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見廻組隊員謀反に新撰組出動事件,大沢源次郎事件,新撰組_沖田総司と渋沢栄一事件!No.2,新撰組と見廻組の確執の訳新撰組と見廻組の確執「見廻組隊員謀反説!に新撰組が出動事件」_No.2新撰組「沖田総司」らしき!と、明治の偉人「渋沢栄一」の爆笑大バトル!_その2初めから読む:No.1「見廻組の「大沢源次郎」捕縛事件」ところが、渋沢栄一、さすが、責任感が強い。「それはならぬ、余儀なく縄打って、引き立てるは道義に反れる。現役の見廻組の者に他ならんのじゃ。我らの面目にかかわる事じゃ!武士の倣いなれば、筋を通して、通告が先決じゃ。」「されど、敵は窮地につき、いきなり、斬り付ける可能性が高すぎますよ。危ないですから、まずは我らが先に。」「くどいのう!貴様らは武士道をわきまえぬのか!!」・・・とはいえ、どう見ても、見廻組相手には無理なタイプ。新撰組は誠心誠意で引き止める。▼ここに、渋沢文章(青淵回顧録)では「たかが若い輩!」が登場。現代のニュアンスでいえば、変に若っかいヤツ!か、こまっしゃくれた小僧・・・ってところ。そもそも、渋沢はこの「若い兄ちゃん!」にカンカンに怒ってる!・・それが可笑しい!!▼これに関しては、渋沢本人が、人物名を知らない以上、史実上、沖田と断言できないのだが、ここに居るモノで、妙に若く見える者とは、沖田である確率が猛烈に高い。沖田は25~6歳だというのに、妙~っ!に若く見られたケースは、この人物、渋沢氏に限らず、あっちこっち。しかも、下っ端の若い一般隊士が渋沢相手に小生意気な事言うわけない。もしも、そんなことしたら土方が怒る。▼そして、もうひとつ特徴を渋沢は語る。つくづく悔しそうに語る。「顔に怪我の痕がある若っかいヤツめ!!」▼さて、ここで一応ながら考察。顔に怪我有りの若者幹部といえば、「沖田」か「藤堂」。沖田総司は、芹沢鴨による大阪力士大乱闘事件の時、顔に軽い怪我。藤堂平助も池田屋事件で顔に怪我。▼藤堂平助では多分ないだろうと思われる・・・が一応。この事件は、慶応2(1866)年9月。時期的に、藤堂もまだ無事、新撰組に居る頃だが・・・。但し、彼が伊東甲子太郎に追従して、御陵衛士に転身するのは、翌年慶応3(1867)年3月の事。その為、そろそろ藤堂も、従前とは色彩が異なる。土方の前で、散々お気軽にやんちゃぶりを発揮するのは、少し無理がありそうだ。【ちょっとだけ気になるのは、顔は顔でも、渋沢描写による場所は「左の鬢」→藤堂か?】キリがないので、ここから先、人物推量は、皆様のご想像&イマジネーション、お任せします!▼というわけで、一応、以下は「沖田総司」という仮説で押し通して、「流れ中心」に書きます。▼土方も少々人が悪い。内心可笑っしいくせに、放置して、暫し、その「妙に若っかいヤツ」なる人物に、喋らせて、クライマックスまで傍観している!!土方曰く。「されど、敵は、事の破れとなれば、いきなり斬りかかりますぞ。ご安心くだされ。ここには、腕に覚えのある者以外おりませぬ。ここは、なにとぞ我らに。」すると、左の小鬢に傷のある若い輩が、しゃしゃり出て、ニタリと笑い言う。「相手は、見廻組ですぞ!剣腕の達人ですぞ!」<以下暫し、渋沢対、渋沢曰くの「若い輩【≒即ち、沖田らしき】」>渋沢、顔面蒼白になるを必死で堪え、まだ頑張る。【渋沢】:「我とて、多少は剣の心得が、ござる。そなた達程じゃないにせよ!」【若っかい輩】:「はあ、尊い文筆の御用をなされるお方の御手では、万が一がござりますぞ!」【渋沢】:「!!・・・されど、いかなる事由とて、余儀なく縄目の不義は為せぬ。それが武士道じゃ!もしも、力及ばざるなれば、その時は、拙者も武士の道。面目はみごと貫いて、果てるまでのことぞ!!そなたのご好意は有り難迷惑でござる!!」▼若っかい輩の小僧君!も頑張る。▼「はあ、面目というなれば我らとて、我ら新撰組が付いていながら、尊いお方が亡くなった!・・では済みませぬ。我らとて、面目がござる。」「くどいぞ!お前らは護衛の身分でありながら、我よりも先行するは許さぬ!斬られたら、斬られたで、その時は潔く屍を曝すまでじゃ!それが、我ら誠の武士というものじゃ!面目が先決じゃ。」「はあ、潔い屍?されど、その屍が、一刀のもとに!!・・では潔い屍には見えませぬが・・・。同じく屍とて、恰好の悪い屍にならぬようにしてさしあげましょうと、我は申しております!その尊い志の御亡骸に、辱めのなきようにと、申しておるのでござる!!」▼<土方がついに助船>「者共、静まれ!渋沢殿の尊いお言葉。恥を知る誠の武士の証でござろう。この土方、心底、感服致し申した。されど、渋沢殿、下手人を取り逃がしたでは、貴殿の『あっぱれな御亡骸』に意をなさぬ事になります故、恐縮ながら、ここは我らにお任せ下され。」渋沢、恐らく、ゲロッ!仲裁者、土方まで「御亡骸」と言う!さあさ、これにて余計な時間ロス!!下手人逃げちゃうぞ!土方の説得で、やっと、渋沢も納得。必殺剣の5人が一気に踏み込んだ。渋沢の意を汲んだ以上、できるだけ斬り殺すことを避けて、縄打ちに命かける。たとえ誰かがやられるとて、いきなり斬るはならぬ!!土方の厳命。わ~っ!一気に飛び掛る。あっちゅう間に、下手人、大沢源次郎は縛についた。大人しく縄を打たれて正座。寝巻き姿で、完全に寝ぼけている。ん!?大丈夫か?一瞬、別の意味で恐怖!まさか誤報か?▼この事件は、下らん結論!!結果、大沢は、残念ながら「シロ」ではなかった。現職の見廻組でありながら、ちょろちょろ薩摩に密通していたのは事実だった。とはいえ、全然たいしたことじゃなかった。但し十津川の「藤井織之助」と共謀。謀反レベルでなく、彼は小遣いが欲しくて、汚職といえど、ちょっとだけのつもりだった。リベート貰っていたらしい。▼尚、この漫画みたいな捕り物帳について、渋沢は、土方に好感を。言葉も態度も極めてわきまえ、なかなか学のある青年だと褒める。対して、「若い小僧!」には、最初から最後までカンカン!に怒っているのが、可笑しい。こうして、緊迫はどこへやら。新撰組にとって、この捕り物帳は、シラケ小話で終わる。▼ところが、終わってなかった。それは見廻組の恨みつらみ。自隊のことに、新撰組が手を出した!恨むべき相手が違うだろう・・・と客観的には思うが、恨む対象は陸軍奉行にゆかず、なぜか怨恨は、新撰組に直撃。根深く尾を引く。見廻組は、ますます新撰組が大嫌い!に拍車。史実の難しい話や、カッコイイ大義の他、こうした下らない原因も絡む。世の中、そもそも、そーかもしれませんね。下らん事ほど、尾を引く。以上にて、今回の「今井信郎」特集オワリ!新撰組「沖田総司」らしき!と、明治の偉人「渋沢栄一」の爆笑大バトル!_【完!】▼関連:<見廻組「今井信郎」の素顔(こちらは、真面目系)TOP<幕末玄関<人物名から追跡<新撰組「沖田総司」と明治の偉人「渋沢栄一」爆笑大バトル!No.1<(現在頁)No.2
2012.08.10
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五島出身謎のミステリーBOY,五島英吉,「箱館」と「長崎の五島」,「五島軒」初代シェフ:謎の元通詞「五島英吉」歴史探訪グルメ!「箱館」時代から今日の「五島軒」_No.3初代シェフ:謎の元通詞「五島英吉」の話No.1グルメ料理系、■No.2ケーキとお菓子、■No.3:謎の男「五島英吉」(現在頁)初代シェフは、なんと!箱館戦争(1868~1869)で負けた幕軍側の通詞だった!!自称、「五島英吉」。ところが、本名は不明。箱戦争終焉時、ロシア教会に逃げ込んできた。彼らは、捉えられたら、間違いなく斬首の宿命。実は、その犠牲者の数たるや、半端でない。大勢が、官軍に捉えられて、命を落とした。そんな中、「五島英吉」は神父に巡りあって、まさに天に救われた身。彼は、神父に守られて、長らく潜伏。何年もの間。明治の世、この教会に縁のあった現在の「五島軒」の初代オーナーさんが彼をスカウト。料理の腕は、外国人さん仕込みで一流だった。そろそろ斬首はあるまい・・・とはいえど、やはり、本州では、釈放された幕軍出身者が謎の死を遂げる状態は各地。初代オーナーさんは、彼、五島氏を保護。幕軍出身者だった事を完全に隠して、シェフとして採用。箱館の地にレストランを開店。当時、このレストランは、大評判。新聞を騒がせた。五島軒のその前の姿:江戸時代五島軒のその前の姿:江戸時代当時はこの名「五島軒」でなく、レストランでなく、外国人さん相手に、パン屋さんだった。いち早くパンの技術を持っていた。技術は奥さんが、この店に持ち込んだ。奥さんの出自は、長崎か、韮山の江川の手元でパン製造に拘わる者か、横浜近郊で技術を持つ者か?、定かでないが、技術が有った。オーナーさんが、ひっぱってきて嫁にした!他の商売を手掛ける手腕の持ち主だったが、直近時代、この特殊技能=「パン屋さん」として名高い。明治の五島英吉:その後五島英吉は、長崎の五島出身。晩年、横浜で暮らしたようだが、ついに、本名と出自は、現在の五島軒にも、その秘密は残されてない。後に東京の一流ホテルに勤め、ホテルのノウハウを箱館の恩人、「五島軒」のオーナーにも伝授&貢献。晩年、横浜で暮らした様子ながら、死亡に関しては、横浜らしき。ついに、出身の五島には帰れなかったようだ。ところが、この人物の本名は、一応「宗近治」と言うことだけは残った。五島出身の「宗」さんとは、実のところ、江戸時代全体なれば、複数あって手繰れない。多くは、清国からやってきた人に縁がある。しかもこの苗字、清国では、珍しくないから、尚鍵は拾えない。もうひとつの説がある。榎本武揚軍に居たのではなくて、箱館奉行の配下の通詞だったという説。その説では、彼は通詞でなく、通司。清国の言葉が達者。■五島といえば、こんな記事もあります。季節柄、商品画像は売切エラー出るかも!・・・生涯、五島に帰れず天昇した「五島英吉」を偲んで、話題は別ですが、五島の話。五島英吉の考察(関連:上枠のA~E)注:上枠と異なり、以下は多少調べた結果の考察明治の五島英吉:その後(DとEの記号は上枠に付随します。・・自力で生きてる間に一人で解決できそうもありませんので、ご参考に皆様のご研究期待します!五島出身の「宗」さんについて:多くは、唐【清国】出身の人に縁がある。船乗りさんや商人などの唐【清国】の人が、そのまま定住していた例は江戸時代稀ではない様子。船で遭難して帰国を諦めた人も、ビジネスに意欲を持った人も、例は複数あるようです。私的に気になる話が記憶の欠片:判然としませんから、あくまでもご参考。【記憶話】唐(清国)出身で、五島からやっ来た英語の達者な者が長崎で通辞でなくて、通詞として活躍してた。幕府か、韮山の江川がヘッドハンティング。しかし、出自に問題があるため、歴代長崎で有力な通辞の「宗」さん(=東海さん)の養子にして体裁を整えてから横浜に勤務させた青年が居た。これが、彼か否か不明。掘ってみましたが、挫折。この彼とは唐(清国)の人。この場合だと、この人物の本名は、養子として「宗」と名乗るが、本来母国で名乗っていた本当の苗字は別となる。「榎本武揚軍ではなくて、箱館奉行の配下の通詞説」についてこの説では、その人物は、清国の言葉が達者。ところが、五島英吉は明らかに英語を話す。母国が唐(清国)なれば、当然唐語を話すから、この説も一理有。蝦夷ラスト奉行、杉浦誠は恭順派。無血で五稜郭を新政府に引き渡した。(維新前の蝦夷パニックが解る頁)しかし、これを不服として、辞職表を叩く者、一度上司に従ったものの、新政府の方針にキレて反乱を起こした者など、実際は裏幕で騒然としていた。黙って行方不明になった者が、どのような経路を描いたかいつの間にか、榎本軍に合流した者もいる。その場合、江戸幕府、箱館奉行所時代の者で、心は左幕派の者。また、運上所などで勤務していた地元下級役人は、そのまま新政府(※)に抱えられている。ところが、その後、榎本軍が到来した途端、さっそく榎本加担が明確な者発生。 戦後、地元で裁きを受けて、斬首になった者も多い。その為逃走するは自然。※ここで言う新政府とは:開拓使はなく、榎本軍到来前に存在した極めて短期の「清水公考」達による箱館府のこと。榎本武揚軍の通辞&通詞達アラカルトから、「五島英吉」のルート考察榎本の側近型:これは知名度の高い人物が多く、明治に出仕してる率も高く、確率的に低い。10人のフランス人に付随型通詞。この内、ニコールとコラッシュは当初、ロシアの神父に世話になっている。中島三郎助チーム付随型の洋語可能者:中島チームはほとんど全滅終焉。関与した者が逃亡する率は否定できない。彼らは浦賀。洋語可能者も、通詞にも縁がある。伊庭八郎と本山小太郎らと一緒に後からやってきた者伊庭は、座礁した美賀保丸に乗船しており、逃亡の後、横浜の尺振八(英語塾営)の元に潜伏、身柄を暫し保護してもらっている。蝦夷にこの時やってきたのは、伊庭と本山ばかり有名だが、他にも誰か居たは事実。名不詳。尚、美賀保丸に乗船していたメンバーの内訳には、長崎出身が原因で、土地柄、自然榎本軍に加担した左幕派の通詞が乗船していたのが判明している。他、一般戦士の中にも、英語可能者は居るが、通詞として名乗るは、戦闘部隊内の一般兵とは考え難い。尚、現代の世、ついに「五島英吉」とは謎に包まれた男ながら、初代、「五島軒」社長は、知っていたのではなかろうか。幕軍加担者の裁きは熾烈を極めた為。記録も残さなければ、子孫にさえ、彼にかかる本当の出自を語らなかった。一応、本名は「宗近治」の記録はあるようだが、上記推移が仮に実だとして、清国人だった場合、真実の本名(旧名)は全くにして謎だ。彼を守る為、かつ、彼を守る為に黙した要人に憚る為に・・・。そんな気がします。上記の1~5番について、追記:五島英吉2箱館奉行とコーヒー現代と異なり、昔は、「ビタミン」の存在が発見されていなかった為、日本国内全体に脚気が多かった。(関連:ビタミンの発見の話:果物価値と人の体健康)特に、蝦夷の場合、まるごと半年が雪で閉ざされ農業は不可。いわゆる脚気症状に留まらず、冬場の野菜不足が原因で、当時としては「得体の知れない蝦夷病」状態の発疹奇病患者が多かった。発疹ならいいが、悪化して命を落とす率も高かった。箱館奉行は頭を痛めていた。原因がまさか野菜とは、全然発想的に結びつかないから。そんな矢先、箱館奉行は、山盛コーヒーを外国人から買い込んだ。薬と思い込んだのか、思い込まされたのか。「皮膚の病気はコーヒー飲んだら治ります!」どなたか存じませんが、達者なお方がいらっしゃったようです。良薬口に苦しの法則。確かにコーヒーは苦い。「この味ならなるほど効く!かも・・・。」確かに血行促進など、多少関係する成分もあるけど・・・ほとんどハメられています!五島軒のグルメ&スイーツTOP
2011.09.23
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幕末有名人に絡む女性と結末,お龍:坂本龍馬,幾松:木戸孝允,おウノ:高杉晋作,陸奥亮子:陸奥宗光,楽天市場,幕末の本幕末有名人に絡む女性と、その結末_【1】◆お龍(坂本龍馬)、◆幾松(木戸孝允)、◆おウノ(高杉晋作)、◆陸奥亮子(陸奥宗光)右下:陸奥亮子亭主「陸奥宗光」が死亡の後、即!剃髪。美人妻の潔癖、皆に惜しまれた。 .<現在頁は、女性絡みの話題につき、今回は軽々しいノリ書いてます。ご了承下さいませ!・・・真面目話は:幕末玄関<人物名から追跡>◆右上:陸奥亮子(陸奥宗光(陽之助)の妻)出会いは花街。家は旗本ながら、幕末武士家系の実態。彼女は花街で働く。妻を亡くした陸奥に惚れられ、後妻として結婚。陸奥は愛妻家ともいえるが、ヤキモチ焼き。鹿鳴館時代、彼女と大山捨松(現頁下側バナー有)は、外国人の皆さんに有名。社交界の華。その陸奥が、明治11年から4年間、入牢だから、たまらん。この間、ヤキモチ焼きの夫の手紙は大層煩い。この期間に限らず、海外出張中なども手紙の数たるや、半端でない。大赦の後、亭主は活躍するが、死亡は、 明治30年(1897)8月24日)。夫の死後、亮子は、即!剃髪。美人妻の潔癖、皆に惜しまれた。▼みんなそうだといいが、実は色々。それが人間模様。▼◆龍馬のお龍さん:オー!スキャンダルその結末は有名。ひとたび、土佐に呼ばれ、龍馬のウルトラ姉さん「乙女」に世話になる。まだ若い彼女の現実は・・・。いわば他人の家、私はこのまま埋もれるのか?居心地イイわけない。史実か噂か存じませんが、龍馬の位牌にチン!しにやってきた彼の旧友とスキャンダル。乙女姉ちゃん、激怒&追放。お龍さんにとっては、私は単なる「死んだ亭主の養子貰い受けの形式的お道具だったの?!」(独身だったら、養子&龍馬家の継承できないから・・・。)「用は済んだでしょ!」立ち去り、江戸へ。末期は悲壮。彼女の全てを知った上で、別の亭主登場。しかし、彼女は酒に溺れ荒れまくる。死際には、「私は龍馬の女房だ!龍馬の妻として葬ってくれ!」・・・仏のような亭主だこと。遺言どおり、墓は「龍馬の妻」として葬った!◆高杉晋作の「おうの」さんお龍さんの評判が大層悪い。そこで、この人物が、とばっちり。被害者は、高杉晋作の愛人「おうの」さん。龍馬亡き後のお龍さんみたいになったら大変だ!飛んできたのは、木戸孝允達。仲間の恋人がスキャンダルでは困る。「剃髪せよ!尼になれ!早く!」24歳、まだ若い「おうの」さんは、速攻で「尼」に。そして生涯墓守。自分の意思だけで、そうするのと異なり、これは、お気の毒。◆桂小五郎(木戸孝允)の「幾松(松子夫人)」京の綺麗どころ、芸子幾松。彼女は志士、桂小五郎を匿う。潜伏の身で、橋の下乞食に化けてる最中も、お握りを運ぶ。近藤勇が乗り込んできた時は、長持の中に、桂小五郎をつっこんで蓋閉めて。すまして、チントンシャンと三味線弾いて唄歌う。とことん惚けて「どないしはりましてん?」近藤は、そもそも女性に甘い。「失礼致した。」ひっこんでいった・・とか。こーゆー話は、娯楽版にて色々尾ひれ付ながら。明治の世、木戸孝允は、彼女を正妻に。松子と名乗る。明治10年(1877)5月6日、木戸孝允死亡。速攻で剃髪。翠香院尼と名乗り、念仏の日々。美人短命。明治19年(1886)4月10日死亡。享年44歳。◆左:唐人「お吉」&下田のハリスと彼女の実態は?_ _TOP<幕末玄関<人物名から追跡<現在頁は「幕末有名人に絡む女性」<そのうち後日、別人編追加になります!ここにも居るぞ!伊庭が泣かした女性▼
2012.08.16
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プロメテウスと阿修羅,三面六臂の阿修羅の魅惑No.5,仏師将軍万福の秘めたる思い,権力と正義,修羅界に追放された阿修羅の存在,興福寺にある「阿修羅像」の体系が物語るもの,社会背景:疫病と天災,私にとっての「命のことと、阿修羅と涅槃」_No.5三面六臂の阿修羅オムニバス_付録編◆(権力と正義)修羅界に追放された阿修羅の存在,◆興福寺にある「阿修羅像」の体系が少年のようであり、顔が女性的の訳,◆社会背景:疫病と天災,◆プロメテウスと阿修羅,◆仏師将軍万福の秘めたる思いとは,仏師将軍万福のウラの思いを考察!初めから読むNo.1<前頁から読むNo.4仏師のウラの思いを考察!上記のとおり、造像者、仏師将軍万福は、権力者のニーズに応えただけ。仕事だから。昔の芸術家は、みんな、或る意味で、みんな精神的奴隷。大抵の場合、彼らは、節欲と称して質素を装うも、傍から見れば、あたかも波に乗って、実のところ、実態は栄華を極め、宜しいでんな!状態に見えるが、芸術魂は、必ずといってもいいほど、噛み殺して、権力者のニーズに、精神的奴隷。仏師に限らず、古今東西、音楽家も画家も、みんな、ふと、ある日、飼い犬状態の己に怒りを覚える。仏師将軍万福は、言われたとおりに、沢山の仏像を造った。しかも、他の仏像に関しても、クリエイトの基本は、光明皇后の宗教観念。あれと、これと、それを造れと具体的に指示されている。だがしかし、この阿修羅に、こんなに魅力が漂うのはなぜだろう。これは、私の勝手な想像ながら、彼の小さな反逆心が感じられてならない。それは、反逆という名の反逆じゃなくて、ウラの思いを密かに込めた程度ながら・・それが、この素晴らしい表情に対して、なんともお粗末な腕構造のアンバランス、そのギャップの不自然さに、ふと、何か臭う、感付いてしまう。6本の腕が、あまねく四方八方に届くその要素と、巧妙な顔の表情。これは、まさに、彼が魂を注ぎ込んで、いかに熱心にそこに執着したかが、伝わってくる。彼は、訴えている。▼阿修羅がついてるよ。彼はみんなを見ているよ。見落とすまいとして、3つのお顔が、東西南北、全部睨みすえてるよ。阿修羅さんはね、見てるだけじゃないよ。一緒に戦ってくれているよ・・・。▼方向性は、明らかに、最下層。アンダーザグラウンドの民へ発信。▼芸術家としては、己に妥協するような作品は作りたくない。だが、恐縮ながら、どう見ても、腕がお粗末すぎる。それは、他要素にたとえ妥協しようと、なにがなんでも顔の表情と、2本ならずや、たくさんの腕が、四方八方、普く届く!・・その旨を強調したかったから故の「犠牲」ではなかろうか。阿修羅の腕に、犠牲が見える!初めの頁にも書きましたが、興福寺の阿修羅像は、三面六臂はいいとして、腕が、なんちゅうお粗末!ひょろひょろ細すぎて、棒状態。対して、顔の表情に掛かるこだわりぶりは、半端ではない。全体的に扁平で、肉付きの悪い体は、少年の示唆。光明皇后の亡くした皇子を象徴するから、少年体系。だから、必然的に、手足も細い。・・まあ、理論としては、きっとそうだろうなとは思う。▼だが、どうみても、それだけとは思えない!いかに、少年といえど、この腕はお粗末すぎる。芸術家である以上、本来なれば、もっともっとこだわって、補正したいはず。あんまり、肉付けしたら、ただでさえ、バランスの悪いこの三面六臂の像は、でんぐり返ってしまうから、薮蛇なのも解るが・・・。▼しかし、私が、もしも、仏師将軍万福なれば、この腕の出来栄えだけは、内心心残りだ。溢れんばかりに膨大な時間が、もしも許されるならば、まだまだ腕の製作に時間をかけたい。ところが、時勢が緊迫している。時間が足りない実態。あれもこれも、一杯作らねばならない。その傍ら、世は、最悪。都は民の屍で溢れる地獄絵。仏師は密かに、心のスポットを民に注いでいたのかもしれない。犬猫可愛服&グッズ、人の暮らし&グルメ記事一杯選び放題!▼サイトTOP<_No.1<・・<No.4<No.5(現在の頁)<No.6◆犬猫動物サイトTOP(介護談有)、◆人のKIDSと犬猫の可愛いお揃い風◆幕末玄関:幕末&歴史チョイ好き人間、◆酒とウダウダ、◆巨匠達悲劇と懊悩、◆開拓時代と明治◆【コラムと本】:命のハナシ、心系のハナシ、健康のこと、動物の本,◆脳のイタズラ「夢」について◆【グルメ】(美味しいグルメ、栄養、ダイエットMEMU、歴史の偉人と食べ物絡み話、将軍と食小玄関他、各種)
2013.01.28
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維新時大報復,会津藩と新発田藩その昔悲話,命を捨て藩を救った男井上久助,報恩と忠義,自ら名乗り出た犠牲死,蝋燭と塩の大喧嘩と維新時の大報復No.2,歴史悲話_蝋燭と塩の大喧嘩_No.2過去の怨念、維新時の大逆転&報復_(会津藩と新発田藩のその昔)和の手作り絵蝋燭_No.3_【巻末ちょい歴史】_歴史の悲話【No.1&No.2】=◆素晴らしい伝統工芸「絵蝋燭」、◆会津の絵蝋燭と戊辰コラム_維新(1868)時の「新発田藩」の動きは、二百余年前(1660年=塩止事件)の怨念と無関係とは言い切れない節有り国境の土枕と首級初めから読む=No.1だがしかし、・・・。待てど、暮らせど、新発田藩からの使いは、やってこなかった。嘆願に現れぬということは、あの藩は、即ち、この男を見殺しにする魂胆なのだろうか!!なんちゅうことじゃ!!ますます、会津は焦った。されど、漕ぎ出した以上、引く手段など、どこにもない。やがて、曝し首となった哀れな井上の首級が、土枕に乗せられ、曝されていた。それは、よりにもよって、会津と新発田の藩境付近である。その首級には、罪状の札をつけられ、乱れ髪が、野の風に、むなしく靡いていた。会津も窮地だったのだろう。たった一人の男に勝てなかったのだ。一人の男を見殺しにするのか?藩主は己の命可愛さに、これほどの男を見捨てる気か!!藩主の潔い決断を促すべく、延々行った糾問もむなしく、斬首しか、手段がなくなったのである。「あんたが見殺しにした男の首級は、ここに在り」とばかり、曝し台は、国境付近であった。悲しすぎる歴史の一幕である。震え泣いて、怒りが煮え滾ったのは、藩主だけではなかった。商人の「中村墨五郎」も震え泣いた。己を救わんとして、「この男は、己に脅され、騙された愚かな一商人にすぎない。」、井上は、そう言い切っていた。そして、その目は言っていた。「ならぬ!たとえ、何があっても喋ってはならぬ!生きよ!生きてこの事を後に残せ!」「中村墨五郎」も、よく耐えきったものだ。生き地獄とは、まさにこのこと。だが、彼もまた、耐え抜いた。会津藩は、武士の情けにて、商人側の処刑を許してあげた・・・という形態なのだが、近郊の民の心には、そうは映らなかった。ここに、侍と民の絆が異例ながら生じる。本来なれば、いかなる事情とて、侍と民は、つきつめると、利害でしかない。ところが、こうなると事情は異なる。命の報恩。藩の存続を守る為に命を捨てた「井上久助」の死を悼み、その功績を永久に忘れぬは、同藩の藩士のみならず、民もまた、歴代、井上の勇気を永久に忘れなかった。中村墨五郎は心に誓った。 「尊い井上様よ、いつの日か、必ず、報恩させて頂きましょう。たとえ、我ら民とて、私も男でござります。どうぞ、安らかに・・・。」【MEMO】我が命に替えて、主君_新発田藩藩主【溝口宣直】を救った男「井上久助」と「塩止事件」◆井上久助( 慶長11年(1606) - 万治3年10/10(1660):享年54歳◆「塩止事件」:万治3年10/10(1660)勃発・・大藩&親藩「会津藩」、対、小藩外様「新発田藩」の流通トラブル事件。・・結果、大藩兼親藩の会津藩が、新発田藩藩士「井上久助」を斬首処刑した事件。会津藩=大藩&親藩◆当時23万石&東北全域監視鎮撫役:当時藩主「保科正之(徳川家光の異母弟)」新発田藩=小藩外様◆当時5万石:当時藩主「溝口宣直」会津は蝋燭を、新発田藩は塩を互いに交易。歩合があわず、新発田藩側が塩移出を完全拒否。▼会津が幕府に訴え、結果「謀反」と処断が下され、新発田藩取り潰しの危機。表向き、摩擦を避け、責任は藩ではなく、御用商人の判断ということになっているが、御用商人とは、そもそも、御用を扱う以上、独断私情ではない。▼一藩士「井上久助」が己の独断と名乗り切り、斬首されて事終了。井上久助の報恩のあらまし井上久助( 1606~1660)の父は、井上八左衛門正実。八左衛門正実は、若狭国高浜城時代の「溝口秀勝」以来、溝口家の家来。時は戦国。主人の「溝口秀勝」本人も、さらなる主人が度々変わる。幾度も存亡の危機の綱渡りを渡りきって今日に。それを、とことん補佐してきた男が、この左衛門正実だったが、久助が5歳の時、死亡。家督手続きがなされていなかった為、本来なれば、井上家はアウト。ところが、藩主(この時の藩主は二代目の溝口宣勝自ら動いて、井上家を守った。幼い久助に家を継がせて、)陪臣(井上家の家来)全員を保護して召し抱えたのだった。故に、井上久助の報恩が生じた。先代藩主に賜った御恩を、ご子息の「三代目溝口宣直」に返礼した形。溝口秀勝(新発田藩初代藩主:1548~1610)について上記のとおり、彼本人が、綱渡り。主の経緯は、こちら。まさに紙一重のところで、どうにか渡りきった。◆ 丹羽長秀◆→織田信長◆→丹羽長秀 ◆→丹羽長重◆→豊臣秀吉◆→徳川家康 特に、最期の徳川靡くタイミングが最大のキー。上杉を叩く功績がなければ、多分消えていた!!戦国の世、このお家は三河。仕えた家は丹羽。ところが、織田信長の御目にとまり、直属の臣に昇格。だが、本能寺の変にて、織田亡き後、秀吉の判断で、元の丹羽家の下に戻されるが、素直に従う。当時、お家の舞台は越後。やれやれという間もなく、今度は上記のとおり、関ヶ原。長いものに巻かれる絶妙タイミングと、判断をしくじらなかった。<前頁:謡曲「般若」ご参照>夕べ夕べの仮り枕。宿は、あまたに変はれども、同じ憂き寝のみのをはり(※)三河の国に着きにけり。秀勝の死後、二代目は、倅の溝口宣勝(1582~1628)。塩止事件当時の藩主「宣直(1605~1676)」は、この宣勝の長男であり、三代目藩主。NEXT頁は▼◆井上家、旅の終わりに・・謡曲般若◆維新(1868)時の「新発田藩」の動き◆夢という名の酒ここが一番たくさん記事を選べます可愛犬猫洋服、用品、介護、人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<No.1(現在頁)<No.2<★NEXT_No.3◆人物名から追跡、◆幕末玄関(その1)<幕末玄関(その2)・・・
2013.12.14
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歴史の悲話,蝋燭と塩の大喧嘩と維新時の大報復No.1,会津藩と新発田藩のその昔,藩を救った男「井上久助」の報恩と忠義,自ら名乗り出た犠牲死,歴史悲話_蝋燭と塩の大喧嘩_No.1過去の怨念、維新時の大逆転&報復_(会津藩と新発田藩のその昔)和の手作り絵蝋燭_No.3_【巻末ちょい歴史】_歴史の悲話【No.1&No.2】=◆素晴らしい伝統工芸「絵蝋燭」、◆会津の絵蝋燭と戊辰コラム_維新(1868)時の「新発田藩」の動きは、二百余年前(1660年=塩止事件)の怨念と無関係とは言い切れない節有り「塩止事件」=蝋燭と、塩の大喧嘩その昔、奥州では、蝋燭と塩が喧嘩した。結果、蝋燭の一人勝ち。結果、塩は悪者として、処刑された。それは、遠い、遠い昔の事ながら、人の心には、歴代、それが残った。時は、万治3年(1660)。これは、会津藩対、新発田藩の交易トラブル。時の将軍は、4代「徳川家綱(1641~1680)」。とはいえ、家綱は、この時、まだ19歳。将軍補佐の大役を司るは、会津藩主保科正之。保科正之は、徳川3代将軍「徳川 家光(1604~1651)」の異母兄弟。家光の信任厚く、家綱の補佐は、家光の遺言でもあった。1660年:塩止事件ここに、イヤな話だが、結果は、力関係。大藩親藩と、小藩外様の喧嘩。話にならない。大人と子供の喧嘩同様だった。会津は大藩&親藩。23万石。藩主「保科正之」新発田藩は小藩&外様。5万石。藩主「溝口宣直」会津藩は蝋燭を、対して、新発田藩は塩を渡す・・・はずの交易が、突如途絶えた。原因は、いうなれば、新発田藩のストライキ。歩合があわなかったのだ。新発田藩は塩譲渡しを完全に拒否した。会津は、塩に枯渇して死活状態に至る。しかし、つっついても叩いても、一握りの塩すら手に入らない。こうなると、会津は怒った。会津を怒らせたのは、大間違い。新発田藩は思い知らされたが、遅かった。当時の会津藩主は「保科正之」。上記のとおり、保科正之は、前代将軍「徳川 家光」の異母兄弟。時の将軍4代家綱の補佐役。その為、保科は単に、23万石の大藩ならず、親藩であり、奥州全域の監視鎮撫権を保持している。怒った会津は、幕府に正式に訴え出た上で、間罪使を派遣。単なる藩同士の喧嘩では大義にならぬ故、藩主の手元には、恐ろしい勧告書が届いた。▼「塩の刺し止めは、領民の命を奪うにも匹敵。即ち、幕府に対する敵対行為である!!」▼顔面蒼白は、新発田藩藩主「溝口宣直」。こうなると、小藩外様僅か5万石は、いとたやすく取り潰されてしまう。しかも、この勧告の恐ろしさを人一倍知っているのが、藩主「溝口」家、張本人。謀反!の衣を着せられた以上、周囲全ての藩に号令がかかる。袋叩きの宿命。天下の分け目、関ヶ原(1600)の時、寸時のところで機転、徳川に靡いて、「謀反者」となされた上杉を叩いて、その功績を徳川に認められ、所領安堵を許された張本人が「溝口家」である。あの時、判断を間違えていれば、今頃、このお家はどこにもない!!窮地の藩主「溝口宣直」!!忠義と報恩_新発田藩士「井上久助」この時、藩の存続を守り、藩主「溝口宣直」の命を救ったのは、一藩士「井上久助(1606~1660)」だった。彼は自ら、藩主に名乗り出て、こう言った。「私が、罪を一身に背負います故、藩主様は、一切、ご存知なかったと徹して下さいませ。これは、報恩でござります。我が父が急死した時、藩主様の御心にて、我が御家の存続を許された・・あの御恩は、永久に忘れませぬ。今こそ、報恩の時。私に全てお任せ下さりませ。」彼は、会津の尋問に向かい、二度と帰らぬ人となった。井上は、腹をくくり、覚悟出頭だった為、きつい糾問にも、断固口を割らない。「己は欲に目がくらみ、藩主に隠れて、一人私利を貪らんとして、商人をけしかけ、独断で行った。」・・・そう、言い切るのである。・・・そんなわけはないのは明確なのだが、本人が、幾度も、そう言い切る以上、糾問係は困った。・・・<この男め!子供騙しの返答を慎まぬか!天下の会津に向かって、なんとあさましい!!>・・・糾問係は苛々。しかし、井上は、いかなる糾問にも耐え、白々しくも、己一人だと言い切る。こうなると、窮地に立つは、悲劇の主人公「井上」ならず、糾問係側である。心は、苦しい。敵ながらあっぱれ!・・状態である。独断なわけはない。解りきっている。だが、感傷に溺れる暇はない!このままでは己の立場が無い!!・・・鬼になる!しかも、この男は、とことん皆を庇う。出頭してきたのは、彼一人ではない。担当商人として、斬首覚悟で同行してきた「中村墨五郎」も一緒である。ところが、「井上」は、またしても言う。「己は欲に目がくらみ、この男を騙して、けしかけ、己が利益を独占するつもりであった。この男は愚か者故、俺に騙された・・・。」「井上」は、藩主のみならず、商人の「中村墨五郎」をも、とことん庇う。糾問係は危機である。周囲の小藩、全てが冷ややかに、事のなりゆきを見守る中、これでは、会津の名誉が崩れさる。誰の目にも、井上久助とは、あっぱれな男。武士の鑑。こうなると、手段が切り替えられた。拷問にも耐えた男_新発田藩士「井上久助」糾問どころか、酷い拷問が伴った。火渡りの刑である。正しくは「抱烙の刑」と言う。 彼は、火で熱せられ、真っ赤に燃え上がる銅版の上を渡らされた。・・・<早く、口を割れ!貴様一人が被る必要はなかろう!吐いて楽になれ!>ところが、この男の決心は固い。灼熱地獄を渡る時、朗々と謡曲を謳うのである。それは、謡曲「杜若」。夕べ夕べの仮り枕。夕べ夕べの仮り枕。宿は、あまたに変はれども、同じ憂き寝のみのをはり(※)三河の国に着きにけり。三河の国に着きけり。※:みのをはり=身の終わり、&美濃の国渡り終えたと同時に、倒れた為、絶命かと、誰しも一瞬思ったが、彼本人にとっても、不幸にして、ここで死に切れなかった。身の終わりのつもりが、生き地獄は、まだ続いたのである。先祖の国、三河は、まだ、彼の手に届いてなかった。国境の土枕と首級ここが一番たくさん記事を選べます可愛犬猫洋服、用品、介護、人の暮らし&グルメ▼サイトTOPは犬猫サイト<No.1(現在頁)<★NEXT_No.2◆人物名から追跡、◆幕末玄関(その1)<幕末玄関(その2)・・・
2013.12.14
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