売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2023.06.06
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述したIFIビジネススクールは1994年試験的な夜間プレスクールを開講、その後夜間プログラムを増やして98年には全日制2年間マスターコースがオープンしました。知識やノウハウを提供するのでなく、 山中 ​​ 理事長の言葉を借りるなら「実学で問題解決能力を身につけさせる」、これが建学精神でした。

DCブランドブーム時代に人気があったアトリエサブの田中三郎社長から「息子を海外のどの学校に留学させたらいいだろう」と相談されたとき、数ヶ月後にビジネススクール全日制コースが始まるとIFI入学を勧め、また大学出たらファッションの道に進みたいと言い出した私の甥にもIFIを勧めました。実学で鍛える学校、なにも海外に行かなくても日本で教育できると信じていましたから。



業界の中心地7番街西40丁目角のParsons校舎

1994年2月、IFIに委託されてニューヨークに出張、パーソンズの関係者にヒアリングして同校の実践教育をレポートしました。このときその教育方針を詳しく教えてくれたのは、名物学部長だったフランク・リゾーさん(交友録32で紹介)、マーケティング担当だったディーン・ステイドルさん、デザインの歴史を指導するジューン・ウィアーさん、多くの米国デザイナーを育て「ゴッドハンド(神の手)」と称されたパタンメーキングの名手ツヤコ・ナミキ先生でした。

中央:ジューン・ウィアーさん、右:ディーン・ステイドルさん

私がニューヨークコレクションの取材を開始した70年代後半、ジューン・ウィアーさんは専門媒体WWD紙の編集長でした。パリ五月革命に遭遇して「オートクチュールに未来はない」と渡米を決断した若き三宅一生さんが最初にポートフォリオを見せに行ったのがウィアー編集長。彼女は三宅さんのポートフォリオを見るなり当時人気デザイナーだったジェフリー・ビーン氏に電話をかけ、「ジェフリー、いま私の目の前にあなたにぴったりの若者がいるの。そちらに行かせるから会ってあげて」。こうして三宅さんはジェフリービーン社でアシスタントデザイナーを務め、のちに日本に帰国しました。

「あの日のことはいまもよく覚えているわ。イッセイのポートフォリオを見た瞬間、ジェフリーに紹介しなきゃと思ったの」。上の写真撮影のときにウィアーさんから直接伺った話です。彼女はWWD編集長の後ニューヨークタイムズ紙日曜版エディターになり、退職してパーソンズで教鞭をとり、大手流通企業の社員研修でもファッションデザインと時代との関係を教えていました。

ジューン・ウィアーさん

概して、ファッションショーの最前列に陣取る主要媒体のベテランエディターや編集長は眉間にシワを寄せ、眼光鋭く登場する新作をチェック、きつーい性格なんだろうなという女性が少なくありませんでした。が、彼女は珍しく温和で人当たりの優しい方、多くのデザイナーに愛されました。この人の存在を日本に伝えたいと思った私は原宿クエストビルが主催するフォーラムの特別講師に彼女を招聘、企業研修用の貴重な写真とともにモードの変遷を解説してもらいました。

ツヤコ・ナミキさんは以前このブログで触れた原口理恵基金「ミモザ賞」の受賞者のお一人。ペリーエリスのアシスタントデザイナーだったアイザック・ミズラヒ氏が独立して自分のブランドをスタートするとき、パーソンズの恩師だった並木先生にパタンメーキングをお願いし、学校で指導しながらアイザック社のチーフパタンナー兼務でした。

ゴッドハンドの並木ツヤ子さん

以下はミモザ賞10周年記念本に寄せられた教え子デザイナーたちのコメント。

「花には太陽があるように、我々には並木ツヤ子がいる。彼女は太陽のように力強く、何も言わず、キラキラ輝きながら、至極当然のように創造を可能にする。」 (アイザック・ミズラヒさん)

「誰しも生きる上で、アドバイザーや教師、すなわち自分を親身になって支え、励ましてくれる人を求めるものです。生徒が自分の創造性を模索する途上で経験する色々なこと(良いことも悪いことも)を常に温かく見守り、理解を示してくださる師、それが並木さんでした。先生はいつも公私両面で私を支えてくださいました。彼女はまさに時間や年齢を超えた存在です。」 (ダナ・キャランさん)

「並木ツヤコ子さんは私にとって奇跡のような存在です。先生、アドバイザー、セラピスト、何でも話せる母親、魔術師、友人としての側面をすべて兼ね備えているからです。こうした面を持つ並木さんはこの地球に存在する最高の人間であり、私は常に敬愛申し上げております。」 (ジェフリー・バンクスさん)

3デザイナーのコメントからも並木さんがいかに慕われていたかわかるでしょう。会食している間は失礼ながらごく普通の優しいおばさん、しかし話題がこと人材育成になると急に目がキリッと鋭くなって別人の表情に豹変、並木さんは根っからの教育者でした。パーソンズ退官後帰国され、目白ファッション&アートカレッジ(小嶋校長がパーソンズ出身)で指導されていました。恐らくもう引退されていると思いますが。

パーソンズ流実学を最もわかりやすく解説してくれたのがディーン・ステイドルさん。私がニューヨークで取材活動をしていた頃ファッションショー会場でよく見かけたマーケティング専門家です。彼の授業の教材はニューヨークタイムズ紙の記事、いわゆる教科書の類いではありません。例えばパリコレの記事を読んで、書いたエディターの意見を自分自身はどう思うのか学生に発表させます。

インターン研修でデザイナーブランドに配属されると、学生は売り場に行ってブランドの想定ターゲット、コレクションの特徴、市場競争力を考察、アシスタントデザイナーになったつもりでデザインします。そのためのマーケティングの目をステイドル先生は鍛えますが、ここにはアカデミックな「マーケテイング論」や「マネジメント論」は存在しません。


学生から慕われていたステイドル先生

90年代前半からニューヨーク出張のたびステイドルさんの講座で私は特別講義を担当しました。「もっと米国以外のブランドにも目を向けるべき」と発言したら、米国有力ブランドからの誘いを振り切ってヨーロッパに渡った学生が数人いて、「あなたの影響で優秀学生はヨーロッパに行ってしまったよ」と言われました。年間最優秀学生の一人は「どうしても日本で働きたい」と熱望、卒業後私は彼女の来日を根回ししたこともありました。

特別講義の最後に私は必ずこのセリフを言いました。「いま私が教えたことは、かつて私がこの教室で教えてもらったことです」と。パーソンズの夜間プログラムで売り場の見方を鍛えられた日本人が後年同じ教室で学生にそれを伝授する、一種の高揚感がありました。


出張のたびステイドルさんとはよく意見交換しましたが、ある日彼から1つ頼み事をされました。ウィスコンシン大学時代に学生寮のルームメイトだった日本人を探して欲しい、と。自宅が火事で学生時代のものは全て消失、記憶にあるのはルームメイトのニックネーム「ベン」、彼の実家は「ティーカンパニー」、「エンペラー(天皇陛下)と交流があるようだ」の3点でした。

帰国して3つのヒントをもとに日本茶専門紙などに当たってもらいましたが、ベンはなかなか発見できません。ところが読売新聞社の生活家庭部の若い記者さんが「ひょっとしたら」と有力候補を教えてくれたのです。

記者さんからもらった番号に電話して、奥様に「ご主人は若い頃ウィスコンシン大学に留学されていましたか」と訊ねたら、まさにステイドルさんのルームメイトでした。有名な日本茶会社の経営者、天皇陛下(現在の上皇様)のご学友、ファーストネームはBで始まる名前なのでニックネームは「ベン」。ステイドルさんは30余年ぶりにベンさんと日本で再会できました。しかもベンさんは私を松屋にスカウトしてくれた古屋勝彦社長をよく知る先輩、なんとも不思議なご縁でした。​​​​​

私流の実学はパーソンズの先生方との交流でヒントをたくさんもらい、何度も教え方に改善を加えて作ってきたものですが、一番見習ったことは、学生に対する厳しい姿勢と同時に優しい目線でした。人を育てるコツはなんといっても愛情ですから。





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Last updated  2023.06.09 11:33:47
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