幕末,日本人特有の思想、『介錯の依頼』

生きよ!願い,林董:若き日回想『斬首の依頼』,箱館戦争敗北の時,幕末WITH LOVE,日本人武士道の美学,日本人特集の思想:窮地に追い詰められた人物にとっての「介錯の依頼」,中野竹子,山川捨松が語った兄嫁の「斬首の依頼」,有村次左衛門,明治初期:秋田県士族「田崎秀親」の場合,戊辰,箱館戦争

『斬首の依頼』,林董他

初めに: 外国に斬首はあれど、自ら「介錯の依頼」発想・・はありません。 日本人特有の思想&武士道ならではの通念。
◆可愛そうな話の他、後半、少し『!モード』も発生しますが、グロ強調悪趣味な世界ではありません。ご了承下さい。

「斬首の依頼」にモノ想う。_No.3
日本人特有の思想、『介錯の依頼』とプラスアルファ
  1. 現在頁
    石澤源四郎(元会津藩士)の証言
    *同じ武士の子として、敵の
    ・・汚名を晴らしてやった話
    *「斬首の依頼」に無念の死
    ・・有村次左衛門(薩摩藩士)
    *桜田門外の変_秘話
  2. 山川(後_大山)捨松(会津藩
    が語った兄嫁の「斬首の依頼」
  3. 中野竹子(会津藩

★現在頁は、SERIES_No.3の頁です。 最初から読む
◆No.1_林董編は、若き日の回想『斬首の依頼』。箱館戦争に敗れ、その時自尽を覚悟した彼の回想。
・しかし、結びはとても前向きです。
命は一つ。粗末にするな。みんな、生きてくれ。 ・・・なんとなく、響いてきます。


日本人の一人として、究極時の「介錯の依頼」。辛いが、解らぬこともない。
武士道に由来する発想は、日頃意識していないだけで、やはりいたるところに血肉になって、
現代人にも沁み込んでいる。下記は、武士道由来の日常語、農耕民族=日本人故の日常語。
日本人=農耕民族
  • 草の根分けても
  • 根絶やし
  • 雑草のごとく

日本人=武士の発想
  • 火蓋が切って落とされた
  • 照準をあわせる
  • 首だ!
  • 腹をくくれ、腹を割れ、
    腹を切るしかない
  • 一般に勝利したことを
    「軍配が上がった」
  • 土壇場
ちなみに、「土壇場」という言葉は、
どうにもならない最期の状態を
表現する時、現代、頻繁に使われ
ますが、もともと「土壇場」語意は、

斬罪の刑執行の際、使われた
盛り土の台。
かつての敵ながら、
同じ武士の子として、敵の汚名を晴らしてやった男の話
(安政7年)桜田門外の変、その裏庭

少年時代の石澤源四郎(弘化3年(1846)生まれの人物) が目撃した世界
明治に至って、過去を上記石沢氏が元会津藩士として語った。

桜田門外の変。安政7年(1860)3月3日。桃の節句。
江戸城桜田門で、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士によって、大老・井伊直弼が襲撃暗殺された。

有名な事件につき、詳細は略。上記、裏庭と書きましたが、事件の真相追及、
推理&裏話ではなく、或る少年の目に映った実態から、

幕末の動乱と、巻き込まれた少年少女、乙女達を軸に、別の角度から見つめ、
窮地に追い詰められた人物にとっての「介錯の依頼」にスポットして、書き進めます。


時は、安政7年(1860)3月3日。当時、桜田門外の変を目撃した 石澤源四郎 氏は、13~14歳の少年。
会津藩士である父が江戸勤であった為、彼は事件現場直近に所在する会津江戸藩邸に住んでいた。

世は、諸外国の威圧に、尊攘の志が蠢動。幕府は足元を幾度も掬われつつ、
二転三転しながら、幹部が気忙しく移ろっては補填、軌道修正。どたばた劇は既に甚だしい。
赤鬼の異名を持つ大老・井伊直弼が立ち、まずは、押さえつけた。安政の大獄。

しかし、少年少女達にとって、この時期はまだ微妙な端境期ともいえる。
このわずか8年後、1868年に於いて、この時点に於ける石澤氏と同じような年頃の
会津少年は、白虎隊の悲劇に及ぶ。

ところが、この時、安政7年(1860)に於いて、少年、石澤源四郎は、物騒な世の中とは知りつつ、
私生活に於いては、純粋に「平和な一人の一少年」でいることができた。
・・・少年が少年らしいままに暮らせる最期の時期だったかもしれない。

『介錯の依頼』と実情_その1
薩摩藩士_有村次左衛門の場合、『介錯の依頼』


時は、安政7年(1860)3月3日。桃の節句。


fumi_12.jpg この日は、大雪。
あたり一面、白い雪に
覆われていた。
折角咲いた桃の花も、哀れ。
白い綿帽子を被り、
凍てついていた。



choco_01.jpg
当時、 石澤源四郎 氏は、約13歳の少年。
雛祭りということで、母が甘酒を作ってくれた。
甘くて美味しい餅もあれば、「雛あられ」もある。
まだまだ子供だ。大喜び。上機嫌。

ああ甘い。なんて美味しいんだ。
・・・と思った瞬間のこと。

何やら、戸外が騒々しくなった。13歳位ともなれば、
だいたいの直感は働く。さては喧嘩か?
この年齢層の少年特有の好奇心が沸いた。
見たい!行きたい!・・・でも、母に叱られる。

これが、彼にとっての「桜田門外の変」デフォルト。
この段階で、彼は、まだ、事件の真相を把握していない。

江戸城桜田門で、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士によって、
大老・井伊直弼が襲撃暗殺された・・・などとは、
一人の少年が、知るはずもない。


日本人特有の思想、『介錯の依頼』とプラスアルファ


石沢少年の葛藤が始まった。

見たい!行きたい!・・・でも、母に叱られる。
甘酒飲みたい。放置して家を抜け出せば、冷めてしまう。一気に飲み干すには熱すぎる。
それにしても、この騒ぎは半端ではなさそうだ。まだまだ騒がしい。
もう、いてもたってもいられなくなった。
ついに家を飛び出した。そして彼は、見てしまった!


彼が目撃した瞬間とは、上記のとおり、母と甘酒がキーワードで、大分コマが進んでいる。
その為、史実に語られる肝心要の場面、井伊大老の無念の瞬間などについては、既に終わっている。

少年石沢氏が見た瞬間とは、薩摩藩士、有村次左衛門が、呻き苦しんでいる悲痛な場面だった。


史実にだいたい従って書くと、上記場面は、下記推移の後。


momo_03.gif
護衛の彦根藩士達は、雪のため、刀錆びを懸念して
刀を袋に入れていた。その為、襲撃を受けた時、刀を抜くに
間に合わず、袋のまま、或るいは鞘で受けた者が大半。

後半にツワモノが抜刀間に合って戦うも、結局、井伊大老の籠を
守るべき皆は殺られて、居ないも同然の状態に陥る。

この瞬間、一斉に幾本もの刀が籠に突き立てられ、
息途絶えたかと思われる状態で、籠から引きずり出された大老が、
首を撃たれる。

真っ白な雪は、たちまち血色に染まり、主の為体を張って
応戦した臣達の屍。切り落とされた肉体の部品が散らかる大惨事。

この時、首級をあげた張本人が、まさしくこの人物、薩摩藩士、有村次左衛門。

有村次左衛門:薩摩藩士。天保9(1839)年12月28日生れ。この時、約20歳。
◆兄の内、有村雄助【天保6年(1835)~万延元年3月24日(1860)※注】は、
次左衛門と同様の思想で動き、弟の死後次なる動き。自藩に取り抑えられた。
幕府の責任追及を恐れた藩は、切腹申し付。弟の死後約3週間後の死となった。
享年26歳。◆上の兄は、海江田信義(有村俊斎)。後の貴族院議員として有名だが
こちら 粟田口事件 でも登場。◆※注:1860年は:3/17迄が安政。3/18以降が万延

ついに世紀の大物、井伊直弼を討ち取った。20歳そこそこの青年が、その怪物を
討ち取ったのだのだから、本人の胸の鼓動は半端ではあるまい。

刀先に首級を揚げて、肩で息をしながら、隊列の先頭を歩む有村の姿が
ありありと、目に浮かぶ。

国の為、井伊直弼もよく頑張った偉人であり、実に惜しい。されど、有村達志士も必死。
この場合、どっちが悪いとか、そういった問題は抜きで。

大老の籠に従った彦根藩士達は、有村ら襲撃衆によって、全滅にも等しく、
路上は血の海。刀先に首級を揚げて、有村達が道を行く。

ところが、アクシデント。

深傷を負い半死状態だった彦根藩士、小河原秀之丞が、亡霊のように立ち上がった。
朦朧とした意識の中、我主の首が高らかに掲げられた光景が目に映り、次の瞬間、
奇跡的な最期の力が、体内に燃え上がったのだろう。

たとえ主の命は無念、尽きても、首まで奪われてなるものか。
死直前の男が、最期の力を振り絞り、そのまま倒れこむようにして
有村に斬りかかった。いわば、有村は死人に斬られたも同然の状態である。
(詳細は、幾つか説がありますが、そのうちの一つ。)

有村は恐らく、志を成し遂げ、今にも男泣きせんばかりの思いに浸り、
背後をすっかり油断してしまったのだろう。

不意を突かれた有村、深傷を負うが、応戦。いわば相撃ち。
もともと死にかけていた小河原はもちろんこれが最期の最期ながら、
有村の命も風前の灯となった。いわば相斃れる。

この後、有村は若年寄遠藤胤統の辻番所付近で自害、或るいは、遠藤屋敷に運び込まれるが絶命
とされる。(確かに、結論は。但し、現在頁では、下行に追記有り。)
自害後、まだ脈有りだったか、不可だったかは不明ながら、とりあえず、運ばれたものと思う。

「桜田門外の変」そのものなれば、大体ここで終わり。

あとは、この後、時の大老死亡とあっては、時勢柄非常に問題が多いことから、辻褄あわせで、
首と胴が縫い合わせられて、書面整理が完了するまで大老は死亡していないことになされた他、
上記、遠藤家が預かった首は、容姿が極似した彦根藩士、加田九郎太のものである・・ということ
にした。そうせぬことには、大老死亡の事実を隠蔽しきれないが故。幕府側も苦肉の策。
・・・といったてんやわんやが発生した。

◆加田九郎太:この時殉死した馬廻り格の彦根藩士。年齢は31歳で、46歳の大老より、
遥かに若いが、容姿が似てるので、そうゆうことにされた。
◆実は幕府内部から糸を引いていた説もあれば、書面整理完了が妙に早すぎる等
興味深い説もありますが本件ズレるので割愛!

「桜田門外の変」そのものを追求するなれば、下記はいわば不要の場面ながら、
現在頁では、あくまで、 石沢少年が見た瞬間の有村次左衛門の姿
から、事発して、『介錯の依頼』の心情について書いています。

少年石沢氏が見た瞬間とは、薩摩藩士、有村次左衛門が、呻き苦しんでいる
悲痛な場面だった。


薩摩藩士、有村次左衛門に於ける『介錯の依頼』

志士側の肩を持つわけではないのですが、ここに、有村の無念を思う。

石沢氏曰く。(略意)
「私が行った時、有村は胡坐をかいて、
短刀を一本持っておる。・(略。)・稽古用の胴を着ていた。
・(略。)・今考えてみますと、
胴を取って腹を切ろうと思ったが、それが邪魔になる為、
藻掻いていたのではないかと思う。」

ここからが悲壮だ。




「まわりに立っている者をしきりに拝んで、
首をやってくれというふうをしたが、
だれもやる者がない。
どうしても死ぬことができないので、
前にある雪を取って口に入れた。」
有村次左衛門の無念と兄、有村雄助


この事件から、僅か三週間、追って、兄の有村雄助が冥土へ旅立った。
有村雄助は次左衛門より4歳上の兄。弟と同様の思想であり、弟の死後次なる動きを転回した。
自藩に取り抑えられた後、幕府の責任追及を恐れた藩は、切腹申し付。無念の死を遂げた。

しかしながら、ここでふと思うのが、やはり血肉を分けた実の兄弟。
思想貫徹もあるが、兄として、さぞ悔しかったのではあるまいか。
己の死は享受できても、弟の死に様の汚名だけは、己の命あるうちに晴らしてやりたかったことだろう。

次左衛門の死に様は、上記のとおりである故、薩摩贔屓の証言でさえ、自害を遂げた、
その程度であり、けっして「あっぱれ、武士の鏡」とは言い伝えられなかった。
ましてや、時の大老に天誅を見舞った輩には他ならないわけで、世間評価は、もっと手厳しい。
運ばれて息耐えた・・・程度の描写はまだ遠慮気味かもしれない。

兄としては、大勢男が居る中、可愛い弟が、ものの見事にその大役を成し遂げたのだから、
同じ失うにせよ、せめて餞に花を飾らせてやりたかったことだろう。

降りしきる雪の中、拝むようにして介錯を依頼して、
呻き苦しむ弟の姿を思えば、
兄なれば、誰しもやりきれない。

誰一人応じる者が存在せず・・・とはなんてことだ!
・・・
無念の最期に至った弟を思えば、胸は張り裂けんばかり。

せめて、己が、その群れに居たのなれば、こんなことにはさせなかった。
弟の最期は、兄がこの手で・・・。悔やんでも、悔やんでも、尚自責の念に駆られたことだろう。


上記、石澤源四郎(元会津藩士)による回想発言は、明治もどっぷり暮れた頃。
少年といえど10代である以上、目撃の段階で、犠牲が彦根であり、行列の規模や籠から、
悲劇は大老であることが、早期に把握できたようだ。

いかに少年だったにせよ、会津藩の者である以上、当時の正悪判断は、無論、襲撃衆が悪。

ところが、呻き苦しむ有村の姿は、「悪漢の断末魔」であるはずが、
同じ武士として複雑な気持ちだったのが解る。
・・・(誰か、介錯してやれよ。お前ら、仲間なんだろ・・・そう思ったかどうかは不明だが、)

有村らは、大老に天誅を見舞う大逸れた行動に踏み切ったのは事実だが、倒幕の意思ではなかった。
命にかえて訴えたかった。身の潔白を己の最期に示したかったからこそ、もはや、これまで
の段階で、切腹に踏み切ったと思われる。

◆人を殺しておきながら身の潔白というのも、現代で考えるととんでもない事だが、彼らにしてみると
つまり、そうだった。幕府が軌道修正してくれるのなれば、大老を殺めた罪は身に受け、己は死ぬ覚悟の
者であった事を立証したかったのだろう。


無論、上記のとおり、石沢氏が証言した時期は、会津を攻め滅ぼした薩長が要で漕ぎ出した明治に
位置するわけで、しかも、彼も若くないから、言葉を選んだ傾向もあれば、
また、ちょっと意地悪に勘ぐれば、有村次左衛門の長兄、海江田信義は明治39年まで健在で、一族は
皆活躍している為、ますます発言に気を使っていた旨は否定できない。

しかしながら、用心深く、彼の証言を再び読み返してみるなれば、
「今思えば・・・」に始まるそこから先の言葉が意味深だ。

「私が行った時、有村は胡坐をかいて、
短刀を一方持っておる。・(略。)・稽古用の胴を着ていた。
・(略。)・今考えてみますと、
胴を取って腹を切ろうと思ったが、それが邪魔になる為、
も掻いていたのではないかと思う。」

発言時の時勢柄、遠慮や、対面上の言葉選びだけではなさそうに思えてしかたない。

有村次左衛門について、断末魔の足掻きだとか、往生際の悪さなどと、良からぬ評判が
流布していたのだろう。世が逆転して、幕軍が賊として討ち取られた事は、いくら時が流れたとて、
無念に他なるまいが、この一件について言うなれば、敗れた後なればこそ、初に、口に出せる。

どちらが悪か、過去のことをいつまでも、どうこう言う気はないにせよ、
元会津藩士であった以上、普通ならば、わざわざ、ここで遠い過去に死んだ男の為に、
名誉挽回してあげようとはしないはず。

同じ武士の子として、介錯の依頼を受け入れられず、
無念に果てた男の姿が、
きっと長らく、心につっかえていたのだろう。

石沢氏本人も、20代前半で、運命は、敗北の会津戦争に突入している。
その際、危険な伝達の命を受け、東へ西へ代奔走した。数えられない位多く、痛々しい仲間の無念を
見て耐え、生き延びて今日に至る。

もはや、敵味方もなく、一人の男として、武士魂として、
無用の汚名を晴らしてやりたかったのではあるまいか。


「往生際悪く、見苦しくも足掻いたのではない!」

・・・かなり遠慮気味ながら、ぼそっと語った彼の本音は、そこにあったのではなかろうか。
・・・ふと、そう感じた。

◆山川捨松(会津藩):安政7(1860)年2月24日~大正8(1919)年2月18日:1868年会津戦争時、約8歳
◆名前:咲=咲子=山川捨松=大山捨松。後に、大山巌(薩摩藩)の妻となり大山捨松、
◆明治4年、12歳の時、日本初の女子留学生(岩倉使節にて留学)、
◆父:山川尚江、母:山川唐衣(艶)、兄弟:二葉・大蔵(浩)・三和・操・健次郎・常盤:
・生まれて間もなく、父死亡。兄の山川浩(大蔵)が引取る。戊辰敗れて斗南移住の際、箱館の 沢辺琢磨 仲介で外人の
家庭へ引取られると伝わる。その後、岩倉使節にて留学。
◆捨松という名の由来:留学に送り出す時、母の唐衣がつけた名前。「捨てたつもりで待つ」の意味。
・他ならぬ留学のチャンスとはいえ、当時は、男子と異なり、未婚の女子を南蛮の国へ送るは想像を絶する程の覚悟。


1868年、会津戦争時、山川捨松は約8歳。女親族皆と共に、篭城組に入っていた。
聡明で、後の明治4年、岩倉使節にて留学生に選ばれる程の少女であったことから、
その時の様子について、幼いながらも、実に鮮明に記憶している。

篭城組といっても、城内の婦女子には、危険な任務があった。
主には、炊出し、照姫の守護と傷兵の看護等ではあるが、砲弾が打ち込まれた際には、
火が燃え広がるを防止すべく消火作業に飛び出す。
この作業で、爆死した者もいれば、再起不能の重症が原因でそのまま亡くなった女性も多い。

食料の緊迫よりも、死者の弔いをまともに為せぬ非常な状態に皆、耐え凌ぐ、極めて過酷な状態。
捨松の姉の内、操の回想から、「死者は葬る暇もございませんから、掘っても水の出ない空井戸の中へ
泣く泣 く埋葬しました。」

◆かつて、ルーツ系の方から伺った話。「会津の篭城は食料的には、もう少し延長可能だったが、
悪臭が限界で、腐敗やら排泄物やら・・・」尻切れトンボのような話。今思うと、お話して下さった
方は、どう考えても、経験者の孫ならずや、曾孫世代と思うのですが、尻切れトンボ状態で、それ以上
詳しく話を続けてもらえなかったのは、恐らく、この井戸の件ではないだろうか・・ふとそう思った。

■9月14日、西軍による総攻撃、本丸に砲弾落下。これは一大事、乙女達は、身の危険も顧みず、
必死の消火活動に飛び出した。照姫の居室が、ここに所在した為だった。
この時、長兄の山川浩の妻トセが犠牲となった。
(トセの生年月日まで調べていませんが、19歳。夫の浩でさえ、この時23歳位。
彼女に限らず、多くの乙女が犠牲になった。)

即死ならず、苦しみ死に至る姿。
・・・少女の心に残った「果たせなかった約束」

捨松自身による回想と、捨松の姉の内、操の証言も含め、状況解説すると、被弾したトセの状態は、
全身四ヶ所。大腿部、脇腹、右肩、頬。急遽、医者が対処して肩の弾を抜いたが、流血は泉のごとく。

山川捨松が語った「皆の約束」

「母も、姉も、義姉も、そして私も、死ぬ覚悟は出来て おりました。
怪我をして片輪者になるより即死する方を望んでいました。
私達はいつも母と約束を致しておりました。
もしも私達の中で誰かが重傷を負った 時には
武士の道にならって私達の首を落して下さい。」

僅か8歳の少女迄が、潔く武士の子らしく死ぬことを・・・覚悟していた。
並ならぬ非常だった。


山川捨松が語った「果たせなかった皆の約束」
貴女の勇気はどこへ!私達の約束をお忘れなのですか!


義姉(長兄_山川浩の妻)トセの最期_『介錯の依頼』

致命傷を負ったトセ。特に肩の被弾は深く、もはや見込み無しは、幼い捨松にも解った。
そのトセは、臨終に至る時、怒り悲しみつつ、必死で、苦しい息の下から介錯を懇願して果てた。

捨松は、その声を聞くことは、とても耐え難い事だったと後に語った。

『母上。母上。
どうぞ私を殺して下さいませ。
貴女の勇気はどこへ
行ってしまった のですか。
さむらいの妻であることを
お忘れですか。
私達の約束をお忘れですか。
早く私を殺して下さい。
お願いです・・・』



兄嫁といっても若い。19歳。うら若い乙女達が、戦争の犠牲となって、皆こうして果てた。

ここでいう母上とは、捨松達の母であり、女傑で知られる山川唐衣。
ところが、その彼女とて、勇気を失った。

母は余りのむごさにすっかり 、勇気を失ってしまったのです。
約束を守るだけの強さは、母にはなかったのです。

約束を果たせなかった。あれほど堅く誓い合ったのに・・・。

しかし、唯一、山川家にとって心の救いは、上記のとおり究極に達していた為、本来ならば、弔いらしき
良き形を取るは不可のところ、トセの亡骸は、側に彼女の夫、山川浩の隊兵が居た為、特例的に、
鎧櫃を棺となして、彼らが無事、葬ってくれたことだった。


大山捨松嫁入り騒動:西郷従道の大風呂敷


関連▼
乙女達の会津魂

中野竹子の豪傑母君

◆中野竹子(会津藩)、 慶応4年8月25日、会津戦争に没す。娘子隊結成奮戦死。江戸育ち(同藩江戸詰勘定役中野平内長女)
・嘉永3年(1850)または弘化4年(1847)~ 慶応4(1868)年8月25日)・文武両道。薙刀の名手
・父:中野平内、母:こう子、妹:優子、


慶応4(1868)年、8月23日、会津城下には、早鐘が鳴り響いた。

皆が覚悟の時。 郊外の農家へ避難する者もあれば、篭城して最期まで藩主様をお守りして果てようと
篭城すべく城へ急ぎ向う者。そして、もはや、時来たり。自刃の覚悟を決めた一家。

その中で、中野竹子は、母、こう(孝)子、妹、優子と共に、長い黒髪を断ち切った。
薙刀を手に決戦の覚悟であった。
他にも、娘子隊として、勇ましく討ち死覚悟の娘達が加わった。皆、薙刀のツワモノ女性である。

皆の目標は、照姫様をお守りする為に決死で戦うであったが、なんといっても戦乱。
情報錯綜。誤報。城に入ることさえできなかった。今度は、男達と共に野戦で戦い、討ち死
すべく申し出るが、なかなか、そうはいかない。受け入れられるはずはない。
彼女達の発言。「許可頂けないのなれば自刃します!」
この強硬姿勢に、 家老・萱野権兵衛 が、衝鋒隊の末端に参戦許可を下した。男装して参加。

「武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも」

しかしながら、やはり、予想通り、不愉快な事態。悲しきかな、戦争も革命も、いつの時代も同じだ。
女が、戦に躍り出て、潔く戦死を遂げるはずの志は、人の心に内在する妖怪の餌食。蹂躙されて、
不義の掟を身に蒙る。言わば闇の掟。敵は、女ばかりの隊と見るなり、生け捕り作戦に出た。

ところが、竹子の奮闘振りは半端ではない。女ごときと侮っていたのでは、割が合わなかった。
放置すれば、犠牲者が増すばかり。ついに銃弾が放たれた。

被弾して地に倒れた竹子。(詳しくは、上側バナーから関連本沢山探せます。略。)
▲多分、泣いてしまうと思いますが、おすすめ本です。


中野竹子「介錯の依頼」


中野竹子、無念の最期については、幾つも説があって、これと断定は困難の様子。
もはや、これまでと潔く、介錯を依頼したのは事実のようですが、実際それを成し遂げたのが、
妹の優子なのか、農兵なのか、または、後に人が妹の優子と言い伝える事の原因として、妹に見間違える
他の女性(長刀を使い戦った他の女性)なのか。

優子の回想によれば、姉の悲報に駆けつけたい一心ながら、敵が群がり、無念、母と退却した様子
でもありますが、但し、現在の頁では、それを追跡するでなく、『自らの意思による介錯の依頼』
についてですから、割愛致します。

◆幾つかの説のひとつ。
(その説は、妹説なのですが、妹なのか、他女性なのかは詰めずに読み流して下さい。)


被弾して地に倒れた竹子。もはや、これまでと潔く、妹に介錯を依頼した。
泣く泣く、介錯に入るが、どうして、どうして、なかなか。
苦しめまいと必死ながら、一太刀、ニ太刀、またもや断ち切れず。女の細腕ではままならず。
(▼その説によると、黒髪は極度に短く切り詰められていた状態ではない様子にて)
その上、刀に黒髪がまとわりついて、刃はさらに鈍る。
見事な介錯を得られぬままに、苦しみ続けながら息絶えた竹子を、泣く泣くその場に残し、退却した。

もし、それが、本当だったとしたら、竹子はさぞ、苦しかったことでしょう。

しかし、妹なのか、友人なのか不明ですが、
天上で、きっと一所懸命、頑張ってくれた人物に感謝しているのではあるまいか。
己より遥かに剣術の腕が拙い者なれど、健気にも、逃げずにその場に留まり、
必死で最期まで努力してくれたのであれば、きっと嬉しい・・・。

この説でゆくと、この続きに農兵が登場します。
彼は現場で戦いつつ、この様子を知りつつ、なんといっても己も必死の戦闘の中。手助けしようにも、
体はひとつしかない。事止んでから、中野家に、竹子の首と遺品を届けた。


指南役クラスの腕でもない限り、とても、長い薙刀で一刀のもとに断ち切るは、恐らく不可能でしょう。
大の男達でさえ、やはり、失敗している例は他にも多々あります。ましてや、地に横たわる状態
ですから、難度は極めて高い。この失敗連発の描写には、妙に信憑性が感じられて、思わず震えます。


いずれにせよ、現代人にとっては難しい感覚ですが、
非常時に於ける「介錯の依頼」とは、武士の本望に他ならないようです。



こんなケースもありました。(関連: 木村銃太郎のラストと人物
二本松戦 の際、亡くなった 木村銃太郎 の最期について、生き残った少年の一人が語っています。
介錯を依頼された二階堂衛守も流石に動揺したのか、一太刀、ニ太刀失敗。
その間の木村先生(少年達の銃術師匠だから、先生)の様子。これは、少年ならではの目で
見つめていたのが解ります。
「先生は、目の前の草を掴んで頑張っていた。もう一度頑張れとでもいうように、
頑張ってその瞬間を待っていた。」

なんと!亡くなる人物、本人が己の介錯をつとめる人物を応援している。

尊敬する先生、自らの意思で、介錯の依頼。それを阻むは、誰とて許されない。
先生は最期まで頑張っている。その為、少年達は、その間、
じっと耐えて見守って・・・。「先生、偉い。やっぱり偉い。頑張れ先生。だけど・・・先生!」
しかし、三太刀目がついに決まった。こうなると、やはり少年だ。一斉に大声を張り上げて号泣した。

泣き方がまるで子供だ。それもそのはず、11~12歳の子まで居る・・・それほど究極の末期だった。
幼い少年達の泣き声。疲労と絶望感。
生き残った側の、二階堂衛守のほうが、むしろ生き地獄だったことだろう。
ところが、このすぐ後、その二階堂衛守本人も被弾して命を引取った。


中野竹子の場合も、きっとそれに近い思いだったのではなかろうか。

「武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも」

数にも入らぬ我が身なからも、なんのこれしき。武士の子として本望は、同じ・・・。



そう思わぬことには、悲しすぎる・・・。(関連: 中野竹子と娘子隊&竹子の母の活躍と懊悩



中野竹子について、最期にひとこと。

実は、彼女、ひとたび養女に出ていたものの、
飛び出して家へ。出戻り娘なのである。

出戻りといっても、離縁されたのでなく、
自分で蹴って飛び出した。

養女先の赤岡大助家では、甥子を養子に取って、
彼女と夫婦に。そして家を継がせようと考えた。

ところが、彼女、「一国が今や滅びんか否かの一大事
の時に、嫁入りどころではありませぬ!」

戦争さえなければ、彼女も一人の乙女として、憧れの花嫁衣裳に身を包んでいたことだろう。


▲日本人特有の思想:「介錯の依頼」完
以下、上記内容とは見解が異なります。
外国人には、どうしも合点ならぬ!『JAPANの武士 is as 野蛮!?の部分』
1_田崎秀親(明治期:秋田県士族):ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件
2_世界が震撼!JAPANの腹切:堺事件の処刑日事件(慶応年間:土佐藩士)
補填が追いつかなかった明治のシステムと、人のメカニズム


本件は、介錯の依頼とは、ややズレるのですが、多分武士の子らしい最期を所望していたのでは・・・と
ふと思える人物として。時は、明治7年2月。実は、この人物、悪い事をして処刑された人物なのですが、
補填が追いつかなかった明治のシステムと、破壊された人のメカニズムを痛感してしまう一件。

攘夷主義にて、罪のない外人さんを殺害してしまったわけで、それに関しては救いようがない。
しかしながら、明治の偉人達の多く、この直前にあった慶応,元治,文久,万延,安政・・、領事館を
襲撃したりして、暗殺という結論だけ取って言うなれば、似たような事をやっています。
維新から安政まで遡ってもわずか14年前。急旋回の時代の波、対応しきれなかったのは
一個人だけではなさそうです。

この一件について詳細は、こちらの頁ご参照下さい。▼
田崎秀親 :明治7年2月発生:ドイツ代弁領事:ルードウィッヒ・ハーバル暗殺事件。
秋田県士族「 田崎秀親 」について補足

この田崎という人物、わざわざ、自分で自首した。
当初、自首した際の発言は 「夢で、天から皇国のお告げを授かったから行った。死は覚悟だ。」
と、かなり格好良かったわけだが、即時斬首なれば楽なものを、現実はそういかなかった。


慶応4年2月15日(1868年3月8日)、フランス領事一行が大阪から陸路、堺に入ろうとしたところ、
警備の土佐藩兵はこれを阻み、追い返した。 ところが、同日夕刻、士官以下数十名の水兵が上陸。
市内を徘徊。怒った土佐藩側は咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷、海に落として溺死させた。

ロッシュは、四日後の2月19日、断固、下手人斬刑を要請する。

土佐藩主山内容堂は屈した。自藩の者、20名に切腹を言い渡した。
2月23日、死者11名の犠牲を蒙った被害者側代表のフランス人達立会いのもと、
堺の妙国寺で土佐藩士20人の処刑となった。

しかし、これは、途中11名で、フランス側が悲鳴をあげて、
処刑は取りやめとなった。6人目からとんでもないことが起きたからだった。

この一件について: ◆詳細は、こちらの頁ご参照下さい。堺事件。


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