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南海泡沫事件顛末記(42) 終章 現在の危機 メールでご質問もいただきますので、そのお答えを兼ねて書かせていただきます。今回の事態が、ここに至るまで放置されたのはなぜか。91年のソ連邦の崩壊に尽きます。ソ連でなくても良いのですが、アメリカ型資本主義(それは弱者を切り捨てる勝者の資本主義であり、亡くなった梶山季之流に言えば、「狼生きろ豚は死ね」の世界です)が、何のセーフティネットも着けずに、ここまで羽根を伸ばして、やりたい放題が出来たのは、対抗軸が消滅して、好き放題、勝手放題が出来たからに外なりません。ライヴァルがあれば、ここまで野放図にやりたいことができたはずはないのです。同じことは、9/11の後のアフガニスタンやイラクへの攻撃についても言えます。まるで無法者の言いがかりのような理由付けで、主権国家を傍若無人に攻撃するなどと言うのは、まさしく世界の独裁者の驕りに外なりませんでした。その意味で、21世紀の最初の10年に起こっている、今まさに現在進行形の事態は、ソ連が健在であれば、もっと強力な自制心が働き、無茶な攻撃は控えられ、同時に金融危機は、ここまで深刻化する以前に、対応策が採られていたに違いないのです。人間関係でもそうですが、何事においてもライヴァルの存在ほど、貴重なことはありません。そして俗に言う「天狗になる」事ほど、愚かなことはないのです。アメリカと言う国家に救った慢心という驕りこそが、今回の危機を招いた最大の原因であると、私は考えています。さて、バブルがはじけて信用収縮が始まりました。それはかなりのスピードだったのですが、9月のリーマン・ブラザーズの破綻からは、見事に目詰まりを起こし、金融と言う血液の流れはあっと言う間に止まってしまったのです。それがAIGの破綻と救済、メリルリンチの身売り、そしてモルガン・スタンレーとゴールドマン・サックスの行き詰まりに繋がり、さらにシティへの大慌ての公的資金注入に繋がったのです。各国の中央銀行が、それこそ湯水のように市場にドル資金を提供したことで、世界経済が同時に頓死することは、辛うじて防止できました。でも、考えてみてください。日銀は日本市場に円ではなくドルで資金を提供したのです。連日数兆円(週百億ドル)規模で…。米銀のアジア支店は、日銀がドル資金を提供しなければ、次々と資金繰り難で破綻していたのです。拓銀や山一のように…。 そうなれば本店だけが生き残れるはずはありません。日銀とECBの必死の協力のおかげで、米銀と英銀は救われたのです。これは恐ろしいことでした。ですから、各国の銀行は、資金繰り破綻を極力怖れて、手元に資金を積んでおくことを選びました。いざと言う時、誰も資金を用立ててくれない。現金がなければ頓死するしかない。97年11月~翌年にかけて、日本の銀行が味わった恐怖を米・英と世界の銀行が味わったのです。こうなると、銀行と言わず金融機関は、現金化できる資産は全て現金にします。背に腹は変えられませんから、貸し剥がしにも走ります。融資の返済を求め、借り換えは拒否して、ひたすら自らの生き残りを策したのです。9月下旬以降、急に実体経済に翳りが出たのは、実はこのためなのです。中央銀行の資金提供が、人工血液の役割を果たして、辛うじて経済を回しているのです。金融機関の貸し剥がしに合う企業にとっても、手元に現金は切らせません。資金繰り破産は金融業以外でも同じなのです。手形決済は拒否され、現金決済以外では、仕事を請けて貰えず、また商品を引き渡してもらえません。売れなくなることを怖れて在庫の圧縮も図ります。これがあれよあれよという急激な需要の減少の正体でした。手持ち現金が持つかどうかが、生き残りの最重要課題となったのです。日本の金融機関は,今秋額に差はあっても、夫々自力での増資に成功しました。東京三菱の7千億円台(9千億円と言ってましたが、そこまでは無理でしたね)が最高でしたが、みずほも三井住友も優先株で2~3千億円程度集めています。自力増資が出来ない欧米の銀行に比べ、健全性が高いことが分かります。米国のビッグスリーの中で、何故フォードだけが、年内は政府融資を受けなくても良いといえたのか。実はフォードは一番先に資金繰りが苦しくなり、今春数千億ドル規模の増資を実行しているのです。その増資資金が手元にあり、3月までは大丈夫という言い方になったのです。ただ、それは、経営の合理化と新車の開発費を無駄食いすることなのですから、後には苦しくなること請け合いなのですが…こうして今や、企業同士の売買も、現金売買が主流となってきています。そのため、どの企業も在庫を嫌い、必要最小限の仕入れしかしないようになっているのです。当然、製造現場は在庫減らしに狂奔し、あれよあれよという間に、工場閉鎖、高炉の休止、生産ラインの停止と、大不況の様相を呈しているのです。 続く
2008.12.31
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クロニクル エリツィン大統領辞任1999(平成11)年12月31日9年前のこの日、ロシアのエリツィン大統領は、病気を理由に辞任、プーチン首相が大統領代行に就任しました。プーチン代行は翌年3月の大統領選挙で圧勝。ロシア共和国で2人目の大統領に就任し、権力の基礎固めに乗り出し、やがてエリツィンを凌ぐ強大な権力を独り占めするに至るのです。
2008.12.31
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南海泡沫事件顛末記(41) 終章 現在の危機 もし米欧の商業銀行が貸し出し債権を投資銀行(証券会社)に売却するだけに留めていたなら、証券化商品の暴落で傷つき倒れるのは投資銀行に留まり、ここまで大きな危機になることはなかったでしょう。しかし、米欧の規制緩和は、証券と銀行の垣根を取り払っていました。しかも、監督当局は従来のまま、銀行はFRBと各州の中央銀行に、証券はSECにと、分離したままだったのです。この結果、監督当局の規制の緩やかなまま、当局が性善説を信じ、各社のリスク管理体制を無条件で信認してくれていることを良いことに、商業銀行もまた証券化商品などのデリバティヴ商品を大量に手がけ、保持していたのです。18世紀のバブルと同じように、メッキが剥げたのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」は、日本の警句ですが、まさにCDOやADS,MBSなどの金融商品が、トリプルA格の実態などありえない、価値の低い債権の集合体であることが、明るみに出てしまったのです。格付け会社の良い加減な格付けがバレテしまい、誰も(いや日本の金融機関は別でした。バカとしかいいようがないのですが、いまだに投資の基準は格付けに置いているようです)格付けなど信じなくなったのです。ですから証券化商品を売りたい人はいっぱいいるのですが、買い手がいなくなってしまったのです。価格は真空地帯を下がり続け、帳簿上の損失だけは拡大を続けた。だから、気付いてみたら破産状態に陥っていた。これが今年の春から秋にかけて、進行した事態でした。損失を出来るだけ小さくするには、損失に合わせて利益の出ている商品を合わせて手仕舞うことで帳尻を合わせるのが、一般的なやり方です。同時に損失分については、目いっぱい膨らませていたレバレッジを縮小するしかありません。証券化商品との関わりが米欧に比べれば、遥かに小さかった日本や中国・インド・韓国などのアジア市場やブラジル・メキシコ・ロシアなどの新興国市場からの資金の流出が非常に大きく、こうした市場での金融収縮が目立ったのはこのためでした。金融自由化により、ヘッジファンドなどを通じて、資金は世界を駆け回る。この動きがいかに大きなものであったかが、今回の危機で、誰の目にもはっきりと留まったのです。膨らんだものは、元の大きさまで縮みます。そして、再び大きなバブルになることは、短くても数十年はありえない。これが歴史の教えです。日本の土地バブルを考えて見ましょう。1990年代の初めから大きく縮み、03年に底打ちしました。そして米欧の投資ファンドの都心部の土地買い漁りで、ミニバブル状態が起きましたが、僅かな期間でアワと消え、一部の期待した土地投機は起こりませんでした。そして、日本の90年代に比べれば、早め早めに手を打っていると、非本をはじめ世界のマスコミや経済評論家達に激賞された、FRBや財務省の打った手も、決してほめられるものではありませんでした。危機は証券化商品の買い手がいなくなり、損失がいくらになるか分からないところにありました。ですから、金利を猛スピードで引き下げ、市場に資金を大量に提供しても、問題の解決には繋がらなかったのです。続いてポールソンは、ようやく議会が承認してくれた金融安定化法の解釈を拡大して、CDO等の証券化商品を買い取るための資金を、銀行等への資本投入に摩り替えてしまったのです。銀行の貸し出し姿勢が慎重になり、企業の資金繰りが困難になっていることに、対応するためでした。この措置は、銀行の倒産を防ぐことにはなりますが、貸し出しの増加には繋がりません。むしろ逆なのです。銀行は危ない会社への貸し出しは不良債権化する危険が高いことを良く承知しています。ですからそんな融資は証券化が不調に終わった今は、回収したくて仕方がありません。しかし、相手が倒産すれば損金処理が必要です。すると自己資本が減ります。自己資本に余裕があるからこそ、融資を引き上げてゾンビ企業に止めを刺すことが出来るのです。企業倒産の多くは、金融機関に見放されることで起きるのです。今、公的資金の注入を受けた銀行やその他の金融機関はどうするか。経済が危険水域にあるときに、あえて火中の栗を拾うでしょうか。否です。銀行は喜んで危ない先からの融資の回収に走ります。政府による資本注入で損失処理のできる体力が確保できたからです。ポールソンは資本注入でなく、証券化商品の買取を行うべきだったのです。買い取って、1本1本丁寧にばらして解きほぐし、無価値なのか、多少の価値は残るのかを丁寧に決めて、証券化商品の値段を確定してしまわない限り、金融機能は回復しきれないからです。これはかなり根気のいる作業ですから、その間公的資金でこうした証券化商品をすべて買い取る必要があります。膨大な量を世界にばら撒いていますから、それがいくらになるかの検討もつかない、いくらでひきとるかも分からないということで、二の足を踏んでしまっていたのです。ようやく12月にかけて、政府がやらないのでFRBがやり始めたところですが、この問題の終着点はまだ見えていません。 続く
2008.12.30
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クロニクル マーシャル・プラン終了1951(昭和26)年12月30日マーシャル・プランとは、1947(昭和22)年の6月2日に、アメリカ合衆国国務長官のマーシャルが発表した、ヨーロッパの復興計画を指します。第二次世界大戦終了後の世界は、東西ドイツや東欧を巡って米ソの対立が目立ち、アメリカは、東西に分割された西ドイツの経済復興を急ぎ、ここに西ドイツ地域の再生と英・仏などの復興をも測る必要が生じていたのです。こうして実行されたマーシャル・プランは、西ドイツの目覚しい経済回復に繋がり、西ドイツ経済の力強い復活が英仏などの経済に好影響を与えるなど、アメリカの期待以上の成果を生んだのでした。こうして、開始から4年半余のこの日、マーシャル・プランは所期の目的を達成して、終了することとなったのです、アメリカのヨーロッパへの経済援助は、総額で120億ドルに達したと言われます。
2008.12.30
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南海泡沫事件顛末記(40) 終章 現在の危機 危機が発生してからの、米・欧の政府や中央銀行の対応は、1990年代の日本のバブル崩壊期の政府や日銀の対応に比べて、実に機敏で素早い対応に見えました。日本のテツを踏むまいという強い決意が漲っているかのようで、日本の失敗にしっかり学んでいるのかと、思えました。しかし、これは買いかぶりだったようです。確かにスピードは速いのですが、これは事態の動きが早いので、そのスピードに合わせなければならなかったのですね。日本のバブル崩壊では、銀行子会社の住専の危機と、銀行本体の危機とは、数年の時間差がありました。ところが米・欧の危機では、住専危機も拓銀や山一の倒産も、長銀や日債銀の国有化も全てが同時進行だったのです。ファニーメイとフレディマック(内容はちがうのですが、日本での住宅金融公庫に近い役割を果たしていた機関だとお考えいただくと、分かりやすいと思います)の公的管理、日本の住専に当たる金融機関の簿外の子会社の連結義務付け(これで、損失が表面化します)、リーマンブラザーズの破綻(米国談4位の投資銀行(証券会社)ですから、ピタリ山一と同じですが、三洋証券破綻の役割も一緒に演じ、一挙に金融は目詰まりを起こしました)、そして、シティ外、メガバンクへの公的資金の投入(りそな銀行への資金投入に近いですね)、全部が次々に起こりました。それだけではありません。メリルリンチ(日本の日興証券)の身売り、JPモルガン(日本では大和)とGS(日本では野村)の投資銀行から商業銀行(普通銀行)への転換、カード会社から、ビッグスリーの倒産騒動まで、来てしまっています。ここまで来ると、90年代から13年も要した、日本の危機よりも、現在の米・欧の事態の方が、遥かに深刻であることが、ご理解いただけると思います。なぜ、こんなに急激な信用収縮が起きたのか。それは、日本のバブル期の銀行融資は、集めた総預金の範囲に収まっていたこと、当時の日本では恨み節も聞かれましたが、BIS(国際決済銀行)規制によって、自己資本比率が8%(融資総額に対し、自己資本は8%を下ってはならないという規制。それゆえ、自己資本の12,5倍以上の貸し出しは出来ない)と定まっていたことから、レバレッジを利かせた無茶な取引は、1部子会社以外ではなっかたからです。図体の範囲なので、時間をかけることも可能だったのです。勿論それが良いという意味ではありません。失った時間は、とても大きいのですから…。ところが欧米では、利かせる限りのレバレッジを利かせていました。証券化の意味は既にお話しましたが、1の資金が10にも20にもなっていたのです。現在取り立て不能に陥っているカード会社の会員への融資などを含めると、実体経済の規模の10倍どころか、20倍近くにまで膨らませた資金が出回っていたと言うのです。本来お金は商品交換の仲立ちをするものですから、実体経済に必要な分だけあれば良いわけです。タンス預金や、企業等の予備資金をいれても。1,5倍もあれば十分です。譲っても2もあれば多すぎます。それが10倍どころか20倍ですから、これは完全にバブルです。それがはじけた場合、異常に膨らみすぎていたのですから、収縮のスピードも速くてあたり前だったのですね。物凄い勢いで逆回転が起き、そのスピードには誰もついてゆけなかった。こうして、市場から物凄い勢いで資金が消えていったのです。危機に陥った金融機関は、経済の血液である資金供給の役割を果たせません。公的資金を注入しても、倒産を防ぐのがやっとの状態です。ですから、中央銀行が、不良化した債権の支払いに責任を持つと約束して(つまり、貸出先が支払い不能になったら、その債権を中央銀行が引き取ってくれるということです。ですから、金融機関の貸し出しリスクはゼロです)、ようやく、最低限の資金が市場で回っているのが現在です。いうならば、欧米の金融機関は集中治療室に入れられて、管を体中につけて、辛うじて命をつないでいる。こういう状態が現在の姿です。 続く
2008.12.29
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クロニクル 孫文臨時大総統に就任1911(明治44)年12月29日この年10月10日、湖北省の省都武昌で中国の革命派が挙兵しました。ここに中国では清朝の打倒を目指した辛亥革命が始まりました。革命派は、翌日11日には、武昌、漢口、漢陽の武漢三鎮を制圧、湖北軍政府を樹立しました。この動きに呼応して。中国革命の動きは燎原の火のごとき勢いで、全国に拡大して、各地で清朝からの独立宣言が相次ぎました。この時、日本政府は清朝支援の方針を採りましたが、大陸浪人らは革命派を支援し、犬飼毅、頭山満、北一輝らは大陸に渡って活動しました。しかし、彼らもまた、革命派を支援しながら、満州等における日本の利権拡大を狙っていた点では、日本政府と大同小異でした。こうした情勢の中、アメリカ亡命中だった孫文は、12月25日に上海に到着、この日革命政府の臨時大総統に選出されたのです。こうして、準備を整えた革命派は、3日後の1912年1月1日に、中華民国の樹立を宣言するに至るのです。しかし、各地で独立を宣言したのは、各地の軍閥輩下の軍団で、必ずしも国民革命を支持したわけではなく、北京で力を持つ最大の軍閥袁世凱は、各地の軍閥の支持を受け、孫文らの国民政府擁立派を抑え、1912年3月10日に、北京で孫文に代わる臨時大総統に就任します。孫文らの国民革命は、いまだ成就することはなりませんでした。国民革命の夢は、20年代末の蒋介石の北伐を待たねばならなかったのです。
2008.12.29
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南海泡沫事件顛末記(39) 終章 現在の危機 ここで、17世紀のオランダや、18世紀のフランスやイギリスのバブルについて指摘したことを思い出してください。誰も自分がババを引く立場になるとは思わず、誰かもっと欲の皮を突っ張らせた人物に、高値で押し付けるチャンスがあるだろうと思っていましたね。気付いたら、自分がババを掴んでいた。こうでした。今回も同じです。近くバブルははじけ、タチのよくない証券化商品(CDOやMBSなど)は、無価値になるだろうが、まだ今はヒト稼ぎ出来るだろうと考えていたことです。17世紀と違うのは、こう考えたのが個人の投資家ではなく、金融機関の経営者とその金融機関で証券化商品を組成するトレーダーたちだったことです。来年のことは知らない。今年儲かればよい。新自由主義の規制緩和と放任主義の行き着いたところが、こうした野放図な、「会社がどうなろうと知ったこっちゃない。今年自分の業績が上がればそれで良い」という無責任主義が経営者から社員まで行き渡っていたことです。ですから、利かせるだけレバレッジを利かせて、取引を大きく膨らませていたのです。それゆえ、縮む時のスピードも、物凄い勢いとなったのです。サブプライムローンの金利を極端に低く抑えた機関が過ぎはじめた2005年秋以降、低所得者向け住宅の中古物件の売りが目立ち始め、さらに増えてゆきます。2006年には変調が明らかになってきました。それでも金融機関は、大量の債権を買い込み、せっせと細分化して束ねての証券化商品を作り続けたのです。これを裁けば手数料が入り、自分のボーナスも入るからです。他社のCDを買い、代わりに自社のCDOを売るといった、CDOの交換を売買として、業績の嵩上げを図ることまで、行われていたのです。こうした売買市場が凍りついたのは昨年夏でした。英国の中堅銀行が行き詰まり、証券化商品の売買で多額の損失を出し、市場で手持ちのCDOやMBSなどを売ろうにも、値がつかない状態だと言うことが明らかになったのです。そして、行き詰まりは、サブプライムローンなどタチの良くない債権を組み込んだ商品だけに留まりませんでした。悪巧みのツケは大きかったのです。それは、タチの悪い商品でも、分散投資の要領で、数多くの債権を束ねているから、安全だと言う理屈で、中身を精査することもせず、最上位のトリプルA格を付与していた格付け会社の格付けが信用できないという不信感が、市場参加者全員に広まってしまったことです。とりわけ、格付けを重んじて証券化商品を安全と信じて購入していた、事業会社や日本を含むアジア、アラブの資金は、まったく証券化商品に近寄らなくなりました。ここに、本来的な価値の低いものだけでなく、きちんと理払いや元利金の返済が続いている商品を組み込んだものまで、市場で値段がつかなくなったのです。売りたくても売れない。資金が動かない事態が起きたのです。こうなると、中級住宅や高級住宅市場にも影響が及びます。こうした住宅も値下がりの嵐に巻き込まれ、プライムローンばかりを組み込んだ証券化商品までもが、大きく値下がりしたのです。いったん逆回転を始め、落ち始めた市場は、落ちる所まで落ちないと止まりません。住宅債権の保証業務や保険業務を手がけていた企業・団体が行き詰まり、さらにCDSという、金融機関が相互に引き受けあっていた保険機能が、能力を超えた保障の必要が生じて行き詰まりと、損が損を呼ぶ事態となったのです。悪いことに、どの金融機関も自己資本を大きく超えるところまで、レバレッジを膨らませていましたから、売れない金融商品の損失は、軽く自己資本を超えてしまいます。日本のバブル崩壊が頂点に達した1997~98年にかけてよりも、遥かに大きくアメリカやヨーロッパの金融機関は傷ついたのです。金融は、経済社会を健康に回転させるための、ヒトの身体にたとえれば血液の役割を果たしています。その金融機関が自己の役割を忘れて、単なるマネーゲームに群がり、我を忘れていた代償は、限りなく大きかったのです。 続く
2008.12.28
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クロニクル 学校身体検査事始1888(明治21)年12月28日明治21年のことですから、現在から120年も前ということになりますが、この日文部省は、翌明治22年から、毎年4月に、学校で学生・生徒・児童の活力検査を実施するよう、訓令を発しました。活力検査とは、当時の用語で、健康調査のことです。ここに、内科、歯科の健診を含む、身長、体重、胸囲、座高をはじめ、握力、背筋力、肺活量などの身体検査が、はじめられることになったのでした。学校での4月の健診、明治時代から続いていたのですね。
2008.12.28
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南海泡沫事件顛末記(38) 終章 現在の危機 住宅バブルがはじけるのは、むしろ遅すぎたくらいで、当然のことでした。しかし、はじけたのは住宅バブルに留まりませんでした。それは、アメリカの一般家庭における家計の赤字の問題です。サブプライムローンの大量供給が当初問題視されず、雪ダルマ式に広がっていったわけは、好調な住宅需要を背景に、右肩上がりで上昇した住宅価格がありました。ローンの利用者の支払い能力に問題があっても、住宅価格が上昇している限り、払えなくなった彼らは、住宅を売って、ローンを清算しても、なお手元に一定のキャピタルゲインを残すことが出来ます。ITバブル後かなり長期にわたって続けられた低金利政策の下で、住宅価格が上昇を続けると、住宅価格の上昇分を追加担保として、さらにローンを膨らませることが可能になります。サブプライムローンとは無関係の、プライム・ローンの利用者は、より積極的に、この追加のローンを利用しました。借り入れを増やしても、金利が下がっているため、毎月の支払いがそう変らない事が、この傾向を推進したのです。やがて低金利の時代は過ぎ、金利はFOMCの会合のたびに上昇するようになります。前にお話したサブプライムローンの金利が、3年目にハイって跳ね上がると、返済が滞る家庭は、住宅を売って対処していたのですが、ローンの利用者が増え、1度に売りに出される住宅が急増します。そして金利の上昇傾向は続いていますから、住宅ローンの申し込みも減少します。こうして住宅価格が横這いから下落に転じると、今度はローンの利用者は、自分で住宅を売却するとマイナスが残ることになります。ですから、彼らは住宅を売らずに破産を選択します。アメリカで一般的なノンリコースローンとは、払えなくなった場合、担保の住宅は債権者の所有となりますが、債務者はそれ以上の返済を迫られないのです。こうして大量の住宅が担保流れとなり、住宅供給を膨らませて、さらに需給関係を悪化させて、住宅事情をいっそう悪化させたのです。こうなると、サブプライムローンとは無関係な優良住宅の価格もまた下落することとなり、住宅価格の値崩れは、勢いを増すことになりました。こうなるとどうなるか。住宅価格の上昇に合わせて膨らませた追加のローンが、担保割れを起こし、借金の返済を迫られたり、追加の借り入れを断られたりすることになります。その結果、カードローンの上限が抑えられて、買い物の残がいくらあろうと、毎月の支払い額を一定に保つリボルディング払いの上限を厳格に抑えられるようになります。「このカードは、これ以上使えません」というのは、こうして発生した現象です。証券化商品は、地域を異にする住宅ローンや、カードローン、その他のローン等を細分化して束ねて組成されている(MBSやCDOなど)ので安全だという神話はこうして崩れました。そして、金融機関は中小から大手まで、多額かつ多種類の証券化商品を販売して莫大な利益を上げていましたから、次に備えて、また大量のローン債権を抱え、細分化し、束ねて組成した商品をたっぷりと抱えていたのです。さらにまた、危険な商品を大量に組み込んだ証券化商品は、破綻のない限り高利回りを生みますから、金融工学を駆使してリスクをきちんと計算したから安全だという、彼らの思い入れもあって、他社の組成した証券化商品もまた、どこもが大量に抱えていたのです。これが、巨大金融コングリマリットが、十把ひとからげで経営難に陥った原因でした。 続く
2008.12.27
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クロニクル 所得倍増政策閣議決定1960(昭和35)年12月27日この日、閣議は、11月1日に経済審議会が答申した「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」を了承して、所得倍増政策を来年度予算編成の基本とすることを決定しました。こうして、10年間で国民総生産を倍増させるという、明るい未来を掲げた経済計画がスタートしました。国民総生産が2倍になるだけでは、その間に人口が増加することが見込めますから、これでは1人当たりの国民所得は2倍になりません。そこで政府は10年間の年平均経済成長率を7,2%とし、10年間で国民総生産を2,7倍、人口増を見込んだ国民所得を2,4倍にすることを目標としました。国民の多くは、この政策を10年後には、月給が2倍になるのだと誤解し、熱狂的に支持しました。折から、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家電製品の揺籃期でしたから、先行きの賃金上昇を見込んだサラリーマン家庭などは、給料の増加を見込んで、月賦販売(現在のローン売買)を利用して、こうした電化製品を一つまた一つと購入を続けたのです。こうした市場の拡大は好循環を生み、所得倍増政策は、10年もかからずに、その達成を見たのでした。
2008.12.27
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南海泡沫事件顛末記(37) 終章 現在の危機 2006年、住宅価格は下がり始めましたが、なお証券化商品は、せっせと組成され、次々に売り出されておりました。安全性が高いとされる分散投資が徹底していること、大手格付け会社がトリプルAの格付けを与えていることが、その理由でした。バブル崩壊の影響は、タイムラグがつき物です。住宅価格が値下がりし、サブプライム関連融資の一部に焦げ付きが生じ、金融機関が担保権を行使して、住宅を差し押さえ、中古住宅物件として売りに出されるようになり、しかもその数は、月を追って増え続けたのです。さすがに、この段階になると、証券化商品の価格も値下がりを始めたのです。銀行は証券化することで、同一の資金で、何度でも貸し出しが出来ました。証券化商品を扱う投資銀行も、商業銀行も、値上がりすると、レバレッジを利かせて、利益を押しあげることが、面白いように決まっていました。それゆえ、住宅価格の下落が続き、さしもの証券化商品にも、買い手がつかなくなったのです。レバレッジを利かせて、価格が上がれば、上がった分もまた担保にして、運用金額を増やしてこそ、利益を極大化できるのです。この方法は、日本のバブル時代に、土地取引を巡って実行され、バブルがはじけた結果として、金融機関に多額の損失を出しました。同じことが、欧米でも起きたのです。レバレッジが大きくなっていたので、いったん下がり始めると、留まるところを知らずに暴落します。歯車は狂い始めていたのです。それでは何故、この時期になって、次々と金融機関が破綻をきたすことになったのか。そこにこそ、この問題のもう一つの本質と根深さがあります。 続く
2008.12.26
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クロニクル 興安丸舞鶴へ1956(昭和31)年12月26日52年前の出来事ですが、この事実に対しては、現在からよりも、日本の敗戦からの年月を数える方が、相応しいように思います。日本のポツダム宣言受諾から、何と11年4ヶ月も経過したこの日、ソ連抑留者を乗せた最後の帰国船興安丸が、舞鶴港へ入港しました。この日の帰国者は1,025名。集団帰国としては、これが最後でした。シベリア抑留者の殆どは、中国東北地方(当時は満州)や内モンゴルで、ソ連軍の捕虜となり、シベリアへ連行されて、強制労働に従事させられていた人たちでした。「今日も暮れ行く 異国の丘に 友よつらかろ せつなかろ 我慢だ待ってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る 朝が来る」 と歌った『異国の丘』は、運良く先に帰国できた元兵士達が、なおシベリアの地に抑留されている戦友を偲んで、歌った歌だったと私は受け止めています。。実を言うと、私にとってこの歌は、母方の叔父の思い出に繋がっています。シベリアに抑留され、1950(昭和25)年に帰国できた叔父が、好んで歌っていた歌だったことが、今でも鮮明に記憶に残っています。そして、舞鶴港の岸壁に、その後も立ち続けた岸壁の母の行動が、人々の涙を誘ったのもまた、戦争の悲劇の一齣でした。。支配者の都合によってはじめられる戦争は、庶民にとっては、辛く悲しいものでしかない事実は、見落としたくないですね。
2008.12.26
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南海泡沫事件顛末記(36) 終章 現在の危機ファンドマネージャーとかトレーダーと呼ばれる株式や債券、為替から商品までを扱う腕っこきの人たちの間で、もてはやされた考え方の一つに分散投資という考え方があります。彼らがガラクタを集めて、細分化したり束ねたりして作り上げたインチキ商品も、様々な証券の細切れを、何十種類と集めて束ねたものですから、建前としては分散投資の原則を踏まえていました。ですから、トリプルA格の格付けの外にも、50以上もの債権を束ねて、ぶんさんしていますから安全です」という。殺し文句が使えたのです。ですから米・欧の金融機関は先を争うように、サブプライムローンと呼ばれた質の悪い債権をはじめ、ありとあらゆる債権(自動車ローンやカードローン、さらにはサブプライムローンに比べると、質の高い住宅ローンなど)を買い集め、次々に仕組みが複雑で、内容は良く分からないけれど、利率の高い商品を創っては売り、作っては売りをくりかえしたのです。うこうした商品が、ABS(資産担保証券)やCDO(債務担保証券)、CLO(ローン担保証券)やMBS(住宅ローン担保証券)などと呼ばれる、名前は分かっても内容がどう異なるのか良く分からない、デリバティヴと呼ばれる商品群です。早い時期に証券化された商品は、返済が確実視される優良な債権や債務を証券化したものでしたが、2004年頃からは、インチキ商品が急増しました。そのため、良心的な金融マンは、2004年の早い段階で、米・欧の大手金融機関を辞めています。インチキ商品を売りまくれという、会社方針に叛旗を翻した結果でした。こうした金融マンが、僅かでもいたことは、この何とも不潔極まりない詐欺の手口の中で、私には唯一の好きであるように、感じられました。残った人種は、実に汚らしいやり口をします。インチキ商品を売りまくってあげた実績を基に、年末に高額のボーナスを得ると、自分の売りまくったインチキ商品がボロを出す前に、これまた高額の退職ボーナスまで得て、さっさと転職していったのです。昨日の金融マンが、稼いだ資金で、空売りを仕掛けて稼いだり、農場を購入してオーナーになっていたりする姿は、2005年頃から、目立ち始めたと聞き及びます。そして何と言っても、こうしたずる賢い転職組みの頂点に立つのが、投資銀行のトップに立つゴールドマンサックスのCEOから、2006年6月に第2期ブッシュ政権の閣僚に横滑りしたポールソン財務長官その人なのです。彼は、無価値な証券化商品を、ひたすら売りまくれと大号令をかけ、空前の増収増益を達成して、短期的な成果をあげ、高額のボーナスを受け取った上で、将来の破綻を予測しながら、ウォール街を去ったのです。見事な逃げっぷり、華やかな転職でした。しかし、見る人は見ています。ポールソンが財務長官になった時、マンハッタンのコーヒーショップで、次のような会話が交わされたと、神谷秀樹氏が紹介しています。A「あんな欲深いヤツが政府高官なんて、まったく政府の人事はどうなっているんだ」B「良い人事じゃないか。ウォール街にいる欲深い連中を監視するには、その中でも一番欲深 い男を政府高官にして監視させるのが、最も有効だろう。ジミー・カーターじゃ務まらない よ」AとC「そりゃそうだ」この時、ポールソンは退職ボーナスとして、ストックオプションを利用してGS証券の株式を323万株取得しています。当然、財務長官が業務で監視すべき証券会社の株を持つことは許されませんから、彼はGS証券の株を売却することを強いられます。米国の法律では、こうした強制的な売却では、売却益に課税されない特典があるのです。ストックオプションは、事実上無料での株式取得ですから、彼は4億ドルを超えた売却収入に、一切課税されないで済んだのです。まさに「あんな強欲な男」の面目躍如でした。こうして、目端の利く腕っこきの金融マン、そして欲の深い経営者が、多額のボーナスをもらって去っていっても、なお金融界は、巨利を求めて証券化商品を作り続けていました。こうした中、2006年に入ると、高騰を続けていた住宅市況に変調が見え始めました。サブプライムローンがはじけ始めたのです。 続く
2008.12.25
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クロニクル トウ小平路線確認1990(平成2)年12月25日18年前のこの日、中国共産党の第13期7中全会は、トウ小平の改革・解放路線を正式に確認しました。ここに中国共産党は、共産党1党独裁の政治体制を堅持したままでの、経済発展の大胆な導入に、大きく舵をきりました。それはいわば、社会主義体制の下での資本主義経済の導入ともいうべき、試みでした。こうして中国は、先に豊かになるものがあっても良いという、トウ小平路線の下で、社会主義市場経済と銘打って、広州から上海にかけての沿岸地帯の経済特区を中心に、大胆な外資の導入なども組み込みながら、驚異的なスピードで、経済発展を続け、いまや蘇州、大連、北京、天津、重慶などでも工業化が進み、いまや、押しも押されもしない経済大国の一角に名を連ねる勢いを示しています。今回の欧米発の世界的経済危機において、果たして世界経済の最後の拠り所として、踏みとどまるのか、それとも共倒れになるのか、中国の動向次第で、この経済危機は、世界恐慌にまで至るのか、恐慌の淵を覗くだけで、踏みとどまることが出来るのかが、決まるとまで言われている今日です。
2008.12.25
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南海泡沫事件顛末記(35) 終章 現在の危機 同じ資本主義的経済システムと言っても、そのシステムの根幹にある考え方は、微妙に違います。夫々の資本主義の成り立ちの違い、国民性の違いなど、様々な面から醸成されてきた違いがあります。イギリスとアメリカに共通するアングロサクソン型と、ドイツに特徴的なゲルマン型、そして、両者とも違う独特な日本型でしょうか。アングロサクソン型は株主権と経営権をひたすら重視して、ROE(株式資本利益率)をひたすら重視する、会社は株主のものとする株主資本主義とでもいえる特徴を持ちます。これに対しゲルマン型は、労働者の権利を広く解釈して、会社はそこで働く労働者と経営者の共同のものと考えます。そこから、政府や社会には、そうした会社の行動の自由を、社会的観点で制約できるとする考え方が生まれます。厳しい環境制約を企業に科すのも、この考えに基づいて行われるのです。日本型は、この中間にあり、企業の社会的責任を、雇用の安定に置き、とりわけ従業員とその家族の生活の維持を重視する、独特の終身雇用制を軸にして成長してきたのですが、90年代のバブル崩壊時の混乱を経て、ゲルマン型に近かったシステムを、次第にアングロサクソン型に近づけつつあったのが、現状でした。アングロサクソン型資本主義は、株主利益を重視して、出来るだけ多くの利益を配当として株主に分配することが、経営者の最大の責任であり、株主利益に合致するなら、企業の身売りも積極的に奨励されるのです。そこでは、株主の近視眼的思考にも原因があるのですが、長期的な見通しに立った、将来の利益成長のための投資であっても、目先の利益を減少させるような投資は好まれず、ともかく単年度で成果を競う、単年度成果主義が幅を利かせていたのです。経営者にしてみれば、成果を上げ、高額の配当を実現すれば、その成果を株主に評価され、高額の年棒(ボーナスを含む)が認められるのです。ですから、経営者自ら社員に対し、単年度で成果を上げ、利益貢献することを、ひたすら要求し、期待に応える成績を上げた社員には、評価主義の給与システムとして、高額のボーナスを支給したのです。そして、このシステムは、英米の企業で広く使用されていました。米国政府に税金を使っての救済を願い出たビッグスリーの経営者が、米国社会で袋叩きに合ったのは、成果もあげていないくせに、高額の年棒を得ているとは何事か、物乞いに来るのに、自家用飛行機でやってくるとは何事か、という点にあったのも、この成果主義の観点から考えると良く分かります。さて、この問題をサブプライムローン等の、証券化商品に即して考えて見ましょう。翌年か翌々年に破綻する可能性が高い商品であっても、今年破綻しなければ、年内はドシドシ売れるのです。様々な債権をバラバラに分解して、そうした債権を50種類も100種類も束ねて、中を見えないようにしたデリバティヴ商品に仕立てるには、相当程度の金融工学の知識が必要です。それゆえ、そうした証券を組成して販売に成功すると、高い手数料が手に入ります。そのため、実は無価値に近い商品であることを誤魔化すために、複雑な組成に続いて、そうした商品に保険をかける手が考えられたのです。最近有名になったCDSがそれです。保険料を払う代わりに、この証券が減価した場合、減価分は保険の引き受け手が払うという約束がここに出来上がります。保険の引き受けは、多くの場合相対取引で行われますから、保険料がいくらかは、今でも多くは闇の中です。ただ、引き受け手も内容を精査せずに、持ち込んだ相手会社の社会的地位を信用して引き受けていたであろうことは、間違いのないところでしょう。こうしておいてから、このボロ屑の塊の証券化商品を、格付け会社に持ち込むのです。多数の案件を抱える格付け会社は、CDSのついている商品と知ると、これは中身を調べる手数が省けると、大喜びで最上格のトリプルA格(AAAと書きます)の格付けを与えるのです。屑鉄を純金のように装う手口がここに完成を見たのです。企業社会は格付けに弱い。特に資産運用の担当者は、自己の眼力で成果をあげたとしても、一度でも失敗すると、スタンドプレーを攻められて、降格されてしまいます。ところが格付けが高いから、安心して投資しましたということなら、それなら落ち度はないということになります。特に日本などは…。 日本ほど露骨でなくても、この点は世界共通です。個人でもそうではないでしょうか。格付けがトリプルAです。絶対安全ですよ。と言われると、それはそうだと思うのが普通です。こうして、欧米の金融機関は、米英だけでなく、ドイツもフランスも、スイス、オランダ、ベルギーなどでも、競って証券化商品を大量に仕入れてバラシ、さらに束ねてデリバティヴ商品に仕立て、売りさばいていたのです。それを、単年度の成果を高めることだけを意識する経営者が容認し、成果主義に基づく年棒を上げることだけに熱心なトレーダーたちが、その意を受けて突っ走った結果が、今日のテイタラクというわけです。 続く
2008.12.24
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クロニクル 30兆円の公的資金枠1997(平成9)年12月24日現在、欧米に端を発した金融危機においても、金融機関等に対する公的資金の大量注入が行われていますが、11年前、拓銀や山一證券の破綻という衝撃を受けた日本においても、銀行等への公的資金の注入の必要性が、ようやく広く意識されるようになりました。その中でこの日、自民党の緊急経済システム安定化対策本部は、ようやく30兆円の公的資金を準備しての、金融機関支援策を発表しました。しかし、この案を受けて、大蔵省(当時)が準備した案は、金融機関からの申請を受けて、政府に設置した委員会が、投入の是非を決定するという、強制注入方式とは異なるものでしたので、各行横並びの小幅な投入要請に留まるなど、なお、中途半端な投入に留まり、なお、問題の解決には遠い内容に留まったのでした。金融機関への、有無を言わせぬ大量の投入は、翌年の日本長期信用銀行と日本債券信用銀行という2行の倒産を待って、ようやく1999年になって、実施されるのです。
2008.12.24
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南海泡沫事件顛末記(34) 終章 現在の危機 ITバブルの崩壊後、当時のFRB議長グリーンスパンは、間髪を要れずに金利の引き下げを継続的に実行して、1%にまで金利を下げ、その低金利を比較的長く継続するとのサインを市場に送ることで、危機を最小限度に留めることに成功しますした。その結果、住宅ローンの金利も大きく下がりました。住宅バブルのきっかけは、この2002年以降の低金利時代に始まり、拡大を続けました。新たに住宅を購入する層が増えれば、当然住宅価格は値上がりします。市場における商品の価格は、商品そのものの価値によってではなく、需要と供給の関係で決まるからです。同じ住宅で、数年使った中古住宅が、新築当時よりも高い価格で売れるのは、この需給の関係が、需要過多に振れているからに外なりません。こうして、かつての日本のように、アメリカの住宅バブルが本格化していきます。銀行の住宅ローンの利用件数は、うなぎのぼりに拡大を続けました。ローンの利用者は、次第に年収の低い、返済に問題のある利用者が増えてきます。しかし、銀行はこうした低所得の利用者にまで、平気で貸し続けました。そればかりではありません。物価の高騰傾向に、さすがのグリーンスパンも、金利の引き上げに動きます。各地の連銀総裁を集めてのFOMCの定例会合のたび毎に、毎回0,25%づつ小刻みに引き上げ続けたのです。それは、2006年初めにFRB議長がバーナンキに交代した後も、しばらく続けられました。当然、銀行の貸出金利は上がります。当然、新規の住宅ローン金利も上がります。ローンが支払い可能な額でない限り、いかに借金に抵抗感を持たないアメリカ人でも、ローンを組む気にはなれません。借り手がいなくなれば、銀行は新規の貸し出しが出来ず、それを傘下のファンドなどを通じて、証券化商品に仕立てることも出来なくなります。これは困った。何か良い手はないかと考えた銀行が、思いついた妙手が、ローン金利のスライド制だったのです。日本でも、当初の数年間は、金利だけを支払い、数年後から元利双方を支払う形式の住宅ローンが開発されていますが、これを拡大し、例えば本来の金利が7%だったとすると、当初2年は3%とし、3年目~5年目までは、本来の7%とし、6年目から最初の2年間に払うべきであった差額の4%の2年分を、その分の金利分などを含めて、8%の金利を払い、元金の一定額もここから返済が始まるといった、傾斜支払い型の住宅ローンです。当初の返済額を低所得者にも魅力的な水準に抑え、「あなた方の年収でも、2年間はこの家に住めますよ。住宅価格は上がっていますから、2年後にこの家を売れば、利益が出ます。それでまた新規ローンを組んで、新しい住宅に入れますよ」と、甘く魅力的な文句を並べて、とても自分の家やマンションには住めないと、思っていた低所得者を誘惑したのです。ここには、住宅ローンの利用者が途中で支払い不能になることを見越した上で、そんなことは百も承知で、彼ら彼女らが、一時の夢にひたることが出来るように、上手に設計した貸付プランがありました。いずれローンは不良債権化します。同じ時期にローン契約を結んだ低所得者は、それこそ一斉に支払い不能になり、そのため一斉に住宅を売りに出します。それでも住宅が値上がりすると考えるほど、彼らは愚かではありません。住宅は売れず、ノンリコースローンの常として差し押さえられ、銀行等の所有になります。当然、融資額では売れませんから、融資額は回収しきれません。しかし、それで構わないと銀行は考えています。自分の債権は、証券化すべく売り飛ばしている。子会社等に譲り、そこで他の債権などと一緒に切り刻んだ上で、PCを駆使して、ごちゃ混ぜにして束ねて売り飛ばしている。損が出れば、そうしたデリバティヴ商品を買った連中がかぶってくれるんだ。オレたちは、そうなるとは思いもしなかったと、シラをきりゃ良いんだ。ここには、ホリエモンや村上ファンドなど、及びもつかない大規模な詐欺商法が、明確に存在していました。何故、このような詐欺商法が会社ぐるみで行われたのでしょうか。 続く
2008.12.23
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クロニクル 石橋内閣成立1956(昭和31)年12月23日52年前のこの日、石橋湛山内閣が成立しました。石橋氏は、この日の9日前の14日に行われた自由民主党の総裁選において、派閥抗争で優位に立ち、本命視されていた岸信介幹事長(当時)の総裁就任を阻止すべく、投票前日に石井光次郎氏との間で、2,3位連合を作り上げることに成功しました。 この結果、過半数を確保できなかった岸氏に次いで2位となり、思惑通り決選投票に持ち込むことに成功したのです。この結果、決選投票では、見事岸氏を逆転することに成功したのです。こうして誕生した石橋内閣でしたが、翌年早々病に倒れ、首相としての職責が果たせないという理由で、翌年2月23日に、在任僅か63日で、総辞職して退任するに至ります。引き際は見事でした。
2008.12.23
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南海泡沫事件顛末記(33) 終章 現在の危機 もうしばらく、説明を続けさせていただきます。証券化の手法を開発したことで、レバレッジは大きく利かす事が出来るようになりました。同じ預かり資産を何度でも、貸し出しに回せるようになったからです。ここに活躍したのが、コンピューターと数式を駆使した金融工学の手法でした。金融工学の担い手達は、人の心理までをも読み込んだ、最適の経済システムを自分達は創り出したので、絶対に損をすることのない、絶対安心な利益極大化システムを作ったと豪語するようになりました。そんな矢先、彼らの先頭を走り、金融工学の旗手として、1997年のノーベル経済学賞を揃って受賞したロバート・マートンとマイロン・ショールズの2人が、経営に名を連ねていた大手ヘッジファンド、LTCM(ロングタームキャピタルマネージメント)社が、2人の受賞から一年も経たない、98年の10月に公的資金の大量注入を受けて、救済され、その後清算されて解散に陥る羽目になるという、事件が起きたのです。しかし、2人が開発したとされるデリバティヴ理論とその実践としての取引は、その後も増え続け、金融工学の無謬性は、益々強固に信じられることになったのです。2人が絡んだLTCMの破綻は、ロシア国債のデフォルトと、取引停止という、本来ありえない出来事のせいだ。今後はそうした事態をも組み込んで行けば、問題は解決される。利益極大化の最適システム作りは健在だ。こう考えていたのです。こうして、大量の怪しげな債権を集めて、それをずたずたに細かに分け、そうした細切れ債権を100本も200本も集めて束ねる作業は、もっぱらコンピュータと金融工学理論の融合の中で、処理されていったのです。その内実は、そうしたデリバティヴ商品をコンピュータに組成させた本人にすら、良く分からない鬼っ子となっていたのです。2000年のITバブルの崩壊を無難に乗り切ったことで、ヘッジファンドと投資銀行とは、益々強気になってゆきました。証券化するための商品を確保するためにも、銀行の貸し出しはあらゆる方面に伸びてゆきました。しかし、貸せば貸すほど、その後には優良な借り手はいなくなります。勢い返済が危ぶまれる借り手にも、融資基準を緩めて貸し出すようになって行きます。2003年を境に、日本経済が好況感なき成長軌道に戻ったのも、実を言うとこういう外資系の金融機関が、国内の金融機関に変わって、こうした危ない企業への貸し出しを引き受けてくれたからでした。余談になりますが、こうした外資系金融機関が行き詰まって融資の継続が出来なくなったことが、そうしたゾンビ企業の大量倒産を招くことになったのですし、やはり彼らからの資金の借り入れで成長していた、不動産流動化関連の新興銘柄の凋落に繋がりました。もうお分かりと思いますが、住宅融資に絡むサブプライムローンというのは、融資先を見つけないと、証券化商品を作れない投資銀行(証券会社)と、損することなく融資できるなら、相手は誰でも良いという、銀行との共同作業として実行されていったのです。 続く
2008.12.22
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クロニクル 民法改正、家制度を解体1947(昭和22)年12月22日61年前のことです。5月に施行された日本国憲法(新憲法)の規定にそぐわない個所が多々ある民法の改正が、この日公布されました。戦前の家族制度は、戸主の権利や家督相続権など、家長中心の制度となっていました。そのため、女性や子どもの基本的人権は認められていなかったのです。ところが、5月に施行された日本国憲法は、民主主義と基本的人権の尊重を声高に宣言するものでした。このため、憲法に抵触する恐れが強い第4篇親族の章と、第5編相続の章とが、全面的に改正されることになったのです。この日公布された新民法では、個人の権利を中心に、結婚及び離婚の自由と男女両性の平等の確保、財産の均分相続、また相続は財産に限ることなどを規定して、家制度を壊す内容となっていました。しかし、法は替わっても、人の内面までを変えるには、時間がかかるものですね。本当の意味での、両性の平等の実現は、残念ながら、まだまだ先のことになりそうです。
2008.12.22
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南海泡沫事件顛末記(32) 終章 現在の危機 証券化の最盛期は、2000年のITバブルの崩壊後の、金利低下局面でやってきました。証券化による住宅バブルの到来が、その象徴になりました。証券化は、何故隆盛を迎えたのか。そのからくりはこうです。通常銀行業務とは、社会に散らばる小口に資金を、利子をえさとして預金という形で集めて大口の資金とし、それをより高い利子で貸し出すことで、利ざやを稼ぐことにあります。1預かって1を貸す。従って、集める預金の総額が、大きくなればなるほど、貸付も大きく出来て利益も膨らむのです。しかし、たまたま、80年代から90年代にかけての時期に証券化という手法が登場したのです。するとどうなるか、今A銀行が、X社に6%の利子で1億ドル貸し付けたとします。A銀行は、X社に貸した1億ドルの債券を1万口に分割して、1口1万ドルの5%の利息付の証券として、売り払ってしまうのです。X社から受け取る利子のうち5%は、証券の購入者への支払いに消えますから、A銀行の手に入るのは、1%だけになります。しかし、X社が倒産して、1億ドルが戻らないことになっても、A行には損失は生じないのです。X社の債権は、証券化して別の方のものになっているからです。そしてA行は、証券化商品の購入者達から、証券の購入資金として戻ってきた1億ドルを、再び貸付に回すことが出来ます。今度はY社に同じ6%の利子で貸し出します。再び同じ条件で証券化し、さらにZ社へ、次にはR社やQ社へも貸し出せます。証券化という打ち出の小槌を使うことで、1億ドルは、10億ドルにも、20億ドルにも使えるのです。10回貸し出せば、A行の手に入る利子は、同じ1%づつだったとしても10%に、20回貸し出せば20%になるのです。しかも不良債権化のリスクはゼロになる。これが証券化のからくりです。この時、A行が売り出したX社への債権を小口化した証券を購入する立場の法人や個人は、同考えたのか。X社は立派な会社だから、先ず倒産の心配はないし、この証券は5%の利子つきの社債を買うのと同じで、とても有利に見える。安全確実で利回りも良い。良し買おう。となるのです。02年、03年頃はこんな感じでした。そして、この頃から、銀行や証券会社は、先を見越して次の手を考え出したのです。それは、貸し出しが増えれば、次第に貸し出し先に、優良とはいえない企業や個人が増えてくるからです。例え利子が高くても、危ない会社、いつ倒産するかも分からない会社への貸付を証券化した商品を、購入する人は先ずありません。それは証券化商品の内容が良く見えているからです。ならば、中身を分からなくすれば良いではないか。こういう企みが生まれたのです。先ずは、1億ドルなら1億ドルの債権を100本とか1000本とか、集めてくるのです。そしてそれを、1万本ではなく、100万本とか1000万本とかの超小口に分割し、そうした商品を1本づつ異なるものを100本なら100本束ねて、1万ドルの商品を大量に作るのです。そこには、100種類の異なる証券が含まれていますから、内容は良く分からないようになっています。利子率だけは、危ない個人や会社への貸付ですから、高くなっていますので、かつての5%ではなく、7%とか8%と高くなっています。そしてそこに、さらに安全を高めようと、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)と呼ばれた、倒産保障保険をつけたのです。もし、この証券が倒産等で払い戻しが出来なくなったら、保険の引き受け会社が払ってくれるようになっています。自動車保険と同じシステムと考えてくださいと、いう話です。これで、高い格付けを得て、投資家を安心させたのです。 続く
2008.12.21
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クロニクル 国債依存度30%以内を放棄1977(昭和52)年12月21日不況は財政規律を骨抜きにします。そしてその都度国家財政の赤字を大幅に増やし、破滅の淵へと近づきます。丁度本日、麻生内閣もまた、財政規律を無視した大盤振る舞いの2009年度予算原案を発表しました。ここに記したのは、31年前の福田赳夫内閣の1978年度用の、予算編成方針の決定を指します。この日、閣議は、予算編成における国債依存度を予算全体の30%以内とすることを定めた、佐藤内閣以来の財政規律、国債への過度の依存を戒めるための、内閣の掟を踏みにじり、国債依存への歯止めをぶち破って、財政状況の悪化を省みずに、第1次石油ショック後の不況対策として、いわゆるバラ撒きを実施しました。しかし、経済規模の拡大した日本経済に刺激を与えるには、予算のバラ撒き程度では、そう大きな効果は期待できません。結局財政赤字を膨らませるだけに終わり、次の大平内閣は、財政再建を公約にせざるを得なかったのです。次に財政規律を無視した大盤振る舞いを実行したのは、日本型金融危機の最中にあった99年度及び2000年度の予算編成に当たっての小渕内閣でした。そして、今回が3度目です。アメリカを遥かに超える財政赤字は、表面の国及び地方自治体の公的債務だけで、GNPの1,5倍を大きく超え、経済先進国では最悪の水準を独走しています。子孫にツケを残す、最悪の道を走り続けていることに、注意が必要なように思われます。
2008.12.21
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南海泡沫事件顛末記(31) 終章 現在の危機カリフォルニアのマダム・リンダとのお約束の南海泡沫事件の顛末は、前回を持って終了です。が、ここまで記して、サブプライム危機に端を発した現在のバブル崩壊との対比に、関心を持たれた方も多かったようですし、私自身、この春に『サブプライム問題考」と題する連載を30回ほど続けて、後は折に触れて…と記したきり、放置していることもありますので、ここで、現在の問題を少し記しておきたいと思います。現在の危機の基点は、昨夏に顕在化した住宅バブルの崩壊に伴う、中規模な投資銀行(日本で言う証券会社です)の破綻でした。その原因を記します。金利の最も低い貸し出し。これが最優遇金利という意味で、プライム・ローンと呼ばれます。それに対してサブプライム・ローンというのは、普通に考えれば2番目に金利が優遇されているローンという意味になりそうですが、そうではなく、最も危険で、最も金利の高いローンのことを、洒落っ気を籠めて、サブプラーム・ローンと名付けていたのです。借り手は、ほとんど全部が、まともには返済できそうもない社会層に属する人たちでした。日本のバンカーなら、絶対に貸さないような案件ばかりでした。ところが、アメリカの銀行ばかりでなく、欧州の銀行なども、こうした案件に対し、ロクな審査もせずに、大喜びで貸し出しを決済したばかりでなく、自ら勧誘して歩いていたんです。まさに異常な事態が進行していたのです。なぜ、このような目茶苦茶が可能になったのか。これが債権債務の証券化というカラクリにありました。この手法は、第2次石油ショック後に顕在化した中南米の債務危機に直面して、青息吐息の状態に落ち込んだ、大手米銀を救済するために(この時、シティは、サウジの王子が大型増資を一手に引き受けてくれたおかげで、急死に一生を得ました。あの時です)、編み出されたのが、債務を証券化して、多くの国々に引き受けてもらう手法でした。この手法のヒントを提供したのが、日本の宮沢蔵相(当時)だったことには、意外感を持たれる方も多いと思いますが、これは事実です。構想は80年代に提示されましたが、実現をみたのは、90年代でした。最初は、そろりそろりと言った感じでしたが、これはいけそうだとなると、途端に大きな花をつけたのでした。次第に、あれもこれもと、極めて沢山の品が証券化されるようになったのです。 続く
2008.12.20
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クロニクル 結婚退職解雇無効判決1966(昭和41)年12月20日42年前のこの日は、日本における女性の権利獲得史において、大変重要な判決が出された記念すべき日なのですが、今日でも、あまり強調されていないのが残念です。舞台は東京地裁。結婚を理由に解雇されたされた住友セメントの女性社員が、会社を相手取って「不当解雇につき、解雇無効」と、会社を相手取って、訴訟に訴えた裁判で、この日東京地裁は、結婚退職制は、憲法に定める「法の下での両性の平等」に反する規定であり、違憲であると、大変踏み込んだ判決を下したのです。これは、考えてみれば、ごくあたり前の判断なのですが、当時の日本の状況を考える時、原告側にとって、臨みえた最高の判決でした。翌年4月には、東京に美濃部革新都政が誕生するなど、人間の基本権に対する配慮が、大きく伸びていく時期に当たっており、美濃部都政の下で、保育所の大幅な拡充も考えられた時期でした。しかし、表面的には結婚による退職の強制はなくなりましたが、結婚した女性に対する、隠然とした嫌がらせなどによって、依願退職に追い込む企業や、結婚退職は無くなっても、出産や育児に対する配慮がないため、妊娠・出産を期に退職を選択せざるをえない立場に、追い込まれた女性はな多く、女性の労働の権利が広く認められるようになるためには、産前・産後の休暇制度の拡充や、育児休業法の成立と拡充を待たなければならなかったのです。そして、現在もなお、女性達が後顧の憂いなく、労働者として働き続けるためには、なお実現して行くべき課題は、いくつも残っています。そういう意味で、この結婚退職違憲判決は、女性の働く権利を拡大するための、第1歩を記した判決だったのです。少子化が深刻な問題になってしまった、現代の日本では、少子化による経済の落ち込みを防ぐための良い方法は、女性の社会進出を、男性と同レヴェルまで進めることであり。そして外国人労働力の条件をつけない受け入れの2点しかないのですから…
2008.12.20
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ダイア建設遂に倒産今晩は。今晩11時からの12チャンネル、WBSを見ておりましたところ、19日夕刻中堅のマンション建設業者、ダイア建設が産業再生法の適用を申請、受理された模様と報じておりました。懐かしい名前を聞いたものです。この会社は、金融庁に債務超過を認定され、1998年12月に一時国有化された日本債権信用銀行を蝕み、遂に事実上の倒産に追いやった張本人でした(日債銀がどのように、ダイア建設をたすけていたかについては、昨年9月29日から、今年2月まで104回に渡って連載した『バブルを考える』のシリーズの第2回(07年9月30日)に詳しく記しましたので、ご覧ください)。金を貸した方が倒産して、面倒を見てもらっていた方が、ゾンビ企業として生き残っているというおかしなことが続いていたのですが、そのゾンビ企業にも、喜んで金を貸してくれていた、外資系金融機関が債務の証券化ビジネスの破綻で、立ち行かなくなり、遂にしぶとく生き残っていたゾンビ企業が、次々に倒れる時が訪れたのですね。経済原則からすると、当然のことが起きているのですね。株価が倒産価格の2桁台に落ちている、中堅ゼネコンや建設、不動産関係は、これからまだまだ、資金の貸し手を見つけられずに、次々に倒れてゆきそうです。業界全体が、仕事量に比べて企業過多状態にあるのですから、適正規模に落ちるまで淘汰が続くことは、どうやら間違いないようですね。ダイア建設の生き残りに、割り切れない思いを抱いていたであろう、旧日債銀の行員の皆さんは、ようやくすっきりなさったことでしょうね。
2008.12.20
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南海泡沫事件顛末記(30) その3 南海泡沫会社事件 南海バブルの崩壊で巨額の損失を出した人たちには、次のような面々がありました。金融家で、イングランド銀行の取締役だったサー・ジャスタス・ベクは34万7千ポンドもの負債を抱えて破産しました。シャンドス公爵は、70万ポンドもの含み利益をフイにしました。我々の良く知る物理学の泰斗サー・アイザック・ニュートンは、相場が頂点をつける前に売却して利益を上げましたが、あげ続ける相場に耐え切れず、相場の天井近くで再度買い玉を立てたために、以前に手にした7千ポンドの利益を大きく上回る2万ポンドの損失を記録しました。その後のニュートンは、亡くなるまでずっと、南海会社が話題になると、顔が青ざめたと言います。何人かの文筆家も火傷を負いました。作家たちは、一攫千金の夢破れた恨みつらみを詞に託しました。「チェンジ通り(現在のロンバード街です)は空しいところ 黄金の雨を求める愚か者 そのなかにいる歌詠みを 見れば誰でもわかるはず 夢に生き、霞を食べて生きている 南海の夢に酔うのも無理はない 金貨を見るのは夢の中だけ…」この詩は、大きな損失を蒙ったと噂されたジョン・ゲイの詩集『トーマス・スノーへの称賛の手紙』から抜粋したものです。ゲイは、南海会社の株を何度も売るように勧められながら、さらに大きな利益を狙って売ることを拒否したために、利益も元本も共に吹き飛ばしてしまい、しばらくは意気消沈して、腑抜けのようになっていたと、されています。投機に失敗した人は数多く、その人たちの嘆きの声は、とても大きなものでした。しかし、南海バブルのはじけた後の不況は、そう大きなものにはなりませんでした。商人たちの損失は限られていました。商品価格の上がり下がり、とりわけ豊作・不作のある穀物取引や、大漁・不漁のある魚の取引にも精通した目端の利く商人たちは、株価騰貴の異常を認めると、株式を売却して、株式市場と距離を置く姿勢をとっていたのです。翌、1721年の年末には、景気は回復に向かっていたのです。痛手は、株式会社の設立を厳しく制限し、株式投機を禁じた泡沫禁止法やサー・バーナード法によって、18世紀末~19世紀初の産業革命期に襲ってきたのです。
2008.12.19
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クロニクル 第一次インドシナ戦争始まる1946(昭和21)年12月19日62年前のこの日、準備万端を整えたフランス軍は、かつての植民地だったヴェトナムに再び乗り込み、ホー・チ・ミンの率いるヴェトミン軍を攻撃しました。ここに、第一次インドシナ戦争が始まりました。ヴェトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ3国は、1860年代よりフランスの侵略にあい、90年代までに順次植民地化され、フランス領インドシナ連邦とされていたのですが、1941年に日本が進駐してフランス軍を追い払い、以後1945年8月の日本の降伏まで、日本の支配下に置かれました。日本の支配は、苛酷な植民地支配そのものでしたが、ポツダム宣言を受諾し、武装解除されることになった日本軍は、ホー・チ・ミンのヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)の部隊に、所持する武器を渡して降伏したので、結果としてヴェトミン軍の武装を手伝うことになったのです。他方、ヨーロッパ戦線でナチスドイツに大敗し、一時的に国家消滅の状態に置かれ、植民地を除く国土の全体を、ドイツ軍の支配下に置かれたフランスは、ドイツ降伏後も、簡単に占領のダメージから回復できず、アジアの植民地の再建には、手がまわらずにおりました。この間隙を突いて、ホー・チ・ミンらは、45年9月にヴェトナム民主共和国の独立を宣言し、建国の父ホー・チ・ミン自身が臨時主席に就任しました。翌46年3月には、フランスはハノイ協定を結んで、ホー・チ・ミン政権を承認しました。これで目出度し目出足しとはならなかったのは、ハノイ協定を結んだフランス政府の、態度がくるりと変わって、植民地の維持、再建を目指すことになったからです。ここにヴェトミン軍との熾烈な戦いが始まりました。ヴェトミン軍は、人民の支持を受けて徹底したゲリラ戦を展開、消耗戦にフランス軍を誘い込んで、巧妙に敵の消耗を誘い、遂に1954年5月、ディエン・ビエン・フーの戦いで、勝利を決定付けたのでした。ここにフランスは敗北を認め、ジュネーヴ協定によって、ヴェトナム民主共和国の誕生を見たのです。しかし、17度線で線引きをした、ヴェトミン軍とフランス軍の引き離しラインを、今度はアメリカが出てきて、固定化し、サイゴンにアメリカの傀儡政府を作って、北との統一を拒否させ、ここに今度は対米戦争へと、ヴェトナム独立戦争は継続するのです。
2008.12.19
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南海泡沫事件顛末記(29) その3 南海泡沫会社事件 南海会社の取締役達が、株価吊り上げで得た利益を没収する法案、「南海被害者法」が、議会を通過し、200万ポンド以上のお金が没収されました。過去に遡って効力を発揮する遡及法を議会が作ったことになります。通常、法は成立後の事態に対して効力を持つもので、法制定以前の事態に適用されることはありません。その点で、没収の憂き目を見た取締役の子孫が、南海被害者法を非難し、「悪質な自由の侵害」だったと主張したことは、間違いとは言えません。しかし、そう非難した人物(「ローマ帝国衰亡史」という著書のある歴史家のギボンです)の先祖が、経営倫理に反する詐欺行為に加担していたことは、紛れもない事実です。法の隙間をつくことは許さないという、強い決意を示す上で、そしてスケープゴートを求める民衆の強い声に応えるためにも、議会の強硬手段が避けられない選択だったことも間違いありません。この事件は、ここで終わりではありませんでした。1720年12月、「株取引の悪名高い慣行を、将来的に防止することによって、信用の確立を強化する」法案が、議会に提出されます。これが提案者の名を採って、「サー・バーナード法」と呼ばれた法です。この法案は議論を呼び、簡単には成立しなかったのですが、やがて成立し、19世紀の半ば過ぎまで、効力を持ち続けました。同法は、株式会社の設立そのものを全て禁じたわけではないのですが、審査は厳しくなり、また株式市場のあり方を厳しい規制でがんじがらめにしたため、イギリスにおける株式会社の健全な発達を阻害することになり、18世紀末に始まる産業革命においては、株式会社方式を利用して、機動的に会社の経営規模を拡大する道は、閉ざされていたのです。もし、株式会社設立規制が、こんなに厳しくなければ、イギリスの産業革命の展開スピードは、もっと急速に行われていたかも知れません。 続く
2008.12.18
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クロニクル 東京湾横断道路開通1997(平成9)年12月18日あれから11年経ちました。川崎~木更津を結ぶ東京湾横断道路が完成、この日開通式が行われました。途中の海蛍までの川崎側は、海中トンネル方式で、それ以後の木更津までは、海上を走る方式です・しかし、設定した料金が高く、物見高さに見物を兼ねて海蛍に出向く人々が一巡すると、利用車数は、想定に大きく届かず、大きな赤字路線となって今日に至っています。料金が高いから、東京湾横断道路を使うという方も多く、無駄な道路の典型になっているのが現実です。とりわけ、悲劇的だったのが木更津市で、道路建設を当て込んで、高値に買われた地価は、バブル崩壊の憂き目のなかで暴落。JR木更津駅周辺は、進出したそごうの撤退と共に、閑古鳥が鳴き、寂れた状況が現在も続いています。
2008.12.18
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南海泡沫事件顛末記(28) その3 南海泡沫会社事件 損をした投機家に留まらず、南海バブルの崩壊の翳で、不当に利得を手にした者がいるらしいという噂は、貧しき人々にも絶好の鬱憤晴らしの機会となりました。江戸の庶民が、老中松平定信が札差連中に下した棄損令(100万両以上の私財没収と借金棒引きを命じました)に、拍手喝采したのと同じ心理が働いていたと、考えると分かりやすいように思います。怒りの矛先は、先ずは南海会社の経営陣に向けられました。スペイン領アメリカとの貿易を独占しながら、実業の世界では利益を上げられず、もっぱら株価の吊り上げによる、高値での新株の売り出しで利益を上げ、私服を肥やした上に、しかも暴落不可避と見て取ると、自分達の持ち株を高値で売り抜けていたことが、内部告発で暴露されたからでした。次いで、怒りの矛先は一部の政治家に向けられました。南海会社株のオプションを受け取って利益を得ることで、ブラントの詐欺を見逃していたからです。この点で、政治家を抱きこんだブラントの手口は、実に巧妙でした。彼は時価よりも若干高い価格で、政府要人などに株式を割り当てました。しかし、払い込みは要求せず、実際に株券も発行せず、株価が上昇して、一定以上の利益が出た時点で、株券を発行して、南海会社が買い取った形にするのです。賄賂を受け取る側は、この時点で株券を売ったことにして、売値から買い値を差し引いた金額を利益として受け取るのです。現在の株式オプション制度にそっくりですし、日本では、リクルート社が子会社のリクルート・コスモスの株式を有力政治家にバラまいた事件が、このやり方をとっていました。実際に賄賂を受け取っていた政治家は、エイズルビー蔵相、クラッグス逓信相、スタンホープ大蔵次官等々、10指を超え、国王のドイツ人の愛人等、宮廷要人も多数含まれていたのです。こうした事実が次々に明らかとなり、怒った民衆は、不当利得を没収して再配分することを要求しました。下院は国王の愛人まで絡んでいることから、秘密委員会を作って取締役の取引を精査しました。その結果、ブラントに乞われて南海会社の取締役に就任していた、4人の下院議員が除名処分を受け、エイズルビー蔵相と何人もの南海会社の役員が、ロンドン塔(当時の監獄です)送りになったのです。クラッグス逓信相は、賄賂を受け取ったのが本人ではなく、本人が辞退したものを父親が受け取ったことが分かり、父と義絶して、自ら父をロンドン塔送りにするよう、下院に要請しています。 続く
2008.12.17
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クロニクル ライト兄弟初飛行1903(明治36)年12月17日105年前のこの日、ライト兄弟が人類史上始めて、エンジンを備えたプロペラ飛行機で空を飛びました。兄弟は自転車修理業を営みながら、自作の自転車も販売するなどして、貯めたお金を飛行機製作につぎ込み、この日の成功に至りました。3日前の12月14日に1度飛行を試みましたが、兄のウィルバーが操縦を誤り、失速して失敗、部分的な破損を修理して、17日に再度の挑戦となりました。今度は弟のオービルが乗り込み、12秒間120フィートの飛行に成功しました。午前10時半頃でした。2人は交互に飛行を繰り返して、距離と時間を延ばし、この日最後の4度目の飛行では、59秒と言いますから、約1分の飛行に成功、距離も852フィートに伸びました。この飛行機、フライヤー号は、この日昼頃から強まった大風で、4度目の飛行の後、大破してしまったそうです。
2008.12.17
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南海泡沫事件顛末記(27) その3 南海泡沫会社事件 この事件には始末記があります。王族や政界を巻き込んだスキャンダルに発展したからです。南海会社の株価は、10月末には、高値の10分の1になっていました。あまりの急落に、「破産しないのは、いまや流行遅れに見える」といった駄洒落が流行したほどでした。ジャーナリズムは、「はっきりした理由もなく、株価は突然下落した」と、書き立てました。さらに「突然ケタはずれの売り手が市場に現れた。1人が売ると他の人たちも、不安に駆られて売るようになった。…パニックが起こり、それと共に様々な混乱が起こった。」と書いています。ある下院議員は、「正直に言って、連中はもう少し長く、ペテンを続けられると思っていた。…いずれ破滅が来るとは予想できたが、思っていたより2ケ月速かった。」と記しています。近く破綻するだろうが、それは今日、明日ではない。南海会社の内情に接することができる人、そうした情報を聞くことが出来る人たちは、こう考えていました。情報に接する機会のない人々も、高値がいつまでも続くとは思っていなかったのですが、今はまだより高い値で売り抜けることが出来ると考え、株価下落が起きる前に、うまく売り抜けようと考えていました。だからこそ、水鳥の羽音に驚くように、1度下がった株価が、以前のように再び勢い良く上昇しなくなると、不安は大きくなり、少しまとまった売り玉が出てくると、不安は加速して、売りが売りを呼ぶ事態が生まれたのです。いつの世もバブルの崩壊は突然にやってきます。膨らみすぎた実態のないものは、いつも突然にはじけます。バブルだからこそ、はじけるのであって、そこに理由などありえません。明確な理由があるなら、誰もがはじける前に売りますし、近寄りませんから、そもそもバブルになど、ならないでしょう。困ったことは、バブルの後遺症として、経済への信認が、広い範囲で落ち込んでしまったことでした。『ロビンソン・クルーソー』の著者として知られるデフォーは、同時代を生きた1人でした。彼は、「信用や投機と同様に、事業もまた信認に依存していることを、このとき理解した」と記しています。デフォーは、こうも書いています。「神を思い、国を思うのであれば、一体何をしてきたかを考えようではないか。自分で自分の首を絞めているのだ。自分の喉元に刃物を突きつけているのだ。自分の家に火をつけているのだ。自分の財産を破壊しているのだ。……外でもない、自分の家族を貧困に落としているのだ。外でもない、イギリスを破滅させているのだ」と。さらに、「病が重くなり、血液のかなりの部分が腐り、体質が悪くなり、精神の働きが止まって停滞するようになった時、患者に薬を与えても役に立たない。自然に任せて、自然の秘密の働きに生死を委ねるしかない。」「南海病患者の身体はいま。そういう危機にあるように思える。病は重く、沈みきっており、道理や根拠を示しても、何の役にも立たない。患者は自然に任せ、狂った理性が通常通る道を辿るようにするしかない…」と、後のアダム・スミスに通じる考え方を述べています。しかし、南海泡沫事件に対する、バブルに踊った広い範囲の参加者の怒りは、簡単には収まりませんでした。南海会社が株価の20%を用意すれば、信用を供与して資金の貸付を行ったために、僅かな資金しかない大衆までもが、株式を買い、バブルに踊って一攫千金を夢見ていたからです。なけなしの資金を失った大衆の怒りは、人身御供を求めるのです。そして、貴族社会の中にも、うまく立ち回った人たちへの猜疑の眼は、隠された真実を暴かずにはおかなかったのです。 続く
2008.12.16
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クロニクル 田中角栄元首相死す1993(平成5)年12月16日もう15年経ちましたか。尤も娘の真紀子女史が衆議院議員になって、かなり経ちますから、そのくらいは経っているのでしょうね。15年前のこの日、元首相にして、ロッキード事件の刑事被告人でもある田中角栄(通称カクさん)が、死去しました。75歳でした。1972(昭和47)年に、54歳の若さで首相に就任。小学校卒の学歴から、今太閤と囃されて人気も沸騰、日中国交回復に成功するなど、治世の前半は順調でしたが、石油ショックの到来と狂乱インフレに悩まされ、田中金脈を追求されて、74年11月、辞任を余儀なくされました。その2年後の76年2月、ロッキード事件が勃発、7月末に逮捕されました。逮捕された田中角栄は、自分を逮捕させた自民党政治への報復を目指して、数は力とばかり、自派閥の拡大に熱中。50~60人規模だった派閥の適正規模を無視して、100人を超える超大派閥に育てて、キングメーカーに徹して、党内に隠然たる力を振るいました。金権体質に染まりきった自民党と日本政治という図式は、ここに出来上がったのでした。その後、85年に脳梗塞を煩い、その後は政界を引退。一審で有罪判決を受けて、直ちに控訴していたロッキード裁判も、被疑者病気で開店休業状態になり、結局角栄の支持を得た人物しか、首相になれない状況が続いていたのです。そして、この日、8年9ヶ月の闘病を経て、田中元首相は死去。ロッキード裁判は、最終結論を出すことなく、ウヤムヤの終わりを迎えたのでした。
2008.12.16
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南海泡沫事件顛末記(26) その3 南海泡沫会社事件 ブラントと南海会社の思惑は、完全に外れました。泡沫会社潰しは成功したのです。いや成功し過ぎてしまったのです。泡沫会社3社への令状の発行が確認されると、株式市場はパニックに陥りました。訴追審査の結果、特許状で認められた範囲を超えて業務を拡大していたと認定されれば、会社は解散を命じられます。そして、業務範囲の違反は日常的でしたから、誰もが解散命令の発動は不可避だと考えたのです。3社の株は勿論のこと、3社と同じように特許状の業務範囲を超えて事業を拡大していた人気の高い会社の株も、一緒に暴落したのです。例えば不動産にも事業を拡大していた水道下位者の株価は、305ポンドから30ポンドへ急落し、保険会社の株価は75%も下落したのです。この間僅か2週間でした。こうした泡沫会社群の株価急落は、南海会社株に確実に跳ね返りました。ブラントが見落とすか軽視していたことに、南海会社株を担保とした資金の貸し出しがありました。そして多くの投機家あ、借りた資金で泡沫会社株を買っていたのです。泡沫会社株で大損した投機家は、損失の穴埋めに南海会社株を売るしかありません。考えてみてください。サブプライムショックに始まる今回の金融危機の直撃を受けたのは、アメリカとヨーロッパの金融機関やヘッジファンドでした。しかし、大損した彼らは、損失の穴埋めに手持ちの日本株を、値段構わずに売らなければなりませんでした。その結果が、本場アメリカを上回る日本株の下落に繋がりました。南海会社株の運命は、今日の日本株と同じでした。泡沫会社株と同じように、南海会社株も売られざるを得ませんでした。バブルは壊れ、人々は熱病から醒めたのです。6月の最高値が1,050ポンド近く、8月の上旬までの安値が850ポンド強だった株価は、9月下旬には175ポンドとなり、12月には124ポンドにまで下がったのです。 続く
2008.12.15
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クロニクル 公害健康被害救済措置法公布1969(昭和44)年12月15日39年前のこの日、ようやく、公害病に苦しむ人々の医療費負担を軽減する措置を取れるようにするための法的措置が、公布されたのです。実際には、翌70年に、四日市市が独自の医療費補助を決定し、それがやがて、広く国や他の地方自治体に波及してことになりました。50~60年代に明らかにされた公害病には、水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息などが代表的ですが、60年代の反公害闘争をうけ、70年代には、被害者救済が少しづつ、前進してゆきます。
2008.12.15
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南海泡沫事件顛末記(25) その3 南海泡沫会社事件 南海会社の株式は、6月に1千ポンドを超えたところが高値となり、そこから調整して8月には850ポンド前後となって、上値が重くなっていました。しかし、諸他の泡沫会社株はなお好調でした。南海会社は自社株を担保とした融資を行っていましたし、銀行もまた、値上がりする株式を担保として金を貸すことに熱心でしたから、投機家の大部分は、株式を担保に金を借り、そのお金を頭金にして、さらに株式を買い増していましたから、この時点では、なおバブルは続いているように見えました。しかし、ブラントら南海会社の幹部にとっては、自社株の右肩上がりの株価上昇こそが大切でした。そこにこそ、儲けのうまい汁が詰まっていたからです。ブラントらは、泡沫会社との競争によって、自社株がさらに下がり続けるのでないかと怖れ始めたのです。泡沫会社を牽制して、投機の熱狂を自社の独占とすることを願って、ブラントは「泡沫会社規制法」制定を政府に働きかけ始めたのです。この法は、まず会社の設立には、議会の許可を受けることを義務付け、既存の会社には、特許状で許可された仕事以外への多角化を禁ずる内容でした。この泡沫会社規制法は、6月9日に成立しています。この時期は、なお南海会社の株式も値上がりを続けている時期だったこともありますが、この法が泡沫会社株の株価に影響することはありませんでした。皮肉なことに、この法施行の数日後に、南海会社株は1千ポンドを超え、その数日後から緩やかな下落に転じたのです。泡沫会社に規制をかけるということは、南海会社に、何か問題が生じたのではないかと、1部の投機家が事態を警戒したのが原因でした。緩やかながらも自社株の下落(1千ポンド強から850ドル程度へ)を目の当たりにした、南海会社の幹部は、焦りから更なる悪手を繰り出しました。国債を次々に引き受け、自社株と交換してくれる南海会社は、政府にとってもなくてはならない存在でした。それゆえ、政府もまた、南海会社の要望は大抵のことなら、引き受けてくれたのです。そこで、法務大臣に働きかけて、特許状が認めている範囲を大きく超えて、事業を多角化していた3社の泡沫会社に対して、裁判所への訴追令状を出してもらったのです。そして、株価のテコ入れを狙って、配当の増額も発表しました。しかし、経営陣の狙いは外れました。泡沫会社の訴追で、株式市場はパニックに陥ったからです。 続く
2008.12.14
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クロニクル 日本OECD常任理事国に1965(昭和40)年12月14日今から43年前のことです。丁度戦後20年が経過し、東京オリンピックが終了して1年が経過した時でした。世界的にはヴェトナム戦争へのアメリカの介入が泥沼化の様相を強めていた時期でした。そういう状況のこの日、日本がOECD,経済協力開発機構の常任理事国に推挙され、満場一致に近い支持を得て、就任することになりました。以後ODA(政府開発援助)も年々増額され、日本は次第に援助大国になってゆきます。
2008.12.14
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南海泡沫事件顛末記(24) その3 南海泡沫会社事件 しかし、女性の投機家には、男性に比べて決定的に不利な点がありました。それは、男性達のビジネスの場にもなっていた、コーヒーハウスの多くが女人禁制になっていたことです。株式ブローカーは、夫々お気に入りのコーヒーハウスに出入りし、そこで、情報を交換したり、投機家相手に、おしゃべりをしたりしていたからです。この点で、貴婦人達は、男性に比べて圧倒的に少ない情報で、駆ったり売ったりしなければならなかったのです。そうした条件を抱えながら、女性達の損益成績は、男性に比べて、決して劣るものではなかったと伝えられています。ブローカーの妙な情報に踊らされることがなかった分、かえって冷静な判断が出来たのかもしれません。第二次世界大戦の英国の指導者だったウィストン・チャーチルの直系の先祖にあたる、マールバラ公爵夫人は、5月中に南海会社の株を全て売り払い、10万ポンド近くの利益を上げています。彼女の仲間のラトランド公爵夫人やタンサン伯爵夫人なども、同じく高値で利益を確定することに成功しています。マールバラ公爵夫人は、友人への手紙で次のように語っています。「誰でも常識を保ち、計算について少しでも知っていれば、1500万ポンドしかない正貨で、4億ポンドの紙幣を支えきれるはずがないことは、理解できるはずです。そこで私は、この計画は間もなく破綻し、無に帰すと考えたのです」と。これが彼女の利益確定の理由でした。常識的で、欲ボケに陥っていない、彼女の澄んだ瞳が、バブルの正体をしっかりと掴んでいたのです。正貨即ち貨幣は、金や銀の含有量で価値が決められました。英・仏・独・蘭などの夫々の正貨は、金銀の含有量を下に、交換比率が定められていたのです。例えば1ポンド金貨の金含有量が0,5グラム、1マルク金貨のそれが0,25グラムだったとすると、イギリスの1ポンド金貨は、ドイツ金貨2マルクと交換される、こんな具合でした。しかし、紙幣は違います。ですから紙幣は、この紙幣は1ポンド金貨にいつでも交換できますという条件をつけることで、紙面に書かれた数字と同じ価値を持つのです。しかし、紙幣はいくらでも印刷可能です。金貨である正貨といつでも交換できるならと、誰もが安心していると、財政難の政府はいつの間にか、正貨との交換がとても出来なくなるほど、大量の紙幣を発行してしまうのです。マールバラ公爵夫人は、この事実に注目し、正貨の27倍にもなった紙幣の価値は、間もなく暴落し、その大量の紙幣発行に支えられた株式バブルは、近い将来必ず崩壊する運命にあることを、見抜いたのです。冷静であったがゆえに慧眼であったといえましょう。彼女が利用したのは、決してインサイダーとはいえません。漏れ聞いた情報が、何を齎すかを冷静に見抜く眼がなかった人々は、同じ情報に接しながら、その価値を理解できずに、損失を膨らませた人々も少なくなかったのです。 続く
2008.12.13
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クロニクル ポーランドに戒厳令1981(昭和56)年12月13日27年前のこの日、ポーランド政府は戒厳令を発して、自主管理労組連帯のワレサ議長を軟禁しました。ポーランドでは、前年8月14日に、グダニスクの造船所で大規模なストライキが発生し、そのストの指導機関として、9月22日に自主管理労組「連帯」が発足、ワレサ委員長が誕生していたのです。しかし、1968年に、プラハの春を謳歌し、「人間の顔をした社会主義」を標榜したチェコ・スバキアのドプチェク指導部が、ソ連軍の戦車に踏み潰された例に見られるように、東欧圏の国々の自由化運動に、ソ連指導部の警戒感は、ことのほかに強いことは、良く知られておりました。このことを熟知するポーランドでは、ヤルゼルスキー将軍がクーデタで政権を掌握。ソ連の介入を避けるために先手を打ち、戒厳令を発令して、ワレサ議長を予防的に軟禁状態に置いたのでした。それは、連帯運動の広がりを一時的に抑えることにはなりましたが、それ以上にソ連に介入の口実を与える可能性を、用心深く潰した行為でもあったことを、見落とすことは出来ません。
2008.12.13
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南海泡沫事件顛末記(23) その3 南海泡沫会社事件 1720年におけるイギリスのバブルの特徴は、特定の会社の株式が、天井知らずに買い上げられたのではなく、190にものぼる泡沫会社の株式を含む株式という株式が、揃って数倍から十数倍に買い上げられたことにあります。その結果、ロンドン株式市場の時価総額は、1695年には500万ポンドであったものが、1720年の夏の初めには5億ポンドに達し、なんと100倍を超えていたのです。そのため、フランスのミシシッピーバブルを知る投機家たちは、「まだもう少し大丈夫だろう」と、自分以上に欲の深い、どこかの誰かに高値の株を売りつける心積もりで、投機に参加していたのです。誰も、自分が最高値を掴んだ、最大の欲ボケを演じることになるとは、思ってもいなかったのです。ここに、バブルの喜劇性があります。株価が値下がりを演じ始めて、初めて自分が大馬鹿者だったことに、気がつくのですが、それは遅きに失したことになるのです。ここで見過ごせないことは、ロンドンでの株式投機には、かなりの貴婦人達の参加が見られることです。その原因は、フランスと違ってこの時期のイギリスでは、不動産の相続は、直系の男子にしか認められていなかったことにありました。名門や富豪の令嬢は、結婚に際し、不動産を持参するしきたりがありました。この不動産は、亡くなるなめ自分の名義なのですが、自身で処分する権限はなかったのです。かといって処分権が夫に移るわけでもなく、自分の子どもに移るのです。女の子しかいない場合は、そのまま婚家へ持参するのですが…。ところが、現金や株式には、そのような制約はなく、自ら自由に処分すること、つまり売買を行うことが出来たのです。こうした事情が、貴婦人達の関心を、株式市場に近づけたのでした。 続く
2008.12.12
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クロニクル サンウェーブ工業倒産1961(昭和36)年12月12日47年前のこの日、台所の流し台の大手メーカー、サンウェーブ工業が会社更生法を申請、事実上倒産しました。現在のような、システムキッチンのまだない時代でしたが、ステンレスの流し台は、同社が開発し、高度経済成長の波に乗って、倍々ゲームで既存住宅にまで、販路が広がりつつあっただけに、年末の倒産劇は、意外感を持って受け止められました。強気になりすぎての、過剰な設備投資が倒産の原因でした。
2008.12.12
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南海泡沫事件顛末記(22) その3 南海泡沫会社事件 1720年に設立された泡沫会社の殆どは、その掲げた目的からしても、いかがわしいものでした。当時の記録からいくつかを抜き出してみましょう。「永久運動する車輪を開発する会社」、「鉛から銀を抽出する会社」、「水銀を展性のある良質の金属に変える会社」、「おがくずから机を作る会社」、「グリーンランドの捕鯨を再興する会社」などなど、少し冷静であれば、先ずひっかからないような目的を掲げた会社が多かったのです。そのうち最も有名なケースは、「それが何であるかは、誰にも言えないが、極めて有益な事業を行う会社」という触れ込みで、投資家を募集した会社でした。事業内容を明らかに出来ない理由を問われると、決まって「誰も気付いていないが、誰にでも出来ることなので、真似をされては困るからだ」との答えが返ってきたのです。投機に浮かされていた人々は、この一言にコロッと引っかかったのでしょう。無価値なローン債権を細かくバラシテ、何十、何百というローン債権を1束にして、保険をつけたから安心だと信じ込んで、大損をして青くなっている現代の金融ノプロも、この同類に見えますが…。こうした会社の株式もまた、上昇を続けました。前回に記した魚槽会社の株式は16倍、保険会社の株は26倍、帆の製造会社に至っては、株式の発行前に株式引き受け権が、既に7倍で取引されました。株式であれば何でも上がる熱狂の中で、東インド会社やアフリカ会社、ミリオン銀行といった既存のしっかりした会社の株式も値上がりしました。しかし、東インド会社株は4,5倍。アフリカ会社株は8,5倍。ミリオン銀行株は4,4倍と、泡沫会社の株式に比べれば、その値上がりは緩やかでした。いかにバブルが加熱していたかがわかります。実際に1720年に設立された泡沫会社のうち、10年後、20年後に生き残っていた会社は僅かに4社に過ぎなかったのです。 続く
2008.12.11
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クロニクル 100円銀貨登場1957(昭和32)年12月11日丁度51年前の今日のことです。この日初めて100円銀貨が、日本の貨幣史に登場しました。しばらくは、自由民権運動の産みの親として知られる、板垣退助の肖像を刷り込んだ100円札と併用されましたが、この日以後、紙幣は刷り増しされることはなく、時間の経過と共に紙幣は姿を消して行きました。100円玉もまた、銀貨は製造原価が割高なため、10年後の1967年には、現在も使われている白銅貨に代えられました。100円玉にまつわる、神父の個人的な思い出話で恐縮ですが、1962年の8月に約1カ月、北海道をYHを巡りながら、時折友人宅に泊り込んだりもして、1人旅を楽しみました。この北海道旅行で、千円札を出してのつり銭に、100円玉を手にしたのは、札幌でのたった1回しかなかったことが、強烈な印象として残っています。銀貨の発行から5年にしてなお、北の大地には、いまだ100円銀貨は行き渡っていなかったのです。通貨の流通にも地方色があることを、旅の実感として学んだのでした。これは意外な発見でした。
2008.12.11
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南海泡沫事件顛末記(21) その3 南海泡沫会社事件 南海会社の株価の上昇は、フランスのバブルに比べれば、問題にならない程度のものでした。しかし、イギリスの場合、南海会社の成功にあやかろうと、雨後のタケノコのように、沢山の泡沫会社が誕生したことが問題でした。南海会社の計画の発表前に設立を見た会社もいくつかありましたが、この年夏にかけての株式会社の設立数を見ると、1月は5社、それが2月には23社、3月は不明ですが、4月は27社、5月は少し減って19社、そして頂点に達する6月には、なんと87社も登場したのです。株式会社の設立は誰にでも出来ました。商法の規定などなかったからです。誰もが会社の設立を宣言し、株式を募集し、その会社に投資しよう、株式を購入しようという人を集めれば良かったのです。南海会社の成功が、南海会社株を買い損ねた人々を刺激したのです。それなら他の会社の株を手に入れようと…。株式発行の方法も簡単でした。当時盛んになり始めた新聞を利用し、新聞の紙面を借りて自分の会社を宣伝し、シティのコーヒーハウスの一つを指定して事務所代わりとし、そこで応募を受けるのです。このことはこの春、コーヒーの旅路に書かせていただきました。当時の新聞の宣伝文から拾い出してみると、「南海会社をはじめ、すべての公開株を売買する企業」といった金融ブローカー業務を掲げる企業から、「オーストラリア大陸での貿易と植民を目的とするロンドン冒険会社」という植民地建設を掲げる会社まで、並んでいたのです。後者のロンドン冒険会社は、危ない投機でした。1720年にはオーストラリア大陸は、まだヨーロッパ人は「発見」していないのですから…。クックによるオーストラリア大陸の「発見」は、この50年以上も後のことでした。しかし中には、新技術を基盤に設立された企業もありました。リチャード・スティールという人物が設立した「魚槽会社」は、活き魚をロンドンまで運べるように設計された、漁船の技術特許を基礎に、設立された会社でした。残念なことに、魚槽に入れられた活き魚は、時化になると、驚いて無茶苦茶に泳ぎ、互いにぶつかり合って死んでしまうため、この時点では、この野心的な試みは失敗に終わってしまうのですが…。こうした数多くの泡沫会社の株式も、実は飛ぶように売買され、株価は南海会社のそれと同じく、右肩上がりで上昇したのです。まさにバブルでした。 続く
2008.12.10
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クロニクル 新進党結成1994(平成6)年12月10日14年前のことですが、既に遠い過去の出来事のように、記憶が薄れてしまっています。それだけ、この時期の政党の離合集散はめまぐるしく、しかも政策理念というよりも、政治家同士の個人的な好悪や、あくなき権力欲などばかりが、目立っていたからでしょう。前年8月9日、日本新党の細川護熙党首を首班とする、8党連立政権が誕生して、自由民主党を政権の座から追った政変のことは、今でも新鮮な驚きをもって、鮮明に覚えています。そして、8ヵ月後のこの年4月、細川首相の突然の退任と、羽田首相の登場、社会党の連立離脱と続いて、6月末の自民・社会両党にさきがけを加えた自社さ連合の成立と、村山内閣の誕生あたりまでは。良くおぼえています。しかしその後は……、そして14年前のこの日、新生党、日本新党、民社党、公明党など共産党を除く野党9党派を集めて、新進党が誕生したのです。小沢一郎現民主党代表は、代表幹事に就任、委員長には海部俊樹元首相が就任しました。
2008.12.10
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南海泡沫事件顛末記(20) その3 南海泡沫会社事件 南海会社は、株式売り出しについて、当初の払い込み額を総額の2割と決めると、その直後には、自社株を担保に、投資家への融資をも手がけ始めました。これもジヨン・ローのやり口を真似たものでした。融資額は1株に対して250ポンドを、株主1人当たり5000ポンドまでと成っていました。しかし、家族名義なども認められていましたから、事実上上限はないようなものでした。この融資は、株価上昇の強力な援軍になりました。融資を受けることによって、投機家は自分の資金力以上の株式を購入できるようになったからです。現在の信用買いの初歩的な仕組みが出来たようなものだったからです。買いはあって、空売りはないのですから、同社株への需要だけが増加することになったからです。同時に、担保として南海会社に預託された株式は、市場には流通しませんから、こちらでは株式の供給は減少しているのです。南海会社が、株式を担保に株主に融資する計画を発表した時に、投機の最終局面が訪れつつあることを察知し、会社の株を売り抜けて、利益を手にした慧眼の人物もいることはいました。後に利益の一部をロンドン市内の病院に寄贈し、喜んだ病院がトーマス・ガイ病院と彼の名を病院名にしたことで、有名になったトーマス・ガイはその1人でした。万有引力の法則で名高いサー・アイザック・ニュートンも7千ポンドの同社株を、この時期に売却して、一度は利益確定しています。ニュートンは後に大損することになるのですが…こうして、南海会社の株式は、高値に上っていったのですが、その高値は1千ポンドを超えた程度(1050ポンド程度が最高値でした)でしたから、フランスのミシシッピーバブルに比べれば、上昇率はかなり抑制されたものでした。額面は100ポンド、年初の価格は128ポンドだったのですから、8倍程度の上昇だったのですから…。ロンドンのバブルが南海泡沫会社事件と呼ばれるのは、この1720年の同じ時期に。南海会社以外の多くの株式会社が設立され、そうした数多くの、良く言えばベンチャー企業、悪く言えば泡沫企業にまで、多くの投機家が群がったことにあるのです。南海会社の株式を買い損なって悔しい思いをした、欲の皮を突っ張らせた人たちが、こうした泡沫会社の株式を買いに走ったのです。これがロンドンのバブルの特徴でした。 続く
2008.12.09
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クロニクル イラク派遣計画決定2003(平成15)年12月9日5年前のこの日、小泉内閣は、自衛隊のイラク派遣の基本計画を決定しました。ここに、国連が派遣を決めたわけでもなく、アメリカが国連を無視して、強引にイラク攻撃を始めた戦争に、日本が積極的に関わることが決められたのでした。曰く「非戦闘地域に限る」。曰く「戦闘には参加しない。持参する武器は自衛用である」。曰く「民生支援活動に限り、水道施設の復旧を担当する」等々の、条件をつけて…。こうして翌2004年の早い段階で、イラク南部サマーワへ自衛隊は出かけたのでした。しきりに評判が悪かったと、政府筋は宣伝にこれ努め、マスコミもまた同じキャンペーンを張りましたが、湾岸戦争にも加わらなかった日本は、軍事力でアラブに圧力をかけない唯一の経済大国として、アラブ世界では好意的に見られておりました。折角のこの評判は、自衛隊という名の軍隊のイラク派遣で、完全に失墜してしまったのは残念なことでした。長い目で見た時、戦後日本の大きな精神的バックボーンであった平和憲法体制は、この時に葬り去られたのだと、いわれないようにするには、ここからが踏ん張りどころかもしれないと、私は受け止めています。
2008.12.09
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クロニクル バサブアの日本軍全滅1942(昭和17)年12月8日66年前のこの日は、ハワイの真珠湾を日本軍が攻撃した、ちょうど1年後でした。この年10月生まれの私は、生後50日くらいだったことになります。この日、ニューギニアのバサブアに布陣していた日本軍が、米軍の攻撃で全滅しました。真珠湾攻撃は、米軍の太平洋艦隊を殲滅することで、米軍の太平洋への展開を1年半から2年、阻止できるだろうという見込みで行われましたが、この見込みは見事にはずれ、この年6月のミッドウェー海戦に敗れて、その時点で制海権を失い、8月には、米軍のガダルカナル上陸を緩し、悲惨なジャングル戦を挑んで、多くの犠牲を出していました。真珠湾攻撃の戦果に対する甘い期待は、既にこの時点で、見事に剥げ落ちていたのでした。しかい、軍部と政府はこの事態の全てを国民に隠し、この年大晦日にようやく決断した、ガダルカナル島撤退の決定も、国民には転進として嘘の情報が伝えられたのでした。
2008.12.08
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南海泡沫事件顛末記(19) その3 南海泡沫会社事件 南海会社の株式と、国債を交換する計画については、1720年1月21日に、蔵相が議会で計画の概要を発表しました。すると、翌日から、南海会社の株価は上昇し始めました。年の初めに1株128ポンドだった株価は、2月中旬には、187ポンドに上昇したのです。南海会社は、「ロンドンのミシシッピー会社だ」と、噂されました。しかし、この時はまだ、転換条件は明らかにされておらず、議会の承認も得られていなかったのです。南海会社は、蔵相や逓信相、国王の愛人らに、自社の株を割り当てていました。リクルート事件でお馴染みになった手法と全く同じ仕組みでした。こうなのです。割り当てた2月中旬よりも、少し高めの値段で割り当てるが、代金の払い込みは要求しないのです。値上がりした時に、株を売却して、売却代金で会社に購入費を支払い、利益分のみを受け取るのです。当然株式の割当を受けた人たちは、株価の上昇を歓迎するようになります。3月に入って、株価が300ポンドを上回ったところで、会社が自由に転換価格を決めて良いとの議会決定が出されました。4月に入って会社は、国債と株式との転換を受付けました。同時に株式の1部を売り出し始めたのです。ローのシステムを真似て、株式の買い付けは、売り出し価格の2割の手付けを支払うことで実行されました。残額は株を売却した折に、支払っても良く、8回の分割払いで、今後の1年4ヶ月の間に支払っても良かったのです。株価が上がると信じ込んだ人々が、この条件に飛びつきました。会社は、売り出し価格を高めに設定しても。売れるようになったのです。仮に株価が300ポンドだったとします。今、900ポンドを投じようとしている人は、このお金で3株を買うことで満足するか、2割の60ポンドを支払い、残りを後払いする方法を選択して15株を買うほうを選ぶかなのです。多くの人々が後者を選びました。バブルが始まったのです。 続く
2008.12.07
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「貧乏人は麦を食え」発言を巡って コメントへのお返事昨夜記した、「貧乏人は麦を食え」と言う、池田発言を巡って、7人の方のコメントをいただきました。有難うございます。表現は違えど、コメントの方向は共通していますので、どなたへのお返事も同じような内容になりそうなので、ここにまとめてお答えを、少し膨らませた形でさせていただくことに致しました。どうぞご了解ください。彼は、広島のつくり酒屋の息子です。決して先祖代々のエリートではありません。東大から大蔵省に入り、秘書官として官邸に出向、吉田茂首相に仕え、運輸省から出向した佐藤栄作と共に、吉田に進められて政界に入り、1年生議員にして蔵相に抜擢されたのです。同じく運輸相に抜擢された佐藤と共に、吉田学校の優等生とやっかみをかねて自由党内で囁かれていました。ちなみに吉田も池田も優秀な秘書官を政界入りさせ、子分として育てるのが好きで、大平正芳や宮沢喜一も、この系譜に属しています。ところで池田は直言居士で、ストレートに物を言い過ぎる傾向がありました。この発言がまさにそうでした。当時なまだ、食糧難が解決せず、3度の食事を満足に取れない家庭も残っており、貧しい家庭は麦飯が主流でした。せめて銀シャリ(白米のこと)を腹いっぱい食う身分になりたい。これが貧しき人々の願いでした。食い物があることが幸せな時代だったのです。今では、遠い昔のことになりましたから、ご存じない方も多いのですが、日本の米の自給率が100%を越えてくるのは、東京オリンピック後の1965年のことになります。それまでは米の生産量は、国内需要を満たせずに、外米を輸入して間に合わせていたのです。日雇い労働者の日給が240円で、彼らが自嘲的にニコヨンを自称していたのは、1954年頃から60年にかけてですが、この頃の彼らの憧れの昼食が、中央に梅干を1個入れた銀シャリ弁当、日の丸弁当だったのです。それは、毎日はとても無理だったのです。底辺の労働者の暮らしが、ようやく麦飯を卒業して、毎日白米になっていったのは、60年代に入った頃からでした。「貧乏人は麦を食え」は確かに失言でしたが、今のような低レヴェルな、実情についての無知が言わしめる失言とは、だいぶ趣が違っていました。それはストレートに事実を言い過ぎたことにあったのです。米の生産はとても足りません。当時冷害に強い品種の稲は、なお試作の段階に過ぎなかったからです。外貨も不足がちで、輸入も外貨の割当を受ける必要のある、許可制の時代でした。ですから、全世帯に米をいきわたらせることは、当面できないが、せめて麦は行き渡るようにする。食い物がない世帯は無くす。麦でもないよりは良いはずだ。池田蔵相は、ストレートにそうした思いを表現したのです。1年生議員らしい、表現を工夫しない直言でした。それは目の前の現実を指摘したものでした。しかい、この発言は、いずれ銀シャリを腹いっぱい食べられるようになりたいという、歯を食いしばって頑張っている、戦禍からの復興にようやく目鼻をつけつつある国民の神経を逆撫でしてしまったことも事実でした。同じことを言うにしても、表現を工夫せよ。これが吉田が池田に与えた注意だったと聞き及びます。2年後の「中小企業の一つや二つの、倒産、自殺はやむをえない」発言も、同じ脈絡にあります。丁度共和党のアイゼンハワーが、朝鮮戦争の終結を公約に大統領選に勝利した直後で、挑戦特需が大きく減少を初め、日本経済に不況色が濃くなりつつある時でした。大企業の倒産は、雇用を守るために何としても避ける。しかし、中小企業全てにまでは、手がまわりかねる。そちらはいくらか潰れるかも知れないが、そこまでの金はないので、勘弁してほしい。こんな趣旨だったのです。通産相として打ち出す、当時の不況対策としては、間違ったものではありません。しかい、この発言もストレート過ぎました。この時は吉田も庇いきれず、辞任したのです。54年吉田は首相の座を降り、鳩山、石橋、岸信介の3人を挟んで、池田は1960年7月に就任し、64年11月に咽頭癌の悪化に拠り辞任するまで、3期4年4ヶ月弱首相を務めています。かつての直言居士、高姿勢は影を潜め、相変わらずストレートな物言いではありましたが、放言壁は翳を潜めた見事な変身振りを見せたのです。「つくり酒屋の息子に過ぎない、自分のようなものが、首相になって良いのか」と随分と政界の先輩達に話していたという逸話があります。また私が特に感心するのは、首相に就任後、大好きなゴルフと、高級料亭通いを完璧に封印し、一度とぢて禁を破らなかったことです。宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の事故のときに、ゴルフ場からすぐに戻らなかったアホ首相や、ホテルのバー通いに居直る現首相と、同じレヴェルで比較する気には、私はなりません。安保条約の改訂をごり押しした岸首相の後を受け、国民との和解を目指して、寛容と忍耐をスローガンに、国民と野党に対する低姿勢と対話路線を貫いてブレなかった政治姿勢を、私は高く評価しています。所得倍増政策を掲げ、物価上昇率を上回る経済成長と賃金の増加を打ち出した政策も、当時は広く受け入れられたものでした。じゅぺ理さんが、池田発言をよく覚えておられるのは、彼の首相就任時に、この言葉がマスコミに甦り、良く使われたからからなのではないでしょうか。
2008.12.07
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