おじん0523のヒロ散歩

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2020.03.24
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カテゴリ: 東海道53次
亀山城址から旧東海道に戻り亀山城京口門へ進む。

1/21(火) 11:45
亀山城帯曲輪・二之丸広場


亀山城二之丸・帯曲輪


亀山城楠門跡
二之丸から本丸へ通じる枡形門で、櫓門は安政元年(1854)の大地震で倒壊した


山嵜雪柳翁遺剱之碑
山崎雪柳軒は、文政11年(1828)の生まれ。利右衛門と称し、雪柳軒は雅号。槍術を
音羽恭輔、馬術を早崎士太夫、さらに伊庭軍兵衛に心形刀流を学んで免許皆伝を得



12:02
石坂の左側にある『石井兄弟敵討の碑』、工事現場の中にあり分かりずらかった。
延宝元年(1673)に信濃小諸藩、青山宗俊の家臣、石井宇右衛門宗春が、同僚の赤堀
源五右衛門に殺された。宗春の長男・三之丞と次男・彦七は仇討をすべく、出奔し
た源五右衛門を追うが八年後、三之丞は返り討ちになり、次男は・彦七は海で遭難死
してしまう。残った14歳の三男・源蔵と11歳の四男・半蔵が仇討をすることになった。
二人は源五右衛門が水之助と名を変えて亀山藩に抱えられていることを突き止め、藩士
の奉公人になり城内に入った。父を殺されてから29年目の元禄14年(1701)5月9日朝、
下城してくる源五右衛門を待ち受け、石坂門を出たこの坂で討ち取った


石井兄弟敵討の碑を振り返る


亀山城の外堀



石坂(県道302号線)から、この先の坂を右に行くと旧東海道(県道647号線)。
弥次さんが進む角に「東海道亀山宿の碑」がある


12:07
西町問屋場跡から、北方向の亀山城多門櫓を望む


西町問屋場跡

(家業は米問屋9が、十日あるいは二十日程の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を
担当していた。・・・・・中略・・・・・・・・。
なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている


旧東海道(県道647号線)を西方向へ進む


軒先には「東海道亀山宿 西町 ひのや(日野家)跡」


岡田屋本店前で記念写真
玄関先には「東海道亀山宿 西町 おかだや(岡田屋)跡」


12:10
旧東海道の左側に道標
左:停車場道、右:東海道道
停車場道とは、明治23年四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通したとき、亀山停車場への道として
整備されました。「ステーション道」と呼ばれていたそうです


反対側の道標は、左:東海道、右:郡役所
東海道と亀山城西之丸へ向かう分岐点に石標が立っていた。
西之丸には、亀山藩の家老を努めた加藤家の屋敷跡が残っている


加藤家の屋敷跡へ至る道は、わざと鍵の手に曲げる、いわゆる「枡形」と呼ばれる
形態をとっており、城下町特有の防衛上の痕跡を見ることができる


二階の構造をズームアップ


枡形の隅に「青木門跡」
亀山城の搦手門で、亀山城に泊まった徳川家康がこの門を通るときに、門一帯にアオキが茂って
いることを称賛したことから青木門と呼ばれるようになったと伝えられます


12:12
旧東海道から北側に入り『加藤家屋敷跡』
所在地:三重県亀山市西丸町545-1
白と黒の対比が美しいなまこ壁を施した土蔵や長屋門など、武家屋敷の姿を今に伝える建物が
残されています


加藤内膳家は亀山藩主・石川家の石高600石の家老で、亀山城西の丸に屋敷を構えた。文化
9年(1812)、二の丸御殿が焼けたとき、殿様の仮御殿となったほどの大きな屋敷だった。
明治以降に母屋はじめほかの建物は移築されたが、屋敷地と長屋門、土塀、土蔵が残った。
現存の長屋門は、亀山市により幕末の姿に修復された


亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡、加藤家長屋門及び土蔵
開館日時のご案内
   開館日:土・日・祝    
   開館時間:9:00 ~ 16:30      入館料:無料  訪問した日は休日で見学できず


加藤家屋敷の西側にある「西之丸庭園」
所在地:三重県亀山市西丸町556-6


12:16
旧街道に戻り進むと、左手に『旧舘家(たちけ)住宅(枡屋)』
枡屋は幕末から大正にかけて呉服屋を営んでいた大店で、現在の主屋は明治6年(1873)に建て
られました。亀山宿を代表する商家建築として平成19年に市指定文化財(建造物)に指定された。
西側に立派な土蔵がある


格子に「東海道亀山宿 西町 ますや(枡家)跡」
見学可能だが、ここも開館日は、土・日・祝 で見学できず


旧東海道の南側に『善導寺』があるが見忘れたので、3月20日(金)水口宿に車での移動日に、
再度立ち寄り撮影しました。
浄土宗 善導寺
所在地:三重県亀山市西町327
元は亀山城本丸付近にあり、岡本宗憲が築城するにあたって現在地に移転したと伝えられる
古刹です


山門から本堂


梵鐘の無い鐘楼
太平洋戦争で供出したのか


裏門からの境内


12:17
旧東海道を右に曲がり北上する


旧東海道を振り返る(南方向)


12:18
亀山城西之丸外堀
弥次さんを見失い携帯電話で所在を確認してしばし待機。
東方向は先程行った、亀山市城西地区コミュニティーセンター・西之丸庭園、加藤家屋敷


亀山城西之丸と外堀
亀山城は、それまであった戦国期の亀山城の城郭を母体とし、岡本宗憲により天正18年(1590)
に築かれました。築城時には、本丸・二之丸・三之丸からなり、天守もあげられていたとされ
ます。寛永13年(1636)本多俊次が城主となると亀山城の大改修に着手し、西出丸や東三之丸、
西之丸が整備され、この形状が明治時代まで続きました。
西之丸は、亀山城の西南部分にあたり、家中屋敷と表記されることもあり、作事場や重臣の屋
敷他のほか文政6年(1823)には藩校「明倫舎」もおかれました。
この復元した西之丸外堀は、城の外周を取り囲む亀山城外堀の一部で、特に東海道と外堀が並
行して接する場所にあたり、防御上、また城の景観上重要な場所でありました。町屋側には番
所、復元地南の西之丸側には西之丸西櫓がありました。・・・・・・・・・


12:20
西之丸外堀築造技術
今回の西之丸外堀復元に伴い平成21年度に行った発掘調査で、外堀の基礎とみられる構造体が
確認されました。また、同年実施の亀山中学校改築工事に伴う西之丸発掘調査においても、同
様の外堀基礎構造体が確認され、外堀の築造方法が明らかになりました。ここでは、比較的遺
り具合のよかった亀山中学校内で確認された例をもとに説明します。
写真は左:出土した外堀の基礎構造体、右:③の割竹の編み込み


12:27
旧東海道を進む


塀に「東海道亀山宿 西新町 しおや(塩屋)跡」


旧東海道の緩い坂を下る、弥次さんが右側へ


12:30
京口門跡
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。「九々五集」に
よれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)
に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によっ
て東海道が貫通する城下の東西が画された。
京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ
通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
大正3年(1914)、京口橋が架けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は
坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった


歌川広重「東海道五十三次」のうち「雪晴」をはじめとする風景画の舞台として著名である
      歌川広重 東海道五拾三次内亀山『雪晴』(保永堂版)


京口門跡近くにある『梅巌寺』
所在地:三重県亀山市市ヶ坂町671
境内へ入る弥次さん


雪景色亀山城は広重の画に見るがごと石垣高し   伊藤宜之


浄土宗 純一山常壽院 梅巌寺 山門


梅巌寺 本堂
亀山藩主石川家菩提寺
亀山城付近には、亀山藩主石川家菩提寺である、梅巌寺、本宗寺、本久寺があります。これら
の寺はもともと亀山にあった寺ではなく、石川家の転封にともない移転や創設されたものです。
石川家歴代藩主の墓は大部分が江戸の大久寺にあり、亀山にはありません。なお、本宗寺本堂
は、亀山城三重櫓の旧部材を使って建立されたものです


境内の梅





梅巌寺『鬼瓦』


梅巌寺『鬼瓦』縁起
明治45年(1912)5月本堂が全焼。その後、大正2年(1913)7月再建された当時の鬼瓦である。
昭和59年(1984)5月、屋根葺き替えにより役目を終え、境内に安置される。亀山藩主 石川
家の菩提寺であるため、瓦に「笹竜胆」の家紋がおかれている。
遍照寺の鬼瓦にも笹竜胆の家紋があった



                                 庄野宿~関宿ー続く





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最終更新日  2020.03.24 09:52:51
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