2022 0
2021 0
2023 0
全450件 (450件中 1-50件目)
引用サイト:国史跡出雲国山陰道跡 出雲市 こちら参考サイト:古代山陰道のルートとは? こちら参考サイト:保存活用計画 出雲市 こちら
2024.11.23
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関連サイト:武蔵坊弁慶まつり こちら
2024.11.22
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1121
2024.11.22
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関連日記:2021.11.09の日記 弓ケ浜半島 こちら関連日記:2005.01.08の日記 トラップ こちら関連日記:2022.02.02の日記 石原都知事 こちら関連サイト:生息数等の推移(取組状況) 東京都 こちら生息数捕獲数苦情件数関連サイト:オオタカがトラップに こちら
2024.11.18
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引用サイト:御井神社ホームページ こちら関連サイト:八上姫の御子を祀る神社 こちら参考サイト:八神姫について こちら
2024.11.17
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日本海新聞 1111関連サイト:米子がいな太鼓保存会 演奏会動画 こちら
2024.11.16
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関連日記:2024.10.21の日記 こちら引用:里海と弓浜半島の暮らし今日の追っかけ:龍宮(りゅうごん)さん関連「ツトデに入れたミカン」イメージ想像引用サイト:こちら大根島近くの『龍宮神社』引用サイト:こちら皆生海岸の龍宮神社引用サイト:こちら出雲大社 神在祭 龍蛇信仰 こちらセグロウミヘビ美保関 エビスさん引用サイト:こちら
2024.11.15
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引用サイト:松江市こちら
2024.11.15
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日本海新聞 1112関連サイト:車道の一部を歩ける空間にしてにぎわい検証する社会実験 米子 NHK こちら関連日記:2024.08.04の日記 こちら
2024.11.13
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玉正鳳(右)を寄り切りで破る伯桜鵬(撮影・成瀬 徹)© (C) スポーツニッポン新聞社 ◇大相撲九州場所3日目(2024年11月12日 福岡国際センター) 西十両2枚目の伯桜鵬(21=伊勢ケ浜部屋)が東十両4枚目の玉正鳳(31=片男波部屋)を寄り切り、2勝1敗とした。この日、昨年春場所での新十両昇進以降初めて、大銀杏を結って相撲を取った。師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱・旭富士)から前夜、結うように指示があったと振り返り、「あまり変わらない。普通の白星です」と淡々と語った。 一方で、初土俵前にテレビなどで目にした、「憧れたところへ少し近づいた」との感慨も語った。大銀杏は場所前に一度試したというがこの日、まだ短い髪の毛を目一杯使って結ったため「痛かった。でも関取っぽいかな」と笑顔ものぞかせた。引用サイト:こちら取り組み動画 こちら
2024.11.12
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関連日記:2023.11.25の日記 鳥取大医学部が「湊山公園」の土地の一部使用を要望 こちら関連日記:2022.04.10の日記 湊山 城址 花見 こちら関連日記:2023.03.14の日記 花見会場における屋台配置考 こちら関連日記:2023.08.25の日記 ソテツ雌花開花 こちら関連日記:2022.02.20の日記 潮止の松プロジェクト こちら関連日記:2024.06.24の日記 中海でオープンウオータースイム こちら関連日記:2022.07.03の日記 彫刻のある風景 作品「ふるさと」 こちら関連日記:2022.01.08の日記 米子城址から望む「雲伯不二」 こちら関連日記:2022.10.21の日記 ダイヤモンド大山 こちら関連日記:2023.05.09の日記 希少植物「カザグルマ」見つかる こちら関連日記:2023.05.07の日記 米子城跡の樹木伐採 こちら関連日記:2023.06.28の日記 城址案内板 塩対応 こちら関連日記:2022.01.31の日記 夕日に祈り 米子城址 こちら関連日記:2022.01.06の日記 米子城東の砦 飯山城址 こちら
2024.11.11
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松江市美保関町下宇部尾沖のつるべ湾。境水道に近く江島大橋と大山を望む穏やかな水域に、中海の冬の味覚・赤貝(サルボウガイ)の養殖いかだが浮かぶ。約500メートル離れた岸壁では、中海漁協の組合員が水揚げ、洗浄、選別と出荷作業に忙しく立ち回り、女性たちが赤貝の殻の付着物を金属製のへらで取り除く作業に余念がない。 かつて国内屈指の赤貝の産地だった中海。最盛期の昭和30年代は1600トン以上の水揚げを誇ったが、干拓事業や水環境の悪化で激減。1977年の2トンを最後に統計記録から消えた。干拓・淡水化事業の中止を受け、中海漁協と島根県水産技術センターが産地復活へ試験養殖を始めてから今年で11年目になる。 稚貝をかごに入れて海中に垂下する養殖方法は、フジツボなど付着生物を定期的に除去しなければならないのが難点だが、餌のプランクトンが豊富な水深で育てられるため、身がぎっしり詰まり、味が濃厚と評判がいい。今季は下宇部尾地区をはじめ、八束、安来など中海沿岸10カ所で養殖が行われ、約6トンの出荷が見込まれている。 外谷久人組合長(73)は「10トンを目標に7月までは順調だったが、8~10月の高水温で斃死(へいし)が生じた。皆さんの期待に応えたいが、異常気象もあり、年々、新しい課題が出てくる」と苦労を打ち明けながら、「今年は大きいものも多いし、不漁だった昨年よりは多くの人に届けられるだろう」と話す。 赤貝の化身の女神の手当てで大やけどから再生した大国主の神話も伝わり、殻蒸し、煮付け、炊き込みごはんなど地域の食文化を育んできた赤貝。中海では今年9月から貝養殖の漁業権も設定された。復活に向けた挑戦は続く。(久保田恭子)引用:日本海新聞 2023年12月15日関連サイト:島根県の中海で漁業権が50年ぶり復活 中国新聞 こちら関連サイト:有用二枚貝(サルボウガイ)の復活を目指す事業 自然再生センター こちら関連資料:垂下養殖されたサルボウガイの成長と生残 島根大学 こちら関連資料:篭垂下飼育したサルボウガイの母貝としての有効性 島根県水産技術センター こちら関連資料:岡山県西部海域で垂下養殖 こちら関連サイト:中海の赤貝とそりこ舟 こちら関連サイト:松江美保関 「つるべ湾」団地計画再検討 中海埋め立て地、断層考慮 こちら関連サイト:日本の面影が残る漁港 こちら参考サイト:えびす こちら今日のおっかけ:八百屋お七の恋人、吉三が眠る町引用サイト:美保関町 仏谷寺 こちら引用サイト:駒込 吉祥寺 こちら引用サイト:駒込 吉祥寺 こちら引用サイト:岡山市北区御津吉尾 こちら引用サイト:美保関町 仏谷寺 こちら引用サイト:静岡県島田市 こちら引用サイト:目黒区 大円寺 こちら引用サイト:出雲市 鰐淵寺 こちら
2024.11.10
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・・・・新聞切り抜き:中海探訪 黄泉比良坂(松江市)安来市との市境に近い松江市東出雲町揖屋にある、もう一つの「境」が近年注目を集める。古事記であの世(黄泉(よみ)の国)とこの世(現世)の境として描かれた「黄泉比良坂(よもつひらさか)」だ。愛する人に思いが届く場所として、「天国(黄泉の国)への手紙」のポストが設置され、訪れる人が絶えない。 月曜の午後、記者が初めて訪れた黄泉比良坂。駐車場はわずかに6台分ほど。堺市から訪れた60代の2組の夫婦はテレビ番組で知ったという。「墓参りだけでなく、亡くなった両親にじかに思いを伝えたい」と語り、時間をかけてつづった手紙をポストに投函(とうかん)した。 米子市内から来たという20代の女性2人。そのうちの1人は、病気で亡くなった同級生への思いを手紙に託した。30分ほどの間に30~50代の男女を中心に10人以上が訪れた。カメラに映像を収めて帰るだけの人もいた。 国造りで知られる男神イザナギと女神イザナミ。イザナギは、亡くなった最愛のイザナミを追って黄泉の国を訪れるが、変わり果てた姿に驚いて逃げ帰り、現世との境を巨大な岩「千引岩」でふさいだという。 黄泉比良坂はその伝説が伝わる場所とされ、伝説地を記す石碑(1940年建立)と千引岩を思わす大きな石が並ぶ。ポストは訪れる人の思いに寄り添えればと、2017年に東出雲ライオンズクラブと管理する黄泉比良坂神蹟(しんせき)保存会が設置した。便箋と筆記用具も備え付けた。投函された手紙は毎年6月第3日曜にたき上げる。同クラブ事務局によると、23年6月までに延べ7800通以上が寄せられた。 ポストを発案した同クラブの森山建二さん(76)は「お礼の手紙も頂いており、黄泉比良坂とポストがいつまでも多くの方の癒やしにつながれば」と話している。(上本康成)引用:日本海新聞 2023年12月22日関連サイト:根の国とは?黄泉の国との違い こちら関連サイト:大国主神の国作り 根の国訪問「須勢理比売との出会い」 こちら
2024.11.10
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日本海新聞関連サイト:1.鳥取駅周辺再生基本計画を策定しました こちら
2024.11.09
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日本海新聞 1107予告編 動画 こちら『ちあきの変拍子』監督:白岩周也、福留莉玖(18歳、17歳/米子工業高等専門学校 放送部)イマジナリーフレンドと決別したい!自分を抑えて生きる女子高生・千秋と、彼女が創り出した春貴という人格。必死の我慢を邪魔されることに我慢ができなくなった彼女は、ついに"彼"を消し去ろうとするが...。カタルシスと喪失感と希望が背中合わせのスリリングな青い春の叫び。カラー/31分監督・脚本・撮影・編集:白岩周也/監督・編集・撮影・制作進行・脚本:福留莉玖/脚本・撮影・記録・音声:富谷彩愛/音声・撮影・記録・編集:森灘 結/音楽:大倉拓真出演:上阪彩子、葉狩羽流、靏亀琥太郎、德中美桜、平沢理緒参考サイト:コンペティション部門PFFアワード2024 こちら
2024.11.07
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辻晋堂 二部時代京都 アトリエ参考サイト:異才 辻晉堂の陶彫「陶芸であらざる」の造形から こちら関連日記:2024.11.03の日記 辻晋堂 京都時代 こちら関連日記:2024.11.02の日記 東京時代(辻晋堂) こちら関連日記:2024.11.01の日記 東京時代(辻汎吉) こちら関連日記:2024.10.30の日記 二部村時代 こちら
2024.11.06
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石破首相は4日、東京都内で開かれた自身の地元・鳥取の県人会の会合で挨拶し、衆院選の結果を受けての反省に触れた上で「民意を丁寧に聞き、大勢の人に納得してもらえる政策を出していく」と、政権運営への意欲を示した。石破首相はあいさつの冒頭、自身の5回の自民党総裁選への挑戦について「ギネスに載ろうと思ってやったわけじゃないが、5回目で自民党総裁になりギネスに申請したら多分載せてもらえると思う」と自虐ネタを披露した。さらに、同じ中国地方出身の歴代総理大臣(島根=若槻・竹下、岡山=犬養・平沼・橋本、広島=加藤友三郎・池田・宮沢・岸田、山口=伊藤・山県・桂・寺内・田中義一・岸・佐藤・安倍)について触れ、「鳥取だけ(総理が)出ない、おかしいでないかみたいなことずっと言われてきた」と自虐を交えつつ、鳥取出身初の首相となった誇りをにじませた。その上で、衆議院選挙で大きく議席を減らしたことについて「反省すべきところはたくさんある」「野党の方々にいろんな民意が示されたわけで、それを一つ一つ丁寧に聞きながらどうやって大勢の人に納得してもらえる政策を出していくことができるか。そして、どこが違ってどこに一致点を見出すんだよっていうことが分かるようにしていきたい」と、今後の政権運営に意欲を示した。 あいさつで首相は先月の衆院選鳥取1区での得票に触れ「すごい票を頂戴した」と感謝の意を示した。その上で「世の中から(私が)たたかれるほど『鳥取県民が守ってやらんといけんじゃないか』と思っていただけるというのは本当にありがたい。その気持ちに反することがないよう、これから先もやっていきたい」と決意を語った。勝部会長は「鳥取県人は石破総理の第一の応援団。一番の推しを今後もずっと続けていく」と話した。引用サイト:日本海新聞 こちら
2024.11.05
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前衛陶芸 京都の集団「走泥(そうでい)社」八木一夫「ザムザ氏の散歩」(1954年、京都国立近代美術館蔵)林康夫の「無題」(1950年、左)や「雲」(1948年、左から2番目、ともに京都国立近代美術館蔵)など四耕会の作品が並ぶコーナー1950年代後半の山田光の作品の展示鈴木治「作品」(1954年)引用サイト:こちらイサム・ノグチ関連日記:2022.11.25の日記 グローカル・アート こちら関連サイト:「イサム・ノグチ 発見の道」東京都美術館 こちら沼田一雅引用サイト:こちら日本陶彫の父であり、日本陶彫会の創始者である沼田一雅は、フランスのセーヴル陶磁器製造所で働くことを許された最初の日本人です。農商務省海外窯業練習生として、1903年(明治38年)にセーヴルへ赴いた沼田は、日本に当時なかった、彫刻の技法を応用した陶磁彫刻を多く目にすることになります。これに刺激された沼田は帰国後この分野の啓蒙につとめ、日本に陶彫芸術の種をまきました。沼田一雅の彫刻に対する態度16か条が文献に残っており、当時の沼田の志を知ることができます。ものをつくるとき、写生であっても写生でなくても精神を主にすること省略すること軽妙であること味のある作品であること技巧の妙味があること作品の皮相的形態でなく内面にあるものをつかむことが必要肉づけの部分感が全体の力に総合していること誇張の過ぎたものはいけない形、量感、均等ということに注意すること写実をこえて、ある程度の表現(想像)も必要動の一瞬を明敏な感覚でつかむこと魂を失った写生主義はいけない(形だけで死んでいるもの)表情のないものはいけないどんなものにも精魂をつくさなければいけないいたずらに流行を追うモダン主義は廃頽的である美観をあたえぬ作品は価値がない(沼田一雅遺作展 : 近代陶彫の創始者より引用)引用サイト:こちら関連サイト:辻晉堂の陶彫 こちら関連サイト:辻晉堂が「オブジェ焼き」に及ぼした影響 こちら関連日記:2024.11.02の日記 東京時代(辻晋堂) こちら関連日記:2024.11.01の日記 東京時代(辻汎吉) こちら関連日記:2024.10.30の日記 二部村時代 こちら
2024.11.03
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引用サイト:こちら辻晋堂《詩人(大伴家持試作)》1942年引用サイト:こちら関連サイト:鶏と女 こちら棟方志功引用サイト:こちら堀内正和堀内正和(1911~2001)は、日本の抽象彫刻を代表する作家のひとりで、次世代の彫刻家たちに大きな影響を与えました。東京高等工芸学校在学中の1929年に18歳で第16回二科展に初入選。早くから抽象彫刻を志した堀内は、戦争中に一時創作活動を中断しましたが、戦後、活動を再開させると、サンパウロ・ビエンナーレやインド・トリエンナーレなど、海外にも広く紹介されました。引用サイト:こちら関連サイト:堀内正和展 おもしろ楽しい心と形 こちら関連日記:2024.11.01の日記 東京時代(辻汎吉) こちら関連日記:2024.10.30の日記 二部村時代 こちら
2024.11.02
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関連サイト:南部町 こちら
2024.11.02
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千家元麿(せんげ もとまろ) 1888~1948千家元麿の父・千家尊福は出雲大社大宮司で、東京府知事、司法大臣を歴任した政治家であった。1888年(明治21)、麹町三丁目(現:一丁目)の高級官僚の父の別邸で生まれた元麿は、自由奔放な青年時代をここで過ごした。母・小川豊子は梅崖と称した日本画家であったが、元麿は妾腹の子という悩みをもって青春を過ごした。歩いても数分の所にあった近くの武者小路実篤とは幼少の頃から親交を結び、後に同じく白樺派の詩人として活躍する。引用サイト:こちら新海 竹蔵(しんかい たけぞう、1897年(明治30年)6月12日 - 1968年(昭和43年)6月13日)は、日本の彫刻家である。新定型詩誌「聯」創刊にあたつて [昭和13年]聯は今日、聯句とか聯句詩とか呼んでゐる新定型詩でありますが、その原型遠く萬葉の長歌あるひは今様のうちに発見せられるものであります。われわれがこと新しく、この殆ど死滅せる詩型を改造せんとし、これに新生命をふき込まんとするのには、いささかのいわれがあります。今日西洋詩の藝術観念をくぐつてきたわれわれの批判の眼に耐え得る伝統の詩型は、短歌にあらず、俳句にあらず、実に聯と呼ぶこの詩型一つであることを堅く信ずるからにほかありません。われわれは日本語による真の完全最小の詩型が聯であることを主張するとともに、この新定型詩を新興日本の代表的詩型たらしめたいと望んでゐます。もとよりこのやうな大事業は一朝一夕にできるものではなく、かつ一二の才能によつてよくなし得るものでもありません、広く天下に呼びかけるわけです。なほわれわれは新らしい時が聯一つであるなどと思ふものではありません。しかしながら他のこれよりより長大な詩型の詩を作る場合にも、聯をつねに作つてゐることが最もよい修業の道であるとは深く信じてゐます。多くの同志の参加を望んでやみません。 月刊「聯」創刊発起人代表 佐藤一英引用サイト:こちら平櫛田中平櫛田中(1872~1979)は岡山県井原市に生まれた、近代日本を代表する彫刻家です。 本名を倬太郎(たくたろう)と言い、田中家から平櫛家に養子に入ったのち、田中(でんちゅう)と号しました。107歳でその生涯を閉じるまで、明治・大正・昭和の三代に渡って活躍しました。岡倉天心と西山禾山に思想的な影響を受け、伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学んだ田中の作品は、観る者を引き込む緊張感と、人間味あふれる豊かな創造性を持っています。なかでも井原地方の古い伝承に基づく《転生》(東京芸術大学大学美術館蔵)や、六代目尾上菊五郎をモデルに約20年の歳月をかけて完成した《鏡獅子》(東京国立近代美術館蔵、国立劇場展観)は、こんにち平櫛田中の代表作として知られています。転生(てんしょう)1920年(大正9年)ブロンズ 一見すると、不動明王のように見えるこの像は、実は仏教的な意味はありません。「生ぬるいものは鬼も喰わない、喰うには喰ったが、気持ちが悪くさすがの鬼も吐き出してしまう」という田中が小さい頃、よく聞かされた話を基に作られています。生ぬるい人間を嫌った、田中の自戒の意味もあったと思われます。 これは、日本美術院の研究所で、3年間にわたる塑造の研究の成果があらわれた作品です。田中の制作を前半と後半に分けたら、前半の代表作の一つにあげられます。引用サイト:こちら関連日記:2024.10.30の日記 二部村時代 こちら
2024.11.01
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日本海新聞 1020追悼:松岡正剛さん「面影」~日本で一番大事な言葉です~ 私がコンセプト・ジャパンとしていちばん大事にしている日本語は「面影」である。NHKで8回にわたって日本文化の特色を歴史的に視覚講義してほしいと頼まれたときも「おもかげの国・うつろいの国」と名付けた。 万葉集に「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを」という、笠女郎が大伴家持に贈った歌がある。家持が心ならずも陸奥に赴任したとき、笠女郎があなたの姿は都からは見えないけれどその面影はいつも見えていますよと詠んだものだ。その家持が坂上大嬢に贈った歌にも「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目しげくて」とあって、人目があるのでなかなか会えないけれど、面影とはいつも会っていますよと歌っている。 面影は現実の日々を超えてイメージの中で去来するプロフィールなのである。「俤」とも「於母影」とも綴る。人の面影ばかりではない。渡辺京二の名著に『逝きし世の面影』があるように、時代や国や故郷についての面影もある。日本人はこの面影をきわめて重視してきた。その面影が失われることを痛ましく感じてきた。 面影はたんなる記憶像のことではない。胸中にも眼前にも浮かぶ最も大切なコアイメージであり、その束であり、その因果応報である。それを辿れば自分や故郷や国がかつて大切にしてきた“面影ネットワーク”ともいうべきを次々に手繰り寄せることのできるものなのだ。万葉人はそれを歌枕などにも託した。 いま、われわれは日本の大切な面影がどのようなものであったかを、いささか忘れてしまっている。面影の候補はいろいろあるだろう。建設途中の東京タワーであることも、「抜けられません」という看板があった横町であることも、小さいときに習った小鼓であることも、ありうる。では日本人の集団心理としては何が面影になっているのか。 焼跡も琉歌も、幕末維新も室町文化も、静御前もアテルイも面影だったはずだ。そろそろこれらを束ね、つなげた“面影ネットワーク”が浮上すべき時が来ている。引用サイト:こちら話がひたすら面白い人—松岡正剛先生の死を悼んで こちら「本とは何か」インタビュー再録 こちら「稲・鉄・漢字」という黒船 こちら三刀屋での講演 動画 こちら小泉八雲関連日記関連日記:2024.07.28の日記 ばけばけ こちら関連日記:2024.02.17の日記 全国街道交流会議 <小泉八雲の物語でつなぐ山陰> こちら関連日記:2023.02.06の日記 小泉八雲終焉の地 こちら関連日記:2023.08.01の日記 小泉八雲の足取り こちら関連日記:2022.09.26の日記 八雲忌 こちら関連サイト:知られぬ日本の面影 こちら関連サイト:『日本瞥見記』小泉八雲(恒文社) こちら関連サイト:高嶋敏展 写真展 こちら関連サイト:日本の庭 こちら
2024.10.31
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関連サイト:伯耆町「二部地区」とは こちら関連サイト:二部地区活性化推進機構 こちら関連サイト:二部城 こちら 関連サイト:福岡山鉄鉱所 こちら福岡山鉄鉱所全景(1907年頃)日野郡根雨(現在の日野町根雨)を本拠とした鉄山師、近藤家が、主に官廠向けの錬鉄を製産するために設置し、1887年から88年にかけて操業を開始。旧来の鈩製錬を維持しつつ、近代的な製鉄への移行を試みたという点で画期的であった。汽鎚の導入により、錬鉄の生産量の増大と品質向上を実現し、近藤家における錬鉄生産の基幹工場となった。・・・・鮎川義介による視察(1924年頃)戸畑鋳物株式会社(現プロテリアル)を創立した鮎川義介は1924年(大正13年)頃、福岡山鉄鉱所を訪れ、鈩の操業を視察している。鮎川は後年、鈩の様子について次のように述べている。「十数人でこの炉を操業するのだが、この人達の行う作業の模様、手ぶり足ぶり体のしぐさが自然と格調に一致し、相共に一糸乱れず仕事を進めていく様はあの有名な土佐のつるぎの舞を想い出させるものがあった」。
2024.10.30
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関連日記:2022.07.12の日記 こちら関連日記:2023.03.24の日記 こちら関連日記:2024.05.01の日記 こちら関連サイト:【鳥取県米子市】米子彫刻ロードを歩いてみた【36点の作品群】 こちら
2024.10.29
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関連日記:2022.01.23の日記 錦海暮色 こちら関連日記:2023.01.22の日記 錦海落日 こちら関連日記:2022.01.30の日記 静謐 こちら
2024.10.28
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2024.10.28
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関連日記:2024.09.26の日記 こちら関連サイト:こちら
2024.10.27
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2024.10.27
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海を渡るチョウとして知られるアサギマダラが21日、フジバカマが咲く伯耆町丸山の花畑に今シーズン初お目見えし、待ちわびた愛好家らが写真に収めた。 アサギマダラは羽を広げた大きさが10センチほどで、茶色に縁取られた薄水色の模様が特徴。初夏にかけて日本に飛来し日本列島を北上、秋に南下して台湾など南方に渡る。2千キロを旅するチョウともいわれる。 花畑は、大山ブナを育成する会(吉岡淳一会長)が2019年から旅の休息地にと整備。昨年はフジバカマが連作障害で枯れ、今年はダンプカー5台分の土を入れ替えてフジバカマとヨツバヒヨドリを植えた。 この日は5匹前後が吸蜜しながら花の間をふわりふわりと舞った。今月初めから楽しみにしていたという同町内の男性(72)は「色合いがきれいでロマンを感じる」と目を細めた。引用サイト:日本海新聞 1021 こちら関連日記:2022.11.04の日記 平家谷花しょうぶ園 広島 こちら関連日記:2024.10.07の日記 フジバカマ クマリン こちら関連サイト:飛来数 長野県宮田村 こちら関連サイト:フジバカマ管理 長野県宮田村 こちら引用サイト:NHK 趣味の園芸 こちら関連サイト:アサギマダラの移動パターンとその理由を探る こちら関連サイト:キジョラン(鬼女蘭) 産卵 こちら関連サイト:浅葱色 Wikipedia情報 こちら
2024.10.22
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山陰最大規模の歓楽街として知られる米子市朝日町エリア。以前は米子で「飲みに出る」といえば、誰しも朝日町エリアを連想したはずだ。小料理屋から料亭、居酒屋やバー、スナック、クラブ、ラウンジなどさまざまな業態の飲食店が集積し、幅広い年齢層の人々の喜怒哀楽を受け止めた。だが、近年は地方経済の衰退に加え、JR米子駅前通りの飲食店の出店ラッシュやコロナ禍などにより、ネオンの明かりに陰りが見られるようになった。往年の輝きを取り戻すことはできるのか。街全体が百貨店 「朝日町通りは映画館、劇場を中心に百般の業種が軒を並べ、特に飲食店と食料品店と多いことは正(まさ)に米子一と云(い)ふべく、更(さら)に医院、写真館、美容院、理髪館、風呂屋、旅館に至るまで、何でもかんでも一通り揃(そろ)っている。まことに異色のある繁華街である」。1952(昭和27)年に1号が制作された冊子『朝日町通り商店案内』の一節だ。 朝日町は、1912(明治45)年に米子高等女学校(同市錦町1丁目、現市総合福祉保健センター)で「全国物産品博覧会」が開催された際に、角盤町と西倉吉町を結ぶ通りとして利用されたのを機に発展した。当時は桑畑が広がっていたが、大正から昭和にかけて映画館やカフェ、夜店が相次いで開業し、にぎわうようになった。 「街全体が百貨店のようだった」-。戦後間もない50(昭和25)年に創業した料亭「みさご」(同市朝日町)の佐久間信社長(73)は50年代の朝日町の印象をそう語る。現在の朝日町通りが商店街で、平行する裏通りに飲食店が集中していたという。「表通りは行き交う人の肩が触れあうほどの人通りだった」と懐かしむ。日本海新聞 0915引用サイト:こちら関連日記:2023.12.14の日記 米子市「歩いて楽しいまちづくり」 こちら関連日記:2024.09.30の日記 路次徘徊 こちら関連日記:2024.10.23の日記 散歩 こちら関連日記:2024.10.24の日記 空の切り絵 こちら
2024.10.22
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2012年03月30日 中海エコ活動レポート第10号里海と弓浜半島の暮らし 樫村賢二著 鳥取県2024 環境フェア出展関連 Te5G藻刈りの背景 弓浜半島の綿花栽培里海の面影 現況関連日記:2024.08.24の日記 「中海環境フェア」に「Te5G」体験型ブースとして参加 こちら関連サイト:中海エコ活動レポート 鳥取県 こちら関連サイト:中海エコ活動レポート 島根県 こちら関連日記:2024.03.27の日記 中海関連まとめ こちら関連日記:2024.10.21の日記 2024.10.21 オゴノリを肥料に芋づくり こちら
2024.10.21
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日本海新聞 1010引用サイト:NPO自然再生センター「オゴノリング大作戦」事業 こちら関連日記:2024.10.21の日記 里海 展示 こちら関連日記:2024.03.27の日記 中海関連まとめ こちら
2024.10.21
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関連日記:2024.10.16の日記 古代たたら復元操業体験 こちら関連日記:2024.10.17の日記 本床づくり こちら関連日記:2024.10.18の日記 釜づくり こちら関連サイト:たたら製鉄 体験学習参加記録 こちら関連サイト:島根大学 次世代たたら協創センター "NEXTA" こちら 「次世代たたら協創センター」はプロジェクトの研究・教育の中核を担う共同研究所として島根大学に設置されました。センター長には英国・オックスフォード大学のロジャー・リード(Roger Reed)教授を招聘しました。コンピュータ計算を駆使した合金設計など、世界トップレベルの研究を通じて金属材料のエキスパート人材を育てます。さらに、松江工業高等専門学校および他大学とも連携し、金属材料に関する理論と実践の両方を学べる環境を構築します。・・・・「次世代たたら協創センター」の名称は、島根の地において継承され日本刀材料である玉鋼を供給し続けている伝統的製鉄法の「たたら製鉄」に因み、さらに、地域全体でものづくりを推進していくという願いを込めて命名しました。通称は「NEXTA」です。「Next Generation TATARA」から「Next」のN,E,Xと「TATARA」のT,Aを合わせたネーミングです。「次世代」を表す「NEXt generation」と「伝統的な”TATARA”」をクロスさせるという意味を込めています。 シンボルマークは、「NEXTA」のイニシャル「N」を基に、たたらを表す炎と金属を当てはめたデザインです。たたらの炎を引き継ぎさらに向上させるという意味を込めて「青い炎」を表現しています。引用サイト:こちら
2024.10.19
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関連日記:2024.10.16の日記 古代たたら復元操業体験 こちら関連日記:2024.10.17の日記 本床づくり こちら
2024.10.18
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最近の学生はおとなしい、とよく言われるが、何も考えていないわけではない。彼らは彼らなりの生存戦略を選択しているだけだ。そして「医局」のような典型的な、昭和なエートスを持つ組織、社会では、「沈黙こそが正しい生存戦略」となる。大人しくなるのは当たり前だ。その生存戦略は、その人物の「生存」という観点だけからは、正しい。ただし、こういう組織は成長しない。逆に劣化していく可能性が非常に高い。・・・・出口治明氏によれば、唐の時代の太宗は、耳に痛い諫言(かんげん)を積極的に部下に求めたという。太宗は幼少の頃から弓矢を好み、その奥義を極めたと自認していた。ところが、ある日、弓工に自分の弓をみせると、弓の木の心がまっすぐではないためによい弓ではなく、矢がまっすぐに飛ばないという。自分が熟知している弓についても、専門のプロには及ばない。ましてや、専門外の政治においてはさらにそうだろう。太宗はこうして専門家など、多くの意見、特に諫言に耳を傾けて、謙虚に政治に取り組んだのだそうだ(出口治明『貞観政要 世を革めるのはリーダーのみにあらず NHK「100分de名著」ブックス』NHK出版)。・・・・現在の神戸大学病院には2008年から勤務している。私が教授を務める感染症内科では、毎日のカンファレンスで激しい議論が行われることで有名だ。若手の医師から最年長の私(現在53歳)まで、「何が正しい診断なのか」「何が正しい治療なのか」、一所懸命に議論する。忖度(そんたく)などもちろんなしだ。患者の生命リスクがかかっている医療である。その生命を毀損(きそん)するリスクを冒して忖度するなんて、私としては考えられない。どれほど自分の耳がひりひりと痛むとしても、上納金や上長への忖度に慣れる体質に感染することとは比べようもなく、健全であり持続性が高いからである。---------- 岩田 健太郎(いわた・けんたろう) 神戸大学大学院医学研究科教授 1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)、『コロナと生きる』『リスクを生きる』(共著/共に朝日新書)、『ワクチンを学び直す』(光文社新書)など多数。 ----------引用サイト:こちら学び続ける感染症のプロを目指して引用サイト:こちら関連日記:2024.10.15の日記 衆議院選 こちら
2024.10.18
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2024.10.17
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たたら高殿模型「たたら」施設の完成形。地下設備、小舟を備え、「高殿」内で操業する。「古代たたら」の構造。本床、元釜、中釜、上釜、ふいごで構成操業手順古代たたらの操業の様子を表した模型「やすぎ刃物まつり」の日に、火入れ、操業される。・・・・つづく
2024.10.16
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日本海新聞 1005
2024.10.08
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旧海軍美保航空隊飛行機用掩体(きゅうかいぐんみほこうくうたい ひこうきようえんたい)掩体は、アジア太平洋戦争末期に敵機の爆撃などから飛行機を隠し格納する施設です。現在の航空自衛隊美保基地・米子鬼太郎空港とその周辺にあった旧海軍第二美保航空隊に属する施設と考えられる飛行機用掩体は63基あったとされていますが、このうち基地内に2基、基地外に3基の合計5基が現存しています。飛行機用掩体以外にも通信器材格納庫(発電施設)、弾薬庫なども見られます。市指定の1号掩体は、有蓋の鉄筋コンクリート造であり、木製型枠工法によるものです。形態的には小型飛行機の前方主翼を格納する前部アーチと尾翼部を格納する後部アーチの大小2つの蒲鉾形アーチを合わせた形態で、前面には飛行機の形に合わせた開口部があり、後面には機体を後退で格納するために牽引する際の孔が設けられています。上部には覆土が被せられ植栽等により擬装が施されていたものと思われます。開口部の形状や規模から、艦上爆撃機「彗星」などの単発固定中翼機の格納を想定したものです。飛行機用掩体は、本土での空襲が激化する中で全国に1,000基を超える掩体がつくられたと言われていますが、痕跡も含めて100基ほどの現存が確認されているに過ぎず、戦争の歴史を伝える近代遺跡(戦跡・戦争遺産)として貴重です。引用サイト:米子市 こちら関連日記:2024.10.06の日記 こちら
2024.10.07
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ちょっと寄り道:両三柳の飛行場 日本海新聞
2024.10.06
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引用サイト:米子市水道記念館 こちら米子市 水源地車尾水源地、戸上水源地、福市水源地、日下水源地、河岡水源地、日吉津水源地(※予備水源)、水浜水源地、二本木水源地、福井水源地、西尾原水源地、稲吉水源地(※予備水源)、高井谷水源地、本宮水源地の13の水源地があります。浅井戸と深井戸を中心とし、一部を伏流水と湧水を水源としています。河川の表流水は使用しておらず、米子の水道は大自然の恩恵を受けた地下水ですべてまかなわれています。引用サイト:こちら米子の水 天の真名井・本宮の泉 名水めぐり こちら米子市 代表的な湧水 こちら
2024.10.05
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関連日記:2024.10.03の日記 高瀬城その1 こちら関連日記:2024.09.14の日記 尼子十旗 こちら関連日記:2024.09.19の日記 月山富田城 こちら関連日記:2024.09.25の日記 月山富田城 切銀 こちら関連日記:2024.09.14の日記 神西城 こちら関連日記:2022.04.13の日記 尼子十砦 十神山 こちら
2024.10.04
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引用サイト:こちら引用サイト:こちら
2024.10.04
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2024.10.03
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関連サイト:米子の小路八十八 こちら関連日記:2024.05.01の日記 今日の追っかけ:88 こちら関連日記:2022.11.30の日記 路地 こちら関連日記:2023.12.14の日記 歩いて楽しいまちづくり こちら
2024.10.03
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2024.10.02
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トピックス:鳥取・長瀬高浜遺跡 古墳時代の石棺から人骨発掘鳥取県の長瀬高浜遺跡で、古墳時代に埋葬されたとみられる石棺から人の骨が相次いで見つかったことが分かりました。 鳥取県湯梨浜町にある長瀬高浜遺跡では、これまでの調査で、古墳時代の大量の土器や竪穴住居跡が300棟以上見つかっています。 今年度の調査では新たに7基の古墳や4基の石棺も見つかっています。 今回の発掘で複数の石棺から人の頭蓋骨の一部や歯の他、死者を安置するために使われた枕も出土しました。 鳥取県教育文化財団調査室 君嶋俊行室長 「たくさんの人がこの遺跡の周りにいて、その中には古墳を築くような有力な人たちもいた」 今回の調査成果は来月5日に現地で公開される予定です。 引用サイト:こちら引用サイト:こちら
2024.10.01
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公会堂紹介 動画 こちら村野藤吾 Wikipedia情報 こちら米子市公会堂 Wikipedia情報 こちら参考サイト:辻晉堂の陶彫「陶芸であらざる」の造形 こちら
2024.09.30
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引用サイト:こちら
2024.09.29
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・・・・島根県教育庁古代文化センターは4日、月山富田城(同県安来市広瀬町)の城下町の遺跡で発掘された金属製の遺物のうち、4点が石見銀山(同県大田市)産や伯州銀山(鳥取県日南町)産などの銀を使った貨幣「切銀(きりぎん)」と推定されると発表した。全国の発掘調査で切銀が見つかったのは3例目。複数の切銀が見つかったのは初めて。当時の銀貨製造や流通の様子、統治の状況などを知る手掛かりになるという。 切銀は高価な品物を取引する際に、品物の価値に見合うだけの銀を切って使ったもの。見つかったのは、戦国時代(16世紀後半)から江戸時代初期(1666年)にかけての切銀とみられる。 月山富田城の麓にある富田川河床遺跡で1980~82年度に行った発掘調査で見つかった遺物を、2021年度以降にエックス線分析装置を使うなどして詳細に再調査した。このうち1点は、含有元素や見つかった状況などから石見銀山の銀が使われている可能性が高いことが分かった。伯州銀山産とみられる切銀も2点あった。 同センターの広江耕史特任研究員は「切銀が発掘調査で見つかると年代を絞ることができ、当時の状況を知ることができる。切銀が発掘調査で見つかった例が少なく、今後の同種の調査が進展するきっかけになれば」と話した。 見つかった切銀は、古代出雲歴史博物館(出雲市大社町)で10月11日~12月8日に開催される企画展で紹介される。(井川広志)引用サイト:日本海新聞 こちら関連サイト:FNN こちら引用サイト:島根県 こちら伯州銀山(日野銀山)大倉山の南西山麓に存在した“日野銀山”。日南町内では“石見銀山”と呼ばれています。かつて、日野銀山調査会がおこなった調査結果をもとに故・矢田貝喜好(やたがい・きよし)さん(中石見)がまとめられた記録を中心に紹介します。日野銀山のおこり鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が日野郡で銀山を開いて、その経営にあたったことを示す書状が残っている。文禄4年(1595)4月の、秀吉が亀井茲矩にあてた朱印状である。それには、西伯耆国の日野山で銀を発見したことを賞し、早く掘って有る限り運上せよ、と記されている。わずか1年で…当時、この地は吉川広家(ひろいえ)領に属していたため、安國寺恵瓊(あんこくじえけい)が伯州銀山の採掘・経営権が広家に与えられるよう秀吉に要請したという。これにより、文禄5年9月付の秀吉の広家あての朱印状で、伯州日野の銀山の経営権を広家に与え、銀ができ次第運上せよと命じている。したがって、茲矩に与えられた経営権が、翌年には広家に移されたことになる。銀山の隆盛間歩(まぶ=坑道掘)は、中石見から上石見にかけて約3kmの間に、試掘2坑を含めて8坑の跡が確認されている。産出された銀は「伯州灰吹(はいふき)銀」として知られ、旧坑は元禄時代まで約百年間採掘が続けられたが、その後産出がなく、廃坑になったという。銀山の盛んな頃、町坂といわれる道すじは「町坂千軒」と伝えられ、宝暦時代に石畳道に改修したことを示す石碑も残っており、その隆盛がしのばれる。引用サイト:日南町 こちら・・・・亀井玆矩とは亀井?矩公 1557(弘治3)年出雲の湯ノ庄(玉湯町)で生まれ、尼子の家臣湯左衛門尉永綱を父とし湯新十郎と名乗ります。1572(元亀3)年まで旧臣の家で養われ、同年末に出雲を去って因幡の山宮(気高町)の井村覚兵衛の所に身を寄せました。翌天正元年夏尼子勝久・山中幸盛らの因幡進攻を知り、桐山城(岩美町)に幸盛を訪ねて、これ以後は幸盛とともに戦います。天正2年2月若桜谷の矢部行綱を討ち、4月中旬幸盛の養女時子(亀井能登守秀綱の二女・幸盛の妻の妹)を妻にして亀井の家を継ぎます。茲矩の諱は初め之子また眞矩といい、字は長卿です。日野の銀山と鉄穴流し 1595(文禄4)年卯月(4月)3日付の豊臣秀吉の朱印状があります。これには、西伯耆の日野の山で銀山を発見したことをほめて、早く掘り出して差し出すよう命じています。(『亀井文書』国立歴史民俗博物館蔵) この日野銀山の経営は翌文禄5年には西伯耆3郡の領主吉川広家に移されています。 また、領内でも河内(鹿野町)に鳩林山という金山があったといわれていますが、はっきりしたことは分かりません。「…因幡の国鹿野河内鳩林山は、初めて金銀湧出した所である。末代まで富貴のもとになる、日本第一の宝の山である。予子孫繁昌之国…」と記された亀井茲矩の願文が『亀井文書』(国立歴史民俗博物館蔵)にあります。 また「鉄流しの流し口はどれだけできたのか、どれほど採取できるのか…」と1594(文禄3)年3月14日国元の多胡宗治右衛門に宛てた長郷(茲矩)の手紙があります。さらに「国元では砂鉄流しの場所を見立てて掘らせているので…」という栗町新右衛門に宛てた2月4日の手紙もありますが、亀井武蔵守茲矩の署名から天正13年以降と考えられます。これらは亀井家の『家記稿本』の「鹿毛筆の跡」に載せられています。このように亀井領では鉄穴流しを行って砂鉄を採取していたことが分かります。引用サイト:亀井茲矩公没後400年 こちら関連日記:2024.09.19の日記 月山富田城 こちら関連日記:2024.02.10の日記 日野川流域のたたら こちら関連日記:2024.08.10の日記 若松クロム鉱山 こちら関連日記:2023.11.17の日記 石見銀山 こちら関連日記:2023.12.04の日記 石見銀山ライブラリー こちら関連サイト:企画展「山陰の戦乱-月山富田城の時代-」 古代出雲歴史博物館 こちら富田城図(部分)江戸時代・文久3年(1863)/安来市・城安寺蔵
2024.09.25
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