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長崎で起こった同級生殺人事件から2年。あの事件は何だったのか?私自身があの事件を忘れないようにここで記事にする。娘の心なお信じられぬ(東京新聞) 事件現場の学校で集会 長崎女児殺害から2年(岩手日報)この事件については過去、以下のように書いた。もう一度ここでリンクを紹介する。こうした暴言がなくならなければ今後も同じような事件は起こるだろう。どうして楽天から暴言がなくならないか?「殺人者にブラボー」は暴言だ!ネットは長崎の事件に役に立たない?本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。その場合リンクは必要とはしません。意見があればコメントかメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。今のところメッセージは全て読んでいます。
2006.06.01
殺人賛美のk-nanaがこんなコメントを残している。>彼の言説に惑わされないで下さい。私は彼の言うように、「殺人を許容・黙認」しているのではないんです。残念ながら起こってしまった殺人という事件の舞台裏と、殺人という形でなければここまでオープンに議論されることはなかっただろう事象について、自分自身の経験を加えて意見を述べた。それが真相です。「このまま放っておけば次が起こるぞ」、という警告でもありました。少々皮肉の強いショッキングな言葉を使ったことは失点だったかもしれませんが、私が言いたかったことは彼の書いてることとはまるで違う。これは詭弁ではないか?かつてk-nanaは以下のようなことを述べていた。長崎の事件での「ブラボー発言」その後>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。という部分だけを抜粋されてしまうと、多分ものすごく強い言葉になってしまいますが、確かに心無い言葉でした。ご遺族を責める気持ちは毛頭ないのですが、申し訳ありません。>ただ極言すれば>「娘が悪口書いたのだから殺されても仕方ない」という解釈は多分そのままズバリになります。これはこの記述と矛盾する。>私は彼の言うように、「殺人を許容・黙認」しているのではないんです。彼女にしてみたら悪口を殺人が同列になってしまう。例えばこんな事を考えると理解しやすいだろう。k-nanaの妹、または娘が学校で同級生の悪口を言った。そうしたら悪口を言われた側の生徒はその事を根にもち娘、または妹を殺してしまった。この場合、「悪口を言ったのだから殺されても仕方ない」とk-nanaは理解するのか?逆にk-nanaの妹、または娘が悪口を言われた側で同級生を殺してしまったとしたら、今度は殺された同級生の家族に対して「悪口を言ったのだから殺されても仕方ない」と答えるのか?だとしたら私には全く理解できない論理構造だ。前にも記事に書いたが、「悪口を言ったのだから殺されても仕方ない」ということになれば、今より多くの殺人が起こるだろう。どうしてそうならないか?それは多くの人が、「悪口を言ったのだから殺されても仕方ない」とは考えていないからだ。悪口を含むいじめに我慢しろとは言わない。いじめは悪い。しかし悪口を殺人の理由にしてしまったら同級生殺人などなくならない。そのことをk-nanaはどれだけ理解しているのか?さらに謎は残ったままだ。再び殺人賛美のk-nanaに反論する。私はここで次の疑問点を示した。1、「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」という記述の出典。2、私が仮に「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」と言ったのならそれが告発の対象になるか否か。このことについては回答がない。まさかk-nanaは根拠もないことを書いているのではあるまいな?回答が出来ないのかk-nanaはこんな事を書いている。>真央ちゃんのことがどうたら、というのは年齢制限のことだったかもしれないが、大体私が年末に訴訟することを考えたきっかけは真央ちゃんの問題だったことも忘れてんのかな。つまり私の記事をよく読んでいないで勝手な想像で私に反論しているのか?そしてどんな罪で訴訟を起こすつもりだったのか?これでは話にならない。この方、精神状態は大丈夫なのか。やはり殺人の賛美をする人は一味違う(泣)。所詮k-nanaはこのレベルでしかないのだろう。かわいそうに(泣)。本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。その場合リンクは必要とはしません。意見があればメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。今のところメッセージは全て読んでいます。
2006.02.23
殺人賛美のk-nanaが、私の記事に対してこう言ってきた。日記は休むつもりだったが反論があれば答えないわけにはいかない。すまん、わすれてた「法的手段に訴え、しかるべくところに相談しますので」と脅しておきながらそれを忘れてしまうとはいい度胸している。と言うより彼女にとって「法的手段」とはその程度のものだったのだろう。>ちゃんと文章を読めない人が、どれだけ流言蜚語を撒き散らしていたとしても、それはあなたがどれだけ間違った読解をしているかってことの証明に他ならないし。一応説明しておきますけどね、あの時点で分かっていた事柄から、被害者の子と加害者の子とどちらに同情するかといったら、私にとっては加害者の子の方がより自分に近いということと、自分の体験から「とうとう起こってしまったな」ということを問うたのが実であってさ。あなたがいってることは本質から遠く離れたごくごく表面的なことにすぎないんですよ。この程度の皮肉も分からない世の中ならば、そっちの方を憂慮すべきだと思うんですけどね(そのくせ、妙なニヒリズムは蔓延しているけどね)オトナがそんなんじゃあ、子供の学力低下もしょうがないってところかもしれないね。それで以下の発言になるのか?まったく説得力なし。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。この発言を暴言を認め、私に謝罪したのは誰だったか?さらにこの方の主張は続く。>告発しようとまで思ったのは、あんたが「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」なんてバカなこといってたからだけど、そんなの嘘だってことは、私のイチオシの1人の荒川さんがちゃ~んと実証してくれたことし、だったらもう特に関わる理由はないのよね。「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」?私はこんなこと書いただろうか?私が書いた記事について批判するのなら出典を示してほしいものだ。自分の記事を読んでみたが、これに該当する部分が見つからなかった。私が単に忘れているだけなのか?謎だ。上記のことはまだいい。よくわからないのは私が仮に「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」と言ったのならそれが告発の対象になるか否かということだ。それってどんな罪になるのか?「殺人賛美」のk-nanaにしか理解できないことなのか?まったく謎だ。さらにk-nanaが法的手段に訴えると予告した以下の記事をも矛盾しないか? りゅうちゃんミストラルさん>子供のようなことをいつまでも続けていると、本気で怒りますよ。弱い立場の者にしか食ってかかれないとは情けない。今はさっくり削除しておいてあげますが、証拠を残していっていい事はないと思います。貴方のやっていることは、とっくに貴方のいう「私の暴言」の上をいく侮辱的行為です。私のいいたかったことは貴方がいってることとはまったく違っていますし、ダラダラといつまでも続けられた上に吹聴して回られるのは、非常に不愉快かつ迷惑至極です。>一体、これで何度目でしょうか?仏の顔も3度まで。私も随分耐えたものと思います。貴方の行為は十分以上に私の体調を悪化させますし、その分の賠償もしてもらいたいくらいです。今後は光学カメラで撮影するなり、1月には主治医に会いますので診断書を作成してもらうなりして、正式に証拠書類を作成して法的手段に訴え、しかるべくところに相談しますので、そのおつもりで。これを読むと今回の記事と主張が合わない。「法的手段」の原因は「殺人の賛美」批判なのか浅田真央のことなのか?>告発しようとまで思ったのは、あんたが「真央ちゃんが出なきゃ金メダルが取れない」なんてバカなこといってたからだけど「殺人賛美」をしておきながら今でも開き直るk-nanaはいいサンプル。こんな貴重な人、そしてその人が発する意見を放置するのはあまりにもったいない。そこでk-nanaによる今回の反論にならない反論をさらに分析してみる。以下の部分は特に秀逸。>「気にしない」というのはよく言われるだけでとても難しいことで、強姦魔に遭った女性に「犬に噛まれた様なもの」というのに等しいことだとは思っているし、当時はそれこそ、家にある薬をありったけ飲んだり、食べ物を受け付けなくて吐いたり、腕を傷だらけにしてみたり、眠れなくなったり逆に睡眠過剰になったり、一瞬とはいえ本当に自殺も考えたし、まあ結構ヒドイ目にはあったけれど、今現在それほどの実害もない。まあつまり、犬に噛まれた傷は癒えたってことかな。(あなたが人をそんな目に遭わせて楽しめる性根の持ち主だってこともこれで公言しているわけですよ。世間サマが見て、どちらが同情を得るのかな。相手がどんなあばずれでも、今昔問わず強姦ってヤツは犯罪の中でも恥ずかしいもんだと思うがな)どうやら私のことを強姦の犯人と同列に見ているようだが、これには根拠がない。強姦と「殺人の賛美」批判とは何ら関連がない。加えて私にも「選択の自由」というものがある。どんな精神状態にあろうとも私はk-nanaだけは強姦したくない。それ以前に私は強姦などしない。k-nana自身が「私は強姦される可能性がある」という思い込みなのか。まったく理解に苦しむ。かわいそうに。プレッシャーを感じているならご自愛なさい。ただし「殺人の賛美」はいかん。どんな状況にあろうがこのような暴言については厳しく糾弾する。k-nanaが「殺人の賛美」をしたことは今までの記事からも明らか。しかも一度はそのことで私に指摘された上謝罪して当該部分を削除している。k-nanaはそのことも忘れているようだ。>隼瀬さんにアタリに行くかもしれないけれど、ま、事態を収めるためには表面だけでも謝っておいて、あとは縁切りしましょっていうくらいの処世術もできなくはない。実があろうがなかろうが「スイマセンでした」つっとけばいいんだもの。あとはいくらやっても、あんた自身がそんな程度の「謝罪」で「謝らせてやった」と自慢している「バカなオトナ」だってことをいって回ってるにすぎないよ。これはk-nanaに言われることではない。余計なお世話。事情がわからない人のためにリンクを貼っておく。隼瀬氏は「殺人の賛美」について私がk-nanaを批判したことについて根拠なく私を批判してその点について謝罪した。隼瀬氏の謝罪文掲載隼瀬氏がよく事情を理解せず私を批判したことは本人も認める事実。(本当に反省しているか否かは確証が持てない。この記事をトラックバックで隼瀬氏の所にも送っておく)k-nanaにはそのことが理解できないだけ。これらのことからk-nanaは興味深い人物だと言える。いいかげんブログで毒を吐くのはやめたらどうか?私からの忠告だ。本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。その場合リンクは必要とはしません。意見があればメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。今のところメッセージは全て読んでいます。
2006.02.23
k-nana という人が私のことを訴えるらしい。こんな記事がある。りゅうちゃんミストラルさん >1月には主治医に会いますので診断書を作成してもらうなりして、正式に証拠書類を作成して法的手段に訴え、しかるべくところに相談しますので、そのおつもりで。もう二月も末なんだけど、いつになったら「法的手段」は実行されるのか?私が「法的手段」に気づかないだけなのか?もう一度言う。「殺人者にブラボー」は暴言だ。そのことを私が指摘して暴言をk-nanaは謝罪した。このことはすでに書いた。殺人賛美のk-nanaへ反論する。「殺人者にブラボー」は暴言だ!なのにこの方は「殺人の賛美」を本当に反省していないようだ。私を訴えるなら訴えればいい。本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。その場合リンクは必要とはしません。意見があればメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。今のところメッセージは全て読んでいます。
2006.02.23
殺人賛美のk-nanaが反論、そしてトラックバックしてきた。日記は休むつもりだったが反論しておく。問題となったのはこの記事。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。この記事はその後私の指摘によりk-nana自身が私に謝罪の上削除した。まさかk-nanaはこの言葉を忘れたのか?>確かに心無い言葉でした。ご遺族を責める気持ちは毛頭ないのですが、申し訳ありません。ただ極言すれば>「娘が悪口書いたのだから殺されても仕方ない」という解釈は多分そのままズバリになります。さすがにそれをそのまま書くわけにも行かないので、こうした言い方になりましたけれど...。つまりk-nanaの主張によると悪口を言われたら殺されても仕方ないということだ。まったく根拠のない暴言だ。何を謝罪したのだろうかk-nanaは。そして削除も私の指摘に従ってk-nana自身が行った。しかしこの方はこの発言を正当化したいようだ。これが今回の反論。りゅうちゃんミストラルさんあまりにくだらない。k-nanaが殺人の賛美をしたことは明らか。>子供のようなことをいつまでも続けていると、本気で怒りますよ。弱い立場の者にしか食ってかかれないとは情けない。今はさっくり削除しておいてあげますが、証拠を残していっていい事はないと思います。貴方のやっていることは、とっくに貴方のいう「私の暴言」の上をいく侮辱的行為です。殺人の賛美を批判することは悪いことではない。何が子供のようなことなのかまったく説明がない。私はすでに多くの人の賛同を得ている。しかも「弱い立場の者にしか食ってかかれないとは情けない」というのは根拠なし。私は天皇制や国家に対しても是々非々で記事を書いている。そしてk-nanaが「弱い立場の者」だったとしても殺人の賛美が正当化されるわけではない。k-nanaは今になってもまだ自らの暴言を根本的に理解してていないようだ。私が批判している殺人の賛美を侮辱だと思うのならそう思えばいい。それともそんなに殺人の賛美を正当化したいか?>私のいいたかったことは貴方がいってることとはまったく違っていますし、ダラダラといつまでも続けられた上に吹聴して回られるのは、非常に不愉快かつ迷惑至極です。私はk-nanaの発した殺人の賛美がひどく不愉快だ。こんなこと言うか?>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。k-nanaはどうして私に謝罪した?どうしてこの記事を削除した?今になってもまだ殺人の賛美を正当化したいか?以下の記事を読んでもらいたい。長崎の事件での「ブラボー発言」その後隼瀬氏の謝罪文掲載ここにはこうある。隼瀬氏の発言だ。>彼女からは、りゅうちゃんミストラルさんには殺人賛美者だと思われても構いません、という内容のコメントを頂きましたので彼女が殺人賛美者であるとの論拠を以って書かれた貴方の日記に反論することは間違っていたと認めます。これで明らか。私には「殺人賛美者だと思われても構いません」ということなので批判するのは私の勝手。今になってどうして文句を言うのか。前言を撤回するつもりか。それとも隼瀬氏がでたらめを言っているのか?再びk-nanaの反論。>反対意見は一切残しておかない貴方が書ける記事ではない。これは誤解もいいところ。私の記事には私への反論も多く掲載されている。k-nanaが知らないのか、または知りたくないのかどちらかだろう。>一体、これで何度目でしょうか?仏の顔も3度まで。私も随分耐えたものと思います。貴方の行為は十分以上に私の体調を悪化させますし、その分の賠償もしてもらいたいくらいです。今後は光学カメラで撮影するなり、1月には主治医に会いますので診断書を作成してもらうなりして、正式に証拠書類を作成して法的手段に訴え、しかるべくところに相談しますので、そのおつもりで。訴えればいい。どれだけ殺人の賛美が間違っているかを思い知らせてやる。追記 k-nanaによる反論はないようだ。反論もできまいが。ではこれで終了。暴言への批判はまたするかも。k-nanaが本当に暴言を理解し、反省するまで覚悟することだ。本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。その場合リンクは必要とはしません。意見があればメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。今のところメッセージは全て読んでいます。
2005.12.19
長崎の小学校での同級生殺害事件から一年。(この事件そのものについてはここを参照のこと)この事件について昨年以下の発言があった。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。発言をしたのはこの人。 私の指摘によりこの人は発言を謝罪して、削除した。その時こう述べている。>確かに心無い言葉でした。ご遺族を責める気持ちは毛頭ないのですが、申し訳ありません。こうも言っている。ただ極言すれば>「娘が悪口書いたのだから殺されても仕方ない」という解釈は多分そのままズバリになります。この人は問題発言を反省していないようだ。悪口言ったら殺されても仕方ないのか?どこの親が子どもを悪口が原因で殺されて納得する?「殺されても仕方ない」という考えが通用しないからこそ、この事件は大きな問題になった。この「ブラボー発言」についてはここで語っており、すでに解決したものを思っていた。長崎の事件での「ブラボー発言」その後(2004年10月の日記)ところがまたしてもこの人は以下の日記で「ブラボー発言」を正当化している。願・悪霊退散>刺激的な文言ではあったのでその点に関しては謝罪したが、基本路線は変えた覚えはないね。そして、他人はともかくアンタに言われて変えなければならない必要性も感じないね。今更矛盾していると言われても、私はそっちの読解力不足を哂うぐらいが関の山だ。残念ながら、そのくらいじゃ私は傷つかないよ。この人は事件の重大さをまったく理解できていない。一度は私に指摘で謝罪し、削除した発言を私の「読解力」のせいにする。その感覚がまったく理解できない。こうした発言もある。>彼女からは、りゅうちゃんミストラルさんには殺人賛美者だと思われても構いません、という内容のコメントを頂きました(これは隼瀬氏の証言。詳しくはここに書いてあります)もちろんここで言う彼女とは「ブラボー発言」をした本人だ。「殺人賛美者だと思われても構いません」とのことなので、私はブラボー発言をこの人がまったく反省していないと判断した。本人が認めていることを、私が否定はできまい。この人「ブラボー発言は誤りだった」と素直に言えばいいのに。どうしても自分を正当化したいらしい。また、メッセージを勝手に日記掲載することに対してこの人は、私に承諾を得ていない。何を勘違いしたのかブラボー発言の人はこんなこと言っている。>「メールを載せることに同意してない」なんて言ってるが、あれだけ私の文を勝手に引用しておいて自分のはダメというその身勝手さに呆れますね。私はあらかじめブラボー発言をした人にメールで承諾を得た。「勝手に引用」というブラボー氏の指摘は意味がない。向こうは私の承諾を得ていない。この違いがブラボーさんには理解できないのだろう。殺人者に向かって「ブラボー」と言っておいて、それを謝罪しながら反省がない。この人、いつまでたっても成長しないねえ(笑い)。この日記でも書いたが長崎の同級生殺害事件などでは、ネットで多くの暴言が飛び交った。こうした暴言は一年経過して減ったのか?私にはそうは思えない。何も変わらないのでは、犯罪被害者も浮かばれないだろう。追記向こうも私の日記にトラックバックしてきた。一度謝罪しておきながら、それを後に正当化しようというのはすごい。「殺人賛美者だと思われても構いません」とのことなので、私は今でもそう思っている。バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。***現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。今のところメッセージは全て読んでいます。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。
2005.06.08
むにゅうから反論にならない反論が来た。(この日記は昨日から続いています)結局むにゅうは「殺人の賛美」を楽しみたいらしい。「殺人の賛美」はそんなに楽しいものなのだろうか?私にはわからないことだ。基本的に間違った考えの人は言うことが違う。「どうして殺人の賛美が必要なのか?」「被害者家族は殺人の賛美をどう感じるのか?」という点にはまったく答えようとはしない。と言うより答えられないのだろう。むにゅうは長崎の事件に悩む多くの人や、被害者家族のことなどまったく考えられないのだろう。さもなくば「殺人が美」などということは言えない。むにゅうには困ったものだ。「殺人の賛美」についてはここを読んでください。むにゅうからまたもやわけのわからない反論が来た。むにゅうの日記による反論(?)>どこが詭弁なのですか?苦しい言い訳が愉快ですね。「こういう考え方も、あるのです」と言っておきながら、その考えとやらがむにゅうしか通じないから詭弁だと言った。苦しくも何ともない。>いいかげんに「正しい思想を啓蒙することはよいことだ!」という妄想から離れなさい。いい迷惑です。いいかげんに「殺人の賛美」はやめなさい。いい迷惑です。私が正しいかよりも、むにゅうの「殺人の賛美」が間違っていることは確かだ。君は基本的に考え方が間違っている。>自分が気に入らないというだけで、他人の言論を封殺しようとするあなたのほうが反社会的です。日本は北朝鮮ではありませんよ。殺人の賛美が間違っているということは、私だけが主張していることではない。むにゅうのページでもそのことは証明されている。むにゅうがそれに気がつくかどうかだ。>あのさ、りゅうちゃんミストラルは勘違いしているようだけど、私は反論していませんよ。私は以下の点を指摘しているだけです。>・あなたの猥狭な考え方や捕らえ方は、あなたの脳内でしか通用しない。「殺人の賛美」を否定するのは私だけではない。これもむにゅうの誤り。>・誰にも他人の言論を封殺する権利はない。「殺人の賛美」を批判することは何ら問題がない。特に君の発するような暴言については。>・他人の言論を封殺しようとするのは馬鹿(りゅうちゃんミストラルのことですよ)「殺人の賛美」をしているむにゅうには批判が必要。>・同じような内容のトラックバックを送るのはスパムメールと同じ。>・どこまでいっても、平行線だって。平行線なのは君が自分で考えないからだ。「殺人の賛美」の害について。>一人相撲を繰り返すのは、もう止めたら?君には批判が必要。「殺人の賛美」はもうやめたら?みっともない。追記こんな反論(?)がむにゅうから来ている。>りゅうちゃんミストラルはわけのわからない・中身が空っぽな批判を偉そうに垂れ流すのを止めたら?同じ質問を繰り返すだけでは、誰も納得しないし、説得もできないよ。君は自分で「殺人の賛美」について考えられないだけだ。こうした人はいつまでも「殺人の賛美」をしているのだろう。そんなに「殺人の賛美」は楽しいのか。意味があるのか。基本的に間違った考えの人は言うことがやはり違う。>凄惨な事件を引き起こすのは、りゅうちゃんミストラルのように自分の正義を疑わない人です。幼女殺人も連続殺人も自らの正義を疑わずにそれに従う人が引き起こすんです。根拠なし。「殺人が悪」ということを理解していれば、事件は防げる。>自分の正しさというのは常に懐疑的に見ないとだめ。君自身が君の正しさを懐疑的に見ているとは思えない。むにゅうは「殺人の賛美」を懐疑的に見たことがあるか?今までのむにゅうの発言からはそんなものは感じられなかった。むにゅうの言葉にはまったく説得力がない。むにゅうは弁護士に以下のような指摘されたことをもう忘れたらしい。>相手の方は議論のための議論を楽しんでいるとしか思えません。しかも、その議論も基礎的知識に決定的に欠けているものであり、反論の必要すら感じないレベルです。私の個人的感想としては、放っておくべきだなという感じです。むしろ議論を交わすことで、それを読んだ他の人がそんな理屈もありうるのかなどと変に納得してしまうのがこわいですよね。理屈にすらなっていないのに。私はこの弁護士とは違って暴言を放置しない。「寝ている子を起こすな」という考えは間違っている。むにゅうはこんなことを言っている。>りゅうちゃんミストラルは弁護士の権威にすがるしかない。弁護士という権威にめがくらんで、懐疑的になれないりゅうちゃんミストラルさんは哀れとしかいいようがありません。むにゅうは単に弁護士の指摘に反論できないだけのことだ。本当のことを書かれてそんなに悔しがるなよ。追記むにゅうがまた反論にならない反論をしてきた。むにゅうの日記による反論(?)>発言から人間性を判断するなんて、スターリンやヒトラーや毛沢東もびっくりの傲慢さですね。何ら問題はない。特に暴言を連発する人には必要なことだ。>「私はあなたの意見には反対だが、あなたが意見を述べる自由は尊重する」というエピソードを知らないのでしょうか?意見が殺人の賛美では尊重もできない。明らかに間違っているものを、間違っていると指摘しているだけだ。人には言っていいことと悪いことがある。むにゅうにはそのことが理解できないだけの話だ。表現の自由は殺人の賛美を保護するためのものではない。>愉快なことにりゅうちゃんミストラル自身は「自分が気に入らない発言をした人々を差別している」ことにまったく気がついていないのです。 この人まだわかっていない。むにゅうは「自分が気に入らない発言をした人」ではない。「基本的な考えが間違っている人」だ。追記むにゅうは相当焦っているらしい。トラックバック連続攻撃に出た(笑い)。>トラックバック新着書き込み ● 傲慢な心が差別の源 (むにゅうの平和大好き!) New! >また、その人の過去の発言によって判断され・・・ ● 傲慢な心が差別の源 (むにゅうの平和大好き!) New! >また、その人の過去の発言によって判断され・・・ ● 傲慢な心が差別の源 (むにゅうの平和大好き!) New! >また、その人の過去の発言によって判断され・・・ こうした暴言がなくならないのは注意する人が少ないからだ。楽天には勇気ある人が少ないのだろうか?それとも勇気ある人は絶滅してしまったのか?いつまでも暴言が必要ですか?それともここで暴言を止めますか?「表現の自由」は暴言を守るためのもの?もう一度、暴言について考えてみてください。追記反論するなら発言の出所くらい書きなよ。どこの文章に反論しているのかわからないと困る。追記むにゅうはこんなことを言っている。http://plaza.rakuten.co.jp/munyu/diary/200501190000/>連続殺人といった猟奇犯罪はりゅうちゃんミストラルさんのような自分の正義を疑わない、疑えない人々が起こしているのは数々の犯人の記録が示すとおり。根拠が示されていない。殺人が悪だと理解しているなら、殺人は防げる。>「暴言をはきまくっているのはりゅうちゃんミストラル」のことですよ。それを指摘したり、注意したりする勇気のある人は山ほどいるじゃありませんか!ほら、あなたが論破されまくったあそこの日記とかここの掲示板ですよ!殺人の賛美をしている君に注意が必要。*現在掲示板と日記コメントは荒らし対策で閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。
2005.01.11
むにゅうから反論にならない反論が来た。むにゅうの日記による反論(?)いかに彼の主張が間違っているかをこの日記で論じる。「殺人の賛美」についてはここを読んでください。まずはこの暴言から。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。この暴言の出典を示すよう言ったところ、むにゅうはこう答えた。>もちろん、むにゅうの中の人が考えているんですよ。出典が無いから根拠が無い。すなわち、「自分勝手な意見」というのは何なのですか?「マルクス語録」やら「毛沢東語録」や「金正日語録」やらから引用しなくちゃいけないんですかね。詭弁だ。「考えがある」というのはむにゅうだけの反社会的な考えでしかない。「こういう考え方も、あるのです」と言われたら、たいていの人は「むにゅう以外も考えている」と思うだろう。私もそう考えた。何だ。むにゅうが勝手に考えているだけか?そんな反社会的な考えが正しいという証明はどこにもない。それともむにゅうの考えに従う根拠でも示せるのか?自分勝手な反社会的意見を「こういう考え方も、あるのです」と言うむにゅうに説得力はまったくない。結局はむにゅうによる「殺人の賛美」は、家族を失った被害者家族の気持ちなど考えない反社会的な暴言であることがよりはっきりした。>別に凄惨な事件をなくすために発言したわけじゃありませんよ。それではむにゅうの欲求を満たすためだけに「殺人の賛美」をするのか?そんなものに何の意味がある?むにゅう以外には害になるだけだ。むにゅうの暴言には痛みがない。家族をなくした犯罪被害者家族がむにゅうの暴言を読んだら嘆き悲しむだろう。私が犯罪被害者家族だったらむにゅうの暴言を許さない。>ある種の殺人が公と美学に支えられて認められていた江戸時代は平和でしたけどね。これも詭弁。今は江戸時代ではない。江戸時代について限定した話でもない。むにゅうは江戸時代に生きているのか?むにゅうは現代では「殺人の賛美」を正当化できないらしい。だからこそわざわざ江戸時代を持ち出す。>あいかわらず、どこがどう間違っているかの説明は無いのですね。もう説明した。>「思想の自由」「言論の自由」が、われわれの自由で豊かな社会を支える原動力です。むにゅうの「豊かな社会」というのは「殺人の賛美」によって成り立つらしい。それとも「殺人の賛美」がないと「豊かな社会」が達成できないのか?またしても反社会的な思想だ。>「なぜ、殺人を賛美してはいけないのか」ということを説明できた者も今のところいませんね。またもや詭弁。むにゅうは「殺人の賛美」したことを自認するんだな?まず、「なぜ、殺人を賛美してはいけないのか」ということを説明してもらわないと理解できないことを恥じたらどうか?長崎の事件では多くの人が「もし自分の家族が殺されたら」ということを考えた。小学校で、同級生による殺人が起こることに自分を重ね合わせた。私もその一人だ。そんな人たちが「殺人の賛美」を読んでどう感じただろうか?むにゅうは想像力が欠如しているのかその点をまったく考えていないらしい。そして最大の問題は被害者家族が読める場所に「殺人の賛美」をしたことだ。少しくらいは犯罪被害者家族の気持ちも考えてみるといい。家族を失った上に「殺人の賛美」だ。このことからむにゅうによる「殺人の賛美」は有害でしかない。>そもそも、意見や感覚の相違というものは必要・不必要で断じることのできないもです。お互いに敬意をもって相違を確認し、それぞれが勝手にやっていけばいいのですから。この世には言っていいことと悪いことがある。かわいそうなむにゅうにはその区別がつかないだけの問題だ。犯罪被害者に敬意を持っていたら、「殺人の賛美」などできまい。>他人の意見が気に入らないなら、読まなければいいのです。誰にでも読める場所に「殺人の賛美」を書かなければいい。むにゅうの反社会的思想など害になるだけだ。>結局、りゅうちゃんミストラルのやっていることは自己満足のために他人に迷惑をかけているだけです。根拠なし。暴言がなくならないのは注意する人が少ないからだ。楽天には勇気ある人が少ないのだろうか?それとも勇気ある人は絶滅してしまったのか?いつまでも暴言が必要ですか?それともここで暴言を止めますか?「表現の自由」は暴言を守るためのもの?もう一度、暴言について考えてみてください。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。
2005.01.10
長崎での殺人事件で「殺人の賛美」発言があった。「殺人の賛美」はどうして必要なのだろうか?「殺人の賛美」についてはここを読んでください。暴言の一例。>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。こんな暴言もあった。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。この発言については出典を求めたが、ついに示されることはなかった。根拠がない以上、「自分勝手な意見」としか解釈できない。「こういう考え方も、あるのです」というのは、どこで誰が考えているのだろう?私にはまったく予想ができない。「表現の自由」があるとしても長崎の小学生による同級生殺人事件で家族を失った人のことを考えれば、「殺人が美」などとは言えまい。この発言者は「殺人が美」であると言えば、同じような凄惨な事件がなくなるとでも思っているのだろうか?私にはそうは思えない。なぜなら「殺人が美」と言っている人は、「どうすれば事件を防げるか?」ということを語っていないからだ。少なくとも私はそんな文章を読んだことがない。だとすれば「殺人が美」だということを誰にでも読める場所に書く理由は一つしかない。「殺人が美」という言葉に酔いたいだけ。被害者家族のことなどまるで考えていない。「殺人は美」という暴言に意味はない。表現の自由は自己陶酔したい人のためにあるわけではない。暴言を保護するためにあるのではない。長崎の事件では、多くの人が驚いた。社会不安は確実に増した。私も含めて、ネットで悪口を書かれたことが原因で同級生を殺すとは思えなかった。しかもその場所が小学校ということにも驚いた。「殺人が美」という人は、その言葉が社会不安を増すだけであるということを知らないのだろう。こうした暴言が楽天でなくならないのは前にも言った通り、暴言を注意する人があまりに少ないからだ。事件も驚きだが、暴言を放置するのもまた驚きだ。私ができることは少ない。そのひとつが「殺人は悪だ!」と訴えることだ。社会が「殺人は悪」という認識を持てば、犯罪は減る。私はそう信じている。追記「どんな反社会的なことでも思うことは自由だし、問題はない」という人がいる。ところが、ネットは「誰にでも読める場所」だ。もちろん犯罪被害者も例外ではない。「誰にでも読める場所に書く」ということは「思う」こととは別だ。どうもこの二つのことを間違って解釈している人が楽天にも多いようだ。「どうして殺人の賛美が必要か?」ということを、説明できた者は今のところいない。そんな説明などできるわけがないと私は考える。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。もちろん削除もあります。
2005.01.09
殺人に「美」を感じる人がいるらしい。私には信じられないことだが、ある発言で私はそれを知ってしまった。以下の発言をしたむにゅうはここです長崎の小学生女児殺害事件について。>殺人に「美」を感じることは異常でもなんでもありませんよ。 (2004年12月19日 22時30分) 私はこう質問した。>殺人のどこが美なのか?>君のような考えの持ち主にはなかなか会えないので是非訊いておきたい。むにゅうはこう答えた。>お前には教えない。>ていうか、感性や情緒が未発達のあなたには教えても理解できませんよ。8ビットのパソコンにWindowsをインストールするようなものです。むにゅうの掲示板での風船君の発言。 >殺人はひとつの美学です。デカタンスです。現実には忌まわしいですがクゥェストパラダイス 楽園の征服大量殺人者の美学これは昔から文学では取り扱われていることで珍しいことではありません。現実には迷惑な話です。 (2004年12月22日 00時31分) つまりは「どこが美なのか」という点には触れない。「文学で扱っている」という他力本願のみだ。「殺人はひとつの美学です」という点で思考が停止してしまったとしか考えられない。また、被害者家族が「殺人は美」という発言についてどう感じるかについては考えていないようだ。むにゅうの発言>りゅうちゃんも、もっと視野を広げてくれるとよいのですが・・・。 (2004年12月22日 17時30分) 殺人のどこが美なのか、「教えない」と言いつつ、「視野を広げろ」という。この人考えを理解して欲しいのか欲しくないのか?「視野を広げる」ことで、殺人が美だと言い出すのなら、私は視野など広げなくてもいい。こんな発言もあった。これが本心なのだろう。>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。こんな発言もあった。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。この発言については出典を求めたが、ついに示されることはなかった。「自分勝手な意見」としか解釈できない。こんなのもあった。>>まさか批判の主は被害者家族の前でも殺人の肯定をするわけではあるまい。 私のの質問に対し、むにゅうの答えはこう。>思考実験で、被害者家族の前で殺人を肯定してみましょう。「あなたの娘の命を奪った犯人を殺して復讐をしましょう。あんな悪いやつを殺すのは正しいことです!」できちゃった(w ・・・・・・・人生には余裕が必要ですね(wここまで殺人をふざけて発言できる人はいまい。ところで「殺人は美」と書かれた文章を読んで、殺人で家族を失った人はどう感じるだろうか?楽しいはずはない。少なくとも私が家族を殺人で失ったら、「殺人は美」とは書かれたくはない。そんな文章は読みたくはない。暴言の主にはそんなことは考えられないのだろう。このように楽天にはとんでもない暴言がある。こうした暴言は一部だろう。少なくとも私はこうした発言を「反面教師」として考えたい。暴言も役に立つものだ。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。
2004.12.25
むにゅうは質問しながら私に回答をさせない。私の回答を拒んでいる。(27日14時現在)なら最初から質問しなければいいのに。(その後、追求を恐れたのか質問は削除したらしい)むにゅうはここですそこまでして「殺人の賛美」を大事にしたいのだろう。殺人の賛美は楽しいかい?さすが弁護士に、「基礎的知識に決定的に欠けているものであり、反論の必要すら感じないレベルです」と評価された人は違う。何度でも「殺人の賛美」したい人の意見を掲載する。>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。殺人は「戦い」ではない。「美学」でもない。反論の主は「美学」という言葉に酔っていて、思考停止状態としか考えられない。「美学」の中身についてはまったく説明がない。この人は、「美学」と言えば説得力を持つとでも思っているのだろう。愚かで論理的に欠けた思考だ。こんな発言もある。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。こんなのもあった。>>まさか批判の主は被害者家族の前でも殺人の肯定をするわけではあるまい。 私のの質問に対し、むにゅうの答えはこう。>思考実験で、被害者家族の前で殺人を肯定してみましょう。「あなたの娘の命を奪った犯人を殺して復讐をしましょう。あんな悪いやつを殺すのは正しいことです!」できちゃった(w ・・・・・・・人生には余裕が必要ですね(wこれでも「殺人の賛美ではない」と言い張る人がいるとは驚きだ。ここまでふざけて殺人を語る人はなかなかいない。殺人の賛美は楽しいかい?彼のページにはこんなことも書かれている。>このページでは、『平和を構築するのは唯一、軍事力のみである』という経験則をもとに、「戦争に反対さえしていれば平和は保たれる」と考えている平和主義が妄想にすぎないことを証明していく予定です。あとは社会は国家について。「経験則」ってこの人戦争したことあるの?この人「戦争大好き」としか思えない。 こうした人がいるから戦争はなくならない。この人の正体は「軍事力原理主義者」だ。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。削除もあります。
2004.11.27
長崎の小学生による同級生殺人事件について、「殺人の賛美」コメントをしている人からこんな発言があった。発言はここです>>悪口が原因で自分の妹や娘が殺されても「殺されて仕方ない」と思うのか?私の質問に対して、向こうはこう回答した。>仕方ないんじゃないですかね。他人に対して「殺人を賛美している酷い人間だ!」と悪口をいって回っている人も同様です(w反論の主が「殺人の賛美」をしていることは悪口ではなく事実。そして私を殺しても何も解決にはならない。「殺人の賛美」をしたい人が誉めるだけ。この人は殺人を「戦い」「美学」と評しているのだから、「殺人の賛美」であると言われても仕方ない。と言うか、私にはこの人の発言が「殺人の賛美」以外に解釈できない。殺人が美しいわけがない。殺人を美化し、賛美して楽しいのか?楽天でも「ごくまれ」にこうしたとんでもないことを言う人がいる。この人の人間性を疑う。そして人の生死を語るのに、「仕方ないんじゃないですかね」とは、いかにも自分の意見に自信がないということを示している。こんな人が人の生死について語ること自体が間違っている。この人は被害者家族の痛みが理解できないだけなのだ。ある日突然家族を小学校で同級生によって殺された家族の痛みが。かわいそうに。「ごくまれ」にこうした人はいる。自分の娘や妹が悪口が原因で殺されても「殺されて仕方ない」とはいかにも反社会的意見だ。実際に自分の妹や娘が殺されて「仕方ない」と考える人がいるのか?私には理解できない世界であり、考えだ。発言の主が本当にこの発言の意味を理解できているとは思えない。日本人の何パーセントが「殺されて仕方ない」と思っているのか。もし多数がそう考えていたら、日本は終わりだ。「殺されて仕方ない」という考えが一般的でないから、世間はこの事件について騒いでいる。もっとも報道関係者が騒いでいるのは「売上に関係する」ということからだろうが。また、「殺されて仕方ない」という根拠は相変わらず不明のままだ。殺人以外の方法について、まったく考える余地がないのも、発言の主による考え方の狭さが伺える。結局はどうして「殺されて仕方ない」のか根拠など示せないのだろう。事実、同級生を殺害した女児は、「殺されて仕方ない」という考えが通らないから家に帰れない。親にも会えない。これは殺人が「仕方なくはない」からだ。反論の主はこの点を理解していない。「悪口を言われたら殺してしまえ」という短絡的思考しかできないかわいそうな人だ。反論の主は身勝手な発言によりある弁護士から、「基礎的知識に決定的に欠けているものであり、反論の必要すら感じないレベルです」と評価された。こうした人はさすがに言うことが違う。発言の主はこの意味を理解できないらしい。かわいそうに。もう一度彼の発言をここで紹介する。>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。殺人は「戦い」ではない。「美学」でもない。反論の主は「美学」という言葉に酔っていて、思考停止状態としか考えられない。「美学」の中身についてはまったく説明がない。この人は、「美学」と言えば説得力を持つとでも思っているのだろう。愚かで論理的に欠けた思考だ。こんな発言もある。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。こんなのもあった。>>まさか批判の主は被害者家族の前でも殺人の肯定をするわけではあるまい。 私のの質問に対し、むにゅうの答えはこう。>思考実験で、被害者家族の前で殺人を肯定してみましょう。「あなたの娘の命を奪った犯人を殺して復讐をしましょう。あんな悪いやつを殺すのは正しいことです!」できちゃった(w ・・・・・・・人生には余裕が必要ですね(w殺人でこれほどふざけた発言ができるのは彼ぐらいなものだ。何が「余裕」なのか?これらの発言が、どう説明したら「殺人の賛美」にならないと言えるのか?この人、「純粋なら人を殺しても構わない」とでも思っているのだろう。その「純粋」であるか否かは彼の独断と偏見で判断されている。殺人は「相手の尊厳と名誉を守ることになる」など根拠がない。「こういう考え方も、あるのです」という意見の出典も示されてはいない。つまり、「反論の主が考えた身勝手な意見」であるということだ。いつになったら反論の主は出典を示すのだろうか?*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。もちろん削除もあります。
2004.11.25
小6同級生殺害事件が起きた長崎県佐世保市立大久保小学校の校長が、6年児童の保護者に対して、「お子さんは発達障害。医者から聞いた」などと話していた。 この児童に障害の事実ははなく、発言に根拠はなかった。教育委員会はこの校長に対し、口頭で注意した。この発言に対し、教育長も陳謝した。その後、校長は保護者に謝罪した。この校長はこれとは別に、事件後に保護者に対し「子供はウソをつく」という趣旨の発言をして、既に市教委から口頭で注意を受けていた。この報道をした毎日新聞の記事私の日記でも、長崎の事件に関連して「殺人の賛美」など問題発言は紹介してきたが、教育者、教育界は大丈夫なのだろうか?このような発言は、長崎県だけのものではあるまい。小学校教諭、殺人の肯定で処分(日記から)先日、日本の領海に侵入した潜水艦は中国のものであると、中国政府が認めた。そして中国の武大偉外務次官が北京で阿南惟茂中国大使に対し「遺憾の意」を示した。日本側が求めた「謝罪」でないところが中国側の「意地」なのだろう。隣の「困ったちゃん」は素直でないね。まったく中国という国は日本にとって「困った隣人」だ。侵犯事件が二度と起こらないように注意してもらいたい。領土、領空、領海の侵犯は、最悪戦闘行為を招くぞ!日本が「平和ボケ」しているとなめているのか?こんな国へ日本からのODAは即刻廃止しよう。アジアカップサッカーでの日本公使の乗った車を破壊したことを含む騒動を考えると、とてもではないが中国が日本と友好関係を持ちたいとは思えない。中国人よ、日本を見ろ。日本人は領海侵犯という重大な事件に対し、中国とは違ってデモもしないし中国行使の車も壊さない。冷静さを保つ。これが「先進国」の態度だ。北京オリンピックを契機に先進国入りしたいなら、ハード面だけでなく、ソフトも必要ではないのか?中国には要注意だ。まったく油断がならない。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。もちろん削除もあります。
2004.11.16
長崎の小学校で起きた同級生殺人事件で、こんな書き込みがある掲示板でかつてあった。同級生を殺害した女児についてのものだ。>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。これは「殺人の賛美」だ。殺人は戦いでも美学でもない。だからこそ殺人女児は家にも帰れないし、社会的にも騒がれている。これでは「悪口を言ったら、殺されても仕方ない」ということだ。そもそも人間が悪口を原因として「殺されても仕方ない」などと判断してしまうことが危険思想そのものだ。発言の主は、もし自分の妹や娘がネットで悪口を書き、それが原因で殺されても「美学」と言うのか?「仕方ない」と納得できるのか?こんな発言もあった。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。(本文ママ)>こういう考え方も、あるのです。 >相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。言っていることが無茶苦茶だ。純粋なら殺してもいいのか?その前に殺人という選択が純粋であるという証明すらできていない。そんな証明ができるとも思わないが。「人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる」ということも説得力がない。どうして人殺しが「相手の尊厳と名誉を守る」のか今でも私は理解できない。そしてこの主張にはまったく説得力がない。「こういう考え方も、あるのです」というのは、発言の主が勝手に思っているだけで、発言の主はその出典を示すことすらできない。これは反社会的で身勝手な意見だ。何ら根拠がない。本人が勝手にそう思っているだけの唾棄すべき考えでしかない。発言したのはこの人。この人がまたしても反論にならない反論をしてきた。>りゅうちゃんミストラルさんがメッセージを送ってきたので、それなりに対応する。彼が送ってきたいくつものメッセージを要約すると「お前はひどい人間だ。なぜひどいかは説明しないけどな。自分で考えろ!」私は「どうして殺人がいけないか」を何回も説明してきた。君がそれを読んでいないだけではないか?たとえばこんなものがある。>>現在は殺人も殺人の正当化も許されていないからだ。殺してしまったものは元に戻せない。だから殺してはならない。>>殺してしまったら相手の発言を暴力で封じることになる。殺人は批判の主が嫌がる「表現の自由を奪う」ことになる。殺された者にも言い分は当然ある。殺すということは反論の機会を永遠に奪うことだ。表現の自由は殺人を正当化する者特有の権利ではない。(7月15日の日記)>>人は再生することができず、殺人は取り返しがつかないからだ。殺人が賛美されるようになれば、この世は地獄となってしまうからだ。(10月29日の日記)「なぜひどいかは説明しないけど」と言うのは明らかな間違いだ。私は自分で「殺人がなぜいけないか」について説明してきた。これは私に反論したい人が読んでいるか否かの問題だ。>タイムリミットを11月10日中に区切って、きちんとした反論を求めてみましたが、無かったので、これからはりゅうちゃんミストラルさんはスルーさせていただきます。「タイムリミットが11月10日中」なら、今はまだタイムリミット前だ。だからこの反論は有効。>結局、あなたは「ここに悪いやつがいるぞ!」と叫んでいるだけです。>なぜ悪いのかを説明できなければ単なる悪口にすぎません。まず第一に、「殺人がどうしていけないか?」を説明してもらわなければならない、そして説明してもらっても理解できないのは君の責任だ。そのことからしても君は救いようがない。それを差し置いて、「論破できないのは人のせい」と言うのはさらに救いようがない。救いようがない人には困ったものだ。>また、「ここに悪いやつがいるぞ!」という叫びに騙されるような人はすぐに裏を取れるネットでは少数派となりつつあります。自分で考えろというのではなく、あなた自身の言葉で説明してください。すでに説明した。殺人を賛美する人に騙される人は少ない。>議論を自分で打ち切っておいて、自分勝手に蒸し返す。あなた、全然進歩していないんですね君が私に反論してきたからだ。君の反論がなければ私の再反論しなかった。君がかつてどんな発言をしてきたかをここに示すのは意味のあることだと思うがね。しかも君は「反論しろ!」と言ってきているにもかかわらず、自分の都合が悪くなると、「この話は終わった」と言い出す。君の本性がよく見える。追記相手は話し合いを放棄したようだ。これで本当に議論は終わりになるかもしれない。向こうの再反論は無いようだし。所詮は話がまともにできる相手ではなかった。さらに恥の上塗りで反論の主はこんなことを言っている。 発言はここ>>自分の誇りを守るために戦ったことには、ある種の美学を感じました。>>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います。>いたしかたない。というのは、諦観ですよ。これを賛美としか取ることができない、あなたがおかしいのです。殺人を「戦い」「美学」と言うことがすでに「殺人の賛美」でしかない。しかも、ネット上での悪口が殺人に結びつくこと自体がまったく正当でない。正当だという証明もない。言い訳ならもっとうまく論じることだ。反論の主の主張はさらに破綻した。追記その2 まだ向こうはこんなことを言っている。>>殺人を「戦い」「美学」と言うことがすでに「殺人の賛美」でしかない。>あっそ。あなたがそのように解釈するのは自由ですが、私がそれに従う必要はありません。もちろん自由に解釈する。>>しかも、ネット上での悪口が殺人に結びつくこと自体がまったく正当でない。正当だという証明もない。>悪口をいいまくっているりゅうちゃんミストラルにしてみればネットの悪口で殺されてはたまったものではありませんものね。意味不明。反論の必要なし。>>言い訳ならもっとうまく論じることだ。反論の主の主張はさらに破綻した。>あなたに言い訳をしたことは一度もありません。あなたが無理矢理、自分に都合よく解釈しているだけです。君が「賛美ではない」と言い張っているだけだ。>>他人の尊厳や誇りを理解できない人間が殺されるのはいたしかた無いと思います>という書き込みにしても、書いた本人が殺人の賛美ではないと言っている以上、あなたの解釈が間違っているのです。君の勝手な解釈ではそうなのだろう。かわいそうに。まったく自分の間違いに気がついていない。>だいたい、私がある事件にどのような感想を抱こうが自由です。殺人の賛美でも?>>どこが詭弁なのか説明してみてください。それともできないの?>4ヶ月たちましたが、いまだに説明できないようです。すでにした。君が逃げているだけ(笑い)。*現在掲示板と日記コメントは荒らし対策で閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を賛美、正当化しない人に限ります。もちろん削除もあります。
2004.11.09
長崎の同級生殺害女児に「ブラボー」という発言をして人がいたことは、すでに私が日記で何回も書いている。この発言だ。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。(この発言はすでに削除されています)その発言者を正しい根拠なく擁護し、「ブラボー発言」を指摘した私に向かって「揚げ足取り」「お門違い」と誹謗中傷した隼瀬氏が謝罪文を送ってきた。「ブラボー」発言したのはこの人 私のことを根拠なく「揚げ足取り」「お門違い」と発言した隼瀬氏のページ隼瀬氏の謝罪に応じ、ここで謝罪文を掲載します。(以下、謝罪文のコピーを編集なく全文掲載)今回は不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした。それでは以下の全文を以って謝罪文とさせて頂きます。 この度は公の目にするところに貴方に対する中傷と取れる発言をしてしまい、申し訳ございませんでした。揚げ足取りやお門違いは、私が彼女を殺人賛美者ではないと理解していた故の発言でしたがブラボー発言そのものを目にしてはおりませんし、その後のコメントや日記による推察に基づいた理解でしたので、彼女を正しく判断できていないと思われるのも尤もです。また、彼女の思想について第三者である私がさも分かった風に発言することはそもそも彼女に失礼でしたしそれを根拠としてあなたに反論したことも、間違いでした。 彼女からは、りゅうちゃんミストラルさんには殺人賛美者だと思われても構いません、という内容のコメントを頂きましたので彼女が殺人賛美者であるとの論拠を以って書かれた貴方の日記に反論することは間違っていたと認めます。 大変申し訳ございませんでした。(コピー終わり)私は今後このような「想像での批判」をすることがないよう隼瀬氏に強く求める。根拠なく「揚げ足取り」「お門違い」と発言された私はいい迷惑だ。この人学生らしいが、レポートや論文を書く時にも根拠なく結論を導き出してしまうのだろうか?そしてそんな論文に担当教授は合格点を与えるのか?「ブラボー」発言の主にも、早く反省してもらいたいものだ。追記 その後の態度から判断して、隼瀬氏が本当に誹謗中傷を反省しているかどうかはとても怪しい。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし殺人を正当化しない人に限ります。
2004.10.30
長崎の小学校で起こった同級生殺人事件で事件で、かつてこんな意見がある日記であった。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。話がよくわからない人は過去の日記を読んでください。この発言についてはもう解決したものだと思っていた。発言した本人はこう言っていたのだから。(発言の内容公開は本人の承諾を得ています)>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。という部分だけを抜粋されてしまうと、多分ものすごく強い言葉になってしまいますが、確かに心無い言葉でした。ご遺族を責める気持ちは毛頭ないのですが、申し訳ありません。>ただ極言すれば>「娘が悪口書いたのだから殺されても仕方ない」という解釈は多分そのままズバリになります。(以上6月7日のメール) 発言したのはこの人だから悪口で殺人が起こるなら、一晩で何万人も殺されているだろう。それでも「よくやった!」とブラボゥを送ってしまうのだろうか?私は決して悪口をいいと言っているわけではない。だが悪口で殺人をするのは明らかに判断ミスだ。とても大きな。どうしてこの人は悪口が殺人に直結してしまうのだろうか?そして殺人を賛美するような、亡くなった被害者を殺されてまで攻撃する発言は明らかに意味がない。ところが最近来たメールはこうなっていた。(10月12日)>貴方のところで「暴言」に驚いて見に来てくれた方は、その後私の書いたものを読んだ後に「何故私が暴言と知りつつそれを使ったのか」ということは理解してくださいましたから。私の文章力がなかったわけではないことは、それで証明されるはず。そちらの読解力のもんだいですよね。一度は謝ったのに、今度は私の「読解力のもんだい」だと言う。ではどうしてこう言ったのか?「確かに心無い言葉でした。ご遺族を責める気持ちは毛頭ないのですが、申し訳ありません」そして何故削除したのか?これでわかった。この人はこうした暴言を悪いとは思っていない。よくわかりました。暴言の主は自分からこの発言を誤りと認め、削除したのに、そのことを忘れているようだ。この人は健忘症なのだろうか?「申し訳ありません」という言葉も心からのものではなかった。後から「ブラボー発言には意味があった」と言うのは説得力がない。残念だ。また、こんなことを暴言発信者の日記コメントで言っている人もいる。>彼の言ってることは全くの揚げ足取りですから、気にする必要はないかと思われます。その後、私からの指摘でこう訂正した。>一部誤りであった発言があると認識したので訂正致します。揚げ足取り→お門違い、かな。この、「揚げ足取り」「お門違い」と発言したのはこの人まったくおかしな発言だ。実はこの人は「ブラボー発言」の元の文章を読んでいない。文章を読んでいなくて私の批判をしている。つまりこの人の言うことには根拠がない。文章を読まなくて批判ができれば評論家は苦労はしない。これを「予断と偏見」と言わないでなんと言うのだろうか?お門違いはこの人のほうだ。追記の追記この、「揚げ足取り」「お門違い」と発言したのはこの人その後、この人は自分で「ブラボー発言」の主にその意味を確認した。そして私にこんなメールを送ってきた。>正当化って思ってもらっても構わないと仰いましたので私が貴方に言ったことは間違いということになりました。よってコメントは削除してもらいました。申し訳ございませんでした。もちろん正当化とは「ブラボー発言」についてである。人のことを誰にでも読める場所に「揚げ足取り」とか「お門違い」と書いておいて、私個人しか読めない場所に「申し訳ございませんでした」で済ませるこの人の気が知れない。そんなに自分を正当化したいのだろうか?この人の日記で経過説明と謝罪文の掲載を求める。少なくともこの人には説明責任がある。もともとこの人は「ブラボー発言」の元の文章を読んでいない。そして「想像」で私のことを「揚げ足取り」とか「お門違い」と言ってきたのである。つまり「偏見」で物事を判断していたということになる。まったく無茶苦茶な言い分だ。再び追記 「揚げ足取り」「お門違い」と発言したのこの人から、謝罪文がメールで来た。しかし、「揚げ足取り」発言の削除がまだのようだ。(10月29日17時30分現在)謝罪文の掲載は、削除の後とする。それまでは謝罪がなかったものとして考える。そうでもしなければ、「揚げ足取り」の主は発言を削除しないかもしれないからだ。「揚げ足取り」と言った者は早く発言を削除することだ。なお、ブラボー発言の主には「殺人賛美者だと思われても構いません」とのことなので、今後はさらに自信を持ってそう解釈させていただく。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。ただし私の判断で削除もあります。
2004.10.16
どう考えてもおかしい。長崎の小学校で起こった同級生殺人事件で事件で、かつてこんな意見がある日記であった。>被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてるし、加害者の子には「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう。というものだ。 発言したのはこの人どう考えても、こんな発言は問題だ。これは「柔軟な意見」でもなんでもない。単なる「殺人の賞賛、賛美」にしかならない。何と言っても『殺人者に「よくやった!」とブラボゥ』だからね。もし、こんな発言を被害者の家族が読んだらどう思うだろうか?そして悪口を言われた小学生がみんな相手を殺したら、明日には小学生だけでも数万人殺されているだろう。どうしてそうならないかと言えば、殺人がいけないことだと知っているからだ。悪口がいいとは思わない。しかし悪口で人を殺すのは明らかに判断ミス。他の方法を探すべきだ。少なくとも殺すことに答はない。殺すことに意味を持たせるのは危険なことだ。それでもこの発言の主は、『「よくやった!」とブラボゥを送ってしまう』のだろうか?まるでオウムの考え方だ。狂っているとしか言えない。「殺人と悪口」を同じに考えているいる人がこんな発言をするのだろう。どうして殺人と名誉毀損が同じ罰を予定していないのか?この人の考えでは理解ができないだろう。こんな意見がまかり通ってしまうのは、何かが間違っている。この発言の主は、この発言を正当化しようとしているらしい。困ったものだ。私はその「正当化」について最近知ってしまった。一時はこの発言を「問題あり」だとして反省し、削除したはずなのに、発言の主はそのことをもう忘れてしまったようだ。私はもうこの話はやめようと思っていた。しかしこんな暴言を正当化しようとしている人がいるなら、はっきりと「それは違う!」と言わねばならない。こうした発言はなくならないのだろうか?追記 この暴言の主は集団自殺について日記でこんなことを書いている。>いやもう、好きにやってくれ^^;みんながみんな、自分勝手に生きてるんだよ。自分勝手に死んだっていいじゃないか。それが集団だってネットで知り合った仲だって、そんなことどうでもいいじゃない。彼らはどうして死に臨んだのかどうしてそこに考えが及ばない?今度は自殺を「勝手に死んだっていいじゃないか」ときたか。この発言の主は、目の前に今まさに自殺しようとしている人がいても、「自分勝手に死んだっていいじゃないか」ということで止めないのだろうか?素朴な疑問だ。>死んだ人が死んでまで断罪されるのは哀しいことだと、どうして分かってもらえない。彼らの死を、どうして悼んでやれない?「殺してブラボー」と殺人者を賛美しているのに、「死んだ人が死んでまで断罪されるのは哀しいことだ」というのは自己矛盾ではないか?この人が「被害者の子にはほとんど怒りに近い感情を抱いてる」なら、長崎の事件で殺された少女はこの人から「殺されてまで断罪」されている。すでにこの人の論理は破綻している。かわいそうに。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 意見があればメッセージでどうぞ。トラックバックも受け付けています。もちろん削除もあります。
2004.10.12
私にメッセージが来た。私が訴え続けてきた長崎の事件での「殺人の肯定は意味がない」についてのものだ。そのメッセージには(過去の論争で荒らしが来た)「あなたの気持ちがわかる」とあった。意味がわからない人は過去の日記を読んでみてください。何度でも言う。殺人を賛美したり肯定する意味はない。「悪口を言われたから殺してもいい」などという発言は、すべきではない。誰にも人を殺す権利などない。こんなわかりきった正論を何度も繰り返し主張し、それでも理解できない人が多く存在するところに、現代の病んだ現実が見える。長崎の事件で加害者となった女児は殺害して満足しただろうか?もう一度同じ場面に立てたなら同じように殺害しただろうか?しないだろう。その前に彼女には「もう一度」はない。しかし我々はこの事件を教訓にできる。残された者たちは「殺さない選択」をしようではないか?何度でも言う。殺すことに意味はない。殺人に答えを求めることは愚行でしかない。だから誰も殺すな。他に答えはある。必ずある。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。 言いたいことがあればメッセージでどうぞ。
2004.09.13
NHKスペシャル「子どもが見えない」を観た。この番組は二夜連続だ。ドラマのモデルにもなった義家弘介氏(高校教師)が、いじめを理由に苦しみ、包丁まで用意して同級生を殺そうとしていた(実際には殺さなかった)少年について言っていた。「まわりの先生、友達は何をしていたのか?」彼の顔は怒りに満ちていた。そして言った。「つらいだろうが殺したらもっとつらい、もっと苦しい」義家氏が担任だったら、救われる生徒は多かろう。しかし彼は一人しかいない。たとえイジメられていようが、殺すことは何ら解決にはならないし、殺人を肯定することには意味はない。過去、私の日記で長崎の事件について書いたら、驚くことに殺人の肯定をする人が多くてため息が出た。問題があるのは子どもではなく社会全体だ。追記教育を問う番組自体が少ないのだから、一部放送時間が重なったETV特集 ~夜回り先生・水谷修のメッセージ~との兼ね合いを考えて欲しかった。この二つの番組を両方とも観た人は少なくなかったのではないか?今日も第二夜を観よう。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。
2004.09.05
9月1日の新聞にこんな記事が出ていた。(事実関係は朝日、毎日新聞から)「佐世保の女児、殺されて当然」発言の小学校教師停職2ヶ月。小学校で理科を教えている教諭がこうした発言をしたそうだ。「おれも(被害女児を)殺してやる」「(被害女児は)殺されても当然だ」こうした問題発言を聞いて、「怖かった」「変な人だと思った」と訴える児童もいた。この教諭は言葉の取り違いと主張したため、学校が授業を受けた児童全員にアンケートしたところ、約半数(91人中49人)が不適切な発言を聞いたと回答があった。これでは教諭の言いたいことが伝わらなかったという言い訳は出来まい。まさに「伝える側の責任」だ。愛知県教育委員会は不適切な発言があったと判断して8月31日にこの教師の処分を発表した。当然のことだ。楽天でも同じように殺人の肯定を主張していた人がいたようだが、こんな発言が存在するのはまったく狂っている。「表現の自由」の意味を正しく理解していない者が多いのだろう。この教師は長崎の事件からいったい何を児童たちに訴えたかったのだろうか?まさか「みんなで殺人しよう」ということではあるまい。日本には殺人を肯定したい人が多いということなのか? 理解に苦しむ。*現在掲示板と日記コメントは閉鎖しています。悪しからず。
2004.09.01
昨日に続いてアジアカップの、中国人による騒動について書く。ニューズウィーク8月11,18日号にこんな記事が出ていた。「暴走する反日スタジアム」と題してこの問題を伝えていた。「反日の応援」をする中国人のこんなコメントが出ていた。「日本代表を敵視しているわけではない。日本政府に抗議をしているのだ」スタジアムは政治的なデモをするところではない。そしてサッカー選手に政治的なことを求めてもそれは無駄だ。「反日」中国人はそんなこともわからないのだろうか。ところで同じニューズウィークの8月4日号には、副編集長ジェームズワグナーのこんなコラムがあった。日本の君が代、日の丸をめぐる騒動についてのものだ。学校行事で君が代斉唱の際に起立しなかったなどとして、137人の処分を受けた教師が、東京都教育委員会による「再発防止研修」を受けたということをこう評している。『愛国心を育てる一環として「日の丸・君が代」を導入するというねらいは、必ずしも悪いことではない。しかし本人の意思を無視して、すべての生徒と教師に強制するとなると話は別だ。そんなことをして、社会にとっていい結果が得られるのだろうか?』アジアカップでの騒動を見て、私は「行き過ぎた愛国心」がもとで日本でも同じ事が起こらないかと危惧する。もちろん杞憂に終わればそれに越したことはない。韓国で起こった連続殺人は20人以上もの被害者が出て、韓国社会を震撼させた。この事件に関して7月31日朝日新聞夕刊にはこんな記事が出ていた。「かっこいい容疑者のファンクラブを作ろう」という韓国のネットでの呼びかけがあったというのだ。yahooニュースからその後、このページは削除されたということだが、これは何も韓国だけの問題ではない。日本でも長崎の小学校で起きた殺人事件で、加害女児のファンクラブができるという話があった。そして殺人犯を賛美する人は楽天でも存在する。殺人の肯定は意味がない。私は日記で何度もこのことを訴えてきた。あるテレビ番組で「どうして人を殺してはいけないか?」という質問が出ることも、その質問に答えられない人も驚きだったが、殺人犯を賛美するとは何とも悲しい現実だ。その舞台がネットであるというのもむなしいことだ。もし韓国で自分の家族が殺されたとしても、やはりファンクラブを作ろうと思うのだろうか?長崎の事件で、殺されたのが自分の娘だったとしても、殺人を肯定するのだろうか?
2004.08.05
楽天の中には殺人を肯定したい人が現実にいるようだ。狂っている。これでは私が何を書いても無駄だ。どうして殺人の肯定はもっと批判されないのだろうか?考えられることは二つ。その1 人が殺されることなんてどうでもいい。その2 意見を言ってしつこく反論されるのが嫌だ。これが現状だろう。殺人の肯定に何の意味があるのか。意味などない。殺人を当たり前のように肯定する人も驚きだが、殺人の肯定を批判した私を批判したがる人にもまた驚きだ。これは楽天に限られたことなのだろうか。それともネット全体のことだろうか。殺人の肯定など狂っている。救いようがない。追記 ある掲示板でこんなことを私に要求している者がいる。>私が救いをもたらしてやるからサッサと掲示板を開けろ。お題目は「天皇制」な。この人は何様のつもりか。ネット界の王様気取りか。誰が言うことを聞くか。命令すれば何でも自分の言う通りになるとでも思っているのか?こんな人とは話なんかできないね。*今もまだ掲示板や日記コメントは受け付けません。今開けても泥仕合になることは明らかですので。言いたいことはメッセージでどうぞ。なお、狂っている人のメッセージはすぐに削除します。
2004.07.26
日記を休止してから数日たつが、私を日記で批判している人がいる。 ここだ>この人は相手のレベルが低いと嘆く。・・・しかし他人から見れば目糞鼻糞。似たような低レベルだった。(私がROMで見る限り)この人は私のレベルが低いという根拠を書いていない。これでは反論すらできない。ここに知性のなさが見える。議論としては致命的な欠陥である。この批判している人はレベルが高いのだろうか?殺人の肯定について何か意見を述べたのだろうか?レベルの高いやり方で。殺人を肯定するような場所では何を主張しても無駄だ。最低限の共通認識がない人とは話ができない。私にメッセージをくれた弁護士もこう言っている。>>相手の方は議論のための議論を楽しんでいるとしか思えません。しかも、その議論も基礎的知識に決定的に欠けているものであり、反論の必要すら感じないレベルです。私の個人的感想としては、放っておくべきだなという感じです。むしろ議論を交わすことで、それを読んだ他の人がそんな理屈もありうるのかなどと変に納得してしまうのがこわいですよね。理屈にすらなっていないのに。楽天は殺人の肯定も問題にならないレベルだった。あまりに低すぎる。>この人は日記を読んで欲しくないと言う。・・・ネットは世界中に繋がっているのに? 少なくとも殺人の肯定をする人には私の日記を読んでほしくはない。殺人の肯定を批判しない人にも読んでほしくない。>「楽天には救いが無い」と嘆く有様は実に滑稽だ。殺人の肯定をしても批判らしい批判がされないのは明らかに悲劇だ。これでは長崎の事件のようなことはなくならないだろう。>では“救い”をもたらそう。魂の救済を。意味不明。「魂の救済」とは何のこと?この人自分に酔っているのか?やはりここはレベルが低い。もう駄目だな、この人は。*掲示板や日記コメント、トラックバックは現在すべて受け付けていません。言いたいことがあればメッセージでどうぞ。
2004.07.25
またもや反論している者がいる。 ここだ>>日本の法律では復讐は許されていない。>人間には法律を破る自由もあるのですよ。刑法は、行為に対してのペナルティを定めているだけです。ペナルティを引き受ける覚悟さえあれば、あらゆる行為がゆるされています。今度は「法律を破る自由」か。詭弁もここまでくるとすごいものだ。>>それではどうして現在の刑法では殺人を許していないのか? >刑法のどこの条文で殺人を許していないのか、具体的な条文を出して教えてください。各条文だ。復讐で殺したら殺人になる。>りゅうちゃんミストラルさんは、小役人的な発想しかできないのでしょうか?批判の主は殺人の肯定しかできないのだろうか?>>「表現の自由」を暴力で奪うことは問題ないと考えているのか?>掲示板や日記への都合の悪い書き込みを消しまくる行為は、「表現の自由」を暴力で奪うことです。自分が開いた掲示板だから、何をやってもいい!というのでは、件の彼女たちや、ぱど厨と変わりありません。私は自分のページには「独断と偏見で削除する」と書いてある。私のページに書きこむ者はその条件の上で書きこんでいるはずだ。何ら問題はない。書きたいなら自分のページにでも書けばいい。私は日記でもそう主張した。それとも表現の自由は私のページにしかないのだろうか?その前に、長崎の事件で加害女児は被害者の「発言の自由」を奪った。これは問題ないのか?追記 掲示板を開けましたが、再び閉めました。この日記の最後に書いてありますが、殺人の肯定についてもう話し合いの必要がなくなったからです。追記その2 弁護士菅谷公彦さんの見解。 楽天のページを持つ弁護士の方からこんなコメントをもらいました。相手の方は議論のための議論を楽しんでいるとしか思えません。しかも、その議論も基礎的知識に決定的に欠けているものであり、反論の必要すら感じないレベルです。私の個人的感想としては、放っておくべきだなという感じです。むしろ議論を交わすことで、それを読んだ他の人がそんな理屈もありうるのかなどと変に納得してしまうのがこわいですよね。理屈にすらなっていないのに。人を殺して良いという思想は憲法の容認するものでないことは明らかですよね。 なお、私の意見を表に出していただいても全然私はかまいませんよ。最初は、むしろコメントとして送信させていただきました。ただ、これ以上の議論はしませんよ。以上は、私の意見であり、これが議論することによってぶれることはありえません。発信はし続けます。というわけでもうこの話は終わりにしたい。また根拠もない「著作権法違反」と言われるのもくだらないことだしね。今回の教訓 殺人の肯定をする人がいるとは信じられない。また、殺人の肯定に賛同する人まで出てきたことも信じられない。 これでは凄惨な事件がなくならないわけだ。まさしく「話せばわからない」だ。 レベルの低い話には疲れた。
2004.07.17
またもや反論になっていない反論がある。 ここだなんだかこの掲示板では「2-1」とか下らないことを気にしているような人もいるようだが、それではどうして現在の刑法では殺人を許していないのか? そのことがまったく考えから欠けているようだ。そもそも掲示板は数の競争をする場所ではない。そして「数が多いほうが勝つ」のは民主主義ではなく「全体主義」だ。その場にいた数人で殺人の是非を決めてしまうのか?これでは「全体主義」ですらない。問題は人数ではない。殺人の肯定の次は「算数」か。レベルの低い話にはついていけない。>>殺人は許されないものだからだ。法律もそうなっている。>なっていません。一定の刑罰を受ければ許されます。法律はそうなっています。>殺人犯も初犯で模範囚なら5年程度で許されます。詭弁だ。それは刑罰を受けた後のことだ。殺人自体が許されたわけではない。刑罰を受けることそのものが殺人を法律が許していないということだ。>殺人の肯定をしたわけではなく、殺人を肯定できる論理をしめしただけでなんですけどね。思い込みの激しい方は困ったものです。同じことだ。殺人を肯定して何の意味がある?>>まさか批判の主は被害者家族の前でも殺人の肯定をするわけではあるまい。 >思考実験で、被害者家族の前で殺人を肯定してみましょう。>「あなたの娘の命を奪った犯人を殺して復讐をしましょう。あんな悪いやつを殺すのは正しいことです!」できちゃった(w ・・・・・・・人生には余裕が必要ですね(w日本の法律では復讐は許されていない。もし復讐が許されれば、法律そのものが成り立たなくなる。批判の主はそんなことも知らないのか。批判の主が言っていることは「余裕」などではなく、単なる「暴言」でしかない。こんな言葉に意味があるのだろうか?ところで批判の主は長崎の事件で殺された女児の「表現の自由」については何ら語っていないが、「表現の自由」を暴力で奪うことは問題ないと考えているのか?答えられないから答えないのだろう。やはりかわいそうな人だ。同情に値する。 参考資料1
2004.07.16
またもや私に反論している者がいる。 この日記だこちらも回答せねばなるまい。私は悪口がいいと言ってはいない。悪口はいけないことだ。だが、悪口があったからといって殺人してもいいわけがない。私はすでに6月10日にこんな日記も書いている。 ここだ>あなたが行っているのは「主張」です。なぜ、その主張が正しいのかを説明してください。>>誰も殺してはならぬ。殺人を正当化してもならぬ。>なぜですか?現在は殺人も殺人の正当化も許されていないからだ。殺してしまったものは元に戻せない。だから殺してはならない。殺してしまったら相手の発言を暴力で封じることになる。殺人は批判の主が嫌がる「表現の自由を奪う」ことになる。殺された者にも言い分は当然ある。殺すということは反論の機会を永遠に奪うことだ。表現の自由は殺人を正当化する者特有の権利ではない。殺された者が生きていればこれから楽しいことがあるだろうから、殺人は「将来の楽しみを奪うこと」にもなる。生きていたら被害者の女児は美味しい物も食べられただろう。恋愛もしただろう。しかし殺してしまったらすべては不可能になる。これは残された家族も同じだ。さぞや無念だろう。それでも殺人を正当化するのか。私には信じられない。>>いかに悪口を言われようとも殺す他に方法はある。>>必ずある。>論拠はなんですか?それは上記の日記を読んでみればわかる。悪口を言われたから殺すのではあまりに短絡的な思考だ。どうして殺すという選択をしてしまうのだろう。>>だから殺人に意味を持たすな。>なぜですか?では聞くが長崎の事件で加害女児は殺した後満足しただろうか?殺した翌日は?二日後は?後悔したのではないか?決して「殺してよかった」とは思うまい。「殺してよかった」と加害女児が今でも考えるなら、それなりの制裁を受けるだけだ。>>そして殺すな!>なぜですか?殺人は許されないものだからだ。法律もそうなっている。何度も言うが、殺したものは二度と元には戻らない。そして誰にも人を殺す権利はない。>>殺すことは何ら問題の解決にはならない。>なぜですか?長崎の事件で殺したことによって何か解決したか?何ら解決していない。私に「なぜですか?」とばかり聞く批判の主は、まるで小学生だ。こんな初歩的なこともわからないのだろうか?私は驚き、そして批判の主に同情する。また、批判の主は「表現の自由」というものを誤解しているようだ。誰にでも読めるところに書く文章に殺人の肯定をしてしまったら、長崎の事件での被害者家族も読めてしまう。事件が起こった小学校の児童も、学校関係者も読める。批判の主はそれでも殺人の肯定をするのだろうか?表現の自由とはそんなもののためにあるのだろうか?主張する場所を考えたらいい。私は今回の批判の元になった日記でもこう書いている。 ここだまさか批判の主は被害者家族の前でも殺人の肯定をするわけではあるまい。
2004.07.15
誰も殺してはならぬ。殺人を正当化してもならぬ。いかに悪口を言われようとも殺す他に方法はある。必ずある。だから殺人に意味を持たすな。そして殺すな!殺すことは何ら問題の解決にはならない。だから殺人に答えを求めるのは意味のないことだ。またもや「批判にならない批判」がある。 ここだ 何度でも批判の主が書いた以前の発言を載せる。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。>こういう考え方も、あるのです。(本文ママ)>相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。これが批判の主の「主張」らしい。何回読んでも暴言だ。>>殺人の正当化がまかり通ってしまうならば、>>法律の意味すらなくなってしまうではないか?これに対して批判の主はこう言う。>弁護士という職業はご存じですか?またもや詭弁だ。弁護士は殺人の正当化とは関係ない。批判の主は弁護と「殺人の正当化」の区別もできない。>>おかしい。何かが間違っている。>反論できない。という解釈でよろしいでしょうか?「だろうか?」ばかりで、明確な反論が無いようなんですが・・・。 私は明確な反論をしている。批判の主が私の質問に答えないだけだ。結局批判の主は「根拠のない殺人の正当化」ということしかできない人のようだ。大いに同情しよう。かわいそうに。参議院選挙は違憲?定数の格差で、参議院選挙は違憲の恐れがあるという。選挙前にも新聞などでこのことは報じられていた。資料1 資料2この件は訴訟になるのだろうが、裁判所の判断が注目される。まさか選挙結果が無効になったりしないだろうな?
2004.07.14
またしても批判にならない批判をしている者がいる。 ここだ ご苦労なことだ。こちらも反論しなければなるまい。もう一度批判の主が書いた以前の発言を載せる。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。>こういう考え方も、あるのです。(本文ママ)>相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。そして今回の日記。>「言論の自由」とは何を言ってもいいということです。それは、「内心の自由」とともに人類社会の活力と多様性を維持するために必要なものです。何のために殺人を正当化する?その意味は何だ?殺人の正当化が「人類社会の活力」になるのだろうか?「言論の自由」は殺人を正当化するためにあるのだろうか?言っていることがまったく無茶苦茶である。殺人の正当化がまかり通ってしまうならば、法律の意味すらなくなってしまうではないか?また、こうした殺人の正当化に賛成するものまでいる。こんなことを言っている。>単に人殺しを肯定するだけなら迷惑をかけることにはならないと思います。いつから日本では殺人を肯定するようになったのだろうか?殺人を肯定することは迷惑ではないのだろうか?おかしい。何かが間違っている。そして批判の主は今までの私の質問には答えようとはしない。答えられないのだろうか?追記 メッセージで私のほうが正しいと言って下さるのはありがたいが、各自がそれぞれのページでその考えを書いたらどうか?メッセージで私に向けて書いても意味があまり感じられない。暴言の発生源にも伝わらないし。
2004.07.13
まだ意味不明の批判をしている者がいるようだ。 ここだあまりに批判のレベルが低いが、答えることも必要だろう。まずはこのとんでもない発言について。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。>こういう考え方も、あるのです。(本文ママ)>相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。このとんでもない「考え方」の出所を、批判の主はこう言っている。>古代からあらゆる文明で見られる考え方です。死刑執行前の様々な儀式や手順もその考え方の系譜から来ているものです。具体的に例を示していない。これでは反論すらできない。もしかしたらこの方は死刑執行と殺人を混同しているのだろうか?そして、「純粋なら人殺しもあり」になってしまうのだろうか?悪口で殺されてしまうのだろうか?長崎の事件でも被害者家族に向かって、「人の精神を殺したから被害者は殺された」「悪口は殺人よりも罪が重い」と言うのだろうか?被害者家族はそれを聞いてどう思うのだろうか?とんでもない考え方だ。また、悪口を言われても殺さないという判断は、果たして「せこい損得勘定」なのだろうか?人間というのは、「理性」という損得勘定の中に生きているのではないか?そうでもなければ日本中あちこちで毎日、悪口を原因とする殺人が起こっていることになる。ところが現実はそうではない。殺さないことは恥ではない。殺すことに「美学」なんかない!私の言う「出所」というのは、刑法理論などにこうした考えがあるかどうかということだ。そしてその考えは現代でどれだけ認められているかということだ。「こういう考え方も、あるのです」などと言うのは、ただ一人でも考えている人がいれば、何とでも言えてしまう。批判の主の考え方はまるで、オウム真理教の「ポア」の考え方のようだ。かわいそうなことにそんな考え方しかできないのだろうか?そんなにまでして殺人を正当化したいのだろうか?こんな考えがあるようでは凄惨な事件がなくなるわけがない。こんな発言もあった。>あなたの意見に反論と別の見方を提示しただけです。。あなたが自身の人格を批判されたと考えているなら、単なる自意識過剰です。その「考え」というものが、どれほど支持されているのだろうか?しかも私は「人格否定」などと言ってはいない。この方は言っていないことを語るのが好きなようだ。>糾弾されるべきは、異なる意見を持つ人々を排斥しようとする、あなたのような人間です。言論の自由についてきちんと勉強してみましょう。「言論の自由」というのは、何を言ってもいいということではない。そして「言論の自由」というのは、「殺人を正当化」することではない。暴言を放置することでもない。そんなこともわからないのか?言いたいことは各自のページで書けばいい。そして読んだ人に判断してもらえばいい。私を批判している人は、どうやらこのことを理解していないようだ。あなたの考えが正しいなら、どうして法曹界はあなたの考えを反映させないのだろうか?批判の主は歴史を学ぶ前に、殺人がいかに人の尊厳を奪うかということを学ぶべきだ。これは「考え方の違い」で語る問題ではない。法律はあなたの考え方とはまったく違う考え方をしているからだ。つまりあなたの考え方は恐ろしく狭い考え方ということだ。また、以下の質問に答えていない。>まず、批判の主も「刺したほう、悪く無い」と思っているのだろうか?>どうして悪口が殺人に直結するのだろうか?>「殺人よりも罪が重い」というのなら、どうして名誉毀損は殺人よりも罰則が軽いのか?まったく疑問は解決していない。この反論したい人はまともに反論もできないらしい。大いに同情しよう。もう一度みんなに考えてほしい。この発言について。人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。日本の裁判で、こんなとんでもない考えが認められたことがあっただろうか?それともこの人の中では法律は意味を持たないのだろうか?殺人は果たして「相手の尊厳と名誉を守る」のだろうか?この人は以前、タイの少女の件でこんなことも言っていた。「善意の日本人がタイの少女を食い物にする」今でもなお意味不明である。誰がどう食い物にしていたのだろうか?そして「食い物にしていた」という人は、「食い物にされないように」どこで何をしていたのだろうか?追記 「刺したほう、悪く無い」と最初に書いた日記は削除されたようだ。削除されるべきかどうかは別として、暴言は批判されるべきだ。*今日も掲示板は閉じています。言いたいことはメッセージでどうぞ*
2004.07.12
私のことを批判した日記がある。 ここだ。私はいくら日記で訴えても意味がないのではないかと考え、今日を最後に日記をやめようと思っていた。だから昨日のうちに何人かには挨拶もしていたが、批判があるなら少なくとも今日はその批判に答えなければなるまい。>「人道的在留」と、「不法滞在」。それぞれの場合で「悪く無い」と言ってしまったら、法律の意味が無くなってしまいます>ほんの数十行の文章の中に、これほどはっきりした二重基準を示すことができるのは、自分の中に統一された価値基準が無く、一時の感情で動いているだけだからですね。これは簡単なことだ。日本政府は何ら基本姿勢を変えていない。だから今回のタイの少女のことがあったからといって決して法律の意味がなくなったわけではない。小泉の意向だそうだが、タイの少女は日本で保護すべきと判断すべき人が判断した。文句があるなら判断した人に言えばいい。今後、外国人に対してどう対応するか? 今回のことはいい機会になったはずだ。そんなこともわからずに私のことを二重基準と批判するのは意味のない「批判のための批判」である。糾弾されるべきはこうした無駄な批判をする人であることは言うまでもない。私を批判した日記はこうも書いている。>人を殺すのは、人として死なせるのだから、相手の尊厳と名誉を守ることになる。>人の精神を殺すのは、人を人ではないものにするのだから、殺人よりも罪が思い。>こういう考え方も、あるのです。(本文ママ)>相手を弑するほどに憎んだその精神は、命あっての物種といったせこい損得勘定を越えて純粋です。こんな事言っていいの?殺人が、相手の尊厳と名誉を守るのか?これは批判と言うよりも暴言、詭弁である。まず、批判の主も「刺したほう、悪く無い」と思っているのだろうか?批判するにしても、「こういう考え方も、あるのです」ではなく、まず批判する人自身の考えを提示すべきではないか?そして、そうした「殺人よりも罪が重いという考え方」はどこにあるのだろうか?出所をを示していないようだが、それでは話にならない。もしかしたら、あなたが信じているだけ?少なくとも私は自分の日記でこう書いている。>悪口はいけないことだ。だが、だからといって殺してはいけない。>殺す他に方法があるはずだ。>悪口と殺人はどちらも悪い。だが、悪い内容に差がある。このように私は悪口はいけないとはっきり書いている。だが、悪口を書いたからといって「刺したほう、悪く無いと思う」などと言ってもいいのだろうか? 言っていいわけない! どうして悪口が殺人に直結するのだろうか?「殺人よりも罪が重い」というのなら、どうして名誉毀損は殺人よりも罰則が軽いのか?批判した人はこの点については語っていないようだが、これはどうしたことか?もし批判した者が刑法の不備について語るなら、刑法改正のために訴えればいい。そんな勇気が批判した人にあればの話だが。つまりこれも「批判のための批判」でしかない。くだらない。>自分の意見を述べるべきところで「他人の意見ではなく、あなた自身で考えて欲しい。」というのは、「俺様の意見に賛成しろ!」という命令です。これはまったくの曲解。私の文章をよく読んでいない人の言うことだ。私は訴えた。読んだ人がそれぞれの考えを持つことを。「他人の意見」はもちろん「私の意見」をも含む。これもまた「批判のための批判」でしかない。批判をするならもっと論理的な構築が必要だ。こんな批判にもまた失望する。この程度の批判ではレベルが低すぎる。*現在「泥仕合」を防ぐため、掲示板は閉じています**何か言いたいことがある人はメッセージでどうぞ。一度は読みます*
2004.07.09
お知らせ。掲示板は再開しました。また荒れるようなら閉鎖します。長崎の事件だけではないが、あらゆることについて疑うということは大切なことだ。「国がやっていることだから正しい」などと言う人は最近は減ったようだが、それでもまだまだいる。長崎の事件でも今被害者の写真や実名報道が必要なのか?マスコミを疑ってみることは無駄ではないだろう。もっと疑ってみるならば、そもそも報道は事件の解明に役に立っているのだろうか?このことを後になって検証する人は少ない。考えてみて欲しいが、神戸の連続殺傷事件や、今回と同じ長崎での幼児殺人事件など、その後の事件防止に報道は何か役に立っているのだろうか?下手に報道した結果は個人情報をばらまき、「報道被害」を作りだすだけだったりもする。実際のところ「事件は単なるテーマ」でしかないように感じるのは私だけではないだろう。これは報道だけではない。教育の現場では何か過去から教訓を得て事件の防止ができたのだろうか?私は断言する。ほとんどの報道は役に立たない。ただ単に「売れるから」ということのみを見ている。売れもしなかったら単なる無駄だ。こうした人たちに「報道の自由」「表現の自由」を与えてもいいのか?是非疑ってみてほしい。報道関係のみなさん。あなたの伝えていることは何か事件の防止に役に立っていますか?自分自身を疑ってみてください。そして報道を疑ってみてください。加害者の個人情報流出も止まらない。どうにかならないものか。最終的には疑った先に信用は可能だと考える。大切なことは(以下秘密日記)
2004.06.15
もう手がつけられない。どうして個人情報に群がるのか?理由は一つである。(以下秘密日記)
2004.06.14
今日は長崎の事件について報道の面から書く。新聞各紙(6月13日)には、こんな記事が掲載されていた。被害者の父親が「勝手なこと」と前置きしてこうコメントしたというのだ。「もう名前や写真を出さなくても、ニュースや記事として成り立つのでは」すでに報道されているので多くの人が知っていることとは思うが、この父親は全国紙の支局長をしている。つまり「勝手なこと」というのは「親であると同時に新聞社勤務である」という板挟みになった心境を語っている。ここで「もし自分の娘でない人が被害者だったらどう報道するか?」ということをこの方に責めるのは酷であるし、意味はないと考える。だからこそ考えて欲しい。テレビ局関係者、新聞記者の方の中には同じくらいの子供がいる人もあるだろう。またもや「想像力」の問題だが、もし自分の子どもが殺された場合でも、今後も被害者の写真を出し、実名報道するだろうか?その意味は「売れるから」「注目されるから」という意外にあるだろうか?今回の事件は報道する意味はあるだろう。しかし「報道のやり方」についてはもう一度考えて欲しい。それでも今後被害者の写真を出し、実名報道しますか?その報道に意味はあるのですね?被害者が自分の子どもでも今後も写真を出し実名報道しますね?それが今後こうした事件の防止に本当に役立つのですね?
2004.06.13
またもやこの話題。 長崎の事件での「暴言」についてだ。私のところには多くの賛同者から激励のメッセージが来ているが、まだまだ理解できない人もいるようだ。残念ながら。同じ内容のの投稿を30回以上もする方がいるので、安全が確認されるまで、掲示板は閉鎖したままです。この場を借りて激励していただいた方にはお礼を言います。ありがとうございます。言いたいことがある方はメッセージでどうぞ。あまりにメッセージが多いのですぐに消しますが、一度は読みます。別に「すべての人が私と同じ考えでなければならない」というつもりはない。どうしても理解できない人もいるだろう。しかし何度読んでもあの「暴言」はあまりにひどい。どんな理由があろうとも加害女児に「よく頑張った」「ブラボー」などという事が許されるわけがない。そしてその暴言を注意できない人たちも私を失望させる。何度でも言う。これでは凄惨な事件はなくならないし、いじめもまたなくならないだろう。どうしてあのような暴言を表明してしまったのか?それは事件の加害女児にも通じる、「想像力のなさ」でしかない。加害女児は事件後に「謝りたい」と言ったと報道された。多くの人は「謝るくらいなら最初から事件を起こさなければいい」と考えるだろう。人は一年後、二年後のことは想像できない。しかし今日、明日のことは想像できる。だからこそ多くの人は人を憎んでも殺人者にはならない。加害女児がせめて一日後のことを考えていたら、事件は起こらなかっただろう。少なくとも今回の事件の結果と「加害者の自殺」を単純に比較するなどということは論外だ。どうして「自殺か殺すか」という単純な二者択一論になるのか、私には理解できない。そもそも「自殺を加害者が考えていたかどうか」もまだ明らかにはなっていないだろうに。今回の「暴言」にも同じことが言える。つまり「この文章を被害者家族が読んだらどう思うか」という点がすっかり欠けているからだ。被害者家族が読まなくとも、こんな暴言は表明すべきではない。これもまた「想像力のなさ」としか言いようがない。私は誰かとは違って「暴言」と「殺人」を同列には語りたくはないが、共通点はあると私は考える。もう一度「暴言」を読んでみて、もう一度考えてほしい。あなたの目で。考えてほしい。あなたの頭で。とりあえずこの話題は終了しようと考えます。あちらの対応次第ですが。また30回も連続投稿したりして。もう面倒になってこのホームページそのものを閉鎖するのもいい考えかもしれません。そうしたら喜ぶ人の顔が目に浮かびます。理解できない人とは話しても無駄です。今後はこうした暴言がなくなるように願います。いつのまにか20000ヒット。嬉しくもあり、悲しくもあり。
2004.06.12
まだわからないかわいそうな人がいるようなので、改めて言う。長崎で起こった事件での「暴言」は許さない。人には言っていいことと悪いことがある。これは「考え方が違う」という問題では決してない。ここ数日このことについて多くの意見をもらった。「相手にしないほうがいい」というものもあった。しかし「暴言」を放置したら今後は「暴言」がなくなるわけでもない。放置は解決にはならない。「勝利宣言を出せばいい」という意見もあった。しかし私は弁論大会に出ているわけではない。勝った負けたという目先のことが大切なのではない。逆に「りゅうちゃんの言うことが正しい」という激励も多くいただいた。ありがたいが、「暴言」に気がついた人は、どうか私に任せないで自分で注意していただきたい。私からのささやかな願いである。*****************************************************こんなコメントが来た。>最悪の事態は免れたのだからね。 いじめ自殺といじめっ子を殺してしまうのと、どちらが最悪だ? 俺は、自分が死ぬよりも、他人を殺してでも生きる方が生き物として誠実な生き方だと思う。そういう生き方を神に恥じることもない。つまり殺人事件が起きてもそれは「最悪の結果」ではないと言うのだ。この「屁理屈」には怒りもない。呆れるだけだ。そしてどこから「自殺」ということが出てきたのだろうか?彼は「自殺と殺人」を天秤にかけているようだが、その根拠はあるのだろうか?また、「殺すこと」が「誠実」だとも言う。これも暴言だ。「どちらが死んでもいけない」これが常識的な考え方ではないか?お里が知れるね。今後、投稿は予告なく削除します。***************************************************その後、私の言うことが正しいと判断される方が複数あらわれて、私自身が以前日記に書いた「ソドムとゴモラ」の意味を再び知ることになった。この世にはまだ救いがあった。そして私は救われた。賛同してくださった方々に、この場を借りてお礼を言います。本当にありがとう。******************************************************さて、それでは話を一歩進めよう。どうして「暴言」が発生するのか?また、どうして「暴言」を注意する人がなかなか現れないのか?答えは簡単。多くの人は「殺人事件は怖い、嫌だ」と思ってはいても、それ以上のことは考えない。だから事件そのものも防げない。事件について何が語られただろうか?ひどくなると「ネットが・・・映画が・・・」と、下らない「犯人探し」に躍起になってしまう。要するに「事件を真剣に考えてはいない」ということになる。学校関係者も結局はサラリーマンだ。「自分のところだけは事件を起こさないでくれ」と祈るしかない。今まで考えてこなかったのに、急に「命の教育をしよう」と言っても手遅れだ。やるならとことんやらねば。どれだけの人が真剣に事件のことを考えているか?私には大きな疑問でしかない。
2004.06.11
今日もこの話題。長崎の事件が「悪口」を動機としているか否かは私にはわからない。事実が明らかになるのはこれからだ。もし明らかになるならば。私は仮定の話は得意ではない。しかし昨日私のところにいじめにあっているという小学生から投稿がきた。いじめが今日あるのも残念ながら事実だ。私は教育には素人だ。「どうしたらいい」ということは無責任に言うべきではない。しかし「自分が今小学生ならこうする」ということなら言える。私なら「じたばたする」そして「相談する」のがいいと思う。「もういじめが嫌だから死のう」と考えるなら、何でもできるはずだ。近くにいる人に「自分はいじめにあっている。もう死にたいがどうしたらいい?」とじたばたして聞こう。この「じたばたぶり」こそが大切だ。「そんなことできない」という人もいるだろう。ならば相談しよう。ここにいる先生に相談しよう。きっと君の悩みを聞いてくれる。信用できる人だ。ここをクリック 私が考えるのはこんなことです。死ぬことも殺すことも人間はやろうと思えばできる。しかし殺したものは生き返らない。ならば「じたばた」してみよう。「悪口」や「いじめ」をしている人へ。あなたの言葉が人を殺すかもしれないと思ったことはないでしょうが、人を殺すか否かは別にして言われる人の身になってみましょう。悪口を言われて爽やかですか?気持ちいいですか?自分が言われたらどうですか?そんなこと考えたこともないですか?私は「悪口を言われたから殺す」ということは許さない。人の命と悪口は重さが違いすぎる。しかし私は同時に悪口も許さない。ここ数日の私の日記に対する反響からわかったことがある。話題になった「バカの壁」は正しかったということだ。「話せばわからない」が教訓になった。ありがたいことだ。この国には「表現の自由」があるが、「暴言の自由」も同じくあるらしい。今回の「暴言」は勉強になる。いい教材だ。その後の「暴言を発した人」の言い分を聞いていると、彼らにはまったくと言っていいほど反省がないのがわかる。大変珍しい種族である。そして「暴言」を注意する人もまた稀な存在だ。このままでは暴言があっても注意する人は滅亡してしまうんだろうなあ。また、「自分は注意する人を応援するが、自分では何もしない」という人にも失望する。何だか闘牛の牛にでもなった気分だ。私は人間なのだが。「自分は参加しない。でもあなたはがんばれ」と言われても・・・・人には人の事情があるのだろうが、自分が「バカを見る」のに疲れた。確かに誰も傷つきたくはない。しかし人にばかり期待するのもどうかとは思う。正直な感想だ。あなたはどうですか?今はこんな気分です。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
2004.06.10
今日も長崎の事件について書く。私としては少しこの事件から離れたかったのだが、昨日のような「暴言」があるのでは放っておけない。(気になる人は昨日の日記を読んでください。)事件の原因が何であるか?その深い部分はまだわかってはいない。この解明には時間がかかるだろう。今言えることは多くはない。そのひとつが「今、被害者家族にむち打つようなことはやめるべきだ」ということだ。これは実に簡単だ。どうしてこんな簡単なことができないのか?私は理解に苦しむ。昨日のような「暴論」が何の役に立つのだろうか?重ねて言う。こんな「暴論」がまかり通る世界では、凄惨な事件はなくならないだろう。多くの人は被害者家族を悲しませるような「暴論」を放っておかないと信じたい。この件では以下のようなご意見をいただいた。>同じコメントが14来ているというのは、「書き込む」のボタンを押した時に更新がうまくいかず、何度か押しているうちにそうなってしまうこともあります。それを「荒らし」とばっさり言うのは、短絡的でいささか意地が悪いかと思いますよ、オレは。知らないというのは怖いことだ。私はこの14本以外にも20回以上の削除をしている。みんな同じ内容の投稿だった。果たして「更新」がうまくいかなかったくらいでこうなるものなのだろうか?一度や二度ではない。実に30回以上も更新のせいでこうなるのだろうか?そしてこれでも「荒らし」ではないのだろうか?コメントするなら内容を確認してからにしてほしいものだ。どっちが短絡的なんだか?知らないというのは怖い。見当違いの指摘もほどほどにしてほしいものだ。 もう一度昨日の日記を読んでほしい。そしてあなたの目で「暴言」を確認してほしい。こうした「暴言」が一日でも早くなくなることを望む。
2004.06.09
今日は長崎の事件には触れないでおこうと思っていたが、無理のようだ。一部の日記にはネットで「悪口を書く」ことが「殺す」ことと同列であるように書かれているが、本当にそうなのだろうか?仮にネット上での悪口が原因で殺人が行われたとしての話だ。これを書いた人は『殺人は許されないが悪口もひどい』ということが言いたかったのだろうが、これではどう解釈されても仕方ない。『加害者の児童に対して、やったことは正しくないけれど、「よく頑張った」とエールは送りたいですね。』『イジメられて、我慢するよりは相手を殺してもいいと思うんですよ。』などということまで言う。これって私には「暴言」としか受け取れない。掲示板は誰でも見られるものだ。だから被害者家族も見ようとすれば見られる。もちろん今は家族を失ったことで頭がいっぱいになって掲示板など見ないかもしれない。しかしここで考えてほしい。もし被害者家族がこうした発言を見たら、読んだらどう思うだろうか?「うちの娘は殺されても仕方なかった」と考えるだろうか?私は訴えたい。どうして誰もが読むことのできる掲示板にこのようなことが書けるのだろうか?ネットとはこのように被害者家族が読んだら無情を感じるような下らない使い方しかできないものなのだろうか?何故自分にしか読めない部分に書かないのか?そのくらいの「情」すら持ち合わせていないなら、こうした凄惨な事件は永久になくならないだろう。「悪口をネットに書く」ことと「悪口に怒って同級生を殺すこと」が同じだとは私は考えたくはない。*******************************************************「供述をいくら聞いても、トラブルの程度と犯行の重大性が結びつかない」 県警幹部はしきりに首をかしげる。30年以上、事件を見てきた中で「一番の謎」と言い切る。「幼い容姿、話しぶりから考えても、あんな残虐なことがなぜできるのか……」(yahooニュースからの抜粋)*******************************************************私にはこれが一般的な考え方であるように感じられる。私は間違っているんだろうか?よく考えてほしい。「悪口を書く」ことが「殺す」ことと本当に同列なのだろうか?これでは「悪口を書かれたら殺す」ことにしかならない。私の感覚がおかしいのだろうか?(ここからは差別の話)何年か前のこと、私は世界遺産であるルアンパバーン(ラオス)にいた。タイの国境から船でメコン川を二日かけて下り、疲れてこの地に着いた。ここでインド帰りの日本人男性と神戸の大学生、二人の在日韓国人女性(韓国語は話せず)と夕食後に話した。話が「差別」になった時、少し熱くなった。こんな話だった。今でも日本に差別はあると言われている。被差別部落に住んでいる人は結婚や就職で調査されて不当な扱いを受ける場合があると聞く。もし自分の婚約者が結婚間近になって「実はうちは被差別部落で・・」と打ち明けられた。こんな時にはどうする?インド帰りが「そんなもの、結婚するよ」という。私も自分はそうすると信じたい。そこで条件を少し変えてみた。もちろんこれは架空の話である。あなたは婚約者がいて、やはり結婚前に婚約者から「私の家は実は被差別部落で・・」と打ち明けられた。あなたは構わず結婚することを決めた。「自分はこの人を守る!」と決意してだ。ところがあなたには妹がいて、彼女もまた結婚を控えていた。妹の相手は名門で、あなたの結婚話を聞いて相手について調査した。すぐに相手が被差別部落の出だと言うことがわかった。妹の相手家族は怒ってすぐにあなたに対して別れるように言った。執拗な反対があり、「すぐに別れなければ妹の結婚はなかったことにする」とまで言い出した。あなたならどうするだろうか?「自分が強ければ差別なんてない」と言える場合だけではない。この問題は根深い。差別は今でもあると聞く。学校でも「寝た子を起こすな論」(授業で差別を取り入れると逆に差別が広がるから触れないほうがいいという考え方)というものがあり、教育現場では持ち出さないようにしている教師もいると聞く。あなたならどうしますか?私は今も考えていますが答えが出ません。*何度も言いますが、この話は架空です。ただしモデルとなったのはデュマフィス(「三銃士」の著者アレクサンドルデュマの息子)の「椿姫」です。興味がある人は読んでみてください。また、こんな調査もあります。ここをクリック**私は決して部落問題には詳しくありません。誤りがあればご指摘願いたいです。今日もまたこんなこと書いて非難必至である。しかし少しでも差別について考えてほしい。
2004.06.08
また長崎での事件について書く。「もう議論は出つくした」「結論は出ている」と言う人がいたらその人に聞きたい。同じく長崎の幼児殺人事件から、何か変わったのだろうか?事件は防げなかった。結論どころか話し合いはこれから始まるし、「事件の予防」という面から考えれば何も前進はないのではないか?簡単に言うと結論は二つしかない。こうした事件が再び起こるか、起こらないかだ。未来はどちらになるだろうか?どちらだと思いますか?この事件を数字で見るのもいただけない。少年犯罪が増えているか否かという問題はこの際置いておかないか?結果がどうであっても「ああそう」としかいえない。数字で事件を見ることによってその深い部分が語られないとすれば、それは大きな損失だ。死んだのが一人だから、二人だからという話には意味があるのだろうか?問題は「事件があったかなかったか」ではないのか?もう一度言う。話し合いと結論はこれからだ。
2004.06.07
長崎の事件で、いろんな意見が出た。しかし「議論は出尽くした」ということにはならないだろう。思い出してほしい。長崎ではビルの屋上から子どもを落として殺した事件があったのではないか?あの時この問題を語ろうとしたらある方から「専門家に任せればいい」との意見をもらった。ところが今回の事件は起こった。事件は防げなかった。またある方からは「少年事件が増えているということはない」との意見ももらった。今でも「増えている」という人と「増えていない」という人がいるが、そんなのは私にとってはどちらでもいい。ただ現実として長崎では今回のような事件が起こった。問題は数字ではなく、「事件があったかなかったか」ではないだろうか?誰か「死んだのは一人だから問題は小さい」などといえるのだろうか?言えるとしたら反戦映画「西部戦線異常なし」の世界だ。意味のわからない人は是非観てほしい。3日の追記と同じようなことを再び書くが、この事件で少年法の改正が安易に行われないように私は強く望む。思い出すのは死刑論争だ。死刑の存続と廃止の議論ではどうしても感情的になり、特に死刑存続派からは残虐な刑を望む声が出ている。ネットでは特にひどく、まるで魔女狩りのようでもある。正直「殺せ!殺せ!」の声は聞くに堪えない。少年法でも最終的には改正されるかもしれない。しかしその過程には感情的ではない部分が必要にもなる。映画「十二人の怒れる男」のように、我々は話し合うことが出来るのだろうか?小学生が同級生を殺すのも怖いが、事件の反動も怖い。今はそんなことを考えている。
2004.06.05
長崎で起こった事件では、ネットの書き込みが原因ではないかと言われている。私はここで「犯人探し」をするつもりはない。人はいったん手に入れたものを手放すことができないから、「ネットを廃止しよう!」とここで訴えるのは無理があるし、現実的ではない。しかしそれでもネットが悪意に満ちていることには変わりない。匿名が基本のネットでは、必要以上に「バカ」「死ね」などの言葉が相手に突き刺さるし、言葉を発した方も深く考えていない。ネットがあることで、確かに便利にはなった。しかし同時に弊害も出るようになった。ネットは今後どうなっていくのだろうか?ネットをうまく使っていますか?***********************************************************追記 今回の長崎の事件で加害児童の個人情報がネット上で流れないよう、強く望む。顔写真なども望むものがいるから面白がってネット上に出る。また、事件の作用が強く出て安易に重罰(少年含む)を望む風潮が出ることにも危惧する。厳罰は問題の根本解決にはならない。犯罪を犯した少年の情報を無制限に出すのも私は賛成できない。他の日記では「オウムの元教祖だった男の娘が大学に入学を拒否された。『合理的な差別は許される』と考える。」(Bruckner04さんの日記から)との意見が見られたが、私はこの意見にはまったく賛成できない。何故なら、オウム元教祖の娘は自分が犯罪に関わっているということではないからだ。そのため、東京地裁では彼女に学生としての地位を保全する仮処分決定を出している。「犯罪者の娘なら差別されても仕方ない」何てことになったら、それこそ法の支配の下から逸脱した社会になってしまう。従って私にはこの意見がまったく納得できない。行政が「差別は不当」という裁判を起こしたかどうかではなく、裁判そのもので「差別が不当」と判断されたら、その判決については意味を持つ。これは当たり前のことだ。今回の事件での教訓が「憎しみ」だけなら、それが最も悲しい結果だ。*******************************************************今日も批判必至だ。
2004.06.03
佐世保での凄惨な事件に、もう驚かなくなっている自分がいた。小学生が小学生を殺す。小学校も安全な場所ではないということか。人は人を殺せる。しかし一度殺してしまった者は再び戻らない。自分には何ができるのだろうか?少なくともここで叫ぶことはできる。誰も殺すな!武器を持つな!いくら憎くても、殺す他にも方法はある。佐世保でも、イラクでも、パレスチナでも、とにかく殺すな!武器も持つな!武器で守れるものが何なのか、もう一度考えよう。私は誰にも殺されたくはない。誰も殺したくはない。人は間違える。怒りにまかせてとんでもないこともする。しかし殺すな!それが願いだ。簡単なようで、実は困難な願いだ。******************************************************(ここから更新)話は変わるが、ホームページめぐりをしてたら、イラクでの人質事件でのこんな意見が見つかった。「自作自演説」を一刀両断にしていてとても参考になる。ここをクリックところで人質事件を「自作自演」と主張していた人は最近見かけない。どこに行ってしまったのだろうか?インターネットの世界は常に生贄を求めているのだろうか?だとしたら悲しい世界だ。いつまでこんなことが続くのだろうか?
2004.06.02
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