おじん0523のヒロ散歩

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2020.03.25
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カテゴリ: 東海道53次
亀山城京口門・梅巌寺から坂を下り、今日のゴール点関宿へ向かうが、JR関駅までは
まだ一里強ある(約5km)。

1/21(火) 12:32
旧東海道の京口坂から、梅巌寺を振り返る


旧東海道の京口坂を下り、竜川に架かる京口坂橋から北側を望む


下の川は、竜川


京口坂橋


京口坂を下りる。旧東海道は色分けしているので進行方向がわかりやすい。
坂の下の左側に休憩所があり、トイレも完備していた





山門前にある『東海道五拾三次 亀山 雪晴』
当山、東下の竜川よりのぞむ、京口門の勝景。
旧東海道の京口坂は、大正時代半までその面影を留めていた。亀山宿


12:36
日蓮宗 妙亀山 照光寺
所在地:三重県亀山市野村3丁目1-4


照光寺本堂


左端は『史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑』
赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙
によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9
日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟に父兄の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬ら

名になり、仇討ちが行われた石坂門跡には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺
跡」碑が立てられた


照光寺の文化財
妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任 元禄元年
~宝永6年)の養母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇

及び「山本善太墓」があり、いずれも市史跡に指定されている。
山本善太は、阿波(現徳島県)の生まれで、天保2年(1831)32歳のとき亀山藩主石川総安公(在任
文政3年 ~ 天保4年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」な
ど多くの著書を残したが、天保8年(1837)7月、38歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。
その子一学(退職)、孫三省も明倫舎の教授を引き継ぎ、親子三代で石川家の儒臣として仕えた


亀山における谷口一族関連資料は、京都の町人で法華信徒であった谷口長右衛門自榮(法悦)
及びその一族が全国の街道沿いや寺院などに行った寄進活動のうち、亀山市域における状況
を示す資料群である。
照光寺に所在する谷口一族関連資料は次の四点である。
  一、照光寺蔵谷口一族寄進題目塔  
  一、照光寺蔵谷口一族寄進紙本著色涅槃図
  一、照光寺蔵谷口一族寄進軸装涅槃図裏面墨書
  一、照光寺蔵谷口一族寄進断簡涅槃図裏面墨書   
・・・・・・・・・・・・・。


旧東海道に戻り、照光寺を振り返る


街道沿いの民家の土蔵


12:41
一休処骨董カフェ
所在地:三重県亀山市野村3丁目2-11
営業時間:11:00 ~ 17:00
名物 伊勢うどんの幟があったが


森家住宅 主屋一棟   国の有形文化財(平成23年)  
亀山宿・関宿間の野村集落に所在。旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である切妻
造桟瓦葺で正面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。左手に土間、右手に居間を配し、さら
に奥に座敷を設ける。妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるな
ど町屋的な表構えを見せる


元旦を過ぎているが、玄関先のしめ飾り「笑門」


旧東海道を左側に入り直ぐに小さな『心光寺』


心光寺本堂


本堂手前のこの碑は『彫刻 心光寺 十一面観音坐像』


12:46
旧東海道を進むと右手に『光明寺』
所在地:三重県亀山市野村3丁目5-51


浄土真宗 本願寺派 光明寺


本堂前から山門を望む


旧東海道を進む、この辺りは野村三丁目
古民家の連子格子が続く


12:50
旧東海道左側に『浄土宗 亀鶴山無量院 慈恩寺』
所在地:三重県亀山市野村3丁目18-1
山門の右側に「阿弥陀如来」の石柱が立つ


山門横に立つ「木造阿弥陀如来立像」
慈恩寺本尊の阿弥陀如来立像は、亀山市はもとより三重県を代表する優品である。現在は浄土宗
寺院の本尊として信仰されているが、薬師如来の可能性も指摘されている。伝来については、近
在の忍山神社の神宮寺であった神福寺の本尊と伝えられるが、不明な点が多く詳しいことはわか
らない。像高161.9cm、蓮華座上に両足をそろえ、胸をそらすように・・・・・・・・・・。


山門を入り境内へ


本堂の扁額「亀鶴山}


鐘 楼


「慈恩寺縁起」によると本寺は神亀5年(728)聖武天皇の勅願によって、僧行基が野村に創建した
薬師寺(長福寺)に自作の薬師如来を安置したことに始まると伝えられる。文明4年(1472)兵火に
より焼失。永正8年(1511)寺観を整え、天正3年(1575)には法相宗から浄土宗に改宗したが、そ
の際、薬師如来を阿弥陀如来に改作したといわれる。
天正11年(1583)羽柴秀吉の亀山攻撃で再び焼失。正徳6年(1716)に至り長福寺を慈恩寺と改称
した。文化2年(1805)本堂が全焼したが、本尊は焼失を免れ現在に至る


12:55
鈴鹿亀山 まちかど博物館
「亀山っ子」市民宣言


展示場に匠の技、「忍山神社の傘鉾」、いろんな竹細工を展示


12:56
野村一里塚休憩所の向かい側にある「焼肉長治郎」に掲げられた説明板。
『明治天皇御召替所跡:内池家主屋』
明治13年5月、明治天皇は東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝
されました。
東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸されました。亀山では、陸軍の大坂鎮台の
ありのままのようすを見分するため、野村の高平(高飛山のことか)で、5月11日、12日に勢揃い
を御覧になりました。その折、当家で御休みになり、御茶料として三円を下されました。
現在・「焼肉長治郎」
所在地:三重県亀山市野村3丁目17-23


野村一里塚休憩所にあった近場の説明板


前方右側に大きな木が現われる


13:00
野村一里塚
ここまでの今日の歩数は、28,000歩に。
所在地:三重県亀山市野村26町737-1


史跡 野村一里塚の石柱


説明の石碑があったが、よく見ると、
一里塚は、江戸時代・・・・・中略・・・・・・・その上に樹木を植えた。
この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚が
あったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。
塚の上には、目通り幹囲5メートル、高さ20メートルの椋(ムク)の木がある。
本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に12か所の一里塚が設置されていた
が、今、残るものはこの一里塚だけであり、わが国交通史上貴重な遺跡として、昭和9年1月22日
国の史跡として指定された。
別の説明場がなく苦慮しました


樹齢400年の椋(むく)の木


野村一里塚を後にするが電柱電線が景観を失っている


旧東海道を振り返る


13:03
国の史跡としては、一考を!



                         庄野宿~関宿ー続く





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最終更新日  2020.03.25 03:00:06
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