耳(ミミ)とチャッピの布団

耳(ミミ)とチャッピの布団

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

monmoegy

monmoegy

Favorite Blog

ねこちゃん New! moto,jcさん

豆花というより豆乳… New! danmama313さん

昨日からちょっと頭… New! marnon1104さん

給料日とゴミだし New! 空夢zoneさん

豆腐ハンバーグ 5… New! ララキャットさん

Comments

moto,jc @ Re:危険な鳥(05/10) New! おはようございます モヒカン刈り みた…
ララキャット @ Re:危険な鳥(05/10) New! そんなに大きな鳥なんですか? ご飯、上げ…
空夢zone @ Re:危険な鳥(05/10) New! こんな鳥に出会ったら、腰が抜けてしまい…
danmama313 @ Re:危険な鳥(05/10) New! 鳥というより恐竜に近そうですね(^^;) 動…
marnon1104 @ Re:危険な鳥(05/10) New! ヒクイドリは以前テレビで観た事があると…
Mar 27, 2024
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
プーチンのウクライナ侵攻で、その初期からプーチンを支持して、ウクライナ侵攻を「祝福」してた宗教家がいましたね。

ロシア正教会のトップ、キリル総主教のことです。


キリル総主教と云うのはプーチンと同じサンクトペテルブルグ出身です。
イギリスの「タイムズ」によると、神学校に通い始めた1972年に旧ソ連の政治警察「国家保安委員会」(KGB)からリクルートされ、25歳でミハイロフというコードネームを持つKGBの工作員になったらしい。
つまりプーチンと同郷で、同じくKGB出身と云うこと。
いやはや聖教者がスパイなんて、何て国なんでしょう。

キリル総主教は来日したことあります。
2000年に、日本正教会の首座主教着座式のため、モスクワ総主教アレクシイ2世に随行して来日してるのです。

キリル総主教が怪僧なら、ロシアにはもっとスゴイ怪僧がいましたね。
グリゴリー・エフィモヴィチ・のことです。
第1次大戦まで帝政ロシアで暗躍した祈祷僧。
ロシア帝国崩壊の一因を作った人物です。
1869年、サンクトペテルブルクから約4,000km 離れた西シベリアの目立たない村ポクロフスコエで貧しい農家に生まれたラスプーチン。
19歳のときに結婚して、4人の子供をもうけましたが、1892年に家族を捨てて家を出ていきました。
それからは精神的啓発を求めて数年間ロシアを放浪したのです。

医学では治りがたい病気を独自の療法で治療する「代替医療」や「オカルト」への関心が1905年までにロシアのエリート層で流行してました。
ラスプーチンはサンクトペテルブルクで精神的な教祖兼治療者としての地位を得たのです。
そうして主に女性の崇拝者たちの一派がラスプーチンの周りに集まりました。

今でもこう云う自称宗教家で女性信者を洗脳する輩がいますね。
女性をベッドに招き入れる手段として、名声を利用してたラスプーチン。
上流社会の貴婦人から売春婦に至るまであらゆる女性と関係をもつ彼の性癖は、既にロシア国民の間で深い疑念を抱かせていました。

ところが神秘主義に傾倒する、ピョートル・ニコラエヴィチ大公の妻ミリツァ・ニコラエヴナとアナスタシア・ニコラエヴナ大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり、ラスプーチンはついに大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見することになるのです。
当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していました。

医師たちはラスプーチンの能力を信じてませんでしたが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善してしまったのです。
歴史家によると、ラスプーチンの治療と云うのは1899年以降流通したアスピリンを投与したことによる鎮痛治療だったとしてます。
アレクセイ皇太子の治療で、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになります。
しかし、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと思っていて、侍医のエフゲニー・ボトキンとウラジーミル・デレヴェンコは、ラスプーチンが催眠術を使ってると思っていたのです。

やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになります。
彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の並外れた精力によるものと云う噂が広がり、ついにはアレクサンドラ皇后と関係をもってるとまでウワサは広がっていったのです。
そして、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の1人になっていきます。
やがてラスプーチンは、ニコライ皇帝に政治的なアドバイスまでするようになります。
これが他の貴族や政府に敵を作り始めたキッカケとなります。
ロマノフ家の他のメンバーはラスプーチンをインチキで詐欺師として軽蔑してました。

1914年、ニコライ皇帝は、第1次大戦拡大の要因の1つと云われるロシア軍総動員令を布告して、ドイツ帝国との戦端を開きます。
しかし東プロイセンのタンネンベルク周辺で戦われた「タンネンベルクの戦い」では、敵の3倍近い兵力を有していながら約20万人もの兵士を喪失するという壊滅的な敗北を喫します。
翌年にはさらに状況が悪化して、大敗に次ぐ大敗を喫し、戦況が悪化した夏には「大退却」を余儀なくされる始末。
ニコライ皇帝はラスプーチンの予言によって、閣僚のほとんどが反対したにもかかわらず、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執るようになります。

親征のため皇帝不在の首都ペトログラード(ペテルブルク)では、ニコライ皇帝から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導。
気に入らない人物を次々に罷免していきます。
このため、ふたりの人気はダダ下がりで、貴族から民衆までもが、彼らの出自を揶揄した「ドイツ女」「怪物」と蔑んで憎悪の対象としたのです。
1917年、ついに「二月革命」が起こり、ニコライ2世は退位させられます。
300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になったのです。
やがてニコライ2世を始め、アレクサンドラ皇后や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流されます。
家族は1918年、ロマノフ一族全員の殺害命令を受けた革命軍により、監禁先のエカテリンブルクのイパチェフ館で銃殺されてしまいます。
こうしてロマノフの血は途絶えますが、それではラスプーチンは?
それはニコライ2世が退位した3ヶ月前、1916年12月に遡ります。

ロシア帝国の大貴族フェリックス・ユスポフ王子は、病気の治癒を理由にラスプーチンに近付き信頼関係を築きます。
しかし、それは単に近づくための方策でしかありませんでした。

1916年12月30日、ユスポフは同士とともにモイカ宮殿でラスプーチンを暗殺します。
暗殺場所には防音設備が施された地下室が選ばれました。
ラスプーチンは心臓、肺を銃で撃たれた後、中庭に向い、そこで腎臓を撃たれますが、それでも死ななかったためユスポフに激しく殴打されました。
雪の上に倒れ込んだラスプーチンは額を撃たれてようやく死亡します。
そしてラスプーチンの遺体はペトロフスキー橋からネヴァ川に投げ捨てられたのです。
ユスポフは、宮殿、邸宅、宝石、油田、石炭鉱山、鉄鉱山、工場、製粉工場などの財産を相続した裕福な貴族です。
ニコライ2世が退位し、ロマノフ朝が崩壊すると、ユスポフはモイカ宮殿から宝石や絵画を持ち出し、家族と共にイギリス軍艦「マールバラ」でロシアから脱出します。
乗艦中、ユスポフは乗員たちにラスプーチンを暗殺したと自慢していたそうです。

マルタに到着したユスポフ一家は、イタリアからフランス、イギリスと亡命を続け、その都度、ワイロのために膨大な財産を使いました。
1920年にロンドンからパリに戻り、それ以降はパリ16区のオートゥイユ地区で、ロシア時代と変わらぬ贅沢な暮らしを続けたのですね。
それがために、ついには財産を使い果たし生活は困窮しました。
ユスポフは事業なんかにも手を出しましたが、もともと商才がないので上手くいくワケありません。

1927年、フェリックスはラスプーチンの死を収入源として利用するため、「ラスプーチンの終わり」「ロスト・スプレンダー」などの著作で過去から利益を得て生活するに至るのです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Mar 27, 2024 04:50:25 AM
コメント(7) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: