
《クリスチャンになろう Day 10》
唯一の道、イエス・キリスト
「救い」とは、父なる神様とあなたとの壊れた関係の修復です。その解決の唯一の道がイエス・キリストです。主イエスはこのように言っています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)
主イエスは、はっきりと「 わたしこそが道である
」と宣言されました
。曖昧な表現で「 たぶんもしかしたら、わたしが道かも
」とか、「 よさそうな道がいくつかあるから、わたしの一番のお勧めの道をご紹介しましょう
」とか、「 わたしと一緒に道を探す旅に出かけましょう
」などとは、言いませんでした。人類の歴史で「わたしが道である」と確信を持って大胆に宣言したお方は、キリスト以外にはいません。
また、主イエスは「 わたしこそが真理である
」と宣言されました。世界にある様々な宗教が、「真理」という言葉を用いてその教えを説いています。
わたしが生まれ育った家庭は、いわゆる一般的な仏教のバックグラウンドでした。先祖代々の墓がお寺にもあるし、家には仏壇もあり、祖父が旅館を経営していたので神棚もあちこちにいくつもありました。小学生時代のわたしの朝の日課は、それぞれの仏壇や神棚に供え物や水とお神酒をあげ、神妙に手を合わせることでした。お盆の時期には家族で墓参りに行き、お正月には初詣に行くような、「 日本の一般的な仏教徒
」の家庭環境で育ったのです。しかしながら、毎週お寺や神社に通って修行をするわけでもなく、お経を唱えるわけでもなく、ただ形だけの仏教徒をしていたのです。
色々悩みが多かった青年時代のわたしは、真理を捜し求めて仏教についての本を色々読む機会がありました。難しくて深くは分からなかったのですが、どうやら仏教では、修行と善行を積み重ねることにより真理を悟ることができるという教えだったと思います。しかし、開祖の釈迦(ブッダ)はその晩年に真理について、「 わたしは、いまだ真理を求めて探し続けている
」と言ったと知りガッカリしたものでした。
また、あの有名なマルコ・ポーロは釈迦と出会ったときの印象を、旅行記の『東方見聞録』で、このように語っています。「 彼の生き方の清らかさから、もし彼がキリスト教徒であったならばイエス・キリストに仕える聖人の一人となっていただろう
」。つまり、仏教の開祖ブッダでさえ、わたしたちと同じように真理を捜し求めてさ迷うさ迷う罪人の一人だったのだ、ということを気づかされたのです。
人格と人格の親しい交わり
そのような中で、イエス・キリストが自ら「わたしが真理である」と言った言葉に大きな衝撃を覚えました。「 わたしは真理について詳しいので教えましょう
」とか、「 真理をどうやったら知れるか一緒に考えましょう
」とかと、言われたのではありません。
聖書はこのように証しています。
言(イエス・キリスト)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、 恵みと真理とに 満ちていた
。(ヨハネ 1:14)
律法はモーセを通して与えられたが、 恵みと真理は イエス・キリストを通して
現れた
からである。(ヨハネ1:17)
つまり、全能なる神様ご自身が、人間の姿をとってこの地上に降って来られ、その恵みと真理に満ち溢れた姿を現してくださったのです。主イエスは「 わたしこそが天国にいたる唯一の道である
」と、言いました。天国に至る道とは、宗教を学んだり修行を積んだりすることではなく、 イエス・キリストという一人のご人格を指します
。
ですから、 真理を知るということは、主イエスと親しくなるということ
です。その ご人格を知り、深く交わりを持つことこそが、天国へ至る道
ということなのです。
バックナンバー: DAY1「100%のクリスチャンとは」
/ DAY2「唯一の特権」
/ DAY3「神様の喜びファースト」
/ DAY4「人生に立ち阻む問題」
DAY5「罪が引き起こす問題」
/ DAY6「回復を妨害するもの」
/ DAY7「妨害する固定観念」
/ DAY8「惑わす誤解」
/ DAY9「大きな勘違い」