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フリーで活動している音楽家を中心にした弦楽アンサンブル団体は、札幌では過去にもあったが、現在はこの団体だけではないだろうか。チェロとコントラバス以外は全員が女性というこの団体は、毎年、演奏会を開いているが、3回目の今回、初めて聴いてきた。札響のメンバーを顧問やコンサートマスターに迎えた、主に教育大出身者によるアンサンブルは、自発性に富み、アンサンブルの勘所をきっちり押さえたもの。その長所が最もよく表れたのがメーン曲、チャイコフスキー「フィレンツェの思い出」。特に急速楽章の白熱や楽器間のかけ合いは室内楽の醍醐味をじゅうぶんに楽しめるものだった。この団体の顧問でもあるチェロの文屋治実をソリストに迎えたハイドンの「チェロ協奏曲第1番」は、細部まで整った演奏で、弦楽オーケストラが出しゃばりすぎることもなく、さりとて消極的な「伴奏」に終始することもなく、「拡大された室内楽」としての協奏曲演奏として魅力的だった。一方、指揮者がいないことによる短所も散見。クレッシェンドが早く、全体にアグレッシブな表現に傾きがちで、冒頭の2曲、シベリウスの「叙情的アンダンテ」「祝祭アンダンテ」は、もう少し抑えた響きで聴衆の耳をステージというか音楽に引き寄せるような演奏が好ましいと思うし、アルビノー二(ジャゾット)の「アダージョ」もややテンポの変化というか性格付けが曖昧でディナミークも単調だったように思う。会場のちえりあホールは、自治体ホールにありがちな素っ気ないホールだが、音響はよかった。超一流に大枚払うのも悪くはないが、1000円か2000円くらいの廉価な入場料で日常的にコンサートが楽しめるようになるのが文化的成熟というものだろうと思う。「若手音楽家による自主公演」といったコンサートに、しばらく、できるだけ通ってみようと思う気にさせる内容の一夜だった。
February 28, 2008
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この日のメーン曲、ブルックナーの交響曲第9番は、レナード・バーンスタインが最後の来日になった1990年のパシフィック・ミュージック・フェスティヴァルで指揮するはずの曲だった。しかし直前になって曲目が変更され、この曲は演奏されなかった。バーンスタインのような大音楽家が、もしかしたら生涯の最後になるかもしれない演目のひとつに選んだことが、長い間、気にかかっていた。だから、ルーティンワークの演奏など聴きたくなかったし、安易な気持ちでこの曲に向かってはいけないと思ってきた。あれから18年。やっとこの曲を実演で聴く機会を持つことができた。そしてそれは、予想をはるかに超えた体験だった。驚いたのは第3楽章、フィナーレの密度と緊張感。録音で聴くと慰めや癒しの音楽に聴こえる部分も多いが、実演の印象は、まるで20世紀に起きた惨劇の数々を予言し告発し弾劾するかのような、厳しく妥協のない音楽がなりふりかまわず、聴き手におもねることなく無限に続いていくかのようだった。そのフィナーレの緊張に耐えられなかったのか、クライマックスに至る過程で、年配の聴衆の何人かはホールから退場した。指揮の尾高忠明はまさにクライマックスの音で指揮棒を落としたが、指揮者の消耗もすごかったのではないか。終演後の指揮者は、マラソン完走者のようにひとまわり小さくなったような印象さえ受けた。あらためてバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮したCDを聴くと、このクライマックスに至る過程ではバーンスタインのうなり声が聞こえる。その演奏に比べると尾高の指揮は淡々と歩を進め、静かに白熱し高揚していくものだったが、アンサンブルの整理・整頓と緊張感に満ちた高揚が両立した名演だった。オーケストラ、特に弦楽器の響きに厚みと潤いがもう少しあれば、現在、聴きうる世界で最もすばらしいブルックナーになったのではないかと思う。前半はデヤン・ラツィックのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第23番。ラツィックは旧ユーゴスラビア出身で、クラリネット演奏家としての録音もあり作曲もするという才人。明るい音色の多弁で流麗な演奏。
February 23, 2008
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ヨーロッパのアフリカといわれるスペインは、歴史的にも民族と文化の交差路だった。その痕跡は音楽にも刻まれている。メロディに使う音の並べ方を旋法(モード)という。ドで始まる旋法をイオニアといい、レから始まるのはドリア、順にフリギア、リディア、ミクソリディア、エオリアと続く。こんにち、私たちが接する音楽のほとんどは、ドで始まりドで終わるイオニア旋法で作られている。20世紀スペインの作曲家、ホアキン・ロドリーゴのギター協奏曲「アランフェス」の第二楽章、哀切な美しさで知られるアダージョのメロディは、フリギア旋法で作られている。このメロディが東洋的な憂愁を感じさせるのは、まずそうした旋法で作られているから。さまざまな民族の侵入を受けたスペインの歴史が、中近東やギリシャに起源をもつこうした旋法の使用となって音楽に刻まれているのである。ちなみに、「スペイン的」と感じる音楽のほとんどはフリギア旋法で作られている。旋法だけではない。ある音の周りをくねくねと動く刺しゅう状のメロディラインはイスラム音楽のもの。そこへヨーロッパ音楽のハーモニーが加わり、「アダージョ」の、世にも妙なる調べが生まれた。もうひとつ、「ファシズムにスペインで死を」を合言葉に戦われたスペイン市民戦争のさなかに作られたこの曲は、「自由スペイン」のために全世界からかけつけ、フランコの邪悪な軍隊と戦った死んだ名もない人々への追悼の音楽でもある。砲弾でさえ打ち砕けなかった「水晶の精神」を持つ人々の中には、アメリカの義勇兵団体、リンカーン大隊に所属する函館出身の孤児で調理師だったジャック白井もいた。※早世しなければカラヤンをしのぐ大指揮者になっただろうと言われるスペインのアルヘンタの指揮、ナルシソ・イエペスのソロによる1950年代のステレオ録音がセブンスターに遺されており、日本ではキングから発売されていた。
February 17, 2008
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ピアニストのY子さんと知り合ったのはわたしが30歳の時。彼女は東京の音楽大学を出て数年たっていたので、25~6歳くらいだったと思う。どういうきっかけで知り合ったかは思い出せない。共通の友人がいたわけでもないし、およそ接点があるはずのない人だった。しかし、30代前半くらいまでは、小さなつながりでもどんどん人間関係は広がっていったから、かすかな接点があったのかもしれない。二度デートしたのを覚えている。一度目は、デレク・ベイリーというフリージャズ・ギタリストのコンサート。演奏に対する彼女の感想はなかなかシャープで、難解なフリージャズも受け入れる器量があるのがわかってうれしかった。フィーリングが合うことに気をよくしたわたしは、次に、ウトナイ湖にあるバードサンクチュアリに誘った。ウトナイ湖は勇払原野にある小さな湖で、渡り鳥の中継地として知られている。わたしにとっては子どものころ何度か遊びに来た思い出の場所で、そういうところに彼女を連れていきたかったというのもある。湖畔のホテルや遊戯施設はすべて撤去され、昔の自然を取り戻しつつある。湖畔へは遊歩道があり、いかにも北海道らしい手つかずの自然に触れることができるが、その自然にとけ込むように鳥の観察センターが作られ、室内から鳥を静かに観察できるようになっている。しかしどうも彼女は浮かない顔をしている。センターを出たあと聞くと、「鳥は嫌い」だというのだ。それなら、どうして最初に言ってくれなかったのだろうと思った。わたしだって、特にバードウォッチングが趣味なわけではない。鳥は、どちらかというと見るより食べる方が好きだ(笑)ただ、花や紅葉の時期ではない季節の野外のデート場所として最適ではないかと選んだだけだ。昼食時になったので、国道沿いのレストランに入った。ラム肉料理のレストランだが、もちろんラム肉以外のメニューもある。ラム料理とあるけど、ほかのものもある。あそこでいい?と聞くといいという。わたしはロースト・ラムを頼んだ。彼女はラム肉以外のものを頼んだ。楽しいはずの食事なのに、彼女は浮かない顔をしている。聞くと、ラムは嫌いだという。ラムが嫌いなのはしかたがない。しかし、ラムを食べているのはわたしであって彼女ではないのだ。だが、わたしがラムを食べているのが不愉快なのか、彼女は自分が注文したものにもほとんど手をつけなかった。わたしはおいしそうにモノをパクパク食べる女性が好きなので、何だかがっかりだった。気まずい食事のあと彼女を送った。彼女の家は遠いので、JRの支線のある駅まで送ることになった。しかし、その駅の場所とそこに至る道は、わたしは不案内なので、彼女にナビゲーションをしてくれるよう頼んだ。しかし、彼女のナビで間違った方向へ行ってしまい、夕方からの自宅でのレッスンに間に合わなくなってしまった。彼女のミスではあったが、いちおう「ごめんなさい」とわたしが謝った。それなのに彼女は黙っていて機嫌はよくないようだった。すべてにおいてボタンをかけちがえたようなデートになってしまった。人間の好みは千差万別だ。特に食の偏りはふつうの人が考えているよりはるかにひどいケースが多い。違っていてあたりまえで、わたしだって進んで食べたくないものは一つや二つではない。人と人が親しくなり理解しあうには、お互いの嗜好をよくすり合わせることが必要だ。自分が何が好きで、何を欲していて、何をしたいのかを、はっきりと意思表示することが大事だ。バードウォッチングが嫌いで、ラム肉は相手が食べるのを見るのもイヤなら、最初からそう言えばいいではないか。もちろん三度目のデートはなかった。どんな人でも、三度会って話してみなければわからないと思っているわたしは、二度目のデートの違和感で決めつけてはいけないと思い、三度目のデートに誘った。だが電話に出た彼女は、それまでとは打ってかわってよそよそしく、ほとんどとりつく島もないほどだった。二度目のデートの時のわたしの言動の何かが、よほど彼女は気に入らなかったのだろう。音大のピアノ科出身者とは、かれこれ10人は付き合っただろうか。いずれの場合も似た経過をたどった。もちろん例外はあるのだろうが、音大のピアノ科出身者は、女ばかりの環境で、幼いころからピアノばかり弾いてきたために、男性を見る眼に奇妙なバイアスがかかってしまったのではないか。もちろん例外はあるのだろうが、もうたくさんだ。音大のピアノ科出身者に告ぐ。わたしの周囲5メートル以内の接近を禁ずる。もし接近した場合、ウルトラマンに変身してスペシウム光線で攻撃するので覚悟されたい。
February 13, 2008
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音楽家は音をつむぎ、詩人は言葉をつむぐ。では、詩とは美しい言葉をただ並べたものだろうか?詩人の眼はふつうの人と同じものを見る。しかし、ふつうの人が見過ごしてしまうものに詩人は美を見出し、愛情を注ぐ。貧しいもの、うつろうもの、つかの間輝くもの・・・詩人はそれを詩の中に刻み、永遠の生命を与える。「プラテーロとわたし」は、スペインのノーベル賞詩人ファン・ラモン・ヒメネスの代表作。アンダルシア地方の風物、人々の素朴な暮らしなどが、プラテーロというな名のロバを友とする詩人の「わたし」によって語るようにつづられていく散文詩集だが、138編からなるこの詩集から28編を選び、朗読とギターのための作品にしたのがこの曲。スペイン系イタリア人の作曲家カステルヌォーボ・テデスコ円熟期の傑作である。スペインの人々を「生まれながらの貴族」と呼んで敬愛した詩人は、言葉を持たないロバを心からの友とし、青空以外の神を持たないスズメたちを「兄弟」と呼ぶ。生きるものすべて、存在するものすべてに偏在する美と真実を、魔法のように美しい言葉で描いていく。一方、テデスコの音楽は、清らかな叙情に満ちたヒメネスの詩に寄り添うように流れ、詩人の純朴な魂を映すかのように響く。福田進一のギターと江守徹の朗読によるビクター盤(廃盤)には、このうち15曲が納められている。選曲、構成、演奏、朗読のすべてが見事な一枚。奇跡のようなヒメネスの言葉と哀しげな音楽が静かで深い感動を呼ぶ。
February 11, 2008
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塾の講師をしていた時、思ったことがある。小学2年、つまり8歳までは自我がまだ固まっていない。これが小学3年になると、急に大人びる。子どもの個性もはっきりと見えてくる。「大事なのは8歳までだ」とつくづく思ったが、小澤征爾が「子どもが音楽好きになるかどうかは小学校低学年まで」と話していたのを聞いて思わずうなずいたものである。就学期以前の教育や環境こそ大事で、学校教育で基礎的な人間教育・社会教育を行うのは不可能なのだ。8歳と言えば思い当たることがある。初めて特定の女の子を好きになったのは8歳、小学3年のことだった。同じ学年の隣のクラスの子で、同じ市営住宅の、隣のブロックに住んでいた。なぜその子と話すようになったかは、どうしても思い出せない。廊下ですれ違ううちに何となく好意を感じるようになり、それで話しかけたのだと思う。人生で最初のナンパだったかもしれない。それはともかく、その学校は進級のたびのクラス替えというのはなかった。だからその子とも入学の時からずっと隣のクラスで、見知っていたはずだ。それが、8歳になって急に「異性」として意識するようになったのだと思う。同じクラスの子なら写真が残っているが、違うクラスなので、その子は顔も覚えていない。ただ、廊下でその子と話していて、たしなめられたこと、その時の彼女の声だけを覚えている。8歳(彼女は9歳だったかもしれないが)にしてはませたことを言う子だったと思うが、下がったズボンを無意識にあげたぼくに、「レディの前でそんなことをしては紳士とは言えないわ」と言ったのである。そのことは鮮烈な印象・記憶として残っている。というのは、それをきっかけに、天衣無縫で自由で気ままだった子ども時代が終わったからだ。それまでは、暑ければ上半身裸で街を練り歩き、勉強などそっちのけで遊んでいた。昭和30年代の子どもそのままだった。それが、その彼女の一言をきっかけに、人の目というのを気にするようになった。誰かに好かれるには、好みという文化的コードを知り、それに自分をアダプトしなければならないのだということを知った。人間社会で生きていくのは、何と不自由なことかと思ったが、天衣無縫でありながら、誰にでも好かれるようなキャラクターの人間が理想だとも思った。知的に屈折した人間、常識を疑わない人間には嫌悪感をおぼえるようになった。「小学校低学年」ぎりぎりの時期に、こうしたことを教えてくれた彼女には感謝している。おませな、ちょっと勝ち気なところのある活発な子だった。昭和38年に千歳市立北栄小学校に入学した100名ほどの女の子のうち、新富町にあった市営住宅に住んでいた子は数人しかいないはずだから、彼女がこのブログを読んだら自分だと気がつくはずだが、そんな奇跡があったらおもしろい。40年以上たって、彼女はどんな「レディ」になっているだろうか。
February 10, 2008
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2000年代がインターネットのホームページ、ブログやSNSの時代だとすれば、1960年代は同人誌、70年代はミニコミの時代だった。大学に入ったものの、そのあまりの知的環境の貧困さに倦んだわたしは、北大で演劇をやっている人がよびかけたミニコミ発行の話に乗ってみることにした。会ってみると、演劇青年のくせに能書きが多い。口先だけで行動力が感じられない。「呼びかけ人」は放っておいて、自分ひとりで作ることにした。300部ほど作り書店などに置いてもらった。50部ほど売れただろうか。印刷代の3分の1も回収できず、「こんなに売れないものなのか」と落胆し、創刊号で廃刊にした。しかしそのミニコミを読んで連絡をくれた人がいた。偶然にも同じ大学の先輩の女性。美緒子さんといった。ウーマン・リブの影響を強く受け、学内で高群逸枝の読書会などをやっていた。不思議な縁もあった。彼女の誘いで某哲学者がやっていた読書会に参加してみたら、小学時代からの友人の父親がいた。医学部の元教授で、僻地医療に取り組んでいる人だった。こうして、彼女を介して広がった人脈によって、それまでとはまったく異なった知的風景がひらけた。ダジャレと音楽からできていたわたしの脳が、いくぶんかでも社会科学的な思考ができるようになったのは、彼女と彼女を介して知り合った人たちのおかげだ。いま思えば、彼女は女性としても魅力的だった。しかし、こちらはクラスメートの女の子二人と恋愛の真っ最中だったし、当時19歳の男に22歳の女は15歳ほど年上に見えた。だから女性として意識することはなかった。さて、高校2年のときの隣席の美少女は、引越も引き受ける運送会社の社長の娘だった。だから、1970年代のはじめには、日本ではもう引越屋というビジネスが始まっていたはずだ。しかし1980年代のはじめくらいまでは、引越といえば、市内なら知人・友人が総出で手伝ったものだった。この時期、わたしも知人の引越を10回以上は手伝ったと思う。知り合って1年ほどたって、卒業=就職を機に実家を出てひとり暮らしをすることになった美緒子さんの引越を手伝った。1970年代の学生の家財道具などしれている。引越は短時間で終わり、彼女のこだわりのルンペンストーブを囲んで酒盛りが始まった。引越したばかりの殺風景な部屋。とはいえ、若い男にとって、女性のひとり暮らしの部屋ほど魅惑的なものはほかにないと原田宗典も書いているので参照してほしいが、女性のひとり暮らしの部屋に入ったのは、あれが生まれて初めてのことだったと思う。彼女のアパートの近くに住む4~5人が残り、酒盛りが始まった。話題はおなじみ民青や革マルの悪口と、当時破竹の勢いで勢力を伸ばしていた4トロこと第4インターナショナル日本支部の評価など。夜も更け、お酒がまわってくると、何だか彼女を女性として意識するようになってきた。彼女も解放感からか、積極的になった。彼女はぼくに恋人がいるのを知っていたが、きみには彼女がいるけど云々・・という話になった。要するに、遠回しに、ぼくのことを好きだけど彼女がいるから諦めると言う。いや、諦めるという言い方で誘ってきているのだった。ほかに誰もいなければ、ベッドインしていたかもしれない。着やせする性質なのか、それまで気がつかなかったが、Tシャツ一枚になった彼女の胸は豊かで、体つきはいかにも熟した女性のそれだった。いつも美術学生のようなラフな格好だったので、彼女がそんなに肉感的でセクシーだとは思ってもいなかった。その時付き合っていた恋人はDカップだったが、彼女のバストはその倍くらいはあるように見えた。今でいえば、EカップとかFカップくらいあったのではないだろうか。のどから手が出るほど食べたかった「据え膳」に、しかしぼくは手を出さなかった。なぜかと言われれば困るが、人間的に尊敬していた彼女に、軽薄な男に見られたくなかったという「見栄」がじゃまをしたのだと思う。人はこのように、本能的に行動すべき場面では理性的に、理性的に行動すべき場面では本能的に行動してしまうものだ。逃したバストは大きかった。それから数年、その時のことを思い出しては悔しがったものである。ほかに人がいたのもネックだった。ノンセクトにしてはアタマの堅い、何とも空気の読めない人たちだった。即席の恋人たちの即興の恋に配慮できない新左翼など官僚以下だと思っていたら後年、ほんとに官僚みたいな人格になっちまっていた。彼女のアパートは家から近かったので、その後も訪ねようと思えばできた。しかし訪ねなかったのは女ともだちと同居を始めたからだ。その後もしばしば会ったが、個人的に付き合う気になれないまま疎遠になってしまった。水沢アキを素朴にしたような感じの彼女は、卒業するまでも、その後も男性と付き合った形跡がないのは不思議だ。ひょっとすると男嫌いなのかもしれない。ずっと独身を通し、教員を続けながら、労働組合の上部団体の女性委員会の幹事などをやっている。10年ほど前にとあるパーティで会ったときは、優しさと善良さが服を着て歩いているような雰囲気の女性になっていた。「こういう人となら幸福な結婚生活を送れただろうな」ととっさに思って、女性を見る眼のなさに自己嫌悪に陥った。金のわらじをはいてでも探すべき価値のある女性が、このケースのように、向こうからやってくることもある。そうしたチャンスをつかむかどうかは自己責任で、30年後にブログで泣き言を言っても始まらない。
February 8, 2008
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30代くらいまでは、年があらたまったのを機会に何か新しいことに挑戦しよう、などと思ったものだった。そういう殊勝なことは、このところさっぱり思わなくなってしまったが、いくつかしたいと思っていることはある。ひとつは、映画を観ること。キネマ旬報のベストテンに入った作品をさかのぼって調べてみると、たくさん観た年でも、数本しか観ていない。これでは知性と教養を疑われてしまう、と作品表を見て焦ってしまった。もうひとつはスープ作りに熟達すること。去年、風邪をひいて寝込んだときに、スープがあったらどんなにいいかと思った。辰巳芳子さんの「命のスープ」というテレビ番組を見て、あらためて、あんなふうにスープを作ることができたらいい、と思ったのもある。サラダを食べ、スープを飲むと、それだけで満腹感が得られるので、食べ過ぎにならないのもいい。おぼえたいのは、辰巳芳子さんが作るような、繊細な和風のスープ。韓国のソルロンタン。イタリアのミネストローネ。中国料理店によくあるホタテのスープ。ロシアのボルシチ。スペインのガスパッチョ。こうしたものを一ヶ月に一つずつ、毎日のように作っていれば、コツもわかるだろうし、作り方も身につくにちがいない。
February 1, 2008
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