耳(ミミ)とチャッピの布団

耳(ミミ)とチャッピの布団

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

monmoegy

monmoegy

Favorite Blog

歯医者さんに New! パパゴリラ!さん

大雨だぁ~ New! あきてもさん

東北楽天ゴールデン… New! moto,jcさん

4毒 11月26日 New! ララキャットさん

もう疲れてしまって… New! 空夢zoneさん

Comments

marnon1104 @ Re:三峡老街へ(11/27) New! 三峡、日本統治時代の建物が残っている そ…
パパゴリラ! @ Re:三峡老街へ(11/27) New! 山峡街は日本統治時代の建物が並ぶとあり…
moto,jc @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! おはようございます ビビアン・スーさん…
あきても @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! 外国に行っても行きたい場所 一人で行け…
ララキャット @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! へえ、現地語で話しかけられましたか? …
Nov 27, 2024
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
きのうパパゴリラ! さん
きのう行った「烏来老街」ってど~読むの?
「烏来」は「ウーライ」で「老街」は「ラオージェ」ふたつあわせて「烏来老街」=「ウーライラオージェ」です。
「老街」は「旧市街」とか「古い町」と云うイミです。

きょうは今回の旅の目玉「三峡老街」を目指します。
三峡老街は台北ではなく、新北市と云うところにあり、台北駅から台湾鉄道で「鶯歌」駅で降りるか、MRT台北駅から板南線に乗って「新埔」駅で下車します。
鶯歌駅は台湾で有名な陶磁器の産地です。
鶯歌駅から路線バスで約30~40分で三峡老街に着くのですが、私はバス待ちが面倒でタクシーを使います。


「老街」と呼ばれる伝統的な商店街の中でも台湾で最長と云われ、明代末期に中国大陸からの移住者が開墾に入りました。
河沿いで水の便がよいことから沿岸に集落ができ、清代乾隆期に入ると、三角湧街と称される商店街が形成されます。
当時付近で染料用のリュウキュウアイが生産されてたことと、水量も豊富なことから、染色業が勃興して、波止場とその周辺は、茶葉、染め物、樟脳の集散地として栄えた街です。

レンガつくりの建物には当時の戸主や商店の名前がレリーフやガラスモザイクで記されており、「亭仔脚」と呼ばれる2階部分が1階入口の上に張り出し、柱で1階部分に回廊のような通路を形づくる中国様式であると同時に、ヨーロッパのバロック様式を取り入れたのとか、日本の家紋を模した飾りが見られたり、多様な様式が融けあってます。

三峽という地名は、元々この地区に住んでいた少数民族タイヤル族の「三角躅」から始まってます。
移民してきた漢人がこの言葉を聞いて「三角湧」と表記、その後「三角湧」と呼ばれるようになりました。
今も老街には「三角湧」と表記されているものがあります。
「三角湧」とは大漢渓、三峡渓、横渓の3つの川が合流して波立つという意味があります。
その後日本統治時代の1899年(明治32年)に「三角湧庄」が置かれ、閔南語発音の「三角湧」に発音の似た日本語の「三峽」へ名称が変更され、1920年(大正9年)に「三峽庄」となり、1940年(昭和15)年に「三峽街」となりました。

「三峡歴史文物館」
この建物は日本統治時代の1929年に建造されたもので、元々は役場でした。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Nov 27, 2024 05:41:48 AM コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: