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50年近く前、大学を卒業後、大企業に就職した。オイルショックの影響で景気はあまり良くなかったと思う。ぼくはゲームのような感覚で何社か就職試験を受け、第一志望の会社に合格した。しかし、仕事は面白くなかった。経理的なことだったので、ぼくにはまったく不向きだったのだ。2年ほどたったとき、夕方ジョギングをしながら、「俺はこのままだらだらと会社員を続けていくのか」と思ったら、涙が流れてきた。毎日が窮屈だったし、仕事にも意欲がもてなかった。思い切って辞めた。辞めてはみたものの、何をしていいのかわからない。教員になろうと、通信教育で資格をとり、採用試験を受けたが失敗。挫折。新聞広告を見て、今ではとても有名な会社のアルバイト職に応募。合格した。これが面白かった。ビジネスの第一線の一端を体験することができた。弱肉強食、24時間働けますか、の世界なのだが、若いぼくは、ビジネスの世界で成功してやろうという野望をもった。ところがすぐに挫折。数字ですべてが評価される営業の世界。ぼくにはついていけなかった。大学の先輩が声をかけてくれて小さな会社に再就職した。地味な仕事だった。毎日1トントラックに乗ってお客さんを回る。燃えない。やる気が出ない。ここでは企業社会の非情な現実を叩きつけられた。大企業の横暴さ。頭を押さえつけられ、へいこらしていないと仕事をもらえない下請けの悲しさ。「世の中、おかしい」ぼくの社会に対する目が少しだけ開いたのは、小さな会社で営業をしていたときだった。取引先の大きな会社と、自分が勤務する小さな会社の間にはさまれ、ぼくはクタクタだった。仕事が終わると、駅前の立ち飲みのお店に寄って、熱燗とおでんという日々だった。いつもイライラしていた。あのままだったら、ぼくは壊れていた。そんなぼくに救いの手を差し伸べてくれた人がいて、ぼくは東京へ出ることになった。フリーライターという想像もしたことのない仕事に就くことになったのだ。東京はあこがれの都。文章を書く仕事はカッコよくて、雲に乗って夢の世界へ導かれているような気分だった。28歳。機が熟し始めてきた。飽きっぽいぼくが文章を書く仕事は40年以上続けている。紆余曲折はあったし、誇れるような実績を残したわけではないが、この仕事に就いて良かったと思っている。そもそも、文章を書く仕事を意識したのは大学時代だった。ラグビー部に入って、ちょっと変わった先輩たちとかかわることになったのがきっかけだった。工業大学なのに、小説や詩を書いている先輩がいた。2人も。学校もあまり行かず、ラグビー部の練習にはたまに出るけれども、あとは、何をしているのかよくわからない。ぼくとはまったく違うタイプの人たちだった。まじめな田舎者のぼくには、彼らの姿は新鮮だった。あとから考えれば、大多数の人が疑問を感じずに進んでいく道を良しとしない生き方かな。ぼくには、みんなと一緒にぞろぞろ歩いていきたくないという意識が潜在的にあったのだと思う。だからと言って、多くの人が進む方向から大きく外れる勇気はなかった。先輩たちのようになりたいとは思わなかったけれども、彼らが自己表現している文章を書くという行為に興味をもった。文筆業という仕事は、ぼくの好む立ち位置を与えてくれるのではと、あのときはそんなことが考えてもなかったけれども、感じるものがあったのではなかっただろうか。サラリーマンを続ける能力はぼくにはなかった。しかし、社会を知る上では必要なことだった。まるっきりの世間知らずでは困るからという天の好意だったかもしれない。なんで運動音痴のぼくがラグビーをやったのかと不思議だったけれども、大学のラグビー部で、将来の方向性を決める出会いがあったということで、ぼくは納得している。「すべての出来事には意味がある」ぼくがモットーにしていることだが、これくらいの年齢になってから過去を振り返ると、いろいろなことがつながって、ぼくの70年間が作られているということがよくわかる。まだ人生は続く。これまでにまいてきた種が芽を出し、花を咲かせる。実をならせる。たくさんの種をまいてきたから、もうすぐ、すてきな「お花畑」が出来上がるかもね。
2026年08月05日
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盆が近づいてきた。我が村では、氏神様とお寺の掃除があった。氏神様もさびれてしまっている。それでも、たくさんの氏子さんたちが集まって、お社のまわりの草を刈ったり、枯葉を集めたりする。もっとも、年寄りばかりだけれども。コロナの前までは、何年かに一度、獅子舞が行われていた。神社の近くの広場でメインの舞があって、氏子の家を回ったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれないし、記憶は定かではない。コロナ騒ぎが終結しても、再開される気配はない。神社関係者に聞くと、「もうできないかも」とのことだ。獅子舞は、大人が獅子頭をもって激しく舞う。尻尾をもつのが確か、小学生じゃなかったか。子どもが右に左に振り回されて、転ばないように必死でがんばっている姿が、ぼくの古いイメージの中にはあるのだが。その小学生が氏子の中にいなくなっていると言うのだ。何年も間が開くと、技術も忘れられていく。もし復活させるなら、今がぎりぎりのところだと思う。今のままでは、氏神様もすたれてしまうだろう。お寺も同じだ。11軒の檀家の人たちが御堂さんや境内をきれにするのだが、ここでも集まるのは60代70代80代。「廃寺にした方がいい」という意見も出ているが、5年先、10年先が見えない状態だ。神社もお寺も、コミュニティの中心として重要な存在だった。もう必要ないのだろうか。「神」とか「仏」とか、ぼくたちを生かしてくれている大きな力を信じない人が多くなっている。自分の身のまわりでは、自分の意思だけではどうしようもないことがいくらでも起こっているのに、それを「たまたま」とか「偶然」とか「ラッキー」とか「不運」とかで流してしまう。古人が「神」とか「仏」と呼んだ、目に見えない力が働いているから、「たまたま」が起こってくると考えられれば、神社やお寺にも目が向くのではないか。ただ、これまでのやり方では人は離れていく。「神」や「仏」はあるのだということを、もっと発信していかないといけない。それも、説教くさい言い方で伝えるのではなくて、楽しめる場にしていくことだ。たぶん、日本人は心の深い部分で、見えない力の存在を信じていると思う。初詣に行くとか、お祭りが盛り上がるとか、縁起を担ぐとか、自分の意思を超えた何者かに、畏敬の念をもっているはずなのだ。神社やお寺が存在の危険水域まで達しているのを肌で感じて、ぼくは、今こそ日本人の精神が蘇ってほしいと、願わずにはいられないのだ。日本の古代の歴史とか古事記を勉強している人も増えている。じわじわと底上げはされている。ぜひ、もう一歩踏み出して、小さな神社やお寺を復活させる動きが広がるといいのだが。↑ 我が村の小さなお寺ではお話会や音楽会を開いている。7月のお話会には32人もの人が集まってくれた。
2026年08月04日
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一昨日の土曜日は大阪へ行っていた。次女に近鉄白子駅まで送ってもらって、10時半の特急に乗った。津で特急ひのとりに乗り換え、難波に着いたのは12時07分。 そこから地下鉄で北浜という駅まで。目指すのは、「ラグビー部マーラー」という居酒屋。北浜から歩いてすぐのはずだが、けっこう大きな駅で、何番出口から出ればいいかわからない。友だちに電話して、4番出口と聞き、暑い中5分ほど歩いてお店に着いた。 ラグビー好きが集う居酒屋だけあって、世界各国の代表ユニフォームが壁にかけられている。有名選手のポスターやサイン色紙も飾られていた。 2台の大きなテレビが壁にかかっていて、この間の日本代表対フランス代表の試合が繰り返し流れていた。 ラグビーに包まれる場所だ。 お店は貸し切りだった。ぼくが参加したのは、名古屋工業大学ラグビー部のOB会の集まりだ。ぼくは昭和53年の卒業。へたくそながら4年間続けて、3年のときにはキャプテンを務めた。 この日参加したのは、長年OB会長を務めてくださって、今年リタイアされる83歳の小野先生(教授だった)が最年長で、次が73歳の乃木さん、そのあとにぼくたちの世代が続く。 一緒にプレーしたことがあるのは、25名の参加者のうちの半分くらい。 あとは若手たち。若手と言っても60代半ばから後半。見た目は先輩も後輩の区別がつかない。「ビールくれるか」先輩のぼくが空のジョッキを上げると、白髪の後輩が「ハイ」とやかんをもってくる。ビールをやかんで注がれたのは初めてだが、ぼくたちの時代は、試合のときけがをして寝ころんでいると、やかんに入った水を頭からぶっかけられた。それで元気を取り戻してプレーに戻るものだから、「魔法のやかん」と呼ばれていた。 上手でもへたくそでも、グランドで走り回ったり体をぶつけあったりしていると、とにかくきつい。そんなとき、打撲だったり足がつったり、頭を打ったりして倒れていると、やかんが登場する。体は痛いのだけれども、ほっとするやかんタイムなのだ。 宴会は小野先生のあいさつから始まり、乃木さんの音頭で乾杯。そして、しばらく飲んだあと、自己紹介があった。しんどい思いをして走り回った20歳前後は思い出深い青春時代だ。ぼくもぼくなりに4年間一所懸命にがんばった。4年のときに右手首を骨折して、最後の試合は出られなかった。後輩たちの話を聞いているうち、いろんなことが頭に浮かんできた。50年も前の話。影も薄くなった思い出だけれども、間違いなく、ぼくの人生に刻まれた歴史だ。こういう会を準備してくれた後輩たちには感謝したい。 運動音痴のくせに。いや運動ができなかったから、ボールをもって走ればいいラグビーならできると思ったのが、大きな勘違いだった。中3のときに初めてラグビーボールに触れたことから、ラグビーに付きまとわれるようになった。しつこく誘われるのでいやいや入った高校のラグビー部。だれもスパイクをもっていないのだから、そのレベルは説明の必要がない。部員もいるんだかいないんだか。試合になるとよその部から体の大きなやつを借りてくるという体たらく。高校の同窓会に行くと、「お前、一人ラグビー部でがんばってたな」とからかわれるようなクラブだった。大学でラグビーなんかやるつもりはなかった。ところが、最初にできた友だちがラグビー部に入ったばかりで、しきりにぼくを誘う。「俺はやらない」断り続けたが、いつもの癖で「まあ、いいか」と入部してしまう。大学を卒業して入社した会社。そこにもラグビー部があった。どこで調べたかわからないが、またまたしつこく誘われる。なんで社会人になってまでやらないといけないのだ。だけど「まあ、いいか」が頭をもたげてきて、入部してしまう。2年はやったかな。やっと辞められた。会社も辞めたけど。だけど、そこでぼくのラグビー人生は終わらない。30歳間近のとき、年下の編集者と飲んでいたとき、なぜかラグビーの話になった。「ラグビーをやってみたい」そんな話になって、「それならチームを作るか」と酔った勢いで言ってしまった。グリーングラスという草ラグビーチームを作って、10年間、ぼくはマネジメントをした。出版社リーグに入って、ラグビーマガジンチームとか講談社チーム、小学館チームと試合をした。このときは面白かったな。プレーヤーよりもマネジメントの方がぼくには向いているとわかった。10年やってピタッとラグビーから足を洗った。つもりだったが、60歳のときに、三女が高校のラグビーのマネージャーになって、お父さんチームの一員になった。2~3試合出させてもらった。それでももう満足。こうやって振り返ってみると、好きで続けたラグビーではないけれども、ぼくの人生に確実に彩を与えてくれている。「あなた、ラグビーをやってなかったら、友だちもいないし、つまらない70年だったんじゃないの」家に帰って、妻にOB会の報告をすると、あっさり言われた。そんなことはないさ。ラグビー以外にもいろいろあったもの。だけど、ラグビーがかなりの割合を占めているのは間違いない。ラグビーをやったことと、今の動物に囲まれた生活と関係があるのかどうかわからないが、まあいいか、動物ラグビー部だ。ぼくは監督。みんなにポジションを与えよう。楽しく生きるための、チームとしての戦略も考えないといけない。
2026年08月03日
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2004年の中越地震で被災し、引っ越した東北で東日本大震災を体験した知り合いがいる。震度7に2回も遭遇するなんてどういうことだろう?こんな言い方は失礼だが、彼のくじ運の悪さというか、良さなのかもしれないが、その話を聞いたときは驚いた。考えてみると、熊本には、3回も震度7を体験させられた人がたくさんいるわけだ。これもまた失礼な言い方になるかもしれないが、3回もの生きる死ぬにかかわる強烈な出来事は、経験としてプラスに働くようになるのだろうか、それともトラウマとして残ってしまうのだろうか。ぼくは1回だけ、死ぬかもしれないという体験をしたことがある。30代前半のころだ。9月だったか、1泊2日で伊豆の下田へ取材に行った。仕事を終えて伊豆急下田の駅に向かうバスに乗った。前の日から強い雨が降っていた。もう一泊しようと思ったが、翌日は朝から打ち合わせがあったので、「これくらいの雨なら大丈夫だろう」と帰ることにしたのだ。バスに乗り込んだら、雨はますます強くなった。山間の細い道を駅に向かう。左側は崖、右は川。川はあふれそうな猛烈な勢い。ゴーゴーと音が聞こえてきそうな荒々しさだ。バスにはぼくと運転手を含め10人くらいが乗っていた。登山帰りのかっこうのおばさんたちのグループと若い男性2人。こんな雨でも電車は動いているのだろうか。東京への帰り道が心配になるほどの豪雨になっている。「あれ。どうしたのかな」バスが止まった。ぼくは後ろの方の席にいた。ワイパーがせわしく動くフロントガラス越しに前を見た。えっ!がけ崩れだ。土砂が道をふさいでいる。バスでも乗り越えるのは難しそう。仕方がない、戻るしかないな。Uターンできるのだろうか。後ろを見た。えっ! えっ! えっ!後ろも道がふさがっていた。それも崖沿いにあった家を飲み込んでいるではないか。バスは前にも後ろにもいけない。ここで夜明かしだ。明日になったら救助がくるだろう。まだ割と余裕があった。そんなときに、大きな音とともにバスが激しく揺れた。崖崩れだ。バスに直撃。バスは濁流が流れる川に向かって、ずずっと横滑りした。もう一撃あれば、バスごと荒れ狂う川に流さる。恐怖が突き上げてきた。もう余裕はない。ほかの乗客もバスの外へ出て、右往左往している。どうしていいのかわからない。みおんなパニックだった。再度がけ崩れがあれば、ぼくの名前はこの豪雨の被害者として新聞に載ったに違いない。一番冷静だったのは運転手だった。地元の人だった。「ここを登れば蓮台寺の駅がある。そこまで歩けば大丈夫だ」彼は崩れた崖の横の比較的緩やかな斜面を登り始めた。ほかの人はどうしていいかわからず、おろおろしている。二番目に冷静だったのはぼくだった。「運転手さんについていくよ。ここを登るよ」ぼくが声をかけると、ほかの人たちもぼくのあとに着いてきた。運転手さんに先導してもらって、蓮台寺の駅にたどり着いた。3時ごろに登り始めて着いたのは5時。雨に濡れてびしょびしょの体だった。たぶん、運転手さんがバスから無線で連絡してくれたのだろう。蓮台寺の駅にレスキュー隊がやってきてくれて、ぼくたちを救出してくれた。このブログを書いていて「あれっ」と思ったことがある。35年ほど前の話だが、ぼくは今の今まで、崖崩れでつぶれた家の人たちのことを考えたことがなかった。数十メートル後ろで家がつぶされていたのに。作業小屋だったのか民家だったのか、そこも記憶はないが、民家だったら、人が生き埋めになっていたかもしれないのだ。もう自分たちのことで精いっぱいだった。そして、助かったら、良かった良かったで精いっぱい。あのとき生き埋めになっていた人がいたとして、ぼくには何もできなかった。しかし、そこに意識が向かなかったことに、あれっという思いがあって、今、ぼくは不思議な感覚の中にいる。バスの運転手から連絡はいっているだろうけれども、もっと「大変だ! 住宅がつぶれて人が生き埋めになったかもしれない!」と大騒ぎしても良かったのではないか。レスキュー隊の人に話しても良かったではないか。それも、そのことに気づいたのは35年後とはどういうことだろう。熊本で大地震があって、イオンの爆発でも、スタッフの人たちはお客さんを安全なところに誘導して、ほっとしてお店に戻って亡くなった方もいるそうだ。自分の身も危険なときに、人のために動ける人を、ぼくは尊敬する。バス会社が手配してくれた宿に着いて、お風呂に入ったときの幸せ感。おむすびがおいしかった。ビールは最高。その陰で、35年間、土砂に埋もれた家のことは覚えていても、その下にいるかもしれない人のことは考えたこともなかった。今更ながら、もしあの家の下で亡くなった方がいたら、ご冥福を祈りしたい。でも、なんで今。たぶん熊本の地震が引き金だろうが、これまでの災害では思わなかったことを、今回は・・・。なんでだろう???
2026年07月31日
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暑い暑いと言いながらも、去年に比べるとましなような気がする。毎朝6時くらいには犬を散歩させている。玄関を開けて外へ出ると、この時間なら、気持ちいい風に包まれることが多い。去年は、風はあってもむっとした熱風だった。近くに小学校があって、裏門のところに大きな木がある。名前はわからないが、さわやかな木陰を作ってくれるありがたい木だ。今年は、その木の下を歩くたび、うるさいほどのセミの声が降り注いでくる。去年もセミの声はあったが、こんなにも響き渡るような大音量ではなかった。昼間はセミの声が消えてしまっていたのではないかと思うほど静かだった。暑さでセミも鳴く元気がなかったのが、去年の夏だった。ぼく自身のことで言えば、今年は昼間でも外で働こうという気力がある。暑さがやわらいだわけではなく、体力が向上したのかもしれないが、ぼくは暑さの質に違いがあるのではと思っている。テレビやネットを見ると、猛暑だ酷暑だ40度超えだと騒いでいるが、数字は参考にしつつ、自分の感覚やまわりの状況を大事にして動いていきたい。日向だと耐えられない暑さであっても、日陰に入ると、ぐっと過ごしやすくなる場合もある。「今日は38度だから」と気おくれするのではなく、日陰でできることをやってみる。ぼくはそうしている。ヤギたちは上手に涼しい場所を選んで休んでいる。気持ちよさそうに目を閉じて、口をもぐもぐ動かして、暑い日中を過ごしているのだ。数字に右往左往してきた人間たちも、そろそろ野生のカンを取り戻して、自分の感覚で動くことをしていかないと、自然の猛威に押しつぶされてしまう。AIもいいが、人間はもっと優秀な感覚をもっているのだから。
2026年07月31日
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昨日は母の命日だった。亡くなってから4年になる。3年近く一人暮らしだった。近所の人が良くしてくれたが、さみしかっただろうと思う。母をひと言で言うと、「過剰な心配性」だった。近所の人も口をそろえて言う。何か事故があったニュースを見ると、すぐに電話がかかってくる。「あんたな、こんなことがあったんやに。気をつけやんとあかんよ」とにかく、悪い方悪い方へ考えるタイプだった。娘がこう言った。「おばあちゃんはお父さんのこと、鳥かごに入れて、ずっとそばに置いておきたいんじゃない」それくらいいつも心配心配だった。うっとおしいと思うことがどれほどあったか。友だちに愚痴を言うと、「心配してくれるのは母親くらいや」と、薄っぺらい反応しかない。もうちょっと深く考察してほしいものだ。ぼくは、子どもにとって母の言葉は大きいと思う。心配してくれるのはありがたいことだが、度が過ぎると、母親の言葉がまるで現実に起こったことのように頭にインプットされ、トラウマとして残ってしまうのだ。だからと言って母親だけを責めることはできない。母親の母親、つまりぼくの祖母だが、母に輪をかけてひどい心配性だった。母も祖母から、「あれは危険」「気をつけなあかん」とさんざん言われて育ったのだと思う。心配性の親が心配性の子どもを作る。ある小学生は動物が嫌い。特に犬には近づけない。実は、その子の母親も犬嫌い。「犬は怖い」と小さな子どもに植え付けていた。話を聞くと、おばあちゃんも犬嫌い、動物嫌い。ひいおばあちゃんも。このままだと、この家系はほぼ永遠に動物嫌いが続くだろう。別に犬が嫌いでもかまわないけれども、心配性も不安も恐怖も怒りも喜びも。感情の多くが、親、その親、さらにその親・・・の感情や行動、価値観を学習して作られたものなのかもしれない、と考えてみてはどうだろうか。ぼくも心配性だ。母から学習したものだろう。そう思うと、自分の性格だと思い込んでいいたものを、少しは客観的に見ることができる。だからと言って、親を恨むのではなく、学習したものだから、何とか変えることもできるはずだと、情報の上書きを試みればいいのだ。「心配」を「大丈夫」に変えればいい。母の命日、仏壇に手を合わせ、お墓参りをして、母のことを考えていた。大事に育ててくれた。ありがたいことだ。しかし、この歳になっても、親の価値観に縛られているところもある。「心配」という縄で次の世代も縛るのは、できるだけなくしたい。母も苦しかったに違いから。それも感謝の気持ちだ。
2026年07月30日
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熊本での震度7には驚いた。10年前の2016年にも震度7の大地震があった。それも1日おいてまた震度7という考えられないような被災だった。震度7。めったに起こらないような大揺れだ。震度7が初めて観測されたのが1995年の阪神・淡路大震災だった。それ以降31年で8回観測されている。阪神・淡路大震災(1995年)、中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年 2回)、北海道胆振東部地震(2018年)、能登半島地震(2024年)に続く、8回目の震度7が熊本で起こった。8回中3回が熊本というのもどういうことなのだろうと思ってしまう。しかし、ほかの地域は大丈夫かと言えばそれはない。どこも同じ災害に見舞われる可能性は十分にある。「震度7の地震はどこにでも起こるよ。そして、その被害は、これまでの8回で十分にわかったでしょ」そんなメッセージとして聞く必要があるのではないか。イオンの爆発も、「原発だって簡単にあんなふうになるよ」という警告に聞こえた。2011年にぼくたちは体験しているのだから、何が大切か、真剣に考える。そうでないと、いよいよ待ったなしの危機になる。うちの近くでなくて良かったと胸をなでおろしたとしても、そんなのは一時的なもの。今日あるいは明日、自分の住んでいるところが昨日の熊本と同じ状態になっても不思議ではないのだ。自分事と考えて行動しないといけない。まずは自分の家。わが家は、5人の家族と、ヤギ6頭、犬7匹、ネコ7匹、ニワトリ3羽がいる。熊本のような地震があっても、動物たちを見捨てるわけにはいかない。実家は築30年ほど。作ってくれたのは、父親が旅行中に露天風呂で出会って、この人ならと感じて頼んだ大工さん。父親も腕のいい職人だったので、話をするだけで大工さんの腕を見抜くだけのセンスはあったはずだ。いい材料も使った。だから、震度7にも耐えてくれるはず。しかし、ライフラインは心もとない。停電したらどうする?隣に太陽光発電所(ソーラーシェアリング)を建てたから、そこから電気をとればいい。夜は困るので、蓄電機を用意しないと。水は?村には井戸水を使っているところもあるので、みんなでシェアするか。うちの井戸も水が出るようにしないと。雨水をためて濾過するシステムが必要かも。田舎だからどこにも米の備蓄もあるし、野菜は畑でとれる。何とかなるだろう。次に村。わが家はこれから、倉庫を犬たちが遊べる場所に改装しようとしている。エアコンもつける。ここに太陽光発電の電気をつなげば涼しく過ごせる。村の人全員は無理だが、少しは役に立つだろう。公民館があるが、古いし耐震性が十分とは思えないので、避難所にはならない。ここを災害時にも快適に過ごせる場所にすることも考えないといけないだろう。お金のかかることなので、簡単には進まないだろうが、一人暮らしの人でも、いざというときにはここがあるからという場所があったらどんなにか安心できるか。正直、これまで震度7の大地震が8回あったが、今まで以上に危機を感じる。ぼくの場合は、自分の家族と動物たちがどうすればいいかがメインで、村のことも少しは考えているレベルだが、さっそく動かないといけないなと思っている。被災された方、猛暑の中、どんな思いで過ごされているのか。亡くなった方もけがをされた方もいる。ほんの一部でしかないけれども、心痛が伝わってくる気がする。安っぽい慰めくらいしか言えなくて申し訳ありませんが、がんばって乗り越えてください。
2026年07月29日
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作家の東野圭吾さんが亡くなったニュースには驚いた。大腸がんだったとのこと。享年68歳。ぼくも東野さんの作品はずいぶん読ませてもらった。とんでもなく感動した作品は思い出せないけれども、どれもワクワクしながら、一気に読み進めることができた。すばらしい作家さんだったと思う。小説家の方がよくおっしゃるが、あるところまでいくと、作中の人物が勝手に動き出すそうだ。作家は、登場人物に命を吹き込む役割なのだろう。だから、自分自身のエネルギーを高く保っていないといけない。あるいは、まさにチャネラーのごとく、宇宙からのエネルギーを中継する力が必要だ。同時に、緻密な設計図があって、それをもとに、思考を重ね、イメージを膨らませて、文章表現の技術も高め、その上で、宇宙からの命が降りてくるのを待つ。そんな気がする。ぼくも文章を書いて生きてきた者として、死ぬまでに一度は、そんな体験をしたいものだと思う。東野さんには、たくさんのすてきな作品を残してくださったことに感謝するとともに、ご冥福を祈りしたい。ありがとうございました。
2026年07月28日
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数日前、懸案事項だったことが3つ解決した。まずは倉庫の改装。予定では5月末から工事が始まっていたはず。しかし、事業も兼ねた場所にするため、市の許可が必要だということになり、設計士さんや行政書士さんにも入ってもらって、あちこちの部署に何枚もの書類を出し、「もうええ加減にしてくれ」とめげそうになっていた。その許可が下りた。これで工事がスタートできる。予算はかなりオーバーしてしまうが、まあ仕方ないか。2つ目がネコ。いずれは保護しようと野良ネコに餌付けしていた。わけありのネコで、どうしても面倒を見たかったからだ。そのネコが、なんと我が家の古い納屋で4匹の赤ちゃんを産んだ。どうしたらいいのか思案していた。暑い日が続く。親ネコだけなら耐えられるかもしれないが、生まれたばかりの子ネコはどうだろう。死んでしまうかもしれない。次女と相談して、「保護しよう」ということになった。でも、やったことがない。かまれたり引っかかれたら嫌だなという気持ちもある。「やるしかない」次女は腹を決めた。ぼくがサポート役。一度目は失敗。だけど、子ネコだけは保護できた。親ネコは子どもが心配だから、遠くまで逃げない。段ボールに入れた子ネコたちのところに近づいてきた。そして、ついにゲット。ホッとした。3つ目がエアコン。2019年につけた10畳用のエアコンの効きが悪い。フィルターも掃除もした。それでもダメ。亡くなった母が購入したもので、たぶんここで買っただろうという電気店に電話をした。その日の夕方には来てくれた。冷風が出るところにほこりがたまっているのではと、手でごしごしこすってくれた。固まったほこりが落ちてきた。それで直った。今はとても快調に動いてくれている。同じ日に3つも解決するとは。うれしくなってきた。いい流れだ。この調子で進んでいきたい。
2026年07月27日
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家内と長女が1泊2日で山梨へ行っていた。山梨は、コロナ禍のころ、東京から移住して、4年間過ごした。そこでヤギを飼った。桃やすももの無農薬栽培にもチャレンジした。生活ががらりと変わった、とても思い出深いところだ。ちょうど桃の収穫の時期。山梨には何ヶ所かはね出し(贈答品にはならない)桃が買えるところがある。見かけも味も別に問題があるわけではない。少し傷があったり、へこみがあったりするものが、とても安く買えるのだ。彼女たちが行った一番の目的ははね出しの桃を買うこと。そして、山梨でお世話になった人にも会ってきて、なかなか充実した2日間だったようだ。桃はこちらでお世話になっている人や、近所の人に配った。すごく喜ばれた。わずか4年しかいなかったが、桃はぼくたちにとっても特別な果物だ。春には桜の前だと思ったが、濃いピンクの花が咲く。それが一面に広がっているところがあちこちにあって、あの桃色を見ると幸せを感じる。今のような収穫の時期には、「山梨では桃とぶどうはもらうもの」と言われているように、近所の人が「これ食べて」と届けてくれる。4年間でこれまでの人生60数年分の桃をいただいた。高級ブドウのシャインマスカットも十分すぎるほど味わった。そういう面では本当にぜいたくな生活をした。だから、桃をプレゼントして喜んでもらえると、ぼくたちも幸せになる。鈴鹿で生まれ育って、名古屋の大学へ行き、富山県の会社に就職して、また鈴鹿、名古屋でアルバイト生活、再就職。そして東京へ出たのが28歳のとき。埼玉県にも長く住んで、山梨、鈴鹿と続く。大学を出てからは、サラリーマンを少しやり、東京ではライター業、山梨へ行ってからヤギを飼い、果樹を育てるという体験をし、鈴鹿ではヤギばかりでなく、犬もネコもニワトリも一緒に暮らしている。さて、これからどうなっていくのか。住む場所が違えば文化や習慣も違う。会社を辞めなければ東京で暮らすことはなかった。コロナがなかったら山梨へは行っていない。家族で、「あそこにいたときには」と話すのも楽しい。一ヶ所でずっと暮らすのもいいと思うが、ぼくは、いろいろな地域で過ごせて良かったと思っている。楽しい人生を送らせてもらっていることに感謝したい。
2026年07月25日
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最近は、朝の5時に起きて、5時半には実家に向かう。1匹ワンコ(トイプー)の面倒を見ているので、ミタラシという名前のちっちゃな犬と15分くらいの距離を歩く。驚くのは、すでに数人のお年寄り(ぼくよりも7~8歳は年上)が、畑で仕事をしていることだ。「おはようございます。早いなあ」「あっついから朝のうちに仕事しよと思て」毎朝、同じあいさつを交わす。うちの両親もそうだったが、田舎の年寄りはよく働く。することがないからと言う人もいるが、そんなことはない。近くの公民館で、ヨガをやったり、健康マージャンを楽しんだり、パソコンを習っているおばあちゃんもいる。今は大相撲名古屋場所をやっているが、相撲好きのおばあちゃんは、毎年一回、名古屋まで出かけていって、相撲観戦をしている。同じような年齢の仲間4人と、10時ごろから人もまばらな升席に座って、ビールを飲みながら、相撲を肴にわいわいやっているのだそうだ。畑仕事も、お年寄りにとっては相撲観戦と同じような趣味かもしれない。楽しみながら畑をやっている人は、イキイキしている。何月には何の種をまき、苗を植える。きちんとルーチンがある。この野菜が得意だというのもあるみたいだ。数人で種や苗のお店へ行き、買い物をするのも楽しい。「あそこの200円のソフトクリーム、おいしいよ」そんな情報をくれたりする。車を運転する人も決まっている。なかなかいいネットワークが作り上げられているのだ。80歳を過ぎると、そろそろ畑仕事もきつくなる。長年、近くの団地から、うちの村の畑を借りて野菜を作っているおじいさんがいる。ぼくが村に戻ってきたときには広い畑と狭い畑と、かなりの面積で耕作をしていた。雑草がほとんどない、きれいな畑だった。しかし、去年、大きい方の畑は返した。今年は狭い方の畑も荒れてきている。なかなか草が刈れない。今年は耕してもいないし、野菜の姿もちらほらしか見えない。朝早く、おじいさんの姿を見ることがある。一生懸命に鎌で草を刈っている。しゃがんで作業をしているので、細くて小柄なおじいちゃんの姿は草に隠れて見えない。草の上の方が動いているので、おじいちゃんが草を刈っているんだとわかって、声をかけたりする。「なかなか進まへんわ」おじいちゃんは嘆くばかりだ。シャツはすで汗でびしょ濡れだ。この間はさすがに見かねて、草刈り機で刈ってあげたりした。体力が急激に落ちてきているようだ。そろそろ畑からも卒業だろうか。そうやって畑をやる人が減っていく。5時ごろから働いている元気なお年寄りも、いつまでもやれるわけではない。田舎の畑や田んぼは消えていく。農業も企業化して、野菜が工場で作られる世の中になっていくのか。あるいは、もっと輸入に頼るのだろうか。田舎の景色が変わっていく。
2026年07月23日
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35度くらいの気温では驚かなくなった。このままだと40度が当たり前になるのかもしれない。子どものころ、夏の夕方、庭に出て、縁台に腰かけてスイカを食べたときの記憶。父親が線香花火を買ってきてくれて、暗くなると、小さな赤い球から火花が散るのに夢中になれたときがあった。あのころの夏には風情があった。今の夏は、悲しいかな、「暑い」のひと言で言い表せてしまう。ぼくはまだ、田舎に住んでいるから、ときどき涼しい風が頬をなでることがあって、それだけのことでほっとひと息つける。コンクリート砂漠の都会。クーラーの涼を求めてさまよう難民たち。かつてはぼくもその一人だった。ちょっと油断すると周囲を覆い尽くす雑草には参ってしまうが、もう目をつむろう。秋になって元気をなくすまでのがまんだ。蚊やアブに刺され、むかでの出現におびえる。これも愛嬌さ。それでもやっぱり。ぼくは田舎の方が好きだな。ははは。あんなに田舎が嫌いだったのに。人は年を重ねれば変わるもの。
2026年07月21日
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我が村の最年長は95歳のおじいちゃん。2番目がその奥さんで93歳。最年長おじいちゃん、この暑い中、毎日、畑に出ている。おばあちゃんの姿もときどき見る。おじいちゃんの口癖は、「もう何にもできん。生きとるだけやわ」いやいやそんなことないでしょ。きちんと立派な野菜を育てている。「畑のことはひろっさんに聞けば何でもわかる」80歳のおばあちゃんの話だ。95歳のヒロシおじいちゃん。みんなからはひろっさんと呼ばれている。早朝、お寺の入り口でひろっさんに会った。「おはようございます」あいさつすると、ゆっくりとぼくの顔を見る。「おはよう。毎日、お参りしとるんやわ」ひろっさんの姿を見る時間と場所から想像すると、まず、彼はお寺参りをする。鍵がかかっているから、御堂に上がる階段の前で手を合わせるのだろう。それからお墓に向かう。台車のようなものを押して歩く。腰が曲がっているので、ほとんど地面ばかりを見ながら歩く。耳が遠いので、車がきても気づかない。ひろっさんのことを知っている人は、ひろっさんの姿を見ると車を止めて、彼が気づいて横によけてくれるのを待っている。クラクションを鳴らしたりはしない。お墓参りのあと、たぶん家で朝ごはんだと思う。ひと休みしてから畑へ行く。今は暑い時期なので、朝食前に畑仕事をしているかもしれない。暑い夏以外は、昼ごはんを挟んで、ずっと畑にいる。そして、4時前には帰る。大好きな「水戸黄門」をテレビで見るためだ。お風呂へ入って晩ご飯を食べて、早くに布団に入って、また翌朝、お寺参りからのルーチンが始まるのだ。淡々と日々を生きるすごさを、ぼくはひろっさんから感じている。たまに話をすることがある。彼が決まって言うことがある。人生唯一の悔い。ひろっさんは長い間、村の世話役(自治会長)を務めてきた。村を支えてきた功労者だ。「あのな。わしはな・・・」ぽつりぽつりと話始める。うちの村には、南北に2本のメイン道路がある。ひとつは昔からある道。車もすれ違えないほど狭い。もうひとつが、少し西側を走る、車がぎりぎりすれ違える道。ぼくが村を出てしばらくしてできた新しい道だ。新しい道ができて、西側に位置していた家にも、救急車や消防車が入れるようになった。いざというときには、この道は役に立つ。広い道を作るに当たって、リーダーシップをとったのがひろっさんだった。田舎の人は、地域のためとは言っても、自分の土地を提供するのは嫌がる。一軒一軒説得して回って、市役所とも話をして、やっとのことで工事が始まった。大仕事だったと思う。さて、ひろっさんの悔いとは。もう一本の狭い道についてだ。昔からある道。この道も広くしようと、ひろっさんは動き始めた。何十年も昔の話だ。新しい広い道ができたものの、残念ながら、その道は村を抜ける寸前で行き止まりになっている。だから、メイン道路にはなりえないのだ。村を便利にするためには、古い方の道を広くしないといけないと、ひろっさんは考えたのだ。うちの父親はひろっさんのいい相棒だった。当時は20世帯くらい。毎晩毎晩、手分けして説得に回ったのだろう。「ほんとにそれだけが心残りや。一人だけ賛成してくれんかった。それで道を広げれんかった。反対した奴ももうとっくに死んでしもたけどな。説得できんかった。もうちょっとやったのにな。一人でも反対する人があるとうまくいかん」ひろっさんはため息をつく。たぶん、あの道を広くするとしたら、そのときがラストチャンスだったと思う。今だったら、道の両側から家や倉庫やブロック塀が迫っていて、広げるのは無理だ。とりあえず、西側の新しい道を作ったことで、どうにか緊急車両がすべての家の前まで行けるようになった。それだけでも大した功績だと思うが、ひろっさんは納得していないのだろう。吹けば飛ぶような村ではあるが、たくさんの人の苦労があって維持されてきた。ぼくはひろっさんの次の世代として、村の今と未来を考えていかないといけない立場だ。ご先祖様をたどれば、たくさんの方々が、この村で喜怒哀楽の暮らしを送ってきた。その事実の積み重ねが、今にあるわけで、ひろっさんがとぼとぼとお墓に向かって歩いていく姿を見ると、彼の曲がった背中に、村の歴史を感じてならない。どうすれば、ご先祖様が喜んでくれるのか、ぼくにはわからないけれども、ご先祖様たちから何か託されているような気がしてならない。とにかく、特徴のある村にしたいと思って、今は動いているところだ。ひろっさんが、「あいつが帰ってきて村が変わってきた」と喜んでくれれば、ぼくのやっていることは間違いないと判断することにする。
2026年07月20日
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昨日書いた物置きの改装の件だが、なかなか物事が動いていかないときは、立ち止まるときだと思っている。思ったようにいかないと、ついついがんばって何とかしようとするが、動かないものはどうがんばっても動かない。それでも、ちょっとだけ角度を変えて取り組んでみると、すーっと前進したりすることがある。願えば叶うという神話があるけれども、願いは「我」でもある。この世は、我を超えた大きな力が存在していて、その力は、自分が本当に進むべき道へ導いてくれるものだ。叶わない方がいい願いもあるわけで、間違った願いに固執していると、さまざまなトラブルに見舞われて、ストップがかかるものだ。うちの妻は、生まれ育った札幌で一生を過ごすとつもりだった。大きな会社でたくさんの給料をもらって、結婚もするつもりなく、おいしいものを食べたり買い物をしたり海外旅行をしたりして生きていくという、決して高尚ではない人生設計を立てていた。それが彼女の願いで、20代後半までは順調だった。ところが、あるとき交通事故にあった。車で帰宅するとき、交差点で信号無視の車に左横からぶつけられて、車はひっくり返るほどの衝撃で大破。大けがをしなかったのが不思議くらいの大事故だった。ひどいむち打ち症になって、つらくて苦しい1年間を過ごすことになる。そんなときに、一枚のチラシを母親の知り合いが届けてくれた。それが真氣光という気功との出あいだった。わずか15分ほどの治療、それもビデオから氣を受けるという信じがたいような施術で、どれだけ苦しんだかわからない首や頭の痛み、倦怠感がきれいに消えてしまったのだ。彼女は大企業を辞めて、真氣光の会社へ就職する。困っている人を助けたい、世の中を少しでも良くしたい、真氣光の中川先生の手助けをしたいという、彼女の「やるべきこと」が表に顔をのぞかせたのだ。勤務先は東京。小さな会社だ。ここで札幌から出ない、大企業で働くという願いがひとつ崩れた。さらに、ぼくと知り合って結婚する。一生独身、そして経済的に苦労しないという願いを反故にすることに。子どもが生まれて、生活の浮き沈みはもっと激しくなる。彼女は都会生活が好きで、大きなデパートのないところには住まないと公言していた。コロナ騒ぎが彼女の願いを崩す。山梨に移住することになったのだ。ぼくが言い出したわけではない。妻が決めて積極的に山梨移住に向けて動き出した。ヤギを飼ったのも、彼女の発案。自分の人生設計(願い)はどんどん崩されていく。そしてついには、ぼくの実家のある鈴鹿に越した。これも彼女が言い出しっぺだ。「これしか選択がなかったのだから仕方がない」と妻は言う。大きな力は、仕方がないと思えるような形に追い込んでいき、願いなんて粉々になってしまう。しかし、どこか居心地の良さを感じさせてくれるのが、大きな力の演出なのだ。ヤギだけでなく、犬やネコ、ニワトリもいる。大きなデパートなんかない。ぼくにはまったく不満がないが、妻はこの生活に満足しているわけではない。まだ、かつての「願い」に未練があるのはよくわかる。しかし、ここまでどうやって運ばれてきたかを、冷静に見直してみれば、ちっぽけな我を手放すしかないとわかるはずだ。ぼくたちが置かれている状況の中で、上手く行っていることは何か? を見れば、これから進むべき流れがぼんやりと姿を現すはず。今まで進んできた道も大きなヒントになる。そこに一手を打てば、物事は一気に動き出す。今、ぼくたちはそういう節目にいる。焦ることはない。間もなく扉が開く。これまでの流れからすると、扉の鍵は妻が握っているはずだ。
2026年07月19日
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物置きの改装を準備している。父親から聞いたのは、1959年の伊勢湾台風のとき、うちの山の杉の木が何本も倒れたそうだ。それを材料にして作ったものだということは、築60年以上の古い建物だ。壊して新しいのを建てるという選択もあるかもしれないが、じっくり見回してみると、立派な柱や梁が、筋肉むきむきの腕のような趣で、台風でも地震でもどんとこいと言わんばかりに、建物の強度を保証してくれている。ところどころ崩れているが、少し黒ずんだ土壁はやさしい老女のように、暑さ寒さから中を守ってくれている。この昔ながらの部分は残した上で、入った人がほっとできるような空間はできないものだろうか。そんなことを念頭に置いて、父親のなじみだった工務店に相談した。父親と仲の良かった社長はすでに鬼籍に入り、息子さんが跡を継いでいた。縁とは面白いもので、その新社長、リフォームを得意としている。彼が施工した建物の写真を見せてもらったが、「和風」「自然」「癒し」をテーマにした、まさにぼくの好みとぴったりだった。父が引き合わせてくれたのだろうか。若いころ、父が前社長に引き合わせてくれたことがあった。そのときに言ったのは、「あいつはログハウスとか変わった建物に力を入れとるんや。お前と話が合うんと違うか」まだ「癒し」の世界に足を踏み入れる前の話だから、なぜ、ログハウスとぼくと結び付けたのか、いろいろ話をする中で、ぼくの嗜好をかぎ取っていたのかもしれない。確かに当時のぼくはログハウスにはひかれるものがあった。あるいは、変わり者同士、気が合うと思ったのか。そのことが記憶にあって、ぼくはその工務店に何十年ぶりかで電話をした。妻や娘と話して、改装をお願いすることを即決した。何度か打ち合わせをして、1階はヤギの見学に来たり、ドッグランで遊ぶ人たちが休む場所にすることにした。次女のキッチンカーで料理や飲み物を購入してもらい、おしゃべりでもしながらゆっくり味わう空間にすればいい。2階部分は図書室にする。仕事柄、ぼくはたくさんの本を持ち帰ってきた。かなり減らしたが、それでも何百冊とあるのではないか。それを壁面にずらりと並べようと思う。興味ある人に読んでもらえば、段ボールに入ったままだった本も喜んでくれるだろう。4月12日に契約をした。5月末から工事が始まって、今ごろは完成しているはずだった。ところが、大きな問題が行く手をはばむ。この地域は市街化調整区域に指定されているのだ。農林漁業をすることが優先されている場所で、市街化が抑制されており、建物の新築や増築、改装などに関して、さまざまな制約が設けられている。市役所と何度も話をしたが、特にうちのように、事業化を見据えたものに関しては、がんじがらめの規制がいくつもある。村が少しでも活性化するように、人が集まるような場所を作ろうというのは、市街化調整区域を管理する立場からすれば、言語道断、何を寝ぼけたことを言っているんだと、すばっと切り捨てられる事案なのだ。ビジネスを伴わない単なる改装なら問題はないが、資産家の年寄りが、故郷のために財産を使おうというのならともかく、日々の生活費を稼がないといけないわが身。家族が力を合わせて働き、そこそこの生活をして、その上で故郷の役にも立つという最高の計画だった。「次はこの書類を出してください」「ここを確認してください」市役所から返事があると、がくっと下を向く。それでも粘りに粘って、市役所の中にも応援してくれている人も現れ、親身になって手伝ってくれる人とも知り合うことができた。もうひと息のところまだ。最前線でがんばってくれている次女は、市街化調整区域の制約についてはだれよりも詳しくなったのではと思えるくらい、情報をたくさん集め、知識が豊富になった。ここまできたのだから、何とか踏ん張って、実現させたいと思う。「ハードルが高ければ高いほど燃えるんです」ぼくはそこまで強くないが、そういう人は間違いなくいて、面白いことを成し遂げている。うちの場合は、5人力プラス仲間の応援で目の前のハードルを乗り越えていく。あの物置きが、ステキな場所に様変わりしている姿をイメージしながら、市役所の要求を粛々とこなしながら、次のステージに進んでいきたいと思う。
2026年07月18日
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テレビドラマはあまり見ないけれども、「日曜劇場」は楽しみにしている。間もなく始まるのが『VIVANT』の続編。前作は3年前。妻と長女と、ああだこうだと展開を予想しながら見ていた。ネットニュースで流れてきたのが、原作者で演出を担当する福澤さんにパワハラがあったという話。でも、パワハラとかセクハラとか、ほかにもいろいろなハラスメントがある。だいたい、ハラスメントって何なんだ?「嫌がらせ」のことらしい。意図的な嫌がらせならパワハラと認定されても仕方ないが、仕事ができなかったり、大きなミスをすれば、上司からしかりつけられたりするわけで、果たしてそれを「パワハラ」と騒いでいいのかという疑問がある。まだ25~6歳のころの話。こんなことがあった。ぼくは名古屋にある小さな会社で営業マンをしていた。大手の自動車部品メーカーに商品を卸していて、在庫を最小限に抑えるという経営方針から、「すぐにもってきてくれ」「3日以内に」短納期の仕事がどんどん入ってくる。一番売り上げの多い会社だったので、「できません」なんて返事はできない。しかし、こちら側の現場も段取りがあって、「これ急ぎでお願いします」と発注すると、「またか」「そんなのできるか」とぼろくそに言われて、納期が遅れれば、大企業の購買係からはひどい言葉でののしられる。つらい苦しい板挟みだ。下請けの悲哀に何度悔し涙を流したことか。「なんでこんなことを言われないといけないのか」と、歯を食いしばりながら車を運転していると、涙がボロボロこぼれてくるのだ。これくらいはぼくたちの世代の人なら体験しているだろう。ぼくがあきれ返ったのは、1982年(昭和57年)。中日ドラゴンズが8年ぶりに優勝した。今日勝てば優勝だというので、ぼくは仕事が終わるや栄に出て、街頭テレビの前にいた。そして、優勝が決まった瞬間、大声をあげて万歳を繰り返していた。そしたら、目の前に長いマイクが伸びてきて、「おめでとうございます! 今の気持ちは?」とインタビューされた。「最高です! もう最高!」涙目になりながら興奮の声を返した。夜、喜びを反すうしようとNHKのスポーツニュースを見ていた。そしたら、「最高です! もう最高!」栄で興奮しているぼくの姿が映し出されたのだ。翌日、営業に回った。例の大企業には毎朝顔を出す。「おはようございます」とにかく元気にあいさつをすることは心がけていた。むすっとした顔をした購買担当者が出てきた。いつもむすっとしているので慣れっこなのだが、彼のこの日のひと言目は、「お前、今日から出入り禁止」なんじゃそりゃ。納期の遅れもないのに。「はあ」素っ頓狂な声を上げたと思う。理由の言わず、彼は部屋へ戻っていった。「おい、おい」もう一人の購買担当者が声をかけてくれた。「お前さあ、昨日テレビでおおはしゃぎしていただろ。あの人も課長も巨人ファンで、スポーツニュースを見て怒りまくっているよ。しばらく姿を見せない方がいいぞ」一週間、ぼくは出入り禁止になった。会社の上司にも、「何やってるんだお前は」と叱られた。無茶苦茶理不尽な話だと思うがどうだろうか。今でもあの購買係の仏頂面は覚えている。職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものこれがパワハラの定義。営業マンとお客さんの関係で、関係性の優劣は明確だし、業務上の範囲を超えているし、ぼくの就業環境も害された。職場ではないから、カスタマーハラスメントになるのか。ぼくは、小さな会社の営業マン時代の3年間で、企業社会の構造がよくわかった。大企業中心の社会に疑問をもつようになったのだ。その後、「西洋医学だけが医療じゃないんじゃないの?」「農薬や化学肥料を使う農業ってどうなの?」「便利さばかりを追求していいんだろうか?」「人間が一番という考え方もおかしいよ」「動物たちにも植物たちにも意思や言葉がある」「障がい者たちの才能を生かしたい」といった考え方になっていったのは、あの3年間の理不尽さがあって、現代の価値観や常識に対して、クエスチョンマークをつけることができたからだと思う。本当にそういう意味では、とても貴重な体験だったのだが、ああ、あのころはハラスメント漬けだったなあ。
2026年07月17日
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本格的な暑さが到来だ。今朝から、朝の6時集合になった。それでも日はしっかり照って、村の人と顔を合わせると、「暑いなあ」というあいさつになる。ワンコたちの散歩から始まる。夕方になっても気温が下がらない。だから、散歩は朝だけにして、長めに歩くことにした。ぼくはチワプーとトイプードルを連れて行く。まっすぐにきちんと歩くチワプーと、多動気味で、右に左に行き先が定まらないトイプー。こっちは両手を広げたり交差させたり、止まったり引っ張られたり、とにかく落ち着かない散歩だ。帰ったら朝ごはん。ヤギのお世話。このころには、外へ出るとじりじりと肌が焼ける。今日はそのあと、次女と一緒にヤギたちのエサになる草を取りに行った。次女は草刈り機の扱いが上手だ。しかし、今日は肩掛けベルトの留め具が壊れていて、新しいのと取り換えたりしてスムーズに進まない。外で直そうとしたものだから、その分、暑さのダメージも大きい。やっと数日分の草を集めてきたら、汗びっしょり。着替えてスイカを食べてほっとひと息入れた。これが11時くらい。もう一日分働いた。筋肉は消耗していない。暑さは、何に影響があるのだろうか。全身が倦怠感というか脱力感に包まれる。家に戻ったら、次女は頭が痛いと横になっていた。軽い熱中症だったかもしれない。まだ今日は風があって、ぼくの記憶では、去年の暑さには届かない、「ましな方」だ。ここ数年、35℃超えが当たり前になっている。暑さ、大雨、台風などなど、地球は確実に病んでいる。
2026年07月15日
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50年ぶりに故郷に帰ってきたのが一昨年のこと。ぼくが子どものころは陸の孤島のような村だった。30年ほど前からか、様相が変わってきた。山が切り拓かれて団地ができたのがきっかけで、徐々に我が村の近辺に住宅が立ち並ぶようになってきたのだ。自転車で少し走れば、田舎の家とは趣の違うしゃれた家が、広い道路が碁盤の目に整備された街並みにおさまった空間に出あえる。まだ銃が口は広がっていくようで、今でも造成が行われていて、かつてはだれも足を踏み入れなかったような山も、土がむき出しになり、トラックが土煙をあげて出入りしている。昔からの古い集落は空き家だらけになっているが、その周辺には新しい家がどんどん増えているという、ちょっとアンバランスな状態になっているのだ。いずれは我が村のような古い集落は姿を消してしまうのだろう。さらに10年近く前に、バイパスが近くを通り、車で移動するには便利になった。秋には、バイパスの横に大きなスーパーができる。「ぼくが住んでいるところはすごい田舎なんです」昔のイメージがあるから、ついついそんなふうに紹介してしまうが、実際に来た人は、ポツンと一軒家のようなところを想像してしまうのか、「思ったより都会じゃないですか」と期待外れの表情を見せる。うちの村へ来るときには、北側から入るといい。南側は、今言ったように団地が広がりつつあるけれども、北側からくると、田んぼがずっと広がっている中に、まっすぐな農道が伸びていて、突き当りがこんもりした山になっていて、細くて急な坂がある。トンネルのように竹や木々が上を覆っているので、この先に家なんてあるのだろうかと不安になるようなところだ。ある若い人は、「トトロの村に来たみたい」と喜んでくれた。坂の頂上部分、「トトロの村」の入り口にヤギたちがいる。昔ながらの古い家が何軒か立っているので田舎の風情がある。もう少し整備すれば、このロケーションはなかなかの売りになると思う。この坂を降りたあたりで、6月にはホタルが見られる。別の若い人はこう言った。「何か東南アジアの農村に来たみたいです」感慨深げにヤギスペースのまわりを歩いていた。彼は世界各国を旅行したことがあるそうだ。この村には、いろいろな要素が詰まっていて、住んでいる人にはわからない価値を、外から来た人が見つけてくれる。実は、この春から村の人たちに声をかけて、2ヶ月に一度くらいの割合で飲み会をしている。10数人が集まってくれる。先日、「村の外の人たちにも声をかけましょうか」と提案した。みんな賛成してくれた。9月にはバーベキューをする。村の外の人も数人が参加してくれる。長く住んでいると、自分の村のいいところが見えてこない。しかし、自分たちが価値を見出さないところに、外から来た人は感動してくれると、住んでいる場所が嫌いな人はいないわけだから、うれしいもので、故郷を見直すきっかけにもなる。外の人と触れ合うことで、前向きになれる村人も出てくるだろう。この村を舞台に、いろいろなイベントをしていこうと思う。人が集まれば知恵も出てくる。さっき言ったように、南側から入って北側を見て回ったり、逆に北側から入って南に歩いていくとか、ひょっとしたら、この村の楽しみ方というのがあるかもしれない。↓この間の大音寺でのイベントには32人もの方が集まってくれた↓ヤギたちが出迎えてくれる
2026年07月14日
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先週は夏休み前の最後の授業だった。工業高校の定時制に、週に一度、非常勤講師として通っている。学業という面で言えば、レベルは高くない。意欲をもって勉強する子もほとんどいない。「高卒の資格くらい取っておこう」くらいの気持ちで入学してきたのだろう。ほかに行ける学校もなく仕方なく入学し通っている子たちだ。昼間はバイトをして、夕方5時半から80分授業が2コマ。終わると8時35分。それを4年間。気分が乗らないと、「今日くらい休んでいいだろう」と思うときもあるはずだ。一度休むと、学校へ行くのが面倒になったりする。興味のない授業はつまらない。先生の側だって、ぼくも実際にやってみてわかったけれども、やる気のない生徒に向かって話をするのは、気持ちが乗らないもの。適当に80分を過ごすのは生徒ばかりではないのだ。かと言って、熱血の先生はうっとおしいわけで、どっちにしろ、彼らにとって平日の夕刻は、遠い世界の出来事のように他人事として流れていく。それが週に5日。高卒の資格くらいというモチベーションではなかなか続かない。お金がもらえる分、アルバイトの方が面白いわけで、結局、学校へ来なくなる子も少なくない。ぼくが所属する科の4年生の場合、12人が入学したが、6人が退学した。残った6人も好きで通ってきているわけでもないが、それでも4年間通っただけでもほめてあげないといけないのではと思うのだ。昨日は休み前なので、4年生は雑談の時間にした。ヤギやワンコの話、これからは世の中が大きく変わって農業が大事になる気がするという話、イルカのことも少し話した。教壇に立つぼくの前にいるのは3人だけ。だけど、真面目に聞いてくれる連中なので助かる。一人、ほとんどしゃべらない子がいる。寝ることもなく、よそ見もせずにきちんと話を聞いている。しかし、授業の内容がわかっているかと言うと、ほとんど理解していない。わからないのに毎日学校へ来て、居眠りもせずに話を聞いているというのも、またすごいことだ。この子の良さを見つけてあげたいと、いつも観察している。今日は発見があった。「お金を稼ぐのも大事だけど、もし農業がダメになったら食べ物が手に入らなくなるよ。輸入という手もあるけれども、世界中で食糧不足になったら、米や野菜を売ってもらえなくなる。そんなことあり得ないと思うかもしれないけれども、東日本大震災のときには東京でもスーパーの食料品の棚が空になったし、去年は米が足りないと大騒ぎになった。日本人がお腹いっぱい食べられるようになったのは、高度経済成長以降のことで、その前は食べ物がなくて餓死する人もたくさんいたわけで、また同じようなことになる危険性だってあるわけだ。自分の身は自分で守る。家庭菜園でいいので、食べ物を作るということを意識した方がいいと思うよ」そんな話をした。「でも、若い人は農業をやろうと思わないものな。農業やりたいと思うかい?」順番に聞いてみた。「いえ」と2人が答えた。3人目が無口な子だ。「君ならどう?」その子に問いかけた。こっちをしっかり見ているけど声は出ない。「農業は嫌いですか?」首を横に振った。「えっ、農業やりたいと思っているの?」うなづいた。ひょっとしてひょっとして、その子は4年間で初めて自分の意思を表示したのではないか。たしかにたしかに、その子が企業でうまくやっていけるとは思えないが、畑や田んぼで作物を育てている姿はイメージできる。人とは話せなくても、動物や植物とは気持ちを通わせることができるかもしれないのだ。「一度、うちに遊びにおいで。ヤギもいるし犬もいるし、畑もあるし。将来の参考になるかもしれないよ」下を向いてしまった。本当は来たいのだと思う。でも、それをぼくに伝えるのは、ちょっとハードルが高いか。ぼくができるのはそこまでだ。これから半年、週に一度だが授業がある。もう少し密なコミュニケーションができたら。畑で働く若者が一人増えるかもしれない。
2026年07月12日
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ある乳がんの患者さんの話。まだ早期の状態だったこともあり、主治医からは手術をすすめられた。主治医からすれば、早期なら手術で治るとわかっている。医者という立場からすれば正しい選択を伝えたわけだが、言い方がビタミン剤を注射しましょうくらいの軽い感じで言われたので、どう返事をしていいのか彼女も戸惑ったようだ。医者にとっては日常のことだけれども、彼女としては命にかかわる大事なのだ。それに女性にとっては、早期のがんとは言え、場所が胸だから、メスを入れることに抵抗があって当たり前だ。今は温存療法が主流と説明されても、彼女はすぐには「はい」と返事ができなかった。彼女はほかの医者にも診察をしてもらうことにした。できれば手術はしたくない。だから、西洋医学だけでなく、東洋医学や代替療法(西洋医学以外の治療法)まで視野に入れた治療をしている医者を探した。彼女が「この人なら」と感じたのは帯津良一先生だった。たくさんの著書があって、何冊か読んでみると、温かな人柄が伝わってくる。「こうしなければいけない」という医者にありがちな押しつけがない。「患者さんに寄り添う医療が大切だ」とどの本にも書いてあった。この先生なら手術をしたくない気持ちがわかってくれるだろうと期待をもって診察を受けたのだ。帯津先生は、手術や抗がん剤といった西洋医学の治療を否定しているわけではない。先生が考える、患者さんの現状にもっとも適した治療法を提案してくれる。しかし、手術が適していると思って伝えても、どうしても手術が嫌だという人も多い。先生は自分の考えを伝えた上で、「家族と相談して一週間後に返事を聞かせてください」と言って、その日の診察を終えるのだ。一週間後、「やっぱり手術をしません」と考えが変わらない人だったら、手術以外の方法を一緒に考えてくださる。彼女の場合も、先生の見立てだと、手術が一番の選択だった。決して難しい手術ではない。そのことを手術は嫌だという彼女にどう伝えるか。先生は言った。とっさに出た言葉だそうだ。「あなたみたいな美人ががんで死ぬなんて、私には耐えられないな」思ったことが口からぱっと出たのだろう。これが彼女の心を動かせた。「わかりました。手術を受けます」彼女は今も元気に働いているそうだ。ときどき帯津先生の診察も受けている。いくら初期と言っても、がんと診断されて平気でいられる人は少ない。動揺するし悩む。揺れ動く心に、どんな言葉が響くか。帯津先生のような粋なひと言が言えるのは、センスだろうな。だれでも言えるものではない。医学部では教えてくれない。こういう医者が増えたらいいなと、先生に会うたびに思う。
2026年07月10日
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「実は週刊新潮に『週間食卓日記』というのがあって、そこで私の食生活が紹介されました」わが師である帯津良一先生がうれしそうに話してくれた。今年の2月に90歳を迎えた現役バリバリの医師だ。ほとんどの患者さんが深刻ながんの人だから、エネルギーも使うだろうが、肌はピカピカ、いつもニコニコしていて、専制はきっと、エネルギーを使っても使っても減らないタイプらしい。気功をやっているから、常に補給していて不足することはないのだろう。さて記事だが、面白い。まずタイトルがいい。「朝からビール三昧。休肝日なくとも90歳まで無病息災」まさにその通りだ。6月9日から15日までの一週間の先生の食生活。「生ビール」が何回出てくるだろうか。一日一回なら7回ですむが、先制の場合は、出張だったり休日で診療がないときには、朝昼晩と生ビールをいっぱいやるのが楽しみになっている。この一週間では、9日に香港から帰国。火曜日だけど3回、水曜日は1回だが木曜日は昼に知り合いと食事をしたということで昼夜の2回。金曜日は1回。土日は北上に出張だったので6回生ビールが出てくる。一週間で合計13回も生ビールが出てくる。朝からビール三昧というのは当たっている。最後の献立評論家の方が採点をしている。「こんなに生ビールを飲んでいてはボロカスに言われるかと思った」普通はそう考える。でも、先生は悪びれない。言いたい人には言わせておけばいいという主義だ。そしたら、なんと100点満点で98点という高得点をつけてくれた。まあ、ずっと休肝日なしで、コロナで陽性になって地域の病院に入院させられたときも、「酒が飲めないなら帰る」と自分の病院でお酒の飲める入院生活を送った人だ。90歳まで大した病気をしたこともない。そんな人に、「お酒もほどほどにしてください」というのはおかしな話で、先生の元気な今が、98点という高得点につながったところもある。先生のお酒との付き合い方は、ひとつにはだらだら飲まないというのがある。6時ごろに飲み始めれば、だれが相手であろうと8時には引き上げる。好物をつまみながら、好きなお酒を飲む。話を合わそうとしない。沈黙が続けば静かに飲む。人のうわさ話や悪口は言わない。説教もしない。自慢話もない。それでいて、相手の人が愚痴を言ったり、不平を漏らしても、うんうんと黙って聞いている。「酒を愛することが大切だ」いつもおっしゃっているが、まわりを気にして飲むのは酒に失礼だという迫力がある。これだけ自分が愛しているお酒なのだから、体に悪いはずがないという、確固たる自信にあふれているのだ。ここまで慕われたら酒もさぞかしうれしいだろう。こういう飲み方をしてこそ、貝原益軒が言うような「天の美禄」になるのだ。新潮の記事を読んで、あらためて恐れ入りましただ。ぼくは、月に一度、先生と一献傾ける幸せな時間をもらっている。少しは先生に近づけないかと思うのだが、ここまでの度量の大きさは、ぼくには無理だな。
2026年07月09日
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定時制の授業ではプリントを配って、問題を解いてもらう。しかし、静かに問題に取り組むような連中ではない。わーわーと話をしたり、動き回ったり、無秩序状態だ。中には静かにしているなと思うと、AIで出した答えをそのまま書いて、「できました」とどや顔をしているのもいる。良し悪しは別にしてこれからはAIの時代になるから、ひとつの解決法としてありなのだろう。だけど、やはり危うい現実でもある。ぼくなりの考え方もあいつらに知らせたい。でも、まともに話しても耳を貸さないのは火を見るより明らかだ。この間、「ドラえもん」の第一巻を読んだ。1969年に連載が開始されたそうだ。60年近く前のこと。なぜドラえもんを読もうと思ったか。ドラえもんが出す道具が、あのころから見ると未来、つまり現代を予言したものだという話を聞いたからだ。確かに、ドラえもんの定番であるタケコプターはドローンだ。どこでもドアはVRかもしれない。こんな話があった。のび太がゴロゴロしていると、ママから「庭の草を抜いて」と命じられた。のび太はこのままゴロゴロしていたい。でも、やらないとママにこっぴどく叱られる。困ったときのドラえもん頼み。ドラえもんものび太には甘いので、面白い道具を出してくれた。その道具を使えば影を切り離すことができる。影はご主人様の命令に忠実。こんな都合のいいものはない。のび太は草抜きだけでなく、宿題をやらせたり、片づけをやらせたり、「わーい、楽ちんだ」と大満足だ。しかし、この道具を使うときの制約がある。30分以上は使ってはいけないというものだ。30分以上使うとどうなるのか。影がどんどん本体の人間に近づいて、本体の方が影に近づいていくのだ。そして、ついには本体と影が逆転してしまう。ゴロゴロしているのび太は影にならなければならない。楽ちんだと喜んでいたのび太。とっくに30分は過ぎている。姿を見ると、あれあれ、影のように黒くなっているではないか。影はのび太の命令をきかず、好き放題やり始めた。のび太は影になっていく。さてさて結末は?ぼくはAIで答えを出している生徒に、この話をしてあげた。そして言ってやった。「ドラえもんは予言書だ。未来の出来事が書かれている」「お前も影の話と同じで、AIに頼り過ぎていると、いつの間にかAIに命令される側になってしまうぞ。それでいいのか」きょとんとしていた。わからなくていいけど、ドラえもんを例に出すと、確かに聞く耳はもってくれた。第2巻を買うかどうかはわからないが、「ドラえもん」の予言を読み解くのは面白いかもしれない。
2026年07月07日
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あのとき違う選択をしていたらどうなっていただろうか?たまにそんなことを想像するのも面白い。よくパラレルワールドという。そんなのがあるのかどうか、ぼくにはわからないが、想像や妄想の世界では、いくらでもパラレスワールドに旅することができる。20代のころ、2年だけサラリーマンをしたが、「こりゃダメだ」と方向転換を考えた。だけど、何をやっていいかわからない。そこで教師になろうと決めた。ぼくは工業高校の教員免許をもっていた。しかし、大学で専攻したのは経営工学で、工業高校にはそんな科はない。統計学や情報処理、生産管理、システム工学、会計学、人間工学といった科目があったがさっぱりわからなかった。まして、工業高校だと機械や電気、電子、建築のことを勉強する。ぼくにはチンプンカンプンだ。とても工業高校の教師など務まらない。それで、玉川大学の通信教育で「中学社会科」の資格を取り、それで採用試験を受けた。中学校の社会科なら得意かもしれない。しかし、当時は教員になりたい人が多くて、中学社会はもっとも倍率が高かった。受かるはずがない。違う道を模索して、結果オーライだったが、文章を書く世界へと足を踏み入れたのだ。今思いがけなく、工業高校の非常勤講師をしている。ぼくが担当するのは機械科の機械設計という科目だ。設計などしたことがない。だけど、そんなぼくでも、やれることがある。設計をする際の基礎となる数学、物理学を教えればいいのだ。三角関数や力のモーメントといった、基礎的なものなら、何とか教えられる。長く工業高校の教員をやってきた友だちに聞くと、機械科を卒業した人が電気のことを教えたり、畑違いの科目を担当するのは当たり前で、みんなやりながら覚えていくらしい。そうしたことを総合すると、20代のとき、工業高校の資格で採用試験を受けても、何とかやっていけたかもしれないのだ。中学社会よりははるかに受かりやすかったはずだから、その気になれば実現していたパラレルワールドだ。三重県には、桑名工業、四日市工業、四日市中央工業、津工業、松阪工業、伊勢工業などがある。ぼくはそのどこかに配属されて、教員生活をしたわけだ。工業高校にはやんちゃな生徒が多い。どういうふうに彼らと向き合ったのか。非常勤をしていて、やんちゃはいないが授業はまともに聞こうとしない生徒がほとんど。ぺちゃくちゃしゃべったり、歩き回ったり、こっそりスマホを見たり、寝ている奴もいる。ホワイトボードに数式を書くと意識が違うところへ飛んでいく連中ばかり。ぼくは基本的にはあれこれ言わないようにしているので、まったく秩序のないクラスになってしまっている。いろいろ経験してきて70歳になったぼくは、この無法地帯は無法地帯でいいと思って、授業を少しずつ進めながら、一人ひとりと話しながら80分を過ごしている。しかし、20代のぼくはこれに耐えられないと思うな。「静かにしろ!」「うるさい!」と怒鳴っていたかもしれない。勉強などしたくない奴らに勉強を教えるのは、とんでもないストレス。勉強を教えることとは違うところに自分の存在意義を見出さないと、確実にパンクする。クラス担任になったら、勉強以外のことでも振り回される。ひょっとしたら、パラレルワールドのぼくは精神的に病んでしまっていたかもしれない。となると、今の世界のぼくは、ベストの道を選んだのだとホッとしたりする。パラレルワールドにいるぼくに対しても、「大変だよな」とやさしい気持ちになれる。この世界で、ぼくたちはいろいろな体験をする。メインの道ではなくて、脇道に入ることもあるが、その脇道というのは、もしパラレルワールドがあるなら、その世界の自分にとってはメインの道なのかもしれない。小さなつながりをもって、パラレルワールドとはかかわっていて、そこが横のつながりをもてるドアになっているのではと思ったりする。週一回、片手間の教師だけれども、ぼくのやっていることが、少しは別の世界の自分の役に立てればと思う。
2026年07月06日
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午後から雨が降り出して、夕方はWOWOWでラグビー観戦。ネーションズカップと言って、世界のベスト12のチームが、北半球と南半球に分かれ、北半球対南半球で6試合ずつ戦うという新しい世界大会だ。いつものことながら、日本代表戦は、絶望したくない、長いため息は嫌だ、という防衛本能が働き、負けることを前提に見る。80パーセント負け、20パーセント勝ちの割合かな。いい試合をしてくれたら御の字という思いで、熱くなりがちな胸を冷ましているのだ。ジャパンの大敗をどれだけ見てきたことか。そんな世代の人間だから。相手はイタリア代表。かつては対等のレベルだったが、この春はスコットランドにもイングランドにも勝っている。レベルアップが著しいチーム。先制のトライはイタリア。開始5分。テレビで見た限りは、簡単に抜かれてしまっている。これじゃ勝てないよ、と負け犬がささやく。しかし、そこからのジャパンは違った。スクラムも負けてないし、モールにも耐える。タックルもいいし。21歳のSO伊藤龍之介が途中から目立ち始めた。キャプテンのディアンズの推進力は勢いを与える。小さなウイング2人もいい動き。課題のハイボールも負けていない。ディアンズのトライ、広瀬→松永のトライ、そしてPKで17点。イタリアはPKを加えて10点。前半をリードする。後半。次の点数が大事だ。だいたいジャパンは後半が始まってすぐに痛い目にあい、ずるずると負け戦になってしまう。ところが、やったじゃないかベン・ガンター。トライだ。彼のパワーには紙一重の危うさがある。すごいスティールをしてピンチを助けることも多いが、ペナルティになることもよくあって、ハラハラする。タックルも強烈だが、ときどきハイタックルになってイエローカードをもらう。今回も「ああイエローだ」と頭を抱えてしまうシーンがひとつあった。きっとギリギリの高さだったのだろうな。だけど、あの激しいプレーは日本代表にはなくてはなららい武器だ。そのあとPGを決めて合計27点。おお、後半はイタリアを0点に抑えているではないか。あと2トライは取れた試合だった。ぜいたくな感想だ。日本代表が強くなったのか。それともイタリアの調子が悪かったのか。次のアイルランド戦でどんな試合をするか。「イタリアが本調子じゃなかったんだよ。ミスが多かったもの。アイルランドには歯が立たないよ」負け犬はまだまだ黙ろうとしない。「ジャパンは強くなった!」アイルランド戦で証明しておくれ。そして、ぼくの中の負け犬をだまらせてくれ。↓50年近く前のぼくの雄姿(?)
2026年07月05日
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どうしたら田舎を元気にできるか?難しいテーマだと思う。若者が出て行き、どんどん高齢化していく田舎。「仕方がない」とあきらめている田舎人が大半ではないか。「何とかしなければ」と思っても、何をしていいかわからないという人も多い。「自分が生きている間だけでも存続していればいい」という自己中心的な人もいる。全国を見渡せばうまく活性化できているところもあって、本が出ていたりする。しかし、それはあくまでも参考で、真似したからと言って、うまくいくものではない。村にも特徴があるし、動く人たちの特性もある。己を知って行動しないと、だいたい迷路に迷い込み、雲散霧消という結果に終わってしまう。ぼくが故郷へ帰って1年半になる。うちの村の人たちはみなさん働き者。せっせと田んぼや畑で働き汗を流す。ただ、姿を見るのは50歳以上ばかりで、20代30代の若い人たちもいるのだが、彼らは朝早くに会社へ行き、遅くまで働いて、休みの日は家で休むか、外へ遊びに行くというライフスタイルで、村での交流はほとんどない。このままでは、田畑は荒れ地になったり、太陽光のパネルが並ぶという状態になってしまう流れは明らかだ。そうならないためにはどうするか?たぶん、村の若者には田畑を耕そうとする気持ちはない。親世代も、子どもに農業をやらそうとは100パーセント思っていない。となると、外から農業に意欲のある若者を呼び寄せるしかない。そのためには、村に「行ってみようかな」と思わせる魅力をもたせないと。ということで、ぼくは大音寺という住職のいないお寺を活用することを考えた。檀家も11軒しかないし、存続が風前の灯。しかし、数少ない檀家が力を合わせてがんばっているおかげで、荒れ寺になっていない。人を呼べるイベントをしよう!そんなことを思い立って、去年からお話会や音楽会を企画してきた。おかげさまで、20人くらいの人が集まってくれる。ほとんど外の人だが、村内で完結するよりも、外からの刺激があった方がいい。昨日は、水曜日にもかかわらず、32人もの人が集まってくださった。西本真司先生という、ホリスティック医学と言って、西洋医学だけでなくさまざまな治療法を駆使しながら、肉体のみならず、心や魂の部分まで癒していこうという医師がお話をしてくれた。ご本人も、20代のころに潰瘍性大腸炎という難病で苦労した経験がある。何しろ、主治医からは「99・999パーセント治りません」と言われたほどの重症だったのだ。再発を何度も繰り返したようだが、薬を徐々に減らしながら、東洋医学や代替療法(西洋医学以外の治療法)を使って、完治させた。その経験をもとに、今はたくさんの難病患者さんの治療を行っている。なかなかこういう医師とは出会えるものではない。ぼくは、真氣光という気功のグループがきっかけで、西本先生がまだ闘病しているころに知り合った。その縁で、今回、わざわざ来ていただくことになったのだが、歌あり、笑いありの先生の話は、病気でつらい思いをしている方の気持ちを確実に楽にする。質問もたくさん出て、2時間半という長時間のお話会だったが、みなさんとても喜んでくださった。こういうことを続けていくと、少しずつ協力者が増えてくる。すばらしい活動をしていたり、高い志をもっている人のネットワークができる。彼らに、このお寺を好きになってもらい、活用してもらい、村を応援してもらう。知恵もたくさん出てくる。労働力にもなってくれる。そんなふうな将来をもくろんでいるのだ。年内にあと3回くらいは楽しいイベントを企画したい。すぐには変わらないが、徐々には変化していくはずだ。まあ、少なくともぼくは楽しめているから、あまり大きなことは求めず、一歩一歩進んでいこうと思う。昨日はいい一日だった。
2026年07月02日
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今日はこれから人間をまるごと診るホリスティック医学を引っ張っている、和歌山市で開業している西本真司医師のお話会がある。我が村に小さなお寺がある。住職がいなくなって20年くらいたつだろうか。檀家も11軒ほど。お年寄りが力を合わせて寺のお世話をしている。年に2回くらいしか使わないお寺だが、きれいに維持されている。しかし、お世話する檀家も高齢化。世代交代もうまくできてないため、だんだん負担になってきている。これからお寺をどうしたらいいのか。みんなで前向きでない話し合いが続けられてきた。そんなところへぼくが帰ってきた。「お寺は村の柱。なくしてはいけない」理想論をぶち上げ、「俺が何とかする」なんて偉そうなことを言った。すぐにいい案が浮かぶはずがない。ただ、人が集まれば知恵が出るというモットーが、ぼくにはある。「俺が人を集める」イベント企画はいろいろやってきた。知り合いも多い。と言うことで、去年4回。今年はぼくが主催のイベントを1回、知り合いが2日間のイベントを開催してくれた。会場費は3000円。お寺に人を集め、収入にもなることを形にするという第一段階は、まあまあのスタートだと思う。こんなことをしていますよと発信していたら、古い知り合いの西本先生が、7月1日に患者さんとお伊勢参りに行くので、帰りに寄りますよとうれしい申し出をしてくれた。伊勢から鈴鹿、そして和歌山となると、果たして帰り道なのか。わざわざ時間を作ってきてくださるのだと思う。ありがたいことだ。でも、水曜日だしどれだけの人が集まってくれるだろうと、不安もあった。少人数しか集まらなかったら、お忙しいのに、わざわざ来てくださる西本先生にも申し訳ない。しかし、大音寺でのイベント、応援してくれるエネルギーがあるとしか思えないが、とてもスムーズに人が集まるのだ。さっき参加者名簿を作ったが、28名が申し込んでくださっている。ほとんどが村外の人だ。大音寺にこんなにもたくさんの人が集まるのはあり得ないことだ。人の集まりがあって、村のことを知ってもらって、何かここでやりたいと思う人が出てきて、少しずつ村が活性化していく。来年は、このお寺と近隣の家を使って、朝市をしようと考えている。「あそこでは面白いことやっているよ」そう思わせる仕掛けをしていく、村を巻き込んでいきたい。平日の昼間にこんなにも人が集まってくれるというのは、ぼくにとっては大きな自信にもなった。西本先生のおかげだ。
2026年07月01日
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サッカーワールドカップ。日本代表はブラジルに負けてしまった。夜中の試合を見るほど熱心なファンではないが、やっぱり勝ってほしかった。なぜブラジルは強いのか、ネットを調べたら、ブラジル人は子どものときから裸足で木登りをしていて、手と同じように足が使えるからみたいな記述を見つけた。でも、今の子たちは靴をはいているんじゃないだろうか。それでも強いというのは、木登りというのは、あくまでもたとえであって、道端に落ちているものは何でも、蹴って遊ぶという文化があるのではないだろうか。テレビで、ブラジルの貧しい地区の子どもたちが、ペットボトルでサッカーをして遊んでいるのを見たことがあるが、蹴れるものと空き地があれば、彼らは一日中でも遊んでいられるのかもしれない。そんな文化によって、手と同じように足が使えるようになり、そこに道具や戦術、ルールが加わって、サッカーというスポーツになったわけだ。日本では、あくまでもサッカーをやるためにクラブチームに入ったりするわけだが、彼らは、まず蹴るという日常があって、そのあとにサッカーがあるのではないか。ニュージーランドはラグビーが強い。よく知らないけれども、ニュージーランド人は小さいころから、連係プレーのある鬼ごっこみたいな遊びをしていたのではないか。日本ではあくまでもスポーツとして始めるのだが、彼らは遊びとしてボール蹴りがあったり鬼ごっこがあって、その先にサッカーやラグビーというスポーツにつながるのかもしれない。中国やロシアだと、小さいころに才能があると思われると、オリンピックで金メダルを取るための英才教育が施されると聞くが、遊びの延長にスポーツがあるという方が健全な気もする。日本では、ぼくらのころは、遊びというと野球だったり相撲だったが、今は遊びというより、クラブや道場で鍛えられるわけで、遊びとスポーツの関係が変わってきた。世界中でそういう傾向があるのだと思う。勝ち負けにこだわれば、それも仕方がない。大きなお金も動くし。その分、やる側も主催する側も見る人も、余裕がなくなってきたような気もするけれども。ラグビーは、これからU20の試合、日本代表の試合が続くので楽しみだ。
2026年06月30日
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サッカーの盛り上がりの陰で、ラグビーもがんばっている。先日は、ジャパンフィフティーンという日本代表の予備軍が、マオリオールブラックスという、ニュージーランドのマオリ族の血を引く選手たちのチームと試合をした。ニュージーランドといえばオールブラックス。漆黒のジャージが世界のラグビーをリードしてきた。マオリオールブラックスのメンバーにはオールブラックスに選ばれたことのある選手もいれば、次の主力と期待される若手もいる。かなり強いよ。正直なところ、「勝てないだろう」と冷ややか気持ちはあった。いや、負けはいいけど、「完敗だったらどうしよう」と不安をもっていたという感じかな。これから毎週、日本代表はイタリア、アイルランド、フランス、オーストラリアと、世界のトップクラスとの連戦がある。その前哨戦と言ってもいい試合だった。この試合で目を覆うような光景が繰り広げられたら、次からの試合への興味がガタ落ちだ。昔の弱っちい日本代表に戻ってしまうのか。春の国際マッチではその兆しがあったようにぼくは感じたから余計に、見るのが怖くてたまらない。勝つために厳しい練習に耐えてきた選手には失礼な話だが、我が心を落ち着かせるには、80パーセントのあきらめと20パーセントの期待で見るのがちょうどいい。ラグビーの試合は60年以上も前から見ているけれども、強豪国とのテストマッチでは、試合途中から脱力感に襲われてばかりだった。完全にトラウマ。南アフリカに勝っても、ワールドカップでベスト8に入っても、いつまでも抜け出せないでいる。来週からの大一番。全部勝ってほしいというのは高望みすぎるが、リーグワンの準決勝、決勝のようないい試合を見せてくれたら、トラウマも解消されるかもしれない。リーグワンでは世界一流の選手と敵であり味方として戦ってきたのだから、力はついているはずだ。マオリとの試合を見たら、惜しくも負けたけれども、21歳の伊藤龍之介選手のような若手が堂々と試合をしているもの。これからが期待できそうな気がしてきた。来年はワールドカップ。サッカーの試合を見ていると、日本代表は、個人の技術だけでなく、コンビネーションにしても、相当なレベルに達しているのではないかと、素人ながら思えてくる。主力選手がけがで抜けても、きちんと控えの選手で補える選手層の厚さもすごいし。サッカーの方が先を行っているが、ラグビーもサッカーの勢いをもらって、大いに飛躍してもらいたいものだ。U20のジュニア・ワールドチャンピオンシップでも、日本代表はニュージーランド代表に前半は同点という健闘ぶり。後半に突き放されたが、若い選手ががんばっていて、頼もしい限りだ。
2026年06月29日
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青森に続き、山梨を中心に関東地方に大きな地震があった。山梨には4年ほど住んだ。ヤギを飼うきっかけとなった地だ。桃やすももの栽培にもチャレンジした。山梨県甲州市。今の生活の基礎を作ってくれた懐かしいところだ。震度5弱。被害がなければいいが。それにダブル台風も心配だ。昨日はたくさんの雨が降った。今日も降っている。台風は東海地方から関東地方に進んでいいく。こんなにも自然災害が次々と起こるのは、「地球の自然治癒力が低下しているからだ」という説がある。自然治癒力とは何か?たとえばすり傷をしたとき、消毒くらいはしてもたいていの場合、放っておく。出血もすぐに止まりかさぶたができて皮膚が再生し、またもとの状態に戻ってしまう。それをコントロールしている力のこと。地球にも自然治癒力はあるはず。地球も老化しているだろうし、環境も汚染されて、健康体ではなくなっている。一刻も早く自然治癒力を回復させないと、地球は死を迎えるかもしれない。たぶん、最悪の事態にならないため、地球は自然治癒力を存分に働かせていると思う。地震や台風、大雨というのは、自然治癒力が発露しているからこそ起こっているのではないか。ただ、このまま地球だけの力に任せておくと、いずれは健康体に戻れるとしても、その過程で厳しい現象が次々と起こってくる。そこで人間という存在の出番となる。人間がいなければ地球は元のきれいな惑星に戻ると言う人がいるが、それはそれで真実だろう。しかし、人間も意味があってこの地球に存在している。養ってもらっているばかりではなく、地球の役に立つこともできるはずだ。人間には場のエネルギーを高めたり調整する役割があるのではないか。たとえば、人が住まなくなった家は早く朽ちると言われている。実際にそうだと思う。家という場のエネルギーを、そこに住む人が高め、調整しているからこそ、家は長持ちするのだ。ただ、ゴミ屋敷にしてしまう人もいるわけで、正しく使えばという条件はつくわけだが。地球はわれわれが住む家でもある。ここをどう使うか。正しく使えば、地球のエネルギーは高まり調整され、大きな災害なしに自然治癒力が高まるのではないか。戦争で殺し合うのは正しい生き方か?森を壊して大地を掘り起こすのは?海を汚すのは?放射能を吐き出すのは?お金のためなら何でもするという行動パターンは?地球も人間を排除したいとは思っていない。ともに幸せに生きる道を模索している。ぼくたち人間が、地球のふところの深さや寛容さに甘えたり、利用するだけでなく、地球のやさしさに応えないといけない状況にある。そうしないと、自然治癒力はもっと激しい形で発動されることになる。ぼくたちには、地球のためにやれることがいっぱいある。それは、回り回って、ぼくたちのためにもなる。
2026年06月27日
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青森で震度6強という大きな地震があった。九州では大雨。東北地方や九州は自然災害が多いイメージがある。日本列島は、方角で言うと、東北から南西に伸びている。その真ん中あたりに東京という首都があるわけだ。東京から見て東北地方は丑寅の方角。鬼門と言われる。九州はな南西。こちらは裏鬼門。ぼくの勝手な解釈だが、鬼門も裏鬼門も、日本を守る役割があるのではないか。日本列島をひとつの城と考えれば、敵は鬼門、裏鬼門を攻めてくる。大変な攻防が、そこでは繰り広げられるわけだ。日本列島は、東北地方と九州で大きな自然災害を食い止めている。災害が多いというのは大変だけれども、日本を守るという意味では、東北地方や九州はとても重要な場所であり、そこに住む人たちは、大切な役割を担っているという考え方もできる。ぼくは三重県という比較的穏やかな地方に住んでいる。大した被害がなくて良かったと、それで終わらせてはいけない。守ってくれている地方を疲弊させてはいけないのだ。鬼門、裏鬼門が崩されると、日本はズタズタになってしまう。今回のようなダブル台風+梅雨前線が東京を襲うというのは、そんなになかったはずだ。鬼門、裏鬼門がかなりのダメージを受けていて、日本列島が危険水域に達しているかもしれない。日本列島を自分の体だと考えて、肝臓が大きなダメージを受けているときに、心臓は「自分でなくて良かった」と思うかどうかだ。ぼくが住む三重県北中部地方にも、さっきまで「竜巻注意報」が出ていた。全国的に大荒れの状況だが、ここはワールドカップではないが、総力戦で守り切るしかない。「がんばれ! ニッポン」「がんばれ! 地球」だな。
2026年06月26日
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我が村は限界集落だと思っていた。限界集落というのは65歳以上が50%以上が高齢者になった集落のことを言う。ざっと数えてみると、65歳以上は3割くらい。どうして限界集落と思ったかというと、村を歩いていて、若者の姿を見ないからだ。姿を見せるのは、若くても50代か。30代も20代も10代もいるのだが、朝早くから会社や学校に行き、帰ったら家に閉じこもって、ほとんど外に出ない。畑仕事をしているのも、村の集まりに出てくるのも年寄りばかり。3割くらいは40代以下なのだが、村では透明人間だ。村にお嫁さんがきたという話は聞かないし、赤ちゃんが生まれることもないだろう。あとは移住者。我が家も移住者のようなもので、あとは2~3軒、外から来た家族がある。これからのことを思うと、亡くなったり施設に入る高齢者は増えるだろう。人口は減っていく。若い人たちはどうするのだろうか?とりあえず村に住んで、会社に通うのか。畑をやる人も、草を刈る人もいなくなる。村が村として機能するぎりぎりのところだ。そういう意味では限界集落だ。高齢者の役割は、若い人たちが暮らしやすいベースを作っておくこと。我が家には3人の娘がいる。ぼくは、彼女たちがこの村を舞台に暮らしを成り立たせていけるための準備をしている。娘たちもそのつもりでいてくれる。先のことはわからないが、うまくいってもいかなくても、とにかくやってみることが大切だ。村の中でひとつのことが動き出せば、まわりに振動が伝わる。再来年から自治会長をすることにした。動いてみようと思う。26軒ほどの小さな村。再来年に向けて地ならしをしながら、もっと若者の姿が日常的に見られるようにして、元気な村としてよみがえらせたい。徐々に手札が集まってきた。ぼくの最後の大仕事だ。
2026年06月25日
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このごろよく本を読む。小説だったりノンフィクションだったり絵本だったり。『52ヘルツのクジラたち』『帰ってきたジロー』『イン・ザ・メガチャーチ』『きみ去りしのち』『答えは風のなか』『もやしもん1』などを最近読んだ。今は『炎と水』という中村哲さんを描いたノンフィクションを読んでいるところだ。以前は資料として本を読むことが多かった。今は、読みたいとぴぴっときたのを読むようにしている。ぼくが重宝しているのが、週に一度、非常勤講師として行っている高校の図書室。定時制だから、入るのは閉まる間際。賞をとった話題の本が入ってすぐ右の棚にずらっと並べてある。これがありがたい。30代くらいだろうか、明るくて感じのいい女性の司書が、少しでも生徒が図書室を利用してくれるようにと、あれこれ工夫をしている。ぼくは応援しているが、なかなか努力の成果は見られず、ぼくが行く金曜日の夕方は、ほぼ閑古鳥が鳴いている状態だ。本屋大賞の『イン・ザ・メガチャーチ』は、そこで目に止まって借りることにした。時間はかかるけれども、リクエストすると購入してくれるのも助かる。『炎と水』は2860円する。今、本も高くなってきているが、2000円を超えると手が出しづらくなる。図書室でリクエストしたら、「注文しておきます」とあっさりとOKしてくれた。おかげさまで、本当にいい本に出あうことができた。ワクワクどきどきしながら読んでいるところだ。もうひとつ図書室や図書館で借りる良さがある。2週間という期限があることだ。自分で買うと、暇なときに読もうと本棚にしまったままになることがよくある。2週間はちょうどいい長さかもしれない。時間を見つけて少しずつ読んでいく。『イン・ザ・メガチャーチ』は話題の作品だが、ぼくにはなじみのない題材で、一気に読み進めることはできなかった。本屋大賞をとるような作品は、あるところから物語に飲み込まれてしまって、やめられない止まらない状態になってしまうものだ。ところが、この本に関しては、わからない言葉も多いし、ところどころでピピッと心が反応するのだが、長続きしない。若い人たちには「そうそう」と共鳴できるものがあるのだろう。それでも、ちょうど2週間で読了した。そのあと借りたのが『炎と水』で、これは大当たりだったし、次は何を借りようかと、読み終えるのが楽しみで仕方ない。図書室さまさまの、読書への目覚めだ。
2026年06月23日
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稲も順調に育っているようで、村の北にある田園地帯は鮮やかな緑が広がっている。この時期、ぼくが子どものころはホタルが乱舞していた。それが当たり前の光景で。子どもたちはビンや袋に捕まえたホタルを入れて家に持ち帰る。そして、当時はどこも蚊帳を吊っていたので、その中へ入れて、ホタルが発する薄青い光に包まれて眠るのだ。翌朝はホタルの死骸がまわりに散らばっていて、子どもなりに命のはかなさを感じたりしていた。「坂の下で車を止めてハザードをたいていると、ヤブからホタルが飛んでくるんですよ」一昨年、50代の村人が教えてくれた。「ホタル? 本当に」田んぼに農薬をまくようになり、ホタルは激減した。確か黄色だったような記憶があるが、農薬の噴霧器に長くて太いホースがついていて、一人は噴霧器を担ぎ、もう一人は田んぼをまたぐように伸ばしたホースの端をもって、穴の開いたホースから農薬をまき散らしながら移動していく。そんな姿があちこちで見られた。ぼくたち子どもは、農薬を吸わないように息を止めて、白い煙の中を走り抜けた記憶がある。息は止めていても、農薬の刺激臭が鼻ばかりではなく、口の中、耳の奥にまで残るような不快感があったのを覚えている。そのせいばかりではないと思うが、ホタルは姿を消した。黄色いホースで消毒をするこの時期の風物詩も見なくなったところを見ると、虫という虫を一網打尽にしてしまおうというやり方はしなくなって、もっと環境に配慮した農薬の使い方が主流になっているのかもしれない。ホタルが復活しているというのはうれしい話ではないか。一昨年、田んぼの南にあるヤブ沿いに軽トラを止めてハザードをたいたら、いくつかの青白い光を見ることができた。去年はタイミングが合わずに、いつの間にかホタルの季節が終わってしまった。今年は、どうしても見ようと思って、雨の合間を見計らって、娘たち、近所のご夫婦と一緒に出掛けて行った。7時半ごろ、暗くなるのを見計らって坂を下り、軽トラのハザードをたいて、ホタルの光が灯るのを待った。ヤブの茂みの中に目を向ける。「いた。あそこあそこ」娘が指を指す。ハザードの光に反応したのだろうか、木の葉の陰に青白い光がついたり消えたりしている。うれしくなってくる。「こっちにもいるぞ」少しずつ光が増えてきた。「氣歩の腕に止まってる」びっくりだ。乱舞ではない。おずおずと姿を現す感じで、「こいつら悪いやつらではない」と信号が伝わったか、少しずつ増えてきた。草の茂みや道路で光っているやつもいる。田んぼの方を見ると、穂先で静かに光っている光がいくつかある。放置されたヤブの中で、彼らは静かに命をつないできた。あの無差別攻撃のような農薬散布にも耐えて生き抜いてきた。ひと晩で死んでいくようなはかない命。弱っちいホタルたちが、力強くこの地でがんばってくれている。乱舞するホタルは明るく前向きのエネルギーをくれるが、ぽつりぽつりと光を見せてくれるホタルたちは、ひとつの物語を紡いでいるように思えてきて、また違った意味で元気と勇気を与えてくれる。人が本来もっている「かなしみ」にアクセスしてくれているような気がする。来年は、このホタルを見ながら、気の合う仲間たちといろんなこと語り合ってみたい。田舎には田舎ならではの財産がある。この地域も団地が広がり、バイパスが走り、スーパーができ、狭い道を車が通り抜けていく環境になったけれども、田舎ならではの佇まいはまだまだ残っている。にぎやかになる部分と、昔ながらの落ち着きと、うまくミックスされた場所になればいいな。ぼくの、残された人生の使い道を教えてくれているような、ホタルの光だった。ありがとう!
2026年06月22日
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6月第三日曜日は父の日。ネットで調べると、1950年代には父の日はあったようだ。しかし、当時の父親と言うと、朝早くから夜遅くまで働いて、あまりしゃべらないし、笑わないし、威張っているし、怒ると怖いし、家族とは一線を引いて生きている存在だったのではないか。うちはそうだった。「お父さん、いつもありがとう」と気軽に言える存在ではなかったのだ。その分、子どもたちは父の言動に重みを感じていた。正しいことも間違ったこともあったと思うが、知らない間に影響を受けていた。その影響から距離を置きたいということで、子どもの自立が促された面もあるのだろう。今は父親の存在感は薄っぺらになっていると思うのはぼくだけだろうか。父としてのぼくが薄っぺらだからそう思うのかもしれない。うちの父親は、本当に器用な人で、家の不具合は自分で修理するし、ぼくの散髪も中学校を卒業するまでは父がやってくれた。手動のバリカンで髪の毛を切るだけでなく、かみそりでていねいに顔も首筋も剃ってくれた。今でも覚えているが、父に顔を剃ってもらいながら思ったことがある。「ぼくは大人になれるのだろうか」何もできないのに、このまま大きくなって大丈夫だろうかと不安になったのだ。父の器用さの一割でももらっていたら、ぼくの人生は違うものになったかもしれないと今でも思う。しかし、ぼくが幸せだったのは、父がぼくに器用さを求めなかったことだ。ぼくの特性を見抜いていた。自分は15歳から農業をして、器用さを生かして職人になり、いい仕事をするので、まわりから一目置かれていた。しかし、ぼくに同じことをやれとは一切言わなかった。「これからは勉強が大事や」ぼくがいい成績をとってくると喜んだ。たくさんの大豆を畳の上に置いて、そこから3粒だけ取り出し、「この3粒に入らんとあかん。あとのは烏合の衆と言うんや」ニコニコしながら持論を展開する。ぼくは、中学校のときも高校のときも、4番になったことはあったが、3粒には入れなかった。それでも、国立大学に入り、大手の企業に就職したので、ここまでは父も満足してくれただろう。ぼくが父の影響を受けたとしたら、サラリーマンという生き方ができなかったことだろう。最初の会社が2年、次の会社が3年。これがぼくのサラリーマン生活のすべてだった。父としては計算違いだったかもしれないが、ぼくは自分の腕を生かして家族を支えてきた父の背中を追った気がする。不器用なぼくだったが、ひょんな縁で文章を書く仕事に就くことができた。父にとってのブロック工事が、ぼくにとってはライターだったわけだ。できないことが多いと思っている人でも、一つや二つはどんぐりの背比べで少しだけ頭が出ているものがあるはず。自分では見つけられなくても、人が探り当ててくれることもある。そこに足を踏み入れれば、自分なりに満足のできる生き方になる。ぼくはそうだった。ぼくには3人の娘がいる。31歳、28歳、26歳だが、みんな独身で、勤めてもいない。かと言って、親に全面的に頼っているわけでもない。進むべき道を模索し、3人ともある程度の見通しが出てきた。うらやましいことに、得意なことが見つかり、着実にステップアップしている。自分のやりたいことを自分のペースでやりつつある。妙なことに、3人のやりたいことが、うまくリンクできそうな気配が出てきた。それも、3人ともぼくの父が大好きだった、小さな村に住み、そこを舞台に、彼女たちは人生を作り上げていこうとしているのだ。父のやってきたことがぼくにつながり、さらに娘たちに伝わる。やることはそれぞれ違うのだが、根底にある精神は引き継がれている。面白いなと思う。さぞかし父も喜んでいることだろう。今日の父の日。別に何かをやるわけではない。ぼくは軽い存在の父親だが、ぼくがやろうとしていることは、娘たちに確実に伝わっている。そのことを、こうやってブログに書いて確認できただけで、ぼくにとっては、うれしい父の日である。少なくとも、我が娘たちは、自分の得意を生かしてイキイキと日々を過ごせるようになった。これが父親として一番の幸せなのかもしれないな。
2026年06月21日
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死後の世界を信じている人はどれくらいの割合なのだろうか?AIに聞くと、2025年に35か国を対象に調査が行われたそうだ。それによると、ほとんどの国で「死後の世界はたぶんある、あるいは確実に存在する」と過半数の人が答えているとのことだ。しかし、日本では「死後の世界がある」と答えた人は3割前後だった。国別に見ると、インドネシアが約85パーセント、アメリカ合衆国が約70パーセント、フィリピンが約75パーセント、日本が約30パーセント、スウェーデンが約38パーセント。どんな質問だったのだろうか?AIに聞いてみた。質問 あなたは死後の世界があると思いますか?選択肢 絶対にある たぶんある たぶんない 絶対にない「死後の世界」は定義されておらず、回答者の解釈に任せられている。上のパーセンテージが4つの選択肢のうちのどれを選んだ人なのかはわからないが、キリスト教やイスラム教の人なら、「天国」「地獄」という考え方があって、死後の世界がイメージしやすいのではないか。日本人も、死んだら終わりだと言いながらも、きちんとお墓参りに行ったり、仏壇に手を合わせたり、困ったことがあるとご先祖様に助けを求めたり、行動を見れば、「信じているんじゃないの」と思うことはいっぱいある。この間の競馬で、レースの直前に突然の大雨が降って、ぬかるんだ馬場が得意な馬が勝つというドラマがあった。そのとき、勝利馬に乗った武豊騎手が、「天国のオーナーが雨を降らせてくれた」と本気で思ったとコメントした。武さんが日ごろから死後の世界を信じているかどうかは知らないが、信じてないと答える人であっても、亡くなった人が何らかの形で我々とつながりをもっている、助けてくれている、という感覚があるのではないだろうか。お正月にはあんなにもたくさんの人が初詣に行くわけだ。初日の出に手を合わせたり、困ったときの神頼みだったり、死後の世界ばかりではなく、ぼくたちが五感で感じ取れない高次元の世界があることを、深い部分で知っているのではないか。だから、違う形の質問をすれば、もっと高い数字になったのかもしれない。ぼくは死後の世界はあると信じている。たくさんのご先祖様の影響を受けて生きている自分を感じることも多くなってきた。いろいろな人との出会いの中には、ご先祖様が演出してくれているのではないかと思うことが少なくない。死後の世界、本当にあるかどうかは死なないとわからないが、わからないなりに、亡くなった人とのつながりを意識しながら生きていると、いいこと悪いこと、身のまわりで次々と起こる出来事を、上手に受け入れて、消化することができる。要は考え方で、ぼくはあると考えた方が、ワクワクする。生きている間だって、一瞬先のことはわからないわけで、それが生きる楽しみでもある。死んだらどうなるのか、知らない世界なので不安もあるが、もっとエキサイティングなドラマが待っている気がする。
2026年06月20日
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月に一度か二度、仕事で東京へ行く。だいたいいつも、5~6時間かけての小旅行だ。日帰りする場合もあるけれども、だいたい、夜、一杯飲んでからだから、そのまま帰るのはちょっときつい。しかし、一泊するとなると、今はホテルが高くて、安ホテルを探すのが大変。経済をとるか体調をとるか。どっちも大事だが、疲れはあとにも響く。結果的に、経済にもマイナスになる。ということで一泊を優先することが多い。ただホテルは安ければいいというものではない。ラブホテルを改装したところとか、カプセルホテルはくつろげなくて、できれば避けたい。ネットでいろいろ検索して、1万円以下で決めることにしている。できれば名前をよく聞くホテルがいいかなというところ。東横インとかアパホテルを探す。とにかく、安価でゆったりできるたびがしたい。その一番が、プラットこだま。グリーン車に乗る。のぞみの普通車の変わらない値段だから、時間はかかっても、急ぐ旅ではないので、これがいい。空いている。座席も広い。ビールがサービスでつく。ビールを飲んで寝る。起きてから本を読む。名古屋から東京で2時間半だから、ちょうどいい塩梅なのだ。これが今、東京へ行く一番の楽しみ。こだまの中で、ステキな小説を何冊も読んだ。備え付けのウェッジという雑誌も、なかなかレベルが高い。ご自由にお持ちくださいとのことだから、いつももらってくる。ということで、あんまり移動は好きではないけれども、しなければならない移動なら、快適に動きたい。あとはホテル。何かいい方法があるはずだ。そのうち、ぴっとひらめくさ。
2026年06月19日
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家族で食事に行くと、「この間いったお店の〇〇より、こっちの〇〇の方がおいしいね」妻や娘たちがうれしそうに語り合っている。同じメニューのものを食べて味を比較しているのだ。「お父さんはどう?」「いや、どっちもおいしいな」口をもぐもぐさせて味わっている様子を見せる。「たぶん、お父さんはわからないよ」妻がバカにするが、妻は正しい。わからないのだ。こういう会話がよくあって、ぼくは自分の味覚は音痴だと思い込んでいた。最近、どうも違うのではと思うようになった。ぼくの場合、食べた瞬間のおいしいまずいはわかる。しかし、それが記憶に残らない。この間食べた〇〇と言われても、すでに前に食べたものの味は、上書きされて消えてしまっているので、比較のしようがないのだ。妻に「あれをしてね」と頼まれたとする。車に乗ろうとすると、「忘れてた。これもお願い」と追加で頼まれる。その瞬間、上書きされてしまうことがある。最初の頼まれごとがどこかへ消えてしまうのだ。すべてが上書きされるわけではないが、あまり興味のないことは、どんどん消されていく構造になっているらしい。本を読んでも、ぼくはすぐに内容を忘れてしまう。最近では『52キロヘルツのクジラたち』。2年くらい前に読んで「いい小説だ」と思った。しかし、段ボールから出てきて久々に対面した青い表紙の本。読んだことは覚えているが、内容はスポーンと切り離されてしまっていた。だから、もう一度読んだ。読みながらもストーリーを思い出さないのだからすごい。だけど、二度感動できたわけだから、ありがたいと言えばありがたい。大事な話をしてくれた人がいて、「なるほどそうですか。すごいですね」と本気で感心していたのに、次に聞いたときに、まるで初めて聞いた話のように、「あらー。そうですか。知らなかった」と平気で言えてしまうこともある。相手が怪訝そうな顔をするので、「しまった」と焦るのだが後の祭りだ。たびたびそんなことがあるので、「前にも聞いた」ことが相手の反応からわかるようになってきた。でも、本当に覚えてないのだから仕方がない。興味のあることでも、ときどき上書きされることもあるのだろうな。さすが、小学3年生のときに、担任の先生から「忘れ物の天才やな」とあきれられただけのことはある。そんなことが日常の中でありふれているのだが、ぼくにとっては大事な性能なのかなと思ったりもする。たぶん、パソコンやスマホで言うストレージがぼくは少ないのかもしれない。だから、情報が過多になると、脳が不具合を起こしてしまう。情報が消えるというのが、ぼくがぼく自身を守るには必要不可欠な性能でもあるのだ。いわゆる「情報断捨離」を、脳が勝手にやってくれる。「忘れっくてダメですね」ではなくて、そういう仕組みなのだと知って動けばいい。スケジュールはメモ帳でカバーできる。過去の記録は簡単な日記をつけている。あとは、忘れても大したことはない。何十年もそうやって、特に支障なく生きてきたのだから。それが最近の発見。今日も、新幹線で東京から帰ってくるとき、涙をにじませながら読んだ本がある。とてもすてきな小説だった。さすがにどんな話だったかきちんと覚えている。しかし、数日すると忘れてしまうかも。重松清さんの著書だった。ぼくは彼のファンでこれまでも何冊も読んだ。いい内容だったということは覚えていても、ストーリーは忘れてしまっているのがほとんどだ。味と一緒で、そのときに「すてきだ」と思えれば十分だ。評論家になるつもりはないのだから。
2026年06月18日
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日曜日、宝塚記念という競馬のレースを見た。阪神競馬場の2200メートル。春のグランプリと呼ばれる。暮れの有馬記念が一年の総決算なら、宝塚記念は上半期の日本一決定戦とも言える大レースだ。一時期の競馬熱はすっかり冷めたが、それでも大きなレースがあるとテレビのチャンネルを合わせる。競馬には馬券が当たる当たらないという楽しみ方もあるが、それ以上に、数分のレース、あるいは競走馬としての数年の中に、いろいろなドラマが詰まっているのを見るのが、ぼくは面白かった。血統もはまる人ははまる。自分の人生と重ね合わせて、一頭の馬を応援し続ける人もいる。寺山修司の本の影響があると思うが、競馬場というのは、路地裏の古びた小さな居酒屋。そこには、かなしみを心の中にしまって、笑顔で相手をしてくれる女将さんがいて、ちょっと下心をもって、ぼくは通っている。そんなシチュエーションが浮かんでくる。酔った勢いで心に秘めた思いをほのめかすのだが、いつもはぐらかされてしまう。男でさんざん苦労してきた女将だから、男をあしらうのはお手のもの。と言っても、情は深くて、悩み事や愚痴は真剣に聞いてくれる。実は、このお店に通ってくるのは、色恋のあるなしはあっても、女将さんの大ファンばかり。毎日、まじめにつつましく暮らしていて、お金が入ると、このこの店で散財していくのだ。みんながライバルだが、ときには火花を散らしつつ、妙に仲がいい。気分よく酔っぱらうと、大声を出して、「おけら街道」を歩いていく。ところが、あるとき、路地裏のお店が閉まった。そして、繁華街で営業するようになった。新しいお店は大人気。たくさんのお客さんが入って、それも、若いカップルや、おしゃれな人たちもやってくる。メニューも今風のものが増えてきた。路地裏でぐだぐだ言いながら飲んでいた連中にとっては、とても敷居の高いお店になってしまったのだ。女将さんも忙しく立ち働いていて、従業員も増えて、なかなか昔みたいに、「実はさあ・・・」と相談を持ち掛けることもできない。そんな感じで、ぼくは競馬から離れていった。若いころから「アンダーグランド」が好きだった。華やかな場所だと、まぶしくて逃げ出したくなる。だけで、「女将さん、どうしているかな?」と気になって、ときどきのぞいてみるのだ。日曜日の宝塚記念での人生の比喩というべきドラマは、路地裏の居酒屋を思い出させてくれた。本馬場入場が始まったとたんの豪雨。テレビの画面からも、そのすごさは伝わってきた。本馬場入場からレースが終わるまで、馬たちが馬場にいる間だけ猛烈な雨が降ったのだ。良馬場があっという間に重馬場になるような激しさだった。そして、重馬場が得意なメイショウタバルという馬が勝利した。勝った馬は優勝候補の一角だったけれども、レース直前の豪雨は間違いなく大きな味方になった。雨が降らなければ、追い込んできた本命馬に交わされていたかもしれない。本命のクロワデュノールはぬかるんだ地面が得意ではない馬だ。10分ほどの雨が、馬にも、騎手にも、馬券を買った人にも、大きな影響を与えた。路地裏の居酒屋に集まった競馬好きは、このレースから「運命」を感じ取り、それぞれが勝手な解釈をして語り合う。女将さんは、競馬と雨について口角泡を飛ばしている客を見ながら、「私にとってあのときの突然の雨はどういう意味があったのだろう」「雨に泣いた馬の方が私は好きだな」かつて自分の身に降った豪雨を思い出したりする。びしょ濡れになってさまよっていたあのころの自分がよみがえってくる。口には出さないけれども。久々に思い出に残るレースだった。
2026年06月16日
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こういう流れ、どう思われるだろうか?知り合いの姪っ子は元ドッグトレーナーで、今は一杯飲み屋をやっている。面白いお店で2時ごろにオープンして、6時ごろには閉店となる。たまには昼間っからお酒でも飲むのもいいし、我が家のワンコたちの気になる行動を相談できるしと思って訪ねた。散歩中、気に入らないことがあると動かなくなる子。何かの拍子に大喧嘩をする姉妹。常に食べ物を要求する子。聞きたいことはいっぱいある。そろそろ帰ろうかと思っていたときに、一人の老人が入ってきた。「おい、これ食べるか?」釣りが大好きな人で、いいのが釣れるともってきてくれるらしい。今日の釣果は30センチほどのイサキ数匹。「こんなにもたくさん」恐縮するママさんに片手をあげてさっと帰っていく。なかなか粋なおじいちゃんだ。「こんなにも食べられないからもっていく?」「いいんですか? でも、うちだれもさばけないから」躊躇したが、ひょっとしたらあそこでやってくれるかもというお店はある。我が家の近くにある総菜屋だ。前に友だちがさばいてもらったと聞いたことがあった。惣菜のほか、お弁当、お菓子、野菜が並べられているお店だ。息子が調理を担当して、お母さんと嫁がお客さんの対応をしている。上手にさばいてくれた。2匹もらったので、1匹は生の刺身、もう1匹は少しあぶってあって、白子はてんぷらにしてくれた。本当においしくいただいた。翌日、安くおいしくさばいてもらったお礼に買い物に行った。そこで、ヤギのことをお話した。「ヤギですか? 見たいな。4歳くらいの子ども、喜ぶかしら」かわいらしいお嫁さんがとても興味をもってくれた。「無茶苦茶喜びますよ。ぜひ連れてきてください」そんなことを言いながらも住所を教えることもなく、レジをすませたのが昨日の話。さて、今日。なんと、お店を切り盛りする3人が、お子さん連れでヤギを見にきてくれたのだ。お店は休みなのだと言う。形が悪くて販売できないニンジンをたくさんもってきてくれた。3人の子どもたちはしゃぎぶりはそばにいるだけでうれしくなる。ヤギたちもニンジンは珍しく、次々とねだる。「そうだ」ぼくは7月1日の「西本真司先生のお話会」のチラシを渡すことにした。健康の話だからおばあちゃんがいいだろうと、一枚だけ見せた。しばらくチラシをじっと見ていたおばあちゃんの言葉にぼくは仰天した。「この人、潰瘍性大腸炎なんです」隣でお嫁さんがうなづいている。「えっ、あなたが・・・」今は調子いいのだが、つらい思いもしましたとお嫁さんが言う。これってどういうこと?西本先生は、若いときに潰瘍性大腸炎で苦しみ、さまざまな方法で完全に治癒させた経験をもっている。そして、今はたくさんの潰瘍性大腸炎やクローン病で苦しみ人たちを診療し、200人を超える患者さんを薬を飲まなくても生活できるところまで回復させているのだ。もちろん、先生と同じように治癒した方もいる。潰瘍性大腸炎の治癒成績は日本一の名医だ。「ぜったい話を聞いた方がいいよ」ぼくはすすめた。彼女にとって大きなプラスになる話が聞けるはずだ。「行きます」と彼女は明言しなかった。ぼくはこれまでたくさんのイベントを開催してきたが、ときどき、「この人のために企画したんだ」と思うことがある。今回もそれだ!7月1日、彼女はきてくれるだろうか。
2026年06月14日
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努力なしで成果を出しても、なかなか自信につながらない。ぼくは高校生のときに思い知らされた。高校一年生の2月だったと記憶している。ラグビー部に入部させられた。「させられた」というのは、やりたくてやったことではないという意味だ。だいたい、生まれつき運動神経がなくて、小中学校の体育の成績は2とか3だった。中3のとき、牧野先生という変わり者の理科の先生が転任してきた。ずんぐりむっくり。やさしいんだか怖いんだかわからない四角い顔をしていた。彼は、ラグビーが大好きだったのだと思う。行く先々の中学校でラグビー部を作って、生徒たちを指導していた。だけどその当時、ラグビーを指導する先生がいなかったので、牧野先生が移動すると、ラグビー部も解散するという繰り返しだった。常に、三重県には一校だけラグビー部があったのだ。ぼくはラグビーというスポーツのことはまるで知らなかったが、三重県に一校だけというのにひかれて、4月から3年生が部活を引退する8月ごろまで入部した。ただボールをもって走るだけ。試合相手もいないし、面白かったのかどうかも覚えていない。それが運の尽きというか、高校に入ると、しつこくラグビー部に勧誘された。断り続けていた。だけど、生来の人の好さが出てしまう。毎日毎日、ぼくのところへ顔を出す先輩。最初はうっとおしくて逃げていたが、だんだん気の毒になってくる。仕方なく入部することになってしまった。少ない部員。何もわからないのに試合に出される。タックルするのは怖いし、タックルされれば痛いし。グランドを走り回るだけでも疲れる。もちろん、試合はぼろ負け。ラグビーをするモチベーションなどゼロなのに、また次の週に試合があったりする。ずるずると楕円のボールに振り回されながら2月になった。タックルの練習。2人一組になって、1人がボールをもって走り、もう1人がタックルをする。嫌な練習だ。タックルはしてもされてもヒザをすりむく。帰宅してから風呂へ右足を突っ込むや傷がしみ。左を入れるとこっちも痛い。「もうやめたい」とため息をつく。ぼくがボールをもって走った。「これで練習も終わりだ」とりあえずけがをしないようにしよう。ぼくの相手は、体もでかくてタックルもうまい上級生。嫌だ、嫌だと思ながらボールを抱えて走り始めた。そしたら、先輩は「親の仇」とばかりに、ぼくの足を目掛けて飛び込んできた。先輩の方がぼくの太ももに突き刺さる。長い両手が両足を締め付ける。ぼくは紙切れのように後方にぶっ倒れた。その拍子に、後頭部を強打したようで、ぼくは意識を失った。あとから話を聞くと、口から泡をふいていたらしい。脳震盪だった。ぼくが気づいたのは、担架に乗せられ救急車に運ばれる途中だった。事情を聞こうとしたが、言葉が出ない。そのまま病院へ行き、3日ほど入院した。実は、このあとが面白い。成績が急上昇したのだ。2年生になって実力試験というのがあった。それまでのぼくの成績は、学年で50番とか60番。特にがんばって勉強をしたわけでもないのに、実力試験の結果はびっくり。なんと4番だったのだ。なぜ急上昇したのか。頭を打ったからとしか考えられない。2年生のときの成績は常に一桁台だった。だけど、努力した結果ではないので、自信にならない。「そのうち化けの皮がはげるさ」白けている自分がいた。3年生になって、魔法の威力は薄まって、30番前後に落ち着いたが、自分としては居心地のいいポジションだった。そんなわけで、今でもぼくは自信はない。ただ、運はいい。思わぬ出会いによって、道が拓けていくという人生が続いている。ラグビーは、大学でも社会人でもやるはめになり(これも高校のときと同じ経緯だった)、30代になってからは草ラグビーチームを作り、骨折を機にプレーからは離れたけれども、末の娘がラグビー部のマネージャーになったことから、60歳で娘の学校のお父さんラグビーのチームに入って、2~3試合に出て、ラグビープレーヤーを卒業した。運動音痴のぼくが、よくやったと思う。ラグビーをやったことは、ずっとへたくそだったけれども自信につながった。へたくそだったからこそ、まわりについていくため努力したのかも。
2026年06月13日
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ぼくの20歳くらいの人生設計。大学は国立大学に入ったわけだから上出来。劣等生でいじけた日々を送っていたが、大学を出たら、名の通った大企業に入ろうと目標を立てた。どんな仕事がしたいかなんて考えてもいない。強いて言えば、世界中を股にかけた仕事をしたかった。なぜなら、かっこいいから。英会話の学校へも通ったことがある。だけど、続かなかった。就活は必死にしたわけではなかったが、クラスで一番に決まったんじゃなかったかな。教授とは距離を置いていたので、自分で動いて就職を決めた。名前を言えばだれでも知っているような大企業だった。そこで世界を回って、出世して、給料をたくさんもらって、いい生活をしよう。そのつもりだった。しかし、そうは問屋が卸さない。海外勤務の可能性はほぼない部署に配属された。1年もすると、自分はサラリーマンに合ってないのではと思うようになった。「もう辞めたい」と両親にこぼすと、「石の上にも三年やぞ」と諭された。ぼくは反論した。「固い石の上に座って足が痛くて逃げ出したくても、三年もいればあきらめるんや。おれはあきらめたくない」何をあきらめたくないのかわからなかったが、とにかく、このまま30歳になり40歳になっていくというシナリオは、本能が拒否した。今振り返ると、サラリーマンが嫌というのはきれいごとで、結局、仕事ができなかった。ミスというか、やることがいい加減なのだ。きちんと答えを出さずに、「これでいいや」とごまかしてしまう。手抜き仕事。結局、上司や先輩に迷惑をかけることになる。自己嫌悪にもなる。「もいういいや」と投げやりになる。大企業は2年で辞めて、アルバイト生活を1年やって、次に小さな会社に3年いた。小さな会社でも、やっぱりやることがいい加減で、「もう辞めだ」と飛び出してしまった。もし再々就職をしても、同じことだったと思う。ぼくがラッキーだったのは、そのあと、フリーランスになれたことだった。自由業。組織に属さない。個人事業主。それも文章を書くというあこがれの仕事につけたのだ。ぼくががんばったわけではない。ある人との出会いから、東京へ出ることになった。東京の生活も、ぼくにとってはあこがれだった。ぼくを東京へ導いてくれた人は、文章など書いたことのないぼくに、定期的に仕事をくれた。それでぎりぎり安定した生活ができた。最初のころに書いた文章など支離滅裂で、何度も何度も書き直した。すぐにクビになっても仕方ないレベルだったのに、編集担当の先輩は根気よく、ぼくにアドバイスしてくれた。フリーの良さは、頼まれた仕事をそれなりにこなすことで、仕事量に合ったギャランティがもらえること。人と深くかかわるのが好きではない性格なので、よほど気の合う人ならいいが、夜遅くまでお酒を飲むとか、麻雀をするとか(ぼくはできない)、会議で長時間意見を交わすとか、そんな場からすぐに逃げ出したくなる。「これ、いついつまでにやってくれる」「はいわかりました」それくらいの会話で仕事をもらって、及第点の原稿を書いて渡す。「ちょっとこの部分直してよ」「はいわかりました」手直しして「はい、オッケー」となる。翌々月くらいに原稿料が振り込まれる。そんな仕事のやり方が、ぼくには快適だった。「いつか、自分の名前で本が出したい」そんなことも思ったこともある。しかし、実現するなんて考えるのもおこがましい。漠然としたあこがれであって、夢のひとかけらにもなっていない。「そんな生き方で人生うまくいくはずがないよ」だれもがそう言うと思う。うまくいった人生かどうかは答えを出せないが、ぼく自身は、これまでの70年、けっこう面白かったと満足している。でも、大した努力もせずに、ジグソーパズルのピースが、パチパチとはまっていくのは、なかなか自信につながらない。自信がなくて、いつもびくびくおどおどしているのに、いつも結果オーライになるという、おめでたい運をもっている。ありがたい話だ。自信はもてなくていいから、感謝は忘れないようにしないと。
2026年06月12日
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振り返ってみて、ドカーンと人生観が変わるほど感動したことはあっただろうか?あまり思い浮かばないけれども、大学に合格したとき、これはうれしかったな。うれしいと感動は違うのだろうか。よくわからないが、あのときのことはよく覚えている。4校を受験して、1校目は不合格、2校目もダメ、3校目も番号がなかった。最後のひとつは第一志望の大学だったが、ぼくの成績からすると「無理だろう」と思われていたし、自分でも思っていた。ところが、意外にも試験がすらすらとできて、内心では「いけるかも」と期待できる出来だった。ただ、滑り止めのつもりで受けた大学も落ちていたわけで、「今度は大丈夫」とはなかなか口にできない。まわりには「ああ、浪人だ」と自信のないことを言っていた。発表の日、母親と大学まで行った。母はバッグに入学金を用意していた。入学金と言っても大学のではない。結果発表が終わったら予備校の手続きに行こうという算段だったのだ。正門に合格者の番号が張り出されていた。あるか、ないか。ドキドキしながら探したら、なんとぼくの番号があるではないか。うれしかったな。当時、その大学は、第二志望で受ける人が多かった。だから、ぼくみたいに大はしゃぎする受験生はいなかったようで、掲示板の前にいた係の人も「良かったですね」と一緒に笑顔で喜んでくれた。ところが合格すれば幸せかというとそんなことはない。受験生にとっては合格がゴールだから、受かれば天国、落ちれば地獄だけど、天国気分も長くは続かない。ワクワクして入った大学、夢にまで見たキャンパスライフだったが、ぼくには不向きだったことに、それほど時間はかからなかった。教養科目はそこそこだったけれども、専門科目の授業となると、さっぱりわからない。統計学やらコンピュータ、ぼくには何をやっているのか皆目理解ができないのだ。工業大学なんてぼくの入るところではなかった。理系人間ではなかったことが判明したのだ。後悔しても後の祭り。そのころは、学校の成績でしか自分の価値が測れないような狭い視野しかもっていなかった。高校まで成績は上位だった自分が劣等生でいることはつらいものだ。どんな気持ちで通っていたのか覚えていない。よく不登校にならなかったものだと思う。合格したときのうれしさが貯金になっていたのだろうか。喜びのエネルギーがどんどん減っていった。だけど、どんなことでもそうだけれども、あとになって考えれば、無駄なことは何もない。実際、劣等生体験はぼくの今の生き方、考え方に大きな影響を与えているわけで、人を多面的に見られるようになったのも、ダメな自分を支えるためには、小さな長所を見つけて、自分を慰めるしかなかったことが原点にある。学力一番と考えていた薄っぺらな人間が、少しは物事を幅広く見ることができるようになった。高校生の自分を振り返ると、いい大学を出て大きな会社に就職して、出世してたくさんの給料をもらうことが成功であり幸せだと、本気で思っていたもの。大学でさっそくのドロップアウト。会社へ入っても長続きしない。迷路をさんざん歩き回った。だからこそ、迷路から抜けたとき、視界がぱーっと広がった。それが28歳のときに東京へ出たときかな。30代以降、平坦な道ではなかったけれども、山あり谷ありのエキサイティングに生きる環境が押し寄せてきたのだ。ぼくの好みの生き方だった。すてきな人ともたくさん会うことができた。自分の適性を見て道を決めるとか、自分らしく生きるというけれども、不適な道で転んだり、自分らしさなんてまるでわからない暗闇で右往左往するのも、ひょっとしたら必要なことかもしれない。そういう意味では、いい大学に入ったと言えるのかな。
2026年06月11日
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バイオリズムというのかどうかはわからないが、人によって、人生の流れというのがあるのだろう。20代がピークという人もいれば、70歳を過ぎて花が咲く人生もある。いい悪いはないと思うが、たまには振り返ってみるのも面白い。ぼくの場合、28歳から面白くなった。東京へ出てからだ。それまでは、土の中に眠る幼虫のようなもので、自分の進むべき道を少しずつ定めていたのかなと思う。まともに文章を書いた経験もないのにフリーライターになった。サラリーマンはぼくには向いてなかった。フリーになって、すーっと肩の荷が下りた。土の中から外へ出ることができた開放感があった。30歳のとき1ヶ月ほどヨーロッパをぶらぶらし、海外へ行ったからといって生き方、考え方が変わるわけではないと、白けた気持ちで帰ってきた。しかし、32歳のときに行った中国で人生が大きく変わった。師と呼べる2人の先生に上海で出会った。そこから、この世の中は、目に見えたり機械で測定できたり科学で説明がつくものだけではないことを知るようになる。30代は、中川雅仁先生という師と世界を回り、帯津良一先生という師の指導を受けながら、代替療法(西洋医学以外の治療法)によるがん治療を取材した。イルカとも出会った。イルカの縁で30代半ばで結婚。40代で3人の娘を授かり、収入もたくさんあって、この世を春を謳歌していた。ところが、好事魔多しというやつ。中川先生の急死で、収入が激減、目先のことばかり考えるという時期がしばらく続いた。しかし、中川先生、帯津先生に教えられたことは大きな財産で、彼らの斬新な考え方をベースにした文章が評価されるようになり、仕事の幅も広がって、徐々に生活も上向きになった。50代にはイルカと泳ぐツアーを組んだりして、家族で動くという流れが出てきた。それが今につながっている。60代は激動だった。父が亡くなり、妹、弟までぼくより先に逝ってしまい、母も旅立った。これまでの中で最大の試練だった。コロナ騒ぎがあって山梨へ引っ越し、ヤギを飼い、4年後には鈴鹿に帰った。妹や弟が元気だったら故郷に帰ることもなかっただろうと思うと、あのつらさや悲しみにも意味があったと、今だからこそ思えてくる。いろいろあったが、無事に70歳を迎えることができた。今は5人の家族とヤギ6頭、犬7頭、ネコ3匹、ニワトリ3羽がいて、にぎやかに暮らしている。さてこれから何年生きるのかはわからないが、身の丈にあったチャレンジをしていきたい。自分が本来もっている力の60~70パーセントは使うこと。それだけのことを80歳までやれば、もともと自己評価が低い方だから、面白いことができるはずだ。このブログのタイトルを「人生の楽しみは後半にあり」としたけれども、振り返ってみると、楽しいことはいっぱいあったが、今が一番楽しいし、これからもっと楽しくなるかもしれないと、ワクワクしている。貝原益軒先生が言われたように、人生は後半にこそ幸せが詰まっていると思って、60代70代80代を生きた方がいいな。人生の後半、晩年は楽しかったなと思えたら、自分の一生を肯定できるもの。
2026年06月09日
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昨日は朝から曇り空。9時ごろから雨になるとの天気予報。自治会の草刈り中に振り出しそうな気配だ。 10時ごろには本降り。予定を切り上げて終了となった。ゴミ集め隊の女性陣も含めて20人ほど。何軒か来ないところもあったけれども、たかだか26軒の自治会。それぞれ事情もある中で、天気も悪い中、これだけ集まったこと、だいたい予定通りに草が刈れたこと、上出来だと思う。 帰宅したあとは雨の日曜日をゆっくり過ごすことに決めた。 動いてないと悪いことをしているような貧乏性。休むときには休むというメリハリをもたないと、確実に衰えている肉体が悲鳴を上げる。 ちょうど、午後からはラグビーのリーグワンの決勝戦があった。ビールでも飲みながら楽しむことにした。 東京も雨模様らしく、濡れたボールのせいか、ハンドリングエラーは目立ったけれども、目を離せないいい試合だった。 特に目立ったのが、オールブラックス勢だ。 スティーラーズのレタリック、サヴェア、レイナートブラウンのキャリーはすごい。タックルされてからも数メートルは前へ進む。あとオフロードパスの技術。 スピアーズでは、スティーブンソンというフルバック。突破力は脅威だった。彼でもオールブラックスのレギュラーではないわけで、ニュージーランドラグビーの底知れぬ強さを見せつけられる彼のプレーだった。 両チームともディフェンスが良かった。スティール(ジャッカル)でピンチを防ぐシーンが何度もあった。ゴール前の白熱した攻防。守る側の集中力の方が勝っていたように見えた。 日本のラグビー界は、ニュージーランドばかりではなく、南アフリカからもオーストラリアからも、世界トップレベルの選手がたくさん来ていて、見ごたえがある試合が繰り広げられている。 敵であれ味方であれ、超一流の選手と試合をするといいうのは、日本人選手も気持ちは昂るだろうし、強烈な刺激になっているはず。 アタックにしろディフェンスにしろ、日本人同士では体験できない強度、激しさを跳ね返せる力がついてきたのではないか。 この高いレベルの中でレギュラーポジションをとるという環境こそ、世界レベルの選手を育てる根っ子になると思う。 上ノ坊や植田、木田、根塚など、将来有望な選手が両チームにはいる。 昨日のようなエキサイティングな試合を体験すれば、どんどん成長だろうし、レベルの高い試合が増えれば増えるほど、ラグビーファンも増えるはずだ。 カタカナの名前が多いのもいいではないか。オールブラックスやスプリングボクスの選手がそろう中でレギュラーをとれる日本人選手がいれば、応援する側も大いに盛り上がるはずだ。 あるいは、日本人が中心のチームもあって、世界的なスター軍団に奮闘すれば、それも物語になるではないか。スーパーラグビーでサンウルブズが勝ったときを思い出す。 かつては、カタカナ名前が増える日本代表には違和感があった。だけど、それがラグビーというスポーツの特長であり、ナショナリズムが世界の潮流になっている今だからこそ、あらゆる国の人たちに門戸を開くシステムは大事なのではと思えるようになってきた。 ラグビーが大好きなぼくとしては、お花畑と言われるかもしれないが、世界中の人たちが仲良くなれる手段のひとつとしてラグビーが役に立てば、こんなうれしいことはない。 スポーツが権力者にいいように利用されてきた歴史もある。大衆をコントロールする上で、大きな影響力もつのがスポーツだ。それなら、より良い社会を作るために使うという手もあるはずだ。 オリンピックだって、「平和の祭典」と言われてきたのだから。 建前だけでない祭典を、ラグビーが主導権をとって進めていく。 そんなことも少しだけ頭の隅で考えながら、リーグワンの決勝戦を楽しませてもらった。
2026年06月08日
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今日6月7日は自治会の草刈り。年に2回あるが、雑草は容赦なく伸びるているし、やる側はどんどん高齢化していて、作業の効率も年々低下している。参加するのは15人程度(男性)。若くて40代。1人か2人いるかな。50代が7人。60代は3人。70代4人。村のはずれにある駐車場に集まり、春に花見をした広場から始める。そこが終われば、西に向かって坂の両脇の草、坂を下りると田んぼが広がる。上をバイパスが通り、下はバイパスに沿ってまっすぐ北に向かって伸びる道路。この道路の田んぼ側は草が繁っている。さらに、左右にくねった昔からの道の両側も草が迫っている。15人で作業をして、半日で終わるかどうか。60代、70代でも日ごろから農作業をしている人たちだから、テキパキと作業を進めていく。軟弱なぼくにはかなりきつい午前中となる。正直、前の日から気が重い。昼に戻ったら、ビールを飲んで昼寝するのを楽しみにがんばるしかない。草刈りに参加する次の世代は、ほとんどが村外へ出てしまっている。ぼくも50年間そうだったが、村の草がどうなっているか、頭の片隅にもないと思う。田舎はどこも同じだ。ほかの自治会はどう対処しているのだろうか。行政に知恵はあるのだろうか。今は元気な60代、70代も、数年後には体力が落ちて、「そろそろ草刈りも引退か」かとなってくるはず。ぼんやりと年を取っていくのではなく、ぶつぶつと嘆いているばかりではなく、現実をしっかりと見つめて、これからのこと、どうすればいいのか、考えないといけない。ぼくは、再来年から自治会長をやることになっている。長く村を離れていたので、それくらいのことはやらないといけないだろうと、去年の総会で手を挙げた。高齢化の問題は、大事なテーマとして背負うことになりそうだ。あそこはちょっと違うぞ、手助けしてあげようと、まわりの人たちが魅力を感じてくれる村にしないといけない。今のうちから、少しずつ準備をしていかないと。
2026年06月07日
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週刊文春の高市首相についての記事が波紋を呼んでいる。秘書が総裁選挙で対立候補を中傷する動画を流したかどうかでもめているのだ。Zoomの会議の音声を手に入れて公開した文春。首相の答弁は、のらりくらりと交わして、あいまいなグレー色合いで絵を仕上げようとしている。やったかどうか、音声が自分のものかどうか、本人は知っているわけで、正直に話せば終わることで、白か黒かすぐにはっきりさせることができるはず。本当は難しい話ではないのだが。大人の事情なんだろうな。子どものころは、「うそをついてはいけない」「間違ったらきちんと謝る」と教えれていたのに、大人になると、平気でうそをつく。つきとおそうとする。日本のトップに君臨する人なら、潔く白か黒かはっきりさせてほしいものだ。「大人の階段のぼる」という歌があるが、大人になることは成長することだという大きな勘違いがある。大人になると、本当に大切なものが見えなくなって、どんどん浅知恵、ずる賢さが身について、堕落していくのが人間の進化の仕組みなのか。そうやって年を取ってきた自分が嫌になったとき、人は、ひとつの方法として認知症になるという道を選んだりするのではないか。過去を忘れるための逃げ場所として。大人が子どもを見習う。子どもから学ぶ。そうならないと、世の中は劣化するばかりではないか。この間、うちの村で、道路に古釘をまき散らした人は、どんな気持ちでやったのだろうか?これから世の中はどうなっていくのか。
2026年06月06日
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ぼくはおかげさまで健康に過ごしている。数年前、母親を病院に連れて行ったときに、暇つぶしに待合室にあった血圧計に腕を突っ込んでみた。そしたら、180/100くらいの数字が出た。「そんなバカな」東京の東久留米市に引っ越したときだから、その10年ほど前に、市の検診を受けたことがある。何の問題もなかった。血圧も正常だった。もう一度測定した。同じような数字だった。ずっと健康でいた人は、問題が見つかるとびびってしまうもの。ぼくはそうだった。今にも血管が破裂するのではないかと恐怖と不安が膨らんだ。あれから5~6年たつ。今はやや高めというところで落ち着いている。血圧が高いとすぐに降圧剤ということになる。しかし、血圧が高くなるというのは、体の機能に問題がある場合もあるのだろうが、たいていの場合、必要があって高くなっているのだと、ぼくは思っている。ぼくの場合、血圧が高くなるころ、父が亡くなり、その翌年には妹、弟が相次いで旅立った。父は高齢だったから覚悟していたが、妹、弟の死はショックだった。腰が抜けるというのを初めて体験した。500円玉大のハゲができた。ぼくにとっては体験したことのないストレス。たぶん、心身の危機的状態にあったはずだ。それに耐えるには、全身にこれまで以上の血液を流す必要があった。だから、血圧が高くなった。もしあのとき、高い血圧にびびってしまって降圧剤で血圧を下げていたら。ぼくは、あのストレスに耐えられず、体調を崩していたのではないか。ぼくの勝手な解釈だが、あまり安易に薬に頼るのは良くないと、若いころから思っていた。人間にはもっとも適切な状態に体や心を保とうとする力が備わっている。近年は自然治癒力と呼ばれている。自然治癒力を十分に発揮させるにはどうしたらいいのか。7月1日、小さな村の小さなお寺でのお話会。詳細はこちら。統合医療、ホリスティック医学を実践する医師・西本真司先生には、薬ばかりに頼らず健康に生きる方法など話していただこうと思う。
2026年06月05日
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今日も、気だるい体を引きずっての終盤戦だ。昨夜はよく寝たのに、寝たりない感じがする。朝から頭がぼんやりしていた。ここしばらく、そんな朝から始まり、昼、夜と一日中シャキッとしない日が続いている。事業計画書を作らないといけない。行政書士に頼んであるのだが、「わからないところがあるので」とメールがくる。基本次女がやってくれているのだが、ぼくにしかわからないこともある。テキパキと仕事を進めないと気がすまない次女なので、こっちがぼーっとしているのにかまわず、これはどう? あれは? と矢継ぎ早に質問してくる。言葉が耳の入り口で躊躇していて脳に届かない。気のない返事をして叱られる。「適当にやっておいて」本当はそう言いたいが、立場上、一所懸命な振りはしないといけない。次女のやる気をそいでしまっては大変だ。老いぼれたかな。そう思うこともあるが、ちょっと待てよ。若いころからそうだったじゃないかと思い直す。子どものころからそう。面倒なことはやらない。「忘れました」ですまそうとする癖。小学校3年生のとき、山口先生という丸顔の女の教師から、「あなたは忘れ物の天才だね」とありがたくない称号をいただいた。ぼくは、ずっと山口先生の言葉が頭に残っている。「ぼくは忘れ物の天才なんや」その気になってしまって今に至っているような気がする。家族にはあきれられているが、忘れっぽいというのは、こだわりのなさにもつながるから、「大らかな人だ」といい評価になったりする。今のぼーっとした状態。これも、子どものときから。何を考えているかわからない、ぼーっとした子だった。勉強も集中できない。ちょっとやってはよそ事に目が向く。机に向かっているから、親は勉強していると思っていたが、ぼくが好きだったのは、自分で架空の野球チームを作って、手帳にメンバー表を書いたり、ドラフト会議をやってみたりしていた。相撲の番付(架空)も作った。しこ名を考えるのが好きだった。だけど、けっこう予言的なものもあって、プロ野球と社会人野球の間に、鈴鹿〇〇とか名古屋××というセミプロチームを作って、地域ごとにリーグ戦をやるという仕組みを考えたりしていた。今でいう独立リーグだ。プロに入るにはもうひと息という選手が活躍する場を作ってあげたいという思いだった。よく言われた。忘れ物が多かったり、ぼーっとしているのは、異次元とつながっているからだと言われたこともある。そんなたいそうなものではないけれども、現実から離れた何かを考えたいたような気もする。なかなか愛すべき性質ではないか。ぼーっとしつつ、何かをキャッチしている。そう思うことにしよう。
2026年06月04日
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ぼくは26軒しかない小さな集落に住んでいる。生まれ育った故郷だ。そこに小さなお寺がある。大音寺という。400年くらいの歴史があるはず。だけど住職さんもいなくなり、檀家もたったの11軒。高齢者が交代で掃除をしたりして、何とかきれいなお寺を維持している。若い人たちは村から出てしまっていて、70代80代が動けなくなったらもうどうしようもない。廃寺にした方がいいという意見もあるが、放置しておくわけにもいかないし、壊すとなれば資金が足りるはずもない。完全に手詰まり状態だ。ぼくは考えた。このお寺にほかの地域から人が集まるようにすればいい。「この村いいね」「楽しいことをやっているな」そう思える人を作っていくのだ。そして、窮状を知ってもらう。人が集まれば知恵も出る。そこでまずは「お話会」「音楽会」「勉強会」を始めた。去年は4回やった。今年はすでに3回やっている。村の人たちも、「何かやっているぞ」くらいは気にしてくれているように思う。7月1日には、和歌山県でクリニックを開業している西本真司先生が来てくださる。詳細はこちら。「伊勢神宮にお参りに行くので、ついでの寄りますよ」と言ってくれた。伊勢から和歌山に帰るのに、ついでということはないと思う。少しでも力になろうと、ありがたい申し出をしてくださった。村の人たちにも、この先生の話は聞いた方がいいよと伝えているところだ。まあまあの反応なのだが、参加するのは数人かな。でも、これまでのイベントを通して、我が村や寺に興味をもってくださっている方もいて、何人かが「参加します」と手を挙げてくれている。ありがたいことだ。西本先生はもともとは麻酔科医で、痛みの専門家だ。しかし、今はホリスティック医学と言って、人間まるごと(体、心、魂)を診る医学を実践している。西洋医学からスピリチュアルまで、広く深く勉強されている先生だ。そのきっかけは、ご自身が潰瘍性大腸炎という難病を患ったことだ。大学病院に勤務していた若いころの話。西洋医学では大腸の全摘しか方法はなかった。しかし、西本先生は東洋医学、気功、心理療法、食事療法など、さまざまな治療法を駆使して、手術なしで完治させたのだ。試行錯誤の日々だったようだ。苦しみの連続。臨死体験までしている。でも、自分で決めたことを信じ、やり続けた。今、先生はホリスティック医学の中心的な存在だが、その根底には自分の体験がある。体験プラス理論。先生のもとへは、全国から難病で苦しむ人が訪ねてくる。一人ひとりていねいに診察し、たくさんの人が完治、回復といった結果を得ている。西洋医学は肉体レベルの治療に関しては高度に発展した。しかし、それだけでは不十分。病気には心が関係しているということは少しずつ言われるようになってきた。さらには、魂という宗教的なところまで踏み込まないと、病気の本質はわからないというのが西本先生の考え方だ。難病を体験したからこその迫力あるお話。ぜひ、聞いていただきたい。うちのお寺も応援していただきたい。7月1日 14時~16時場所:大音寺(鈴鹿市越知町782)参加費:2000円(学生1000円)詳細はこちら。
2026年06月03日
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ちっちゃな村なのにいろいろなことがあるものだ。ある日、自治会長が犬を連れて散歩していた。夕方だと思う。自治会長の家は、村一番の広い道沿いにある。その道を南に少し歩き、左に曲がると、長さ50メートルほどの狭い路地に入る。路地の左は住宅、右が畑。車は通れない。この路地はいわくつき。ちょっとしたトラブルがあったばかりだ。自治会長もトラブルについては聞いていたが、あまり首を突っ込みたくなかった。今の時代は怖い。どんなことで逆恨みされるかわからない。正義を振りかざすと、とんでもないしっぺ返しがあったりするから。変な行動する人にはだれもが警戒して当たり前。「なんやこれ!」路地に入った自治会長はびっくりした。道にばらばらと錆びた釘が散らばっているのだ。10本20本ではない。ざっと見て100本はありそうだった。この路地は、手押し車の老人や自転車が通る。自治会長のように犬の散歩のコースにしている人もいる。路地脇に住むおばあちゃんに手伝ってもらって、釘を拾って歩いた。たまたま落としたという状況ではない。だれかが意図をもって、釘をまいたのではと思われた。何か月か前にあったトラブルと関係があるのだろうか。昨日は、おまわりさんに来てもらった。大ごとにはしたくないけれども、きちんと記録には残しておいた方がいい。再度そんなことをされたり、さらにエスカレートすると困る。だれが何のために。*************静かな村が少しずつ騒がしくなっている。山が崩されて住宅が広がり始めたのはかなり前のことだ。見知らぬ人が、散歩やジョギングでこの村を通り抜けていくのは当たり前になってきた。中勢バイパスが開通し、近くにランプができた。狭い道を車がむりくり通り出して、徐々に広くなってきたところもある。道路に隣接する我が家の山は1メートルほど削られてしまっている。新しい団地からランプに行く近道として重宝されているようだが、我が家の側から見ると、いろいろな弊害がある。「木の枝が邪魔だ」道路を通る人が文句を言う。山が道路になりゴミが捨てられ、文句を言いたいのはこっちなのに。秋にはランプのそばに24時間営業のスーパーができる。渋滞もあるだろう。我が村の狭い道が抜け道として案内されることも考えられる。年寄りや病人がよたよたと歩いている道だ。自転車で畑に行く人もいる。村の人たちは便利になることを喜んでいるが、プラスにはマイナスが付きもの。釘騒ぎどころではないようなことが起こらないことを願いたい。
2026年06月02日
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