上生的幻想

上生的幻想

2008/04/29
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カテゴリ: 展覧会など

 4/26のカタクの「求塚」、まだいろいろと頭のなかを回っている。

 後場、「地獄の凄絶さ」や「凄惨な地獄の責め苦」というようなものではなく、とても静か・・・というと変だけど・・・今思うと、あの菟名日少女は、「優美」だったと。。。
 「地獄の責め苦」で憔悴しきっていたとはいえ、仕草の端々に「優美さ」や若い女の何というか、みずみずしさというか、ほんわりとした感じというか、そういうものが漂っていた。面は、「痩せ女」であるにも関わらず。
 もちろん、「優美さ」が全面にでることはないし、12月に観た「蝉丸」の高貴さのように花びらの舞い散る春風のように、あるいは、新年の八坂さんでの翁の神々しさのように、菟名日少女(カタク)の体から吹き出してきたり放散されることはなかったけど、うちに秘めている感じがした。

 このことを、片山家の芸風、といってしまえばそれはそれでいいのかもしれないけど、もう少し、僕には違ったものに思える。
 それは、「地獄の責め苦」にあおうが、失われない「優美さ」。

 つまり、「優美さ」というものを人の本質のひとつとして捉える人間観というものが可能なのではないか、と。
 そういえば、清司くんの「鉄輪」の女も、優美だった。
 優美な人間というのは、地獄に堕ちようが、鬼になろうが、優美なのだ、と。
 「優美さ」というものをある意味、「付け足し」のように思っていた僕は、かなり、ショックで、なにかを発見した気分。
 地獄の責め苦にあおうが、鬼になろうが、失われない、その人の人としての本質的な部分としての「優美さ」。そんな強靱でしなやかな「優美さ」なんて初めて見るし、はじめて知った気がする。

 実は、ブログや評などを見ると、「求塚」の後場の菟名日少女が日々受けている「地獄の責め苦について語る」ところは、凄絶とか凄惨とか、また、「地獄の凄惨な責め苦を語る」みたいな風にあり、演じるシテの眼目もそこにあるような書き方をしてあるのが多い。
 たしかに「地獄の責め苦の苦患」を語ってるには違いないけど、カタクの場合は、壮絶や凄惨さを表現することを眼目にしていない、気がする。というのが、僕の感じたこと。
 凄絶な地獄の責め苦を演じようが、いかに、「優美」であり得るか。
 その「優美」は生半可なものではない。強靱で、しなやか、そして、人が生きていく上での信念や思想になりうる、と、そう主張しているような、今回のカタクの「求塚」。
 「優美」ということについてそれほど深く思ったこともなければ、考えたこともなかったので、これはとても衝撃的。

 地獄の責め苦の凄惨さや凄絶さではなく、そんな責め苦にあっても失われない人の「優美さ」、人が生きていく上での信念や思想となりうる「優美」、そんなものを見せられた気がして、なんともいえなく感動している、感じ。

 できれば、もう一度、見たい、って思うけど、今回の「求塚」は今回限り。
 もし、カタクがまた「求塚」を演じても、今回のものと同じようなものになるとは限らない。
 一期一会。

 にしても、カタクの能は、あとでじわ~と。。。
 観たときは、こちらが思っていたのと違っていて、それがいったいなんだかわからないので、すこしでも理解できれば、と考える。
 そして、いろいろ・・・思えるので、とても楽しい。
 2月の「西行桜」も、実は、今、考え中・・・・。
 考えずに、ストレートにわかれば、感じられれば、それが一番いいのだろうけど、たぶん、こちらの「観能レベル」がまだそこまで達してない。少なくとも、カタクの能のレベルに対して、こちらの「観能レベル」はまだ足りてない、気がする。レベルが近づけば、つまり、カタクの能のレベルに応じたシナプスの回路が構築されれば、ストレートに感じとることができるようになるだろう。それまでは、考えることで、思考することで、シナプスの回路を開拓して、構築していかないと・・・。





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Last updated  2008/04/29 10:49:42 PM
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