おじん0523のヒロ散歩

おじん0523のヒロ散歩

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

オジン0523

オジン0523

カレンダー

コメント新着

フリーページ

2020.04.24
XML
カテゴリ: 東海道53次
国道1号線の大野交差点を渡り、北側へ進むが、『浄土宗  若王寺(にゃこうじ)』へ立ち寄る。

2/22(土) 10:41
交差点を渡ると『浄土宗 布引山 医王院 若王寺』の石柱。
先程の、三好赤甫が葬られている寺院である、路地正面に山門・鐘楼・本堂が見える。
所在地:滋賀県甲賀市土山町大野1856


鐘楼・山門
寺の門は、甲賀古士大野家の門を移築した。門の前の石橋は、寛政年間、四国の阿波国の斎藤某
が、伊勢神宮の帰途にこの寺で子供を授かることを祈願したところ、子宝に恵まれたため、それ
に感謝し、享和元年(1801)3月に、この橋を寄贈した。



浄土宗  若王寺 本堂
安土の浄厳院の末寺で、本尊は薬師如来である。起源は古く、最澄(伝教大師)がこの付近に草寺を
建立し、その後諸堂を増築し、一大寺院になったと伝えられている。往古は天台宗の寺であったが
天正年間(1573~1591)の兵火に遭い全焼した。その後、仮の堂が建てられ承応2年(1653)に改宗
して浄土宗の寺となり、信長の命により安土の浄厳院の末寺となる。万治元年(1658)に本堂がで
き、宝永8年(1711)に再建、寛政年間(1789~1800)に瓦葺の本堂になった


本堂前から、山門・鐘楼


10:45
旧東海道に戻り「若王寺」を振り返る


S 字カーブの旧東海道、スピード制限は30km「通学路のため車はスピードをひかえめに」。
このようなカーブはスピードを出しすぎてハンドル操作が・・・・・・





曇り空に紅梅


10:50
土山宿から出ているがこの辺りにも『旅籠 東屋 跡』があったのだ


下は国道1号線の徳原交差点、旧東海道は県道183号線を越える


学童がいるのか飛び出し坊や





屋号、東海道大野村『瓦屋』


街道脇には「土山茶」の茶畑


単純な街道を進み、前方に国道1号線の大野西交差点が見えてくる。
ここまでの歩数は、15,500歩


11:08
大野西交差点の手前角に『東海道 土山宿今宿 石碑』があり、常夜燈が建つ


交差点から旧東海道を振り返る。
名神名阪連絡道路の早期実現を!


国道1号線を振り返る。
常夜燈には『東海道 土山宿今宿』の刻み


国道1号線を渡り振り返る


旧東海道は大野西交差点から斜め左方向の県道549号線へ進む。
左は「甲賀市水口」の標示、西の空は雲がより厚くなるがどうにか雨は降らず


11:10
街道脇に大きな『水口宿』。
旧東海道はこの先を右方向へ進む


昨年の8月にもここでこの案内板を見た


甲賀市をズームアップ


この先の三叉路を右方向へ


11:14
県道549号線から右に入り緩い坂を登るとすぐ右手にあった案内板。
今郷歴史街道マップ『東海道と里山の須恵器の里』
9カ所の史跡・名所の紹介


所在地の地図だが


すぐ横にあったのが『9.稲川碑』
稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。江戸
時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。碑文によれば、天保4年(1647)水口城代の山口
重成(即翁了心ともいう)が土山宿と水口宿の間には飲み水がなく旅人が困っていたため、稲川沿い
に井戸を掘って、水を湧き出させたと言われています。この碑文は延宝4年(1676)、先人の功績を
讃えるために建てられたものです。
また、村の言い伝えでは、源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた
折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。いつしか村民はこの水を
景清の目洗い水と呼ぶようになりました


緩い坂を登ると直ぐ街道の左手に『8.経 塚(KYOZUKA)』


8.経 塚
お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。経塚は一般に、
平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経を
かいた一字一石経などを埋めることが流行し、個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われま
した。この経塚は、延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこ
れを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚とした言い伝わります


小雨が降り出し、街道の左側には『古民家 カフェ 一里塚』の看板


二階が低い『古民家 カフェ 一里塚』 、OPEN と
軒下には多くの薪が積まれていたが暖炉でも?
所在地:滋賀県甲賀市水口町今郷592


11:20
前方に背の高い木が現れる。
ここも昨年8月に訪れているのでかって知った場所である。
ここまでの今日の歩数は、16,300歩


この辺りには一里塚は、泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。
塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。
行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去され
てしまいました


お江戸日本橋から112里目の一里塚


7.今在家一里塚
江戸日本橋から112里目にあたり『今在家村地券取調総絵図』によれば、今の位置よりも東にあり、
また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。江戸時代の一里塚は明治の初年に
撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。今は塚の上に榎が植えられていますが、
かつては桜が植えられていたと伝わります


一里塚から振り返る
塚の手前に『地蔵院 権現山 浄土寺』の石柱



                                 土山宿~水口宿ー続く





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.04.24 03:00:05
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: