桑名藩,森陳明弥一左衛門_2

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森陳明弥一左衛門,君にかわれる死出の旅立



臣の切腹、臣たる男の掟_No.2
箱館戦争SERIES
桑名藩_ 森常吉 森陳明 : 森弥一左衛門
君にかわれる 死出の旅立
資料編は、この行の下から

一般的に、よく散見しやすいのは上の句。

桑名藩に於ける『反逆の主謀者』として、全責任( ※関連:他藩の戦争責任犠牲者 )を負い、
切腹を成し遂げた男、森陳明弥一左衛門、44歳。彼の辞世の句である。





うれしさよ つくす心の あらわれて
君にかわれる 死出の旅立

そして、下の句。

なかなかに おしき命に ありなから
君のためには なにいとふべき


彼が責任切腹を成し遂げるその引き換え条件は、桑名藩の存続と、
今や、菊の御紋章輝く天下の官軍。楯突いた罪人、即ち朝敵、旧藩主_松平定敬の存命だった。

この忠誠心満ち溢れる言語・・・『君のため』その語の放つ響き。
しかし、何やら重い。 その訳は

冬の日、闇夜に消えた蒼い炎_十文字切腹
駒の命と人、主と臣
資料編

森常吉
桑名藩家老_ 森常吉 森陳明 : 森弥一左衛門
人物について、おまとめ表
名前・藩
森弥一左衛門 。諱:陳明(つらあき)。桑名藩士。
戊辰戦争時、仙台で藩主・松平定敬に従い蝦夷行き決定。その際、桑名藩士は、
藩主側近家来としては2名のみの乗船許可。溢れた藩士は新撰組加入を条件として
乗船させてもらった。この時、要人に限らず、面の割れた人物の多くは皆改名。
森常吉 (つねきち)とは、箱館戦争時に於ける新撰組隊内での変名。
主な役職
◆1864年、藩主松平定敬が京都所司代就任。その際、主席公用人
◆箱館戦争時に於ける新撰組隊内に於ける役職:頭取改役。▼
  • 実質上の隊長。明治2年5月15日、弁天台場が降伏。その際、新規隊長は、
    相馬主計に変更。それまでは彼が箱館新撰組隊のTOP。
    ※(土方歳三は、この段階では、陸軍奉行の大鳥圭介の下、陸軍奉行並で
    ある為、新撰組の隊長ではない。総括的地位。)
生死
文政9年6月12日(1826/7/16) ~ 明治2年11月13日(1869/12月/15日)
墓:三重県桑名市「十念寺」実子長男の「若槻陳義」名で建立。
  • 箱館戦争敗れた後、他藩士は暫し抑留後帰藩。しかし彼は、
    桑名藩に於ける『反逆の主謀者』としての全責任を負い切腹を強要され、負って
    徹して没す。江戸桑名藩邸別邸にて切腹。
    (引き換え条件は藩存続、藩主存命。=完全な犠牲)
    ※桑名藩に限らない。ブラックリストにあがった藩は全て、臣の誰かが同じ宿命
  • 法号智勇院清挙忠誠義剣居士。
  • 別途、九華公園に殉難旌節の「精忠苦節」の碑有。
    九華≒くはな≒桑名:秘められた音の響きに桑名藩の悲哀。
森家はお家断絶。森姓は廃されたが、長男は若槻三木太郎として存命。
建立の際には、若槻陳義の名で。父は陳明である。諱の陳義の名で建立した彼には、
無念の父の死を悼んだご子息の意地を感じる。

出生
江戸藩邸生まれ。小河内殷明(ただあき)の長男。叔父の森陳功(つらよし)に
男児なく、養子IN。弥一左衛門の名は、この森家に入って改めた名。

桑名藩家老_ 森常吉
森陳明
: 森弥一左衛門

略生い立ち

戊辰戦争に巻き込まれた
視点にポイントを絞った
彼の経歴


1864年、藩主松平定敬が
京都所司代就任。その際
主席公用人就任したのが
運命の発端。

箱館戦争へ突入

榎本軍降伏

捕虜として抑留されるが
彼だけは、他藩士と異な
るルートに進む宿命。

先に脱出自訴の藩主は
辛うじて存命。

桑名藩に於ける『反逆の
主謀者』としての全責任を負い切腹の運命。
(引き換え条件は藩存続、藩主存命。=完全な
犠牲)
  • 江戸
    御馬廻四人扶持にスタート。横目、御使番、大目付と出世。
    1864年、藩主松平定敬が京都所司代就任。その際、主席公用人となる。
  • 京都
    【京都所司代藩主松平定敬及び、実兄の松平容保(京都守護職=会津藩主)は
    孝明天皇の死以来、転落の坂道】
    森が就任3ヵ月後、池田屋事件勃発。
    後、引き続き渦中。禁門の変。長州征伐。大政奉還。王政復古の大号令。
  • 王政復古の大号令と共に、藩主は所司代を罷免され、越後枕崎へ謹慎名目で
    実質上の追放。しかし、藩主はさらにここから再起、徹底抗戦へ。
    この段階で、森は残務処理の為、京都で留守居役。
  • 江戸から東北、ついに蝦夷へ
    藩主の意に従い、上野彰義隊に参加。藩主を追い枕崎目指し、成り行き転戦。
    仙台で榎本艦隊合流の上、蝦夷へ。箱館戦争に参加となる。

  • 蝦夷:箱館戦争時
    蝦夷到着間もなく怪我を負う。明治元年10月22日(1868)峠下の戦いに於いて
    敵の夜襲を蒙る。この2日後、七重村の戦いで負傷、鷲の木霊鷲院に収容される。
    関連:峠下の戦い、及び七重村の戦いについて:
  • 明治元年12月24日(1868)恭順派の酒井孫八郎が蝦夷へ藩主説得の為渡航=失敗
  • 酒井孫八郎の粘り。藩主、悩み過ぎて体調崩すが明治2年3月3日、乗馬好きの
    藩主に良馬を与え元気復活させる。(良馬:この時代の若者にとっては憧れの名車
    同然。藩主はなんといっても24歳)
  • 官軍、蝦夷、乙部上陸以来、敗色濃厚となる。
  • 明治2年4月13日(1869)藩主連れ帰り成功
    • 皆港に公を送る。ここに於いて別杯を賜い、皆言上して曰く、生前の離別、
      これを限りとなす。後に必ずや潔く戦死を以って厚恩に報せん。遂に
      流涙の離別となる。
  • 藩主は暫し、上海に密航後、下交渉確立の上日本へ連れ帰る作戦だったが、
    藩主本人が断念。密航諦め5/18横浜で自訴、謹慎。
  • この年、早々既に新撰組頭取改役に正式に就任している森。
  • 連敗。多大なる犠牲。
  • 5/15ついに弁天台場陥落、降伏。この時、初に隊長が相馬主計にかわる。
  • 5/18五稜郭降伏。同日、森と相馬が高松凌雲の箱館病院、病院掛小野権之丞訪問
    の上、怪我人の相談。(小野権之丞の記)
    関連: 幕末の虹の彼方へ,箱館戦争,諏訪常吉の手紙 (終焉屈辱の恭順の様子が解る頁)

  • 箱館戦争大敗降伏後
    5/22_桑名藩士は青森へ。油川の明誓寺謹慎。後、津軽藩預かり替。弘前の
    薬王院で謹慎。
  • 他藩士との決別
    ◆森を除く他藩士は、
    • この後青森蓮華寺で10月迄謹慎。
      11/8品川着。11/11霊岸寺にて藩士は、謹慎中の藩主定敬(=厳密には、
      この段階で既に藩主は明治元年8月1日、桑名藩は定教(幼名:万之助=後
      の松平定教:定敬の前藩主松平定猷の子)を藩主に切り替え存続。
      つまり藩主格は剥奪されている。)に拝謁。
    • 11/13東京発。11/23桑名へ帰着
    • 重傷者:谷口、金子、角谷他は東京で治療中
    • 枕崎謹慎中、盛り返して徹底抗戦に藩主定敬が踏み切った際、恭順派
      を倒してクーデターを起こした時、恭順派を殺害した首謀格の二人、
      高木貞作、山脇隼太郎は帰藩できないので留学=海外へ。
    ◆森本人
    • 9/27:森一人、東京の軍務局へ入牢。
    • 11/13:江戸桑名藩邸別邸へ引き渡される。=切腹強要。
      ※強要に他ならないが、この段階で彼は既に観念している。
      藩の戦争責任を全て、負って被って終わらせる己の宿命。

箱館戦争時の年齢参考
◆藩主・松平定敬(24歳)、◆森常吉本人(44歳)、◆石井勇次郎(24歳)
◆角谷糺(25歳)、◆谷口四兵衛(29歳)
◆酒井孫八郎(25歳)
:酒井氏:この人物は恭順派。箱館戦争参加組ではない。藩主を説得する為に、危険を
侵し、蝦夷へ上陸。最終的に説得成し遂げ、連れ帰った人物。
辞世の句
上の句
うれしさよ つくす心の あらわれて 君にかわれる 死出の旅立
下の句
なかなかに おしき命に ありなから 君のためには なにいとふべき
※君=藩主・松平定敬のこと。
弘前の薬王院謹慎中の句
とらわれの身となり奥の油川より弘前へ行く路にて
鶯の音を聞きて、鶯の鳴く音みにしむみちのくの
心細道たとりゆく旅

我がうさをなくさむとてか鶯の鳴く音みにしむけふのたひ路は
弘前の君(津軽藩)に預けの身となりし折よめる

夏の夜の寝やにさし入る月かけも
おほろにみゆる我心かな

箱館のやふれし時に身ををし終へは
かかるうきめに逢はさらましを

生きながらにして亡霊同然の我が身を嘲笑。いっそ死んでおけば良かったのだろうか。
万事藩主様の為だった。その藩主は、今囚われ人。痛ましい姿を思い浮かべ嘆いている。
この段階で、己の宿命はまだ察知していない様子が伺われる。
「心細道たとりゆく旅」とは、松尾芭蕉の奥の細道を洒落架け。細道は細道でも
今にも消え失せそうな己の姿。=「おほろにみゆる我心かな」
三殿族の家来達の心情

箱館戦争突入の三殿とは
◆桑名藩主:松平定敬
◆備中松山藩主:板倉勝静
◆藩主ではないが
小笠原長行
(唐津藩江戸藩邸)
関連:小笠原SERIES3
編と資料
箱館戦争突入した者の内、三殿族の家来達の心情は少々他と異なる。
無論、他に於いても、主従の関連はいたるところにあるため、臣として従うが故の犠牲は
多いのだが、それらを除して大局で言うなれば、皆には「不義への戦い」「徳川報恩」がある。

ところが上記、三殿族の家来達の場合の多くは、主に従う忠義のみタイプが大半。
その彼ら全員が翌年明治2年の敗色濃厚時点で、主を失う。
3人は先に箱館脱出。従者を見捨てて己一人生き残りたいからでなく、藩存続の大命有。

しかし、従者達の立場になれば、一体何の為だったか・・・完全に星を失いつつ、
尚も戦い続けねばならぬ宿命。新撰組の中島登が描いた戦友絵姿のひとつに、唐津藩士
栗原仙之助の姿、哀れ絶命の瞬間を描いたものがある。(関連:解説文)

この時代、臣は、殿の御前、潔く戦死を遂げる、戦死の瞬間を殿に見届けてもらえるなれば、
それは最大の誉であり悔いはなかった。それだというのに、その殿は、どこにも居ない!


文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示

桑名藩家老_ 森常吉 森陳明 : 森弥一左衛門
No.1_経緯:人:君にかわれる死出BACK _ No.2人物についておまとめ表(現在頁
駒の命と人、主と臣
冬の日、闇夜に消えた蒼い炎_十文字切腹

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