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クロニクル 『日本の下層社会』出版1899(明治32)年4月30日117年前のこの日、横山源之助著『日本の下層社会』が教文館から出版されました。著者の横山は大阪毎日新聞の記者でした。横山は二葉亭四迷の門を叩いて、文学と社会問題の関係を深く考察する必要性を自覚したことから、1894(明治27)年に大阪毎日新聞に入社し、ルポルタージュ記者として、才能を開花させました。日清戦争後、社会の底辺で生活する貧しき人々の生態に関心が集まってきていたため、横山の現地からのルポは評判を呼び、貧しき人々の生活に焦点を合わせて、その生活の実際を素直に表現したものとして、高い評価を得たのでした。この著作は、関西と北関東、そして東京の3地点での調査を踏まえて記されており、貧民の諸階層の生活を冷静,沈着に調査、観察している点で優れていました。ここに、日本資本主義においても、貧民問題は必然的な社会問題であることが、明確に理解される事となりました。なんだか、21世紀に入って、再び貧民と貧困が問題になってきつつありますね。このままで大丈夫なのでしょうか。大いに疑問です。
2016.04.30
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クロニクル IOC日本とドイツの五輪復帰承認1949(昭和24)年4月29日67年前のことです。この日開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会は、日本とドイツのIOC再加盟と五輪への復帰を承認しました。第14回ロンドン五輪は、前年(1948年)に終了していましたから、この決定により両国は、1952年開催の第15回ヘルシンキ大会からの五輪復帰が決まったのです。ただ、この時点では、ドイツはなお、一つのドイツでしたが、米ソ冷戦の激化の中で、この年9月に西ドイツが、1か月後の10月に東ドイツが誕生することになり、ドイツは東西が別々に五輪に参加することになったのです。ヘルシンキ五輪、小学校4年生の私は、まだ疎開先の桐生におりました。古橋選手の水泳や人間機関車と呼ばれたチェコのザトペック選手の活躍を、夢中になってラジオにかじりつきながら応援していたのでした。なお五輪の歩みの中で、1940年の第12回東京大会と、1944年の第13回ロンドン大会の2つの大会は、第二次世界大戦の最中ということで中止され、実際には開かれていませんが、五輪の大会にはカウントされています。
2016.04.29
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クロニクル ドゴール大統領辞任1969(昭和44)年4月28日47年前のことです。1950年代の後半、アルジェリア独立運動の高まりの中で、強い指導力を持つリーダーの必要が叫ばれ、フランスは1958年に憲法を改正、第五共和制の時代に入りました。この新憲法の下、第五共和制の初代大統領となったのが、第二次世界大戦における仏軍の英雄だった元将軍のシャルル・ドゴールでした。彼は1962年にアルジェリアの独立を認めるなど、それまでの優柔不断な政府と決別した思い切った手を打ちましたが、施政が長引くに連れ、次第にマンネリの弊害に陥りました。ドゴール型の政治に対する異議申し立ては、1968年5月、五月革命として、ソルボンヌの学生たちによって、始められました。時あたかも、東洋の日本では、東大と日大の学生たちによる全共闘運動が高まりを見せつつあり、西洋のパリと極東の東京で、相次いで学生たちの叛乱が、盛り上がりを見せていました。フランスの五月革命は、やがて女性の権利獲得の運動に広がり、自己完結型の日本の全共闘運動とは異なる展開を示し、さらに全国規模の労働者のゼネストにまで拡大し、47年前の今日、遂にシャルル・ドゴール大統領に辞任の決断をさせるに至ったのです。開始から1年、学生たちの五月革命は、独裁型の指導者ドゴールを打倒することに成功したのです。さすがは革命の国フランスというべきでしょうか。
2016.04.28
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クロニクル サントリービール発売1963(昭和38)年4月27日東京オリンピックの前年の話です。53年前のこの日、洋酒のサントリーがビールの生産に乗り出し、サントリービールを発売しました。何故サントリーがビールを?それには、同社ならではの事情がありました。サントリーのウィスキーが売れすぎ、洋酒業界では、ダントツのガリバーになりすぎたのです。このままでは独占禁止法による会社分割の対象にされてしまう。こういう危機感を同社は持ったのです。幸い、洋酒も酒類の分類でしたから、洋酒以外の売れない商品を出せば、サントリー全体の酒類のシェアは下がり、分割の畏れはなくなります。サントリーはこれを狙ったのです。当時の佐治敬三社長は、ビール部門に対し、「急いで売れる商品に仕立てなくてよろしい。時間はかかっても、良いものを育てて欲しい」と、訓示したそうです。こうして時間をかけて育てることが出来たからこそなのでしょうね。それこそ、初期の少しも美味しいと思えなかったサントリーのビールも、2000年代の中頃には良い味を出すようになり、矢沢永吉をCMに起用した「サントリープレミアムモルツ」など、、飲み応えのある美味しいビールになってきました。ただ、ダルマなど低・中級のウィスキーの味は、落ちているように感じます。
2016.04.27
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クロニクル 小泉内閣誕生2001(平成13)年4月26日15年前のことです。24日の自民党総裁選で圧勝した小泉純一郎総裁が、この日自民・公明・保守3党の支持で、首相指名選挙に圧勝、直ちに組閣を行い、この日のうちに小泉内閣が誕生しました。外相には田中真紀子、経済閣僚に竹中平蔵慶大教授を迎え、福田康男官房長官、安倍晋三官房副長官、麻生太郎経済産業相という布陣でしたが、5人の女性大臣を登用し、田中・竹中両大臣を内閣の2枚看板にしていましたが、小泉首相自身がそれ以上の目玉で、高い人気を誇り、5年間の長期政権となりました。
2016.04.26
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クロニクル 日劇レビューに幕1977(昭和52)年4月25日39年前のこの日、日劇ダンシングチームが最終公演を終えて、解散しました。日劇レビューは41年に及んだ歴史の幕を下ろしたのです。 レビューの誕生は1936(昭和11)年、当初は東宝ダンシングチームと呼ばれていました。黄金期は昭和30年代、石原裕次郎夫人の北原三枝さんもダンシングチームのスターから映画界入り、「狂った果実」で共演したのが、裕次郎との出会いだったそうです。しかし、テレビの普及にともなって、日劇レビューは次第に衰退、最盛期には300人超を数えた団員も、最終公演では58人にまで減少していました。この日の公演には、最後のラインダンスを見ようとオールドファンが大挙押しかけ、劇場は立ち見客まで出る超満員でした。こうして有楽町の灯が一つ消えたのですが、この日劇、やがて有楽町マリオンとして再生しました。
2016.04.25
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クロニクル 「週刊マーガレット」創刊1963(昭和38)年4月24日53年前になりますから、東京オリンピックの前年のことです。この日、集英社から少女向け漫画雑誌「週刊マーガレット」が創刊されました。前年に創刊された、講談社の「少女フレンド」に対抗するためだったようです。「アタックNO,1」、「ベルサイユのばら」、「エースをねらえ」などの人気作を連発、少女マンガの全盛期を生み出しましたが、70年代の絶頂期を過ぎると次第に人気が落ち、88年からは、月2回(5日と20日)発行に改め、今日に至っています。
2016.04.24
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クロニクル 三国干渉1895(明治28)年4月23日121年前のことになります。清国との日清戦争に勝利した日本は、4月17日に締結した下関講和条約において、遼東半島を獲得しました。この日、ドイツ、フランス、ロシアの三国が、共同で日本に対し、遼東半島の清国への速やかな返還を申し出てきました。世に言う三国干渉です。日本への申し出、勧告という形をとっていましたが、勧告に従わなかった場合、実力行使も辞さずという脅しが、しっかり伴っていましたので、日本はやむなく勧告に従う形で、遼東半島を清国に返還しました。この干渉の主導国は、一般にはロシアと考えられていますが、実はドイツ皇帝ウィルヘルム2世の世界政策によるものでした。露仏同盟に挟まれ、孤立状態にあったドイツは、両国、特にロシアとの関係改善を狙って、日本への干渉を考えたのです。この狙いは見事に当たり、西洋におけるドイツの立場は、一時ですが大いに改善されました。
2016.04.23
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クロニクル 『サザエさん』の連載始まる1946(昭和21)年4月22日敗戦から8ヵ月後の4月22日、福岡の地方紙『夕刊フクニチ』に長谷川町子さん作画の4コマ漫画「サザエさん」の連載が始まりました。その後、1951(昭和26)年4月16日より、朝日新聞の朝刊に移り、この間、何度かの休載がありましたが、その都度再開され、1974(昭和49)年2月21日まで、6477回という長期に渡って連載されました。テレビアニメのサザエさんは、1969年の10月にフジテレビ系列で始まり、現在まで放送年数で47年、放送回数は2300回を超す超長寿番組で、今なお平均視聴率が20%に迫るという人気を誇っています。凄いですね。
2016.04.22
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クロニクル 指揮権発動1954(昭和29)年4月21日62年前のことです。この日、吉田茂内閣の犬養健法相は、造船疑獄との関連がかねてから噂されていた、佐藤栄作自由党幹事長に対する検察庁からの逮捕許諾請求に対し、法相の検察に対する指揮権を発動し、佐藤逮捕を阻止しました。汚職事件に連座した与党の有力政治家の罪を握り潰したとして、世論とマスコミは強く反発、翌日22日には、犬養法相は自発的に辞任して、幕引きを目指したのですが、世論は納得しませんでした。佐藤幹事長が池田勇人氏と並ぶ、吉田門下生であったことから、指揮権発動には、総理の意向が強く働いていたに違いないと、国民は考えたため、吉田内閣の支持率は急落、1部の自由党議員は、政党再編に動き出しました。ここに鳩山一郎・岸信介・石橋湛山氏等と改進党の重光葵氏らは、民主党を結成して、吉田内閣不信任案を可決成立させます。ここに、同年12月7日、吉田内閣は総辞職のやむなきに至ります。指揮権発動で子飼いの部下を救済したがために、逆に政権の命脈は尽きたのでした。ただし、指揮権発動の結果、造船疑獄事件に対する検察の調べは、中途半端に終りを迎え、疑獄事件の追及は政治の壁に阻まれて頓挫し、事件の真相は闇に葬られてしまいました。ところで造船疑獄とは、当時の日本政府が戦争で打撃を受けた海運業界の再建を図るために、造船業界をも巻き込んで、新船の建造を計画的に進めるため(計画造船)に、政府が計画に従う企業に低利の融資を行い、同時に一定額まで海運業界に借り入れ金の利子補給を行うという政策をとっていたのですが、この法案の制定、及び低利融資を受けるために、運輸省幹部や政治家に対する収賄工作が幅広く行われたことを指します。
2016.04.21
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クロニクル 東海道新幹線の起工式挙行1959(昭和34)年4月20日57年前になりますね。当時の皇太子(現平成天皇)と正田美智子さんの結婚式から10日後のことでした。この日東海道新幹線の起工式が行なわれ、正式に着工しました。費用の一部288億円は、世界銀行からの8千万ドルの借款で、賄われました。貸付条件は年利5,75%、工事期間は据え置き、以後20年間の分割払いとう条件でした。建設は粛々と進められ、62年5月には試験線が完成し、6月にはテスト走行が始まりました。全線の完成は64年の7月1日、この日川崎市でレールの締結式が行われ、東京~新大阪間が全通しました。着工から5年3ケ月の工事でした。7月25日から、安全確保のために全線での試運転が繰り返され、東京五輪の開幕を10日後に控えた10月1日に営業運転を開始しました。それ以後新幹線は、1度も大掛かりな事故を起こしたことはなく、現在では四国を除く各地を走っています。そして5年前の東日本大震災の発生に際しても、1車輌も脱線することなく、事故を起こすこともなく、在来線を含む全列車を無傷で停車させることができたのです。関東大震災においては、数多くの列車が脱線や転覆事故を起こしたり、火災を発生させたりしたことに比べ、いかに日本の列車コントロールと運行技術が進歩したかが、見事に証明されたのです。この事実は、世界各国に絶賛されました。
2016.04.20
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クロニクル ライシャワー駐日大使着任1961(昭和36)年4月19日前年の安保闘争で傷を負った日米関係の修復を目指したケネディ政権によって、知日派の旗頭だったハーバード大学教授、エドウィン・ライシャワー氏が駐日大使に担ぎ出され、この日着任しました。ライシャワー氏の父は、明治学院の創立に関わり、その関係で氏は日本で生まれ、日本のアメリカンスクールで教育を受けた変り種でした。前妻と死別した後、明治の元勲松方正義の孫にあたるハル夫人と再婚していましたので、夫人が日本人という点も、対日関係の改善にプラスになると、受け止められたようです。大使は在任中、日本全国を巡回する熱意を示し、66年までのマル5年を大使として勤めました。しかし、63年秋ごろから、激化するヴェトナム戦争と、日本におけるヴェトナム反戦運動の高まりによって、再び対米感情は悪化し、日米関係の改善は、道半ばに終りました。64年3月、暴漢に太ももを刺されて重傷を負い、3ヶ月の入院生活の後に大使に復帰しましたが、この時の輸血が原因で肝炎を患い、この事実がきっかけとなって、日本における売血の停止と献血制度が整備されることになりました。なお退任後のライシャワー氏は、ハーバード大学に復職、同大学の日本研究所長として、幅広く日本研究を推進する役割を果たしました。
2016.04.19
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クロニクル バンドン会議開催1955(昭和30)年4月18日61年前のことです。この日、インドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ会議(AA会議)が29ヶ国の参加で開かれました。通称バンドン会議と呼ばれるこの会議には、アジアから15ヶ国、中東から8ヶ国、アフリカから6ヶ国が参加しましたが、そのほとんどが植民地の状態から、第2次世界大戦後に独立したばかりの新興国でした。参加国のほとんどが、政治的独立に続いて植民地型の経済状態からの脱却、経済的自立を目指しており、そのため、東西対立の緩和と平和共存の実現を待望する姿勢を鮮明にしていました。会議は24日に、前年6月にインドのネルー首相と中国の周恩来首相が発表した「平和五原則」をさらに充実させた、「平和十原則」を発表して閉幕しました。十原則の内容は、反帝・反植民地主義、民族主義、領土主権の尊重、相互不侵略、相互不干渉、平等互恵、平和共存、人種差別撤廃、各国の相互協力などとなっていました。米ソ対立と距離をおき、世界の緊張緩和を目指す新勢力の誕生を見て、世界のマスコミは,第3世界の誕生として大きく報道しました。あれから61年が経過、国際政治の経験の浅いAA諸国は、欧米の旧宗主国に良い様に操られて、経済的自立を達成できず、長く苦しめられてきたのですが、最近になってようやく経済の自主性を獲得しつつあり、バンドン精神が日の目を見る日が近付いてきたように思えます。さて、日本はどうするのでしょうねぇ… TPPがこうした国々にとって、本当にプラスに働くのかも、よく見ていく必要がありそうです。
2016.04.18
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クロニクル 下関条約締結1895(明治28)年4月17日121年前になります。この日、下関の割烹旅館「春帆楼」において開かれていた日清戦争の講和会議でまとまった、下関条約の調印式が行われました。日本側からは、首相の伊藤博文と講和会議全権で外相の陸奥宗光が署名、清国側は全権の李鴻章が署名しました。講和のおよその内容は、(1)清国は朝鮮国が完全な独立国であることを認める(2)台湾、遼東半島、澎湖諸島を日本に割譲する(3)清国は賠償金2億テール(当時の日本円にして約3億円)を支払う(4)清国は日本に最恵国待遇を付与するなどとなっていました。このうち、遼東半島については、ドイツ、フランス、ロシア3国による共同の干渉にあい、僅か数日後に、清国へ返還することとなりました。
2016.04.17
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クロニクル 川端康成自殺1972(昭和47)年4月16日44年前のことです。この日、作家で日本初のノーベル文学賞受賞者の川端康成氏が、神奈川県逗子市の仕事場でガス自殺し、72歳の生涯を自ら閉じました。川端氏は1968年に日本人初の、ノーベル文学賞を受賞しました。受賞の感想を問われた氏は、自分は日本の伝統を書いてきただけ、受賞は自分の作品を各国語に翻訳、出版してくださった翻訳者の皆様のおかげと、謙虚に語っていたことが注目を引きました。受賞理由には、『雪国』『千羽鶴』『古都』などの作品で、「日本人の心の精髄」を鋭い感性で巧みに描いたことが、あげられていました。
2016.04.16
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クロニクル ヘレン・ケラー女史初来日1937(昭和12)年4月15日1937年というと、盧溝橋事件の年ですね。79年前になります。この日『奇跡の人』で知られる三重苦のヘレン・ケラー女史が秘書のポリーさんと共に、はじめて日本を訪問しました。このとき、彼女は秋田犬を所望し、後に2頭の秋田犬を贈られています。またこの日本訪問の際に、彼女は東京盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)と同志社女子大学校を訪問しています。彼女の訪日は、この時を含めて、全3回になります。なお、ヘレンが17歳の時に、彼女の家庭教師となり、三重苦のヘレンを育て上げた、『奇跡の人』ことアン・サリバン女史は、ヘレンの初来日の前年、1936年に帰らぬ人となっており、来日しておりません。
2016.04.15
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クロニクル アフガン和平協定調印1988(昭和63)年4月14日28年前のこの日、ソ連は、アフガニスタンとの和平協定に調印しました。この結果、1979年以来多くの犠牲を払ってきた、ソ連軍のアフガニスタン侵攻は、アフガンに安定した親ソ政府をつくることに失敗し、具体的な成果無しに撤退することになりました。まさに、アフガンはソ連にとって、米国にとってのヴェトナムと同じ意味を持ったのです。ソ連軍のアフガンからの撤退は、1ヶ月後の5月15日に始まりました。そのアフガンに、今度はアメリカがのこのこ出かけ、こちらもまた、ソ連同様不毛な戦いに消耗し、不名誉な撤退に追い込まれ、残されたアフガンの人々は、今なお無政府状態に苦しめられているのが実情です。そして、米国もまた小国を苦しめた責任はとらないままです。
2016.04.14
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クロニクル 上野に初の喫茶店誕生1888(明治21)年4月13日128年前の話です。この日、本邦最初の喫茶店、可否(カツヒー)茶館が上野の下谷黒門町にオープンしました。店主は中国人の鄭永慶氏。コーヒー壱杯は1銭5厘、牛乳入りは2銭でした。店内には各種新聞や遊戯具を備え、更衣室もあり、さらに文房具類を備えた部屋まで用意されて、気軽にひととき、ふたときを過ごすことが出来るようになっていたそうですから、この時期には廃れていたロンドンのコーヒーハウスや、なお隆盛を保っていたパリのカフェの雰囲気を持ったコーヒー館だったといえそうです。目新しさと、お客へのきめ細かなサービスが評判となり、翌年の第3回内国勧業博覧会会場に、コーヒー店や喫茶店が設けられて、大いに普及するきっかけとなりました。女性の給仕(女給)がサービスを担当する手法を最初に取り入れたのは、1911年に東京京橋にオープンした、カフェ・プランタンです。この新風俗も瞬く間に広まったそうです。
2016.04.13
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クロニクル 地球は青かった1961(昭和36)年4月12日55年前のこの日、日本時間午後3時7分頃に、ソ連は人類初の有人人口衛星ボストーク(東方)1号の打ち上げに成功しました。ボストークは地球軌道を一周した後、午後5時5分前頃、地球への帰還にも成功しました。この間約1時間50分でした。「地球は青かった」はボストーク1号に搭乗していた、ユージ・ガガーリン少佐(当時27才)が、帰還後の記者会見で、宇宙から見た地球の印象を聞かれて答えた言葉です。「空はとても暗かったけれど、地球は青かった」と...。この言葉は、この年世界の流行語となりました。宇宙飛行士は、その後随分増えましたし、飛行時間どころか、飛行日数も飛躍的に増えましたが、ガガーリン氏は、宇宙飛行士のパイオニアとして、その後、地球環境問題などで、米ソの宇宙飛行士が手を携えて発言し、行動してゆくまとめ役として、活躍しました。「青と緑の美しい星を守れ」と......。 その彼は1968年3月飛行訓練中に事故死しています。34歳の若さでした。
2016.04.12
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クロニクル 春闘で空前の交通スト1974(昭和49)年4月11日42年前のこの日、総評系を中心とした春闘共闘会議は、諸要求の実現を目指して、交通機関を中心としたストライキに突入しました。国鉄(現在は分割民営化されてJR各社になっています)は史上始めて、全路線で全面運休となり、他に大都市圏の私鉄も加わって、スト参加者は全国で600万人に達する、大規模なものとなりました。当然、各地の学校は休校または自宅学習の措置をとり、企業もまた社員が出社できず、開店休業の状態におかれる会社が続出しました。このストは、48時間に渡ってぶち抜かれ、3日目に入った13日の早暁、経営側の一定の譲歩を得て、収拾されました。労働運動が大きくかつ輝いていた時代のことでした。春闘では、JRや私鉄といった交通機関のストがつきものの時代で、気楽な身分の学生や生徒は、ストになれば学校が休みになると、責任のない立場にあることを良い事に、ストを期待し、国・私鉄の労働者に{頑張って!」とエールを送っていた、あくせくしない時代でもありました。最近は労働者にも元気がないですねぇ。アメリカでは、若い世代の支持を背景に、社会主義者を自称する民主党のサンダース候補が、大本命のクリントン候補を追い上げているというのに、日本では実にミスの多い安倍内閣がいまだ安泰とは…「ストは何処に行った」なんて歌が、そのうちはやるのでしょうか?
2016.04.11
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クロニクル 日本映画グランプリ獲得1954(昭和29)年4月10日62年前のことです。この日、フランスのカンヌで開かれていたカンヌ映画祭において、衣笠貞之助監督作品『地獄門』がグランプリに輝きました。戦後の混乱を抜け出しつつあった当時の日本では、映画は手軽な娯楽として人気が高く、映画館も乱立気味でしたが、それでも観客は集まり、映画産業の全盛期の入り口にありました。そんな時のグランプリの報に、日本中が沸き立ち、3月のビキニ環礁での第5福竜丸の被爆事件で、暗くなりがちだった世相も、明るさを取り戻しました。51年秋の黒沢明監督作品『羅生門』のヴェネツィア国際映画祭での、グランプリに続く、衣笠作品の受賞で、日本映画に対する世界の注目度も、大いに高まりました。
2016.04.10
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クロニクル 無党派知事当選1995(平成7)年4月9日21年前になります。この日行われた東京・大阪の知事選挙で、東京では青島幸男氏が、大阪では横山ノック氏が当選しました。2人は、共に政党の推薦を断り、無党派で出馬して風に乗り、共に大差で対立候補を破って当選を果たしました。2人は共に参議院議員を務めていましたが、その参院選挙の経験を生かし、政党推薦を受けるよりも、無所属を貫いた方が、多くの支持を得られる事を直感し、若者を中心に支持を広げ、見事に当選を果たしました。しかし、共に行政経験を持たなかった上に、行政経験豊富な参謀格の人物(黒子)を持たなかったために、やがて行き詰まり、青島は1期で野に下り、横山は当選はしたものの、選挙期間に女性の運動員に破廉恥行為に及んだとして逮捕され、辞任に追い込まれ、共に知事として大きな功績を上げることは出来ませんでした。
2016.04.09
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クロニクル 玉川学園創設1929(昭和4)年4月8日87年前のこの日、教育家の小原国芳によって、玉川学園が創設されました。小原は創設にあたって、12の教育目標を掲げ、「全人教育」「個性尊重」「自学自律」「能率高き教育」「学的根拠に立つ教育」「自然の尊重」「師弟間の温情」「労作教育」「反対の合一」「国際教育」等の実践と実現を主張しました。初等教育から高等教育までの一貫教育をめざした玉川学園で、特に学問的根拠に根ざす教育の必要が主張されたことは、皇国史観に基づく、少年・少女の洗脳が目指された当時の公教育の現実に照らす時、いかに出色のものであったかが理解できます。
2016.04.08
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クロニクル カラーTV輸出自主規制へ1977(昭和52)年4月7日39年前の話です。この日、日米両政府は、両国間の貿易摩擦の焦点として、懸案となっていた日本製カラーTVの対米輸出について、日本側の自主規制という形で決着したことを発表しました。60年代の繊維輸出、60年代末~70年代初にかけての鉄鋼に続く、3度目の摩擦がカラーTVでした。やがて、80年代に入ると日米自動車摩擦が喧伝されるようになって行きます。最近の米中の摩擦報道を見聞きするに連れ、日米摩擦がいつの間にか、米中摩擦に変わってきていることが読みとれ、大きく時代が変化していることが、伝わってきますね。ソニー、松下(パナソニック)、シャープの苦戦、時代の変化を読んでの経営戦略の転換が出来なかったことに尽きますね。これは経営に人を得なかったこと、後継者選びの失敗の結果ですね。
2016.04.07
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クロニクル 携帯電話5千万台突破 2000(平成12)年4月6日この日総務省は、3月末現在の、全国の携帯電話登録台数が5千万台を突破し、固定電話の台数を始めて上回ったと発表しました。それから16年、2000年にはケータイを持つ気などさらさらなかった私やワイフも、何時の間にかケータイを持たされ、便利に使うようになっています。今やスマホの時代で、ノートPCはすっかり劣勢とか。この普及の速度、驚くべきものですが、さて何処まで進化するのでしょうね。しかしながら、かくいう私は、指がちょっとでも触れると画面が飛んでしまうスマホは大の苦手で、折りたたみ式のガラケーを大事にしています。
2016.04.06
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クロニクル ザ・ピーナッツ引退1975(昭和50)年4月5日名古屋育ちの双子デュオ、ザ・ピーナッツが16年間の歌手生活にピリオドを打ち、この日引退しました。あれから今日で41年なんですね。2人は、本名の伊藤シスターズの名で、名古屋で活動していたのですが、デビュー前年の1958年に、ナベプロにスカウトされ、翌59年の4月に、「可愛い花」でレコードデビューを飾りました。以後、引退までの16年間に発売されたシングルとLPの累計売上は、合計で1000万枚以上に達したと、言われています。2人は、デビューから2年後の1961年から72年まで、日テレ系の人気番組となった『シャボン玉ホリデー』で、メイン司会を勤めました。1975年2月18日の記者会見で引退を発表。41年前の今日、NHKホールで、故高橋圭三さんの司会で「さよなら公演」が開かれました。
2016.04.05
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クロニクル キング牧師暗殺1968(昭和43)年4月4日48年前になります。ヴェトナム戦争が最も激しかった頃で、米国だけでなく、世界的にヴェトナム反戦の空気が溢れていた頃です。この日、米国の黒人運動指導者で、ノーベル平和賞受賞者のマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。キング牧師は非暴力の抗議運動を続け、差別撤廃を訴える平和的な行進に力を注いで、全米の世論に訴えて大きな成果をあげ、尊敬を集めていましたが、この日、凶弾に倒れました。1963年11月のケネディ大統領の暗殺から僅か4年半で、黒人のみでなく、世界の信頼と尊敬を集めたキング牧師までもが暗殺されたことに、米国社会は衝撃を受け、若者を中心としたヴェトナム反戦運動の更なる過激化を招くことになりました。暗殺で事を決しようという、銃社会アメリカの恥部は、政治的にエキサイトするようなことがあるたびに、大きなウネリとなることがあり、現在の米国社会のありようからすると、今後も繰り返されるかも知れません。それが残念です。
2016.04.04
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クロニクル 沖縄の土地収用令公布1953(昭和28)年4月3日63年前になります。この日、米国占領下の沖縄で、在沖縄の米民政府は、土地収用令を公布しました。この強制令は、米ソ冷戦の強化、対中圧力の強化を狙う在沖米軍が、沖縄の軍事基地機能を強化するために、軍施設の拡大強化を目指して、沖縄農民の抵抗を排して、自由に希望する場所で、基地を拡大できるようにするために、公布したものでした。以後、米軍による軍用地の強制収容が続発することになり、沖縄住民は土地の強制収容に強く反発、島ぐるみ闘争に発展して行きました。今に続く沖縄住民の苦難は、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障条約の下で、より重く苦しいものになっていきました。
2016.04.03
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クロニクル 小渕首相倒れる2000(平成12)年4月2日もう16年になるのですね。16年前のこの日は、確か日曜日でした。夜のニュースで小渕首相の緊急入院の様子が報じられ、驚いたものです。皆さんは如何でしたか。重篤な脳梗塞で、2日後の4日には、本人の意識が回復しないままで内閣総辞職。密室の談合で森喜朗氏が後継指名され、5日に森内閣が誕生しました。小渕首相は、結局1度も意識を回復しないまま、5月14日に62才の生涯を閉じました。戦後、現職首相の病気入院による交代は、小渕氏以前に2回あります。1度目は1957(昭和32)年2月の石橋湛山首相でした。この時は、前年12月の自民党総裁選で、僅差で岸信介幹事長を破っての当選でしたから、特に異論もなく、岸氏が後継総裁に収まりました。2度目は1964(昭和39)年10月の池田首相の病気退陣です。この時も夏の総裁選で、池田氏と争った佐藤栄作氏が、後継候補1番手の地位を確立しておりましたので、やはり異論なく総理総裁の地位を受け継ぎました。それに比べて、小渕⇒森のケースは、後継の備えもなく、本人の意思も確認できない状態での、密室での森選出でしたから、党内からも様々な異論が唱えられ、次の森退陣の時の総裁選びは、全党員対象の代議員選びなど、ガラス張りの選考が行われました。ムードに乗った小泉純一郎元首相が圧勝したのですが、この事態の伏線は、密室の森首相選出にあったように思われます。
2016.04.02
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クロニクル 500円硬貨の登場1982(昭和57)年4月1日これはエイプリルフールではありません。34年前の今日、500円硬貨が初めて発行され、市場にお目見えしました。それまでは500円紙幣、明治の元勲の1人岩倉具視卿の肖像が刷り込まれた青色の札でした。そういえば、100円札の自由民権運動の雄板垣退助翁も、千円札のち1万円札の聖徳太子もこのところ、ちっともお目にかからないですね。ところで、紙幣には日本銀行券の文字が必ず刻まれ、発行主体が政府ではなく、日銀であることが明記されています。「日銀は通貨の番人としての仕事もしている。」と中学校で習いませんでしたか? 通貨の供給量を調整することで、物価の高騰を抑えているのです。その日銀、紙幣と違って硬貨は発行しておりません。何円でも構いません。硬貨のオモテとウラをとくとご覧下さい。そこには日本国と刻印されています。紙幣の発行は日銀ですが、硬貨の発行は国が担当しているのですね。硬貨をいくら大量に発行しても通貨の安定を脅かすことはないからなのでしょう。全てを政府が扱うと、大量に発行しすぎて、通貨の信用が失われ、大変なことになってしまうけれど、補助貨幣の硬貨なら、いくら発行してもしれていると、すっかり見透かされているようですね。その通貨の番人のはずの日銀が、黒田総裁になった途端、従来の態度をガラリと変えて、金融機関を通じて大量に国債を買い集め、市中に紙幣を垂れ流すというとんでもない行動をとり続けています。金融機関を通すから、国債の直接買い入れではないと強弁していますが、結果として政府の財政規律は大きく緩んでおり、他方で景気は一向に良くなる気配を見せません。私は、黒田氏は日銀総裁に最も相応しくない人物だと、考えています。手遅れにならないうちに彼と彼のお仲間の日銀審議委員に辞めてもらいたいのですが…
2016.04.01
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