三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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あ と が き 日本人の琴線に触れる忠臣蔵、その主人公の浅野内匠頭が切腹したのは、一関藩江戸上屋敷であった。三春藩との関連を調べていて気がついたのは内匠頭の即日切腹と、赤穂浪士たちへの切腹決定までの長い時間の経過との差であった。そしてそこから浮かび上がってきたのは、幕府の対応の異常なまでの経緯であった。 それは現代の国家や組織にも通ずる自己保存のための動きであり、蜥蜴の尻尾切りとも言われる隠蔽の体質でもあった。 その後、ハンドルネーム「標葉石介改め砂」さんより次のメールがあった。 「我が家に伝わっている赤穂浪士について、次のような話があります。 知恵袋小野寺十内秀和は、討入りに際して深慮遠謀し『吉良の首打ち損ねた場合、その逃走先は米沢上杉家だろう。さすれば三春の地を通るやもしれぬ故、十内の息子(あるいは親類か、十内夫婦は子無し)を三春の地に配し待ち伏せよ。』との策をとった。というものですが、真偽は不明です」 参 考 文 献 一九七八 一関市史 一関市 一九八一 赤穂市史 赤穂市 一九八四 三春町史 三春町 凸版印刷 一九九四 復元・江戸情報地図 天羽直之 朝日新聞社 一九九八 ドキュメンタリー・忠臣蔵河野龍也 青谷社 忠臣蔵一〇一の謎 伊東成郎 新人物往来社 一九九九 プレジデント一月号 プレジデント社 二〇〇二 武士道の思想 笠谷和比古 NHK人間講座 二〇〇三 忠臣蔵・お裁き始末記 NHKムTV 〃 時空警察(歴史を疑え真実を見よ) 日本TV 御用留 インターネット 幕府日記 梶川与惣兵衛 多門覚書 長岡記録 標葉工房電脳覚書~くのいち「いよ」三春で待ち伏せ (http://plaza.rakuten.co.jp/shimeha/diary/200712030005/)
2008.02.29
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ところで、松の廊下の刃傷沙汰で内匠頭の後ろから組み付いて留め、事情を一番よく知っていると言われる梶川与惣兵衛の日記がもう一つ残されている。それには、『上野介に対しこの間より意趣あり候、殿中誠に恐れ入り候へど是非に及ばず討ち果たし候』と内匠頭が刃を振り上げながらの言ったとされる内容が、具体的に書き残されているものである。この日記のことを知ったとき、信濃守は不思議なことだと思った。あの刃傷事件の時、そのような言葉が耳に入った記憶がまったくなかったからである。 ──それに、もしそんな長い言葉を叫び、そして意味を理解させながら刀を振り回そうものなら、上野介様やその周囲にいた者たちは、その間に逃げの体勢ができたのではあるまいか。それに吉良邸討ち入りは、内匠頭殿の即日切腹という非情な決定とそれに続く一連の事件に対する赤穂浪士の反旗であると考えた幕府は、この原因を、最後まで上野介様と内匠頭殿の二人の私闘によるものとするため、梶川与惣兵衛にもう一つの日記を書かせて正当化しようとしたのではあるまいか。 そう思ってきた時に、将軍が考えたかその取り巻きが考えたかは定かではなかったが、信濃守にはなんとなくそう決定されたことが、分かるような気がしていた。 ──幕府は一連の悲劇の元となった内匠頭殿の切腹を決定し実行させておきながら、結果が不味くなるとつまらない理由を付け、その実行に当たった当事者たちを処分し消し去ることで口を拭おうとしている。赤穂浪士の切腹、その遺児たちの処罰、吉良佐兵衛義周の知行地没収と信濃高島城へのお預け、大目付・庄田下総守安利の解任は、そのことを表しているのではないか。そしてあの梶川与惣兵衛頼照は千石取りの旗本に出世しながら、「吉良殿を守って立身出世した」などと罵声を浴びせられている。 信濃守は脇息に身を預けながら考えていた。瞑目した。 ──上様は、御生母様従一位叙位の日に起きたこの事件を嫌って、内匠頭殿に切腹を命じられた。しかるに上野介様はお構いなしという片手落ちの裁断に抗した赤穂浪士たちの命をかけた幕府批判は、関係者を冷遇することで取り繕い、逆に幕府の言うところの大義を強める結果になったのではあるまいか。大義とは何なのか! 大義とは結局、権力そのものなのか! その権力は自己の都合に合わせてものごとをねじ曲げ、また隠し通す力を有しているものでもある。 大義とは、国家・君主に対して臣のとるべき道のことである。それを前提とすれば、上位に立つ者が勝手に変更を加えても良いものではない。ところで今回の幕府の行為は、大義に沿うものであろうか? 将軍がご生母様の桂昌院様に、是が非でも従一位の叙位を願っていたことからすれば、否、としか言いようがあるまい。 では赤穂浪士の行動や如何? たしかに赤穂藩や内匠頭殿に対しての大義は、立つ。しかし内匠頭殿が上野介様を殺そうとしたために赤穂藩は滅んだのである。すでに内匠頭殿は罪に処せられていたのに上野介様を仇としたのは義でなく、大義名分から言えば、幕府にとっては不義であるのではないか? しかしそれでも彼らは、正義を貫いたことで、後世に武士の鑑を残したことになる。 信濃守は、瞑目した。 ──『大義親を滅す』という言葉がある。するといったい、生命とは何のために存在するものなのか? 何故多くの赤穂浪士たちが、いかに大義のためとは言え、たった一人の主君のために死なねばならなかったのか! さりながら自分自身も、家臣にとってたった一人の主君である。家臣たちに対し、自分のために死ぬことを強制できる立場にある。 信濃守は、この矛盾に胸を突かれる思いであった。 この事件の結果を哀れむかのように、この年の十一月二十二日の夕方に発生した大地震で江戸の町は大災害に見舞われ、外桜田にあった三春藩秋田上屋敷もまた倒壊してしまった。 去ル元禄一六年十一月二十二日夜、宵より雷強く、八つ時より 地鳴事雷の如し。大地俄にふるゐ出し、家々は小舟の浮くがごと く、地二、三寸、あるいは四、五寸さけたるところアリ まもなく信濃守は、三春から次の知らせを受けた。『赤穂の浪士たちは、もし吉良上野介を討ち取り損ねた場合、米沢にいる長男の上杉綱憲のもとへ逃げることを予想していた。奥州街道を米沢へ行くのには、恐らく二本松を通るようになる。内匠頭の祖母は二本松出身であるから本道を避け、阿武隈川の東を北上する可能性が高い、阿武隈川の東には三春がある、そこで小野寺十内は、自分の祖先の地である三春に伊代(養女)を三春の地に配して待ち伏せるとの策をとった』 十内の縁を頼りにして三春在に潜んだ伊代は十内の妻・丹の妹であり、女忍者であった。 その一方で、大石内蔵助は板谷峠(福島・山形県境)に浅野家家老の大野九郎兵衛による第二陣を張らせた。結果としてその連絡係となったのが伊代であった。しかし伊代から吉良邸にて本懐を遂げたとの知らせを受けた九郎兵衛は、待ち伏せをしていた板谷峠で切腹し、浪士らの後を追った。伊代のその後は不明である』 信濃守は、国元へ折り返し連絡をした。「小野寺十内の始祖とされる小野寺重忠は、三春が会津領の時代、三春の領主加藤明利に仕えていたが明利の死により浪人となった。その後、わが家が宍戸藩時代に小野寺重忠を呼び寄せて仕官させたものである。その血の流れをくむ伊代は女ながらも赤穂の隠れた忠臣。もし三春に戻ることあらば、よきに計らえ」 しばらくして、三春藩・秋田上屋敷は芝愛宕下の大名小路に屋敷替えとなったが、奇しくもその場所は、あの一関藩・田村上屋敷と道を挟んだ南側であった。 そしてあれから三〇〇年もの年を経た今、板谷峠には大野九郎兵衛を供養する碑が建てられ、また三春には「赤穂浪士の末裔が住んでいる」との話が秘かに伝えられている。 (完)
2008.02.28
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苛立つ世間を前に、将軍は老中・高官六十余名による投票で事を決しようとした。ところが具体的な提案は『遠島』、『永のお預け』の二通のみで、あとは全員白紙であった。柳沢吉保に至っては白票を投じた上で、「如何様な裁きでも上様の上意次第」と言って為政者としての責任と義務を放棄してしまったのである。 強い世論と無為に蠢く幕府内の意見、そして口を閉ざしてだんまりを決め込む幕閣を前に迷いに迷った将軍は、上野寛永寺の日光門主の公弁法親王に意見を求めた。 親王は、「浪士たちの志は達せられ、もはやこの世に思い残すことは無い。今更助けても忠義の士なれば、二君にまみえることを良しとせぬ筈。このような忠義の者たちを許して野垂れ死にさせるより武士の道を立て名誉の死を賜るべき」と進言した。 『名誉の死』、それは切腹を示唆していた。 将軍としては、仇討という忠義と、殺人という罪との中庸を採らざるを得なかった。武士としてのあるべき姿という考え方からする中庸とは、切腹であった。将軍はその切腹を、幕閣に提示せざるを得なかった。それはとりもなおさず、将軍の提示したものを幕閣が同意するという形式を採ったことで、将軍自身もまた、その負うべき責任と義務から逃避してしまったのである。 翌元禄十六年二月四日、ついに赤穂浪士の切腹が各藩邸において行われた。勿論、赤穂浪士たちにすれば、この討ち入りは決死の覚悟であったから、その結果としての死の形にまでは考えが及んでいた訳ではなかった。討ち入りのときに、返り討ちに遭うこともあり得たからである。ただただ主君・内匠頭が松の廊下で上野介を討ち損じた無念を晴らすために、そのすべてを費やしていた。それだけのことであったから公儀よりの使者に対して内蔵助は、「如何ような仰せつけも覚悟の上、切腹を仰せつけられたは有難き仕合わせ」と返答した。 ところがそれほどの覚悟にも拘わらず、遺児たちにも処罰の手が伸びた。それは、十五歳以上の男児はすべて遠島、それ以下の者は親類に預けられた上、十五歳になってから遠島と決められたことであった。 そしてまた噂が飛び交っていた。討ち入りの帰り道に、上野介の首が奪還されるのを恐れた大石内蔵助が、それらしきものを白布で包んで槍の穂先に付け堂々と泉岳寺へ向かう一方で、町人に身をやつした寺坂吉右衛門に命じて上野介の首級を持たせて泉岳寺へ先行させ、その足で赤穂藩の本家・広島藩へ討ち入りの顛末の報告のため離脱させた、というものである。 信濃守は、死人に口なしとして幕府や上杉家が言い出すかも知れない身勝手な言い訳を阻止するため、寺坂吉右衛門を離脱させたと思える内蔵助の行動に、深い心遣いを感じていた。 そして四月二十七日、遠島を申し付けられた吉田忠左衛門の次男伝内、間瀬久太夫の次男定八、中村勘助の長男忠三郎、村松喜兵衛の次男政右衛門の四人は、伊豆大島に流された。この幕府という無形の組織が決定する不条理に抵抗するかのように、江戸の人々は『雲霞のごとく群集して罪なくして罪に沈むよと声々に泣き悲し』み、船を見送ったのである。 元禄という空前の繁栄は、社寺の建築や大修理が数多く行われることで謳歌していた。これは将軍綱吉の、跡継ぎたる子を望む気持と無縁ではなかった。世間からは天下の悪法と譏られた『生類憐れみの令』は、その一例であった。しかしこの繁栄の引き金となった多くの社寺建築は、幕府の財政を悪化させた。そのため綱吉は柳沢吉保の建策にもとづいて金銀改鋳(元禄改鋳)を実施し、そのために幕府の財政に余力をもたらすことになった。ところがその反動として物価の騰貴を引き起こし、旗本・御家人らの生活を圧迫したため彼らの怨嗟を受けることとなった。今度は大不況を招いてしまったのである。 この不況の中でもがく世間は、赤穂浪士の討ち入りに自らの不幸とを重ね合わせ、幕府に対する批判に変容させていた。それが赤穂浪士賛美と、助命を願う大きな世論となっていった。 ──この市井の人々の間に盛り上がる反幕府感情の高まりは、いつ終わるとも知れぬ惨めな政治的、そして生活の現状打破への期待が、赤穂浪士に拍手を送ることで鬱屈した感情から逃れようとしているのかも知れぬ。 信濃守は、そう考えていた。 そしてあの事件から四ヶ月後、幕府は二つの結論を出した。 一つは、吉良家の当主・佐兵衛義周の知行地没収と信濃高島城へのお預けの決定である。 その理由は、『十八歳であった佐兵衛が赤穂浪士らに討ち入りされた際に応戦はしたものの、気絶したまま死を免れたことは遺憾である』というものであった。そのことはまた間接的に、幕府が喧嘩両成敗を追認することとなった。失意のまま佐兵衛は配流先で二十一歳の若さで亡くなっているが、法華寺の墓のそばの慰霊塔に、次のような恨み節とでも言うような言葉が書き連ねられている。 公よ忍べ ただひたすら忍べよかし 公の隠忍は 知る人ぞ知る 真の強さなればなり そしてもう一つは、庄田下総守安利に対してである。 内匠頭切腹のとき幕府の意を受けた正使であったにも拘わらず、『指図上意に叶わざる故・・・』という理由で大目付を辞めさせてしまったのである。幕府の指図に従って忠実に行動した筈の下総守をこの理由で辞めさせなければならなくなったことは、大いなる皮肉であった。 ──御公儀とは勝手なもの。 信濃守はそう思った。どう考えてみても、幕府の自己保身の様子が垣間見えていた。しかし信濃守自身、すでにその組織に組み込まれているのである。
2008.02.27
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隠 蔽 の 体 質 赤穂の浪士たちが本所吉良邸に討ち入りを果たし、その本懐を遂げた経緯を信濃守が知ったのは、元禄十五年十二月十五日であった。すでに四十七士のうち富森助右衛門と吉田忠左衛門が、『主君の仇、ともに天を戴かずの思い抑え難く候』との準備されていた文書を持ち、大目付仙石伯耆守久尚邸に自訴し、それを受けた公儀からの使者が泉岳寺に訪れたのちのころであった。 ──お家再興が認められなかった今、仇討ちは、大義を立てる最後の忠義。 信濃守はそう考えていた。たしかに仇討ちの噂は流れていたから、こうなることは予想していた。しかしこの日、十四日であることまでは予想できなかった。雪の上には満月に近い月明かりが煌々と照る筈という大石の策が、見事に功を奏したと思っていた。 一方で、上野介の実子である出羽米沢藩の藩主の上杉弾正大弼綱憲は、「討ち入りは御公儀の裁きに背く事、これを討たぬは武士の名折れ」と言って赤穂浪士追撃の準備に入った。秋田上屋敷と同じ桜田にあった上杉上屋敷には、急遽麻布にあった上杉中屋敷から藩士たちが馳せ参じて来た。それらの騒ぎを耳にしながら、信濃守は赤穂浪士と米沢藩士との間に二次の衝突が起こるのを案じていた。米沢藩の動きを知った幕府は、「裁きの儀は公儀が取り仕切る、手出し無用」としてこれを退けた。とにかく赤穂浪士の討ち入りという大事件を安易に裁けば、幕府への反感の高まる恐れもあったのである。 ところが急にこの日になってから、赤穂藩本家の広島藩浅野家から田村家に対して「何故庭先で切腹させたのか」との厳重な抗議が出されたのである。この右京大夫からの注進に、幕府としても黙していることが出来なくなった。 江戸の町は沸いていた。将軍綱吉の出した生類憐れみの令が十五年も経、相次ぐ取り潰しにより禄を失った浪人が江戸に溢れていた中で起こった討ち入りが、幕府への不満のはけ口を求めていた人々の気持を捕らえた。取り潰しを受けた赤穂藩の浪士たちの行為が、将軍に対しての命をかけた異議申し立てと映っていた。そのため、大義を通した四十七士を助命すべきとの声が、日毎に大きくなっていったのである。 赤穂浪士の身柄は、伊予松山藩・松平隠岐守定直、肥後熊本藩・細川越中守綱利、長門長府藩・毛利甲斐守綱元、三河岡崎藩・水野監物忠之の四家に預けられた。そのうち松平邸には堀部安兵衛武庸、大石主税良金、岡野金右衛門包秀、貝賀弥左衛門友信、中村勘助正辰、大高源五忠雄、菅谷半之丞政利、不破数右衛門正種、千馬三郎兵衛光忠、木村岡右衛門貞行の十人が預けられたが、上屋敷での逗留は一夜だけで、翌十六日の夕刻、三田の中屋敷に移された。ここ中屋敷が、彼ら終焉の地となったのである。 細川邸には、十七人という最も多くの浪士が収容された。それらの浪士は、大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、間瀬久太夫正明、堀部弥兵衛金丸、小野寺十内秀和、間喜兵衛光延、早水藤左衛門満堯、磯貝十郎左衛門正久、潮田又之丞高教、赤埴源蔵重賢。富森助右衛門正因、矢田五郎右衛門助武、奥田孫太夫重盛、近松勘六行重、大石瀬左衛門信清であった。 毛利邸は、岡嶋八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼定、武林唯七隆重、倉橋伝助武幸、村松喜兵衛秀直、杉野十平次次房、勝田新左衛門武堯、前原伊助宗房、間新六光風、小野寺幸右衛門秀富の十人を収容した。 そして水野邸は、間十次郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川勘平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎与五郎規休の九人を収容した。 しかしこれでは、一人足りない。寺坂吉右衛門信行である。寺坂は泉岳寺への途次、逃亡したと噂されていた。 ──うーむ、寺坂吉右衛門は逃げたか・・・。そういう輩が一人くらい出ても、やむを得ぬのかも知れぬ。それにしても、四十六人への沙汰が遅すぎる。 信濃守は考え込んでいた。何故か内匠頭の即日切腹のときとは違い、翌年になっても幕府からの沙汰が出ないのである。 市井には、落首があらわれた。 頼もしや 内匠(たくみ)の家に 内蔵(くら)ありて 武士の鑑(かがみ)を 取り出しにけり 四十七 捨てる命に 年をとり どんな結論が出るか、人々は固唾をのんで待っていた。 それでも将軍や幕閣の動きは、噂という形で信濃守にも届いていた。この討ち入り事件の第一報が将軍に届けられたとき、将軍は「忠義」と言ってこれを褒め、老中の一人は、「武士道の廃り申さず候と相見え候」と応じ、断罪すべきではないという空気が強いと伝えられていた。 とは言っても将軍に、「赤穂の浪士たちが仇討ちを実行するのではないか」という以前からの町の噂は伝えられてはいなかった。それであるから、『上野介様御落命』の知らせが将軍に届けられたときには、赤穂浪士助命の世論と時間的に一緒になってしまったことになる。このことは、内匠頭切腹の処置に合わせて、浪士たちを斬罪に処すような結論を拙速に出すことは、世論を敵に回すことにもなりかねなかった。そのため浪士たちの処置について、幕府内部でも意見が錯綜した。老中会議では「徒党を組み誓約を為すことを禁ずる武家諸法度に違反する。全員打ち首にするべきである」という意見も出されていた。吉良側の関係筋としての上杉家からは、当然ながら打ち首などの強硬策が献策されていた。 一方で四十七士を預かった大名家などからは、助命嘆願が提出された。 柳沢出羽守吉保は、浪士たちに切腹という過酷な裁きを主張した。 はじめ厳罰を主張していた萩生徂徠は、「もし忠義だけを説けば、それは時勢を知らず、天下の政治とは申せませぬ」とその主張に変更を加えていた。 林大学頭信篤は「古より主君の仇は必ず討つというのが大原則。強いてこの輩に厳罰を下せば天下の笑いをとるのみならず、忠義の道地に落ちる事必定」と主張した。 しかし裁きの行方を左右しかねない浪士賛美の世論を前に、この行為が忠義であるとすれば仇討ちが横行し、罪であるとすれば世間に非難されるのではないかという考えが、議論を沸騰させていた。
2008.02.26
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すべてが終わったのは、六ツ半(午後七時)頃であった。 中庭では、うつ伏せに倒れた内匠頭の遺骸が準備されていた表黒羽二重裏浅黄の布団の上に横たえられ、その肩先に首が立てられた。遺骸の周囲には右京大夫のはからいで瞬時にして屏風が引き回され、その外回りには一関藩士の張り番が付いた。 それらを検分した下総守は、右京大夫に老中の認可により内匠頭の遺骸を近親者に引き取らせるようにと伝えて、復命のため江戸城に戻って行った。 田村屋敷からは内匠頭の弟の浅野大学長広に、遺骸の引き取りを要請した書状が忍(したた)められた。 御口上書之写浅野内匠只今於私宅ニ庄田下総守、大久保権左衛 門、多門伝八郎被参切腹被仰付候、死骸ハ近キ親類中ヘ無遠慮引 取候様ニ可申遺由右三人被申候、尤御老中へも被申上候由ニ候間 御勝手次第草々御引取可被成候、以上 三月十四日 田村右京大夫 浅野大学様 浅野屋敷からは、赤穂藩江戸留守居役の建部喜六の他に糟谷勘左衛門、片岡源五右衛門、田中貞四郎、磯貝十郎左衛門、中村清右衛門の六名が徒士とともに訪れた。源五右衛門は主君の切腹には立ち会えず、そこまでの状況報告のために浅野屋敷に立ち戻っていたものである。 この六人のうち赤穂藩の正使的立場であった建部喜六と糟谷勘左衛門は先に屋敷内に入り、一関藩家老より切腹までの経緯を聞き、大紋や烏帽子、上野介刃傷に使用した小刀など数々の遺品を渡された。そのあと二人は中庭にある内匠頭の遺骸と対面した。その様子を、一関藩士の北郷杢助は次のように書き記している。 なかなか目も当てられぬ様子どもにござ候。ご小姓、ご近習、 血と見え候者、四、五人参り候て、御死骸しまい、直々寺へ遣い 候よし。 赤穂藩の一行は、内匠頭の重心を失った遺骸と首、その他大紋や烏帽子などの遺品を棺に納めると泉岳寺へ向かった。曹洞宗万松山泉岳寺は、赤穂浅野家の長道、二代目采女正長友の眠る菩提寺であった。参列する者とてなく、そのまま淋しく埋葬された。 このとき、六人の中でもっとも内匠頭に近侍した片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門に、一関藩から内匠頭の書き置きが手渡された。それは切腹の折り、家臣への遺言を許されなかった内匠頭が、じきじきに両者を指名して申し伝えるよう依頼されたことを、右京大夫が忍めさせたものであった。『此段、かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ぬこと候ゆえ、知らせ申さず候。不審に存ぜられ候』 ──終わったか・・・。 秋田信濃守輝季は、田村屋敷からすべての結果の知らせを聞いたときにそう思った。しかしこの事件が、即日切腹という早急な結末を迎えたことに、大きな衝撃を受けていた。たしかにこの事件は、その場に居合わせた梶川与惣兵衛に組み止められて双方共に生き残ったという意味で、前例のない経過をたどっていた。それでも考えられたことは、もし幕府がこの事件の結論を得るのに時間を掛ければ、その間に助命嘆願の動きが出てくるのを恐れたのではないか、ということであった。 ──そのために早急に内匠頭切腹という既成事実を作ることで後に起きるかも知れぬ不測の事態を回避しようとしたのではあるまいか。では何故、上様はそう考えられたのか? そう申せば・・・。 信濃守は以前に聞いていた城中でのうわさ話を思い出した。それは朝廷内で「いくら現将軍の御生母とは言え、たかが八百屋の娘の桂昌院に従一位叙位を望まれるとは、論外である」「いや、その上の正一位を望まれた、という噂もある」というような話が流布していたということであった。それにも関わらず何年かかけた努力の結果として叙位の内示があり、現に一昨日、勅使により、天皇と上皇の詔と同時に桂昌院に対する従一位叙位が正式に将軍に伝奏されている。 将軍綱吉は、ことのほか生母の桂昌院を大切にしていた。それは衆目の一致するところでもあった。従一位を受けるためにも、天皇の宸襟を安んじ奉らねばならない特別な理由のある日であったのである。それなのにこの惨事。特に神経をとぎ澄ませて行われなければならなかった勅使接待の行事中が血塗られてしまったことは将軍の逆鱗に触れ、早々の沙汰となったのかも知れなかった。 そしてもう一つ考えられることは、将軍がこれを喧嘩と判断しなかったのではないか、ということであった。内匠頭の刃傷に対し、上野介はまったく抵抗しなかった。いや、抵抗できない状況であったのかも知らない。それはともかく、両者が同等の行為をしたという実質が伴わない以上、喧嘩と判断出来ないと考えたのではあるまいか。とすれば、内匠頭のみへの処罰と言うことも、考えられないことではない。そこまで考えてきて、信濃守は、はっと気がついた。 ──そうか! 上様が桂昌院様に従一位を受けられることにこだわられたのは、人臣の最高位の母から産まれたということで、ご自身の格も上げようとなされたのか。この二月、それを目的で上野介様が朝廷に遣わされた。そしてこの大事な仕事を成し遂げて戻ってこられた上野介様に、例え理由がなんであれ罪を着せるわけにはいかなかった・・・。これが上様の過酷とも思える内匠頭殿即日切腹の理由であったのかも知れぬ。それに桂昌院様は『お玉様』と申される。これもあって『玉の輿』などという言葉が、人の口に上るようになっていた。 信濃守は、妙な虚無的な感覚に落ちていった。 ──明日は、御勅使御一行様は上野の寛永寺へ御参詣の御予定の筈。いずれ世の中は、こんなことがあったにも拘わらず何事もなかったかのように打ち過ぎて行くのであろう。 すでに元禄十四年三月十四日の刻限は、四ツ半(午後十一時)になろうとしていた。 月ハ昼之如くにて大手外下馬迄惣御役人退出ゆへ賑々敷事言語ニ延かたく前代未聞之 聞之有様也 長いながい午後であった。庭の桜は、すでに散っていた。そして内匠頭の辞世の句にも拘わらず、その日は静かで、風が吹いていなかった。赤穂藩の本家である広島藩は累の及ぶのを恐れて沈黙を守り、一関藩の、そして院使饗応役を果たしていた伊予吉田藩の本家でもある仙台藩もまた後難を恐れ、表だった動きを見せなかった。 そして日が経つにつれ、右京大夫が非番にも拘わらず控所に居残っていて内匠頭の身柄を預かったことに対し、「田村ごとき小藩が、差し出がましいではないか」との非難の声が、江戸城内や諸大名の間に上がった。しかし事情を知る信濃守は、右京大夫とともに沈黙を守っていた。
2008.02.25
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ほどなく、切腹の刻限に近づいた。右京大夫は近習の迎えの声に立ち上がった。内匠頭を途中の出会之間から、中庭にまで案内する役どころがあったのである。下之間から一関藩士が座して並んでいる部屋を通って行ったが、それらの藩士たちは、一切中庭に行くことは禁じられていた。 内匠頭は、上座に庄田下総守安利、多門伝八郎重共、大久保権左衛門忠鎮が座って待っていた出会之間で、正座した。その内匠頭には、一関藩の警護の者が左右、後ろと三人が付き添っていた。 下総守が、ここで正式に内匠頭に切腹の申し渡しを行った。「その方儀、意趣これある由にて吉良上野介を理不尽に切り付け、殿中をもはばからず、時節柄と申し、重畳不届き至極である。これによって切腹を申し付ける」 これに対し、内匠頭は落ちついて返事をした。「本日、不調法なる仕方、いかようにも仰せ付けらるべき儀なるに、切腹を仰せ付けられる段はありがたく存じたてまつる」 その上で、「各々方様にも、今日は検使役としてお越しくだされ、お役柄とは申しながら、まことに大儀千万に存ずる」との挨拶を付け加えた。 切腹の場への途中に、先ほどの赤穂の家臣・片岡源五右衛門が、両手をついて控えていた。すでに内匠頭は、切腹が目前であることを充分に承知していた。それであるから、右京大夫はわざとゆっくり歩いて先導をし、一瞬、源五右衛門の前で立ち止まった、そこで暗黙のうちに、主従の別れが目と目でなされたのである。 切腹の場となった中庭には、先程申し渡しを行った正使・大目付の庄田下総守安利、副使・目付の大久保権左衛門忠鎮、同じく多門伝八郎重共が先行していた。右京大夫はその伝八郎の隣に着座した。 しばらくして内匠頭は、今度は下総守に対し、再び静かに上野介の容態を尋ねた。上野介が傷の手当を受けて退出したことを下総守が答えると、「その傷は如何か?」と更に訊いてきた。 これに対して下総守が返事をしないでいると、伝八郎が答えた。「傷は浅手と聞いてはおるが何分老齢でもある。急所を撃たれているとの事から、あるいは覚束ぬとも存ずるが・・・」 これを聞いた内匠頭は感極まったか、はらはらと涙をこぼしながらも笑みを浮かべていた。 ──お命を頂戴した、と思われているのであろう。 右京大夫は、内匠頭の様子を見ながらそう思った。 内匠頭は下総守に、「家臣共に手紙を遺したい」と請うたが下総守は、「それについては御公儀に伺いをたてる必要がある」とだけ答えて遠回しにこれを拒んだ。 少々の時間を経たところで、内匠頭が言った。「それでは、家来・片岡源五左衛門、磯貝十郎左衛門と申す者に伝えてもらいたい」 誰も返事をしなかったが、右京大夫は小さく頷いた。それは了承したという右京大夫の小さな心くばりであった。 内匠頭は、返事もしなかった正使・下総守の目を見て続けた。「此段、かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ぬこと候ゆえ、知らせ申さず候。不審に存ぜられ候」 この話の内容は、右京大夫の耳にも確かに届いた。意味としては分からぬ所もあったが、右京大夫は再び小さく頷いた。浅野屋敷に伝えさえすれば、言葉の意味が分かるのであろうと思ったこともあった。 夜の帳が落ちた中庭の周囲には、高張提灯が灯された。 右京大夫は瞑目した。これから起こることを想像すれば、目を開けてはいられぬ気持ちであった。しかしそれでも、切腹の場へ歩を進める内匠頭のかすかな衣擦れの音から、その姿が目に見えるようであった。 切腹の場には、すでに新しい手水桶、盥などが準備されていた。そして介錯役の御徒目付の磯田武太夫が待ち受ける中、内匠頭の前に一関藩・中小姓の愛沢惣右衛門が、三方にのせた小脇差しを運んできた。使用の目的が目的のため、右京大夫は自刃用の小刀の準備に心を砕いた。 考えは二転三転したが、結局、『一関藩ご由緒これある小脇差』として伝えられてきた長光の小刀が準備された。しかし内匠頭は、自分の差料を使っての切腹を懇願した。正使の下総守にこれを認可されると、この差料を、急ぎ中之間から取り寄せられた。 その取りに行っている間に、内匠頭は辞世の句を読んだ。田村家中が、その句を認ためている。 風さそふ 花よりも猶 我はまた 春の名残を いかにとかせん やがて作法にのっとり、内匠頭は切腹の座についた。身を固くし、心の中で身構えていた右京大夫の耳に、鈍い苦悶の声が届いた。 この様子については、一関藩士・菅治左衛門が、娘婿の富森助右衛門に語ったと思われる『江赤見聞記』に書き記されている。 脇差の先二寸ばかり出し、奉書の紙にて巻き、水引にて結び、 三方にのせ出し申し候とき、御脇差を御いただき、肩衣ばかりお 取り、押し肌脱ぎ、左のあばら下へ押し立て、右の方へお引き回 し、御介錯頼み申し候とお声を合図に、そのまま武太夫介錯つ かまつり候 介錯を終えた介錯人の磯田武太夫は内匠頭の首を差し上げ、並みいる検使役や右京大夫そして見届役たちに検分させた。切腹の現場とは、実に凄惨な場でもあった。 磯田武太夫殿(中略)成程手きわ能御座候 ちなみに同書は、のちに内匠頭の耳の脇に傷があったのを遺骸下げ渡しの際に赤穂藩士たちが実見したことを伝え、介錯人の磯田が介錯をし損じたらしいと伝えている。さらに同書は、磯田のこの失態にもかかわらず、内匠頭は少しも動揺しなかったとの噂が巷に流れた、とも伝えている。(東京都港区新橋5丁目1−23番地周辺にある田村屋敷跡・「浅野内匠頭終焉の地」の碑)
2008.02.24
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ご 切 腹 やがて秋田屋敷からも新しい畳が出会之間の中庭に運び込まれ、筵を広く敷いたその上に畳を置いて、右京大夫のせめてもの思いやりである毛氈が敷かれて切腹の場が作られはじめた。 その様子を見た伝八郎は、田村家側に邸内に切腹の場を作り直すよう強く求めた。右京大夫としては望むところではあったが、先程から正使と副使の激しい遣り取りを見ているので、田村家側はやむを得ず実名を挙げて伝八郎に状況を説明した。「先ほど下総守様が申されるには、『このことについては老中・土屋相模守政直様へ申し上げ、その御指図をお受け致しておる。相模守様は、さらに白砂を敷くようにとも申されておられるゆえ。その通りに手配を致せ』とのお申し付けでございますれば・・・」 そう言いながらも、右京大夫は困惑していた。 伝八郎は副使でありながら、正使の下総守に噛みついていた。「かりそめにも浅野殿は五万石の城主、殊に本家の安芸広島藩は大身の大名にござる。然るに本日只今直に切腹、しかも庭に白砂とは余り手軽な御仕置にござらぬか! 私、小身の身の御役ではございまするが、恐れながらこの切腹につきましては不忠の恐れを省みず、御目付様へ申し上げたく存じまする」。 二人はここで、再び大きな声で言い合いをはじめた。先程からの論争に、未だ結論がついていなかったのである。下総守とすれば、伝八郎の言い分も分からない訳ではなかったが、上役に忠実であろうとし、なおかつ正使という立場であれば副使である伝八郎の意見をそのまま受け入れ、弱腰と思われる訳にはいかなかった。そのつまるところが白砂であった。下総守は、反対する伝八郎を無視して、田村家に白砂を敷くよう命じたのである。白砂となれば完全な罪人である。下総守は下総守で、公儀に対する忠誠と副使・伝八郎らの言い分との板挟みになっていたのである。間に入った形で、田村家側では動きがとれず、その対応に苦慮していた。「あまりにも無体な」 さすがにこの田村家三万石の当主・右京大夫によるこの訴えは、副使のそれとは異なる重みを見せた。ようやく中庭ではあるが白砂を敷くことは中止され、畳の上での切腹が認められたのである。簡単な小屋掛けをし、屏風で三方囲いを作られた切腹の場が、粛々と作られていった。 その切腹の場の準備が進められている六ツ過ぎ(午後六時頃)、下総守より内匠頭に、切腹が沙汰された。さらに内匠頭に裃をつけるようにとの指示があり、内匠頭は田村家が準備をした裃を着けた。 それら逐次申し伝えられる知らせを、右京大夫は沈痛な面持ちで受けていた。そしてこの騒ぎの最中、一人の武士が訪れた。赤穂藩の片岡源五右衛門である。「主人儀、当お屋敷にて切腹仰せつけられ候段承り、主従の暇乞いに候ゆえ、ひと目、主人を見申したく」 門前警備の一関藩家臣の拒否にも屈せず押し問答を繰り返す片岡源五右衛門の申し入れが、右京大夫に告げられた。しかしもはや自分の一存を生かせぬ立場となってしまった右京大夫は、検使役らに善処を求めた。しかし諾否も告げずこれを無視する下総守に右京大夫は、「せめて一目を‥‥」と願う片岡源五右衛門の申し出を独断で了とし、無刀、かつ田村家の警護をつけた上で内匠頭が切腹の場へ向かう途中の小書院の次之間で控えることを許した。 右京大夫は、また別の知らせも受けていた。「内匠頭様が上野介様の様子を知りたがっておられましが、それに対する返答は打ち合わせ通りに致しておきました」というものであった。その打ち合わせとは、次のようなものであった。 相手上野介方、もしあい尋ねられ候わば、挨拶答えに、取り込 み候ゆえ確かなる儀は承らず候えども、御深手にて、ご養生は叶 いまじきかと申し候よし、挨拶いたし然るべく候 そう言われたとき内匠頭は、なんとか思いを通したと思ったのであろう、笑みを浮かべた。しかしこの嘘は、単なる一つの方便に過ぎなかった。 右京大夫は、 ──自分になら内匠頭殿も実状を話してくれるのではないか。こんな大きなことをやったのであるから心に鬱積したものがあるに違いない。 そう思って心を砕いたが、内匠頭と直接話し合う機会はついに訪れることはなかった。それに公儀からの使者が着いてから、内匠頭は口をきくことを一切止めてしまったこともあったからである。 右京大夫は下之間に、自分でしつらえた客のいない座布団に向かって座し、静かに瞑目していた。右京大夫としては、せめて客として内匠頭を迎える形を執ろうとしていたのである。
2008.02.23
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信濃守は、殿中における刃傷沙汰の前例を思い返していた。 寛永五年八月十日、西の丸で豊島行部少輔明重(目付)事件が あった。事件の原因は、老中の井上主計頭正就(老中・横須賀藩 主)の長子と大阪町奉行兼堺政所奉行・島田越前守直時の娘の間 を行部少輔明重が取り持ち、婚約が整っていた。しかし春日局が 「上意」と称して主計頭正就に他の縁談を申し渡したため主計頭 正就もこれを承諾してしまい、婚約が破談となった。面目を失っ た行部少輔明重が怒って刃傷沙汰に至り、主計頭正就を討ち果た してしまったのである。行部少輔明重はその場で自害したが、 この時、行部少輔明重を組み止めようとした青木小左衛門忠精も 巻き添えにより死亡した。 豊島家~嫡子主膳正継重切腹、豊島家断絶 井上家~お咎めなし その後、責任を感じた島田越前守直時も切腹をした。 貞享元年八月二十八日、本丸琴棋書画のお入側で、稲葉石見守 正休(若年寄)事件があった。事件の原因は、石見守正休が淀川 改修工事の見積りを四万両としたことに対し、堀田筑前守正俊(大 老 山形藩主)はこれを過剰として別の者に半額の見積りを立て させ、これを採用しようとしたため石見守正休は面目を失い遺恨 を持った。(異説として、将軍綱吉が意のままにならない筑前守 正俊を殺させたという説や、前日に石見守正休は堀田家に招かれ て酒食をともにしているが、この際に何らかの事情があったとす る説などがある)石見守正休は大老・老中用部屋で筑前守正俊に 挨拶した後、用があるといって次室に筑前守正俊を呼び出し「天 下のため覚悟」と叫びながら、脇差により討ち果たした。この時、 老中の大久保忠朝が駆けつけ、石見守正休に切りかかったが石見 守正休は微笑んで無抵抗であったが、集まってきた者たちに滅多 切りにされ即死した。 稲葉家~断絶 堀田家~お咎めなし これらの例では原因が公的なものであれ私的なものであれ、加害者はいずれも相手を討ち果たした後、自らも周辺の人間に斬り殺されている。問題は、そこで片づいていた。 しかし殿中ではないが、二十年前の事件を思い出した。 延宝八年六月二十六日、前将軍家綱の法会が芝増上寺で行われ た際、内藤和泉守忠勝(鳥羽藩主)は乱心して奏者番の永井信濃 守尚長(丹後宮津藩主)を背後から刺殺するという事件があった。 この二人は年齢が近く屋敷も隣同士で普段から感情的対立があり、 和泉守忠勝が信濃守尚長に恨みを持っていたとされているが、刃 傷に及んだ直接の理由は、法会の日、和泉守忠勝は参詣口門、信 濃守尚長は出口勝手門の警備をそれぞれ分担したが、警備に関す る奉書を信濃守尚長が一人で見て和泉守忠勝に見せなかったため 手違いが生じて和泉守忠勝が大恥をかいたためとも、また参詣者 の饗応の事で和泉守忠勝が信濃守尚長に相談したところ、「必要 ない」と言われたので用意しなかったのに、信濃守尚長が豪華な 馳走を出したので和泉守和泉守忠勝が面目を失ったためともいわ れている。 また一説に、信濃守尚長が自邸の庭に築山を築きその上に茶室 を建てたので隣家の和泉守忠勝の邸内が丸見えになり、和泉守忠 勝が苦情を言うと「それなら塀を高くしろ、金がないなら貸して やる」と見下げた返答をされたため、和泉守忠勝は信濃守尚長を 恨むようになったという。 内藤家~内藤和泉守忠勝は切腹、内藤家は廃絶。 永井家~士道不覚悟と言うことから改易。しかしその後情状 酌量されて信濃守尚長の弟・永井直圓に名跡が認め られ、大和新庄に一万石を得た。 内藤和泉守忠勝! そこまで考えてきて信濃守は、事件のときの松平和泉守乗邑の妙に落ち着いた態度に、はっと思い当たった。内藤家の廃絶後、志摩鳥羽藩には下総古河藩より土井周防守利益が七万石で入封し、その後唐津藩に移封、そして六万石で松平和泉守乗邑が唐津藩より入れ替わりに入封している。そして今回、江戸城中で上野介を斬り付けた内匠頭は、旧鳥羽藩主・内藤和泉守忠勝の甥にあたるということに気がついたのであった。 ──松平和泉守乗邑は、この事件の発生について何らかの事情を知っていたのではあるまいか。そう考えれば、帝鑑之間でのあの時の態度の意味が理解できるが・・・。しかし知っていたとすれば、和泉守は内藤家と何らかの接点があったことになる。そんなことがあるであろうか・・・? たしかに内藤家と松平家は鳥羽藩を支配したことでは合致する。しかし家系は違うのであるから、それは単なる憶測に過ぎぬのかも知れぬ。 余談ではあるが、松平和泉守乗邑は、後年、亀山藩主や淀藩主、佐倉藩主を歴任後、将軍吉宗に重用されて幕政に参画、大阪城代を努めたのち老中に就いている。 信濃守は、あのときの不快な感覚を思い出していた。 それにしても前例から見て、赤穂藩も断絶となる確度が高いと思われた。心の中ではそれを打ち消したい気持ちが大きかったが、信濃守には粛然とするものが感じられた。 ──だがしかし・・・、取り潰しとなればどうなる。 信濃守は、深く息をついた。何故ならそれは、一番考えたくない事態であったからである。もし赤穂藩の努力にもかかわらずお取り潰しにでもなれば、禄を失った藩士たちが激烈な暴発をするかも知れなかった。「仇討ち・・・。うーむ、例えどのようなお方であろうとも、殿は主君。主君に忠義を尽くすは、武士の本分。さればこれこそが、赤穂藩士の大義ではあるまいか?」 信濃守は、思わず唸った。 武士道の核心は忠義である。それは主君に対する滅私奉公であり絶対服従である。しかし家臣それぞれの家門や暮らしを支えるのは藩(お家)、という考えもあった。つまり主君のためと、藩という組織(主君と家臣たち)のためという広い考え方もあったのである。そのことは主君という個人と、藩という組織への忠誠と、場合によっては難しい選択を迫られるのもまた武士道であった。 ──赤穂藩の場合はどうなのか? 確かに仇討ちを実行するとすれば、主君・浅野内匠頭長矩に対する赤穂藩士の忠誠心の発露にはなるであろう。しかしその行為自体が藩の存続を危うくするなら、果たして本当の忠義と言い得るであろうか。しかし取り潰しが決定されれば、『窮鼠、猫を噛む』の例もある。そうなれば仇討ちは、明快に個人と藩双方への忠義の理屈立てとはなろう。ただしこの理屈は、赤穂藩という組織の滅失がその大きな前提となる。もしそれを確認せぬままに仇討ちをすれば、内匠頭個人への忠義は果たせても、赤穂藩への忠義は果たせないことになる。 当時の忠義とは、阿諛追従でもなければ奴隷的な服従でもなかった。それであるから、主体性をもち見識をもった自立的武士の責任ある決断としての献身的行為であるべきである、という考え方も根深くあった。 ──さすれば仇討ちへの考え方は二通りとなろう。 一つは、内匠頭個人が持った上野介への恨みに対する単純な仇討ちである。ただしこの考え方は、藩の取り潰しに問題が波及する虞が充分に考えられる。 もう一つは、『武士の一分(いちぶん)』である。『武士の一分』とは自己の名誉のために、また自己が武士としての存在意義を確立するために行う仇討ちである。少し分かり難いが、前者は単純な復仇、後者はそれによって武士としての面目が立つかを確認しながら行うという、一段階を踏まえての復仇である。いわば、より理性的な復仇とでも言うのであろうか。しかしいずれ、仇討ちを実行するための思想であることは間違いない。 ──忠義とは内匠頭殿個人に対してか? または赤穂藩という組織に対してか? いずれにしても仇討ちが実行されれば、江戸はもちろんのこと、国中を揺るがす大事件になるであろう。それにしても、大義の意味立ては難しい・・・ 信濃守は首を振った。こういう考えを追い出そうとしたのである。しかしまた別のことも考えていた。 ──あの事件の起きた時のことを思い返すと、内匠頭殿は二度、上野介様に刀を振るっている。これはどういうことか? もしかして内匠頭殿は、上野介様のお命までは望まれなかったのではあるまいか。もし確実にお命頂戴とお思いなら、短い刀などを振り回さずに、一挙身体ごとぶつけて突く筈。 その考えは、さらに推測を生んだ。 ──殺害のご意志がなかったとすれば、単に脅かす積もりであったのではなかろうか? とすればあのときの多くの周囲の目があったためもあって、不本意ながらあの騒ぎになってしまったのであろうか? しかし脅かすためであったとしても、刀を抜いてしまえば同罪、それを知らぬ内匠頭でもあるまいに・・・。 そうこうしている内に、また田村屋敷から使いが入った。「内匠頭様の御検使役様方の夕餉を調えるべく御下命あり。急な上に何分にも多人数。恐れながら秋田様御家中にも、そのためのお手を煩わせ度」
2008.02.22
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仙台藩からこれという助力の得られないということが分かった今、右京大夫としては秋田家からの申し入れに感謝していた。そしてその返事を信濃守の使者に伝えながら、右京大夫は、次の指図に入った。 ──内匠頭殿は赤穂の藩主といえどもいまは罪人。わが藩としても、単に客間にお通しして事足れりという訳にも参るまい。いずれそれについても御沙汰があろうが、どこぞの部屋に形だけでも囲みを作らねばなるまい。 それに田村屋敷には当分お預けということであったので、右京大夫は慌ただしく家老を呼んで座敷牢の造作を命じた。主君の意を体した一関田村藩家老は、出入りの大工を呼び集めた。 襖はすべて釘づけにしてさらに板で縁囲いとした。その上には一面に白紙を張った。ただ一カ所のみ出口を設け、その部屋には、便所まで用意した。座敷牢の中には夜具一着、蒲団二枚、枕一個、掛手拭一本、櫛道具一切、その他柄杓や行水桶、手桶、屏風までもが備えられた。長くなるであろう内匠頭の逗留に、備えたのである。 さらに右京大夫は、屋敷の内外の警備を厳重にしようとした。吉良家に対してもさることながら、上野介の実子が当主である米沢藩上杉家の動き、さらには浅野家家臣による内匠頭奪還に対しても注意を払う必要があった。しかし内匠頭請取のために多くの家臣を派遣して人員の払底していた右京大夫は、急遽、当てにできない仙台藩にではなく、信濃守に応援の人員派遣を要請したのである。 それから小半刻後の七ツ(午後四時)頃、警備の固められた田村屋敷に、内匠頭を乗せた駕籠は錠を下ろし網をかけられたまま裏玄関に入り、屋敷内の『出会之間』まで運び込まれた。そして襖に釘で板を打ちつけ、欄間の障子までも釘で打ちつけられた『中之間』に収容された。一応、閉じ込めたという形式を取り繕ったのである。 その間に右京大夫は、内匠頭が所望しているという酒と煙草を断ると食事を供せしめた。とにかく朝食の後は、食事をとっていないと思われた。まず酒よりも食事と判断したのである。それにこのようなときに酒を振る舞うことは、不謹慎とも思われた。一汁五菜、湯漬け二杯を食べたという報告があった。 それらの対応に大わらわであった田村屋敷に、公儀よりの使者の来訪が伝えられた。右京大夫は内匠頭の迎えとは別に桜田門まで出迎えの使者を出し、さらに田村屋敷の門前には家老三人と用人三人、右京大夫自身は玄関にて出迎えた。正式な公儀の使者を迎える以上、少しの落ち度も許されなかったのである。 七ツ半(午後五時)、公儀からの正使として大目付の庄田下総守安利、副使として目付の多門伝八郎重共、同じく目付の大久保権左衛門忠鎮が、さらに御徒目付・山尾勘右衛門、磯田武太夫、松永小八郎、石原彦太夫、そして御小人目付の神田与助、神谷権平、大草五郎右衛門、彦坂金右衛門、加藤源三郎、近田茂八郎らが田村屋敷を訪れた。一関藩では下総守に家老一人を付け、副使にも用人を付けて大書院に案内した。 大書院に通された一行は席に着くや否や、右京大夫に上野介と内匠頭への事情聴取の様子を手短に話し、内匠頭即日切腹を伝えて早急にその準備に入るよう命じたのである。 右京大夫は動転した。暫時の身柄預かりと思って座敷牢などの準備していたのが即日切腹に変わったのであるから、無理もなかった。 ──それにしてもあの事件からたかだか三刻(約六時間)、何故そんなに急ぐのか? そんな一瞬の疑惑も吹き飛んでしまった。 正使・下総守は、早速、内匠頭を呼び出して切腹の命を伝えようとしたが、副使の伝八郎と権左衛門が「切腹の場所を確認してから伝えるべきである」と主張して反対した。 そこで下総守が、「先刻絵図面ヲ以拙者一覧いたし殊ニ相済申条ニ付、御手前様方御検分ニ不及」と伝八郎と権左衛門申し渡したが二人は再度、「書類のみではなく、現場のご確認をなされ度」と進言した。 しかし下総守は、強硬に拒否した。 このとき、まったくの偶然ながら、赤穂藩士・富森助右衛門の妻の父、菅治左衛門が一関藩に物頭として出仕していた。助右衛門は内匠頭の身柄引き取りに出向いた一員でもあった。この治左衛門に気を許したか、内匠頭は次のように話しかけた。「自分は全体不肖の生まれつき、その上に持病に痞これあり、ものごと取り静め候ことまかりならず候。それゆえ今日も殿中をわきまえず、不調法の仕方つかまり、かくのごとくいずれもの世話にまかりなり候。さらながら、相手方は存分につかまり負わせ、せめての儀と存じ候」 右京大夫は治左衛門からその話を聞いたからといっても、どうしようもなかった。とにかく内匠頭は人を、しかも筆頭高家の上野介を危めてしまったのである。 検使役の間で揉めている切腹の場について、田村家では『中之間』内に段差を設け、たまたま準備中であった新畳を敷いた上で上段での切腹を進言した。ところが正使の下総守はそれでも了承せず、『出会之間』の、しかも中庭での執行を側用人・柳沢出羽守吉保の下命であるとして頑強に主張した。側用人・柳沢出羽守吉保と言われれば、右京大夫としても引き下がらざるを得なかった。 右京大夫は信濃守に使いを出した。畳を作る時間が少ないため、使用する半分の量の畳を、三春藩を通じてその出入り業者に依頼したのである。「急ぎ新畳の準備中なれば、暫時のご猶予を」 そう言って、下総守の屋内での切腹への翻意を期待して時間稼ぎをする右京大夫に、「今ある部屋の畳を剥がして中庭にて使用するも差しつかえなし」と譲らなかった。「とは申せ赤穂藩は五万三千五百石。この赤穂藩の藩主の切腹に、それは許されますまい。このような不始末では、貴殿とは別に御公儀にご報告致さざるを得ない」そう右京大夫が主張すると下総守は、「切腹の場所、方法についても、最早松平美濃守殿にも報告を致し、その御決断を頂いておる。今更の変更はならぬ。大検使のことは拙者にまかされよ。その後、別にご報告なさりたければ、それもよかろう」と言ってこれも譲らなかった。 右京大夫の抗議を受ける意志は、まったく見えなかった。「やれるものなら、やってみろ」という態度であったのである。それでも右京大夫は抵抗を試みたが、それが無駄であることも感じていた。「刻限が切迫しておる。先程依頼した畳を秋田屋敷に督促致せ」 使いの者から田村屋敷の様子を聞いた信濃守は、悄然としていた。公儀においてなにがどう詮議されたかは知らなかったが、『即日切腹』だというのである。しかも上野介は、「怪我のみで、死に至ることはない」という噂が公然と流れていた。 ──では上野介様のご処分は? そうは思ったが、まさかに田村屋敷にその問い合わせをすることは、憚られた。 ──喧嘩は両成敗が御定。これが喧嘩というには事が大きすぎるが、それなりのお沙汰が上野介様にも下りるのであろう。 信濃守は、それ以上の詮索をやめようとした。詮索が無意味なことは充分に承知していたからである。ただし内匠頭の胸中を察すれば、上野介の処分が気になっていたことも事実であった。確かに上野介は殿中で刀を抜いて刃向かうことはしなかった。それは城中のすべてが確認していた。 ──しかし内匠頭殿が一身一家を捨ててこれだけのことをやっているのである。そうされた上野介様にも何かの落ち度があったのではなかろうか。それにしても、もし切腹とあらば、その後の浅野家はどうなるのであろうか。 田村屋敷に近いとはいえ、当事者である右京大夫とは違っていささか心にゆとりのある信濃守は、このことを冷静に考えようと努めていた。しかし気ばかりが焦って、なかなか考えがまとまらないでいた。一番先に考えようとしたのは、浅野家の今後のことであった。 ──今から後も浅野家が存続できるとすれば、それは弟の大学殿が赤穂藩の藩主となることであろう。ただし問題は、ご公儀がそれを許すかどうかである。しかし赤穂藩を取り潰すことともなれば、多くの藩士が路頭に迷うことになる。禄を失った彼らがどうやって暮らしの糧を得るのか? 暮らしに困った藩士たちがそれ以上に大きな騒動を巻き起こす可能性もある。それを考えれば、大学殿でお家を再興させることがもっとも穏便な手立てではあるまいか。何らかの火種を残すよりは、ご公儀も再興の方法を探るのではあるまいか。 信濃守はそう考えた、いやそう考えたかった。内匠頭の切腹が命じられてはいたが、浅野家再興がその結論であるとも思えた。 ──しかし・・・。 信濃守は腕を組んだまま瞑目した。そうでない可能性、つまりお家取り潰しの事態も考えられないことではなかった。 ──しかし赤穂藩の重役たちは、先ず藩の存続に精一杯の努力をするであろう。それが巧く行けばいいが。
2008.02.21
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田 村 屋 敷 外桜田(いまの日比谷公園・野外音楽堂周辺)の上屋敷に戻った信濃守は、自室に籠った。浅野家の行く末を思うと、何も手につかなかった。そして部屋に入っても、 ──こうなるには余程のことがあったのであろう。としか考えようがなかったのである しばらく物思いにふけっていた信濃守は、屋敷の周囲の妙な雰囲気に気がついた。とにかくあの大事件があり、今日の行事が終わってから、まだそう時間は経っていなかったのである。胸騒ぎを覚えた信濃守は家臣を呼ぶと軽輩を一人、外の様子を見にやった。「まだ明確ではございませぬが、浅野内匠頭様を一関藩田村屋敷(いまの新橋四丁目一~三〇番地周辺)でお預かりすることになったそうでございまする。その網を掛けられたお駕籠が、不浄門の平川口から日比谷御門、ここわが屋敷の前を通られて芝愛宕下の田村屋敷に向かわれるそうでございまする。また築地の浅野屋敷からは、早水藤左衛門満堯殿、萱野三平重実殿が赤穂本国へ早馬で旅立ったそうでございまする」 そう家臣から報告を受けた信濃守は、愕然とした。その一関藩田村家の江戸上屋敷は、三春藩秋田家の江戸上屋敷とは約九町(約一キロメートル)位しか離れていなかったのである。 ──なぜ小藩たる一関藩田村屋敷に預けられるのか・・・?と不思議に思ったが、それは一瞬のことで、それ以上を詮索する気持ちの余裕がなかった。そこで信濃守は、様子を見に直ちに使者を田村屋敷へ送り出した。ところでこの一関藩田村家の祖は、仙台藩・伊達陸奥守政宗の孫である。当主の右京大夫の曾祖母・愛姫(めごひめ)が三春より政宗に嫁ぐことによって三春田村家の後継者が絶え、断絶してしまっていた。三春最後の領主である田村大膳大夫清顕が一人娘しか恵まれず、相続人がいなかったために起こった出来事である。愛姫の哀訴を受けた嫡男の陸奥守忠宗は、わが子(愛姫の孫)の宗良に岩沼藩三万石(宮城県)を立藩させて田村氏を再興、後に一関三万石として移したものである。それもあって一関藩には、三春の旧田村氏ゆかりの家臣が何人かが仕えていた。忠宗がその三男に田村隠岐守を名乗らせて岩沼に立藩させ、その後一関に移した経緯からすれば、それはまた当然のことでもあった。 浅野家も田村家も、秋田家とは親しい間柄であった。両藩との長いつき合いを考えて何とかしなければとは思ったが、こんな大事では手の出しようがなかった。信濃守にいま出来ることは、出すぎることなく、出来る限りの協力を一関藩や赤穂藩にすることのみであった。ともかく、累の及ぶような余計な行動は禁物であった。自室に籠った信濃守は、端然と座して瞑目していた。内匠頭の状況にわが身を置いて考えてみても、信濃守の考えの及ぶ所ではなかったのである。 ──それにしても一関藩田村家に預けられたという内匠頭殿は、その後どうなるのであろうか? あれから上野介様はどうなされたのであろうか? お命はとりとめたと聞くが、あってはならぬ殿中での刃傷沙汰であったのであるから・・・。 信濃守の思考は、堂々めぐりをしていた。 ──しかし斬り付けた内匠頭殿はともかく、斬り付けられた上野介様には、何の落ち度もなかったのであろうか? そうなるには、そうなる訳があったのではあろうが。 そう考えながらも信濃守は、この不幸な思案の中から何とか抜けだそうと苦慮していた。そして信濃守は、それらの考慮を終らせようとして思わず呟いた。「いずれ城中でご詮議があろう」 その信濃守の元に、田村屋敷への使者が戻ってきた。「『火急に内匠頭様をお引き取り致したため、大わらわでござる』と申しておりまする」「やはり・・・」 信濃守は絶句した。 ──田村屋敷が引き取ったということは、ご裁断があったということであろうか? いやまさかあの事件からまだ一刻半(約三時間)程、恐らく詮議の結果の出るまで田村屋敷に預け置くということであろう。それにしても愛宕下は、難儀な役柄を押しつけられたもの・・・。 信濃守は、田村屋敷へ再び使者を出した。「もし御用の節は、何なりとお申し出くだされ」 もちろんその一方で、信濃守は赤穂藩のことも心配ではあったが、事が事だけに築地の浅野屋敷に使いを出すことはできずにいた。
2008.02.20
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驚きの声を上げて駆けつけてきた高家衆たちが、与惣兵衛とともに内匠頭を引きずるかのようにして柳之間溜まで来ると、内匠頭は上野介に「卑怯者!」と怒鳴った。 内匠頭は柳之間溜を通り抜けると、そのまま柳之間の裏にある蘇鉄之間に運び込まれた。騒動のあった松之廊下の角より桜之間溜の方へは畳一面に血が流れ、引きずられた跡がついていた。これら一連の動きは、右京大夫の脳裏に深く刻み込まれることになった。 高家衆の詰め所となっていた桜之間からは、城内はもとより町方からも薬師を呼ぶために使いが出された。ようやく騒ぎが納まったが、諸侯の間の動揺は鎮まらなかった。儀式のはじまる刻限は、すでに差し迫っていた。もうそろそろ勅使一行が登営してくる頃であったのに、白書院に続く松の廊下は血塗られてしまっていたのである。間もなく各部屋に次の知らせが入った。 浅野内匠頭の代役として、勅使饗応役には下総佐倉藩主・戸田能 登守忠真が申し付けられたること。 また本日の答礼の儀式は白書院に替わり、黒書院にて執り行われ るとのこと。 これらを聞かされた各部屋では、とりあえず安堵の空気が流れた。黒書院は白書院よりも格が落ち、広さも八十畳と若干狭い広間であった。しかし血で汚された咄嗟の事件の直後である以上、それはそれで、やむを得ない処置であったと思われる。 これら儀式の手順が整えられている裏で、浅野家御供の建部喜六、先番・礒貝十郎左衛門正久、中村清右衛門清房らは、赤穂藩上屋敷への退去を命ぜられた。さらに三河岡崎藩の藩主の水野監物忠之は江戸城より直に赤穂藩上屋敷へ赴き、赤穂家中へ騒動なきよう命じながら自身は同邸に詰め、岡崎藩兵を赤穂藩上屋敷近所まで出動させ警戒に当たらせた。また広島藩四十二万六千石の浅野本家からも、用人・吉村平右衛門重直が赤穂藩上屋敷に駆けつけた。これらの騒動が城外にも漏れ、それぞれの主人の巻き添えなどを心配した供の者たちが、御玄関前や中之口御門まで入り込み、また大手や桜田の下馬所などでも事情を知らぬ者たちの間で騒ぎが大きくなっていった。そのため『浅野内匠頭儀、吉良上野介へ刃傷に及びニ付両人共殿中御糺中ニ付諸供方騒動致間敷もの也』と各門前に張り出したことで、ようやく騒ぎが治まっていった。 この城の内外を揺るがす大事件ではあったが、当日の儀式は滞なく執り行われた。そしてその日の行事が終わると、後難を恐れた諸侯たちは潮が引くように退出していった。先程までの城中の喧噪が、嘘のように静まり返っていた。 一関藩は仙台伊達六十二万石の支藩ではあったが、譜代格として遇され、しかもそのときは奏者番を勤めていた。しかしその日は非番であることを知ってはいたが信濃守は気になったので、退出に際して柳之間に立ち寄った。しかし右京大夫が、「殿中の凶事これ有り候に、(城外へ)下り候事如何と見合わせ候」とその理由を明らかにしたため、特に気にすることなくその場を退出した。その居残ったことが、右京大夫を大きな事件に巻き込むことになるなどということは、考えも及ばなかったのである。 その右京大夫は、当番となっていた三河田原藩藩主の三宅備前守康雄とともにそのまま控所に残っていた。右京大夫としては、「たしかに非番とはいえ、このような凶事があったのだから、すぐに帰るのも如何なものか?」という思いもあったし、自分の娘が「院使饗応役である伊達左京亮村豊の母である、外孫とは言え自分の孫に当たる左京亮の微妙な立場を知りながら捨て置く訳にも参るまい」などの思いもあったからである。 まもなく老中部屋より若年寄の井上大和守正岑が来て、「誰が控所に残っているか」と問い掛けた。 二人は、それぞれに名を答えた。 二人しか残っていないことを知らされた老中部屋では、『田村右京大夫が適任か否かは別としても、今この火急の事態で誰が良いかを検討し、改めて呼び出して下命するのも時間がかかる。それなら非番ではあっても奏者番である右京大夫で良いのではないか』という結論が出された。 そして九ツ半(午後一時)頃、右京大夫は老中・土屋相模守政直によって、『時計之間の次の間』に呼び出され、内匠頭との縁続きがあるかどうかを大和守に尋ねられた。「まったくございませぬ」 右京大夫はそう答えた。 相模守が下命した。「浅野内匠頭こと、そのほうへ当分お預けになられ候。場所柄もわきまえず自分の宿意をもって上野介へ刃傷におよんだ段は不届きにつき、はやばや引き取り申し候よう」 右京大夫が平伏をして、このまま内匠頭を伴って帰るのかを訊いたところ、「召し連れには及び申さず」との回答を得たので、後刻お引き取りの人数を派遣する旨を告げて退出した。右京大夫は大急ぎで芝愛宕下の田村上屋敷に戻った。そのとき右京大夫にしてみれば、一時的に内匠頭の身柄を預かることしか考えていなかったのである。 とにかく一関藩としては、大変なことが起こったことになった。そこで右京大夫は本家に当たる仙台藩上屋敷に早々に使者を立てた。どう対応するか、指示を仰ごうとしたのである。しかしその返答は、『御公儀の指示に従うように』という簡単なものであった。当時の仙台伊達家と広島浅野家は、犬猿の仲であったのである。 それはともかく、一関藩としては、まず内匠頭を迎えに行かなければならなかった。この内匠頭を乗せる駕籠については、乗物内より板を打ちつけて錠をかけるという厳重なものを準備した。 御城江御請取ニ被遣候人数之覚 一馬 上 桧川源吾 牟岐平右衛門 原田源四郎 菅治左衛門 一御小姓組 須知甚太夫 若生又八 一中小姓組 愛沢惣衛門 入間川新九郎 富永与五八 一御徒衆 弐拾人 一足 軽 参拾人 右何レも棒を持 一中 間 弐拾人 三ツ道具為持候 他に徒士目付 大泉喜内 その上で一関藩は奥方付の家臣まで掻き集め、総勢七十五人という多人数で内匠頭請取に臨んでいた。さしもの一関藩田村屋敷も、まるで空になるような騒ぎであった。 秋田信濃守は、江戸城からの帰途、昔のことを思い返していた。 常陸宍戸藩(茨城県友部町)を領していた信濃守の父の秋田安房守盛季は、正保二(一六四五)年、奥州三春へ国替えとなった。そしてほとんど同じ頃、隣の常陸笠間藩(茨城県笠間市)を領していた浅野家は赤穂に移封となったのである。常陸時代の両藩は、その領地が隣接していたこともあり、家臣たちや領民の婚姻関係も含めて深い絆が作られていた。それらの事情にも関わらずこの両藩が遠く南北に移されたについては、この地が御三家の一つである水戸藩領、とくに御連枝領設定のためであったと思われる。 この二つの藩が赤穂と三春に分かれた二年後の正保四年の饗応の際には、天皇の勅使随行の二条前摂政光平を浅野家が、また鷹司中納言房輔を秋田家が饗応役を勤め、その六月には、両藩共に防火の事(初期の大名火消し)を命ぜられている。そしてさらに延宝七(一六七九)年には、秋田家が同じ吉良上野介を指南役にして勅使饗応役を、天和三(一六八二)年には内匠頭が十七歳で最初の勅使饗応役を勤めた。その後も秋田家は元禄六(一六九三)年、同じく元禄十一(一六九八)年と四度、しかも信濃守自身は二十九歳、四十三歳、そして四十八歳のときと三度もこの大役を勤めていたのである。この勅使饗応役には五万石程度の大名が任ぜられるのが慣例となっていたこともあって、浅野家と秋田家との間は縁浅からぬ間柄となっていた。 当時の三春藩では、領内の葛尾、岩井沢、古道、堀田、早稲川、関本、菅谷、栗出の各村にて良馬が産出されるようになり、延宝七年には黒鹿毛一頭を幕府に献上した。それ以来、隔年献上が家例となっていった。それらもあって馬は有力な特産物となり、筑後久留米藩などは、毎年、江戸屋敷より三春へ馬役を派遣して買い上げていた。この三春駒の名声とともに、相馬、会津、仙台、水戸、沼津、彦根の各藩にも馬が贈り物とされるようになっていた。それらのこともあって、両藩が遠くに離れたのちにも赤穂には三春の馬が贈られ、赤穂からは返礼として、塩が贈られてきていた。 その上、浅野家に仕官していた大高源吾の祖父の秋田伊織などは、秋田家が前任地である秋田を領していた時代、下国桧山城(秋田県能代市)での家臣であったのである。であるから、これら三春駒や赤穂の塩の贈り物の交換には、赤穂藩大高家と三春藩秋田家との関係も強く働いていた。 ──内匠頭殿も、とんでもないことをなされてしまった・・・。
2008.02.19
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大 義 の 名 分 松 の 廊 下 五代将軍綱吉の時代は、朝廷と幕府の間がもっとも友好的な関係にあった。そのような中で元禄十四(一七〇一)年の年頭行事も、幕府が朝廷に伺候することからはじまった。初春二月一日、将軍の名代として京都に遣わされた肝煎筆頭の吉良上野介義央が、京都所司代に付き添われて禁中に拝謁して天皇に御年賀を奏上、定例となっていた献上をした。献上物は禁裏に銀五百枚と鑞燭壱千挺、仙洞には銀五十枚と鑞燭五百挺、女院と女御には銀五十枚が用意された。ここで天皇より天盃を賜って役割を終えた上野介は、能などの饗応を受け、二月六日、再び天皇に拝謁して江戸へ戻った。 将軍綱吉にとって、この年の正月は特別の意味があった。時の権力者・綱吉は、生母である桂昌院に従一位叙位を懇願していたからである。いうまでもなく、これは人臣の最高位であり、天皇の宣旨により与えられる位であった。この位を綱吉は、なんとしても母に贈りたかったのである。そのために、高家衆の中でもとりわけ家格の高い人物であり、様々な仕来りに精通していた上野介を、将軍の名代として京都に遣わしたのである。 三月十日、東山天皇の勅使として柳原前大納言資廉、高野前中納言保春、また霊元上皇の院使として清閑寺前大納言煕定の一行が江戸・品川に着いた。一行はここで休息をとり、先打ちの使者を伝奏屋敷へ送った。 この勅使一行に対し、播磨赤穂五万三千石の藩主の浅野内匠頭長矩が勅使饗応役として、また伊予吉田三万石の藩主の伊達左京亮村豊が院使饗応役として幕府から任命されていた。両名は幕府の儀典を司る家柄である高家の上野介の指南の下に任務にあたることになっていたのであるが、勅使の迎接作法をめぐって浅野内匠頭が吉良上野介から人々の面前で叱責を蒙るといったことがあり、内匠頭はこれを深い恥辱と受け止めていた。 翌十一日、内匠頭は伝奏屋敷に入る勅使一行を出迎えるため、院使饗応役の伊達左京亮や高家衆らとともに江戸の玄関口にあたる高輪まで行く予定であったが痞(つかえ)の発作を起こしてしまい、急遽派遣された侍医の寺井玄渓の調薬により、ようやく鎮めてその日の大役を果たすことができたのである。内匠頭の、暗い先行きを想像させるような出来事であった。 十二日、勅使たちは江戸城に登営し、天皇と上皇の詔をそれぞれ将軍に伝奏した。将軍の強い希望であった母の桂昌院に対する従一位叙位宣下も、このときになされた。その後一行は、徳川家の菩提寺である芝の増上寺へ参詣した。 そして十三日、朝から雨が降り続いていたが、江戸城内においては、勅使の饗応が、粛々と行なわれていた。演し物の能は『翁』、『三番叟』、『高砂』、『田村』、『東北』、『春日明神』で、その間に狂言の『福神』と『昆布売』が入った。 十四日になると、七ツ時(午前四時)より雨が上がり、四ツ(午前十時)頃よりは日も照って風もなく、春めいた暖かい日となった。この日、奥州三春藩五万石の秋田信濃守輝季は、前日に引き続く大きな儀式のため江戸城に登城、帝鑑之間に入った。そしてこの日は、御登営の勅使に対し、将軍綱吉の答礼と桂昌院のお礼が為されることになっていた。ということは、ほぼ五日に渡って繰り広げられている一連の公式行事の山場ともいうべき儀式であった。饗応役の大名は素襖大紋の姿で登城し、答礼の儀式は表書院といわれる白書院で行われる手はずとなっており、すべての準備は終わっていた。百二十畳敷きのこの大広間は、城内でもっとも立派な造りとなっており、このような特別のときにしか使われない広間であった。 出席の諸侯が勅使の御登営を待つ四ツ半(午前十一時頃)の頃、各座敷には勅使出迎え祝賀の気分が漲り、明るく華やいだ気分と笑いで満ち溢れていた。とそのとき、何人かの人々のただならぬ声と物音が、廊下の方から聞こえてきた。 一瞬、帝鑑之間に控えていた信濃守ら諸侯の雑談が、一斉に止んだ。 ──何事か? その聞き耳を立てようとする同じ思いからか、急に静かになった帝鑑之間で二、三人の大名が立ち上がった。帝鑑之間は、家門の一部と城主格(無城で城主に準ずる待遇を受けた大名)以上の譜代大名の詰める部屋であった。 この帝鑑之間は広い中庭を正面にし、白書院はその右隣に接していた。松の廊下はその白書院への入り口となっていた。つまり松の廊下は、帝鑑之間から見て斜め右前方に位置していたことになる。「殿中でござるぞ。内匠頭殿! 殿中でござる・・・」とのきつい声が聞こえた。 ──何! 築地・・・殿が? 信濃守も、思わず腰を浮かした。内匠頭とは、お互いが江戸屋敷のある地名で「築地」「桜田」と呼び合う仲であったのである。立ち上がった何人かの大名が慌てて廊下の戸を開けると、様子を見ようとした諸侯たちで、帝鑑之間は総立ちとなった。その諸侯たちの肩越しに、刀を持ったまま羽交い締めになっている内匠頭と、それを防ごうと手を伸ばして倒れている上野介の様子が、垣間見えた。 この混乱の中で同じ部屋にいた志摩鳥羽藩六万石の十六歳の藩主、松平和泉守乗邑が座ったまま諸侯に静かに声をかけた。「おのおのこの席にご列居するは、いざという変事のときその場を守ることであり、もし事が拡大すれば、その場を固めることではありますまいか。それなのに今、変があると申して騒ぎ立ちするのは、余りにも軽率ではございませぬか」 その声に信濃守は一瞬むっとしたが、若いとは言え信濃守より上座なのである。それでもすぐに襖が閉じられたため、部屋は平静となった。廊下よりの襖から漏れてくる変事の物音を聞き取ろうとしたこともあった。外の騒ぎはやがて静かになっていった。 信濃守はいま何が起こったのかわからぬまま、上野介に切りかかった内匠頭の様子を思い返していた。 ──あれからあのお二方は如何なされたか? それにしても今日の勅答の儀式は、どうなるのか? それには信濃守自身ここ十年の間に、勅使饗応役の大役を二度任ぜられていたこともあったから、この役の大変さは充分に認識していた。なまじ経験があるだけに、今後の儀式の流れが心配であった。 同時刻、奥州一関藩三万石の田村右京大夫建顕の詰めていた柳之間の様子は、これとは少し違っていた。柳之間は十万石未満の外様大名、および表高家(高家のうち高家肝煎になれなかった高家)らの詰める部屋であった。 この柳之間は帝鑑之間から見て左斜め前方に位置し、しかもその同じ庭を挟んだ正面のところが松の廊下であったのである。それであるから冬の明るい日差しに浮かび上がった松の廊下は、丁度芝居の舞台正面のようによく見えたのである。 立ち上がった右京大夫は、諸侯の肩越しに騒動の方を見た。その騒ぎの様子が垣間見えていた。松の廊下で誰かが叫んでいた。「殿中でござるぞ。内匠頭殿! 殿中でござる・・・」 柳之間も、また騒然としていた。 松の廊下では、内匠頭が何かを叫びながら上野介に切り掛かり、上野介が倒れ掛かるところを大奥留守居番役の梶川与惣兵衛頼照が内匠頭の後ろから走りよって羽交い締めにして取り押さえていた。そして与惣兵衛が押さえている内匠頭に、そばにいた下総佐倉藩の藩主・戸田能登守忠真が大音声で叫んだ。「内匠頭! 殿中にて候!」 その声もあってか取り落とした内匠頭の殿中差を、お城坊主の関久和が咄嗟に拾い上げ、鞘に納めた。二次の被害を防ぐ見事な機転であった。右京大夫は、内匠頭が二太刀を振るったのを記憶していた。 この状況は、梶川与惣兵衛日記に次のように記されている。 角柱より六、七間もあるべき所にて、双方より出合い、互いに 立ち居り候て、今日御使いの刻限まで相成り候も、一言二言申し 候処、誰やらん、吉良殿の後ろより、此の間の遺恨覚えたるかと 声をあげ切り付け申し候。 其の太刀音は強く聞こえ候。後に承候へば存の外、切れ申さず 浅手にて之有り候。我等も驚き見候えば御馳走人の内匠頭殿也、 上野介殿は是はとて後の方えふりむき申され候処を又切り付けら れ候故、我等方前へむきて逃げんとせられし所を又二太刀程 切られ申し候。上野介殿其侭うつむきに倒れ申され候。 吉良殿倒れ候を大方とたんにて、其間合は二足か三足程の事に て組み付き候様に覚え申し候。 (江戸城・松の廊下の見取り図)
2008.02.18
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