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この日記が途絶えたのが、もういつの頃だったか...そう、その時は突然にやってきた。早い話、PCが突然ぶっ飛んだのだ。原因は、ウイルス感染でもなく、落下の損傷や水没でもなく、要するに老衰だったというほかはない。別に、PCが買えなかった訳ではない。そりゃ買うには買ったさ。だけども、データはすでに忘却の彼方。長~く、PC頼みで日記などを書いていると、暗号めいたIDやパスワード、それにBlogの日々の設定や煩わしい操作もすべてPCに委ねていた。その、肝心のPCが臨終を迎え、そういった一連のデータがすべて失われると、まるで帆と舵を失った船のように、暗黒の海をさまようしかなかった。この、楽天Blogにたどり着く手がかりは、残された乏しい知識と曖昧な記憶だけだったのだ。どれほど長くさまよっただろうか... 流れ去った歳月とは、本当に恐ろしいものだ。すでに、砂浮琴の死亡説が流れていたかも知れない...ようやく帰ったBlogは当時の面影もなく、もう自分が馴染んでいたものとは大きく様変わりしていた。ん... 何だろうこの感覚は。浦島太郎の気分とはこの事だ。写真をUPするまでには、リハビリが必要な気もしてきた。
2017.05.27
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明け方、10分ほど南国らしい雨が降った。今年の冬は日本も暖冬だが、グァムも乾季のこの時期にしては雨が多い。グァムは、何となく年中常夏という印象だが、6月~10月の雨季と、11月~5月の乾季とに分かれる。常夏といっても、日本の初夏ぐらいの雰囲気に近い。乾季の日中でも、31℃を超える日は多くない。雨季のピークは8月~9月頃だが、日本の梅雨みたいではなく、サッと大粒の雨が降って、また晴れるという感じだ。日本の夏より、遥かに快適で過ごしやすいのだ。個人的には、乾季に差しかかった今頃よりも、ダイナミックに、自然を感じられる雨季をお勧めしたい。但し、台風が発生してヒコーキが飛ばないということもある。こういう処では、観光や買い物に躍起になるより時間という概念を忘れ、風通しのよいテラスで、本でも読んで過ごすのが一番だ。さて、中国の株式市場では、相変わらず動揺が続いているようだ。サーキットブレーカー制度が中断されても、もう市場不安は拭えない。デヴィッド・ボウイさんが68才の若さで亡くなった。英国ロックを代表するアーチストで、ビジュアル系の先駆けでもあった。誰かがいなくなってしまうということは、寂しいことだ...
2016.01.11
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日本との時差は+1時間。昼間の気温は28℃で夜25.5℃、湿度が86%。日暮れ時、ひと雨あって海から吹く南東風が心地良い。シャワーを浴びて、射撃の硝煙の匂いを消し、ルームサービスのマティーニを飲み干して部屋を出た。歩道のド真ん中に、平気で消火栓を設置する、アメリカ人のテキトーな思考というか、雑さにムカつく。ほろ酔いで歩いて、股間を強打したではないか...ホテルから、Pale San Vitores Roadを西へ10分ほど歩き、米兵に聞いた、安いチャイニーズレストランで夕食を済ませ時計を見た。まだ、午後10時だ。1月に、BeachでSouthern Crossが見られるのは夜明け前。たぶん午前6時頃だから、まだ時間はたっぷりある。ちょど蠍座の右側、アンタレスの直ぐ下に見えるのだ。東に少し戻ると、ABCストアーの上にハードロックカフェがある。そこらで少し、時間を潰すとしよう。あれから、もう直ぐ21年。神戸の街は、明るさを取り戻したけれど、そんな街の灯も、私の心の奥は照らさない。17日は、TVを点けるとあの日を思い出す機会も増える。忘れたいと、願っている訳ではない。いや、違う... 自分はまだ、あの灰色の瓦礫の中にいるのだ。あの日、自分が失った物など、今さらもうどうでもよいが、そこから、積み重ならなくなった時を思うと、恨めしくも切なくもあり、寂しさに似た感情から、遠くへ逃げ出したいとさえ思う。だけど、自分の歪んだ喪失感からは、そう簡単に逃れられはしない。一瞬の逃避行も、不毛で空虚な時間を再確認してしまうだけで、さらに、女々しさすら感じさせられるだけで、決して逃れられないのだ。そんな自分が、自問するように時々考えることがある。自分が、生きている意味とはいったい何だろうかと...この先、元気なうちは色々と工夫し、楽しみを作ることも出来ようが、それすら出来なくなるとき、ただ孤独な老いと向き合う自信がない。多かれ少なかれ、誰もがそんな後悔をしながら生きているのだ。
2016.01.10
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昨年末、蔵を整理していて面白いものを発見した。和綴じに、毛筆で記された曽祖父の日記と和歌が一首。 吹きすさふ 風も恨めし枯れ葵 成すべき事そ まづ成さんなり(曽祖父元服の歌)11日の成人式を前にして、少しばかり水を差す話題になるが、今から、143年前の明治4年1月9日は曽祖父が元服した日だったそうだ。折りしも、明治3年に廃刀令、翌年には廃藩置県が発布される時代だった。そんな波乱の時の中で、曽祖父は2年遅れでその日を迎え、武家作法に則った烏帽子大紋で腰に帯剣し加冠の儀に臨んだ。文字通り、これが我が家で最後の元服となった。その後の、曽祖父は西南の役に従軍、日清戦争、日露戦争を戦い抜き、秩父の連隊長を辞した後、晩年は書と水墨画に興じたりしたそうだ。「武士(もののふ)らしく」というのが曽祖父の口癖だったようで、武人の誇りを貫いたまま、大正9年に67才の生涯を閉じた。 現代の成人式は、マナーを解さずスピーチする賓客に暴言を吐いたり、酒を飲んで暴れたり、およそ一人前の男子たる態度ではないと思う。 もっとも、祝辞を述べる政治家諸氏も、いずれ劣らぬ恥知らずだが。(笑)この国の魂は、どこまで堕落するのだろうか。 成人式とは、一人の人間として、社会の一員として奉公を決する日であって、式に参加すれば成人し、自由気ままができるというものではない。この国は、もう一度維新からやり直しすれば如何か...
2016.01.09
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さてさて、昨日からの続き...(※脚色を加え、オリジナルとは異なる凄惨な描写があることをご了承頂きたい。)女殺油地獄(下の巻)月日は流れ、お吉は河内屋からのれん分けを受けた、豊嶋屋七左衛門の女房となり、それなりに幸せに暮らしていた。 一方、与兵衛は度重なる放蕩で勘当され、挙句に大借金をしてしまう。 金策に疲れ、まさに崖っぷちに立たされた与兵衛には他に頼るあてもなく、一度は情を交わしたお吉に頼んで、金を工面しようと豊嶋屋へ向かう。ちょうど、与兵衛が豊嶋屋に行き着いたときのことだった...与兵衛は、偶然にも豊嶋屋に義父と母が豊嶋屋に入って行くのを目にする。 自分を勘当した両親が、「もし息子が訪ねて来たら 渡してやってくれ」と、金を用意し、お吉に預けに来ていたのだ。 物陰に隠れ、一部始終を聞いた与兵衛は、この時あらためて親心を知り、まっとうに生きようと決心し、お吉を訪ね、金を貸してくれと懇願する。お吉にすれば、当然、与兵衛を助けたいのは山々だった。しかも、渡りに舟とばかりに、徳兵衛夫婦にも頼まれたところだった。けれど、今まで欺かれ続けたこともあり、易々と許すには躊躇いもあった。さらに、恩ある河内屋の旦那と奥様の心も察し、今回は心を鬼にして、わざと厳しい口調で、お吉は与兵衛の心を確かめようと図った。 しかし、お吉のあまりに厳しい態度に与兵衛の心は折れ観念した。なら、ここで自害しようと思い詰め、持っていた匕首(あいくち)を抜いたが、それが惨劇を招いてしまう。匕首を見たお吉は、てっきり与兵衛が自分を刺すものと誤解し、咄嗟に与兵衛を突き飛ばした。突き飛ばされた与兵衛は、かっと逆上し、逃げるお吉に切りかかる。 逃げ惑うお吉、追う与兵衛... 二人はもつれ合い、与兵衛は、お吉の着物の襟を掴み、匕首を脇腹に突き立てた。 「今死んでは娘が流浪する!」 「死にと~ない」 「金は要るほど持ってござれ」「助けて下され与兵衛様ぁぁぁ」 お吉は幼い我が子を思い、必死に与兵衛に命乞いをするが、逆上して、魔が差した与兵衛の耳には届かなかった。 お吉の帯を掴んで引き寄せ、なおも無我夢中で刺し続ける。与兵衛は、お吉の身体を刺してはえぐり、抜いては切りつけし、全身に返り血を浴びて、もはや悪鬼の形相だった。 お吉は苦しみに身もだえして、店の油樽は次々に倒れた。 土間には、ドクドクと油が流れだして見るみる油の海となり、流れる油に足を取られ、二人はもつれながら倒れ込む。 そして、油の海で馬乗りになった与兵衛に繰り返し腹をえぐられ、力尽きたお吉は、下腹に匕首を突き立てられたまま痙攣して血の泡を吹き、白目を剥いて絶命した。 髷(まげ)も解け、血と油にまみれた与兵衛は身を震わせて起きあがり、戸棚の金を掴んで表へ逃げ出した。 それは、まさに放蕩と愛欲に溺れた果ての惨劇だった... ― 完 ― 夢に舞ひ 明けに骸(むくろ)の 糸蜻蛉 浮き世の川の 澱みなるかな(砂浮琴愚歌)長々と、勝手気ままな乱文にお付き合い頂き、御礼を申し上げます。m(_ _;)mさて、昨日からのblogの写真は、時々出掛けている近江八幡の風景で、よく時代劇のシーンにも登場するので、見覚えのある方も多いだろう。
2016.01.04
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「女殺油地獄(おんなころし あぶらのじごく)」は、近松門左衛門の世話物話で、享保六年(1721)に文楽(人形浄瑠璃)で初演されている。本作も、大坂で実際に起きた事件を基に書き下ろした作品だといわれているが、事件の全容については未だ確認されていないという。人気の近松作品ということで、一度は歌舞伎の演目になったが興行的に失敗し、歌舞伎でも文楽でも、上演は一旦途絶えていたらしい。坪内逍遙らが本作を再評価し、明治四十二年に歌舞伎で復刻上演され、文楽でも、昭和二十七年に復活して現在に至る...殺油地獄(上の巻)(※脚色を加え、オリジナルとは異なる表現があることをご了承いただきたい。)大坂天満にある油屋の豊嶋屋は、河内屋からのれん分けされた油屋で、かつてお吉は河内屋へ奉公に出て、そこの次男坊与兵衛の乳母代わりもした。 その与兵衛が4才の折り、河内屋の主人が突然の病で他界。 その後、母のお沢が大番頭の徳兵衛と再婚した頃から与兵衛は放蕩を繰り返し、その度に、お吉は与兵衛の尻ぬぐいをした。 ある日、お吉は与兵衛が油屋元締の小倉屋市兵衛の一人娘の小菊と恋仲になり、逢う瀬を重ねていることを知ってしまう。 二人の関係が、表沙汰になることを案じたお吉は、与兵衛に意見するが聞く耳を持たず、なおも二人は淫らな関係を続け、遂に捕縛される不始末を起こす。この時は、市兵衛の口利きで何とか与兵衛は放免となったが、市兵衛は、娘と別れないなら油の株仲間から河内屋を外すといい出した。 今までは、目をつぶってきた義父の徳兵衛だったが今度ばかりは許さず、与兵衛を激しく打ち据え、関係を絶つよう迫るが与兵衛は開き直り、心配するお吉に心中するとまで口走る。数日後、与兵衛は家を抜け出し、小倉屋から密かに小菊を連れ出すが、駆け落ちという非日常が、異常なまでに小菊を興奮させたようで、小菊の変貌振りに驚いた与兵衛はお吉に助けを求めた。 お吉は、小菊を小倉屋の手代に引渡し、与兵衛に女の魔性を語り諭す。ほどなく、小菊は小倉屋から嫁に出しされ、与兵衛の方も目を覚ましたと見え、仕事に精を出すようになったが、平穏な日も長くは続かなかった。ある日、小菊が与兵衛を誘い出し、再び二人の密会がはじまってしまう。お吉は、小菊に会って忠告したが、小菊は薄笑いを浮かべ聞き入れようとしない。 さらに、相手を嘲るような小菊の態度は、お吉の心に魔性を芽生えさせ、女の意地と嫉妬の情念を燃え上がらせた。 あんな小娘に与兵衛をくれてやるものかと、お吉は遂に与兵衛と激しい情を交わし、それが後に悲劇の迎え火となるのだった・・・。物語は明日につづく...m(_ _)mさて、1月14日からNHK総合で放映される木曜時代劇は近松門左衛門。しかし、作家としてスランプに陥ったダメ男という風変わりな設定だ。近松を松尾スズキが演じ、お節介な渡世人とともに大坂をお騒がせする。モチーフは曽根崎心中だが、人情喜劇として脚色されている。あまり馴染みのない、古典に興味を持つイイ機会になるともよい。
2016.01.03
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先ずは皆々様へ、新年明けましておめでとうございます。本年も、何卒ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。皆様のご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げます。 ☆写真をクリックすると拡大♪さて、今朝は一点の雲も... いや、雲は多少あったが、初日の出が熊野の海に美しく輝いていた。さて、一年の計は元旦にありという言葉がある。実は、この諺は戦国武将毛利元就の言葉に由来するもので、一般にいわれる、一年の計画を元旦に立てよということではない。毛利元就は、元三の儀式を大変重んじる人物だった。元三(がんさん)とは、年、月、日の三つのはじめという意味で元三日ともいい、のちに、正月三が日の意味に用いるようになったそうだ。元就は、日頃から何事もはじめが肝心だと考え、先ず、元旦から寝坊して儀式を疎かにするのは駄目だといい、一歩目から、怠けては駄目だというのが本来の意味だ。招財進宝とは、財を招き宝が入ってくることを表し、財運を高め、思うままに幸運を手にするという意味も成す。財運や縁起物にと、人々の夢を適える財運の篆書文字で、玄関などに招財進宝の文字を飾ると財や宝を招くといわれる。また、古来桃色は中国では富と健康を象徴する色彩として好まれ、瓢箪も縁起物とされるので、こんな風にデザインして彫ったものを、銀箔を散らした薄桃色の和紙に紅花の赤で押した。写真を自由にダウンロードして、携帯の待ち受けにでも使って欲しい。皆々様にとって、穏やかでよき一年のはじまりであるよう、心から願いたい... 元旦
2016.01.01
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紀州の古刹道成寺は、文武天皇の勅願によって大宝元年(701)に創建された。建久年間、道成寺で記された仏教説話集からは、後に古典の傑作が生まれた。能や、後に歌舞伎のモチーフとなった道成寺縁起だ。説話集には紀伊国牟婁郡悪女(きいのくにむろぐんあしきおんな)と記され、後世に物語として知られるようになり、能や歌舞伎の題材ともなった。建久年間は、西暦で1040~1044年だから、なんと千年近く前の話だ。「紀之国真砂悪女」は、砂浮琴が紀伊国牟婁郡悪女を脚色した物語なので、オリジナルの「道成寺縁起」とは少し異なるが創作話と理解して欲しい。砂浮琴 創作「紀之国真砂悪女(きのくにまさごあしきおんな)」それは、延長六(928)年のこと...若い美貌(イケメン)の僧侶が、奥州から遥々と紀州まで修行の旅をして、熊野権現へ詣でる道中に起きた出来事だった。僧侶は、紀伊国牟婁郡の真砂まで来て、ある館に一夜の宿を求めたことから、運命が大きく狂いはじめた。 この夜、快く僧侶を泊めたのは、土地の豪族庄司清次の後家(未亡人)だった。女は旅の僧侶を歓待するが、夜も更けた頃、女は僧侶の休む離れの間に忍んで、こともあろうか、僧侶に夜伽(よとぎ)を迫るのだった。僧侶は、驚いて飛び起きた。「この館に、泊めたそなたとは、きっと前世の縁があってのこと」「今宵、契りを交わすに、何を憚(はばか)ることがありましょうや!」そう言い放ち、女は驚く僧侶になおも迫った。僧侶は当惑しながらも、とにかく女をなだめようとする。「私は、熊野権現への参拝を願って遙々旅をして参りました」「ここで戒律の破る訳には参りませぬ!」僧侶はそう答えたが、女は聞く耳も持たない。 そこで僧侶は、「それでは、熊野詣での帰りに、必ず参りますゆえ」と約束して、何とかその場は納得させ、館を発つことができた。女は、僧侶の咄嗟の言葉を信じ、戻るのをしばし待ってはいたが、僧侶は、一向に女のところへ姿を現さない。そこで、通りかかった人に尋ねると「若い坊様なら、だいぶ前にお帰りに」と聞き、女は僧侶に袖にされた事に気づいた。「さては、すかしにけり!」と、恥をかかされたことを恨みに思い、怒り心頭に達した女は、髪を振り乱し、履いていた履物さえ脱ぎ捨てて、脱兎のごとく駆けて僧侶を追いかけた。 その女の姿は余りに異様で、道行く者たちも恐れたじろぐ様相だった。髪は逆立ち、着物をはだけさせて狂気に駆られて走る女。次第に、女の体には緑色の鱗が生え、目尻は吊り上がって口はみるみる耳元まで裂け、口から吐く息は炎となって、とうとう恐ろしい大蛇に姿を変える。 大蛇が追ってくると聞いた僧侶は、あの館の女主人に違いないと思い至り、通りかかった道成寺に助けを求めた。 僧侶から、事の次第を聞いた道成寺の僧たちはさっそく相談して、寺の大鐘の中に、若い僧侶を隠し、皆で匿うことにする。 しかし、それが裏目に出てしまったのだ。僧侶を追い、道成寺へやってきた大蛇は、その大鐘を睨みつけるやいなや、鐘に胴をぐるり絡め、尾で叩いたうえに大鐘にむかって炎を吹きかけた。大蛇は、一刻ほどの間、鐘に胴体を巻きけたまま、炎を吐き続けた。 そして、ようやく頭を高く持ち上げて、目からだらだら血の涙を流し、焼けてただれた醜い胴体をゆるゆるとくねらせながら這い回り、やがて日高川に身を投げて息絶えたのだった。大蛇の炎を浴びた大鐘は、赤々と焼けて熱気で誰も近づけないほどだった。 我に返った寺の僧たちは、大鐘に水をかけて冷やし、鐘を持ち上げて中を覗くと、若い僧侶は、哀れにも炭のように焼け焦げた骨となっていた。それから数日後のこと。道成寺の老僧が眠っている夢の中に、一匹の蛇が現れる。蛇は「私はあの鐘に閉じこめられ焼かれた僧です」と老僧に話しかけた。その蛇がいうには、自分は焼き殺された挙げ句、今は夫婦にされているので、老僧の手で法華経を納経して悪縁を断ち切って欲しいとのことだった。 「生前、私は法華経を尊んでおりましたが、未熟であるがため未だ救われません」「どうかお願い申します」そういい終え、蛇は姿を消した。目覚めた老僧は、さっそく法華経を写経して、僧侶と女を手厚く供養した。その数日後、老僧は再び夢を見た。 そして夢の中で、若い僧侶は天界の都卒天に、女は刀利天になって、無事に天に昇ることができたと知るのだった...後に、この法華経の法力を解いた仏教説話は能の「道成寺」となり、時代を経て多くの芸能へと発展する。歌舞伎では「娘道成寺」、文楽では「日高川人相花王」から芝居の「安珍清姫」へと、それぞれの時代を反映しつつ脚色され、今に伝えられている。さてさて、紅白歌合戦を観終わると、いよいよ新しい年を迎える。今年は、世の中が平和で慶び多い年であるようにと祈りたい。
2015.12.31
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昨夜は、晴れた地域だと冬の夜空を眺めた人も多かっただろう。38年振りのフルムーン・クリスマスだったそうだ。さて、年末になると保険屋や信金やらがカレンダーを持ってくる。毎度、どれも代わり映えせず、パッとしないモノだけど渋々使う。どうすれば、あんなダサいのがデキるのやら。昔、茶の間の柱には、毎年欠かさず日めくりカレンダーがあった。表紙は決まって、鶴や干支、富士山、日の丸が交差したデザインだった。昭和の頃、何処の家にもあった日めくりも、最近は進化しているようだ。書店で、面白い日めくりカレンダーを色々目にした。ん~、悪くないが、毎朝のことだからまいにち、修造! は、ちとキツいなぁ~。とはいえ、朝っぱらからまいにち、ネガティブ。というのも、ちょっと...今日という日を、ゴルゴ13みたいにハードボイルドに生きるのはどうだろう。毎日、新しい朝を迎えて、日めくりをめくるのは幸せなことだ。人生とは、結局のところ毎日がサバイバルなのだ。(笑)
2015.12.26
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この爆撃された一角は過激派勢力の者だけで、市民の犠牲はまったくないと、いったい誰が、どんな理屈で断言できるというのだろう...パリの同時テロの報復で、シリア空爆はより感情的で激しくなっている。爆撃は、過激派勢力の拠点への打撃を目的としているものだが、使用している爆弾は、ピンポイント攻撃が可能な誘導兵器でだけはなく、人口密集地に、大きな被害を与える区域制圧用の強力な兵器も投入されている。欧米人は異なる民族を、もはや人とは思っていない。1,000ポンド(500kg)爆弾は、おもにコンクリート施設用爆風殺傷半径 16m以内で即死、40m以上が生存域破片殺傷半径 80m以内即死、500m以上が生存域家屋倒壊半径 30m以内倒壊、60m以内半壊、120m以上が未倒壊域2,000ポンド(1000kg)爆弾は、橋やトンネル、頑強な施設用爆風殺傷半径 20m以内即死、50m以上が生存域破片殺傷半径 150m以内即死、500m以上が生存域家屋倒壊半径 40m以内倒壊、80m以内半壊、160m以上が未倒壊域確かに、善良な市民を傷つけるテロは卑劣で忌むべき犯罪だ。しかし、その根源を垣間見ると、言葉を失うことがあまりに多い。現在も、世界人口の三分の一は戦時下に暮らすという。2013年の統計によれば、世界には今も40もの紛争地域があり、23億人を超える人が紛争地域に暮らすといわれている。そもそも、民族間に対立を生んだのは何なのか。確かに、民族が異なれば価値観も相当違うことは事実だが、宗教対立を挙げる識者もいるが、果たしてそうだろうか。宗教や思想の違いはあっても、生存権は平等である筈。その昔、西洋諸国は奴隷の労働力を求めてアフリカを支配し、時代が進むと、列強は交易利権を求めてアジア太平洋地域に進出。さらに、石油という新たな価値に目覚めて中東に手を伸ばす。すべて、欧米が強者の論理で、海外の弱者にゴリ押しして、一方的に利権を求めた結果ではないのだろうか。現代の紛争の原因は、飢餓と貧困と生存権の危機。解かりやすくいうと、激しい貧富の格差だ。かつて、欧米列強の領土や植民地と呼ばれた途上国では、約1,090万人の子供が5歳の誕生日を迎えずに命を落とし、60%が飢餓と栄養不良に関連した病気が原因とされる。過激な抵抗組織を生むまで、彼らを追い詰めたのは誰なのか。事実に目を向けずして、安易にテロを非難する事はできない。そもそも、戦争とテロの違いは何であろうか。かつて、ナチスドイツが圧倒的武力でフランスを占領していた頃、フランス市民は、ドイツ人の殺害や爆破、通商破壊を行い、レジスタンス活動で抵抗した。しかし、ドイツ側から観れば、テロ行為ではなかったか。たった一晩で、10万の一般市民を殺した東京大空襲は?長崎と広島の原子爆弾の投下は?もし、私たちの暮らしが、外国の軍事力で支配されたら、いったい、私たちはどうするだろう。最初の頃は、恐らく家族を連れて逃げるだろう。逃げる場がなくなったらどうなる?水も食料も断たれ、家族が飢えたら? 子供が敵兵に殺されたら?追い詰められたら?これは、私たちに無縁な、対岸の火事でよいのだろうか。国連は、先進国の裕福で、平穏な市民の暮らしを脅かすテロを、卑劣な犯罪だと徹底非難し、報復することを安易に容認しているが、大国の軍事行動に、国連と世界はどうしてこれほど寛容なのだろう。ここにも、先進国の傲慢な論理だけが見え隠れする。先進国にとって不都合があるにせよ、根源的な事に目を背けては、武力行使も、経済制裁も、テロとの戦いを表明することでも、テロは決してなくならない。Merry Christmas!せめて、X’masだけでも、紛争地の子供たちが怯えることなく、平和で静かに過ごせる一日であるよう祈りたい...
2015.12.25
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♪イ~ブの夜ぉ~る~♪ イ~ブの夜ぉ~る~よ~♪おっと、これは「支那の夜」だったな...と、こんな昭和歌謡のボケも、今の世代には通じまい。(笑)李香蘭は知っていても、あいにく今のChristmas Songsに疎いのだ。こうしている間に、世間では色んなイブの夜が進行中なのだろう。などと、想像を巡らせながら明石家サンタを観るのが恒例行事。毎年、この番組だけは欠かせない。「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」は、1990年にはじまったというのをご存知だろうか。今年でもう、15年続く長寿番組なのだ。1991年3月には、春なのに編、6月には梅雨なのに編、そして、10月には今はもう秋編という特番も組まれた。中には、意味の解らない事もあった...24日の夜、アパートへ戻ってTVを点けたが番組がないっ!そしたら何と、3日後に"3日遅れのクリスマスプレゼントショー"だと!さすがに、1993年は見逃した。観たのに、観た気がしないというのも一度あった!イブの朝、フラれた部下がいて、嘆きようが酷かった。その子の親しい同僚も一緒に、馴染みの小料理屋に連れてった。よく解らん未練話と、泣きじゃくりを酒の肴に呑んだ。何もできないが、ただ愚痴を聞いて頷いて、TVをチラ観していた。2002年は、仏心が地獄を引き寄せたイブだった...しかし、その事がきっかけで職場の空気が一変した。出向先は、大半が女子で職業意識に欠け、男子は反抗的だったが、社内の連携がよくなったというか、一気に敵が味方に変わった。役職や名前ではなく、Bossと呼ばれるようになったのもその頃。影で支えてくれたのは、イブにフラれた部下に違いなかった。そこで、その子をプロジェクトリーダーに抜擢してみた。時に、上司でも先輩でもなく、"肩書き"が人を育てることもある。失恋の酒癖は最悪だったが(笑)、彼女のForceが覚醒したのだ。秋の決算報告で、赤字事業だったのが一年で黒字見込みとなり、私は、春に親会社に昇進して戻ることが決まった。それが、2003年のX’masイブだった。それ以降、明石家サンタはすべて自宅で観ているというのが、私の中で、ちょっとした自慢になっている。(笑)もっと昔のことになるが、海外出張で二度、異国のイブを経験した。一度目は、Transitのアンカレッジ空港で外気温-30℃のイブだった。吹雪で離陸が5時間遅れて、ブリュッセル到着が25日の夕刻になった。二度目は、1985年のミラノ。ミラノのイブは、街中のあちこちがイルミネーションで綺麗だった。それに、とにかくアベック(死語?)が多かったな。さて、今年もあと一週間。明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーだけは、これからもずっと、続いて欲しいなぁ...
2015.12.24
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映画やドラマに脚色があるように、曽根崎心中も脚色され、幾つものバージョンが書き下ろされている。江戸時代、京都で出版された「心中大鑑」という読物では、遊郭天満屋の遊女お初は京都生まれで、曙(あけぼの)とされ、指名率No.1の超売れっ子遊女だったとされる。こうなると、もはや悲劇の遊女でもなんでもない。もし事実だとしても、物語としては興ざめだ。それに比べると、近松門左衛門の曽根崎心中は、さすがというしかない。二人が心中したとき、事実では徳兵衛が25才、お初は21才だったそうだが、近松の曽根崎心中に登場するお初の年齢はと十九となっている。これはどういうことだろう...厄年の最初が男25才、女19才なので、より悲劇性を醸し出すのだ。それに、近松は遊郭でのお初の人気振りを、ややぼかして表現している。こういうところに、近松の作家としての粋とセンスを感じる。さて、悲恋 曽根崎心中のクイズの答えにもなるところだが、気になるのは、二人の馴れ初めだ。砂浮琴が脚色した、悲恋 曽根崎心中では、観音参りの帰りに立ち寄った、生玉神社の"茶屋"が二人の出逢いの場となり、物語が展開する。これは、馴れ初めをより衝撃的にするための演出だ。実際はどうかというと、二人は遥か前に遊郭で出逢っているのだ。浄瑠璃では、茶屋は久し振りの再会の場で、お初が事情を知るシーンとなる。今風にいうと、大坂内本町の平野屋は、江戸にも拠点を持つ一流企業で、徳兵衛は、そこのCEOと縁続きの中堅エリート社員だった。たまに、遊郭へ通うぐらいのことは十分出来る身分だ。徳兵衛は、遊郭の張り見世(顔見世)で惹かれ、お初を指名し、お初は、座敷で徳兵衛の優しい人柄と誠実さに、"一目惚れ"してしまう。本当の二人の姿は、人気No.1のアイドル遊女のお初と、一流商社マン徳兵衛。そんな二人の悲恋という、何だかバブル期のトレンディドラマの香りがする。江戸時代、俗に世話物と呼ばれた、スキャンダル物は多々あったが、登場人物は、悪女やイケメンのだけで中身のないダメ男が多い。曽根崎心中が、名作として色褪せないのは、二人のキャラだと思う。本当なら、誰より幸せになれた筈の二人...しかし、タイミングと邪な知人の裏切りで歯車が狂い、二人は悲劇的な結末を迎える。史実の曽根崎心中は、だからこそ哀しく、近松の名作として普及した。ということで、クイズの答えだが、徳兵衛とお初の出逢いのシーンが私の脚色だ。古典文学を味わってもらうため、またこういう機会を設けたい。
2015.12.23
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元禄十六年(1703)四月七日の早朝、大阪内本町の醤油問屋 平野屋勤務の徳兵衛と、堂島の風俗嬢お初の二名が、曽根崎の堤で死亡しているのを巡回の警察官が発見。 大阪府警では、曽根崎署に捜査本部を設け、心中事件と見て捜査を開始した。府警本部の発表によると、徳兵衛(25才)は知人との金銭トラブルと江戸転勤に悩み、遊郭天満屋の遊女お初(19才)の方は、田舎への身請け話が進められていたことから、引き裂かれてしまうと悲観したのが動機と見て、関係者から事情を聴いている。もし、曽根崎心中を現代に置き換えれば、こんな新聞記事になったであろう...近松門左衛門の曽根崎心中とは、いったいどんな事件だったのか、実際に起きた、心中事件を近松門左衛門の視点で、現代語訳で解説しよう。さて、この物語の舞台となったのは大坂の堂島新地界隈だ。堂島新地の遊郭天満屋の遊女お初が、客に連れられて観音参りをしていた。生玉神社の茶屋で休んでいるところへ、得意先を廻った徳兵衛が通りかかる。こうして、若い二人は出逢い、恋に落ちるまで時間はかからなかった。平野屋の主人九右衛門は徳兵衛の叔父で、働き者の甥っ子の将来を思い、女房の姪を徳兵衛の妻にしようと、徳兵衛に縁組みを迫っていた。徳兵衛の方は、何とか縁談を逃れ、お初を身請けしようと金の工面に奔走し、お初に逢うこともままならない、もどかしい日が続いていた。そんな折も折り、徳兵衛は友人の久平次に、一時の借金を頼まれてしまい、やっとの思いで都合した金を久平次に貸したが、これが後に仇となった。徳兵衛は、久平次の悪巧みで着服の罪人に仕立てられ、窮地に追い込まれる。突然の縁談の上、さらに転勤話、こうして金と義理の板挟みとなって苦しみ、真面目で真っ直ぐな徳兵衛は、次第に思い詰めてしまう。一方、お初の方でも、不意に降って湧いた身請け話に心を悩ませ、また、恋しい徳兵衛にもここしばらく逢うことも適わず、一人で気を揉んでいた。そして、ようやく逢えた徳兵衛に、お初は逢うやいなや責めて恨み言を吐くが、逆に、徳兵衛のうち明け話に、お初ははじめて事のすべてを悟るのだった。 さらに、遊郭にまで押しかけた久平次が、二人に追い討ちをかける。金を踏み倒した上、今度は徳兵衛が、偽版を使ったなどと偽りを言いふらした。お初は久平次を前に、打掛けの裾に徳兵衛を匿いつつ、心中を固く心に決める。やがて、夜も更けて皆が寝静まった頃、天満屋を抜け出した二人は、手に手をとって曽根崎の森へと向かう。漆黒の暗闇の中、二人は足を取られては何度も転びながら、それでも、手はしっかりお互いを握りしめ、森を抜けて行った。 そして、ようやくに辿り着いた梅田の堤。ちょうど、松と棕櫚(シュロ)が夫婦のように寄り添う根本までやって来ると、二人は、ここを死出の旅路の場所と定めて頷いた。雲も晴れ、蒼い月に照らされる中で、二人は名残を惜しむように互いを見つめ合う。徳兵衛とお初は、涙を溢れさせながら、来世では夫婦にと誓って身を寄せ合い、互いの腕を帯で一つに固く結んだ。「潔く死のう...」そういいながら、七首(あいくち)を抜いた徳兵衛の手は震えていた。 「嗚呼、もう夜が明ける...」徳兵衛の目をじっと見つめながら、お初が切なくつぶやいた。迷いを断ち切るように、覚悟したお初が絞り出した言葉だった。冷たい早春の風に乗り、遠くで鳴りはじめた暁の鐘の音が、二人の耳に届き、かすかな南無阿弥陀仏の読経も聞こえる。「早う殺して 殺して...」お初に促され、覚悟を決めた徳兵衛は、お初の着物の胸をさっと開いて、匕首(あいくち)で一刺しし、血の滴る七首で自らの喉笛を一気に掻き切り、熱い血をほとばしらせながら、お初の上に重なり絶命した。こうして、二人の悲恋は心中によって幕を閉じた。 ちょうど、東の空は少し明るみ、西に傾きかけた蒼い月が、切なくも美しく、二人の骸を照らしていた...徳兵衛と、お初の悲恋物語の舞台となった梅田から堂島周辺は、今では大阪市の中心地となっている。露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思ひいづれば菅原道真は、太宰府に流される途中で曽根崎に立ち寄り、この歌を詠んだ。曽根崎には、歌に由来した露天神があるが、徳兵衛とお初の心中事件以降、いつの頃からかお初天神と呼ばれるようになった。曽根崎心中は、近松門左衛門の浄瑠璃の処女作で、近松は、この事件をわずか一ヵ月後に"世話浄瑠璃"の題材として取り上げ、元禄十六年(1703)五月、大坂竹本座で曽根崎心中が上演されるやいなや、舞台は未曾有の大ヒットとなった。あまりの人気に、一時は心中が流行して社会現象になったため、享保八年(1723)、心中ものの出版や上演が幕府に禁じられる事態となる。今日のblogは、悲恋話しなのでいつものようなボケようがない。寂しいと思う方もいるだろうが、ま、こんな日もあるのだ。その分、実は古典マニア向けにはお楽しみを用意した。この話は、砂浮琴が少し物語をよりドラマチックに脚色して仕込んである。それに気づいた人は、尊敬を込めてこれから”心中マエストロ”と呼ぼう。(笑)
2015.12.22
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恐竜絶滅の原因には、諸説があった。近年はもっぱら、小惑星の衝突説が巾を利かす。しかし、つい最近になって新しい説が浮上した。約6,600万年前の小惑星衝突が、火山を刺激したという。衝突と噴火のダブルパンチが原因とする新説だ。カリフォルニア大の研究チームによれば、小惑星か噴火のいずれか一方ではなく、その両方が致命的に作用したのが原因だという。チームは、インドのデカントラップと呼ばれる地殻変動の痕跡を調査し、年代測定を行ったそうだ。その結果、生物の大量絶滅の引き金となった小惑星衝突と、極めて近い時期に、溶岩の噴出量が倍増したことが判ったらしい。つまり、小惑星の衝突で火山の地下構造が激しく変化して、溶岩や有毒ガスが未曾有の規模で地上に噴出し、地球を覆ったそうだ。 二つの大きなインパクトは、地球を粉塵と有毒ガスで覆い尽くし、過激な気候変動を招いて生物の大量絶滅に繋がったとしている。しかも、この壊滅的状況から、海や陸に生物が再生するまで、約50万年を要したというから大変な出来事だったようだ。喩えば、故障して買い替えしたばかりのガラケーをうっかり壊してしまい、Shopではいっそスマホにとお姉さんに言いくるめられ、渋々機種変して帰る途中、今度は公園のトイレにスマホを落っことしたようなもの。何か一つ歯車が狂ったとき、不運が不運を呼ぶというか、起きて欲しくない出来事が、妙に重なったり続いたりするのだ。まさに、弱り目に祟り目なお話だ...
2015.12.21
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blogタイトルを見て、2PacのCalifornia Loveが頭に浮かんだ人は、かなり"洋楽通"だと思う。(パクったんかい?)ま、そんなことはどうでもよい。私は、野菜の中でもカリフラワーがとくに好きなのだ。近頃何故か、そんなカリフラワーが安いのがかなり嬉しい。つまり、"カリフラワーLove"なのだ。昨夜の夕食にも、カリフラワーを使った。カリフラワーと、ブロッコリーを下茹でをして鶏肉と炒めた。とにかくカリフラワーLaveだから、鶏肉も控えめで塩も油も控えめ。他にタマネギとしめじ、それとソーセージを1本刻んで入れた。 さて、カリフラワー選びのポイントは鮮度と重量。切り口が変色せず、ズッシリして締まったものを選ぶこと。日持ちしない野菜だから、直ぐ食べるのがBestなのだが、しばらく保存する場合は、袋に入れて野菜室に入れる。新鮮だと、生でも食べられるが、茹でるとさらに美味い。カリフラワーを上手に茹でるには、鍋の水に塩を少量加え、少しレモン果汁か酢を加えると、白く美しく仕上がる。料理に使う下茹では、1分が目安と考えて欲しい。茹であがりを加熱せず、添えるかサラダにするなら、約1分30秒。茹で過ぎは食感が損なわれ、栄養も無駄にするので注意したい。茹であがったら、ザルで湯切りしてそのまま冷ます。冷水を通したりすると、水っぽくなってしまうのだ。栄養成分を重視するなら、蒸すという調理方法も好ましい。蒸す場合、2分ほどがお勧め時間だ。チンして蒸すのもアリだが、蒸し器より時間はかかる。 カリフラワーを冷凍保存する場合は、下茹でしてから冷凍する。冷凍保存するカリフラワーは、なるべく固茹でしておくのだ。使うときは自然解凍、または電子レンジで解凍する。カリフラワーは、アブラナ科アブラナ属の一年生植物。名前の由来は、キャベツ類の花という意味で、Kale Flower、またはCole Fllowerからきているという。ルイ15世の愛人デュ・バリー伯爵夫人の髪がカリフラワーを連想させたため、カリフラワーを使った料理レシピには、デュ・バリーの名が多い。日本一の生産量を誇るのは徳島県で、年間約2,600t生産出荷される。淡色野菜としても栽培されるが、観賞用にも栽培されているようだ。最近、にわかに食用の種類も増えた。何故か今日は、松岡修三みたいに熱くなってしまったようだ。やはり私は、カリフラワーLoveなのだ。(くどい!)
2015.12.20
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人は、冬にどんな色を感じ、どんなイメージを持つだろう。勿論、人によっても、環境によっても大きく異なるだろう。 ☆写真はクリックすると拡大都会だと、SALEのポスター、クリスマス・デコレーションや、街頭の煌めくイルミネーションに冬を思う人もいるだろうし、歳暮や冬の行楽を思い描くかも知れない。喧騒を離れて自然に近づくと、葉を落とした木々、乾いた土、鉛色の海、軒下の柿、霜柱や凍てつく小川に冬を見出す。それも、まだ雪国の人が描くイメージとは違う冬だろう。かつて、部下や知人には、豪雪地帯出身者が何人かいた。話を聞くと、雪国の冬の暮らしは長く厳しいという。私が生まれたのは祖父の別宅で、地理的には近畿に位置し、雪国の人からすれば、暖地と決めてかかるだろう。だが、実際は少々違うのだ。祖先の名に由来するその地域は、中世の館址が点在し、大和の国に近く、集落は深い谷を挟んでいた。紀州北部の山間部の冬は、意外と厳しいものだった。私が抱く冬のイメージは、囲炉裏の炎の色だ。煙をひいて燃える小枝、薪がパチパチ爆ぜながら燃える色。広い土間から、一段上がった十六畳の板間に囲炉裏があった。燻された天井の梁には、電燈が一つ吊るされていた。囲炉裏端には、いつもドラマがあった。出稼ぎの山林労働者たちの身の上話や、年頃の娘たちの恋話、僧侶や古老には、山河の伝説やあやかしの話を聞いた。猪や鹿狩りの頃は、近郷の人が集って銃の手入れをしたり、狩猟のあとの酒盛りで、喧嘩や口論が起きたりもした。大抵の場合、集落の相談事や諍い事は祖父が収めた。他にも、川の堤防や橋の架け替え、祭りや寺社の改修の差配など、祖父は祖先の地に帰る度に、地域の世話をよくした。囲炉裏から漂う、猪鍋やアマゴの焼ける匂いが好きだった。外は静かに雪が降り、囲炉裏には山桜が咲くまで火があった。冬は春を待ち、命が眠ることを実感する体験だった。今でも時々、あの頃の風景が瞼に蘇える。かつて、人はもっと自然に近く、寄り添って暮らしたのだ。季節を忘れ、自然を忘れ、縁を忘れて人といえるのだろうか...
2015.12.19
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午後遅くに、クロネコ便で荷物が届いた。受け取った荷物は、発泡スチロール製の大きな容器だった。耳を近づけると、何やらカサカサと音がする。私は、それほど敵はいないので、爆発はしないと思われた。送り状の品名欄には、控えめにエビとだけ記されていた。しかも、差出人は故郷の親戚ではないか。こ、これは... もしかすると...胸の鼓動は高鳴り、期待がほぼ絶好調に達した。荷を解き、開けて見てやっぱり~♪と声が出た。久々の伊勢海老との再会に、思わず涙が溢れそうになった。(感動の対面)傍らで、一部始終を見ていた母は、慌てて台所へととって返し、私にそっと、包丁と軍手を差し出した。一も二もなく、夕食は刺身だという合図である。これが、わが家の暗黙の了解なのである。伊勢海老は、棘が鋭く殻が固いので、暴れるとただの"危険生物"と化す。(注意!)一匹めは手こずったが、二匹めはコツを思い出し、要領よく捌けた。ん~♪ やはり、ほんのり薄紅色のビジュアルが魅力的だ。何故であろうか... 普段なら間違いなく"主采"である筈の鰤だったが、今宵だけは、妙に鰤の存在感が薄い。(笑)伊勢海老は、頭と殻も捨てるなどという考えはまったくない。まとめて鍋に入れ、味噌汁に仕立てる。人間とは、実にあさましい生き物ではないか...早く食べたいという一心で、盛りつけはいつも以上に雑。(笑)伊勢海老とは、エビ目(十脚目)イセエビ科に属するエビの一種で、広義には、イセエビ科の数種類のエビを指したりもする。その姿が、鎧武者のように立派で、美味であることから、古来縁起物とされ、祝儀用や正月飾りや神殿への供物などにも珍重される。また、伊勢海老は、鎌倉海老や具足海老などとも称された。伊勢海老の名がはじめて登場する文献は、安土桃山時代の「言継卿記」。江戸の頃、井原西鶴が諸大名が祝儀にするため、高値であると記している。また、新年の季語にも挙げられている。ココで、"味は想像に任せます"などと省略するとクレームがくる。(笑)活け物は、家庭で捌くのは大変だが、味はさすがに美味。美味い♪ 切なくなるほど美味い。伊勢海老は、筋肉が発達しているので独特の弾力があり、一般のエビより、食感はモチモチしてボリュームがある。噛むほど、口の中には伊勢海老ならではの甘味が広がるのだ。伊勢海老の醍醐味は、何といっても殻で作った味噌汁。出汁が濃厚に出て、磯の香りが故郷の熊野灘を思い出させる。残った伊勢海老は、クリスマスかお正月用に冷凍保存。チーズをまぶし、テルミドールにでもして味わうことにする。
2015.12.18
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災害は起きて欲しくはないが、日常から備えは必要だ。保存食や飲料水、災害備蓄に特化した専用のキャビネットを作る。上の段は、扉つきで水、米、缶詰、乾物と、キャンプ用品を保管。下の段は、タマネギ、イモ類を保管するスペース。材料は、余り物の角材と野地板や荒材の寄せ集め材料で、材料費をほぼゼロ円にする計画。両側の枠と中央の支柱から作る。枠の各部の凸構造が今回のミソ。枠を作れば、凸部を利用して板を渡して連結するだけ。ごく単純な設計だから、作業効率はかなりイイ。下段は、通気性を考えてスノコの構造だ。もうすっかり、お馴染みになった火あぶりプレイ♪(笑)扉の材料も、すべて余った部材で組み上げているので、ここまでの費用は、スクリュービス代280円(税込)だけ。本体が出来たので、黒の防腐塗料で塗装。上段は密閉できる構造だ、下段はスノコ構造。昼食前に購入した塗料代は2,808円也。ご覧の通り、屋根は継ぎ接ぎになったので、大雨は不安。対策に、隙間にはシリコンでコーキングして処理する。扉も火あぶりしたあと、色違いの防腐塗料で塗装。扉の取手は、里山を散歩したときに拾った栗の枝を流用。裏から、ビス留めしてみた。組み上がると、かなり頑丈なので安心した。寸法:巾1,805mm 高1,010mm 奥655mmDIYは、決して難しくはない。DIYの成否は、すべて設計次第といえる。計画スケッチをして構造を決め、図面さえ出来れば、あとはプラモデルと同じ要領でちゃんと組み上がる。このDIYの総費用は、3,088円(税込)也。当初の志はゼロ円計画だったが、これは仕方ないなぁ...
2015.12.17
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少し手間だが、天板は磨きとニス塗りを三度繰り返すと、艶が出て綺麗な木目に仕上がる。天板を載せる部分は、真ん中に梁を組み込んで強度を持たせておく。組み上がったら、歪みや狂いがないかチェック。出来た本体の表面を、またまた400番サンドペーパーで仕上げ、刷毛ではなく、布に油性オイルステインを含ませて着色。このとき、手袋をはめ忘れるとエラいことになる...(笑)油性のオイルステインの濃度は、専用薄め液を買わなくても、灯油でも調整出来る。天板をビス留めすれば、あとは仕上げ作業なので、作業を進めて、重くならないうちに屋内に入れた。扉を取りつけ、底には移動用にキャスターを取りつけておいた。ラチスの寸法に合わせて設計したので、扉の取りつけは簡単。マグネットの扉受けを本体内側に取りつけ、勝手に開かないようにした。あらかじめ、収納する物の寸法を測り、それに合わせて棚を配置。かなりの量が収納できる。まぁ~! 何ということでしょう♪(笑)一応、屋内の内装にマッチするよに作ったので、廊下でも洗面所でも場所を選ばず、違和感はないと思う。キャスターがついて、年寄りでも楽に移動できるし、天板の上には、着替えなども置ける。洗面所収納:高さ985mm 巾800mm 奥行355mm。重量16kg 耐荷重168kg(計算値)今回、作ってみて思ったのは、ラチスって結構使えるもんだよ♪
2015.12.16
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浴室の脱衣スペースを兼ね、収納を十分考慮した筈の洗面所だったが、しかし、母はうちの家は収納が少ないのだという...いやいや、そんな事は絶対にないのだ。設計の段階から、収納は十分に確保していた。母は、安いと何でも"爆買い"して、収納に詰め込むのだ。そもそも三人家族のハズだが、収納には石鹸だけでも54個、シャンプーの詰替えが20袋、歯ブラシが何故16本もあるのだ。浴室洗剤に至っては、恐らく一生涯賭けても使い切れまい。洗面所に収納を作って欲しいというが、洗面所は狭くなる一方。先々の置き場も考えて、容易に移動できるキャビネットを作ることにした。ちょうど使い古しのラチスがあるので、今回は扉に利用する。400番のサンドペーパーで軽く撫で、ザラつきをなくして着色。塗料は、マホガニーのオイルステインを使用した。側面部は、5mm厚の合板を使い、45×18mmの杉をフレームに。室内使用だから、接着剤は木工用ボンドでよい。天板は、18mm厚のパイン集成材で加工し、焼いて木目を強調した。側面部を加工しつつ、天板を丁寧に磨き油性ニスで仕上げる。側面と床の接合部は、骨材を重ねてビス留めし頑丈に組む。木工用ボンドが乾いたら、本体はほぼ組み終わり。大型収納庫と比べると、ハイペースで出来そう♪しかし、待て待て、どうも何か順序が可笑しいように思うのだ。まず先に、母は断捨離をはじめた方がよくはないか?
2015.12.16
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毎年、一年の世相を漢字一字で表す今年の漢字が発表される。今回は「安」に決まり、昨日、京都の清水寺で発表されたそうだ。すっかり、関西発の恒例行事だと思っていたが、まだ21回目だという。消費税が話題となった昨年は「税」だった。今年の漢字は、一般からの公募票数に基づいて決定するらしく、「安」に続く、二位は「爆」、三位は「戦」だったそうだが、「爆」はさすがに駄目だろう...(寒)しかし、もっと駄目だったのはうちの母だった。テレビで観た途端、「へぇ~今年は、あかぁ~」と真顔でいうのだ。だから、"漢字一字"だと、いっているではないか!まぁ、確かにぱっと見は「あ」に見えなくもないが...(笑)
2015.12.15
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夕闇の江を、独りで散策している途中、空を見ると二日月に気づいた。二日月(ふつかづき)のことを、既朔(きさく)ともいう。新月は暦のはじまりで、古来新月のことを朔(さく)と呼び、旧暦では朔と記して「ついたち」と読んだりもした。八朔(はっさく)や さて明日よりは 二日月 という蕪村の句がある。八朔とは、旧暦の八月一日の月ことで、明日は二日月という意味の句だ。元々、旧暦は月の運行を基に作り出された暦で、多少ずれはあるものの、毎月一日は「朔」、新月で一ヶ月がはじまるのだ。今宵は、月と暦の歴史について、少しお話をしよう...新月から、満月を経て新月に至る厳密なサイクルは29.5306日なので、30日の大の月と、29日の小の月をほぼ一ヶ月交代で繰り返し、12ヶ月で一年としたのが、古代に用いられた太陰暦という暦だった。太陰暦では、月が全く見えない日は1日と30日(あるいは29日)。満月は、15日と決まっていたので分かりやすく便利だった。しかし、この暦には大きな問題があった。太陰暦は、一年が354日にしかならず、実際の太陽年より約11日短くなる。このまま太陰暦を使っていると、三年弱で季節が一ヶ月もずれてしまうのだ。そこで、二、三年毎に閏月を挟む太陰太陽暦が中国やエジプトで考案された。この太陰太陽暦が、旧暦の原型となる暦だ。奈良時代のはじめ頃、日本は中国から太陰太陽暦を取り入れ、これに、日本独自の改良を加えて旧暦とし、明治五年まで使用する。明治五年(1872)、太政官布告が出され、日本は突然太陽暦を採用。これ以降、日本人は月の満ち欠けと、日付との関りを失った。そういえば、EXEILの歌にも「二日月」というのがあったな...
2015.12.14
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とびっきりの美女とか、イケメンのお兄さんとか、高級時計とか、人は美しいものに惹かれるけれど、"本物の美"とは何故だろう。それぞれ好みも違えば、美しいと感じる対象も相当違ってくる。とくに人物の場合、一言で語り尽くせないからやめておこう。(笑)工業製品となると、私は先ず機能というものを一番重視する。美しいフォルムは、機能によって生まれるという確信がある。本当は、重機や工業用アイテムを手掛けたかったが適わず、食品の意匠や化粧品の容器や外箱のデザインを多く手掛けた。以前にも書いたが、私的には独創的で速くてカッコイイものが好きだ。列車なら、あのロケットのようなフォルムが異彩を放つ500系こだま。 バイクなら、市販モデルなのに公道で軽く時速300キロを叩き出し、あの艶かしいボディラインがそそる、SUZUKIハヤブサ。クルマだと、王道のポルシェやフェラーリを尻目に、頑なに質実剛健な技術を貫く、アウディTTクーペ。その究極が、航空機ではなかろうか。日本の航空機技術は、敗戦とともに一度は完全に廃れたが、今、不死鳥のように蘇えり、世界の空へ羽ばたこうとしている。例えば、環境適応型高性能小型航空機計画と銘打って三菱が開発したMRJ。民間航空機では初となる、ヘッドアップディスプレイ(HUD)の採用に加え、強化型対地接近警報装置(EGPWS)に、航空交通警報装置、衝突防止装置の搭載など、三菱独自の先進技術が惜しみなく投入されている。飛行性能と省エネを、高次元で実現したフォルムはとても美しい。もう一つは、ホンダJetの名で親しまれる、革新的小型ジェット機だ。ホンダJetは、GEと共同開発したHF120型パワーユニットを、主翼の上にマウントした個性的な意欲作だ。【はじめての方限定!一冊無料クーポンもれなくプレゼント】ホンダジェットの冒険 紆余曲折、...価格:617円ホンダが開発した小型ジェットは、コンパクトで軽量。デザインも独創的で燃費と静寂性能は世界最高水準だという。社会で、カッコイイと感じるデザインは、こうした機能性から生まれ、 奇をてらうことのない、確かな技術の熟成がそれを支えるのだと思う。芸術や工芸の世界にも、概ね同じことがいえるのではなかろうか。本物の美とは、チャラチャラしたパっと見の"キレイ♪"とは違うのだ。絵画も、書も、工芸品も、基本知識の習得と地道な技の修練、そして、モノ作りへの熱い情熱から生まれるのだと思う。人の暮らしがある限り、そこには必ずモノ作りが生まれ、その機能を高める行為の中で、人は自然と美を生むのだと思う。春画展も、もう直ぐ終わるらしい。観に行きてぇ~なぁ~。
2015.12.14
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よく、正月の挨拶に用いられる迎春は、春を迎えるという意味で、新年を迎えて、慶ぶという意味がある。飛雪迎春の飛雪とは、吹雪を指すと共に、試練も意味し、厳冬があってこそ、より慶び多い新春を迎えられるという意味。彫ったゴム版と、木製の台とは直に接着剤で貼るのではなく、クッション性のある3Mの両面テープを使用して貼ってある。一応、正月用に作ってみたが、年賀状に使うかどうかはまだ未定...
2015.12.13
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私が捨てようというと、母はいつも置いておくという。だが、本箱としてはまともに機能する代物ではない。70年以上大切にしてきたというが、板は欠けて虫食いだらけ。いざ、修理しはじめたものの、板も朽ちてあちこちが内部までボロボロの有様で、釘もすでに利いていない状態だった。自信はないが悩んでも仕方ないので、腐食が進んだ部分は切り取り、救える部分はなるべく残して補修。ケヤキの薄板がないので、檜材で代用して欠損部は新しく作り、虫食い穴に樹脂を充填して、エポキシ樹脂で穴を埋める。補修を終えて、サンドペーパーで劣化したニスを落とし、防腐剤入りの塗料で塗装。何とか、概ね復元はしたが、元々がそれほどイイ物ではない。これでまた、母の想い出の本箱は生き延びるだろうと思う♪実は、本箱は母にとって父親が残した唯一の品だそうだ。母の父親(祖父)は、憲兵隊の将校だった。ニ・ニ六事件には東京憲兵隊に所属し、反乱の鎮圧に奔走し、反乱軍将校の取り調べなどを担当した。開戦後は、仏領インドシナに一時赴任し、内地で終戦を迎えたが、昭和20年秋、戦犯の汚名を着せられ取調べ先で割腹自決した。後に、支援者の追及で告発が虚偽だったことが証明されたが、祖父の汚名が消えるには至らなかった。祖父を告発したのは、同じ日本人の上官と警察だった。昭和21年、母はこうしてに8才で父親を失い、戦犯の子と、時には石を投げられたりしながら育った。万博の頃になって、母の元へ数名の外国人がやってきた。世話になったお礼に、献花したいと訪ねてきたのだった。彼らは元捕虜で、日本兵に虐待されているところを祖父に救われた。祖父は、英語は下手だったが、自分たちに優しくGentleman likeで果物などを差し入れて、励ましてくれていたという。この本箱は、祖父と母を繋ぐ唯一の想い出の品だった。
2015.12.12
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年末を控えて、少々慌しい中だったが、菩提寺へお参りし、遠縁の翁の三回忌の法要を済ませた。私が喪主として、遺骨は3年前に知恩院に納骨していた。法要のあと、翁の位牌を手に御所の大路も散策して巡った。翁にとっては、さぞ懐かしい風景だったろう。翁の遺骨が、祖国日本に戻ったのは、今から3年前のこと。亡くなったのは、遺骨が戻る一年ほど前のことだった。長生きされ、享年99才の大往生だったという。実家は途絶え、現地の日本領事館から大阪の伯母に連絡が入り、伯母に相談されてはじめて事の次第を知った。翁は、元帝国陸軍中佐で、一族の中でも最長寿だと思われる。北面の武士の庶流に生まれ、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進み、陸軍大学を卒業したのち日中戦争に従軍。満州で終戦を迎え、そのままシベリアに移送され抑留された。収容所で、粗食と過酷な労働に耐え、帰国できたのは昭和31年。右足の指をすべて凍傷で失ない、左目は失明していたと聞く。京都に戻ったとき、妻はすでに他の男と所帯を持っていたため、自分は黙って身を引き、先祖の墓参を済ませて上京した。その後、昭和40年代にアルゼンチンへ渡って終生独りで暮らした。ブエノスアイレスでは宝石商を営み、暮らし裕福だったようだ。翁は財産を残しており、遺産は血縁のない元妻の子と孫に贈られた。3年前に、毛筆で綴られた翁の手紙を読ませていただいた。そこには、妻を責める言葉は微塵もなく、財産を遺贈する旨と、留守中の労いと、苦労を掛けた謝罪と感謝の言葉しかなかった。元妻は他界しており、子や孫を探すのには苦労した。翁の手紙を、元妻に手渡すことができなかったのが残念だった。翁に限らず、戦争とは人に残酷な運命を課すものだ。40才半ばまで、翁は苦難と試練の連続ではなかっただろうか...せめて、アルゼンチンでの晩年が穏やかであったと信じたい。戦死こそなかったが、わが祖父も翁も、国に命を献じたと思う。彼らの生き様こそ、サムライそのものではなかったろうかと。わが家の仏壇には、戦没した一族103名の位牌を納めている。その数は、わが家の歴代当主と家族の位牌より遥かに多い。内訳は、戦死102名、戦病死1名、収容所で割腹自決1名となる。やむを得ない事情の家や、三十二家が跡継ぎを失い途絶えたため、わが家が位牌を預かる、唯一の一族縁戚となった。途絶えた多くは鎌倉、室町以来の家で、翁の家を含めると三十三家となる。平和の志には共感するが、安易にデモに参加し安全保障を蔑ろにする輩に、死を覚悟して里に遺髪を残し、戦場でわが身を捧げた一族の位牌を、奴等の眼前に突きつけてやりたいとTVを観て思うときもある...
2015.12.11
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同じ1ヶ月でも、12月だけは心の在りようが違う。この時期になると、何故かちょっと焦ってしまう。冬至を控えて、日が短くなるからだろうか、いや違うな。それなら、1日少ない11月の方がもっと悲惨な筈だ。きっと、”師走”という言葉に踊らされているのだ。そうだ!そうに違いない。忘年会や、御節料理の買出しや正月準備、ケーキの予約などと、何かとイベントが多いのも困りものだ。そもそも、何故12月に大掃除をしなければならんのだ。片付けや掃除が苦手な私には、まるで地獄の責め苦ではないか!年賀状の準備も、悩みの種ではある。年賀状を、手作りで出すようになったのは最近のことだ。昔は、社用の年賀状と一緒に印刷に回したりしていたし、そうでなければ、PCで即席に作ったりしたが味気なものだった。年末の忙しい時期に、凝ったことなどできない。年々、送る枚数を減らしたからできるようになったことだ。一昨年、はじめて篆書のゴム版を彫って年賀状に押した。今年も、そうしようと思うがどんな風にしようかと悩む。
2015.12.10
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永遠の変なおじさんが、本当に蛍になってしまった...あの、作家の野坂昭如氏が、都内の病院で亡くなったという。ここしばらく、メディア露出もなくなり気になっていた。以前の、あのTV放送中の大島渚監督とのマジ喧嘩は面白かった。酔っ払ってる風で、グダグダ文句をいうオヤジ振りが好きだった。一番笑えたのは、俗に四畳半襖の下張裁判といわれた事件だった。永井荷風の春本「四畳半襖の下張」を主催雑誌に掲載して摘発され、性描写を巡って最高裁まで争ったことだろうか。裁判では、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子など、著名作家を証人申請して話題を集めた。 永井荷風の「四畳半襖の下張」は、奇妙な設定と特殊な文法で知られる。購入した民家の襖の下張から、春本を見つけたという第三者の視線なのだ。「はじめの方は、ちぎれてなし」という冒頭が、如何にも芸が細かい。内容は、いわば中高年の好色男の回顧禄で、性遍歴で変化する心情が綴られ、女房との芸者時代から、結婚後の性の営みの様子が生々しく表現されている。そんなハチャメチャな人だが、文壇の業績は驚くほど輝かしい。野坂氏の文芸は、常に底辺を掘り下げて描く、リアルな社会派なのだ。「火垂るの墓」や「アメリカひじき」などの小説だけに留まらず、焼け跡闇市派と称して、ヒット曲「黒の舟唄」などでも知られた。その後、野坂氏の中では、男と女の間の川は埋まったのだろうか。ともかく、生涯やんちゃで愛すべきロクデナシの御仁だった。「おもちゃのチャチャチャ」の作詞者というのは知らなかった。どう見ても、子供向けとは思えないのだ...(笑)
2015.12.10
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表庭は冬の装い、椿と山茶花が主役を占めるようになった。他の花となると、魚柳梅がそろそろ咲きはじめている。正直をいうと、私は南天や万両があまり好きではない。私の好みは、千両とか百両の実のつき具合がイイのだ。念のためいうが、大金より小銭がよいという意味ではない。その万両が、今年は厭味なほど赤い実をつけている。母が正月飾りに切るまで、任期満了とは行かない...冬の花といえば、一字異なるが印象に残った映画がある。港町横浜を舞台に、高倉健と池部良とが共演した「冬の華」。北大路欣也、倍賞美津子、池上季実子、田中邦衛、峰岸徹らが脇を固め、義理に厚い昔気質の男が、抗争に巻き込まれてゆく姿を描いたもの。脚本を倉本聰、監督を降旗康男、音楽はクロード・チアリが手懸け、ヤクザ映画には珍しく、劇中に絵画やクラシック音楽が散りばめられていて、叙情的な作品に仕上がった映画だった。そろそろ、大掃除をやっていかないと、また大晦日に泣きをみるな...(汗)
2015.12.09
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ハワイ、ハワイと 夢見てきたが流す涙は甘庶(きび)の中行こかメリケン 帰ろか日本ここが試案のハワイ国今日のホレホレ 辛くはないよ昨日届いた里便り横浜出るときゃ 涙で出たが今は子もある孫もある条約切れても 帰れぬ奴は末はハワイのポイの肥(こえ)※ポイとは、タロイモの意。(ホレホレ節より)ホレホレ節は、ハワイの日本人移民が歌い継いできた労働歌だ。 ホレホレ節の旋律は、当時、山口や広島、熊本の出身者が多かったため、それぞれの地域の特徴が混ざったメロディーだと推定されている。公式の移民は、明治18年(1885)の第1回ハワイ移民の940名が最初とされるが、これより18年も前、"元年者"と呼ばれる153名の伝説の移民が存在した。折りしも、江戸無血開城直後の明治元年(1868)4月24日のことだ。この移民は、幕府役人とイギリス人ブローカーとの非合法の契約だったため、明治新政府には許されないまま横浜から無断出港して移民をしたという。一方、公式のハワイ移民のきっかけは、明治14年のカラカウア王の訪日だった。この頃、領土拡張を狙うアメリカ政府と農場主や実業家の画策によって、ハワイ王国は国家存亡の危機に瀕していた。カラカウア王は、日本の皇室とハワイ王朝が縁戚となることでアメリカを牽制し、ハワイの独立を保とうという望みを繋いでいた。もし実現していれば、ハワイは東京都になったかも知れない。世界一周旅行の途中、来日したカラカウア王は、さっそく明治天皇に謁見し、自分の姪と山階宮定麿親王との婚儀を申し出たが、王の願いは実らなかった。しかし、この時に日本から移民を送る協定は交わされたのだ。そして、明治18年(1885)1月27日、ハワイ移民第1号の940名が、シティ・オブ・トーキョー号に乗船して横浜を出港し、ハワイを目指した。その後、移民は明治26年まで続き、約3万人がハワイに移住する。政府公認の移民とは違って、元年者の移民はあらゆる面で苦労を強いられた。しかし、彼らが土壌をつくり、ハワイ発展の礎となったことはいうまでもない。ハワイ王朝末期、日本で激動の維新を生き抜いた元年者はハワイの地でも、土地の人たちとともに荒地を耕し、アメリカに後押しされた共和制派と戦い、王朝を最後まで守ろうとしたそうだ。冬の様相を呈した庭には、祖父の植えた椿が次々に花をつけている。そういえば、今日は12月8日だった...
2015.12.08
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今日は、三ヶ月に一度の母親の通院日だったので付き添った。午前中いっぱい病院に時間を取られ、13:40頃に清算を終えた。とにかく、お腹が空いたので間近にあった中華料理店に入った。とくに店を選ぶでもなく、病院の駐車場に近いという理由だ。何処の町にもあるような、志村けんのコントに出てきそうな外観。当たり前のことだが、志村けんはいなかった。(笑)いかにも温厚で、実直そうな風貌の大将だった。とくに、何を食べたいという気持ちでもなかったし、品書きの一番上にあった、中華ランチを注文した。15分ほど待っただろうか、見た目も普通の中華ランチだ。だけど、スープをひと口飲んだ瞬間に期待が膨らんだ。旨いではないか!スープは、鶏ガラから出たであろうコクと風味がとてもイイ!そして絶妙な塩味と葱の香りに、ハートを鷲掴みされた。紅生姜を添えた肉団子も、ふわり柔らかだが、肉の食感がイイ。チャーシューは、口に含むと五香粉の香りが広がる。絶妙の火加減で仕上げられた酢豚がまたよかった!おまけに、米が旨いのだ。ごく平凡な中華ランチのハズが、嬉しい誤算だった。どれもが、シンプルだが丁寧に出来ていて旨いのだ!お店の、如何にも大衆っぽい外観に惑わされてはいけない。基本に忠実に作られた料理を、あなどってはいけないのだ。
2015.12.07
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母親からは、肉料理が食べたいというご希望。適当でイイなら、という条件つきで冷蔵庫を覗いてみたけど、しかし、ステーキとかまとまった量の肉料理はできないショボさ。冷凍室には、ちょっとだけ残って冷凍していた鶏ムネ肉が100g。それと、母親が昼食に作った豚汁の残りの豚バラ肉がチルドに3枚と半分。野菜室の隅っこで、レタスも発見したが2枚だけしか残っていなかった。カリフラワーは、この前ポトフを作ったときの残り半分で、牛肉は、覚えてないぐらい前のすき焼きの残りだと思われた。ニンジンは、近所からの貰い物が1本あって、なんちゃら葱が1本。なんちゃら葱に、大胆に豚バラ肉を巻きつけ、蒸したニンジンには牛肉を巻き巻き。カリフラワーを下茹でしてから、鶏肉とタマネギと、余ったニンジンを加えて塩コショウで炒めた。巻いた肉は、フライパンで蒸し焼きし、すり下ろしタマネギに、醤油とみりんを加え、フライパンの肉汁と一緒に加熱してソースに。夕食は、冷蔵庫の余り物丸出しのような夕食になったが、何とか三人分の惣菜はできた。プラスアルファの1品は、クノール・カップスープ。今夜はこれぐらいで勘弁しておくれ...適当過ぎて、料理というのも何だけど、まぁまぁ美味しい♪
2015.12.06
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(東洋経済オンラインより)モノづくりの情熱が込められたBikeの価格が、税込2,190万円。ホンダ製Bikeのこれまでの最高額は、NRの520万円(1992年)で、それを、一気に上回る価格となる。高額にも関らず、既に各国から300件以上の購入希望が寄せられ、日本国内でも43件の商談があり、年明けから納車がはじまるとか。2013年、14年のモトGPを二連覇した車両を、公道仕様にしたRC213V-S。生産台数は1日1台で、2016年末まで約250台を製造する。RC213V-Sには、独自のデュアル・クラッチ・トランスミッションを搭載。燃費重視の走行と、スポーツ走行のモードの切り替えができる。エンジン部の歯車に許容される隙間は、一般量産車の6分の1の精度。エンジンから、フレーム溶接、塗装、組立てまで全工程を手作業で行い、社内の技術者から選ばれた、25人の精鋭が作業を担うという。実は、私はホンダのBikeは乗ったことがない。当時から、CB400とかホンダのBikeは高嶺の花だったのだ。はじめて乗ったは、2サイクルエンジン搭載のKwasakiの250SS。次いでKH250と乗り継いだ後に、オイタが過ぎて二輪免許はお返しし、50才を過ぎて、再び免許を取得し、乗ったのがSKY WAVE。Big Scooterは、カメラを積んでちょい旅するには楽でよい。いつかはハーレーという志は、何処へ行ったのだろう。楽するなら、乗るなというクレームは一切受けつけない...(笑)
2015.12.06
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関西国際空港に、日本とトルコの友好の翼が舞い降りた。12月3日、特別塗装のターキッシュエアラインズのA330が飛来。KUSHIMOTO号と命名された機で、折返し便の出発に合わせて、串本町の田嶋勝正町長も招かれ、記念式典が行われた。今日から、公開される映画「海難1890」とコラボした特別仕様で、イラン・イラク戦争時に、日本人救出に飛んだトルコ機を復刻したもの、イスタンブール~関西空港間に運行投入されるそうだ。映画「海難1890」は、軍艦エルトゥールル号遭難をテーマにした物語。史実を基に、現在の日本とトルコとの友好関係の礎を描いた合作映画だ。1890年、オスマン帝国の親善使節を乗せた軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本沖で座礁し、乗組員618名が荒れ狂う海へ投げ出される。500名以上の犠牲者が出る中、地元民の懸命な救助活動で69名が救われ、この事件をきっかけに、日本とトルコには強い絆が結ばれた。1985年のイラン・イラク戦争では、テヘランに日本人が取り残され、当時の日本大使館はトルコに邦人救出を依頼した。実際、軍艦エルトゥールル号の遭難と串本住民が行った救助活動は、現地の教科書にも掲載されていて、トルコの誰もが知る歴史だ。昨今、国と国との関係には色々あるが、第三国への政治的意図や、資源の獲得競争や、軍事的同盟関係などの利害が絡む関係より、人の恩で結ばれた絆ほど、確かなものはないと学べる。最近の周辺の外交関係を考えると、日本の外務省関係者と、ご近所の2カ国の首脳にも観て欲しい映画だ。和歌山の串本町といえば、故郷の直ぐ隣町だったりするし、製作当初から、前評判の高い映画なので劇場で観たいと思う。余談だが、ルミナリエで阪急電車も午後から混むわぁ~
2015.12.05
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滑って、喝采を浴びるのはフィギュアスケートの羽生結弦君。滑っちゃいけないのが、漫才師と雪道。(えらいこっちゃ...)北西の風が強くなり、急に冷えてきた。この間は、ナイト1960さんのblogを見たら交換したらしいし、そういえば、kabachan2828さんも換えていたな。新聞の折込チラシを見ると、冬用タイヤが何とも破格値。最近はホイールとセットで、バランス調整済みの通販も多い。通販で買って、自分で取りつけるのもアリだが面倒だ。古いタイヤを積み込みShopへ行くと、ホイール込みで30,000円(税込)。そして、タイヤだけの交換だと57,000円(税別)になるという。意味が解らない! そこで、店員の兄ちゃんにツッコんで聞いてみると...私のタイヤは、14inchに55の扁平タイヤだから高いのだと。もし14inchにこだわりがないなら、ホイール下取りで安くなるとのこと。 店:「元々、純正は13inchでしたね~?」店:「インチアップされましたね~?」砂:「エェ、確かにそんな風でした...(笑)」店:「インチダウンすると、お安くなります」店:「扁平タイヤじゃなければ、安いんです」砂:「あっそ~♪ お願いします」こうしてクルマは7年目だが、ホイールだけピカピカになったのだ。この次、夏タイヤのホイールもこの手で行こう♪ 甘い話には、たいていウラがあるが、コイツは甘いだけでウラがない。(笑)
2015.12.04
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文徳武功は、文武両道と同義語としてよく用いられるが、本来の目的が少しばかり異なる。文武両道は、個人に学問と武芸の嗜みを促すことだが、文と武を合わせても、徳に欠ければ世は治められない。文徳武功とは、武力に頼らず、学問で人を教化する徳と、武勲の誉れを身につけるよう、治世者の資質を説いたもので、いわば、天下を治める者への戒めの意味合いが濃い。責任ある地位に就くべき人物は、物事を損得ではなく、尊徳で判断を下せる人物であるべきなのだと私は思う。企業人も同じで、高学歴で経験豊富で成績優秀であっても、人に慕われず、徳に欠けるなら長となる資格はない。元部下が、外資系企業のヘッドハンティングを受け、CEOに迎えられるという朗報が入った。電話で彼が、「何かのときは力を貸してください」というので、「大問題が起きたら呼んで」と応えておいた。年明けに着任する彼のために、文徳武功の文字を彫り、餞に贈ろうと思った。新たな職場で、彼が慕われ力を発揮できるよう心から願うし、問題が生じれば、応援するつもりだ。
2015.12.04
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今日の午後は、両親を連れて外食をした。午後2時を過ぎて客は少なく、客は障害があると思しき人と、禁煙の店内で咥え煙草で食事する若夫婦と、騒ぐ子供だけだった。子供は靴のまま、空席の椅子を飛び回り、親はコップに吸殻を捨てる。店員は、見ぬ振りを決め込み、実に不愉快な風景だった。しばらくして、障碍者の男性が席を立とうとするが立てない。それを見て、子供らはケラケラ笑いその親まで嘲笑う。店員に目をやると、バイトの若い姉ちゃんを口説くのに夢中で、椅子でもがく男性を意にも介さない。私の苛立ちは、ピークに達した...私は、口に含んだ料理を飲み込んでから席を立ち、男性に声を掛け、抱き起こして店の戸口まで手を添えた。誰もが、一体どんな教育を受けてきたのだ。買い物を済ませ、家に戻る車中、喋る気もなくした。多くの親が勘違いしているが、教育は学校の専売特許ではない。地域の大人たちから善悪を学び、社会性を身につけるのだ。昨今、犯罪は低年齢化し、犯罪が娯楽の延長になっている。躾を受けなかった親が、躾をするのだから無理もない。それが大人になると、幼児虐待や子供を狙う変態と化し、少し知恵が回れば、高齢者の金を狙う詐欺師かIT犯罪、もしくは被害者や遺族を踏みつけ、悪党を庇う人権弁護士だ。メディアは、真実よりも取材権利と報道の自由にこだわり、煽動と批判に偏り、国益と市民の利益すら損ねる嘘が多い。要するに、低脳すぎて善悪の区別すらないのだ。若者は、平気で己の命と同じように他の命を粗末に扱い、年寄りは、平和と不戦を同義に考え、大きな勘違いしている。世界史の中で、犠牲を伴わない平和は確立されたことはない。資本家は労働者を軽視し、正当に処遇しない企業があるかと思えば、社会と労働に、価値を見出さないニートが生まれる国。 政府の政策は、相変わらず大企業と強者の思惑にのみ傾き、国民には監視を強め、事あれば増税にしかシフトできない思考。民主主義において、国民は任命権を持つ存在であって、国庫の打出の小槌ではない。政治は、国益と国民本位に行うものであって、政権の奪い合いあらず。数の論理だけがまかり通るだけの幼稚な民主主義は、正義ではない。民主主義の正義とは、国益に適う小さな意見にも耳をかたむけ、すべての国民に参加する自由と、正義を実行する機会を与えることだ。数の論理と正義を区別せず、民主主義の意味を履き違えた者たちは、戦後70年反省し続けても、未だに改善はできないらしい。そうかと思えば、投票に行かない事をステイタスのように語る馬鹿もいる。議会制民主主義すら理解できぬ、救いようのない恥知らずだ。かつて、先人は勤勉実直を旨とし、死ぬことよ恥を恐れ、誇り高く生きた。日本の精神文化は海外から高く評価され、”恥の文化”とまでいわれた。 そんな、恥を知る日本は、いつから恥を垂れ流すようになったのか…“自由”とは、何をやっても良いという意味ではあり得ない。自由のもとに自分さえ良ければと、誰もが身勝手な欲望を満たし、自由という言葉をすり替えてしまったこの国の者たち。自由とは、法の下、一定の秩序の下に許されるもの。 自由と平和は、ときには血と汗を流して勝ち取るものでもある。権利と自由という言葉を振りかざし、秩序を失った果てに得られるものは、国の衰退と堕落と荒廃だけなのだ。親は、我が子に勉強以上に教え諭すべき事はないのか?メディアは、正義の物差しであるべきではないのか?企業は、正当な労働が利益を生むのではないのか?政治は、国益と民の幸福を優先するべきではないのか?人は、権利と同時に役割の義務を負うのではないのか?恥を死より恐れた崇高な精神文化を、未来に僅かでも活かしせめて、窮屈にならない程度に守り続けたいと願う。
2015.12.03
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実は、貰い物のパイナップルが熟れて食べ頃になって、今日は、思いつきで試してみたいことがあった。ポテトサラダに、パイナップルを入れたいと思ったのだ。先ずは、普通にポテトサラダを作り、刻んだレタスとコーンを混ぜ、マヨネーズは、いつもより少し量を控えた。そして、パイナップルを少量刻んで入れてみた。ビジュアルは、なんとなくトロピカル♪乾燥バジルを、少し振り撒いて出来上がり。しかし、相変わらずデリカシーのない雑な盛りつけだ...メインは、恒例のポトフの残りをリメイクしたパスタ。母は、このパスタのことを、ポトフの"残飯パスタ"という。残飯だと~? 何という失敬なネーミングなのだ...せめて、ポトフ・アフターなんちゃら~(思いつかぬ)ぐらいの、ちょっとお洒落チックな感じに呼んでみぃ!グダグダなblogになってしまった...これでもポトフから、ひと手間ぐらいは加えているのだ。残ったポトフの具材を刻み、ホールトマトを入れたり、新たに、ジャガイモと挽肉を加えたりもしている。ま、それだけだが...ビジュアルは、まぁ確かに"残飯"っぽいな...(笑)しかし、ジャガイモを入れたのは正解だったよ!ゴロゴロ野菜のパスタは旨かったと報告しておこう。パイナップル入りのポテサラの方も、悪くない。フルーティーな感じが面白い。
2015.12.02
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あなたの魂は 選りすぐった風景魅惑的な仮面 ベルガモの衣裳リュートを奏で 踊りゆく幻想的な仮面の下に 悲しみを隠し恋の勝利や 人生の成功を彼等は 短調の調べにのせて歌うその幸福を 信じる素振りもなくその歌は混ざりあう 月の光りに悲しく美しい あの月の光の静寂に梢の鳥たちを 夢に誘いすらりとした 大きな大理石の噴水をうっとりとすすり泣かせる あの月の光に 「月の光」ポール・ヴェルレーヌ19世紀の詩人ヴェルレーヌは、芸術家として成功を収めたが、一人の人間としては破滅の人生を送った。フランス象徴主義の詩人ヴェルレーヌ(1844~1896年)は、同じく天才詩人ランボーとの同性愛とアルコール中毒に苦しみ、狂乱の中でランボーに銃創を負わせて投獄される。詩集「地獄の季節」で名を馳せたアルチュール・ランボーは、自堕落で奔放な生き方の果てに落ちぶれ、若くして没した。 ヴェルレーヌは、彼の詩の師であり、よき友でもあったが、やがてランボーと同性愛の関係になり、破滅の道を辿ることになる。 そんな、二人の芸術家の破滅的な愛憎の人生を赤裸々に描き、話題になったのが映画「太陽と月に背いて」(1995年)だった。当時20才のレオナルド・ディカプリオがランボー役を好演し、ワルシャワ出身のアニエスカ・ホランド監督の演出が冴える。原題のTOTAL ECLIPSEとは、皆既食の意味。ある日、ヴェルレーヌのもとへ、ランボーから一篇の詩が送られてきた。その詩に、とてつもない才能を見出したヴェルレーヌは彼を呼び寄せ、やがて、その才能と美貌に魅せられ、倒錯した世界へ落ちて行く...冬の夜は、アーティスティックでハイセンスな映画も悪くない。砂浮琴の映画評価は★★★☆☆
2015.12.02
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今日は、朝から厚い雲い覆われ、冷え冷えとしている。【楽天ブックスならいつでも送料無料】地球はもう温暖化していない [ 深井有 ]価格:885円(税込、送料込)「地球はもう温暖化していない」(深井 有著)このご時勢に、何て本を出版するんだと思いつつ手にした本。しかし、読み進めるとこれまでの"妄信的"な考えが崩れるのだ。2009年11月、IPCCの温暖化数値データの不正が暴かれていたという。この重大事件は、たちまち世界の各国で大々的に報じられた結果、IPCCが提唱するCO2温暖化論への信頼は地に落ちていた。しかしこの事件は、何故か日本国内では報道されることなく、CO2=地球温暖化が、今も信じられたままだという。※:IPCCとは、国連・気候変動に関する政府間パネルの意。科学的に考えて、CO2の影響はまったくないわけではないが、本当の恐怖は大気中の水蒸気、つまりH2Oにあるというのだ。温室効果ガスの弊害を語る上で、確かに水は含まれていないが、実際の温暖化の効果では、CO2よりH2Oの方が断然大きい。台風は、洋上で温められた水蒸気で発生し、水蒸気で成長する。こういえば、誰もが理解できる。なので、温室効果を論じる上で、水蒸気は無視できないのだ。CO2温暖化論は、科学的根拠としてはもはや破綻している。CO2は、国際舞台で排出権という国家間の取引の口実に変貌し、巨大産業へ発展して、一部の国に莫大な富をもたらそうとしている。そのため、先進国と途上国の利害の対立がより鮮明となり、新たな国際紛争の火種にもなりかねないという。ECO技術で、当時一歩リードしていた日本政府が、この不都合な真実を隠蔽した理由が読めた気がした。そういえば、今回Parisで開催されたCOP21の会議では、京都議定書に、あれほど抵抗してNOを唱えたアメリカや、削減を渋った中国までが、今回は数値目標をアピールした。京都議定書から十数年余りの間、時間稼ぎをした国々は、それぞれに技術を集積し、商売に参加する宣言ではなかろうか...この本、読む価値のある一冊だった。
2015.12.01
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収納庫を完成して、急いで夕飯の準備に買出しに出かけたら、八百屋の店先に、ブロッコリーと一緒にカリフラワーが盛ってあり、手に取ると、直径20cmぐらいはあるし、しかも地元産。手書きの値札を見ると、どれでも1個150円と書いてある。これは買いでしょっ!迷わず、二個買って帰ったものの、夕食のMenuが浮かばない。日も暮れて、時間もないし、急いで作らなきゃいけないし...(焦)仕方なく、ワンパターンだがポトフを。サラダは、レタスをテキト~に刻んでドレッシングは市販品。そこえ、ミックス・ビーンズを添えてチーズをまぶしただけ。ポトフは、豚ブロックと、骨つき手羽元にさっさと焼色をつけて、カリフラワーとブロッコリーを茹で、野菜は刻んでぶち込むだけ。乱暴だけど、何とか1時間で夕飯を仕上げた。困ったときは、いつもポトフに逃避する傾向。私の、冬場の上等手段なのだ。(笑)あぁ~、今日で11月も終わりだ。何をするという訳でもないが、何となく気忙しい師走だなぁ...
2015.11.30
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げげげの、水木しげるさんが、亡くなった。どちらかというと、アトムより鬼太郎派の子供だった。鬼太郎を、観て育った世代として、とても寂しい。ご冥福を祈りたい...さて今日は、いよいよ収納庫も仕上げの段階となった。外気温17℃で晴天となれば、動くと汗ばむ。収納能力を高めるため、棚を製作する。これで、格段に収納力と使い勝手がよくなるハズだ。図面に従い、棚板材に壁のフレームに合うよう加工する。地味な作業だが、ちゃんとやらないと棚が落ちるのだ。(笑)さっき加工した板を、壁のフレームに載せてみた。これだけだと、重い物を収納できない。本体の補強の梁を利用して吊り棚式に変更。収納棚を、もう一段増やして機能を向上。右の側壁の隙間に、ビスや釘用の棚を設けた。この取手金具を、取りつけることをずっと夢見ていたのだ♪とても、気に入っている。扉の内側に、工具スタンドを設置して無駄なく収納。左扉に、カンヌキを取りつけた。これで、風でも不用意には開かない。仕上げの塗装を施して、遂に収納庫の完成!自己満足度は高いが、"カントリー調"に見えるだろうか。頑丈で高機能という計画は、クリアできた気がする。材料費:木材:18,640円、補強金具類:6,480円、ビス類:3,800円、接着剤:7,776円、コーキング材:1,404円、塗料類:4,644円、農業用畦シート1ロール2,560円、釘類:972円合計:46,276円(税込)のスチール物置の市販価格、47,000円(設置料別)と比べると、金額的にはそう大きな差はない。
2015.11.30
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☆写真をクリックすると拡大♪扉の密閉度を高めるため、桟(さん)を作りつけた。桟を取りつけるのは、少し面倒臭い加工なのだけれど…これで、扉から嫌いな"虫も侵入できるまい♪床材も、屋根と同じ9mmのパイン合板を使用するが、寸法採りなど、ちょっと複雑な加工が必要だった。有効スペースのFull活用のため、隅々までキッチリ加工。数年後、床下メンテナンスの利便性を考え、中央の床材は固定せず、外せるようにした。午前中は移動と連結、午後からは桟と床張りをして、とりあえず、落ち着く場所に落ち着いたという感じ。身体も冷え、クタクタになったので本日はここまで…明日は、いよいよ仕上げの内装に取り掛かる♪
2015.11.29
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早朝6時、空は鉛色だったが風はなかった。いよいよ、本体を設置しておいた土台基礎まで移動し、連結するときがやってきた。私は、DIYはすべて自力でやるものだという、妙に偏屈な哲学を持っている。DIYは、いわば己の限界との闘いなのだ。あの羽生結弦も、Fleeで史上初の216.07点をマークして、Short Programと合算で322.40点の世界新記録で優勝し、見事にFinal進出を決めたではないか!(論点が違う?...笑)移動方法は、何度も図に描いて検討し、手順のイメージ・トレーニングも繰り返した。 ☆写真をクリックすると拡大♪とにかく、本体を慎重に移動させ土台基礎に連結させるのだ。先ず、愛車とBikeを退避させ、頑丈な台車を四つ用意して待機。本体を、クルマ用の油圧2tジャッキで片側ずつジャッキアップし、四隅を台車に載せた。あらかじめ、植木とカーポートの柱にロープを渡して縛っておき、万一、移動作業中に台車が道路に向かって"暴走"したときに備えた。こうして慎重に作業を進めたが、意外に難なく移動できた。けれど、最大の難関は連結のために本体を持ち上げる作業だ。本体を台車に載せたまま、ゆっくりジャッキアップしながら、板切れやブロックで少しずつ台車を嵩上げし、高さを調整した。次に、本体が連結位置に正確に到達できたかを計測。水平を保つよう、水準器で確認しながらの作業だった。本体の軸受け部に、土台基礎の凸部をピンポイントで合わせ、注意しながら、1mmずつジャッキを下げて連結完了。四隅とも1mmの狂いもなく、軸受け部にピッタリ収まった。本体の床の主梁が、土台基礎のフレームに載るので強度も完璧だ。5時間かけて、無事に連結作業を終えた。必要に迫られると、人間は新しいアイディアを生む。仕事でもそうだが、結果に関係なく、挑戦すれば必ず進歩はある。ときに、自分でハードルを高くすることは大事だね。
2015.11.29
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寒い... 今朝は、5時過ぎに身体が冷えて目覚めた。毛布を用意しないと、冬に身体が対応できないようだ。収納庫の屋根は、材質も作り方も迷うところだ。普通だと、ブリキや樹脂の波板張りが妥当なところだが、少し違う方法を試したかった。 ☆クリックすると写真拡大♪結局、9mm厚のパイン合板で屋根のベースを作り、田んぼの”畦シート”を張るという、異端的な発想になった。パイン合板は、建築の耐力壁用材なので丈夫。合板を、細めの骨材でビス留めして張ってゆく。加工精度は、雨漏りがしない程度でよい...(笑)屋根の寸法の都合で、パイン合板が1枚では足りない。不足分は、松の粗材を9mm厚に削ってはめ込んだ。突起は、あとで化粧板(水切り)を張るための加工だ。屋根は、メンテナンスが容易なはめ込み式の構造にしてみた。はめ込み式といっても、台風程度では飛ばされない。屋根は、消耗が激しく、対候性を要求されるので、畦シートを張る前に、先ず防錆塗料で下地処理する。硬質ビニール製の畦シートを接着剤で貼り、トタン用の釘を打った。農業用シート張りという、異例の仕上げ方だけど、前例がないので、結果がよいかどうかは定かではない。計算すると、ここまでの加工で本体の総重量は199kg。移動させて、土台に連結するにはどうすればよいか...一休禅師ならどうする?(笑)
2015.11.28
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明け方、直径9mmほどの雹(ひょう)が降ったが晴れた。本体を、パネル・フレーム式にしたのには理由があるのだ。当初から、収納庫は湿気などを考慮して高床式で計画した。普通、一般建築物なら土台から作らないといけないが、パネル・フレーム構造は、それぞれ別個に製作できる利点がある。しかし、基礎だけは設置場所に組まないとエラい事になる。基礎の脚は、建築用の柱材を使うことにした。柱材は、高値を想像してしまうが、短いと安いのだ。四寸柱も、長さ90cm程度なら1本808円とお買い得♪ ☆クリックで写真拡大♪柱も、正確に採寸して切断しないといけない。慣れてきたからか、±0.5mm以内の誤差で切断できた。セメント製の礎石は、Factoryで正確に作られた市販品。はじめから、固定金具が埋め込まれた優れモノ。150mmで切りそろえた、柱材を礎石に固定して、木材に防腐剤、金具には防錆塗料を塗布。組み上げた、土台基礎の総重量は69kg。四隅だけが、凸形状なのに気づいただろうか。この凸の部分に、本体が連結する仕組みなのだ。土台も、補強金具を使用してフレーム状の構造にした。こうすることで、本体連結後の床の骨組み強度は倍増する。今朝は雹が降ったし、日中の最高気温が遂に10℃を割り込んだりした。蔵からストーブを出し、灯油を買いに走ったさ...(笑)
2015.11.27
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さて、本体を組むのだが強風注意。晴れたのは天の恵だったが、一時は北風が強く吹いた。おまけに、曇ったり、雨がぱらついたりするややこしい一日だ。強風に煽られ、こっちが立てばあっちが倒れして、両手と両脚まで動員し、ブロック塀も利用して必死に抵抗...(助けて~)考えれば判るが、強風下で大きなパネルを組むのは馬鹿野郎だ。しかし、はじめてしまったのだから仕方ない。ロープまで使って、何とかなった。ロープで木に縛っているが、SMプレイではない。こうしないと、扉が開いてしまうのだ。パネルを組み終わったら、嘘みたいに風が止んだ。世の中、まぁこんなもんだ...予定にはなかったが、左右のパネルに補強材を追加した。これで、屋根の負荷も心配なかろう。床板の梁を受ける、木材パーツを6個製作。普通、収納庫だとこんな床の骨組みは絶対有り得ないが、これは、木造船に用いられる構造で荷重を分散する。こうすると、主梁が全部折れたとしても、床は崩落しない。加工は難しくなるが、その分、強度の恩恵があるのだ。作業を終えてから、エラい事に気がついた。全部完成させると、重くて一人ではとても移動できないのだ。さて、どうしよう...(汗)
2015.11.27
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(映画「麦秋」より)往年の大女優、原 節子さんの訃報が報じられた。2015年9月5日に、神奈川の病院で亡くなられたという。「騒がないで...」という言葉に従い、訃報は二ヶ月半伏せられ、昨日、関係者からメディアを通して伝えられた。 (映画「新しき土」より)西洋と東洋、まるでモンローと吉永小百合を合わせたような、清楚であり妖艶でもあり、一言でいい切れぬ魅力的な美貌だった。文字通り、日本映画の黄金期に煌々と輝いた大輪の花だ。原 節子さんは、神奈川生まれだという。2000年のキネマ旬報「20世紀の映画スター・女優編」では、日本女優の一位に輝いていた。代表作は、いわゆる紀子三部作と呼ばれる「東京物語」であろうか。独特のロー・アングルで撮られた、小津安二郎監督による不朽の名作だ。静かに、ご冥福を祈りたい。 感謝合掌...
2015.11.26
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毎年、新蕎麦の季節に出石町を訪ねる。出石町は、かれこれもう十回以上になろうか。しかし、一度も晴れたことがないのは何故なのだ...これでは、まるで信頼性抜群の雨男ではないか。大手前通りにある、辰鼓楼は出石町のシンボル。辰鼓楼は、明治四年に三の丸大手門脇の櫓台に建設され、その十年後、医師池口忠恕氏が大時計を寄贈して以来、時計台として親しまれているそうだ。出石城の石段を登って、振り返って見下ろすと、往時を忍ばせる、城下町ならではの風情を味わえる。32059月は雨が多く、10月、11月の気温が高かったからだと思うが、今年は、こちらの紅葉も少しばかり色が浅い気がした。さて、出石町といえば、出石の皿蕎麦♪この小さな城下町に、約五十軒の蕎麦屋が軒を連ね、西日本屈指の蕎麦処となっている。出石に蕎麦作りがもたらされたのは、宝永三年(1706)のこと。信州上田藩から、但馬国出石藩へ国替えとなった仙石氏が、蕎麦職人を伴ったことがはじまるとされている。 蕎麦の実を、丸挽きしているので、茶褐色をしている。挽きたて、打ちたて、茹がきたての三たてが、出石蕎麦の信条だという。蕎麦は、配膳に便利な出石焼の小皿に盛りつけられる。一皿、二、三口分の盛りで、皿単位で好きなだけ追加できる。徳利に入った出汁と、刻み葱、下ろし大根、わさび、それにトロロと生卵を出汁に溶いて食す。紅子さんの真似をするワケではないが、"実食♪"素朴な味わいで、小気味よい歯切れと弾力が出石の蕎麦。それが、新蕎麦ともなれば、ふわっと香りが口に広がる。他の地域と比べると、出汁はほんのりと甘口。上質の鰹と昆布の濃厚な風味が出石テイスト。毎回恒例だが、今日も冷え込むのでにしんそばも同時注文。温蕎麦も、ん~♪イイ! また来年も来よ!
2015.11.26
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唐綿(とうわた)は、熱帯アメリカ原産で幕末頃に渡来した。かつて、先住民は甘味料や医薬として利用したというが、強心作用が強く、生薬としては危険な部類となる。学名はAsclepias curassavicaとあり、ギリシャ神話の医神アスクレピオースの名にちなむ。英名・園芸名でも、同じくアスクレピアスと呼ばれる。医神アスクレーピオスは、アポロンとコローニスの息子だ。話は前後するが、その昔、カラスの羽根は純白だったという。コローニスと恋仲だったアポロンは、一羽のカラスを遣いとして、二人の連絡役にしていた。あるとき、カラスがアポロンにコローニスの浮気をチクったため、嫉妬に狂ったアポロンは、コローニスを矢で射殺してしまう。コローニスは、死に際に身ごもっていることを告げた。その直後、カラスの報告は早とちりだったことが判り、アポロンは、カラスから言葉を奪い羽根を真っ黒に変えた。アポロンは、絶命したコローニスの胎内から赤子を救い出し、赤子の養育を、ケンタウロスの賢者ケイレーンに頼んだ。その子が、後に医学の神となるアスクレピオースだ。さてさて、カラス座という星座をご存知だろうか。夜空の彼方、カラス座のすぐ傍にはコップ座がある。幾ら、カラスが水を欲してもコップには届かない。アポロンは、かなりドSでしつこい神である。アポロンとコローニスの恋に、水を差したカラスへの罰は、こうして永遠に続いているのだ...
2015.11.25
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