小笠原長行と家臣の明治,幕末,箱館戦争

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小笠原長行,夢の訳:普遍の契り,小笠原長行と家臣達の明治




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※別途参考資料専用頁有: 資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について
小笠原長行: 夢の訳:普遍の契り
夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!_Vol.3(失踪後から晩年)

一体、どうした?どうした!・・・どうなってるんだ?!
明治24年(1891年)1月25日、一人の男が、突如、この句を詠んだ。しかもこの男、当時、世間では
変人で通っていた。 『夢』という言語は、計9回連唱。 対して 『浮世』 がたったの1回。重い浮世。
あとは、すべて単語とは呼べぬ間接詞のみ。男の名は、小笠原長行。
どうした?何なんだ?一体、何が言いたい!恐らく、現代に生きる人々の多くがそう感じるにちがいない。
長行を知らぬ限り、これは確かに尋常じゃない。しかも、夢だらけと言っても、若者ではない。

変人、隠遁、聾唖の廃人・・・なんと言われようと、黙して語らず、
そんな一人の男、ついにその魂が爆発した!


夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢
  浮世は夢の 夢ならぬ夢



明治24年(1891年)1月25日、
小笠原長行、時に70歳
その老人が、この句を詠んだ。



享年70歳。小笠原長行は、夢を連呼しつつ、浮世を全うした。駒込の自邸で、息をひきとった。
ついに終わってしまった・・・だったのか、それとも、やっと終わったのか、静かに天へ昇っていった。

TO THE PAST_夢の訳
出現!真っ赤な嘘と隠遁、変人、沈黙


出現!真っ赤な嘘

1872年明治5年4月、突如、奇妙な男が出現した。男は50歳。
その男は、突如、飄然と東京に姿を現したのである。またしても、小笠原長行。

今まで行方不明だった男が、たった今、アメリカから立ち戻ったということになっていた。
もちろん真っ赤な嘘。シナリオの実行だった。

同年、7月、新政府に自首。そして、8月4日、早々に赦されている。
赦免後、彼は、同じく8月、即時、駒込動坂のあばら家に住んだ。
誰にも会わない。身を窶し、かつての面影はどこにもない。
知らぬ者が見れば、どう見ても、百姓か植木屋さんか?それにしても奇妙な男だった。

誰になんと言われようと、その姿勢を変えようとはしない。

それでいて、明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、明治13年(1880年)6月、
従四位に叙任された。つまり、完全に名誉の回復である。
勝てば官軍、負ければ賊軍。彼はその典型ともいうべく存在、まさに賊だったのだ。
汚名は洗い流された。

晴れて、華族の地位を確保。複雑な要因で、長らく絶縁の体を示さざるをえなかった彼が、
やっと家族にも会える身の上となった。

明治24年(1891年)1月25日、駒込の自邸で死去するまでには、
我が子、小笠原長生と同居するといった形、ちゃんと人らしい生活を得ていた。

しかし、この謎のあばら屋から、一向に動こうとはせず、
隠遁、変人・・・そのラインのまま、むしろそれを自ら欲しているがごとく、
死の瞬間まで、そこに居た。

この男は、ご存知、榎本武挙達と共に、蝦夷に徳川の最期の夢をかけて、
箱館戦争に挑んだ一人だったのだ。

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突然出没事件、「おはこ芸」


正体不明の男が、突如浮上する・・・とは、長行の人生に於いて、一度のことでない。
いわば、『おはこ』である。

藩存続の複雑な事情 の下敷きになった彼は、ハンディがないにもかかわらず、
聾唖の廃人 となされ、出生届を出されずにいた。
優秀な彼は、諸外国の脅威が迫る緊迫の徳川末期に於いて、そのニーズを満たす
極めて貴重な存在になろうことは、誰もが予感した。

さりとて、世に存在せぬことになっている以上、書面上、正式に世に送り出すには
なにかと骨が折れた。

この男が政界に浮上したのは安政4年の9月。36歳にもなる男が突然現れた。
突然、正体不明の三十男が出現したかと思うやいなや、
腐敗しかけた徳川体勢を立て直そうと、大旋風を巻き起こした。

いうなれば、これが、彼にとっての、 「出没事件第一号」 である。
それから14年後、今回の「たった今、アメリカ帰りました・・・。」シナリオが
「出没事件第ニ号」 といえる。
幕末期の小笠原長行の大奮闘、及び、一般的に奇行と言われる
諸々の動向については、こちら「 慟哭の小笠原長行、夢よ夢、夢は
夢ならぬ夢!七重戦
」からご覧下さい。

突然の出没劇もさることならが、『奇行劇』も、『変人劇』も、
ご気の毒ながら、すっかり達人の領域だ。

どうせ、言っても解らぬであろうことは、万事、己の奇行、
いくら聞かれても答えぬ、応じぬは、同様にして、変人になりきるが、
結局、最も効果的であることを悟ってしまった。

といっても好き好んで、そうしたのではなく、実は、万事、二心殿(徳川慶喜の急変)である。
文久3年(1863)3月 、『生麦事件(=前年発生)の独断賠償金支払い事件 』も、
『奇行とされる謎のクーデター事件= 1200の兵を引き連れ、 京の都の強烈進軍事件』も、
・・・全部、偏屈に黙り込んで見せて、全部己が泥を被って終わらせた。

最悪、己が腹を切る目にあおうが、断じて、口は割らぬ、それが小笠原という男だった。



故に今回も、だんまり攻撃を押し通した。

彼の影法師がいつも彼を守っていた。今だ忠義に徹して、彼を支え続けるかつての家来達。
彼らのもたらす情報に基づいて、慎重に動いた。

苦の潜伏時代と「真っ赤な嘘のシナリオ」
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小笠原長行は、突然の浮上も『おはこ』ながら、
じっと耐えて「縁の下」暮らしも、
これまた、気の毒。かなりのキャリア、実績といえる。
比喩の領域を脱して、本当に「縁の下」で
暮らした時代まである。

蝦夷の榎本政権瓦解直前、明治2年4月に脱走して、
潜伏した。逃げたからといって、己の命惜しさとは
限らない。たとえ敗れても、こうなってくると、
『藩の存続』自体が、皆にとっては重要なのだ。

蝦夷脱走時の詳細は、いくつかの説がある。
納得してくれない長行を家来達が段取りを固め、拉致同然で脱出させた説もあれば、外人さん
ルートを使ったなど様々。ところが、本人が晩年に至っても完全にだんまり攻撃であるため判然としない。

しかし、この明治5年4月まで、けっして自首しようとはしなかった。
完全に潜伏を続けたのだった。自首せず潜伏の状態で発覚すれば死刑は確定だ。
実は、今だ彼に忠義を誓う家来達が、影法師のごとく陰に付き添い、守っていたのだ。

穴を掘って、そこで暮らすくらいなら、自首したほうが、ある意味で、
余程楽だったに違いない。たとえ命を奪われようと・・・。
しかし、耐えた。

この人物の場合、殿達と異なり、長州征伐軍を率いた経歴もあれば、文久3年1863の
「生麦事件の独断賠償金独断支払い事件」、「謎の進軍、奇行とされるクーデター」など、
官軍の目から見ると、お育ちの良い松平ファミリーが勇気を振り絞って闘いに挑んだ
・・・のとは大分違って、かなりの曲者。 本人処刑の確立は高い。馬鹿正直な自首は愚作だった。

また、自首すれば、実際、他藩では、抗戦派代表として、家臣の首犠牲が出ている。
早い話、責任者に対する切腹の強要実行である。

彼を守る家来達は、極めて冷静に世の動きをキャッチしていた。

会津の松平容保は命は助り、晩年は日光東照宮宮司並びに上野東照宮祠官。
しかし、恭順の時点で、萱野権兵衛が切腹させられた。彼より上位の家老は自分で切腹して
既に果てている。もともと恭順派で抗戦派ではなかったものの、地位的に当該なのは、西郷頼母。
しかし、その段階で行方不明。それもそのはず、 西郷頼母 は榎本軍に飛び込んできている。
その為、 萱野権兵衛 が犠牲になった。

桑名の松平定敬は自首。命は助かる。しかし、榎本軍終焉の最期まで戦い、降伏して
獄中に送り込まれた苦労人、 森常吉 は、処刑という形を取られずに、
回りくどい形で、結局処刑された。

桑名江戸藩邸に押し戻され、そこで抗戦派責任者として、切腹を強いられたのである。

備中松山の板倉勝静の自首に係る代理犠牲者の名前は判然としないが、居たはずだ。
実は居た!表向き、「断家命」で命は許されたかに見える高田ながら、実のところ、
明治2年1月12日、結局切腹している!!
犠牲の親子「高田亘」と、新撰組に編入されていた16歳の少年「高田錠之助」」

そんな経緯を、全て、長行の家来達は見守って知っているが故、尚のこと、
長行は耐え続けたのだろう。


当初、何軒かの知人宅を転々としながら潜伏をしたようだ。
知人に迷惑をかける為、晩年に至っても本人は、その点を曖昧にしており、
「越後の農家でまぐさにまみれて寝た」などと誤魔化し書いたりしているが、今日、その一部は
明るみになっている。

・新発田藩士の大野誠(賢次郎)(古い漢学の友・当時宮内庁?)
・古本屋:和泉屋金右衛門

若い頃、出生の事情から、世に立つ身でなかった長行は学問に専念していた。
特に、漢学では林大学守に学び、その友が上記、大野誠(賢次郎)。また、勉学の由縁で
長年に及び大量の本を購入している。伴って、古本屋の上記、和泉屋金右衛門との絆も固い。

本当に「縁の下」で暮らした時期とは・・・

古本屋の和泉屋金右衛門が死亡した後、後家さんが語った。
  • 縁の下に穴を掘って、女中さえわからぬ状態 で匿ったという。
    本人の息子、小笠原長生の話でも、ここに一番永く居たらしいとあるから合致する。


次なる潜伏時代=湯島妻恋

その後、湯島妻恋に一戸を借り入れて潜伏。かつて御家人の隠居が住み捨てた小さな荒れ放題の
襤褸屋敷に、隠れ住んだ。本人は外に一切出ない。
しかし、 太田俊介 (小倉戦争で長行が富士山丸で脱出した時の従者)が
厄介人に扮して二階に住んで、生活の一切を切り盛りした。

この頃、長行と共に蝦夷へ同行した家来の内、新撰組に戦闘員として編入された側でなく、
彼の側近として随従した二人の家来は、自首して釈放されたらしく、
「公はアメリカに逃げた」と言ってカモフラージュ。
その二人とは:米渓彦作 、尾形俊蔵≒尾崎といわれる。

論より証拠固めとして、知人のアメリカ人に為替で本当にアメリカに送金を繰り返す。
そのお金は、そっくり、そのまま、そのアメリカ人が、長行と同居している太田に手渡すといった
手の細かい技を使っている。

おそらく、この段階で既に、家来は要人に諮り、周到な証拠作りであろう。
これが、「たった今、アメリカから帰ったばかり!」という真っ赤な嘘のシナリオの前提。

安全確認の上、実行されたシナリオが、明治5年7月(1872)の自首であり、同年8月の赦免である。


小笠原も頑張ったが、家来達に泣ける。よくぞ、ここまで頑張った。
明治といえば、立身出世。かつての殿どころでない・・・なのだが、彼らは、この期に及んでも、
なんら、かわらなかったのだった。


明治5年の春


明治5年の春といえば、

まず、春一番、1月6日、榎本武揚達が特赦出獄。
榎本は同年3月早々、北海道の開拓使に出仕。 榎本に限らず、賊軍の幹部達は皆出仕。
あたかも、桜前線のような晴れやかなイメージが一杯だ。

隠れた闇の部分_その1

ところが、隠れた闇の部分が、実はかなり多い。
露見したものだけでも相当ある。

榎本艦隊スタート時、暴風雨に遭い、悲劇にあった咸臨丸事件。その時、
辛うじて潜伏、生き延びた吉岡勇平は、明治3年(1870)11/18捕縛+斬首。
この時期、赦免された者達が戻ってきている。
そのため、潜伏していた者が、安心して出てきたのか、出てきた途端、他にも殺られてる。

潜伏していた大石鍬次郎が姿を現し、早速捕縛、処刑となったのは、明治3年10月10日。

新撰組の市村鉄之助の兄:辰之助は、同隊を途中で離脱、無事故郷で商売を開始、
生活していたものの、なぜか、謎の死を遂げた。それは、明治5年2月7日。

新撰組への怨恨の塊ともいうべく存在、元高台寺党のメンバーは、新政府にとって、丁度便利な存在。
自主的に勝手に張り切って捕縛する。残党狩りに大分貢献している。
こんな経緯もあったし・・・(本題からズレるので、略、こちらをどうぞ。)

榎本の助命活動に、頭を丸めてまで頑張ったあの黒田清隆。その黒田が留守の間に、なんだか
きな臭い事件が随分起きていると感じるのは、気のせいだろうか?斬りたくて仕方ないブレーンに
とって、彼の存在は目の上のタンコブだった。留守の間は、当然手薄になる。

黒田清隆が完全に留守になったといえば、まずは、明治3年7月から10月、樺太視察。
次は、明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカとヨーロッパ諸国を視察、及び、アメリカで、
ケプロンに会い、開拓使へのお雇い外人構想を整える。もともと多忙な男だが、3年の夏から4年の
暮れまでは、居ないに等しい状態。

しかし、赦免真近の4年、辰口糾問所では、榎本幹部の中、なぜか、松岡盤吉だけが獄死した。
軍艦朝陽を轟沈した松岡だけが死んだ。( 朝陽轟沈 は、榎本軍対官軍の戦闘の中、一瞬の一撃による
殺傷量に於いて最大。死者は57人。たった一弾での数値で考えれば、おそらく戊辰中でも一番と
いわれる。)・・・松岡だけが死んでしまった!

宮古海戦の甲賀源吾 が仮に生きていて、共に、辰口糾問所入りでもしていれば、
その結果どうなったかで、「ああ、やっぱりね・・。」とばかり、
答えは明確となろうところ、無念にも、彼は宮古海戦現場で死んでしまっている。

  • しかし、根拠なく勘ぐるなれば、いくらでも出てくるから控えます。
    きな臭い戦後処刑&謎の死については、真下バナーへ寄り道してご覧頂けます。


きな臭い!戦争終焉後の『犠牲と謎の死』

それでもなぜか今だ隠遁、駒込動坂時代


忠義に徹し、しかも優秀な家来達の周到な段取り。
おかげで、長行は、踏み外すことなく、存命できた。

しかし、家来達の戦いは、まだこれで終わらない。
今度は名誉挽回作戦が転回された。

明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、明治13年(1880年)6月、 従四位に叙任。
つまり、完全に名誉の回復である。もはや、 賊の汚名は洗い流された。
晴れて、華族の地位を確保。複雑な要因で、長らく絶縁の体を示さざるをえなかった彼が、
やっと家族にも会える身の上となり、やがて実子、長生と同居できる形にまで漕ぎ着けた。

その傍らで、彼にとっての宝物、無念にも 箱館戦争で失った弟同然の胖之助の遺骨 は、
別の家来達が尽力して、無事唐津の墓に収容した。
もたもたしていると、官軍が箱館近郊の各地、幕軍の墓が暴かれてしまうからだった。
節操ない話だが、事実だから悲しい。


普遍の『契り』


このSERIESで言いたかったことは、長行の伝記?!ではありません。

どうして、ここまで、家来達が、こうして忠義を尽くしてくれたか・・・
そこに魅せられてしまったのです。

もちろん、時代的思想もあります。今日なら絶対考えられないところ。
徹底抗戦を唱えるが故、巻き添えを食らって、大切な親兄弟に犠牲を出し、禄を失い、
汚名を被り不幸な人生に至った家来達なのです。

それだというのに、彼を恨まぬばかりか、こうして己の命ある限り、永久に忠実でいられたか・・・
というところが不思議でしかたなかったのでした。

野暮な表現しか使えず恐縮ながら、
やはり、心底、彼の人間性に惚れていたからではないでしょうか。

家来達は、たとえ、今生きる世界が明治になろうと、あの頃、
幕末動乱時代の小笠原長行の姿を見てきた男達。

長行の住んだ江戸別邸(藩邸とは別)に居た家来達とは少数の実質的家来(近習、馬周(親衛隊 )
もいましたが、 国許、唐津から書生として、長行を慕って来ていた者が多くいました

独自の洞察力を持って、開国派だった長行の思想と行動。
ずっと見てきた・・・いわば師を仰ぐ学生。

いつも、好き好んで、火中の栗を拾った。終わらないなら火に飛び込んで、自ら拾う。
進まないなら突入して巻き起こす。為せぬぐらいなら、自ら被って切腹したとてやむをえぬ、
いつも命掛けで犠牲的。どんな場合も真剣勝負の男、それが小笠原長行。
損得でいうなれば、いつだって、損ばかり被って、それでも澱むことのない彼の人間性。

心底、純な男には、純な男達が付いた。
   誰一人として、けっして裏切らなかった。

独断で突貫突入をして果てた長行の甥、当時16歳11ヶ月の少年、小笠原胖之助。
なんら打算や駆け引きのできぬ正義感に燃えた清い少年。
その彼には、同様に忠実な家来、小久保清吉が殉死した。
その関係と、中年男、長行ながら、主従の絆は、全くなんら変わらない。

すっかり皆、中年になって、その中年男達に、純粋とか、無垢という形容は
適切じゃないかもしれませんが、彼らを見る限り、どうしても、それ以外の表現が見つかりません。

「忠義」といえば、妙に現実離れをした過去の世界に感じられてしまいますが、
「契り」 と聞くとどうでしょう?

素晴らしい思想と行動力の男、長行が、その反面、藩主の子でありながら、不遇の出生の少年
ともいえる胖之助に惜しげなく愛を注ぎ込む。
その姿も見てきた家来達。

家来達の普遍の忠義は、きっと 「ごく自然に心の中に発生した契り」 だったのでしょうね。

親子の愛や、人と動物の間の愛情は、理屈無し。
愛されたから愛し返すという屁理屈が無関係なのは当然のこと、勝手に愛が迸って止まらない。
しかし、ここに不思議と、主従関係という実社会でそれが成り立っていた。
しかも、時代は明治。戦国武将の美学は吹っ飛んでいます。

それでも、なぜか、 「普遍の契り」 が成り立っていた。



晩年、長行は息子と同居している。その息子、長生が後に語った。

松平容保殿が来ても、松平春嶽殿が来ても、父は会おうとはしませんでした。

無視したり、拒絶したり・・・の形ではない。半日近く、日が暮れるまで
裏の畑に引っ込んだまま戻らなかったという。
客人が痺れを切らして帰るまで、辛抱強く、またしても「だんまり攻撃」で終わらせた。

大野右仲(家臣、蝦夷では新撰組、土方歳三の右腕として活躍)様にさえ、
父は会いませんでした。

しかし、これには泣ける。長行は、大野にはかなり呵責がある。手紙を書いた。
その手紙で、完全にとぼけている。

「もう、すっかり、年取って惚けた。
何も思い出せない程惚けた。
とても人に会えない程、猛烈に惚けた。悪く思わないでくれ。」

このような意味深な手紙を書ける位だから、全く惚けてないのが明確だ。
おのずと大野にもそれは解る。しかし、大野なら、怒るところか、きっと泣いただろう。


そして、やがて、張本人の長行にも、天からお迎えが来た。

誰にも会わない。変人。だんまり攻撃ばかり。沈黙の人。もう70歳なのだ。
その人物が、人生の終焉時に詠んだ詩がなんとこれだった。これが、彼の夢の訳・・。


夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢  浮世は夢の 夢ならぬ夢


いつも耐え続けた男が、ついに爆裂した。
情熱の男、小笠原長行。

たった一度のうつつ(=浮世の現世)、その終焉が
九回連呼の夢の文字。

終わった。全て終わった。消え去った。





戊辰、箱館戦争を詠んでいると、いたるところに、この「夢」の文字が
出てきて、驚かされます。以外なところに、以外な人物が、たくさん。
一番解りやすいあたりでは、澤太郎左衛門の「戊辰の夢」。たった半年の夢。

こうしてみると、なんだか、初めて気付いてしまいました。


夢とは崩れ去るから夢。覚めてしまうから夢。


・・・ああ、そうだったのか・・・って。
いわゆる「夢みる夢」は夢の内に入らない。
この手の夢としては、土俵にもあがれない。

清らかな若者じゃなくて、いいおじさん達も、
皆、その『夢』という痛々しい表現を。
若者の人生経験では語りつくせない重厚で
怪奇な夢の要因。

夢とは、痛々しいものだった。

・・・それが、うつつというものだったようだ。


箱館戦争を書こうとすると、困ったことに、冬と春、季節は
ふたつしかありません。せいぜい初夏ってところ。
猛著の夏もなければ、趣の深い秋もありません。

不義への戦いに挑んで、哀れ異郷の丘、蝦夷の地に散った勇者達。

枯れ色の大地、イコール蝦夷のイメージのままに
死んでしまった彼らに、緑豊かで高原の風が爽やかな蝦夷の夏、
そして、華麗なる秋も見せてあげたかった。



出生から、幕閣時代、江戸逃走、奥羽転戦~蝦夷の榎本軍加入時代の
もっと詳しい資料編は:こちら! 資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について

小笠原長行SERIESは三部作(三愚作ですが・・)。現在の頁はVol.3=完の完です。

Vlo.1
小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦

Vlo.2
小笠原胖之助、七重戦、針の止まった金時計

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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