幕軍&松前えとせとら14,箱館戦争

箱館戦争,幕軍、松前えとせとらNo.14,資料編,幕末明治,各人物補足頁,各特集頁登場人物のリンク補足集,鈴木丹下(会津藩)他,


幕軍&松前えとせとら

Vol.1 ・・ Vol.4 <(中島三郎助特集: Vol.7 )< Vol.8 Vol.9 Vol.10 Vol.11 Vol.12 Vol.13
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幕末戊辰の人々、その後エピソード,会津中心編

「幕軍&松前えとせとら」は、色んな長編に対する補足&資料寄せ集め型。軽い系もあれば、小難しい
資料系も混在。一気に読もうとするとしんどいかもしれませんが色々。
◆現在頁Vo.9は、個別に特集する程の要領未満の「みんなのミニ談話」。今後ぼちぼち増えます。
関連:■ 幕末_WITH_LOVE玄関 、■ 人物名から追う 、■ 巨匠達悲劇と懊悩 :幕末関係無の「不遇のアーティスト、偉人」
幕末昂じてはひふへほ! (明治以降さらに引き摺った暗い戊辰の影:生き残りと次世代)

幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO

  1. 鈴木丹下(会津)

  2. 以下、江戸残留組に絡む人物系
    鈴木多門(会津)と、
    甥子「郡長正(萱野権兵衛倅)」
  3. 佐川主殿(佐川官兵衛の弟)
  4. 小池周吾(純義隊長_渡邊綱之助)
  5. 準備中(会津)

会津に深く関与した幕軍の者に係る謎
  1. 騎兵差図役[小山某]
幕末_WITH_LOVE玄関

現在頁はちょこんとヒトコマ集結編:
▼どっさり大勢のリンクはこちら
人物名から追う
■みんなのエピソード編は
Vol.9 から順次
■現在頁は、各特集(長編)の
補足解説用内容の集合体につき、
五十音順ではありません。
詳しくは、各リンク先ご参照。

鈴木丹下
:250石,公事奉行,軍事方 ,享年:30歳,死亡:8/29長命寺の戦にて負傷後、同日城内にて落命,
萱野権兵衛 の実弟。鈴木家(※)に養子。この人物は特殊な動きを展開している。
ずっと会津に居た者ではない。京都詰目付時代を経て、帰国後に御蔵入奉行に就任。
「騒擾日記」を著し、八月十八日の政変(=文久の政変:文久3(1863)年8月18日)の
様子等記載。( 翌年は禁門の変
  • ※鈴木家と萱野家
    萱野権兵衛の妻の叔父は 鈴木多門 。やはり、なにかと鈴木家と萱野家は繋がっている。
  • 【注1】 鈴木家と萱野家に微かに感じられる「慈愛、博愛」の精神。
    • 古い話だが、家光時代前後まで遡ると、丁度、鬼の切支丹弾圧本格的開始。この頃、彼らのご先祖さんに、
      双方この姓が残る。類族赦免。類族とは、切支丹として捕縛処分された者の配偶者や子など、当然嫌疑の
      対象となる直近の家族。処刑対象になることもあれば、次回怪しい動きが見えた場合の捜査を迅速に
      為す為のいわば切支丹ブラックリスト。宗教として継続されていたかは別として、
      思想的な「慈愛、博愛の精神」は、真下バナーの「戦場で鈴木丹下が少年に手渡した時計」の経緯に滲み出る。


    • 尚、上記の類族事件の時、他にも、幕末にも活躍する指折りの会津藩士の家系の名が残る。 【注2】▼

洋式調練について詳細は不明ながら、幕府諸隊または、房総在住の会津藩士(関連: お固め四藩
同様に、早期より洋式戦術訓練を把握している者と判断される。
弟の名は「三郎」。【鈴木三郎:朱雀士中一番隊,享年:23歳,死亡:5/1白河戦】


この人物については、こちらのSERIESをご覧下さい。

この人物は、慶応4年会津戦争突入まもなく、8/25または8/26日位の段階で、
早くも落城の予感を察知 。己の散華を決意して、その直後、側に居た見知らぬ少年に、
大切な懐中時計と、双眼鏡を与えた。生き残れる確率の高い年少少年に、会津の魂を授けた形。
たとえ城が落城せど、人の心は不滅だ。ニュアンス的には、そんなかんじ。

この時とは、目の前で、 土屋鉄之助の隊「新練隊」 の者が、敵の砲弾に直撃されて、
吹き飛ばされ、崖を転げ落ちる惨状の直後。この話は真下バナー。

戦場で命を与えてくれた銀時計:井深梶之助,鈴木丹下

会津藩「鈴木丹下」幕末のジキルとハイド善人編


鈴木氏の思想については、こちらの特集から。


鈴木丹下は、京都時代、芹沢が己の部下に対して横暴惨忍な振る舞いを為す現場を目撃。
会津藩にとっては直接関係ない「新撰組」隊内のことながら、 人道的に非常に怒っています。
彼の日記にそのフレーズが残る。 会津藩「鈴木丹下」と新撰組「芹沢鴨」幕末のジキルとハイド


  • 【注2】上記の類族の件他:幕末にも活躍する指折り会津藩家系(先祖ご参考) 【注1】▲ご参照
    • 元禄2年閏正月15日(1689年)、切支丹宗門類族に御赦免。【慶長(1596~1615)寛永(1624~1644)以来の者達】
      ◆武川源助の女子、◆内藤勝左衛門の女子、◆野村甚兵衛の妻&男子、
      ◆神尾伝左衛門の男子&女子、◆野村市郎兵衛、◆森伝之丞の妻、◆野村所左衛門の妻、
      ◆相馬五郎左衛門の後家、◆遠山半三郎の妻、◆世紀孫助、同彦六、世紀金平の後家、
      ◆堀田勘右衛門の妹&女子&男子、◆遠藤市郎右衛門の妻、◆松原孫左衛門(『家世実紀』による。
    • この中、明らかに切支丹が今日明確である人物存在の家系もあるが、それ以外に於いても、
      幕末人物の行動になんとなく「慈愛の精神」が見えて、小首を傾げる件が存在するが、確証がない為割愛。
      優しい心はこの上なく素晴らしい事なのだが、武士の世界に限らず、明治初期に於いても、秩序の確保に、
      キリスト教の精神は、非常に弊害だったのが、わかる。
      ・◆明治初期の弾圧事件:津和野の悲惨: 乙女峠の坂道「雀の涙」:津和野「浦上四番崩れ」
      ・◆シュネルによるカリフォルニア「若松コロニー」にもキリスト教精神を秘めた末裔が絡むと私は考えています。
      (◇ シュネル(スネル)目次 、◇ シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎


以下、 江戸残留組 に絡む人物系関連memo
甥子の「郡長正」に於ける少年なりの思想

  • 鈴木多門も江戸残留組の一人。主に知られる行動の一つに、小銃購入作業。
    慶応4年3月13(1868)、エドワード・スネル(シュネル: シュネル目次 シュネル兄弟 )から、
    小銃780挺を購入。
  • 京都時代の彼は、公用掛に在勤。


◇ご参照:「 萱野権兵衛の切腹と、後を追った倅_「郡長正」切腹事件 :」

萱野権兵衛の子らは、すでに一度死んだも同然だったの巻 ※鈴木多門は、萱野権兵衛の妻の叔父。

上記テキストリンクで詳細は解りますが、会津の戦犯責任を一人担い切腹を為した萱野権兵衛ながら、
その後、子の「郡長正」もなんと、折角の留学の最中、少年なりの責任感から切腹して果ててしまいます。
これは、謎めいており、多説有りながら、一人の少年が、戊辰体験による精神形成が影響していた
ことだろうと思えます。結果的には、逆に迷惑をかけてしまったことになるのですが、少年なりに、
必死の責任感。「己は死なねばならない!」:戊辰の際、彼は一度決心を強いられた過去があります。
「武士の子なれば、責任を全うして、潔く死なねばならない。」
・・・少年なりに、一種の思想が形成されてしまった事も要因と思えます。

会津戦争の際、萱野権兵衛の妻は決断します。可愛い我が子ながら、男児2人、女児2人、及び召使。この人数を、
抱えて籠城組に入るは、寧ろ藩主様に忠義を欠くことになる。男児といえど、幼くて兵どころか雑用にも、使え
ない。されば、厄介者を抱え込むは、忠義に欠く。心鬼にして、子供に「死の覚悟」を告げ、納得させた。
とはいえ、流石に女の手で、これだけの人数を介錯するは不可能。そこで、親族の「 鈴木多門 ※▼」に子の介錯を依頼。
※鈴木多門は、萱野権兵衛の妻の叔父。
鈴木多門は、泣く泣く承諾。いざ、介錯!の寸前、救い主登場。その話は、後の世、
死んだ郡長正の兄弟、「寛四郎」が語る。寛四郎は、当時11歳。あいにく、救い主の名前は本人は知らない。
ただひとつ、解ることは、当時「小姓掛」を勤める人物「某」であったという。
「子供は斬らんでよい。頼むから篭城組に入ってくれ!」「某」氏による必死の説得。抜刀して、その
つもりで構えた鈴木多門は、この人物に説得された。その為、子供達は救われた。

しかし、少年の心にはしみこんで消えない。これを悲しみとして記憶するだけならば良いが、精神形成にも
影響する。泣いていやいや死を覚悟したでなく、母に諭され、「忠義を全うするなればこそ、死なねば
ならない。」郡長正は、少年期に、ひとたび、幼いながらも潔く、腹をくくった状態にある。


■No.33_佐川主殿(佐川官兵衛の弟)

佐川主殿( 佐川官兵衛 の弟): 江戸残留組

佐川主殿、この人物は、同じ戦死でも、勿体無いところで落命。
真下枠の「No.35_小池周吾(純義隊長_渡邊綱之助)」ご参照。鳥羽伏見に破れ、江戸で密かに結集した
チームは、見解割れ分派を発生。

■【一つ目のチーム】小池周吾(純義隊長_渡邊綱之助)を筆頭に、純義隊。
■【二つ目のチーム】
・・佐川主殿らは、脱藩&「七連隊」入隊。他に簗瀬克吉、石黒恒松(石黒則賢、上村恒二)らが居る。

佐川主殿と、石黒恒松は、なんとか小池周吾を説得して、もう一度皆で団結しようと談判に船橋へ向う。
帰り道、混乱の七連隊の同士討ちに落命してしまう。現場は、日本橋。


■No.34_小池周吾(純義隊長_渡邊綱之助): 江戸残留組

小池周吾(=「渡邊綱之助:純義隊長」&「[滝川右京」):佐久簑太郎の次男、小池帯刀の養子。
鳥羽伏見の後、江戸へ。後、仙台で降伏。

■No.35_準備中

準備中

■No.36_準備中

準備中

▼調査中、情報不足ながら、気になる人物の断片MEMO
■No.Q1_幕府脱走軍騎兵差図役[小山某]

■騎兵差図役[小山某]について
騎兵差図役[小山某]とは、幕軍の者だが、8/25or8/26会津に散華。8/23、戸の口原方面参戦者激励の為、前日、
一泊していた容保が帰城の際、危機一発の状況判断で、迅速に城へ導いた者。殉難禄に名あれど詳細不明。
井深梶之助が、讃えている。尚この人物の「小山」発音は、ことによると、「オヤマ」の可能性有り。
血縁の有無は不明だが、因みに、この同一日、敵砲に直撃された隊「 土屋鉄之助の隊「新練隊」 」犠牲者の一人
に、という人物「別人:小山太郎※▼」が居る。この人物は、殉難禄では「オ」欄の「オヤマ」の様子。

この事件の時、その現場に近い位置に、上記[小山某]が立っており、その直後、彼は狙撃されて死亡。
単なる偶然かもしれないが、一応、ご参考。

  • 「別人:小山太郎▼」
    • 小山太郎:( ◇五石五斗二人扶持、◇享年32歳、◇元治の父 【元治って誰?相当年少か?父は元治の誤か?】
    • 小山太郎については、死亡場所:「若松六ノ丁土手」は確実。
      しかし「死亡日」と「所属隊名」が2種類有り。
    • 死亡期日:8/25or8/26:
      • この日、この隊は直撃され大勢死亡。彼らの死亡日を見ると、同じく8/25or8/26が
        多いことから、運ばれたが翌日落命の可能性も考えられる。
    • 所属隊名:2説=(◇新練土屋隊、◇青龍士中隊(附?)):砲隊なれば他隊に(附?)も有り得る。


■No.Q2_準備中

準備中

一般 Vol.1 ・・ Vol.4 <(中島三郎助特集:< Vol.7
一般< Vol.8 Vol.9 Vol.10 Vol.11 Vol.12 Vol.13 Vol.14 現在の頁< Vol.15 ・・
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


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