戸時代、着物のほとんどが古着だったという。新品は、よほどの金持ちでなければ買えなかった。■「あきない世伝金と銀」■の五鈴屋も元は、古着屋(昔は古手屋といった)だった。●読書メモ●●吉原ではひとりの女と馴染みになると、他の女に手が出せない。遊廓でお客の相手になる娼妓のことを「敵娼(あいかた)」という。●悉皆屋(しっかいや)普通の女は自分の手で洗い張りや縫い直しをするものの、染み抜きや染め直しとなると、さすがに素人の手に余る。そういう仕事をよろず請け負う店のことを、上方(かみがた)では、「悉皆屋(しっかいや)」と呼ぶらしい。悉皆とは「ことごとく、すべて」という意味。●着古して褪せた黒色を俗に「羊羹色」という。●裾模様の座敷衣装に白の半襟は吉原芸者にのみ許された恰好。●着物の始末屋・余一と一膳飯屋の娘、お糸は、神田川の和泉橋、筋違橋にほど近い所に住んでいる。■筋違橋とは、現在の万世橋。■昌平橋の隣だ!!着物に関する雑学がいっぱい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.17
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■大奥づとめ■【内容情報】(出版社より)お手つきにならずとも、栄達の道ありーー。知られざる大奥の女たちを描く、江戸のお仕事小説! 己を磨きたて、美しく着飾り、上様の目にとまって寵愛を受け、子を授かるーー。それこそが本望とされてきた大奥。だが、三千人を有するとも言われた大所帯には、文書係、衣装係、日用品の差配役など様々な職種があり、仕事に生きた女たちがいた。大奥に?就職?した女たちの葛藤と情熱、苦楽を描く連作時代短編集。 【内容情報】(「BOOK」データベースより)「汚れたかた」と呼ばれたお手つきとは対照的に、色恋はそっちのけで、仕事に生きた「お清」がいた。着物の善し悪しもわからぬまま、衣装係を命じられた女。苦にしていた巨体を役立てる職を見つけた女。文書係から代表役へと、出世街道を目指す女。大奥に“就職”した女たちの情熱と苦楽を描く連作時代短編集。●読書メモ●●大奥に入ると、給与明細と大奥での名前をもらう。●正室の他に、側室がいるが、男の子を産めば「御部屋様」と呼ばれ女の子を産めば「御腹様」と呼ばれる。もちろん、「御部屋様」の方が立場が上。●大奥には、【祐筆(ゆうひつ)】という仕事がある。祐筆とは文をしたため、記録を作り、それらを整理すること。文の最後には決まって「めでたくかしく」と記する。これは宮中の女房奉書にならったもの。●【呉服の間】【呉服の間】とは、大奥の奥女中の衣装を整える役目。●【お末】【お末】の主な仕事は、掃除、洗濯、水仕事。お末の名前は、玉鬘(たまかずら)、桐壷、明石、六条、若紫、明石・・・。など「源氏物語」からつけられた。お末の仕事は、大変つらいものがあるから、せめて名前だけでも優美にと・・・。●「おの字名」と「三文字名」お美津、お克などの名前は「おの字名」。役が重くなると、「初瀬(はつせ)」、「矢島(やじま)」、「音羽(おとわ)」など「三文字名」になる習わしがある。●【御仲居(おなかい】煮炊きを取り仕切る役。そこで働く女の名前は、「お鯛」さん、「お鮎」さん、「お蛸」さんなど魚の名前がつけられた。■大奥の仕事と役職■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.03.14
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■あきない世傳金と銀(7):碧流編■【内容情報】(「BOOK」データベースより)大坂天満の呉服商「五鈴屋」の七代目店主となった幸は、亡夫との約束でもあった江戸に念願の店を出した。商いを確かなものにするために必要なのは、身近なものをよく観察し、小さな機会を逃さない「蟻の眼」。そして、大きな時代の流れを読み解き、商いに繋げる「鶚の目」。それを胸に刻み、懸命に知恵を絞る幸と奉公人たちだがー。ものの考え方も、着物に対する好みも大坂とはまるで異なる江戸で、果たして幸たちは「買うての幸い、売っての幸せ」を実現できるのか。待望のシリーズ第七弾! 今回も江戸と大坂の違いが分かって面白かった。●メモ● ◎は私の感想。●帯の巻き方が大坂と江戸では異なる。大坂では、帯の巻始めを左に置いて、左から右へ向かって身体に巻きつける。だが江戸では帯の端を右に置き、右から左へ向かっていくのだ。●大坂の風呂屋は洗い場の足元には石が敷き詰められている。江戸は板場になっている。●針供養大坂は12月8日。江戸は2月8日。●「四十八茶百鼠」て言うひとが現れるほどに、茶色も鼠色も仰山の色がありますよって、難しいところですなぁ。」●月見の枝豆大坂では、枝から外して鞘だけにして売るので「鞘豆」と言うが、江戸では枝ごと売るので「枝豆」と呼ぶ。●幟の「丑紅」の文字を認めて、ああ、と幸は頬を緩めた。老女が路上で商っているのは、寒紅だった。極寒の丑の日に買う紅は、唇の荒れを取り、美しく染まる、と言われていた。もう少し待てば、小間物屋の店先で、牛の人形を添えて売られるが、そちらは値が張る。●江戸でも大坂でも商家が店の表戸を開けるのは、明け六つ(午前六時)である。◎こんなに早いのは、照明がなく、太陽の光線を頼りにしていたからだろう。●商売繁盛は、大坂は笹、江戸は熊手。●紫草には、熱や痛みを取る力があるため、江戸紫に染めた反物は病気見舞いによく利用されるのだという。鉢巻にすれば、熱や痛みを取ると言われていた。■あきない世傳金と銀■■あきない世傳金と銀(2)■■あきない世傳金と銀(3)■■あきない世傳金と銀(4)■■あきない世傳金と銀(5)■■あきない世傳金と銀(6)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.02.13
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■好日日記■季節のように生きる。森下典子【内容情報】(「BOOK」データベースより)「二十四節気」と「茶室」を味わいながら、自分と向き合う心の旅。映画化された累計26万部のロングセラー『日日是好日』待望の続編!お茶を始めて40年、その後の著者は?【目次】(「BOOK」データベースより)冬の章ー一年のはじまり(小寒(一月五日頃)初釜の朝/大寒(一月二十日頃)冬のごちそう)/春の章(立春(二月四日頃)ひとすじの香り/雨水(二月十九日頃)遠い春 ほか)/夏の章(立夏(五月五日頃)風の潮騒/小満・一(五月二十一日頃)早苗蛍 ほか)/秋の章(立秋(八月七日頃)蝉の声/処暑(八月二十三日頃)心の時差 ほか)/ふたたび冬の章(立冬(十一月七日頃)椿よ!/小雪(十一月二十二日頃)冬の音 ほか) 映画■日日是好日(にちにちこれこうじつ)■の原作本と勘違いして図書館から借りたけど、続編だった。■「日日是好日」■●いつものようにメモ。◎は私の感想。●葉っぱよりも上に実がなるのが「千両」で、実が葉の下に下がるのが「万両。カラタチバナは「百両」で、ヤブコウジは「十両」と呼ばれる。●大寒昔の人が、この季節に「元旦」「七草」「成人式」「豆まき」と小刻みに行事をしたのは、心を紛らわし、寒さを乗り越えるためだったのかもしれない。●干支この時期(大寒)の稽古では、干支にちなんだ道具をよく見る。もちろん、初釜にも使うが、節分までは使ってよいことになっている。干支の十二支は、その年の守り神で、「この一年、災いなく元気で暮らせるように」といおう願いが込められている。(略)どれも、その動物の姿のままではなく、頓智(とんち)の利いたシンボルになっている。いつだったか、申年(さるどし)に出たお茶碗は、一見してどこにも「サル」らしい絵がみえなかった。が、裏返してお茶碗の裏を見たら底の部分が真っ赤な丸だった。「あら、お尻が赤いわ!」(略)●柳緑花紅(「りゅうりょくかこう」と音読み。訓で読むならば「やなぎはみどり、はなはくれない」。柳は花になれないし、花も柳にはなれない。「花は赤く咲けばいい、柳は緑に茂ればいい」。◎それぞれ特別な、オンリーワン。●したくない我慢と、したい我慢がある。◎分かる!!!●日本の季節は、「今しかない」ことに満ちている。あっという間に過ぎ去ってゆく。だから、私たちは、季節の中で、一瞬の「今」を生きる。●梅雨の種類。「菜種梅雨」・・・春の初め、菜の花が土手を黄色にそめる頃。「梅雨」・・・梅の実がなる頃。「すすき梅雨」・・・(秋霖=しゅうりん)秋の初め。「さざんか梅雨」・・・冬の初め。◎北海道では梅雨がないというが、梅雨の頃に長雨があると■「蝦夷梅雨」■という。●照葉(てりは=枯れ葉のついた枝)を使うのは、年末まで。年が改まったら、芽吹いた枝を使う。この本を読みながら、お茶の稽古をしたいと思った。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.02.12
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■日日是好日(にちにちこれこうじつ)■内容情報】(「BOOK」データベースより)お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。雨が匂う、雨の一粒一粒が聴こえる…季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。 真面目で理屈っぽい20歳の大学生・典子(黒木華)。おっちょこちょいな自分に嫌気がさす典子は、ある日、母親(郡山冬果)から「お茶、習ったら」と突然勧められる。意味がわからず困惑する典子だったが、同い年の従姉妹・美智子(多部未華子)からも誘われ、二人は自宅近くにある茶道教室の先生を訪ねる。その先生は大きな家にひとりで暮らし、巷で“タダモノじゃない”とうわさの武田のおばさん(樹木希林)だった。お茶の魅力に気付き、茶道を習うことで日々成長していくヒロインの姿を描く人間ドラマ。黒木華が20歳でお茶と出会い、さまざまな体験をするヒロインの10年を演じる。また、2018年9月に亡くなった樹木希林がヒロインの師匠となるお茶の先生を演じ、味わい深いドラマにエッセンスを加える。監督は『さよなら渓谷』の大森立嗣。■映画・日日是好日(にちにちこれこうじつ)■ 映画の原作を読んだ。例によって、●メモ。◎は私のコメント。●学校もお茶も、目指しているのは人の成長だ。けれども、一つ、大きくちがう。それは、学校はいつも「他人」と比べ、お茶は「きのうまでの自分」と比べることだった。●「お茶ではね、重たいものは軽々と、軽いものは重々しく、っていうのよ」。◎井上ひさしの言葉「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」点前には重きを軽く軽きをば 重く扱う味ひをしれ by千利休何にても道具扱ふたびごとに 取る手は軽く置く手重かれ by千利休●お茶室に入る時は、いつも左足から入ります。◎神社でも「左上右下」あるいは「左尊右卑」といい、手を合わせる時も、左が少し上になる。右の手を扱ふ時はわが心 左の方にあるとしるべし by千利休 ●茶室の中には、つねに低く静かに鳴りつづける音がある。「松風(まつかぜ)」という。お釜の内底に漆で鉄片が貼り付けてあり、鳴るように設計されているのだ。●お茶は、無数の面からなる多面体だ。「お茶は、むかしの暮らしの様式美だ」と言う人もいる。「日本の芸術の集大成だ」と思う人もいる。「ひたすらお点前をすることによって無をめざす美の宗教だ」と書いた人もいる。「季節を扱う暮らしの知恵の結集」「禅の一つのスタイル」・・・。◎私は、総合芸術だと思っている。掛け軸、花、茶碗、お菓子・・・はもちろん、庭や食事に至るまで美が宿っている。いや、庭や茶室の美などモノの美しさだけではなく、お茶にかかわる人の動作の優雅さなども含めて美しい。 ☚この棗(なつめ)、還暦祝いにいかが?そのこころは・・・「赤」。(⌒∇⌒)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.02.07
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■西郷札■わたしの勤める新聞社が企画した展覧会への出品資料として、宮崎支局から西郷札とその「覚書」が送られてきた。興味を抱いたわたしは覚書を筆写した。内容は以下のように始まる。 日向国佐土原生まれの士族・樋村雄吾の家は、明治の廃藩置県を受けて世禄を失った。父は後妻とその連れ子・季乃を迎える。季乃は雄吾を兄さまと言って慕ったが、雄吾は素直に感情を出せず、何となく拗ねた態度に出ていた。雄吾は西南戦争に参加したが、その間に父は死去、家は戦火で焼かれ、継母と季乃は行方知れずとなっていた。雄吾は悄然と故郷を去り、東京へ向かう。無為のうちに過ごす雄吾だったが、やがて俥(くるま)を曳く車夫として収入を得るようになる。ある夜、エリート官吏・塚村圭太郎を深川清住まで送った雄吾は、屋敷の近くで季乃の顔を発見し、動揺する…。 松本清張(マツモトセイチョウ)1909-1992。小倉市(現・北九州市小倉北区)生れ。給仕、印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。41歳で懸賞小説に応募、入選した『西郷札』が直木賞候補となり、1953(昭和28)年、『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。’58年の『点と線』は推理小説界に“社会派”の新風を生む。生涯を通じて旺盛な創作活動を展開し、その守備範囲は古代から現代まで多岐に亘った。 読みたいと思っていた「西郷札」がやっと読めた。「西郷札」の他にも、幕末から明治期の動乱の時代を描いた作品(★)が多かった。★★は、徳川時代を背景にしている。普通の作家だったら、どれも代表作と言われるような作品なのに、これらは、デビュー後数年の作品というから、さすが松本清張。「西郷札」を書いた翌年、『或る「小倉日記」伝』(これも読まねば)を書いて、芥川賞を受賞。直木賞にノミネートした作品を書いた翌年、芥川賞なのだ!!どの作品も、哀しい。★西郷札*西南戦争の際に薩軍が発行した軍票をもとに一攫千金を夢見た男とその破滅を描く。◎明治11年頃、東京から宮崎へは、東京から横浜まで汽車。横浜から郵便汽船に便乗して神戸に。そこから別の船便で瀬戸内海を西へ西へと航行する。船はあちこちに寄港してやっと臼杵(うすき)港に到着。ここから馬車また馬車に乗り継ぎ10日あまりで東京からの旅は終わった。江戸時代よりも大分早くなっている。★くるま宿「くるま」とは、人力車のことで、明治2年ごろに作られたとのこと。当初は、くるまの胴に蒔絵で、金時や児雷也や、波を描いて美麗を競ったが間もなくすたれた。★梟示抄(きょうじしょう)*江藤新平の末路を実録的に描いて、同じ権力機構内にいるものの軋轢、対照的な勝敗を浮びあがらせた。◎・・・(略)赤毛布を持たせて・・・(略)明治期に、「赤ゲット」という言葉ができたが、赤毛布が後に、赤ゲットという単語に変わる。《「ゲット」は「ブランケット」の略》〔ゲットはブランケットから〕 田舎から都会見物に来た人。お上りさん。明治初期、東京見物の旅行者が赤い毛布を羽織っていたところからいった。慣れない洋行者にもいう。 ★啾々吟(しゅうしゅうぎん)*幕末に、大名、家老、軽輩の子として同じ日に生れた三人の子供が動乱の時代に如何なる運命を辿ったかを追及した★★戦国権謀★権妻◎「権妻(ごんさい)」とは、正妻でない妻。めかけ。ごん。明治初期に用いられた語。⇔本妻。一夫一婦制が確立されるのは、明治三十一年(1898年)の民法によって・・・お妾さんは、多くの時代で日陰の身であり、何の権利も無いのが普通でしたが、これが、明治の一時期だけ、正式に認められた事があったんですね~明治三年(1870年)に制定された『新律綱領(しんりつこうりょう)』・・・これは、江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典なので、もちろん、このお妾さんの事以外にも、身分制度など様々な事が定められているわけですが、その中で、妻とお妾さん(二親等)の二人の妻の持つ事が公認されていたのです。このお妾さんは権妻(ごんさい)と呼ばれました。当時は戸籍に「権妻」を記す欄があった。★★酒井の刃傷★★二代の殉死★面貌★★恋情■(▲このような浅瀬をフォードという)■◎牛津(オックスフォード)・・・この頃は、地名も漢字。■地名にあるフォードは、■(歩いて渡れる)浅瀬を意味する。ストラトフォードは、ストラト(古英語のストリート)の浅瀬。オックスフォードという地名があるが、「牡牛の渡る浅瀬」。イギリスから帰ってから調べてみたら、日本では「洗い越し」といい方をするそうだ。★噂始末 ★白梅の香◎島根県の南西に位置する町、津和野から参勤交代で江戸へ。一行は周防(今の山口)に出て船に乗る。瀬戸内海を家紋をつけた帆をはらませ、海上百七十里を走って大坂の川口に着く。伏見までは川船、ここから京都、大津・・・と東海道を下った。三月半ばに出立して、江戸に着いたのは四月初めだった。◎鼠鳴き(ねずみなき)ねずみの鳴き声をまねて口を鳴らすこと。人を呼んだり子供をあやしたり、遊女が客を呼び入れたりするときにする。「ねずみなき」とも。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.01.23
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■田辺聖子の小倉百人一首(続)■古くから日本人に愛された望郷歌、若々しい匂いやかな恋歌、機才・頓智が人気の歌、四季の風趣を愛で静かな情感をたたえた歌ーー。王朝びとの風流と和歌のみやびを心ゆくまで堪能できる百人一首。私たち、現代人にも通じる感懐をうまくすくいあげ、千年を歌い継がれてきた魅力の本質を、ユーモラスに、そしてユニークに抽出した、楽しい百人一首入門。岡田嘉夫の斬新なイラストが美しい、一大歌絵巻、保存版! 高校時代の古典の副読本を手元に置いて、(しかも2冊)時々、読んでいるので、「百人一首」は、よく知っているつもりだった。しかし、知らないことだらけだった。改めて、田辺聖子の知識のすごさに感心した。■田辺聖子の小倉百人一首(続)■を読んで、知ったことを★箇条書きに。★三船の才ある時、藤原道長が大堰川で遊んだとき、漢詩の船、音楽の船、和歌の船と分けて、それぞれの道にすぐれた人を乗せた。大納言公任(だいなごんきんとう)は、どれにもすぐれていたので、道長は「どの船にお乗りになられるか」と聞いたという。そう聞かれるだけでも身の栄誉であろう。公任は、「では、和歌の船にしますかな」といってそこで歌を詠んだ。みんなが褒めると、「いや~、漢詩の船にすればよかった、そしてこのくらいの詩を作っていれば、名声がいっそう上がったろうに。惜しいことをした」と言ったという。また、紫式部の勤める御殿で「このあたりに若紫はいらっしゃいませんか」と声をかけられたと紫式部が日記に書いている。「あんたの小説、読ませてもらってまっせ」的なおべっかの匂う言い方だ。紫式部は、「光源氏の君もいないのに、紫の上がいるわけがないじゃないの」と思ったという。●55番 滝の音は たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ 大納言公任(だいなごん きんとう)●71番 夕されば 門田(かどた)の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に 秋風ぞ吹く 大納言経信(だいなごんつねのぶ)この人も、「三船の才」と言われた。船が岸を離れてから、やってきて、「どの船に乗りますか」と聞かれたいがために、船の時間に遅れてきたと皮肉っている。★「源氏物語」の影響。●78番 淡路島 かよふ千鳥の なく声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守 源野兼昌(みなもとのかねまさ)「源氏物語 須磨の巻」で光源氏は口ずさむ。「友千鳥 もろ声に鳴く 暁は ひとり寝ざめの 床もたのしも」群れをなして飛ぶ千鳥が、声を合わせて鳴く。それを聞けば、夜あけひとり目覚めた私も心丈夫に思われる。兼昌は、こういう背景を得て、「淡路島」の歌を作ったのであろう。●64番 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木(あじろぎ) 権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)この歌はたぶん「源氏物語」の宇治十帖の世界を暗示しているのであろう。この人の父親は、55番の公任で、「このあたりに若紫はいらっしゃいませんか」と声をかけた人。ならば、子どもの定頼も「源氏物語」を読んでいたはずだ。★藤原定家の父●83番 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうだいぶしゅんぜい)定家は、父の歌の中から、これを選んだ。定家の父は、王朝末期歌壇の大御所。定家、寂蓮(じゃくれん)、良経(よしつね)、式子内親王といった新古今調の旗手たちを指導育成した。★歌の順番●1番 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 天智天皇●2番 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 持統天皇●99番 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は 後鳥羽院●100番 ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 順徳院1番と2番、99番と100番は、共に親子。■意味はここ■■田辺聖子の小倉百人一首(上)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.01.04
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■田辺聖子の小倉百人一首(上)■内容(「BOOK」データベースより)王朝びとの風流、和歌のみやびを心ゆくまで堪能できる百人一首。私たち、現代人にも通じる感懐をうまく掬いあげ、千年を歌いつがれてきた、魅力の本質をユーモラスにユニークに抽出した、楽しい百人一首入門書、前半50首を収録。 百人一首を面白おかしく説明していている。田辺聖子の古典の知識の深さにビックリした。全部覚えておきたいところだが無理なのでメモしておく。■小倉百人一首 -一覧(歌番号順)■■4■田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人◎昔、「富士野高嶺(ふじのたかね)」さんという宝塚のスターがいた。■5■奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき 猿丸大夫◎鹿の鳴く声は情緒深いものらしく、中国で古くから詩にうたわれている。わが国の万葉集より千年以上古い「詩経」に「鹿鳴(ろくめい)」の詩がある。この歌は群臣や賓客をもてなす宴会に使われた歌らしい。(明治の鹿鳴館という命名は、ここからとられている。)鹿は「〇〇(ゆうゆう=漢字がない)」と鳴く。■16■たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む 中納言行平◎ユキヒラ鍋お粥を焚くときに使う「ゆきひら」は、中納言行平にちなむ。平たい土鍋は、昔々、塩焼という海水を煮て塩をつくっていたときの道具。塩焼の名所、須磨に住んだ行平を連想した、蓋つきの平たい土鍋をユキヒラ鍋というようになった。◎猫が行方不明になったとき、「たち別れ」の歌を三度となえると、無事もどってくるという言い伝えがある。◎NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」で水木しげるの妻が質屋に着物を持っていくとき、この歌を書いた紙を一緒に入れておくとすぐ手元に戻ると言っていた。■22■吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ 文屋康秀◎「山風を嵐というらん」は頓智。紀友則の歌に「雪ふれば 木毎に花ぞ 咲きにける いづれを梅と わきて折らまし」・・・梅の字を分析して、「木毎に花」と言いかぶせている。■39■浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 参議等◎「浅茅生(あさじゅう)」の浅は、竹が低いとか、まばらに生えているという意味で、本当は茅(ち)という。今、チガヤという・・・。私は子供の頃、このチガヤをおやつにしていた。つばなといい、万葉の頃から食べられていたそうだ。■40■しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで 平兼盛◎村上天皇の天徳四年(960)3月30日に内裏で催された歌合せの作品。この時の歌合せは後世の模範と仰がれ、以後、歌合せはこの時の盛儀にのっとることになった。■41■恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見◎「40番」の歌と同様、歌合せの作品。作者、壬生野忠美は地方の下級官吏だったが、歌の堪能を持って勅命で召されたのであった。彼は感激して任地から「田舎の装束のままにて、柿の小袴着(こばかまぎ)を今に持ちて肩に懸く」というように田舎者の格好で上京した。「40番」、「41番」は甲乙つけがたく村上天皇もどちらがいいとは言わなかった。しかし、ひそかに「しのぶれど・・・」と口ずさんだ。村上天皇は、どちらも口ずさむつもりだったが、家臣の判者が最後まで聞かず、「40番」の「しのぶれど・・・」を勝ちにした。判者は、引き分けと思っていたらしいが・・・。作者の忠見は、負けを知って、「胸ふたがりて」食べ物も喉に通らず「不食の病」になって死んだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.01.02
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■プラスチック・フリー生活■今すぐできる小さな革命これを知っても、まだペットボトルを買いますか?今、世界的に注目を集めているプラスチックごみ問題。じつは環境だけでなく、私たちの健康にも知らぬ間に害を及ぼしている。使用中に漏れ出す化学物質の作用とは? 使い続けても大丈夫? その危険性の徹底解説から、代替品を使った暮らし方のヒントまで網羅した“プラスチック・フリー”入門ガイド。簡単な6つのステップで、今すぐ8割減らせる![内容]Chapter1 まずは問題提起ーなぜ私たちは「プラスチック・フリー」に向かったか?Chapter2 スタートガイドーものすごく簡単で、最大限の効果を生む6つのアクションChapter3 われらがプラスチックの正体ープラスチックはどこから来たのか?一体何者なのか?Chapter4 日用品に潜む危険性ー身近に使われる15種類のプラスチックについてChapter5 実践編──プラスチックを追い出すーより健康的な家づくりにむけてChapter6 プラスチック・フリー生活を広める。 この本を読んで慄然とした。この本を読んでいたとき、私は病院に入院していた。病室で私が見たものは・・・。ベッドの枠、たんす、棚、テレビのイヤホーン・・・。入院食のトレー、皿、お椀、コップ、箸・・・。全て、プラスチックだった。■食器は、熱い味噌汁やご飯を入れることが多いので■熱によって化学物質が溶け出すのに・・・。愕然としながらも、病室の中でプラスチックから他の素材に変えることのできるものは、なんだろうか?と考えた。ベッドのフレームもたんすも、棚も木などの天然素材に変えることが出来る。食器は、陶器の軽いものや木のものに変えることが出来る。箸は竹がいい・・・。こうやってみると、結構変えることが出来る。変えようと思うか思わないかだ!入院したさい、アンケートを書いてと言われたがプラスチックのことを書けなかった。今すぐ、木に変えてというのではなく、まず病院に職員の教育をしてほしい。みんなの意識が変われば、変化は必ずあると思う。 一定の安全基準が満たされているから、プラスチックでもいいのだ!!という人に言いたい。■古くなったらどうしますか?■プラスチックの海洋汚染はよく聞くけど、燃やすと有害物質が出る。大気汚染となる。 数か月前に炊飯器を買って、その付属品としてついていたプラスチックのしゃもじをさっそく木のしゃもじに変えた。 無理をしなくてもいい。まず気が付くことから始めたい。図書館から借りた、この本は、プラスチック・フリー生活のガイドブックとして一家に一冊欲しい。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.12.23
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■昭和よ、■山藤章二【内容情報】(出版社より)「さらば、平成」と、惜別の思いを綴ろうとしたら、脳裏に浮かぶのは昭和の出来事ばかり。戦争、復興からバブル景気まで、著者が生きた昭和は激動の時代だった。本書では、昭和を振り返りながら、82歳のいま思うことを、一人語り調文体で自由奔放に綴る。世相・文化・芸術・社会について愉快・痛快に論じるエッセイ集。 読んでいたら、「老人は不機嫌な生き物である。」という文章に出会った。◎が私のコメント。 老人が不機嫌な理由■その1■ひとつは、働き盛りの季節を過ぎて、自分が世の中に対して、あるいは会社や家族に対して存在感が希薄になり、「居場所がない」という状態が心の重みになって消えることがないため。◎「存在感のなさ」の裏返しとして、老人がえらそうにするのを見ると腹が立つ。 理由■その2■もうひとつは、「俺の人生は何だったのだ」という反省である。こういう反省はなるべくしない方が良い。多くは世のため、人のためというより、自分のため、家族のために頑張ってきたのが正直なところであるから、あまり社会的貢献という視点に戻らない方が精神衛生上はいいのである。◎私は、人間も動物と同じだと思っている。他の動物は、何か考えながら生きているだろうか?否。彼らは、生きるために、餌を探し、餌のために動いている。人間も同じで、食べるために、生きるために働いている。 理由■その3■「変わらなくちゃいけない」という世間の空気だ。(略)こういう時代に生き残っていたかったらあなたも変われというわけだ。「変わる」ことはそんなに易しいことではない。何十年もかけてこれがいいことだと信じてきたやり方や価値観を、ガラリと帰ることなんて無理なのだ。(略)この「変わらなくちゃ」という強迫観念こそが、いま、老人たちをして「不機嫌な生き物」にしている最大の理由なのである。◎ガラケーを使っている人がスマホに変える時、最初は戸惑うかもしれない。しかし、いつかは、絶対にスマホを放せなくなるはず。また、使いもしないものを後生大事に持っている人は、変わることを恐れている人だと思う。変わることを恐れてはいけない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.12.21
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■ゲゲゲの女房■人生は・・・終わりよければ、すべてよし【内容情報】(「BOOK」データベースより)NHKの連続テレビ小説でドラマ化され、日本中に感動の輪が広がった水木しげる夫人の自伝的エッセイ。底なしに貧乏だった新婚時代、「ゲゲゲの鬼太郎」のヒットで多忙を極める夫を支えた喜びと苦悩の日々…自らを「平凡な人間」と語る著者の目に映った異能の天才の真実と、自身の人生への思いを率直に綴る。ドラマでは描かれなかった秘話も交えた感動の一冊。 NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が今、再放送されている。このドラマ、好きだったのでもう一度見ているのだけれど、昭和30年代が懐かしい。「ゲゲゲの女房」は、このドラマの原作本で水木しげるの妻が書いている。私は子供時代を過ごした昭和30年代を作者は、結婚して主婦として過ごしている。 ドラマにしろ、本にしろ貧乏がひど過ぎる。男の経済状態など、結婚する前に調べればわかるはずなのに、のんきに結婚してから分かる。そして、貧乏が分かっても実家に逃げて帰らない。 夫となった水木しげるは、猛烈に漫画を描いて働くが売れない。水木は戦争で片腕を失うが、年金が出ている。しかし、その年金は、故郷の両親にあげている。水木の都合で年金さえも使えないなんて・・・!!!他人事ながら私は怒ってしまう!!その上、兄が水木家の風呂を使う。(朝ドラで)水道代、ガス代がかかるのに・・・!! 「人生は・・・終わりよければ、すべてよし」と筆者はいうが、成功してたからよかったものを、貧乏のままだったらこうのんきになれないでばないか・・・。漫画で成功した後、両親や親などの家の世話から海外旅行までなにかとお金を使っている。家の入るお金も少ない上に、たまに妻が「最近、仕事の方はどうなの?」と聞こうものなら「『引っ込んどれ!」、「お前は、家のことだけやっとればええ」と言ってまともに答えてくれません。』私には、水木氏の考えも、それに従う妻の気持ちも分からない。私の親は、明治と大正生まれなので、水木氏の世代と私の世代は、親子ほども離れていない。なのに、このゼネレーション・ギャップは、戦後という大きな壁をはさんでいるからだろう。作者の憎めない人柄がよく出ていて、読んだ後、ほのぼのとした気持ちになった。●読書メモ●●陸路だと、(布枝=妻)の故郷)安来と(水木しげるの故郷)境港までは、米子を経由、迂回していかなければなりませんが、水路ならば、中海をはさんで目と鼻の先。明治時代の安来の米問屋さんは、境港の市場で決まる米の相場を手旗信号で伝えてもらったという逸話が残っている(略)。●水木しげるのアシスタントに、つげ義春がいた。●アシスタント志望の青年が来たが銀行員だというので、銀行員の方がいいと追い返したがその青年は「釣りキチ三平」の矢口孝雄だった。●水木しげるの母親はユニークで「産めよ増やせよ」の時代に、サンガー夫人の産児制限運動を知り実践した。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.11.16
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■続氷点(下)■心晴れぬまま大学生となった陽子は、ある日キャンパスで実母・恵子の次男・達哉と出会う。達哉は異父姉と知らぬまま、以後、陽子に直情的に近づいてくる。それをきっかけに、陽子を中心とした複雑な人間関係が白日のもとにさらされ、それぞれの罪と秘密が明らかになっていく。そして陽子が恵子と顔を合わせる日がやってくる――。人間の愛と罪と赦しをテーマに繰り広げられた壮大なストーリー、いよいよ感動の結末。■読書メモ■●この大学に、父の啓造も、徹も、北原も高木も学んだ。茅ケ崎の祖父もここの医学部の内科の教授だった。いまその大学に自分も入ったのだ。◎「この大学」とは、北海道大学。北海道大学は、今も名門だが、50年以上前は、もっと名門だっただろう。NHK朝ドラ「なつぞら」では、主人公の義理の女きょうだいが入学するというので新聞に載った。その北海道大学に、入学し、周りに多くの北大出身者がいることは、いろんな意味で恵まれていることをあらわしている。(陽子の亡くなった実父も北大出身者だった。)●「黒百合会」は伝統ある美術サークルで北大構内に多い黒百合から名をとったらしい。◎北海道旅行の際、黒百合のある場所を案内してもらった。●「ねえ、北原さん。結婚のために故郷を離れる娘さんはいても、女の人のいる街に、男の人が移ることは、あまりないでしょうね」「そりゃあそうでしょうね」「それだけでも、結婚の大変さは、男の人より女の人にあるような気がするわ」「なるほど、そうだろうなあ。女の人が結婚のために、住み慣れた街や、親きょうだいや、友人と別れて来るというのは、これは大変なことだろうなあ。問題は、その事実を男がどのように受けとめて、思いやれるかということでしょうね」◎捨てるのは、街や親きょうだい、友人だけにあらず。生まれてから慣れ親しんだ、自分の名前まで変わる。●「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならぬ」●運転台から、藤色のレースのスーツを巧みに着こなし、同色のバッグを持った女性がすらりと降り立った。(略)黒字の明石に、若葉色の絽の帯をしめながら、・・・(略)◎藤色のスーツが陽子の産みの母、恵子、黒字の明石の着物を着たのは、育ての母、夏枝。50年以上前の女性のよそゆきがしのばれる。●受話器をおいた夏枝は、三人分のバナナを用意して、応接室に戻った。◎初対面の大事な客に、バナナ・・・。当時のバナナの置かれた位置が分かる。この作品は、今から50年以上前のもので、現在と比べるとその大きな違いに、感慨深い。たとえは、文中、男性は、すぐタバコを吸う。夏は浴衣を部屋着としていた。コーヒーには、角砂糖・・・。●細やかな葉が重なり合う楓を啓造は見あげた。笹の葉といい、この楓といい、肌理(きめ)が細やかで、気持ちがやさしくなる。荒々しい自然や、あの寒さの中で育った北海道人は、幾代か後には、この関西に育つ人間とは違った人種に変わって行くように、啓造には思われた。◎風土が人間を作るというから、これは正しいかも知れない。50年前は、今より北海道と関西の差は大きかったのだろう。啓造は、京都が好きになった。●(略・・・禅の思想は)ただ、木一本、石一つでも、それがあるべくしてあり、これは欠けてもよいというものが、ひとつもないということがわかった。そしてそれらが、お互いに影響し合い、役立ち、調和している。つまり、木一本、石一つ、すべてに存在の意義があり、使命があることだけは、啓造なりにわかったような気がした。啓造は、自分をとりまく一人一人を思い浮かべた。夏枝、徹、陽子、高木、村井、辰子、由香子、順子、佐石、三井恵子、北原・・・。その中には、佐石や村井など、啓造の人生にとって現れてほしくなかった人間もある。彼らがいなければ、陽子も順子も恵子も、自分の前に現れなかったろう。◎「氷点」を読んで半世紀以上、「続氷点」には手を付けなかった。あまりに「氷点」の印象が強かったから・・・。北海道を18日間旅行し、旭川にも行って読む気になった。作者の人生にも触れたし、いろんな意味で「氷点」が完結した。■主題歌:氷点■悲しい 悲しい 考えつめての 心の底に冷たくとけずに生まれたときからあったのは氷河のような氷点よ どんなにどんなにやっても陽子の力ではとかしきれない悲しい悲しい氷点よ■氷点(上)■■氷点(下)■■続氷点(上)■■旭川「氷点」の舞台を行く。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.11.13
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■続氷点■【内容情報】(「BOOK」データベースより)自分が辻口家を不幸にした殺人犯の子であるとして、自殺をはかった陽子。一命をとりとめ、父・啓造や母・夏枝からすべてを謝罪されたが、自分が不倫の末の子であったという事実は潔癖な陽子を苦しめた。陽子は実母・恵子への憎しみを募らせていく。一方、兄・徹はその恵子に会い、彼女なりの苦しみを知ることになるー。大ベストセラー『氷点』のその後、“真実”を前に苦悩する人々を描いた珠玉のドラマ。 55年前、朝日新聞が公募した1000万円の懸賞小説、「氷点」。発表と同時に夢中になって読み、本になっても再読したが、「続」編は読んでいなかった。今回、半世紀ぶりに「氷点」を読み、「続」も読んでみようと思い読んだが、やはり、前作よりもインパクトが少ない。そんな中で、気になった所をいつものように■読書メモ■◎は、私の感想。●二人は、創成(そうせい)川の小さな石橋を渡って、公園を出た。このあたりの創成側は札幌市内を南北に縦貫する小川でその名のとおり、豊平川から引いて創られた川である。◎6月7月の北海道旅行で創成川にいった。■創成川イーストのカフェ・FAbULOUS■このカフェには行けなかったのが残念。●(お子さまランチ!)陽子は、今別れて来たばかりの子供たちを思った。あの子供たちの何人が、父母につれられてお子さまランチを食べたことがあるのだろうか。恐らく一度も、そんな経験を持たずに、おとなになってしまうのではあるまいか。(お子さま)陽子は胸の中でつぶやいた。ここにいるのはお子さまで、育児園にいるのはお子さまではないのか。●四人は植物園に入った。四万一千坪といわれるこの植物園は、街の真ん中にあるとは思えない静けさだった。あちこちに人の憩う、広い芝生をかこんで、道が左右に別れている。その道はさらに別れて、何百年もの樹齢を保つ木立や、深い草藪の中にかくれていく。◎植物園は札幌の宝だ。 ●「・・・この西瓜、終わり初物かも知れませんよ。」◎「終わり初物」という言い方、初めて知った。野菜や果物で、多く出回る時期が過ぎてから成熟したものを、初物と同様に珍重していう語。穏座(おんざ)初物。末の初物。■氷点(上)■■氷点(下)■■旭川「氷点」の舞台を行く。■ テレビで再放送されていた「ゲゲゲの女房」を見ていたら「氷点」の話がでていた!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.11.12
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■渦(うず) 妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん) 魂結び(たまむすび)■虚実の渦を作り出した、もう一人の近松がいた──江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章(のちの半二)。末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、竹本座に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。父からもらった近松門左衛門の硯に導かれるように物書きの世界に入ったが、弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった……。著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した奇蹟の芸術小説。筆の先から墨がしたたる。やがて、わしが文字になって溶けていく── 図書館で借りた「渦(うず) 妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん) 魂結び(たまむすび)」を読んだ。古(いにしえ)の神代の昔 山跡(やまあと)の、国は都の始めにて、妹背の始め、山々の、中を流るる吉野川、塵も芥(あくた)も花の山、実(げ)に世に遊ぶ歌人(うたびと)の言の葉(ことのは)草の捨て所人形浄瑠璃のことは、まったく知らないが面白かった。読みながらドラマ化や道頓堀のことを考えた、いや妄想した。まず、ドラマについて。★■主人公・近松半二■。竹本座で浄瑠璃の本を書いている(実在の人物)。*青木崇高(あおき むねたか)さんに決定!!大阪出身なので関西弁も使えるし、年齢的にもいいし、かつての役で見た雰囲気も半二にぴったり。■ちかえもん■★■並木正三(しょうざ)■「浄瑠璃に(近松)門左衛門、歌舞伎に(並木)正三」と讃えられる実在の人物。半二の幼馴染で弟弟子だったが、歌舞伎の本を書くようになった。回り舞台を発明して、みんなをぎょととさせる才能に溢れている。*菅田将暉さんでいかがか。★半二の父・穂積以貫(いかん)儒学者・私塾を開いている浄瑠璃狂い。*50代の俳優を探している。★母・絹半二の父・穂積以貫(いかん)の妻。口うるさく、暴力的でもある。*尾野真千子さんでお願いします。★半二の妻・お佐久気が利いて、優しく、おおらか。貧しい家計を惣菜を売って助ける。*30代の女優さん、募集中!!★人形遣い・吉田文三郎半二に脚本を書くように言った人で、憑りつかれたように、浄瑠璃愛が深い。*50代から60代の俳優。★お三輪半二の作った物語の中の女。この物語の語り部になったらいいと思う。★近松門在衛門いわずとしれた浄瑠璃の大作家。半二が生まれる前に死んでいるが、人形浄瑠璃が盛んな時代を思い出すというシーンで登場。もちろん、「曽根崎心中」もドラマの中でやる。★歌舞伎役者役。*イケメン枠使用して、歌舞伎役者役を三浦春馬さんに是非!!(⌒∇⌒)■あきない世伝金と銀■という小説の中に、呉服を営む五鈴屋が人形浄瑠璃で呉服を売ろうとするところがある。五鈴屋の若い御寮さん、幸は、浄瑠璃の人形に自分の店の着物を着せるというアイデアを思いつく。そして、自分も人形と同じ着物を着て道頓堀の小屋の前を歩く・・・。このシーン、絶対に取り入れたい!!また、五鈴屋の長男の嫁・菊栄が離縁後も幸と会うが、これも道頓堀。なので、これも是非、入れたい!!■あきない世伝金と銀(3)■道頓堀川には幾艘もの船が浮かび、川端に軒を連ねた茶屋へと棹を寄せている。川の南側、立慶町や吉左衛門町の通りに並ぶ芝居小屋からは、離れていてさえ、三味の音や呼び込みの声、芝居小屋の殷賑が耳に届いた。その賑わいに誘われるように、着飾った老若男女が道を急ぐ。(略)■太座衛門橋■で川南に渡れば、角には「角の芝居」の幟を立てた芝居小屋、雑踏に紛れて西に進めば、今度は「中の芝居」の幟。その先、戎橋に近いところに「筑後屋」があった。●道頓堀は、芝居小屋など演芸のまちにすべきだ。しかも、外見を昔と同じようにすること。入らなくても、外から見るだけでも楽しい。●歌舞伎小屋を道頓堀に置く●人形浄瑠璃の小屋も道頓堀に。●映画館では、過去と現在の名画(英語)の上映館をつくる。客席は100名くらいの大きさで4スクリーン。英語は、外国の人も見るから。観光客だけでなく、普通に使う映画館で、私も行きたい。●河内音頭、芝居の常設館をおき、合間に漫才、落語を入れる。午前中は、安来節など。(このアイデアは、かつて吉本がやっていた。)●歌舞伎役者は、船乗り込み。(道頓堀から船で来る)●大衆演劇の小屋も必要。 嗚呼、妄想が止まらない。(⌒∇⌒)■ブラタモリ・大阪ミナミ編■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.10.29
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■あきない世傳金と銀(六)■【内容情報】(「BOOK」データベースより)大坂天満の互服商「五鈴屋」は、天災や大不況など度重なる危機を乗り越え、江戸進出に向けて慎重に準備を進めていた。その最中、六代目店主の智蔵が病に倒れてしまう。女房の幸は、智蔵との約束を果たすべく立ち上がった。「女名前禁止」の掟のもと、幸は如何にして五鈴屋の暖簾を守り抜くのか。果たして、商習慣もひとの気質もまるで違う江戸で「買うての幸い、売っての幸せ」を根付かせたい、との願いは叶えられるのか。新たな展開とともに商いの本流に迫る、大人気シリーズ待望の第六弾! 「あきない世傳金と銀(六)」の表紙を見てびっくり!なんと主人公・幸がスゲの笠を手に旅支度、帯が前帯ではない!!■大河ドラマ「西郷どん」にみる「アホバカ」と前帯■大坂の天満から江戸の出る途中の姿だった。でも、半分以上は、天満の暮らしで江戸に出てきても開店の用意に忙しく、店が開いたのは、数ページ。 江戸時代の大坂では、女の名前で商売は出来なかった。子どももいない幸は、足掛け3年という期限付きで、店主になる。●メモ●●定六(じょうろく)江戸と大坂を六日間でつなぐ飛脚。歩けば半月はゆうにかかる距離を六日で駆け通す。ゆえに、銀二匁(もんめ)ほどかかるのだ。●大坂では、温(ぬく)ご飯は、昼餉と決まっていた。江戸では、朝に一日分のご飯を炊いてしまう。●大坂の商家では「買い味噌は家の恥」江戸では、いる分だけ味噌屋に買いに行く。●さいはらい幸たちは、江戸にきて初めて「はたき」を見た。当時は、「さいはらい」と呼ばれていた。 「江戸時代のなかば過ぎころから使われ始めたもので、当時は采払いとか塵払いとよんでいた。」と記されています。また、『日本史小百科17 家具』(小泉和子著 近藤出版社発行 昭和55年刊行 210-N77-17)の「箒」の項に、「なお、現在では箒というとはたきということになっているが、はたきの方は箒と違って比較的新しい。江戸時代になって使われるようになったもので、当時はさいはらいといっていた。」と書かれています。更に、『日本を知る事典』(大島建彦他編 社会思想社発行 昭和63年刊行 380-O77 )の「はたき」の項では、「江戸時代から絹・紙などをさいて小竹に結びつけたものを、サイハライと呼んで塵払いに使用していた。」とあります。 今回も小説の中に、物売りの声が聞こえる。♪とんとん、とんがらしとんがらしの 根引きよぅ 「唐辛子売り」♪枇杷ぁ 枇杷の実ぃ甘い 甘い 枇杷ぁ しじみぃ しじみよっしんじみい しんじみよっ●天満名物、天満の大こーん皮のうすーい、甘い、甘い大こーん 大根売りの声は■あきない世傳金と銀(4)■より。■あきない世傳金と銀■■あきない世傳金と銀(2)■■あきない世傳金と銀(3)■■あきない世傳金と銀(4)■■あきない世傳金と銀(5)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.10.11
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■氷点(下)■海難事故で出会った宣教師の行為に心打たれた辻口は、キリスト教に惹かれていく。しかし夏枝を許せず、陽子への愛情も生まれない。夏枝は陽子に気づかれないように冷たい仕打ちを続けている。兄・徹は陽子に愛情をそそぐが、思いを自制するために友人・北原に陽子を紹介した。北原と陽子は心通わせるが、夏枝は複雑な嫉妬心から、2人に陽子の出生の秘密をぶちまけてしまう。人間の愛と罪と赦しに真正面から向き合う不朽の名作。「氷点(上)」に続き、「(下)」も一気に読んだ。■読書メモ■◎は私のメモ。●雪虫がとぶころになった。◎この虫の呼び名としては、他に綿虫、東京地域のオオワタやシーラッコ、シロコババ、京都地域の白子屋お駒はん、伊勢地域のオナツコジョロ、水戸地域のオユキコジョロがある他、ユキンコ、しろばんばといった俗称もある。小説『しろばんば』のタイトルは、この虫の中に由来する。 ●・・・へらからい目にあった・・・◎へらからい:北海道の方言)エグい、つらい、いやな●啓造はひさしぶりに近くの石狩川の堤防に立った。夕焼けをうつした石狩川がうつくしかった。みどりいろの弧をえがいた旭橋の向こうに遠い山脈がうすむらさきの線をくっきりとみせていた。土手下の公園の中には早くも灯がついた。●「ここがアイヌの墓地だよ。旭川に住んでいる以上、一度は陽子に見せたかったのだがね」丘の上で車をとめて、降りたつと、そこはただの松の林のようであった。火山灰地の道に敬造と陽子の靴がたちまちよごれた。(略)墓地といっても、和人のそれのように「何々家」と境したものではなく、エンジュの木で造った墓標がつつましくひっそりと、並んでいるだけであった。それはいかにも死者がねむっている静かなかんじだった。死んでまで貧富の差がはっきりしている和人の墓地のような傲慢な墓はない。「まあ、何てよい墓地なんでしょう」陽子は啓造をみあげた。「このごろはここにも石の墓が入ってきたがね。いいだろう?この世の富にも地位にもすべて縁を切ったつつましさがいいだろう?」「本当ね、おとうさん。このキネ型と、とがったペーパーナイフのような型とどうちがうのかしら」陽子は小さなキネ型の墓標の前に立った。「テキシラン」という名が刻まれている。「ああ、それは女だよ。とがっている方が男だよ。この木は百年はくさらないものだそうだがね」(略)「元アイヌの人たちは、一度死人を葬るとその墓に近づかなかったらしいがね。和人の墓参りの風習が、アイヌの人たちに入っていったのだろうね」(略)明治38年には一万坪だったアイヌの墓地が、今は950坪にへらされた(略)●「おとうさんが小学校のころは、零下20度になるとドンと花火があがって10時はじまりだったんですって」●ナナカマド◎作品の中に、ナナカマドという木がよく出てくるが、旭川市の木だそうだ。■笑点■という番組は、「氷点」からのシャレで名づけられた。「氷点」は、発表せれるやいなや、映画、テレビと大ブーム。「キサクな雑貨店の主婦」だった三浦綾子は、一夜にして有名人に!手にした一千万円は、13年間の闘病生活で金銭的に支えてくれた親に返したそうだ。■旭川「氷点」の舞台を行く。■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.10.09
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■氷点(上)■三浦綾子■【内容情報】■(「BOOK」データベースより)辻口病院長夫人・夏枝が青年医師・村井と逢い引きしている間に、3歳の娘ルリ子は殺害された。「汝の敵を愛せよ」という聖書の教えと妻への復讐心から、辻口は極秘に犯人の娘・陽子を養子に迎える。何も知らない夏枝と長男・徹に愛され、すくすくと育つ陽子。やがて、辻口の行いに気づくことになった夏枝は、激しい憎しみと苦しさから、陽子の喉に手をかけたー。愛と罪と赦しをテーマにした著者の代表作であるロングセラー。■概要■1963年に朝日新聞社が、大阪本社創刊85年、東京本社創刊75周年を記念する事業として懸賞小説を募集した時の入選作品である。賞金は当時としては破格の1000万円であり、募集要領には「既成の作家、無名の新人を問わない」とあったが、実際に無名であった三浦の作品が入選したことは大きな話題となった。なお、挿絵は福田豊四郎が担当した。 継母による継子いじめ、義理の兄妹間の恋愛感情などの大衆的な要素を持つ一方、キリスト教の概念である「原罪」が重要なテーマとして物語の背景にある。物語の舞台となった旭川市の外国樹種見本林には、三浦綾子記念文学館があり、本作の資料も数多く展示されている。「氷点」は、今から55年前、高校生の時に新聞に連載されていた。熱心に読んで、毎日、クラスメートとその日の内容を話、本が発売された後、買ってまた読んだ。今回、50年以上たった今、北海道に行ったのでもう一度読んだ。■読書メモ■◎は私の感想。●本の始まりは、昭和21年7月21日。●辻口院長は、学生時代から反戦思想だった。●北海道最古の外国針葉樹を主とした人工林で、総面積、18.42ヘクタールほどある。樹種はバンクシャ松、ドイツトーヒ、欧州赤松など15、6種類もあり、その種類別の林が連なって大きな林となっている。●この見本林を300メートルほどつきぬけると、石狩川の支流である美瑛川の畔に出る。●わずか16歳で監獄部屋とよばれる、おそろしタコ部屋に売られた、孤児の佐石があわれでもあった。タコがすっぱだかに赤いふんどし一つで、道路工事をしているのを、敬造は、学生時代に旅先でみたことがある。(あれが人間か)と思われる恐ろしい形相の棒頭が、けもののようにわめいていた。過酷な労働にたえかねて脱走すると、鉄砲をもった棒頭たちが、軍用犬数頭とともに、それを追い、運わるく連れ戻された男は、他のみせしめに、川の中にさかさにつけられたり、背に焼けひばしをつけられる話も、その時きいた。北海道や樺太の鉄道、道路、河川の工事などは、前借金で重労働する、このタコと呼ばれる人夫達のぎせいによって進められたことを敬造は知っていた。◎このタコのくだりは、まったく覚えていなかった。また、タコ部屋の語源はここにあるのかと思った。●(略)洞爺の方で療養したいと思うんです。◎温泉があるからか?●蹄鉄屋の店。◎当時、馬がよく使われていたのか、。●橋の下のサムライ部落の一軒の窓に、赤い布がぶら下がっていた。◎この「サムライ部落」というのも、まったく忘れていた。調べてみること■かつて旭川市街と神楽町を結ぶ忠別橋上流の河川敷に「サムライ部落」■と称される住宅群があった。住宅と呼ぶのもはばかられるような粗末な建物が多かったが、昭和20年代には最高で53世帯、約200人が暮らしていたという。先ごろ亡くなった歌手の藤圭子さんの一家も一時、ここで雨露をしのいでいたと言われるが、その〝集落〟ではどんな生活が営まれていたのか─。●「あさひがわ、あさひかわ」◎*1905年から1988年までは「あさひがわ」で呼称。■北海道ドライブ旅行:旭川・「氷点」の舞台を行く■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.10.07
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■文豪お墓まいり記■山崎ナオコーラ終戦の前日、永井荷風と谷崎潤一郎がすき焼きを食べた。あの文豪を、もうちょっと知りたい。二十六人の作家と出会う、お散歩エッセイ!永井荷風(先輩作家)と谷崎潤一郎(後輩作家)は七歳差です。谷崎はデビューしたとき、先輩作家である荷風から自分の小説を褒めてもらえたことが嬉しくてたまりませんでした。一九四五年八月十四日、二人は疎開先の岡山で再会します。終戦の前日に、谷崎は牛肉を手に入れ、すき焼きでもてなします。……このように、文豪たちは互いに関わりながら生きていました。今は、お墓の中にいます。時代が違うので、実際には関われませんが、お墓には行けます。現代の作家が、昔の作家に会いにいきます。 二十六人の文豪たちーー中島敦、永井荷風、織田作之助、澁澤龍彦、金子光晴、 谷崎潤一郎、太宰治、色川武大、三好十郎、幸田文、歌川国芳、武田百合子、堀辰雄、星新一、幸田露伴、遠藤周作、 夏目漱石、林芙美子、獅子文六、国木田独歩、 森茉莉、有吉佐和子、芥川龍之介、内田百けん、高見順、深沢七郎。 日本人ってお墓参りが好きだなと思う。私もお墓は好きだけど、好きなのは、歴史のある古い墓地で苔むした小さな石塔がひっそりと立っているのがいい。日本人ってピカピカに墓石を磨く。周りの雑草も抜いて、「きれいにする」。海外の墓地だとそうではない。海外は苔むした墓地がいとおかし。倒れた十字架の墓がそのままにしてあるのも、あわれなり。といった感じ。 表紙にすき焼きを囲む二人の男の図。これは、終戦の前日、永井荷風と谷崎潤一郎がすき焼きを食べた。という図だ。なんだ、と思うかもしれないが、終戦の前日というところがミソ。まだ誰も戦争が終わると知らない。戦時中は、食糧難だし「贅沢は敵だ!」と言われていて、すき焼きを食べるなど、当局に知られたら非国民のすることだと怒られる。日記好きの永井荷風は、その時のことを日記に書いている。谷崎氏より使いの人来たり。津山の町より牛肉を買いたればすぐにお出でありたしと言う。(略)戦時下でごちそうを食べるというのは、最高の反戦運動だ。と作者は書いている。 私は、牛肉は津山か、やはり・・・。と思った。江戸時代には、仏教の影響により肉食が禁止されていましたが、近江彦根藩(滋賀県)と当時、津山を治めていた津山藩のみ薬として食べる「養生食」として肉食が認められていた。■養生食■この本の中で私が読んだことがあるのは、中島敦、谷崎潤一郎、森茉莉だけ。しかしこの3人は、大好きで、何回も読んだ。(谷崎は、■細雪■を2年前に読んだ。)■谷崎潤一郎『細雪』あらすじ■ 高校の時に学校に習った「山月記」で中島敦を初めて知り、以来、何回も読んでいる。■山月記■中島敦の祖父は漢学者だったそうで、それであんなに素晴らしい漢詩が書けるのかと納得。自分の墓にも漢詩を書けばよかったのに・・・と思う。 森茉莉も大好きだ。私のblogのカテゴリーの中に、■「父の麦わら帽子」■があるが、あれは、森茉莉の「父の帽子」のパロディだ。(^▽^)/■モリマリ化■「だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。」 『贅沢貧乏』より作家の墓参りはしないけど、関連の場所に行くのは大好き。聖地巡礼。昨年のイギリス旅行でも、■シェークスピア、■の家や墓、■映画・「日の名残り」の舞台■■バーナード・リーチの仕事場■■ジェーン・オースティン原作「いつか晴れた日に」の舞台■■アガサ・クリスティーの別荘■■ウィリアム・モリスの家■などなど有名な人の関連の地を廻った。聖地巡礼。 山崎ナオコーラの作品は、初めて。秋のお彼岸、文豪の墓参りもいいかも。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村
2019.09.21
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■天(そら)の梯(かけはし):みをつくし料理帖10(完)■『食は、人の天なり』――医師・源斉の言葉に触れ、料理人として自らの行く末に決意を固めた澪。どのような料理人を目指し、どんな料理を作り続けることを願うのか。澪の心星は揺らぐことなく頭上に瞬いていた。その一方で、吉原のあさひ太夫こと幼馴染みの野江の身請けについて懊悩する日々。四千両を捻出し、野江を身請けすることは叶うのか! ? 厚い雲を抜け、仰ぎ見る蒼天の美しさとは! ?「みをつくし料理帖」シリーズ、堂々の完結。結び草―葛尽くし……文化14年8月の話張出大関―親父泣かせ……同9月~12月の話明日香風―心許り……文化15年1月~2月の話天の梯―恋し栗おこし……同年3月~文政元年4月の話■読書メモ■◎は、私のメモ。●「嘘かまことか、大坂には、庚申の日に北を向いて立ったまま黙々とコンニャクを食すと願い事が叶う、という呪いがあるのだとか」。「四天王寺さんの『北向きコンニャク』のことかと思いますが、私もそれほどよくは知らないのです。串に刺したコンニャクの田楽を、北を向いて食べると頭痛が治る・・・だったか、盗みに遭わない・・・だったか、運が強くなる・・・だったか。」◎■四天王寺の庚申コンニャク■ ●草を結ぶのは、大切なひとの無事を祈ることのほかに、幸せを招き寄せる呪いだった。◎■草を結ぶ■健康・長寿・旅の安全などを祈るため、また吉凶を占うため、草の葉や茎を結ぶ。古代人の習俗。 ●「油揚げはね、面倒なようでも必ず油抜きをして使った方が良いわ。そうでないと、調理しても味が沁みないし、仕上がりもしつこくなるから。」●絵付けの皿に酢の物を装うと器の色付けのために使われた毒が溶け出す。●江戸は、初午きりやが、大坂では二の午、三の午と続いて、小さい頃はそれが楽しみやった。」●大阪では蛸の人気は絶大であった。盛夏の頃、辛子酢味噌で和えたり、煮つけたり、と様々な料理に用いられる。また、その姿のまま透き通った飴色に近くなるまで、しっかりと干した蛸も人気で、こちらは保存食として通年、活用されるのだ。■天(そら)の梯(はしご)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.17
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■雛の鮨■日本橋にある料理屋「塩梅屋」の使用人・季蔵が、刀を持つ手を包丁に替えてから五年が過ぎた。料理人としての腕も上がってきたそんなある日、主人の長次郎が大川端に浮かんだ。奉行所は自殺ですまそうとするが、それに納得しない季蔵と長次郎の娘・おき玖は、下手人を上げる決意をするが…。(「雛の鮨」)。主人の秘密が明らかにされる表題作他、江戸の四季を舞台に季蔵がさまざまな事件に立ち向かう全四篇。粋でいなせな捕物帖シリーズ、遂に登場。食べることも、料理も好きで、時代物の本が好きなので■「みをつくし料理帖」■シリーズを読んだ。「雛の鮨」もそんな本かと思って図書館で借ったが、内容は違った。こちらは、まったくの期待外れ。「雛の鮨」は、書き方が雑!料理人の季蔵が事件を解決するとあるが、料理の献立や店の様子、材料など料理と店が描かれていない。事件を解決といっても、???と思ってしまう。作者の力量不足だが、編集者はこれでOKを出したのかと首をひねってしまう。■レビューを見たが■私も同じ思いだった。続きもあるようだが、読まない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.03
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■みをつくし料理帖(9)美雪(みゆき)晴れ■名料理屋「一柳」の主・柳吾から求婚された芳。悲しい出来事が続いた「つる家」にとってそれは、漸く訪れた幸せの兆しだった。しかし芳は、なかなか承諾の返事を出来ずにいた。どうやら一人息子の佐兵衛の許しを得てからと、気持ちを固めているらしい―。一方で澪も、幼馴染みのあさひ太夫こと野江の身請けについて、また料理人としての自らの行く末について、懊悩する日々を送っていた…。いよいよ佳境を迎える「みをつくし料理帖」シリーズ。幸せの種を蒔く、第九弾。*神帰月―味わい焼き蒲鉾……文化13年11月の話*美雪晴れ―立春大吉もち……同年12月~文化14年1月の話*華燭―宝尽くし……同年1月~2月の話*ひと筋の道―昔ながら……同年2月の話富士日和 (特別収録)……同年2月の話●読書メモ●●♪寒紅ぃ(かんべに)、寒中の丑紅ぃ 唇の荒れに、丑の日の寒紅ぃ◎寒紅売りの声。■寒中に製した紅。■特に、寒中の丑うしの日に買い、あるいはつけたものは丑紅ともいわれ、子供の疱瘡ほうそうなどによくきくといわれた。 [季] 冬。 ベニバナは全国的に栽培されていたが,収量が少なく〈紅1匁,金一匁〉といわれたほど高価だった。特に良質の紅は,冬のいちばん寒い寒(かん)のうちの深夜,それも丑の刻につくったものが色も変わらず品質も優れていたので,寒紅(かんべに)とか丑紅(うしべに)とよばれて珍重されていた。紅は皿や猪口(ちよこ)や小筥(こばこ),板などに塗りかさねて市販された。●銀杏は、肺を温め、咳を鎮め、また頻尿を防ぐが、食べ過ぎると毒。◎■ぎんなん中毒による症状は、主に嘔吐と痙攣だそうです。ほかにも顔面蒼白だったり、呼吸困難、めまいや意識混濁、便秘、発熱なども起こるそうです。■●「一年中のご調法、ご調法」と、老いた暦売りが・・・(略)。◎暦売は京坂では〈大小柱暦巻暦〉,江戸では〈来年の大小柱暦とじ暦〉,閏(うるう)月のある暦を売るときはそれに続けて,〈閏あって十三ヶ月の御調法〉と言った。●これをあてに酒が飲める。◎店主、種市は、江戸の人。酒の肴を「あて」と言うのはおかしいのでは?●卵の白身だけでも売れる。 蝋燭の流れたのだろうが、抜け落ちた髪の毛だろうが、大抵のものは売り手も買い手もつくもんだ。◎恐るべし、江戸のエコ社会!!●嘉兵衛のような、あるいは柳吾のような料理人にはなれない。後世に名を残すこともない。それで良い、否、それでこそ良い。(略)料理人として、食べるひとを健やかにする料理こそ作り続けたい。◎この澪の思いは■民藝■の心だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.07.02
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■みをつくし料理帖8:残月■吉原の大火、「つる家」の助っ人料理人・又次の死。辛く悲しかった時は過ぎ、澪と「つる家」の面々は新たな日々を迎えていた。そんなある日、吉原の大火の折、又次に命を助けられた摂津屋が「つる家」を訪れた。あさひ太夫と澪の関係、そして又次が今際の際に遺した言葉の真意を知りたいという。澪の幼馴染み、あさひ太夫こと野江のその後とは―――(第一話「残月」)。その他、若旦那・佐平衛との再会は叶うのか? 料理屋「登龍楼」に呼び出された澪の新たなる試練とは・・・・・。雲外蒼天を胸に、料理に生きる澪と「つる家」の新たなる決意。希望溢れるシリーズ第八弾。残月―かのひとの面影膳……文化13年6月~7月の話彼岸まで―慰め海苔巻……同年7月~閏8月の話みくじは吉―麗し鼈甲珠……同年閏8月~9月の話寒中の麦―心ゆるす葛湯……同年9月~10月の話秋麗の客 (特別収録)……同年9月の話■読書メモ■■アジサイには毒がある。アジサイ属(広義アジサイ)の一部の種では、ウシ、ヤギ、人などが摂食したことによる中毒事例が報告されている。症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。日本では2008年6月に、料理の飾りに使われたアジサイの葉を摂食した客が中毒する事故が発生し、嘔吐・めまい・顔面紅潮の症状を示した■朝顔の葉で、かゆみ止め■吉原廓の女郎の年季は、27歳の年の暮れまで。■料理の塩のあてかたには、紙塩、立て塩、振り塩、撒き塩といろいろある。■塩味は、冷めるときつく感じる。逆に熱が加わると柔らかになる。だから汁物は、熱いうちに出すことが大事。■具が干瓢のみの巻きずしは、見たことも食べたこともなかった。■古来より「時告げ鳥」の名を持つ鶏は、神の使いの神聖な鳥で、その肉はもちろん、玉子を食することも長く禁忌とされてきた。■玉子を産まなくなった鶏は神社に放すしかないから鶏だらけの神社も多い。「みをつくし料理帖第八弾:残月」・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.27
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■みをつくし料理帖(7):夏天の虹■ 【内容情報】(「BOOK」データベースより)想いびとである小松原と添う道か、料理人として生きる道か…澪は、決して交わることのない道の上で悩み苦しんでいた。「つる家」で料理を旨そうに頬張るお客や、料理をつくり、供する自身の姿を思い浮かべる澪。天空に浮かぶ心星を見つめる澪の心には、決して譲れない辿り着きたい道が、はっきりと見えていた。そして澪は、自身の揺るがない決意を小松原に伝えることにー(第一話「冬の雲雀」)。その他、表題作「夏天の虹」を含む全四篇。大好評「みをつくし料理帖」シリーズ、“悲涙”の第七弾。【目次】(「BOOK」データベースより)冬の雲雀ー滋味重湯/忘れ貝ー牡蛎の宝船/一陽来復ー鯛の福探し/夏天の虹ー哀し柚べし澪が想い人の小松原との結婚を諦める。匂いや味の感触をなくす。又次の死。悲涙の第七弾●読書メモ●●掻敷(かいしき)料理を盛る器や神饌(しんせん)にしく「木の葉」や「紙」の総称で、食器がなかった古代は、食べ物を木の葉に盛りつけたといわれています。■神饌(しんせん)とは、神様にお供えする食べ物のことです。そして、このことから「かいしき」が使われるようになり、主に現在では、料理におもむきを持たせる目的で使用します。切腹の前に、篠の掻敷(かいしき)に昆布の帯と塩を肴に酒を飲ませるのが作法。料理に多く使われる「ささの葉」ささの葉は昔、切腹する人に出す「かいしき」に使われたという理由で忌み嫌われましたが、抗菌や殺菌の効果がありますので魚料理に用いられ、生ものを使用する寿司に敷いたり、巻いたりすることが多いです。■かいしきの主な例(木の葉類)■●鏡もちにそえる「ゆずり葉」ゆずり葉は、新しい芽が出てから古い葉が落ちることからこの名があり、だいだいの実と同じように、親子代々相継ぐめでたい葉という意味があります。●難を転ずる「なんてんの葉」なんてんは漢字で「南天」と書きますが、これを「難転」として、災難に合わないようにという願いが込められ、料理以外にも家の鬼門にあたる方角に植えたりします。 ●かしわもちに使う「かしわの葉」こちらは、かしわの葉が新芽が育つまで枯れないという理由から、5月5日の端午の節句にお供えとして使われ、子孫繁栄を願って縁起をかついだものといわれています。●燕の鳴き声虫食って、土食って、渋ーい虫食って、土食って、渋ーい●東西のちがい●故郷の大坂には無く、江戸に出て初めて知った商いに、刺身屋がある。鰹(かつお)や鮪(まぐろ)の類が多いのが、魚を刺身にして安価に売るのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.24
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■あさきゆめみし―源氏物語 (13)■完浮舟の姿を偶然見て一目惚れしてしまった匂宮。薫の君と結ばれていることを知りながらも、強引に関係を持ってしまいました。浮舟も浮舟で、薫の君とはまた違う匂宮の情熱的な愛に心奪われてしまうのです。しかし2人の密通はすぐに薫の君にばれてしまいました。薫の君か、匂宮か……思い詰めた浮舟は、そのおとなしい性格からは想像もつかない行動に出るのです……。最終巻では薫の君と匂宮、浮舟が三角関係に。2人の貴公子から思われているのに、浮舟はまったく幸せになれません。 どちらかを選べば、どちらかを裏切ることになる……相反する彼らの魅力が素晴らしすぎて、彼女には恋を楽しむ余裕がありませんでした。さらに薫の君と匂宮の対抗意識が、より事態を悪化させることに。そして本作において最大ともいえる悲劇が起こってしまうのです。恋の果てに何かを得た人もいれば、何かを失ってしまった人もいる……ラストは、穏やかな救いの光が差し込むような、趣深いものとなっています。●読書メモ●*は私の気持ち。*この巻でヒロインになっている浮舟は、天皇の息子、八宮の子。八宮の北の方が亡くなったとき、身分の低い女に産ませた子供で、八宮は、浮舟を子どもと認めない。薫は、浮舟を愛しながらも、身分の低い娘と、心の底では思っている。匂宮(におうのみや)は、薫と張り合って、浮舟を愛するようになる。3人ともに、男の身勝手が描かれている。●「なつかしお文をしまっておいて時折ながめるのが奥ゆかしい楽しみだというのに・・・。」 *浮舟は、薫や匂宮からもらった手紙を焼くが当時は、残しておいて、時々読むのが普通だった。世の中は 夢の渡りの浮橋か うちわたりつつものをこそ思へ詠み人知らず世の中というものは、夢の中で浮橋を渡っているようなもの。その橋を渡りながら、絶えず思い悩む。思い悩む、浮舟と薫の気持ちを表したような歌。 *浮舟は、悩んだ末、髪をおろして尼になる。長い黒髪は、美人の象徴であり、若さの象徴。故に、黒髪を切り尼になるとは、その若さを捨て、人生を捨てることになる。この黒髪を若さ、美しさの象徴とすることは、長く続き、明治期の与謝野晶子の歌にもある。・その子二十 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな 与謝野晶子■そうだったのか平安時代■■あさきゆめみし(1)■■あさきゆめみし(2)■■あさきゆめみし(3)■■あさきゆめみし(4)■■あさきゆめみし(5)■■あさきゆめみし(6)■■あさきゆめみし(7)■■あさきゆめみし(8)■■あさきゆめみし(9)■■あさきゆめみし(10)■■あさきゆめみし(11)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.22
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■みをつくし料理帖・新星ひとつ■酷暑を過ぎた葉月のある午後、翁屋の楼主伝右衛門がつる家を訪れた。伝右衛門の口から語られたのは、手を貸すので吉原にて天満一兆庵を再建しないか、との話だった。一方、登龍楼の采女宗馬からも、神田須田町の登龍楼を、居抜きで売るのでつる家として移って来ないか、との話が届いていた。登龍楼で奉公をしている、ふきの弟健坊もその店に移して構わないとの事に、それぞれが思い揺れていた。つる家の料理人として岐路に立たされた澪は、決断を迫られる事に――(第二話「天つ瑞風」より)。野江との再会、小松原との恋の行方は!? 「みをつくし料理帖」シリーズ史上もっとも大きな転機となる、待望の第六弾!! ●「みをつくし料理帖」では、江戸と上方、東西の違いが多い。 *は私の感想。 ●江戸には生麩がなかった。 昔は、生麩しかなかったが焼き麩が出来てからは、遠くに運べるし日持ちがするということで、あっという間に生麩がなくなった。 ●出格子に、こけら葺きの通り庇は、上方風の店構え。 *家の作りにも東西差があった。 (餅を関西であもという。) 大阪市立 住まい情報センターには、まな板と鍋の東西の違いが載っていた。 ●まな板●大坂のまな板は隅に四本の足がつきます。お江戸からこの町へ来られた方は、はじめて見るとびっくりされます。●鍋●食べ物を煮たり煎ったり炒めたりするのに、たいへん便利。ふつうは把手がついてますが、大坂では把手のないのが一般的。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.21
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■あさきゆめみし―源氏物語 (12)■匂宮は中の君を溺愛していましたが、母君の意向で別の姫を正妻に迎えることとなりました。匂宮は母君をなんとか説得して、中の君を京都に招きます。間もなく彼女との間に子どもを授かり、幸せに包まれて暮らしていきます。一方、薫の君に求婚されていた姉の大君は、重い病を患って急死してしまうのです。大君を理想の女性と崇めていた薫の君は嘆き悲しみ、帝から賜った内親王ともあまりいい夫婦にはなれませんでした。 薫の君の落ち込みようを見た中の君は、腹違いの妹である浮舟を紹介します。彼女は大君と顔がよく似ており、感激した薫の君は、浮舟を妻に迎えました。12巻では薫の君が大君とこれからというときに、不幸に見舞われます。性格が真面目すぎて進展しなかった恋を悔やみますが、あとの祭り……。匂宮と結婚した中の君に心の依り処を求めようとするなど、非常に追い詰められていきます。匂宮が薫の君と中の君の関係を疑う場面もあり、お互いの対抗意識が何とも言えない危うさを醸し出しています。そして、そこに新たに登場したのが3人目の妹君、浮舟。しかし彼女もまた問題を巻き起こしていくのです。 ●読書メモ● ●髪洗い *髪洗いは、半日かかるといっているが、調べたら一日がかりだ。 『平安時代史事典 本編』下巻(古代学協会編 角川書店 1994年)の「御髪(みぐし)澄(す)まし」の項によると、皇女などの場合は、付添いの女房たちが朝早くから一日がかりで洗い、清水できれいにゆすぎ、四尺ぐらいの丈の高い厨子の上に褥(しとね)を敷き、その上に洗った髪を載せ、母屋の御簾を上げて風通しをよくし、中が見えにくいように几帳や屏風を立て、火桶に火をおこして薫物をたき、布でふきながら火にあぶって乾かした。 また女房などは2、3人の侍女に手伝わせて洗髪ののち、風通しのいい縁側に横になり、ぬれた髪の下に細長い簀子(すのこ)をあてがい、侍女が大きな扇であおいで乾かした。 ■そうだったのか平安時代■ ■あさきゆめみし(1)■ ■あさきゆめみし(2)■ ■あさきゆめみし(3)■ ■あさきゆめみし(4)■ ■あさきゆめみし(5)■ ■あさきゆめみし(6)■ ■あさきゆめみし(7)■ ■あさきゆめみし(8)■あさきゆめみし(9)■■あさきゆめみし10■■あさきゆめみし11■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.19
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あさきゆめみし―源氏物語 (11) さて11巻からは、薫の君と匂宮の恋模様を描いた「宇治十帖編」がスタートします。薫の君は、柏木と三の宮の息子。匂宮は今上帝と明石中宮の間に生まれた皇子です。 2人は亡き源氏の君と並ぶほどの美男子として、人気を集めていました。真面目で控えめな薫の君と、奔放で明るい匂宮。性格が対象的な彼らは仲のいい親友でもあり、良きライバルでもあります。 物語は薫の君が都から遠く離れた宇治で、美しい皇女の姉妹を見初めたところから大きく動き出します。皇族の父を持つ姉の大君と妹の中の君は、宇治でひっそりと暮らしていました。恋愛に疎かった薫の君は、大君と出会って焦がれるような恋に目覚めます。薫の君から宇治の姉妹を紹介された匂宮は、妹の中の君に強引に迫って結婚しました。「宇治十帖編」では、華やかな都と豊かな自然に囲まれた宇治を行ったり来たりします。深い森の中の楚々とした屋敷に住む姉妹は、まるでかぐや姫のような神聖で純粋な存在です。 薫の君が秘密の美人姉妹を求めて遠路はるばる訪れるさまは、まるで恋の武勇伝のよう。ずっと秘密にしておけばいいものを、恋愛好きの匂宮に自慢してしまったことが大きな波紋を呼んでしまうのです。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 光源氏(六条院)死後の物語。 薫の中将(薫の君)と匂(におう)の宮 匂の宮は、源氏と明石の御方の娘で天皇の后になった明石の中宮の息子。 薫の君は、源氏の妻だった三の宮の子。 しかし、源氏の子ではなく、不義の子。 薫の君は、小さい頃、噂で、父親が源氏ではないと聞き、誰の子か分かず悩む。 ■そうだったのか平安時代■■あさきゆめみし(1)■■あさきゆめみし(2)■■あさきゆめみし(3)■■あさきゆめみし(4)■■あさきゆめみし(5)■■あさきゆめみし(6)■■あさきゆめみし(7)■■あさきゆめみし(8)■■あさきゆめみし(9)■■あさきゆめみし(10)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.06.07
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■小袖日記■とんで平安時代。上司との不倫の恋に破れて自暴自棄になっていた29歳OLのあたしが突然、平安時代の京のみやこにタイムスリップ! 女官の小袖(こそで)として、あの『源氏物語』を執筆中の香子さまの片腕になって、物語のネタはないかと、平安の世を取材して歩くことに。夕顔、末摘花、葵、明石、若紫……物語で描かれる女たちや事件には、意外な真相が隠されていた。この時代も現代も、恋に翻弄される女はかなしくて強い──。幅広いジャンルで活躍する著者会心の、歴史SFミステリ!■「あさきゆめみし」■を読んでいたら、図書館の本棚で見つけたのがこの本。「あさきゆめみし」を読んで源氏物語の内容を知っているから楽しめた。★平安時代というのは小氷河期にあったっていたので21世紀よりは、過ごしやすい。★当時は乳牛院という専門の役所があって、雌牛の飼育と乳しぼりを管理していて、搾りたての牛乳が飲めた。★■細長■平安文学には「高位の女性のお召し物」としてしばしば登場する。一般的に「若い女性の着る着物」とされているが、文学上では30歳を越えているとおぼしき女性が着用している例が散見され、疑問がある。 ★麦縄うどん、または冷や麦のこと。★小袖主人公。「源氏物語」を書いている、香子(こうし)に仕えている女官で21世紀からタイムトリップしてきた。★香子(こうし)源氏物語を書いた、紫式部はペンネームで、香子という女官が書いている。★夕顔気分が悪くなったり頭痛がして、そのままだと昏睡になって死んでしまうのだけれど、甘い物、糖蜜のようなものを食べるとおさまる=インスリンショック、糖尿病。夕顔は、糖尿病で死んだ。★末摘花末摘花の鼻が赤く見えたのは、アトピーが考えられる。 他にも、明石の上や若紫に会いに行った時のこと、雷を利用して21世紀に戻る(バック・ツー・ザ・フューチャーか!!)など、ツッコミどころ満載。小袖こと私は、現代に帰れるのか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.22
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■毎日の言葉:柳田国男■普段遣いの言葉の成り立ちや変遷を、豊富な知識と多くの方言を引き合いに出しながら語る。「なんにでも『お』を付ける風習」「二言目にはスミマセンという」など、今でも興味深く役立つ内容。 【内容情報】(「BOOK」データベースより)アリガトウ、イタダキマス、スミマセンー。私たちが日頃無意識に使っている言葉の一つひとつは、どのような変遷を辿ってきたのか。地方に残る口伝えの古い言葉を通して、日常語のルーツを探り、日本語の豊かさを伝える。次世代に向けた、碩学ならではの独自の試み。【目次】(「BOOK」データベースより) 毎日の言葉/買物言葉/あいさつの言葉/どうもありがとう/女の名/ウバも敬語/御方の推移/上臈/人の名に様をつけること/ボクとワタクシ【著者情報】(「BOOK」データベースより) 柳田国男(ヤナギタクニオ)1875年(明治8年)、兵庫生まれ。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学卒。農商務省に入り、法制局参事官、貴族院書記官長などを歴任。1935年(昭和10年)、民間伝承の会(のち日本民俗学会)を創始し、雑誌「民間伝承」を刊行、日本民俗学の独自の立場を確立。1951年(昭和26年)、文化勲章受章。1962年(昭和37年)没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)●読書メモ●(昔の字などが多用されているので、適当に直しておいた。)*は、私の感想。●クウ(食う)(略)ハムは今日「嚼む(はむ)」の意味に盛市慣れているカム(噛む)という語と元はひとつでありましょう。南島では現に今でも「食う」をカムと言っています。*沖縄出身の芸人の話で、オバアは、顔をみると「カメカメ」と言うと話していたが、これは「カム」の命令形だろう。●もしもし「もしもし」は、「もうし」からの変化。通例ゆっくりとした場合に「もうし」とただ一言で人は振り返えり、また近寄ってきました。(略)私の義母などは父に話しかけるときには、始終このもうしを使っていました。*昔、会社の取引先に、明治45年生まれの女性がいて、「もうし」をよく使っていた。●「もうし」は、「モノ申す」から。吉野の西奥の山村などでは、人が途中で行き会って声を掛ける時には、平日でも「モノモ・ドウレ」を交換していた・・・。*道場破りが声を掛ける時、「たのもう」と言い道場側は「どうれ」と言うが、これだったのだ!!●ヨマヨイゴト(世迷い事)「世迷い事」は多分近世になって、都会の人が作った単語でしょう。これを作り出すには、そのひとつ前に、ヨマウという動詞がそこにあったことを想像しなければなりません。(岡山県の浅口群などの方言には今でも「ヨーマ」という語がある。ヨーマは、無駄口のこと。遠慮なく人の悪口などを言う人を「ヨーマータレ」という。*岡山の実家では、よく聞いた。冗談という意味で使っていた。●挨拶の言葉。 「今日は」、「今晩は」は不完全。要約。本来は、「今日は、いいお天気でよかったですね」「今晩は 天気でよかったですね」と言わなければならない。しかし、下駄屋や傘屋のように、雨が降ったが儲かる人がいる。雨が降らないと日照りで米が作れないという人もいる。皆がみんな天気を喜んでいないということで、後ろを省略した。近年では、柳田を学者としてとらえるならば、その学説は取捨選択されるべきものであるとの意見も一部にみえる。島崎藤村の■椰子の実■の作詞のヒントになったのは、友人の柳田国男の話からだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.19
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■あさきゆめみし―源氏物語 (10)光源氏の話・完■夕霧の浮気に激怒した雲居の雁は、愛想を尽かして出て行ってしまいました。一方の二の宮も、人のうわさ話や批判にも晒され、心は重く曇ったままです。愛する妻たちを苦しめてしまった夕霧は、激しい後悔に襲われていました。一方、紫の上は盛大な法会を開催した後、源氏の君や友人たちに看取られてこの世を去ります。その後何かにつけて彼女を愛おしく思い出す日々を送った源氏の君は、自ら出家して山にこもり、静かに最期の時を迎えました……。10巻はこれまでの思い出を振り返る集大成になっています。死を前に気持ちを整理した紫の上は、源氏の君に愛された幸せを胸に旅立ち、また残された源氏の君は、紫の上を知る女性たちと思い出を語り合うのです。多くの女性たちがどれほど自分を愛してくれて、どれほど苦悩に耐えていたのかをようやく知り、感謝を胸に抱きました。自由奔放に生きてきた彼ですが、すべてが浄化されていくような、荘厳に満ちた最期に心揺さぶられるでしょう。●読書メモ●●塗籠(ぬりごめ)寝殿造りの母屋の一部に設けられた、厚い壁で囲まれた部屋。女二宮が夕霧を避けて塗籠に敷物を用意するように言う。●小松引き「小松引き」とは、正月初めの子の日に、外出して小さな松の木を引き抜いてくる貴族たちの遊びの一種で、この「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したものです。現在でも「根引きの松」と呼よばれ、関西地方の家の玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松が飾られているのはその名残でしょう。■正月に家の入口に門松を飾り羽子板で羽根つきをする。■きれいな着物を着飾って外出するといった光景は、現代の日本のお正月でも普通に見られる景色ですがその起源はかなり昔に遡ることができます。門松は平安時代の宮廷儀礼である「小松引き」がルーツと考えられています。●あさきゆめみしいろはにほへと ちりぬるをわかよたれそ つねならむうゐのおくやま けふこえてあさきゆめみし 色は匂へど 散りぬるを我が世誰ぞ 常ならむ有為の奥山 今日越えて浅き夢見じ光り輝く美しさと栄華を極めた、光源氏。彼にも、時は流れ・・・。「あさきゆめみし」というタイトルがピッタリだった。■そうだったのか平安時代■■あさきゆめみし(1)■■あさきゆめみし(2)■■あさきゆめみし(3)■■あさきゆめみし(4)■■あさきゆめみし(5)■■あさきゆめみし(6)■■あさきゆめみし(7)■■あさきゆめみし(8)■■あさきゆめみし(9)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.13
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「みをつくし料理帖」は、上方と江戸の文化の違いを描いて面白いが、今回読み返した。●お粥*大坂では、塩味のお粥が好まれていたが江戸では、そもそもお粥自体があまり好まれない。冬至や小正月には縁起を担いで小豆粥を食するけれども、その場合もたっぷりの砂糖で、甘くして食べる。●サツマイモ大坂は蒸して食べ、江戸は焼き芋。大坂では寒い冬、「ほっこり、ほっこり」と蒸し芋を商う芋屋の声が通りに響いていた。●菜の花の蕾大坂では食し、江戸では食べない。■江戸時代から明治の頃、■梅田の茶屋町周辺は一面菜の花畑でした。その菜の花から採れた菜種油は遠く江戸や北海道にも送られたぐらい、当時は菜種の一大産地でした。与謝蕪村も「菜の花や月は東に日は西に」と、一面にひろがる菜の花の絶景を称えた詩を詠んでいます。●鰊(にしん)大坂では食べるが、江戸ではあまり食べず、田畑の肥やしとしていた。上方では、京都のニシンそばは名物。また、鰊の昆布巻きは、おせち料理として、今もよく食べる。■小夜しぐれ :みをつくし料理帖5■季節が春から夏へと移ろい始める如月のある日。 日本橋伊勢屋の美緒がつる家を訪れ、澪の顔を見るなり泣き始めた。 美緒の話によると、伊勢屋の主・九兵衛が美緒に婿をとらせるために縁談を進めているというのだ。それは、美緒が恋心を寄せる医師、源斉との縁談ではないらしい。 果たして、美緒の縁談の相手とは!?――(第三話『小夜しぐれ』)。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.04.12
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