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循環型社会を理解するにあたり、生物が土に返ることのすばらしさや、人類が地球の財産を食いつぶしつつある現状について考えてみた。そこで、きわめて単純な法則に気づく。「収入よりも支出が多いと破綻がくる」ということだ。当たり前過ぎるが、一番大事なことでもある。今の世の中を動かしているものは「経済の論理」だ。それはすなわち、「儲けることはいいことだ」ということである。より儲けたものは勝者であり、貧困にあえぐものは敗者である。この原理はすべてのものを貨幣価値に置き換えることで成り立っている。価値のある人とは、お金を持っている人であって、みんなに愛されている人ではない。この「経済の論理」は「循環型社会」の原理と一番なじまないものなのである。循環型社会とは生態系、すなわち大自然の営みを基本とした社会である。大自然は確かに弱肉強食の世界だ。それだけ見ると「市場原理」に似ているようにも見える。が、一番の違いは欲望の方向性である。生態系の中では必要以上の欲望は発生しない。即ち欲望に限りがある。自然界の強者であるライオンは、満腹な時にはシマウマを襲わない。しかし人間は使い切れないほどに金を儲けても満足しない。腹の太ったライオンに、どうしたらもっと食べさせることが出来るかを考えるのが経済だ。1着のスーツが欲しい人に3着のスーツを売ることが出来る営業マンが優秀な営業マンなのである。循環型社会の基本は「足るを知る」ということにある。経済の基本は「欲望を増幅させること」にある。洗剤を流せば河川は汚れる。でも、洗剤が早く減れば洗剤メーカーは儲かる。極端な話、ワンプッシュで出てくる洗剤の量を5%増やせば売り上げも5%アップする。でも河川は5%汚染されるわけだが、その汚染を浄化するためにの費用を洗剤メーカーが払うわけではない。大自然が何億年もかけて蓄えてきた財産の代価は、一体誰が払うべきなのか?*********************上の記事は、2005年10月22日の記事の再掲載です。2020年以降の温暖化対策について、世界196か国が参加して、その取り組みについて決めた「パリ協定」が11月4日発行するらしい。日本では、国内での批准手続きが遅れており、それに間に合いそうにない、というニュースをやってました。日本の目標は、二酸化炭素の排出量、2013年比26%減。これはかなり大変です。とはいえ、私を含めて、国民にはきっとそういう意識もない、というところに問題がありますね。日本の場合、個人の努力よりも、「省エネ技術」でもってそれを達成するつもりなのでしょうか?
2016/10/11
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循環型社会を目指す!というスローガンが掲げられるということは、現実はそうではないということだ。それでは、「非循環型社会」とはどういうものなのか?ということを考えてみれば循環型社会を理解しやすいと思われる。非循環型社会とは、簡単に言えば「使い捨て」社会である。生産→消費(使用)→廃棄そこで終わってしまう。作った分だけ廃棄物が溜まっていくわけである。産業革命が始まった頃、人間の存在に比べて地球は果てしなく大きな存在であったはす。ちっぽけな人間が黒い煙を巻き散らかそうが、汚いものを海に流し込もうが、全ては大自然がやさしく包み込んでくれるはずだった。そう信じた人類は、指差す彼方の栄光に向かって一直線。何十億年も掛けて生まれてきた石油を掘り返し、燃やし、そのエネルギーでもって人間は地球をどんどん狭くした。かつては何年もかかった地球の裏側への大航海が、今なら飛行機で1日もかからない。これはすなわち、短時間に大きなエネルギーを使っているということだ。そう考えると、人類の進歩とは、どれだけ段時間に、どれだけ大量のエネルギーを使うことができるかという「技術」の進歩なのだということが分かる。大きかった地球は、人類が使用するエネルギーの膨張(人口X一人の使うエネルギーの増大)によって相対的にどんどん小さくなっていった。そして、やっと「こりゃまずい」ということに気付いたわけである。後先考えずに放蕩を繰り替えし、限りなくあるはずだった財産の底が見え始めた金持ちのボンボンと同じである。「この調子で使っているとなくなってしまう!」これまで遊び呆けていたボンボンも、使うだけだといつかは無くなってしまうことにやっと気付いたわけだ。今の人類の状況に似ている。が、しかし、これまで放蕩癖が身についてしまって、働く気にもならなければ節約することもできない。これもまた人類と同じだ。分かっているけどやめられない。心の底では「なんとかなる」と思ってる。でもきっと、どうにもならないのだ。財産を使い尽くした彼は、「ご利用は計画的に!」を書かれたポスターが張ってあるドアを押す。このドアを押す前に聞きたい言葉だったが・・・・・。さて、人類はどうしよう?(2005年10月19日 掲載分 再掲載)10年以上前に書いた記事ではありますが、基本的な状況というのはほとんど変わってないようです。逆に、10年間放置されてきた分だけ深刻になったとも言えますね。
2016/10/05
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「循環型社会」という言葉を聞いたことがあるだろうか?環境問題に関心のない人でも、どこかで必ず耳にしたことがあると思う。そう、環境問題用語である。「生態系」という言葉は誰もが聞いたことがあると思うが、具体的にその内容を知っている人は意外に少ないのではないだろうか。なにを隠そう、私自身が良くわかっていなかった。「いろんな生き物が暮らしている環境」という程度の漠然とした捕らえ方をしているケースが多いと思うが、それはそれで間違いとはいえない。が、その環境を保たれているのはなぜだろう?ここがミソなのである。個々の生き物は生まれ、成長し、死んでいく。それにもかかわらず環境が保たれるのは、そこにひとつのシステムがあるからである。そのシステムを生態系(エコシステム)という。「土に返る」という言葉がある。生き物が死に、腐り果てて、跡形もなくなることだが、これこそまさしくその一局面である。もし、人間が死んでも腐らずにそのままの状態で残るとしたら・・・・。想像するだにおそろしい。仏壇を開けると、何十世代も前のおじいさんやらおばあさんやら、早死にした子どもやらが並んでいる風景を想像してもらいたい。下手なホラー映画以上の怖さだ。でも実際にはそんなことは起こらない。なぜなら「腐る」からである。腐るというと悪いことのように考え勝ちだが、腐るからこそ「環境」が保たれている。そもそも腐るということは、有機物が無機物に分解される過程で起こる現象である。この現象を起こさせるのは菌類・細菌類である。ということで、これらを環境学的には「分解者」と呼ぶ。腐るからこそ、土に返る。土に返るからこそ新たな命も生まれてくることができるのである。先日久しぶりに父親の実家のある村に行った。そこには現在だれも住んでおらず、70歳の両親が時々訪問して野菜などを作っている。そこに野菜をもらいにいった。とうもろこしを収穫。その場で皮をビゲのむしりとる。何十本もあるので、皮とヒゲも山のようになる。「これ、どうするん?」と私が母に聞くと「横のほうに投げときんさい(広島弁)」という。見てみると、畑の隅には枯れた花とか、芋のつるとかがまとめてあった。私は「これって、町ではゴミだよな」と思いつつその上の重ねて置いた。大自然が生み出したものは大自然にかえっていく。たったこれだけのことだが、なにやら新鮮な驚きを感じたのである。それにしても、仏壇が実物大の先祖でいっぱいにならなくてよかった。***************************************************上記の記事は、2005年10月15日に投稿したものです。ネットショップを2000年に初めて、はんとか軌道に乗り始めた頃。当時、ブログなるものがはやり始めて、ネットショップの店長としてはブログくらい始めなければ、ということで、手探りでぼつぼつ記事を投稿し始めました。まだ写真を趣味にしていなかったので、自作イラストをつけて記事を書いていたんですが、最近のように写真に逃げることなく、ちゃんと記事を書いていたんですねえ~。環境問題というには、11年たっても基本は変わらないので、今でも十分読んでもらえる内容だ、と思い、再掲載させてもらいました。
2016/09/28
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稲の葉についた水滴の中に、稲穂の姿が写っているのですが、分かるでしょうか?ちょっと写真が小さいですね。夜になると冷え込んでくる高原や山間部では、日中大気に含まれていた湿気が夜露に変わります。時々ブログのネタにしている父の実家のある吉和村は標高も600m近く、夏でも夜間は寒いほどに冷え込みます。日中の気温との寒暖の差があるほど、夜間に水滴になる水分も増えますから、朝になると、一面が水滴に覆われたような状況になります。雨が降らなくても、こうして毎日夜露が降りてくるということは、植物にとってはありがたいことでしょうね。高原野菜がおいしい理由というのは、一日の半分は、こうして露に守られてうるおいを保つことができる、ということにもあるのでしょう。日本の気候を説明するとき「多湿」という表現を使います。確かに、日本の夏は蒸し暑い。ただ、この蒸し暑さが夜露を生み、植物の生長を促している、とも言えますね。日本の豊かな自然環境が、この蒸す暑さのおかげだと思うと、気持ちよく受け入れることもできそうです。とはいえ、熱中症にはお気を付けください。
2013/08/23
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この時期、河川敷や、ノリ面などを黄色く染めている花が、大金鶏菊(オオキンケイキク)。これまで、ブログでも何度か取り上げましたが、特定外来種に指定されて、栽培が禁止されています。北アメリカ原産のようですが、どんどん繁殖してしまう。うちの会社のある工業団地のノリ面はこの花でいっぱいですが、飛んだ種子が近所に生えて、団地内、いたるところに生えてます。ぱっと見、キバナコスモスにも似てますが、近くで見ると、あまりきれいでもかわいらしくもありません。まさしく、ワイルドな感じ。それだけに、強いのでしょう。持ってかえって家に植えたりしてはいけませんが、ノリ面を黄色く染めて群生している様子は、なかなかきれいです。でも、最近、少し減ってきたような気もします。
2013/06/10
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数年前、NHKの「プロフェッショナル」で取り上げられて話題になった「奇跡のりんご」の木村秋則さんについての本を2冊続けて読んでみました。一冊は、NHKの取材班がテレビ放送後に再取材を行なって発刊した「奇跡のりんご」で、もう一冊は、木村さん自身が書いた「りんごが教えてくれたこと」。同じエピソードがどちらにも出てきますが、外側と内側の両側から見ているようで興味深いです。「奇跡のりんご」って何?という方のために、ごく簡単に言えば、10年の歳月をかけて、絶対不可能とされたりんごの無農薬栽培を実現した人の話です。そのりんごは、小ぶりながらも例えようもないくらいに甘く、おいしいといいます。1978年からりんご無農薬栽培に挑み、10年間はりんごによる収入はほぼゼロ。木村さんは1949年生まれですから、29歳~40歳までの、一番家族にお金のかかる時期を極貧の中で過ごしてきたわけで、ご家族の苦労がどれほどのものであったかと思うと、ほんとにりんごができてよかったなあ、と思います。40代でりんごの無農薬栽培のノウハウを確立してからは、りんごに限らず、無農薬農法の普及に力を注いでおられるようです。さて、木村さんによれば、無農薬無肥料で育てたりんごは腐らないといいます。1年以上放置しておくと、もちろん形は崩れてくるのですが、腐敗ではなく発酵に近い状態になって、芳香が残っているとか。ただ、これは、木村さんの作ったものだけでなく、無農薬栽培で作ったもの全体にいえることだといいます。米や野菜でも同じように「腐り方」が違うと。腐るというのは、有機物が無機物になる最後の過程である「分解」という作用ですが、要は分解のされ方が違う、ということなのでしょう。江戸というのは、世界規模最高水準の都市機能を備えた町であったといわれていますが、その柱のひとつが汚物を川に流さなかったことがあげられています。都市部で出てくる排泄物は船で回収されて、上流の農村地帯に運ばれえて「肥料」として使われていたという話です。究極のリサイクルといえますがが、今こんなことをすると、おそらく悪臭のためそこらじゅうが糞尿の臭いになってしまいそうです。これは、まったくの思いつきですが、ひょっとすると、昔の人の排泄物というのは今ほど臭くなかったのではないか?例えば、赤ちゃんのうんちは大人のように臭くはありません。江戸時代の人が食べていたものは野菜中心の食事ですし、しかも当然無農薬。化学肥料もありません。そういう食べ物が体内に入って排泄されてくると、実は今私達が想像するほど臭くはなかったのではないか?だからこそ、それを回収して、「こえ溜め」で発酵させて、それを肥料とできたのではないか。そんなことも考えてみました。当時の臭いを確認することはできませんが、ありえない話ではないと思ったりします。本日もご訪問ありがとうございます。
2011/11/16
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日曜日に、ショップで行なわれていた「革小物キーカバー作り体験」に参加してきました。その前日には、うちの社長も参加していたので、くわしくは、社長のブログで。友達と私達夫婦の三人で参加してきましたが、思ったよりも参加者が増えて、道具が足らないくらいに・・・。それでも、革細工の面白さを体験できて、よかったです。ちょっと道具を買って、まずはブックカバーあたりから作ってみようかなという創作意欲が湧いてきました。皮というのは、人類が文明を持ち始めてからの長ーい付き合いであることは間違いないでしょう。はじめ人間ギャートルズも、原始少年リュウも皮の服を着てました。「新しい酒は、新しい皮袋に盛れ」という言葉もあります。人類が生きるために狩猟をすれば、そこには必然的に皮が残ります。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」なんてことわざもありますが、その皮を利用する、ということ自体が文明の始まりだといえるかもしれません。皮は生きていくための結果として生まれたもの。だからこそ、人間が「食べる」ための副産物として出てくる範囲で使用することが正しいありかたですし、神に祝福される使い方でしょう。それが「皮」そのものが目的になった瞬間、野生動物の乱獲が始まってしまいます。かつて、ビックリマンチョコのシール目的に大量に買い込み、チョコの方はゴミ箱に捨てるという現象が問題になりました。動物には「生きていくために食べることができる量」という限度があって、それが生態系を守るための大きな基準になっています。たとえばライオンが、趣味でシマウマを襲い始めたら、弱者であるシマウマはあっという間に絶滅してしまいます。人間は本来、大自然の生み出す「利子の部分」をいただいて、生きているに過ぎません。それでこそ、大自然の一員であるわけです。ただ、残念ながら、産業革命以後の人類は、大自然の一員ではなく、支配者であろうとしました。地球温暖化や異常気象というのは、それが間違っていたことの証しですね。原発事故だって、安易に利子だけを得ようとした「高利回り」詐欺に引っかかったようなものだという見方もできます。「絶対安心、元本保証」だと、誰もが信じていたのですが、この有様。簡単に言うと、最近のエコ問題というのは、「利子の範囲で生きることができるようにしていきましょう」ということです。そのためには、利子を生み出す大自然のメカニズムを壊さないことが重要です。「元も子もない」ということになる前に・・・・。本日もご訪問ありがとうございました。※こんな小さな作品でも、個性が出てくるものですね。手前が奥様の、奥が私の作品です。次はもっとうまく作りたい!そういう気持ちが大切です。もしも、ブックカバーができたら、ご報告いたします。
2011/09/07
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日曜日、ほんとうに久しぶりに広島の平和公園にある「原爆資料館」に行ってきました。今は大学生になった息子達がまだ小さかった頃、家族で来て以来だと思います。入館料は大人50円。こんなに安かったかなあ、と思いましたが、そもそも営利目的の施設でもないので、できるだけ入りやすいほうがいいですね。中に入ってみると、かなりの人が見学をしていました。1年間の入館者は100万人以上で、外国人も10万人以上いるようです。私が多くを語る必要もありませんが、資料や遺品を見ていると、失われた命には、それぞれ人生があって、暮らしがあって、家族があって、夢も希望もあったのだということが伝わってきます。20万人とか、30万人とかいった犠牲者の数ではなく、そこには一人ひとりの「暮らし」や「思い」があって、その一つ一つが掛け替えのないものであるということも分かります。今回、資料館の地下で「黒い雨」と題した被爆者の絵画展を行なっていました。被爆者の方々が書かれた絵画の内、黒い雨関連のものを集めた展示です。その中に、黒い雨に向かって、大きな口をあけて雨を飲もうとする子どもの姿が描かれているものがありました。黒い雨とは、原爆の二日後に広島市周辺にだけ降った「原爆の雨」です。原爆投下後、やけどした被災者が水を求めて川に飛び込んだり、「水をくれ」といううめき声があちこちから聞こえたという話はよく聞きますが、そういう状況下で降り始めた黒い雨を、天に向かって口を開いて飲もうとした人がたくさんいたとのこと。飲んだ人は、激しい下痢と嘔吐に苦しんだと資料にはありました。福島の原発事故はいまだ終息の目処も立たず、酪農家が将来を悲観して自殺したというニュースもありました。1945年の広島・長崎の原子爆弾投下。1954年の、ビキニ環礁での米国の核実験で死の灰を浴びた第五福竜丸。そして今回、福島での原発事故です。「核」というものが諸刃の剣であることがよく分かります。これまで、私自身も「原発は安全だ」と信じきっていました。「核の平和利用」という、なんだか耳ざわりのいい言葉に、特に迷いもなく原発を肯定していたのだと思います。今朝のラジオで「原爆も原発も、入っている器が違うだけで同じものだ」なんていってましたが、確かにそうかも、という気もしました。今となっては、一刻も早く原発事故が終息に向かうことを祈るばかりです。ともかく、国民一人ひとりが、もっと政治や行政に関心を持って、しっかりと見極めていくということが必要ですね。今の政治状況を作ったのも国民ですし、公務員の体質を作らせたのも国民なんですね。無関心はそれ自体が罪だと思いました。本日もご訪問、ありがとうございます。追記。資料館の地下は無料なのですが、「黒い雨」の絵画展とともに、はだしのゲンの漫画と当時の写真などの資料で分かりやすく説明した企画展も行なっていました。とても分かりやすい展示です。広島にお住まいの方も、ぜひどうぞ。
2011/06/15
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原発事故をきっかけとして、電力行政のありかたそのものの問題がどんどんを表面化してきましたね。地震と津波による未曾有の大災害と、周辺にはしばらく人が住めなくなるかも、というような原発事故。20世紀の負の遺産やしがらみを取り払うには絶好の機会だろうとも思います。基本的には、地球のシステムそのものに大きな負担をかけつつ人類が繁栄する、というありかたはもう限界なのだろうと思います。エコ問題では「継続可能な」という言葉がしばしば使われます。継続可能な、というのは、大自然の循環の中の流れに添っているということでしょう。地下資源を掘り出して消費するというのは、当然「継続不可能」です。右肩上がりの経済発展、というのはどうでしょう?経済成長=物質的な豊かさ、ということであれば、これもやっぱり本質的に無理があります。日本はまず、これを機会に、「自然エネルギー」の活用に大きく舵を切るべきだと思うのです。いつまでも外国の資源に頼らなければ電力も作れないというのも問題でしょう。20パーセントとか、30パーセントとかいったセコイことを言わずに、この際だから100パーセントを目指すくらいでいいのではないでしょうか?太陽光発電はもちろんのこと、風力発電とか、小規模水力発電とか、ありとあらゆる自然エネルギーを使って、国内で消費するすべての電力を賄う、という目標が設定されれば、日本人は一気にその方向に知恵を出して、化石燃料や、原子力よりも効率のいい発電方法を生み出すに違いありません。その技術が確立されば、その技術を持って海外に輸出して、世界中を自然エネルギーを活用した発電を広げればいいと思うのです。短期的には、自然エネルギーはコストが高いかもしれませんが、長い目で見ると、きっと日本を救ってくれるような気がします。-----------------------------------------写真は、山口県長門市の「千畳敷」という場所です。日本海を見下ろす330Mの高さにあります。風力発電のプロペラがいくつも並んでいます。(写真では一基だけですが)そして、吹きさらしの頂上には駐車場と、「カントリーキッチン」というお店が一軒。吹きさらしの場所ですが、流石に眺めがいいです。そして、棚の上にサインのある「860円のビール」の「ビンだけ」をを売って欲しいと頼んだら、同じ系列の雑貨屋さんで売っている、ということで、そこまで買いにいきました。なかなか雰囲気のある雑貨屋さんでした。ちなみに、ビールのビンは100円。現在、我が家の窓際に飾られています。かれこれ、2年前に2009年7月のことでした。そのときの記事がこちらです。角島東後畑の棚田萩市立明倫小学校ご訪問、ありがとうございました。
2011/06/09
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日曜日は私の住む廿日市市の町内一斉清掃でした。毎年この季節にあり、公園や緑地帯、排水溝などの町内の共有施設などを掃除します。私は排水溝の担当で、ご近所さんと排水のマスに溜まった泥をすくい、土嚢に入れて、所定の場所に運びます。それはさておき、町内清掃が終わると、みなさん自宅に帰るのですが、そのまま引き続き、家の周りの掃除を始める人が多いですね。「そうじのついで」ということなのでしょう。例にもれず、我が家でも草抜きなどを行い、庭に咲く花の写真なをを撮っていると、花の上を動き回る赤い物体を発見。大きさは1ミリほどで、ゴマ粒の半分ほどの大きさで「点」にしか見えませんでした。写真を撮ってみると、どうも、足があり、クモのような形をしています。さっそくネットで「赤い 小さい クモ」と検索してみると、どうやらクモではなくて「タカラダニ」というダニのようです。外来種のようですが、特に人間を噛んだりするわけでもなく、しばらくしたらいなくなるので、気にならなければそのまま放っておいても問題はないとのこと。大きな大自然の循環の中で、こういった小さな生き物も、なにかしら役割を担っているのかなあ、なんて思いますね。害虫を駆除したら、生態系のバランスが崩れて、もっと別の問題が発生したりしますよね。ダニというのは、生態系の中では「分解者」という部類に属するらしく、動物の死骸や枯れた植物を分解して「無機物」に戻すために一役買っているようです。分解者というのは、自然界のゴミ清掃業者ですね。生物の死骸を土に戻すという働きをしています。そうでないと、この地上には、どんどんと死骸が積み重なって、人間も死骸の上で暮さねばならなくなります。そうならなくても済んでいるのは、「分解者」といわれる、ダニとか、ミミズ、バクテリアなどの細菌類、などなど。それぞれ得意分野があるらしく、植物性のものが好きだったり、動物性のものが好きだったり、ダニやミミズの糞が好きだったりということで、力をあわせて分解し、土に戻しているんですね。発電にしても、ごみ処理にしても、もっともっと自然の力をうまく利用して、逆らわない方法にシフトしていくべきなんだと思います。21世紀というのは、これからの長い長い人類と地球との関わりを考える上でも大切な世紀になりそうですね。子どもたちに対して、胸を張れる時代にしたいと思うのですが・・・。本日も、ご訪問、ありがとうございます。
2011/06/05
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大自然の循環の中で大きなものが二つあります。ひとつが「水の循環」で、もうひとつが「炭素の循環」です。大自然は、その循環のよってすべてを浄化し、すべての生命を養っています。その大きなサイクルを乱すから、元に戻れなくなるんですよね。ということで、本日は「水」にスポットをあててみましょう。写真は、阿蘇にある「白川水源」という場所です。大地に染込んだ阿蘇の水が、湧き出てくるポイントはいくつもあるようですが、ここが一番有名なようです。その量は毎分60トンということですからすごい。ここで湧き出た水は、阿蘇から熊本市を流れ、有明海に注ぎます。といっても、そのまま有明海に注いでいるわけではなく、途中では、田んぼや畑に引かれて大地を潤し、飲料水にもなりつつ流れていきます。地球上に水は沢山ありますが、人間が利用できる水というには、雨が降った瞬間から、海に流れていくまでの間だけですからね。そして、水は太陽の熱によって蒸発します。蒸発した水分は空高く上って雲となり、再び大地に降り注ぎます。大自然により巨大な「蒸留」ですね。どんなに汚い池から蒸発した水でも、きれいになるから不思議です。さて、雨水となって大地に降り注ぐとき、それを受け止める地面の状態がその後の水の流れを大きく左右します。例えば、頭がふさふさしていると、少しくらいの雨では顔に垂れてくることはありませんが、スキンヘッドだと、すぐに顔に垂れてきます。まあ、そういう感じですので、想像してみてください。まず、砂漠のような荒れた土地に雨が降り注ぐと・・・。土砂まで一緒に流れて河の水は茶色になってしまうでしょうね。表土は押し流され、地面には幾筋もの侵食された跡ができるでしょう。それから、草原になるとどうでしょうね。草原というのは草が根を張っているので、土砂が流れ出るのを防いでくれますね。表層をすべるようにして水が流れていくでしょう。そして、もちろん地面にもある程度染込むでしょうね。続いて森の場合はというと、まずは木々の葉が雨を受け止めてくれますね。そこから枝を伝ったり、葉から垂れたりして、地面を濡らしていきます。どれだけ激しい雨が降っても、雨はやわらかく地面に届きます。そして、幾重にも重なった木の葉の間にもぐり、地面深くゆっくりとしみこんでいきますね。ゆっくりと染込んだ水は、土によってろ過されて、ゆっくりと湧き出してきます。だからきれいなんですね。山を流れる川の水がきれいなのは、大地のろ過のお陰です。そして、河の水が簡単に枯れないのは、水源となる「森」があるからなんですね。河の水が簡単に枯れたり、増水したりすると、川の生き物も死に絶えますし、当然堤防も高くしないといけません。考えてみると、恐ろしいことですね。日本には資源がないといいますが、生きるために最も必要な「水資源」は豊富です。石油はなくても暮らせますが、水がないと暮らせませんからね。ということで、強引なまとめに入りますが、日本を守るためには、「森」を守ることが絶対必要なんですよね。水を守るためには、森を守らないといけません。中国人が森を買っている、なんて話も聞いたことがありますが、水源となる森を押さえられたら、都市なんてイチコロですその真偽は定かではありませんが、少なくとも日本人よりは「水」の大切さを知っているでしょう。森を守るためには、森のそばに人がすまなくてはいけません。もっと農村を活性化し、林業を盛んにし、人口を分散させるような政策も必要だと思いますね。それでは、本日はこのへんで。ご訪問、ありがとうございました。
2011/06/03
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この写真は、2月5日、東京馬喰町の[ART+EAT]で撮った写真です。そこの壁面に展示してあった、「野生の創造展」の中のひとつの作品です。----------------------------------------------------先日、終業後に会社の事務所で「皮」の話になりました。社長がご縁をいただいた、皮革加工業者さんからサンプルとして送られてきたBランクの皮を広げながら、かっといいとか、足場板にあうとか、あわないとか。7月には会社の新規事業として、広島市西区に「SHOP&CAFE」をオープンする予定で、現在その工事と並行して、お店に置く商品などについても検討中ですが、この皮も、そのためのサンプルでした。さて、当然のことですが、送られた皮というのはなんとなく動物の形をしています。一頭の動物から、効率的に無駄なく皮を取ろうとすると、足があった場所とか、、こちらが頭で、こちらがお尻だったのかな、ということが分かるくらいにはきれいに取らないと「歩留まり」が悪いでしょう。事務所の床に並べられた皮は、バッファロオーとか、豚とか、いろいろな種類や色が10枚近く・・・。それを見ながら、私はちょっと暗い気分になってしまいました。皮というのは、もともと「生き物」であったのだな、ということを目の当たりにしたため、というのが最大の理由です。考えてみると、肉にしろ、皮にしろ、私達のところに届くときには「商品」に形を変えているので、それがもともと生きていた、ということをあまり意識しなくてもすみます。食物連鎖というのがあって、動物というのは、連鎖の下位の「いのち」を食べながら生きています。人間というのは、その連鎖の頂点にあるので、当然のことながら世の中にあるすべての動植物を食べることができます。食べるだけでなくて、地球上にあるすべてのものは「人間のもの」だと思っています。上には何もない、というのが頂点というものなのですが、それだけにその「責任」というものは重要です。横道にそれましたので、話を皮に戻します。皮の製品というのは、結構身の回りにあります。私自身は特別に皮が好きなわかではありませんが、それでも、財布、靴、キーホルダー、バック、ベルト・・・・。かなり使ってます。皮の最大の特徴は、強さですね。今でこそ人工皮革というものとか、人工的に強い生地というものがありますが、昔は「皮」こそが唯一の生地であったのでしょう。それで衣服を作り、袋を作ったのでしょうね。間違いなく、布や紙よりも早い段階で人間の生活にかかわり始めたでしょう。はじめ人間ギャートルズの服は皮ですよね。農耕以前の人類にとっては、狩りをし、その肉を食べ、その皮を生活の役に立てる、というのは、ごくごく当然な行為です。生きる糧そのものと言ってもいいでしょう。動物の命と引き換えに私達が生きていけるのも事実ですし、必要であるならば、その命に感謝して大切に使うことが重要ですね。今現在流通している皮というのは、ほとんどが家畜か、計画的に捕獲された野生動物からのもので、違法な乱獲によるものは少ないようですが、過去にはその乱獲によって絶滅したり、危機に瀕したりしているものも多いようです。現代人は「製品」しか目にしないので、どうしてもそこに「いのち」があったということには実感がありません。最近、福島の原発事故の映像で、避難区域内に置いていかれた家畜の姿をみて、とてもかわいそうになりますが、私達の食べているものや、身につけている皮とかいったものは、元を辿ればそこにある「いのち」なんですね。ということで、食物連鎖の頂点にいて、万物の霊長たる人間の責任として、自分達が生きていくために犠牲になった命に感謝しつつ、節度を持って生きていかねば、と思った次第でした。長々と失礼いたしました。ご訪問、ありがとうございます。
2011/05/18
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写真は、今朝、会社で撮ったものです。事務所に入って、外を見たところ。「裏WOODPRO」です。もう3月の終わりというのに、雪景色になっております。福島の原発事故は、まだまだ尾を引いて、一向に収束の気配もありません。近隣の住人への避難勧告は「念のため」だと思っていたら、野菜や水からも基準を超える放射性物質が検出され、一気に身近な危険になってしまいました。それについて、テレビでは、専門家の皆さんが、一年間食べ続けても問題のないくらいの量だと力説して、無用な混乱を抑えようとしているようにも見えます。ただ、肝心な政府の方はと言えば、どうも的確な説明もなく、不安はどんどん増すばかり・・・・。私はもちろん専門家ではありませんが、軽微な放射能にえらく神経質になる割には、日頃の食事で農薬や添加物のことを気にしていないのはバランスが悪いようにも思います。さらに、酒や煙草・・・。「煙草をやめるほうがストレスが溜まって、体に悪い」なんて煙草をやめない言い訳にする人もいますが、ひょっとすると、この放射能騒ぎで溜まるストレスの方が体に悪いのではないかとも思います。ひとつ基準を越える野菜がでれば、その県の野菜は全部出荷停止というのもなんだかやり切れませんね。これもせっかくの機会なので、放射能と農薬と添加物と、いったいどれが一番危険なのかを議論して、これからの健康な日本作りに役立てて欲しいです。環境ホルモンだとか、電磁波だとか、悪い悪いと言われつつも、いつまでも放置され続けているものもありますね。基準値を超えた、という表現も、科学的なようでかなり曖昧です。基準値をどう決めるか、ということろで考え方は大きく変わってきます。放射能の基準値と、農薬の基準値と、防腐剤などの添加物の基準値と、その毒性や人体に与える影響というのは同じなのでしょうか?きっと違うでしょう。それは「専門家」や「お役人」の考え方ひとつ、なのかもしれません。今回の放射能問題も、「基準値を超えた」ということで問題が表面化しましたが、その基準値そのものが妥当であったかどうかという議論もあります。とにかく、この福島の原発事故は、震災からの復興にとって、とても大きな足かせになってしまいそうです。一日も早くこの問題を解決してもらわないと、復興も前には進めないでしょう。広島でこの雪模様ですから、東北地方は冷え込んで大変なことでしょう。肉体的にも精神的にも疲労して、さらに原発事故の不安では、震災直後には精一杯元気を出そうとしておられた被災地の方々も、そろそろ限界なのではと心配になります。明るい兆しが見えないと辛いです。被災地の皆様に、一日も早く、平穏な日常が戻ってきますよう、心よりお祈り申し上げます。
2011/03/25
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12月17・18日、社員旅行に行ってきました。ただし、金曜日は研修も兼ねてということで、会社も休業にして出かけており、お客様にはご不便をおかけいたしました。今回の研修は、岡山県真庭市の「バイオマスツアー」でした。しばらく、それに関連して思ったことをつらつらと書き連ねてみたいと思いますので、よろしくお願いします。写真は、真庭市勝山を流れる旭川。真庭市は鳥取県との県境にあり、中国山地のど真ん中と言ってもいい場所です。写真の奥に見える山々は中国山地。川をさかのぼると、湯原温泉を経て、ジャージー牛乳で有名な蒜山高原へと続きます。その向こうはもう大山です。県境の蒜山を源流とする川の水は、真庭市の中心部である勝山を通り、岡山市まで流れています。この勝山は今なお昔ながらの街並みを残しており、岡山県で初めて「町並み保存地区」に指定された町です。かつては、瀬戸内海から高瀬舟が、塩などの物産を持ってここまで遡り、木炭や木材などの物資を岡山に運んでいたようです。この勝山は、美作の国の物資の集散地として発展した町なのでした。が、産業構造の変化、鉄道の発達などにより山間の町も過疎の一途をたどります。真庭市は勝山を含む近隣の9町村が合併してできた市です。その民間の有志が集まって「21世紀の真庭塾」を発会。山間の過疎の町を子供たちに誇れる町にしようとしてできたのが「バイオマスタウン構想」でした。この真庭エリアは古くから林業の町でもありました。さて、本日のお題は、「水はどこから来るか?」答えは山からということになりますが、それは正確ではありません。もっと正確に言えば、「森」からというべきでしょう。実は、社員旅行のバスの中で読もうと、一冊の本を持って行きました。それは「環境問題とは何か」という新書の本です。ちょうどバスの中で読み終えましたが、その内容と今回の研修の内容を考え合わせてみて、いろいろと考えるところがありました。本の著者は富山和子さん。山間の町を流れる川。少し山に入ればどこにでもある風景だと思います。雨がしばらく降らなくても、川の水は枯れることなく流れています。だからこそ、川には豊かな生態系が生まれます。この川が干上がったり、大水で土砂を押し流したりを繰り返していたら、そこには豊かな生態系は生まれないでしょう。「当たり前」に流れている川の水。しかし、その当たり前が決して当たり前でないということを知る必要があります。
2010/12/19
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先週の土曜日、小さな秋を探してみようと近所を散策してみました。廿日市市の原から平良を流れる可愛川の辺を歩いていると、数週間前には妖艶な花を咲かせていたであろう彼岸花の群生地を見つけました。緑の野に、真っ赤な花を咲かせる彼岸花は、「妖艶」という言葉で表現されますが、既に枯れかかった姿は秋の野にひっそりととけかかっていました。このときはまだ何とか立っていましたが、じきに倒れて枯れ、土に返っていくのでしょうね。でも、来年、きっとまた真っ赤な花を咲かせる・・・・。季節が移ろい、繰り返していく数だけ、私も年を取りますね。これはやむをえないことですが、今週末の31日はハロウィンです。いえ、実は、私の誕生日です。花を咲かせている時期しか、そこに彼岸花があることに気付きませんが、実は一年中そこにあるんですね。ただそれだけのことですが、枯れかけた彼岸花を姿を見つつそんなことを考えた土曜日の朝でした。
2010/10/28
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ブックオフで100円で買った本です。「環境問題はなぜウソがまかり通るのか?」となかなか刺激的なタイトル。本の発行は、2007年3月。3年前の本ですが、どうやら当時、ベストセラーにもなった本のようです。著者は、武田邦彦という大学の教授。気にしてみていると、テレビでも結構露出しています。2週間くらい前だったか、たけしの兄である「北野大」と一緒に環境問題を論ずる番組に出演していました。北野大氏は、環境問題の王道といった感じで、武田氏は異端という立場でしたが、武田氏曰く「私の主張が異端視されることに問題がある」。さて、この本を読んでみて、その内容があまりにも「まとも」であることに驚きました。・ペットボトルはリサイクルしないほうが環境にやさしい・ダイオキシンは体に悪くない・古紙の回収はしないほうがいい・エコバックはエコではない・ごみは分別しない方が環境にやさしいなどなど・・・。環境論者が見れば眉をひそめたくなる内容です。私達が当たり前だと思っていることが、実は科学的に見て、決して当たり前ではないことを、分かりやすく説明してくれます。「地球にやさしい」とか「環境にいい」とかいった言葉が水戸黄門の印籠のような威力を発揮し、よくわからずに、そうなんだ、と納得しているのが大半の国民なのでしょう。武田氏の主張に短絡的に納得してしまうこともこれまた問題ですが、お役所の言う事をそのまま鵜呑みにすることにも問題がありそうです。環境問題の、もっと本質的なことは何なのか、しっかり考えてみる機会になる本だと思います。ブックオフで100円で売ってます。ぜひどうぞ。
2010/10/06
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世の中エコばやりです。最近の世の中の風潮と見ていると、ご都合主義の「エコ」が多く、本物と偽者が混ざり合って、玉石混交と言ってもいい状況です。なんでも「エコ」の御旗を掲げてしまえば許される、という感じさえします。そもそもエコというのは、「エコロジー」が語源です。エコロジーとは「生態学」のこと。生態学とは、生物と環境との関係を考える学問です。すべての生物が、環境との関係の中で生きていて、人間もその一員であることは間違いありません。その環境で、いろんな生き物が、それぞれの役割を果たすことで「生態系」が守られます。決して独立して存在できるものではなく、いろんな植物、動物が相互に関連しあいながら絶妙なバランスで安定した環境を作っているのが「生態系」。そこに「新たな要素」が入り込んで、バランスが崩れると、そこにあった植物や動物は新たなバランスを取るために変化します。そういった変化は大自然の中で常に行なわれているものなので、問題とするようなものではありません。氷河期などもその例でしょう。近年問題となっているのは、生態系の中に入り込んでくる「新たな要素」が人間の都合によってもたらされ、結果として人類が住みにくい環境を生み出し始めたという点です。地球の温暖化も、二酸化炭素の増加という新たな要因に対して地球がバランスを取ろうとしているだけのことだともいえます。新たなバランスの環境に対して人間が順応できなければ、人類は滅亡し、それに順応した生物が誕生するかもしれません。それは、私達にとっては大問題であっても、地球にとっては全く問題のないことです。ただ、その影響で、人類以外の種も少なからず影響を受けたり絶滅したりするとすれば、迷惑な話ではあります。そう考えると、人類は人類の都合のために地球のバランスを変えてしまい、その結果として、自分達が住むために適した環境を失いそうになったために「環境破壊はやめよう」とか「地球を守ろう」とか言って騒いでいる、まことに「エゴ」な話です。「エコ」なんて言っても、所詮、地球のためではなく、人類自身のために他なりません。「エコ」はすなわち「エゴ」なのです。であれば、私達人類はもっと謙虚な姿勢で自然と向き合う必要があります。大自然の壮大な仕組みを少しだけ使わせてもらって、食料を得て、住まいとなる「木」を育ているのですから、環境に負荷をかけない生活をすることを「地球を守る」なんて大袈裟なことを言わずに、「生活を守る」でいいじゃないですか。日本人なんて、これまでずっと、「自然を守ること」=「生活を守ること」だと信じて生きてきた民族です。その結果として、これだけの発展を遂げながら、山には森が残っています。この美しい日本の風景を守ることは、地球のためではなく、私達自身のためなのだということを知ることが大切です。※写真は、日本の棚田百選に選ばれている、広島県安芸太田町の「井仁の棚田」です。
2010/09/15
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この写真は、うちの子がまだまだ小さかった頃のものですが、残念なことに写真立てが割れてしまいました。うちの奥様にとっては、とっても思いで深い写真と写真立てなのです。さて、本日のお題は「エコの向こう側」。最近、エコエコって、少々辟易するくらいですが、その言葉の陰で、エコバックが家に何枚もあって、邪魔になっているという現状・・・。うちの奥様は、スーパーのレジ袋を折りたたんで持ち歩いていますが、それが一番のエコだと思います。3Rなんていいますが、エコ的な観点から見て、この三つには雲泥の差があります。1番目のリデュースとは、ごみを出さないこと。まず、最大限の努力を「ごみをつくらない」ことに注ぐ必要があります。ごみを作らないためには、ごみになるものを買わない、ということが大切です。「大量消費」を見直すことこそ大事なのですが、それをすると景気が低迷するからできないというのが実態でしょうか。にも関わらず、人類だけが量的にも質的にも膨張し続けることなど不可能です。ということで、私の提言。消費の際に、ごみ処理や環境負荷の軽減にかかる費用をすべての商品に課税すること。機能と重量が同じであれば、価格が違っても同じ「エコ税」を掛けます。500円のカバンも、50000円のカバンにも、例えば500円の税金を掛ける。その税金は環境保全や、環境改善のために使うことにする。これって、どうでしょうか?たくさん消費する人と、あまり消費しない人が、同じごみ処理代を負担するのもおかしくないですか?ごみを出すときに処理代を取ろうとするから、不法投棄が起こります。きっと、消費が抑制されるとして、産業界から大反対されるんでしょうね。子ども達にどんな地球を残せるか、とっても大事な時期だと思います。
2010/09/14
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植物も、動物も、その生命を全うしたら、土に返っていく。地球に生まれた生物である限り、例外なく微生物によって分解される。そして、その無機物を栄養素として植物は光合成を行い、有機物と二酸化炭素を蓄えていく。それはまた、動物達の糧になり、大きな命の循環が生まれてくる。土に返る、ということは、新たな命を育む基になるということだ。鶏が先か卵が先か?そんなことはどうでもいい。大自然は丸く閉じて大きく回っている。どんなに放置された環境であっても、自然の営みの中にある景色は美しい。いや、人が介入しない環境ほど美しいのだ。ここにビニール袋がひとつあるだけで、すべては醜悪なものに変わる。人間には守ることも、壊すこともできる。力のあるものほど、謙虚であるべきだ。力が大きいほど、反作用も大きいのが大自然の法則である。
2008/12/15
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今回の「事故米問題」はほんとにひどい話ですね。何度も何度も繰り返される食品関係の偽装事件の中でも、特に悪質です。これまでの偽装事件というのは、産地の改ざんとか、正味期限の改ざんとか、表示と違うものを混ぜてたりとか、いろいろあったけど、今回は「毒性」があることを知りつつ、「濡れ手で粟」の大儲けをもくろみ、さらに同様の偽装をほかの業者も行っていたらしい。日本の食品業界というのは、どうやら本当にモラルが低いようだ。今、日本全国、稲の刈り取りシーズン。この連休に田舎のあたりを走ってみると、ちょうど刈り取り始めたくらいでしたね。小麦や、その他の食物の高騰で「お米」が少し脚光を浴び始めました。お米は日本で数少ない自給できる食糧ですが、それだって、パンとか麺類などに主食の座の一角を明け渡したことでなんとか保たれていること。みんながお米を食べ始めるとぜんぜん足りません。食糧危機が来たとき、せめてお米だけでも確保できれば日本人は生き延びられると思います。やはり、ここは戦略的なお米の増産が必要ですね。アメリカなどが文句を言ってくるんでしょうが、アメリカが食糧危機になったら当然輸出はできないわけで、日本にとってはこんなリスクの高い話はないですね。北朝鮮からテポドンが飛んでくる可能性の何百倍も可能性の高い話です。自衛隊の装備にお金をかける以上に、食糧自給率の確保にお金を使う方が、よほど現実的かもしれません。最近の日本は言うまでもなく「飽食」です。もう20年くらい前ですが、会社の社員食堂でびっくりしたこと。それは、茶碗にいっぱいご飯粒を残したまま、平気な顔で返膳する若者の多いこと。きっと、親から「ご飯粒を残すな」という教育がされていないのでしょう。「飽食」とは、食べ物に不自由しないことらしいのですが、結果的に「当たり前」になって、「感謝」というものが希薄になっているんでしょうね。これは私も含めての話です。今の日本人は自分の受けているすべてのサービスが当たり前だと思っている。でもそれは違いますね。そのサービスが成り立っている背景には、いろんな人の努力があり、そして、大自然の恵みというものもあります。お金を出せば、その恩恵を受けるのは当たり前だ、という態度はちょっと傲慢です。今年も「お米」ができました。お百姓さんが汗水たらして作ったお米です。そして、太陽と、水と、土の力が集まったお米です。大事にいただきたいと思います。来年も同じようにできるという保証はありません。
2008/09/14
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この写真は、会社のある工業団地の中央を走る道路脇の「のり面」である。この時期、のり面を覆いつくすほどに咲き乱れ、通勤の際の目を楽しませてくれる。この花はこの時期、いたるところで目にする。高速道路の分離帯、河川敷などなど。鮮やかな黄色が青空に映えて、なんとも美しい。この花の名は「オオキンケイギク」あまり聞きなじみのない花だ。実はこの花、「外来生物法」の「特定外来生物」に指定され、栽培や運搬、植栽なども禁止されている。きれいだからといって、迂闊に家に持ち帰って植えたりしてはいけない。「違反した場合、個人には3年以下の懲役や300万円以下の罰金、法人には1億円以下の罰金が科される。(ウィキペディアより引用)」らしい。繁殖力が強く、日本固有の植物を淘汰してしまうのが指定の理由だ。この花が「特定外来生物」に指定されていることを知ったのは、先週の土曜日。吉備路ミステリーツアーを案内してくれた友人から聞いた。その話を聞いて調べてみると、確かにそうらしい。そう思って黄色にそまった工業団地ののり面を見ていると、なんとなく空恐ろしい感じもしてくる。
2008/06/07
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ペレットに関してニュースをやっていたので思ったことを書こうと思います。ペレットとは、小さな固まりを意味する言葉らしいのですが、今回のペレットは、木を砕いて乾燥し、それを加圧して固めて錠剤状にして「燃料」のことです。前回のブログでも書きましたが、研修&社員旅行で北海道に行ってきました。なにより驚いたのは、室内が異常に暑いこと。暖かいというよりも「暑い」という印象でした。屋内に限れば広島よりもよほど暑いのですが、それだけ「暖房費」がかかっていということなのでしょう。驚いたのは工場の中まで暖かいこと。「空知単板工業」でも、中で働いている方が半袖だったりしてました。(製品の品質保持という理由も暖房の大きな要因だそうです)この工場では、工場から出てくる木の端切れなどを利用してボイラーを動かし、スチームを工場内に送って暖房に使っているとのことでした。大掛かりな設備を設置できる工場では、廃材を直接ボイラーに入れて燃やし、その熱を暖房などに利用することもできますが、普通の家庭では無理ですね。薪ストーブというのもありますが、まめに薪をくべないといけないですし、薪自体がなかなか手に入らない。燃焼効率も決してよくないです。また、設備にもお金がかかりますから、お金持ちの趣味としてはいいですが、一般庶民には無理です。結局、手軽な石油ストーブが一番安全でコストも安かったのでしょう。いやー、寒い地域というのは、暖かい地方ではかからない経費がかかるので大変ですね。原油の高騰は、北国の方々は死活問題だと盛んにニュースで取り上げていますが、まさしくその通りでしょう。なにしろ、燃料代が倍以上になったわけですから、いろんな「コスト計算」が根底から変わってきてしまいます。そこでにわかに脚光を浴びてきたのが「ペレットストーブ」ペレットというのは、木屑を固めて錠剤状にしたもので、いわば小型の薪です。ただ、薪の場合には形がバラバラで規格化しにくいし、ストーブの場合には薪の補充を怠ると当然消えます。その点ペレットストーブの場合には、ペレットをストーブのペレット入れに入れておくと、自動的に少しずつ補充されて燃える。使い勝手も思ったよりよさそうでした。テレビによれば、灯油の高騰で既にペレットの方がコストが下がってきたらしい。(灯油とペレットを熱量換算した場合)さらに、二酸化炭素の排出量も抑えられる。ただ、難点は「高い」こと。現在、量産するほど売れていないらしく、価格は1台45万円とか。量産されて1台10万円くらいになればドーンと売れそうですね。なにしろ山には倒木や、間伐すべき木はいっぱいありますし、石油資源のない日本としては代替できるものはしたほうがいいに決まっています。最近は植物からバイオエタノールをとって燃料にする割合が増え、結果としてもうもろこしなどの飼料が不足し、結果的に食品全体が値上がりするという状況になってきています。木材からもバイオエタノールは取れるのですが、何しろ手間がかかる分コストも高い。木材の大きな特徴のひとつは「燃える」ということなので、これを利用することは大事ですね。極端な話、日本中のストーブをすべてペレットにしてしまえばいいんじゃないかと思うんです。量産によって、ストーブもペレットもコストが下がる。日本の山は荒れ放題で、緑の砂漠、なんていわれるくらいでけど、間伐材や、枝だって利用できるし、いいと思うんだけど。国ももっとそういうことも積極的に推し進めれば、国民にも危機感が高まるはず。今問題になってる「ガソリン税暫定税率」の問題も、道路建設に使うから問題なのであって、本来は「環境」に使うべきでしょう、やっぱり。道路「がきれいになると、燃費がよくなるのでエコ」なんて言い訳みたいなことは言うのはやめて、地中から掘り出したもので、二酸化炭素を放出しているわけだから、それこそ「環境」のために使うのが正しい。受益者負担ならぬ、加害者負担というところ。極論すれば、石油を原料とするものすべてに「環境税」を掛け、そのお金を「ペレットストーブ」や「太陽光発電」「太陽熱給湯」なんかの補助にしたり、寒冷地の方への補助に使う。やっぱり、環境省だけじゃなくて、国全体が「環境を守る」という強い姿勢を見せてもらわないと、国民は分からないですね。「ものを大事に」といいながら、親がものを大事にしなければ子供には伝わらないのと同じでしょう。「本気だな」そろそろ、そう思わせて欲しいものです。今年は「洞爺湖サミット」というのもあって、「環境」が大きなテーマとなるらしいです。日本はここで、環境についての強いリーダーシップを示すことを望みます。マジで。
2008/02/19
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「マイレージ」という、モノの移動に伴う環境への負荷というのは確かに大きいですね。「地球上をCO2を排出しながら、大量の「モノ」が移動している」ということが分かってきたとしても、実際それをコントロールすることは難しいです。日本では石油は出ませんし、工業製品についても各国独自の技術があります。また、最終生産国がどこかということは分かっても、その原料にまで遡ることはほとんど不可能でしょう。日常生活の中で意識できるのは、やはり「食品」くらいかも知れませんね。モノには、実はもうひとつ大事な側面があります。水平方向の移動ではなく、いわば垂直方向の「変化」です。例えば、山で木を切って里に持ってくる。これが水平移動。その木を削って「まな板」を作る。これが垂直方向の「変化」です。資源を地下から掘り出して地上に出すことも「垂直」ですね。すべての「モノ」は、水平と垂直の「環境負荷」を内在しています。そういう目で「モノ」を見てみると、今まで見えなかったものが見えてきます。例えば前述の「まな板」。これは料理の際に食材をカットするための台という機能を持っています。まな板には「木製」と「樹脂製」がありますが、果たしてどちらの環境負荷が少ないでしょうか?木の産地がどこかということも問題ですが、木という素材は限りなく素材に近い状態でも使用可能なものです。基本的には「削る」という作業だけで「使える」ようになります。樹脂はというと、原料は石油。地下から掘り出して、これを精製して、さらに化学的に反応させて「樹脂」の元を作って、さらに成型してやっと「まな板」になるのでしょう。細かなことは分かりませんが、地下から掘り出してから様々な工程を経て「まな板」になるのだろうということは容易に想像できます。そうすると、目の前の「まな板」から違う意味も見えてくるでしょう。ただし、だからといって「木のまな板」を使いなさい、というのは少々短絡的というものです。樹脂のまな板が存在するのにはそれなりに理由もあるはずです。例えば、・木のまな板にカビが生えるのが嫌だ・・木のまな板が少しでも反って来るとうまく切れない。・樹脂の方が安い(いいまな板と比べれば)・抗菌まな板が欲しかったなどなど。確かにそういうこともありますね。これまでの商品選択のポイントは、主に価格と機能・品質でした。いわゆる「費用対効果」というものです。効果には、機能も入りますし、自分の健康を守るとか、ステータスが上がるとか、いろんな要素がありますが、直接自分が受けるメリットです。しかし、最近はこれに「環境」という要素も加わってきました。環境への配慮というのはメリットを一人占めにすることはできません。仮に100人の人が居れば、自分が受けるメリットは100分の1なので、残りの99パーセントは他人のメリットになります。逆に、他人が出したデメリットも否応なく蒙ってしまいます。もし、損得勘定で考えるなら、「環境に配慮」するなんて、明らかに「損」です。自虐的な人か、よほど人間の出来た人でなければ「喜んで」出来るものでもありません。ただ、ものを選ぶとき、買おうとするものの「環境的な価値」を少しだけ考慮すれば、少しずつ「売れ筋」も変わるでしょう。LOHAS(ロハス、ローハス)というのはその典型ですね。住宅にしろ、食べ物にしろ、インテリアにしろ、「ロハス」を意識した市場というのは確かに広がってきていますね。「ナチュラルな生活を演出」なんて、どうも「形」が優先されているようにも思いますが、いろいろ考えるきっかけになればいいですね。
2008/01/21
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マイレージという言葉は、航空会社の特典として有名ですが、内容としては利用距離によって、ポイントが溜まり、無料の航空券などに利用できる仕組み。「マイルが溜まる」なんてほくほく顔で言ったりします。マーレージということばは私にとってはあまり耳慣れないものでしたが、本来の意味を調べてみると-------------------------------------------------------------------------------------------mile・age [id] ━━ n. マイル数(による運賃); (マイル数計算による)旅費手当 (mileage allowance); 走行距離; 燃費; 〔話〕 有益性, 耐用年数.(エクシード英和辞典)-------------------------------------------------------------------------------------------「マイレージ」で国語辞典を引いても該当がありませんので、日本人の認識としては「マイレージ」=航空会社のサービスということになるのでしょう。「フードマーレージ」という考え方はすべての「物」に応用可能です。モノが移動すれば、そこに輸送のための「環境負荷」が内在している、ということになります。その場合の「マイルが溜まる」というのは「マイルが溜まっちゃったよ」と眉間にシワを寄せ申し訳なさそうに言わねばなりません。朝、布団で目覚めます。かけている羽毛布団の羽毛は例えばポーランドから。パジャマは中国から。朝ごはんのお米はかろうじて国産ですが、もしもパンであれば小麦粉はアメリカから。もしも卵があれば、卵は国産だが、卵を産む鶏の餌の材料は輸入品。新聞を読み、トイレに行く。新聞紙、トイレットペーパーは日本で作られるが、その原料のパルプは輸入品。服に着替えるが、衣料品のほとんどがすでに中国製。靴を履き、車に乗り込み、エンジンをかける。確かに、靴や車の最終工程は国内かもしれませんが、原料(皮や、鉄、原油)はほとんど輸入品。目覚めてから会社に出かけるまでに手にするものでさえ、簡単に書いてもこれだけのマイレージが溜まってしまうわけです。世界中をいろんな「モノ」がガンガン移動しているわけで、そのために化石燃料が燃やされてCO2になります。中国を中心としたここのところの世界的な好景気で、どうやら貨物船が足らないようです。たしか去年のNHKスペシャルでもやってましたが、海運業界は「造船ラッシュ」。中国は世界の工場となり、中国を中心とした輸入、輸出が急激に伸びているので、それを運ぶための船が足りなくなった。そして、世界の工場である中国では、安い労働力と、甘い公害規制、低い環境意識を武器に「モノ」を作り、都市部はスモッグに汚染され水質も悪化。それが風や海流に乗って日本にも少なからず影響が出始めているようです。昨年九州が襲われた光化学スモッグは記憶にあたらしいところですね。風や海流を利用する分には「マイレージ」云々という問題はありませんが・・・・。
2008/01/17
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フードマイレージという言葉がある。恥ずかしながら、私も先日のテレビ番組で知った次第。食物の重量X輸送距離であらわすものらしい。手元に届いた食材は、産地から届くまでの間に「輸送」という形で炭酸ガスを撒き散らしている。環境問題で省エネを論ずる時、意外にこの視点が忘れられ勝ちになる。環境省の主導で行なわれている「チームマイナス6パーセント」という運動があります。暮らしの中でできる「省エネ」などの環境保全行動を心がけよう!ということで、HPでも細かく「出来ること」の内容を紹介してあり、なるほどと思うこともいっぱいある。しかし、不思議なことに、この中には「フードマイレージ」についての言及はない。(ちらっと見てみた範囲ですが・・)環境を守るという意味での、最も直接的かつ有効な手段が「消費行動」です。資本主義社会は需要と、それに対応した供給で成り立っているので、「需要」が変われば供給が変わる。即ち、「消費活動」こそが「世の中」の姿を決める「根源」なのだ。ただ、環境省が「フードマイレージ」の問題を前面に出せないのは、外務省とか、農水省とか、経済産業省とかとの兼ね合いが難しいからに違いない。日本の食糧自給率はカロリーベースで40パーセント程度で、先進国中最下位。当然輸入量が多いわけで、「重量X輸送距離」というフードマイレージの数値も高くなる。「地産地消」という言葉がある。「地域生産地域消費」の略で、「その土地で出来たものを、その土地で消費する。」という単純なことだ。安全で健康にもいいし、環境への負担の少ない。しかし、「減反」は今も続いている。日本人が米を食べなくなったのが原因である。その分、パンやパスタなどの小麦食品は増加の一途。狭い国土、低い食料自給率の中で、今でも農地の面積は減り続けている。これも結局、日本国民の「消費行動」の投影なのだが、日本人はもう少し危機感を持ったほうがいいと思う。
2008/01/08
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今日のお昼、弁当を食べながら会社のテレビを見ていると、「広島県福山市の養殖海苔の収穫が、雨不足のために不作」というニュースをやっていた。何で、雨不足で海苔が不作なんだろう?そう思ってニュースを見ていると「雨不足のため、養分が不足し、収穫は例年の3分の一だということです」とのこと。牡蠣の養殖業者が植林活動をしている、という話もありましたが、海の恵みは山からもたらされるんですね。山に降り注いだ雨が地下水や、河川の水となって、ミネラル分とかいろんな栄養素を運んでくる。海の水が蒸発して、それが山に降り注ぐ。雨は森の土壌に染み込み、地下水となって、また湧き水となって川へと注がれる。その水を人間は田畑に利用し、さらに河の生き物を育み、海に至っても海の恵みをもたらしてくれる。この水の大きな循環の中で、太陽の次に重要な役割を果たしているのは「森」。昨今、荒廃した山林を何とかしようと言うことで、「森林環境税」なるものが導入され始めている。各県単位で一人500円程度の税金を徴収して、それを財源に森林の保護育成を行なおうというものだ。その主旨には賛成だ。森は林業家だけのものではない。そういう意味では、各県単位というのもおかしい話だ。森の多い県は人口が少ない。少ない人口で、大きな森を維持することになってしまう。やはり、ここは、国家レベルで考えないといけないのだろう。ただし、ここでもやっぱり気になるのが「公務員の天下り」「特殊行政法人」問題だ。お金を集めたら、それを出来るだけその目的のために有効利用してもらえるなら文句はない。しかし、集めた金の多くの部分を、職員の給料や、それに伴う不効率な公共事業に使われたのではたまらない。厚生省、防衛庁の問題がホットではあるが、その前には松岡農水大臣が自殺した「緑資源機構」の林道整備汚職問題なんかもあった。国を信用できない、というのは本当に悲しいことですね。
2008/01/07
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クリスマスのイルミネーションは冬の風物詩ですね。青色発光ダイオードを発明した中村さんの訴訟のごたごたは3年くらい前でしょうか?あっという間に世の中のには発光ダイオードが溢れかえってます。やや冷たさのあるシャープな光は少々情緒にかけるものの、エネルギー効率は非常にいいらしいです。3倍も効率がいいから、流行の「エコ」でもあります。ニューヨークのロックフェラービルのクリスマスツリーは毎年ニュースになるが、それも今年かLEDになりました。----------------------------------------高い照明効果をより少ないエネルギーで供給できるので、去年よりも照明の数を増やしても消費電力は昨年以下になる。だから「エコ」なんですね。より少ないエネルギーで、最大の効果を得ようと世界で一番努力してきたのは日本ですね。エアコンだって、冷蔵庫だって、掃除機だって、買い換えるたびに「省エネ」になってます。パワーはアップしているのに、消費電力は減ってるなんて、素敵です。だからその分、新たな電化製品を購入し、さらに各部屋にエアコンやテレビを増設する。トイレの蓋が勝手に開いたり、音楽が流れたりする。各部屋にエアコンがあり、いるのは一人だけ。日本人一人一人は「快適」を持ち歩いて過ごしているから「団欒」というのがなくなったのかもしれないですね。昔は囲炉裏を囲んだり、コタツを囲んだりしてましたが、そこには「快適」があったからでしょう。家の中で一番暖かい場所。一番明るい場所。そこに家族が集まって、「団欒」がありました。今はといえば、一人一人が「快適」を持ち歩いているので、集まる必要もありません。だから一向にエネルギーの消費量は減らないし、家庭の使用電力は毎年増え続けることになる。メーカーだって、たくさんの電化製品を買ってもらうために「省エネ」にしているわけだから、この点、企業の思惑通り。一般庶民にとっては「京都議定書」なんてどこ吹く風ですね。誰もがみんな言葉は聞いたことがあると思うのだが、ほとんどの人は意識していない。「京都議定書」の中で約束された期間は2008年~2012年の5年間。日本はその中で、温暖化の原因となるガスの排出を1990年比の6パーセント削減しなければならないらしいです。でも実際にはどんどん増えてるんだから呆れる。結局、お金で解決するんでしょうか?「どうせ削減はできませんよ。だからそうすれば良いんですか?いくら払えばいいですか?」日本は「省エネ」の優等生ですが、日本の「エコ」は「エコロジー」ではなく、「エコノミー」であるようです。お恥ずかしい。
2007/12/24
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「『地球にやさしい』という言葉は嫌いです。」と、新人スタッフの池田君が言った。誰も地球の本心が分かるわけがないのに、「地球にやさしい」なんて、どうしていえるのだ!人間の生活に影響が出始めて、人類生存の危機に直面してしまったから環境破壊が問題になってきたのであって、所詮「地球のやさしい」は「人間にやさしい」でしかない。にも関わらず、あたかも「地球」に恩でも売るような言い回しは鼻持ちならない。そういうことらしい。確かに、人類の将来がどうなろうと「地球」にとってはどうでもいいことだ。「地球」にとって人類が「特別な存在」であると思うところに思い上がりがあり、現在の「危機」を招いた原因がある。人間にとって大事なのは、「地球にやさしい」というような傲慢さではなく、地球の居候としての謙虚さであるに違いない。「エコ」とは、「エコロジー」即ち生態学のことで、生物と環境の相互関係を研究する学問に由来する。その意味から、環境に配慮したものはすべて「エコ」と呼ぶようになった。商品名にも会社にも、「エコ」とつけるのが大流行。「エコ」と名前をつけることは、あたかも「私は善人です」ということくらい傲慢な態度だと思わないのだろうか?謙虚な人ほど私は「善人」だとは言わない。中途半端な人ほど、軽々しく「一日一善」なんていい始める。だからまず、「エコ」と付いているだけで疑う必要がある。「エコ」を自分の商売に利用しようとする「エゴイスト」たちの罠には、決してひっかからいようにしたいものだ。
2007/11/30
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地球温暖化は大きな問題だ。クールビズとかいって、涼しげな服をきて、エアコンの設定温度を高めにすることも大事。割り箸を使わないことも大事。レジ袋をもらわないことも大事。近くに買い物に行くときは車を利用しないようにすることも大事。使わない電気はこまめに消すことも大事。どれも大事なこと。一人一人のこういった意識がまとまれば、ひょっとすると世界は変わるかもしれない。ただし、みんながこうした意識を持つようにすることは、学校教育で若者にモラルを持たせるよりも難しいだろう。地球温暖化の脅威は、人間の意識改革の速度よりもずっと早く襲ってくるに違いない。人間というのは弱いものだ。給食費は論外だが、NHKの受信料を払っていない人が1000万件以上いると知ると「損をした」と思う。環境の問題も、結局こういった「損をしたくない」という感情に左右されるところが大きい。自分のひとつの行為は「全体のため」にはなるが、自分には「人間の数分の1」しか直接見返りがない。集まりにケーキを丸いまま持っていくと、当然人数分に切り分けられて、自分のところには切り分けられた小さなケーキが配られるという現象に似ている。明らかに「損」だ。裏返せば、何も持ってこなかったのに、ケーキを食べる人がいるわけで、その人は「得」をした、ということになる。ま、会社とか、友人の集まりで「このケーキは●●さんが持ってきたものです!」なんて紹介してもらうとそれなりに「回収」できるのであるが、ほとんど自分と縁もゆかりもない人の集まりで、なおかつ、誰が持ってきたケーキかという説明もなければ、誰が考えても損だ。環境問題というのは、ある意味こういう状況に近い。自分がエアコンを使うのを控えても、誰も褒めてくれないし感謝もしてくれない。隣の上では朝からエアコンの室外機がうなり声を上げ、開放した我が家の窓から入ってくる。やっぱり、「損」だ。と、思わず、エアコンのスイッチを入れる。地球温暖化は分かるけど、とりあえず、暑いのでエアコンだ。だから、損得勘定を抜きにして、自分の信念で「行動」できる人は偉い。尊敬に値する。が、そういう人はやっぱり少数派だ。地球温暖化が待ったなしなら、人の「損得勘定」に訴えるしかない。・割り箸1本30円。・レジ袋1枚50円の税金をかける。とか。環境に配慮していない中国製品は輸入禁止。あるいはその度合いによって、関税をかける。植林なき伐採の結果発生した木材の輸入禁止。でも、どこにでもきっとそれで損をする人がいる。その抵抗が恐くて「自主性」に訴えるが、いつまでも前に進まない。日本の二酸化炭素排出量は毎年増えている。
2007/09/04
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昨日、広島市中小企業会館であった、経済産業者 資源エネルギー庁主催の「新エネルギー展示会」に夫婦で行ってきました。この写真は展示会場に中にあったもの。答えは 20リットル。エタノールとは、植物からとれるアルコールで、ガソリンの代替燃料として注目されています。(詳しくは、「手作り企画 ジャーニー・トゥ・フォーエバー」のホームページをご参照ください。)展示会で印象的だったのは、子どもが多かったこと。時間帯にもよるのでしょうが、80パーセント以上は小学生以下の子ども連れ。大人だけのグループはほとんどいません。展示内容は、バイオマスや、燃料電池、風力発電、太陽光発電などのパネル、ハイブリッドカーなどの自動車の展示、太陽光発電パネルなどの実物など。アトラクションとして、マジシャンのふじいあきら(口からトランプを出す人)が呼ばれたりしていたので、それで小学生が多かったのかもしれません。天ぷら油のリサイクルで走るバスで駅から会場までのシャトルバスを出したりして、多少工夫は感じたものの、正直言って、ぱっとしない展示会でした。エネルギー政策は、大きくは地球温暖化問題、小さくは家庭の「省エネ」問題と密接に関連しているはずですが、展示が「新エネルギー」だけに偏っていて、説得力がありません。風力発電や太陽熱発電がどうして必要なのか?一人一人が何に気をつけなければいけないのか?というような視点がほとんどない。展示会をすればお金もかかるわけですが、どうせお金をかけるのなら、環境の問題とか、森林の問題とかと絡めて「代替エネルギー」の必要性を訴えたほうが効果的だと思う。そうすると、問題は経済産業省だけでなく、環境省とか、農林水産省とか、もっと言えば文部科学省とかがあわせて予算を使って、もっと大規模に、もっと説得力と影響力のあるイベントを開催したほうがいいと思います。お役所が、あるいはその外郭団体が、予算を使うために行っているイベントであるように思えて仕方がない。クールビズとか、ウォームビズとかいった運動もあるが、お役所自体の緊迫感がまるっきり伝わってこないのだから、国民に動けといっても無理だと思う。展示会よりも、このブログを書くために検索して見つけた「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」のホームページの方が説得力があった。私たちの行動の一つ一つが、どう地球の環境に結びついているのかが実感できることが大事だと思う。レジ袋も、1枚50円くらいにして、その収益金を環境保護活動に使えばいい。環境問題が実感を伴わないから実行もできないのだから、実感を伴う方法に置き換えてしまうのが一番早い。国民全体に環境意識を定着させるような時間的余裕はないような気がするのだが・・・。政府に緊迫感が生まれれば、国民も敏感にそれを感じ取る。それで初めて動き始めるような気がする。緊迫感のないイベントを見ながら、そんなことを感じました。
2007/01/21
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おとといだか、NHKで温暖化のことをやっていたらしい。家内が会社の人に聞いた話を、さらに私に教えてくれた。で、ネット検索してみるとちゃんとそのことを書いている人もいた。(とても分かりやすかったです)伝言ゲームみたいで少々情報はあやしいが、まとめるとカナリアという鳥は環境の変化に非常に敏感で、炭鉱などではカナリアを有毒ガスの発生を知るために使っていたらしい。カナリアが死ぬと「有毒ガス発生」ということらしい。ということで、温暖化を最も敏感に、誰よりも先に影響を受けるといわれる民族がケニアの遊牧民・トゥルカナ族で、そのために「地球温暖化のカナリア」と呼ばれる。彼らが絶滅すると、「いよいよやばいぞ!」ということだろうか?なんともひどい話ではあるが現実には違いない。彼らは炭酸ガスも撒き散らさず、自然とともに暮らしている。それだけにその影響をまともに受けてしまう。トゥルカナ族に限らず、気候変動の影響を真っ先にうけて犠牲となるのは「自然に近い暮らしをしている人々」である。彼らには何の罪もなく、何百年、あるいは何千年も前から自然と共生する暮らしを守ってきた。いわば、裸のままの姿で地球と向き合っているのだ。それゆえ、気候変動の影響をまともに受け、食料を失い、絶滅の危機に瀕しているらしい。一方、温暖化の原因となった日本を含めた先進国はというと、エアコンの効いた部屋で、冷凍貯蔵された食料を確保し、炭酸ガスを撒き散らかし続けている。皮肉な現実である。アメリカ副大統領だったゴア氏が環境破壊の現実を訴えているが、どれだけの人が深刻さを理解しているのだろう。きっと、私も含めて、ほとんど分かっていないのだ。「このままタバコをすい続けると、あなたの命はあと半年です」と言われなければタバコをやめられないのと同じだ。ましてや、「そのまま吸い続けると、廻りの人の命がありません」といわれたのでは本気になれない。ただし、残念なことに医療と違って、同じ症状をだれも経験したことがない。数多くの症例があって初めて「あと半年」に絶対的な重みが出るのだが、大自然の変化には症例がない。それゆえ「大丈夫、大丈夫」という人もいれば、「大変だ!大変だ!」と騒ぐ人もいる。そして私たちにはどの程度深刻なのか分からない。ゴアは言う。「今すぐに変えないと手遅れになる!」でも、アメリカは「京都議定書」にも調印していない。中国は相変わらず炭酸ガスを撒き散らしながら躍進を続け、日本は企業努力で「省エネ」を頑張っているものの、国民の意識はほとんど変わらない。そして、私自身も思っている。「なんとかなるんじゃないの?」でも一方で、何の罪もなく滅びる日を待っている人たちがいる。誰のための「エコ?」「ロハス?」矛盾がいっぱいだ。本当はどうなんだ!こんなにのんきに仕事をしていてもいいのか?年金もそうだが、それ以上に、将来も子ども達が生きることができる「環境」があるのか?今日も一日、昨日と同じように文化的生活を繰り返しながら、矛盾と疑問と不安を感じているのである。
2007/01/18
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宇宙飛行士の毛利衛さんが南極から環境保護を訴えていた。宇宙から地球を見た数少ない人間である。宇宙飛行士の多くが「神」の存在を確信するようになるという。世界中で起こっている宗教紛争のレベルの「おらが神」ではなく、もっと高いレベルですべての存在から超越した「意志」を感じるらしい。(立花隆 宇宙からの帰還 参照)「ガイア」という言葉がある。地球をひとつの生命体として考えるものである。地球上のすべては地球という生命体を構成する要素で、有機的に結びついていると考える。言葉じたいはかなり市民権も得てきたようだ。果たして、地球にとって人間は「善玉」なのか「悪玉」なのか?人間、風邪をひくと熱が出る。発熱によって、ウイルスの活動を抑制し、退治しやすくするためだ。地球の温暖化は、まさしく地球という生命体の「発熱」ように感じられないだろうか?地球は人類を排除しようとしているのではないだろうか?人類が善玉か悪玉か?現在のところ、議論の余地なく「悪玉」だ。「悪玉」として「地球」に排除されてしまうのか、あるいは仮に地球に排除されなくても、拠り所をなくしてしまっては意味がない。人類に残された道はひとつしかない。「善玉」として「地球」の中で、分をわきまえて暮らしていくことだ。戦う時代はもう終わった。戦って勝利を得るには地球は小さくなりすぎた。狭い地球で一人勝ちなんてありえないのだ。毛利さんが南極で語りかけるのをテレビで見ながら、そんなことを感じたのだが。
2007/01/13
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私は木製のエクステリア材などを製造販売するネットショップの店長です。またの名を「ウッドザビエル」、あるいは「木のおじさん」でもあります。今日は、エクステリア材からみた木材資源についてちょっと考えてみます。ウッドデッキ、で検索していただくと、いろいろな木の種類が出てきます。主なものを上げると、イペ・ジャラ・アイアンウッド(ウリン)これらは「ハードウッドデッキ」と呼ばれ、とにかく堅く腐りにくい。アイアンウッド(ウリン)に至っては、名前の如く水に沈むくらい重く堅い。ということで、港湾施設などで昔から利用されてきたらしい。「水の中でも50年以上」なんて、すごい表現もされているが、確かに腐りにくいに違いない。もうひとつには、ウエスタンレッドシダーに代表される針葉樹系のデッキ材がある。木質は柔らかく、塗装の乗りがよい。一時期、SPF(ホームセンターなどで売っている、2X4住宅用ランバー)材をデッキに使用するケースが多かったせいか、「木はすぐに腐る」という印象が後遺症にもなって、昨今のデッキの流れは・ウッドデッキにするなら、腐らないハードウッド(腐らないわけではないが)・再塗装がイヤなら、樹脂製デッキ。という傾向が出てきている。で、私の見解。まず、樹脂製デッキについては、「ウッドデッキ」と呼ぶのをやめて欲しい。あれは、デッキではあってもウッドではない。まして、木目を演出するものに至っては、姑息すぎて見るに耐えない。それでは、ハードウッドのデッキについてはどうだろう。堅くて、腐りにくい。言うことなし、かというとそんなことはない。言いたい事がいっぱいある。まず第一に、生産地の問題だ。もし、ここにお買い得な車があるとして、でもそれが「盗品」だと知っていたら買いますか?普通の人は買わない。でも、元は盗品だけど、いろいろめぐって決して盗品であることが分からなかったら買いますか?買う人はぐんと増えるが、それでも買わない人が多いだろう。それでは、「盗品」であることを黙って売っていれば、これは多くの人が買うに違いない。ウリンやイペやジャラといったハードウッド系のデッキ材の多く不法伐採であるという。少なくとも、管理された森林から計画的に産出されたものでないことは確かだ。見方によっては、象牙の取引と同じなのである。象牙の場合は、完全に取引が禁止されているので、すぐに「違法」だと分かるが、ウリンなどは、まともな生産・流通にのって出てくるものもあるので、末端では区別がつかない。日本に来たときには「グレー」ではあっても黒とは言い切れなくなる。インターネットでデッキを調べてみて、たとえばウリンの説明に「森林破壊に繋がっている」とは書いてない。逆に「防腐剤などの薬品を使用していないので、環境にやさしい」なんて書いてある。自分の庭の環境さえよければ、インドネシアの環境問題はどうでもいいのだろうか?地球上に成育する木は、たとえどこで育っていようと「地球」の財産である。空気に国境線は掛けない。中国の奥地で巻き上げられた砂が日本に降り注ぐように、環境はすべてひとつながりだ。例えは適切でないかもしれないが、地震や洪水の際に、避難した方々が体育館で寝泊りされる映像を見て、私はつくづく思う。限られたスペースで、廻りの状況に配慮しながらの生活。もし、この中で、騒ぎまわる人や、腹が減ったといって、炭をおこしてバーベキューする人がいれば大変なことになる。ある意味、地球というのは体育館での共同生活に似ていると思うのだ。自分の快適は、周囲の快適なくしては保たれない。自分だけの快適を求めれば、すぐに破綻する。お金があるからといって、個人の住宅に、「港湾施設」で使われるような耐久性の高い木を使うのはいかがなものか。いろいろインターネットで調べていたら、興味深いHPがあった。熱帯林行動ネットワークのHPである。これもある意味、意図的に編集された情報だと思うので、それを考慮したうえでご判断いただければ思う。日常的に使っている紙。この紙も森林破壊の上に成り立っているらしい。「あっ、失敗した」と言って、無駄なコピーをぽいっとゴミ箱へ。木が切り倒される音が聞こたような気がしたが、空耳か・・・。。
2006/05/20
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戦後植林された杉が問題になっている。身近なところでは、「花粉症」花粉症の原因は杉ばかりではないが、何しろ日本で一番植林されている木は杉なので、その影響は確かに大きい。一方、山林の荒廃問題という深刻な事態もある。これは一般の人はあまり興味のない話だ。ほとんどの人に親戚には「山林関係者」はいないだろうし、田舎に先祖の残した山があったとしても、財産的価値がほとんどないので誰もそれをあてにしていない。私の家も田舎に「山」があるらしいのだが、父親に聞いても「このあたりらしい」という程度の情報しかなく、祖父はすでに死んでいるのでどうしようもない。結局そのまま放置されている。戦後、日本では、日本復興のためにたくさんの杉が植えられた。成長が早く、まっすぐに育つ杉の木は発展する日本の象徴でもあったわけだが、残念ながら杉の成長よりも日本の復興は早く成し遂げられ、気付けば「用なし」。戦後60年で、植林された杉もほとんどが伐採期を迎えているのだが、なにしろ貰い手がない。貰い手がなければちゃんと身づくろいをして着飾ろう!なんて思わなくなるので、当然荒れてくる。というわけで、日本の杉林は荒れ果てた。お金をかけて面倒を見ても「元が取れない」のである。結局、国民の税金で補助金を出して山の面倒を見ているのが実態だ。日本の林業は「補助金」無しでは成り立たない。どうしてこんなことに・・・・・。答えは簡単だ。需要と供給のバランスが取れていないからである。杉と言う木は決して高級な木ではない。確かに、「秋田杉」というようなブランド化した杉もある。天井材や、鴨居、長押など、和室に使われる材料としては最高級で、目の玉が飛び出るくらいに高い。私が昔、建材の営業マンをしていたころ、銘木屋の展示会で見たことがあるが、それは確かにすばらしいものだった。自然のみが作りうる木目の美しさ、力強さ、繊細さ。確かに「銘木」の名に値する「杉」もある。が、それは杉の中でも一握りに過ぎない。杉という木はクセが少なく軽いため、昔から造作材や壁材として利用されてきた。昔の住宅の外壁には木の板が張ってあったが、ほとんどは「杉」である。軽いので壁に張っても重くならず、赤味は湿気にも強い。しかし、今では「防火」の問題もあって外壁に杉を張る家はほとんどない。杉の弱点は「弱い」ことだ。軽い分、やはり弱いので、構造材には向かない。柱など、圧縮方向に力がかかる部材には使用されているものの、梁のような横方向の部材にはまず使わない。同じ強度を出すには、他の材料よりも大きな断面が必要になるからである。また、床にも不向きだ。柔らかいので磨耗しやすくキズも付きやすい。木の特徴を生かしていくと、結局杉は「天井板」「外壁材」「羽目板」「和室造作材」という使い方になる。ただ、問題なのは「需要」がないのである。今ある杉の使い方。これは確かに問題だ。が、杉を伐採したあとをどうするかもしっかり考える必要がある。中途半端に人間が手を出して、もういらないから面倒を見ないというのでは「捨て猫」「捨て犬」と同じである。花粉は捨てられた杉の木の「怨念」にようにも思えるのだが・・・。
2006/04/13
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3月5日のNHKスペシャルで、「巨樹 生命の不思議」なる番組を放送していた。奥羽山脈の一角に位置する「和賀山塊」と呼ばれる秘境にある「巨樹」の姿を記録した番組である。胴回り3Mを越えるものを「巨樹」というらしい。円周率が3.14なので、直径1Mを越えれば巨樹ということになる。「和賀山塊」はマタギ以外の人間はほとんど足を踏み入れない「秘境」だ。それゆえ、樹齢数百年の「巨樹」が数多くの残っているらしい。胴周りが8Mを越えるブナ、クリ、ミズナラなどの広葉樹の巨樹と、それを取り巻く四季の移り変わりを美しく描いていた。秋になり、山全体が赤く染まる。なんとも美しい景色なのだが、木は雪が降る前にその葉をすべて落としてしまわないといけない。葉があれば雪が積もりやすく、枝にかかる負担も増える。これもまた大自然の営みなのだと、番組をみながら妙に納得した。横に広がる広葉樹は当然雪が積もりやすい。だから落葉する。針葉樹は細長い円錐形なので、雪が積もりにくい。だから落葉しなくてもいいということなのだろう。日本は「照葉樹林文化」であるといわれる。照葉樹林というのは、落葉しない常緑広葉樹の林である。艶のある葉が日を受けて照るということが「照葉樹」の由来らしい。日本は大きく分けて、照葉樹林帯と落葉樹林帯に区別できる。雪の量が植生分布に当然ながら影響しているようで、分布については「みんなの森」が分かりやすい。本来、雪があまり降らないところでは「落葉」する意味もないのかもしれない。毎年葉を付け替えるよりは、同じ葉を使いまわすほうが経済的でもある。かつて西日本のほとんどは照葉樹林の原生林で覆われていたらしい。非常に暮らしやすく、農作物もよくできるが、熱帯地方のような「芋類」ができにくい。そこに発達したのが稲作文化であるという。「稲作文化=照葉樹林文化」ということになった。しかし、この「照葉樹林」のまとまった林はほとんど残されていないらしい。もともと、温暖な気候のところにできる林であるから、人のすみやすい場所に近い。ということで、伐採が進み切り開かれ農地となり、あるいは植林地となってしまう。ほとんど残っていないので残っている場所は貴重になる。照葉樹林といえば宮崎の綾町が有名だ。一方宮崎は、杉材の生産日本一でもある。照葉樹林は大規模な人工林に姿を変えてしまった。照葉樹林についてネットで調べていると、もののけ姫の舞台になった森こそ「照葉樹林」であるというくだりがあった。「もののけ姫」は見たときはあまり気にしてもいなかったのだが、どうやらそうらしい。そうして調べていくと、またまた相当力の入ったホームページを見つけた。「もののけ姫を読み解く」というサイトで、あまりの量に完全に読みきっていないが、読み応えがありそうだ。ひとつの興味が、いろんな広がりを見せるのもネット時代の特徴なのだと思う。
2006/03/10
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「お山の杉の子」の歌をご存知だろうか?昔 昔 その昔椎の木林のすぐそばに、大きなお山があったとさ、あったとさで始まる歌である。私自身、どこで聞いたのか思い出せないのだが、ここまではなんとなく知っている。30代になるともう分からないのかもしれない。この歌の意味を「れいちゃん」のブログで知った。ちなみに歌詞の全文はこちらをご参照いただきたい。しいの木林のすぐそばに植えられた小さな「杉」は最初は椎の木に馬鹿にされていたが、お日様の恵みを受けつつ大きくなっていつしか禿山は「杉林」になり、椎の木を見下ろすほどの「大杉」になる。そして「大杉」は、机や家や下駄になって、人の役に立つみんなも、この杉を見習って頑張って大きくなって、立派になり、明るい国を作ろう!と、子ども達へのメッセージで締めくくられている。子ども達の立派な成長への願いを、国を支える「杉の木」にオーバーラップさせているのだ。ここから分かるのは、この当時の「杉林」、あるいは「木材」の価値というのは、国のために役に立つ有為な人材と同じくらい高い価値であったということだろう。生活の基盤を支えていたのはまさしく「木」だったのである。ただし、この歌はオリジナルの歌詞ではないらしい。これも、「れいちゃん」の受け売りだが、野村信之氏の「お山の杉の子文化論」に詳しい。かなり深い内容の話である。戦時中の燃料や資材確保のため日本中でいたるところに禿山ができた。戦後の焼け野原を復興するためには「材木」が必要になるが、戦時中にめぼしい材木は伐採していたために資材がない。そこで、一所懸命に植えられたのが「杉」であった。杉は成長が早いので、当然伐採も早くできる。資材の足らない時代なので、早く伐採できる杉を中心に植林がされたわけである。その後押しが「お山の杉の木」の歌だと野村氏は書いている。しかし、成長の早い杉の木でさえ、日本という国の成長には間に合わず、結局「外材」に頼ることになる。昭和20年~30年代。戦後植林された杉はまた10年程度の幼木でとても切ることができない。日本は高度成長で、農村から大挙してくる若者を受け入れるための住宅建設ラッシュ。昔ながらに「適材適所」なんていってる暇はない。結果として、杉板は「南洋材」の合板に替わり、柱は米栂、梁、桁は米松ということでいつのまにか国産材の出る幕なし。木材をガンガン輸入して、「ウサギ小屋」と呼ばれた住宅を文字通りガンガン家を建てた。だから明らかに戦前の住宅と戦後の住宅は違う。そのうち杉の木は成長したのだが、そのときには「貰い手」がいない状況になっていた。かつて日本を支えるであろうということで高らかに歌い上げられた「お山の杉の子」の歌。その杉山は巨大なお荷物となり、「花粉」を撒き散らすということで嫌われる一方だ。フィリピンでは「乱伐」が原因のひとつとされる大規模地滑りが発生している一方で、日本では「花粉症対策」のために木が切られている。なんとも皮肉な現実だ。そういえば最近、レイテ島の災害のニュースを聞かない。一体どうなったのだろう?永田議員のメール問題をめぐる低レベルな争いには食傷ぎみだ。人気blogランキングへ
2006/03/03
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星新一の作品の中に「鏡」というのがある。最初に読んだのはきっと中学生のころだから、もう30年も前の話だ。まだ読んだことのない人には申し訳ないが、あらすじを紹介しよう。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆13日の金曜日に2枚の鏡を向かい合わせに並べると、鏡の中にできる回廊の奥の奥から悪魔が走ってきて、合わせ鏡の間を飛び越えようとする。その瞬間「聖書」で悪魔のしっぽを挟めば捕まえることができる。という話を知った男はふと試して見る。当然本気にはしてなかったのだが、予想に反して悪魔が走ってきて、それを捕まえてしまった。その悪魔は小さく、非常に気弱そうに見え、色こそ黒くて悪魔っぽいのだがとても悪いことができそうには見えない。「悪魔なんだから何かしろ」と男が命令しても、悪魔は「逃がしてください」と哀願するばかり。その様子に気付いた男の妻は、最初こそ「そんなにいじめて大丈夫なの?」と心配していたが、悪魔のあまりに情けない態度に強気になっていく。結局悪魔は逃げ出さないように、壷の中に閉じ込められる。会社でいやなことがあると悪魔をいじめる。するとなぜかすかっとした気持ちになって、明日への活力が生まれる。しっぽをハサミ切っても壷に入れて次の日にはちゃんと元に戻る。ためしにハンマーで叩いてみるとそのときはつぶれてしまうのだが、やはり次の日には元に戻る。夫婦は、外での憂さを悪魔をいじめて発散し、男は出世し実に快適な日々を過ごす。そんなある日。妻が油断した隙に悪魔は妻の手鏡に飛び込んで逃げてしまう。そしてこれまで悪魔をいじめることでストレスなく生きてきた夫婦は、そのやり場をなくしてお互い罵り合い、やがて妻はハサミを、夫はハンマーを手にする。血が流れ、うめき声さえ消えた静寂の中で、置時計の日付が13日の金曜日から次の日に移っていく。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆というお話だ。この話の意味するところは非常に深い。悪魔は外からこころの中に忍び込んで人間を自由に操るのではない。悪魔は人間が自ら「悪」になっていくように、実に用意周到に準備する。悪魔は誰も気付かないうちに人のこころを蝕んでいくのだ。私がこの話を思い出したのは、レイテ島の大規模地滑りの事件のときだ。森林の乱伐も一因に違いないが、昨今の異常気象も大きな要因に違いない。人類にとって「悪魔」は「化石燃料」だったのではないかという気がしたのである。石炭や石油がもたらしたエネルギー、そして副産物の樹脂類。それは人間の生活を根本的に変えた。私達は江戸時代の生活に戻れるだろうか?戻れるわけがない。100先のコンビニでさえ車で行ってしまう。便所の蓋は勝手に開く。水は蛇口から常に出るし、お湯だって出てくる。家の中は魔法の箱でいっぱいだ。洗濯物を突っ込むと洗ってくれる箱。食器を突っ込むとやはり洗ってくれる箱。暖かい空気や冷たい空気が勝手に出てくる箱もある。音の出る箱、映像の映る箱、勝手にごはんが炊ける箱。もし織田信長に献上すればお城のひとつくらいもらえるかも知れない。家の中だけでなく、家の外も魔法の箱だらけ。でも、どれもこれも「石油」がなくては動かない。「そろそろヤバイんじゃないの?」と思っても二酸化炭素はどんどん大気中に吐きだされていく。私を含めて、「そろそろヤバイ」とは思いながら、実はどの程度深刻な問題なのかが実感として分っていない。幸い人間は見たくないものは「見えない」ようにできている。そして、その日はある日突然やって来る。「離婚させていただきます」万事休す。人気blogランキングへ
2006/02/25
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フィリピン、レイテ島で大規模な地滑りが発生した。直接的な原因は豪雨らしいが、違法伐採を原因のひとつらしい。フィリピンは1990年代から、原木の輸出のみならず、伐採も禁止している。ということは、フィリピンの伐採はすべて「違法伐採」ということになる。もともとフィリピンは、ジャングルに覆われた豊かな島であったらしいのだが、「地方では、過去の商業伐採、その後の不法伐採の延に加えて、人口増加と貧困による平地農民の山地への流入により、森林生態系の破壊が進んでおり、森林率は20%程度にまで低下している。」(「フィリピン国別援助計画」 から引用)ちなみに、日本の森林率は65%くらいある。だれがフィリピンを禿山の島にしたのかといえば、これはやっぱり「日本人」なのである。ただ、我々には実感がない。借金取りが、借金のかたに貧しい家の布団まで剥ぎ取って売り払ったとする。古道具屋でその布団を買った人は、まさかそんなひどい出来事があったなんて知らない。それと同じだ。森林はそこに住む人たちにとって、まさしく「家」であり「布団」であり「服」である。露天に暮らせば、雨風をしのぎたくなるので、服を着る。屋根を作る。寝る時には寒さから身を守るため布団をかぶる。森林というのは、まさしくもっと大きな範囲でその役割を果たしている。雨から地表を守り、さらに地面に浸透させて蓄え、少しずつ流していく。だから、雨が降らない時期でも川の水は涸れないし、雨が少し多く降っても洪水にならない。風は土を吹きとばすが、それも木々が守っている。貧しさゆえに森林を乱伐して売ってしまうということは、家を売り、布団を売り、服を売ることと同じだ。後には生きることさえ困難な状況が待っている。「身包み剥がれた」という状態が森林を失った土地と、そこに住む人たちの状況なのだと思う。今回の大惨事の映像を見るだに人間の無力感を感じる。救助の行く手を阻む厚い土砂の層。この土砂はもともと、1本1本の木々によって山に貼り付けられていたのではないか?一体だれが、なぜその杭を抜いてしまったのか。この大惨事を機に、環境の問題をもっと真剣に考えてみる必要がありそうだ。人気blogランキングへ
2006/02/21
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人間の触覚はものすごい能力を持っている。指先の感覚だけで、机の上の髪の毛を発見することなどは朝飯前だ。熟練した旋盤工は0.00何ミリという高精度の機械でしか測れない世界を、指先の感触で見分けるという。動物が五感を発達させるのは、「生きるため」である。危険を察知し、生きることに有効なものとそうでないものを見分けることが必要になる。住む場所、天敵の種類などによって、触覚を発達されるもの、聴覚を発達させるもの、嗅覚を発達させるもの、様々である。人間もその例外ではない。私は生物学者でもなんでもない一般人なので、あくまでも「私見」として読んでいただければありがたい。動物は、生きるために「感覚」を発達させたが、どうも人間の「感覚」だけは必要以上に発達しているように思われる。生きるために必要な以上の感覚、プラスαの部分こそが人間を人間らしくさせているのではないか。そのプラスαが、人間の「創造力」の源に違いない。人間は、生きることのみを目的にするのではなく、「生きがい」を求める。生きることだけに精一杯では創造力は生まれない。生きることに精一杯でも、秋になれば祭りを行い、正月になれば新年を祝い、折に触れ暮らしの中に楽しみを見出してきたのが人間の営みだ。そしてそれは弥生時代でも、縄文時代でも、あるいはもっと古い時代でも同じだったと思う。指先の絶妙な感覚が数々の道具や工芸品を生み、視覚が芸術性を高め、味覚の発達が「生きるために食べること」を楽しみに変えた。聴覚は「音楽」を生み、嗅覚は味覚とも一緒になって、暮らしにふくらみを与えた。五感というのは、自分自身と外界との接点に違いないが、人間はそれを自分の中に取り込んで「自分のもの」にしてしまう能力を持っている。すばらしい景色を見たり、すばらしい音楽を聴いたりすれば感動する。それは、五感を通して入ってくる情報を「こころ」が処理するからなのだろう。情報を「楽しむ」ことができるのはきっと人間だけだ。と、ここで、現代の日本社会を見てみよう。テレビはどんどん大型化し、目からの情報は溢れんばかり。若者は常に耳元にスピーカーを置き、お気に入りのナンバーを口ずさむ。グルメ情報も街に溢れ、A級B級の差はあっても、誰もが料理評論家だ。まさに、「中毒」ではないかと思われるくらい、視覚や聴覚や味覚を刺激するものが溢れている。このままでいいのだろうか?情報の過多は、情報に対する人間の繊細な感覚を奪ってしまうのではないだろうか?積極的に情報を取りに行かなくても、強制的に与えられてしまう。特に目と耳から入ってくる情報の多さは異常なほどだ。このことが、かえって鈍感な人間を作り出すことに繋がっていないだろうか?また、情報過多の一方で、「直接体験」は減っている。直接体験とは、読んで字の如く自分自身の体験である。現代の社会は、情報が過多である一方で、人間の行動だけを抑制しようとする。危ないと思われる場所には近づかない。危ないことはしない。自分自身で判断して選択しているのならまだいいが、実際には親や教師がそうさせている。危ないと思われる場所には近づかせない。危ないかもしれないことはさせない。結果的に、危険であることを自分自身では判断できないようになってしまうのではないかと心配になる。学習で最も効果的なのは「痛い目にあう」ということだ。まさしく直接体験である。小さな痛い目を重ねて学習していくから、「大きな痛い目」を避けることが出来る。今の人間は「過保護」な世の中で生きているので、痛い目にあったときには取り返しがつかなくなってしまう。手を切ったこともない子どもたちが突然手首を切ったりする。氾濫する情報を自分なりに整理する力は「直接体験」からこそ生まれると思う。そう、肌で感じること。寒さ、痛み、温もり・・・・。情報過多の時代だからこそ、自分の手の感触を大切にしたい。人気blogランキングへ
2006/02/18
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突然堅い話になるが、産業革命というのは、エネルギーを生み出す仕組みの革命だった。たとえば船について考えてみると、それまでは風や潮流といった自然にあるものを利用するか、人が一所懸命漕いで進むしかなかった。それ以前の軍艦といえば、半奴隷の「漕ぎ手」が、鞭でビシビシ叩かれながら掛け声に合わせて死に物狂いで漕ぐという印象である。「ベンハー」という映画で見たままのイメージだ。風や潮流に逆らって進もうとすると、大勢の人間の労働集約的な力が必要になる。産業革命はこれを根本から変えた。それまでは文字通り、何人力とか、何馬力とかいう単位で力を集めるしかい。大航海時代といえども、船の大型化や造船技術の向上という進歩はあったにしても、基本的には「風」と「潮流」という大自然の力を頼るものだ。それが、石炭を燃やすことによって短時間に大きなエネルギーを手に入れることができるようになると状況は一変する。鶴の恩返しのようにギットンバッタン織っていたものが、石炭をエネルギー源とする大型の紡績機械が誕生した。その瞬間、「職人」は「工員」になった。船も蒸気船があらわれて、人が漕がなくても川を遡れるようになる。大型の機械には「鉄」が必要だ。鉄を溶かすには大量の「石炭」を必要とする。人類は、狂ったように地面を掘り返して何億年も地中に眠っていた資源を消費していく。これが18世紀後半から20世紀にかけての状況である。人類が掘り返した土、そこから掘り出した資源は一体どのくらいになるのだろう。何億年もの長い眠りから目覚めた石炭や石油などの「化石燃料」は、いまや地球上くまなく環境問題を引き起こし、人類の存亡を左右しかねない状況になっている。どこの家にもまな板がある。まな板は、「木」で十分なはずだが、樹脂製のものも存在する。木であればわずかなエネルギーで作ることが出来る。木を切って板にすれば機能的には「まな板」になる。でも樹脂ではそうはいかない。石油を掘り出し、精製し、樹脂の原料を作り、型に流し込み・・・・その間相当のエネルギーが必要になる。価格はどちらも一枚1000円かもしれない。逆に樹脂製には「抗菌加工」なんて付加価値が付いている。環境的見地から考えると、どちらを選択すべきかは一目瞭然である。もともとまな板に使われる檜などの木には「抗菌作用」がある。また、木は決して刃物を痛めない。木の特徴をよく知って、木で間に合うものには木を使うようにすればエネルギーの消費はもっと抑えられるに違いない。300年前に永い眠りを妨げられた「化石燃料」という魔王。その災いが地球を滅ぼそうとしている。しかし、その災いは人間自身が招いたものだ。地球は新しい勇者を必要としている!その勇者は君自身。ぜひともこのテーマでドラゴンクエスト張りのロールプレイングゲームを作って欲しいものだ。そうすれば、子どもたちの意識も変わるかも知れない。人気blogランキングへ
2006/02/12
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「もったいない」という言葉が世界的に脚光を浴びている。ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさん(ケニア副環境相)がその発端だ。「日本にはすばらしい言葉がある」というわけだが、この「もったいない」と概念を意味することばが日本にしかないことをこの時初めて知った。外国語には訳しようがないらしい。だから「MOTTAINAI」が世界共通語になる。使い捨てを美徳とし、ゴミの処分に頭を悩ませ、飽食を絵に描いたような現代に日本にこの言葉があるのも皮肉なことだ。もったいないという言葉は「本来の能力を発揮できない状況」をいう。まだ使えるのに捨てられるからもったいない。もっとできる人間なのにそんな仕事をさせてはもったいない。まだ食べれるのにもったいない。というわけで、非常に便利な言葉ではある。が、この言葉の奥にある根本的な感情は「思いやり」だと思われる。「思いやり」なんて言葉もなんだか「死語」に近いが、「思い」を相手に「遣る」わけだから、相手の気持ちになるということだろう。「せっかく生まれてきたのに、こんな使われ方をしたのでは本当に不憫じゃ」という気持ちがすなわち「もったいない」である。言葉というのはその国の文化を表すものである。もったいないという言葉があるからには、日本にはそういう文化があったということだろう。もうひとつ。「もったいない」の後に続く言葉がある。「バチがあたる」という言葉だ。バチがあたるとは、「天から罰を受ける」ということ。ものを粗末にするとバチがあたる。思えば、日本という国は八百万の神々の国なのであった。日本ではすべてのものに神が宿る。山の神、海の神、木にも神が宿り、石にも宿る。すべてのものに魂がある。昔の人はそう考えたに違いない。すべての人、すべての物には役割が天から与えられている。だから、人も、物ももったいないのである。思いやりと、感謝と、畏敬の念が入り混じってできたきわめて日本的な言葉が「もったいない」なのである。ひょっとしたら昔の人には聞こえたのかもしれない。まだ使える道具が捨てられるときの叫びが・・・・。「無念・・・・」がくっ。あー、もったいない!人気blogランキングへ
2006/02/04
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29日の朝日新聞に、「森林認証制度」の問題が特集されていた。環境に配慮して手入れされた森林に対して、民間のNGOがお墨付きを与えるもである。環境に配慮された森林から産出される木材と、そうでない木材を差別化することを目的とする。商品の価格というのは、通常、製造原価に利益を乗せて決める。ただし、自由競争社会であるので、決定される価格が「市場価格」にあったものでなければ売れない。製造原価には、人件費や、原材料費、設備の減価償却費などがある。例えば中国の製品は非常に安い。「中国は人件費が安いから」と誰もが思う。日本と10分の1、とか、20分の1とかいう話だから、日本の製造業は太刀打ちできない。が、日本と中国の製造原価の違いは本当に「労働力」だけなのだろうか?昨今の異常気象を例にとるまでもまく、「環境」を守るということは人類の大きなテーマであることは間違いない。「宇宙船地球号」という言葉があるが、同じ船に乗り合わせている限り、沈めばもろともだ。ゆえに、企業は環境への負荷の少ない製品を、環境に負荷をかけない方法で生産し、消費者は、環境に配慮された商品を選んで購入する。それが理想である。しかし、結局、環境を守ることにお金をかければ「コスト」は上昇し、競争力が低下する。消費者も自分だけ高いものを買うことには抵抗があるはずだ。結局、環境に配慮した企業や人は馬鹿を見る、ということになりかねない。冒頭に書いた「森林認証制度」についても、それによる「差別化」が付加価値として認められ、販売促進効果が発揮されなければただの「コストアップ」になってしまう。切りっぱなしの山から生産された木は、管理された森から産出される木よりも当然コストが安い。伐採の後に行う植林は、その時点では「お金」にならないから、短期的には完全に利益の持ち出しになる。現在の日本では、伐採して得た利益よりも植林と山林維持にかかる費用の方が高いというのが実態だ。結果、日本の森林は「花粉」を巻き散らかすだけに厄介者になってしまった。森林破壊が問題となっている発展途上国においては、30年後のことよりも、今生きることのほうが当然大切になる。今目の前に生えているジャングルの木は勝手に生えたもので、育てるためのコストがほとんどかかっていない。その木を伐採するとお金になる。手に入ったお金で植林・管理をちゃんとすればいいのだが、儲けが減るのでしたくない。結果として伐採地は放置され、荒地となり砂漠化していく。あるいは、そのまま農地として利用される場合もある。そこで、ひとつ提案がある。冗談ではないので、ちょっとだけまじめに考えて欲しい。環境に対する負担の度合いによって、商品に税金をかけてはどうか?環境を守るためにかけるべきコストをかけていない商品には、その分税金を支払ってもらうわけである。輸入品には「環境関税」をかける。例えば、間伐材や端材など、本来捨てていた部分で作られた割り箸には税金をかけないが、植林をせず、切りっぱなしで、なおかつ丸太ごと割り箸にしてしまうような場合には、どーんと関税をかける。計画的に植林され、木材の蓄積量が減らないように管理されている山から切り出された木材と、ジャングルから切り出された木材の税率も違うはずだ。アマゾンの森林破壊が問題となっているが、森林伐採の跡地で生産された農作物には高い関税をかける。国家政策として「環境を守る」ということを前面に出して行く。環境というものを基準に、国家が誘導していくわけである。税金によって価格が上がれば売れなくなる。売れなくなれば、企業は売れるように努力するわけだが、その努力は「環境にやさしい」方向に働く。輸入品についても同様に、日本に税金で取られるなら、国内で植林したほうがいいに決まっている。コンビニの割り箸が、1本20円プラスになったら、もらう?家で食べる場合はきっともらわない。もうひとつ見方を変えて、ゴミ問題。地方自治体の予算の多くが「ゴミ処理」に費やされているが、これは本来、ゴミとなるべきものを生産したメーカーが負担すべきものではないだろうか?プラスチックの容器には、その処分に要する費用を税金として徴収するようにしてはどうだろうか?最近、やけに小分けにした菓子類が多い。せんべいの一枚一枚をきれいに包装してあって、確かに便利だが、いかにも環境にやさしくない。ゴミは出るし、袋を作るのにもエネルギーを使うし、石油系の原料も必要だ。もし、これに税金をかけて、個別包装のないせんべいは100円だが、同じものが包装があるというだけで200円になるなら、消費者もちょっと考えるに違いない。もしそのような政策が打ち出されたとき、もっとも環境にやさしく、負荷をかけず、持続可能な社会の申し子ともいうべき素材はといえば、言うまでもなく、「木」である。「木」はもっと優遇されてしかるべき素材のはずなのだが・・・。人気blogランキングへ
2006/02/01
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木はとってもやさしいのです。大きく枝葉を広げて雨や日差しを受け止め、静かに地面に届けてくれます。寄らば大樹の陰。頼り甲斐がありますね。いつか自分も成長し、みんなを守る大樹になりたいものです。木はとってもやさしいのです。木は相手を傷つけません。木の上を歩くと、磨り減るには「靴」ではありません。摩擦を起こすたびに自分を削って形を変えていくから、月日のたった木には「味」があるんですね。わたしもそうありたいと願います。堅すぎず、柔らかすぎず、あるときは力強く、あるときはやさしく。一所懸命はたらいて、そして最後は土に返ります。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆21世紀になって6年目。最近は「木粉入り樹脂」なんてものも登場し、ウッドデッキやフェンスの材料として結構人気があるらしい。メンテナンスフリーで、腐らず、いつまでもきれいなまま。それがセールスポイントです。時代のニーズを凝縮したような商品ですが、本当にそれでいいのでしょうか?家も古くなるし、庭も変わっていきます。その中で、いつまでも変わらないウッドデッキとフェンス。それってやっぱり違和感がある。変色しません。割れません。反りません。腐りません。いつまでもきれいです。という樹脂製デッキの裏返しが木の欠点ということになります。変色する。割れる。反る。腐る。だんだん痛んでくる。でも、そういう欠点も含めて「木」のよさですね。ただ、大事なのは使い方です。「適材適所」という言葉があります。人事の問題の際によく使われますが、もともと建築用語で、材種による違いや、材料のクセをよく見て、そそれぞれの力を一番発揮できる場所に使用するということです。人間でも同じで、適正にあわない使われ方をすればすぐに腐ってしまいます。欠点のない人間がいないよに、木だって欠点もあります。「適材適所」それは、昔の棟梁が、「木」への畏敬と思いやりをこめた知恵のような気がします。人気blogランキングへ
2006/01/20
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寒い日が続いている。地球温暖化と言いながら、この寒さは何なのだろう。台風の多発や、大型化。洪水の一方で干上がる川もある。先週の週末、弟とともに雪下ろしを手伝いに行ってきた。私の父の育った家だが、今は誰も住んでいない。家の周囲の畑で野菜を作るために、父と母が時折週末訪れる程度である。広島県の山間部で、山口県と島根県の県境にある「吉和」という村にある。「こがいに降った記憶はないでーや」(広島弁)と、70歳の父が言うくらいの雪である。気候の振幅の巾はどんどん大きくなっているような気がしないだろうか?「平均」というものの意味は相対的に小さくなっている。平均をアテにして暮らしているとひどい目にあってしまうのだ。大雪にまつわる北陸や新潟のニュースを見ながら、そんな思いをさらに強くする。ノストラダムスの大予言は不発に終わったが、世の中がぐちゃぐちゃになったとき、頼りになるのは「食料」だ。北朝鮮があそこまで悲惨なのは、食べるものがないからに違いない。それでは、日本と北朝鮮の違いは何なのだろう?いろいろあるだろうが、一番の違いは「お金があるかないか」である。しかし、山で遭難したときには、お金をいくら持っていても無意味だ。この異常気象では、いつ何時全世界的な「飢饉」が訪れないとも限らない。日本の食糧自給率は、カロリー換算で40パーセント程度らしい。輸入の食糧がなくなれば、40パーセントのカロリーで生きていかなければならない。「ダイエットに丁度いい」なんて喜んでいる場合ではないのだ。食料が入ってこなくなったときに、B級ドラマの悪徳富豪よろしく「金はいくらでもやる、いのちだけは助けてくれ!!!!!」なんて醜態を、全世界にさらしてしまわないようにしたいものだ。人気blogランキングへ
2005/12/27
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自由経済の基本は、言うまでもなく「自由競争」である。売れるものはいいもので、売れないものは悪いもの。ということになる。それでは、売れる、売れないはどうやって決まるのか?「売れる」ということは、ユーザー側から見れば「選ぶ」という行為に他ならない。選ぶからにはその動機があるはずで、それが「ニーズ」である。価格、デザイン、色、性能、機能・・・・。自由経済の中では、全ての企業が「消費者」のニーズに合う商品の提供を模索してしのぎを削っている。すなわち、商品は消費者のニーズが決めるのだ。「環境問題」だの、「食の安全」だの、「食料自給率の低下」だの、問題はいろいろある。それらの問題は、突然空から降ってきたのではない。ニーズの結果として生まれてきたのである。だれの責任でもない。自分達の責任だ。ここに2本の割り箸がある。ひとつは、間伐材で作られたもの。ただし、1本10円だ。もうひとつは中国産の割り箸で、後のことはあまり考えずに生産された、いわゆる「自然にやさしくない」もの。1本3円。さて、どちらを選びましょう?結局、多くに人が後者の「安いけど自然にはやさしくない割り箸」を選んだ結果、割り箸のために中国の森林が伐採され続けているわけだ。もちろん私もその一人なのである。コンビニでお弁当を買えば割り箸をもらう。それが中国製だからもらわない、ということはない。これもやはり「消極的容認」なのだろう。結局、世の中を変えていくためには、一人一人が「選択の自由」を意識して行使するしかない。これはある意味選挙権と同じだ。自分ひとりが投票しても・・・。と思ったいては世の中は変わらない。まず第一に、「自分の選択が意味するものを意識する」ということが大切だ。価格と品質以外の「第3の価値」とでも言うべきだろうか。国産の大豆を意識して買えば、当然国産の大豆の人気が高まり、生産量が増える。そうすれば食料の自給率も上がるし、ジャングルが伐採されて農地にされることも減るかも知れない。そしてまた、国産の野菜や食物の人気が高まれば、農業に人が戻ってくるかもしれない。先日、奥様に頼まれて豆腐を買いにスーパーに行った。ひんやりとした棚に並べられた豆腐を選びながら、私は考えた。この私の選択が、アマゾンのジャングルも守りことにつながる・・・。少し高かったが、「国産丸大豆」と書いてある豆腐を選んだ。日ごろ何気なくしている消費のための選択だが、意識するだけで何かが変わってくると思うのだが・・・。人気blogランキングへ
2005/12/21
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「プラスチック」が有機物であるということが許せない!と、11月29日のブログに書いた。有機物を「生命維持活動」に中で生み出されるものとすると、プラスチックが有機物というのはどうも解せない。そもそも、プラスチックのことを「樹脂」なんて呼ぶこと自体違和感がある。本来樹脂とは、松のヤニなど木から取れる成分である。古来から、塗料や接着剤として利用されてきた。漆や、柿渋などもその一例だし、手に着くとなかなか厄介な「松ヤニ」も、接着剤から塗料まで、幅広く利用されていたらしい。なにしろ、瞬間接着剤なんてない時代には、ご飯粒だって接着剤だった。樹脂でない「樹脂」の歴史は、18世紀の終わりごろ、石炭から「コークス」を作る過程でできる副産物の「フェノール」の見た目が「松ヤニ」に似ていたため「合成樹脂」と呼ばれたことに始まる。実はこのことには大きな意味がある。そもそも「有機物=炭素化合物」は、植物の生命活動から生み出されるものであって、それ以外の方法では生産できないものであった。それゆえ、有機物=生命体という図式が成り立っていた。が、石炭から採れたフェノールは明らかに炭素化合物であり、その意味では「有機物」である。原料である石炭や石油も「有機物」だ。石炭も石油も大昔の植物は何らかの形で地中に埋もれてできたと考えられているので、もともとが生命体である。と書きつつ、私ももともとが文系に人間であるので、ネットで調べつつ書くのだが、大変分かりやすい説明を見つけたのでご紹介しよう!「科学の歩みところどころ-第29回 物質文明の歩み」である。ほかにも面白そうな話がいっぱいなので、文系人間にも楽しめそう!さて、この「フェノール」が使い物にならないものならそれだけの話だが、これが非常に便利なものであった。細かなことはさておき、接着剤になったり、他の成分を混ぜて板状の固体にすれば非常に硬く寸法安定性が良かったり、とにかく優れもの。そんなわけで、石炭や石油から採取される成分で作られた「有機高分子化合物」はもともと「合成樹脂」と呼んだが、いつしか「合成」が取れて「樹脂」といえばプラスチックになってしまった。軒を貸して母屋を取られる、とはこのことだ。いつの間にか、「樹脂一家」は「合成樹脂」に乗っ取られ、もともとの樹脂は、わざわざ「天然」樹脂と言わない限りだれにも分かってもらえない。ここで、文系的に気になるのは「合成」に意味である。「天然」の対義語が「人工」であるので、「合成」と「人工」はほぼ同義語である印象だ。辞書によれば、「二つ以上のものをあわせてひとつのものを作り出すこと」とある。合成と付くものの名前を列挙してみよう。・合成樹脂・合成洗剤・合成写真・合成飼料・合成着色料・合成甘味料・音声合成・合成繊維・合成皮革などなど・・・。主として、元祖があって、後から人工的に作る出されたものに「合成」の称号が冠せられる。特に有機物に関しては、「天然」「自然」のものが自然界に存在する場合が多いので、「合成」とつけて区別する必要が発生したということなのだろう。ただ、本来自然界では、「生産者(植物)」→「消費者(主に動物)」→「分解者(微生物)」→「生産者」というサイクルが確立されており、これを生態系(エコシステム)と呼んだ。「合成」の最大の問題点は「分解者」が存在しないことである。「循環」しないということは、そのまま残る、ということだ。これが「ゴミ問題」の核心である。長い地球の歴史のなかで、地球がゴミの山にならなくてすんだ最大の理由は「有機物が分解されてきた」からに他ならない。自然が生んだものは、自然に返っていく。だが、人間が「合成」したものは、残念ながら自然に返らなかった。つづく・・・人気blogランキングへ
2005/12/12
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無機物から有機物を作り出すこと。これが、生態学的には「生産」である。だいたい、有機と無機って何だ!「文系」の人間にとっては理解しがたい問題である。理系的説明は置いておいて、とりあえず文系的に考えて見たい。文系的理解と理系的理解という分類はもちろん優劣の問題ではない。文系的な理解はまず、イメージを優先する。「・・・・な感じ」であって、シロとクロの境界は必ずしもはっきりしていなくてもよい。感じ方の個人差を許容する。理系的な理解は曖昧さを許さない。判断は常に客観的で、いつ誰が判断しても同じ結果が得られないといけない。今問題になっている姉歯建築士の「強度計算書偽造問題」について建築物の強度に関しては絶対的に「理系的理解・理系的判断」が不可欠だ。しかし、髪型の疑惑に関しては「あやしい」というだけで十分である。これを理系的に理解しようとすると「野暮」ということになる。それはさておき・・・。「無機質な」という表現を使用する場合のイメージ。ネットで検索して出てきたことは「無機質な空間」「無機質なホームページ」「無機質な床」・・・金属的で、温かみのない、冷たい感じ。どちらかといえばマイナスイメージが強い。「有機的」という言葉もある。「有機的に結びついた」とかいうふうに使う。個々の部分が複雑に連携しあって、全体を構成し機能しているイメージである。もとは、生物体の各パーツが連携し、関係・影響しあい「生命維持」のために全体として機能していることからきた表現だ。無機と有機とは、すなわち「非生命」と「生命」の関係なのである。ということは、植物の行う生産活動は「生命」の生産であるとも言える。文系人間的には、生命の営みに中で生まれてくる「物質」を有機物と定義したい。「コンクリートジャングル」という言葉がある。無機質の代表であるコンクリートと、有機質の代表である「植物」の集合体であるジャングルをひとつにすることで、「都会」を表現している。誰が考えたのかは知らないが、実にうまい表現である。コンクリートのビルが、密集して林立している様を「ジャングル」と表現した、都市景観のイメージのほかに、そこに生きる人たちの情緒的な部分も感じられる。人情としての都会の冷たさ、というものも含めて「コンクリートジャングル」なのである。「東京砂漠」というのも同義語とみていいであろう。あ、別に都会の方を悪くいっているのではありません。「コンクリートジャングル」という言葉から私が想像した印象です。もちろん、ビルが林立するなかを、野生の猿が飛び回り、蛇がにょろにょろ、鳥がバサバタ、というような活気に溢れた様子、をイメージされる方もあるでしょう。文系的理解としてはこのくらいの曖昧さは許容範囲です。はい。ただ、ここでどうも文系的に納得がいかない事実がある。「プラスチックは有機物である。」ということだ。理系的にはともかく、文系的には許されざることのように思うが、皆さんのご意見はどうであろう。人気blogランキングへ
2005/11/29
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森林破壊が問題となるのは、それがコントロールされていないからである。破壊というからには、元に戻すことが出来ないということだろう。「再生不能」な状態にすることが破壊なのだ。本来「木」は、人間がコントロールし、再生することが可能な唯一の資源なのである。木材を活用し、コントロールしていく知恵を持つことが今度の環境問題の大きなテーマであることは間違いない。そこで、森林資源の特徴について書いておきたい。●木は勝手に成長する。一年間経過すれば、それなりに木は成長していく。放っておいても成長するのだから有難い。これが「利子」である。この利子の範囲内で利用する分には決して森林資源の総量が減ることはない。●木にも成長期がある。木が最も二酸化炭素を吸収し成長するのは樹齢20年から30年がピーク。以後活動が鈍っていく。例えるなら、最初の30年はどんどん利子が付くが、それを過ぎるとだんだん利子が付かなくなってくるということ。100年を過ぎたりすると、もうほんとに利子が少なくなって「おいおい、これじゃ箪笥に仕舞っといたほうがいいじゃない!」なんてことになる。その貯金を解約して、新たに貯金しなおすほうが有利だ。●森林は地表を守る。いわば「髪の毛」の役割も果たしている。地面を激しい雨、風、直射日光から守り、豊かな森の下に数多くの植物や、動物の命をはぐくむ。「砂漠化」とは、森林が破壊されたことによって、風雨・日光の直射の影響をモロに受けた地表から肥えた土が流れ去り、「草木も生えない」状態になることである。森がある、ということが重要なのである。荒地から流れる土砂は、森林から流出する土砂の150倍。水源の荒廃が川や、河口付近にどれだけ影響を与えるかは容易に想像できる。●森林は雨を降らせる。アマゾンの広大なジャングルはどうして保たれているのか?海から2000キロの内陸部に雨を降らせているのは「ジャングル」から蒸散される水分なのである。もし、森林がなければ、雨を降らせる水蒸気の供給は海水に頼らざるを得ない。大きな大陸の中央部が砂漠であることからも明らかだが、アマゾンだけが例外であるのはそこにジャングルがあるからだ。ジャングルが先か、降水が先かという議論はとりあえずよく分からないので置いておこう。その他、細かいことまであげれば数え切れない「森林」ならでは特徴を持っている。この森林をどうやって守り、どうやって活用していくかということ、もっと考えていかなけらばならないと思う。循環型社会の基本は「土に返る」資源を有効に活用し、積極的に循環を促進していくことにある。循環型社会には、その社会に生きる人の発想の転換が不可欠だ。便利だから、とか簡単だからとかいった目先の損得ではなく、全体の姿を大きく捉えてから「価値」を決める必要がある。生態系という大きな循環の中で、「森林」の役割は非常に大きい。循環の原動力であるといっても差し支えないだろう。というわけで、循環型社会についてはこの辺で終わりとし、これからは思いつくままに「環境問題」を考えていきたい。最後に、大変分かりやすかったホームページを紹介する。「みんなの森」というホームページである。中学生くらいから大人まで、十分勉強になる内容だ。ぜひ一度見てみて欲しい。ただ、内容はかなり濃く、情報も膨大であり、何度かに分けてご覧になることをお勧めする。
2005/11/23
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いよいよとりあえずの本題である、「木」の重要性に入っていきますよ!なにしろ、「ウッドザビエル」を自称してるもんですから・・。バキュームカーや、シケモクの話は所詮「前座」に過ぎず、いよいよ真打登場だ!そうなんです。木は唯一人間がコントロールできる資源なんです。成長の過程では「光合成」によって、二酸化炭素を吸収して酸素を作り出し、切り倒されたあとも役に立つ。こんなすばらしい素材はない!だから、木で間に合うものは木で作るべきなのである。でも、木を切ると森林破壊になるんじゃない?と思われる方々。確かにそれもある。が、その結論は短絡的過ぎる。木は再生可能な資源であるとともに、「人間が生産からコントロールできる唯一の資源」でもあるのだ。大切なのはコントロールされているかどうか。木は自然に成長するので、一年間放っておいても勝手に蓄積量が増えていく。この増えた分を「利子」とする。この利子の分だけ毎年伐採して使用するようにすれば元金は減らない。これがコントロールなのだ。●人間は将来のために今を我慢する知恵を持っている。これこそがその他の「動物」と霊長たる「人類」の決定的な違いである。だからこそ「農業」が生まれたのである。数ヶ月先の収穫のために、今を我慢して「種籾」を残して地面に蒔く。もし、「種籾」を食ってしまったら、来年は生きていられないということが分かっているのだ。林業はもうひとつ気長である。数ヶ月先ではなく、「孫子(まごご)の代」の話になる。だから「森林」を管理することのできる民族は決して滅びない。(と思う)それだけ「知恵」が深いということだ。それでは、なぜ「森林破壊」が問題になるのか?極論すれば「知恵」がない、ということになる。目先の利益が優先されればコントロールはきかない。コントロールというのは、先の結果を見越して今を制御することである。そこにはひとつの意志が必要だが、個々の人間が私利私欲だけで思いのままに活動し始めると収拾はつかない。現在の森林破壊問題は、コントロールされていないことに起因している。「割り箸」は環境破壊だ!という議論をご存知だろうか?森林破壊が国際的な問題になったとき、「割り箸を大量に使い捨てる日本人こそ森林破壊の元凶だ!」と非難された。その時、「マイ箸運動」や、割り箸を使わない飲食店が出てきたりとかいった動きが多少あったように記憶している。この議論に日本人は反論した。「割り箸は、木材の端の材を有効に使う日本人の知恵であって、日本文化を知らない外国人がとやかくいう問題ではない!」実は私もそう思った一人だ。おそらく、割り箸の誕生は「端材の有効活用」だったのだろう。だが、現状はどうかというと「9割は中国からの輸入」らしい。中国からの輸入品が「端材」を使っていると思う?ちょっと考えられない。きっと、割り箸を作るために木を切っているに違いない。と容易に想像できる。このあたりの話は「割り箸から見た環境問題」に詳しい。ぜひ一度見てみていただきたい。結構「目からウロコ」な内容である。
2005/11/12
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すでに作られたものを対象に、3Rを合言葉に行う「循環」とは、いわば「小循環」である。人間社会の枠組みの中で行われる循環だ。本当の循環とは、大自然の営みのことを言うべきだろう。私は決して専門家ではない。細かな数字を並べられたり、難解な元素記号で説明されると理解不能になる。専門家ではない大多数の人間が環境問題を理解するためには、細かな数字より大きな流れを理解することが大事だ。(と思い、僭越ながら私なりの理解の仕方を説明させていただく次第。)生態系を表現する時、その役割で大きく3つに分けられる。「生産者」→「消費者」→「分解者」の三つである。さて、ここで問題になるのは、一体全体、何を生産し、何を消費し、何を分解するのか?答えは「有機物」である。有機物って何だ!「大辞林」によえば「生物体を構成・組織する、炭素を主な成分とする物質。」とある。すなわち、生物の体を構成している物質が有機物。私の体も有機物。あなたの体も有機物。生き物全てにいえることなので、犬も、ライオンも有機物。野菜や果物も有機物。木材だって有機物だし、虫やかえるも有機物。生きとし生けるもの、すべて有機物の塊なのである。だが、無機物を有機物に変えることのできる「神」のごとき力をもった「生産者」とは、植物だけなのである。そして、私達動物は単なる「消費者」。前に「土に返るということ」でも説明したように、有機物を無機物に分解しているのがバクテリアなどの微生物で、これを「分解者」と呼ぶ。生産者である植物が「有機物」を生み出す際に使う力が「光エネルギー」だ。小学校で誰もが必ず習っている「光合成」である。二酸化炭素は、呼んで字の如く、炭素と酸素からできている。「CO2」とは、炭素が1個と酸素が2個くっついた状態らしいのだが、もちろんその様子を見たことはない。光合成は、CO2のC(炭素)をその他の成分を結びつけて、我々の栄養源となる炭水化物を作り出す。これが、無機物から有機物を「生産」だ。あわせて、炭素と別れた酸素(O2)が放出されるという「一粒で二度おいしすぎる」有難い作用なのである。「空気みたいな存在」なんて、気安く言うべからず。今私達がこうやって息をしていられるのも植物のおかげなのだ。さて、光合成でできた「炭水化物」はどうなるかというと、これが動物の栄養源となっていく。だからわれわれ動物は「消費者」なのである。消し費やすだけの存在だ。消費者の中では、「弱肉強食」の掟による食物連鎖があり、その頂点にライオンや鷹などの「陸の王」「空の王」がいる。そして人類はというと、「非力を補う武器」と、「将来のために今を我慢する」知恵によって「別格」の存在となった。即ち、「万物の霊長」様である。ただ、万物の霊長となっても、やはり「土に返る」ことには変わりがない。いかにあなたが美人であろうがと、町内で有名な秀才であろうと、特別きれいに腐るわけではない。大自然はどこまでも平等なのである。
2005/11/08
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