おじん0523のヒロ散歩

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2020.03.19
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カテゴリ: 東海道53次
庄野宿から亀山宿へ向かう。

1/21(火) 8:35
常念寺を振り返る、まだ天気が悪く今日はこのまま回復しないのか?


旧東海道の沿いの民家の塀にユニークな飾り、名古屋コーチン?


浄土真宗高田派 金光山 福萬寺


本堂屋根の・・・・・に鳥が止まり


旧東海道を進むと街道脇の石柱に「ひろせ道」


8:43
安楽川の堤防下にある「川俣神社(西冨田)」



境内へ入るが、川俣神社は、庄野町、中冨田町、西冨田町と3社あった


拝 殿
毎年10月の始めに秋の大祭で獅子舞を続けています。川俣神社の中でも唯一獅子舞保存会が300年
以上引き継いで来ました。土、日の二日間やっています、舞の後に獅子に噛んでもらうと、きっと
良いことがありますと!


拝殿の扁額「延喜式内 川俣神社」


境内の隅に、いづみはしの親柱
   昭和十年六月 竣功 とあるが


安楽川の堤防へ上がり、川俣神社を見下ろす


安楽川に架かる和泉橋(いづみはし)


旧東海道を歩き安楽川の和泉橋から見える光景。

中古建設機械販店の中にそびえ立っているが、移動費・据付費で相当費用が掛かっているのでは
なかろうか、費用対効果は?。
弥次さんの情報から、この会社の社長がバラバラになっていたものを組み立てたと


安楽川の河川敷
河川敷に竹林があり川幅の半分を占めている



安楽川の上流側は鈴鹿の山々に雲、下流は400 ~ 500m先で鈴鹿川と合流する


和泉橋を渡り旧東海道を進む


旧東海道を振り返る、元の東海道はこの辺りから安楽川を渡っていた。
平水時は土橋、出水時は徒歩渡しであったと


井田川小学校の避難場所まで255m、ここの地面は標高31.1m


8:56
和泉町公民館


旧東海道を進む


街道脇に御堂が見えてきた


屋根が一部壊れているが『地蔵堂』
バス停は「和泉西」


飛び出し注意のボーヤ


街道には犬散歩の主婦と弥次さんの姿
右上に忠魂碑


9:04
極楽山 地福寺
所在地:三重県鈴鹿市小田町635-1
街道脇に石灯籠が立つ


小田町寺社の由来
鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔
道心が多く修行せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そし
て道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。
永禄11年(1568)織田信長の戦火に遭い消失、観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶5
年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江
戸の鈴木市郎エ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔うために、元禄12年(1699)に西国三
十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただ
き、また毎月17日の縁日には門前に市が立つほどのにぎわいであった。毎年8月17日は盛大に盆お
どりを行い、近郷より人出も多く現在もにぎわっている。
毘沙門堂は身丈1メートル60センチの青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける、七福神の一つと
しても信仰を集めている


毘沙門堂と本堂


地福寺を振り返るが、この辺りの旧東海道は道標もなく迷路となっている


田んぼの中を歩き、JR関西本線の井田川踏切へ


JR井田川駅方向、旧東海道は線路沿いを進む


四日市方向


井田川踏切を渡り亀山市に入る。
亀山市のおすいマンホールのデザインは「亀山城多門櫓」と亀山市の花「ハナショウブ」


旧東海道を進む、街道脇の祠は「観音堂」。
ここを右に入ると曹洞宗の海善寺があるが先を急ぐので通り過ごす


旧東海道沿いに、売り出し中の中古住宅


立派な家だが売り出し価格は


9:18
旧東海道を進み、JR井田川駅前の案内板


JR井田川駅
所在地:三重県亀山市井田川町
駅舎は新しいが無人駅である


井田川駅の近くに立つ「日本武尊像」
庄野周辺は日本武尊伝説が残る地で、東海道の北側には江戸時代に日本武尊の墓といわれた
白鳥塚古墳がある


大和タチバナ記念植樹
石碑は「国偲歌」
「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるは」


ヤマトタケルとオトタチバナヒメの家系図
ヤマトタケルは「日本書紀」「古事記」に登場する伝説上の人物で、景行天皇の皇子オウスがその
人である。天皇の命により九州や東国に赴き、天皇に従わない者と戦った。東国からの帰路、伊吹
山(岐阜県)の荒ぶる神を倒すため山に入るが、その怒りにふれ病となり下山する。故郷大和国(奈良
県)へ向かう途中「ノボノ」(亀山市北東部周辺)で亡くなり、陵墓が造られた。
ここから北西へ約2kmの地にある能褒野王塚古墳(亀山市田村)がヤマトタケルの墓とされ、宮内庁
が管理している。ヤマトタケルの妃であるオトタチバナヒメは、・・・・・・・・・、海中に身を
投げたとされる。オトタチバナヒメの死を悼んだヤマトタケルは東国を離れる際に「吾妻はや」(あ
あ、我が妻よ)と嘆いたことから、関東地方のことを「吾妻」と呼ぶようになったとされる


駅前の案内板に、日本武尊御墓(矢印)。ここから約2km圏内(徒歩約25分)にある


JR井田川駅舎



                                                                               庄野宿~関宿ー続く





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最終更新日  2020.03.19 03:00:05
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