1

伊豆と関わる郡山の神社 今の熱海町を含む五百川以北は安達郡でした。しかし熱海町から二本松にあった安達郡役所に行くのに、安積郡役所のある郡山で汽車を乗り換えるという不便もあって安積郡に編入され、戦後になって郡山市に吸収されるという経緯がありました。この熱海町から郡山西部一帯にかけて、伊豆に関連する神社が数多く散在しています。例えば、この伊豆の名を直接冠した伊豆権現や箱根権現は、名前を見ただけで伊豆関連の神社であることが分かります。これらは源頼朝以来、鎌倉、江戸幕府の崇敬もあつく、関東の総鎮守といわれた神社です。以下に、伊豆に関わると思われる神社名を列挙してみます。 温泉神社=熱海四丁目。元々は伊豆熱海温泉の湯の神で、豊かに湧く湯に感謝して発展を願うために建てられたという神社です。 木の宮神社=熱海町安子ケ島字竹ノ内5にある木の宮神社や熱海町安子ケ島字木ノ宮5にある紀伊宮神社、それに熱海町中山字城の脇にある熊野神社の境内には、紀伊宮神社の祠があります。これら木の宮神社は、伊豆の熱海市にある来宮神社に関係した神社と思われ古くは来宮大明神と称していました。伊豆の来宮神社は、江戸末期まで『来宮』ではなく、『木宮明神』の文字で古文書等に記されているそうです。来宮神社は、伊豆熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、来福・縁起の神として古くから信仰されてきたものです。来宮神社は、源頼朝以来、鎌倉、江戸幕府の崇敬もあつく、関東の総鎮守といわれた神社です。 王宮伊豆神社=片平町字王宮にあるこの神社には、伊豆権現、箱根権現、三嶋大神が祀られています。伊豆にある箱根権現は伊豆権現とともに二所権現と呼ばれ、将軍家の恒例行事が鎌倉幕府初代の源頼朝からここで続けられていました。 宇名己呂和気神社=三穂田町八幡字上ノ台にあるこの神社には、箱根権現が祀られています。 春日神社=春日神社は、伊豆の工藤氏の守り神であったと言われます。大槻町春日、湖南町中野字二番猿畑にあるこの神社には、箱根権現・三嶋大神も祀られています。 三島神社=西の内37の神社には、三嶋大神が祀られています。伊豆の三嶋大神は、源頼朝が治承四年(1180)に社殿を造営したのが起こりと言われています。頼朝の信仰もあって、中世以降は武家、庶民の信仰を集めていました。 二宮神社=島2〜39〜18のこの神社は、静岡県湖西市の神社と関連しているのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.04.11
閲覧総数 7069
2

北 条 執 権 文治五(1189)年、奥州平泉の藤原氏が滅んだ後、鎌倉のご家人が奥州に所領を得て大挙してやってきた。奥州は鎌倉武士に分割されて統治されるようになったのであるが、その奥州の中でもそれを免れたところがただ一カ所あった。それは最北端の津軽にあって、そこを中心に勢力を張っていたのが安倍貞任に連なる安東一族の所領地である。 建暦三(1213)年、鎌倉幕府内で起こった有力御家人・和田義盛の反乱である和田合戦において北条泰時は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡(宮城県)の地頭職に任じられた。ここは鎌倉幕府の最北の地と考えられる多賀城と、近接した地域である。 日本人は北辺の異人を蝦夷と総称していた。天明初(1781)年頃でさえロシア人を赤蝦夷と呼んでいたのである。建保五(1217)年、十三湊(青森県五所川原市)の安東太郎堯秀は北に住む蝦夷人の押さえとして蝦夷管領に任命された。蝦夷と呼ばれる人々を支配する権限(蝦夷沙汰権)を鎌倉幕府から与えられたのである。これにより、安東氏は若狭、越前から十三湊を結ぶ日本海交易の海運権(関東御免津軽船)を握り、その勢力は津軽、秋田、糠部(青森県東部)ばかりでなく、渡嶋(北海道)、日本海沿岸、そして三陸海岸など広範囲に拡がっていった。しかし幕府はこの安東氏を蝦夷人と見ていたようである。いわば北方諸民族の総大将と認識していたらしいのである。幕府をして『東夷を守護して津軽に住す』と言わしめ、さらに彼らを『俘囚(陸奥・出羽の蝦夷人のうち、朝廷の支配に属するようになったもの)』とさえ表現していた。幕府が安東氏を蝦夷管領に任じたということは、『毒を以て毒を制す』つまり蝦夷人を以て蝦夷人を制しようとしたということにあったと想像される。そしてこの頃、安東氏による中国黒竜江の中・下流域や樺太支配を中心とする山丹人(シベリアの民族)との交易がはじまり、交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組みが確立していった。 またこの頃書かれたといわれる諏訪大明神絵詞に『松前、函館の蝦夷が、津軽外ヶ浜と公益菅家(意味不明)にあった』とあり、『我が国の東北の大海中にある「蝦夷が千島」には日ノ本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の三種の蝦夷が住んでいる』と記されている。また同時代の唐書には『倭が日本を征服し、その国号(日本)を奪った』と記されているという。それから考えれば、もともとこの日本を自称していた『日ノ本』族こそが日本人の元祖であったのかも知れない。この『日ノ本』族は北海道の東側に住む蝦夷人のことで言葉が通じなかったという。これに関連するかまたそういう意味であるかは不明であるが、昭和二十四(1949)年、青森県東北町の石文集落で自然石に『日本中央』と刻まれた碑が発見されている。津軽の安東氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。この場合の読みは『ひのもと』であるという。 『唐子』は北海道の西から樺太にかけて住む蝦夷人のことで、大陸の影響を受けたという。この唐子は『唐』の文字が表すように中国系の民族であったのかも知れない。中国の資料によると、吉烈迷(ぎれみ)と言われるギリヤーク(ニヴフ)は樺太からシベリア黒龍江にかけて、骨嵬(くい)と言われる樺太アイヌは樺太南部から北海道北部に住んでいたとされている。 注・吉烈迷=ニヴフ・Nivkh (ロシア語での複数形はニヴヒ (Nivkhi)樺太中部以北及び一部黒竜江下流地域に住む 少数民族。古くはギリヤーク・Gilyak (ロシア語での複 数形は Gilyaki)と呼ばれた。アイヌやウィルタと隣り 合って居住していたがウィルタ語の属するツングース諸 語ともアイヌ語とも系統を異にする固有の言語・ニヴフ 語を持つ。樺太の他の先住民と同じく、古くは狩猟・漁 猟をしていた。オホーツク文化の担い手であったという 説もある。また、古来の日本や中国大陸の文献に記載さ れている 注・粛慎(しゅくしん、みしはせ)はニヴフではないかと指 摘されている。近世には日本と 清の貿易の仲介もして いた。 注・骨嵬=クイ アイヌ民族の形成が十三、四世紀とされて いるので、クイとアイヌは同一とはとらえがたい。しか しアイヌ民族を形成した人びとの集団にあったと考えら れるので、ここでは骨嵬をアイヌと表現する。 注・黒竜江=アムール川 モンゴル高原東部のロシアと中国 との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じ、 中流部は中国・黒竜江省とロシアのシベリア地方との間 の境界となっている。ロシアのハバロフスク付近で北東 に流れを変えてロシア領内に入り、オホーツク海に注ぐ。 『渡党』は、本州から津軽海峡を渡って交易に従事していた和人らしいから、その領域は安東氏のものと重複する。このことにより、『渡党』は安東氏の管理下にあった蝦夷人、あるいは本州から流されたり逃れて来た和人を指すものとされている。現在函館のある半島は渡島と言われているが、この名は『渡党』の住む土地という意味で付けられたと言われている。これらのうち骨嵬と唐子は同じ地域に住んでいたこともあって、同じ民族ではないかとも考えられている。この二民族の形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も通じがたいという。 鎌倉幕府は、承久三(1221)年の『承久の乱』、貞応三(1224)年の『伊賀氏の変』、寛元四(1246)年の『宮騒動』、宝治元(1247)年の『宝治合戦』を経て建長四(1252)年、宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられたが、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で独裁体制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。北条時頼は病のため執権職を北条氏支流の北条長時に譲ったが、それでも実権を握り続けた。これらにより、当時の政治体制を得宗専制と称した。 しかし混乱は畿内が中心であったから胆沢や平泉周辺はともかく、距離が遠い外が浜(青森県津軽半島)や蝦夷地などについて、幕府は強盗や海賊などの罪人の流刑地くらいにしか考えていなかった。しかしこの頃、安東氏の支配する十三湊は西の博多に匹敵する北海交易の中心となり、アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来していた。室町時代の末に成立した日本最古の海洋法規集である廻船式目によれば、十三湊は三津七湊の一つに数えられ、『夷船京船群集し、舳先を並べ舳を調え、湊市をなす』などの賑わいを見せていた。三津七湊とは、廻船式目に日本の十大港湾として記されている港湾都市の総称である。三津は伊勢・安濃津(津市)、筑前・博多津(福岡市)、和泉・堺津(堺市)で、七湊は越前・三国湊(坂井市)、加賀・本吉湊(白山市)、能登・輪島湊(輪島市)、越中・岩瀬湊(富山市)、越後・今町湊(直江津市)、出羽・土崎湊(秋田市)、津軽・十三湊(五所川原市)である。 第六代執権・北条長時の時代の弘長三(1263)年、高麗使が来航し、日本国辺民による侵攻の禁止を要請してきた。五島列島の北部に小値賀島という小島がある。藤原定家の日記『明月記』の嘉禄二(1226)年十月十七日条には、ここの住民が数十艘の兵船を仕立てて高麗の島々を襲撃し、住民を殺害して財物を略奪したことが記されている。この襲撃をしたとされる松浦党は、その勢力の範囲を肥前国松浦四郡(佐賀県)を基盤として、隣接地の杵島(佐賀県)、東彼杵、壱岐(以上長崎県)、筑前怡土(福岡県)、志摩(三重県)の諸郡に広がっていた武士の集団であった。高麗や中国の沿岸を松浦党が荒らし回っていたのである。なお沖縄からも海賊が出撃していたと言われるが、これが倭寇と言われた松浦党と連絡がとれていたかどうかは不明である。 文永四(1267)年、蒙古帝国第五代のフビライカンの書を奉じて高麗使が来朝した。弘長三年のときとは違い、フビライカンの後ろ盾を得たものであろう、さらに強硬な申し入れとなっていた。 北条氏の一門の北条政村は、幼少の得宗家・北条時宗の代理として第七代執権(1264〜1268年在職)に就任していたが、文永五(1268)年一月、高麗の使節が蒙古への服属を求める内容のフビライカンの国書を持って大宰府に来訪、その国書が鎌倉へ送られて間もない同年三月に、執権職を北条時宗に譲ってしまった。しかし朝廷はフビライカンの国書への対応を幕府へ一任したため時宗はそれには回答しないことを決定し、代わりに西国の防御を固めることにした。 たまたまこの年に起きた『蝦夷蜂起』により、蝦夷管領の安東五郎が戦死した。このときの蝦夷蜂起は、『北日本の蒙古襲来』の可能性が高い。 文永六(1269)年とその翌年にも蒙古使・黒的らが対馬で返書を求める一方で、島民を襲って略奪した。朝廷は返書送付を提案したが、時宗は政村らに補佐されて蒙古の国書に対する返牒など対外問題を協議したが結局は返答せず、異国警固体制の強化を図り、敵国降伏の祈祷などを行わせた。 文永八(1271)年、再び蒙古使・趙良弼が来日して武力侵攻を警告した。これに対し、幕府は西国の御家人に戦争準備を整えさせた。幕府は当初の方針どおり蒙古の申し入れを黙殺することを選んだのである。 文永九(1272)年、蒙古使・趙良弼の使いが再来日した。 文永十(1273)年、蒙古使・趙良弼が三度来日した。もとより幕府側としては、攻撃されることがあるかも知れないと考えてはいたが、単に脅しのみで、よもや現実のものになろうとは思いもしなかったのであろう。しかし蒙古使たちに冷たく対応した時宗の時代、二度にわたる蒙古襲来を受けることになる。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.03.17
閲覧総数 329
3

埋もれた古文書 先日、私は学兄・高橋亮氏から、昭和二十七年(1952)五月二日(金)付、福島民報のコピーを頂きました。その見出しは、『明らかになった神社御分霊の秘事 皇室文献が郡山へ神社本庁、佐藤家を調査』となっていました。その内容は、驚くべきものでしたが、現在から見れば、65年以上も前の記事になります。その新聞記事の全文を、再録してみます。 『明らかになった神社御分霊の秘事 皇室文献が郡山へ 神社本庁、佐藤家を調査』 伊勢皇大神宮の御分霊をまつる郡山市開成山大神宮は勅許により御分霊を奉斉した唯一のものとして神社本庁が当時の事情を調査することになり、一日同庁調査課長岡田米夫氏が来郡、開成山大神宮宮本宮司とともに同市小原田町77佐藤直蔵氏(71)宅で記録文献の詳細な調査を行った。佐藤家は第七代第二皇子吉備津彦命の子孫で、源平相争い安徳天皇が壇ノ浦に沈んだ当時、佐藤家八十六代の子孫が貴重な皇室文献を携えて岡山から難を奥州郡山に避けたと伝えられ、明治天皇から皇分家の称号を許された由緒ある家柄。岡田調査課長は直蔵氏と記録文書などの管理を依頼されている同市夕陽ケ丘下川達也から詳細に事情を聴取したが図らずもその場で佐藤家に伝わった皇室文献をめぐる御分霊の裏の秘事が明らかにされた。佐藤、下川両氏の話を総合すると次の通り。『佐藤家に伝わる皇室文献は、日本歴史を「書き替える」ような力あるものと言われます、佐藤家は一切これをもらさず、当主の祖父東兵衞氏(昭和十一年、95歳で没)に至ったが明治天皇行幸に先立ち、時の開成山区会所長中条正恒氏は策を用いて同家土蔵のとびらを開け問題の記録を一見したところ、余りにその重大な内容に驚き天皇に随行した右大臣岩倉具視公に報告、岩倉公より事の次第を聞いた明治天皇の仰せで東兵衞氏もやむなくこれをご覧に入れたという。』 当時文書は18貫、馬に積んで開成山の行在所まで運んだが、天皇は直々東兵衞氏を御座所に呼び寄せ、当時としては珍しいリンゴを手ずからもてなされた。(リンゴの食いかけを同家ではいまも保存している)東兵衞氏はそれでもあきらめ切れず再三借用書の下付を岩倉公に願い出たが聞き届けがなく、かくして東兵衞氏は当時開拓民の熱望であった伊勢神宮の御分室を願い出るべく上京し岩倉公を訪問、岩倉公も願いの趣を聞くに及んで「それは私一個人の考えではどうとも出来ない」と東兵衞氏を伴って急ぎ参内、折柄陛下は雑炊の昼食をしたためられていたが東兵衞氏にもすすめられ、十分もてなしを受けたうえ御幣料として金貨廿円、伊勢までの路銀として五百円賜った。 その際陛下は「なんとかしてやろう」といわれたが、東兵衞氏が数ヶ月の斎戒沐浴のうえ伊勢から御幣を頂いて帰った時、すでに御分霊は実現の運びとなっており(恐らく陛下が直々のお言葉によってなされたものであろうと関係者は推測している)記録にも御分霊は二度にわたって行われたと記されている。この間陛下から東兵衞氏に対して御賜金を賜ること三度、この金(二千円)によって現在の佐藤家を新築した。『皇分家』という称号を用いてもよいと陛下からいわれたのもこのときで、現在佐藤家の墓には光格天皇(第119代、在位安永八・1780年〜文化十四・1817年)の筆になる菊の紋章が刻まれているのも、このようないきさつによっているといわれる。 御分霊を巡るこれらの事実を証明する記録、証拠の品々等は、現在までほとんど公開されずに岡田課長も宮本宮司も初めてみる品々に驚きの目をみはっていたが、その他皇室と同家の交渉を示す記録類は相当あり、ただ問題の皇室文献だけは現在も皇室に保管されていると信じられるだけでその行方は判明していない。岡田課長は、東兵衞氏が死去前、同家の言伝え分霊のいきさつなどについて妻はやさんに病床で書き取らせた記録文書を主として調査、更に開成山開拓の祖阿部茂兵衞氏の曾孫同市中町阿部周助氏宅も調査して二日帰京する。 岡田課長談「伊勢皇大神宮を祀る神社は全国で一万八千もありますが、勅許によって御分霊したのは開成山一ヶ所であり一体どういう手続きで勅許が得られたのかいまのうちにそのいきさつを明らかにしたいというのが今度の来郡の目的です」 私はその後どうなったのかを知りたくて、安積国造神社を訪ねたところ、熊野福蔵神社禰宜の伊藤恒雄氏を紹介されました。彼の話は次のようなものでした。 「藩政時代、二本松藩主の丹羽氏は、古文書を仕舞っていた佐藤家の土蔵の前に見張りの藩士を2名、交代で見張りをさせていた。如何に大事な文書であったかということを知っていたということでしょう、ところが明治天皇行幸の際、岩倉具視が預かった馬車2台分のこれらの文書を磐城の浜に運び、停泊していた軍艦の上で焼却してしまったとされます。そのとき佐藤家に残された文書は、今も土蔵に残されているが、その開示には至っていません」 私は何とか佐藤さんと会えないかをお願いしたのですが、「折角ですが、新聞記事以上について、話すことができません」と断わられてしまったのです。というのは、佐藤家の当主の手元に残されている古文書を見せて頂きたかったのですが、佐藤さんが言うには、『あの新聞に出た時、周辺で大騒ぎになったこと、もう一度あの騒ぎに巻き込まれたくないし、また文書を貸し出して無くされては困るからです。このことについては、二度と来ないでください』と言われたというのです。 佐藤家と親しくしている人がそう言うのでは、私ごときの出る幕はありません。私は諦めざるを得なかったのですが、当時の当主・東兵衞氏がしたためたパンフレットが、郡山図書館に寄贈されている、ということを知ったのです。早速それを読んでみましたが、それはほぼ新聞記事と似た内容でした。ただ新聞記事に出ていた『皇分家』の意味が分かりました。それは佐藤家が、天皇家の親戚、つまり分家であるという意味であったというのです。これはまた、凄いことですね。ところが私が当てにしていた伊藤恒雄氏、それから間もなく病で亡くなられてしまったのです。このことと、何か関係があったのでしょうか。気になります。 どちらしても、約65年前であれ、すでに新聞に公開されているので、この新聞記事を再録しても、差し支えはないと思い、これをアップしました。しかし源平合戦以前からの文書であるとされるこの佐藤家の文書の解読は、素人の私が軽々にするべきではないのでしょう。いずれの日にか、歴史家の手で解明されることが望まれます。なお安徳天皇は、福岡県久留米市の久留米水天宮の祭神とされ、水の神、安産の神として郡山市久留米の水天宮にも祀られています。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2019.05.01
閲覧総数 423
4

7 陽の目を見なかった鉄道 前回までお知らせしたように、福島県でも国鉄、および私鉄でも、多くの路線が建設されました。しかし計画されながらも作られなかったり、また一時期運行されながら廃止されてしまった鉄道もありました。そのような路線のひとつに、大寺専用鉄道がありました。大寺専用鉄道は、いまの会津若松市河東町八田字大林に、猪苗代第二発電所建設のための資材輸送用の専用軌道として、磐越西線磐梯町駅と猪苗代第二発電所の間に敷設されたものです。しかし大正7年、猪苗代第二発電所の完成とともに一旦撤去されたのですが、その後、会津若松市河東町八田高塚乙の猪苗代第三発電所の建設に伴い、大寺駅と猪苗代第三発電所間に再び敷設されました。この専用軌道の途中、猪苗代第二発電所付近で軌道がスイッチバック方式となっていました。しかし大正十五年の猪苗代第三発電所完成後には撤去されています。 もうひとつは、広田専用軌道でした。広田専用軌道は、喜多方市塩川町金橋に、猪苗代第四発電所建設のための専用軌道でした。資材輸送用のもので、磐越西線広田駅より猪苗代第四発電所の間に敷設されました。大正15年の猪苗代第四発電所完成後にこの専用軌道は撤去されましたが、日橋川橋梁は道路橋に転用されて、『切立橋』として現存しています。 乗用の軌道としては、常葉軌道株式会社がありました。これは平郡西線新設の計画では、常葉町七日市場地区に駅が設けられ、同町関本地区を経由して大越駅に抜ける予定であったのですが、鉄道敷設に反対の声が上がったのです。それは常葉町から物資の輸送をしていた馬車組合と農地の解放を渋る農民たちによるものでした。また、政治的な感情も鉄道敷設問題に影響を与えました。当時、憲政会と立憲政友会の対立が強まりつつあったのですが、常葉町民は明治初期に当地の戸長を歴任した河野広中を絶対的に支持しており、河野が所属する憲政会の勢力が強い地域であったのです。そこで憲政会を支持する町民は、この鉄道敷設計画は憲政会と対立する立憲政友会の西園寺公望を総理とする政府の計画であるとして反対運動を展開した結果、計画は変更となり常葉町を避けて敷設されたのです。 常葉町の町民は、平郡西線の開業後に鉄道の利便性と重要性に気がつき、町から最短距離にある船引町今泉地区に町名を冠した駅の設置を請願したのです。その際に駅敷地を町民の寄付によって提供することを条件とし、大正10年になって開業しました。ところが常葉町の中心から磐城常葉駅までは距離があり、むしろ船引駅へ出るほうが容易であったため、常葉町民はこの駅の設置後も利便性を享受できず、町民有志による常葉軌道株式会社を設立し、磐城常葉駅より常葉町を経由し、常磐線双葉駅への接続を計画したと言われます。ところが常葉軌道は常葉町まで軌道敷が竣工し、列車の試運転を行って開業寸前だった昭和8年に、負債過多から解散してしまったのです。この歴史を語る記念碑が、いまも磐越東線の磐城常葉駅前に建立されています。 大正11年、小出〜柳津〜只見〜古町線が建設されることになりました。しかし大正12年の関東大震災によって全ての鉄道計画が止まり、そのあおりで中止となってしまいました。そのとき計画された路線は、只見駅から古町駅までの13駅で、只見・楢戸・会津福井・会津長浜・会津亀岡・明和・梁取・和泉田・界(さかい)・鴇巣(とうのす)・会津山口・木伏(きぶし)・会津古町でした。会津古町駅は旧伊南村に属していましたが、町村合併により、現在は南会津町古町となります。ここには、古町温泉があったため、ここへの運行が目的とされたものです。 さて、私は知らなかったのですが、郡山に市内電車の計画がありました。2021年12月に発刊された『明治開拓村の歴史〜福島県安積郡桑野村・安積開拓研究会・矢部洋三氏』の著書より借用させて頂きます。 『幻の市街電車 矢部洋三 大正十三年の市制施行に向けた「大郡山構想」の中で、市街電車を敷設する計画があった。市内最大企業である郡山電気(橋本万右衛門社長)が事業主体となって郡山駅を起点にして桑野村開成山を経由して郡山市街を循環して駅に戻る十五・七キロメールの市内電車であった。大正八年から計画され、大正十二年に発起人代表の橋本が郡山町会の承認を受け、福島県を通じて鉄道省・内務省に敷設許可を申請した。そして大正十四年に計画案への許可が、昭和二年には施行許可も下りた。しかし昭和五年敷設許可が失効して幻となってしまった。その理由は、① 敷設時期の昭和初期が金融恐慌、昭和大恐慌という最悪の経済状況であった こと、② 郡山電気が茨城電力との合併によって東部電力となり、本社を東京に移された こと。③ 敷設の中心人物である橋本が安積疎水疑獄事件で失脚してしまったことであっ た。 なお桑野村は、大正14年6月1日に郡山と合併し、郡山は市に昇格しました。大正13年の市街電車の計画案は、これと関係があったのかも知れません。またこの計画が、郡山電気が主体となって進められたのは、自己の発電する電力の、有効利用を考えたとも思われます。 この他にも、県内の鉄道の中には、各地域で多くの支持を得ながらも日の目を見ない鉄道がありました。それは日中線の先の米沢までであり、完成すれば野州・岩代・羽州を結ぶ野岩羽線となるはずでした。もうひとつの路線は、川俣線で、東北本線松川駅より岩代川俣駅まで開通したのですが、常磐線の浪江まで延伸する予定が中座してしまったものです。さらに計画されたものの未成となった線には、福島〜丸森〜相馬間の福相線、須賀川〜長沼の線、平〜小名浜の線、川俣〜津島の線などがありました。しかし、もしこれらの線は出来たとしても、昭和40年の国鉄民営化に伴う赤字線として、廃線となっていたかも知れません。ところが新幹線にも未成線があったのです。それは福島〜山形〜秋田を結ぶはずの奥羽新幹線です。現在ここは、ミニ新幹線として山形までは整備されましたが、未だ秋田までは通じていないのです。
2024.04.20
閲覧総数 341
5

吉田松陰の東北遊日記より 文政十三年(1830)、吉田松陰は、長州の萩城下松本村、いまの山口県萩市で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。天保五年(1834)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修めています。しかし翌・天保六年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。そして九歳という幼いときに萩藩・藩校明倫館の兵学師範となり、天保十二年(1841)、十一歳のときには藩主・毛利慶親(たかちか)への御前講義を行い、その出来栄えが見事であったことから、その才能が認められました。さらには天保十三年(1843)、十三歳のとき、長州兵を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施しています。そして弘化二年(1845)、十五歳のときには長沼流兵学の講義を受け、江戸時代の兵学、山鹿流と長沼流の二つを収めていました。 当時の清国国内では重要視されなかったのですが、清の思想家の魏源による海外事情紹介をも兼ねた地理書である『海国図志』がすぐ日本にも伝えられ、吉田松陰や佐久間象山、橋本左内ら幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担っていました。西洋列強への危惧は、清国でではなく、日本において活かされることになったのです。『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしたのです。また幕府も、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。また天保十四年(1843)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えています。 阿片戦争で清が西洋列強に大敗したことを知った吉田松陰は、山鹿流や長沼流の兵学が時代遅れになったことを痛感し、嘉永三年(1850)、西洋兵学を学ぶために藩の許しを得て、九州に四ヶ月にも及ぶという勉学をしました。九州の平戸では砲学にも触れ、長崎では砲学の高島塾に出入りをし、長崎の台場を見学したりして多くの蘭学者を訪れています。熊本では山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵など様々な人物に会って、見識を深めていきました。中でも熊本藩の兵学師範の宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて意気が投合しています。宮部は松陰より10歳以上年上でしたが、生涯の親友となったのです。 次いで江戸に出た松陰は、佐久間象山や郡山出身の安積艮斎などに師事する一方で、南部藩士の江幡五郎と知り合います。嘉永四年(1851)、対馬などへ出没する外国船や北方に現れるロシア船からの防備力などの様子を確かめるため、松蔭は交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と東北遊学を計画したのですが長州藩からの許可が遅れ、彼との出発日の約束を守るため長州藩からの通行手形の発行を待たずに出発したため、脱藩者とされてしまいました。しかし強大な軍事力を持つ欧米列強によるアジア植民地化の動きが、いよいよ日本のそば近くまで迫ってきたことを理解した松陰は、東北遊学の旅に出ることを決意しました。当時異国船が頻繁に出現すると言われていた東北地方をめぐり、海防の現状を視察しようというものだったのです。この旅を書き記した日記が、『東北遊日記』です。 江戸から水戸に出た松陰は、文政七年(1824)に、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見した水戸藩士で水戸学藤田派の学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)と面会し、ここで熊本から来た宮部鼎蔵と江戸から来た江幡五郎と落ち合いました。ところが江幡は、兄の仇を討つため南部に戻ることになってしまいました。しかし松陰は、尊王攘夷の地である水戸で、多くの水戸藩士と尊王思想を語り合っています。一月二十日、三人は、いまの北茨城市磯原から『いわき市』泉まで、海岸沿いを北上しました。 嘉永四年(1851)、満21歳となった松陰は『東北遊日記』の冒頭にこう記しています。「東北・北陸は土地広く山峻(けわ)しくして、古(いにしえ)より英雄が割拠し、悪者の巣窟となっている。西は満州に連なり、北はロシアに隣する。東北は国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗を有する歴史の地である。だが残念至極ながら、自分はまだ東北を知らない。だから行くのだ」と・・・。 水戸を出発し、いまの茨城県の磯原・大津浜・平潟を経由して、いまの『いわき市』勿来から内陸部に入った松蔭と宮部は、『いわき市』植田・泉・田人、そして古殿町の竹貫を経て白河に入りました。そしてこの白河の久下田屋旅館で、三泊もしたのです。それというのも、ここで仇打ちするという江幡と別れることになっていたからだとされているのですが互いに別れ難く、四日目になってようやく別れたと言われています。白河からは次の会津若松に行っているのですが、この間の距離が長いので、記述はされていませんが、途中で一泊しているものと思われます。 二十九日、松蔭と宮部は、雪の深い会津若松に入りました。会津若松では藩校・日新館の見学をし、さらには会津藩が樺太出兵の経験をもっており、またその記録である『終北録』を編んだ学者の高津平蔵から意見を聞いたのち、新潟に向かいました。新潟までには、いまの会津坂下町塔寺を経由した記録しかありません。しかし塔寺から新潟までは遠いのです。恐らく2〜3泊を要したものと思われます。 新潟に入った松陰は、当初、1ヶ月も滞在する気はなかったようです。しかし新潟は、会津藩にとって重要な海の連絡路でした。大きな船で運ばれて来た荷物は新潟で小さな舟に積み替えられて阿賀野川を遡上、会津領の津川を川の港として使用していたのです。それもあって、樺太警備に出兵した会津藩が、ロシアによって報復攻撃をされるのではないかと危惧し、会津藩兵をここへ派遣していたのです。会津藩の防備の様子などを視察した二人は、北海道函館近くの松前まで北前船で直行する積もりでした。陸路を行ったら十数日はかかり、しかも雪のために交通を妨げられるかも知れないのです。しかし船であれば、箱館まで三昼夜で行けるのです。ところが荒天続きで、船が出なかったのです。二人はただいたずらに待っているのももったいない、その間に佐渡に渡ってみようと新潟県の出雲崎に行ったのですが、ここからの佐渡行きの船も天候が悪く、あしかけ十三日も待って、やっと船が出る始末でした。しかし乗ってみれば、佐渡は、たかだか三時間位のところでした。 佐渡に渡った松陰は、佐渡の役人を訪ねて島の概況を聞き、真野の順徳天皇御火葬塚を参詣して相川へ向い、広間役蔵田太中を訪れました。蔵田は国学者、また歌人で『鄙の手振』などの著書がありました。松陰と宮部は蔵田の二男の松原小藤太の案内で、佐和田町沢根の屏風沢銀山へ登り、坑内もつぶさに見学しています。「吾が輩は衣を脱ぎ、一短弊衣を着、縄を以て帯と為し、竪に短刀を帯ぶ」といった服装で入坑しました。屈強な人でも、十年ともなれば「気息えんえん、或は死に至る」と、労働者たちの短命であることなどを記しています。異国船が日本の近海に接近して、緊張していた時期でした。それでも二人は上陸地小木港に戻ったのですが、またまた船が出ません。四日目になって、やっとの思いで出雲崎に帰りました。ところが松前行きの船に乗るというときになって、船頭が侍を乗せるのを嫌って、いろいろと文句をつけられたので、二人は仕方なく陸路を行くことにしたのです。 佐渡から出雲崎に戻った松陰と宮部は、山形県酒田から本庄を経て秋田に入りました。秋田藩もまた、樺太警備に出兵していたのです。恐らくここでも、松陰は有力な情報を得たものと思われます。秋田を出た松陰は、秋田県の大館、北秋田市の阿仁鉱山からさらに北の弘前領に入りました。弘前では、藩の儒学者で兵学にも詳しい伊東広之進を訪ね、津軽半島の海防について細かく尋ねています。弘前から北上し、竜飛岬の小泊港で津軽海峡近くに達した二人は、ここでも目と鼻の先の松前へ渡ることができませんでした。やむなく青森県の藤崎・金木・中里を通り、船で青森に行きました。 松蔭は、以前より交際のあった薩摩の兵学者肝付七之丞と海防の事を論じていました。肝付は松前・佐渡の地方を調査していて形勢のあらましを知っており、近頃の西洋の船は、壱岐、対島の間を抜けて北上し、津軽海峡を通って、東に曲がるものが非常に多いと説明していました。二人は本州最北端の青森で、津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしたのですが、それは果たせなかったようです。しかる津軽で松陰は、数々の義憤に駆られています。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいること、そして津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりをしていることなどでした。その後、青森県の野辺地・五戸・八戸と海辺を巡った松蔭は、金山・二戸・三戸を、そして岩手県の沼尻・簑ヶ坂・金田一を過ぎて盛岡に入りました。 盛岡藩もまた、樺太警備に出兵していました。盛岡藩では、領内の太平洋沿岸と津軽海峡、そして内海である陸奥湾側などの広い沿岸要所に、遠見番所10ヶ所以上と砲台場33箇所以上を配置していました。盛岡藩はこの御台場に土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫詰め所を配置して打ち方と手伝い人6名を常置させていたのです。その盛岡を出た松蔭は、花巻・平泉の中尊寺を経て宮城県の石巻、そして塩竈に着きました。塩竈での逗留は短時間でしたが、塩竈の歴史や風土を詳細に記録しています。その後、やはり樺太警備に出兵していた仙台藩を経由して宮城県の大河原そして米沢へ向かいました。そしてなぜか、二人は、米沢から再び会津に入ったのです。会津からの先の行程は、会津田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸というものでした。この旅の総日数は、嘉永四年十二月十四日の江戸出発から翌五年四月五日の江戸到着まで、140日にも及んでいます。 松陰が行った東北遊学の具体的目的は、国防上の見地から実地踏査をし、砲台をどこにつくり、守備兵をどこに配置すればいいかを丹念に調べ歩いていたのです。ですから彼はこの旅で、樺太警備に出兵した会津、秋田、弘前、盛岡、仙台の、すべての藩を巡っています。これら北方の藩から兵士が樺太へ送られたのは、樺太に近い、という理由もありましたが、もう一つ、これらの兵は寒さに強いと考えられたからだといわれます。恐らく松陰の脳裏には、これらの各藩の経験から、軍事的にどう外国に対処すべきかを学ぼうとしていたのではないでしょうか。 旅行後松陰は、友人に送った書簡に、東北遊学によって「雪や浪や野や亦以(またもって)て気胆を張り才識を長ずるに足れり」とした上で、「人皆曰く、博(ひろ)く学んでしかる後、遠遊すと。僕は則(すなわ)ち遠遊して後に学を博す。」と、自分の旅を総括しています。見て、聞いてその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができるのだと確信していたのです。『東北遊日記』は、慶応四年(1868)に出版されました。 ペリーの航海記から引用しますと、「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」そして安政六(1859)年十月二十七日、松蔭は安政の大獄に連座して江戸に檻送され、評定所で取り調べを受けた時、幕閣らは松蔭の暗殺計画が実行以前に頓挫したことや、素直に罪を自白していることから、『遠島』が妥当と判断していたといわれます。しかし松蔭自身が死罪が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れて斬首刑に決せられたとされます。その評定所から伝馬町牢屋敷に戻された松蔭は、辞世の句を残しています。 一つ目の辞世の句は、父百合之介、兄梅太郎、叔父玉木文之進に向けて書かれたお別れの手紙の中に記されています。『親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん』(子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いもの、私がこのような状況になって両親はどんな思いだろう)というものですが、死の直前に書かれたものではないので、厳密には辞世とは言えないという説もあります。その中で松蔭は、「自分が処刑されたら首は江戸に葬り、位牌には『松陰二十一回孟子』と書き、自分が愛用していた硯と手紙を魂の依り代として供養してほしい」と頼んでいます。 吉田松陰が沼崎吉五郎に託した『留魂録』は、松下村塾の塾生たちに向けて書かれたものなので、塾生に残した辞世の句と言えると思います。『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』。私の体は江戸の地で朽ち果ててしまっても、私の魂だけはこの世で生き続けるという意味です。このとき松陰は伝馬町の獄舎につながれており、自分の最期を覚悟していました。だから、自分の意志を継いで、塾生たちにも日本のために行動を起こしてほしい。というメッセージが込められていました。これが、松陰が塾生たちに残した辞世の句です。 死を直前にした松陰の率直な気持ちが表現されている辞世の句があります。これは漢詩で、評定所で死罪の判決を受けた後に大声で吟じたものだと言われています。『吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり』。私はこれから国のために死ぬ。それでも主君や両親に対して恥ずべきことは何もない。今となっては全ての事を悠々とした気持ちで受け入れている。私の人生は神の御照覧に任せます。 松陰は伝馬町牢屋敷で二冊の留魂録を書き終えた後に、最後の呼び出しの声がかかります。すると松陰は、「十月二十七日 覚悟を決めていた死の旅路の呼び出しを聞くことができて嬉しくてならない」と書き残し、判決が言い渡される評定所へと向かいました。この時の松陰は髭や髪が伸びていましたが、眼光は鋭く、近寄りがたいオーラを放っていたと、その場に居合わせた長州藩士が語っています。そして、評定所で役人から『死罪』という判決が言い渡されたのですが、この時、松陰はとても穏やかな様子だったようです。一度、評定所から伝馬町の牢屋敷に戻った松陰は、獄舎の人たちと別れの挨拶をしました。処刑された松陰の遺体の引き渡しの交渉には、門下生であった飯田正伯と尾寺新之丞が奔走しました。伝馬町の役人が松陰の遺体をなかなか渡さないので、飯田らは賄賂(わいろ)を使うなどして、粘り強く役人と交渉していました。そこで出た結論は、現在の荒川区南千住にある回向院というお寺に一度遺体を運んで、そこで飯田たちに引き渡すというものでした。飯田たちは桂小五郎と伊藤利助(博文)にも声をかけ、4人で松陰の遺体を引き取る事になります。しかし、罪人という事もあり、松陰の遺体は裸のまま無造作に樽に入れられており、その扱いは酷いものでした。この変わり果てた師の姿を見た塾生たちは師の体を水で清め、それぞれの衣服を脱いで着せた後、松陰の遺体を用意しておいた甕に移し、回向院(えこういん)に葬って墓石を建てました。享年30歳でした。ちなみに熊本藩士であった宮部は、松陰との東北遊学の後に、京都で討幕運動に没頭するのですが、池田屋での会合中に新撰組に襲われて重症を負い、自刃しています。また江幡も脱藩して南部に向かったのですが、結局仇討ちは行われませんでした。維新前に非業の死を遂げた松陰や宮部らより、江幡はずっと長く生き伸びたことになります。 幕府も藩もあてにはならず、在野の人が立ち上がらなければ変わらないという、松蔭が唱えた『草莽掘起』が共感を呼んだのであろう。長州藩でのその後の松蔭の評価は大きく変わることになります。松蔭は尊王攘夷を唱えながら、貿易による富国強兵の構想も持っていたのですが、反幕府の考えも有していたことから毛利家の藩政を乱す『乱民』といわれたのです。しかし藩論が反幕府の尊王攘夷一色となると松蔭はシンボルと祭り上げられ、刑死したわずか数年で、松蔭の著作が藩校明倫館の教科書に使われるようになったのです。(萩博物館主任学芸員・道迫真吾) 吉田松陰は、はじめは革命家として位置付けられたのですが、日露戦争を境にして、大東亜共栄圏の先駆者として祭りあげられました。しかし第二次大戦後は一転、再び革命家として評価されるようになったのです。このように変転した松陰の評価には、皇国史観が、深く関わっています。現在、福島県内にも、吉田松陰に関して、次のような碑が残されています。 殉国 吉田松陰先生遊歴之地碑 いわき市植田町後宿公園・東北第一夜の記念碑。碑の 裏側には「東北遊日記抄」の該当部分が刻まれていま す。 吉田松陰遊跡記念碑 古殿町・碑文は嘉永五年正月竹貫に一宿した時の日誌。 吉田松陰逗留の宿 白河市中町久下田屋旅館・詳細は未確認です。 清水屋旅館跡碑 会津若松市・松陰の説明文があります。東北遊日記に 記された七日町の宿が、この清水屋でした。 吉田松陰東北遊日記の碑 会津坂下町心清水八幡神社・碑には、東北遊日記から の該当部分が刻んであります。 なお松蔭と宮部の旅程は、次のようなものでした。江戸〜水戸〜磯原〜大津浜〜平潟〜勿来〜植田〜泉〜田人〜竹貫〜白河ー会津ー塔寺(会津坂下町)〜新潟ー佐渡(相川〜春日崎・旧相川町の西南海岸)〜新潟〜酒田〜本庄〜秋田〜大館〜阿仁鉱山(北秋田市)〜弘前〜藤崎〜金木〜中里〜小泊(今別)〜(船で)青森〜野辺地〜五戸〜八戸〜金山〜二戸〜三戸~沼尻~簑ヶ坂~金田一〜盛岡〜花巻〜中尊寺〜石巻〜塩竈〜仙台〜大河原〜米沢〜会津〜田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸 松蔭が残した名言として、 『夢なき者に理想なし』 『理想なき者に計画なし』 『計画なき者に実行なし』 『実行なき者に成功なし』 『故に夢なき者に成功なし』というものがありますが、この言葉の出典が見当たりません。また、この言葉の発言者を渋沢栄一だとする説もありますが、やはり澁澤の言葉であるという確証もありません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.07.01
閲覧総数 2069
6

荒覇吐と瀬織津姫(1) 考古学者で言語学者の川崎真治氏は、1991年に、六興出版より出版された『謎の神アラハバキ』で次のように述べておられます。「アラハバキ神は、父が天の神で、母が地の神である。これらの神のつながりこそ、『東日流(つがる)外三郡誌』の神髄であったのである。問題は、上古の日本に、アラハバキ神という『神』が実在したか否かにある。存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的になされれば 『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が『真の歴史』といえるのである」 東日流外三郡誌によりますと、津軽には阿曽辺族という種族が平和に暮らしていたのですが、岩木山が噴火して絶滅しかかったところに津保化族というツングース系の種族が海からやってきて阿曽辺族を虐殺し、津軽は津保化族の天下となりました。その後、中国の晋では恵王(けいおう)帝の公子が殺されるといった内紛が生じ、晋に追われて公子の一族がやってきて津保化族を平定したのですが、その頃神武天皇に追われた長髄彦の一族もやってきたのです。長髄彦はこの公子の娘を娶り、両民族は混血融和して「荒覇吐族」と言うようになったというのです。ところで荒覇吐とは、もともとは民族の名『アラハバキカムイ』であって神の名ではなかったのですが、『荒覇吐族が信奉する神』ということから後に神の名に転じたという認識になっています。この神は伊勢神宮だけでなく、出雲大社の摂社や美保神社、武蔵国一の宮・氷川神社、武蔵国総社・大国魂神社など、日本な重要な神社に『隠れ神』として祀られています。特に東京都や埼玉県にはたくさん祀られていた伝承があり、江戸城内にもあったようです。荒覇吐は、日本神話最初の神である天之御中主神と同一神であるともされています。 ところで蝦夷(えみし)という呼び方は大和朝廷による蔑称であり、自称は『荒覇吐族』であるとしています。ところが、この荒覇吐の原点は、今のアラビア半島のイエメンにあり、しかも古代アラビア語でのアラハバキは、最高の神の意味であったというのです。そのアラハバキが古代インドに渡ると、弱者を襲って喰らう悪鬼神とされました。中国に渡ったアラハバキは道教と習合し、日本に入ってきたのは弥生時代であろうと推定されています。日本に入った荒覇吐は、密教と関連することで大日如来の功徳を得て善の神へと生まれ変わり、大日如来の強大な力をそのままに、国家を守護する神に変えられていったとされます。荒覇吐族は、荒覇吐神と荒覇吐姫神の二神を信仰していたのですが、その荒覇吐神のビジュアルイメージとして、いつしか遮光器土偶ではないかとされていったのです。現在、青森県つがる市、JR五能線の木造駅は、亀ヶ岡石器時代遺跡から出土した遮光器土偶の形をした迫力ある駅です。 当時の東北地方に住んでいたとされる蝦夷の人たちは、今の関西から山陰地方にまで勢力を伸ばしていたようです。それの傍証として、神話ではありますが、蝦夷人のリーダーとされた長髄彦が神武天皇と戦って敗れ、津軽に逃亡していることが挙げられます。しかし長髄彦が津軽に逃亡したとはありますが、どうもその時点で、蝦夷の人全員が津軽に行ったのではないようです。畿内に残った蝦夷人の多くは大和人に追われ、じわじわと関東、そして東北地方に逃れて行ったようなのです。彼らが信仰していたらしい荒覇吐神や荒覇吐姫神は、その名から言っても夫婦神であろうと考えられています。しかもこの二柱の神は、古事記や日本書紀以前にその名がみられるという、古い神なのです。その上この神は、皇祖神である天照大神の先祖の神の一柱ともされているのです。ところで、日本神話の神武東征と東日流外三郡誌に、次の同じような記述が見られます。つまり東日流外三郡誌には、畿内で神武天皇軍に敗れて津軽へ逃亡した安日王・長髄彦の後裔が、荒覇吐神と荒覇吐姫神になったと言われ。出雲や陸奥には鉄鉱石があったことから、荒覇吐神は産鉄の神(荒吐=アラフキ神、金屎の神)とされたというのです。これについて、三春町史に、『安日彦に続くのが荒覇吐の神々(五代)であった』という記述があります。ここでは、安日王・長髄彦の後の神が、荒覇吐神と荒覇吐姫神であったと説明しているのです。しかし東日流外三郡誌では、安日王・長髄彦が荒覇吐神と荒覇吐姫神を祀っていたとしていますから、これは明らかに矛盾しています。ただ日本神話によると、長脛彦は神倭伊波礼昆古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)、のちの神武天皇という神と戦っているのですから、両者ともに神であること自体は不自然ではないのかも知れません。しかしこのように東日流外三郡誌と三春町史の間に矛盾があっても、神であることでは一致している、と考えるべきなのかも知れません。このように長脛彦は荒覇吐神と密接な関係があるとされることから、長脛彦の住んでいた跡、つまり長脛彦一族の生活の地を示唆するのが、今も残されてる荒覇吐神を祀った神社であると考えてもよいのではないかと思います。 その後の遣唐使が、改めて荒覇吐神を日本へ持ち帰ったとき、荒覇吐神は大元帥明王とされたそうです。この大元帥明王は、全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠したと言われます。ちなみにこの大元帥の『すい』を読まず、単に大元(たいげん)や大元(おうもと)神社と呼ばれるのが普通です。京都の吉田神社(京都市左京区吉田神楽町三〇)と同じ場所に、大元宮という名で大元神社の本宮があります。ただし吉田神社本宮の第一殿には健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)が、第二殿には伊波比主命(いはいぬしのみこと)が、第三殿には天之子八根命(あめのこやねのみこと)が第四殿には比売神が祀られており、荒覇吐神は祀られておりません。また一方の荒覇吐姫神は、後にその名を瀬織津姫という美しい名に変えられ、天照大神の荒御魂として伊勢神宮での一柱の神とされています。なおこの2柱の神は、夫婦神と考えられながらも、同一の行動をとった様子がありません。そのためにまず荒覇吐神について述べ、しかるのちに荒覇吐姫神について述べたいと思います。ちなみに、幕末まで続いた三春藩秋田氏は、その先祖を長髄彦としており、その菩提寺が高乾院ですが、その山号を安日山としたことから、このことを誇りとしていたことが感じられます。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.10.20
閲覧総数 1407
7

阿部比羅夫と明治の華族令 飛鳥時代のはじめ、度重なる蝦夷の攻勢に、ヤマトは悩まされていました。そこでヤマトは、大化3(647)年に渟足柵(ぬたりのき)を高志国(こしのくに・越国)に設置し、翌大化4年には。磐舟柵を作りました。渟足柵は現在の新潟市東区沼垂辺りにあったと考えられており、磐舟柵は渟足柵の北の新潟県村上市岩船辺りにあったと考えられています。 この2つの柵は、ヤマトが2段構えで蝦夷に備えるための防御線にしたのだと思いますが、それにしてもこの2つの柵は100キロ近くも離れていたのです。北からこの磐舟柵に至るのには、海沿いの道と山からの道がありました。磐舟柵は、その2つの道の結節点にあったのです。海沿いの道は今でこそ国の名勝および天然記念物に指定され、日本百景にも選定された海岸景勝地として人々に愛されていますが、その昔は岩壁が続き、『笹川流れ』と言われた交通の難所でした。 西暦658年、阿部比羅夫(この地の豪族であったとも)が斉明天皇の命により、船180艘を連ねて日本海岸を北上して遠征し、雄物川の河口(秋田市新屋町)のアギタ浦(秋田市)に着いたとき、降伏してきたアギタ蝦夷の首長の恩荷(男鹿)に小乙上という官位を与えて渟代(能代)・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜(場所不祥)で渡島(北海道)の蝦夷を饗応し、樺太を本拠とする粛慎(しゅくしん)を平らげたとされています。さらに659年、阿倍比羅夫は蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ・北海道勇払郡域)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与えています。その上、後方羊蹄(しべりし)に郡領を置き、粛慎と戦って帰り、虜49人を献じています。ところでこの後方羊蹄があまりにも難読であったため、昭和44年に地元の倶知安町が羊蹄山への変更を求め、後方羊蹄山(しべりしさん)から現在の羊蹄山となったといういきさつがあります。ここで言われる後方羊蹄が、いまの羊蹄山の周辺かどうかは明確ではありません。 660年、阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められていた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島(粛慎の本拠地である樺太または奥尻島か?)まで追って彼らと戦い、これを破っています。 なお粛慎とは、本来中国の文献上で満州東部に住むツングース系民族(樺太中部以北のはウィルタ)を指すのですが、阿倍比羅夫に討たれた粛慎とは異なるとみられ『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのかは不明とされています。蝦夷以外のオホーツク文化人とも推測され、樺太中部以北に住むニヴフを粛慎の末裔とする説もあります。 663年、ヤマトは唐・新羅軍に攻略された百済の救援のため朝鮮に軍を進めました。しかし白村江でのヤマト・百済連合軍は唐・新羅連合軍との戦いで大敗し、百済は滅亡し、ヤマトは朝鮮半島進出を断念したと言われています。阿倍比羅夫は、この新羅征討将軍となって朝鮮に渡ったとされていますが、事実かどうかは不明です。しかし阿倍比羅夫は、その後、唐・新羅からの報復攻撃を恐れたヤマトに、九州防衛の大宰府師に任命されています。 この阿倍比羅夫の祖先は、8代孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)とされ、その十四代目の子孫が阿倍比羅夫と『姓氏家系大辞典』にありますが、その生年は分かりません。 さて三春秋田氏の祖とされる安東氏は、安倍貞任の末裔と伝承される北方の名門であり、日本海交易と蝦夷沙汰を担った一族として蝦夷管領を名乗り、南北朝時代には内外に「日の本将軍」を号するほどの勢力を持っていました。天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置後、安東実季は秋田城介を号して秋田氏を名乗りました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、実季は常陸の佐竹氏と入れ替わり、常陸宍戸(茨城県笠間市)5万石に移されました。そして寛永7(1630)年、幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられたのです。嫡男の俊季との不和説などがありますが、詳細は不明です。この秋田俊季は常陸宍戸藩主となり、のち陸奥三春藩主となります。 秋田俊季は、慶長19(1614)年からの大坂の陣において、幕府軍の一員として出陣しています。その後も幕府による普請手伝い、将軍徳川家光の上洛随行など、幕府に忠勤を尽くしていました。しかし、父実季とは次第に不仲になり、寛永7(1630)年に父の実季が失脚すると、幕命により秋田氏の家督を継承したのです。 正保2(1645)年、俊季は陸奥三春に5万5千石で移封されたのですが、慶安2(1649)年1月3日、勤番中の大坂城で、父に先立って病死してしまいます。その後を、長男の盛季が継いだのです。盛季は、陸奥三春藩の第2代藩主となります。 この親子の不仲の原因ですが、実季が、秋田家の祖をナガスネヒコの兄の安日王であると主張したのに対し、子の俊季は阿部比羅夫と同じく大彦命であると主張したことにあったらしいのです。しかし俊季が先に亡くなったため、結果として、孫の盛季は祖父の実季の意見を取り、安日王を祖とする説を、次世代以降に伝えていったと考えられています。 一挙に明治2(1869)年の話に移ります。版(領地・版図)籍(領民・戸籍)奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)により、旧藩主は華族となることが定められました。当初は華族に等級はありませんでしたが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していました。そして明治4(1871)年には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ち、その模範となるよう求められました。 宮内省は華族令を実施するため旧藩主たちにその出自を明確にするよう求め、旧藩主たちはその先祖を天皇家や源平藤橘(げんぺいとうきつ)などの諸姓に繋ぎ、権威付けをして提出しましたが、三春藩秋田映季(あきすえ)ただ一人が先住民・長脛彦の後裔をもって報告したのです。この系図を提出された宮内省の側とすれば、安日王・長脛彦は神話の中であったとは言っても日本史上最初の皇室への抵抗者であり、その後の阿倍貞任・宗任や平泉の藤原氏に至っても中央権力に抵抗した側の首領、つまりは逆族・朝敵であるということになってしまうことに困却しました。「いやしくも皇族の藩屏たる華族の先祖が、逆賊・朝敵である安日王の子孫では困る」 この秋田氏の系図の取り扱いに苦慮した宮内省が調べてみると、先に秋田俊季が幕府に提出していた系図に、秋田氏の遠祖が第八代の孝元天皇にはじまりそのあとは四道将軍の一人の大彦命に続いているということが記載されていたことが分かりました。となれば、阿部比羅夫と同じ祖先になります。これであれば問題はありません。宮内省はこの系図への差し替えを求めました。しかしこの申し出を、秋田家はなかなか受け入れなかったと言います。 「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家ということをもって家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのは、はばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」 こう答えて系図の改訂を拒否したことを、大正期の歴史学者で『えみし』研究学者でもあった喜田貞吉氏が紹介しています。この出雲国造家とは、大国主命に国譲りの交渉を受けたとされる天穂日命(アメノホヒノミコト)の末裔とされる家です。しかしこれに対し秋田家では「拒否したと言う事実はない」と抗議し、喜田氏も取り消すという騒動が起こっています。もっとも秋田家は宮内省の意向を拒否はしなかったとは言うものの『安日王の子孫』であることも否定していません。そして秋田家は子爵となったのです。秋田一族の結束は強く、同族となる北海道・松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかったといわれます。 なお現在、秋田氏は宮内庁にある披講会に属し、宮中の歌会始で歌を整理し講師に渡す読師、読み上げる講師、講師の読み上げた後合唱する講師など、代々この役を務めておられます。歌会始は、TVでも放映されますので、もしかしたら昔の三春の殿様の声かも知れないと思って聞かれるのも、興味深いことかも知れません。 今から正月が楽しみです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.07.26
閲覧総数 404
8

三春の戊辰戦争 1:三春藩への論難と反論 皆さん。『三春狐に騙された』という戯れ歌をご存知でしょうか。そしてこれを、どういう風にご記憶でしょうか。 これは戊辰戦争の際、三春藩が奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを揶揄して言われてきた言葉です。この言葉に三春の人たちは、どれだけ長い間傷つけられてきたことか。私も、その中の一人でした。そんなこともあってネットを検索していましたら、次のような部分がある長文の論文を見付けたのです。『征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。 三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。』 くどいようですが、この主張は昔の話ではありません。今からつい3年ほど前の話なのです。 ところで三春町史第3巻近代1の5ページに、次の記述があります。『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒』この歌にある三春狐をどうみるか。歴史の大河に竿をさし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であればそれでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 この三春町史については、今になれば誰が書いたかは分かりませんが、私はとんでもない無責任な文章だと思っています。こんなことを三春町史に堂々と載せているから、冒頭のような誤解をされるのではないでしょうか。三春町史の奥付を見ますと、昭和50年11月とあります。その年は戊辰戦争後107年後の年であり、将に100年後の町民我々に、「お前ら勝手に判断せい!」とでも言っているようなものです。なぜ107年後の歴史家が三春町史を編纂する時点で三春の『裏切り説』の検証をしなかったのか。なぜ町民に、三春狐とはなんであったかを総括して見せなかったのか。大いに疑問を感じています。 そしてそれに上乗せするような出来事が、2014年の11月にありました。それは、『三春猫騒動(お家騒動)』の展示が行われていた三春歴史民俗資料館でのことでした。名は伏せますが、いずれ私がライスレークの家で、「三春が裏切り者ではなかったという話をする積もりです」と言った時、「それを話すと、かえって(当時の他の藩の人に)冷や水を浴びせられることになるから・・・」と言って言葉を濁したのです。私は町を背負って立つような文化人の反応に、「これでは駄目だ」という思いに愕然としたのです。この三春町史が出版されてから、すでに40年経っています。「これでは、あと60年経って200年になってもこの汚名を払い除けられないな」と思ったのです。私が現代の歴史家に望みたいことは、三春が裏切り者であったらあったと明確にすべきであると思うのです。そうすれば町民の側にも覚悟ができるでしょう。そして違うなら違うと説明すべきです。そうすれば町民も、前向きに考えられるでしょう。いいかげんにして置くことが、一番悪いと思っています。ともかく知り得た間違いを訂正せず、噂を否定しないことは、認めたということになるのではないでしょうか。 例えば、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏(大山巌の次男)の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられているのです。私には不満が残りますが、むしろこのようなことの方が、正当に検証しようとする姿勢が見える気がします。 三春裏切り説に関して、反論めいたものがいくつかweb上にアップされています。そのうちの2点を、書き出しておきたいと思います。ところが何とその一つは、私の書いた『三春戊辰戦争始末記』が紹介されており、しかもそれは、つい最近ミクシィ上で見つけたものだったのです。http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1304319&id=10307505 ただしこのURLをクリックすると、なぜかこのURLの最後の5の次に2006が表示されて開くことができないのですが、2006を消してクリックすると大丈夫です。日付は2006年10月21日とあり、『読んでおきたい基礎文献』の中にあったのです。これは私が書いたものに対する、しかも名指しでの肯定文でしたので、それがどなたのものであったのか是非知りたいと思ったのですが、生憎アップされた方がミクシィを退会なされている現在、残念ながら知る術がありません。やむを得ずご本人の許可を得ず、以下に引用させて頂きました。 『三春戊辰戦争始末記 橋本捨五郎 裏切りと今でも罵倒されている三春藩。だが、史実はどうであったのか? 地元の郷土史家が小説形式を取りながら、地方史や口伝などを丹念にリサーチし、その実体に迫る本。 驚いた事に新政府軍公式記録である「復古記」と、薩摩藩の軍事史料である「薩藩出軍戦状」そして二本松藩の基礎文献である「二本松藩史」の裏づけが取れてしまっており、逆に「仙台戊辰史」の捏造・改竄を証明してしまった形となってしまった。 「無いものは無い」のであり、それを「有った」とするのは問題ではないか? 著者の意図は、130年以上も経ちながら、未だに感情論で左右される事への連鎖を経ちたいという、ヘーゲル哲学に於ける「ジン・テーゼ」を見出そうとする姿勢は、イデオローグ汚染されている中央学“怪”や、利権塗れの“痴呆”史会に、爪の垢を煎じたい気分である(毒) 歴史の女神 クリオが誰に微笑むかは言うまでも無い! 自費出版という事で残念ながら絶版! 但し、ウエイブ上では公開されています。感情論ではない、知識共有を望む方は御覧あれ。』 それからもう一つ。『二本松狐と三春狐〜狐の蔑称は誰が為?』という論文が、2005年のHPにアップされていました。長文ですので、『1 はじめに』だけを著者の了解を頂いた上で、そのまま転載いたします。『二本松と三春、共に戊辰戦役で明暗を分けた藩である。 片や、新政府軍の猛攻撃を受けて崩壊に及び、片や降伏後に新政府軍の先鋒として藩の存続が保たれた。共に『明治維新』に巻き込まれ、二本松藩は奥羽越列藩同盟の犠牲となり「武士道の誉」と称えられたが、三春藩は生き残ったものの「裏切り者」として現代でも罵倒、侮蔑の対象として蔑まされる対象とされてしまう。三春の行為を揶揄する言葉として「会津猪に仙台むじな三春狐にだまされた二本松丸で了簡違い棒(丹羽氏の家門[×]を表す)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽・二本松藩の意味)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」「馬鹿だ馬鹿だ二本松は馬鹿だ、三春狐に騙された」という唄を与えられてしまった形となる。 しかし、「狐」の蔑称は三春だけのものであるのか?それならば幕末維新期に掛けてのバトル・ロワイヤルで「狐」にならずしてどのように生き残れればよかったのか?三春が二股膏薬の汚名を被り、二本松が武士道を通したと言う評価は正当だと言えるのか?二股膏薬は他にもいなかったのか? 歴史小説家や研究家が語る「三春は卑怯な裏切り者だ」という法官贔屓な文言をここでは頭の中から一切排除し、自国領土を戦火から救うにはどのような行動を取れば最善であったか。この二つの藩から眺めて考えてみたい。そして、周辺大国(新政府、会津、仙台)のエゴイスティックな動きも含めて、「狐」の称号は誰が持つべきなのか、考えていこうと思う。』 三春に対して、このようなエールが送られて来ているのです。誠にありがたく思っています。三春の、特に文化人たちが理論武装をし、このような自虐史観から町の人を救ってくださることを願って、このレポートを何度かに分けて載せたいと思います。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.11.26
閲覧総数 9425
9

郡山の製糸 この地方において、古くから桑を植え、蚕を育てて絹糸を取り、絹を織って生計の足しにしていた農家は少なくありませんでした。このような郡山村に、はじめて会社組織の製糸会社が出来たのは、明治十三年(1880)に設立された正製(セイセイ)組であり、翌年の真製社でした。しかしこの頃の製糸会社はまだ機械を使用しておらず、一般農家が行っていたと同じ座繰製糸という方法をとっていました。安積疎水が開通し、沼上水力発電所が建設されると、その電力と豊富な疎水の水を利用して、郡山絹糸紡績会社が発足しました。その後も相次いで、片倉組や小口組が進出し、日東紡績などに発展していきました。明治期以後の郡山は、安積疎水を利用した農業のみならず、工業都市としての性格を持つようになっていったのです。 絹の原料となる生糸は、蛾の一種であるカイコガの幼虫がサナギになるためにつむいだ繭を茹で、ごく細い絹糸を引き出して縒りあわせて作られるものですが、そのカイコの祖先は、東アジアに生息するクワコでした。これが中国大陸で家畜化されたというのが有力な説です。カイコは、野生に回帰する能力を完全に失った唯一の生物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができないのです。日本でも地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方が残っています。 世界においての絹の歴史は古く、すでに紀元前三千年頃の中国ではじまっていました。神話伝説によれば紀元前2460年頃、中国を統治した黄帝の后が、お湯の中に繭を落としてしまい、それを箸で拾い上げようとしたときに箸に巻きついてきたのが絹糸の発見となったと言われています。当時、絹糸を作る技術は門外不出とされ、絹織物の重さと同じ重さの金と交換していたと言われますから、貴重なものとされていたことが分かります。一説には紀元前六千年頃ともされていますが、少なくとも紀元前206年から紀元前8年の前漢の時代には、蚕室での蚕の卵の保管方法が確立しており、細々と続けられていた養蚕は、西暦1000年以後になってから、農村部においての生産が盛んになったのです。 一方、他の国々では絹の製法が分からなかったため、非常に古い時代から、絹は中国から陸路や海路で、インド、ペルシア方面に輸出されていました。これがシルクロード、つまり絹の道のはじまりでした。シルクロードの中国側起点は長安(西安市)、もしくは洛陽であり、欧州側はシリアのアンティオキアもしくはローマと見る説もありますが、日本がシルクロードの東端だったとする考え方もあります。紀元前千年頃の古代エジプト遺跡から、中国絹の断片が発見されています。古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、ローマが紀元前一世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国に達したのです。しかしローマでは、金の重さと同じだけの価値があるとされた絹に対する批判も強く、アウグストゥスが法令で絹製の衣類着用を禁止しました。マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、絹製のローブが欲しいという后の懇願を拒絶して模範を示したのですが、それでも絹着用の流行は留まることはなかったといわれています。 六世紀になると、絹の製法は東ローマ帝国に入りました。中世のヨーロッパでは1146年にシチリア王国が自国での生産をはじめ、また絹貿易により発展するヴェネツィアを見て、イタリア各地で絹生産がはじまりました。フランスでもイタリアの絹職人をリヨンに招き絹生産をはじめました。ちなみに宗教改革で母国を追われたプロテスタントの絹職人を受け入れたイギリスでは、何度も絹の国産化を計画したのですが蚕を育てる事に悉く失敗し、1619年になってようやく成功に漕ぎ着けました。しかし植民地であったアメリカが独立したため、他のヨーロッパ諸国よりも中国産の良質な生糸を求める意欲が強く、これが英清間の貿易不均衡、更にはアヘン戦争へと繋がっていく遠因となったとする説もあります。 日本には、絹の製法は弥生時代に伝わり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも、さまざまな織り方の絹織物や、日本茜や貝紫で染色されたものが見つかっています。このことから、すでに高い技術があったことが分かります。聖徳太子が制定したとされる十七条憲法に、「春から秋に至るまでは農桑の節なり」と記してあることから、すでに養蚕が広まっていたと考えられます。律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになったのですが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退していきました。このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていたのです。しかし中国では、明代になると日本との貿易が禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわりました。 養蚕関連についての日本での記述は、和銅五年(712)に編纂されたという古事記にさかのぼります。その古事記によりますと、蚕は女神の死体から生まれたことになっています。豊穣の女神である大気津比売(オウゲツヒメ)が、口や尻から食べ物をとりだすのを見た須左之男命は、自分に汚いものを食べさせようとしていると思い、怒って殺してしまいました。するとこの死んだ女神の体から、さまざまな穀物が生まれ、頭からは蚕が生まれたというのです。また日本書紀においては、イザナミノミコトが火の神カグツチを生んだために体を焼かれ、亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメは、後にカグツチと結ばれてワクムスビが生まれるのですが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという話があります。 三代実録には、仲哀天皇四年(195)に秦の始皇帝十一代の孫の功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物であるカイコの卵を奉納したとされ、また『古事記』の下巻に、蚕は韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ヌリノミ)が飼育していたもので、「一度は這(は)う虫になり、一度は太鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫、つまりカイコを、『民の竈』で知られる第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命(イワノヒメノミコト)に献上するという話が語られています。 日本では、江戸時代になっても養蚕が盛んにならなかった理由としては、製糸技術が稚拙だったほかに、元々幕府は農民が養蚕を営むのを嫌った、ということにもありました。それは何よりも食料確保を重視していたからで、農民が米や穀物以外の農業をするのは好まなかったからです。そこで桑畑が拡大しないように田んぼを桑畑に転換するのを禁止し、桑畑は山の斜面に限るということにしたのです。このようなこともあって、日本の生糸は質が悪く、高級呉服の布地には向かず、高級呉服に使う生糸は中国からの輸入品が当てられました。着物を呉服というのも中国の南部の呉の布の服という意味でした。そのため、江戸時代になると中国から輸入する生糸の量が膨大になり、たくさんの金銀が流出しました。それで幕府は、貿易を制限せざるをえませんでした。日本の生糸が粗悪だったのは、繭から糸にするのを人の手で作っていたことにもありました。これを糸取りといいます。この糸取りでは、繭から取り出す5~6本の細い糸を、唾で湿らせ指でよじるようにして一本の糸にしたのです。これを「撚り」(より)といいます。この仕事は細かい手仕事ですから、男性より女性の方が向いていました。しかも唾液が豊富に出るのは若い女性ですから、この糸取りは農家の若い女性の仕事でした。しかし、人の手でやりますからどうしても不ぞろいになります。そのため、繭が吐き出す糸は1000メートル以上もあるのですが、糸取りの最中にどうしても切れてしまいます。そこで糸を継ぐのですが、そうすると糸が太くなってしまいます。絹糸はできるだけ細く太さも均一なのが上質なのです。そのため国産の生糸は、質が悪い粗悪品とされ。京都の西陣などでは、国内産より中国産の生糸を使っていたのです。 初め幕府は、養蚕は春蚕(ハルゴ)だけを認めていました。江戸時代も中期になると秋蚕(アキゴ)も認めたのですが、それでも春と秋の年に二回だけでした。法制的には幕府の法律や政策は、天領にしか及びません。そのため実際は、どの藩も幕府の政策すべてを、そのまま自分の領地でも適用していました。ですから江戸時代の養蚕は、全国的に初めは春蚕だけ、中期になって秋蚕も行われるという状況でした。とくに二本松藩では、食料確保が最大の政策でしたから、安積郡域ではあまり行われませでした。しかし隣の田村郡域では、比較的盛んに行われていました。それが幕末から急に養蚕が盛んになり、明治になると、春、夏、秋、晩秋、晩々秋と年に5回もやる地域も出てきたのです。 しかし長年の生糸産業衰退の影響で、日本国内産の蚕は専ら綿の生産にしか用いる事が出来ませんでした。鎖国が行われ始めた寛永年間から、品質の改良が計られました。また幕府は、蚕種確保のため、代表的な産地であった旧結城藩領を天領化し、次いで同じく天領で、より生産条件の良い陸奥国伊達郡に生産拠点を設けて蚕種の独占販売を試みたのです。これに対して仙台藩、尾張藩、加賀藩といった大藩や、上野国や信濃国の小藩などが幕府からの圧力にも拘らず、養蚕や絹織物産業に力を入れたため、徐々に地方にでも生糸や絹織物の産地が形成されたのです。この結果、貞享年間(1685)には、初めて江戸幕府による輸入規制が行われ、さらに八代将軍徳川吉宗は、貿易赤字是正のため、天領、諸藩を問わずに生糸の生産を奨励し、江戸時代中期には日本絹は中国絹と生産量はにおいて、遜色がなくなっていったのです。 養蚕をするには、金と労力がかかります。養蚕に金がかかるのは、蚕種を買うためです。それと桑畑の手入れが大変でした。江戸時代の肥料は人糞が主ですが、それでも金肥といって、魚から作る肥料を撒きました。蚕は孵化すると脱皮しながら成長しますが、その時には夜も寝ないで桑の葉を与えなければなりません。段々蚕が成長してくると、家中が足の踏み場もないくらいになり、食事は立ったままするということになります。養蚕が忙しいのは蚕に餌を与える作業があるからです。家族だけでは無理なので人を雇うのですが、そのためには手間賃を払わなければなりません。そこで借金をするのですが、そのようなこともあって、三春町や船引町には、銀行の先駆けとなる金融機関としての金貸しが、多くいたのです。 江戸時代においての福島県の養蚕は、一般に思われているほど盛んではなく、二本松市北部の旧東和町を除くと、さほど行われていませんでした。この地域で養蚕が行われていたのは、さらに北の川俣でした。その影響で、田村郡でも養蚕は行われていましたが、それでもタバコ栽培の方が盛んでした。安積郡では逢瀬村や三穂田村で細々と行われていたくらいで、ここ以外ではほとんど行われていなかったようです。その頃は、座繰りという器械で生糸にしたのですが、実はこれが発明されたのは明治になってからでした。生糸を染色して絹糸にし、これで織物に仕立てていたのです。 明暦年間(1655年~58年)になると、川俣の生糸商人による京都への生糸販売が行われました。川俣には、近江や信濃などからも商人が蚕の卵、真綿、絹製品を求めて買付けに集まり、活況を呈していました。安政二年(1773)には、蚕の卵に「奥州本場」又は「奥州種」の商標と鑑札をつけることが幕府から許可され、福島の地位が確立されていったのです。これ以降幕末から昭和に至るまで、養蚕と蚕種製造業は大いに栄え、全国的に見ても有数の蚕の卵の産地になっていったのです。 日本では、鎖国後も中国絹を必要としていたため、長崎には中国商船の来航が認められ、国内商人には糸割符(いとわっぷ)が導入されていました。糸割符とは、生糸輸入の方式で、江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えたもので、白糸割符とも言われました。鎖国は、外国文化の流入をきらって行われたといわれますがそうではなく、有力な輸出品がなかった日本は、貿易を制限しないと金銀が流出して経済が破綻してしまうからでした。そのため、管理貿易の必要性から鎖国をしたというのが実態です。 一方で長野県は、山国でありながら良い蚕の卵が手に入らないので、江戸時代の終わり頃まではさほど盛んでありませんでした。長野県で養蚕が可能になったのは福島の蚕の卵が入手できるようになった幕末からです。風土が大いに関係するらしく、どういうわけか川俣伊達地方の蚕の卵は病気になりにくかったというのです。そこで、長野県の養蚕農家はこの福島産の蚕種を購入して養蚕をしていました。ちなみにこの蚕種の開発は当たれば大もうけができるというので、あちこちの資産家が挑戦しました。しかし、たいていは失敗で、江戸時代までは大金持ちだったのに先祖が蚕種事業に手を出して失敗し、今ではすっかり貧乏になってしまったという話はよく聞きます。真偽のほどはわかりませんが、地方の没落した旧家の子孫が没落の理由にあげるのが決まってこの蚕の卵事業でした。 実は江戸時代の日本の養蚕業に大きく貢献したのは、福島の県北地方でした。どういうわけか、福島県では川俣地方だけは奈良時代から養蚕機織りが盛んだったのです。江戸時代には福島絹という名で有名でしたが、その福島絹もたぶん高級呉服の表地にはならず裏地に使われていたと考えられています。というのも、東日本の絹で京都の西陣に送られる絹布のほとんどは、裏地だったのです。 この頃東アジアに来航したポルトガル人は、日中間での絹貿易を仲介し、巨利を得ていました。日 幕末の開港前の限られた国内市場において、一定の発展をしていた製糸業は,開港を契機として海外の市場と結合し,生糸輸出の増加を通じて生産力を増大させていきました。このため、開港後は絹が日本の重要な輸出品となっていったのです。幕末から養蚕が活況を呈するようになったのは輸出のためでした。日本が開国すると、アメリカやヨーロッパの商人が日本に来て、手当たりしだいに繭をかき集めるようになりました。外国が日本の繭を求めたのは、当時ヨーロッパでは蚕の伝染病が流行し、壊滅的被害を受けていたからでした。そして為替相場が今とちがい、極端に日本の通貨が安く設定されていましたから、外国人からすれば驚くくらい安い値段で日本の繭が買え、逆に日本の養蚕農家は驚くほどの高い値段で売れたのです。しかしこれで困ったのは、西陣をはじめ各地の機織業者でした。まったく生糸が調達できなくなったのです。そこで、機織り産地では、明治になると銘仙とよばれる高級服地を開発しました。川俣地方でも事情は同じで、この時がもっとも苦しい時代でした。 養蚕業は蚕を飼うためクワ(桑)を栽培し繭を生産する業務であり、製糸業とは、繭から生糸へ加工する業務です。この養蚕業、製糸業は明治以降の日本が近代化を進める上での重要な基幹産業であり、殖産興業の立役者のひとつであり、昭和の初めに至るまで日本最大の輸出商品となったのです。そして製糸業は外貨獲得産業として,明治以降の富国強兵政策を支える貿易・産業構造の一環を構成することになったのです。ほぼ前後して、中国でも製糸業の近代化が欧米資本及び現地の官民で進められました。元々国内での需要と消費が多く、生産者も多かった日中両国での機械化による生産量の増大は、絹の国際価格の暴落を招き、ヨーロッパの絹生産に大打撃を与えたのです。なお、日本最初の近代的な製糸工場と言われる富岡製糸場の技術指導を行ったのは、フランス人技師であるポール・ブリュナーでした。 明治六年(1873)、岩倉使節団が米欧歴訪中にイタリアを訪問し、当時のイタリアの養蚕、生糸生産の様子を詳しく視察しています。なおアメリカのユタ州ソルトレイクでは、1856年にエリザベス ホイタッカーがイングランドから蚕の卵を輸入し、蚕にレタスを与えて育てていたがうまくいかず、1859年にフランスから桑の木を輸入してから一応の成功を見、絹のドレスを作るという実験段階にありました。また1863年にはオクターバー ウルセンバッハとその妻が、その他にも1867年にはポールとスザンナ カルデン夫妻がフランス式の養蚕に力を入れていたのですが、思うようではありませんでした。そこで1892年、ソルトレイクに滞在していた三春出身の勝沼富造が、ここのビーハイブ婦人会の依頼により、三春式?の養蚕法を教えています。 明治二十四年(1891)、日本第二の大都会、大阪に大阪馬車鉄道が開通する9年も前、三春馬車鉄道が郡山 三春間に開通しました。田村地方の生糸などの製品や、それを扱う商人たちの利用が多く、郡山からは出来たばかりの鉄道で、東京や横浜へ出掛けて行ったのです。なお同時期、三春には国立第93銀行が設立され、その横浜支店を通じて、輸出などに関しての為替業務などが行われていました。ちなみに現在、仙台市に本店をもつ七十七銀行がありますが、これは仙台に置かれた第七十七国立銀行がその前身でした。そして驚いたことには、次のようなことを、会津若松市の友人に聞いたことです。それも今年、平成二十九年、幾つもの少人数による無尽が、今も続いているというのです。 明治二十八年(1895)、輸出生糸の品位、正量などの検査を行う国の検査機関の生糸検査所が、横浜と神戸に設立されました。明治三十四年(1901)には閉鎖されましたが、昭和の初めには、輸出用生糸の大部分が、高品位となっていました。しかし第二次世界大戦で、日本は東アジア諸国との貿易が途絶えたため、欧米では絹の価格が高騰しました。このためナイロン、レーヨンなど人造繊維の使用が盛んになったのです。戦後、日本の絹生産は衰退し、現在は主に中国から輸入に頼っています。平成十年の統計によると、日本は世界第5位の生産高ですが、中国、インド、ブラジルの上位3ヶ国で全世界の生産の9割を占め、4位のウズベキスタンも日本を大きく引き離しています。平成二十二年現在では、市場に提供する絹糸を製造する製糸会社は、国内では2社のみとなってしまいました。 郡山の絹の製糸業は、明治時代に入ると著しい発展を遂げました。安積疎水の開削と田村地方での養蚕が結びつき、郡山を中心に相次いで器械製糸工場が操業を開始したのです。明治三十二年には、日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業の発展と関係があったと言われています。ちなみに、群馬県富岡市の旧官営富岡製糸場が、明治五年十月に開業したのですが、富岡製糸場は、世界遺産に登録され、そして安積疎水も、日本の遺産に登録されました。現在の郡山市桑野、つまり旧桑野村の名は、開拓事業の中心地であった開成地区全域が養蚕のため、桑が植えられていたことからの地名です。生糸は明治、大正と日本の主要な外貨獲得源であったのですが、昭和四年(1929)以降の世界恐慌で世界的に生糸価格が暴落したため、東北地方などを中心に農村の不況が深刻化しました。 今でも郡山の山間地をまわると、年配者から昔は養蚕で儲かってよかったという話を聞きます。それは中山間地の農村には養蚕に代わる農業がなかったのと、養蚕は稲作とちがって借金でやるからでした。それでも養蚕を続けたのは、借金を返すためというより、養蚕をやめると今までの借金を精算しなくてはならなくなり、そうすると、返しきれないほどの借金が表面に出てしまうためでした。このあたりは、今の小さな会社の経営者が廃業したいけれど、借金があるから辞めるに辞められないというのとほぼ同じです。また養蚕というのは博打に似たところがあって、今年はダメでも来年は大当たりするかもしれないという期待があります。そこで戦後もしばらく続いていたというのが日本の養蚕の歴史でした。日本で養蚕がなくなるのは養蚕の経済性が失われたというより、昭和30年代の高度経済成長で、農村の人々にも新しい働き口ができたということの方が大きかったのかも知れません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.01.04
閲覧総数 2355
10

郡山に落とされたテスト原爆 今年の2月、本町の市道拡幅工事現場から、1945年4月郡山大空襲の際に落とされたと思われる焼夷弾2個が発見されました。 さて1945年7月20日、3機のB29爆撃機がテニアン島を飛び立ちました。彼らの任務は平、福島、郡山にテスト原爆を投下することでした。ところが郡山へ向かったC・エザリー機長のB29が行方不明となってしまったのです。 軍の命令に叛き東京に進路を変えたエザリー機は、皇居にテスト原爆を投下して天皇爆殺を狙ったのです。しかしこの日の東京は雲が厚くまた乗組員も皇居の位置を知らなかったため、爆弾は大きくそれた呉服町に投下されました。 帰投したエザリーは命令違反で軍法会議にかけられることはなかったようです。 さらに7月29日、通称1トン爆弾(テスト原爆)が郡山駅に投下されました。しかし郡山への原爆投下は、レーダーが作用しにくい地形のため見送られたそうです。 テスト原爆は、B29が原爆の強大な破壊力に巻き込まれずに脱出するための練習用として、本物と同じ形状、重さで製造され、通常火薬が詰められました。つまり広島、長崎への原爆投下に対する訓練爆撃でもあったのです。 これらはアメリカ公文書館の資料から、2003年8月18日、 テレビ朝日の報道番組『幻の東京原爆投下作戦・天皇を狙った男』で報道されたものです。テスト原爆の被弾地については、終戦直後、アメリカ第509混成軍団により詳細な一覧表が作られています。 実際に投下された広島(ウラン原爆)と長崎(プルトニューム原爆)との違いは、原爆での生体実験を意味したのではないでしょうか。原爆傷害調査委員会(ABCC)は、原子爆弾による傷害の実態を調査記録するためにアメリカが設置した機関で、被爆者の治療にあたることは、一切ありませんでした。 75年は草木も生えぬと子どものころ聞かされたこの言葉に、当時の人はその後の被害の長さを知っていたと考えられます。 戦後66年、郡山の大地は今、原爆ならぬ東京電力・第一原子力発電所の放射能事故におびやかされています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.08.02
閲覧総数 2231
11

福島県の金銀鉱山 福島県内には、次のように多くの金銀鉱山がありました。 金谷川鉱山(金) 福島市金谷川 福島市近郊には、金を掘った鉱山が多くありましたが、その中の一つでした。 松川鉱山(金) 福島市松川町 鎌倉時代の発見と伝えられ戦国時代は会津の蒲生氏によって経営されました。大正の初めに再開されたのですが昭和18年の金山整備令により設備を撤去し、 休山となりました、現在は製錬所跡が残されています。 半田銀山(金・銀) 伊達郡桑折町・国見町 大同年間に採掘が始まったと伝えられますが、本格的に操業を始めたのは慶長3年(1598)とされています。石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)とならんで日本三大銀山に数えられました。幕末以降は民間人が経営しましたが、 昭和45(1970)年に閉山しています。銀山といっても銀ばかり掘っていたわけではなく、金、鉛、亜鉛なども生産していました。なお、ハンダ付けの「はんだ」(錫と鉛の合金)がこの半田銀山に由来するという説もあありますが、定かではありません。 名称不明(金) 二本松市太田字金山 高玉金山(金・銀) 郡山市熱海町玉川字横道 天正元(1573)年、会津・芦名氏による開坑と伝えられています。日本三大金山の一つで、最盛期には日本一の産出量を誇り、佐渡(越後)・串木野(薩摩)と並び、日本三大金山と称せられました。江戸中期に一時衰退、明治になって再開されましたが、昭和51(1976)年に閉山。平成8(1996)年に観光化され、坑内をトロッコで探索できるようになりました。 高旗鉱山(金、旗は竹かんむりが上に付く) 郡山市三穂田町富岡 この鉱山は旧会津領主蘆名氏により開発され、その後蒲生氏の、さらに二本松藩主丹羽氏などの所領を経て、明治維新まで稼働しました。時期は明らかではありませんが、戦後しばらくの後に閉山されました。 玉井鉱山(金・銀) 郡山市逢瀬町多田野 金・銀を目的に昭和28年頃盛んに探鉱されて日立鉱山に売鉱したのですが、現在は休山となっています。 日山鉱山(金・銀) 郡山市湖南町中野 詳細は不明ですが、現在は坑跡とズリが残っています。 赤取根鉱山(金) 須賀川市狸平 現在は閉山とされていますが、詳細は不明です。 名称不明(金) 須賀川市塩田字金山 ここの開坑は南北朝時代と伝えられ、第二次大戦後の昭和20年代まで細々と採掘が続けられていた。しかし現在は閉坑しています。 黄金沢鉱山 西白河郡表郷村金山 天正年間の発見と伝えられ後に佐竹藩によって栄え一時3000軒もの長屋があったと伝えられています。明治になって採掘が再開され大正・昭和と稼働したのですが、現在は鉱山事務所跡と坑跡が残されています。 黄金嶺鉱山(金) 西白河郡表郷村金山 この金山地区には、黄金嶺鉱山の他に、真船、大島、大沢、中丿沢などの鉱山がありました。天正年間の発見と伝えられ、後に佐竹藩によって栄えました。一時は、3000軒もの長屋があったと伝えられています。明治になって採掘が再開されましたが、今は鉱山事務所と坑跡が残されています。 石川町では砂金も採れたことから、金田川、小金塚、金堀などの地名があります。(日進堂印刷所 ふくしま手帳)また八溝山でも金が産出したといわれます。 石ヶ森鉱山(金) 会津若松市一箕町石ヶ森 蒲生秀行により慶長8年金山として開発され、江戸時代には大いに栄えました。明治時代に入って、廃山となりました。 朝日鉱山(金) 会津若松市大戸町・門田町 江戸時代から金を採掘されたと伝えられ、会津三大金山の一つに数えられたのですが、江戸後期には衰退してしまいました。 桧原鉱山(金・銀) 耶麻郡北塩原村桧原金山 慶長10(1605)年、修験中堂坊により発見されてから多くの金堀人足が入り、桧原村は大いに栄えました。 加納鉱山(金.銀) 耶麻郡熱塩加納村石ヶ森 明治末期には全国的にも注目されたのですが、大正末期には衰退し。昭和47年に閉山しました。 黒森鉱山(金) 耶麻郡熱塩加納村 昭和10~13年頃、大規模に探鉱されましたが発展を見ず、休山となって現在に至っています。 赤羽根鉱山(金・銀) 耶麻郡西会津町赤羽根山 江戸時代から金山として開発されたのですが、五万洞・三十両・山口・銀鉛沢・野沢などの各鉱山を包括した名称です、 昭和15~16年ころは福島県屈指の金・銀・銅鉱山でしたが、鉱量枯渇等により昭和19年頃に休山になりました。 軽井沢銀山(銀) 耶麻郡柳津町軽井沢銀山 永禄元年村民松本左文治により発見(別説だと後の元和年間に軽井沢の農民、治右衛門が銀鉱を発見)されました。天正3年頃銀山として繁盛をきわめ、明治時代には全国的にも有名な大銀山でしたが、明治24年~25年、閉山となりました。最盛期には100戸の家々が軒をつらね、銀が100貫とれた年は櫓が建てられ、「月が出た出た銀山峠 煙でよごれて化粧なおし 月が出たよだ銀山峠 さぞや馬子さんあかりかろ」という踊りがたったといわれます。 田子倉鉱山(金) 南会津郡只見町 江戸時代の採掘記録が残る鉱山です。明治時代、再び採掘が始まりましたが、戦後、電源開発による田子倉ダム建設が開始され、坑口がダム湖南西奥の満水湖面より20mの高さに位置してしまい休坑となりました。 この他にもあったかとは思いますが、その昔、大和政権が大仏建立のための金箔作りなどに喉から手が出るほど必要としていた『金』の一部が、福島県でも掘られていたということになるのかも知れません。いずれにしても、これ以外にも金鉱山があったのかも知れませんが、その調査不足につきましては、御容赦をいただくのみです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2015.05.06
閲覧総数 11453
12

三日月不動明王 神社の狛犬に興味を持ち、市内の神社を探し回っていた時、地図の上で三日月不動明王という御堂を見つけました。三日月という妙に美しい名に興味を感じて行ってみましたら、小さな御堂の傍らに、そう大きくもない石碑が建っていたのです。何気なくその碑の文字を読んでいて、驚きました。そこには三春田村氏の三代目の領主であった田村清顕の戒名、『長雲院殿前光録雲林松公大居士』とその家臣である橋本刑部左衛門の名が刻んであったからです。田村清顕は戦国時代末期の武将で、伊達政宗の正室となった愛姫の父親です。カギをかけられた御堂の中を覗いてみると、仏像が一体、見えました。場所は、郡山市三穂田町駒屋字四斗蒔60です。なお三春町史に、田村清顕の戒名が『長雲院殿前光録大夫空山松公大居士』とあり、この碑とは若干違うのですが、その理由は分かりません。 そこで、この橋本刑部左衛門について調べてみました。種々の資料にあたりましたが、この人は南北朝時代、南朝側について楠木正成や守山の田村氏と共に戦って敗れ、田村氏を頼ってこの地に落ち延びてきた橋本正茂の末裔であるということでした。なお彼の名は碑にあるような橋本刑部左衛門ではなく、橋本刑部少輔顕徳(はしもと・ぎょうぶのしょうゆう・あきのり)というのが正しい名のようです。顕徳(あきのり)は、三代三春城主・田村清顕の死後のお家騒動の時に伊達方につき、家中を田村一門とともに運営して田村家中が相馬方と伊達方に二分するのをまとめ、伊達氏への接近を図った人です。なお、仙台藩片倉家文書の田村家臣団記録の中には、『田村宿老』として四人が名が記されているのですが、その中の一人が『橋本伊予守』となっています。しかし、橋本伊予守と顕徳(あきのり)との関係は分かりません。顕徳は、与力五十騎を任されています。 三春田村氏のいた、橋本刑部顕徳(あきのり)は、田村盛顯の孫であり、三代・三春城主の清顯の又従兄弟にあたると言われています。この顕徳(あきのり)は、私の家の本家・小野屋の初代であると聞いていましたから、この碑の文字に驚いたのです。御堂の鈴と並んで下がっていた、十枚ほどの白布の鈴緒(すずお)には、奉納者の名が書かれていました。そしてその全てが、橋本の姓であったのです。持っていた住宅地図で確認すると、四斗蒔集落のほとんどが橋本さんでした。この碑文の書き出しが、『当院先祖橋本由緒』とあったことから、ここに住んでいる橋本さんたちの先祖が建てたのであろうという想像は、すぐにつきました。この時点で、私はこの碑の文字の全てを読めたわけではありません。台座にある寄付者名も、古いだけに文字の部分が欠けていたり、苔が硬く張っていて、読めない部分もあったのです。しかし寄付者名の全てが、橋本さんのようでした。 以下、読める古い文字を現代の文字にして写したのですが、判読不明なものは□で、多分こうではないかと思える文字については、斜字で加入しました。 (正面) 梵字 湯殿山 (背面)永代寄付両部権現信仰梵天供養奉る意趣也永代寄付両部権現信仰梵天供養奉る意趣也天鶴聖干大禅定門田村将軍御(転)各位栄学坊長雲院殿前光録雲林松公大居士清顕各母(も)好喜寺奥州相馬行方郡和田(郷)天明年中(1781~1789)従(より)相馬移妙栄寺 (左面)当寺灯開光遍法位永禄(開山が)九年(1566)酉今当文化十三(1816)丙子二百五十(年)古跡中絶縁尊而巳(山冠槐)二□是当寺伝灯再興権僧都栄盛法位相馬家内引□十六檀那以助力往殿建立本堂修復金十八両 (右面)当院先祖橋本由緒東奥隅□□田村森(守)山太(泰)平三春(領)下枝村領主橋本刑部(左)衛門男(五)有(嫡)男左近将監(正六位上)刑部清顕之(末孫)田村将軍(落)城後二本松領駒屋□住居□□□八丈□□ (台座前面)丑子□□□現往□盛□□□□□□□□□□□□□□□□□□衛門□□□□□□□□□□□□□□□□□□□取子中□□□□□□□□治良吉 (台座左面)守山領田村将軍□□□橋本俊□末孫□八代坊□□□□代駒屋居橋本治郎右衛門同苗太郎右衛門同苗□善左衛門 なおここにある天鶴聖干大禅定門は、田村麻呂の次男? の浄野ではないかと、『仙道田村荘史162ページ』に記されています。ともかくその全文を筆写して、近くの橋本さんを訪ねてみました。 ところが生憎、お留守の家が多かったのです。そこで集落内のお寺に行ってみたのですが、そこも留守でした。お寺の近くの橋本さんを訪ねてみたら、今度は幸運にもご在宅でした。しかし聞いてみたら、自分は他所から嫁に来たので分からないと言われましたが、ただ近くに住む橋本さんなら分かるかも知れないと言って、その家を教えてくれたのです。行ってみると、当主で86歳の橋本清吉さんがご在宅でしたので、話を聞くことができました。それによると「昔、三春から仏像を持って来た。橋本姓のみの古い墓地があったが、昨年、息子たちが、「一つの石碑に纏めた」と言うのです。それを聞いて私は、その墓地を探しに行ったのですが、見つけることができませんでした。ただそのときに分かったことは、この御堂を祀っているのは、須賀川市の千用寺だということでした。 私は写した碑文を持って、郡山歴史資料館に行ってみました。ところが資料館では、このような碑があったことさえ知らなかった、と言うのです。私は書き写してきた紙を広げ、読んでもらいました。その時冗談交じりに、「橋本さん。これは、あなたを先祖が呼んだのかも知れないね」と言われたのですが、そうこうしているうちに、1988年に出版された『郡山の伝え語り(郡山市教育委員会 不二印刷)』という本を、「参考になるからも知れないから」と言って出してきてくれたのです。短い文なので、全文を載せてみます。 三穂田町駒屋字四斗蒔地内に、不動堂が建立されている。お堂の中には、三日月不動明王とおしんめ様が祀られている。伝えによると、文化年間、田村三春領下枝館主橋本刑部左衛門は男の子が五人いて、嫡子左近将監は刑部顯徳の末孫で、田村落城後、二本松領駒屋に移り居住し、修験寺を建立したというのが、このお堂である。現在は、部落の総代が管理しているが、六・七年前までは、部落内の橋本家一族が管理、信仰していた。橋本家は部落の東方の墓地を、先祖の埋葬地としている。今、部落全部で、春三月末日にお堂に集まり、お祭りを行っている。 私はこの文章を参考にして、石碑の読めない部分に文字を組み入れてみたのです。前述の文章の( )内に斜字で入れたのがそれです。 それから私は何か資料がないかと思い、須賀川の千用寺へ行ってみました。千用寺では、親切に応対してくれました。しかし住職の話では、以前にご自分でも郡山市役所に当たったりして調べたのですが、三日月不動明王についての資料は何も出てこなかったというのです。そこで今度は、三春歴史民俗資料館に行ってみました。三春に不動明王があったかを調べるためです。そこで分かったことは、二代・三春城主の田村隆顕が、その死の前年である天正三年(1575)、現在の三春町の御免町に位置する小高い丘に清水寺を建立し、ご本尊の揚栁(ようりゅう)観世音菩薩と不動明王尊の二像を安置したというのです。今は廃寺となっているのですが、今でも不動山と呼ばれている山です、すると不動明王像が三春から来たという四斗蒔の集落の口伝と、三春の清水寺から来たかも知れないという不動明王像の歴史が一致することになるので、事実と考えてもよいと思いました。なおこの清水寺は、明治の終わりごろ三春大町の回春堂薬局の橋元柳平氏がお堂の荒廃を見かねて、不動山から三春芹ケ沢公園の一角に移築し、現在は、田村三十三観音の一番札所『無量庵清水寺』となっています。 では不動明王とは、どんなものなのでしょうか。調べてみると、不動明王は、アチャラナータといい、インドで起こり、中国を経て日本に伝わったもので、その起源は、ヒンドゥー教の最高神、シヴァ神にあるとのことでした。サンスクリット語でアチャラは『動かない』であり、ナータは守護者を意味することから、日本語で言う『不動の明王』となったと思われます。密教経典によりますと、不動明王とは釈迦が悟りを開いた菩提樹の下の坐禅中に、煩悩を焼きつくしている姿だとしています。そして三日月不動明王とは、額の上に銀の三日月を付け 『弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん』との誓願によるものであると言われます。『三日月不動明王』そのものに、意味があったのです。 四斗蒔の碑の正面は、上部に梵字がありますが、湯殿山の文字が大きく彫られています。出羽三山の中でも、湯殿山は特別に神秘的な山とされ、1400年以上も前から湧き出る湯のある湯殿が参拝されてきました。出羽三山の奥宮として『語るなかれ』『聞くなかれ』と戒められた神秘の霊場です。三山参りをするには宿泊料をはじめとする旅費・奉納金など様々な費用がかかるため、講を組織し、互いに資金を出し合い、順番に従って三山参りに出かけました。講中で参詣が一巡したら講金の一部を費用にあて、自分たちの参詣記念として湯殿山の碑を建立したものです。ところがこの碑の回りに彫られた文字は、参詣記念とは関係のない文章なのです。何故なのか。不思議です。 湯殿山碑は、湯殿山講の人々によって建てられた碑ですが、この方式は、の文化文政期、つまり1804年~1830年には、もっとも盛んであったと言われます。するとこの碑に彫られている文化十三年(1816)は、確かにこの事実と合致する年代となります。ところが湯殿山講に関係して建立されたものであれば、橋本以外の人がいてもいいと思えるのですが、台座には、読めない部分も含めて橋本姓のみなのです。しかしこの碑が、この集落だけの人の講であるとすれば、橋本姓だけであっても、おかしくはありません。するとこの碑は、四斗蒔集落で伝えられるように、三春からやって来た橋本さんたちが建立した、としか考えられません。 さてもう一つ不思議なのは、次の点です。この碑が建立された頃、四斗蒔は二本松領でした。それなのに何故、他領である三春から多くの人たちが移って来たのでしょうか? 何らかの理由があったと思われます。どなたかのご教示を、お願いします。 それにしても県内の橋本姓の皆さん、そして四斗蒔の橋本さん。ひょっとしてこの戦国の世に生きた橋本刑部顕徳が、私たち橋本の先祖なのかも知れませんね。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.05.01
閲覧総数 1787
13

ウパシクマ 郡山市西田町根木屋字立石に、『根木屋水道通水記念之碑』などに混じって、『⑤優婆夷(うば様)根木屋字立石縁起 アイヌ語の産婆(ウパシクマ)お産の神(ウワリカムイ)に当たる民間信仰。したがって、全国に文献をさぐっても見当たらない。この石像は、県内の一部にしか見られないもののようである。御祭神 産婆神 子育て神 仏教では優婆夷(うばい) 御神徳 子育て神 子ども養育神』『⑥二十三夜の遅い月の出を待つ月供養の女性の講で、仏を精進供養し健康な子どもの出産を祈る石碑』という案内板が立てられていました。その背後には古い民間信仰に使われたと思われる大きな岩があり、頂上には、どこかで見たような仏像が祀られていました。この他にも、二十三夜塔や庚申塔などを、ここに集中的に立てられていったような感じもします。しかし何故ここに、アイヌ語のウパシクマという文字があるのか、とても興味をかきたてられました。 私は、郡山市歴史博物館を訪ねました。これらの掲示板は、資料館が立てたと思ったからです。ところが資料館では、それを立てていないと言って、西田町史談会長の今泉五郎さんを紹介してくれました。私は早速、会いに行きました。彼ら夫妻は、現地で私を待っていてくれました。今泉さんは、「根木屋は自分の住む木村とは集落が違うので、ウパシクマ案内板建立のいきさつは知らなかった。しかも私自身この道は通っていたのに、裏通りに向いていたので今日はじめて知った。しかもそれを立てた人たちは亡くなってしまったので、事情はまったく分からない」と言うのです。しかも今泉さんは現在九十歳、自らが立ち上げていた西田町史談会唯一の生き残りとなり、「会は消滅寸前です」と言うのです。 ところでアイヌ語と言われれば、北海道です。昔、蝦夷と言われたのは、現在の東北地方に居住する『まつろわぬ民』つまり朝廷に従わぬ民を示す言葉でしかなく、現代で言ういわゆる『民族』とは、本質的にことなります。ところが東北には、アイヌ語の地名、それも語呂合わせではなく、地形と意味が北海道のそれと一致するものがあるのです。ウパシクマとは、それと関係があるのでしょうか。 そこで私は、ウパシクマで検索してみました。するとウパシクマについて、樺太アイヌは説話のことを指すと言うのですが,北海道アイヌは、先祖の教えを基にしたものや住んでいる地名にまつわる伝承など、事物の由来や起源に関する知識を説明した言葉や説話を言い、他の『語られるもの』と区別したのです。『他の語られるもの』、つまりアイヌの叙事詩の一つであるユーカラにもウパシクマという単語がたびたび現れ、「ウパシクマにあるから……」と言って、人間としての行動指針とされることも多かったとされます。ユーカラとはアイヌに口承されてきた叙事詩で、棒で拍子をとり、節をつけて語られるものです。江戸時代になると、ユーカラは蝦夷浄瑠璃などと呼ばれ、物語を神秘的にし、幾晩にもわたって語られたのですが,この長大なユーカラも変容を重ね,従来の形を保持している伝承者は数えるほどになってしまいました。 北海道の沙流郡(さるぐん)平取町に、二風谷(にぶたに)という所があります。二風谷は、2010年10月1日現在の人口が395人で、人口の過半数をアイヌの人が占めており、北海道内でアイヌの人の比率が最も高い地域とされています。アイヌ語による地名はニプタニですが、19世紀初頭の史料においても確認できる地名です。このアイヌの最後の伝統的シャーマンと言われたのが、今は亡くなりましたが、アイヌの人で、日本名・青木愛子さんです。ところがこの愛子さんが述べ、長井博氏が記録した『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ〜伝承の知恵の記録』という本が出版されていたのです。 この本によりますと、驚くべきことに、この愛子さんに継承されてきたというウパシクマの秘伝は、宝暦六年(1756)、フィリピンのパギオに住んでいたイゴロット族の聖地アシュラム(精神的な修行をする場所)から始まったものというのです。愛子さんは、1914年に生まれ、1995年に亡くなっています。彼女は、古代から継承されてきた産婆術だけに留まらず、診察・治療のための特殊な手、そして何でも見えるウエインカラ、千里眼を持ち、シャーマン的な役割を担ってきた方です。彼女のウエインカラは、初対面の人と対座した時ばかりでなく、電話での話し相手でも、その人の過去と未来がわかる特殊な力を持っていました。現代でも、フィリッピンにトニー・アグパオア(1932〜1982)という人が現れて、彼の行うメスを使わず素手での手術の様子が、TVでも放映され、その手術の真偽が世界的な話題になったこともありました。 この南の島からの秘伝と聞くと、ハワイ先住民の呪術師、カフナたちが行っていた秘術として知られているホ・オポノポノ、告白による和解と許しの習慣と、アイヌ人の間には何か共通点があるのかも知れません。ハワイ先住民の間には、エジプトのピラミッド文明時代、国内情勢が悪化したため、『呪術の秘法』を守るためエジプトを脱出してポリネシアに辿り着いた民だという伝説があるのです。またこの説によると、カフナ12部族のうち10部族が、インド洋経由で各地に秘術を広げたのですが、途中で日本にも渡り、古神道の呪術の基礎を教えたというのです。時代が異なる話ですが、イスラエルの12部族のうち失われた10部族のことを考えると、この数字はただの偶然なのか、それとも何らかの意味があったのかも知れません。また環太平洋文化圏、そしてここに広がる刺青の風習も気になります。 この『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 伝承の知「恵の記録」』から、一部をそのまま転載してみます。 『青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて来た産婆術、診察、治療のための特殊な掌、薬草、整体手技、あるいはシャーマンとしての技量をも駆使して、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍した。本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見て、その言葉の一つ一つを丹念に記録した、アイヌの信仰と文化の実態に迫る伝承の知恵の書です。 初代の産婆は1756年(宝暦6年)頃、現在のフィリピン共和国・バギオシティー、ラクナムの地、ルソン島北部山岳地方を支配したイゴロット族の聖地アシュラムで生を享けている。この初代に産婆や薬草等の治療の技術、及び信仰について授けたのは、アシュラムの開祖であるティエンチンイー(天静一)という名前の男性であった。降霊現象であるツスの中で、初代が名乗っている。天静一の名は、実は初代その人の名前ではないことがはっきりした。初代はツスの中で、自分の名前を名乗っていないというのが事実である。天静一は、中国人名のようだが、現在までの筆者の調査によっても、その出身地は不明のままになっている。現在までに判明していることは、船でルソン島に渡りついた異国人である。薬草その他の治療の技術にすぐれた男で、彼が瞑想の地と定めて住みついた場所が、後にアシュラムと呼ばれるようになったようだ。この地方はイゴロット族の居住域で、天静一はイゴロット族を中心にして周辺の少数民族の畏敬を集めた人物であったようだ。 初代の産婆はそのアシュラムから北海道まで渡って、シトシというアイヌレヘ(アイヌ語名)の日本人と結婚している。シトシはコタン(村)の人々をトバットミ(強盗集団)から護る役目等を持ち、初代の方は産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしながら、夫婦で北海道各地のアイヌコタンを巡回した。 初代が81歳の時に訪れたヤマモンベツコタン(現・沙流郡門別町庫富)が最後の地となる。初代は、アトイサムという名のシャモの老婦人のチセ(家)に身を寄せている内に急に容体が変化し、お世話になったその老婦人にテケイヌ(診療・治療のための特殊な能力を持つ掌)を継承して他界した。この時、初代を追って来ることになっていた夫のシトシは、まだコタンに到着していなかった。この時の老婦人、シャモの女性が二代目継承者になるのであるが、初代との間には血縁関係のないことを、念を押しておきたい。 この二代目アトイサムは出生地不明、1775年頃に生を享け、1855年頃に他界したようだ。初代からの教育的伝承はほとんど受けておらず、カムイノミ(神儀)の儀式的な継承のみであった。アトイサムは自分の子供に継承せずに、1851年頃に生れたまだ幼ない孫に三代目するカムイノミを行ない、他界している。やはり実践教育的な継承の期間が、ほぼなかったといえる。 三代目ハイネレの夫はアイヌ語名・門別アンリケチュウという名で、比較的若くて他界したと伝えられている。シャモであったようだ。四代目は、三代目ハイネレの第二子長女・ウコチャテクが継承して、20歳頃に13歳年上の貝沢ウトレントクと結婚している。ウトレントクの父親はウカリクン、母親はシュトラン、祖母カシテクン、二風谷地方の古いニシバの家系であったようだ。 五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル、助産術などは、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになる。アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題になったようだ。真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射もメスも使わずに手当てを行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告しておきたい。 二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を送っている。しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコチャテク一人が判明しているだけである。』ここまでが、『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ 伝承の知恵の記録』からの引用です。 以上を簡単に整理してみると、青木愛子さんに伝わるアイヌイコインカル(助産術)やテケイヌなどは、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになりますが、判りにくい点がありますので、私なりに整理してみます。 最初にウパシクマを初めた人の名は明確になっていませんが、天静一(テンシンイチ)を名乗っていて、初代に教えたのかも知れません。天静一は、その名からしてフィリピンに渡った中国人らしいのです。 初代の名は分かりませんが、宝暦六年(1756)フィリピンに生まれ、北海道に渡りました。そしてシトシという人、しかしアイヌ語名アイヌレヘという日本人と結婚、1837年に奇遇していたアトイサム家で81歳で死去したとされます。ところがこのような話が、日本にありました。『伊豆諸島は造物主事代主命の一族と、その八人の妃によって領有された。事代主命は三宅島に宮居を定められたが、その地で崩じた。妃の一人、八十八重姫(やそやえひめ)は八丈島に渡り宝明神を生み、この二方が八丈島を繁栄させた』というものです。この八十八重姫は、事代主神の妃で、またの名が優婆夷大神というのだそうです。 二代はアトイサム(1775〜1885)が継承しましたが、初代との血縁関係にはありません。 三代のハイネレは1851に生まれていますが、亡くなった年は分かりません。日本人のアンリケチュウと結婚しましたが、二代アトイサムの孫と推測されます。 四代のウコチャテクは1875年の生まれですが、やはり亡くなった年は分かりません。三代ハイネレが24歳の時の生まれと推測されています。ハイネレは13歳年上でアイヌ伝統工芸の名工と言われた、日本人の貝沢ウトレントク(1862〜1914)と結婚しています。 五代 青木愛子1914〜1995、四代ウコチャテクと貝沢ウトレントクとの娘で、ウコチャテクが39歳の生まれと推測されます。 このように出産の技術が、あたかも父子相伝のようにして現代にまで伝えられてきたということは、ウパシクマは、特殊な出産の技術を持った人の称号であったようにも見えます。 これらの状況を見てみますと、ウパシクマそのものの疑問は、初めの段階からあったと思われます。時代が違うとは言いますが、初代がフィリッピンからどうやって北海道を目指し、しかもどうやって辿り着いたのかが分かりません。但しこのフィリッピンから来たという話が、ユーカリ、つまりアイヌ民族の神話、もしくは話を神秘的にする伝承であったと考えればいいのかも知れません。しかしこれらの疑問が解決されたとしても、何故ウパシクマの説明文が根木屋に書かれたのか、という疑問が残ります。北海道から根木屋までは、遠いのです。しかもこの周辺に、アイヌが住んでいた、という記録はないのです。 さて現代に、話が飛びます。いま長野県安曇野市穂高有明に、『助産院ウテキアニ』を開いている高橋小百合(たかはし さゆり)さんという方がおられます。助産院ウテキアニは、アイヌの伝統的な産婆でシャーマンの青木愛子さんから小百合さんが頂いた名前です。青木愛子さんは、お産のことを述べた『ウパシクマ〜伝承の知恵の記録』という本の『あとがき』で、こういうことを言っています。「ウパシクマっていうのは、ほんとうに本当の話なんだからね。昔からアイヌが現実にやってきたこと、起きたことの話なのよ」と。ユーカラとか、アイヌに伝承される口承文芸のウエペケレみたいな創作されたものではないんだと、愛子さんは言っているのです。いずれにせよ、宝暦六年(1756)の頃アイヌ民族に伝わったとされる産婆や子育ての技術が、現在の長野県安曇野市に伝えられているのです。するとこのように、その昔、根木屋の誰かが、北海道のウパシクマを知って習いに行ったと考えたいのですが、しかしそれもあり得ないことです。このようなとき、西田町史談会長の今泉さんから、小林剛三先生著、『郡山地方の奪衣婆及び閻魔像』という論文のコピーが送られてきたのです。 それによりますと、ウパシクマの案内板のある所の像には、文政十一年(1828)子十月吉日に建立された奪衣婆とありました。しかも郡山市内だけで26体もの奪衣婆があるのですが、ウパシクマの表示があるのはここだけなのです。では奪衣婆とは、何なのでしょうか。奪衣婆とは、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆で姥神(うばがみ)とも言われ、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆で獄卒の鬼よりも大きく、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏とされています。剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんいおう)という鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられ、その亡者の衣の重さによって生前の業(ごう)が現れ、死後の処遇を決めるとされています。 奪衣婆は、女性講中によるものですから、安産、子安祈願によるものであることが推測できます。しかし奪衣婆は、三途川で服を剥ぎ取るという立場にあるにも関わらず、安産・子育ての福をもたらす姥神と習合していったものと思われます。そして根木屋の縁起には、『優婆夷(うばい・うば様)』とあるのです。このような優婆夷の像は、当時の各村や集落に一体ずつあったのではないかと考えられ、それは郡山という比較的狭い地域にこれだけ多くの像が作られていたことで、証明できるのではないかと思われます。中田町高倉にある奪衣婆が、享和元年(1801)に建立されていますから、これが市内最古のものと思われるのですが、数が多い割にはほとんどの人に知られず、聞き取りも得られず、判断に苦しみます。 仏教において、出家をした男性信者を比丘と言い、女性信者を比丘尼と言うのですが、在家信者の場合、男性がウパーサカ、女性がウパーシカで、それぞれの漢語の音訳は、優婆塞(うばそく)と優婆夷(うばい)です。意訳は信士(しんじ)と信女(しんにょ)になりますが、これらの文字は、戒名に使われます。 ところで根木屋の案内板に出ていた優婆夷(ウパシクマ)は、サンスクリット語のウパーシカの音を写したものとされ、語音の似ているのが面白く感じられ、またウパシクマのウパは姥神に通ずるのではないか、と思えるのです。そこで立石の案内板を再読してみました。そこには、『アイヌ語の産婆(ウパシクマ)お産の神(ウワリカムイ)に当たる民間信仰』とありますから、ウパシクマが根木屋に来たと言ってはいない、と思いました。するとこれから考えられることは、ウパシクマはアイヌ語としてではなく、仏教によるものと考えた方がいいのかも知れません。この優婆夷が安置されている大きな岩は、地元の人たちの信仰の原風景であったのかも知れません。 この結果を持ち、再び今泉さんを訪れたときに、今までに感じてきた疑問を投げかけてみました。すると今泉さんは、「恐らくあの案内文は、誰かの思いつきで書かれたのでしょう。それで間違いはないと思います」と言われたのです。どうぞ皆さんも、考えてみて頂けませんか。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt="バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2019.06.16
閲覧総数 592
14

移 民 の 親 富造の生まれた幕末は、移民となって北海道や国外に出る世代の親たちが幼児期を過ごした時期である。ではこれらの親の次の世代が、何故、移民という手段をとるようになったのであろうか? 私は、社会的理由と環境的理由の二つがあったのではないかと思う。彼らの生活の地であった福島県域は東北地方の南端とはいえ、冷害、凶作が常習的に襲う寒冷山間地の多い土地柄であった。江戸期にも天明、天保の大凶作をはじめとして中小規模の風水害が毎年のように続き、寛延一揆や浅川騒動のような一揆も相次いでいた。 明治元年(1868)、福島県全域が戦場となった戊辰戦争が終った。しかし明治に入ってからも、凶作は明治二年(1869)、明治三十五年(1902)、明治三十八年(1905)と相次ぎ、餓死する者さえあった。特に明治三十八年と大正二年(1914)の凶作は被害が大きく、天保以来の大凶作に匹敵するものであったと伝えられる。 この自然条件に加えて、長子相続という制度があった。これは全財産がその家の長男に与えられるというもので、俗に「かまどの灰まで俺のもの」という言い方さえされていた。必然的に次・三男は兄を手伝うか、仕事を見つけて家を出るしか方法がなかった。それでもこれ以前の世代までは余力があったようで、次・三男にも田地を分け与えて分家という形をとっていた。しかしこの方法も長い世代間で続けられたため、明治期には各家とも分け与える田地もなくなってしまっていた。余談ではあるが、このことから、馬鹿なことをすることをタワケ(田分け)と言うようになったといわれている。 このために急がれたのは一般農民の北海道への入植であった。入植者には政府により、種々の奨励策が施された。農耕用の土地を優先的に与えられ、その保有権を保証されたから、本土で土地を持てなかった農民層には極めて魅力的で希望を与えるものではあったが、なにせ寒冷の地である。今までの農耕の技術では役に立たず、何を植えるかも試行錯誤の状態であった。当時を揶揄する言葉に『しっちょいからげてどこさ行(ゆ)く、行くとこ無いから北海道』というものがあったが、当時の世相を表していると言えよう。 注 しっちょい=着物の裾。 政府は他国へ移民させるよりも、北海道を実効支配し、日本の領土と確定する意味においても、ここへの植民を優先させていた。明治七年(1874)、政府は屯田兵の制度を実施した。この制度は若い入植者を北海道に送り込み、開拓にあたらせながら北海道防衛のためとの理由で兵士としたものである。しかし民間の自由意志に任せておいては定住が進まなかった上、寒冷地である北海道開拓の苦しさからそこの土地を捨てて流亡する者も多かった。その流亡しようとする先に、ハワイが見えていたのかも知れない。ハワイは北海道と違って常夏の国であり、しかもすでに、『元年者』と言われる日本人が移民していたことも知られていたからと思われる。それに何と言っても北海道入植の困難さを伝え聞いた人たちにとって、暖かな気候と、伝えられる高額な賃金が、誘い水になったのではあるまいか。 注 元年者=白人入植者の持ち込んだ病疫により、明治 期以前に、ハワイの人口が激減した。カメハメハ5 世は、日本人労働者の招致を徳川幕府と交渉するよ う、在日ハワイ領事のユージン ヴァン リードに指 示、300人の渡航許可を得た。しかし幕府が明治 政府と入れ替わったため、明治政府はこの交渉結果 を無効化した。明治元年、リードは、153名の日 本人労働者を、無許可でハワイに送り出した。その ためこの人たちは、『元年者』と言われるようにな った。なおホノルルのマキキ墓地の丘に、元年者の 記念碑が建立されている。 このような事情にあったから、移民となって日本を出たのは、農家の次・三男が多かった。しかも相続の情況は商家や職人の家でも同じであったから、彼らの子どもたちによる移民も、少なからずあったのである。ハワイへの移民となった商家や職人の子どもたちは、ソロバンを鎌に持ち替え、プランテーションで働くことになる。手につけた職に就くことは難しかった。いずれにせよここでの労働は、辛酸の連続となった。 注 プランテーション=近世植民制度から始まった前近 代的農業大企業およびその大農園。熱帯、亜熱帯の 植民地で、黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って 世界市場に向けた単一の特産的農産物を生産した栽 植企業。(デジタル大辞泉・小学館) 明治十八年(1885)一月、日布移民条約が締結され、第一回の移民九百四十六名が『東京市号』でハワイへ出航した。この条約は1894年に両国の合意の上で廃止されるのであるが、この間に二万九千人の日本人がハワイに渡っていた。これ以後は、日本国内の民間移民会社を通じた私的移民時代となる。 明治三十一年(1898)二月、キューバの暴動に備えて派遣されていたアメリカの戦艦メイン号が、ハバナ港で突然爆発炎上して沈没し、二百六十名もの水兵の犠牲者を出す事件が起こった。「リメンバー メイン」のスローガンの下、アメリカはスペインと戦うことになった。米西戦争である。 注 戦争に入る前のアメリカでは、何故か『リメンバー』 という言葉を使う。『リメンバー パールハーバー』も そうであった。 そして将にその年の五月、ハワイ共和国移民官となっていた勝沼富造が三春へ戻り、熊本移民会社の支店を福島市の稲荷神社の傍に開設して県内でのハワイ移民の募集をはじめた。これをはじめとして勝沼富造は、その後も何度かに分けて福島県から多くの移民を連れて行くことになる。しかし米西戦争は、ハワイから遠い大西洋での戦いであったにもかかわらず、当時、一般の人が持っていた稚拙な地理感覚では、それがよく分かっていなかった。移民希望者たちは、富造に世界情勢の説明を受けたが、それでもやはり、先行きは不安であった。そのハワイへ移民として出て行こうとする若者たちやその親たちにとっても、決断に至るには相当の葛藤があったに違いない。親たちとしても、度重なる不作や新政府による旧士族厚遇への不満があり、しかも日清・日露戦争へ子どもたちが徴兵されて戦死した者も多い上、またその戦争遂行のための重税にあえいでもいた。そしてさらには、特に福島県で巻き起こっていた自由民権運動とそれに対する弾圧などを目の当たりにし、せめて子どもたちにはよい社会生活をと思う気持ちが沸き上がってきたとしても不思議ではなかったと思われる。 このような状態の中で、親たちは不承不承ではあっても、子どもたちのハワイへの移民を承知せざるを得ない状況にあったのであろうと思われるし、親の苦労を見て育った子どもたちにしてみれば、不安があったしても自分の努力で何とか家運を盛り立てたいと考えたのも無理はないと思われる。それであるから、移民をしようとする多くの若者たちは、いずれカネを貯えて『故郷に錦』を飾る気概で家を出た。彼らには、ハワイに永住する積もりなどは、最初からなかったと思われる。親の元に帰り、家業を続けて資産を護り、それを次の世代に譲りながら家名を存続させるということは、当たり前のことであった。当時の倫理観は、このようなものであったのである。これから老いるにもかかわらず送り出す親の側も、それを期待していたのではあるまいか。それにしてもハワイ移民の募集者が同じ福島県出身の勝沼富造であったことが、移民することへの安心感を与えていたのかも知れない。移住をして行く子と残る親との間に、別離の寂しさはあったであろうが、親は子を心配して早く帰ることを望み、子もまた早くカネを稼いで親に楽をさせたいという、暗黙の了解があったのであろう。むしろ親子ともに責任と義務を負い、悲壮な覚悟で別離をして行ったのではないだろうか。移住をして行く若者たちは、身軽な単身者が大半であった。これら移民一世とその親との心情的関係については、すでに想像の域に入ってしまっている。移民となって行った人たちの親に、当時の心境を聞く術(すべ)は、ない。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2016.07.21
閲覧総数 283
15

3/12~3/20 福島民報より郡山関係の写真を転載。3/12 3/14 3/18 3/19 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.03.20
閲覧総数 210
16

蒙 古 の 碑 山川出版社の『宮城県の歴史散歩』を目にしたのはこの頃であった。その中で、仙台市の善応寺にある『蒙古の碑』が、写真入りで説明されていた。しかし私は、このような碑が仙台にあるのは不思議なことだと思った。仙台は戦国時代に伊達政宗が作った町である。それ以前の鎌倉時代、たしかに多賀城という中心地はあったが仙台という町はなかったはずである。それに蒙古は北九州を襲い、樺太や青森にも来襲したらしいが、太平洋側から攻めたという記録は残されていない。もし蒙古が仙台まで攻めたとしたら、仙台は多賀城の南であるから幕府は自己の領分と考えて捨てておけなかったはずである。だからもし仙台に攻めてきたのであれば、必ず日本の歴史に記述されていなければならないことになるが、それもない。私は仙台に行ってみる必要を感じた。行く準備としてそれを調べていて驚いたのは、『蒙古の碑』は一つだけではなかったということである。 1 善応寺(宮城野区燕沢二丁目3〜1)に一基。 これは『宮城県の歴史散歩』で紹介されていた碑であ る。この善応寺の碑は鎌倉時代の弘安五(1282) 年の建立と言われ、もと燕沢地内の塩釜街道(県道8号 線利府街道)沿いの廃寺・安養寺跡の門前に建立された ものであるが、半ば地面に埋まった状態のものが昭和 に入ってからこの地に移された。上部に大きく梵字が 刻まれ、その下に二十八字の本文が四行にわたって刻 まれているが、省書が多く文意不明である。 五行目の最後の行は、『弘安第五天(=1282)』と ありこれは2回目の元寇の翌年にあたる。その下に製 作者『清俊』の名が刻まれている。 この蒙古の碑は、弘安二(1279)年、北条時宗に よって招聘された南宋の帰化僧・無学祖元(鎌倉円覚 寺開山)が、弘安五(1282)年、弟子の清俊に命 じて戦没した元軍兵士を追善させた供養碑として伝え られている。 2 牧島観音堂(宮城野区燕沢東一丁目3)に一基。 これは『蒙古の碑』が、ここから善応寺へ移したこと の記念碑であるから、『蒙古の碑』そのものとは言え ない。 【蒙古之碑跡】 昭和十六年二月廿六日蒙古主席徳王仙台来訪親しく 蒙古之碑を訪ねた際善応寺に遷す 3 東北大学植物園(仙台市青葉区川内12〜2)に二基。 東北大学植物園のパンフレットでは、次ぎのように紹介 されている。 【蒙古の碑と正安の碑】 弘安十(1287)年と正安四(1302)年に建てら れた板碑(供養碑)で、『もくりこくりの碑』とも呼ばれ ています。またその碑の案内板には、次のようにありま した。 【蒙古の碑と青葉山の碑】 これらの板碑は鎌倉時代のもので、左は弘安十年 (1287)に陸奥守と号した人の供養のため、右は 正安四年(1302)に四十余人の講衆が、それぞれの 縁者の霊を弔うために建立したものである。これらが 建立された年代が元寇「文永十一年(1274)及び 弘安四年(1281)の蒙古襲来」にすぐ続いているの で「蒙古高句麗の碑」と呼ばれてきた。蒙古来襲は、 当時の日本では最も恐ろしい出来事で、恐ろしいことの 代名詞にされてきた。そうした事に因んでか、これらの 板碑は子供の百日咳を直す霊験があると言われ、永く信 仰されてきた。 4 来迎寺(青葉区八幡五丁目1〜8)に二基。 【モクリコクリの碑】 モクリコクリの碑と称されている板碑(供養碑)があり ました。弘安十年(1287)と延元二年(1337) のもので、現在は前者が所在不明になっています。もと もとこの付近にありましたが、道路拡幅工事で移動され、 現在は来迎寺境内に建っています。 モクリコクリとは蒙古・高麗のこととも言われ、市内に ある蒙古の碑と称されるものの一つです。弘安の板碑は 表面が風化し、またこの碑の粉が百日咳に効くという言 い伝えがあったことから、長年にわたって削られ、碑文 は不明瞭です。 『延元二年板碑』 モクリコクリの碑の一つ、碑文は次の通りである。 苦人求佛惠 右志者為過去悲母 通達菩提心 大歳 梵字(ア) 延元二年 八月二日 父母所生身 丁丑 速證大覚位 亡霊乃至法界平等利益 仙台市教育委員会 5 三宝荒神社(若林区南鍛冶町41)に一基。 蒙古の兵の弔いの石とされるものがある。ただし銘はな い。 6 仙台神宮(青葉区片平一丁目3〜6)。 ここには、蒙古の碑ではないと否定された経緯のある碑 が一基残されている。 ともかく、これらのすべてを見て回ったが、せいぜい案内板にある説明程度のことのみで蒙古との関係や詳細を知ることはできなかったが、『蒙古の碑』については次のように想像されている。 1 当時、北の守りとして陸奥国府の多賀城(多賀城市)が あり、仙台市内若林区に陸奥国分寺・国分尼寺があってこ の地がそれらの中間地点になること。 2 松島が霊場として発展していて、鎌倉とも交流があった。 3 蒙古軍の一員として戦に参加した南宋の兵士の慰霊の碑 であるが、社会情勢を考慮し、当時僻地とされていた陸奥 に、しかも省字(判読できない字)を彫ってカモフラージュ をした。 しかしこれ以外の寺の碑にも『蒙古』とか『モクリコクリ』と明示されていることは、やはり『蒙古』と関連づけるべきであるということになるのであろうか。帰りがけに、私は弘前出身で現在仙台に住んでおられる笹森伸児氏宅に寄ってみた。彼が何かの情報を持っているかも知れないと思ったからである。 彼は私の撮ってきた『蒙古の碑』の写真を見ながら「仙台に住んでいながら、これについてはまったく知らなかった」と驚いていた。次いで『マモー』に類する単語について、「弘前では聞いたことがなかった」と言って仙台出身の陽子夫人に聞いたところ、彼女もまた、「仙台では聞いたことがない」と言う。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.01.11
閲覧総数 1111
17

桜田門外の変 安政七年(1860)三月三日、幕府の大老 井伊直弼が、桜田門の近くで、水戸藩の脱藩者十七名と薩摩藩士一名による襲撃で殺害されました。いわゆる、桜田門外の変です。ところがこの事件に、三春藩の関係者が関わっていたのです。「なぜそれを知ったのか」と問われれば、大分以前のことだったので「ごめん。忘れた」としか答えられません。とにかくそれは、どのようなことであったのかを、改めて調べてみました。 堀を巡らせた江戸城は、多くの城門で固められていました。そのうちの外桜田門は、当初、小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていました。寛永十三年(16536)、それまでの柵戸仕立であった門を、現在のような桝形門に改築しました。通称 桜田門と呼ばれるようになったのはそれからで、名前の由来は、このあたりが『桜田郷』呼ばれていたことによるものだそうです。この外桜田門、馬場先御門、和田倉門、内桜田門に守られていた現在の皇居前広場には、会津藩など8藩の江戸上屋敷が立ち並んでいました。その南口にあたるのが外桜田門であり、北側、江戸城の入口になっていたのが内桜田門でした。この『桜田門外の変』の時の外桜田御門番がどこの藩であったかは、ついに見つけることができませんでした。三春歴史民俗資料館でも「たぶん、外様の小藩とは思いますが、ちょっとわかりません。詳しい小説などには、出てくると思いますが、どこまで信用できるかという問題もあります」と教えてくれました。 ではまず、三春藩の動きです。三春歴史民俗資料館によりますと、藩主の秋田肥季は、天保三年(1832)に家督を相続すると、大手組火消番を命じられ、天保十一年(1840)に、もう一度大手組火消番を勤めます。ところが幕末の動乱期に入り、三春藩は本来譜代の大大名が勤める大手三門を任されたのです。安政二年(1855)には西丸大手門、安政六年(1859)及び文久三年(1863)には内桜田門御門番を命じられています。秋田家は本来、外桜田御門番を勤める家でしたが、幕末の動乱で、譜代の大大名が京都の警備に駆り出され、江戸を守る人手がなくなったため、一時的に西丸大手の内桜田門という格上の門番を勤めたようです。なお、『桜田門外の変』があったこの日は、二度目の内桜田御門番の時でした。通称 桔梗門と呼ばれた内桜田門は、幕府の要職者が登下城する桔梗堀に設けられた大門六門の一つで、『桜田門外の変』の時この内桜田門の警固を担当していたのは、三春藩江戸家老小野寺市大夫公忠の嫡男で弓組の小野寺舎人(とねり)でした。秋田家文書には『桜田門勤務心得』や、元文四年(1739)六月の「桜田御番所御当番火事行列帳」、また寛保元年(1741)四月の『外桜田御門番所御出馬行列帳』などの文書があり、三春藩は、定期的に各種の業務を担当していたようです。 万延元年(1860)三月三日は上巳の節句(じょうしのせっく)つまり桃の節句で、在府大名は総登城するきまりでした。早朝、いまの港区愛宕一丁目の愛宕山に集合した水戸藩からの脱藩者十七名と薩摩藩士一名が降りしきる春の雪の中を江戸城の外桜田門、通称 桜田門に向かい、彦根藩の行列を襲撃、大老 井伊直弼を殺害しました。これが『桜田門外の変』です。この事件についてはあまりにも有名ですから省略しますが、このときこの浪士たちを指揮したのが、三春藩を脱藩した小野寺慵斎(ようさい)であると言われています。 水戸藩小普請の岡部三十郎が井伊直弼襲撃の見届け役となり、水戸浪士 黒澤忠三郎がピストルを駕籠めがけて発射し、これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始されました。 外桜田門から変事の知らせを受けた時、小野寺舎人は外桜田門が破られる危険を想定し、手元にいた部下を外桜田門の応援に回したようです。事件後、水戸浪士の森山繁之介 杉山弥一郎 大関和七郎 森五六郎の四名は、熊本藩の細川越中守邸へ趣意書を提出し自訴しました。森山は戦闘に参加しましたが無傷でした。森山は、一ノ関藩の田村家から足利藩の戸田家へ移されました。しかし、負傷した杉山は村松藩の堀家に預け替えされ、大関は富山藩の前田家へ、続いて豊岡藩の京極家へ預け替えられ、森は臼杵藩の稲葉家、さらに大和小泉藩の片桐家へ預け替えられましたが、文久元年(1861)七月二十六日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首されました。森が稲葉家家臣らへ語った記録は、『森五六郎物語』と呼ばれています。 襲撃者のうち戦闘には参加せず、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂へ向かったのですが、薩摩藩の挙兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還し、久慈郡袋田や水戸城下辺りへ潜伏しました。やがて追手を逃れ、再び江戸へ出たのですが、文久元年二月、江戸吉原で捕まり、自訴した人々や金子孫二郎とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首されました。ところが検視見届け役であった岡部三十郎が逃げ切り、再び袋田辺りへ潜伏したのです。 幕末には、藩に災いを及ぼさないためとして、脱藩して活動した者が多くいました。三春藩を脱藩した小野寺慵斎も、そのような一人であったと思われます。若くして秀才と謳われていた慵齋は、江戸や久留米、薩摩などに足を延ばして勉学に励み、水戸藩で、兵法・軍学の流派の一つの長沼流三師合伝を教え、水戸尊皇攘夷激派の陰の参謀と目されていたのです。ところが慵齋は、外桜田門襲撃に参加できませんでした。当日、熱病にかかり床に伏していたのです。このとき慵齋がもし参加していたら、計らずも三春藩の小野寺舎人と小野寺慵齋とが、外桜田門において対峙していたことになります。桜田門外の変は、三春藩出身で親戚であったかも知れない二人の小野寺が、敵味方として戦うことになったかも知れない事件でした。 彦根藩が井伊直弼の仇討ちのためとして出兵、水戸藩との内戦になるのを心配した幕府の説得により、どうやら騒ぎが鎮まりましたが、彦根藩では殿を守れなかったとして、警護していた人たちが責任を問われて斬殺されることになってしまいました。 桜田門外の変の翌年、慵齋は土浦藩に請われて、土浦藩校 郁文館で教鞭をとっていたのですがまもなく病に倒れ、土浦外西町にある藩邸で自刃を遂げました。慵齋の自刃は、多くの犠牲者を出した『桜田門外の変』へ参加できなかったことに後ろめたさがあったとも考えられ、水戸藩内の勤王と佐幕派の争いの犠牲になったともいわれています。また慵齋は、短慮偏屈の上に奇行を為すという性格もあったようで、他人から疎まれるという一面もあったようです。ところが、この自殺の状況が不思議なのです。以前から慵斎の様子を心配していた門弟たちが交互に宿直していたのですが、翌朝になって死んでいるところを発見されたというのです。隣室に見張りがいたにも関わらず、音も立てずに自殺ができるものでしょうか。慵斎の遺骸はそれを悲しんだ土浦藩主の土屋采女正寅直の特命により、土浦の神龍寺に手厚く葬られました。そしてその墓碑には『慵齋野處士之墓』と記され、その事績が深く刻み込まれました。神龍寺は、土浦藩 土屋家の歴代の菩提寺です。慵齋はそこへ葬られたのです。 ところで、2015年3月4日のNHKで、『歴史秘話ヒストリア 桜田門外の変〜発見、事件の凶器』を見ました。それは、慵齋が手配したらしい短筒を、黒澤忠三郎が外桜田門で合図に使っているのですが、それが土浦城の鎮守である八坂神社に保存されていたというのです。これを見ての私の想像です。 一、この短筒を、水戸藩主の徳川斉昭が、脱藩者たちに直接に与えたとは立場上からも考え難い。庸斎が見届け役の岡部三十郎に短筒を渡したのではなかろうか。岡部はこの短筒を黒澤忠三郎に使わせたが、黒澤はこれを岡部に返した。袋田に潜伏していた岡部は、それを参謀と言われた慵齋に、折を見て返したのではないか。 二、短筒を受け取った慵齋は、その短筒で自殺したが、見張りの門弟たちが責任を追及されるのを恐れ、翌朝になってから慵齋の死が分かったと虚偽の報告をしたのではないか。そして遺骸とともに短筒を預かった神龍寺が、その短筒を八坂神社に預けた、とも考えられます。 短筒を預けられた八坂神社は、茨城県土浦市真鍋にある神社で、古くから『天王さま』として住民に親しまれてきた神社です。元禄十三年(1700)、土屋政直により現在の本殿が造営され、土浦城の鎮守とされてきました。拝殿の屋根にある『三つ石』の家紋は土屋氏のものです。神龍寺としては、短筒を土浦城の鎮守である八坂神社に預けるのが適当と考えたのだろか。しかし本当の理由は、分かりません。 この事件で、小野寺庸斎が陰に隠れていたことも、歴史です。もし、慵斎がこの事件に参加していたら、水戸浪士十七名と薩摩藩の一名、そして三春藩の一名という形で歴史に記されたかも知れません。それがよかったかどうか。『歴史にもし』はありませんね。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.10.15
閲覧総数 554
18

水戸天狗党と三春藩の日光警備 『水戸天狗党の乱』について、福島県では余り知られることはないと思われるが、どうだろう。それは、アメリカ イギリス フランス ロシアなどに開国を迫られていた幕末の日本に発生した、大きな騒動であった。しかし全ての大事件がそうであったように、この事件もはじめは小さな火種に過ぎなかった。ただ問題は、時の将軍 徳川慶喜の父が水戸九代藩主 徳川斉昭(なりあき)の次男であり、水戸十代藩主 徳川慶篤(よしあつ)の兄であったことが、天狗党の乱が大事件となる下地となったのかも知れない。 安政五年(1858)六月十九日、反対する時の孝明天皇の勅許を得ず、幕府は日米修好通商条約に調印した。そのため国内では、鎖国継続か開国かで、大きく揺れ動くことになる。そのような中で、天狗党の乱が大きくなったのには、非常に複雑な事情があった。この事情を説明しようとすれば、このブログでは文字不足である。冒険ではあるが、あえて単純化してみようと思う。なお天狗党の名は、下級武士が大きな顔をしているとして、上級武士らに付けられた名だと言われている。 水戸藩では、天保年間(1830~1844)から、次の藩主をだれにするかを巡って、保守的な上級武士層と、改革的な下級武士層とが争っていた。しかし改革派が勝って、徳川斉昭(なりあき)を藩主に迎えた後も、両勢力は鋭く対立するようになった。なかでも、幕府が勅許を得ずに日米通商条約に無断で調印したことがこじれて安政の大獄となり、一挙に幕府の権威を失墜することになった。しかし『桜田門外の変』を起こした水戸浪士たちは幕府の改造を願ったのであって、決して倒幕のことは考えていなかったと言われる。 これはもともと、水戸藩内の尊王攘夷派の天狗党と反天狗党との争いであったが、これが藩内にとどまらず、その被害が市井に及ぶにつれ、幕府の干渉を受けることとなっていった。この『天狗党の乱』は、安政七年(1860)三月三日の桜田門外の変や文久二年(1862)一月十五日に起きた坂下門外の変など、国を震撼させる大事件と重なって起こった事件であった。 そもそも改革派の天狗党が、実行しようとした尊王攘夷の思想は、南北朝時代の公卿の北畠親房によって編まれた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の流れをくんだもので、反幕的な要素を持たず、むしろ幕府の体制を擁護する立場をとっていた。そのため、『筑波山に義旗が翻(ひるがえ)る』と報ぜられると、全国より集る志士たちも多く、このまま放置するとどんな暴動になるかわからない状態になっていた。そこで幕府は、水戸藩にこれを鎮定するよう命じたが、藩内は甲論乙駁(こうろんおつばく)相争うばかりで少しも埒が明かなかった。 天狗党の壊滅を図った幕府は、関東全藩で常野追討軍を編成し、これに域外とも思える福島・二本松・守山・棚倉・平、そして越後の新発田藩にも出兵を命じた。このような中で、天狗党は禁裏御守衛総督であった一橋慶喜、後の将軍徳川慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることにし、京都へ行くことにした。 天狗党は京都へ出発する前に、日光にある徳川家康の廟の参拝を願ったが、日光奉行と宇都宮藩は幕府の意を汲み、天狗党の参拝を拒否した。そのため幕府としては、日光の防衛体制を整えることが必要となった。このため、『上州 野州辺不穏に付』として、三春藩は館林藩とともに日光警備を命じられた。そこで三春藩は、日光派兵のため、300人の兵の準備に入った。 日光に入れぬまま筑波山に篭った天狗党の多くは、逆に水戸攻めを計ったが失敗して霞ヶ浦に退いた。そこで幕府は、水戸藩に天狗党の解散を命じさせたが、逆に天狗党は筑波山に集結した。水戸藩は守山藩に、家老と若干の藩士の上洛を要請、それを受けて松川陣屋へ赴く途中、天狗党に加わり、水戸城内へ向け発砲に及んだ。守山藩は水戸藩の支藩であることから御連枝と呼ばれ、参勤交代はなく、陣屋は松川と守山に置かれていた。ところがその間にも、天狗党は各地に出没して陣屋を襲い、火を市街に放ち、カネを奪って勢力の拡大を図り、常野追討軍と対峙していた。そのため幕府は、遠い盛岡や秋田藩にまで出兵令を発令したのである。 七月十九日、天狗党の決起に意を強くした長州藩の尊攘派が武装上洛し、警備にあたっていた会津藩 薩摩藩の兵らと京都市中で戦いとなった。しかし長州藩尊攘派が孝明天皇の御所に向けて発砲したことから問題が大きくなった。蛤御門の変である。しかもその月の八月五日、英米仏蘭四国連合艦隊は、下関海峡で萩藩と戦端を開いている。同じ日、白河藩は領内の白坂において、天狗党を一人捕らえている。 八月九日、常野追討軍と福島、二本松などの諸藩に、筑波山への進撃が命じられ、守山藩にも出兵令が下った。二本松藩では、藩士以外にも安積郡成田村の猟師・権内と六兵衛の派遣を決定、八月六日、二本松に出発し、九日には、獣医の嘉門が派遣された。八月七日、二本松藩は、家老・日野源太左衛門の指揮で、1100名が出立した。兵力を増強した常野追討軍は那珂湊を包囲し、海からも幕府海軍の黒龍丸が展開して艦砲射撃を行った。その結果、那珂川以南は常野追討軍の手に帰した。二本松藩は、数名の戦死者を出している。 そこで本拠の筑波山を脱出した天狗党の首領田中愿蔵は、三百数十名の将士とともに今の茨城、栃木、福島の三県境にまたがる八溝山を次の本拠地と定めた。八溝嶺神社の宮司に書を送り、食糧の準備を頼んだが、天狗党討伐の厳しさを考え、後難をおそれた宮司一家はいち早く逃亡していた。それとは知らず田中隊が八溝山に入ってみると、山頂の社殿にわずか籾三俵があっただけであった。止むを得ず田中愿蔵は全員を社前に集め、一旦隊を解散して後日再挙を計ることを約束したので、各自は自由行動をとってそれぞれに下山していった。 九月七日、幕府は幕領の塙代官に天狗党の取り締りを厳達、さらに八溝山を取り囲む各藩や代官所にも手配して関門や見張所を設けて検問させ、所によっては農民などの竹槍隊の自警団も作らせた。塙では塙表警衛場が設けられ、近くの棚倉藩はもちろん、白河、三春、二本松藩に猟師などを連れて応援に来るよう依頼している。この時、捕らわれた天狗党は二十四名であった。十月三日、段河内(だんごうち)地内に引き出され、桜の木に捕縄(ほじょう)のまま引っ掛けられ、吊るし切りにされた。田中愿蔵は真名畑村に逃れたが、すぐに捕らわれて塙代官所に送られ、久慈川の河原で斬首された。現在、塙町の「道の駅はなわ」の敷地内には『田中愿蔵刑場跡』の碑があり、安楽寺には、彼の墓がある。 十月五日、那珂湊が常野追討軍により陥落した。この戦いで、せっかく水戸藩の藤田東湖や三春藩の熊田嘉膳らが心血を注いで造った近代的な反射炉が、完全に破壊されてしまった。敗れた天狗党は、京都の一橋慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷の意思を訴えることを決め、直ちに大子(茨城県大子町)に入った。大子は水戸徳川氏歴代の墓所の地である。このこともあって、敗れた天狗党逃走の噂があり、幕府は中山道の諸藩に討伐を命じた。十月十八日になると、相馬中村藩が、『那珂湊脱走の浪士らが奥州に来襲する』との情報を幕府に知らせた。このため白河、棚倉、三春、会津藩ともに天狗党の侵入を恐れ、国境の警備を厳重にした。この日、白河藩は白坂宿で天狗党員を捕らえ、斬首の刑に処している。この地は今は、天狗平と呼ばれている。 十一月一日、天狗党は大子で水戸徳川氏歴代の墓所の参拝を済ませると、黒羽へ向かった。しかし、その手前の明神峠で黒羽藩兵の抵抗を受けた天狗党は北に折れ、福島県に近い、今の大田原市にあった川上村に一泊した。 十一月二日、川上村を出た天狗党は、山を越えて寺泊に入った。ここで待ち伏せしていた黒羽藩兵は、逆に戦死者二名と多くの負傷者を出して敗退した。天狗党は、河原村から両郷村にかけて分宿した。その河原村から黒羽藩の役人の下に、天狗党から黒羽藩内の通行許可の要請書が届けられた。それに対し黒羽藩は、「城下に入らない限り通行を妨害しない」、と口頭で返事をした。一応、戦った実績があり、これ以上の犠牲を出すことを恐れた黒羽藩は、幕府への言い訳も立つと考えて実損を増やさぬようにしたのである。 十一月三日、黒羽藩の意向を受けた天狗党は、両郷村を出発すると、伊王野より芦野 越堀を通って鍋掛で宿営した。この行程は、黒羽藩の外周部を迂回した遠回りの道であったが、戦いを避けたい天狗党は、あえてこの道を選んだのである。黒羽藩は日光奉行に対し、『天狗党はわが藩との交戦で大きな被害を受け、北方へ逃げた』との虚偽の報告をした。この知らせは、今の福島県南部の各藩に、大きな衝撃を与えることとなった。 十一月四日、大田原藩には、前日、天狗党より、『わき道を通り、貴藩に迷惑をかけない』という主旨の書状が届いていた。大田原藩は、一万一千石の小藩であった。堂々と城下を通られては面目が立たず、さりとて戦う能力もなかった。そこで大田原藩は軍資金を提供し、道案内をすることで、鍋掛より更に北の高久本郷に宿泊させた。どこへ行くのか? すぐ北に当たる白河 棚倉 そして三春藩にも、緊張が走っていた。三春藩を脱藩していた久貝波門が天狗党に加わり、本隊の使番五名中の一人となっていたのを知っていたこともあり、その久貝がこの日、下総国の岩井村(いまの茨城県岩井市)で自刃したのである。詳細は不明であるが、隣の守山藩には、少数の天狗党がいたのです。 十一月五日、大田原藩は、『天狗党は間道を通り、下石上より山田方面に向かった』と日光奉行へ報告した。大田原藩は被害が出ないうちに、ソ〜っと道程にある隣の旗本領につないでしまったことになる。山田に隣接する旗本の大友氏や堀田氏の代官たちには戦う兵力もなく、何事もなく通過するようにと軍資金を提供し、間道を教えた。 十一月七日、宇都宮藩より日光奉行へ報告が届いた。『六日、天狗党は小林に宿営したが、本日は徳次郎、大谷を経て鹿沼に向かっている』というものであった。しかし実際は、天狗党との衝突を避けたいと思っていた宇都宮藩が天狗党に、『水戸を出た常野追討軍が笠間に到着し、宇都宮に向かっている』という状況を教え、間道へ逃がしたのである。 十一月八日、日光奉行は、手元に来る報告が一日遅れではあったが、天狗党が小林よりさらに南下したのを知った。小林から日光へは五里ほどの道のりであったから、京都への道を急いでいる天狗党が、そこから日光へ戻ってくるとは思えなかった。この日、館林藩の藩士が日光に入った。しかし三春藩には、『日光表穏に付』として待機命令が出されていた。このことについて、三春町史その他にも詳細な記載がない。しかしこの日、藩主 秋田肥季の指揮のもと、三春藩兵が日光へ向け出発している。当夜は、三春領の赤沼に泊まった。 十一月十一日、三春藩は矢吹に、翌日は白坂に宿泊した。白坂は、つい最近、白河藩が天狗党を捕らえた所である。十一月十三日、三春藩は今の那須塩原市にある鍋掛に宿泊したが、天狗党の本隊は群馬県の太田を通り、本庄に至っている。そして十一月十四日、三春藩は日光市にある大沢に、天狗党は本庄、藤岡を経て、今の高崎市の吉井にて宿泊している。十一月十五日、天狗党は富岡を経て下仁田にて宿泊した。天狗党がこのような動きをしていた十一月十六日、三春藩は日光に到着、館林藩とともに守備についた。そしてこの日、天狗党は下仁田において、追撃して来た高崎藩兵二百人と交戦し、激戦の末、天狗党は死者4人を出した。しかし高崎藩兵は死者36人を出して敗走してしまった。下仁田戦争と言われる。 十一月十八日、二本松藩は兵を撤収した。この日、松川陣屋にいた10名の藩士が捕縛され、身柄を水戸に移され後江戸町奉行所に送られ、伝馬町で処刑された。同様に松川陣屋から水戸に召喚された藩重臣の三浦平八郎は、守山藩激派の頭目として、江戸へ送致された後、水戸藩の江戸屋敷で牢入りを申し渡された。 十一月二十日、信州諏訪湖近くの和田峠において、天狗党は高島藩や松本藩兵と交戦し、双方とも十人前後の死者を出したが天狗党が勝利した。和田峠の戦いと言われる。その後天狗党は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み、岐阜県各務原市にある鵜沼宿付近まで到達したが、彦根、大垣、桑名、尾張、犬山藩などの兵が街道の封鎖をしていたため、中山道を外れ北方に迂回して京都へ向った。ところが、天狗党が福井県敦賀市にある新保に至ったとき、一橋慶喜の率いる幕府軍による総攻撃のあることを知らされた。頼りにしていた一橋慶喜という後ろ楯を失った天狗党は、止むを得ず加賀藩に投降した。そして翌年二月、天狗党の823人が斬罪、遠島、追放などの刑に処せられ、天狗党は壊滅した。結果として頼って行った筈の慶喜に滅ぼされるという、彼らとしては予想外の悲劇に終わったことになる。慶応元年(1865)一月、天狗党は敦賀の鰊(にしん)倉に監禁され、二月に352人が斬罪され、他は遠島や追放の刑に処せられた。さらに彼らの降伏が水戸に知れたことにより、水戸藩内の天狗党の家族も、次々と処刑された。 日光に派遣されていた三春藩兵も、ようやく撤収した。しかし周囲の者は気づかなかったが、藩主の秋田肥季はこの派兵への随行で疲れ果てていた。そしてこのこともあってか、慶応元年(1865)に急に病死してしまったのである。この葬送と七歳であった秋田映季の相続はさらなる出費を強い、どうにもこうにもやりくりのつかない財政状況となっていた。そして間もなく、戊辰戦争が勃発するのである。 水戸学の発展で多くの学者を輩出し、尊王攘夷運動の中心であった水戸藩ではあったが、この激しい騒乱によって多くの有能な人材が失われたのは、大変残念なことであった。明治政府の要職の地位についた人物に、水戸藩出身者は一人もいなかったのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.11.15
閲覧総数 818
19

郡上藩 凌霜隊(岐阜県郡上市) 会津若松市の飯盛山に、白虎隊でもなければ会津藩士のものでもない、「郡上藩凌霜隊之碑」があります。これは岐阜県知事 上松陽助氏の揮毫によるものですが、この他にも、昭和五十九年(1984年)九月、『郡上藩凌霜隊碑を建てる会』の建立による『道ハ一筋ナリ』の碑があります。郡上藩は、江戸時代に美濃国、現在の岐阜県郡上市八幡町に所在し、郡上郡の大半と越前国の一部を統治していた四万八千石の藩で、藩庁が八幡城にあったことから、八幡藩とも呼ばれていました。 幕末の日本は、勤皇か佐幕かで混乱の中にありました。その結果として、265年という長い期間、実権を握っていた徳川幕府の第15代将軍 徳川慶喜 が、慶応三年(1867)十月十四日、その実権を天皇に返上する旨を上奏しました。翌十五日にこの上奏が認められ、長きにわたって続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになったのです。この一連の出来事が、『大政奉還』であり『王政復古の大号令』でした。これは、もともと土佐藩を中心とする勢力が建白したものを慶喜が取り上げて、朝廷に上奏したものでした。なお勤皇とは、天皇のために力を尽くし、忠節に励むことを表し、佐幕とは動乱の幕末期によく使われた言葉で、『幕府を補佐する』との意味がありました。 慶応四年一月三日から六日にかけ、『鳥羽伏見の戦い』が勃発しました。そして八日、新政府は、『鳥羽伏見の戦い』において伏見戦争で疑惑のあった伊予松山・高松・小浜・大垣・官津・延岡・鳥羽ら七藩に対して御所への出入りを禁止する処置を下し、十日には、この戦いで主導的立場であったとされる会津藩 桑名藩 高松藩 伊予松山藩 備中松山藩 大多喜藩の六藩に対し官位を剥奪した上で、藩邸の没収と京都追放が追加されたのです。これらの官位を剥奪された藩は、原則として街道の通行も禁止されたのです。 この時期の郡上藩の藩主は、譜代大名の青山幸宜(ゆきよし)でしたが、まだ14歳の少年でした。このような事態にどう対処すべきか、判断ができる年齢ではありません。藩の行動は、家老たちの意見に頼らざるを得ませんでした。しかし家老たちも、『鳥羽伏見の戦い』の戦後処置においての新政府の強気な姿勢を見ながら恐れを感じ、藩としての一本化した政策決定には至りませんでした。郡上藩のような小さな藩は、勤皇派なのか佐幕派なのか、新政府と幕府のどちらを支持するのか、ハッキリとは判断しにくい状況だったのです。数万石程度の藩は、周囲に流されて戦うことになることもあったのです。しかし鳥羽伏見の戦いが終わり、幕府は追い詰められている状況にあるとは読めましたが、途中で逆転するかも知れないし、最終的にどちらが勝利を収めるか、極めて分かりにくい状況でした。 郡上藩も、勤皇派と佐幕派とが対立しました。藩主の幸宜も、消極的ながら佐幕派として行動していましたが、戦争が拡大した二月には、新政府に恭順を尽くすという誓書を出しています。そんな中、藩主の幸宜の帰国を待ち、国家老の鈴木兵左衛門は生き残りの策を進言しました。それは、「新政府軍に恭順すると見せかけ、幕府を支援する部隊を組織して転戦させましょう」というものでした。これならば、どちらが政権を取っても、言い訳が出来るという二股をかけた政策でした。藩主の幸宜は当時僅か14歳でしたから、うなずく他はなかったのではないでしょうか。国家老の鈴木兵左衛門としては、藩存続のための、精一杯の妥協策であったと考えられます。 郡上藩では、選りすぐりの精兵を密かに選抜することになりました。密命は、江戸の郡上藩屋敷に送られました。江戸の郡上藩士は、意気軒昂でした。譜代大名の武士として、幕府のために戦ってこそ武士の忠義だと、彼らは信じていたのです。江戸家老の朝比奈藤兵衛も、幕府軍が勝利した時のことを考えて、十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士39名をひそかに脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させたのです。確かに二股の策ではありましたが、秘密とは言え、藩公認の下での結成であったのです。 彼ら39名は、『霜を凌ぐ』という、痛烈な覚悟の名前でもって組織され、戦地へ赴いたのです。なお『凌ぐ』には、困難をはねのける、また堪え忍ぶという意味があります。そして『凌霜』とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来したものです。藩からもスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲、ツルハシ、鍬、シャベルといった物資が届きました。砲術指南や軍医も従軍し、小規模とはいえ装備の充実した部隊でしたから、隊員は藩のお墨付きを頂いた脱藩者という感覚であったと思われます。郡上藩は、名目上脱藩者の集団として藩から切り離し、彼らを会津戦線に送り出したのです。 四月十日、凌霜隊の隊士たちは、江戸の本所にある橋菊屋に集合して江戸湾を船で出発、四月十二日に、今の千葉県の行徳に一度上陸、再び船で利根川を溯って前橋に上陸、会津に向かったのです。幕府側の人々が集まる目的地が、会津だったのです。 当時の関東地方は、旧幕府軍と、それを追撃する新政府軍が戦闘しながら、進撃してゆく大変な状況に陥っていました。会津へと向かう途中の凌霜隊は、四月十六日、大鳥圭介らが指揮する幕府の精鋭部隊である伝習隊の一部として統合され、境宿で戦闘に陥りましが、新型銃のお陰もあってか、ここで彼らは見事に勝利しました。しかし同時に、死傷者二名、行方不明者二名、逃亡者二名を出してしまったのです。五月十九日より二十二日まで『宇都宮城の戦い』がありましたが、ここで凌霜隊は、秋月登之助、土方歳三らが率いる別働隊約千名とともに戦っています。 凌霜隊は、会津藩士・小山田伝四郎のもと、塩原温泉郷での防衛任務に就き、五月十一日から三ヶ月ほど、塩原の妙雲寺に滞在しました。しかし戦局が悪化する八月二十一日、凌霜隊は町を焼き払っての、全軍会津への退却を命じられました。そこで凌霜隊隊長の朝比奈茂吉は、三ヶ月も世話になった寺を焼き払うことに苦悩しています。茂吉は守備隊長に抗議しますが、小山田は聞き入れません。茂吉に出来たことは、名主に焼き払うことを伝え、家財道具を運び出すよう言い渡すことだけでした。塩原温泉郷は、猛火に包まれてゆきました。妙雲寺に火をかけようとしたところ、隊士が寺には見事な菊の紋章が描かれていると茂吉に伝えてきました。菊を焼けば、天皇を擁した新政府軍に責められるのではないかと懸念したのです。そこで茂吉は、寺の横に畳や薪を積み上げて火を放ち、火を放ったふりをして、寺を救ったのです。 ここから先は、撤退戦の始まりです。今の日光市の横川に戦い、会津田島に至り、大内宿近くの大内峠の激戦では二名の戦死者を出しました。九月三日、今の会津美里町関山の戦いでは、会津藩の青龍足軽二番隊とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死、この日は会津高田まで進んで宿泊、九月四日には大川を渡河して、若松城下に辿り着いたものの、若松の城下には既に八月二十三日に政府軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていました。凌霜隊の副隊長の速水小三郎は「敵の脇の下をくぐり股をくぐってでも城下に入れ。殺されたら魂となってでも行け。びくびくするな。平気な面をしておれば誰でも味方だと思うだろう」と叱咤しながら、城へ決死の進撃をしたのです。「グズグズしてはおられない」と疲れた身体に鞭打って進んだと言われます。そしてその日の夕方になって凌霜隊は、若松城の西口、河原町口郭門にたどりついたのです。 河原町口の郭門にたどりついたのはよかったのですが、郭内は二十三日の新政府軍の侵攻の際焼き打ちに会い、屋敷は殆ど焼け落ちていました。それでも郭門を入った北側に辛うじて焼け残った屋敷が一軒だけあり、会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の指図によってここに宿泊し、九月六日になって、ようやく若松城に入ることができたのです。 籠城戦に入ったのちの八月二十七日頃、白虎士中一番隊・二番隊の生存者を中核とした再編白虎隊が編成されていました。凌霜隊はただちに白虎隊士中二番隊隊長日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らとともに開城の日まで西出丸の防衛にあたっています。しかし激しい籠城戦で、一人、また一人と、凌霜隊の隊員たちも斃れてゆきました。凌霜隊は白虎隊の生存者とともに、開城の日まで西出丸の防衛に当たりましたが、同盟諸藩の降伏が相次ぐなかで孤立した会津藩は、一ヶ月の激しい籠城戦の果てに、九月二十二日、新政府軍に降伏し開城したのです。 会津藩の降伏後、凌霜隊は猪苗代での謹慎を命じられました。雪が舞う寒い会津で、彼らは耐え忍びました。十月十一日、日向内記から東京へ移送されると凌霜隊に伝えられました。郡上藩預かりの処分となったのです。これで戦いから離れ、晴れて故郷へ帰れると、恐らく全隊員が思ったと思われます。むしろ彼らは、藩から依頼された脱藩者であり、武器など、それなりの援助を受けていたからです。ところが二十四日、郡上藩士の出迎えを受けた凌霜隊士たちは、失望したのです。同じ部上藩士でありながらよそよそしく、冷たいのです。要は、厄介者扱いでした。十一月十五日、大垣まで到着した凌霜隊は、囚人駕籠に乗せられ、荒縄でくくられました。もはや彼らは罪人扱いです。しかも郡上八幡に戻れば、牢屋に入れられるというのです。故郷で牢屋に入れられた凌霜隊の隊士たちは、帰りを待っていた家族と再会することもできません。牢屋は粗悪な環境で、病に倒れる隊士も出たほどでした。そしてその牢獄に、半年間幽閉されたのです。 何よりも凌霜隊士は、賊として捕らわれたことで周囲の目も冷たく、郡上藩としても、『新政府に恭順』という方針で戊辰戦争に関わっていくための方便でしたから、藩にとって凌霜隊はお荷物となってしまったのです。できれば藩としては、自害して欲しい人たちであり、何なら彼らを暗殺したいほど邪魔だったのです。しかし手を下すには生存者が多すぎました。そこで彼らは、禁固の処罰を受けて入牢、死罪を言い渡されたのです。何と理不尽なことか? 「これでは凌霜隊があまりに不憫ではないか」町からはそんな声が起こりました。明治二年の五月十一日、牢屋に近い慈恩寺に領内の僧侶が集まり、凌霜隊士解き放ちの嘆願を藩庁に直訴したことから、凌霜隊の身柄は長教寺に移されました。そして会津落城から一年目の日の九月二十三日、凌霜隊は長教寺の本堂で、藩の使者から「各自、自宅謹慎とする」と伝えられたのです。苦難の日々を乗り越え、やっと家に戻れることになりました。そして明治三年(1870)二月十九日、新政府から、ようやく正式な赦免が届きました。凌霜隊は、解散に至ったのです。しかし自由の身になったとは言え、藩が彼らに援助の手を差し伸べることはありませんでした。それもあって、郡上八幡に留まる元隊士は少なかっといわれます。山あいの小さな藩が激動の時代を乗り切るべく取った日和見主義が生んだ悲劇でした。 藩を救うために行動し、仲間は命を落としたというのに、罪人扱いされた彼らは、そんな苦い思いを抱えた故郷に、留まりたくはなかったのかも知れません。郡上八幡は、清流の流れが美しい町です。しかしこの風光明媚な故郷も、凌霜隊にとってはあまりにつらい場所となってしまったのかも知れません。白虎隊とともに戦い、故郷から見捨てられた凌霜隊の人々。彼らの姿に思いを馳せると、戊辰戦争という内戦の悲劇が心の奥底に突き刺さります。地元では秘史としてしか語られてこなかった凌霜隊が、今は郡上の誇りとなり、郡上八幡城脇に顕彰碑が建てられています。戊辰戦争から150年、彼らの出身地である郡上八幡では、凌霜隊について見直し、顕彰する動きが高まっています。 冒頭に紹介した飯盛山にある彼らの慰霊碑は、昭和五十九年(1984)、郡上八幡市と会津若松市の有志が協力して、建立に漕ぎつけたものです。飯盛山を訪れる機会のある方は、この慰霊碑にも目を留めていただければと思います。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2019.01.01
閲覧総数 1882
20

逢瀬川の戦い 去る日、私は郡山地方史研究会による、伊達郡国見町へのバス旅行に参加しました。実はその行程の中に、『安積屋敷』の見学があったからであり、なぜ国見町に安積屋敷があるのかと疑問に思ったからです。そのとき、国見町の歴史家である菊池利雄さんが、案内と説明に立ってくれました。そして頂いた昭和六十三年十月十五日付の『広報くにみ(No184)』に掲載されていた、『ふるさとの文化財35 安積屋敷跡(前田舘)菊池利雄』というパンフレットに、次のように記されていたのです。この文章を要約してみます。 『安積氏は伊東あるいは工藤とも称し、工藤左衛門尉祐経の次男伊東祐長を祖とし、承久の乱の戦功として鎌倉将軍藤原頼経(よりつね)より、奥州の安積郡に四十五邑を賜って来住し、姓を安積氏と改めた。室町時代のはじめ頃、伊東祐長九世の後裔の祐時は、伊達氏十一代の伊達持宗に仕えてその麾下に属した。天文二十二年(1553年)、伊達氏十五代の伊達晴宗は本拠地を西山城、いまの桑折町から米沢に城を移し、南奥羽の中心的存在になった。一方、祐長十四代の伊東肥前重信は、若年にして父に死別したが伊達晴宗によって所領が安堵された。次いで伊東肥前重信は、伊達晴宗・政宗の父子に仕えたが、天正十三年(1585年)十月、政宗が佐竹・蘆名氏などの連合軍と戦った際に人取橋の戦いに戦功をあげ、天正十六年、郡山の夜討川の戦いにおいて戦死した。この戦いに伊東肥前重信が出陣して行ったのは、この舘からであろう。天文二十二年(1553)正月、伊達晴宗が重信に与えた『所領安堵状』の中に、『伊達郡前田(現国見町小坂)ノ内、屋敷手作・・・がある。(中略)これらのことから肥前が本拠としたのは、この前田舘とみてまず間違いがなかろう。この肥前は、祐長から数えて14代目とされている』とありました。 ところで天正十三年(1585年)、伊達政宗は、安達の針道にある大内定綱の小手森(おてのもり)城を攻めました。定綱は政宗に味方すると言いながら裏切ったのです、しかし伊達勢が迫る中、定綱は後の守りを側近たちに任せて、本城である二本松城に逃げ出したのです。怒った政宗は、陥落させた小手森城で、『撫で斬り』と言われる大虐殺を行ないました。その内容は、政宗の叔父である最上義光に宛てた書状に告白されています。『大内定綱に直属する者を500人以上討ち捕りました。そのほか女子供だけでなく犬までも撫で斬りにしました。合計1000人以上を切らせました』つまり城内にいた大内家の家臣と奉公人のほか、動物まで殺したというのです。なおこの様子は、昭和六十二年に放映されたNHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』の『八百人斬り』に描かれています。 その三年後、佐竹、相馬、蘆名の連合軍が、二本松救援を名目にして、郡山方面に向かって兵を進めてきました。それを迎え撃った伊達と田村の連軍は、逢瀬川周辺で激突したのです。しかし政宗は、北の大崎氏との抗争が継続していたため兵力の集中できず、軍勢の数では蘆名、佐竹、相馬方と比べて非常に劣っていたのです。政宗記によれば連合軍は約八千騎、伊達、田村勢は約六百騎と記録されています。政宗はその本陣を、いまの富久山町福原字陣場の小十郎坦に置き、先鋒を久保田の山王館、いまの日吉神社に置きました。 七月、久保田を守っていた伊達勢の前方を蘆名方の部隊が通過しました。それを伊達勢が深追いをし過ぎて、蘆名勢に囲まれてしまったのです。伊東肥前が30騎余でこれの救援に向かったのですが、ここで政宗を助けるための身代わりとなって戦死をしたのです。ここでの戦いが、いわゆる『久保田合戦』、ですが、通称は郡山合戦です。しかし古くは、『夜討川の戦い』と言われていました。この『夜討川の戦い』と言われたということは、夜討川の周辺の戦いであったことを示唆していると思われます。いずれこの戦いは郡山が主戦場になっていますから、私は、伊東肥前は伊東祐長の末裔ですから安積郡に住んでいたとばかり思っていたのです。そのことがあって、国見町への旅行に参加したのです。 私は、吾妻鏡を調べてみました。すると、宝治元年(1247年)五月十四日の項に、『御台所左々目谷の故武州禅室経時(つねとき)の墳墓の傍らに送り奉るなり。人々素服を着け供養す』とあり、その中に、『駿河の九郎・千葉の八郎・安積新左衛門』の名があったのです。ところが『広報くにみ』では、安積金四郎、または新左衛門、さらには伊東肥前が同一人としているのですが、吾妻鏡にある安積新左衛門は1247年の人であり、『広報くにみ』では1553年に伊達晴宗が伊東肥前に屋敷を与えたとあるのです。どうも年代が合いません。しかし歴史上、天正十六年の、『夜討川の戦い』で戦死したという部分は、『広報くにみ』と合致しています。ともあれ、菊池利雄さんの論文によると、『重信が出陣して行ったのは、この舘、つまり今の国見町からであろう』としているのですが、私には、どうも国見から郡山の戦場までの距離が遠過ぎるように思われたのです。しかし伊達晴宗が肥前に与えた『所領安堵状』から類推すると、肥前は国見から出陣したと説が正しいと思われます。 さて肥前の戦死後のことになりますが、仙台藩第4代の藩主伊達綱村によって、肥前を称える碑が建てられました。この碑は、陣所が置かれた日吉神社に『伊東肥前の碑』として現在も残り、郡山市指定文化財に指定されています。この碑の前に立つ案内板を、紹介します。 『伊東肥前は、手兵30余騎と共に伊達政宗を救い戦死したので、伊達家ではその後、参勤交代の途上;必ずここに駕をとめ香華を手向けたと言われる。尚この碑は逢瀬川の北にあったが水害で崩壊したので天文五年(1740年)に現在の郡山機関区付近に移されていたが、昭和15年10月に改修、同32年1月に機関区構内に移されていたが、同45年10月県道拡張に伴い、伊達家本陣と言われるこの地に移された』(郡山市観光協会) そして万延元年(1791年)に亡くなった郡山出身の朱子学者・安積艮斎は、七言絶句を作っています。 川原吊古獨傷情・川原古(いにしえ)を吊(とぶら)ひ独り情を傷ましむ 一片殘碑苔暈生・一片の残碑 苔暈(たいうん) 後世莫憂文字滅・後世憂ふる莫かれ文字の滅するを 忠臣埋骨不埋名・忠臣骨を埋むるも名は埋れず
2023.07.01
閲覧総数 503


