柴楽日記

柴楽日記

2016.06.14
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カテゴリ: グルメ・旅
今日は早起きして長崎へ。
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ベイサイドの景色を眺めながら、長崎港ターミナルへとやって
来ました。
目的地は、予てより一度は行ってみたいと思っていた軍艦島!
梅雨入りしたものの今日は天気にも恵まれ良き見学日和になり
そうです。(嬉)

乗り込む船はこの船!?ではありません。(笑)
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こちらは長崎海軍伝習所の軍艦を復元した「観光丸」。
ちなみにガイドのオジさんの御話によると、大河ドラマ「龍馬伝」

観光丸は長崎港を遊覧する船として現役で活躍中です。近世へ
タイムスリップしたかの様な非日常的な空間から長崎の景色を
堪能できそうですね。

少し話が逸れてしまいましたが、今回の軍艦島クルーズはこちらの
船で出発です。
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せっかくの天気ということもあり、潮風を感じることができる2階席
に座らせて頂くこととしました。
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三菱重工長崎造船所を眺めながら出航です。後方に聳える稲佐山からの
長崎市内の眺めも今日は気持ちがいいでしょうね。

造船所の本丸ともいえる本工場のドックが見えてきました。
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こちらは第2ドック。
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船はゆっくりと沖へと進んでいきます。
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島影から姿を現したのは豪華客船。
水上の超高級マンションといったとこでしょうか?
目の当たりにすると、やはりそのスケール感に圧倒されます。
多少時化ていても船酔いしなさそうですね。(笑)

神戸そして博多といった主要港にもよく停泊する客船なのだそうです。

三菱重工長崎造船所本工場から更に沖合へ向かって進んでいくと香焼工場が
見えてきます。
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1972年に完成し、本工場と合わせてその規模は世界屈指の大型造船所を形成
しています。クルーズ船内アナウンスの解説によると、香焼工場のドックは
世界最長を誇っているということです。
今世紀に入り中韓勢の台頭により世界の造船業の勢力図は大きく塗り替えられ
ました。まだまだ世界的にも供給過剰が否めない感もあるだけに我が国の造船業
の前途も厳しい戦いを強いられる状況が続きそうですが、国際競争の中で更なる
進化を遂げた我が国の造船業が復権を果たす日が来ることに期待を込めたいもの
です。

沖合に浮かぶ島々を眺めながら船は更に目的地へと進んでいきます。
伊王島が見えてきました。
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伊王島もこれから向かう軍艦島同様、かつて炭鉱によって栄えた島です。
閉山後はバブル期よりリゾート地としての開発が進んでいきます。
5年前には伊王島大橋が開通し、長崎市内から車でも行けるようになりました。

伊王島を通過すると高島が見えてきました。
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この島も高島炭鉱によってこの国の近代化を支えた舞台となりました。
現在は磯釣り公園の整備等による観光誘致やトマトのハウス栽培を中心とした
農業にも注力しているそうです。
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高島から沖合に更に目をやるとぼんやりとではありますが軍艦島が姿を
現しました。
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着岸ポイントへ到着するも、思いのほか波が高く船を寄せるにも大変そうです。
しばらくして、「今回の上陸は中止します」との船内アナウンス。
周囲からは落胆の声が聞こえてきます。
沖に出るまでは波も穏やかで確かに「今日はイケるぞ!」って思っていたんですが・・・。
上陸を楽しみにしていただけに、ホント残念・・・、でも天候に大きく左右されるもの
ってことを考えればしょうがないですね。
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それにしても凄い光景です。
この廃墟と化したコンクリートの箱の集合体が醸し出す独特の雰囲気には思わず
息を飲みそうです。

軍艦島は正式な島名を端島といって、南北約480m、東西約160mの細長な形を
した小さな島です(面積は約6.3ha)。
端島は元々南北約320m、東西約120mの小さな瀬だったそうです。
明治から昭和初期にかけてその瀬の周囲を埋め立てて現在の島が形づくられて
いきました。
こちらの味わいのある石造りの壁は「天川の護岸」。明治期には、こうした島の
拡張に伴い石炭と赤土を混ぜた天川と呼ばれる接着剤を用いて護岸の石積みを
行っていたそうです。
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通称「軍艦島」として知られるこの島の名前の由来は島の姿が大正時代に三菱重工
長崎造船所で建造されていた軍艦「土佐」に似ていたことによります。
こちらは南東側から撮った写真。
確かに今にも動き出しそうな姿に見えますね。
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船首にも見える島の南側を回り、北西部へと進んでいくと、そこにはびっしりと建ち込む
アパート群。現在の都市計画の概念ではあり得ないほど、タイトな間隔で建設されていま
した。石炭生産量の増加に伴い島内の人口も増加していき、最盛期には約5,300もの人々が
この島に居住し、当時の東京都の9倍の人口密度に達したと言われています。
そうした草木を育てるスペースにも事欠く中、島の人々がアパートの屋上へと土を運び
畑を作り、花や野菜を育てていたといいます。昨今、都心部を中心に見られる屋上菜園は
ここから始まったとも言われているそうです。草花を愛でる人々の心がそうした先進的な
取り組みを生み出していったんでしょうね。

大正期には日本初となる7階建ての鉄筋コンクリート造のアパートが島内に完成し、鉱員
社宅として利用されたほか、郵便局や理髪店そして地下には売店も併設されていたそうです。
その他、島内には幼稚園から中学校までの学校や町役場の出張所といった公的機関に病院、
そして映画館等の娯楽施設まで整備されていたそうです。
また戦後、三種の神器と呼ばれた白黒TV、洗濯機、冷蔵庫が全世帯に備えられていたことを
考えても当時の島の人々が文化的で生活水準の高い暮らしを送っていたことがうかがえます。
こうした時代の最先端を行く人々の生活と命の危険と背中合わせともいえる過酷な労働環境
といった二つの側面が往時のこの島の暮らしのベースになっていたんでしょうね。

戦後もこの国の復興を支えてきた石炭産業も、エネルギー資源の主軸が安価な石油に移行した
ことにより斜陽の一途を辿ることとなります。
その余波はこの軍艦島にも例外なく及び人口は急減、そして1974年には閉山の時を迎えること
となります。
無人化した島には、長い歳月を経て高潮や風雨を受けながらも人々が利用した施設が遺構として
往時の島の暮らしぶりを現在に伝えています。
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軍艦島は先にご紹介しました三菱重工長崎造船所そして高島炭鉱とともに、
明治日本の産業革命遺産として2015年に世界遺産に登録されました。
現在は島内の見学も島の南側の一部に限られていますが、各施設の整備が
進んで安全性の確保がなされた後は徐々に見学可能エリアも将来的に広がって
いくかもしれませんね。
島内見学は次回以降の楽しみということにして、軍艦島に別れを告げます。

長崎港へ戻り、少し早めの昼食とすることとしました。
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出島資料館を眺めながら向かう先は中華街。
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船中でメールの処理をしていたこともあり、帰路はすっかり船酔い状態に陥って
しまっていましたが、中華街の門をくぐると徐々に気分も胃袋も回復!
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今日は夕方の所用に合わせて昼過ぎに長崎を後にしました。
上陸こそ叶いませんでしたが軍艦島を目にすることができ、そして大好きな中華を
堪能でき、今回も充実した長崎への旅を楽しむことができました。

見どころと食べどころがコンパクトに詰まった魅力満載の街、長崎。
今度は久しぶりにまたゆっくりと訪れてみたいものです。





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最終更新日  2016.06.17 00:19:32
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