白虎隊士,伊藤俊彦,幕末戊辰,会津戦争

白虎隊士,伊藤俊彦,途中経緯が雲隠れの「伊藤俊彦」の行動を追跡,幕末戊辰,豪風雨の最中、米俵の蓋を頭に被って現れた豪傑少年が示唆するミステリー,複数資料から考察,新たな発見「謎の文章」,民家に一泊した豪傑少年,幕末戊辰,会津戦争,

白虎隊士,伊藤俊彦の謎解き





白虎隊士:途中経緯が雲隠れの「伊藤俊彦」の行動を追跡
豪風雨の最中、米俵の蓋を頭に被って現れた豪傑少年が示唆するミステリー


飯盛山の悲劇といえば、白虎隊士中二番隊。
その中で、語り継がれる内容が比較的豊富な者と、可愛そうなことに皆無状態にも等しい者とがある。

今回のテーマ、「伊藤俊彦」について、家柄や容姿などについては、大体「一般的に有名な複数の資料」
から伝えられている。ところが、当日の描写については、ほとんど皆無。

言い伝えから、かなり勇猛果敢な逞しい少年だった様子が解るわりには、勇戦情報が無い。
それについて、調べているうちに、以外な資料を発見しました。
  • まず、サラッと一望ご参考用に: 「伊藤俊彦_おまとめ表」
    本を色々読めば大体解る事(家柄や容姿等)も含めて、おまとめ表は真上リンク先。
  • サラッとだけでは、ピンと来ないと思いますから、一望の後、現在頁本文までお戻り下さい。


私的に注目した二つの資料(B+C)を掛け合わせて、考察を下記にすすめます。

資料B_酒井峰治の記録:『戊辰戦争実暦談』 B項目詳細コーナー
  • この資料から、8/22段階で、「伊藤俊彦」は迷子になって、皆とはぐれていたことが解ります。
  • 翌日8/23:皆の心配もなんのその。豪風雨の中、一人颯爽と姿を現す。皆が驚く。
資料C_著者不明「謎の少年」に係る記載 C項目詳細コーナー
_◇ 時期と、場所、豪風雨、豪傑な性格などから、「伊藤俊彦」の可能性多大と考えられる。
_◇ 豪風雨と藁が、この少年のB&Cに係る共通事項:野生的&サバイバル精神
  • 民家に一泊した豪傑な少年
    彼らが戦っていた場所から比較的近い場所の民家(※)に、戦場で迷子になったという
    謎の少年が、一泊している。翌日も、豪風雨。されど、屈することなく、この少年は戦場へ
    一人立ち向った。<※:この民家とは、何故か氏名不明状態のこの著者家。>

  • 読めば読むほど、どうも「伊藤俊彦」らしきレイアウトと一致する!
    尚、この氏名不明の著者は、一言も「伊藤俊彦」とは記載していませんが、
    少年の言動や態度、随分と、「伊藤俊彦」の言い伝えによる「豪傑な性格」と合致します。

戦場で行方不明になり、皆が心配していた「伊藤俊彦」だが、
豪風雨の中、米俵の蓋を笠のかわりに頭にのっけただけの姿で、颯爽と一人姿を現した。
この勇壮ぶりに、皆が度肝を抜かれた。


「伊藤俊彦_おまとめ表」

1
家族
◆父:伊藤新作(亘) :家禄_五人扶持_新番組士:家所在は「川原町堀側」
◆実母(産みの母):玉木兵左衛門の長女(りよ子):俊彦が12~13歳時に死亡。
◆継母:藤森儀右衛門の長女(孝子):賢母の評判。俊彦との仲も良好。
  • 新番組士とは:下級の士分。羽織紐の色は、「花色」。
    会津では当時、羽織紐の色で身分を明示すべく掟有り。その中で「花色」は、
    ぎりぎり最下層ではあるが、完全士分の証。因みに「花色」以上でなければ、
    倅の藩校入学権利は与えられない。
  • 父:伊藤新作(亘) について追記
    上記のとおり、禄は低い。しかし、なぜかこの家は裕福。下段各項目ご参照。
2
伊藤俊彦
本人
◆伊藤新作(亘)の長男、◆慶応4年3月に白虎隊に編入される、
◆慶応4年8月23日、戸ノ口原出陣、飯盛山の悲劇にして自刃。
◆生没:嘉永6年12月20日()~慶応4年8月23日(1868):享年16歳
3
当日服装
本人外見
<神埼清著_少年白虎隊 >
   温厚信実。髪は総髪。やせて背丈高く、面長、色白く、鼻高く、口大きく、目尻上る。
<複数の資料を読み合わせた結果、感じられる彼の性格を追記 >
   正義感強烈の熱血漢でもある様子。勇気は人一倍。度肝を抜かれる豪傑ぶりが見える。
4
本人人柄描写
<性格など>
◆柔順、◆継母にも素直、◆実直:命に忠実、礼儀正しく、物事筋を通して行う。
◆友にも誠実であり、人を非難しない性格
◆喜怒哀楽を顔に出さず、この点皆に評価されている。
5
本人描写
<学問など>
◆学籍:尚書塾二番組(10歳で藩校日新館入学、度々表彰される)
◆藩校に限らず、家庭教師も招き、さらに勉強している。(家が裕福な為)
その為、極めて優秀であり、本人も将来、教育者の立場を目指していた様子
_(将に講釈所に昇らんとして)
6
参戦時に係る
描写、服装
◆黒のマンテル、黒の小袴、 紺色の脚絆、
◆刀について:太刀造りの朱塗の刀、これを革製の袋または紐にて腰に帯刀。
7
先祖エピソード
祖先の「八郎」は、昔、追鳥狩に於いて、二度の「一番獲物」の手柄実績表彰される。
7
志と思想を
示唆する描写
佐瀬三余編[飯盛山白虎隊列伝 ] によるを概略

或る日、系譜を見た俊彦が語った内容
◆「そうか、先祖は「一番獲物の功績者」か。されば、我も見習わねば。しかし時世が、
今や乱世なれば獲物どころではない。我は獲物ならずや、「敵狩」を成し遂げて、
主君に貢献せねばならんなあ。」
◆先祖を敬う彼のお気に入りの詩は、「鹿野某が追鳥狩の詩」
ここまではいいが、万民に解しにくい要素。真っ直ぐすぎて、やや過激気味に見える場面

この後、俊彦は、早速、短刀を持って外出。周囲の者は、驚いて、
もしや狂ったかと心配したエピソード有。
10
家柄,家の様子
<裕福な様子:「家富み甚だ施を好む」の描写>
東山温泉で酒宴の事実:芸娼妓を呼んで、派手に金銭を振る舞う。
彼を伝える資料:A(一般文献)+B&C(私的に私が注目している資料)
BとCに共通する事柄のひとつに、「豪風雨」と「藁」:
<なんのことだか解らないと思いますから 本文 をご参照ください。>
A
重視される
一般資料
【1】:二瓶由民著[白虎隊勇士列伝] 明治23年8月発行、
【2】:佐瀬三余編[飯盛山 白虎隊列伝 ] 明治41年 、
【3】:宗川虎次著[補修会津白虎隊十九士伝初版 ]山川健次郎補修_大正15年5月25日 、
【4】:神埼清著[少年白虎隊 ] 昭和18年6月10日 、
私的に注目資料(これが、今回のメインテーマ:B+Cにて考察)
B
酒井峰治
の記録
時に 伊藤俊彦 の姿が見えず、戦友大いに心配している処へ、
B項目詳細コーナー
C
著者不明
C項目詳細コーナー
実に気になる謎の証言による「謎の少年に係る表記」: 関連_「柴五三郎の枠」
読めば読むほど、どうも「伊藤俊彦」らしきレイアウトと一致する!
B+Cによる考察概略


詳細は現在SERIES
本文内に記載
◆B酒井峰治の記録によって明確となった事柄
:◇戦闘最中に、 伊藤俊彦だけは迷子になって、皆とはぐれてしまった
:◇ところが翌日、一人皆の元へ姿を現した。豪雨の中、豪傑にも米俵の蓋を笠の替わりに
    頭にのっけて悠々とやってきた。皆はこの豪傑ぶりに度肝を抜かれた・・・とある。

◆謎の文献「著者不明」:人物名前として「 伊藤俊彦 」とはどこにも記載されていないが、
時期と、場所、豪風雨、豪傑な性格・・・などから、「 伊藤俊彦 」の可能性多大と考えられる。
:◇彼らが戦っていた場所から比較的近い場所の民家(※)に、戦場で迷子に
    なったという謎少年が、一泊している。翌日も、豪風雨。
   されど、屈することなく、この少年は戦場へ一人立ち向った。
<※:この民家とは、何故か氏名不明のこの著者の家のこと。>

B項目詳細コーナー
一時的迷子から、自力脱却して、仲間の元へ戻って来た「伊藤俊彦」の姿
資料B_酒井峰治の記録:『戊辰戦争実暦談』

「伊藤俊彦」の勇戦情報が無い原因は、
敗戦状態で皆が集団で彷徨う段階以前に、彼だけは途中で迷子になってしまったことが原因だろう。
居ないから、「 飯沼貞吉 (リンク先さらにリンク有)」による記録にも、成る程、
途上の行動記録がないはずだと合点がゆく。

▼これは、「酒井峰治の記録:『戊辰戦争実暦談』 」が手掛かり。
  • 時に 伊藤俊彦 の姿が見えず、戦友大いに心痛。すると、桟俵を冠り来たれり。其の豪胆勇壮さに
    驚かぬ者はいなかった。 ・ 「桟俵=さんだわら」とは:米俵の両サイドにある藁の円形状部分のこと。

  • ▲これは、時期的にどれ位の頃かというと、同じく8/23にはかわりないが、豪風雨の中、
    彼ら白虎隊は上官の指示か、皆、ひとまず、堀にしゃがんで風雨を凌いでいる頃。
    即ち、皆が動き出して迷子になり飯盛山悲劇に突入する以前の段階。 早朝 と思われる。
    この時、皆は絶望状態でしゃがんでいるが、石田和助だけは、独りで塀によじ登って、敵を
    狙撃している旨も、酒井は描写している。

  • 酒井峰治とは、迷子になったが故、命拾いして、この『戊辰戦争実暦談』を書き残した人物。
    MOREは、この頁「 白虎隊士中二番隊37人の行く末と岐路:飯盛山の悲劇、その裏事情

◆さて、ここで重要なキーワードは
・・・ 「野生的で豪胆」={一泊,藁,勇壮}+豪風雨
  • 暫く姿が見えなかった「伊藤俊彦」が、自力で帰ってきたこと。
    ・・・(朝だから、 一晩行方不明→示唆するは「どこぞで 一泊 !」)
  • 豪風雨の中、雨笠のかわりは、なんと「 製の米俵用さんだわら」
  • 皆の心配もなんのその、悠々と帰ってきた 勇壮 ぶり。
    • 皆は移動しているし、敵の伏兵も恐ろしい中、平然と一人で皆の居そうな場所を探し当て、
      やってきている。かなり逞しい。格好は二の次、実戦適応力旺盛:藁の「さんだわら」。

実戦適応力旺盛&皆が度肝を抜かれるとは

当時、武士が、雨合羽の目的で藁蓑を用いることは、まあ、あるが、「さんだわら」は
大雨でも、武士は普通なら、それはやらない。言うなれば、道端に落っこちた食べ物を拾って
食べるのと、おんなじ。悪い言葉ですが、当時通常に使われていた言語として、ここに記載
しますと、それは、まさに「乞食」のやること同然だから。
並の少年なれば、まさか、米俵の蓋を頭にのっけたりはしない。かなり野生的。実戦経験が
ないにもかかわらず、あたかも血みどろの戦場を連戦してきた者のような強さがありますね。
いかに、「伊藤俊彦」が、 実戦適応力旺盛 だったかが、ここに伺えます。


実は、このキーワード「藁」と「豪風雨」は、ワンセットで、真下項目、C項にも共通しています。

★民家に突如、やってきた少年とは、なんと!藁をかぶってやってきた!!
しかも、藁製の蓑ではない。藁のゴザをほっ被ってやってきた!



C項目詳細コーナー(C_1)
<豪風雨の中、藁を被ってやってきて一泊。翌日、豪風雨の中、再び戦場へ一人向った少年>
資料C_著者不明「謎の少年」に係る記載

先に、その文章概略をここに記載します。 B項目 のキーワードと、 「伊藤俊彦_おまとめ表」 から、
感じられる彼のレイアウトを、頭の中で照合させながら、以下文章を読んでみてください。

とてもミステリアスな話なので、物語風に書いたほうがジ~ンときますが、
作り話と錯覚されるといけないので、少し読み難いですが、原文通訳にできるだけ忠実な形で、
以下に書きます。

<或る著者某の文章内容>
  • 【注】
    この文章に出てくる 「私」とは、その著者 であり、原文では「余」ですが、現代語の「私」と同じ。
    この家に少年がやってきた日、丁度、その 著者本人は出陣中にて留守 だったため、
    家族に聞き取った話を記載しているため、「○○らしいです」の表現が多い。
    読み難い所、意訳して縮めて書きました。
C項目(C_2)突然の訪問客:豪風雨と藁、豪傑少年侍
嵐の少年侍


著者不明の文章第一幕


【sec.1】
それは、時期的に、丁度、明治元年旧8月の下旬でした。【参考:飯盛山悲劇は8/23】
私(=著者)は、熊倉方面(※2)を目指し急ぎ戦場へ向った後のことでした。これは、何かと申しますと、
母成峠(※1)が敗れたとの凶報なのでした。私は肝煎に呼ばれ、急遽、出陣しました。
  • (※1)暮成峠:母鳴峠、母成峠とも書かれる。示唆する地名は同じ。
  • (※2)熊倉方面:原文には、仙翁と記載。示唆する地名は同じ。
【sec.2】
その時、私の家に、一人の少年がやってきたのだそうです。
上記のとおり、私は留守ですが、家人はおりました。

その少年の年齢は?と申しますと、
ご本人さんが、「 丁度16歳だ! 」と語ったそうです。
彼は、両刀を帯びておりますが、茣蓙(=藁の
ゴザのこと)を着てやってきたのだそうです。

<大雨だったから、応急措置で、ゴザで対処しているが、両刀も言動も明らかに侍だと家人は解る。>

【sec.3】
その少年はこう言ったそうです。

「すまんが、今晩、ここに泊めてくれぬか?本来なれば、
肝煎に筋を通すべきことなんだが、なんといっても、
こんな深夜のことじゃ。肝煎にも迷惑をかけてしまうから、
すまんが、このまま、泊めてもらえぬか?
・・・
我は、戸の口方面にて戦っていたのだが、あいにく
敗れてしまったんじゃ。その上、道に迷ってしまった。
なんとか、このまま泊めてもらえると有り難いんだがのう。」


家の者は、直ちに、その労を労い、奥に通して、一泊を快諾しました。

◆ここまでの流れで解ること。
  • 著者は、会津の苦戦にて、急ぎ出陣。しかし、強制的に出陣させられたわりには、
    かなり会津に忠義派である旨が、以下文章でも順次解ります。
  • 戸の口方面の戦に破れた若い侍を労い、宿泊を快諾するも、上記同様、
    この家は、実に、会津忠義派。

著者不明の文章第二幕

【sec.4】
私の弟は、当時、研之助と申しました。現在は明治の改称で研吾と改めましたが・・・。
弟は、そのお侍さんより、少し年下でした。その研之助に向かいまして、その若い侍は、
こう言ったのだそうです。

「お前は、どうして従軍せんのじゃ?いかに少年といえども、なんでじゃ?
まあ、それはよいがのう、戦とは、案外、愉快なるものぞ。」

  • <解説>
    従軍せぬことを責めているのではなく、気さくにお喋りしている様子。 原文「談べけり」とある為。
    ニュアンス:「戦は怖くないぞ。案外愉快なもんだぞ。男なら、やってご覧よ。」

【sec.5】
翌朝、 その少年が、立ち去る際のことでした。別れ際に、こう言ったそうです。

「我も武士なれば、礼として、本来きちんと義理を通したいのじゃが、生憎、この恰好じゃ。
着ているものといえば、ご覧のとおり、こんな茣蓙を被ってきたもんじゃからのう。
礼に手渡す物を、何一つ持っておらん。さりとて、この刀なるものだけは、武士の魂なれば、
それだけはできんものじゃ。許せ。すまん。こんな茣蓙じゃが、
我の心故、記念に受け取ってくれ。心から礼を申すぞ。」


そう言うなり、その少年は、豪風雨の中、一人、戦場へ向うべく、家を立ち去ったのです。
慌てて、家人が追いかけて、言いました。

「お侍さん、お心は承りました。しかし、こんな凄い雨です。
どうか、この茣蓙で雨を凌ぎながら行って下さいませ。」


すると、少年若侍は、笑って、こう言ったのだそうです。

「なに、心配は無用じゃ。雨を恐れていたんじゃ、戦など出来んぞえ。」

なんと立派なお方じゃ。感心した家人は、さらに追いかけてゆきました。

「お侍さん、それじゃ、私が、道案内に暫し、お供させていただきましょう。」

しかし、少年若侍は、それも、きっぱりと、お断りなされたのだそうです。

「いかに、一人じゃ道を迷うか知れんが、それとて同じことじゃ。
道に迷うが怖くて、戦などできんぞ。
もうかまわんから、我を気にせんで良いぞ。
そなた達の心尽くし、恩に着るぞ。迷惑かけたのう。
達者で暮らせよ。さらば!」




【sec.5】=著者による文章の完結部分

結局、豪風雨の最中、彼は、何処へか、消え去って行ったのだそうです。
なんと、見上げた志だろうか。今だ、その志気の盛んなるを、
つくづく、痛感しております。




・・・世にも不思議な文章は、ここで終わる。以下解説行をどうぞ!・・・

◆B項目のキーワードと、◆「伊藤俊彦_おまとめ表」を掛け合わせ考察
C項目(C_3)=この不思議な文章について補足コーナーは、こちら

yu.gifなぜに、この不思議な文章「C項」に登場する少年が、
「伊藤俊彦」らしいと判断したかについて:その根拠


B項目 のキーワードと、 「伊藤俊彦_おまとめ表」 から、感じられる彼のレイアウトを、
頭の中で照合させながら、以下文章をご覧下さい。


◆時期的要素、◆当該の具体的戦場示唆,◆身分の象徴,◆ 期日示唆「8/23」は豪風雨,
◆個人特定へ繋ぐ一部行程:豪風雨を凌ぐ材料に「藁製品」を使う習性
◆狩の名人として主君に表彰された先祖を尊び、己は時世にあわせて「敵狩」を宣言した姿
◆勇猛果敢:一瞬、狂ったか?と錯覚される程、正義の為なら燃える性格
◆礼儀正しいこと、筋道立てること

時期と、場所、豪風雨、豪傑な性格などから、「伊藤俊彦」の可能性多大と考えられる。
豪風雨と藁が、この少年のB&Cに係る共通事項:野生的&サバイバル精神


まず、第一に:【◆時期的要素、◆当該の具体的戦場示唆,◆身分の象徴】の合致


著者文章表現では、残念ながら、8月下旬とあり、期日は曖昧。しかし、出陣期と出陣先にご注目。
  • 私(=著者)は、熊倉方面(※2)を目指し急ぎ戦場へ向った後のことでした。これは、
    何かと申しますと、母成峠(※1)が敗れたとの凶報なのでした。私は肝煎に呼ばれ、
    急遽、出陣しました。
  • 【参考:飯盛山悲劇は8/23】
こりゃ、もう言うまでもない。時期的要素は、完全合致。しかし、その少年の名を断定できないが、
C項目の【sec.2】と【sec.3】にご注目。
  • その少年が語った自分の年齢は16歳。【因みに、伊藤俊彦は16歳である。】
  • その少年の発言。「我は戸の口で戦っていたが、敗戦・・・。」
    ▲【これは、白虎隊確率、猛烈に高い!】
    • 用心深く判断すると、実は年少少年といえども、身分の低い足軽、中間の倅等が混在
      していなかったとは断言はできない。(この事情はこの頁から解ります。 解説2 解説4
    • しかしながら、宿泊させてもらっていながら、この家の少年に講釈を喋っているなど、
      随分堂々と偉そうな態度からして、少なくとも、低身分や、制限付下級侍でないのが解る。


第二に性格と行動で推量


  • ◇勇猛果敢、時には人をびっくりさせる程、◇正義の為なれば意欲満々
  • 或る日、系譜を見た俊彦が語った内容
    「そうか、先祖は「一番獲物の功績者」か。されば、我も見習わねば。しかし時世が、
    今や乱世なれば獲物どころではない。我は獲物ならずや、「敵狩」を成し遂げて、
    主君に貢献せねばならんなあ。」

  • ◇物事に筋道立て、折り目正しい。C項目内の帰り際の発言と照合してみて下さい。
    • 「我も武士なれば、礼として、本来きちんと義理を通したいのじゃが、生憎、
      この恰好じゃ。着ているものといえば、ご覧のとおり、こんな茣蓙を被って
      きたもんじゃからのう。礼に手渡す物を、何一つ持っておらん。さりとて、
      この刀なるものだけは、武士の魂なれば、それだけはできんものじゃ。許せ。
      すまん。こんな茣蓙じゃが、我の心故、記念に受け取ってくれ。心から礼を申すぞ。」



第三に豪風雨と、藁と、豪傑で人を驚かせた事実

  • C項目:民家に登場した時、豪風雨の中、藁の茣蓙を被ってやってきた。
  • B項目: 酒井峰治の記録:『戊辰戦争実暦談』 の表現▼
    • 時に 伊藤俊彦 の姿が見えず、戦友大いに心痛。すると、桟俵を冠り来たれり。
      其の豪胆勇壮さに驚かぬ者はいなかった。
      「桟俵=さんだわら」とは:米俵の両サイドにある藁の円形状部分のこと。
  • <考察>
    • もしも、仮に、本当に、上記C項の謎の少年が、イコールB項目の「伊藤俊彦」だとしたら、
      茣蓙は侍の意地で民に礼として手渡してきた建前、雨を凌ぐ対策に、そこらで、
      俵用の蓋を拾ってきて頭にのっけていたかもしれない・・藁の効能を知ったのだろう!

      普通の少年ならやらん事も、平気。これは、「敵狩」宣言の後、短刀握って外に飛び出して、
      家人を驚かさせた要素にも、やや類似している。



以上にて、私は専門家と異なり、残念ながら、完全一致特定宣言はできませんが、
まずは、だいたい、「伊藤俊彦」ではないか・・・と内心確信しています。

尚、後の世、この少年を非常に讃える謎の著者は、明らかに「会津贔屓」であり、
賊軍となって裁かれた会津に加担した民であることが明確。辛い針の筵の明治を生きた
「元、賊軍加担者」の人生の人。無論、罪も咎めも軽度であることから、明治に、こんな
文章を書いているわけですが・・・。個人を特定して讃えるなれば、やはりブーイング確率も
否定できない明治の世。薄々知って、惚けているのやら、本当に、知りたくても知れずに、
心の浪漫として讃えているのやら。


著者「某」さんとは誰だ!!まいったなァ!


ただ、ひとつ、私としては不完全燃焼であります。はたして、この人物は、本当に、
自分の名前を隠したのか、資料が文章として残る際に、なんらかの要因で、欠落してしまったのか?
非常に気になっております。

なぜならば、本人の名前は存在しないにもかかわらず、弟の名を明確に記載しているからです。
弟の名前は「当時、研之助。明治の改称で研吾。」 と明確なのです。

姓が不明で辛いですが、大分追っかけまくって堀りまくりましたが、私はついにバンザイ!
地理的に、この付近に住居があった者で、明治の世、「某研之助」と名乗った者を特定する
ことはできませんでした。全国版の本や、図書館で調べられる範囲の偉人でない限り、
姓が某のままでは、とても発掘できませんでした。
・・・(疲労のあまり、案外、見落としてしまったかも?ではありますが!)

地域近代史にお強いお方、ご興味ございましたら、掘ってみて下さい。
  • ヒントは居住地の他、 研之助(研吾) 氏は、戊辰時(1868年)段階で、当時16歳だった
    謎の少年侍より、少し年少者であること。出生年に、多少的を絞れます。
  • 居住地とは、8/22、戸之口原で戦った後、豪風雨の夜中、道に迷った少年が、
    ふらりふらりと辿り着ける範囲の行動半径に所在する村落。
  • 村の肝煎から掘る方法もあります。出陣命令出すだけでなく、この村は会津贔屓派確率高い。

C項目(C_3)=この不思議な文章について補足コーナーは、こちら


この不思議な文章は、「辰のまぼろし(柴五三郎著)」内に存在します。
この本の特徴のひとつは、柴五三郎(※)氏が書いているわけですが、会津の戊辰を語る為に、
複数の文章を引用しています。原文の主が判然とするものもあれば、多分彼だろうなと漠然と
推測つくものと、どう考えても解らないのとあります。柴氏、自らの文もあります。
柴氏は、随分研究熱心で、聞き書きしていますから。
第三者の文章が続く中、ポロッとコメント一言入れてあるタイプも。
ニュアンスはこんな感じ。「大体いいが、ここだけは多分勘違いだな。本当はこうだよ。」
「ちょっと大袈裟だな。」、「あれっ?私が直接会って聞いた話と、ほんの少し違うな。」など。

というわけで、柴氏が、この謎の文章主解説を一筆入れてくれさえすれば、人物特定に
誰も困らなかったのですが、今さら仕方ない。柴氏は戊辰の人。


(※)柴五三郎について


◆柴五三郎とは、有名な「柴兄弟」の一人。 墓は恵倫寺。上記の「辰のまぼろし」著者。
兄弟の中、今日、人気があって皆に知られているのは、四朗、五郎。
兄弟姉妹は11人居るようですが、男兄弟は5人。順番に▼
柴太一郎、謙助(この人物は戊辰で死亡)、柴五三郎、四朗、五郎 。【五三郎は三男】

◆また、柴五三郎は、フランス式調練を受けており、会津に於ける調練の指導各。
白虎隊は、戊辰慶応4年(1868)3月に、早速その訓練を受けています。指導TOP各は、
幕臣「沼間慎次郎」なんですが、この下に幕臣以外に、会津藩士の熟練者も居ます。
その一人が柴五三郎。詳しくは、真下リンク軍団。尚、指導者の中に、柴五三郎が居たことは、
酒井峰治(白虎隊士)も、「戊辰戦争実歴談」に記載しています。

柴兄弟については、ここに本があります。(右は犬服。本題に関係ないけど可愛オマケ)

_ キャラクター洋服&ジーンズ他


幕末WITH_LOVE

白虎隊悲劇の裏事情

新撰組,黒船以降、幕末維新の人、


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