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『カルメ焼きとぶっかきアメを知ってますか?』 昭和三十年代中頃の子供たちにとって村祭りの縁日やえびす講の屋台の夜店での買い物は年に2~3度有る楽しみの日でした夕飯を食べて父親と神社の境内の両側に並んださまざまな屋台を覗きアセチレン瓦斯の匂いと人のザワメキが大好きでした。特に玩具の水鉄砲や月光仮面のセルロイドのお面を買って貰った帰りに『カルメ焼き』と呼ばれる砂糖を熱してふくらし粉?を入れて目の前で10倍にもドーム型に膨らむその御菓子が大好きでいつも買った袋をさげて帰った夜道・・・・『カルメ焼き』・・・・懐かしい響きの食べ物・・・・ずっと昔それも幼い頃に食べた記憶のあるおやつ・・・・そして何んでも懐古趣味で生き返らす現代の食文化の中にあってもめったに登場しない食べ物ですが事実もう何十年も食べた事も見た事もありません・・・だから本物かと思わせる砂糖菓子それがカルメ焼きだと思います。 母に強請ると仕方なしにお玉に少し茶色がかった砂糖を入れ重曹で膨らませて作ってくれた『カルメ焼き』は期待と失敗の混ざった食べ物だった。本当は砂糖の代わりにザラメを使い、ふくらむはずが焦げてしまったり、時たま出来る成功版に歓声をあげたり。思い出と共に忘れられない記憶となって残っています。参考までに『カルメ焼き』の作り方を調べましたので掲載します。今度の休みにチャレンジしてみてはいかがですか 美味しいカルメ焼きの作り方講座 1) お玉に砂糖(ザラメ)を軽くいっぱい入れ、全体にしみるくらいの水を入れます。(水が多いと加熱に時間がかかるよ) 2) お玉を三脚に乗せ、かき混ぜ棒(温度計をセットしたスペシャルバージョン)でかき混ぜ、温度に気をつけながらかき混ぜましょう。 3) 約100℃で沸騰が始まり、泡が盛んに出てきます。105℃を過ぎて急に温度が上がり始めたらバーナーの火を少し小さくしましょう。(ここで火を小さくしすぎてしまうと砂糖の温度が下がってしまい失敗してしまいます。)温度が110℃になるとプツプツという音になり粘りけが出てくるので、かき混ぜ棒をお玉の底に強く押し当ててかき混ぜ続けます。 4) 125℃になったらすぐ火から下ろして、ぬれぶきんの上にお玉を5~6秒間おきます。(温度上昇を抑えるためですので、お玉全体をふきんに押しつけるようにしてなおかつ、かき混ぜ棒で一生懸命かき混ぜて全体の温度を均一にします) 5) お玉を机の上に移し、すぐに重曹(炭酸水素ナトリウムNaHCO3)を少し入れて再び一生懸命にかき混ぜます。(今回は、卵白で練った重曹も用意しておきます) 6) かき混ぜるのをやめるとカルメ焼きが膨らんでくるので、かき混ぜ棒を真ん中から抜き取ります。 7) カルメ焼きが冷えてからお玉の底を軽く火にかざして、お玉を逆さにして紙の上にコツンとやるとカルメ焼きが取り出せます。どうです上手く出来たでしょう紙面の関係でぶっかきアメは次回に調べたらこんなおしゃれな奴が
2006年06月30日
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『アイスボンボン・アイスキャンデーを知っていますか』 昭和三十年代中頃は子供たちの夏のおやつはアイスボンボンと呼ばれていた赤・青・緑色等の細長い3段締め?のゴム風船に人工甘味料・人工着色・無果汁のシロップ水を積め込んで凍らせた直径2~3センチくらいのアイスキャンデーのゴム風船入りの物がありました。 非常に不衛生で今考えると誰が何処でどういう方法で製造していたんだろう?・・・・考えると怖い・・・・自転車の荷台に白いペンキで塗られた木箱を積んでチリンチリンと売りに来たような気がしますが記憶が定かでないのですが確か棒状の物からぶらさがっていたような? 正式な食し方はゴムの口を締めている輪ゴムをハズし中身を食べてから、またゴムを付けてボンボン遊びをする・・・・しかしそんな事をしているヤツは1人もいなかった。 大抵の場合、反対側の乳首状(盲腸の先っぽ)の部分を噛みちぎって、しゃぶりついて食ていた・・・・そして誰もボンボン遊びなどはやらない・・・ 極少数だが、丁寧にゴムをハズして、食後は水を入れて膨らまして風船にするヤツもいた?・・・単なる変わり者・・・・ 手をかけてパッケージされているワリに、ボンボン本来の価値から外れてしまったアイスボンボン・・・今も売っている店を知っていますが、食べる気にはならない1個100円もする・・・じゃあ、最初から誰かがラーメンを食べた?割り箸の再利用?のアイスキャンデーでも良いのだが、そうはいかない!!そこがこのアイスボンボンの核心部でもある。実はこのゴム風船に包まれていた影響で、ゴム独特の風味と苦味がミックスされ、普通のアイスキャンデーにはない独特な風味と香りそしてダイナミックな食感に仕上がっていたのであった。 しかし!!!・・・ それにしても、どちらも不衛生なアイスである。 ハッキリ言って、ゴムの食感の方だけが記憶にある。食べる時のゴムの音さえ耳に残っているくらい・・・ あの頃と現在の食品衛生法がどのように違っているのかは知らないが、衛生管理に相当な配慮が成されている現在の食品とは比べ物に成らないほど怪しく危険な香り・・・・そう言えばあの頃の子供たちはよく腹を壊していたっけぁ・・・・尊い犠牲と人体実験の結果現代の衛生的な食べ物があるのだ・・・と思っても・・・良いかも
2006年06月29日
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『渡辺のジュースの素を知ってますか?』 『ほほい~ほいで(の?)、もう一杯渡辺の~ジュースの素(もと)ですもう一杯!!憎いくらいにうまいんだ~、不思議なくらいにうまいんだッ~10杯飲んでも50円、一袋たったの5円!!』というテレビ?ラジオ?のCMソングが今も耳に残っています。夏が近づくと思わず口ずさんでしまいます。 昭和三十年代中頃近所には駄菓子屋さんがはす向かいで2軒あり、家の前はお米屋さんで雑貨も扱うお店でした・・・・いわゆる「食料品店」も2、3軒ありまして、 駄菓子屋さんでも大人たちはガラスケースの中の100gいくらという形で買う計り売りのあられやせんべいや飴などを買い、子供たちは、もっぱらスカばかりのくじ付きの合成甘味料・合成着色料たっぷりの怪しい菓子を好んで買いました。 『渡辺のジュースの素』どちらかというと、正統の食料品の部類だったのでしょうか母が食料品店で買って来てくれていましたし自分で買うには少し高価だったのでしょうね 食料品店では、店先のケースの中に、鯨肉切り身・塩ます・丸善魚肉ソーセージ・スギヨのちくわなどが並べられ、奥の棚に、イカリソースの1升ビン、鯖の水煮・味噌煮・鯨の大和煮の缶詰やみかんやももの缶詰なんかと一緒に、『渡辺のジュースの素』は置かれていたと思います。 私の記憶ではいわゆるお徳用と呼ばれた20~30杯分くらいは粉末が入っていたと思われる大きな袋と、バラ売りの一袋5円の小さな袋売りだった思います。家庭訪問の時はバヤリースオレンジのビン入りが、担任の先生の前に出され・・・・障子の影で先生が飲まないで帰る事を祈りました。 大きな袋入りの物は、夏の間台所の棚の上に置いてあって、粉末をスプーンでコップに2杯、井戸水に溶かし、箸ででかき混ぜ飲むのが日課でしたが、時には粉末を直接口に入れる野蛮な方法も採られました。 井戸の水は結構冷たくなかなか解けきれなかったり粉末がコップの底に残り、少ない水をコップの中で上手に渦巻きにして、粉末が水中に浮いたまま飲み込むというような飲み方もしましたし、冬場にお湯に溶かして飲んだこともありますが、やたらに酢ぱかったことを思い出します。 『渡辺のジュースの素』には、オレンジ、グレープ、パイン、サイダーの味があったと思いますが、やはり、オレンジ味をが一番好きで子供たちの間では『渡辺のジュースの素』の小袋タイプに直接指を突っ込んで舐めるという方法が、一番人気だったと思います。 「粉末飲料はチクロを使っている」と渡辺製菓の「粉末ジュース」が経営不振で、同社が昭和47年にカネボウハリス食品に合併されたのはチクロ騒ぎのためといわれているが、それは一因であって単純な「チクロ倒産」ではないと思いますそれからの日本は経済も生活も向上して怪しい食べ物に見向きもしなくなりましたから・・・・
2006年06月28日
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『駄菓子の定番 その1 あんこ玉 』 駄菓子屋の軒先で口にした人も多いはず。なかに砂糖の白い玉が入っていると「当たり」でもう1個。あんこ玉は「当てもの」と呼ばれるくじ付きおもちゃでもある。なので東京人形玩具協同組合に加盟し、全玩具協の許可番号をとって玩具として流通する一方、工場は和菓子組合に所属し、生菓子として製造している。箱のふたに描かれた商標デザインは「全部、親父が作ったの。手書きの文字までね」。最近は駄菓子屋だけでなく、イベント会場やテーマパーク、ファンシーショップでも売られている。「作ってるものは変わらないけど、納める先はずいぶん変わったねえ」 丸めたあんこに黄粉をまぶした「あんこ玉」は、うちの親父が考え出したものです。最初は問屋に持っていっても売れなくて、自転車に積んで近所の駄菓子屋へ直接売って歩いたら、翌日から倍々に売れていった。それで問屋も買うようになったそうです。 うちは黄粉も自家製なんです。大豆を買って、炒り豆屋さんに指定して炒ってもらい、それを決まった粒の大きさに挽く。豆を選ぶのも炒り方を決めるのも粒子の細かさも、うちだけのものです。 大豆は昔ながらに金網で炒ってもらう。いまは熱風でやるところがほとんどなんですよ、短時間で済んで安上がりだから。でも、それだと香ばしさが出ないので、今日は何秒、と指定しながらやってもらいます。黄粉だけ、買うお客さんもいるんですよ。有名な和菓子屋さんが、うちに黄粉を注文して使ってます。 あんこは製あん所から来たのを加工します。うちのあんこ玉は全くの無添加なんだけど、このあんこに工夫があるから、生ものでも日もちがするんですよ。あんだけなら、真夏でなければ3か月もつ。大切なのは火と割、つまり火力と、加える砂糖の割合です。これも父親が考え出したんですね。昔、組合の宴会で、酔いつぶしてなんとか聞きだそうと周りにさんざん飲まされたらしい。ところが親父は酒が強かったから、いくら飲んでも酔わない。周りがみんなつぶれちゃったと笑ってました。 昭和4年から、70年以上も同じものを作り続けてるんですが、だから毎日同じってわけじゃない。同じものが出来上がるためには、いつも少しずつ調整していなきゃならないんです。例えばあんの食感は、なめらかさというのが大事ですが、これは蒸らし加減なんです。蒸らしが短いとぱさぱさになっちゃうし、長くすると粘りが出過ぎる。これは湿度と関係してますからね。だから、私は朝の5時には起きるんですが、まず天気予報を見る。いまは東京近郊だけでなく、日本全国に品物がいってるから、全国くまなく見ますよ。それで、どこから来てる注文だから天気がどうで、そこへいくあんこはこんな具合、というように作ってるんです。天気と温度を帳簿の余白に書き込む。もう数十年来の習慣ですね。 植田義昭さん(あんこ玉製造)の話
2006年06月27日
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『ニューオリンズの風を聴く』 我が家にまた可愛い仲間が増えました。「LITTLE JAMMER」という5人組のミュージシャン人形が、身振りを交えつつ、ジャズのさまざまな楽曲を“演奏”する「エンターテインメント・オーディオ」です。バンダイが「音楽」に目をつけて2004年2月には、音響機器メーカーのケンウッドと共同開発した第2世代を発売したものを購入しました。 初代JAMMERの発売後に実施した市場調査で、「40代後半以上で昔のレコードを大事に持っている層」をターゲットにしたと、音楽雑誌に書かれていました。今回我が家で購入したものは大人のためのエンターテイメントオーディオ「LITTLE JAMMER PRO. tuned by KENWOOD」です凄いですよミュージシャンの動きが最高です。音も今までの物とは全然違います。次のアドレスでデモを見れます http://livehour.jp/ljpro/以前から居たジャズメン達です 今回仲間に入った新入りです
2006年06月26日
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『朝から泣けました・・・・』 久振りに日曜の朝ゆっくりテレビを見ました。徳光さんの番組に本村さんが出演なさってインタビューに淡々とお答えになっていました。 『山口県光市母子殺人事件について思う』 『山口県光市 母子殺害事件 』に措いて予ねてより注目の事件の最高裁判決が出されました。 『審理のやり直し』つまりは差し戻し処置となりました。 御遺族の方々には、極刑の可能性が示され少なからず期待を込めていた判決だと思いますが、まだしばらく戦いの日々が続くようです。 第三者にとってはは想像もつかない大変な日々がまだ続と思いますが、犠牲となられた奥様やお嬢様の夕夏ちゃんの無念の思いを晴らすべく是非頑張って頂きたいと何も出来ませんが、影ながら応援しております。 最愛で掛替えの無い御家族を欲求の果ての暴走によって殺害されて、挙句の果てに反省の欠片も感じられないあのふざけた手紙を書く人間がそう遠くない将来に大手を振って社会復帰すると言うことは考え事も許す事もできません。 あの報道にある犯人からの手紙が真実ならば、反省の弁などは誰ぞの捏造か、言わされていることに他ならないし、更正などあり得ないと思います。 今回の差し戻し判決は、将来の極刑へとつながる可能性を秘めているそうですが・・・・・それにしても職責上やむを得ないとは言え、許しがたい弁論を展開した弁護士などに負ける事無く、必ず思いが通じる事をお祈りしています。 尚、今後もメディアの皆様方に措いても、この判決を機に事件から遠のいてしまわないことを切に願います。 古い判例にしがみついているのはおかしいと思い、何故なら、社会環境(道徳や倫理)が大きく変わり、少年の思考や行動だって昔とは全く違っていると思います。 自ら殺害したその死体を強姦するという行為には、殺害してまで強姦をするという計画性があるに違いないと思います。 少年だから精神的に未熟で更正可能性があるとは限らない、このような事件には極刑を適用すべきであると思います。尚、極刑はは死刑であるべきである思いますし、少年の定義年齢をもっと引き下げるべきだとも思います。人の命を故意に奪って措いて自分の命以外の何を持って償う事が出来るんでしょうか・・・・弁護人!!!貴方方には家族はいないのか!!!。今日は日曜なので楽しい事を書こうと思って居たのに本村さんに・・・・・撃たれました。
2006年06月25日
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『それからのフォーク・・・』 中津川の熱く危険な夏を過ごし自分たちは1歩大人に近づき・・・・社会・学校・家庭には不満も無く相変わらず懐は貧しい高校生でしたが、文化祭では絶頂期に入った拓郎や陽水やアリスの曲を歌い上げていました。政治色の強い歌や猥褻部分のある歌は『発売禁止・放送禁止』となった時代です・・・社会の秩序・自由のハードルはまだ高い時代でした。やがてフォークは社会に背を背を向け小さな4畳半の部屋の中の生活の歌となり、大学生の間では結婚ではなく女の子にはリスクの多い『同棲』という曖昧な共同生活をする者が増えました。 今時の若い女の子はあんな馬鹿な(男は学生で生活力はなし)暮らしは絶対にしないでしょうねかぐや姫の『神田川』の流れる直ぐ傍の下宿で大学生活を送り『赤ちょうちん』で『ウメ酎』を飲み駅の階段を駆け上がると少しの酒で直ぐに酊うことができました。精力・体力は有り余り自分勝手な言い訳と抑えきれない性欲の結果・・・・水子の霊が沢山歩行者天国の竹下通りを歩いていましたよ・・・・ウソです。そんな青春を過ごした自分たちにも子供が出来・孫のいる人もいます。今日もまたテレビからは悲しいニュースが流れてきます。『学校成績について親から叱られ・・・』進路指導の前日に自宅に放火してお母さんと弟・妹を焼死させてしまった16の夏・・・・・それは一歩間違えば35年前の自分だったかも・・・・昔の親は馬鹿な子でも誉めて使っていましたね。 雨の日は甘く切ない青春の日々を思い出し女房に隠れてそっと涙してみてはいかが 三島さんも絶賛そうそう亡くなる前芥川賞の選考委員だったから
2006年06月24日
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『71' 中津川フォークジャンボリーを知っていますか』 吉田拓郎を始めた見た!!! 後に拓郎、泉谷、陽水とフォーライフレーベルを立ち上げる小室等がステージ上から『拓郎何かやれ!!』の一言に誘われ袖にスタンばっていた拓郎がステージに上がった瞬間・・・結構デカイなぁ・・・女性の様に白い肌とぽちゃとした童顔にストレートのおかっぱ頭で・・・・しかし5~600人位の観客のうち拓郎を知っていた客はそう多くはなかったと思います。 そこで拓郎が歌った歌が『人間なんてららららっら』をヒタスラ繰り返しコードは3のみ『人間なんて』をウィスキーをラッパ飲みしながら多分1時間位歌っていた一つの曲を1時間も歌う事自体驚きでしたがその怒鳴り声に近い歌いぷりには本当に驚きました。其の頃のフォークといえば岡林信康で陽水も拓郎も古井戸も山平和彦もRCサクセションもメジャーになる前でした。そうですフォークは関西が主体でそれは『70’春一番コンサート』からでした。 そんな拓郎も還暦を迎え昨年高田渡さんが他界し・・・・月日の流れる速さを感じています。 あの70年安保の頃右、左も国を憂い学生は政治に注文を付け・・・其の頃大学生だった団塊の世代の皆さんがまもなく社会の第一線を退かれます・・・あの位国や社会や企業に不満をブツケテイタ全学連の皆さんは官僚となり1流会社の重役として活躍なされ後4~5年で沢山の退職金を頂き引退です・・・この皆様が退職する時会社はまたやっと景気が上向いて来たのにまた沢山の退職金用の資金繰りが必要ですね・・・・団塊のみなさんあなた方は後輩にとって大変な先輩でしたよ。
2006年06月23日
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『71' 中津川フォークジャンボリーを知っていますか』 初日の公演は岡林信康がとりで歌い・・・当時岡林信康は人気絶頂で『フォークの神様』と称せられ、少し世をすねたメッセージソングには毒があったような気がします・・・・そして事件が・・・・初日の公演が終わったのは東の空が白んでくる時間だったと思います。 日中は中央の坂下駅界隈をウロツキ・・・・しかし田舎の無人駅の様な駅で・・失礼・・駅前の小さな商店街は当時のファッション雑誌から抜け出したようなお兄さん・オネエサンで溢れ、食料品店の店先には野菜くらいしかなったと記憶してます。 小生たちは15キロほど離れた中津川市までナケナシノ小遣いを握り締め買出しに行き『乾き物』や魚肉ソーセージや缶詰を買い求め・・確か店先のメロン(青いつるっとした)を買う買わないで揉めた事も思い出しました。大ステージは岡林や当時すでにメジャーだったシンガーが独占的に歌っていましたが、とても人の数が多くて遠くからしか見る事が出来ませんでした。小ステージはロックのグループとフォークのグループに用に2セット有りましたが、此方は結構近くで見る事ができました。小ステージでは加川良・友部正人(この時私は友部の魅力にはまりヤガテ中央線の阿佐ヶ谷に下宿して、吉祥寺のぐあらん堂に足蹴無く通うようになる)・高田渡・あがた森魚・・・・当時はまだ売り出し中のミュージシャンが目白押しで仲間のN君の解説なしでは区別も付かないほど汚かった事を思い出します・・失礼・・・ホントニ汚かった・・・モットモ汚いのは3日も風呂に入らないこの子等の方がもっと・・・・ そんな時メインステージの幟に火の手が上がり観客がステージを占拠する騒ぎが起きたのです。遠くからしか見えないのでその時は何の騒ぎか判らなかったのです。後で雑誌の記事で読んだ記憶ですので定かでは無いのですが、若者が主体と謳った手作りのイベントなのに入場料1000円だったと思います(高いなぁって思いました)が事務的に徴収されたことに一部の観客と学生運動家の扇動により事が起きたようです。ミュージシャンの中にもメインとサブというステージ分けの差別的配置にも不満があったと知ったのは何かの音楽誌で拓郎が語っていたのを読んで知りました。その拓郎の衝撃的ステージの話は次回に 入場券代わりのペンダント3日間会場で入り自由
2006年06月22日
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『71' 中津川フォークジャンボリーを知っていますか』 我ら小さな高校生フォークゲリラ5人組みはバイクに分乗して19号を直走り坂下町の椛の湖湖畔を目指し、へとへとで現地に到着したのはジャンボリー前日の午後5時ごろでした。 会場はシートを敷き詰めた泥沼状態でそれでもメインステージには訳の判らないヒッピー風の学生がギターを掻き鳴らし岡林信康の『友よ』・『山谷ブルース』を歌い聴衆も大合唱でした。ステージといってテントをロープで張って、板を敷いただけの簡素な物でした。 本当に此処で拓郎や泉谷や高田渡や友部正人や加川良が歌うんだろうか・・・・半信半疑でした・・・・だってただ人・人・人少し変しくなってきていた僕たち・・・・ 夜はあちこちで焚き火やキャンプファイヤーの火の手が上がり知らない大学生に混じり夜中まで騒ぎ地元の中津川高校の生徒ともお友だちになり、教師がギター弾いてる奴を目の堅きにしていることや長髪は不良の象徴の様に言う事を愚痴りながら夜が明けるまで騒ぎました。当日は炎天下の中で何で此処に居るのかわからなくなるほど暑い日でした。サブステージに人が群がりスピーカーからあの岡林の『私たちの望む~ものは~』何と言う曲かも判りませんがあのフレーズは未だに頭の隅から離れません。コンビニも無く仮設便所は男女兼用が30人分位しかないのに15000人もの人がどうやって処理したのだろう・・・・湖で泳ぐ奴がいたり畑を荒らしたりで流れる放送は注意と禁止事項ばかりでした・・・・それとゴミと空きビンが散乱し・・・昨年の大津波の後の映像をテレビで見た時あの光景を思い出しました。無法地帯の中で死人(高校生が手作りボートで転覆して溺死)まで出て何の騒ぎだったんだう・・・・でもあの16の夏の日の事は忘れないトモカク3年目のあの年が最後でした多分あれ以上続ける事ができなかったのでしょう続きはまたフォークの神様は今はどうしているんだろう
2006年06月21日
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『71' 中津川フォークジャンボリーを知っていますか』 高校1年の放課後先輩が掻き鳴らすフォークギター?(当時のギターと言えばクラッシクギターで禁じられた遊びを弾くのが主流でした)と手作りのハーモニカフォルダーで吉田拓郎の『人間なんて』・『青春の詩』を聞いた時は大変な驚きと衝撃でした。単純な私は直ぐ吉田拓郎の虜になりました。 その頃のフォークソングと言えばふとんを被ってイヤホンで隠れて聞く深夜放送で聞く関西系の労働者の悲哀を歌った岡林信康・高石友也・等のメッセージ色の強い歌が主流で全国に広がった大学の学園紛争とクロスオーバーし学生・労働者のメッセージソングと言う感じで、私には意味不明ないけない音楽としか思えませんでした。吉田拓郎は違いました。そこには何かを他人に訴えたり自分を嘆いたりするのではなく歌いたい音楽を只人に関係なく歌っているという印象を受け自由な音楽に憧れました。 学校の休みにはバイトをして初めて手にしたモーリスのフォークギターは当時とても高価で手も足もでなかったMartinD-45のコピーモデルでした。嬉しくて嬉しくて先輩に教わりながらスリーフィンガーやアルペジオをヒタスラ練習しました。ギターの絃を切らずに伸ばしたままのがカッコイイと危険を顧みず30センチも・・・・しかし人間もって生まれた才能には勝てません同じに始めたN君はレコードを聞くだけでコードを弾いてしまいます。しかも指がコンガラカルヨウなカポを使わないオリジナルコードで・・・・こちトラはAm・Emがやっとでコード変換表を使って・・・・小さな♯や7が付いたらアウトでした。クラスのギター小僧が『夏休みの8月7日から岐阜県の中津川市の湖の辺で【フォークジャンボリー】が3日間ぶっ続けで行われるとギター雑誌に載っていたのでバイクで行こうよ』・・・・御馬鹿でした・・・・スズキのバンバン・ハスラー250とホンダのCL72簡単に考えていたのです。中央道が開く前のお話ですしバンバンはもちろん高速は無理です何しろ70CCだったのです。続きは次回また
2006年06月20日
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『昔のままの中仙道を歩くとヤギもいた』 中仙道の望月宿と芦田宿の間に茂田井宿という間の宿場があります。大変風情のある白壁造りの造り酒屋が2軒軒を連ね映画のロケにも良く使われるようです。最近ですと山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』のオープンセットも近くに創られ茂田井宿の坂道を宮沢りえさんが上ってゆきました。またその造り酒屋には若山牧水も投宿し玄関先には歌碑もあります。それから驚いた事に道沿いの農家の庭先にヤギが放し飼いになっていました。一旦通り過ぎましたが、どうしても写真を撮りたくてUターンし、一枚失礼いたしました。今時ヤギは珍らしいですよね。
2006年06月19日
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『あの昭和三十年代アメリカは輝いて見えた』 子供の頃夕食の後の楽しみはテレビで見るアメリカ製のテレビドラマでした。 名犬リンチンチン・名犬ラッシー・パパは何でも知っている・ローンレンジャー・うちのママは世界一・ガンスモーク・ララミー牧場・ライフルマン・・・・ 特に電化製品に囲まれ大きなビンからグラスに酌み分けられる牛乳が白黒画面では輝いて見え、お母さんのフリルの付いたエプロンドレスが素敵で・・・台所で気忙しく働く我が家の母の割烹着がやけに身貧しくみえてなんで自分はアメリカの家の子に生まれなかったのだろう・・・・といつも思っていました・・・・今思えば母には申し訳ないことをしたなぁなんて・・・少しセンチになります。 駄菓子屋の店先にはブリキでできたライフルやショウルダーにはいったコルトがぶら下がり、何時もの素晴らしいダダをこねて買ってもらったコルトで麦わら帽子を折り曲げナンチャッタテ西部劇ごっこで『ハヨー!!シルバー』拳銃の無い子はいつも馬役で・・・・ゴメンたっちゃん・・・たっちゃんはうちの隣の法務局に住んでいました・・・お母さんはいつも綺麗なお洋服をきていたなぁ・・・でもチャンバラや西部劇ごっこは危ないからと刀や拳銃の玩具は買って貰え無かったの何時も家に遊びに来ていたっけ・・・・味噌っ歯で前歯が無いのにうちのお祖母ちゃんは『たっちゃんタクワンお食べ』ってたっちゃんは『ぼくミチョッパで食べられないよ』そうそうあの頃は子供のおやつは固いものばかりで かりんとう・せんべい・あられ どれも歯がないと・・・・ダメでした。今世の中とても柔らかくて幸せですよね・・・・・ホントカ?
2006年06月18日
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『信州の秘境の根曲がり竹について』 根曲がり竹は、学名を「ちしま笹」と言い、地方によっては「姫竹」などと呼ばれてもいるようです。また、「細竹」という風にも呼ばれ、様々です。 根曲がり竹の若竹は食用として重宝され主に魚などと合わせて煮物にされることが多いようです。自生地は本州の東北各県や北海道、また山岳部に多く真竹やもうそう竹などの生えない山深い場所に多く自生しています。本日秋山郷の根曲がり竹を頂きました。2日程前に秋山郷で竹の子狩りに山に入った方が熊に襲われお亡くなりになりました。実は仲間で竹の子狩りツーリング行く予定が天候の関係でボツになりましたが、車で竹の子狩りに行ったお仲間よりお裾分けを頂き感謝!! 『イチオシのおすすめ料理 竹の子汁 』 材 料(4人分)根曲がり竹(10本) 酒(大さじ1)さばの缶詰(水煮)1/2缶 溶き卵(1個分)水(カップ4) ごま油(小さじ1)味噌(大さじ3)作り方1.竹の子の皮をむき、根本の硬い部分を切り落とす。 穂先以外は輪切りにする。 あく抜きの必要はありません。2.1.を鍋に入れ、ひと煮立ちしたら味噌を溶かし入れてから 酒を加える。3.さばの水煮缶をほぐし入れ、溶き卵をふわっと流し入れたら 火を止める。4.風味付けにごま油を少々加える。じゃがいも、たまねぎ(水からゆでる)、豚肉、豆腐などを入れても 風味が引き立ち、美味しくなります。 この竹の子を採るのには命がけです
2006年06月17日
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『遅すぎるバイクETCマイレージサービスの開始について』『 東日本、中日本、西日本、阪神、本州四国連絡の、高速道路事業者5社は3月24日、同日よりバイクETCマイレージサービスの受付を開始すると発表した。二輪車用ETC車載器が市販化されるまでの間、二輪車ユーザー限定でETC車載器なしでの申し込み受け付ける。』ハイウェーカードが廃止されて以来バイクライダーは高速道路料金のサービスは無くなってしまっていました。『すでにETCカードを所有していれば高速道路会社ウェブサイトから申込み用紙の様式をダウンロードして申し込むことができる。3月27日からは、全国のSA、PA、料金所事務室などでも専用申込書を配付する』『申込書と必要書類をETCマイレージサービス事務局に郵送する』『申込み時に必要なものは、二輪車登録の専用申込み書、ETCカード(自分名義)、自動車検査証(125cc-250ccの二輪車は軽自動車届出済証)のコピー(申込み者本人名が使用者欄か所有者欄に記載)の3点』 支払いには、二輪車でETCマイレージサービスの対象となる道路を通行の際に、ETCカードを料金所の係員に直接手渡す。それによって、ETCカードでの決済になる。注意点は、ETC/一般との混在レーンか一般レーンを使用すること。またすでにETCマイレージサービスに登録しているETCカードを所有している場合、改めて二輪車登録を行う必要はなく、登録したETCカードを利用すると二輪車の通行料金にポイントが加算される。また、ハイウェイカード残数のETCへの付替えも可能だが、その場合には本四高速以外の「ハイカ・前払」残高管理サービスに別途登録する必要がある。今回の対応は、二輪車用ETC車載器が販売されるまでのもので、車載器が市販化された場合、このサービスは終了する。バイク用車載器は大きさや振動の問題等の解決が第一問題で既に首都圏でのモニター登録は始まっています。ライダーにとって高速料金の不平等には苛立ちを覚えますが、料金所に措いて支払いの時後続の自動車の皆様には多大なご迷惑をお掛けいたし居ります。バイクにこそETCが必要だと強く訴えます。
2006年06月16日
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『本日胃検診・・・・宇宙飛行士気分』 昨夜から飲み物厳禁の上頂きましたよ『バリュウム+発泡剤』・・・・マズイ!!当たり前かトモカクゲップを我慢するのが大変でした。医学が進み人の寿命が医学で多少調整が出来るような時代ですが、小生も十分中年の域に入りましたので今回は抵抗することなくなされるがままに検診を受けました。平均寿命が延びて老後を豊かに生きる為にはまず健康!!。イツまでも世に憚って生きて行くつもりです。話はマッタク違いますが今週の『サライ』はいいですよ。『寅さんを旅する』がメインでオマケが『もう一度口ずさみたい唱歌・童謡29曲』・・・感動です作詞家高野辰之・作曲家中山晋平お二人とも信州の片田舎のご出身ですの目に浮かぶ情景は我が家の周りの田園風景です。私も都会は嫌いじゃありませんが、童謡はやっぱり田舎の風景ですよね。蛍が舞い、蛙が鳴いて田舎もいいものですよ。小泉さんは都会の出身ですから行政は都会が中心のお考えですが、一極集中の日本の行政・大地震でも来たときは都会の皆さん田舎へ御避難下さい。本日またま取り留めの無い内容で・・・・心に宿る、あの歌この情景もう一度 口ずさみたい唱歌●仰げば尊し ●われは海の子●叱られて ●故郷 ●春の小川 ●朧月夜 ●紅葉 ●村の鍛冶屋 ●鎌倉 ●蛍の光 ○私と唱歌/安西愛子●早春賦 ●茶摘 ●かなりや ●冬景色 ●春よ来い○私と唱歌/相馬文子●夏は来ぬ ●あわて床屋●月の沙漠 ●赤蜻蛉●荒城の月 ●七つの子特製CD収録曲・歌詞集●かもめの水兵さん ●背くらべ●春が来た ●鯉のぼり ●さくら●蝶々 ●トロイカ ●赤い靴 ●あめふり●かごめかごめ ●むすんでひらいて●村祭 ●しゃぼん玉 ●雪●通りゃんせ ●浜辺の歌 ●旅愁・・・・貴方は何曲知っていますか
2006年06月15日
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『明日は健康診断・・・・・』 明日は健康診断です。気持ちはいたって若いのですが、残念ながら体は皮下脂肪が増えデブ度12%俄菜食主義者になっても減量は2kgがやっと・・・・・気が重い・・・・いや体はもっと重い。本日の夕食は軽めで10時以降絶食・・・イスラムのラマダンですよ大腸に胃に心臓に肺に後何?検便なんてどうやったかも忘れましたが・・・・水洗だとこれも中々大変・・・第一保存はどうするんですか?成人病検診とかで、医者嫌いの私は緊張のあまり血圧上昇しますよというわけで本日楽しくブログの気分じゃありません。本日これにて
2006年06月14日
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『梅雨に入り鬱陶しい毎日です』 最近お仲間たちもお仕事が忙しくなかなかツーリングにも行けない週末続きです。土曜日の夕方にで出発してお近くの温泉へでも行きたいなぁと話し合っていますが、天気の様子とか、仕事も都合で中々タイミングも合いません。長野と新潟の県境に平家の落ち武者伝説で有名な『秋山郷』という所が有ります。昨年から今年の冬に掛けて大変な豪雪に見舞われ全国ニュースでも有名になった栄村と言う所です。 いまは根曲がり竹の最盛期ですが、山に詳しくない私たちは不慣れな山に入って迷子になるより地元の方が採られた竹の子をお買い求めした方が、よいということで近々参ろうぞ申し合わせております。 何しろ毎年竹の子狩りに山に入り帰れなくなる人が幾人かいます。携帯は通じないし背丈以上もある笹藪のでは方向もわからなくなります・・・・そうです家族をそう簡単に喜ばす訳には参りません。ともかく道幅は狭く片側は急峻な崖が続き一歩間違えれればアウトって感じです。しかしその谷底の雑魚川には岩魚や山女魚の魚影も濃く雪解け水の急流には渓流つりの愛好者が県の内外から訪れますが、中には川幅も狭く木々が川を覆い隠すような場所なのにフライのスタイルで呆れます無理でしょうフライは・・・・やはり渓流はテンカラですよ日本人は・・・・カナダの川じゃないんだから。ともかく温泉に行きたい!!。 のよさの里・牧之の宿(百名山の宿) 長野県下水内郡栄村上野原 TEL.0257-67-2345 FAX.0257-61-5000 URL.http://www.tiara.or.jp/~noyosa
2006年06月13日
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『今回も残念ながら座敷わらしには出遭えず!!!』 本日朝から大盛り上がり、東北の温泉旅館へ『座敷わらし』に逢いに言った乙女3人・・・・結果は今回も残念ながら遭うことが出来ませんでしたが・・・・・・・。今回も写真には大変不思議な物体(2回目ですから単に埃として断定は出来なくなりました)が写っていました。 オーブと呼ばれる心霊物ですが・・・・・最近オーブと言う言葉をテレビ等では頻繁に使ってます。 ある番組内では「オーブ」と言う言葉を頻繁に使っていましたが『本当にそうなの?』疑わしく思うものもあります、どの番組も発光体と称してますが、中には反射で光ってる物も多数あると思いますが赤外線で撮影すれば、当然埃だって反射すると思いますが、乙女たちはオーブだと信じています・・・・・これは実際にその場にいた者のみ感じえる霊感かもしれませんので、否定も出来ません。私は現実的ですから『オーブらしく写るのは、埃、蚊(その他虫)、水滴の多い所(滝などの周辺)などいろいろあるわけで』もっと事実を科学的に考察しなければは駄目なんじゃないのと思いますが、本当に自信があって霊は実在しないと主張出来るほど知識がある訳でもないけれど、気持ちの中では否定する勇気があっても良いんじゃないかと思いますが、その場に居合わせた人たちの気持ちも理解したいと思います。
2006年06月12日
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『ALWAYS 三丁目の夕日を見て半年ぶりにそっと涙ぐむ・・・』 楽しみにしていた『ALWAYS 三丁目の夕日』のDVDが発売になり、昨夜は夕飯の後・・・部屋の電気を消して鑑賞会、実に半年振りにあの感動が蘇りました。『日本アカデミー賞最優秀賞12部門独占!!』近頃の日本映画は世界的にも一流のアニメーション映画が頑張っていますが、FSXの世界も円谷さんの頃から一流ですよね。 まぁトモカク懐かしくて優しくて本当に昭和三十年代は改めて『良い時代だったなぁ』とそしてあの時代にオンタイムで子供時代を過ごせた事が凄く嬉しくなりました。表向きなイカシタ会話もお世辞も無い近所付き合いと普通に図々しい位に他人の生活に入り込む生活には共に貧しくても助け合い生きていた時代だったからでしょう。 自分は子供ながらに大人の生活や会話を見聞きして、大人たちが戦争が終わりこれからは絶対良い時代になると信じて一生懸命生きる姿は、現在の飽食で贅沢で、消費者金融の隆盛によりお金が無くても物が手に入る今の時代とは全然違うような気がします。目的が有りそれを手に入れるために一生懸命働いていた父や母の姿は悲しい程楽しみの無い生活だったかもしれませんが、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、魔法瓶、扇風機、全ての目的が家電や生活製品だったような気がします。 母の作る料理は素朴で垢抜けしない物でしたが、添加物や防腐剤のたっぷり入ったコンビニ弁当のような物は回りに有りませんでしたから、いつも創意と工夫に満ちた怪しげな料理でした・・・・つまり雑誌に載っている料理写真を見ながら、まったく違う材料で見た目はそっくりな不思議な料理をつくり食べさせられました。鯨や鯖の缶詰が常備品で戸棚の高いところにブリキの缶に入ったかりんとうやせんべいが有るは知っていましたが、どうしようもなく遠い存在で自分で勝手に食べられるようになるにはもう少し背が伸びてからの事でした。 本日はこれにて ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版
2006年06月11日
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『そして彼女たちは幸せに成る為に旅に出た』 いわて金田一温泉に『緑風荘』という旅館がありますが、その旅館の奥座敷槐の間には昔から「座敷わらし様」が出没するという言い伝えがありそうです。この「座敷わらし様」に出会った人で、男子なら出世をするし、女子なら玉の輿に乗れるという伝説がマスコミ等で取り上げられ、現在は全国津々浦々から大勢の方がが訪れるようです。そこで、我が仲間の女子も昨日今日と『座敷わらし様』に出会うために旅に出かけました。又今回も楽しい報告があるかも、と言うのは前回の訪問の時には当然ながら『槐の間』の予約は取れなかったのですが・・・・実は電話で予約を入れたのは私です、宿の主曰く『座敷わらし様』の遊びにお出でになる部屋は3年先まで予約が一杯ですが、他の部屋にも遊びに行きますからどうぞと言う訳で遠路はるばる出かけたのです。 残念ながら大方の予想通り直接のお目通りは叶いませんでしたが、カメラに撮った映像を見ると不思議な小さな光の粒が沢山写っていてこれも何かの心霊現象か思わせる・・・・・?・・・・単なる埃のような気もしますが・・・・失礼!! また最近では、願い事をしにくる方も多いそうですし、写真等で見るとその部屋の床の間には人形やおもちゃがたくさん飾ってあり一見、恐山や水子供養といった不気味な雰囲気が漂っていますが、これは幸運を授かった人からのお礼や、これから幸運にあやかりたいとの想う人からの供物なのだそうです。 何せ相手は子供の妖怪ということで毎日出るとは限りませんから見れた人は相当ラッキーな人だと思いますよ・・・・・・残念ながらお目にかかれなかった人もせめて貧乏神さまはお連れ申さないで頂きたい・・・・・と切に願います。ちなみに其の旅館の娘さんでさえ一度もお会いしたことがあいそうですから、確率的には・・・・残念ながら・・・・・しかし明日は報告を聞く事が出来ます。お楽しみに興味のある方、この部屋に泊まってみたい方は下記までご連絡して如何ですか 宿のホームページには下記の様な一文が『なお、この部屋に泊まり、運良く幸運を授かった方々は、座敷わらしのおかげなのではなく、ご本人の努力の賜物であると思います。ただ、この部屋に泊まることで、そのお客様に、何らかのパワーが授かるのであれば、こんなうれしいことはございません。何事も前向きに取り組みましょう』・・・・まぁ当然の事です 『槐の間』は平成20年まで予約で一杯だそうです21年以降の予約につきましては、平成20年3月1日 午前10時からどうぞ いわて金田一温泉 緑 風 荘TEL 0195-27-2131 / FAX 0195-27-2407〒028-5711 岩手県二戸市金田一字長川41
2006年06月10日
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『幸せになるには遠出も仕方がない!!!』今時の男子は見合いをしても、良いでも無く、悪いでもなく、一度食事をしてそれだけで・・・・後が続かない・・・・私の周りの女子は皆とても良い子なのに何故か男子には恵まれません。私 『相手の方の何が気に入らなかったの?』と尋ねると女子A『私は普通の事が普通に出来る人ならそれで良いです』と答えます。私 『普通の事が出来ないとはどういう事が出来ないのですか』普通の事?女子A『一緒に食事に行き注文してたまたま相手の方の食事が先に来たら【お先】にでも なく【頂きます】でもなく食べ始めたのです・・・・』初歩的問題私 『自分から先にお先にどうぞ位言えば良かったんじゃないの?』女子A『言う前にもう食べ始めたのでいえませんでした』これは本人と育った環境と現代社会の歪ですかねぇ女子B『二人で喫茶店に入り別々の物を頼みました・・・・お会計の時私は丁度にお金が無かった のでお釣りのあるお金を相手の方に手渡し一緒に払って頂きました・・・・そうしたら、 お釣りまで持って帰ってしまいました・・・・悔しい』アホラシイ舞い上がっていて忘れ たんじゃ私 『教訓!!まづ初めての相手の方とは同じ物を頼む事・それから見合いに行く時 は小銭を沢山持って行き相手の方には丁度の金額しか渡さない事』 現代社会に措いては結婚は必ずしも人生の目的でもなく、必ず幸せになれる約束手形でも無いとは思います。しかし、男子の話を聞かないで女子の話だけで判断は出来ませんが・・・・ツマラナイ男はやっぱり女子を幸せには出来ない様な気がします。いくら男女平等でも男女同権では無いと思います・・・我々男は子供を生む事は出来ません!!それに、男には男にしか出来ないことが、あると思います。洗濯や買い物かごを持つ事や彼女のバックを持つ事が優しさでしょうか・・・少し違うような気がします。彼女のバックを持ってやりながら平気で車道側を歩かせる男・・・・割り勘結構・・・しかし釣り上げるまでは撒き餌と餌は必要です・・・・失礼書いていて空しくなったので続きはまた
2006年06月09日
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『昭和30年代の旅・・・・玩具箱の3』 帯広T大学を主席で卒業した人と一緒に卒業した彼はあまり一般人には馴染みの無いこ国家資格の『家畜人工授精師』を取得した。 其の実地授業の措いて彼は素晴らしい偉業と大変名誉な称号を仲間から頂いたのです。それは『牛をいかせた男』・・・・・これだけでは何やら訳も判らない古い外国映画のタイトルのようですよね。今日の課外授業はうら若き乙女の皆様は読む事をお控え下さい。それは彼が田舎を離れ北海道の帯広の大学に大きな夢とロマンを求め入学し、其の頃私を含めご学友は皆関東圏の都会の大学に青春の夢とロマンを求め田舎から上京しました。 当時の通信手段は手紙か公衆電話しかなく彼とは1年位音信不通のまま、私は東京の仲間と楽しく適当に学生生活を謳歌していました・・・・其の頃の私の話は何れまた機会を見てお話致します。 彼は広大な牧草地帯がが何ヘクタールも広がる帯広の原野の中の大学で全寮制の規則正しい学生生活を送り唯一の楽しみは乳牛の繁殖の実習授業と川に上る鮭の産卵風景を見ることぐらいしか無かったようです。 特に彼は雌牛に好かれる優しい性格が幸いし大変有意義な4年間を過ごしたようです。 牛の繁殖は酪農においては一番大切な仕事でありそれを誇りに一生懸命勉強したのです。雌牛を人工授精により妊娠させ・・・失礼・・・御懐妊いただき、その妊娠か否かを自らの腕一本にて検査をするという大変高度な技術を日々の授業の中で会得したのです。しかし、その道のりは平坦なものでは無く、とても涙なくしては語れません。こらから先は私には経験もなく事実なのかも恐ろしくて聞く事が出来ませんが、本人の自白調書によるとそれは、大学2年生の秋の事のようでした。右腕の指先から肩の付け根まであるゴム製の手袋をして、徐に雌牛様の肛門に腕を挿入し、指先の感触のみにて妊娠検査を行うのだそうです・・・・不慣れな彼は教官の指示の基・・・・・右腕を挿入し尚且つその指先を大腸内でぐるぐる動かし、良く判らないのに腕を前後に動かすうちに、時間ばかりが過ぎヤガテ彼女は・・・・気持ちが良くなったのか?後ろ足がガクンと折れ彼女は座り込んでしまったのです。その時牧舎に響く彼の悲痛な叫び・・・彼は彼女の尻に轢かれ苦しみの余りこの世のモノとは思えないような叫び声をだしてしまった様です。哀れ彼の右肩は脱臼し同級生に引きずり出された時には失神状態で本人によると今だ、その時の記憶は飛しまっているようです・・・・・それから彼は仲間たちからは『牛をいかせた男』と尊敬と敬愛の気持ちをこめて呼ばれています。彼の母校においては、伝説の男として語り継つがれてはいるわけ無いか・・・・本日はこれまで 彼の母校のホームページより転載させて頂きました
2006年06月08日
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『昭和30年代の旅・・・・玩具箱の2』 青森の友人の婚礼に招待された友人5人が新郎の実家に泊った其の夜 新郎新婦は九州に新婚旅行に行き残された5人に起きた人生最大のハプニング!!!。 結婚式の後友人の家に招かれ親戚を交えた2次会も盛り上がり深夜の寝静まった時間に其の事件は起きました。我々5人は母屋の向かいの中庭と池を挟んだ新婚の為の離れの客間に泊めて頂き、酒の飲めない私以外の友人は猛獣のようなイビキを斯き曝睡中中々寝つかれない私は池を挟んで母屋の只ならぬ様子に怖くなり・・・・布団を被っていた。入り口の障子がスーと開き・・・・・人の気配を感じて私はジーと息を殺していた・・・・突然『生まれンだぁ!!』・・・『オギテグロ!!』・・・新郎の弟のH君が大声で叫んだ。私は驚いて『何があったんですか?』と聞いたと思います・・・・良く覚えていません。『べこっこが生まれンだぁ!!・・・サガゴで難産でかかうっすの・・・・ダイヘンダァ・・デヲガシデンゲロ!!』つまり今夜牛の赤ちゃんが生まれそうなのですが、逆子の為大変難産で母牛が苦しんでいるので手を貸して下さい・・・とこう言う事なのです。皆・・・・きつねにつままれた様な顔をして眠い目を擦りながら事の重大さも判らずゾロゾロと廊下を歩き母屋の玄関先の土間でツナギに着替え軽トラックの荷台に乗って10分程離れた牛舎へと連れて行かれました。牛舎の中は真昼の様に明るく其処には白衣に長靴履きの六十歳位の獣医さんと新郎の父親が3時間前とは別人の顔をしてせわしなく歩き回っていました。母牛は牛舎の個室の柱に鼻先を縛られ・・・・・その後ろ足の間から・・・・小さな足2本をロープで縛り・・・・其のロープの先は入り口の太い丸太に一回りさせて其の先を親戚の親爺さんが引っ張っていた獣医の指示で我ら5人は綱引きの様にロープに掴まり・・・獣医の掛け声と同時にそのロープを引いた・・・・恐ろしい光景が目の前に広がり・・・・私は吐き気と目眩をジッと我慢して藁が敷かれフワフワずるずるする足元をただうつむいて見つめ・・・・事が過ぎるのをジッと耐えた。しばらくして大量の血と同時に『ドスン』とロープの先が軽くなり・・・・見たこともない光景が目の前に広がり・・・・私は其処に座り込み・・いや皆が座り込んでいた・・・親爺さんは手馴れた手つきで藁束で生まれたばかりの子牛の体を拭いていた・・・・足元の得たいの知れない物体を手早く片付けると・・・・『ゴクローサン』・・・・・母牛は泣いていた・・・・そして私たちも泣いていた・・・ 牛の分娩に立ち会った私たち5人にとって一生忘れる事の出来ない経験と事件で・・・今も青森のあいつを時々電話で冷やかしている。母子ともに無事で・・・・・それも記憶が薄れるほど昔の話になってしまいました。空が明るくなりかけた頃・・・風呂に入って布団に入ると獣医の卵の友人が学校での出来事を布団の中で話しだし全員が固唾を飲んで話に聞き入り大笑いしたのがつい昨日の事のようです。『牛をいかせた男』の話は又次回に
2006年06月07日
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『昭和30年代の旅・・・・玩具箱』 先日久しぶりに青森県の友人から突然携帯に電話があり、私のブログを読んだ事や家族の近況などの話の中で、親戚先の村の百貨店(雑貨屋)が閉店するに当り、引越しやら、諸々の後片付けのお手伝いに行き、昭和の時代のデットストックの雑貨類を家に持ち帰った事を30分以上『津軽弁』にてまくし立てられ・・・・コイツとの嫌な思い出が一気に噴出し・・・・そうです・・・それは今から20年以上も前の事です・・・津軽の遅い春が、やっと来た感じで・・・彼から結婚式の招待状が来ました。泊りで修学旅行気分で学生時代の仲間5人と5月連休に青森の片田舎の彼の家へと出かけました。新婦も恐山の麓の○○温泉から嫁いでお出でになるとかで、会場は異国の言葉?で溢れまるで海外旅行にでも来た様な雰囲気で・・・・・・失礼つまり話の半分以上はマッタク何も理解できない状態で・・・・ただお酌をされてもひたすら頭をたれて、生返事・・・・・会話にならないのです大変盛大な結婚式も滞りも無く終了して、新郎新婦を駅まで見送り、父上、母上に連れられて新郎の実家へと向かい其の晩は親戚縁者集いて盛大な酒盛りが始まりました。彼の家は大きな農家でりんごの生産の他に酪農(牛を飼育している事)も手広く経営していて、乳牛が30頭位いました。 2次会が11時位までまで盛り上がり離れの客間で5人が寝たのは深夜の1時位だったと思います・・・・中々興奮していて寝つかれなかった私はトイレに向う途中で、ふと中庭の向こうが、夜中にも関わらず電気が煌々と輝き何か事件でもあったのか?彼の弟が大声で電話で何か叫んでいるのが、廊下の障子越しに見え・・・私は嫌な胸騒ぎを覚え・・・・一瞬其の頃映画で見た『犬神家の一族』の一場面を思い起こし背筋が寒くなり用足しもそこそこに・・・・仲間の寝ている部屋に逃げ帰り・・・・・・私 『起きろよ!!何か事件が起きたみたいで・・・家中電気がついて・・弟君慌しく警察に電話しているぞ!!!』仲間『何寝ぼけてンだよ!!こんな田舎で殺人事件なんか起きる訳ねだろう!!』私 『殺人事件なんて誰も言ってねぇよ』仲間『馬鹿言ってねでさっさと寝ろ!!・・・何時だと思ってんだ馬鹿野郎!!!』私 『・・・・・・・?』一瞬静寂が走り・・・・母屋の方から誰かが・・・・この部屋に向かい小走りに廊下をやって来た。私は思わず布団を頭まで掛けじっと息を殺していました。次の瞬間障子がスーと開き・・・・・ 続きは次回に・・・・ 『友人からのプレゼントの2丁拳銃・銀玉と巻き玉火薬入り』
2006年06月06日
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『文豪三島由紀夫を蒐集する No,9』 三島由紀夫の書籍や関連書籍を蒐集し始めると切が無い世界です。いつもお世話になっている古書店の店主が、全ての古書価格は『三島由紀夫の初版本』が基準だとおっしゃっていましたつまり、三島氏が亡くなって30有余年未だにその出版作品は高価格で取引されています。特に初期の頃の作品は発行部数も限られ、また経年により消失・損傷等もあり、最近は程度の良いものは見かけなくなりました。それと三島氏の頃は、原稿・草稿は殆どペンと原稿用紙による手書きの物で、最近の様にパソコンによる原稿は殆どありませんでした。(神保町のG英堂には文豪の原稿が勢ぞろいです)ですから、三島氏直筆の原稿なんて本当にお宝です。川端さんや石原さんは悪筆?達筆?兎も角読むことすら難しいのですが、三島氏のそれは本当に端正な文字で几帳面に原稿用紙が埋められています。本日は何年か前に手に入れた直筆原稿です。たった400字詰め原稿用紙5枚分の書評です。しかしその文字には圧倒的なパワーが感じられますか・・・・・私だけ?
2006年06月05日
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『そうです本日は市内一斉クリーンキャンペーンの日です』 毎日生活感一杯のブログです。 今朝5時に起きて『空き缶拾い』『コンビニの弁当の空箱のポイ捨て拾い』『その他の粗大ゴミ拾い』それでも何年か前から見ますと本当に投げ捨てゴミは少なくなりましたよ。と言う訳で本日も三島さんの事がかけません。 三島由紀夫揮毫 『剣』 晩年三島さんが好んで揮毫した『剣』の文字は『文』から『武』へと自己変革の過程で自ら剣道・居合道を鍛錬して運動神経の弱点を努力と練習により最後は剣道五段(錬士)まで極めたようです大変端正で力強い書が気に入って居ります。
2006年06月04日
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本日は『業界の逆風を何とかしましょう花一杯キャンペーン?』 あーぁとてもお疲れです。 幹線道路の脇に花壇作りをして花を植えました・・・・普段花とは無縁のおじさんたちが額に汗して一生懸命『耕運機で耕し・鶏糞を撒き・お花の肥料・腐葉土・マルチシートを敷き・花を植える』・・・・『日々草・サルビア・マリーゴールド・パンジー』本日は色々な事を覚えました。と言うわけで本日は三島さんのお話はお休みです。こんな日に難しい事考えるのは嫌ですから・・・・今夜は『みつばちマーヤ』の夢でも見ます。おやすみなさい
2006年06月03日
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『文豪三島由紀夫を蒐集する No,8』 『楯の会』学生長森田必勝氏は当時所属していた『日本学生同盟』『早大国防部』を退部・退会して、三島由紀夫主宰の『楯の会』の活動一本に絞ることにした。しかし、日学同は退部ではなく森田氏を除名処分とした。 現在も続いている三島・森田両氏の命日に行われている『憂国忌』は旧日本学生同盟、現『三島由紀夫研究会』の主催によるもので、その会には楯の会のメンバーは誰一人として、参加していない・・・・・いまだ両者の間には大きな溝があるのかも・・・マスコミの呼び方による『三島由紀夫事件』は楯の会のメンバーによるとあの事件は森田氏の主導によるものとし、いまだに『楯の会事件』とよんでる。また元会員は森田氏の辞世の句より名付けた『野分祭』を行っています。それから言っても会員全員でなく、一部の楯の会の会員のみにて行われたあの日の行動は、残されし者にとっては・・・・その後の人生に・・・・大きく影を落としたのではないのでしょうか。事件後35~36年の時間が経ち、元楯の会の会員が沈黙を破り少しづつ事件を語り始めたのです。 著者毛筆署名による『黒蜥蜴』初版本
2006年06月02日
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『文豪・三島由紀夫を蒐集する No,7』 三島由紀夫がノーベル賞を逃し自らのライフワーク『豊穣の海』の長編小説を書き始めた頃、『論争ジャーナル』を出版していた学生たちと知り合い彼らの国防に対する直向な姿勢に感激しそれらの学生と自衛隊に体験入隊したり、憲法勉強会を開いたりと『楯の会』の基礎作りをするようになったようです。 その頃のまだ名も無いその学生組織は、『日本学生同盟』や『早稲田大学国防部』に席を置く反革命的学生の集まりで(当時の学生は革マル・中革・民青等殆どが社会主義的思想の学生・労働者団体で全国の大学はバリケードによるロックアウト状態だったようです)な学園紛争に反感を感じていた、極少人数の組織で殆どが、幼い頃から水戸学や生長の家で学んだ学生だったようです。 三島氏にとっては彼ら学生たちのの中に若かりし頃、叶えることの出来なくてトラウマと生っていた、『幻の軍隊生活』を共に味わう事が出来たのでしょう・・・・・・しかし、悲しい事に現実的には三島氏の『私設民兵組織』は最終目的の無い軍隊で、当時大暴れしていた、『全学連』の暴走行為を『自衛隊の治安維持出動』をフォローし共に鎮圧する目的も、警察の機動隊の圧倒的な治安活動により夢と消え、本当に『小さな軍隊』としての出動の機会は完全に道を閉ざされたのでしょう・・・・。『楯の会』初期のメンバーが社会人となり抜けてゆく中、新に『楯の会学生長・森田必勝』もまた、北海道のソ連領国後島に泳いで渡り『日章旗』を掲げる目的の行動が海の水の冷たさに断念し(森田氏は本気でソ連軍に拿捕されてもと考えていたようです仲間と別れの杯を酌み交わし・・・・)それが仲間たちへのトラウマとなり、三島氏・森田氏は『究極の目的・天皇制の文化的継続』の為?・・・・・やがて森田氏は死ぬ為の死を目的とするようになり、『先生いつ死ぬんですか?』・・・・日々三島氏に迫るようになったようです。仲間たちに『もしこれで三島が何もしなかったら・・・俺が三島を切る』と・・・・・ 本日これまで次回又(敬称略) 細江英公・写真集『薔薇刑』新装版 被写体・三島由紀夫 装丁・横尾忠則
2006年06月01日
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