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一人の時間に、文字のデザインを考えて下描きし、篆刻をするのがよい気慰めになっている。さて「平安是福」とは、世の中が平穏平和で、安心して過ごせることが何より幸せという意味。たとえ、身の回りのことでも、争いなき処に福がある。平安是福は、平穏で福が常にあることを願う言葉。原語は、中国の諺に由来するもので、平淡是真平安是福。利欲と華飾の世の中にも、真実と幸せとは飾らず淡々として、平穏無事に暮らすのが一番という古(いにしえ)の教えだ。少し、大振りの物を作ってみた。篆刻や印章書体を基本に、現代ゴシック体のエッセンスを加味。これぐらいなら、それほど気を使わず版画のように彫れる。輪郭をデザインカッターでなぞり、彫刻刀で彫る。彫り上げた版の木台には、北米産の松を使用してみた。杉や松は安価で手に入り、磨くと木目の見栄えがする。試しのノートの紙にはキレイに押せたが、扇型の和紙に押すと、輪郭がぼやける。これも、味といえば味だが...今朝は、インフルエンザの予防接種を受けた。自分一人だと簡単な事でも、高齢の両親を連れると疲れる。とくに、認知症に強迫性障害が加わった父親が厄介だ...
2015.11.12
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杜甫の『春望』っていう漢詩。 誰もが一度は目にしたことがあると思う。 これから冬を迎えるというのに、春を望むというのもどうかと思うけど、この漢詩が昔から好きなんだ。国破山河在 国破れて山河あり城春草木深 城春にして草木深し感時花濺涙 時に感じては花にも涙をそそぎ恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす烽火連三月 烽火三月に連なり家書抵万金 家書万金に抵(あた)る白頭掻更短 白頭を掻けば更に短く渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲すこの詩の冒頭の国破れては、相手国のある戦争と思ってる人もいるかも知れなけど、実際は戦争に負けたことを嘆いてる訳じゃない。 「破」とは負けることではなくて、意味合いとしては体制が崩壊したという意味。 つまり詩は、国が内部崩壊した状態を憂いているんだ。この詩の「国破れて」とは、755年、楊貴妃にうつつを抜かしていた玄宗皇帝に対して、臣下の武将 安禄山と史思明が起こした反乱「安史の乱」を指している。 いわゆるクーデターで荒れた唐の首都、長安の人の心と風景を後世に残そうと、杜甫が詩にしたためた。『春望』を執筆した心情を汲み今風に訳すと、次のようになると思う・・・都は、内乱でボロボロになってしまったけど、山や川だけは何事もなかったみたいに昔のまんまだ。 城内にも春はやってきて、草や木が深々と茂ってる。 ふと、そんなことを思うと、花を見てもなんだか泣けてくるし、人との別れが哀しくてん、なんとなく鳥の声にも心がズキズキする。もうかれこれ3ヶ月も戦火が続いているから、家族からの手紙なんてのは、万金にも値するほどの価値に思えるよ。不安でたまんなくて白髪を掻けば、髪はさらに薄く短くなっちまって、今じゃ、カンザシすら挿せないよ。歴史を紐解くと、かつて広大な地域を勢力下に治めた唐の都には、交易や交流で繁栄して世界中から色んな民族が集まり、人口も100万人を超える国際的大都市だった。 安史の乱は、多くの庶民を巻き添えにし、都はまたたく間に廃墟と化した。 クーデターの直後、安禄山が我が子の慶緒に殺され、危険を感じた史思明は一時的に唐側についた。 けれども暗殺を恐れて758年にふたたび乱を起こし、今度は自ら大聖燕王と称し、遂には安禄山の子慶緒を殺して皇帝を名乗った。 そんな史思明の権勢も長くは続かず、最後には自分の妾の子史朝義に殺された。事態収拾のため、唐の宮廷は、その後、異民族のウイグル族に援助を要請して安史の乱は終息することとなるんだけど、結局これがきっかけとなって、唐は衰えてゆくんだ。 杜甫の『春望』は、激動の時代に翻弄された庶民の苦難を今に伝える。 戦争であれ、内戦であれ、政権争いであれ、政治や行政が乱れると、いつの世にも弱者が犠牲となる。 歴史は繰り返され、1000年以上経った今も、人の欲望や争い合う醜さは変わらない。 砂天狗の私生活はこのところ年中真冬。(笑) あぁ、たまには生温か~い春が欲しいなぁ...
2009.11.30
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アンカレッジ空港は、東西冷戦下の1951年に開港して、日本からアメリカ間や隣国カナダ、アラスカ州内の航空便を中心に、トランジット空港として随分賑わったんだ。ロシアが、まだソビエト連邦と呼ばれた当時のこと...最短距離のシベリア飛行ルートはソビエト当局から厳しく制限されていたから、日本からヨーロッパへ飛ぶ定期路線は、東南アジアや中東、南欧の各都市を経由して、20時間近くかかる"南回り"の路線と、ソ連領を迂回して北極圏を通過して飛ぶ、ポーラルートと呼ばれた"北回り"の路線しかなかったんだ。 そんな世界情勢の中で、アジアの膨らむ需要増加に対応して、アンカレッジ空港は給油にテクニカルランディング(寄港)する空港として、西側の航空会社から利用されるようになったんだ。70年代頃から、アンカレッジ空港は空の中継所としてトランジット客で賑わっていた。とくに便数が多くて利用も多かった日本人のためには日本語のできる従業員がいた。当時の砂は、ヨーロッパに短期赴任したり、出張したりすることが多かったこともあり、トランジットで十数回利用しただろうと思う。その度に、空港内にあったうどん屋で熱々のうどんを食べたことが懐かしい。アラスカでうどん?って思うだろうけど、事実あったんだよ。大きな白熊の剥製(ベタな話だね...笑)の直ぐ近くに、藍色の暖簾が掛かったうどん屋で、従業員は陽気で話好きな日系のおばちゃんだった。「いよいよ行くんだなぁ~」とか「ようやく返ってきたぁ~」とか、その時々に、色んな事に思いを馳せながら口にするソウルフードだったと思う。言ってみれば、日本とヨーロッパの中間点でうどんを食べるのは、砂にとって特別な儀式のようなものだった気がする。その後、アンカレッジ空港は航続距離が長くなった航空機の登場や、1990年代の東西冷戦終結を境に、今ではほとんど利用されなくなって、国際線のターミナルは旅客便が殆どないのですっかり寂れたと聞く。多分、もう二度とアンカレッジに下り立つ機会もないだろうけど、アンカレッジ空港は、砂にとって1980年代半ばの想い出の場所だ。もしも誰か、あのうどん屋のその後について記憶のある人がいたら、是非とも教えて欲しい♪
2012.01.19
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この歌を、時々無意識に口ずさんでいることがある。この歌を知ったのは、それほど昔のことではない。記憶が正しければ、この歌をはじめて聴いたのは映画だ。高倉健/海峡 [東宝DVD名作セレクション]価格:2,700円(税込、送料別)高倉健主演の映画「海峡」のある重要な一場面で、森重久彌が、昔の出来事を回想しながら歌うシーンだった。東宝映画「海峡」は、高倉健が洞爺丸の事故から三十年に渡って、青函トンネルの難工事に情熱燃やすトンネル技師を好演した。「流浪の旅」 (作詞作曲 宮島郁芳 後藤紫雲共同)流れ流れて 落ち行く先は、北はシベリア 南はJavaよ何処(いずこ)の土地を 墓所(はかしょ)と定め何処(いずこ)の土地の 土と終わらんきのうは東 今日は西と流浪の旅は いつまで続く果て無き海の 沖の中なる島にでもよし 永住の地欲し思えば哀れ 二八(にはち)の春に親の御胸(みむね)を 離れて来てより過ぎ来し方を 思いて我は遠き故郷の 御空(みそら)ぞ恋し流浪の旅は、田舎から口減らしに身売りされ、外地を流転した、からゆきさんを歌った哀歌だという。歌で、Javaをジャバと歌っているのはジャワ島のこと。年代と歌手によっては、ジャワと歌われる例もある。歌詞の「二八」とは2+8=10で、数えで十才を意味し、歌詞では、十才の幼さで身売りされたことになる。昭和のはじめ頃、貧しさに耐え切れず、親が幼子を売った。当時、日本の各地で本当にあった哀しい真実だ...
2015.11.18
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昔から、人が音声として発した言葉は現実に影響を与えると考えられており、良い言葉を発するれば良い事が、逆に不吉な言葉を発すれば凶事が起こると考えられ、言霊(ことだま)と呼ばれている。万葉集の柿本人麻呂の歌には、志貴島の日本(やまと)の国は事霊(ことだま)の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞとあり、古代には"言"と"事"が同一の概念だったことを物語っている。美しい日本語が崩壊しつつあるといわれる現代にも、言霊はわずかに息づいている。 現代の結婚式の"忌み言葉"なんかは、こんな言霊の思想の名残りだったりする。 日本は、古来から言霊の力によって幸せがもたらされる国。 『言霊の幸ふ国』なんだ。 言葉といえばもう一つ。自分の意志をハッキリ声に出すことを『言挙げ』といい、自分の慢心による言挙げであれば、悪い結果がもたらされるとも信じられていた。 例えば、古事記では倭建命が伊吹山に登ったとき、山の神の化身と出会ったが、倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。 それが倭建命の慢心によるものだったため、倭建命は神の祟りに遭い死んだという。 つまり、言霊とは万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の有り様をも示すものであった。そんな国の片隅で、砂天狗はコピーライターとして生きてる。 そして、自分が使う単語や接続詞の一つ一つに、企業の栄枯盛衰が懸かっていると自負しながら仕事をしてるんだ。 美しい日本の言葉を、より美しくアレンジして表現する... それが砂天狗の唯一の誇りだし、使命なんだ。ここ数日、静まり返ったオフィスで休みを返上して、しかも徹夜しながら砂天狗をアシストしてるエリカは、この仕事が終わったら『ボスに、お正月にUSJに連れてってもらって、ホテルの最上階でディナーをご馳走してもらうし、カクテルも♪』などと"言挙げ"をしてる。(汗) このエリカの言挙げが慢心であるなら、エリカには災いがもたらされるであろう...(笑)
2009.12.26
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元禄十六年(1703)四月七日の早朝、大阪内本町の醤油問屋 平野屋勤務の徳兵衛と、堂島の風俗嬢お初の二名が、曽根崎の堤で死亡しているのを巡回の警察官が発見。 大阪府警では、曽根崎署に捜査本部を設け、心中事件と見て捜査を開始した。府警本部の発表によると、徳兵衛(25才)は知人との金銭トラブルと江戸転勤に悩み、遊郭天満屋の遊女お初(19才)の方は、田舎への身請け話が進められていたことから、引き裂かれてしまうと悲観したのが動機と見て、関係者から事情を聴いている。もし、曽根崎心中を現代に置き換えれば、こんな新聞記事になったであろう...近松門左衛門の曽根崎心中とは、いったいどんな事件だったのか、実際に起きた、心中事件を近松門左衛門の視点で、現代語訳で解説しよう。さて、この物語の舞台となったのは大坂の堂島新地界隈だ。堂島新地の遊郭天満屋の遊女お初が、客に連れられて観音参りをしていた。生玉神社の茶屋で休んでいるところへ、得意先を廻った徳兵衛が通りかかる。こうして、若い二人は出逢い、恋に落ちるまで時間はかからなかった。平野屋の主人九右衛門は徳兵衛の叔父で、働き者の甥っ子の将来を思い、女房の姪を徳兵衛の妻にしようと、徳兵衛に縁組みを迫っていた。徳兵衛の方は、何とか縁談を逃れ、お初を身請けしようと金の工面に奔走し、お初に逢うこともままならない、もどかしい日が続いていた。そんな折も折り、徳兵衛は友人の久平次に、一時の借金を頼まれてしまい、やっとの思いで都合した金を久平次に貸したが、これが後に仇となった。徳兵衛は、久平次の悪巧みで着服の罪人に仕立てられ、窮地に追い込まれる。突然の縁談の上、さらに転勤話、こうして金と義理の板挟みとなって苦しみ、真面目で真っ直ぐな徳兵衛は、次第に思い詰めてしまう。一方、お初の方でも、不意に降って湧いた身請け話に心を悩ませ、また、恋しい徳兵衛にもここしばらく逢うことも適わず、一人で気を揉んでいた。そして、ようやく逢えた徳兵衛に、お初は逢うやいなや責めて恨み言を吐くが、逆に、徳兵衛のうち明け話に、お初ははじめて事のすべてを悟るのだった。 さらに、遊郭にまで押しかけた久平次が、二人に追い討ちをかける。金を踏み倒した上、今度は徳兵衛が、偽版を使ったなどと偽りを言いふらした。お初は久平次を前に、打掛けの裾に徳兵衛を匿いつつ、心中を固く心に決める。やがて、夜も更けて皆が寝静まった頃、天満屋を抜け出した二人は、手に手をとって曽根崎の森へと向かう。漆黒の暗闇の中、二人は足を取られては何度も転びながら、それでも、手はしっかりお互いを握りしめ、森を抜けて行った。 そして、ようやくに辿り着いた梅田の堤。ちょうど、松と棕櫚(シュロ)が夫婦のように寄り添う根本までやって来ると、二人は、ここを死出の旅路の場所と定めて頷いた。雲も晴れ、蒼い月に照らされる中で、二人は名残を惜しむように互いを見つめ合う。徳兵衛とお初は、涙を溢れさせながら、来世では夫婦にと誓って身を寄せ合い、互いの腕を帯で一つに固く結んだ。「潔く死のう...」そういいながら、七首(あいくち)を抜いた徳兵衛の手は震えていた。 「嗚呼、もう夜が明ける...」徳兵衛の目をじっと見つめながら、お初が切なくつぶやいた。迷いを断ち切るように、覚悟したお初が絞り出した言葉だった。冷たい早春の風に乗り、遠くで鳴りはじめた暁の鐘の音が、二人の耳に届き、かすかな南無阿弥陀仏の読経も聞こえる。「早う殺して 殺して...」お初に促され、覚悟を決めた徳兵衛は、お初の着物の胸をさっと開いて、匕首(あいくち)で一刺しし、血の滴る七首で自らの喉笛を一気に掻き切り、熱い血をほとばしらせながら、お初の上に重なり絶命した。こうして、二人の悲恋は心中によって幕を閉じた。 ちょうど、東の空は少し明るみ、西に傾きかけた蒼い月が、切なくも美しく、二人の骸を照らしていた...徳兵衛と、お初の悲恋物語の舞台となった梅田から堂島周辺は、今では大阪市の中心地となっている。露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思ひいづれば菅原道真は、太宰府に流される途中で曽根崎に立ち寄り、この歌を詠んだ。曽根崎には、歌に由来した露天神があるが、徳兵衛とお初の心中事件以降、いつの頃からかお初天神と呼ばれるようになった。曽根崎心中は、近松門左衛門の浄瑠璃の処女作で、近松は、この事件をわずか一ヵ月後に"世話浄瑠璃"の題材として取り上げ、元禄十六年(1703)五月、大坂竹本座で曽根崎心中が上演されるやいなや、舞台は未曾有の大ヒットとなった。あまりの人気に、一時は心中が流行して社会現象になったため、享保八年(1723)、心中ものの出版や上演が幕府に禁じられる事態となる。今日のblogは、悲恋話しなのでいつものようなボケようがない。寂しいと思う方もいるだろうが、ま、こんな日もあるのだ。その分、実は古典マニア向けにはお楽しみを用意した。この話は、砂浮琴が少し物語をよりドラマチックに脚色して仕込んである。それに気づいた人は、尊敬を込めてこれから”心中マエストロ”と呼ぼう。(笑)
2015.12.22
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