おじん0523のヒロ散歩

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2021.06.05
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カテゴリ: 日本100名城
時間をかけ、山中城のツツジを楽しむ。

4月24日(土) 10:30
西櫓と西ノ丸の間の障子掘越しに見事な富士山が見えていた。
始めて見る光景である


ツツジとのコラボも見事に


山中城にはもう何度も来ているがタイミングが良かった


西櫓南面のツツジ


西櫓南面の畝、奥は西木戸口


西木戸口にあるトイレ



中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている


西櫓から西ノ丸畝堀を見下ろす


二ノ丸、本丸方向の東方向をズームアップ


障子掘(しょうじぼり)
後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀
が掘られている。
西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を
出し、障子の桟のように区画されている。また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった
水は南北の堀へ排出される仕組みになっている。
このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中で
も特異な構造である。



西櫓の一段高い櫓台からの富士山


櫓台から富士山をズームアップ


後北条氏の角馬出
戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と
呼んでいる。

塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。
これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。
西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿
って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の
外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。
この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。
     平成16年3月   三島市教育委員会
写真は、西櫓・西ノ丸鳥瞰図


西櫓・西ノ丸鳥瞰図


西櫓の堀立柱建物跡(長方形部分)


堀立柱建物跡
発掘調査の結果、南西の区画から堀立柱建物跡のものと思われる柱穴が二十本検出した。弓矢
や鉄炮等を立て掛ける施設と思われるが、検出した柱穴は、柱間及び方向が不揃いで、どの柱
穴がこの建物に伴うものか確定できないため、床面と思われる範囲についてのみ平面表示した。
     平成27年3月   文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会


西櫓の西側の障子掘と北側の帯曲輪


サクラの時期も最高であろう


西櫓の南側の障子掘、帯曲輪を振り返る


左手前から、西櫓、西ノ丸


西櫓堀(西櫓の西側の障子掘)と北側の帯曲輪


西櫓堀(にしやぐらぼり)
堀内には、ほぼ9メートル間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はロー
ム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2メートル、頂部の幅は約0.6メート
ルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は
2.4メートル、長さは中央で9.4メートル、堀底から西櫓までの高さは9メートルもある。
現在は植栽されているが、400年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、
もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。
     平成12年3月   文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会

西櫓の西側をズームアップ


西木戸に建つ、国指定史跡「山中城跡案内図」
現在地は赤丸の「西木戸」


国指定史跡山中城跡  (昭和9年1月22日指定)
史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築
したものである。やがて天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の
増築が始まり、翌年3月、豊臣軍に包囲され、約17倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられ
る悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑
寺境内に苔むしている。
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和48年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、
その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に
解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等
の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命で
ある飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術
的にも貴重な資料を提供している。
     平成12年3月   文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会
写真は、障子掘、畝堀


西木戸から東方面
箱根の山が後方に見える


西木戸に建つ「史跡 山中城阯」の石柱


右側は、西櫓、左側は北側の帯曲輪で桜並木


西木戸口から富士山の裾野


手前の建物は「三島市立 箱根の里」
所在地:静岡県三島市字北原菅4710番地の1
箱根少年自然の家は、昭和62年4月18日に開所し、前年度開設の箱根キャンプ場とあわ
せて「三島市立箱根の里」として運営を開始しました。自然と触れ合う機会の少ない子
供たちに自然の中で集団宿泊生活を基調とした諸活動を体験させ、社会性豊かな心身と
もに、たくましい人間の育成をめざす社会教育施設です


北側の帯曲輪からの西櫓堀、右側は西木戸口に建つ石柱


西櫓斜面のツツジ


ズームアップ


北側の帯曲輪に「三島市眺望地点 山中城跡」


平成14年12月16日指定
左から、駿河湾、三島市街地、愛鷹連山、富士山、手前に三島市立 箱根の里


山中城跡の北側下を走る、笹原山中バイパス(国道1号)


北側の帯曲輪から西ノ丸を見上げる


西ノ丸と西櫓の間の障子掘
綺麗に整備されている。この間に架橋があったと


西櫓の架橋
西櫓の曲輪を囲む約82メートルの西櫓堀は、ほぼ9メートル間隔に作られた八本の畝によって、
九区画に区切られている。
第九区画に隣接する一段高い平坦面から四本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架け
られていた事が推定された。
日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。
     平成12年3月   文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会
絵は、架橋復元図


10:48
西ノ丸の北側の帯曲輪から


西ノ丸堀(にしのまるほり)
西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮
しており、堀の末端は谷に連なっている。
西櫓と西ノ丸の間は、中央に丸い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ
丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。
このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値
も高いものである。
     平成12年3月   文化庁・静岡県教育委員会・三島市教育委員会



                                     — 続く ー





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最終更新日  2021.06.05 03:00:05
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