おじん0523のヒロ散歩

おじん0523のヒロ散歩

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

オジン0523

オジン0523

カレンダー

コメント新着

フリーページ

2021.06.03
XML
二宮駅前で先輩と分かれ旧東海道(国道1号)を走り帰路に。

4月21日(水) 16:32
旧吉田茂邸
所在地:神奈川県中郡大磯町西小磯
道案内には、階段経由とスロープ経由の表示。
バラ園があるので立ち寄る。駐車場横の駐輪スペースに自転車を止めて邸内へ


大磯城山公園駐車場利用のみなさまへ
駐車料金は平日は「無料」、土・日・祝日は普通車「300円/1時間以内、以降150円/30分毎」     


管理休憩棟


旧吉田茂邸地区 案内図



軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」と呼ばれます。
また、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたことから、別名「講和条約門」と
も言われています。
屋根には、「檜皮葺き」というヒノキの立ち木から剥いだ表皮を成型した檜皮を用い、少しず
つずらしながら重ね、竹釘で固定していく伝統的技法が用いられています。
平成23年度に屋根の葺き替えなどの修復工事を行った際には棟札が発見され、昭和29年に建て
られたこと、昭和57年に修復が行われていたことが判明しました


内門(兜門)を入り、日本庭園
今回は時間が遅いのでここでユーターン


旧吉田茂邸  入館料 510円


内門(兜門)を振り返る





国登録有形文化財(建造物)(2019年 登録)
県立大磯城山公園 旧吉田茂邸地区に所在する兜門、サンルーム、七賢堂は、建てられた当時の
姿を残す貴重な建造物として、国登録有形文化財に登録されています。
【兜門(かぶともん)】昭和29年建築
寄棟造、檜皮葺など、裏千家今日庵の兜門を倣った上質な意匠を持つ数寄屋建築となっています。

建築家・吉田五十八の設計で、細身の鉄骨材による骨組みや、軒を曲面としたポリカーボネート
屋根など、現代的な材料を微細な意匠でまとめています。
【七賢堂】明治36年頃建築
昭和35年に伊藤博文邸から移設した建物で、屋根は入母屋造、銅版葺、正面は虹梁を通して桟唐
戸風の引戸を入れ、良材を用いた丁寧なつくりの小堂となっています。


登録有形文化財 
  第14ー0268~0270号
この建造物は貴重な国民的財産です
     文化庁


門を入るとバラ園


バラ園
吉田茂は、バラの愛好家で、昭和36年頃、現在の駐車場の敷地にバラ園が造られました。
「プリンセスミチコ」と呼ばれる品種をはじめ、多くの種類のバラが植えられていましたが、
昭和54年、当時の大平首相とカーター大統領の日米会談がこの地で行われた際に当時のバラ園
は駐車場になり、面積は縮小されました。
公園整備にあたり、当時のバラ園の一角であるこの地に、吉田茂の好んだ大輪のバラの品種を
再び植栽し、当時の雰囲気を演出しています。


門を入ると多くの種類のバラが植えられていた


開花はこれから


株の根元にはバラの名札が立っている


名前は?


マリアカラス   花期:春 ~ 秋(四季咲き)


マリアカラス   花期:春 ~ 秋(四季咲き)


マリアカラス   花期:春 ~ 秋(四季咲き)


スパニッシュ ビューティ   花期:春(一季咲き)


スパニッシュ ビューティ   花期:春(一季咲き)


ゴールデンドーン   花期:春 ~ 秋(四季咲き)


16:49
旧東海道(国道1号)の滄浪閣前交差点
ここから東側が「東海道松並木」に


この先は旧東海道(国道1号)の大磯中学校前交差点
「東海道松並木」はここで終わる


16:53
旧東海道(国道1号)を進み、照ヶ埼海岸入口交差点
交差点脇に建つ、老舗和菓子屋「新杵菓子舗」
所在地:神奈川県中郡大磯町大磯1107
西行まんぢゅう、虎子まんぢゅうで有名だが、大福も美味しいと!


照ヶ埼海岸入口交差点に立つ、日本橋まで 68kmのキロポスト


照ヶ埼海岸入口交差点から西方向。
右側が現国道1号、旧東海道は左側へ木立の中は「新島襄終焉の地」


英語を併記した新しい案内板。
此辺大磯宿の史跡「南組問屋場」
幕府からの書状の継立てや、参勤交代の大名行列の際に周辺の助郷村々から動員された人足や
馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとってたいへん重要な施設であった。
大磯宿には南組と北組の2個所に問屋場がおかれていた。


木立の中には墓碑が立つ
新島襄は1890年(明治23年)1月23日に療養先のここ大磯の地百足屋旅館で、志半ばにして47歳
の生涯を閉じた


墓碑には「新嶋襄先生終焉之地」


新島襄終焉の地
明治の教育者新島襄は、1843年(天保14年)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男とし
て生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米
先進国の新知識を求めて 1864年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り 、苦学10年キリスト教
主義教育による人民教化の大事業に献身する決意をいだいて1874年(明治7年)帰国、多くの困難
を克服して、翌年京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図し
て東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半
ばにして47歳の生涯を閉じた。


以下2枚の写真は、昨年10月18日(日)の函館の旅の時のものです。 
新島襄海外渡航の地碑
所在地:北海道函館市大町11


新島襄海外渡航の地碑
新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松陰の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を箱館に選んだ。
元治元年(1864)江戸から来て、ニコライ主教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたり
などして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の
官立気候測量所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功した。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874)に帰国し、翌8年京都において
同志社大学の前身である同志社英学校を創立した


16:59
旧東海道(国道1号)の大磯駅入口交差点


17:01
国道1号から山側へ入り旧東海道を進む
松並木が立ち並ぶ


此辺大磯宿の史跡「江戸見附」
宿場の出入口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。
また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見
附と呼んでいた。なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。


東海道五拾三次之内大磯(虎ヶ雨)広重画 大磯ガイド協会 前山 茂 加筆


17:02
旧東海道はJR東海道本線で分断されているため地下道を潜る


17:03
JR東海道本線から江戸側へ入り松並木を化粧坂へと進む


17:15
平塚宿の江戸見附
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附が
ありました。本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視す
る見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を
守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭
で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、
宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました


17:22
旧東海道を進み「東海道 馬入一里塚跡」


東海道 馬入の一里塚
慶長9年(1604)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように
一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約4キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料に
よれば、五間(約9メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。
旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなり
ました。
馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて15番目の一里塚で、旧東海道
をはさんで南北に一つずつの塚がありました。文化3年(1806)に出版された「東海道分間延絵図」
には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。
         平成16年(2004)3月    平塚市


旧東海道(国道1号)の工業団地入口交差点
交差点角にある老舗和菓子屋「弘栄堂」
所在地:神奈川県平塚市榎木町9-45
弘栄堂名物のちょんまげ最中、力餅(黒蜜ときなこで頂くお餅)


17:25
和菓子屋「弘栄堂」の並びの東側にある「ホテルサンライフガーデン」
所在地:神奈川県平塚市榎木町9-41
落ち着いた雰囲気の客室を備えたくつろげるホテル。
レストラン、チャペル、イベントスペースがある


ホテルの玄関先に立つ石柱「明治天皇馬入御小休所趾」


遺跡の由来
平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆される
べき遺跡だといわれている。
大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって杉
山を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就いて医
学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。
又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行を
利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部で石
油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣を構築
みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。
明治6年8月30日、明治天皇、皇后(照憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息された
のは天皇22歳、皇后24歳のときである。又、明治11年11月8日には明治天皇の再度御立寄の光栄
に浴した。
明治15年7月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域に於
ける最初の銀行で頭取は杉山泰助、江陽の名は耕餘塾小笠原東陽の命名である。「明治天皇馬入
御休所跡の碑」は昭和15年皇紀2600年記念に泰助の孫久吉が建立した。
揮毫は子爵金子堅太郎である。
     平塚市文化財保護委員 八十三叟     高瀬慎吾


17:27
ホテルサンライフガーデン前から国道1号に上がり
左の建物は「馬入排水樋菅」


旧東海道(国道1号)の馬入橋の上にある「日本橋まで 62kmのキロポスト」
この先で茅ヶ崎市に入り


17:50
旧東海道(国道1号)のキロポストは「日本橋まで 57km」


キロポストの横に「東海道の松並木」
茅ヶ崎市内の国道1号沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定
樹齢400年)の大きな松が育っております。
遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はそ
の時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれております。
長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう。
          茅ヶ崎市教育委員会
          茅ヶ崎の文化財を守る会
        建設省      昭和六十二年九月 


以前の松は枯れ若木に


今日の走行距離は、93ー56=37km、歩行数は 2,000歩。走行中はカウントされないようで
歩行数が少ない。

                                        END





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021.06.03 03:00:05
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: