山川浩の動きと薩摩西郷&大山考察資料編2

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山川浩の不穏な動きを捉えた間諜,薩摩西郷&大山と会津の山川家,隠密「荘村省三」と三条実美,影のキーマン大山綱良,

大山綱良(大山格之助)について

会津山川浩と薩摩西郷&大山の絡み糸資料表
山川浩の動きと、薩摩西郷&大山ファミリーの動きから、終結策「捨松の結婚」_No.2

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  • ◆【序章】_婚姻の裏事情は「山川西郷和平協定」、
    ◆【Sec.1】_結婚騒動に直接絡むメンバー:略式に皆を一望、
    ◆【Sec.2】_関与のメンバー人物について:戊辰時の絡みをご紹介、ここまで人の嫁GETに頑張る訳は「かつての命の報恩」
    ・表表紙のキーマンと、裏表紙のキーマン「既に死人:【大山綱良】」とのかつての縁故
    ・・おもて表紙の大山キーマン:◆山川浩、◆山川捨松、◆大山厳、◆西郷隆盛、◆西郷従道、◆吉井友実、
    前頁 、▼ 現在頁

    ◆【Sec.3】_死者、大山綱良と西郷大山一族絡み糸と戊辰時事情
    ・西郷隆盛への呵責と、寺田屋過激派処分事件、他
    ◆【Sec.4】_大山家とと西郷家の絡み、
    ◆【Sec.5】_西郷隆盛も、西郷従道も、実は、名前を間違えて登録されてしまった!エピソード、
    ◆【Sec.6】_西郷隆盛の兄弟と、西郷隆盛の以外な側面、
    ◆【Sec.7】_山川捨松が西郷一族に狙われた火種は、山川浩本人が鹿児島に落としてきてしまった!、
    ・山川浩の「不穏な動き」=間諜に察知されている!!
    ・明治5年、元会津の山川浩は、薩摩の大山綱良に連れられて、密かに薩摩へ渡る!!
    ・恐るべく間諜!隠密「荘村省三」という男!!と三条実美
    ◆【Sec.8】_篠田利英について、

hata.gif 裏表紙の大山キーマン:大山綱良(=大山格之助)

おもて表紙の大山キーマン:◆山川浩、◆山川捨松、◆大山厳、◆西郷隆盛、◆西郷従道、◆吉井友実

<現在枠よりも下側にある補足関連項目ガイド>
◆西郷隆盛も、西郷従道も、実は、名前を間違えて登録されてしまった!エピソード
◆西郷兄弟、◆西郷と大山絡み、◆戊辰時に於いて皆互いに命を救われた場面と報恩の絡み、◆西郷隆盛の以外な側面
  • 彼らの意識は、単なる親戚ではない。 戊辰体験に基く互いの呵責と報恩関係 。即ち、人事でも必死で応援する。
     ■大山綱良にとって、西郷隆盛には呵責がある。 ■西郷従道と、大山巌にとって、大山綱良は命の恩人。

7_ 大山綱良(=大山格之助:戊辰時はこの名前)


7


大山綱良
(1825生:既死亡)
=大山格之助



彼のその他動き概略


薬丸自顕流剣術の腕
は最高峰。この流派固有
の猿声キャー!を発し、
高く飛躍して空中から
襲い斬る。隼鳶の比喩も。

彼は何かと評判悪いが、
以外に人情脆い犠牲的
文政八年(1825)~明治10年(1877)。享年53。通称は正圓、角右衛門、格之助。
生地:高麗町(鹿児島城下)。明治の地位は、鹿児島県県令。
実父は樺山善助(善之進、善介)。 綱良 はその二男。
大山家に養子IN。養父は大山四郎助( 大山四郎助 の婿養子となった為)。
藩邸に仕えるは、茶道にも優れていたことから、10歳の時、薩摩藩御数寄屋にて
茶道役に始まる。この人物は剣の達人。大山は薬丸兼武、兼義(半左衛門)
親子に薬丸自顕流の剣術を学び腕を極めた。その上かなり敏捷。
公の立場に立ちながら、隆盛応援露見にて、明治10年斬首された。
■明治10年西南の役絡みで処刑された者のTOP階級にその名残す。
■文久2年(1862年)の寺田屋事件の際、藩命にて「有馬新七」らを討伐
・(この時、犠牲的に必死で救ってやった少年二人が西郷従道と大山巌
■戊辰奥州戦の際、天誅殺された長州の「世良修蔵」と共に第一号の出兵
  • その際、引き連れていた兵には、野盗のような荒くれ者混入。これは、ニセ官軍の
    汚名で処刑された犠牲の相楽総三の赤報隊に採用した荒くれ者同様。これは写真で
    解る。格之助の後に立つ男達の身なりは、どう見ても、侍でもなければ、
    弱い農兵風でもない。世良も格之助も過激派。役目は恐らく挑発目的選抜の存在。
  • 因みに 世良修蔵の問題の手紙「奥羽皆敵!皆討ち取るべし!」の宛先は大山 だった。
    その手紙は大山に届かす、仙台藩士らに奪われ怒り爆発。世良は斬首された。
■明治16年の山川捨松&大山厳婚姻騒動の時、既に本人死亡済みだが、山川浩と重大接点有
・(明治5年、斗南(元会津)の山川浩は、薩摩の大山綱良に連れられて、密かに薩摩へ!
【Sec.3】_死者、大山綱良と西郷大山一族絡み糸と戊辰時事情
大山綱良に係る以下項目
■POINT、■大山綱良の出元ミステリー、■西郷隆盛応援の為に自己犠牲的な姿:手を汚して横領・・・結末は斬首刑
■西郷隆盛への呵責と、寺田屋過激派処分事件、■命をかけて救った二人の少年
■謎多くスッキリしない大山の傍系(綱良の父の出元の謎:大山四郎助はどこへ行った?)、
■大山家と西郷家の絡み、■

■<POINT>
:単に親戚だからの領域を超えて猛烈に応援する「西郷大山ファミリーの訳」=呵責と報恩
  1. 大山綱良が西郷隆盛を自己犠牲で応援した訳は、呵責。隆盛の友人「有馬新七」を討伐。
  2. 大山綱良と、(西郷従道+大山巌)の関係=命の報恩。後者二人は綱良に救われた。
    ・・経緯詳細は、下行の「寺田屋過激派処分断行」項目
  3. 明治5年、会津の山川浩を薩摩に連れて行ってやった男がまさにこの、「大山綱良」!!
    山川は折角薩摩へ行ったにも関わらず、結果は芳しくない。当然、幻滅薩摩&西郷!
    山川=不満分子!である事を一番詳しく知っているのは、つまり彼なのだ!
  4. 互いの恨みつらみに、なんとしてでも終止符を!
    そこで、西郷隆盛の弟、従道が、この行程に危機感を痛感。会津の不満分子の種を
    消去すべく画期的に頑張って、山川捨松を婚姻に引きずり込む。大山厳の嫁に奪い取る。

■<大山綱良の出元ミステリー>

・大山綱良は養子とはいえ、大山家の傍系には違いなく、即ち、大山厳と同じ大山家系親戚筋。
_ところが、情報不足にて続柄がスカッ!と全貌見えない!原因はその養父「大山四郎助」。
大山綱良 :実父は樺山善助(善之進、善介)であり、 綱良 はその二男。
・養父は大山四郎助(大山綱良の大山姓とは、大山四郎助の婿養子となった為)。
・ところが不思議と、大山四郎助情報みつからない。(処刑死した者の親族は、彼に限らず、
こうした現象少なからず。末裔の為に縁故を書面上、あまり残したくないから。)


■<西郷隆盛応援の為に自己犠牲的な姿:手を汚して横領・・・結末は斬首刑>

大山、西郷は親戚明確ながら、上記のとおり四郎助情報不足。但し、西郷兄弟及び、大山厳と
兄弟同然に育ったと言い伝えられる。それの裏付として、彼の死は、西南の役の際、西郷隆盛を
徹底的に応援したが故、同年明治10年、乱終結後斬首された。公金を横領して全て隆盛応援金に
回していた。救いようがないほど、西郷応援丸解り状態。危ない橋渡りの連続の暁。

■この当時、世間でよくいわれる言葉として、「鹿児島県はまるで独立国家。」
それは、下野した西郷隆盛の開き直り。その配下に、大山綱良。彼は鹿児島県県令を務める身に
ありながら、とことん西郷を支援した。まず、租税は新政府に一切納金しない。公の地位に
ありながら、露骨に危ない動きの支援。クライマックスが、明治10年(1877年)に西郷隆盛が
引き起こした西南の役。上記のとおり、公金はまるごと隆盛へ。
当然、逮捕。東京送還。長崎にて斬首された。

明治期の「大山綱良」のキーワードでは、人物像はまず見えない。随分無茶している。ところが、
どうしてそんな丸解りの形で動いたかを考える為に戊辰行動へ遡ると案外泣ける。
この人物は、たとえ自己犠牲になろうとも、無茶してでも西郷隆盛を応援したかったのだ。



■西郷隆盛への呵責と、寺田屋過激派処分事件
・・・大山綱良を「大山格之助」として追う。

彼がここまで無理した理由は、西郷隆盛への呵責。それは、隆盛の親友「有馬新七」ら、
精忠組を斬り殺したこと。しかし、これは藩命だった為仕方ない。とはいえ、永久に彼に
とっては心の傷。文久2年(1862年)の寺田屋事件のこと。

寺田屋過激派処分断行事件


◆寺田屋事件【文久2年(1862年)】:戊辰に至るまで、薩摩藩内も二転三転。
  • ※寺田屋というと、坂本龍馬が第一回目に襲撃され怪我したのも寺田屋。しかし、上記事件とは
    それでなくて、 薩摩内の「過激派藩士の粛清事件」。司令塔は、島津久光(藩主の父=実質実権者)
島津久光の方針にて、藩内の過激派藩士処分が決定。 過激派とは「挙兵討幕派」。
この時彼らは、京都の伏見寺田屋に集結。このメンバーのメインは 有馬新七 他7名。彼らは精忠組。
討ち取る側も精忠組。後味悪いが使命だから仕方ない。腕効きの大山格之助らが指令を受け殺処分決行。

■大山綱良に救われた少年二人は「西郷従道+大山巌」だった!

大山綱良達、腕利きの討伐隊が乗り込み、 有馬新七 らは、斬り殺された。観念して捕縛された者の
うち、有村雄助(下枠ご参照)は切腹を申し付けられ、結局冥土入り。
この時、メンバーの中に居た上記少年二人に対して、綱良は自ら刀を投げ捨て、必死の説得。
鹿児島へ連れ帰った後も必死の嘆願にて、二人だけは死刑を許され、死なずに済んだ経緯がある。
少年といえど、19歳と20歳。綱良の嘆願がなければ、お陀仏だった。
西郷従道(1843生まれ:1862年の事件時は19歳)、
・大山巌(1842生まれ:1862年の事件時は20歳)

謎多くスッキリしない大山の傍系

■大山四郎助を、類似名などから探す

まず、類似名の「大山角四郎」
大山角四郎とは複数存在する。なぜなれば、一人判然とする人物は下記の1704年生まれの、
大山綱良の父とは明らかに異なる世代、大昔の人物。
  1. 大山角四郎貞政
    大山貞政(=大山角四郎 ):宝永元年(1704年)~安永8年12月17日(1780年)
    太刀流の剣術家。田中傑山の高弟。
    • この時、弟子の一人に「西郷吉兵衛」が居るのだが、ややっこしいことに、これは、
      幕末の有名人西郷隆盛の父(=吉兵衛)のことではない。 幕末の有名人西郷隆盛の曾祖父。
      ここでいう「西郷吉兵衛」とは、西郷隆充の父。
    • この家系は剣が立つ家系。歴代、通称側には「角」がつき、諱側には「綱」が
      つく傾向
      だが、通称側が同一の者と、諱側が極似しているのか、誤記か?と思われる
      人物も居て判然としない。
  2. 大山角太郎綱章 :父(上記の貞政)の流派:太刀流を継ぐ。
  3. 大山角四郎綱政
  4. 大山後角右衛門 (この人、綱「?」=諱不明)
    (上記綱政と類似名の別人、同時代に居る。
    ■大山綱政(1826死亡)、■大山綱昌(1856死亡=大山厳の父=西郷家からの養子)
    • 尚、「大山後角右衛門」とは、薩摩歴史上、同一名他に過去にも存在。
    • 上記1から3までは親族であることが明確。但し、最期の4番 「大山後角右衛門」
      だけは、専門家の間でも「ではないか?」程度であり、詳細は不明。
    • 張本人の「大山綱良」の幕末時代の名は「大山 之助」と言われるが、ことによると、
      「大山 之助」かもしれないという方向でも一応考察の対象として念頭に。

■大山四郎助はどこへ行った?

尚、大山綱良が養子に入った家の養父は大山四郎助というのだが、この大山四郎助ルーツが
判然としない。大山綱良は、断トツに剣術に秀でており、どうもこの家系の血を感じるながら、
そーゆーわけでルーツを明確にできない。幕末の大山後角右衛門と、大山四郎助の関係を
是非知りたいところ。
  • 真下枠内に於ける 「大山綱方どこ行った?」項 もご一緒にご参照下さい。
    探究心旺盛な方、頑張って下さい。

【Sec.4】_大山家とと西郷家の絡み

現代人のスポットが、西郷隆盛と、大山厳中心であることから、同家系である傍系が
いまひとつ、しっかと解明されていない。但し、大山巌は西郷隆盛の従兄弟である事だけは明確。
  • 大山巌の父=大山綱昌
    • 西郷隆充 の次男が、薩摩藩士大山綱毅の養子婿INして大山姓を名乗る。綱昌は砲術専門家。
    • その為、倅の大山巌も、江川塾に入り本格的に最新式砲術を学びスペシャリスト。
      (おかげで会津城に砲弾打ち込み、山川浩の妻トセ死亡にて、ますます浩が彼を恨む。

  • 西郷隆充 の子={吉兵衛隆盛と、上記大山綱昌(=旧姓は西郷小兵衛)}
    • 隆充の長男=吉兵衛→子{隆盛(1828生)、吉二郎(1833生)、従道(1843生)、小兵衛(1847生)}
    • 隆充の二男=【大山綱昌(=旧姓は西郷小兵衛:?生~1856年死亡)】
          →大山綱昌の子={彦八成美、
      巌(1842生) 誠之助 }
    • 【注】小兵衛が二人居る。
      • 小兵衛(1847生)=吉兵衛の子
      • 小兵衛:(?~1856死亡)=隆充の子
(注)
・西郷吉兵衛も二人居る。幕末巨人あの人「隆盛」の父も吉兵衛。幕末巨人あの人の曾祖父も。
・幕末巨人あの人「隆盛」の本名は「隆永」のところ、明治政府に誤登録。そのまま本人も諦め名乗る。
上記のとおり、これでは、幕末巨人あの人の父「吉兵衛隆盛」と同じになってしまうから、
現代では、彼の父側を語る時、「隆盛」をつけずに、「吉兵衛」と呼ぶ。が!「吉兵衛」といえば、
これまた上記のとおり、曾祖父も。古資料を読む時は要注意。



■「大山綱方どこ行った?」&大山四郎助はどこへ行った?

世代
世代
世代
世代
大山家
大山綱広→綱栄→綱道

→女子
綱方
→綱毅→
綱道の子
■綱方が長男らしく継承、そのわりには情報不足。 綱方の子は・・・?
■綱毅:天保5年(1834)8月江戸で死亡=綱昌の義父、
■女:木村氏へ嫁ぐ
競子&婿の大山綱昌→{彦八成美、 巌(1842生) 、誠之助}
西郷大山婚姻による家系
西郷家

西郷吉兵衛→隆充→
小兵衛(=西郷家から大山競子の婿INして大山綱昌と名乗る
吉兵衛隆盛→
■隆盛((1828生)幕末巨人あの人!:本当は「隆永」。)
■吉二郎(1833生)、■従道(1843生)、■小兵衛(1847生)
【注】小兵衛が二人居る。

(本件に関係ないが、寺田屋事件絡みのMEMOと人物)戊辰時薩摩内派閥抗争
1
兄弟

桜田門外の変に於ける
有村次左衛門と兄弟
兄弟
  • 長男(1832生):海江田信義(有村俊斎)。明治は貴族院議員
    :生麦事件の張本人。殿に土下座しない外国人を無礼者!とばかり、斬り捨て。
  • 次弟: 有村雄助(1835生)
    文久2年(1862年)の寺田屋事件で捉えられるが切腹申し付けられる。享年27歳
  • 末弟:有村次左衛門(1839生):桜田門外の変で井伊直弼の首級をあげた張本人
    1860年3月、桜田門外の変で井伊暗殺後、自刃。享年21歳
2
新七

(西郷隆盛の親友)
文政8年11月4日(1825年)~文久2年4月23日(1862年)。享年38歳。
寺田屋の変にて、薩摩藩内の方針にて、彼ら過激派が自藩の者に殺処分された。
この時、彼らの征伐先頭に立ったのが、大山綱良(=大山格之助)
これが原因で、大山綱良は隆盛に呵責がある。
【Sec.5】_西郷隆盛も、西郷従道も、実は、名前を間違えて登録されてしまった!エピソード

明治の吏員名登録掛の担当員(維新後の太政官)にとって、この兄弟の薩摩弁は特に強烈!だったらしく、
発音が聞き取れず、誤登録。しかし、両者共に、諦めて、以降、そのまま使用にて今日。

西郷隆盛編
  • 本当の名前は「隆永」が正解 。日常的には「吉之助」。他に「武雄」の名乗も有る。
    隆盛とは、本当は彼でなくて、彼の父親の「西郷吉兵衛隆盛」の諱。
  • これは、本人の発音の薩摩弁がキツく、係官が西郷の発音を聞き取れず、吉井に打診。
    友人の 吉井友実【上6番枠】 が間違って教えた。
  • 面倒だから、本人も以来、そのまま自分のことを、隆盛と名乗る。その為、今日定着。
    但し、古資料を読む時は、父のエピソードと混乱するので注意。
西郷従道編
  • 本当の名前は「隆興」が正解 。日常的には「信吾」。
  • 兄同様に、本人の発音の薩摩弁がキツく、係官が聞き取れず、係官が誤登録。
    本人は「リュウコウ」と発音しているつもりながら、「ジュウドウ」と聞こえたらしい。
    間違ってるぞと言ったところで、同じく聞き取れないだろうから、面倒なので、本人もそのまま、
    以来、「従道」で名乗り今日定着。
【Sec.6】_西郷隆盛の兄弟と、西郷隆盛の以外な側面

西郷隆盛は、西郷吉兵衛隆盛の長男
  • 吉兵衛(隆充の長男)→子{隆盛(1828生)、吉二郎(1833生)、従道(1843生)、小兵衛(1847生)}
  • ▲もう少し詳しくは、西郷ファミリーと大山ファミリー枠もご参照下さい。
  • 吉兵衛は「吉兵衛隆盛」といい、本当は、現代の世有名人の「西郷隆盛」本人の本名は、
    「隆盛」ではなくて、 「隆永」が正解 だった。名前の誤登録エピソードは真上枠ご参照。
  • 西郷の偉業は山盛り。検索容易、本も山盛りにて略。ここには以外な側面話をひとつ

■西郷隆盛の以外な側面話


ある日、誰かが西郷を褒めた。その内容概略は、兄として、弟達も育てた旨。
ところが、彼は呟いた。 「否、おいどんが兄なのは、それは順番上のことだけじゃ。
本物の兄とは、すぐ下の弟、吉二郎じゃ。弟ながら、我にとっても兄同然じゃ。」


これには意味がある。隆盛はご存知のとおり、幕末の怪人。彼がいなくては現代の歴史は大幅に
異なる。しかし、その人生は賛嘆。二度の島流し、抑留やら。彼自身の不幸は自業自得だが、
財産も名誉も没収されて家族は悲惨。そんな中、吉二郎は、歴史上ひっそりと影の人ながら、
コツコツ耐えて働き、家族を支え養った。また、陳謝を請い、西郷が許されると、吉井友実と共に、
兄を拾い上げに島まで出向いたりしている。

西郷は情の厚い人物と言われるエピソードは、上記「大山厳」枠に記載しましたエピソードに限らず、
いくらでも出てくる。そのわりには、トカゲの尻尾切りも案外しょっちゅうやっている。
ダメと解れば切り捨てるし、ご都合悪くなったらバッサリ処分!即ち飼い殺しはあれもこれも。
大義の為なれば情に流されてる場合じゃない・・かもしれないが、単に飼われたと知らずに忠義の師弟や、
同志のつもりでいたご本人達は実に哀れ。私的には、このあたりが好かん狸・・・でしたが、
それでも幾多の男が男惚れするとは、ドカンとインパクトのデカい包容力に加えて、案外こうした側面が
ポロポロ見えるからかもしれません。

hata.gif【Sec.7】
山川捨松が西郷一族に狙われた火種は、山川浩本人が鹿児島に落としてきてしまった!
山川浩の「不穏な動き」=間諜に察知されている!!
明治5年、元会津の山川浩は、薩摩の大山綱良に連れられて、密かに薩摩へ渡る!!


明治5年(1872年)、山川浩は、元会津藩の皆と共に、居住は津軽の突端、流罪同然の斗南藩。
山川は同藩大参事として、斗南士族の救済策に奔走。しかし忽ち、廃藩置県にて、初め斗南県。
次いで、県の統合整理、青森県に吸収合併される。悪い展開に至る。
もちろん、藩主様なんて言語は吹っ飛んで消えている。なんの為に、藩主(ベビー藩主:明治2年生まれ
の松平容大)を擁立したのか?!耐えて押さえた皆の怒りが再び爆裂。青森県に出仕した元会津藩士達の
不満退職連続。

山川は必死の対策。戊辰の賊、会津人は身殺しか!人でないのか!
貧困のどん底、斗南士族の救済を諮る。まずは、真正面から嘆願。この時のルートは、
高崎五六 という名の男、彼は、元薩摩藩士であり、左院議官の地位にある。その伝による要請は、
政府に門前払いを受ける。拒絶のキーマンは、 大隈重信(元佐賀藩) といわれる。

山川浩は、戊辰終焉時、弟の健次郎は長州に救われ、浩本人には極一部ながら土佐にも救済の手を
確保している軌跡が見える。しかし、浩本人に薩摩の伝は乏しかった。案の定悪展開。
その点、同じ会津でありながら、戊辰時、やや薩摩寄りの分子も居る。実際、縁故により、
薩摩に密かに救われた者も存在。西郷頼母はその典型。山川浩の母、山川唐衣は、会津西郷家の娘。

ここで、山川浩は、彼にしては実に珍しい行動を密かに起こす。大嫌いな薩摩人につき従い、
薩摩へ入国。(入国というのも変だが、当時、薩摩はあたかも独立国家。)
当時、鹿児島県参事の地位にあった「 大山綱良 」に同行。戊辰の雄藩、薩摩に直訴対策に踏み切る。
青森県庁の人事の実態を訴え、改善の要請の明かり窓を薩摩に求めた。鹿児島に入った。
薩摩の実権を握っていたに見える久光は、幸い、開化政策に強烈に反発していた人物。

ところが、結果その後の展開から、これは大失敗だろう。恐らく、土俵にも上らせてもらえなかったの
だろう。山川浩のその後の動きは、明治6年(1873年)、陸軍少佐。1874年(明治7年)2月 佐賀の乱
で活躍。そして、明治10年(1877年)の西南戦争。出征の際、山川浩が詠んだ詩。

hata.gif 薩摩人みよや!東の丈夫が提げ佩く太刀は、利きか鈍きか!
おのれ!薩摩!おのれ、西郷!!滲み出ている。
この時、母の山川唐衣は倅の西郷討伐参加に、反対していた。


薩摩に接点を保つべく対策は踏みにじられて、山川浩の「対薩摩意識」がいかにあったかがこれで明確。
一方、その橋渡しを担い、山川浩を薩摩に連れていった男、「 大山綱良 」は、全て見ていた!!


さて、ここで、何故、こんな秘密情報、秘密の行動の証拠が歴史上残ってしまったかというと、
これが、なかなか、興味深い。実は、お公家さんが放った 優秀な隠密殿の大活躍 だった。
その男の名は「 荘村省三 」という。下枠へ。

恐るべく間諜!隠密「荘村省三」という男!!

荘村省三
(戊辰時の名前:助右衛門)旧熊本藩士。文政4 (1821)~ 明治36年(1902)。
  • ■隠密の大役をこなすが、職は、三条実美の祐筆。太政官少史。漢学は松崎慊堂に学ぶ。
    この人物が、尊王主義であったことは、アーネスト・サトウが書き残す。それは、
    「将軍でなく、天皇の時代を我は望む」と語った主旨。
    ■荘村は、文久3年(1863) 、熊本藩主細川家の臣として、長崎に出張している。
    この人物は、どうやら、昔から目付的、監視役的な仕事をやっている。当時長崎には、
    フルベッキや、C.M.ウィリアムスらが到来している。彼らから洋学を学ぶべく集まるは、
    自藩、熊本藩士の他、佐賀藩士などの動向も要注意。荘村は、一人の学生に扮して、実は皆と、
    この段階禁教時代、宣教師の布教実態を監視するのが目的。
    ■なりゆき、慶応2年(1866)、本人もC.M.ウィリアムスに洗礼を受けている。
    C.M.ウィリアムスは、1859年(安政6)に長崎に到来。この後、慶応2年(1866年)、密かに
    日本人に初洗礼を授けている。その一人がこの荘村助右衛門。
    ■しかし、この段階、確実に本人が傾倒したか、あくまで欺いて内部を把握すべく目的か、
    それは不明ながら、死去に至る晩年に及んでは、信仰心があったものとされている。

この男を斗南に、間諜として放ち、旧会津藩士の不穏な動きをつぶさに捉え、報告させていたのは、
三条実美(太政大臣)。各地の士族の動向に目を光らせる中、戊辰のA級戦犯ともいえる旧会津藩士
に関しては、特に警戒路線。

この優秀な隠密、 荘村省三は、ぬかることなく、見事、山川浩の不穏な動きをキャッチして、
ご丁寧に報告書を提出していた。

「山川浩は、仇敵のはずの旧薩摩藩と連携を企んでおります。
論より証拠、「大山綱良」に近づき、薩摩への手引きを受け、
共に薩摩入りを為してござる!」



捨松の嫁入り騒動は、明治16年につき、最大のキーマン、 「大山綱良」 は死亡済みだが、
大山家と西郷家の驚異的な親族連携パワーの絡み糸に、既に捉えられていたことになる。

というわけで、手繰り手繰れば、山川浩にとって、
敵陣に奪い去られた妹、捨松の宿命、その原因、火種は、それと知らず、
浩本人が、明治5年、鹿児島に落としてきてしまったことになる!


hata.gif「大山綱良」に接点を持った由縁が、巡り巡って、西郷一族パワーの生贄。
妹は、哀れ、親族の一人、大山厳の妻として奪い去られる。

不幸中の幸い、大山厳と捨松夫妻は鴛鴦夫婦。_ 大山厳の天昇の時、良妻捨松の姿

【Sec.8】_篠田利英について

篠田利英 :安政4年(1857)生れらしいが・・・以下。
   なぜこの話を彼が詳しいかは、今回 SERIESトップ からご覧下さい。当時、山川浩の弟、
   山川健次郎の教え子( No.4 )だった。後に、利英は、東京高等師範学校教授。
  • 篠田利英は長野県出身。教諭であることから、文章は残るが、それでゆくと、
    東京府士族(東京都でなく当時)となっている。軌跡的には、就職は、群馬県師範学校が
    スタート。晩年は、文部省視学官兼務。
  • ところが、どうもスッキリしない。安政4年(1857)生れが確定だとすれば、明治16年(1883)の
    捨松嫁入り騒動の時、26歳。まあ、この年齢で山川健次郎の教え子、学生だったにあまり違和感は
    ないが、話の運びから、後日それを聞いた風に語る。それでは年齢高すぎる学生!ちょっと気になる。
    まさか、文章内に登場する書生さんとは、まさか!本人じゃないでしょうね。まさかですが・・・。
  • 戊辰時、11歳。純然たる長野なれば会津の篠田と無関係ながら、山川家の戊辰に係る談話も
    語る。会津の戊辰時、篠田と山川、小出と秋月など血縁迷路は複雑山盛り。また、会津は、
    江戸勤の家もあれば、房総在住(湾岸警備派遣)家系もある。判然としないが絡みそう。
    山川家に詳しいのはなぜでしょう?ミステリー。 関連:No.7

山川浩の動きと、薩摩西郷&大山ファミリーの動きから、終結策「捨松の結婚」
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大山捨松嫁入り騒動:西郷従道の大風呂敷

文章解説(c)by rankten_@piyo、


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