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『真理はあなたがたを自由にする。』この言葉は、イエス・キリストが語られた有名な言葉です。国会図書館にも書かれていますが、この内容は実にすごいことが書かれています。 ともすると、宗教は人を縛り、不自由にしてしまいます。因果応報と言って、原因があるから結果があるという当たり前な理論を持って、あきらめをうながしたり、多額なお布施を要求したり、難行苦行に向かわせます。その結果、かえって不自由になってしまうことすらあります。 キリスト教も例外ではありません。私たち日本人は、形から入ることが好きな民族だと思います。立派な教会堂とか、荘厳な教会の雰囲気、清楚な振る舞い等、目に見えるものが重要視されがちです。もちろん、それが必要ないと言いたいのではありません。 しかし、形があれば中身が伴うかと言えば、そうではありません。元々キリスト教国であったヨーロッパの教会の多くは、立派な教会堂は立ち並んではいても観光地となってしまって、キリストが語られた真理による自由をもたらせていません。これは残念なことです。 このヨーロッパの教会の備品が安く売り出されていると聞いた日本人が、結婚式チャペルに使うために購入したという話を聞いたことがあります。 しかし、仮に、立派な教会堂がなくても、そこに真理があり、いや、この真理も一言説明を加えませんと、あのオ○ム真理教を思い出してしまう人もたくさんいると思います。真理は何でしょうか? 真理は間違いなく人を自由にするものです。人を殺したり、非社会的な行動を取ったりする宗教とは明らかに違います。 真理は、罪から私たちを自由にします。そして、私たちを苦しめるものから自由にします。病気からも自由にし、環境からも、自分自身からも自由になり、死からも自由になります。まさに完全な自由となるのです。 ある人が考える自由は、自分の心の赴くままに生き、本能のままに生きることだと考えます。しかし、行き着く所は、快楽とお金と罪の奴隷となります。飲む打つ買うというような本能に生きることは決して自由ではありません。本当の自由とは、それがあってもいいけれど、なくても生きて行けるということです。 イエス・キリストは、罪と欲の奴隷となった私たちを解放するために、十字架にかかり、三日目によみがえって下さいました。私の身代わりの死と復活です。これは歴史の中の出来事であり、2000年経った今も変らない真理です。 今日も、私たちの目の前に、この真理が置かれています。なぜ置かれているかと言えば、これは強引に押し付けるものではないからです。私たち人間には、例外なく自由意志が与えられています。 もし自由になることを求めるならば、誰でも、信じるだけでそれを頂く事が出来ます。キリストが必要な代価をすべて支払って下さったので、後は頂くだけです。 イエス・キリストは、クリスマスに与えられた神からのプレゼントです。今、このように毎日暗いニュースばかりな世の中だからこそ、本当にこの真理による自由が必要です。どうぞ、あなたに与えられたプレゼントを頂いて下さい。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年09月29日
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私は、この一回の人生をクリスチャンとして歩ませてもらって、誰かとの比較ではありませんが、「自分は世界一幸せな人」だと思っています。これは心の底から言えることです。 しかしそう言い切ってしまいますと、この幸福感がオートマチックであるかのように感じられてしまうかも知れません。 私が知っているクリスチャンの知り合いの中には、救われて、天国に行ける人であるにも関わらず、不幸に生きている人が数多くいます。 それはどこに違いがあるかと考えましたら、 まず、「自分が愛されるにふさわしくない罪人である」ことを忘れていると思います。 最初はそこからスタートしたのに、途中から、「私の~のゆえに神様が私を愛して下さっている」と考えるようになります。 だから、簡単に自分の好き嫌いで人を非難したり、裁けてしまうのだと思います。そして、人に腹を立てながら幸福に生きている人は誰もいません。 また、自分が神から見てふさわしくないことはわかっていても、自分の全てが知られていて、かつ、完全に愛されていることを知らないでいます。 その人は自信がなく、劣等感にさいなまれています。神様の目に映る自分がどれほどのものであるかを忘れています。残念です。 私は、ふさわしくないにも関わらず、愛されているということは、図々しいくらいに信じています。これを信じて幸せにならない人はいないと思います。 またもう一つは、喜びと悲しみはコインの裏表であることを知らないといけません。私は、悲しいことを悲しいと感じられるからこそ、嬉しいことを嬉しいと感じられるのです。 だから、悲しみもたくさんあるし、苦しいこともたくさんあります。しかし、トータルしてみると、きっと私は、世界で一番幸せな人だと思います。 今日もこの幸せをみんなに分けて生きたいです。主イエスの愛をあなたにささげます。心からあなたを愛しています。 読んで下さってありがとうございます。 God bless you!
2006年09月27日
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落ち込んでいる友達を励ます時に、つい、「くよくよするなんて、あなたらしくない。」と言ってしまうことがあります。 一見、勇気や励ましを与えるメッセージのように感じますが、しかし、この言葉には、まわりの人が思っているイメージを崩さないで、そのあなた像の役割を演じることを薦めていることにもなり兼ねません。 そして、結果として、かえってその人を追い込んでしまうことがあります。 人はみな、社会的な何らかの立場を持って生きています。私ならば、父親であり、夫であり、牧師です。 しかし、こうした数々の役割をうまく果たすために、認められたいという一心で、聞き分けが良く、明るく、優しく、出来る人を必死で演じている人がたくさんいます。これが、現代のストレスの一つの大きな要因になっています。 人は、ストレスを感じると、自分らしさというものもわからなくなってしまうものです。にも関わらず、明るく、優しく、周囲の期待に応えている自分、演じてしまっていることに嫌気が指し、苦しんでいます。 その人に対して、「お前らしくないぞ」「あなたらしくないわ」と言うのは、相手に役割を押し付け、ますます苦しめてしまいます。 友人とは、どんな時にも自分の側に立って、味方になってくれる存在であり、最大の理解者です。しかし、本当の自分を理解してくれないとしたら、単なる、その他大勢の中の一人に過ぎなくなってしまいます。 人がストレスのサインを出す時は、今までの価値観を捨てて、新しい自分自身を探している瞬間であもあります。 人は絶えず変化し、成長する存在です。そんな時、そのことを理解し、そのあるがままをしっかりと受け止めてあげたいものです。そして、その苦しみを共感し、共に担ってあげられたら、最高の友です。そんな人を親友と呼びますし、生涯、離れたくないものだろうと思います。 どうぞ、相手の状態や言動に対して、善悪や黒白を付けるのではなく、そのままの今のままの状態を抱きしめてあげたいものです。 なぜならば、非難中傷や叱責は、嫌って言う程聞かされているでしょうし、自分でも自分を責めつけているものです。一人くらいはそうしない人が必要です。そして、その一人にあなたがなってあげることが出来たら、どんなに大きな力でしょうか? 聖書の黄金律は、『自分がしてほしいことを相手にする』です。私たちが逆の立場になったならば、おそらく自分の側に立って理解してくれることを望むだろうと思います。 あるがままを受け止められる人にならせてもらいたいものです。なぜならば、イエス・キリストは誰よりも先立って、あなたのあるがままを受け入れ、身代わりに十字架で罰を受けて死んで下さったからです。キリストが愛して下さった愛で、愛する皆さんとなりますように。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年09月25日
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「恐怖の味噌汁と今日ふの味噌汁」は、耳で聞きますと同じですが、意味は字で書くと全く違って来ます。 これは、以前深夜ラジオで聞きましたが、ラジオで聞いたから面白かったですし、興味深かったと思います。 しかしこれは、私たちの収集する情報が断片的であり、極一部であるということをも教えるのではないかと思います。 私たちがどんなに深く正確に知りえた知識であったとしても、それは極一部分であって、もしかしたら、「恐怖の味噌汁と今日ふの味噌汁」のように、違った角度から見たら、全く違うことになる可能性もあります。 例えば、人に対する評価。これはすべてを知り得ることが出来ないものの典型です。『あの人には裏がある。』という話を言ったり聞いたりすることがあります、しかし、当然表があれば裏もあるものです。裏があると悪いことのように聞こえますが、実際には、表だけの人など存在しません。 しかし、にも関わらず、裏だけを見て、その人を「悪い・劣った・足りない人」であると評価されることがいかに多いことでしょう。反対に、表だけを見て、その人を「良い・優れた・完全な人」であると評価されることもたくさんあります。 例えば、先日死刑が確定したある新興宗教の教祖さんは、誰が見ても極悪人であり、許されてはいけないと感じると思います。(もちろん、表?だけを見て、崇拝している信者さんもいらっしゃいますが)また反対に、TVのアイドル等は、表だけを見て、「きゃーきゃー」騒がれています。しかし、極悪人にも、きらっと光るような美しい部分をもっているだろうと思いますし、アイドルにも、誰にも見せられない汚い部分を持っているはずです。 人間とは、悪い部分があり、よい部分があって人間です。表もがあるならば必ず裏もあります。しかし、嫌いな人の中には、いい部分を認めなくないものですし、好きな人の中には、嫌な部分を認めたくありません。しかし、両者は共存するものです。 本当のところ、神様だけが人間の全てを知り尽くしています。そして、その上で、その全てを愛して下さっています。何と言う安心でしょう? 神に愛される努力はいらないのです。私たちはみな、神に愛されるために生まれて来たのです。今のままで完全に愛されています。 それは、キリストの十字架に現わされています。私たちをそのままで愛し、受け入れ、赦すために、キリストが身代わりの死を遂げられました。ここに神の愛があります。 今日、あなたは神に愛されていることを知って下さい。そして、その愛を受け入れ、その愛の中で憩って、他者を愛して行けたらいいですね。「恐怖の味噌汁と今日ふの味噌汁」のように、人の中には裏表があります。しかし、神は両方を1セットとして見ておられ、愛しておられます。私たちも、そのようにして互いに愛し合って行きたいものです。 よい一日でありますように。 God bless you!
2006年09月23日
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昨日は、現代の病は絶望であるということをお話ししました。そしてこれは、誰の心の中にも巣食っていますし、私自身の中にもあります。 その原因は、人類の祖先であるアダムとエバが犯した罪にあります。それは、神を捨てて、自らが神になるという姿です。 この罪の種を持った子々孫々は、罪人としてこの世に誕生してきました。それは、りんごの種からみかんや柿が出来ることは絶対にないのと同じです。りんごの種からはりんごの木が生じます、同じように、罪人からは罪人が生まれます。 そして、この罪人の特徴が絶望なのです。全人類はこの恐ろしい病にかかっています。 恐ろしい伝染病にかかった人のすぐ近くに、その病気に良く効く特効薬があったとしても、それが特効薬であると知らず、その特効薬が投与されなければ何の意味もありません。 同じように、この絶望に満ちた人類のすぐそばには、特効薬があるのに、それを知らず、それが投与されないならば何の意味もありません。 絶望の特効薬はただ一つ、希望です。この希望だけが絶望から救うことが出来ます。この希望はイエス様の十字架です。 絶望は、罪の罪責感、悪魔の圧迫、心と体の病気、環境の問題、死をもたらせます。 しかし、希望は、罪を赦し、悪魔を追い出し、心と体に健康を与え、環境を祝福し、永遠の命と天国をもたらせます。 なぜならば、イエス様の十字架が、絶望をすべて背負って死なれたからです。 癌の病は、癌細胞が人間のすべての細胞を殺してから自分も死にます。しかし、そこまで待っていたら遅すぎます。 イエス様の十字架は、死ぬべき私たちの身代わりとなって死んで下さり、三日目によみがえって下さいました。 希望は、イエス様の身代わりの死にあります。 どうぞ、この希望を知ったら、信じて受け入れてみて下さい。これは、聖書が2000年間語り続けているメッセージなのです。これが胡散臭い嘘ならば、とうの昔に消え去っているでしょう。 どうぞ、あなた自身で試してみて下さい。もし聖書を持っていないならば聖書をプレゼント致します。また、聖書の勉強、人生相談、カウンセリングもすることが出来ます。 そして、この希望を持ったならば、絶望に満ちた人たちにこれを伝えて行きましょう。 希望がすぐ近くにあるのに、絶望の中でもだえ苦しみ、死んで行く人がたくさんいます。 現代は、特に、自殺者、自殺未遂者、鬱病、その他の精神障害、引きこもり、家庭内暴力、様々な中毒症、犯罪、そして、表面では明るく繕うことが出来ても、絶望を持って生きている人がたくさんいます。 その絶望に満ちた世の中に希望を持って行きたいですね。この世の中を変えるのは政治ではありません。資本主義や経済でもありません。宗教でもありません。色々なイデオロギーでもありません。絶望の答えは、絶対的な希望しかないのです。 聖書の使徒の働き4章12節には、『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』と書かれています。 希望こそ特効薬です。これは知らされなければ特効薬ではあり得ないのです。目の前に特効薬があるのに、知らずに死んで行く人がいたら何と悲しいことでしょうか? それを知っていて、本人の意思でそれを使わないのならば全く別問題です。ですから、希望のメッセンジャーとなって生きて行くみなさんとなって下さい。 祝福がありますように。 God bless you!
2006年09月22日
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現代世の中にはびこっている病は多岐に渡っていますが、その中で最も恐れられているのは、生活習慣病や成人病、癌やエイズ等だと思います。 しかし、もっと恐ろしい病があります。それは絶望です。そして、ほとんどすべての人が持っている病でもあります。 そして、精密検査をするならば、もっと絶望的です。病名は、絶対絶望です。 この絶望があるので、人々がどんなに生活を明るくしようとしてがんばっても、本質的には変ることが出来ません。また、どんな勉学に励み、学歴を積んでも、また、どんなに多くの財産を溜めたとしても、どんなに多くのキャリアを積んだとしても、この絶望は消すことが出来ません。 医者に求められることは、正しい診断です。これを誤まったならば、掛け違いのボタンの辻褄を合わせるようなものです。 世の中で流行っている、自己啓発や成功哲学は気休めに過ぎないと感じます。それは、正しい診断がなされていないからです。どんなに高い目標を持っても、どんなに強い信念やモチベーションを持ったとしても、無理なものは無理なのです。80歳の老人が、どんなに金メダルを目指してトレーニングに励んでもそれは無理と言わざろう得ません。 では、正しい診断はどこでなされるでしょうか? それは、聖書の中に書かれています。自分を造った神を離れて生きている人間は、絶対絶望的な存在です。それは、木から切り落とされた枝のように必ず枯れてしまいます。それが、私たちの本当の姿です。 そして聖書には、もう一つその解決策が書かれています。それは、イエス・キリストの十字架に、絶対的な希望があるということです。キリストの十字架は、私たちの絶望と死、あらゆる苦しみや病、問題やのろいを全部背負ったのです。そして、死んで、三日目に復活にされました。ですから、ここに希望があります。 ですから、イエス・キリストの十字架が自分のためであったと信じるならば、絶望は過ぎ去り、希望がやって来ます。そして、この希望は、絶対的な希望なのです。永遠に変らない希望です。 あなたも、この希望を受け入れ、希望に満たされてこの世を生きて行きませんか? それは素晴らしい一生です。 神様はあなたを愛しています。あなたは愛されています。キリストの十字架はあなたのためのものです。今日も、希望の一日でありますように、みなさんの祝福を心からお祈り致します。 God bless you!
2006年09月21日
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同じ大きさの卵に生まれるのに、あるニワトリは他のニワトリに比べて大きくなるものがいます。一人の人が、その理由を調べようと、よく観察してみました。そうしてわかったことは、エサの食べ方が、他のニワトリと比べて合理的に食べていました。 そこで、合理的に食べているニワトリのエサを同じように他のニワトリにも与えたところ、そのニワトリも大きくなりました。これは、極めて大切なことを私たちに教えてくれていると思います。よい手本があって、その手本に真似ると、ニワトリの体の大きさをも変えることが出来るのです。 日本が終戦後、アメリカ人のように大きな体になりたいと思い、食べ物の種類を変えました。その結果、少なくても、平均身長も、平均体重も、明らかに大きく多くなりました。これは、アメリカ人のような食事をした結果、同じような体つきになって来たのです。 しかし、アメリカの土台は、何と行ってもプロテスタンのキリスト教信仰です。その宗教の自由を求めて新大陸に渡り、そこに新しい文明文化を創って来た先人たちのいいところを学ぶことが出来たら、ハーバード大学やイエール大学、プリンストン大学を建てた人たちと同じスピリットとノウハウを持つことになります。 今日、アメリカが世界をリードしているのは、そのような先人たちの持っていたキリスト教信仰に基づくスピリットとノウハウであったと思います。しかし私は、手放しでアメリカを肯定しようとは思いません。アメリカに留学した経験もありますが、人種差別をはじめ、多くの偏見や自己中心に満ちています。 アメリカのブッシュ大統領が、民主主義を絶対的な正義として主張し、その大義名分を掲げて戦争を繰り広げたことには、とても悲しい気持になりました。しかし同時に、アメリカがいなかったらどうなるか?を考えたら、背筋がゾーッとします。世界は、イスラムや共産主義者たちによって牛耳られ、無法地帯と化していたかも知れません。 米ブッシュ大統領は、朝5時に起床をしたら、まずは神を礼拝します。聖書を読み、祈り、一日をスタートします。小泉大統領をはじめとして、日本の閣僚や日本全体は、アメリカに右に倣えです。そうであったからこそ、今日の経済的な繁栄があっただろうと思います。しかし、キリスト信仰に関しては、ここが一番肝心な部分であるにも関わらず受け入れませんでした。 キリスト教とは、バター臭い西洋の宗教ではありません。イスラエルのエルサレムからはじまった教えです。そして、今日、イスラエルは12部族中10部族が失われましたが、その子孫たちが日本に渡ってきているということが言われています。 みなさんの中には、聖書をよく読まれたことのない方もたくさんいると思いますが、聖書に出て来る多くの装飾は、そのまま日本の神道に受け継がれています。私は何も、キリスト教=神道、教会=神社などと言おうつもりは全くありません。しかし、聖書に出て来る幕屋と神社はとても似ています。また、モーセが出エジプトの時に門の鴨居に血を塗ったことと、神社の赤い鳥居は似ています。また、契約の箱を4人のレビ人が担いだことと、お祭のお神輿はにています。 私が今日いいたいことは、キリスト教とは、西洋よりも、ずっとずっと私たちこそ身近な宗教だと思います。それは、ヨーロッパ経由で伝わったので、欧米化したことは否めませんが、母のようなキリストの愛は、日本人の心情にマッチしますし、キリストのゴスペル(福音)は、日本の文化を変えてしまうのではなく、日本を生かすものです。 私たちは、先人のいいところを学びますが、聖書に出て来る先輩たちや、アメリカの根底に流れているプロテスタントのキリスト信仰を学びませんでした。それは、宗教アレルギーゆえだと思います。しかし、これは宗教ではないのです。創造の神であり、私たちを愛する神の招きです。罪人である私たち全地類を救うために、今から2006年前のクリスマスの日に、イエス・キリストはこの地上に誕生され、十字架で救いの道を開いて下さいました。ですから、信じるだけで好くわれます。 キリストは今も、『すべて重荷を負って苦労している者は、私のところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』と招いています。私も、宗教は胡散臭いですから嫌いです。宗教は、因果応報を教え、こうしないとバチが当たると脅してお布施や出家を要求します。しかし、キリストはあなたを救います。宗教には魅力がありませんが、キリストには魅力があります。 そのキリストを、私は少しづつこの日記でみなさんに分かち合って行きたいと思っています。断って置きますが、私はキリスト教をみなさんには伝えませんよ。もしかしたら、真面目で敬虔なクリスチャンの人は「えーっ」と思うことがあるかもしれません。だって、道楽で牧師をしている書いちゃ、もはや宗教家ではないでしょ。しかし、私は命をかけています。この一回だけの人生のすべてをかけて、このキリストのゴスペル(福音)を伝えたいと思っています。 もし共鳴したり、共感出来るようなことがあったらコメントやメッセを送って下さい。そして、必ずしも共感してくれなくていいのです。しかし、そういう場合は、スルーして下さい。私はここで論争をしたり、争うつもりは全く有りませんから。ただ愛を分かち合い、ここで、生涯付き合い続けることが出来るような友達を見つけ、友情を深めて行きたいとは思っていますが、敵を作ったり、批判しあったりしたくありません。そうぞ、そんな暖かい交流をお願いします。 みなさんと出会えたことは、決して偶然ではありません。神の摂理であり、運命であると思います。ですから、この縁を、この出会いを大切にして行きたいと思っています。これからもどうぞ、よろしくお願いします。ありがとうございます。God blesuu you!
2006年09月20日
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昨日の9/15(月)は敬老の日でした。みなさんはどんな休日を過ごされましたでしょうか? 敬老とは、国語辞書で調べてみますと、「老人を敬って、いたわること。」と説明されていました。 高齢化社会と言われる今日この頃、目上の人を大切にし、労る心の必要性を感じます。 私は以前、韓国でしばらく生活をしたことがありました。その時感じたことは、みんなが当たり前のように目上の人を立てて、大切にする姿を見て、いいものだなーと感じました。 電車に乗っていて、年を取った方が乗って来ますと、座っている人は席を譲ります。これは、儒教的な文化の名残であるという人もいますし、そこで寝たふりをしたり、知らん振りをするならば、白い目で見られるものだと思います。 しかし、にも関わらず、いいなーと感じます。その時、日本ならどうだろう?と考えました。たぶん、そのような光景はあまり見られないのではないかと思います。 韓国の文化の中では、自然の中に目上の人を大切にする習慣があります。これは、日本ではあまりなじみのないものですが、私たちも、小さなことからでも何かはじめて行けたらと思います。 まずは、この方々によってこの日本が支えられてきたことを思い起こして、感謝の心を持つことからでも大きな意義があると思います。そんな心からはじまって、私たちの社会が住みやすくなるのではないかと思います。 競争社会の中にあって、生産性や実力等が重要視されますと、目に見える行為(doing)で人を評価し、優劣を付けやすいものです。しかし、そういうことを超えて、その人は、神によって創造された大切な人ですから、その存在(being)そのものを感謝できたら、そこには、明らかに暖かい空気が流れると思います。 そして、目上の人を大切にするならば、やがて私たちが目上の人となり、敬老の日を祝ってもらえる年になった時、きっと大切にされることと思います。そして、そればかりか、聖書には、「人を愛する人は自分を愛する人である」と教えます。 そして、そんな生き方が出来たら、間違いなく幸せになるだろうと思います。どうでしょうか? 今年の敬老の日を、ただ単に、カレンダーに赤色で記されている休日で過ぎ去ってしまうのではなく、そんな具体的な第一歩を踏み出して行きませんか? そして、少しでもいいのです。あなたがいるその周りを暖かくし、明るくし、労って行けるならば、それはやがて大きなことにも繋がって行きます。 今年私も、この敬老について真剣に考えたいなーと思っています。共に住みやすい、美しい世界を作って行きたいですね。いや、そんな大きなことを言わなくとも、自分自身の家庭だけでも、幸せな温かい家庭として行きたいですね。 God bless you!
2006年09月19日
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今日は、聖書が教える三位一体についてお話ししたいと思います。 三位一体という言葉は、一般の社会でも使われることもあるので聞いたことがあるのではないかと思いますが、これは聖書の中にある言葉ではありません。 聖書には、神は唯一の存在であると語られていますが、同時に、父なる神と子なる神と聖霊なる神の三つの違った位格を持っているお方であると書かれています。 今日は、少し難しい内容のお話なので、クリスチャンでない人や理解出来ない人はスルーし、パスして下さいね。ごめんなさい。(明日からは難しい話は控えます) 聖書は、その全巻を通して、私たちに、神様が三位一体の存在であることを教えられます。しかし、これは私たちがどう理解しようとしても、私たちの知性ではとうてい理解出来ないものです。だから、そのまま信じるというのが一番よいことです。 しかし、ある人は、三位一体を説明するのに、水と氷と水蒸気を例に用いました。またある人は、一人の男性を例に上げて、家庭では子どもにとっての父であり、妻にとっては夫であり、職場では教師であると言いました。しかし、これは正確に三位一体を表現していません。 神様は、(父・子・御霊の)三つの別の位格を持たれています。しかし、この三つの位格は同質の存在であり、神ご自身です。ですから、父なる神=神であり、子なる神=神であり、聖霊なる神=神です。しかし、父なる神=子なる神ではありません。また、子なる神=聖霊なる神ではありません。また、聖霊なる神=父なる神ではありません。 次に、聖書の中ではどのようにして三位一体として神が働かれているでしょうか? 天地創造は、父なる神がそれを主導されました。創世記1:1『初めに、(父なる)神が天と地を創造した。』 次に、ヨハネ1:1~3には、キリストが神の言葉であるとあり、創世記1:3には、『そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』書かれています。キリストは、神の言葉(ロゴス)として天地創造を行ないました。 そして、父なる神が主導し、子なるキリストが言葉として語られたことを実際に生じさせたのが聖霊なる神です。創世記1:2には、『神の霊が水の上を動いていた。』とあります。 次に、救いの御業において三位一体の神はどのように働かれたでしょうか? ヨハネ3:16には、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と書かれています。 父なる神は、救いを計画し、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送られました。 子なるキリストは、クリスマスにこの地上に受肉(インカーネーション)されました。 聖霊なる神は、乙女マリヤにキリストを受胎させました。 そして、十字架と復活の購い(私たちのの罪の身代わりの死)においては、 父なる神は、全人類の罪を子なるキリストの上に置かれました。 子なるキリストは、罪の杯を飲み、罪そのものとなって十字架で審判されました。そして、死んで墓に葬られ、よみに下りました。 聖霊なる神は、死人の中からキリストを復活させました。そして、完成した救いを、今も信じる人々に適用するために働いておられます。 また、旧約聖書の4000年の間は、 父なる神が前面に出て働き、子なるキリストと聖霊なる神は隠れて働かれました。 そして、新約の福音書の時代には、子なるキリストが前面に出て働き、父なる神と聖霊なる神は隠れて働かれました。 そして、キリストが昇天して、使徒の働きの時代から今に至るまでの教会の時代には、聖霊なる神が前面に出て働かれ、父なる神と子なるキリストは隠れて働いておられます。だから、今この時代は聖霊の時代なのです。 ですから、聖霊を認め、歓迎し、迎え入れ、聖霊に満たされて歩むことがとても重要です。 ある教団教派は、聖霊に満たされたしるしとして、異言を語ることを強調します。また、ある教団派では、聖霊の種々の賜物を強調します。また、ある教団教派では、聖霊の9つの実を強調し、異言を含むしるしや不思議は終わったと説明します。 しかし、こういうことは実に中心的な議論ではなく、枝葉的な内容です。大切なのは、聖霊様が主権を持っておられるということです。私たちがとやかく言う領域ではありません。 ですから、そのような議論を止めて、御霊にあって一つとされ、共に愛し合い、赦し合い、多様性を認め合って、聖霊様と共に働いて行きましょう。 この三位一体というテーマでさえ、私たちの研究対象ではありません。ただ、この聖い神様から教えて頂き、その神を正確に知って、神に仕えることが重要なのです。 他に三位一体については、「使徒信条」の中に具体的に記されています。しかしこれは、人間の知性では理解出来ませんし、説明は出来ませんので、本当は「わからないから、そのまま信じて下さい。」と説明するのが一番安全です。 しかし、これは議論が起こる内容ですし、重要なキリスト教の教理ですから、今日は聖書が教える三位一体についてお話ししました。 この三位一体の教理が狂ったところからキリスト教の異端(聖書は使うけれど間違った宗教)が出ています。ですから、これからも祈りつつ、このことを互いに学んで行けたら幸いです。 そして、次はあなたの番です。祈り心を持ち、謙遜な心で聖書と向き合い、神から教えて頂く心で学んでみて下さい。そして、真理の御霊なる聖霊様から学んだ内容を共に分かち合って頂けたら幸いです。 みなさんに祝福がありますように、心からお祈り致します。 God bless you!
2006年09月18日
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こんなゴスペルソングがあります。 ♪キリストにはかえられません 世の宝もまた富も このお方が私にかわって死んだ ゆえです 世の楽しみよ去れ 世の誉れを行け キリストにはかえられません 世の何ものも♪ ものすごく感動的な歌です。 しかし、キリスト以外のものはみな空しいというような感じがします。 でも、私たちが、お金や名声、栄誉を求めて生きたとしてもそれは空しいものだと思います。お金は使えばなくなってしまいますし、名声や栄誉は、簡単に過ぎ去ってしまうものです。 しかし、それらが悪いものであるというのではありません。 それらは、結果として与えられるものであって、決して目的ではありません。 私たちの人生の目的は、私たちを造り、私たちを生かして下さっている神が喜んで下さる人生を生きることです。そうしたら、結果として、お金も名誉も名声も与えられるものです。 もし私たちが、お金のためだけに生きたとしたら、お金が神です。「かね」と「かみ」は一字違いですが、大きな違いがあります。 お金のために生きる人は、お金のためなら何でもするようになる可能性もあります。お金のために人を騙したり、お金のために不正をしたり、お金のために犯罪を犯したり、お金のために自分をも犠牲にします。これはまさにお金が神となり、お金の奴隷になっています。 お金は神ではありません。お金は愛すべきものではなく、使うものです。しかし、多くの人は、お金を愛して人を使います。本当は逆で、人を愛してお金を使うのです。そんな人生を歩んで行けたら素敵ですね。 私たちは、神の評価を気にしながら生きて行きたいものです。神を畏れない人は、神以外のものを恐れ脅かされながら生きます。しかし、神を畏れるならば、罪以外何も恐れるものはありません。人の目は恐れるものではありません。人は愛すべき存在です。 「キリストにはかえられません」というゴスペルソングもありましたが、そんな歩みをさせてもらいたいですね。みなさんはどう思われますか? 祝福を祈ります。 God bless you!
2006年09月17日
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大阪に二週間宣教旅行に出かけます。しばらく、ブログの更新をお休み、あるいは、不定期更新にさせて頂きたいと思います。どうぞ、ご理解をよろしくお願いします。今後共、みなさんの訪問をお待ちしております。また、大阪では、オフ会を予定しています。参加できる方は、sgr_ch@ybb.ne.jp までメールを下さい。お会いできることを楽しみにしています。それでは行って来ます!みなさんの上に神様の祝福がありますように。God bless you!
2006年09月02日
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あなたは今、自分の生活、仕事、人間関係、家庭環境等について幸せであると感じているでしょうか? もし不幸を感じているとしても大丈夫、「幸せになりたい」と思っているなら、必ず幸せになれます。 私たちが今置かれている状況は、ほとんどの場合、偶然ではありません。私たちは、自尊心やセルフイメージに応じて、それにふさわしい人間関係や状況を引き寄せています。(これは、無意識の領域なので、意識していることとはかけ離れている場合もあります。) 健全な自尊心やセルフイメージを持っている人は、他人からの敬意や協力、友情を期待し、おおむねそういうものが得られるものですが、自尊心が乏しくセルフイメージの低い人は、居心地の悪い不快な状況にしばしば巻き込まれ、けなし合う人間関係に巻き込まれることも少なくありません。 ジーザスは、「あなたの信じた通り、あなたになる。」と語られましたが、健全な自尊心とは、神の目に映る自分と同じように、自分を信じ、尊敬し、愛することです。また、セルフイメージとは、自分に対してどう思うか?ということですが、神が私たちを好きであるように、自分を好きになることです。 ですから、幸せな人生を生きるためには、神の目に映る健全な自尊心と高いセルフイメージを持つことに意識を集中することが大切です。そうしたら、「私は幸せになっていい、」「幸せになるに値する、」「幸せになれる」と心から確信できるようになり、そうなったらもう簡単です。自然に幸せを引き寄せるようになります。 運命とは決して変えられないものではありません。運命とは、ジーザスが語られた通り、「あなたが信じた通りに」なるものです。それは、神があなたに願っておられることであり、あなたのために持っている計画でなのです。それは、あなたは幸せになるためにこの世に生まれて来たという事実です。 さあ、「私は幸せになるに値しない」という考えを捨て去って、幸せな毎日を一緒に歩んで参りましょう。あなたは幸せになるために、この世に誕生した人なのですから。God bless you!
2006年09月01日
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