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猫に犬服着せる選び方と手直し,犬服手直し,お悩み解決,サイズがあわなくても焦らない,飼い主さん応援,犬猫洋服簡単お直し術,猫に犬服着せる時、選び方コツ&超怠慢お直し術,犬の洋服,猫の洋服,【楽天市場】,ペット,SALE情報,猫ちゃんに犬服を着せる時、お悩み解決!これさえ、解れば、恐れず、臆せず安心!猫に『犬服』買ってあげれるニャン!&★犬用犬服・・ちょいとサイズあわなかった場合・・・『簡単お直し術』◆犬服の見立て方、& ◆超怠慢お直し術わんこ&にゃんこみんなの『お悩み』解決!ニャニャンのワン!!犬猫、みんな安心!いろんなお洋服着れる!今日、猫の服は、犬に比べると、ネット上でもけっして多くないのが実態。ところが、いざ、本気で探したい皆様にとっては、つまり不便な時代。犬服には、可愛いのも一杯。体の弱い子や、病中病後、老犬のために、『ポカポカ体を温める機能のある素材服』とかある。こうなってくると、猫にとっても服は必需品!猫ちゃんモデルが着用している画像があれば安心。でも服だけ見ると、いくら可愛いくてもちょっと心配。これは、みんな親心。猫用に、犬服を購入して、失敗したらどうしよう!!・・・・そんな不安を解決!★そこで、今回は・・・『猫に、犬服を着せる時!』・・・・現在の頁は、要領が小さいので、詳しくは、こちら本文へどうぞ!・・・MENU概要_猫ちゃん&わんちゃん、揃ってご覧下さい。◆猫編猫ちゃんが犬服を着てる姿をよく見れるお店ご紹介猫に着せる時の、犬服の見立て方コツ!超怠慢簡単お直し術襟や袖口が広くて、猫がスルッと抜け出す場合◆怠慢縮め込みですむ場合と、◆ちょいとハサミしないとなんない場合ほんのちょっとだけ、ゆるい。忍法!シャーリングの術・・◆猫パターン、◆犬雄パターン丈が長すぎた時の簡単お直し(単なる切り詰め)「挟むだけ~ェ怠慢テープ」とは?レベル2_これは、脇ほどいて、部分的ちょい縫い直し!◆犬編しまった!デカい!しまった!小さすぎた!だいたいイイのに、首周り、袖、裾など、部分的に困った!ちょうどイイと思ってたら、オス犬、排尿の時、アリャ!服汚れる!!超怠慢簡単お直し術忍法!シャーリングの術「挟むだけ~ェ怠慢テープ」を、あっちこっち、幅広く活用!伸縮性有トレーナー、或いは、フリースの場合、下記の「縮め込み」をやっても、着るとなぜか、ゴボゴボ目立たないです。襟や袖口が広くて、猫がスルッと抜け出す場合も、案外簡単に直せます。超怠慢お直し術一例ご紹介★レベル1_大手術せず、超怠慢!あっさり終わる!の巻多分、この図だけじゃ、ピンとこないと思うので、詳しくは、忍法!シャーリングの術・・◆猫パターン、◆犬雄パターン◆猫パターン◆首=襟外周が広すぎる時、◆裾外周が広すぎる(胴幅そのものは、さほど大きすぎない場合)★レベル2_手術が必要!でも、できるだけ手抜きしたい!!猫服探し猫ちゃん系記事総合玄関▼犬服探し 大型犬は、こっちが手っ取り早いワン!▼こちらは、犬猫みんなの可愛うさちゃんへリンク▼
2010.12.12
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板垣退助「大真面目な芋話!会津戦時」No.2,戊辰時既に漂う板垣の切支丹的香り,民心を掴め!,会津戦争終決時、出現した農夫に対する板垣の気持ち,幕末戊辰板垣退助と「大真面目なイモ話!」_No.2どうも昔から、この人物漂うゾ!の巻板垣退助(=乾猪之助。乾退助:土佐藩):天保8/4/17(1837) -~ 大正8(1919)7月/16民心を掴め!の板垣退助ながら・・・!初めから読む:No.1「民心を掴め!」彼の方向性は、なかなか宜しい。まず、第一発目、自藩の底辺から、アンダザグラウンドを大分調達してきている。それはさておき、「忍法!板垣の姓の術!!」今度は効率的パフォーマンス&アピール。突然、乾が叫ぶ。「我こそは、板垣也!!皆を救いにまいったぞ!」「甲斐源氏のやんごとなき血、有名武将、武田四天王、板垣氏の後裔でござる!」叫んだ場所は、非常にこれまた宜しい。甲斐国の民衆は盛り上がる。なぜなれば、この年、1868年は、板垣信方の没後320年という。(500円札のおじさんの入知恵)「武田の魂は不滅ぞ!今ここに蘇る!皆の者、今こそ正義の為に奮起せよ!」板垣信方とは、戦国時代、武田信玄の家臣。効果抜群。甲州勝沼の戦いの圧勝。敗れたるは、かの有名な新撰組の近藤勇。・・・ここに、「乾」だったはずの男が、なぜか突如「板垣」に大変身。とはいえ、良いのであります。戦は頭脳。民心を掴め!それぞ、正しい!お利口さん。<板垣の自問自答の変な詩!・・略意>会津が、民を圧制に敷かず、民心を掴んでいたら、こんなことになっただろうか。こんなに離反を招いたことだろうか。否、この状態は見れば解る。我らの圧勝は、まさに民心の反映。即ち、勝利には、必ず「民心を掴め!」民こそ力也!これは何かと言うと、板垣本人が自分で質して、自分で答えて、自分で結論出して完了に結ぶ形態の詩なんだけど。会津の年貢は、けっして緩い側ではなかった。土壇場、近郊で、農民が会津に反旗を翻すは、官軍に靡くは・・・の会津にとって最悪状態が発生していた。さて、結果としては、ご存知のとおり、戊辰は、官軍勝利でピリオド。明治維新。ところで、会津戦争終決時、板垣よ、なんか漂うぞ!の巻▼会津戦争終決時、出現した農夫に対する板垣の気持ち会津は敗れた。官軍は皆胸を張る。会津にとっては血涙の開場式。ところが、板垣は、奇妙な光景を目の当たりにする。一人の農夫が現れた。普通だったら、恐ろしいから、近寄らないに越した事はないというのに、この農夫は、覚悟してやってきたのだろう。「恐れながら、官軍様、わしゃ、ご覧のとおり愚かな一百姓ながら、どうか、なにぶん・・・どうか・・・!」この農夫は地べたに臥して、必死の嘆願。兵達は、追い出そうとする。逆らうなれば斬るぞ!の勢い。ところが、この農夫は、最悪事態なれば、斬首も覚悟だろう。おどおどながら、彼は、嘆願の主旨を述べた。「こったら百姓が、誠、身勝手で恐縮なれど、どうか、官軍様、たったひとつお願いでごぜーます。どうか、これを会津様に差し上げてくださりませ。」手渡されたのは、なんと「イモ!」だった。農夫が曰くは、こうだった。「おらは、一介の百姓なれば、難しい事は、なんも解っちゃおりゃしません。されど、恥ずかしながら、私めが、会津様に世話になったご恩だけは、どうしても、忘れられないもんで・・・。・・・いえ、いえ、変な意味じゃ、ごぜーませんだ。・・・わしゃ、きっと、こうなりゃ、会津さんも腹減ってるべ・・・と思っちまったもんだから、・・・官軍様、どうか、この土ん百姓の願いをお許し下さりませ。」彼は涙ながらに、地に臥して嘆願を・・・。ここで、黙って、板垣はイモを受け取った。この男は、おそらく自分の糧さえ怪しいことだろう。戦に荒らされた田畑に恵みは、何一つ残ってないのだから・・・。空腹の男が、最後の糧を捧げに、わざわざやってきた。空腹の者程、空腹に陥った者の立場に敏感なのだ。板垣も人事でない。彼の父は減石されている。侍とは名ばかり。食うに窮した板垣も底辺の男。この百姓は、斬首覚悟の報恩だったのだ!あたかも殉死のごとく!されど、戦に仏心は禁物。それは我が身を滅ぼす。しかし、板垣は受け取った。そして、大真面目に「百姓が持ち込んだイモの話」を日記に綴る。これも、民心というものじゃ。斬首覚悟で、イモを持ち込んだ農夫は一人だった。しかし、これが、一人でなくて、大勢だったらどうだろう?即ち、その時、我ら官軍に、勝利は無かったことだろう。<あらかじめ、私は俗世人にて宗教観念で書いてませんから、粗雑表現カチンの場合、お許し下さい!>さてと、聖書の話の中で「女寡婦の献金話」の一節がありまして・・・。教会にみんなが一杯献金を。その時、一人の女寡婦。これは、後家さんイメージでなくて、極限の貧乏、当時の言葉でいえば(今日の感覚では、ちょっと悪い言葉ですが、あえて、この場合使いますネ。)いわば乞食同然。ボロボロで汚い衣装。汚らわしい程に身を窶した一人の女寡婦が、聖なる教会に足を踏み入れる状態を示します。案の定、彼女の献金たるや、びっくりするほどの「はした金」。今日なれば、1円とか、そんなかんじ。そこで、周囲の人々が追放にかかる。汚らわしい!消え去れ!中には、高額献金で鼻高らかのご立派な身分のご夫婦も。その時、聖なる人は、こう言った。「あの女寡婦は、明日のパンを買う金さえも、全て神に捧げたのだ!」どんなに多額献金の者とて、彼女以上の勇気と誠の美しい心を持った者は、他に居ない事を知るのだ!己の心に、罪あらためよ。板垣退助は、上記「会津落城、イモを持ち込んだ農夫事件」の時、実はこの話、知っていたんじゃないかと、ふと思う。この一件だけだと、ピンと来ないんですが、後、明治の世においても、ふと臭う瞬間が数回あります。何れも、彼がオープン入信する前の段階の話。板垣の許した男と、救った男幕末玄関<民心を掴め!の板垣退助ながら、板垣退助と「大真面目なイモ話!」 :No.1<No.2(現在頁)<No.3・・・★
2012.06.29
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主の立場と臣の立場_No.6,殿を泣かせた臣の首と哀れ朽ちた首編補足頁,幕末戊辰,松平容保の「亡き正室敏姫&継室&側室」状況高須四兄弟について殿を泣かせた臣の首と、哀れ朽ちた首,殿の『臣の首犠牲』に係る認識_No.6松平容保の亡き正妻「敏姫」とは◆松平容保の「正室敏姫&継室&側室」状況、◆高須四兄弟◆「殿を泣かせた臣の首と、哀れ朽ちた首」SERIES補足編・・・初めから読む_No.1<関連頁「容保の妻と側室」から読む_No.2◆会津戦争の最中、側室妾はあれど、正式な妻が居なかった容保。なんとも息苦しい婿殿の立場。以下表は超略型MEMOながら、ご参考までに。ついでに、高須四兄弟について。松平容保の亡き正妻「敏姫」とはについて記載した理由は、実は別にあります。敏姫は、疱瘡が原因で、容姿にダメージ、心身共に衰弱。その上病弱だった為、風邪程度で死亡してしまいましたが、根本は上記のとおり、疱瘡が誘引。「だから、種痘をせよ!とあれほど私が言ったのに・・・!」・・・と相当ぼやいていた人物がいます。幕末明治大活躍の山川浩のお爺さんです。彼の名は、山川兵衛重英といいます。NEXT頁にその詳細を。松平容保&正室敏姫&継室&側室◆松平容保:【天保6年12月29日( 1836/2/15)~明治26(1893)年12月5日】、◆正室:敏姫【1843~1861】年年齢事象MEMO:桃色文字は敏姫事象と、敏姫年齢1836(天保6)0容保誕生天保6年12月29日( 1836/2/15)美濃国高須藩主:松平義建の六男。江戸藩邸生。18430敏姫誕生会津8代藩主_松平容敬の五女 弘化3(1846)10容保会津の養子へ弘化3年4月27日(1846)、陸奥国会津藩世子。会津8代藩主・容敬の養子として会津IN。容敬は実叔父(高須松平家)嘉永5(1852)16容保家督継承松平容敬死去9敏姫安政3(1856)20容保容保の正室に。13敏姫万延2年~文久元年 (1861)25敏姫死亡1861年は、万延2年=【3/18以降が文久元年】容保25歳、敏姫18歳(19歳)時、敏姫死亡。もともと病弱の姫。死因概略は風邪悪化衰弱だが、元因は疱瘡に罹った後容姿に痕跡、悲観衰弱。夫婦生活は恐らく???18継室&側室継室浦乃局礼姫=浦乃局前田禮子浦乃局(=礼姫、=浦乃局前田禮子)=(第13代加賀藩主「前田慶寧」の娘)彼女は、後に、榊原政敬【高田藩主】の継室となる。(≒容保と離縁形態 恭順藩の高田藩は、降伏後の謹慎会津藩士を預り、寛容待遇。会津戦争時、彼女は存在してない。養子松平喜徳安政2/10/22(1855)生▼礼姫との間、子が生まれない為、急ぎ容保は養子を。松平喜徳=【水戸藩主徳川斉昭の十九男。慶応4年(1868年)2月、養父:容保隠居により、家督相続。容保と共に謹慎処分。後に養子縁組解消。側室◆佐久、◆名賀 ◆佐久(田代孫兵衛の娘)=松平容大(明治2年生れ同年斗南藩主:ベビー藩主)の産みの母、◆名賀(川村源兵衛の娘) 高須四兄弟について高須四兄弟とは美濃国高須藩主:松平義建の子の内、右記4名を言う。◆No.1:徳川慶勝(尾張徳川家藩主14代,17代【1824~1883】【二男】), ◆No.2:徳川茂徳(=茂栄)【1831~1884】【五男】高須藩11代藩主:(松平義比)尾張徳川家15代藩主:(徳川茂徳)一橋徳川家10代藩主:改名後「一橋茂栄」◆No.3:松平容保(会津藩主),【1836~1893】【六男】◆No.4:松平定敬(桑名藩主),【1847~1908】【八男】この表紙に丁度、四兄弟おります!どうして高須兄弟は他にも居るのに、この4人?▼維新時活躍した4人だから。▼生まれていても幼い者と、1868年段階で死亡済みの者を除外するため、「四兄弟」◆グレー色字は夭折◆ピンク色は死亡または、幼少対象外◆緑色字不確定長男:源之助 1820年生、夭折次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子【1824~1883】三男:武成 浜田藩越智松平家養子(1847年死亡)松平 武成、文政8年7月3日(1825年8月16日)- 弘化4年9月20日(1847年10月28日四男:整三郎 1826年生、夭折五男:茂栄:【1831~1884】高須藩主(義比)→尾張藩主(徳川茂徳)→橋徳川家養子(一橋茂栄)?の謎の六男:某? 戊辰戦争で切腹(下枠ご参照)六男:容保 会津藩会津松平家養子【1836~1893】七男?:上記6番目と見解重複ながら、容保の前後に一人位、?形跡説有八男:定敬 桑名藩久松松平家養子【1847~1908】九男:鐡丸 1849年生、夭折 十男:義勇 高須藩主十男:義勇:美濃高須藩の第13代藩主、のち藩知事。(1859生まれ。1868年の維新時は少年の為4兄弟対象外。)娘(上杉茂憲正室)不確定事象の追記尚、容保は一般的に6男。しかしその前に一人夭折以外の死亡が一人居たとされる説について:断定できないが私的にも確かそんな気もする。松平ファミリーの養子が徳川滅亡に際し自刃例はある。松平義建は子が多い為、隠れた存在、ことによると居たかもしれない。関連:だから早く、敏姫に種痘を!」叫んでいた男「山川兵衛重英」TOP(サイトTOPは犬猫サイト)<幕末玄関<現在の容保SERIESNo.1<・・・<No.5(会津関係おすすめ本)<(現在頁)容保の亡き正妻「敏姫」とは
2011.10.12
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歌川国芳の「金魚づくし 」の裏事情,さらいとんび,裏のテーマ謎解き,幕末背景を透視,象徴と見受けられる人物と事象を照合 _歌川国芳の作品_「金魚づくし 」の裏を推察シリーズご案内_No.4『金魚づくし 』の裏事情!黙示録!幕末玄関<江戸の天才画家「歌川国芳」の世界TOP<「金魚づくし」の裏事情TOP<・・<No.6<・・【カードその4】_【B2】_(No.4):さらいとんび歌川国芳の作品_「金魚づくし」全9枚(但し、これは現代発見されている枚数)■百ものがたり:【C3】,■にはかあめんぼう:【H8】,■そさのおのみこと:【I9】,■さらいとんび:【B2】,■ぼんぼん:【A1】,■酒のざしき:【G7】,■玉や玉や:【D4】,■まとい:【E5】,■いかだのり:【F6】,歌川国芳(=一勇斎)(1798~1861(寛政9年11月15日~文久元年3月5日))歌川国芳の作品_「金魚づくし 」シリーズ、全部で9枚の絵が発見されています。実際は100枚近く沢山あったものだろうと考えています。歌川国芳の絵は、意味深。表向きの可愛いらしいテーマと裏腹、潜んだ「裏の主題」。言動取締りの厳しい背景、幕府の捜索の盲点になりやすい可愛い御伽噺を隠れ蓑に、実は痛烈な悪政批判。裏のテーマを、語らずして、解る人にだけ「暗号的」に絵画で示唆したと想定されます。「暗号」とは何か?については、こちらの頁でだいたい把握できます。■金魚づくし」の裏事情TOP、■総合推察構成表=No.6、歌川国芳の絵が、延々語るは、暗黙に「時のだ~れかさんのなんかの事件」9枚の絵画について、各々順次推定してゆきます。さらいとんび象徴人物:■水野忠邦、■鳥居耀蔵、■江戸の民・・他【注】添付画像は、アート商品につき、本稿にまつわる裏話うんぬんとは関係ありません。浮世絵がお好きな皆さんが、ご購入できる商品です。裏話うんぬんは現在シリーズ文章を、順次ご覧下さい。(No.4)_【B2】_さらいとんび第一次水野在任期間1837~1841(首座)~1843の罷免迄水野忠邦はこの段階で気付いてない!忽ち、鳥居が「とんび」 に化ける!★水野忠邦失脚の予兆_(1843年時:第一次)!・・・の象徴だろうと、私は判断しました。・・▼鳥居耀蔵の動き=とんびが、あぶらげ奪う!この絵を上記事象の象徴と判断した訳▼鳶にあぶらげ攫われる。水野忠邦の配下で動いた鳥居耀蔵。蛮社の獄の際に先頭に立って弾圧断行頭は鳥居耀蔵。ところが、水野は、上知令の失敗で足元がぐらつく。忽ち鳥居は、土井利位に寝返り、水野忠邦排斥に尽力。罷免に追い込む。■絵をよく見ると、鳶に化けた金魚は、烏帽子を被っている。目立たぬように尻尾付け根と同じような黒い色。しかし確かに紐が見える。■講談の定句(猿飛佐助Ver.=さるとび:cf.さらいとんび)またしても寒ぶい駄洒落風の苦しい無理繰漕ぎ着けの「地口」。猿ととんびの絵も象徴。(国芳の地口はいつも無理繰漕ぎ着!猿飛佐助:「悪盛んなる時天に勝ち、天定まって人に勝つ」悪い輩がのさばってる時、こればかりは誰も止めれない。しかし、それは、やがて時来たりて、天が裁く。おごれる者も久しからず。と大体似た感じの意味。水野忠邦も今に転ぶぞ!案の定、飼い犬に手噛まれた。とんびにあぶらげ攫われた。【真上の絵】▼単純テーマは「とんびにあぶらげ攫われる。」時の人物も掛け算。杖をついてる老人金魚、赤ちゃん背負ってる金魚夫人。時世がなんであれ、商いやってんのはお猿さん。金魚町(=日本人)の食堂メニューは、みじんこと、ぼうふら。(蛋白源は、魚介類を主とする民族。)芸が細かい。メニューは、猿の横、白い札に品書きと称して、記載されている。猿と、飛んでる鳶は、誰かさん達≒水野忠邦(猿)と、鳥居耀蔵(鳶)・・・ではないかナ。鳶金魚は、他の金魚と異なり、嘴が尖がっている。鳶だから・・・もあるが、鳥居だからの意味も。なぜこんな発想に至るかについては、次頁から順次 お読み下さいますと、お解りいただけると思います。■総合推察構成表=No.6、【絵が象徴する事象推量のヒント】▼絵を見て、「○○事象ではないかな?」の仮説が立ったら、確かめ算は「地口」です。登場人物の官位や、渾名など、それに加えて、諺や講談などもあわせ考察します。現在頁は、本頁へのガイドです。本頁で、前後事象と共に、ドッサリご案内してます。▼「金魚づくし」の裏事情「総合推察構成表=No.6」へGO!幕末玄関<江戸の天才画家「歌川国芳」の世界TOP関連姉妹編:歌川国芳の「『大鯨退治と宮本武蔵』の人物考察」編歌川国芳の作品_「金魚づくし 」の裏を推察SERIES:【第1章】No.1<・・<【第3章_1】No.6<・・文章解説(c)by rankten_@piyo、★
2011.11.23
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時代と土地と人と奥蝦夷「下川町」編,岐阜郡上と北海道下川(その2),緑の森とほっこり!,レジェンド葛西の町「下川町」No.4,時代と土地と人と奥蝦夷「下川町」編,岐阜の郡上と北海道下川(その2)レジェンド葛西の町「下川町」、緑の森と、ほっこり!_No.4ほ~んのお気軽ちょい歴史明治34年(1901)、最初の開拓団が入って開かれた町。【ところで、こんなに頑張り屋さんの開拓団。彼らはどっから来た?!の巻】因みに、明治34年(1901)を、この町では祝して「開拓元年」ともいう。全25戸の家が、意を決して、この奥蝦夷にやってきた。初めに、唐突ながら、ご参考ヒントに、こちら▼。真下商品は、この町製造販売ではありませんが、郡上踊りの文字列にご注目。郡上といえば、岐阜でござる!!郡上節彼らは郡上からやってきた!!(現在の岐阜県郡上市)明治の世、彼らは当時の高鷲村&北濃村の二つの村からやってきた。実は、この町には、なぜか「郡上節」文化が継承されている!!岐阜の郡上の文化が、はるか奥蝦夷、この地にちゃんと息づいている。文化の伝播伝承って素晴らしい!!・・・実は、開拓にご入団の皆さんが、明治世、持ってきた!!現代の感覚では、来たから、ついでに文化も自然移行されただけのことか?だなんて思うが、そうではなかった。御囃子とは、極めて神聖なもの。先祖の魂。誇り高い彼らのプライド。大切に持ってきた。新天地に於ける成功を神聖なる霊に託して。 地域密着型の神聖なる御囃子が、訳あって、遠隔地に伝播される例は他の時代、他の地域にもあります。本題関係ないので、例は、現在頁最下段に添付。なんでまた、こったら寒い!北海道なんてところに?上2村は、明治の世、明治の合併の波を被った。高鷲村(現在郡上市)明治30年(1897)合併=【大鷲村+鮎立村+西洞村+鷲見村】=高鷲村平成16年(2004)合併にて郡上市北濃村(現在郡上市)明治30年(1897)合併=【長滝村+歩岐島村+前谷村+二日町村+向小駄良村】=北濃村昭和31年(1956)合併=【白鳥町+牛道村+北濃村】=白鳥町北濃村は、昔、白山信仰の地。水神や農業神として崇め尊ぶ。それが、明治の廃仏毀釈で、破棄させられるは、焼却されるは、形態を強制的に別物にされるは、・・・散々な目に。これでもか!とばかり降ってきたのは、明治30年(1897)、合併の波。▼郡上から、下川に、開拓団が入ったのは、明治34年(1901)のことであった。ついでに明治の徴兵問題。因みに、全国的には、1873年(明治6年)から早速徴兵だが、北海道は開拓急務地であったことから、北海道初の赤紙は1887年(明治20年:※)。※注:とはいえ、北海道の人は、それまで戦争無縁だったかというと全然違う。明治早々から、呼び方が違うだけで、戦場の犠牲は一杯。屯田兵は、開拓だけじゃない。開拓で命淘汰されて、西南戦争(明治10)に引っ張り出されて、死なされ役専門係一杯!!猶予じゃなくて、初めにアタマ打っている。これ以上青年死なせて減らしたら、開拓ますます遅れるから。また、当時、脅威とそのまんま対峙している地根室を例にするなれば、根室の青年達に 赤紙到着は明治37年。遅いようで、初めっから対応時キープ用。(こーゆー系話の頁はこちら)<幕末WITH_LOVE玄関<幕末引き摺る明治大正昭和の話歯を食い縛り、よりにもよって、この奥蝦夷「下川」に入団した開拓者達は、その昔の郡上藩。真下バナーは、郡上藩凌霜隊の悲劇(幕末維新の話)。No.3には凌霜隊藩士の名一覧。それはさておき、少なくとも、開拓時代の皆様は、合併大歓迎!なわけはなかったことでしょう。さもなくば、誰が、こんなド寒くて、農に窮する危険度の高すぎるリスクの地を選択するものか!【注:これは誰それさんが、そう言ったとか、誰それさんの御先祖とかいう話は、抜きで!】偶然ちゅうか、いつの世も同じっちゅうか、一応平和?な世=現世においても、またしても、合併の波が降って湧く。▼この町は、頑張った。合併せず、町単独形態で頑張って自力の町作り。その結果、前述のとおり、大成功。今や、環境未来都市。(No.3ご参照)山には、どっしりと常緑の「トドマツ」が茂る。町の木。清らかな野辺には、凛としてエゾリンドウ。町の花。小さいけれど、広くて強い町。人口は3500強。世帯数は不思議と、丁度その約半分。1800強。冬は寒いけど、ハートは暖ったかい町。有難う!嬉しいっす!と自分の銀メダル時には、ニコニコ笑顔で押し通せたレジェンドも、皆の銅メダルの時には、思わず泣き出した。ぐんと年齢の離れた若いメンバー達、一人、一人、ファーストネームで呼んで、皆の病気の事、怪我の事、苦しみのこと、ポツポツ言うたび、涙もポトポト。自分の痛みより、人の痛みが痛い。だから、嬉しくて、涙してしまった。暖ったかい!本来、私的には、いずれの町においても市民憲章には、あまり注目してみたことなかった者なのですが、レジェンドさんのお人柄に、なんちゅう合致!の町民憲章だろうか!と一人驚いてます。★暖ったかく行こう!★優しく育んで、育てよう!★みんな仲良く助け合おう!<全部不思議と暖ったかい系。不思議と「愛」系。>【町民憲章より】■心も、からだもすこやかに、あたたかい家庭をつくりましょう。 ■よい環境をつくり、青少年のつよく正しく育つまちにしましょう。 ■自然を愛し、美しいまちづくりに努力しましょう。■きまりを守り、みんな仲よく助け合い、明るいまちをつくりましょう。 ■町の歴史を大切にし、文化の高い郷土をきずきましょう。レジェンドさんが「帰国」して、一こま。軽いおジョークモードで微笑み浮かべ、仲間のみんな(竹内&伊東&清水)氏に呼応を期待して、チョロッと喋る。三人の内、伊東大貴氏も同じく下川。「それじゃー、ホントにレジェンドって呼んで貰ってもいいかな?」▼多分、期待心は、「いいともォ~ッ!」と全員揃って、ガッツポーズで、ワンショット、みんな仲良く揃って、フラッシュ浴びる・・・シーン。▼ところが、三人は、マジメな顔して、キョーツケ!の姿勢で、姿勢正して、「いいです。」・・・すると、一人、「ありゃ?」の顔。ちょいコケモードのレジェンドさんでありました。次頁は、もう一人、暖ったかい人「菊地雅洋」氏の「誰かの赤い花になるために」サイトTOPは犬猫サイト<人の暮らし_心系とグルメ&産物ご紹介<現在特集:レジェンド葛西の町「下川町」、緑の森と、ほっこり!■No.1【グルメ&産物】<No.2【町のほっこり!を伝えてくれる暖ったかい犬漫画_ウッシー君と四季】■下川町のちょっくら歴史話<No.3:ちょっくら歴史(その1)<No.4:ちょっくら歴史(その2)(現在頁)<★NEXT★=真上NEXTボタン=No.5:歴史(その3)遠隔地に特例的に大切に伝承された神聖なる舞い会津救援に、命を捧げる覚悟の「御囃子少年達」の舞:「舞に係る高遠伝承ルーツの不思議」▼そのまた、彼らの命をさらに救った男▼中條政恒:目次と序章▼
2014.02.24
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泣かない女山本八重子前夫,戊辰中離縁の謎,幕末泣かない女の思い出枕_No.5,幕末明治,白無垢に鮮血,幕末明治人物編,山本八重子泣かない女の思い出枕_山本八重子談話_No.5山本八重子(新島八重)の談話から、ふと、テレパシーVer.3_明治の世、八重が語ったあの頃。「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」【その2】◆(Ver.1)棚のぼた餅誰が食った!、◆(Ver.2)八重子:我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時、【その1~その2】◆(Ver.3)白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿、【その1~その2】◆(Ver.4):落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、おぼろ月、この簪、誰に貰ろうた!涙なんて飲み干してしまえ!まずは、八重が目撃した「白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿」「裏切り者」の言語に、ふと感じた!ここにも有った・・・「義の為なれば、裏切り者は、やむをえぬ!」初めから読む<この直前頁:No.4◆まずは、明治の世、語った話。慶応4年8月23日、会津の篭城開始日、当日の混乱の様子を語った概略。【大意で書きます。】<語りの前半>お城の前、入城者が大勢、ひしめきあっていました。それはそれは大混乱です。ところが、それにしても、ただならぬ殺気が・・・。一人の侍は、ご婦人衆の前、大声で叫んでいるのです。しかも、女子供相手に、なんと、抜刀しているではなりませぬか!「たとえ、ご婦人衆とて、卑怯な真似は一切許しませぬぞ!解り申したな!!もはや、容赦致しませぬ。ご覧あれ!!」 侍の掲げた白刀が、不気味に煌いていた。次の瞬間、八重は、息を呑む。一人のご婦人の姿に、目が釘付けになった!▼侍の前に居らしたご婦人は、なんと白無垢でありました。その白無垢には、生々しい血潮が滴ってるではありませぬか!!<語りの中間部>ここで、八重さんは、それについて、冷静な「繋ぎ」を入れて、手短に済ませ、さっさと次の文節へ早々に運び込む。▼いえねェ、これは多分家族に『卑怯者』があったからなのでございましょう。篭城して戦うのが厭だとか、・・・まあ、なんかあったのでしょう。おそらく、それを手に掛けて、そのまま、ここにお来しになられたからなのでしょう。<語りの後半部>・・・まあ、とにかく、それはそれは、大変な混乱でございました。皆が皆、必死でございます。幼子を背負った者、ご老人の手を取って支えながら、やっとここに辿り付いた者・・・それはもう、雑多な人混みでございました・・・(以下略)。『卑怯者』は、いたしかたないのです。・・・時勢柄、あの頃は・・・。上記の話が語られた頃は、新しい時代。現代から見れば、同じ明治だが、八重さんは旧人類。聞き取る側は新人類。うっかり広げかけた風呂敷は、八重さん自身で、さっさと畳んでしまいこんでしまっている。新人類から見れば、ああそうだったのかな・・・で、突っ込み入れるのを忘れている。何故、白無垢に目が止まったのですか?なぜ、その鮮血が、抜刀の武士によるものではなくて、自ら誰か親族を始末したと解ったのですか?・・・などなど、しつこい突っ込みがない。その為、残念ながら、この話は実質これだけ。最初、ぎょっとした瞬間は、誰しも同じだが、「まさか花嫁!か!」と思うから。恐らく、八重子さんも、そうだったはず。抜刀の武士の前、幸い斃れ死んでる人物も居ない。白無垢の女性の年恰好からして、これもひとつ不幸中の幸い、花嫁ではなさそうだ。白無垢に付着した血痕の様子を再度見る。・・・返り血と判断。短時間ながら、視線と意識の流れは、こんな感じと思われる。会津戦時当該は多分ないと思いますが、史実上、実際戦の真っ最中、あえて、花婿無しで、花嫁一人の早急結婚式はあります。家と家の契りの再認識。たとえ互いに滅んでも契りは永久に。この場合は主に許婚。幸い婿が生還すればいいが、そうでなければ、婿側の親族系から養子がスペアインらしいです。さもなければ種は落ちてないから、お家の血を保つ存続に、あんまり役に立たなくなってしまう。この時、家族を失った乙女達は、己も散華の覚悟で、白装束に身を包んだ者は複数存在。白無垢を真っ赤に染める鮮血は、誰かの負傷や死亡時に飛んで付着した程度ではなくて、明らかに、その女性自身が、誰かを斬り捨てた返り血。八重さんは、この時代の人だから、一目瞭然識別できたのだろう。 実際は、卑怯者の処分というよりも、言い聞かせても、どうしても駄々をこねて皆の足手まといになりかねぬ幼い我が子を泣く泣く斬った母も居る。「死ぬのは覚悟できました。だけど、僕も男児。藩主様の為に、僕も憎い敵を、せめて一人だけでも殺してから死にたい。」幼い少年がそう言った。母は宥めて自ら手にかけた。これも事実の話。いずれにせよ、母自身も死ぬ覚悟だから。史実に残る話に限らず、どこの家庭にも色々あったことだろう。 断定はできないが、ではないか?と思われる女性が、ここに一人候補としてあげられる。それは、河原善左衛門政良の妻、 河原アサ子。夫と倅が初戦早々散華。仇討ちの後、己も討ち死覚悟で白装束。されど親族を篭城組に運び込まねばならぬ。引き連れ向う。途中、老母が観念して自刃。死に切れず、本人の要望で介錯を。その後、幼い我が娘も介錯。アサ子の武術の腕は素人ではない。これは、明らかに返り血を浴びるだろう。城に到着後、早々に一騒動。男達の隊列後方に己を入れよと直訴騒動。かなりの騒動。下部の武士達だけでは収集しきれず、まずは、梶原平馬が、駆けつけ、訳を聞くなり涙。されど彼女は引かない。しまいに藩主も熙姫もやってきて収まった。・・(この話:現在頁下側に特集バナー有り:「お兄ちゃんの思い出」と書いてあるバナーです。)少々脱線しましたが・・・白無垢に返り血を浴びた女性の姿が、何十年たっても、八重さんの記憶に、焼きついて消えなかったのは事実です。義の為に家族を手掛けた姿が不憫に思えたのでしょう。私は心理学者のように、専門的な解説はできませんが、読み知る限り、こうした現象とは、無意識に自分の何かと重なる事象があるからだといいます。 白無垢が象徴する純たる思い、それが、真っ赤な鮮血に汚される宿命。されど、それは義の為に。返り血の原因を、彼女自身は、迷わず、彼女独自の観念で、「卑怯者を手掛けたからだ」と断言しきっている点が印象的だ。多分家族に『卑怯者』があったからなのでございましょう。おそらく、それを手に掛けて、そのまま、ここにお来しになられたからなのでしょう。白無垢に鮮血の乙女の姿が、記憶に焼きついた訳おぼろ月よ、この簪、誰に貰ろうた!!NEXT_▲_No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」◆No.1:(Ver.1)_棚のぼた餅誰が食った!◆No.2~No.3(Ver.2):No.2_■我が弟よ、■八重子:姉であり、妻であり、決断の時(その1) <No.3_:(その2)◆No.4~No.5(Ver.3):No.4(Ver.3)_白無垢に鮮血!哀れ乙女の姿<(現在頁)No.5_:(その2)◆No.6(Ver.4)落城の時、飲み干した「もう一滴の涙」、この簪、誰に貰ろうた!
2012.01.18
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